第10話 綾少尉
一
彼女を捉えた映像がズームした。濃紺のシャツを赤い線が縁取り、周囲に数値が並ぶ。
軍用のデジタル式双眼鏡を覗いている大男が、太く低い声で言った。
「歩兵一名を確認。グリッド座標EW四六C。発見時刻は、マルキュウニイハチ。寺師町のメインストリートを二時方向に直進中。移動速度は毎時約六コンマ七二キロメートル。周辺に武装兵はいない。外周囲にも支援要員なし。単独行動と思われる。ターゲットの武装はネックレスとハンドバックそれから……あ
メニュー表で
「痛いなあ。なんすか、大尉」
グレーのニットシャツの上にネイビー・ブルーの秋物のジャケットを羽織った宇城影介は、エスプレッソを啜りながら呆れ顔で山本に言った。
「お前は何をやってんだよ」
オーバー・オールに迷彩柄の半袖シャツ姿の山本少尉は、口を尖らせた。
「何って。隠密偵察の実践演習じゃないですか」
「同じ隊の仲間を偵察してどうするんだ。こんなのが本人に見つかったら、おまえ、殺されるぞ。いいか、女は弾丸より怖いんだよ。分かる?」
宇城影介は、山本を指差した。
山本少尉は再び双眼鏡で窓の下の歩道を覗きながら言う。
「だって、あの綾が、昨日の夜から、なんかソワソワして、浮足立ってたんですよ。これ、絶対にデートでしょ」
「あのな。そりゃあ、綾だってデートの一つや二つくらいするだろう。年頃の女なんだから。何でお前が監視せにゃならんのだ」
双眼鏡から顔を離した山本少尉は宇城に言った。
「だって、バディーには常に気を配れって、大尉が教えてくれたんじゃないですか」
「だからって、何で俺まで付き合わされんだよ」
宇城影介は顔を顰める。
山本少尉は再び双眼鏡を構えて言った。
「単独での偵察活動は、危険度が高過ぎると、常々から大尉殿も仰っているではありませんか」
「そういう問題じゃないだろ。だいたい今日は、綾は本物の休暇なんだから、プライベートまで……」
「おっ。ターゲット、立ち止まりました。さすが綾だぜ、樹木を背に放射角度九十度を維持してる。戦略的に優位な……」
喫茶店内の他の客の視線を気にしながら、宇城影介が言う。
「おまえ、どう見ても変態にしか見えないぞ。しかも、何でここに陣取ったんだよ。ここって、婦人服売り場の階にある喫茶店じゃねえか。子連れママの中に、俺はともかく、お前の図体はどうもミスマッチ過ぎるだろ」
山本少尉は太い腕で支えた双眼鏡を覗きながら答えた。
「ここが一番いい角度なんですよ。ん? 一名、接近中。移動速度毎時五コンマ二キロメートル。ターゲットに対して、手を振っています。デートの相手でしょうか……」
宇城影介は小さなカップを置くと、窓の外を覗きながら山本の前に手を伸ばした。
「なに。どれどれ、見せてみろ」
山本が双眼鏡を渡すと、宇城影介はそれで通りを覗いた。
優雅な曲が流れる喫茶店内から窓の外を真剣に覗いている二人の男を、他の女性客たちが怪訝な顔で見つめていた。
二
人ごみで溢れる広い歩道の上を、薄茶の花柄のゆったりしたワンピースに白い透かし編みのカーディガンを羽織った春木陽香が手を振りながら走ってきた。
「綾さーん」
綾少尉も少し背伸びをして手を振る。通行人を縫うように走ってきた春木陽香は、綾の前に着くと、ほっと溜息を一つ漏らして振り返り、歩道の上の混雑を眺める。前を向いた彼女は、切れる息を整えながら言った。
「遅く、なっちゃって。なんだか、道路がすごい渋滞みたいで、みんな地下リニアに流れちゃってるんですよね。地下駅はどこも混んでたから、なかなか乗れなくて。もしかして、待ちました?」
「あ、いや。全然。私も同じ。今着いたところ。バスも全く動かなかったから、正直あせった」
「なんだ、そっか。よかった」
春木陽香は胸を撫で下ろした。
綾少尉は周囲を見回しながら言う。
「でも、寺師町って、やっぱり混んでるね。水曜日なのに……」
「んー。道路は、いつもより渋滞してますよね。まあ、でも、人の方はこんなものですよ。何と言っても、ここは、新首都一の繁華街ですからね。いつもお祭りみたいですもん」
「ふーん、そうなんだ。あんまり来ないからなあ……」
キョロキョロと街中を見回している綾を、春木陽香はじっと見つめる。
「へえ、意外」
「あれ、もしかして、こういう所によく来る系の派手な女だと思ってた?」
「いや、そうじゃなくて、戦闘服を着てない綾さんって……」
春木陽香はジロジロと綾を見た。
綾少尉は不安そうな顔で自分の服を見回しながら言う。
「ん……変? やっぱり……」
春木陽香はプルプルと首を横に振った。
「ううん。すごいおシャレ。でも、もうちょっと明るい色を着たら、ものすごく可愛くなるかも」
「そうかな。そういうの、どうも苦手で」
「そんな事ない。絶対似合うと思いますよ。でも、今は今で、なんか大人っぽくて、カッコいい」
「春木さんも……」
言いかけて、少し戸惑い気味に口籠っている綾に、春木陽香は言った。
「陽香。下の名前で呼んでください。同い年なんだし」
綾少尉は遠慮気味に言う。
「あ、じゃあ……ハルカ。……」
そして思い切って春木に提案した。
「ねえ、敬語もやめない? 同い年なんだし」
春木陽香はコクコクと頷いた。綾少尉は肩の力を抜く。二人は歩道の上を歩き始めた。
綾少尉は春木の服装を見ながら言った。
「ハルカも今日の服、可愛いね。普段は、そんな感じなんだ」
「ありがとう。でもよかった。アヤ……アヤでいい?」
「エリカ」
「え?」
キョトンとした顔をしている春木に、彼女は言う。
「下の名前はエリカ。片仮名で」
「ええ! 綾って、苗字だったの? ずっと下の名前だと思ってた」
綾エリカは口角を上げる。
春木陽香は綾の表情を伺った。
「あ、ごめん。んんと。じゃあ、エリカ……」
「大丈夫。名前で驚かれるの、慣れてるから」
「そっか」
春木陽香は満足気な顔を上に向ける。
「でも、エリカと同い年でよかったなあ。なんか社会に出ると、同い年の女の人と話す事が少なくて。気兼ねなくお喋りする相手とか、ホント少ない」
二人は繁華街を歩きながら、会話を続けた。
「だよねえ。一つ歳が違うだけで、結構、気を使ったりとかするもんね」
「そ。しかも、周りは男の人ばっかりだし」
「うんうん。――ていうか、ハルカの職場は、女の人もいるじゃん。永峰さんとか、歳も近いでしょ」
「うーん。でも、永峰先輩は上の階だし、やっぱり先輩だし……」
「新しく入った子は? ユナユナちゃんだっけ」
「ああ、あの子は、なんて言うか、こう、男っぽいというか……」
「そうなんだ。――あ、でも、私も、こんな感じだけど、いい?」
綾エリカは自分の肩に軽く手を触れた。春木陽香は綾を見つめた。確かに彼女はスポーティーな恰好に見えた。仕事も男女の違いが無視される環境だし、そんな中でも彼女は他の男性を追い越している。だが、肉体的な強靭さが求められる仕事であるにも拘らず、彼女は意外と線が細く、女らしい緩やかな曲線も有していた。仕草に威圧感や誇大を繕うところもない。春木陽香はまたプルプルと首を横に振った。
「ううん。エリカは普通に女の子だよ。ユナユナとは違うなあ。髪も長いし、面白いし、強いし」
「最後のは、褒めてるのかな。ま、いいや」
「ユナユナは、髪もショートだし、無口っていうか、クールっていうか、扱い難い。今年で二十一なんだけど、なんか子供なんだよなあ。背は高いんだけど」
「そっかあ。ちょっと歳が離れてるわね。身長も」
「なんですと」
頬を膨らませた春木に、綾エリカは笑って答えた。
「冗談、冗談。ごめん、ごめん」
春木陽香は歩きながら口を尖らせる。
「でもさ、なーんか、変わってる子なんだよねえ。ズレてるって言うか……。強そうなのは、強そうなんだけどなあ……」
「その基準、要らないと思うわよ。ハルカは記者さんなんだから。私は兵士。強くなるのは、仕事、仕事」
「うん」
「納得ですか。――まあ、いいか。でも、その子、何で『ユナユナ』なの」
「
「もしかして、ハルカが付けた?」
「そ。だって、先輩の私が『ハルハル』だから、後輩は『ユナユナ』でしょ。その方が言い易いしね。コルァ、ユナユナあ! って」
「それ、自分が言われてるんでしょ。山野編集長さんから。コルァ、ハルハルう! って」
「うん。――はあ、どうして編集室には、この二人しか女の人が居ないんだろ。トホホ」
肩を落として歩く春木陽香に、綾エリカが尋ねた。
「あのカメラマンは? ふぉーとぐらーふアーティストの」
「違う、違う。ふぉーとぅぐらふぃっくアーティスト。ふぃっく。こう、唇を噛んで、ふぃっ……」
「分かったって」
「ライトさんかあ……優しくていい人なんだけど、年齢が分かんないし、トイレは男子トイレに入るからなあ……うーん、女とは言い切れないし、男……やっぱり中間かなあ」
「それは、それでいいんじゃない。ウチには、その逆バージョンの『中間の人』が大勢いるわよ。しかも、強暴でガサツ」
「うーん。そう言われれば、ライトさんは繊細だし、几帳面だなあ。ああ、でも、強くないかあ……」
「それ要らないって。カメラマンでしょ。あ、あの人は話し相手にならないの。何て人だっけ。顔が濃い人。自称、カポエイラの名手。強そうじゃん」
綾エリカは言いながら吹き出した。
春木陽香は頷く。
「ああ、別府先輩かあ。依然として我が道を独走中です」
「そうなんだ。いい人っぽい感じがしたけどね」
「いい人なのは確かなんだよね、みんな。先輩たちの事も尊敬してるけど、人使いが荒いのはいただけないわ。私も頑張ってはいるけど、ちょっと、頑張らせ過ぎ。疲れた。ギブ。もう、限界」
「そっかあ……。こっちもそうだけど、ハルカの職場も忙しいもんね。あの事件の後に、みんなでご飯食べたっきり、ずっと休みが合わなかったしね」
「そう。エリカの仕事は、急な出動とかあるから分かるんだけど、私はちゃんと休日が決まってるはずなんだけどなあ。せっかくエリカが時間を合わせてくれても、出社しろとか、張込みしろとか言われて、何回も延期になっちゃったもんね。ごめんね」
「仕方ないわよ。予定しない事態に対応するのは、私の職場も、ハルカの職場も同じだもん。でも、今日は大丈夫だったの?」
「大丈夫、大丈夫。入社して初の有給休暇を使わせてもらいましたから」
綾エリカは目を丸くする。
「え? 有給使ったの? 今の会社って、たしか四月に入ったばかりだよね。大丈夫?」
「今の法律では、半年勤務した者には有給休暇を与えるよう雇用主に義務付けられているのであーる。私は、九月一杯で半年過ぎたから、有給休暇五日の付与。もらったモノは、すぐ使う。ムフフフ」
「大丈夫? 先輩さん達に何か言われるんじゃない?」
「絶対に文句は言わせない。これまで何回も休日出勤してるしね。だいたい、休みが少な過ぎるのよね、あの会社。編集長はいつも怖いし。ちょっとくらいリフレッシュさせてもらわないと。抗議の意味も込めて。まあ、一人ストライキみたいなものね」
春木陽香は一人で大きく頷いてから、話しを続けた。
「それに、せっかくエリカが休日になったんだから、このチャンスは絶対に逃せない。しかも、今日は、ベストなタイミングだし」
「タイミング? どうしてベストなの?」
春木陽香はニヤリとしながら言う。
「ぬふふ。今日、十月六日水曜日は、何の日でしょうか!」
綾エリカは少し考えた。
「――分かんない。なに?」
春木陽香は眉間に縦皺を刻み、深刻な顔で説明する。
「十月六日。十と六。
「……」
「しかも、毎月第一水曜日はバーゲンセール! さらになんと! 季節の変わり目で、夏物の在庫品売り尽くしセール、アーンド、お洒落な秋物アイテムと、季節先取りの新作冬物コートなんかが店先に並ぶ! これは、まさに婦人服店のグランドクロス! 有給休暇を使うなら、今日しかない!」
春木陽香は強く拳を握り締めた。綾エリカは適当に合わせて返事をする。
「――そ、そうね……」
「よーし。今日は、たまの休みだし、有給だし、エリカと一緒だし、ポイント十倍だから、思いっきり買物するぞー。ね、エリカ」
綾エリカは笑顔で頷いた。
春木陽香は握った拳を突き立てる。
「レッツ・ゴー! じゃあ、まずは洋服からね。安くて可愛いのが多い店を知ってるんだ。行こ行こ」
綾エリカは春木に手を引かれて、歩いて行った。
彼女を双眼鏡で捉えていた山本少尉が、エスプレッソを啜っている宇城影介に報告する。
「ターゲット移動開始。サーベイ・ワン、ツー、これより追尾する」
山本少尉は椅子から立ち上がると、宇城に手を振る。
「ほら、大尉、早く! ターゲットを見失います!」
「はいはい。――ったく。ただの買物じゃねえか」
カップを置いた宇城影介は、面倒くさそうに立ち上がった。
三
婦人洋服店の中は客で賑っていた。一昔前のようにバーゲンセール品を奪い合うような無粋な女は居なかったが、それでも女達は、肩で押し合ったり、良い品をいち早く手にしようと競うように商品を次から次に見ていく。ちんけな殺気が漂う店内を見回しながら、綾エリカは小さな声で呟いた。
「出来れは、戦場じゃない所がよかったけど……」
「じゃーん。これなんかどう?」
春木陽香が選んだ冬物セーターを綾に見せた。フワフワモコモコ系で色は白。胸のところには小さなリボンも付いていた。綾エリカは苦笑いしながら、首を捻る。
「いやあ、ちょっと派手じゃないかな、私には……」
「えー。絶対エリカには似合うと思うけどなあ。なんかエレガントっぽく、可愛くまとまりそう」
「どっちなのよ」
「ま、とにかく着てみてよ。私は、コレ。どう?」
春木陽香は既に新作の冬物コートを羽織っていた。アプリコット色のコートはトレンチコート風だが、フレアが大きくデザインされていて、可愛らしい。春木陽香は右に左に回って、ポーズを取った。
「ああ。可愛い。確かに。ハルカのイメージにピッタリって感じ」
「でしょ。あ、こっちもいいなあ。ね、コレ」
「うん。そうね……ちょっと子供ぽいかな……。こっちの方が、なんか、よくない? 似合いそう」
「ええ、ホント? ちょっと、無理してる感が出てないかな」
「ううん。そんなことない。着てみなよ。似合うと思うよ」
「うん。分かった。あ、このジャケット、エリカに似合いそう。好きでしょ、こういう感じ」
「うん。これはカッコイイ」
「でしょ。でも、今日は可愛く変身させちゃお。こういうのは、どう?」
「いや、フリフリのワンピースは、ちょっと……」
買物をしている二人の様子を、店の前の通りを隔てて反対側の歩道の上から大男が観察している。双眼鏡を顔に当てた山本少尉が、隣で人目を気にしながら立っている宇城に報告する。
「ターゲットがコンタクト・ワンと共に、店の奥に移動。武器の補充の可能性あり」
「あのさ、ずっとこれ続けるの? まさか今日一日、ずっと追うつもりじゃないだろうな」
「何を言ってるんすか。当然でしょ。それに、自分に忍耐力を叩き込んでくれたのは、大尉ではないですか」
周囲の視線を気にしながら宇城影介が小声で言った。
「お前、その『大尉』ってのやめないか。今は作戦中じゃないし。一応、休暇中だろ」
「いえ。自分にとって、上官は、いつ何時も上官であります」
山本少尉は直立して宇城に敬礼した。宇城影介は山本の腕を掴んで下ろす。
「だから、それを止めろっつうの。みんな見てるだろ。どこが隠密の偵察なんだよ」
「では、何とお呼びすれば……」
「ジョーでいいよ。昔みたいに」
「ではジョーさん」
「早いな。少しは遠慮しろよ」
「あの、ちょっと、よろしいでしょうか」
「なんだよ」
「自分が今使用している、このシュタイナーモデルVF八五八レーザー双眼鏡は、目標と五十メートルの距離なら、厚さ三十センチのコンクリート越しでも、熱反射微振動の感知による映像再現で透視が可能であります」
「だから?」
「ここから通りの向こうまでの距離は、約七十メートル。自分が向こう側に渡れば、今、おそらく試着室で着替えている二人を……」
「はい、没収」
宇城影介は山本から双眼鏡を取り上げた。山本少尉が困惑顔をする。
「ええ、マジですか。これ私物ですよ」
「おまえな、そのうち軍規監視局に捕まるぞ」
「では、今後の作戦は、どうするんでありますか」
「知るか。目視だ、目視」
山本少尉は渋滞で込み合っている車道の向こうを眺めながら言った。
「いや、この距離は目視外射程でありますよ、コレ。ミッションがインポッシブルであります」
「いいんだよ、それで。大体な、女の買物がどれくらい長いか、おまえ知ってるのか。一緒にいる男にとっては、苦痛以外の何物でもないからな。その苦痛を、なんで休日を潰してまでして、自分から作り出すかな」
「あ、いや、それはですな……」
宇城影介は山本少尉の顔を覗きこんだ。
「あ、分かった。お前、もしかして、綾に惚れてるのか。ん?」
山本少尉は宇城に大きな背中を向けると、声を籠らせた。
「いや、そんなことはないです。自分はただのバディーとして、綾のことが心配でですね、その……」
宇城影介が双眼鏡で通りの向こうを覗き込みながら、山本の肩を叩いた。
「おい、山本少尉。出て来ましたぞ。ホレ」
山本少尉は宇城が差し出した双眼鏡を掴み取ると、それで店内を覗いた。
「おお! 畜生、綾の奴、めちゃくちゃ可愛いじゃないか。いつもの綾に、三つ可愛いを乗っけても、まだ足りないっすよ。かあー、参った」
「好きなだけ、乗っけてくれよ。付き合ってられるか」
宇城影介は呆れ顔で歩いて行った。
四
寺師町のイチョウ並木の横を、二人の女が歩いている。ボーダー柄のプルオーバーに白のパンツの春木陽香は、大きなバックルのシャレたベルトを気にしながら、少し大股で歩いている。裾と袖口にフリルをあしらった秋物のジャケットは、テーラードカラーの横にシャーリングの刺繍が施され、左右のポケットは緩く皺を寄せて段が作ってあり、エレガントでありながら、カジュアルさも忘れていない。腰の辺りでくびれたシルエットは、いかにも綾が好みそうなデザインだった。満足気な顔で歩道を闊歩する春木陽香は、立ち止まって振り向いた。視線を気にしながら恥ずかしそうに歩く綾エリカを見て、彼女は言う。
「うん。エリカ、やっぱり可愛い」
「そうかな。こんなの苦手。なんか、恥ずかしい」
綾エリカはレース編みの丸襟のニットに、裾に花模様のモチーフをコード刺繍であしらったフレアスカートを穿き、ゆったりとしたラインのカーディガンを合わせている。フリル上の襟口や、花びらのような大きな袖口は、いかにも春木の好みだ。清楚と可愛らしさを揃えたコーディネートに、帽子を外した綾の長い髪がマッチして、絵になっている。春木陽香は、改めて友人のスタイルと美貌に見とれると、彼女に言った。
「すっごい似合ってる。モデルさんみたい」
「スカートなんか、何年ぶりだろ。おかしくない?」
春木陽香はパタパタと顔の前で手を振った。
「ないない。前から、エリカには、こんな感じが似合うだろうなあって思ってたんだよね。やっぱり、いい。こういう感じの方が、エリカには合ってると思うよ」
「そうかな……」
自分の服装を見回す綾に、春木陽香は耳打ちした。
「それに、さっきから、すれ違う男の人は、みんな見てますぞ、エリカのこと」
顔を赤くして周囲を見回した綾エリカは、振り向くと、目を細めた。
「――ていうか、何か、違う視線も感じるんだけど……」
イチョウの木陰に山本少尉が素早く隠れたが、大きな肩がはみ出していた。その隣で、ネイビー・ブルーのジャケットの男が後ろを向いて立っている。
「え、何か言った?」と尋ねた春木に綾エリカは答えた。
「ううん。なんでもない。ハルカもそのジャケット似合ってるよ」
「そう? でもエリカって、センスあるなあ。これ、かっこいいもんね。なんか、強くなった気がする。うん」
「袖の所がロールアップできるんだよね」
「あ、ほんとだ。ほほお、お得感まで備えているとは。これは、いい」
「でも、あの冬物のコートもステキだったわよね」
「あ、でしょ。あれよかったよね。ま、今回は我慢して、次に冬物のコートかな。今日は、エリカとの友達記念として、春木陽香、このジャケットの購入を決断しました」
春木陽香は口を引き垂れて敬礼した。綾エリカも笑いながら敬礼する。
「じゃあ、次の作戦は何でありますか。ハルカ大佐殿」
「はい。次は、今一番人気の、ネイルサロンであります」
綾エリカは顔の前で手を振った。
「いや……爪はちょっと。軍の内規では駄目だし……」
「いいじゃない。今日くらいは女の子しよ。すぐそこだからさ。早く早く。近くにおいしいイタリアンもあるし」
「ええー……と言いながら、じゃあ、ちょっとだけ」
「了解です。隊長」
二人は笑いながら、通りを歩いていった。
五
綾と春木から距離を置いて山本少尉と宇城影介が歩いている。山本少尉は、人ごみの中から一段上に飛び出た頭を傾けたり左右に動かしたりしながら、綾と春木を観察した。宇城影介は、不機嫌そうに軍用の腕時計を見ている。
山本少尉が前を覗きながら言った。
「なんか、すごく楽しそうでありますなあ」
「俺は、全然楽しくないぞ」
「いいじゃないですか。たまには、こんな休日も」
「たまにでも、いい訳ねえだろ。まあ、筋トレと射撃訓練で休日を潰すのも飽きたがな。それにしても、これは、無しだ。ありえん」
「それより、昨日のミッションは、どうだったんですか。花、ちゃんと渡せたんですか」
「ミッション? ああ、美歩の実家への挨拶か。いや、まあ……」
「ん? どうしたんですか。何かあったんですか。あ、まさか、尻込みしたとか」
「いや、行くには行ったんだがな。本人が居なくてな。結局、彼女のお母さんと二人で、夕飯を食べた」
「はい? 結婚の承諾をもらいに行ったんじゃなかったんですか?」
「いや、そのつもりだったんだがな、なんか、台所とベランダの掃除をして、洗濯物を取り入れて、帰って来ちゃったよ。まあ、仕方ないけど」
「がははは。ジョーさんが洗濯物……がはははは」
山本少尉は大きな口を開けて笑った。
宇城影介は山本を睨みつける。
「なに笑ってんだ、おまえ。俺だって洗濯ぐらいするよ」
「だって、国防軍一の戦闘兵と言われる宇城影介大尉が、洗濯物とか、台所って……すみません……がはははは」
「笑い過ぎだよ、おまえ。あのな、向こうのお母さんは、目が不自由でいらっしゃるんだ。それくらいやって当たり前だろ。だけど、俺が来る前に、ヘルパーさんが来てたはずなんだよ。その人、何やってたんだ。四時間以上も居たそうなのに」
「で、結局、結婚の承諾は取れたんですか?」
「いや、その話は出来なかった。まあ、来訪の趣旨は分かってくれていたから、向こうもそのつもりで、俺を待っていてくれてたんだが、当の本人が居ないんじゃなあ。勝手に俺だけで話するって訳にも、いかんだろう」
「まあ、外村大佐も軍規監視局の監察官殿ですからなあ。お忙しいんですよ、きっと。例の作戦の事もありますし」
「分かってるよ。別に怒ってはいないし、もめてもいないよ。俺が怒ってるのは、そのヘルパーさんが……」
「お、ターゲット、移動! なんか買うみたいです」
山本の視線の先では、綾と春木が人の列に加わって並んでいた。列の先には小さな店がある。宇城影介は、その店の看板を見て山本に言った。
「いいじゃねえかよ、別に。ただのソフトクリーム屋じゃないか」
「いやあ、あの綾がソフトクリームとは、珍しいですなあ。サバイバル・ナイフかグロッグしか握らないと思ってましたが……」
「そうか。山本がそう言ってたって、綾に教えてやろう」
「そんな。ウソです、ウソ。訂正します。それだけは、勘弁してください、ジョーさん。実戦中に援護射撃で手を抜かれたら、たまらんですから」
焦る山本を余所に、宇城影介は怪訝な顔で横の車道を見渡した。
「しかし、平日だってのに、混んでるなあ。この自動車の数、なんだ。大渋滞じゃないか」
「まあ、寺師町ですからね。いつ来ても、こんなものですよ」
「そうなのか。ちょっと多過ぎやしないか。ていうか、おまえ、そんなによくここに来るのかよ」
山本少尉は胸を張って答える。
「すぐそこに、美味いカップケーキを売っている店があるんですよ。それがもう、癖になっちゃって」
小さな窓からソフトクリームを受け取って、通りの通行人の中に戻っていく綾と春木を見ながら、宇城影介は眉を寄せた。
「カップケーキねえ。綾もおまえも、ちゃんとカロリー計算とかしてんのかよ。体重管理も仕事のうちだぞ。降下作戦の時に、他の降下兵より落下速度が上がると……おい、並ぶのかよ」
列の最後尾に立っている山本少尉が宇城に手招きする。
「当たり前でしょ。バディの綾が、どんな味のソフトクリームを食べたのかを知るのも、仕事のうちです」
宇城影介は仕方なく山本と一緒に列に並んだ。
「なんでだよ。うわ、恥ずかしい。若い女ばっかりじゃねえか」
「しかし、あれですなあ。ジョーさんは、プライベートでも勇敢でありますなあ」
「ここに、そのガタイで並ぶおまえの方が、よっぽど勇敢だよ」
「だって、お相手の方は、軍規監視局の監察官でしょ。しかも、大佐殿。自分だったら、尻込みしますけどねえ」
「別に職位や配置は関係ないだろ。実際、そういう軍人夫婦は、結構多いらしいぞ」
「そうなんですか。そうかあ、じゃあ……」
「じゃあ、じゃねえよ。お前、今、綾の事を考えたろ。あのな、仕事とプライベートは別。ここに線があるんだ、線が。な」
宇城影介はしきりに手を動かして、山本に説明する。
山本少尉は向こうに歩いて行く綾の長い黒髪を見つめながら、目を細めた。
「で、ありますか。ならば、その線を越えて、二人で新しい未来を築くってのは、どうでしょうか」
「勝手に越えるな。おまえも独身だから、焦るのは分かるが、まず、その前の段階ってのがあるだろ。もう少し、慎重にいけよ。相手は綾だぞ。軍の中だけでも、あいつを狙っている男が、どんだけいると思ってるんだよ。無謀に特攻して、実際に回し蹴り食らった奴が一人や二人じゃ無い事は知ってるだろ。本気で惚れてるんなら、こう、もっと慎重に、かつ、正々堂々と誠実にだな……聞いてないのか」
「はい、ジョーさんの分です」
山本少尉は宇城に、ストローが刺さった紙コップを渡した。
「ああ、悪い。なんだ、シェークか。少しホッとしたよ」
宇城影介は安堵してシェークを吸う。
「それと、ソフトクリームです」
「ブッ」
シェークを吹いた宇城に、山本少尉はソフトクリームを差し出しながら言った。
「いや、気にせんで下さい。シェークは、ただですから」
「そういう問題じゃないだろ」
「前の客の奢りだそうで」
「前の客?」
「都会ですからな。妙な風習が広まったりしてるんでしょ。俺も後ろの女性客たちに、シェークを奢っときました。知らん人たちですが」
山本少尉はソフトクリームを握ったままシェークを吸いながら、歩道の中を歩いてく。
宇城影介は山本の背中を見つめながら呟いた。
「おまえの感覚が、妙なんじゃないか。疑うって事を知らんのか」
山本少尉はイチョウの木の横で立ち止まり、周囲を見回す。
「あれ、あいつら、何処に言ったんだ?」
「ほらな」
綾と春木を探していた山本少尉は、車道の向こうに人集りを見つけた。
「ん? ジョーさん、あれ」
宇城影介は山本が指差した方向を見た。パトカーが何台も停まっていて、警察の大型バスも停まっている。一角にはビニールシートが張られ、目隠しがされていた。深刻な顔をした警察官たちが周囲を取り囲み、写真を撮ったり、路面を調べたりしている。
「なんだ? 事故か? それにしては大袈裟だな。おい山本、双眼鏡」
宇城影介は山本にソフトクリームとシェークのカップを渡し、山本が首に提げていた双眼鏡を受け取った。
山本少尉はシェークを吸いながら言う。
「何です? えらく、大騒ぎですね」
宇城影介は双眼鏡を覗きながら答えた。
「みたいだな。大通りの脇に車が一台。おい、これ透視するの、どのボタンだ。ここからでも、ビニールシートくらいなら透視できるだろ」
「貸して下さい。ええっと。この緑のボタンをツークリックです。大尉殿」
宇城影介は、もう一度双眼鏡を覗きながら、山本に言われたとおりボタンをクリックする。ビニール・シートの向こうの乗用車が双眼鏡の画面に白黒で映し出された。ビニールシートを開けてガンクラブ・チェックの初老の男が出て来る。続いて、無精髭の若者が出てきた。
「ありゃ、本庁の刑事だな。ん、確か、あの爺さん、本庁の捜査一課だったよな」
宇城影介は両手にシェークとソフトクリームを二個ずつ持った山本少尉の顔の前にその双眼鏡を据えた。
山本少尉は身を前に屈めて双眼鏡を覗きこむ。
「もうちょっと右です。四度ほど。そこ。――ああ、ですね。たしか、赤上警部の同期の刑事さんでしょ。なんか事件ですかね」
「あの、周りで騒いでる黄色い服の奴ら、真明教か?」
「ですね」
宇城影介は、山本が右手に握っていた二本のソフトクリームと双眼鏡を交換しながら言った。
「なんか、このタイミングでの休暇は、まずかったんじゃないか」
「まあ、局長の判断だから、信じましょう」
「……」
山本少尉は眉を曇らせたが、宇城がソフトクリームを二本とも近くのゴミ箱に放ったのを見て、声を上げた。
「だあ、勿体ない!」
「腹を壊したら、いざと言うとき、出動できないぞ。シェークだけにしとけ」
宇城影介は山本から受け取ったシェークを一口吸うと、それも中身を残したまま、ゴミ箱に放り込んだ。
山本少尉は項垂れる。
「そんな、まだ一口も……」
「どうする。詰め所に戻るか」
「その前に、綾を見つけないと」
宇城影介は冷静に自分の肩の後ろを親指で指した。
「いるよ、二時の方角。坂の手前。行列の横」
「ああ、居た居た。なんだ、また並ぶのか。今度は何でしょうね」
「何でしょうねじゃないだろ。見失うなよ。機材なしでも、目視だけで見つけられるように、自分なりにマーキング・ポイントを見つけとけ。プロなんだからさ」
「はあ。面目ない」
首を竦めた山本少尉に宇城影介は真顔で尋ねた。
「どうする。綾を呼んで来るか。とりあえず、合流はしといた方がいいだろ」
山本少尉は遠くの綾を見ながら答えた。
「でも、あれ、見てくださいよ。綾。あんなに楽しそうに。もう今更、声なんて掛けられないですよ」
「かといって、あいつ抜きって訳にもいかんしなあ。戦力としては、絶対必要だもんな」
「もう少し、ゆっくりさせてやって下さいよ。特務偵察隊は、俺たちだけじゃないですし。もう少しくらいなら」
「いや、しかし今回は、ほとんど一斉休暇だからな。俺達だけでも基地に戻っておいた方が……」
「このとおり。俺からも、お願いします」
腰を折って懇願する山本を見て、宇城影介は顔を顰めた。
「んん……そうか……。仕方ないなあ」
「ありがとうございます。恩に切ります」
「でも、何かあったら、すぐに綾にも声を掛けるぞ。いいな」
「了解。――あらら、ジョーさん。どうやら、先を越されたみたいですよ」
「なんだと?」
二人は綾と春木の方に目を遣った。
六
綾エリカと春木陽香は、人気のネイルサロンの前に並ぶ人の列を見ながら、そのすぐ横で立ち尽くしていた。列は思った以上に長い。春木陽香は困惑した顔で綾に言う。
「ごめーん。こんなに並んでるとは、思わなかった」
「全然、大丈夫。でも、さすが人気店ね。すごい行列」
「どうする。並ぶ?」
「やめとこっか。せっかくハルカと休暇を過ごせるのに、列に並んで時間を潰すのは、もったいないしね」
「だね。うん。また今度にしよう。じゃあ、ちょっと早いけど、お昼にしようか」
「うん。そうしよう。で、何にしようか」
「そうねえ。ええと、この辺でいい店っていったら……」
春木陽香が背伸びをしながら周囲を見回していると、そこへ七色のモヒカン頭の若い男と、大きなアフロヘアの若い男が近づいてきた。二人ともパンクロック調の恰好をしていて、柄が悪そうである。二人は綾と春木に話し掛けてきた。
「ねえねえ、お姉さん達。もしかして、暇?」
「あのー。僕達も暇なんですけど、よかったら、これから一緒にランチしません?」
春木陽香は一歩下がると、モヒカンとアフロの男たちから距離を置いた。
「いえ、あの……」
モヒカンの男は春木に近寄っていく。
「いいじゃん。お互い暇なんだから、ランチにしようよ」
フレア・スカートの綾エリカが、春木の横に近づいて言う。
「馬鹿じゃないの。誰も暇とは言ってないし。それに、そもそもあんたら、暇じゃないと、お昼を食べないわけ?」
モヒカンの男は頭の七色の鶏冠を点滅させた。
「うをお。怒っちゃって。カッワイイ。この子、最高!」
春木陽香は、よく分からないその七色のモヒカンを見つめながら、一応、毅然と拒否した。
「あの、いえ、ランチは遠慮します。今日はこの後も二人で予定があるので」
アフロヘアの男が言う。
「ええ。じゃあさ、予定変更して、四人でドライブに行こうよ。あれ見てよ。AIビートル。シートは特注だぜ」
アフロヘアの男が指差した路肩には、ルーフを外してオープンカーになってるAIビートルが停まっていた。アフロヘアの男は得意気な顔で言った。
「あれでさ、地下高速を走ってみない? もう、スリル満点のビンビンだから。ちゃんと、酸素マスクとゴーグルと耳栓を準備してあるからさ。ね、乗ろ?」
綾エリカは前髪をかき上げながら答えた。
「馬鹿じゃないの。なんであんたらと心中しないといけないのよ」
歩道の隅から様子を伺っていた山本少尉が、横で心配そうな顔をしている宇城に言った。
「なんか、ナンパされてるみたいっすよ」
「まったく……。ナンパ師ってのは何時になっても絶滅しないねえ」
「どうします? 助けに行きますか?」
「どっちを?」
「決まってるでしょ。相手のナンパ師ですよ。怪我する前に」
「個人的には黙認したいがな……ま、仕方ないか」
「右に同じです」
二人の男は綾と春木の方に歩いて行く。
もう一方の二人組みの男たちは、しつこかった。
「ねえ、ちょっとくらい、いいじゃん。そこまでだよ。一区間だけ。乗ってみなよ」
「ランチご馳走するからさ。一回だけ。ね。ね」
綾エリカと春木陽香は、呆れ顔を見合わせた。すると、モヒカンの男が春木の腕を掴んだ。
「さあ、迷ってるなら、まず乗ってから……あ痛たたた!」
春木の腕を掴んだはずの彼の腕は、綾に握られて、逆手に捻られていた。アフロヘアの男がすごんだ。
「てめー何すんだ。コラッ」
モヒカンの男の腕を右手だけで捻ったまま、綾エリカはアフロヘアの男を睨みつける。綾の後ろから少しだけ頭を出した春木陽香が、アフロヘアの男に向けて必死に手を振ったり、バツ印を作ったりしながら、顔を左右に振って見せた。アフロヘアの男は首を捻る。春木陽香は懸命にジェスチャーで彼に危険を伝えた。鼻の前で手を広げたり、口から何かが飛び出した様子を示した後、蛸のように両手をフニャフニャと動かす。
「――あん? 何してんだよ。意味わかんねえよ」
アフロヘアの男は首を傾げた。すると、彼の背後から声がした。
「大怪我するから、やめとけって言ってんだよ。鼻血ブーで歯が飛んで、全身骨折する事になりますよって教えてくれてんだ。そうだろ?」
宇城影介は春木に尋ねた。春木陽香はコクコクと頷く。宇城影介は綾に腕を捻られているモヒカン頭の男に言った。
「あの、お兄さん。ドライブしたらランチをご馳走してくれるんだな。ほんとだな」
山本少尉が続けた。
「何なら、俺達が一緒に乗ってやってもいいぞ。暇だから。その代わり、ランチを奢れよ」
アフロヘアの男は威勢よく言う。
「なんだ? オッサン達には用はねえんだよ。ナンパの邪魔だ。帰んな」
モヒカン頭の男も腕を捻り上げられたまま言った。
「俺たちはプロだからな、調子に乗るなよ」
宇城影介は鼻で笑った。
「まあ、そう言うなよ。せっかく助けてあげたんだから、おまえ、肩外れそうじゃんよ。少尉、そのくらいに」
宇城に言われて、綾エリカはモヒカン頭の男から手を放した。
モヒカン頭の男は、肘を押さえながら言った。
「少尉? ヤベーこいつら、ガチ軍人かよ。喧嘩のプロじゃん」
山本少尉が顔の前で手を振った。
「違う、違う。戦闘のプロだ。で、お前らは、いったい何のプロなんだ。ん?」
アフロヘアの男は冷や汗を垂らしながら視線を逸らす。
「あ、いえ……その……」
「おい、行くぞ。こいつらヤベーよ」
モヒカン頭の男が逃げていくと、アフロヘアの男も彼を追いかけていった。退散する二人に山本少尉が叫ぶ。
「ガオー。わんわんわん」
改造したAIビートルに慌てて乗り込む二人を見ながら、宇城影介が呟いた。
「どっちがヤバイんだよ。まったく……」
春木陽香が二人に礼を言った。
「宇城中尉、山本軍曹、ありがとうございます。アンド、お久しぶりです」
「いや、出世したんだよ、みんな。今、こちらは大尉殿で、俺とコイツは少尉」
山本少尉は宇城を指差した後、自分と綾を指差した。宇城影介は山本を見ながら、わざとらしい口調で言う。
「偶然、近くを通りかかったんでね。ホント、偶然だなあ」
綾エリカはソワソワしながら、黙っていた。そんな彼女を一瞥した春木陽香は、目を細めて宇城と山本に言った。
「ええー。ホントですかあ。こんな所を、休日に二人で買物? 宇城中尉と山本軍曹が? うっそだあ」
山本少尉が言う。
「だから、大尉と少尉だっつうの」
春木陽香は、更に疑り深い顔で言った。
「実は、エリカの事が心配で、つけて来たんだったりして。ニヒヒヒ」
綾エリカがボソリと言った。
「山本、口にシェークが付いてる。ソフトクリームも」
山本少尉は口の周りを手で拭きながら、実に素直な反応を見せた。
「あ? ウソ言え。ソフトクリームは、まだ食ってねえぞ」
綾エリカと春木陽香は、下を向いて笑いを堪えた。山本少尉は困惑した顔を宇城に向ける。宇城影介は顔を右手で覆い、項垂れていた。
顔を上げた綾エリカが言う。
「二人とも、朝からずっと、つけてましたよね。分かってました」
二人の男は取り乱した。
「いやあ、実はこいつがね、――ははは。馬鹿、だから言ったろ」
「あ、いや、その……綾、お前、やっぱり可愛いな。最高。感動した」
綾エリカは山本に冷たい視線を送った。
「いま、適当に単語を並べたでしょ、あんた」
山本少尉は必死に顔の前で手を振る。
春木陽香はパチンと大きく手を叩いた。
「じゃあ、皆さんも一緒にランチにしましょうか」
宇城と山本は顔を見合わせたが、二人とも苦笑いしながら、申し訳無さそうに頷いた。
七
四人は寺師町のファミリーレストラン「デリカ・レスト」にやって来た。ボックス席に座り、談笑しながら昼食を楽しんでいる。
「じゃあ、ホントに皆さん、出世されたんですね。すごーい」
手を叩く春木に、宇城影介が呆れ顔で言った。
「嘘言ってどうするんだよ。まあ、俺はともかく、コイツらは特例で昇格だからな。たしかにすごいよ。山本は特務曹長と准尉を飛び越して、いきなり少尉だし。綾は幾つ飛び越したんだ? ええと……」
指を折って数える宇城の隣で、二皿目のランチプレートの料理を食べ終えた山本少尉が、向かいの席の春木に言った。
「いやあ。それにしても、ハルハルちゃんも元気そうで良かった。永山さん達も、元気にしてるのか?」
「ええ。なんか忙しそうですよ。例の一件で」
「まあな。まだ、完全に鎮火した訳じゃなさそうだしな」
そう言った山本に宇城影介が視線を送る。山本少尉は話題を変えた。
「記者ってのも、結構大変なんだな。ところで、あの二人は、どうなった。結局、よりを戻したのか?」
「神作さんと編集長ですか? 駄目駄目。相変わらず、目玉焼き戦争やってるみたいです」
「へえ。そうなのか。困った奴らだなあ」
腕組みをした山本に宇城影介が言った。
「こら山本。任務以外で他人のプライバシーに踏み込むな」
山本少尉は首を竦めた。
春木陽香は、隣の席で黙っている綾に小声で尋ねた。
「どうしたのエリカ? さっきから黙ってるけど」
「ん? いや、そんな事無いけど……」
宇城影介が片笑みながら言う。
「ん? さては、照れてるな。こんなかわいい綾を見せてもらったのは、初めてだからなあ。なあ、山本」
綾エリカは赤くした顔を下に向け、長い髪で隠した。
山本少尉が言った。
「いや、ホントだぜ。ジョーさんなんか、おまえ、双眼鏡で見とれちゃって、俺に返してくれないの」
「嘘言え。それは、お前じゃねーか」
春木陽香が口を挿んだ。
「あらら? じゃあ、エリカは、国防軍が保有する最終兵器ってところですな?」
「もうハルカまで……バカ……」
綾エリカは春木の肩を叩いた。一同は笑う。
宇城影介は綾に言った。
「でも、悪かったな。せっかくの休日を邪魔しちゃって」
綾エリカは首を横に振った。
「いいえ。そんなことないです」
山本少尉も頷く。
「自分も同じです。大丈夫です。気にせんで下さい」
「お前には言ってねえよ。だいたいお前が……」
春木陽香は綾の顔を一瞥してから、ポンと手を叩いた。
「あ、そうだ、この後、行きたい所あるんですけど、よかったら、お二人も一緒にどうですか。せっかくですから」
山本少尉が身を乗り出した。
「え? いいの? 行く 行く」
「ね。いいよね、エリカ」
「う、うん。私は、別に、構わないけど……」
綾エリカは、宇城の表情を伺った。
春木陽香が立ち上がる。
「じゃあ、決定。そうと決まれば、さっさと移動しましょう」
「はあ? マジ?」
宇城影介は困惑顔で椅子から腰を上げた。
綾エリカは笑みを隠しながら、春木についていった。
八
昭憲田池の辺に広がる遊園地。いつに無くアクティブな服装をしている春木陽香は、入場ゲートの前で肩幅に両足を開いて立ち、力強く大観覧車を指差している。その背後に並んでいる私服姿の兵士たちは、顔を見合わせていた。
山本少尉が春木に尋ねる。
「あの……ハルハルちゃん。『行きたいところ』って、ここ? ここって……」
「そっ。ショッピングとソフトクリームと来たら、次は絶叫マシンですもんね。この三つは、休日の三種の神器ですよ。はい、入場」
春木陽香はスタスタとゲートに進んでいった。
山本少尉は呆れ顔で言った。
「あんだけ恐い思いしたのに、よく絶叫マシンに乗る気がするなあ」
横に立っている宇城影介も首を傾げる。
「そう言えば、あの時も、かなり絶叫してたもんな。この子、叫ぶのが好きなのか?」
春木陽香が振り返った。
「はい? 何か」
「いえ、何でもございません」
そう答えた宇城影介は、綾と顔を見合わせると、困惑顔でゲートの方に歩いて行った。
綾エリカは、下を向いてクスクスと笑っていた。
九
春木陽香はホログラフィー画像で浮かべられた看板を覗きながら独り言のように呟いていた。
「まずはこれでしょ。『ミラクルマッハ・ワン』。この夏からオープンの最新型絶叫マシーン! えー何々……超電導リニアによる浮上式コースター。最大瞬間速度……マッハ・ワン! おお、ってことは、場合によっては、音速ですよね! 音速。いや、これはすごいですぞ!」
「場合によらなくても、音速なんだが……」
宇城影介は頭を掻きながら顔を顰めた。
山本少尉が綾に耳打ちする。
「なあ綾。あの子、よっぽどストレスが溜まってるんじゃないか?」
綾エリカは山本の肩を叩いて、片笑みながら言った。
「ミラクルマッハよ。ミラクル」
「おいおい、マジで乗るのかよ」
「さあ、チケット買お。早く、早く」
春木陽香は綾の手を引いて、チケット売り場へと走っていった。
二人の男たちは溜め息を吐いて項垂れた。
十
二列にシートを並べた「ミラクルマッハ・ワン」の最前席で、春木陽香が両腕を上げている。
「やったー。一番前ゲットお。山本軍曹、こっち、こっち」
彼女は山本に手招きした。
山本少尉は自分の顔を指差す。
「え? 隣は俺? 嘘でしょ。一番前かよ。ていうか、少尉だしね、俺。それに、今時、『ゲットお』は死後だろ」
「じゃあ、私の後ろが、『うしろ』だから、宇城……ええと……」
綾エリカが教える。
「大尉」
「宇城大尉ね。で、その隣が、エリカ。よーし、これでオーケー」
春木の隣のシートに窮屈そうに座っている山本少尉が、ベルトを締めながら口を尖らせた。
「なんだよ。俺は綾の風除けかよ」
笑いながら宇城と綾が後部席に乗込む。少し顔を赤くしてベルトを締めている綾に、少し振り向いた春木陽香がウインクした。綾エリカが春木に何か言おうとすると、スタートを知らせるベルが鳴った。宇城影介が山本の肩を叩く。
「よおし、山本少尉。日頃の訓練の賜物を見せてやれ」
「り、了解です。了解」
山本少尉は生唾を飲んだ。
客を乗せた「ミラクルマッハ・ワン」は、ゆっくりと動き出す。チェーンの音を鳴らしながら、角度をつけた坂を登っていった。
周囲を見回しながら山本が漏らす。
「うわっ。高い。マジか」
春木陽香は両腕を交互に上げている。
「上っがれ。上っがれ」
後ろの席の宇城影介は、小さく溜め息を漏らして春木を見ていたが、隣の綾が下を向いているので、気に掛けた。
「綾、大丈夫か?」
綾エリカは、スカートが風で捲れないか気にして、膝と膝の間でスカートの布を挟んで力を入れている。そのせいで、どうも重心を据える事ができず、何度も足の位置を変えていた。モジモジしているかのような綾エリカは、それ自体が恥ずかしくて、下を向いたまま答えた。
「はい。なんとか。自分は実戦降下もしていますから」
宇城影介は笑いながら言う。
「綾、今日くらい、その『自分』ってのやめろよ」
「了解です」
「了解も」
「――はい……」
綾エリカは胸を高鳴らせた。「ミラクルマッハ・ワン」は頂点へと登る。最前席の山本少尉が声を上げた。
「うおおお。来るぞ。来るぞお!」
春木陽香は両肩を上下させている。
「落っちろ。落っちろ!」
綾エリカは、早口で言った。
「すみません、大尉! 私、陸戦専門なんで、本当は、こういうのは……わぁ!」
重力か消え、体が宙に浮く。綾エリカの長い黒髪が風に流れた。彼女は必死に宇城の腕にしがみつく。周りの景色は千紫万紅の縞模様に変わった。風が耳を塞ぎ、強く打つ自らの鼓動以外は何も聞こえない。
四人を乗せた「ミラクルマッハ・ワン」は、大きくうねるレールの上を矢の如く疾走していった。
十一
「ああ。面白かったあ。これ最高ですね」
春木陽香は御満悦の表情で「ミラクルマッハ・ワン」から降りてきた。後ろから、フラフラした足取りで山本少尉がついてくる。
「はあ、はあ、はあ……ああ……そうだな」
首を回したり、頭を振ったりしている宇城影介に、山本少尉は小声で言った。
「大尉、これ、軍でも訓練用に導入するべきじゃないですかね」
宇城影介も小声で答えた。
「そうだな。俺も、ここまでとは思わなかった。今度、企画課の奴に言っとこう」
宇城影介は振り向いて、綾に尋ねた。
「なあ、綾。どうだった。早過ぎだよな、コレ」
綾エリカは髪を整えながら視線を逸らしている。
「いえ、その……私は、それどころでは、なかったです。――はい」
先頭を歩いていた春木陽香が立ち止まり、クルリと振り返った。
「なにをコソコソ言ってるんです? はい。男性お二人は、ビビッた罰として、レディ二人にクレープを買ってきて下さい」
宇城と山本は顰めた。
「クレープ?」
「なんで、俺達が?」
春木陽香は男二人の背中を押した。
「はいー。行った、行ったあ。こっちは女同士の話があるんです!」
売店へと歩きながら、宇城影介は小声で山本に言った。
「だから、言ったろ。『女は弾丸よりも怖い』って」
「ですな……」
二人の男は売店へとトボトボと歩いていった。
十二
綾エリカと春木陽香はベンチに腰掛けた。早速、春木陽香は綾に尋ねる。
「ねえ、エリカ。どうだった?」
「何が?」
「宇城大尉さんよ。好きなんでしょ」
「え? なに言ってるのよ」
綾エリカは振り返って、宇城と山本が売店に居る事を確認した。
春木陽香は肘で綾をつついた。
「ヒヒヒ。隠しても無駄ですよ。さっきから顔が赤いし、宇城大尉さんが来たら、急に静かになっちゃって。恥ずかしいんでしょ。ニヒヒヒヒ」
綾エリカは必死に手を振った。
「違う! 違う。違う。違う」
「またまたあ。照れちゃってえ。たしかに、宇城大尉さんはカッコイイもんね。誠実そうだし」
「私はただ、上官として尊敬しているだけで……」
「で、絶叫マシンで、あんなに抱きついちゃうわけ? やるう」
「だ……あれは、ただ、掴まる所が無かったから、つい……」
「つい、何よ。ん? 言うてみい」
春木陽香はニヤニヤしながら綾の顔を覗きこんだ。
綾エリカは頬を膨らませる。
「もう……」
春木陽香は綾の顔を指差した。
「あー。やっぱり、そうなんだ。そっかあ。増田さんに言いつけちゃおっかなあー。記事にしちゃおっかなあー」
「もうハルカ……勘弁して」
「あは。赤くなってる。ニヒヒヒ」
綾エリカは観念したように肩を落とすと、前髪をかき上げながら、黙って何度か頷いた。
春木陽香は前を向き直すと、ベンチの上で両足を上下に降りながら言った。
「でも、エリカが羨ましいな。モテモテだもん」
綾エリカは首を振る。
「そんなことない」
春木陽香は言った。
「だって、山本軍曹……違った、山本少尉も、エリカにぞっこんって感じだよ」
「山本が? やめてよ」
「いや。絶対、そうだよ。でも、山本少尉には悪いけど、ちょっとエリカはもったいないって感じかな。だって、山本少尉は猪突猛進型って気がするし、ガサツそうだし」
綾エリカは再び振り向くと、両手にクレープを持って戻ってくる山本を見ながら言った。
「でも、すごく几帳面なんだよ。結構、繊細だったりするし、優しいところもある。まあ、いい奴よ。ああ見えて」
春木陽香は腕組みをする。
「そっかあ。でも、基本的に、自分を犠牲にしてでもエリカのことを守ってくれるようなところがないと、駄目よね。それくらい頑張ってもらわなきゃ、つり合わないわ」
綾エリカはまた、顔の前で手を振った。
「いや、それは仕事で、私の周りはみんなそうだから。私もそうだし」
春木陽香は振り返り、こちらに歩いてくる山本を見ながら首を傾げた。
「でも、あの服のセンスは、ちょっとねえ」
「んー、確かに。どうして休日に迷彩服を着るかな。軍人丸出しじゃない……はあ。しかも、オーバー・オールって……」
春木と綾は顔を見合わせて、クスクスと笑った。
二人の後ろにやってきた山本少尉が、忍び笑っている二人を見て怪訝な顔をする。
「どうした。なに笑ってるんだよ。何か面白い事でもあったのか? はい、クレープ。中のフルーツは全部天然物だそうだ。ちゃんと、均等に巻いてあるぞ。生クリームも端まで入れるように、ちゃんと見てたからな」
春木と綾は必死に笑いを堪えた。春木陽香が耐え切れず吹き出すと、二人はまた笑った。
山本少尉は首を傾げる。
「なんだよ、お前ら。女子学生じゃあるまいし」
綾エリカが春木に耳打ちした。
「山本ね。下の名前がね……」
春木陽香は腹を抱えて、涙を流す。
「ヒイー……アキヨシだけど、字は『明美』。アケミちゃん。は、ははは……駄目だ、死ぬ……はははは」
バタバタと両足を動かす春木を見て、山本明美は両手にクレープを握ったまま、眉を寄せた。
「なんだよ。俺にも教えろよ」
綾エリカも腹を押さえて笑った。
十三
春木陽香は腹をポンポンと叩きながら、先頭を歩いていた。
「いやあ 満喫。満喫。ソフトクリームは食べたし、絶叫マシーンには乗ったし、クレープも食べたし。楽しかったあー」
宇城影介が付け足した。
「ああ。お化け屋敷で山本が暴れなければな……」
「そりゃ、仕方ないじゃないですか。お化けですよ。あんなリアルな立体画像で、しかも半透明の投影で出てきたら、ほとんど本物でしょう、アレ」
綾エリカが厳しい口調で山本に言った。
「だからって、案内スタッフを投げ飛ばす事ないでしょ。可愛そうに。素人の民間人なのよ。まったく……」
山本明美は申し訳無さそうに言う。
「す……すまん。つい反射的に……」
春木陽香は振り返ると、三人に言った。
「まあまあ。最後はパーとおいしい物でも……」
水滴が肩を叩く。春木陽香は空を見上げた。
「んん? 雨が降りそうだなあ。今日は一日晴天だって言ってたのに、天気予報めえ、またハズレたなあ」
綾エリカも空を見上げる。どす黒い入道雲がゆっくりと動いていた。
宇城影介が言った。
「そろそろ解散だな。こりゃ、一雨どころじゃないぞ。あれは本降りになる雲だ」
春木陽香は綾に視線を向けた。彼女は少し悲しそうな顔をしている。春木陽香はイヴフォンを取り出すと、咳払いをして見せた。
「ゴホン。雨が降ったら、止むのも待てばいいじゃないですか。盛り上がるのは、まだまだこれからですぞ。いい店を知ってるので、そこに行きましょう」
宇城と山本は顔を見合わせた。
イヴフォンをジャケットに挟んだ春木陽香は、左目をピンク色に光らせて、宙に向かって話しかける。
「あ、もしもし、ザンマルさんですか? ハルハルです。お久しぶりです。あのお、ちょっと早いんですけど、今から大丈夫ですか。お友達を連れて行きたいので。――はい、私も入れて四人です。――ホントですか。ありがとうございます。じゃあ、行きます」
イヴフォンを切った春木陽香は、親指を立てて見せた。
「早めに開けてくれるそうです。ラッキー!」
春木陽香はクルリと振り返ると、歩いていった。二人の男は仕方無さそうにトボトボとした足取りで、春木の後をついて行く。嬉しそうに笑みを溢した綾エリカは、軽やかな足取りで二人を追い越すと、春木と共に並んで歩いていった。
十四
宇城と山本は、派手な装飾の店の前で顔を見合わせた。
「ああ、ここか……」
「ここって、たしか、あの柔道家がやってる店ですよね。なあ、綾、覚えてるか」
「うん。ていうか、忘れろって言われても無理ね。私達の出番を奪うくらい、強かったから。相手、三人だったわよね」
「何者なんだ、あいつ」
「さあ……」
怪訝な顔をしている三人を余所に、春木陽香は階段を降りていき、ドアを開けた。
「こんにちはあ。ハルハルでーす」
丸山のバー「ラ・ランコントル」は、営業時間前で静かだった。派手なメイクとドレスのコンパニオンたちは、まだ出勤してきていない。
カウンターの中から紫のドレスを着た岩のような巨漢が手を振った。
「あらあ、いらっしゃい。久しぶりね、ハルハルちゃん」
春木陽香はカウンターへと駆けていった。宇城と山本が警戒しながら店内に入る。綾エリカも店内を見回しながら中に入った。
「お久しぶりでーす。すみません、無理言って」
「いいのよん。ハルハルちゃんの頼みじゃない。早朝営業だってしちゃうわよ」
「今日は、友達を連れてきちゃいました。というか、私の命の恩人の皆さんですけど。あ、皆さーん、こっちですよお、こっち」
春木陽香は三人に手招きした。三人の兵士はカウンターの方に歩いて行く。ザンマルは三人を鋭い目で観察すると、春木に言った。
「あら。そんじゃ、いいお酒を出さなきゃね。丁度よかったわ。いいのがあるのよ。宮崎名物の秘酒『くろひじ』。どう? 飲んでみる?」
春木陽香は目を輝かせた。
「わあ、すごい。それって、滅多に手に入らない焼酎ですよね。熊本の『
ザンマルは太い指の大きな手を一振りする。
「ハルハルちゃんは特別よん。一杯ずつなら、奢るわよん」
春木陽香は手をパチパチと叩いて喜んだ。
「キャー。ホントですか。ザンマルさん大好き。最高!」
山本明美が綾に小声で言う。
「綾、よーく覚えとけよ。これが女の『たかり方』だ」
綾エリカも小声で言った。
「私には、無理。絶対に」
春木陽香はカウンターの隅の椅子に腰掛け、他の三人に言う。
「さあ、皆さん、立ってないで、座って、座って」
隣に綾が座ると、春木陽香はカウンターの中で焼酎のロックを作っているザンマルに言った。
「ザンマルさん、紹介しますね。この子がエリちゃん、その隣がウッシーさん。で、その隣がアケ……違った、ヤマさん」
山本明美が顔を顰めた。
「ウッシーさんに、ヤマさん?」
隣の宇城影介が山本に小声で言う。
「俺たちの部署の事を考えて、この子なりに気を利かせているんだろ。しかし、ウッシーさんは無いだろ。酪農協会のマスコットかよ、俺」
綾エリカは肩を震わせて笑う。
ザンマルは鼻から声を出した。
「よろしくう。ザンマルでーす。本名、丸山新輔でーす。四十七歳、オカマでーす」
「……」
三人の兵士は大きく瞬きしていた。春木陽香は言う。
「ここのバターポテト、最高においしいんですよ」
ザンマルは山本に言った。
「あら、チキン南蛮もあるのよ。おいしいわよ」
山本明美は答える。
「あ、それって、しっとり系とサクサク系があるんですよね。ここのは……」
「しっとり系。うふ」
山本明美はニヤリとしながらザンマルを指差した。
「いいっすねー。美味そう。それ、お願いします」
春木陽香も注文する。
「じゃあ、私は、いつものバターポテトで」
そのメニューを隣の綾に渡した春木陽香は、目配せしながら言った。
「エリカ、ほら、ほら」
「ああ……」
メニューを受け取った綾エリカは、それを宇城の前に広げて、少しだけ肩を寄せながら尋ねた。
「何にします? たい……」
春木陽香が反対の隣から小声で言う。
「『ジョーさん』でしょ。頑張れ」
綾エリカは緊張しながら言った。
「ええと……ジョー……さん。えっと……ソーセージとピザで……」
メニューを見ていた宇城影介は、綾の顔を一瞥した。
「え? あ、ああ、そうだな。じゃあ、綾と同じ物で」
ザンマルが奥の厨房に伝える。
「オッケー。バタポテにチキ南、ソーセツーに、ピザツーで、お願いしまあっす」
綾エリカは急いでメニューを畳むと、急いで隣の春木に返した。そして、赤くした顔を横に向けて、髪をかき上げる。
ザンマルはニヤニヤしながら、焼酎が注がれたグラスをカウンターの上に置いていった。
春木陽香はグラスを持ち上げて、音頭を取る。
「じゃあ、とりあえず乾杯しましょうか。せーの、カンパーイ!」
高いガラス音と氷のぶつかる音がカウンターに響いた。
十五
「ラ・ランコントル」に、スパンコールで覆われたドレス姿の筋肉質なコンパニオンたちが出勤してきた。女装した男たちはカウンター席に座っている四人に挨拶しながら、控え室へと入っていく。端の席でうつ伏せていた春木陽香が顔を上げた。
「ウイーっと……ヒック……」
赤い顔をしている春木に、綾エリカが心配そうに言う。
「ちょっとハルカ、飲み過ぎなんじゃない?」
春木陽香は呂律の回らない口でフラフラしながら答えた。
「あったりまえれしょうが。ふいー。三人とも、だーれもグラスに口をつけないから、私が四杯も飲んじゃったじゃらいのよ。四杯よ。よ・ん・は・い。ウイー」
綾の隣から宇城影介が呆れ顔で言う。
「だって、知ってるだろ。俺達、いつ緊急招集されるか分からないから、アルコールが禁じられてんの」
カウンターの中のザンマルは、眉を八字にした。
「ごめんなさいね。軍人さん達だとは、知らなくて」
綾エリカが首を振る。
「いえ。こちらこそ、すみませんでした。最初に言えば……」
宇城影介も申し訳無さそうにザンマルに言った。
「御代は払いますから」
ザンマルは顔の前で手を一振りして見せた。
春木陽香は宇城を指差しながら言う。
「そうら。ジョー、謝れ。せーっかく、ザンマルのママが奢ってくれたんらぞ。それを無下にするとは……ういっいー……」
「こらこら、ハルハルちゃん」
ザンマルは春木の前にレモンソーダが注がれたコップを置いた。春木陽香はカウンターに凭れかかりながら、茹蛸のような顔でくだを巻く。
「貴様らは、それでも、軍人かあって、ふふふふ。ぷう……あ痛っ」
春木を叩いたザンマルは、宇城たちに謝った。
「ごめんなさいね。この子ったら、もう」
今度は宇城影介が手を振った。
春木陽香は綾に掴まりながら、宇城の隣の山本を指差した。
「オイ、コラ。向こうのデカイの。おまえだ。おまえ。なーんで、おまえは、飲まないんだ。ヒック。私に全部飲ませて、こりゃ、おい、どうする気だい。ヒックう」
チキン南蛮を頬張りながら、山本明美は答えた。
「いや、別に飲ませた訳じゃないだろ」
春木陽香はカウンターを強く叩く。
「なにイイ。らって、それじゃあ、もったいらいだろ。こんなに、おいひい酒らぞ。ヒームーカーの……『くろひじ』らぞ。 ね、えーりーかーちゃん。ちゅー」
キスをしてくる春木を押し返しながら、綾エリカは宇城に背中を当てる。ザンマルがレモンソーダのコップを持ち上げて、春木の鼻を摘まみ、口にストローを押し込んだ。
「はいはい。ハルハルちゃん、レモンソーダを飲んで」
「んぐ。ブクブクブク……」
「吹くな。吸え!」
ザンマルに言われて、春木陽香はストローで吸って、レモンソーダを飲んだ。
「ぷっはあ。――ありがと。ういー。だいたいね、みんら、浮かれ過ぎなのよ、愛らの恋らのって。神作キャップと編集長も、さっさと縒り戻せっつーの……もう……めんどくさいなー。朝美ちゃんも心配してるでしょうがあ。縒り、戻せえー。ういー」
春木陽香はパタリとカウンターの上に臥せた。
ザンマルは困惑顔で言う。
「前に真ちゃんとノンちゃんと来た時は、こんなじゃなかったのよね。永山ちゃんと来た時も……」
綾エリカは春木の肩を摩った。
「急に強い焼酎を飲んじゃったから……。ハルカ、もう帰ろうか」
カウンターに頭を載せたまま、春木陽香は手を振る。
「らいじょうぶ、らいじょうぶ」
「明日も仕事でしょ」
ムクリと起きた春木陽香は、半開きの目をして手を大きく振った。
「そっちの方も、らいじょーぶ。ね、聞いて。ちょっと、聞いれよ。あっちの裏通りの、占いのお婆ちゃんがね、言ってたの。私が、ぜーんぶ戻すって。何もかも、ぜーんぶ元通りよ。ぴゅうーって。ね、すごいれしょ。フフフ……フフフフ」
春木陽香は一人で不気味に笑い出す。
綾エリカは重心が定まらない春木の上半身を支え続けた。
「分かったから。もう、そのくらいにして……」
春木陽香は、急に顔をくしゃくしゃにすると、泣き始めた。
「永山さーん。うわーん。どうして結婚してるのよお。なーがやーまさーん……うわーん。うわーん」
カウンターの上に顔を覆って伏した春木を見つめながら、綾エリカは呟いた。
「知らなかったのかしら。嘘でしょ。……」
宇城影介はウーロン茶を飲みながら隣の山本に小声で尋ねる。
「おい山本。今日の作戦は、どうだった」
山本明美は、春木を覗きながら答えた。
「ええ。随分と濃い情報を収穫できました。この子、ある意味で絶叫マシン以上に、アップダウンがすごいっすね。女は分からんです」
「だろ。そのうち、もっと、えらい目に……」
その時、宇城の腕時計が細かく振動し始めた。同時に、綾と山本の腕時計も振動する。
「そうら、言わんこっちゃない」
宇城影介は腕時計から照射された小さな平面ホログラフィー画像を確認しながら、椅子から腰を上げた。綾と山本も腕時計を操作しながら立ち上がる。綾エリカは春木に視線を送った。春木陽香はカウンターの上でうつ伏せたまま眠っている。三人の顔つきが厳しくなった事に気付いたザンマルは、彼らが緊急出動の為に呼び出されたと察した。ザンマルは三人に頷いて見せる。
「大丈夫よ。行って。この子は、ノンちゃんにでも迎えに来てもらうから」
宇城と山本はザンマルに一礼すると、出口へと駆けていった。綾エリカは春木の耳元に顔を近づけて、小声で優しく言った。
「ハルカ、今日はありがと」
春木陽香はビクリと跳ねて起き上がった。瞼を落とした目で周囲を見回し、フラフラとしながら綾に敬礼する。
「ウム。気をつけて行ってらっしゃいませ。うぃっぷ」
そして、再びカウンターの上にコテンと額を載せた。
綾エリカは前髪をかき上げながら、呆れ顔で微笑む。出口のドアを開けたまま、山本少尉が呼んだ。
「綾、行くぞ」
ザンマルに一礼した綾エリカ少尉は、軍用の腕時計をもう一度確認すると、長い黒髪とフレア・スカートを左右に揺らしながら、出口へと掛けていった。
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