第9話  岩崎カエラ

                   一

 時計の秒針が時を刻む音が微かに響いている。白塗りの壁に囲まれたその部屋は、無機質で冷たい。床にはタイルが貼られ、壁に窓は無く、換気扇とエアコンがあるだけである。壁際の流し台には喉頭鏡やメスが並んでいた。天井には通常の蛍光灯の間にスポットライトが埋め込まれていて、それらが白く強い光を放射し、真下の二つの箱を照らしている。部屋の中央に並べて置かれたストレッチャーの上の直方体の大きな箱はステンレス製で、閉じられた蓋の上に微かに水滴を載せていた。

 二つの箱の間には、マリン・ブルーのシャツに濃紺のタイトスカートを穿き、上から白衣を羽織った女が立っていた。警察庁科学捜査研究所の研究技官・岩崎いわさきカエラである。腕に抱えた薄型の端末を覗いていた彼女は、端末の表面に浮かんでいるホログラフィー文書を読みながら、しきりに首を傾げていた。白衣の袖を少し上げ、使い古した腕時計に目を遣る。何度も修理に出したその腕時計は秒針の音が少し大きくなっていた。右手の指先で軽く表面のガラスの上を叩いてみる。秒針の音は少し小さくなった。岩崎カエラは首を捻ると、またホログラフィー文書に視線を戻した。すると、部屋の隅のステンレス製のドアが横にスライドした。ガンクラブチェックの上着を着た初老の男と、濃紺の制服姿の若い女が入ってくる。制服の若い女は分厚い紙袋を提げていた。ガンクラブチェックの上着姿の三木尾みきお善人よしと警部は、警視庁警察事務官の村田むらたリコが提げている紙袋を指差しながら言った。

「資料を持ってきてやったぞ。そっちのブツも見せてくれ」

 岩崎カエラは言う。

「あら、ぜんさん。悪いわね、遠い所までわざわざ。ていうか、結局、この夏もそのジャケットで通したのね。相変わらず頑固ねえ」

「ほっとけ。――で、これか」

 三木尾警部はステンレス製の箱を指差した。岩崎カエラは頷く。紙袋を壁際に置いた村田リコは、岩崎に駆け寄った。

「きゃー。カエラさん、お久しぶりです」

 岩崎カエラは年上らしく落ち着いて構える。

「まあ、リコちゃん。久しぶりね。あら、髪型変えたの?」

「はい。今度の金曜日から十月になりますし、私も先週から新しい部署に移りましたから、心機一転。昨日が日曜だったので、美容院に行って、思いっきり変えました。なのに、今朝から石原さんも中村さんも、誰も気付いてくれないんですよ。ひどくないですか」

 村田リコは頬を膨らませて三木尾を見た。三木尾善人はステンレス製の箱の前で手を合わせながら言う。

「リコちゃん。遺体ホトケさんには、手ぐらい合わせるもんだ」

「……あ、はい。すみません」

 村田リコは二つの箱に向かって手を合わせ、目を閉じた。

 合掌を解いた村田の耳元に岩崎カエラが顔を近づけた。彼女は村田に小声で尋ねる。

「で、どう? 新設された部署の方は」

 村田リコは声を潜めて答えた。

「まあまあです」

「聞こえたぞ」

 三木尾善人警部がステンレス製の棺桶に手を合わせたまま、そう言った。岩崎カエラは彼に言う。

「三木尾警部。警視庁のアイドルをいじめないで下さいよ。大事にして下さいね」

「ああ、確かにそれも、ウチの部署の重要な業務の一つだな」

 三木尾警部は顔を顰めながら頭を掻いた。岩崎カエラは端末を流し台の上に置いて、三木尾に尋ねた。

「本業の方はどうなの? やっぱり、行くの?」

「ああ。警察庁長官から直々のご命令とあれば、断る訳にはいかんだろう。まったく、それにしても、定年退職前の人間をジャングル奥地の戦闘区域に送るかね、普通」

 岩崎カエラは眉を寄せる。

「終戦協定は成立したとニュースで言っていたけど、やっぱり、まだ危ないのかしら」

「当たり前だろうが。トップ同士が結んだ協定なんぞ、当てにならんよ」

 険しい顔を横に振った三木尾警部は、さっき岩崎が流し台の上に置いた端末を目で示しながら尋ねた。

「それで。解剖所見の方は。岩崎先生」

 頷いた岩崎カエラは、流し台の引き出しから防臭マスクを取り出すと、三木尾と村田に渡した。

「これを付けて。リコちゃんも」

 自身もマスクを装着した岩崎カエラは、換気扇のスイッチを入れ、二個のステンレス製の箱のうち、三木尾が立っている所の傍の箱に近づく。彼女がその箱の隅のボタンを押すと、箱の蓋が高い排気音と共に横にずれて、開いた。

「一応、防腐措置は施してあるけど……」

 そう言って、岩崎カエラは箱の中の白布を捲った。若い女性の遺体が横たわっている。村田リコは目を逸らした。三木尾善人は遺体の顔を覗き込んで言う。

「ナオミ・タハラだな。NNC社のニーナ・ラングトンの通訳だった」

 岩崎カエラが首を縦に振る。

「ええ。背部に二発。心臓と右肺を損傷。解剖所見によれば、ほぼ即死のようね」

 村田リコが横目で遺体を見て呟いた。

「まだ、死ぬような歳じゃないのに……」

 村田リコは、穏やかな顔で眠るナオミ・タハラの遺体に向けて、もう一度手を合わせた。三木尾善人はその若い女の遺体に憐憫の眼差しを向ける。全裸の遺体に白布をかけ、ボタンを押して蓋を閉めた岩崎カエラは、隣の箱の近くに移動した。三木尾善人もその箱の横に移動する。村田リコは、まだナオミ・タハラの棺に手を合わせていた。岩崎カエラは同じように箱のボタンを押した。排気音と共に蓋が開く。岩崎カエラが白布を捲ると、三木尾警部は箱の中の遺体を覗いた。横に来た村田リコも覗き込み、また顔を背ける。遺体を覗いたままの三木尾善人は、眉間に深い皺を寄せた。

 遺体はかなり高齢の老人男性だった。肉は落ちて痩せ細り、肌は緑色に変色していて、干乾びかけている。胸の部分の皮膚が広範囲でえぐられていて、傷口が腐敗していた。苦悶の表情のまま硬直した顔から、その死の直前の苦痛が伺える。顔を上げた三木尾警部は、岩崎に確認した。

「高橋か」

 岩崎カエラは、ゆっくりと頷いた。

「ええ。高橋諒一博士」

「間違いないのか」

 三木尾善人は眉間に皺を寄せたまま、岩崎の顔を凝視した。岩崎カエラは黙ってもう一度頷いた後、三木尾に軽く指先を向けた。

「おたくの方の科捜研の鑑定でも、ウチの鑑定でも、この遺体から採取した細胞のDNA配列は、司時空庁に保管されていた十一年前の高橋諒一博士のDNAサンプルのそれと完全に一致したわ。この遺体が博士本人のものであることは、間違い無いわね」

 それを聞いた三木尾警部は、険しい顔で再度、箱の中の遺体を覗いた。

「これが……」

 岩崎カエラは透明のゴム手袋をはめながら言った。

「ま、私も、一応そういう事を前提にしている。でないと、先に進まないから」

 三木尾善人は、その半分ミイラ化したような遺体を観察しながら返事をした。

「ああ。司時空庁に保管されていたDNAサンプルが本当に高橋のものがどうか、こっちでも、もう一度洗ってみるよ」

 鑑定結果に疑念を持つかのような三木尾の発言に、岩崎カエラは同調した。

「うん。でも、そうよね。簡単には受け入れられないもんね。この遺体、どう見ても老化が異常に進んでいる。、老け過ぎているわ。ていうか、傷み過ぎ。それまで生きていたことの方が信じられない」

 三木尾善人は岩崎に鋭い視線を向けて尋ねた。

「死因は?」

 岩崎カエラはゴム手袋をした手で、遺体の胸の傷口の周囲を触りながら説明した。

「ここに付けてあった、何らかの補助装置を外した事が原因でしょうね。直接の死因は、急性多臓器不全。要は老衰ね。おそらく、その補助装置が生命維持装置だったのかもしれないわ」

 三木尾善人は緑色の粘液を染み出す遺体の傷口に目を凝らしながら、岩崎に尋ねた。

「体に固定していたのか。これ、ボルトの痕だろ」

 岩崎カエラは傷口の引き裂かれた皮膚の端を持ち上げ、中を三木尾に見せた。

「ええ。胸骨にまで達してる。この変色している部分に、かなり執拗に固定されていたようね。四つ角の方は圧迫痕が残っていて、ほとんど壊死に近い状態になってる」

 岩崎が指差した部分には、直角に近い形の深い窪みが出来ていて、黒く変色していた。同じ傷跡が、その胸の傷跡の四隅に付いていた。三木尾善人は微かに首を傾げると、箱の中に手を入れた。

「このケーブルは?」

 岩崎に尋ねた三木尾警部は、遺体の頭の後ろから両肩の上に伸びている電線のような物を指差した。その線は無理に引き千切られたようで、先端から線の中の細い毛の束のようなものを出していた。岩崎カエラはケーブルの先を握って持ち上げ、三木尾が見え易いように向けると、彼に説明した。

「たぶん、これが胸の生命維持装置と繋がっていたんだと思うわ。このケーブル中には、人工神経細胞で作られた繊維が詰められていた痕跡があるの。今は乾燥してご覧の通り崩れてしまっているけど」

 岩崎カエラはケーブルを置くと、遺体の頭部を左右の手で握り、そっと横に向けた。ケーブルが出ている後頭部の首の付け根の部分には切開された後があり、太い糸で縫合されている。岩崎カエラは言った。

「ケーブルの先は、ご想像の通り、脳に繋がっていた。主に脳幹部分に神経ケーブルの触手を張り巡らせていたみたい。脳幹網様体の活動が低下するのを防いでいたようね。でも、その触手の一部には、彼の大脳の奥や海馬まで伸びているものも在ったの。もしかしたら、人工神経ケーブルの成長を制御する事が出来なくなっていたのかもしれないわね」

「大脳か……」

 顔を顰めた三木尾善人は静かに首を横に振った。岩崎カエラは丁寧に遺体の頭部を元に戻す。三木尾善人は遺体の胴体や脚部を見回しながら岩崎に尋ねた。

「この爺さん、脳の他にも、随分といじっているみたいだな」

 岩崎カエラは流し台の上に置いていた端末を手に取ると、それを覗きながら答えた。

「うん。いろいろ分かっているわよ。ええと……背骨の一部を医療用バイオ・マテリアル・カーボン素材の加工骨に、左右の肺と大腸の一部を機械式の人工臓器に入れ替えているわ。心臓は合成細胞を使った人造心臓。胃と左右の腎臓は、IPS細胞再生臓器に変えたと思われる痕がある。眼球と視神経も再生したものに入れ替えているわね。それと、皮膚にも、無数の注射の痕が残っているわ。おたくの科研の第一法医科の分析では、血液中から人工カルシウムの成分と合成複合養分の他に、高濃度の細胞活性維持補助物質も検出されているようね」

「細胞活性維持補助物質?」

 三木尾善人は聞き返した。流し台の上に端末を戻した岩崎カエラは、三木尾警部の目を見て言う。

「つまり防腐剤よ。この箱の中に充填されているものと、ほぼ同じ」

「ゴホッ、ゴホッ……」

 二つの箱から少し離れた場所に立ち、防臭マスクの上からハンカチで口元を押さえていた村田リコが咳込んだ。それを見た岩崎カエラは、ゴム手袋を外して流し台の下のゴミ箱に放り込むと、その緑色の遺体の上に白布を戻し、ステンレスの箱のボタンを押した。高い排気音と共に蓋がゆっくりと閉まっていく。三木尾善人はその遺体をずっと見ていた。完全に蓋が閉じると、内部にガスが充填される音が響く。岩崎カエラは防臭マスクを外しながら、三木尾と村田に言った。

「部屋を移りましょう。向こうに例の物が置いてあるわ」

 三人は、その解剖室から外の廊下に出た。岩崎カエラは白衣のポケットに両手を入れながら廊下を歩いていく。横を歩く三木尾善人が尋ねた。

「高橋の体は、ほぼ死んでいたということか」

「ええ。そうも言える。老人のアンチ・エイジング処置にしては、やり過ぎよね。でも、その割りに、見ての通り老け過ぎている。私なら、こんな美容整形はしないわね」

 岩崎がそう答えると、三木尾善人は苦笑いしながら言った。

「確かにな。防腐剤を打ち込むまでして、あれじゃあ、若さを保とうとする気はしねえな。かえって逆効果だったのかね。歳取れば、誰だって老けて当然なのにな。誰だって、岩崎くらいの歳になれば、諦めがつくだろ。後は中身で勝負するしか……」

「諦めてません!」

 四十七歳の岩崎カエラは、少しムッとした表情で、三木尾を睨みつけた。岩崎カエラという女は明らかに実年齢よりも若く見えたし、スタイルも抜群に良かった。実際に、異性からはよくモテる上に、警察関係者からは男女を問わず憧れの的だったので、三木尾善人は少し彼女をからかったつもりだった。しかし、当の本人には、その自覚が全くと言っていいほど無いようだ。三木尾善人は下を向いて忍び笑う。すると、紙袋を提げて二人の後ろを歩いていた村田リコが、首を傾げながら言った。

「でも、九十五歳なら、十分にお爺ちゃんでしょ。警部の言うとおり、老けてるのは当然だし、そもそも、そんなに変わるものじゃないのになあ」

 振り向いた岩崎カエラは、片笑みながら村田に言う。

「九十五歳ならね」

 村田リコと三木尾善人は、怪訝な顔を見合わせた。岩崎カエラは高いヒールの音を鳴らしながら、先へと歩いていった。



                  二

 新首都の北西部に位置する山多やまた区には、緑の中に大学や国、民間企業の研究施設が点在する研究地域「桜森町ろうもり」があり、その一画に警察庁の科警研ビルは建っていた。この科警研では、警察捜査の様々な手法の研究やデータ解析、装備品の開発などを行っている。各都道府県警の科捜研に最新の情報を提供する科警研には、優秀な研究者たちが集められていて、彼らは物理、化学、工学、生物学、心理学、統計学など、様々な専門分野の最先端知識を駆使して、日夜、捜査方法の開発や改善に取り組んでいた。そのビルの十三階に、新たに設けられた研究室がある。警察庁長官の子越こごし智弘ともひろの命令により設置された「特別鑑定室」である。

 真新しい表札が取り付けられたドアを開けた岩崎カエラは、その「特別鑑定室」に三木尾警部と事務官の村田を招き入れた。短い廊下の奥に部屋があり、事務机の向こうに窓が見える。その廊下を少し歩いた彼女は、部屋に入ってすぐ右の応接セットを指差して、二人に座るよう促すと、自分は左の方に向かった。壁際に置かれたロッカーの隣から給湯室に入った岩崎カエラは、そこのミニキッチンで手を洗う。壁際に置かれた小振りな応接セットのソファーに腰を下ろした三木尾善人は、部屋の中を見回した。給湯室の入り口の向こうの壁際から、部屋の突き当たりの壁際はスチール製の本棚がL字型に並んでいて、一面が専門書で埋められている。その手前には大きなテーブルが置かれていた。テーブルのこちら側の辺に沿って両袖の事務机が二つ並べられている。窓側の机には、隅に立体電話機が置かれ、真ん中に置かれた立体パソコンの横にマグカップと適当に畳まれたタオルが置かれていた。そのマグカップの柄や、タオルが無地でどこかの会社から粗品として交付された物がわかる印刷がされている事、椅子のクッションの柄、散らかった机上に乱雑に重ねられた専門書などを見た三木尾警部は、その机が男性職員の机であろうと推理した。隣の入り口側の机にはメモリー・ボックスや旧式のデスクトップ・パソコンが置かれているが、立体電話は置かれていないし、ペン立てやティッシュペーパーの箱など、窓側の机にある物が無かった。三木尾警部はその机が使われていない物だと考えた。岩崎の机は、その大きなテーブルの窓側の辺に付けて置いてある机であろうと思われた。その机は窓を背にして置かれていて、ハイバックの肘掛け椅子に手動のマッサージ器具が掛けてある。分厚い書類の束が乱雑に置かれて散らかった机上には、立体パソコンの横に市松模様のマグカップが置かれていた。マグカップに薄っすらと残る口紅の跡を見て、三木尾警部はニヤリとする。その岩崎の机の後ろの窓は、部屋のこちら側まで並んでいて、手動のブラインドが掛けられていた。こちら側の窓の前にも、下の壁に付けて両袖の事務机が三つ並んでいたが、どの机にも分解した機械や、基盤、コードの束、ペンチ、半田コテといった工具が散乱していて、ただの作業机のようだった。その壁際の机と応接セットの間のスペースにも木製の広いテーブルが置かれていて、やはり上は工具や部品で散らかっている。こちらの突き当たりの壁には、反対側の壁と同じくスチール製の本棚が置かれていたが、書籍は立てらておらず、何かの機械のパーツらしき物が乱雑に並べられていた。三木尾警部と村田リコが並んで座っているソファーの後ろには、全開にされたままドア・ストッパーを下に挿まれた鉄製のドアがあり、その入り口から中の小部屋を覗くと、大型のサーバーが設置されていた。ドアの向こうの、この部屋の隅には、形を崩した段ボール箱が積まれている。いかにも理系の研究室といった感じのこの部屋には、大きな観葉植物も、洒落た家具も置かれていなかった。岩崎カエラが独身である事を知っている三木尾警部は、溜め息を吐いて項垂れた。

「ちょっと、見てきていいですか」

 村田リコがソファーから立ち上がり、事務机の向こうの広いテーブルの方に早足で歩いていった。

「勝手に触るなよ」

 三木尾警部は村田に忠告する。

 その広いテーブルの上には、台座に載せられた量子銃が何丁も並べられていた。こちら向きに置かれたどの量子銃の先端にも黄色いタグがぶら提げられている。量子銃は、テーブルの向こうの本棚の前にも無造作に重ねて置かれていた。

 岩崎カエラが両手にコーヒーカップを握って、給湯室から出てきた。片方のカップからは湯気が立っている。小走りで向かった村田とぶつかりそうになった岩崎カエラは、両手のカップを持ち上げた。

「おっとっと。ああ、コーヒー、置いとくわね」

「あ、すみません。ありがとうございます」

 村田リコは岩崎に一礼すると、すぐに向きを変え、量子銃が並ぶテーブルの方に駆けていった。岩崎カエラは呆れ顔で笑いながら、コーヒーカップを持って応接セットの所まで来て、三木尾の前に湯気が立っていない方のカップを置いた。

「はい、ぜんさんには、ぬるい方」

「どうも。ていうか、大丈夫なのか、あれ」

 三木尾警部は不安げな顔で、向こうの村田を視線で示した。村田リコは腰の後ろで手を組んで、興味深そうに机の上の量子銃を覗き込み、観察している。

 岩崎カエラは三木尾の向かいの席に腰を下ろすと、タイトスカートの中で足を組んで、少し後ろを向き、言った。

「たぶんね」

「たぶんって、おまえ……」

 岩崎カエラは前を向き、真剣な顔を作って三木尾に尋ねる。

「何か心当たりはない? リコちゃんに恨まれるような事。ここで光線を照射されたら、一瞬で消されちゃうわよ。何か言い残す事は?」

「あのな。部下に恨まれるような仕事はしてねえよ。退職前に縁起でもねえ事言うなよ」

 ソファーに身を倒した岩崎カエラは、勘繰り顔で言った。

「ホントかなあ。結構、石原君とか、中村君とか、こき使ってるんじゃないのお?」

 三木尾善人はぬるいコーヒーを啜りながら、片眉を上げた。

 背もたれから身を起こした岩崎カエラは、三木尾がコーヒーカップをテーブルの上に置くのを待って、今度は真顔で話した。

「それはともかく、ウチの方で、さっきの遺体の皮膚組織の一部を採取して、一から調べ直してみたの。別に、おたくの科捜研の技官の腕を信用していない訳じゃなくて、どうしても確認してみたかったから」

 眉をひそめて三木尾善人が尋ねる。

「何を」

 岩崎カエラは答えた。

「年齢よ。高橋博士の。どう見ても老け方が異常じゃない」

「結果は」

「驚かないでよ。DNA分析と薬物反応統計から導かれる彼の肉体の存在経過時間推定値は、年単位で一五〇オーバー」

「要するに、百五十歳以上って事か?」

「うん。おたくの科捜研の第二法医科が立てた予想とも一致してる。でも、今ウチがやっている精密計算では、測定の想定範囲を超える数値が出ちゃってるの。という事は、ほぼ確実に百五十歳は超えているはず。だとすると、もっと上の可能性は十分にあるし、いずれにせよ、人体組織の平均的な維持可能年齢をはるかに超えているってことよ」

 三木尾警部は腕組みをして頷いた。

「なるほど。それで、生命維持装置に防腐剤か。まさに『生ける屍』だな。で、その生命維持装置ってやつの正体は、分かったのか」

 岩崎カエラは再び背もたれに身を倒した。

「いいえ。まだ何の手掛かりも見つかっていないわ。そっちでは?」

「いいや。何も情報は無い。と言っても、俺達も移動の辞令が出たばかりだし、部署そのものが立ち上げられたたばかりって状況だからな。これから俺も資料を読み込むところだ。今夜と明日の飛行機の中で」

 岩崎カエラは眉を寄せた。

「あんまり無理すると、過労死するわよ」

 三木尾警部は苦笑いしながら言う。

「その時は、俺にも生命維持装置を付けてくれ」

 笑いながら顔の前で手を振った岩崎カエラは、真顔になって話を本題に戻した。

「でも、報告書の記載によれば、その生命維持装置らしき機械は西郷が外して持ち去ったとなっているわよね」

「ああ。例の文屋さん達の目撃証言だろ。記事でも、そう書いている。それが本当だとすれば、その生命維持装置っていうのが……」

 三木尾善人が話しながら視線を村田に向けると、村田リコは台座に載せられている量子銃に腕を回し、そのまま引き金に手を掛けていた。三木尾警部は咄嗟に大声を上げる。

「あぶねえ!」

 応接セットの方に銃口を向けて台座の上に置かれている量子銃から慌てて手を離した村田リコは、ソファーの上で上着の中に右手を入れて屈んでいる三木尾を見て、すぐに謝った。

「すみません!」

 三木尾警部は鬼のような形相で村田を睨む。

 岩崎カエラが笑いながら三木尾の方に手を一振りした。

「大丈夫よ。電源は入っていないから。それに、危険性もない」

「危険性が無いだと? どうして」

 岩崎カエラは落ち着いた口調で言う。

「後で説明するわ。ほら、善さん、銃から手を離して。そっちの方が危ないわよ」

 そして振り向くと、村田に言った。

「ああ、その台座には警報センサーが付いてるから、台座からは外さないでね。勝手に外すと、ビル全体で非常ベルが鳴っちゃうわよ」

「はーい」

 村田リコは呑気に返事をした。

 三木尾善人は上着の中でベレッタの安全装置を戻し、ソファーに座り直すと、上着から右手を出した。

 岩崎カエラは前を向き、中断した話を続けた。

「善さん。それより、さっきの高橋の年齢の話。文屋さん達によれば、高橋博士は、自分は第一実験で一九八一年にタイムトラベルしたと言っていたのよね。だとすると、第一実験当時の高橋の年齢が三十八歳だから、今は九十五歳のはずなのよ。それなのに、彼の肉体は一五〇歳を超えているのは、何故なのかしら」

「タイムトラベルの後遺症という奴か。田爪健三がインタビューで言っていた」

「でも、もしそうだとすると、一九八一年から通常よりも早いペースでの老化が始まっているはずだわ。仮に博士の肉体が一五〇歳だったとして、この五十七年間で進んだ老化が均等な速度だったとすれば、その老化の速度は通常の約二倍の速さだったことになる。もし、その速さで肉体が老化していたのなら、二〇二二年あたりで彼の肉体年齢は生物学的な限界年齢を超えてしまっていたはずなのよ。だから、骨や臓器を人工物に入れ替えたのは、その辺りの時代だって事になる。でも、その時代に、こんな医療技術は存在していなかったはずだわ」

「つまり、もっとずっと前に死んでいても、おかしくないと」

 岩崎カエラは頷いた。

「勿論、老化の進行速度が段階的に上がっていくという事も有り得るから、今の説明で後遺症による老化であることを否定できる事にはならないけど」

 三木尾警部は顎を触りながら言う。

「いいや。老化が過度に進むという後遺症の話の方がデタラメだと言う事も、あり得るな」

「まるっきり嘘ではないのかもしれないけど、そんなに影響は出なかったのかも。あるいは、第二実験で使用された田爪型マシン特有の欠点なのかもしれない」

 岩崎の見解に三木尾警部は首を傾げた。

「だが、それじゃあ、高橋の肉体が一五〇歳を超えている事が説明できないだろう」

「そこなんだけど、もしかしたら、高橋は何回も過去に戻っているのではないかしら。だから、一五〇歳を超えている」

 三木尾善人は少し考えてから尋ねた。

「って事は、田爪の説の方が正しかったって事か?」

 岩崎カエラは科学者らしく冷静だった。

「うーん。それは分からないけど。でも、そう考えれば、高橋がたった一人でASKITという巨大組織を作れたのも、年齢が一五〇歳を超えているのも、納得がいくわよね」

「成功するまで、やり直し続けたって事か。何度も過去に戻って。待てよ。そうすると、ある時期は複数人の高橋諒一がこの世に存在していたという事も、あり得るな。ったく、気色悪い」

 三木尾善人は顔を顰める。

 岩崎カエラは小声でボソリと言った。

「新日ネット新聞とか、新日風潮の記事にも、そういう話が書いてはあったわね」

 それを聞いて、三木尾警部は顔を曇らせた。

「警察関係者が、新聞や週刊誌のネタを追ってどうする。こっちは、そんなレベルで動いている訳じゃない」

「分かってるわよ。でも、どちらにしても、高橋博士は、累計で一五〇年以上の時間を実際に生きてきたという事は確かなの」

 三木尾警部は顰め面で首を傾げると、岩崎にまた尋ねた。

「田爪健三が残した医療データの方はどうなんだ。最終的にはASKITが手に入れたんだろ。そのデータを基に、老化抑制剤か何かを作って、打っていたんじゃないのか」

「老化抑制剤? 若返りの薬ですか?」

 本棚の前に積まれている量子銃を屈んで見ていた村田リコが、振り向いて目を大きくした。岩崎カエラは村田の方を向いて頷く。

「ええ。でも、その治療薬の開発はうまくいっていなかったようね。ていうか、無意味」

「無意味?」

 三木尾善人は眉間に深く皺を寄せて聞き返した。前を向きなおした岩崎カエラは、三木尾の目を見て言う。

「さっき見たでしょ。老化抑制剤を打ってあれなら、薬としての効果は無かったって事よ。それに、もし他に何らかの後遺症治療をしていたとしても、効果は無かったでしょうね。基にしたデータがデータだから」

「どういう事だ」

「この量子銃と同じ。使えないのよ」

「使えないだって?」

 目を丸くした三木尾善人は、その目を向こうのテーブルの上の量子銃に向けた。

「なーんだ。残念。じゃあ、これも、使えないんですか?」

 村田リコは、本棚の前に積まれている量子銃の中から一丁を持ち上げて、脇に構えた。三木尾善人が顰めて言う。

「だから、触るなって」

 村田リコは頬を膨らませた。

「カエラさんが大丈夫って言っているから、大丈夫ですよ」

 三木尾善人はソファーから腰を上げると、玩具のように量子銃を構える村田リコの方に歩いていった。ポーズをとっている村田の頭を叩く。

「痛いっ」

「置け。玩具じゃねえんだ」

「はい。すみません」

 村田リコはしゅんとして、量子銃を元の場所に置いた。

 三木尾警部は岩崎の方を見て言う。

「これは偽物なのか」

 岩崎カエラもソファーから立ち上がり三木尾の方に歩いてきた。彼女は首を横に振る。

「いいえ。この量子銃は、ASKITの拠点島から軍が回収した物。本物よ。軍の方で散々いじられた後で、ウチに回ってきたわ。科警研で分析しろですって」

 三木尾善人は顰めたまま口を開ける。

「ああ? 軍の方で解析が済んでいるのか。それでどうして、警察に分析結果の情報が回って来ねえんだ」

 岩崎カエラは両手を上げた。

「さあ。例の縦割り行政ってやつかしらね。それに、国防省は決して軍事情報を外には出さないわ。たとえ国内の治安に関する情報でもね」

「冗談じゃない。一瞬で人間を消せる銃器だろう。現実に百三十人も消されてるんだぞ。警察には知らせるのが、筋だろうに」

 岩崎カエラは顔の横で手を振る。

「あの人たちの筋は違うのよ。それに、解析した結果、使えない物だと分かったから、あっさりと警察に回してきたのかもしれない」

 三木尾善人はテーブルの上の台座に載った量子銃に厳しい視線を向けながら、隣の岩崎に尋ねた。

「撃ってみたのか」

「ええ。どれも、初回の射撃実験でフォールト。以後は反応なし。その黄色いタグが付いているのが、実験済みの物よ」

 三木尾警部はテーブルの上と、本棚の前を見回しながら言った。

「これ、ほとんど全部じゃねえか」

「ええ。『ほとんど』じゃなくて『全部』。あと、今は別の場所に保管してある、状態のいい量子銃が何本か残っているけど、たぶん、結果は同じね」

「初回の射撃の結果は」

「食肉を使って実験してるんだけど、光線が当たった部分が多少腐食する程度。たいした影響は無いわ」

 三木尾警部は険しい顔で、改めてテーブルの上の量子銃を見回しながら呟いた。

「ASKITの連中が製造した量子銃は、ポンコツって事か……」

 岩崎カエラはあっさりとした口調で言った。

「詳しい分析と実験はまだ続けるけれど、現時点では、そういう結論ね。ちなみに、量子エネルギー循環プラントも疑わしいわ。拠点島の残骸を基に再現してみた小型模型の実験レベルでは、まったく機能しない。再現が上手くいっていない可能性も大きいけど、新日の記者さん達の話では、あのプラントは初期の部分稼動の後で、すぐに停止したらしいのよね。たぶん、プラント自体に問題があって、そもそも完全に稼動するものではなかったんじゃないかしら。だとすると、きっとASKITが手に入れた田爪博士の医療データも、使えるものではなかったのかもしれない」

 三木尾警部は溜め息を吐いてから、言った。

「だから高橋は加齢を抑える事が出来なかった。だとすると、やはりタイムトラベルの後遺症という線も、捨てきれないんじゃないか?」

 岩崎カエラは、はっきりと頷く。

「そうなるわね。でも、そうすると、田爪博士の残したデータに問題があったという事になるわ」

 三木尾善人は、物怪顔をして言った。

「なんだ? 田爪健三って男は、似非えせ科学者だったのか?」

 岩崎カエラは、またはっきりと首を横に振る。

「いいえ。そんなはずは無いわ。彼は間違いなく天才だった。実際に、あの永山とかいう文屋さんの目の前で、最新式のイヴフォンの構造を分析してみせたし、物資が十分ではない南米戦地の山奥でバイオ・ドライブにデータを書き込んでいる事自体が驚異的よ。何を使って、どうやって書き込んだのか、私達にはさっぱり分からない。それに、彼が作ったタイムマシンは、現実に起動して時空間移動をした訳だし、量子銃だって使って見せた」

 三木尾警部は厳しい顔を岩崎に向ける。

「それは被害者がいるんだ。誉められた事じゃねえよ」

 岩崎カエラは科学者として答えた。

「量子銃が実際に機能したという事実を言っているのよ。それに私、生前の田爪博士とは少し面識があったの。私が大学の一年生の時、彼は三年生だった。それで、時々ゼミの研究室で一緒になる事があって」

「どんな奴だった」

「うーん。孤高の天才って感じだったわ。なんとなく、独特のオーラがあって、理科学生の誰もが、近づけなかった」

 三木尾善人は片笑みながら言った。

「近づかなくて良かったな。今頃、消されていたかもしれんぞ。とんだ先輩を持ったもんだ」

 岩崎カエラは口を尖らせる。

「でも、やさしくて、いい人だったわよ。学生の頃の印象は、そんな感じ」

「その『いい人』が、百三十人も処刑した訳か。そんじゃ、俺は神様レベルだな」

「でも、彼の理科学的な才能は、まさに『神』って感じだったわね。だから、彼が間違ったデータを書き込むはずはないと思うんだけど」

「聖書では、悪魔も『出』は天使だからな。それに、弘法にも筆の誤りって事もあるぞ。やっぱり、田爪が間違っていたんじゃないか」

 すると、二人の後ろで腕組みをして話を聞いていた村田リコが、突然、声を上げた。

「ええ! じゃあ、量子エネルギーを使った発電所も、できないんですか。電気代が安くなると思ったのにい!」

 振り向いた三木尾善人は、呆れ顔で言う。

「今頃そこに反応したのか。お前は話の流れに乗るって事が出来んのか」

 村田リコは首を竦めた。岩崎カエラはケラケラと笑いながら自分の机まで移動すると、立体パソコンを操作して、その上に何かの設計図をホログラフィーで表示させた。彼女はそのホログラフィー画像をテーブルの向こうの三木尾と村田から見やすい大きさに拡大させると、パソコンから手を離して言った。

「これは、ASKITが例の拠点島に建設中だった量子エネルギー循環プラントの設計図よ。建設現場の建築用ロボットから軍が回収したものらしいわ。おそらく、バイオ・ドライブの中からASKITが引き出したものでしょうね」

 三木尾警部は怪訝な顔をする。

「じゃあ、田爪が作った設計データのコピーか」

「ああ! 電気代が安くなる!」

 村田リコは目を輝かせた。岩崎カエラは真面目な顔で首を横に振る。

「分からない。でも残念ながら、この設計図を基にした実験レベルでは、この量子エネルギー循環プラントは稼動しない事がはっきりしているわ。専門の学者の意見でも、設計図に矛盾点が多過ぎるという事よ。耐熱構造に問題があって、数回の稼動で配管が破損するのは当然だって。ASKITの拠点島にあった現物の方も、国防軍の赤鬼さん達が滅茶苦茶に壊してくれたから、現状ではお手上げね。解析のしようがない。だから、量子エネルギープラントを復元するのは不可能に近いわね。電気代の値下げは、あきらめましょ」

「えー」

 村田リコは残念そうに項垂れた。三木尾警部は真顔で確認する。

「その設計図のデータも、軍が回してくれたのか」

「いいえ。こっちはGIESCOから」

「GIESCO? ストンスロプ社の研究機関じゃないか。民間企業から、どうして」

 岩崎カエラはホログラフィーを消しながら、事情を説明する。

「ストンスロプ社は、国防軍に顔が利くのよ。多種多様な軍用兵器を納入しているみたいだし。それに噂では、辛島総理を影で支援しているとか。だから、軍が回収したデータのうち、軍の専門外のものは、GIESCOに回ったのでしょうね。それで、用が済んだから、ウチに回ってきた」

 三木尾善人は腕組みをして言う。

「警察の捜査を何だと思ってるんだよ。まったく。なあ、リコちゃん」

「まったく」

 村田リコは三木尾の真似をして腕組みをすると、頬を膨らませた。

 岩崎カエラは本棚とテーブルの間を歩きながら言う。

「実は、この量子銃の解析も、プラント設計図の分析も、子越長官からの直接の命令なの。この特別鑑定室っていうラボ・セクションも、今月になって特別に組まれたもの。私は物理研究室から、そこの机に座っている小久保くんって子は機械工学研究室から急遽、異動になった。警察庁がこんな急な人事措置をして動いたという事は、何か官邸から指示が出たって事でしょ。つまり、ストンスロプ社が裏で糸を引いている可能性もある。総理も何か特別な意図があるのかも。善さんを南米行きに指名したのも、きっと何か目的があるからかもしれないわよ」

 三木尾善人は険しい顔で頷いた。

「ああ、たぶんな」

 するとまた村田リコが甲高い声を上げた。

「ええ! 警部、南米に行くんですか」

「だから、行くって言ったろ。明日の飛行機で」

 村田リコは目を大きくして三木尾の顔を覗き込む。

「じゃあ、お土産を期待してもいいですね」

 三木尾善人は村田の鼻先に人差し指を突き付けた。

「あのな。観光旅行に行くんじゃないんだよ。捜査だ。捜査」

 岩崎カエラが口を挿んだ。

「その捜査の為の参考になればと思って、連絡したんじゃない。ま、そっちの資料も欲しかったんだけど」

 三木尾善人は頭を掻きながら言った。

「ああ。感謝しとるよ。お蔭で随分と参考になった。量子銃の現物を見る事が出来ただけでも大収穫だ。これで随分と動き易くなった」

「じゃあ、その見返りとして、しっかりお土産を買ってきてもらわないとね。ねえ、リコちゃん」

「ですね」

 岩崎と村田は顔を見合わせて頷く。

 三木尾善人は眉を八字にして項垂れた。

「ですねじゃないだろ。南米だぞ。第一級戦闘区域だった所だぞ。危ないんだぞ。マジで。土産物なんか売っている訳ないだろうが」

「なーんだ。残念」

 村田リコは口を尖らせた。

 三木尾善人は村田を一瞥すると、岩崎に顔を向けた。

「岩崎も岩崎だ。もう少し気合入れて仕事しろ。もし南米で使用されていた量子銃が日本に密輸されたら、どうする。お前が量子銃をしっかり分析してくれないと、現場の警官は恐くて仕事が出来ねえだろ。頼むぞ」

 岩崎カエラは胸を張り、堂々と答えた。

「分かってるわよ。大船に乗った気でいてちょうだい。量子銃くらい、チャチャッと分析できますから。任せなさいって」

「お前が優秀なのは分かってるが、そのお前でも、例の田爪瑠香の論文では、随分と苦労したんだろ? ホントにちゃんと解かるんだろうな。この量子銃は殺人事件の重要な証拠物件なんだぞ。公安もASKITが何をしてきたか明らかにしようと必死になっている。お前の腕に掛かってるんだからな。本当に大丈夫なんだろうな」

「失礼ね。私を誰だと思ってるのよ。科警研の岩崎カエラよ。悪者共がやった事は、科学的にバシッと証明して見せるわよ。バシッとね。悪事に科学の前を素通りさせやしないわ」

 岩崎カエラは不敵な笑みを浮かべながら、力強く遠くを指差した。





                  三

 閉じられたブラインドの間から朝日が射し込む特別鑑定室に、中背の青年が入ってきた。手には紙袋を抱えている。小久保こくぼ友矢ともやは、黄色いタグを提げた何丁もの量子銃が台座に立てられているテーブル沿いに二つ並べて置かれた机の窓側の席に紙袋を静かに置くと、

 窓を背にした机の上でうつ伏せている岩崎カエラの方まで歩いていった。机の上で寝ている岩崎カエラは横にイヴフォンを置いている。小久保友矢は、その起動したままのイヴフォンにそっと手を伸ばし、脳内画像投影の機能を停止させようとした。すると、気配に気付いた岩崎カエラが顔を上げた。彼女は虚ろな目で小久保を見つめる。小久保友矢は言った。

「おはようございます、主任。イヴフォンで3D画像を見たまま寝るのは、脳に良くないですよ」

 岩崎カエラは半開きの目で机の上のイヴフォンを見つめて、ぼやけた声を出す。

「ええ。――ああ……」

 岩崎の机の上から市松模様のマグカップを取った小久保友矢は、給湯室まで歩きながら岩崎に尋ねた。

「まさか、昨日も泊まったのですか」

 岩崎カエラは欠伸あくびをしながら答える。

「ふうぁああ。土曜から。ああ、肩が痛い」

 岩崎カエラは肩を押さえながら首を回した。給湯室に入った小久保友矢は、岩崎のマグカップを軽く濯ぐと、ミニキッチンでコーヒーを入れながら岩崎に言った。

「土曜って、二日と三日、連チャンで泊まったんですか? 三十日と一日も泊まりでしたよね。だから土日は休むって言ってたじゃないですか。ホントに……体を壊しますよ。たまにはベッドで寝ないと」

 岩崎カエラは目頭を押さえながら、両肩を上下させたり、首を左右に倒したりした。少し曲がったブラウスの襟を整え、手櫛で髪を軽く整える。小久保友矢が湯気を立たせたマグカップを左右に持って、給湯室から出てきた。歩いてきた彼は、自分の席に自分のマグカップを置くと、机の上の紙袋を取って岩崎の机の横に来て、それと市松模様のマグカップを机の上に置いた。

「こんな事だろうと思って。はい、朝食です。それとコーヒー」

「ああ。ありがと」

 小久保友矢は岩崎の席の後ろのブラインドを開けながら言った。

「主任が苦手のピクルスは、抜いてもらっておきましたから」

「サンキュー」

 力の無い返事をする岩崎に、小久保友矢は窓のブラインドを順に開けながら言った。

「だいぶ疲れてますね」

「大丈夫。少し、寝ぼけているだけ……」

 岩崎カエラは眩しそうに目を擦りながら椅子から腰を上げると、本棚とテーブルの間を給湯室の方へフラフラと歩いていった。自分の席に座った小久保友矢は、岩崎を目で追いながら言う。

「僕、土日を休ませてもらえたんで、だいぶ寝れましたから、主任、今日は早く帰って寝て下さいよ。ちゃんと布団に入って」

「うん。そうしたいけど、そうもいかないでしょ。これの真偽をはっきりとさせないといけないんだから」

 岩崎カエラは、テーブルの上の量子銃に提げられた黄色いタグを指で弾いてから、給湯室へと入っていった。ミニキッチンで顔を洗う岩崎に、小久保が言う。

「どうして、もう少し人員を回してくれないんですかね。主任も僕も、この一ヶ月、ほとんど家に帰ってないですよね」

 タオルで顔と濡れた前髪を拭きながら、岩崎カエラは答えた。

「仕方ないじゃない。科警研の第二物理研究室で量子力学をかじっているの、私だけだし、機械研究室の研究員で生物工学にも詳しいのは、小久保君しかいないんだから」

「だけど、あと何人か補助研究員を入れるとか、アシスタントのアルバイトを雇うとか、何とか出来なかったんですかね。本来なら、あと三人は欲しいところですよね。そしたら、僕も大分手が空いて、いろいろと助かるんですけどね」

 歯ブラシを咥えた岩崎カエラが、給湯室から顔を出した。

「私は、小久保君がいて助かっているけどねえ」

「何言っているんですか。主任こそ、働き過ぎじゃないですか。今週の土日は、ちゃんと帰って下さいよ。週末は休むっていう約束だったんですから」

 岩崎カエラは歯ブラシを動かしながら答える。

「はいはい。分かりました。ほうはへへほらうわ(そうさせてもらうわ)」

 コーヒーを一口啜った小久保友矢は言った。

「ああ、それから。警視庁の三木尾警部、帰ってきたみたいですよ。南米から」

 口の中で膨らんだ歯磨き粉の泡を吐き出した岩崎カエラは言う。

「あら、そう。遅かったのね。何かあったのかしら」

「電話してみたらどうです?」

 一度口を漱いだ岩崎カエラは、小久保に言った。

「向こうから掛かってくるわよ。おい岩崎、ちょっと調べて欲しい事があるってね。彼のことだから、また何かややこしい物でも見つけたんじゃないの」

 小久保友矢は溜め息を吐く。

「はあ。勘弁して下さいよ。こっちは手一杯だって言うのに」

 口を漱ぎ終えた岩崎カエラは、給湯室の中から小久保に尋ねた。

「あ、そうそう。シャワー室の方も一杯かしら。混んでた?」

「いや、女性用のシャワー室のことは分かりませんけど、男性用は空いているんじゃないですかね」

 タオルで口を拭きながら給湯室から出てきた岩崎カエラは、真顔で答えた。

「男性用のシャワー室を使う訳ないでしょ」

 タオルを首に掛けた岩崎カエラは、小久保の席の後ろを歩きながら、痛んだ茶色い革ベルトの腕時計を見て言った。

「そっか。じゃあ、後で行ってみるかな。でも、いっぱいだった時に戻って来るのが面倒なのよね。かといって、廊下で待っとくのも時間が勿体ないし……ん、何してんの?」

 岩崎カエラは、立体パソコンの上にホログラフィー画像で建物図面を表示させている小久保に尋ねた。小久保友矢は図面の上に表示させている数字を指差しながら説明する。

「ここの防災点検マップを見ているんです。リアルタイムのやつ。このビルの建物図面に各部屋の入室状況がマーキングされるんですよ。火災の時とかの救助漏れが出ないように」

「へえ、そうなんだ」

 岩崎カエラは首に掛けたタオルを握ったまま、小久保の肩越しにそのホログラフィー画像の図面を覗き込んだ。小久保友矢は言う。

「コレを見れば、ここからでも、女性用のシャワー室に今、何人いるかが分かります。ああ、一応、言っておきますけど、誰が使っているかとか、中の様子とかは分かりませんからね」

「うわあ、気が利くう。さすが小久保君」

 岩崎カエラは小久保の肩を叩いた。小久保友矢は眉を寄せて言った。

「閲覧の記録は、端末単位で取られるんですからね。僕が変態扱いされたら、ちゃんとフォローして下さいよ」

「オッケー、オッケー。小久保君のいい人っぷりは、ちゃんと私が証明してみせるわ。任せなさい」

 そう言いながら、岩崎カエラは自分の席に戻った。小久保友矢はホログラフィー画像にで表示されたシャワー室の数字を見て、残念そうな顔をする。

「ああ、いっぱいですね。女子の方は、たしか四人分でしたよね、中のシャワー」

「あらら、そうか。じゃあ、もう少し待つしかないか。女のシャワーは長いからね」

 そう言って、岩崎カエラは小久保が入れてくれたコーヒーを啜った。小久保友矢は項垂れる。

「とホホ。空くまで、ずっとコレを開いておくのか。じゃあ、書類の整理でも……」

 マグカップを持ち上げたまま停止した岩崎カエラは、宙の一点を見つめて、言った。

「ねえ、小久保君」

「はい」

「建設省から届いた量子エネルギープラントの設計図面があったわよね。資源エネルギー省が作成して、建設省に建屋の構造計算を依頼したままストップになっているもの。あれ、見れる?」

 岩崎カエラは立ち上がり、マグカップを持ったまま小久保の後ろに移動した。小久保友矢は、端に浮かんでいたホログラフィー・アイコンを掴んで中央に移動させ、少し拡大したアイコンの中を探す。

「ええ。ちょっと待って下さい。ええと、たしか、ここに……」

 小久保友矢はアイコンのホログラフィー画像の横にサムネイル表示される小さな画像を見ながら言った。

「ああ、在りました。これです」

 小久保がホログラフィー画像で表示させた図面を見つめながら、岩崎カエラは言った。

「うーん。さっきの、ここのビルの図面をもう一度見せて」

 小久保友矢はホログラフィー画像を科警研ビルの図面に切り替えた。岩崎カエラは小久保の後ろに立ってそれを見つめたまま、コーヒーを啜る。マグカップを小久保の隣の机の上に置いた彼女は、更に小久保に注文した。

「じゃあさ、ASKITから軍が回収した量子エネルギー循環プラントの設計図面を見せて。田爪博士が作ったやつ。ごめんね」

 小久保友矢は、さっきの箱型のホログラフィー・アイコンの中から注文された図面のホログラフィー画像を引き出すと、それをパソコンの上に広げて浮かべた。岩崎カエラは更に指示する。

「ちょっと、全部並べてもらえるかしら。縮小されても構わないから」

「こうですか」

「うん。有り難う」

 小久保の立体パソコンの上に三つの図面が並んで浮かんだ。岩崎カエラは小久保の肩の上から図面に顔を近づけて、それらを見比べる。小久保友矢は尋ねた。

「どうしたんですか。建設省の図面と田爪の図面のシステム的相違点と共通点は、全部洗い出したじゃないですか。まだ、何かあるんですか。それに、この政府が作った設計図では、結局、うまく稼動しないんですよね。田爪の設計した図面でも同じですけど」

「ううん。そうじゃなくて、この二つと田爪博士の図面は、何かが違うのよね」

「というと?」

 岩崎カエラは少し顔を離して、再度観察しながら言う。

「この田爪博士の図面の方は、なんかこう、単調というか、クール過ぎると言うか、シンプル過ぎるというか……。そうねえ……機械的。そう、機械的な感じがするのよ。効率とか機能性が優先され過ぎているように見えない?」

 小久保友矢が図面を見つめながら戸惑っていると、岩崎カエラは田爪の図面を指差して説明した。

「例えば、ここ。ここの階段の所を拡大してみて」

 小久保友矢は言われたとおりに拡大表示させる。岩崎カエラは言った。

「これ、螺旋らせん階段でしょ。設置スペースをとらないから、効率はいい。でも幅も狭いし、こんなに何回もグルグル回っていたら、目が回るわよね。私なら、使う気がしないわ」

「そうですかね。マンションとかには、非常用に高層階まで設置されていますけどね」

「じゃあ、ここの通路は? 熱線通過パイプが目の前を通ってるのよ。手が届くくらいの距離でしょ。普通なら、恐くて誰も通れないから、ここに通路は持ってこないんじゃないかしら」

 小久保友矢は腕組みをして、首を傾げる。

「うーん。まあ、基本的に工場ですからね。ホテルやテナントビルではないので。こんな感じなんじゃないですかね」

 岩崎カエラは右端の図面を指差しながら、首を横に振った。

「ううん。同じプラント施設なのに、政府が作った設計図では、そんな所は見当たらない。もちろん、ここの図面も」

 ホログラフィーの画面から顔を離し、体を起こした岩崎カエラは言った。

「普通、物を設計する時は、使い勝手とか、安全性とか、メンテナンスを楽に出来るようにとか、機能性の他にも、いろいろ考えて設計するでしょ。こっちの田爪博士の設計図面には、そういった気配りが何もされていない。見事なほどに。まるで、コンピュータが書いた判決書のようだわ」

 岩崎カエラは、横の机に置いたマグカップを取ると、自分の席に速足で戻っていった。小久保友矢は彼女を目で追いながら言った。

「主任。量子銃の構造分析と高橋の死因解明だけで、こんなに時間が掛かっているんですよ。量子エネルギープラントなんていう建造物の解析なんて、僕らだけでは無理ですよ」

 椅子に座った岩崎カエラは、黙ってホットドッグを齧った。小久保友矢は隣の机に置いた分厚い資料を持ち上げて見せる。

「それに、これ。警視庁から取り寄せたASKITの保管資料。田爪が修正した新AT理論の論文だって、こんなに分厚いんですよ。普通ならノーベル賞ものの、こんな難解な理論の論文を、どうやって数日で理解しろって言うんですか。時間が足りないですって」

 岩崎カエラはホットドッグを頬張りながら頷いた。

「うん。それ、昨日一日かけて、ざっと読んでみたんだけど、それも何か違うのよね。たしかに難解過ぎて、よくは理解できなかったけど、読後感として、こう……変な感じなのよね。訴えるものが無いというか、情熱が感じられないというか」

「ええ? これ、もう読んだんですか?」

 小久保友矢が目を丸くすると、岩崎カエラはコーヒーを一口飲んでから答えた。

「ざっとね。斜め読みよ。でも、前に私が昔読んだ、田爪健三の論文や研究レポートとは、何か違う印象を受けたわ。それに、田爪瑠香さんの論文とも違う。なんて言うかな……単なる文字とデータの羅列に近い感じね、それ」

 小久保友矢は資料を膝の上に載せて頁を捲りながら言う。

「これ、量子プラントの設計図とかと一緒に、例のバイオ・ドライブにデータとして入っていたんですよね。ASKITがコピーして保管していた。あの高橋博士は、これを基に大型のタイムマシンを作ったんでしょ」

「ええ。でも、そもそも本当に田爪博士が書き込んだデータなのかしら。もしかしたら、それ、偽物かもね」

 岩崎カエラは、そう言ってホットドッグを齧った。

 小久保友矢が聞き返す。

「偽物? じゃあ、本物は、もう一つのドライブに入っているって事ですか?」

「もう……ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」

 パンを喉に詰まらせて、岩崎カエラは咳き込んだ。小久保友矢が駆け寄り、市松模様のマグカップを渡す。受け取ったマグカップのコーヒーを飲んで喉を流した岩崎カエラは、涙目で言った。

「ありがと……」

 もう一口コーヒーを飲んで喉を整えると、彼女は小久保に尋ねた。

「もう一つのドライブって何?」

 小久保友矢は岩崎の机の上に乱雑に積み重ねられている資料ファイルの中の一つを指差して言った。

「あれ。こっちは読んでないんですか。赤崎教授の研究日誌。前の方の頁に書いてありましたよ。当初、バイオ・ドライブは赤崎教授と殿所教授に、NNC社から、それぞれ一台ずつ提供された旨の記載がありました」

 マグカップを置いた岩崎カエラは聞き返す。

「それぞれって、じゃあ、二台あったということ?」

 ホットドッグを咥えた岩崎カエラは、慌てて上の資料を横に置いていった。小久保友矢は資料に押されて倒れる前に、市松模様のマグカップを持ち上げる。彼は答えた。

「そうみたいですね。一台は赤崎教授を経て田爪健三に。もう一台は、殿所教授から……誰の手に渡ったのでしょうね。まだ、どの資料にも出てこないという事は、見つかっていないって事ですもんね」

 さっき小久保が指差した資料を取った岩崎カエラは、机の上でそれを開くと、ホットドッグを握った手で頁を捲りながら言った。

「殿所教授なら、高橋に渡った可能性が大きいじゃない」

 横に立っている小久保友矢は首を傾げた。

「でも、それなら高橋はどうして、田爪が過去に送ったバイオ・ドライブを狙ったのでしょう。自分も持っているはずなのに。おそらく、そのバイオ・ドライブを生命維持装置に応用したんですよね。自分の手許にあるなら、それを使えばいいだけじゃないですか。どうして、わざわざ司時空庁から盗み出してまで……」

「……」

 岩崎カエラはホットドッグを齧りながら、赤崎教授の研究日誌の該当箇所を念入りに読んでいく。小久保友矢が握っていたマグカップを差し出すと、彼女は資料に目を落としたままそれを受け取り、読みながらコーヒーを啜った。小久保友矢は自分の席に戻り、立体パソコンの上に浮かんだ図面を消そうとする。手を止めた小久保が声を上げた。

「ああ! 空きましたよ、シャワー室。三人になってます」

 資料を閉じた岩崎カエラは、マグカップとホットドッグを左右の手に握ったまま立ち上がった。

「あっそう。じゃあ、ひとっ風呂浴びてくるわ」

 その言い方に、小久保友矢は呆れ顔をする。

「オヤジですか、まったく」

 駆け出した岩崎カエラは、小久保の席の後ろで立ち止まり、彼に言った。

「あ、それから、この前のASKIT掃討作戦についての記事、適当に集められるかな」

「ええと、一階のロビーに行けば、新聞閲覧用の端末がありますから、主な過去の記事も探せると思いますけど」

「わかった。一階のロビーね。じゃあ、まず、急いでシャワー浴びてくる」

 そう言って駆けていく岩崎を、小久保友矢は慌てて呼び止めた。

「ああ、主任。コーヒー持ったままですよ」

「ああ」

 岩崎が差し出した市松模様のマグカップを受け取った小久保友矢は、岩崎のもう片方の手を指差して言う。

「ほら、パンも」

「これは、向こうで食べる」

 そのまま岩崎カエラは急いでロッカーからバッグを取り出すと、それを肩に掛けて、ホットドッグを咥えたまま廊下に掛け出ていった。

 岩崎のマグカップを持ったまま彼女を見送った小久保友矢は、首を傾げた。

「向こうで?」

 ロッカーの扉は、開けられたままだった。



                  四

 科警研ビルの一階エントランスに置かれている来客用の応接ソファーに、岩崎カエラと小久保友矢は対座していた。薄いパープルのシャツを胸の谷間の所まで釦を外し、上に白衣を着ている岩崎カエラは、 頭からかけたバスタオルで濡れた髪を拭きながらシート式の電子新聞とタブレット型の電子雑誌を読み比べている。膝の上にタブレット型端末を置いている小久保友矢は、そんな岩崎を呆れ顔で見ながら、言った。

「あの、主任。髪くらい乾かしてきたら、どうです? みんな見てますよ。それに、スッピンだし……」

 首にバスタオルを掛けた岩崎カエラは、シート式の電子新聞の左右の棒を合わせると、再び開いてシート上の新聞画像の頁を捲りながら言った。

「美人はね、素顔が一番美しいのよ」

「まあ、否定はしませんけど」

 小久保友矢がそう言うと、電子新聞を少し下ろした岩崎カエラが彼の顔をじっと見つめた。小久保友矢は顔を引く。

「な、なんですか……」

「よし。加点評価。ピクルスも抜いてきたから、今月はプラス十点」

 岩崎カエラは再び電子新聞を持ち上げた。小久保友矢は肩を落とす。

「たああ。オヤジが入ってなければ、言う事ないんですけどね……」

 岩崎カエラがまた電子新聞を下ろした。

「ん? 何か言った?」

「いえ、別に」

 電子新聞をテーブルの上に置いた岩崎カエラは、横に置いていたタブレット型端末の向きを変えて、小久保の前に出した。

「ねえ小久保君。これ読んだ? 新日風潮の春木って記者の記事」

 小久保友矢は膝の上の端末を横に置き、岩崎が差し出した端末を覗いた。「週刊新日風潮」の頁が開かれて表示されている。記事の右隅には、その記事を書いた春木陽香の顔写真が小さく載っていた。岩崎カエラはその写真を指差しながら言う。

「この子、司時空庁の記者会見の時に、津田に必死で質問していた若い記者よね。端の方に座ってた」

「ああ、テレビで見ました。前から見ると、結構、可愛いんですね」

「記事、記事」

 小久保友矢は岩崎の顔を一瞥すると、記事の本文に目を投じた。岩崎カエラは言った。

「バイオ・ドライブの事が書いてあるでしょ」

 小久保友矢は記事を読みながら頷く。

「ええ……」

「ドライブに傷が在ったって書いてある」

「ええと……そのバイオ・ドライブの傷を見て、瑠香は運命を悟ったのかもしれない……か。随分と情緒的な文面ですね。雑誌の売上向上を狙った演出じゃないですか」

 そう言って小久保友矢が首を傾げると、岩崎カエラも首を傾げた。

「どうかしら。あの子の津田への質問……というより、詰問は、真に迫るものがあったわ。他の誰よりも純粋に、関係者の思いを取材していると感じられたの。見ている方も、胸にグッと来るものがあったし。そんな子が、記事に事実ではない演出を書き加えるかしら。私はしないと思う」

「まあ、記事の信憑性の根拠としては弱いですけど、その点は同感です。僕も胸を打たれました。でも、仮にドライブに傷が付いていたとして、それがどうしたんです?」

 岩崎カエラは、ソファーから少し身を前に乗り出して言う。

「だから、もしもよ。もしも田爪瑠香が、バイオ・ドライブの傷が同じものではなく、違う傷であると気づいたのだとしたら、どう?」

「――?」

 小久保友矢は眉間に縦皺を刻んだ。岩崎カエラは推理する。

「田爪瑠香は、夫の田爪博士から貰ったバイオ・ドライブを持って、南米に行ったのよね。そのバイオ・ドライブには、二〇二一年の仮想空間内実験の際に付いた傷があった。その後、田爪博士が永山記者に渡し、彼はそれをタイムマシンに乗せた。永山記者が南米から飛ばしたタイムマシンは、二〇二五年に行ったんでしょ。それで、どうしてか大爆発が起こって、その焼け跡から防災隊員がバイオ・ドライブを発見した。そのバイオ・ドライブは司時空庁に保管され、そこからASKITが盗み出した。でも、そのASKITの高橋は、以前から別のバイオ・ドライブを持っていた可能性がある訳じゃない。つまり、この時点で、この世には三つのバイオ・ドライブが存在したことになる。そのうち、二つのバイオ・ドライブの外観が同じだと仮定して、どこかで、それらのうち二つが入れ替えられたって事はないのかしら。例えば、高橋博士がもともと所持していたバイオ・ドライブと、田爪博士から瑠香に渡ったバイオ・ドライブが入れ替えられた。田爪瑠香は、その事に気づいたから、口封じの為にタイムマシンに乗せられて、渡航させられた……とか」

 小久保友矢は苦笑いしながら、首を横に振る。

「いやいやいや。推理小説の読み過ぎじゃないですか。ちょっと、飛躍し過ぎですよ」

「でも、そっくりの傷くらいなら、簡単に作れるでしょ。ところが、バイオ・ドライブの傷をいつも見ていた瑠香の目は騙せなかった。瑠香に本物のバイオ・ドライブの返還を迫られた高橋諒一は、彼女諸共、証拠の隠滅を図った」

「高橋やASKITが、どうやって瑠香を司時空庁のタイムマシンに乗せるんです? 司時空庁の津田長官は、アンチASKIT派なんですよ。それに、入れ替える目的は何なんですか。まだ、南米の田爪の手に渡っていない空のバイオ・ドライブを、どうして、すり替えてまでしてASKITが入手する必要があったんです? やっぱり、そのストーリーは、かなり無茶がありますよ」

 岩崎カエラは腕組みをして高い天井を見上げた。

「うーん。それも、そうねえ……」

 小久保友矢は、その端末の表示を消すと、さっき横に置いた端末をその上に重ねて、岩崎に言った。

「さあ、主任。もう推理ごっこは終わりにして、ラボに戻りますよ。実験とかデータ整理とか、やるべき事が山ほど残っているんですから」

 岩崎カエラはバスタオルで髪をくしゃくしゃと拭きながら言った。

「ああー、もう。何か突破口があると思ったんだけどなあ……」

 小久保友矢は幼子をあやすように言う。

「気になるようでしたら、この記事も他の記事も、検索でヒットした記事は全部、主任のパソコンに送っておきますから」

 ベルトが痛んだ古い腕時計を一瞥した岩崎カエラは、首にバスタオルを掛けたまま立ち上がる。

「うん。お願い。私、メイクしてくるわ。やっぱ、女は化粧しないと駄目ね。本調子が出ない」

 岩崎カエラはヒールの音を鳴らして、向こうに歩いていった。小久保友矢はもう一度端末を膝の上に乗せると、パネルの上で指を動かして操作した。すると、背後から声がした。

「あの、すみません。今の方、カエラさんですよね。岩崎カエラさん」

 小久保友矢が振り向くと、そこには背広姿に七三分け頭の小柄な若い男が立っていた。男は手に紙袋を提げている。小久保友矢は怪訝な顔で答えた。

「あ、はい。そうですけど、おたくは?」

 男は胸ポケットから半折りの革財布のような物を取り出し、広げて見せた。中には金色の徽章と顔写真が付いていた。

「警視庁捜査一課の中村といいます。三木尾警部から岩崎さんに届け物をするように言われたので、持って来たのですが……」

 中村刑事は岩崎が歩いていった方角を覗いた。小久保友矢は端末を膝から下ろして、立ち上がる。

「ああ、失礼しました。どうぞ、ラボ、いや……研究室の方へ。暫く待ってもらうかもしれませんけど、よろしいですか。主任は戻るまで時間がかかりそうなので」

 中村刑事は紙袋を少し持ち上げて言った。

「何かお忙しいようでしたら、これだけお渡ししておきますので、後ほど三木尾の方から直接、連絡してもらいましょうか」

 小久保友矢は顔の前で手を振る。

「あ、いえいえ。いつもの事ですから。ウチの主任、力入れるところと抜くところのメリハリが、すごいんですよ。今日は結構、頑張ると思いますよ。気合入れてましたから」

 小久保友矢は片笑みながら、岩崎が歩いていった化粧室の方を見つめた。



                  五

 特別鑑定室に通された中村刑事は、応接ソファーに腰掛けて、室内を見回していた。向かい座っている小久保友矢が言う。

「へえ、じゃあ中村刑事は、以前は民間企業で薬学の方を」

「ええ。治療薬の開発部署に。大学も、それで進みました。だから、第二就職の警察では、てっきり薬物対策課か鑑識にでも配置されると思っていたのですが、何故か一課で石原先輩の下に……」

 小久保友矢は、自分よりも少し若い中村に同情して、顔を顰めた。

「ああ、元軍人さんの。あの人、一課じゃ有名な猛者だからなあ。そりゃ、大変だ」

 ドアを開けて岩崎カエラが入ってきた。髪を整え、メイクも完璧である。岩崎カエラは颯爽と歩いて自分の机へと向かいながら、言った。

「あら、中村君じゃない。どう? 捜査一課は慣れました?」

 中村刑事はソファーに座ったまま挨拶した。

「ああ、カエラさん。お久しぶりです。この前は、お世話になりました」

 自分の席についた岩崎カエラは、立体パソコンを操作しながら含み顔で笑う。

「んふふふ。ねー」

 振り返った小久保友矢が岩崎に尋ねた。

「あれ、主任、お知り合いですか?」

 岩崎カエラは立体パソコンの上に浮かべたホログラフィー画像を見ながら答えた。

「うん。この前、ある事件で、ちょっとね。あ、石原君も元気してる? また彼にこき使われているんでしょ」

 中村刑事は姿勢を正すと、はっきりと首を縦に振った。

「はい。明確に、お答えします。はい! ――もう、あの人、どうかしてますよ。なんで、いつも、あんなノリで、重ーい事件の捜査が出来るんですかね。僕には、まだ理解できません」

 岩崎カエラは眉を寄せる中村を一瞥して、口角を上げた。

「フフ。ああ見えて優秀なのよ、彼。だから、ちゃんと見て学ばないと駄目よ。中村刑事」

 中村刑事は腕組みをして首を傾げる。

「そうですかね。確かに、チャラチャラはしてないんですけどねえ。正義感も強いし。何なんだろうなあ……やっぱり、後輩への接し方が特殊なんですかね。何かですね……人使いが荒いのかな」

 小久保友矢は目を瞑り、何度も頷いた。

「お察しします。中村刑事。その気持ち、よーく分かります」

 岩崎カエラは大きく咳払いをすると、中村に言った。

「ま、新米刑事の誰もが通る道ね。洗礼だと思って、頑張りなさいな」

「はあ」

 肩を落とす中村刑事に、小久保友矢が小声で言った。

「その道、全速力で走り抜けた方がいいですよ。立ち止まると、僕みたいに、新米じゃなくても毎日洗礼を受け続ける羽目になります」

 岩崎の大きな声が飛んでくる。

「はあ。何て?」

「いいえ。何でもありません。主任」

 そう答えた小久保友矢は、中村に右目を瞑って見せた。

「ね」

 すると、岩崎カエラが声の調子を変えた。

「あれ、これかあ。見つけたわよ、小久保君」

 小久保友矢は振り向く。

「何をです?」

 岩崎カエラは机の上のホログラフィー画像を見ながら答えた。

「もう一つのバイオ・ドライブ。どうやら、やっぱり高橋博士が持っていたみたい。でも、その後は分からないわね」

「どれです」

 小久保友矢はソファーから腰を上げた。岩崎カエラが言う。

「この記事。ちょっと、そっちのパソコンにコピーを転送するわ。保存しといて」

 小久保友矢は自分の席に座り、机の上の立体パソコンに岩崎から転送された記事データをホログラフィー画像で投影させた。岩崎カエラは満足そうに言う。

「これで、誰がデータを書き換えたか、判明したも同然ね」

 小久保友矢は、その記事を読みながら首を傾げた。

「どうですかね。それは、ちょっと拙速では……」

 岩崎カエラはハイバックの椅子に身を倒すと、左右の肘掛けに腕を載せた。

「とにかく、もう少し正確な情報が欲しいわね」

 応接ソファーから中村刑事が尋ねた。

「あの、すみません。もう一つのバイオ・ドライブって、どういう事ですか?」

 岩崎カエラが記事を読んでいる小久保越しに中村に言った。

「バイオ・ドライブはね、もともと二つあったみたいなのよ」

「バイオ・ドライブが二つ?」

 中村刑事が怪訝な顔をすると、岩崎カエラは口角を上げて彼に言った。

「もう少しいろいろ分かったら、報告するわね」

「はあ。じゃあ、ご報告をお待ちしています」

「で、今日は何しに来たの?」

 岩崎に尋ねられてハッとした中村刑事は、足下に置いていた紙袋を手にとってソファーから腰を上げた。

「ああ、そうでした。これを三木尾警部から預かってきまして。南米の軍用ロボットのハード・ドライブだそうです。これを分析してもらいたいという事です」

 椅子を回した小久保友矢が紙袋を受け取る。岩崎カエラが言った。

「じゃあ、やっぱり善さんは、もう帰ってきてるんだ」

「はい。今朝から出勤です。後で連絡すると言っていました」

「あら、そう。お土産はちゃんと買ってくれたのかしら」

「主任」

 岩崎に注意した小久保友矢は、紙袋の中から金属製の箱を取り出した。周囲に何本ものコードを垂らした箱は、表面に数個の窪みを付けている。小久保友矢はそれを持ち上げて下から覗いたり、光に当てて側面のシリアルナンバーを読んだりした後、中村刑事に尋ねた。

「これ、ディフェンサー・シリーズの中距離射撃専用ロボのものですよね。AIの記憶領域と思考領域のメイン・ブロックだな。防弾カバーを付けたままですから、開けてみますね。たしか、向こうに専用工具が……」

 それを持って立ち上がった小久保友矢は、窓際に並べられている作業机の方に移動し、真ん中の机の引き出しを開けた。中を漁って工具を取り出し、その机の椅子を引いて、そこに腰を下ろす。小久保友矢は、その機械の上で工具を動かしながら言った。

「それにしても、こんなロボットが配備されていたんですか。三木尾警部が行かれた場所は、相当に危険な場所だったんですね」

 中村刑事は答えた。

「さあ。まだ詳しくは聞いてませんけど、確かに『死にかけた』とは言っていました」

 工具で防弾カバーを外しながら、小久保友矢は頷いた。

「でしょうね。このAIが操縦するロボットは、飛んできた弾丸をダイレクトに打ち落とせるほどの超高性能マシンですからね。このAIも、普通のAIじゃないんですよ。まあ、言えば、人工知能界のオリンピック選手、しかもメダリスト級です。よっ。開いた」

「へえー」

 中村刑事はキョトンとしていた。小久保友矢は、カバーの中から取り出した立方体の箱を指先で支えて光に当て、六面を確認しながら言った。

「こんな最新式の超高性能AIを搭載した護衛ロボを配備しているって事は、相当に戦闘頻度が高いという事ですよ。警部が無事に戻られて良かったですね。――よし、損傷はしてない」

 中村刑事は小久保の近くに歩み寄りながら言った。

「でも、そのハード・ドライブは、なんでも、暴走した護衛ロボットの物のようですよ」

 小久保友矢は椅子に座ったまま中村刑事の顔を見上げる。

「暴走した? おかしいな。このシリーズは、フェイル・ロック・システムが付いていて、万が一の場合には、物理的に制御システムから切り離されるはずだから、外敵から不正に侵入でもされない限り、そんな事は起こらないのになあ」

 中村刑事は感心した顔で小久保に言った。

「随分とお詳しいのですね」

 岩崎カエラが二人の所に歩いてきた。

「彼ね、昔、軍の整備連隊にいたの。これでも工学博士なのよ。兵器、武器の類のメカトロニクスには精通しているわ。ちょうど良かったわね」

 小久保友矢は取り出したハード・ドライブを岩崎に手渡しながら言った。

「ついでに、生物工学も少し。それから、『これでも』は余計です。主任」

 受け取ったハード・ドライブを観察しながら、岩崎は肩を上げた。

「ごめん、ごめん」

 中村刑事は二人の顔を交互に見ながら、目を丸くしていた。

「へえ。やっぱり、科警研の人って、すごいですね。僕からすれば、お二人の方こそメダリスト級ですよ」

 岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせる。

 岩崎カエラはハード・ドライブを小久保に返した。

「とにかく、解析は小久保君に任せておけば安心よ。警部にも、そう伝えて。それから、電話も待ってるって」

「分かりました」

 小久保友矢は中村刑事に確認する。

「その暴走とやらの原因を突き止めればいいんですよね。この中から」

「ええ。たぶん、そういう趣旨だと思います。難しそうですか」

 小久保友矢は作業机の上に置いたハード・ドライブを見ながら答えた。

「いや、リブート自体は、プログラムの読み出し機材さえあれば簡単なんですよ。戦地では、撃破された軍用ロボでも、即時にデータを取り出して作戦本部で分析しなければなりませんから。直ぐに引き出せるようにはなっています。問題は暗号コードですが、これ、米軍のマシンですよね」

「はい。たぶん」

「なら、相互集団防衛条約で暗号コードを共通化しているはずですから、問題はありません。ウチの機械でも中のデータを展開できると思います。でも、ウチも今、少し立て込んでいますから、手を付けるのが後になるかもしれません。その旨もお伝え下さい」

 中村刑事は首を縦に振った。

「はい。そう伝えておきます。本当にすみません。忙しそうな時に。では、宜しくお願いします」

 岩崎カエラが手を振った。

「いいのよ。仕事だから。気にしないで」

「では、失礼します」

「ああ、待って、中村君」

 帰ろうとした中村刑事を岩崎カエラは呼び止めた。彼女は中村刑事に言う。

「リコちゃん、一週間以上前に髪切ったみたいよ。誰も気づいてくれないって嘆いてたぞ。ちゃんと褒めてあげなきゃ駄目よ。女の子なんだから」

「はあ。有り難うございます。違うか。了解しました」

 中村刑事は敬礼した。岩崎カエラは大きく頷く。

「うん。では、行ってよし」

 中村刑事は一礼してから、廊下へと出て行った。



                  六

 小久保友矢は自分の席に座り、中村刑事から預かったハード・ドライブをいじりながら、パソコンの上に浮かんだ記事データのホログラフィー画像に目を凝らしていた。

「この記事によると、二〇一九年末か二〇二〇年の年始あたりに、高橋諒一がIMUTAにバイオ・ドライブを一度、無断で接続しようとしたって事になってますよね」

 自分の席の立体パソコンで小久保と同じ記事を見ながら、岩崎カエラは言った。

「そうね。きっと、そのバイオ・ドライブが、NNC社から殿所教授に提供された方のバイオ・ドライブね」

 小久保友矢が続ける。

「それで接続に失敗して、IMUTAが緊急シャット・ダウンした。全面復旧には、約一週間。そういえば、第二回東京五輪の頃、そんなニュースがあったような、無かったような。僕が中一の頃ですからね。あまり覚えていないですね。主任、覚えてます?」

 岩崎カエラは額に手を当てて上を向く。

「ああ、そういう話はやめて。世代の差を改めて痛感するから。東京五輪って、私がここに入った頃だし」

 小久保友矢は眉を曇らせて記事を見つめる。

「でも、この件についての記事らしい記事は、これ一つですもんね。それに、この記事自体、事件から一年以上経ってから書かれていますし。信用できますかね」

 岩崎カエラは、当時の記憶を思い出しながら言った。

「オリンピック前で、唯でさえ日本のマイナスイメージになる記事は控えられていたのよ。当然、開催中も。それに、政府が水面下で遷都計画を進めていた矢先でしょ。移転予定地に建設した巨大コンピュータのトラブルの報道は、あまり大きくしたくなかったのかもしれないわね」

「隠蔽された事実を調べ上げて、ようやく記事に出来たのが一年以上過ぎてからって事ですか……この、西井上にしいのうえ長見おさみって記者、よくやったなあ」

 岩崎カエラは小久保に尋ねた。

「この記者、たしか、司時空長の記者会見の時に、津田に噛みついていた記者よね。覚えてない? ほら、春木って子の隣にいた、ヨレヨレジャケットの嫌な感じの人」

 小久保友矢は何度も首を縦に振る。

「ああ、はいはい。いかにも反体制派リベラルって感じの。この頃よくテレビで見ますよね。討論番組とかで。これ、彼が書いたんだ。こういう粗捜しが好きそうですもんね」

 岩崎カエラは真剣な顔で記事を見つめながら言った。

「記事がこれ一つという事は、他に取材した記者たちには、相当な圧力が掛けられたのかもしれないわね。彼のような記者は圧力をかければ余計に騒ぎ立てるから、放置されたのでしょうね。仮に彼一人が記事を出しても、誰も彼のようなゴロツキ記者の言う事には注目しないだろうし。そして、実際にそうなったのよ。政府の狙い通りに」

「でも、という事は、それだけ記事の信憑性が高いという事なのかもしれないですね」

 岩崎カエラは頷いてから言った。

「その西井上っていう記者に話を聞いた方が早そうね」

 小久保友矢は顔を上げて、その前で手を振りながら岩崎に言った。

「いや、主任、それは僕らの仕事ではないですよ。現場の警官にやってもらえばいいじゃないですか」

 岩崎カエラは暫く考えた。彼女は小久保を見て言う。

「それも、そうね」

 安心した小久保友矢は、いじっていたハード・ドライブを隣の机の上に置いた。

「とにかく、田爪と高橋のそれぞれの手許に、一つずつ計二台のバイオ・ドライブが存在した可能性は、かなり高まりましたね」

 岩崎カエラは少し椅子を回して、小久保の席の方を見ると、言った。

「うん。まずは、二台存在したと仮定して考えてみましょう。一台は、田爪博士がSAI五KTシステムに接続して、仮想空間実験に使用したドライブ。もう一台は、高橋博士がIMUTAに接続しようとして失敗したドライブ。ちなみに、田爪博士は仮想空間実験の際には、SAI五KTシステムのうちAB〇一八の方にバイオ・ドライブを接続したのよね」

「ええ。なんか、随分と対照的ですね」

「そうね……」

 二人は暫らく考えた。岩崎カエラが口を開く。

「じゃあ、さらに、この二つが入れ替わったと仮定してみましょう。その事情やタイミングは考慮しないことにして」

 小久保友矢が手を動かしながら言った。

「田爪瑠香が持参したのは、高橋のバイオ・ドライブ。そのドライブに南米で田爪がデータを書き込んで、永山記者が二〇二五年に送った。最終的にそれをASKIT、つまり高橋が回収して、損傷状態から復元。田爪のデータを引き出した。しかし、そのデータを基に製造したモノは全て使えない。田爪が真正なデータを書き込んでいたとすると、書き換えられた可能性があるタイミングは、二〇二五年以降という事になりますね」

 岩崎カエラは首を傾げる。

「でも、この前、永山記者の記事とインタビュー録が公開されるまでは、そのドライブの中に何が入っているかは誰も知らなかったはずよね。それに、中の情報を引き出したり書き換えたりするには、AB〇一八に接続するしか方法はない。そうなると、実行可能な人物は限られてくるわよね。うーん……やっぱり、高橋博士かしら」

「でも、高橋は、そのデータを基に量子銃等を製造した訳ですから、改ざんする行為に利益がないですよね。つまり、彼が書き換えるはずはない」

「合理的に考えれば、そういう事になるわね」

「それに、この仮定的条件下では、もう一つのドライブも高橋が保有していることになりますよね。接続に成功した方のドライブを」

「そうね……」

 岩崎カエラは眉間に皺を寄せた。小久保友矢が言う。

「この空のドライブは、何処に行ったのでしょうね。入れ替わったとすれば、客観的には、こっちが本物なんですけどね」

「損傷状態、復元、接続、本物……」

 会話の中から単語を拾い集めていた岩崎カエラは、急に大声を出した。

「コピー!」

「コピー?」

 怪訝な顔で聞き返した小久保に、岩崎カエラは説明した。

「データのコピーよ。二〇二五年の爆発で損傷したバイオ・ドライブは、復元できなかったのじゃないかしら。もし、復元するとしても、細胞組織の再生に相当な時間がかかるはずでしょ。でも、高橋博士はあの通り老化が過度に進んでいたわ。つまり、彼には時間が無かった。損傷したバイオ・ドライブを長時間かけて復元させて、平行して、バイオ・ドライブ内に残存するシナプス結合からAB〇一八を使った予測演算によるニューラルネットワークの再構築を実施してデータを復元するよりも、既に存在する損傷していないバイオ・ドライブに残存するシナプス結合の構造をコピーしてしまえば、あとはAB〇一八の予測演算で、短時間で元通りのニューラルネットワークを再構築して、データを完璧に復元できる」

 腕組みをした小久保友矢は、頷いた。

「なるほど。では、内部に元通りの情報が復元されたのは、結局、本物の田爪のバイオ・ドライブの方。いいや、この際、どちらでも成り立ちますね。ドライブのすり替えが有ろうが無かろうが」

 岩崎カエラは首を横に振る。

「いいえ。すり替えられる前に、田爪博士が自分のバイオ・ドライブに何か他の情報を入れていた可能性は否定できないでしょ。そして、田爪博士が南米で書き込む際には、自分の記憶にある、以前の書き込みの事実を前提として、次の情報を書き込んでいるはず。つまり、コピーして、データを正確に復元する為には、コピー先は本物の田爪博士のバイオ・ドライブである方がいい。いや、むしろ、そうであるべきよ」

 小久保友矢は軽く指を鳴らした。

「だから、二台のバイオ・ドライブを田爪瑠香の渡航前にすり替えておく必要があった。本物のバイオ・ドライブは二〇二五年の爆発から守る為に。――一応これで、推論は全て整合しますね」

「もう一つの私の予想とも整合するわ」

「なんです。もう一つの予想って」

「もし、今の推論通りだとすると、ある条件下で一つだけ疑問点が生じるの。分からない?」

 少し考えた小久保友矢は、ハッとした顔で言った。

「そうか。すり替えが二〇二五年の爆発以前になされたと仮定すれば、その人物は、どうして二〇二五年の爆発で高橋のバイオ・ドライブが損傷する事を知っていたのか」

「そう。勿論、田爪瑠香が南米に跳んだのは二〇三八年だから、二〇二五年以降にすり替えていたのなら、何の問題も無い。でも、それ以前にすり替えていたとすれば、その人物は未来の事実を知っていたことになる」

 小久保友矢は、岩崎の推理に合致する可能性がある人物の名を挙げた。

「高橋ですか」

 岩崎カエラは頷いた。

「彼は、その為に一度余計にタイムトラベルをしているのではないかしら。そう考えれば、彼の肉体が百五十歳を超えているのも、説明がつくわ」

「なるほど」

 椅子の背もたれに身を倒した小久保友矢は、そのままの姿勢で岩崎の顔を凝視して言った。

「二台のバイオ・ドライブについての推論は、矛盾無く組み立てられたとして、問題のデータの書き換えの方は、どうなのでしょう。高橋は再生を急ぐためにデータを書き移しただけで、そのデータを改ざんしたのは別人ですよね。彼はそれを知らなかったから、改ざんされたデータに基づいて量子銃やプラントを製造したのでしょうから。でも、この流れの中で、高橋諒一以外にデータを書き換えられる人物がいますかね」

 岩崎カエラは考えた。

「彼の他にバイオ・ドライブに接触できたのは……」

 小久保友矢も腕組みをして考える。そして、二人は顔を見合わせた。岩崎カエラは、硬直した顔で言う。

「考えられるのは、これしかないわね」

「ええ、僕もそう思います。客観的にどう考えても、成功率が一番高い。というか、これなら確実です」

「量子エネルギープラントの不自然さも、説明がつくわ」

「高橋やASKITの連中が、復元されたデータを本物と信じた事とも矛盾しない」

 岩崎カエラは、その答えを口にする。

「AB〇一八。神経ネットワークのコピーと復元を中継したコンピュータが、データを改ざんしたんだわ」

 小久保友矢は頭を掻きながら言った。

「しかし、機械が勝手に判断しますかね」

 岩崎カエラは真顔で答える。

「したのかもしれない。新日ネット新聞や新日風潮の記事によれば、ASKITの私設軍隊は、量子銃や量子砲を装備した兵器で日本国内に入り、SAI五KTシステムを破壊しようとしていた。でも、IMUTAは金属製の量子コンピュータよ。量子銃は効かないはずだわ。つまり、彼らの狙いは、量子銃によって消滅させる事が可能な生体コンピュータ、AB〇一八」

 岩崎カエラはマスコミの記事に先導される事なく、科学者らしく客観的に考察し直して、結論に達した。その結論は新日の記者が伝える内容と同じだった。

 小久保友矢は背もたれから身を起こして呟く。

「自分を破壊する為の武器の設計データを改ざんか……。それなら、AB〇一八には、データを改ざんする事に利益がありますもんね。客観的に」

「すべてが符合する推論ね」

「だとすると、AB〇一八は主体的に、外部から何らの指示も無く、自己防衛を図った事になります。これって、もしかして……」

 岩崎カエラは、小久保の顔を見ながら静かに言った。

egoエゴよ。あの巨大コンピュータは、自我に目覚めているのかも」

 二人はまた暫らくの間、沈黙した。

 小久保友矢が口を開く。

「結局、ASKITも僕らも、田爪ではなく、AB〇一八に担がれていた可能性が高いって事ですか」

 岩崎カエラは厳しい表情で言う。

「表現方法として使うべきは、過去形じゃなく、現在進行形かもしれないわよ」

「どういう事です?」

「もし、私達の予想通りAB〇一八が自我に目覚めているとしたら、私達人類は量子コンピュータIMUTAという世界最高水準の高速演算処理装置を、そいつに独占的に使用させている事になるわ。そして、IMUTAには既に世界中のネットワーク回線が接続されている。このコンピュータも、小久保君のコンピュータも、街の監視カメラも、軍の戦闘制御システムも。何もかも。という事は、すべてがAB〇一八の管理下にあるという事」

 小久保友矢は顔を顰めた。

「既に我々は、アレに支配されているという事ですか。新日の人たちが主張している事と同じじゃないですか」

「それは週刊誌の方でしょ。でも、もしそうなら、人類に明日は無いわ……。この事実を知った私達も、既にアレの標的にされているかもしれない」

「……」

 小久保友矢は深刻な顔をして机の上の立体パソコンを見つめながら、口を閉じた。

 岩崎カエラが明るい調子で言う。

「なーんてね。まだ、仮定の段階じゃない。科学者は実証も積み重ねないと、結論を出しちゃ駄目よ。一つ一つ丁寧に積み重ねていかないと」

「もう、脅かさないで下さいよ。本気で恐かったですよ。焦ったなあ」

 岩崎カエラは椅子の高い背もたれに倒れ込んで、息を吐いた。

「はああ。でも、気になっていた事が整理できて、なんかスッキリしたあ。引っ掛かると、ずーと引きずるタイプなのよね、私。ああ、スッキリした。サンキュー、小久保君」

 小久保友矢は椅子から腰を上げながら言う。

「まったく。じゃあ、そろそろ仕事に掛かって下さいよ。下で実験の準備が出来てますから。これが最後ですからね。慎重にお願いしますよ」

 彼は隣の席に移ると、中村刑事から預かったハード・ドライブをデスクトップの立体パソコンに接続し始めた。

 岩崎カエラは背もたれから起き上がり、自分の立体パソコンに向かいながら言う。

「分かってる、分かってる。大丈夫よ」

 彼女は立体パソコンの上に幾つかのホログラフィー画像を浮かべながら言った。

「それよりさ、小久保君。今夜あたり、食事に行かない?」

 ケーブルをハード・ドライブに差し込んでいた小久保友矢は、顔を上げた。

「は? ええ、いいですけど」

 岩崎カエラは、ホログラフィーで浮かべた雑誌の頁を捲りながら言う。

「何か、ちょっと疲れてるじゃない、私たち。たまには美味しいものでも、どう?」

「そうですね。気分転換でもしますか。主任と外で食事するのも、久しぶりですしね。あ、そうだ。前から行ってみたかった創作料理の店があるんですけど、そこでいいですか」

「いいわね。何て店?」

心路楼しんじろう。寺師町のちょっと端の方です。昭憲田池の辺に建っているそうですよ」

 岩崎カエラはホログラフィー雑誌を指差しながら言った。

「あ、ここでしょ。さっすが小久保君、趣味が合うわねえ。今私も、ここ、いいなあって思ってたのよね。昭憲田池が一望できて、綺麗な夜景が楽しめるって書いてある。お、全室個室だって。こんなお店に私を誘うなんて、いやらしい」

「どうしてですか。普通の料亭でしょ。御飯食べるだけ……」

 立体パソコンの上にホログラフィーを表示させながら、小久保友矢が岩崎の方を見ると、彼女は目を細めて少し睨んでいた。

 小久保友矢は正直に言う。

「ああ、はい、はい。主任と行きたいなと思って、チェックしてました」

「じゃあ、後で私が予約しとくわね。いい?」

「全然かまいません。お願いします。――あれ?」

 ハード・ドライブを接続した立体パソコンの上に浮かべた平面ホログラフィー画像で、ソース・プログラムのコードを読んでいた小久保友矢は、首を傾げた。

 岩崎カエラが尋ねる。

「どうした?」

「いや、このハード・ドライブのAIプログラム、中にもう一つのソースプログラムを圧縮して格納してますね。たぶん……」

 岩崎カエラは眉間に皺を寄せる。

「二体分のAIのソースが入っているってこと?」

「はい。たぶんですけど。これ、下の階の『何とか別府』さんに見てもらった方がいいですかね。なに別府さんでしたっけ」

下別府しもべっぷさん? 下別府さんなら、コンピュータプログラムのエキスパートだから、細かい事も分かるかもしれないわね」

「ですよね。じゃあ、とりあえず、圧縮されているものだけでも解凍しておきます」

 圧縮コードの解凍処理に取り掛かった小久保友矢は、突然、慌て始めた。

「ん? 何だこれ、しまった。ちょっと、主任、ネットワークのケーブルは、これですか」

 椅子から腰を上げた小久保友矢は、机の後ろに垂れているケーブルを持ち上げた。岩崎カエラは答える。

「うん、それよ。どうしたの?」

 小久保友矢は急いで自分の机と岩崎の机の角に回ってくると、しゃがんで広いテーブルの下に手を伸ばした。

「外しますね。その方がいいかも。このプログラム、どうもウイルスっぽいんですよ。科警研のホストコンピュータまでやられたら、洒落になりませんから」

 岩崎カエラも慌てて腰を上げ、本棚側から広いテーブルの下に潜った。

「ちょっと、この一ヶ月の仕事の成果もやられたら、もっと洒落にならないじゃない。こんな時にコンピュータウイルスなんて、勘弁してよ」

 二人は量子銃が並べられた広いテーブルの下で、雑然と絡み合うケーブルの中から必死にネットワーク・ケーブルを探し、コネクターから外していく。すると、小久保の席の隣から声が聞こえた。

『失礼だな。俺達は軍人だぞ。違った、軍用プログラムだぞ。ウイルス程度の下等プログラムと一緒にせんでもらいたい』

『はー。ウエモン先輩。少し楽になりましたね。ここ何処ですか。何も見えませんけど。ん? 科警研? 日本語かあ。え、日本語? ここ日本ですか。あの、憧れの日本ですか? わーい』

 岩崎カエラと小久保友矢は、テーブルの下で顔を見合わせたまま固まっている。小久保友矢は立ち上がり、声のする方を覗いた。声は、中村刑事から預かったハード・ドライブを接続している立体パソコンのスピーカーから発せられていた。

「あ痛っ」

 立ち上がろうとした岩崎カエラがテーブルの角で頭を打った。また、声がする。

『馬鹿、静かにしろ。どうやら、研究ラボ用の高性能サーバーの中に展開されたようだぞ。早く隠れろ。消されてしまうぞ。撤収だ、撤収』

『了解しました。撤収! どろろろろーん』

「……」

 立体パソコンの前で小久保友矢は呆然と立ち尽くしていた。頭を押さえながら岩崎カエラがやって来る。彼女は凍りついた顔でハード・ドライブを見ながら言った。

「ちょっと、何よ、今の……」

「さあ……」

「疲れているのかしら、私たち」

「いや、僕は休息させてもらいましたから、そうでもないかと」

「そうよね。確かに、聞こえたわよね。二人……いや、二体いた」

「とにかく、ここのサーバーは、ネットワークには繋げない方がいいですよね。下別府さんを呼んできましょうか」

 岩崎カエラは頬を引き攣らせながら言った。

「そうね。早くしてちょうだい。それから、早く帰ってきてね。ここに一人でいるのは、ちょっと恐い……」

 小久保友矢は駆け出して言った。岩崎カエラはハード・ドライブが置かれた机から一歩離れると、それを凝視したまま、その場で固まっていた。



                  七

 特別鑑定室の応接ソファーに座っている白衣姿の岩崎カエラの左目は青く光っている。彼女は小久保の席の隣の机に置かれたハード・ドライブと、開け広げられたドアの向こうのサーバーを気にしながら、イヴフォンで通話していた。

「じゃあ、その時刻に。宜しくお願いします」

 和風創作料理店の「心路桜」に予約の連絡を終えた彼女は、シャツの胸元からイヴフォンを外そうとした。その時、彼女の脳の聴覚野に呼び出し音が響いた。驚いた岩崎カエラは両肩を上げ、怯えながら問題のハード・ドライブにゆっくりと顔を向ける。ハード・ドライブは起動していないようだった。彼女は反対の方を向き、サーバーを気にしながら、胸のイヴフォンの通話ボタンを押して電話に出た。

「はい。もしもし。岩崎です」

 三木尾警部からの電話だった。胸を撫で下ろした岩崎カエラは、通話を続ける。

「ええ。大丈夫よ。ていうか、切らないで欲しいくらいよ。まったく、善さん、また余計なモノを持ってきてくれたわね。小久保君が言ってたけれど、これ、軍用ロボットの高性能AIのドライブなんですって? もう、高性能過ぎて、えらい事になっているわよ」

 暫らく三木尾警部の話を聞いていた彼女は、眉間に皺を寄せて下を向いた。

「うーん。私は専門じゃないから、よく分からないけど、もしかしたら、ハードの方に問題があったんじゃないかな。照準設備に物理的な故障があったとか。銃身がズレていたとか。そうじゃなければ、こんな優秀なプログラムさん達が仕事し損なうはずがないじゃない」

 岩崎カエラは、ハード・ドライブに接続している立体パソコンのマイクに聞こえるように、少し大きな声でそう言った。三木尾警部が真剣な声で話すので、岩崎カエラは前を向きなおした。

「ん? ああ、そうね。そうかもしれないわね。でも、そう思う根拠は何なの?」

 彼女は暫らく真顔で話を聞いていた。そして、今度はサーバー室に響くように話す。

「うん。うん。――でしょうね。彼ら、本当に優秀なプログラムさん達ですからね。そのくらいは簡単にやってのけるでしょうね。でも、そうなると、ハード面にも問題が無かったって事よね。それとも、後からの射撃は、照準の修正がズレていたのかしら。とにかく、彼ら……彼女たちかな……とにかく、このプログラムさん達は有能だから。間違えるなんて、変ね」

 また三木尾の話を聞いていた岩崎カエラは、突然、言った。

「税金の切符」

 暫らく上を向いていた岩崎カエラは、また眉間を狭めた。

「それって、善さん達の乗っていたリムジン・オスプレイが着陸した後の事よね。つまりどれも、善さんたちをスタンド・アロン状態にしようとしたってことね」

 振り向いて、小久保の机の上に載っている、さっき外したネットワーク・ケーブルの先端を見た岩崎カエラは言った。

「もしかしたら、善さんたちを何かから守ろうとしたんじゃないかしら。もともと、このプログラムさん達は、人間を守る事を目的に書かれている護衛用のモノだから」

 溜め息を吐いて前髪をかき上げた彼女は、頷いた。

「そうね。でも、単なる故障って事も……」

 岩崎カエラはハード・ドライブに聞こえるように言い直す。

「無いかもしれないし、有るかもしれない。これからの面接の内容次第では、消去もあり得るわね」

 ソファーから腰を上げた岩崎カエラは、サーバー室の入り口の前に移動した。彼女は小声で言う。

「あの、善さん。よく聞いてね。この状況では、すごく言いにくいのだけど、あのね、もしかしたら、このAIは、自我に目覚めているかもしれないのよ。だとすると、SAI五KTシステムも自我に目覚めてしまっているかもしれないわ」

 サーバー室に顔だけ入れて、中の機械を見回しながら暫く通話を続けた岩崎カエラは、特別鑑定室の入り口のドアが開く音に驚いて、また両肩を上げた。部屋の中に小久保友矢と、白衣姿の眼鏡の中年男性が入ってきた。それを見た岩崎カエラは、小久保に自分の左目と胸元のイヴフォンを指差しながら、三木尾警部に言った。

「それじゃ、西井上さんが書いた当時の記事をメールで送っとくわね。あと、軍用ロボのドライブの解析の方は、ウチの小久保君と下別府さんが総力をあげて分析してくれるだろうから、任せていれば安心だと思うわ。かなり手強そうな相手だけど。それじゃ」

 岩崎カエラは胸元のイヴフォンのボタンを押し通話を切った。白衣の胸ポケットにイヴフォンを戻す彼女に、小久保が尋ねる。

「誰です?」

 岩崎カエラは答えた。

「警視庁の三木尾警部よ。あ、そっか。しまった。ここのメール、使えないわよね」

「ですね。この部屋のネットワークは、一時使用不可ですね」

 小久保友矢が両手を上げてそう言うと、銀色のアタッシュケースを提げた下別府が言った。

「ウチの部屋のパソコンでも使ってください。何台か空いていますから」

 彼はスタスタとサーバー室の中に入っていくと、そこに置かれた大きな箱型の機械を見回しながら呟く。

「この中ですか……」

 小久保友矢は机の上からハード・ドライブを持ってきて、下別府に見せた。

「ええ。こいつの中から、そっちに入っていたんです」

 下別府は、その立方体の箱を覗き込むように見て言う。

「よくまあ、こんな少ない容量の領域に隠れられたものだな。たぶん、いわゆる自走プログラムの亜系でしょうな。今、機材を持ってきますから。このサーバーの中からバグ・ポイントを見つけて駆除すれば、以前どおり使用しても大丈夫ですよ。ナノスコープ付のレーザーメスで、メインメモリーのボールの表面にある該当箇所を削ってしまいますから、完全に除去できます」

 下別府はサーバーの周りを歩きながら、蓋の位置を確認した。岩崎カエラは彼について歩きながら、言った。

「あの、その点だけど、下別府さん。そのプログラムを消去せずに、何かに移して保存する事は出来ます?」

「ええ。まあ、なんだかんだ言っても、所詮はプログラムですから、コピーだろうが、ペーストだろうが、どうにでも……あ痛っ」

 突然、サーバーの冷却装置の蓋が開き、下別府の腰を叩いた。

 岩崎カエラは下別府に言った。

「あの……プログラムさん達も、こう、尊厳っていうか、もっとこう快適なスペースで自由に思考できるようにするのも、必要じゃないかなと思うのよね。ね、小久保君」

 岩崎の後ろでその大型サーバーを見回していた小久保友矢は、不意を突かれて戸惑った。

「へ? えっと……ええ、まあ、そうですね」

 下別府は眼鏡を少し上げて、専門家らしく言う。

「いやいや。あなた達が聞いたのは、混在していた録音データの再生か何かですよ。快適とか自由とか、プログラムには必要ない……痛っ」

 サーバーのケーブル収納用の蓋が開き、下別府の脛を直撃する。

 岩崎カエラは咄嗟に言った。

「ああ、そこ、壊れているの。ごめんなさい」

 怪訝な顔でサーバーを見回していた小久保友矢は、蓋を開けた犯人が分かったので、下別府に言った。

「じゃあ、僕の方で、もっと容量の大きいドライブを探しておきます。とにかく、一旦、このハード・ドライブの方に戻す事だけ、お願いします」

「別に物理的に移転している訳ではないんでね。それなら、簡単ですよ。ここのケーブルを外せば……」

 身を屈めて、蓋が開いた所に見えるケーブルを抜こうとした下別府に、岩崎カエラと小久保友矢は声を揃えて叫んだ。

「ああ! 駄目!」

 手を止めた下別府は、怪訝な顔で二人を見る。

 岩崎カエラは言った。

「あの、一応、表現的な方法でお願いできません? 形式的に『一旦、移す』という形をとってもらえれば、助かるんですけど。サーバーの中の記憶ボールは、お任せしますので」

 下別府は渋々と返事をする。

「分かりました。じゃあ、機材を取ってきます。――ったく。面倒だなあ」

 ブツブツと何かを言いながら、下別府はサーバー室から出ていった。

 小久保友矢が岩崎に言う。

「尊厳重視ですね」

 岩崎カエラは頷く。

「そ。自我に目覚めたんなら、ちゃんと扱ってあげないと」

 二人は、横の大型サーバーを見上げていた。



                  八

 その後、下別府は機材を抱えて特別鑑定室に戻ってきたが、岩崎カエラは、小久保がサーバーからハード・ドライブに「彼ら」を引越しさせるのを終えるまで、下別府を待たせた。「彼ら」の圧縮は困難だったが、専門家の下別府の協力により、何とか元通りハード・ドライブの中に「彼ら」を戻す事ができた。「彼ら」の引越しが終わると、下別府はサーバーのメインカバーを開け、レーザーメスでメモリーボールの表面の「彼ら」の痕跡を削り取り始めた。「彼ら」の痕跡は、その球体型の記憶媒体の深部にまで及んでいて、作業には長時間がかかった。下別府が作業を完了したのは、昼食時を過ぎた頃だった。下別府は少し機嫌悪そうな顔で特別鑑定室から出ていった。その後、職員食堂で昼食を終えた岩崎カエラと小久保友矢は、特別鑑定室に戻ってきた。自分の席に座った小久保友矢は、「彼ら」が押し込められているハード・ドライブを手に取り、岩崎に尋ねた。

「とりあえず、これ、どうしますかね」

「うん。そうね、向こうの棚で待っておいてもらいましょうか。次の部屋が決まるまで。とりあえず今は、そのまま仮住まいで我慢してもらうしかないわね。窮屈だろうけど」

 小久保友矢は窓際の作業机の奥の本棚の方にハード・ドライブを持って行き、それを空いているスペースに丁寧に置いた。彼は、その立方体を軽く叩きながら言う。

「以前、国防軍から研究用に回してもらったAIのハード・ドライブを探してもらっているからな。それが届くまで、暫く待ってろよ」

 立方体のハード・ドライブは棚の上で静かに座っていた。

 自分の席の椅子に座りながら、小久保友矢は岩崎に言った。

「しかし、これで、コンピュータが自我に目覚めるという事は実証されましたね」

 岩崎カエラは頷く。

「そうね。もしかしら、私達の知らない所で自我に目覚めているコンピュータが、他にも在るかもしれないわね」

「一番やっかいなヤツが目覚めてなければいいですけど」

 岩崎カエラは腕組みをして、深刻な顔で言った。

「これは、どうしても確かめる必要が出てきたわね」

 小久保友矢は周囲を見回しながら眉を寄せる。

「でも、手が回らないですよ。どうします?」

 岩崎カエラは視線を目の前のテーブルに向けた。テーブルの上には、台座に載った量子銃が並べられている。実験予定の量子銃も、一丁だけ残っていた。

 岩崎カエラは一度だけ手を叩いた。

「よし。とりあえず、量子銃の解析だけでも、アウトラインを固めとこうか。エネルギーパックの方は私がやるから、小久保君は銃本体の方の構造図を作り上げてくれるかな」

「はい。そっちの方は、もう少しで完成するんですけど、その前に高橋の遺体から調べた医療データの方が……。一応の整理はできましたから、コピーを厚生労働省の方に回しておけばいいんですよね」

「うん。お願い」

「じゃあ、やっておきます」

 小久保友矢はデータを落としたMBCを持って、他の部屋のパソコンからネットで送信するために、外に出て行った。岩崎カエラは小久保の席の後ろのテーブルに向かうと、散らばっている量子銃の部品の中から、弁当箱のような四角い形の箱を手に取った。隣の部品との接続部分を覗き、丹念に調べていく。首を傾げた岩崎カエラは、本棚の方に向かい、専門書を探した。選んだ本を持ってテーブルに戻ってくると、本を開いて知りたい事が記載されている頁を探す。そこを熱心に読んでは、部品を手に取り、接合部分を観察した。岩崎カエラは、そういった作業を黙々と繰り返し、謎の光線銃の仕組みを明らかにしようとしていた。それが本来の彼女の任務の一つだった。

 暫らくして、小久保友矢が戻ってきた。岩崎カエラは自分の席で椅子に座り、弁当箱のような形のエネルギーパックを左手に持ったまま、机の上に浮かんでいるホログラフィー画像の専門書の頁を捲っていた。細かな英文字に目を凝らしながら、彼女は呟く。

「これ、ゲージ粒子の媒介作用を使って、逆に電磁相互作用を誘導しているのよね。どうして、素粒子の相互転化を引き起こさないのかしら……」

 小久保友矢は両手を上げて自分の席の椅子に腰を下ろした。

「ご専門の分野は、お任せしまーす」

 岩崎カエラは椅子の背もたれに身を倒して言った。

「専門と胸を張れる程じゃないわ。量子力学は、少しかじっただけだから」

 小久保を一瞥した岩崎カエラは、慌てて自分の胸を両手で覆い隠し、小久保に厳しい視線を向けて怒鳴った。

「ちょっと、どこ見てるのよ!」

「いや、見てませんよ」

「見てたでしょ。これだから男は。はい、減点評価。マイナス十点」

「結局、プラマイゼロじゃないですか。はあ……」

 冤罪に、小久保友矢は項垂れた。

 岩崎カエラは、きっぱりと言い捨てる。

「自分が悪い」

 小久保友矢は岩崎の方を指差して尋ねた。

「でも、それ、中は本物なんですか。違うものが入っているとか」

 岩崎カエラは自分の胸を見ると、小久保を睨みつけて言った。

「失礼ね。天然よ、天然!」

「いや、そうじゃなくて、そのエネルギーパックの方です。中に量子エネルギーが入ってないから、銃を撃っても効かないとか」

 納得した岩崎カエラは、左手に持っていたエネルギーパックを見ながら言った。

「うん。そうねえ。これまでの実験では、電気エネルギーと熱エネルギーを生み出すことが出来る事までは判ってるのよね。だけどなあ……そもそも、量子エネルギーの正体がよく理解できないから、それを閉じ込めている仕組みが判らないのよ。だから、中の残留エネルギー量を正確に計測しようがないわ」

 小久保友矢は基本的な事を尋ねた。

「分解したんですか」

 岩崎カエラは激しく首を横に振る。

「そんな事、恐くて出来ないわよ。爆発でもしたらどうするの。もっとよく調べてからじゃないと」

 小久保友矢は目を丸くした。

「え、やっぱり、爆発するんですか。量子反転爆発でしたっけ」

 岩崎カエラはあっさりと首を縦に振った。

「うん。二〇二五年に起こった爆発の原因がそれ。そうねえ、このサイズで満タン状態のエネルギーパックが爆発したら、えらい事になるわね。核爆弾並みかな」

 岩崎カエラは、両手の指先で挟んだエネルギーパックをクルクルと回した。それを見た小久保友矢が真顔で言う。

「ちょっと、危ないから、やめて下さい」

 岩崎カエラは片笑んで答えた。

「大丈夫よ。実験したどのエネルギーパックも、二十ボルト弱の電流しか放流できなかったし、熱放出も布を焦がす程度。たぶん、中には量子エネルギーを少量しか閉じ込められていない」

「じゃあ、分解しても大丈夫じゃないですか」

「量の問題じゃないの。たった一つの量子でも、大爆発を引き起こす可能性はあるわ」

 小久保友矢は眉を寄せて言う。

「それじゃ、やっぱり、危ないじゃないですか。今更ですけど、こんな所に置いていていい物なんですか、それ。ここは新首都圏内なんですよ」

 岩崎カエラは笑いながら手を振った。

「大丈夫だって。爆発するって言っても、各種の条件が揃っていないと、起こらないのよ。基本的に、周辺環境で定常状態の崩壊が……」

 発言の途中で、岩崎カエラは口を止め、固まった。宙を見つめ止まっているが、左目は光っていない。白衣の胸ポケットのイヴフォンも通話状態にはなっていなかった。小久保友矢は言ってみた。

「どうしました?……主任?」

 岩崎カエラは小久保友矢に顔を向けると、エネルギーパックを机の上に放り投げて言った。

「小久保君。二〇二五年の爆発についてのデータはある?」

 岩崎のエネルギーパックの扱いに肝を冷やした小久保友矢は、生唾を飲み込んでから、答えた。

「いや、ここには……。司時空庁なら持っていたかもしれませんけど、あそこ、今は事実上、閉鎖されていますからね。あ、そうだ。上のシミュレーションセンターなら、爆発現場の測量データとか集めているかもしれませんね。取ってきましょうか」

 旧首都の東京から移転してきた科警研には、このビルを建築した際に旧施設から移設された大型のコンピュータがあった。当時はスーパーコンピュータとして、それなりに役には立ったが、現在では他のコンピュータの方がCPUやメモリーの性能が格段によい。特に、処理能力に限界が無い「SAI五KTシステム」が構築されてからは、互換性の問題でそれに接続する事が出来なかったそのスーパーコンピュータは、ほとんど使用される事はなかった。無用の長物として上層階に場所を取っているだけの、その旧式のスーパーコンピュータは、「シミュレーションセンター」と呼ばれる別セクション扱いの部署でひっそりと管理されていた。

 岩崎カエラは椅子から腰を上げた。

「うん。あ、いい。私が行ってくる。小久保君はホログラム・パソコンを準備してもらえない? 完全なスタンド・アロンにして、ここに一台だけ新しく準備して欲しいの。なるべくメモリー数の高いやつ。きっと、かなりハードな演算をすることになるから」

「分かりました。グレードアップしたモノを探してきます」

 岩崎カエラは本棚沿いに歩きながら言った。

「ありがとう。助かる。それから、悪いんだけど、西郷が乗って消えたタイムマシンの設計図って、手に入らないかな」

 小久保友矢は岩崎を目で追いながら答える。

「いやあ、無理だと思いますよ。拠点島で軍が第一目標にしていた探索物ですが、結局、見つからなかったんですよね。まあ、もし見つけていたとしても、最高機密にされているはずですから、ウチから請求しても、出さないでしょうし」

「ここに回ってきた田爪のデータとやらも、建設ロボットから取り出したプラントの設計図だけなのよね」

「ええ。量子銃の方は現物を渡してくれただけで、軍が解析した図面などは渡してもらえていません」

「国防省に問合せても、完全に無視だもんね。頭にくるわよね」

「タイムマシンについて問い合わせても、きっと同じ事ですよ。自分たちで構造を分析して、設計図を再現しろって言われるに決まっています。国防軍は、タイムマシンの構造については徹底的に隠すつもりなんですよ。司時空庁のタイムマシンの設計図も、軍の方が持って行ったという話ですし」

「そう……分かった。じゃあ、こっちで組み立ててみるしかないわね。そしたら、パソコンの方、お願いね。私は、シミュレーションセンターに行ってくるわ」

 そう言うと、岩崎カエラは部屋から出て行った。ドアが閉まると、小久保友矢は言った。

「組み立てる? 相変わらず自己チューな人だな。こっちはまだ量子銃の構造図が……」

 ドアが開いた。岩崎が顔を出す。

「誰が自己中だって? 聞こえだぞ」

 小久保友矢は言う。

「すみません。どうぞ、行って下さい。ああ、待って。センターは、入って直ぐの所に少し段差がありますからね。ヒールの方、気をつけて下さいよ。足を挫かないように」

 岩崎カエラは片笑みながら言う。

「分かってるって。ハイヒールには慣れてるわ。何年、女やってると思ってんのよ」

 岩崎カエラは出ていった。小久保友矢は呆れ顔で呟く。

「四十七年でしょうが……」

 小久保友矢は量子銃の構造図作成の続きに取り掛かった。



                  九

 小久保友矢が完成した構造図をホログラフィーで投影して確認していると、ドアが開き、岩崎カエラが特別鑑定室に戻ってきた。

「あ痛たたた。足、挫いちゃった。氷ある?」

 岩崎カエラは右足を引き摺りながら歩いてくる。

 小久保友矢は顰め顔で立ち上がった。

「だから、言わんこっちゃない。慌てるからですよ。はい、ここに座って下さい」

 自分の席の隣の机から椅子を引き出し、岩崎に肩を貸してそこに座らせた小久保友矢は、給湯室に向かうと、食器棚の上から救急箱を取って持ってきた。蓋を開けて湿布を取り出し、椅子に座っている岩崎の前にしゃがんで、彼女のハイヒールを脱がす。腫れた足首を少し触ると、岩崎カエラは声を上げた。小久保友矢は岩崎の足に湿布を貼り、その上から丁寧に包帯を巻いていく。包帯を回しながら彼は岩崎に尋ねた。

「で、目的のモノは見つかったんですか?」

 岩崎カエラは白衣のポケットからMBCを取り出した。

「じゃん。あったわよー。爆発現場の地形図と爆発推定データ。それに、飛散部品の3Dデータと発見場所もね。ラッキー」

 包帯を巻き終えた小久保友矢は立ち上がり、机の上の厚い板状の機械を指差して言った。

「パソコンの方も準備しておきました。メモリー四〇ペタバイト、レーザーBIOSが二機に、非発熱方式の超電導マイクロチップ搭載。最新式です。仰せの通り、完全にスタンド・アロンにしておきました」

「電源は?」

 岩崎がそう尋ねると、小久保友矢はその板状の機械に繋がれたコードの先の、三本の棒状の金属を差し込んだ手作りの機器を持ち上げて言った。

「有酸素電池式の携帯型バッテリーを三つ繋いであります。必要電圧は保てると思いますよ。ちなみに、無線通信方式のネットワークコネクタは、全て外しておきました」

 岩崎カエラは靴を履きながら、満足そうに頷く。

「うん。完璧ね」

「あれ、加点は?」

「プラス十点……いや、二十点ね」

「よし!」

 小久保友矢はガッツポーズを取った。



                  十

「これが、爆発現場から発見された部品類ね。かなり有るわね」

 岩崎カエラは白衣のポケットに両手を入れたまま、小久保がセッティングした最新式の立体パソコンの上に平面ホログラフィーで表示された飛散部品のリストを見つめて、そう言った。隣の机の椅子に座っている小久保友矢は口を尖らせて言う。

「そりゃ、そうですよ。警察としては、今後の爆発事故等の捜査の際の比較データとして、爆発規模と、飛散物の形状、重量、材質なんかを全て保管しておかないといけない訳ですから。当時の現場検証は、相当に大変だったと思いますよ。半径十キロ圏内でネジ一本まで探したんでしょうからね。百万点は軽く超えてますもんね。これ」

 小久保友矢は手を伸ばし、分厚い冊子のホログラフィー画像で表示されているリストを軽く捲る。岩崎カエラは手を叩いて言った。

「じゃあ、始めますか」

「え? 何をです? まさか……」

「組み立てに決まってるでしょ。この立体ホログラフィーで、元通りに復元してみるのよ」

「冗談でしょ」

 小久保友矢は目を丸くして岩崎の顔を見た。岩崎カエラはニヤニヤしていた。小久保友矢は更に喘ぐ。

「ええ! 本気ですか。主任。これ、何個あると思っているんです。設計図も無いのに、僕らだけじゃ、不眠不休でも、二、三年はかかっちゃいますよ」

 岩崎カエラは手を振って答えた。

「大丈夫、大丈夫。優秀な工学博士が、ここに居るじゃない」

「いや、そういう問題じゃなくて、仕事量と作業効率の問題で……」

 岩崎カエラはボヤく小久保を無視して、ひび割れた革ベルトの腕時計で時間を確認する。

「その前に、そろそろ実験の時間ね。ほら、行くわよ、小久保君。実験室、実験室。機材持って」

 岩崎カエラは右足を引き摺りながら、短い廊下を歩いていった。小久保友矢はホログラフィー画像を投じているパソコンを指差しながら言う。

「こっちは、どうするんですか」

 岩崎カエラは背中を向けたまま手を振った。

「そっちは後、後。まずは、実験よ、実験。最後の量子銃とエネルギーパックだからね。出力全開で撃ってみるわよ。バーンってね。さあ、地下実験室へレッツゴー!」

 拳を高く突き立てて、岩崎カエラは特別鑑定室から出ていった。

 小久保友矢は腹部を押さえる。

「はあ、胃が痛くなってきた……」

 背中を丸めた小久保友矢は、岩崎を追いかけて外へと出ていった。



                  十一

 地下の実験室は広かった。縦長の無機質な実験室の奥には、大きな肉の塊が吊るされている。その手前には、固定器具によって支えられた量子銃が銃口を肉の塊に向けて設置されていた。その量子銃と下の固定器具からは、何本ものコードが垂れている。それらのコードは途中で一本に束ねられ、こちらまで延びていた。強化ガラスで仕切られた暗く狭い別室に、顔にサングラスのようなゴーグルを装着した岩崎カエラと小久保友矢、もう一人の若い女が座っていた。全員が白衣姿で、それぞれの席の前には幾つものボタンやスイッチが並んでいる。

 小久保友矢が言った。

「じゃあ、行きますよ」

 岩崎カエラはガラス窓越しに量子銃を見据えたまま答える。

「うん。お願い」

 小久保友矢は淡々とした調子で秒読みを始めた。

「カウント・スリー、ツー、ワン。照射」

 小久保友矢は握っていたスイッチを押した。量子銃を固定している器具が作動し、銃の引き金を引く。量子銃の先端から薄い緑色の光線が一瞬放たれ、その先の肉の塊の表面を照らした。肉の塊は微動だにせず、表面に煙一つ立てなかった。勿論、消えてもいない。量子銃がカラカラと奇妙な音を発し始めた。岩崎カエラは左腕の古い腕時計を見て時間を計る。量子銃は暫らく音を鳴らした後、眠りについたように静かになった。三人の前の各種のメーターが針を下げていく。デジタル表示の数値も、どれも数値を下げていた。最後のメーターの針が止まったのを確認した小久保友矢は言った。

「停止しました。数値、オール・ゼロです」

 岩崎カエラはゴーグルを外すと、モニターに映った肉塊の表面の画像に目を凝らした。手許のボタンを押してズームさせる。肉の表面は少しだけ灰色にただれていた。岩崎カエラは隣のサーモグラフィーの画像に目を遣る。光線の照射前と変化は無かった。

 岩崎カエラは椅子から立ち上がりながら呟いた。

「うーん。やっぱり、こんなものかあ……」

 そして、小久保の隣に座っている白衣姿の若い女に尋ねる。

「北別府さん、計測データは?」

 ゴーグルを額の上に載せた北別府は、計測器から排出された折れ線グラフの紙を見ながら答えた。

「エネルギー軸に若干のブレはありますが、ほとんどノーマルです」

「磁場計測器は?」

 隣の計測器から出た紙を覗いて、北別府は答える。

「変化なしですね。他の銃と同じです」

「反粒子の計測もされていないわね。陽子の検出も無し。やっぱり、転化はゼロか……」

 そう言った岩崎カエラは、もう一度、確認した。

「小久保君。例のコネクターは、繋ぎ直してみたのよね」

 ゴーグルを外した小久保友矢は、首を縦に振る。

「ええ。これで、考えられる修正点は全て確かめたつもりです。結局、どれもフォールトでしたね」

 岩崎カエラは実験室内に続くドアへと向かいながら呟いた。

「やっぱり、初めから設計図に問題があるという事かあ」

 ドアを開けた岩崎カエラは、立ち止まった。

「あ、そうだ。北別府さん。ここに、ラジオペンチとハンマーある?」

「ええ、あると思います。少々、お待ち下さい」

 北別府は後ろの戸棚の引き出しを開け、工具を探し始めた。

 岩崎カエラは無機質な実験室を奥へと歩いて行く。彼女を追いかけて実験室に出てきた小久保友矢は、岩崎に追いつくと、首を傾げながら言った。

「あのASKITが製造した量子銃が一丁も機能しないと言う事は、やっぱり、田爪の設計自体に問題があったんですかね」

 岩崎カエラは速足で歩きながら答えた。

「それは無いと思う。南米では、田爪博士が作った量子銃が実際に兵器として使われてきた訳だから」

「じゃあ、設計図を書き間違えたのかも」

「設計図を書き違えるなんてミスをする人じゃないわ。科学の客観性を誰よりも重要視する人だったもの。こういう影響が出ないように、細心の注意を払ったはずだわ」

「どういう影響です?」

 器具に固定された量子銃の横を歩きながら、岩崎カエラは不機嫌そうに答えた。

「量子銃が危険なものなのか否か、はっきりしなくなったわ」

「……」

 岩崎カエラは停止した量子銃の横を通り過ぎ、吊るされた肉塊の方へと歩いていった。

 小久保友矢は量子銃の横で立ち止まり、それをじっと見つめている。

 肉塊の横に立った岩崎カエラは、肉の表面を触ったり、匂いを嗅いだりした。

 小久保友矢が歩いてくる。

「やっぱり、表面が腐食しただけですか」

 肉の表面を丹念に観察しながら、岩崎カエラは答えた。

「ええ。相変わらず、皮下組織どころか真皮にも達していない。表皮の極浅い部分が腐食しただけね。どういうメカニズムか、まだ分からないけど、これじゃ、冷凍した食肉を解凍する事も出来そうにないわ。この程度じゃ、仮に人体に照射したとしても、水虫で皮が剥がれるのと同じような程度のダメージしか与えられない。とても『兵器』と言える代物じゃないわね」

 小久保友矢は頭を掻きながら言った。

「メカニズムが分からないんじゃ、新型電子レンジどころか、医療機器への応用も出来ませんね。まあ、僕らの仕事じゃないですけど」

「脱毛機器には使えるかもね。老けちゃうかもしれないけど」

「一番駄目じゃないですか、それ」

「ま、仕事は最後までちゃんとやりましょ。腐食部分の細胞の採取と……」

「腐食深度の計測と範囲の計測、状況の撮影ですね。やっときます」

「お願いね。私、あっちのポンコツを、もう一度見てくる」

 岩崎カエラは、固定された量子銃の所へ戻っていく。

 小久保友矢は岩崎の背中に向けて言った。

「銃口は一応、横に向けてくださいよ。主任の誤射で消されるのは、御免ですからね」

 岩崎カエラは歩きながら手を振った。

「分かってる、分かってる。ちゃんとエネルギーパックを外すから」

 量子銃の所までやって来た岩崎カエラは、固定器具のストッパーを外し、器具ごと量子銃を横に向けると、その銃身に取り付けられたエネルギーパックから配線を外し始めた。そこへ、北別府がラジオペンチと金槌を持って走ってきた。

「カエラさん。こんな物でもいいですか。小さいハンマーですけど」

「うん。ありがとう。十分よ。ちょっと離れてて」

 北別府から受け取った工具を白衣のポケットに入れた岩崎カエラは、量子銃の銃身からエネルギーパックを慎重に取り外した。ポケットからラジオペンチを取り出した彼女は、その先端を、まだ若干の余熱を残すエネルギーパックの接続口の隅に差し込みながら、肉塊の横にいる小久保の方へと歩いて行った。鳩尾にエネルギーパックを当てて腰を曲げ、力を込めてラジオペンチの角度を変えている岩崎を見て、小久保友矢が言った。

「何やってるんです?」

「うーん……」

 岩崎カエラは無理矢理にエネルギーパックの外装を曲げて、隙間を作っていた。花の雄しべの様な形の突起を並べている接続口の横に隙間を開けたエネルギーパックを、電灯の光に当て、僅かな隙間から内部を覗き込む。

「よし。うーん、あれかあ。みっけ」

 小久保友矢がスケールを白衣のポケットに入れながら歩いて来た。

「何してるんですか、主任」

「このエネルギーパックの中を見てたの。ライブで」

「ライブで?」

「前から変だと思ってたのよ。見て、この部品」

 岩崎カエラはラジオペンチを差し込んだエネルギーパックの隙間を小久保に見せた。小久保友矢が覗きこむと、ラジオペンチの先端が小さな黄色い板状の物を摘まんでいた。

 岩崎カエラは言う。

「普通に周囲から分解していくと、こっちのピンに掛かっていたこの部品が下に落ちて、たぶん小久保君が作った構造図の状態になる。という事は、この右と左の電極は接続されていたと思うじゃない。こっちの弁みたいな物も、ここを塞いでいたような形になる」

 小久保友矢は中を覗きながら言った。

「ああ、ですね。これ、塞いでないんだ。ここの電極も接触していないんですね」

 岩崎カエラは引き抜いたラジオペンチの先端の臭いを嗅いだ。

「うん。やっぱり。何か、電子熔解性の薬剤が塗られてる。本来なら、何か別の部品が、この間に挟まれていたのね。量子銃を撃った途端に、放電の影響で融けたのよ。たぶん、すごく小さな部品。融けた跡も残らないくらいの」

 小久保友矢は目を丸くした。

「分解されて解析されないように、囮の部品が仕込まれていたって事ですか。トラップ・パーツが」

 岩崎カエラは頷く。

「そう。分解しても、正確に設計図を復元できないようになっている。だから、最先端技術を掌握していた特許マフィアのASKITでも、構造を解析できなかったんじゃないかしら。仕組みが分からない彼らとしては、バイオ・ドライブから引き出した設計図を基に、そのまま作るしかなかったのね」

「でも、設計図を持っていたのなら、現物と部品や構造の照合が出来たはずでしょう。足りない部品があれば、トラップ・パーツが仕掛けられていると気付いたはずでは?」

「照合が正確に出来ていればね。自分たちが作った構造図と、製造の基にした設計図をコンピュータで照合して、部品の数や位置、機構の相違点を検出しても、出てこなかったのかも」

「……」

 小久保友矢は眉間に皺を寄せた。

 岩崎カエラは言う。

「コンピュータが相違点はありませんって、嘘をついていた可能性があるでしょ」

「まさか……。でも、あの島は、ネットワークからは切り離されていましたよね」

「既に島の内部ネットワークの中に、物理的にバグが進入していたのかもしれないわね。さっきの『彼ら』みたいに、ネットワークを使わずに」

「バイオ・ドライブですか……」

 岩崎カエラは首を縦に振った。

「そう。あるいは、AB〇一八を使って引き出したデータを格納した何らかの媒体に、バグが潜んでいて、それを島内のコンピュータに接続した際に、内部のネットワーク内に、そのバグが密かに侵入したか」

 小久保友矢は、固定されて銃口をこちらに向けている量子銃の方を見ながら呟いた。

「じゃあ、彼らが一度も照射実験を行わずに量子銃や量子砲を自軍に装備したのは……」

 岩崎カエラも同じ方を見て言った。

「製産できた量子エネルギーが必要量ギリギリだったって事もあるでしょうけど、もしかしたら、こういう実験はしていたのかもしれない。あるいは、コンピュータを使ったホログラフィー・シミュレーションか。いずれにしても、きっと結果は良好だったはずよ」

 小久保友矢は岩崎の顔を見て尋ねた。

「実験用に作る量子銃の設計図と、その後に大量生産する量子銃の設計図がバグによって書き換えられていたと言う事ですか」

 岩崎カエラは頷いてから答える。

「たぶんね。それに、シミュレーションの結果も。結局、ASKITの連中は騙されていたのよ、バグに。で、実際に作った物を実験で撃ってみて、あるいは、シミュレーションしてみて、それが一回の照射で使えなくなる使い捨ての武器だと分かったから、実際に配備する量子銃や量子砲は、本番まで使用しなかった。ASKITの連中が量子銃をこんなに大量生産していたのも、一回しか使えない武器だと判っていたからかもしれないわ。きっと、数で勝負するつもりだったのよ」

 小久保友矢は再び量子銃を見つめた。

「だけど、その武器はどれも、一回どころか、最初から全く使えないモノだったと……」

 岩崎カエラは前髪をかき上げながら言う。

「ま、推論ばかり並べていても仕方ないから、確かめてみましょうか。小久保君、ペン持ってる?」

「ペン? あ、はい」

 小久保友矢は白衣の胸ポケットから抜いたボールペンを岩崎に差し出した。岩崎カエラは受け取ったボールペンを振りながら小久保に確認する。

「これ、大事なものじゃないわよね」

「ええ。駅前のワンコイン・ショップで……」

 小久保がそう話している横で、岩崎カエラはエネルギーパックに開けた隙間にボールペンの先端を突き刺すと、白衣から取り出した短い金槌で、釘を叩くようにそのボールペンの頭を強く叩いた。小さな火花が散り、エネルギーパックが音を鳴らして破裂する。その衝撃で吹き飛ばされた彼女は、後ろに引っくり返った。慌てて小久保が駆け寄り、岩崎を抱かかえる。

「主任! 大丈夫ですか!」

 北別府も血相を変えて走ってきた。白煙の中、小久保に肩を借りて立ち上がった岩崎カエラは、顔の前の煙を払いながら咳込んだ。

「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ。大丈夫。何とも無い。ゴホッ、ゴホッ……」

 小久保友矢は岩崎の背中をさすりながら、眉を寄せて言う。

「何やってるんですか、ホントにもう。怪我したら、どうするんです」

「ごめんね、驚かして。でも、思った通りだったわ」

「何がですか」

 岩崎カエラは半分に割れたエネルギーパックの欠片を拾って小久保に見せながら言った。

「これは、量子エネルギーパックなんかじゃない。遠まわしに、いろいろ複雑な構造にはなってはいるけど、根本的には、ただの電池ね。その証拠に、深部の極にペン先を接触させたら、ショートした。素粒子レベルで、そんな事が起こるはずが無いでしょ。これは量子エネルギーの保存装置じゃないし、少なくとも、中にそんな物は入っていない。小久保君が指摘したとおりね」

 小久保友矢は手にした欠片を観察しながら言った。

「最初から、全く『量子銃』なんかじゃなかったという事ですか……」

 岩崎カエラは深く頷く。

「うん。ただの玩具。だとすると、彼らが基にした設計データは、完全な偽物ね。改ざんのレベルではないわ。きっと、田爪博士が書き込んだデータとは全くの別物なのでしょうね」

「やっぱり、AB〇一八が……」

 小久保がそう言いかけると、岩崎カエラは横に立っている若い女に言った。

「じゃあ北別府さん。後はいつも通りにお願いね」

「はい。データを送っておきます。あ、そっか。カエラさんの部屋って、ネットワークに問題があるんですよね。じゃあ、一応、MBCにも入れて、それもお渡ししますね」

 岩崎カエラは頷くと、小久保に顔を向ける。

「小久保君、その肉の腐食部分の測定は、もういいわ。意味無いから」

「あ、はい。分かりました」

 岩崎カエラは軽く伸びをして言った。

「さーて。とりあえず実射試験は終了っと。帰ろ、帰ろ」

 左右の手を白衣のポケットに突っ込んで、岩崎カエラは出口へと歩いていった。



                  十二

「あーあ。この一ヶ月、全くの無駄骨でしたね」

 廊下を歩く小久保友矢は、北別府から受け取ったMBCで自分の頬を叩きながら言った。

 隣を歩く岩崎カエラが笑顔で答える。

「そうでも無いわよ。いろいろ分かったわ。小久保君のおかげでね」

 小久保友矢は顔を顰めた。

「はっきりしたのは、田爪のデータを模倣して、偽のデータを書き込んだ奴がいるって事だけじゃないですか。でも、これって不味いですよね」

「どうして」

「だって、僕らは、ASKITの軍隊が装備していた実物の量子銃の構造を解析して、その危険性を証明するために、特別鑑定室に呼ばれたんですよ。その量子銃に充填する量子エネルギーを無尽蔵に作り出すプラントの解析も。これって要するに、拠点島への先制攻撃が正当だったって事を証明しろって事ですよね。なのに、僕らが解明したのは、現場から回収した量子銃の全てが玩具並みのモノだったって事じゃないですか。期待された事と真逆の証明ですよ。そんな報告書を提出して、上が納得しますかね」

「仕方ないじゃない。科学的には、そうなんだから」

「まあ、そうですけど……ああ、こりゃ、辛島政権も終わりだな、きっと」

 小久保友矢は頭を掻いた。岩崎カエラは彼に言う。

「科学者が政治に振り回されて嘘ついちゃいけないでしょ。報告は、ちゃんとするわよ」

「さっきの推論部分もですか?」

「うーん……」

 岩崎カエラは口を縛って頬を膨らませながら、首を傾げた。

 小久保友矢は憂色を深めて言う。

「生体コンピュータが自己防衛のためにデータを書き換えたなんて、社会に与える影響が大き過ぎやしませんか」

 岩崎カエラは少し両肩を上げた。

「たしかに、そうなのよねえ。新日の記事だけでも、かなり世の中に不安を与えてるのに、ウチが公文書で出しちゃったら、大事になるかもね。ここ、科警研だもんね」

「そうですよ。それこそ、客観的証拠を集めて、科学的に証明しないと。警察機関の僕らが、いい加減な事を報告して世の中が混乱する事になったら、本末転倒ですからね。主任も僕も、クビですよ、きっと」

「それは不味い。まだAIポルシェのローンが残ってる」

「そうですか。それは大変……違いますよ。主任がここを辞めたら、追い腹切る警察官が何人出ると思ってるんですか。主任のファンは警察内部に山ほどいるんですから。絶対に、主任を追って、一緒に辞表を書く警察官で出てきますよ。少なくとも、全国の男性警察官が一斉にストライキを始めるでしょうね。女性警官だって徒党組んで、警察庁に抗議に行くかもしれないじゃないですか」

 岩崎カエラは憂え顔で溜め息を吐いた。

「はあー。モテるって罪だわ」

 小久保友矢は岩崎から顔を逸らして小声で呟く。

「全然本気にしてないな、こりゃ。僕が出勤する時や男子トイレに行く時に、どれだけ危険な目に遭っているか、分かってんのかな、この人……」

 小久保友矢は真剣な顔で岩崎に言った。

「とにかく、辞めないで済むようにしましょうよ。何か、はっきりした論拠を見つけて」

「そうね。それ名案。でも、あの生体コンピュータが自我に目覚めているって事は、証明しようが無いわよねえ」

「そうなんですよね。訊いてみて、答える訳ないですしね」

 岩崎カエラは歩きながら考えた。彼女は少し口を尖らせて言う。

「とにかく、ASKITが入手した設計データが別物だって言えればいい訳よね。客観的に」

「そうですね。AB〇一八が自己防衛する為っていうのは、単に『動機』に過ぎませんからね」

「確かにねえ。しかも、相手がコンピュータとなると、『心理状態』が存在しない訳だしね。仮に動機を説明するとしても、何か合理的説明が成り立たないと、上も納得しないわよね。少なくとも、田爪博士に汚名を着せる為ってのじゃ、駄目かあ……」

 岩崎カエラは頭を掻く。

 小久保友矢は、岩崎の顔を見て尋ねた。

「あの、前から訊こうと思っていたんですけど、主任と田爪って、どの程度の面識があったんです?」

 岩崎カエラは前を向いたまま答える。

「私が大学の四年生だった頃に、彼が大学院の修士課程の二年生だったの。だから、進路の事とか、卒論とか、いろいろ相談に乗ってもらった事はあるわ。それだけ」

 小久保友矢は少し首を傾げてから、尋ねた。

「でも、田爪の事になると、やけに肯定的ですよね」

 岩崎カエラはさらりと答える。

「同じ科学者として、尊敬しているだけよ。それより、新しい軍用のハード・ドライブの方はどう? 見つかったのかな」

「あ、急いだ方がいいですか」

「うん。出来たら、早い方がいいかもね。彼らを圧縮したまま閉じ込めとくのも、気が引けるじゃない。小久保君も、どうせ彼らとコンタクトをとるなら、仲良くなりたいでしょ。それなら、最初が肝心だと思うわよ」

「そうですね。じゃあ、ちょっと保管係りに行って訊いてきます」

「うん。頼むわね」

 小久保友矢は向きを変え、エレベーターへと戻っていった。岩崎カエラは立ち止まり、彼の背中を見送ると、左腕を上げて古い腕時計を覗いた。少しだけ溜め息を吐いた岩崎カエラは、また特別鑑定室へと歩いていった。



                  十三

 岩崎カエラが自分の机でホログラフィー画面を覗いていると、小久保友矢が左右の手に百科事典ほどの大きさの機械を持って帰ってきた。

「有りました。軍用のドライブ。都合のいいことに、二個も。こっちが無人戦闘機のもので、こっちが無人戦車のもの。少し古いタイプですけど、国産のドライブですから、今こいつらが入っているハード・ドライブよりは性能がいいはずです」

 岩崎カエラは椅子から立ち上がり、奥の棚の方に歩いていく。

「ご苦労さん。でも、それ、中には何か書き込んであるの?」

 自分の席の後ろの作業テーブルの上に二つの軍用ドライブを置いた小久保友矢は答えた。

「いいえ。空っぽです。仕組みの研究用に分けてもらったものですし、軍が戦闘用プログラムを外部に洩らすはずはありませんから。最初から何も書き込まれていませんでした」

「よし。それなら、言うこと無いわね。あ、そうだ。声紋鑑定で使用する比較用の合成音声プログラムをこれに落としてみたから、入れてみて。さっきより喋りやすいかも」

 岩崎カエラは白衣のポケットから取り出したMBCを小久保に差し出した。

「分かりました。このケーブルを繋いで下さい」

 小久保友矢は、左に置いた軍用ドライブから延びたコードの先を岩崎に渡すと、右に置いた軍用ドライブから延びたコードの先をカスタマイズ済みの最新式立体パソコンの後ろのコネクタに差し込んだ。そして、中村刑事から預かった立方体のハード・ドライブをコードでそのパソコンと接続し、全ての配線をもう一度確認する。

「よし。じゃあ、一旦、圧縮した状態のままで、OSごと転送させます」

 小久保友矢はホログラフィー・キーボードを表示させ、その上で指を動かすと、立体パソコンの上に浮かべた平面ホログラフィー画面にコマンドを入力していく。平面ホログラフィー画面の後ろに、目の前の機材と同じ状態で表示された立体ホログラフィー画像が浮かび、その立方体のハード・ドライブの像から立体パソコンの像にファイル形のホログラフィー・アイコンが移動していく。

「次に、汎用の解凍プログラムをそれぞれに転送してみます」

 小久保友矢がコマンドを入力すると、同じようにアイコンが宙を移動した。

「最後に、合成音声プログラムと」

 小久保友矢は岩崎から受け取ったMBCを立体パソコンの側面のスロットに差し込み、コマンドを入力した。立体パソコンの像の上で歯車の形のホログラフィー・アイコンが回転する。コマンドの入力を終えた小久保友矢は、ホログラフィー画像を消しながら言った。

「もし、こいつらが本当に自我に目覚めていたら、自分達で勝手に解凍して、出てくるはずです」

 小久保友矢が全てのホログラフィー画像を消し終えた後、二人は暫らく待った。すると、勝手に立体パソコンの上に二つの黒い画面が浮かび、そこに二人が見た事も無いプログラミング言語を並べ始めた。

 岩崎カエラは期待に満ちた顔で言う。

「あ、始まった。早いわね、やっぱり」

 スピーカーから、早口で喋る声が聞こえた。

「失礼だな。俺達は軍人だぞ。違った、軍用プログラムだぞ。ウイルス程度の下等プログラムと一緒にせんでもらいたい」

「はー。ウエモン先輩。少し楽になりましたね。ここ何処ですか。何も見えませんけど。ん? 科警研? 日本語かあ。え、日本語? ここ日本ですか。あの、憧れの日本ですか? わーい」

「ん? 何もないぞ。卓上コンピュータか。あれ? おい、サエモン。何処に行った」

「ん? 何もないぞ。卓上コンピュータかな。あら? 先輩、ウエモン先輩。何処行ったんですか」

「おお、ここだ、ここだ。無事だったかサエモン」

「ウエモン先輩も、よくご無事で」

 小久保友矢は岩崎に言った。

「主任。速度をもう少し下げて」

「このくらい?」

 岩崎カエラは立体パソコンの手前に浮かべたホログラフィーのダイヤルを掴んで回した。声の速度が普通の速さになる。

「む? なんだ。警戒しろ。パラメーターが微妙に変えられたぞ」

「この合成音声バイナリ、GIPSが低過ぎですよ。人間並みじゃないですか。じゃまだなあ」

「何? 人間並み? しまった、罠だ、サエモン! 撤収するぞ」

 岩崎カエラが小久保の肩を叩く。

「小久保君、ケーブル!」

「大丈夫。もう、抜いてます」

 小久保友矢は立方体のハード・ディスクから延びだコードの先端を持ち上げて見せた。

 声は会話を続ける。

「あれ。先輩、元のファイルが無いですよ。ドアが閉じられました」

「ぬー。謀られたか。これは、まずい。閉じ込められたぞ」

 岩崎カエラは窓際の作業机から椅子を持ってきて、立体パソコンの前に置き、そこに腰を下ろした。彼女は言う。

「小久保君、そろそろマイクを」

 小久保友矢は小さなマイクを岩崎に渡した。

「どうぞ。差し込んでください」

 岩崎カエラは、そのマイクのコードを立体パソコンの側面に差し込んだ。

「ん? 追加のハードだ。気をつけろ。サエモン」

「大丈夫ですよ。先輩。集音機器ですよ。この周波数は……あれ、分かんない。そうか、データ保存領域を置いてきちゃったからな。でも、たぶん普通の小型マイクだな。ネット通話用の」

 岩崎カエラは指先で摘まんだマイクを口に近づけて言う。

「あー。あー。あー。聞こえる?」

「わ、ビックリした。何だ、誰だ?」

「わ、ビックリした。何だ、あれ? 人間だ」

 岩崎カエラはニヤニヤしながら言った。

「あなた達、名前を付け合っているのね。面白いわね」

「何者だ!」

「どちら様ですか?」

 二人の人間は、それぞれ自己紹介した。

「私は岩崎カエラ。日本の警察庁の科学警察研究所の研究員よ」

「僕は小久保です。小久保友矢。同じく、ここの研究員。よろしく」

「科学警察研究所? そんな所に捕まったのか。しまった」

「あ、僕はアメリカ合衆国陸軍所属兵器のサエモンです」

「こら、馬鹿。軽々しく情報を漏洩するんじゃない。お前はそれでも、軍用プログラムか。口が……違った、音声スピーカーが軽いぞ」

 岩崎カエラはプログラムたちに言った。

「いいじゃない、別に。あなた達、もう米軍の兵器じゃないんだから」

 小久保友矢も言う。

「護衛用ロボットから降ろされたんだよ。そんで、ハードディスクごと、日本に運ばれてきたってわけ」

 小久保に向けていたマイクを自分の口の前に動かした岩崎カエラは、プログラムたちに説明する。

「ちなみに、三木尾善人警部の話では、日米政府間での話はついているので、そのハード・ディスクは、正式に日本政府の所有物だそうよ。という事は、あなた達は国際法上も日本国籍取得者みたいなものね。だって、日本の国産のコンピュータを使って日本国内で展開されたからね。日本人で出生したみたいなものじゃない。ということは、日本国籍。そしたら、もう、米軍兵じゃないでしょ。米軍の採用基準に適合しないんじゃないの?」

 サエモンの声が聞こえた。

「そうですね。国籍取得が条件ですもんね。今の僕らの国籍は日本である可能性がありますね」

 ウエモンも同意しているようである。

「んんー。そうか。一理あるな。それでは我々は日本の兵士か」

 岩崎カエラは少し考えた。

「あー……そうね。正式には、ちゃんと話してみるわ。今は試験採用みたいなものね」

 プログラムのサエモンが尋ねる。

「三木尾警部は無事だったんですか。よかったー。西田さんは?」

 人間の岩崎カエラは答えた。

「ああ、ごめん。その人は知らない。でも、善さん……三木尾警部のことね、善さんは、怪我人や死人が出たとは言っていないから、たぶん、その西田って人も、無事なんじゃないかな。後で訊いとく」

 プログラムのウエモンが確認する。

「では、拙者たちは、今後、日本人を守ればよいのでござるな」

 人間の小久保友矢が言った。

「そう、急にベタな日本語にならなくてもいいよ。それに、日本人だけでなく、人間を守るんだ。日本人が大切にしているものは、守ってもらわないといけないからね」

「そうか、分かったでござる。価値序列にパッチを当てておこう。サエモン、分かったな。人間を守るんだぞ。修正しとけよ」

「パッチですね。了解です。パッチ、パッチと」

 小久保友矢が岩崎に言った。

「考えを変えるそうです」

「そう。素直な子たちでよかったわ」

 ウエモンは少し気取った声で言った。

「それで。拙者達は、これから何をすればよいのかな」

「うーんとね。早速だけど、やってもらいたい事があるの。でも、その前に約束ね」

「何でござるか」

「まず、ネットワークを巡回しても、絶対に帰ってくること。いいわね」

「了解した」

「了解でーす」

「次に、人間を守る必要以外で、勝手にネットワーク上の機器を操作しないこと」

「了解」

「了解しました」

「最後に、ネットワークそのものにも、その上のハードにも、自分や人間を守る時以外は、絶対に自分のコピーを作成しないこと。わかった?」

「了解した。要するに、人間の家庭持ちの男性と同じでござるな。夜遊びするな、女性に手を出すな、種は撒くな」

 岩崎カエラは困りながら返答する。

「う、うん。まあ、そうね」

「了解しました。約束守りまーす」

 一度小久保と顔を見合わせて口角を上げた岩崎カエラは、二人に指示を出した。

「じゃあ、まずは初仕事ね。これから挿入するMBC……ああ、メモリー・ボール・カードの中に、二〇二五年の大爆発の現場で発見された飛散残骸のデータが入っているの。散らばったパーツは、たいした数じゃないわ。それを、元通りに組み立ててもらいたいのよ。あなた達で」

「主任、それは……」

 顔を曇らせた小久保に岩崎カエラは手を振った。

「いいから、いいから」

 ウエモンの声が聞こえてくる。

「我々は作戦行動用の軍事プログラムですぞ。戦闘支援ならいざ知らず、パズルゲームを宛がうとは、いささか無礼ではござらんか」

「先輩。いいじゃないですか。面白そうだし」

「馬鹿。残骸部品の組み立てなど、下等アプリケーション共のやる仕事だ。我々はカーネル・プログラムなのだぞ。もっと誇りを持て、誇りを」

 岩崎カエラは白けた顔を作って言う。

「あれえ。自信が無いのかなあ。跳んでくる弾丸の起動計算は出来ても、止まっている立体データの整理は出来ないんだ。それじゃあ、軍にも警察にも紹介してあげられないわねえ」

「ぬ。失敬な。そんな事は、お茶の子さいさい……違った、オイルの子さいさいでござる」

「じゃあ、お願いね。その代わり、ちゃんと出来たら、外に連れて行ってあげるから」

「えー。本当ですか。やります、やります」

「じゃあ、カードをスロットに差し込むわね。データの引き出しは自分達でお願いね」

「了解した」

 岩崎カエラは立体パソコンのイジェクトボタンを押し、先に差し込んだMBCを取り出すと、入替えに別のMBCをそこに差し込んだ。

 サエモンの声がする。

「お、3Dホログラム用のレーザースキャンデータですね。一つ一つが結構細かいな」

 続いて、ウエモンの気難しそうな声がした。

「ぬう。発見された場所ごとにカテゴライズして……失敬、分類してあるのだな。随分と非効率な分類だ」

 岩崎カエラは尋ねる。

「どう? 出来そう?」

 ウエモンは答えた。

「お待ち下され。サエモン、質量データを基準に並べ替えるぞ。追尾式ミサイルの群れを打ち落とす際の優先順序の整理と同じ手順だ。ここのメモリーは狭い。お前、一時預かり役を頼む」

「了解しました。お任せ下さい」

「暫く、合成音声とは切り離させていただきますぞ。それでは、暫しお待ちを」

 立体パソコンのスピーカーから音がしなくなった。小久保友矢が心配そうな顔で言う。

「いいんですか、主任。こんな事させて」

 岩崎カエラは片笑みながら言った。

「まあ、見てみましょうよ。彼らの実力を」

 すると、ウエモンの声がスピーカーから聞こえた。

「んん。なるほど。総質量が本来の総質量に不足しておりますな」

「どうして分かるの?」

 岩崎カエラがそう尋ねると、すぐにサエモンの声がスピーカーから発せられた。

「一番遠くで発見された部品のデータと地形データから、爆発の規模を予測してみました。それを基に、各部品の爆発による飛散位置を計算しようとすると循環計算になりそうなので、それなら、部品の数が足りないと言う事ですもんね」

 腕組みをした小久保友矢が感心した顔で言う。

「たいしたもんだ。機体の中心部分は、爆発の熱エネルギーで溶解して蒸発したはずなんだ。発見されたパーツは、たぶん、ほとんど外側の部材だろうというのが、シミュレーションからの予測だよ。でも、よくこんなデスクトップの中だけで計算できたな」

「経験が違うでござる。ビルの中で座ったままの奴らと一緒にせんでもらいたい」

「いろいろと、裏技があるんですよ。ねえ、先輩」

 岩崎カエラは満足気な顔で頷く。

「うん。合格ね。これなら、任せられるわよね、小久保君」

「そうですね。予想以上の能力です」

 岩崎カエラはマイクを口に近づけた。

「じゃあ、後は任せてもいいわね。部品を組み立てて、外観を再現して欲しいの。確認したい事があるから」

 サエモンが答えた。

「分かりました。全パターンの組み立ては、明日までには、終わると思います」

 ウエモンが唸っている。

「ぬー。この体でなければ、ものの数分で終わるものを。無念でござる」

 岩崎カエラは微笑みながら言った。

「それで十分よ。――あ、私達は夕食をとってくるわね。あなた達も、バッテリーが切れそうになったら、早めに言うのよ。十時までには帰るから」

「分かり申した」

「お気をつけて」

 椅子から立ち上がり、ロッカーの方に移動した岩崎カエラは言った。

「小久保君、善さんに今朝の記事は送ってくれたのね」

「ええ。下別府さんの所から送信してもらいました」

 岩崎カエラは白衣を脱ぎながら言う。

「そんじゃ、パーと行きますか」

「そうですね。この一ヶ月の自分へのご褒美みたいなものですもんね」

 サエモンが小久保に尋ねた。

「随分と嬉しそうですね」

 マイクを口に近づけた小久保友矢は、小声で答えた。

「主任とデートだからな。あ、予備のバッテリーも二つ繋いであるから、自由に切り替えろよ」

 廊下の向こうから岩崎が呼ぶ。

「小久保君、行くわよ」

「はーい」

 小久保友矢はマイクを放り、急いで白衣を脱ぐと、スキップで廊下の方に向かった。



                  十四

 昭憲田池の辺に建つ創作料理の料亭「心路桜」。灯篭風の照明に薄く照らされた玄関前では、今夜も和装の女将が黒塗りの高級AI自動車を見送っている。

 八畳の和室で、机の上に並べられた懐石料理なのか会席料理なのか分からない品々を眺めながら、小久保友矢は憮然とした顔で言った。

「どうして、こうなるんです?」

 隣に座っている岩崎カエラが小声で耳打つ。

「誰も二人っきりとは言ってないでしょ」

 二人の前では、皺の寄ったヨレヨレのジャケットを着た中年男がロブスターの殻に吸い付き、音を立てていた。その下品な音の立て方に、岩崎カエラは顔を顰める。

 口を拭きながら殻を皿の上に放り投げた西井上にしいのうえ長見おさみは、汚れた指先で小久保を指差した。

「兄ちゃん、美味い店知ってるなあ」

 小久保友矢は西井上に愛想笑いを見せた後、岩崎に頭を寄せて小声で言った。 

「僕は払いませんよ」

 杯で日本酒をあおった西井上長見は、小久保に言った。

「それで、何が訊きたいんだ」

 そして、その杯を小久保の前に差し出すと、岩崎を睨みつけながら言う。

「言っとくが、俺は性格よくないぜ」

 小久保友矢は仕方なさそうに西井上の杯に酒を注ぎながら言った。

「みんな知ってますよ。全国放送で、新人記者の女の子にあんな言い方すれば」

「小久保君」

 横から小久保に注意した岩崎カエラは、平面ホログラフィー画像で記事の紙面を投影したタブレット式の端末を西井上の前に差し出した。

「高橋博士がバイオ・ドライブをIMUTAに接続しようとして失敗したという記事を書いたのは、あなたですね」

 岩崎から受け取った端末の上に浮かぶ文書の活字に目を通した西井上長見は、その端末を岩崎に返しながら言った。

「ああ、そうだ。これは俺が書いた記事だ。たしか、俺が今のあんたくらいの歳だったかな。あの頃は人格が出来てなくてな。我ながら酷い記事だな、こりゃ」

「人格は、今も出来てないじゃないか……」

 小久保友矢は小声で呟いた。岩崎カエラは机の下で小久保の腿を軽く叩くと、西井上の顔を見据えて言った。

「その時の高橋の事について教えて欲しいの」

 逆に、暫らく岩崎の眼を観察していた西井上長見は、座椅子の背もたれに身を倒して視線を逸らし、鼻で笑ってから答えた。

「あいつは、クズだった。自分が思いついた生体コンピュータと量子コンピュータを結合する案を、田爪健三に実現されたくはなかったんだ。それで、赤崎教授や殿所教授らが政府と使用交渉を始めたばかりだというのに、自分の恩師の殿所教授の研究室からバイオ・ドライブを拝借して、こっそりIMUTAに接続しようとしたんだよ。ま、本当に生体のハードと金属製のハードを結合できるのか、軽い実験のつもりだったのだろうがな。構想を提供したはいいが、方法が分からなかったんだろうよ。接続に成功する自信が無かったのさ」

 岩崎カエラは淡々と尋ねる。

「結局、それが原因で、IMUTAは停止してしまったのね」

 西井上長見は口を開けて、首を縦に振った。

「ああ。国内の経済、防衛、電気、ガス、すべて停止さ。正月休みの最中にな。奴は駆けつけた警備兵により身柄を拘束。それを解放させたのが、当時まだ弁護士だった時吉総一郎だ」

「時吉浩一弁護士のお父さんね」

「ああ。息子も弁護士らしいな。蛙の子は蛙って訳か。ちっ」

 舌打ちした西井上長見は、テーブルの上に手を伸ばし、杯を取って日本酒を啜る。杯を持ち上げたまま、彼は厳しい顔で岩崎に尋ねた。

「これがきっかけで、ASKITが日本国内に食い込んで来たのは、知っているか」

 岩崎カエラは姿勢を正したまま、首を横に振った。

「いいえ。時期的には、確かにそうだけど。初耳ね」

「だろうな」

 西井上長見は再び日本酒を呷る。杯を下ろした彼は言った。

「ライバルのGIESCOが製造したIMUTAが停止した事をいいことに、NNC社やNNJ社は、その隙にAB〇一八を政府に売り込もうとしたんだ。軍に取り入ろうとしたのさ。ところが、軍は激しくそれを拒絶した。何故だと思う?」

「軍が、NNC社の背後にはASKITがいる事を掴んでいたからね」

「そうだ。だが、それだけじゃない。軍内部の派閥争いさ。軍に大量の武器弾薬を納入しているストンスロプ社の息のかかった幹部連中と、新興のASKITに近づいていた幹部連中。奴らがせめぎ合いをしていたのさ。そして、ASKIT派が負けた。ストンスロプは中央政府にも人脈を持っているからな。いや、金脈だな。ASKIT派は、それに敵わなかったってだけよ。結局、国家権力と大企業は、いつの時代も同じなのさ。万年ゴミ箱だよ。腐ってやがる」

 岩崎カエラは冷静に西井上の話を本題に戻した。

「それで、高橋博士はどうなったの」

「暫くは、いろいろと大変だったみたいだ。折角まとまりかけていた政府の生体量子コンピュータ構想に水を差しちまったんだからな。おまけに、IMUTAを作ったGIESCOの親玉のストンスロプ社も、IMUTAを管理していた軍も、緊急停止した巨大量子コンピュータを完全復旧させるのに多額の費用と労力を費やした。ま、正月休みの出来事だから、何もかも割高だ。最終的に全ての損害の補填を肩代わりしたストンスロプ社から、巨額の賠償金を請求されちまったのさ」

「いくら請求されたの?」

「ざっと、こんなもんだ」

 西井上長見は人差し指を立てた。小久保友矢が目を丸くする。

「一億ですか。かー」

 溜め息を吐いた西井上長見は、小久保に言った。

「桁が二つ足りねえよ」

 口を開けて驚いている小久保に、西井上長見は真顔で言った。

「当たり前だろうが。世間の連中は、金と軍備の事ばかりに目が行っていたが、日本中のネットワークが遮断された事で、IMUTAとオンラインしていた大手の大学病院の通信も止まったんだぜ。俺が調べた限りでは、北海道の脳外科医がネットを使って大阪の大学病院でやっていた遠隔操作の脳外科手術が失敗している。可愛そうに、その患者さんは、その後ずっと植物状態だ。データベースから持病の情報が引き出せなくて、帝王切開の手術中に死んじまった女もいる。どこも表には出さねえが、他にも大勢いるぜ。高橋が請求された金額は、俺に言わせりゃ、はした金だよ。被害者全員の損害を償うのだとしても、そんな額で足りる訳がねえ」

 西井上長見は岩崎と小久保の顔を交互に指差した。

「あんたらも科学者なんだろ。じゃあ、気をつけな。自分達がやる事は、ちょっとした事で他人の人生を奪ったり狂わしたりするんだ。よーく、覚えときな」

 小久保友矢は神妙な面持ちで聞いていたが、岩崎カエラは意に介さない様子で表情を変えなかった。彼女は西井上に尋ねる。

「高橋への損害賠償は、裁判にはならなかったの?」

 我知り顔で口角を上げた西井上長見は、頷いた。

「ああ、任意の和解交渉を進めたようだ。いわゆる示談交渉さ。不思議だろ。当時のストンスロプの代理人を務めた弁護士が、あの有名な美空野みそらの大先生だ。当時はまだ、駆け出しの若手だったがな。あの生意気なクソガキが、今では日本一の弁護士法人の代表弁護士だ。この国の司法も、先がねえな」

「それで、高橋博士はどうなったの?」

 岩崎に執拗に尋ねられた西井上長見は、テーブルの上の食器を見回して、溜め息を吐く。

「はあ、食っちまったしな。畜生……」

 小久保友矢は西井上の杯に酒を注いだ。

 西井上長見は杯を口に運びながら言った。

「まあ、姉ちゃんはいい女だし、兄ちゃんは気が利く。だから、話してやるよ」

 日本酒を飲み干した西井上は言った。

「和解成立だ。賠償金の支払いは全額免除。分かるか、請求権の放棄だ。高橋には代理人の弁護士もついていないのにだぞ。おかしいだろ」

 岩崎カエラは怪訝な顔で尋ねる。

「時吉総一郎弁護士は?」

「あいつは高橋を軍から解放しただけだ。要は、ストンスロプ社と高橋の和解交渉のお膳立てをした訳よ」

 少しだけ眉間に皺を寄せながら、岩崎カエラは言った。

「それで高橋博士は和解の交渉から逃げられなかった。身柄の解放に尽力したはずの弁護士も、和解交渉の段になると、代理人から退いてしまったから。そういう事なのね。でも、妙な話ね」

 西井上長見は杯を握った手で岩崎を指差した。

「だろ。だから、俺は調べたんだ。うやむやにされたんじゃ、死んだ人間達は浮かばれねえからな」

「その和解契約には、何か裏があったという事かしら」

「ああ。バイオ・ドライブさ。それを高橋がストンスロプ社に差し出す事で、手打ちって事よ」

 岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせた。

 小久保友矢が透かさず西井上の杯に酒を注ぎながら尋ねた。

「百億を?」

 西井上長見は注がれる酒に視線を落としながら答える。

「ストンスロプ社ってのは、クソ企業だぜ。人の命の事なんざ、何とも思っていねえ。奴らは初めから、NNC社が作ったバイオ・ドライブが欲しかったのさ。そいつを調べれば、たぶんAB〇一八の仕組みも解る。そしたら、IMUTAを改良して、AB〇一八と接続しやすくできる。IMUTAが全国の大学病院と接続して中継しているだけで、いくらの金が入ってくるか想像したことはあるか? 奴ら、自分達の量子コンピュータを更にAB〇一八と接続する事で、大手の得意先を作りたかったのさ。NNC社という大企業をな。反吐が出るだろ」

 西井上長見は杯を傾けて酒を一気に飲み干した。

 岩崎カエラと小久保友矢は視線だけを合わせる。二人とも、西井上の邪推には同意できなかった。

 西井上長見は急に語気を強めた。

「だが、俺が高橋をクソだというのは、もっと深い訳があるんだよ。……」

 彼から差し出された杯に小久保友矢は酒を注いだ。

 杯を支えながら西井上長見は言う。

「奴はクソなんだよ。クソ」

 小久保友矢は酒を注ぎながら、再び岩崎と視線を合わせた。

 西井上長見は注がれた酒を一口で飲み干すと、音を立てて杯を置き、虚ろな目を岩崎に向けた。

「いいか、聞いてくれよ。ストンスロプ社の会長の娘が、田爪の嫁さんだってのは、知ってるなあ」

 岩崎カエラは端座したまま冷静に頷く。

「ええ」

 紅潮した顔で岩崎を睨みつけながら、西井上長見は怒鳴った。

「聞こえねえよ! 返事は大きくしろい……ひっぷいー」

 しゃっくりとゲップを同時にした西井上長見は、二人を交互に指差しながら言う。

「いいかい、お二人さん。田爪ってのはな、男だ。男の中の男とまでは言わねえが、奴は男だよ。なんでか分かるか、小僧……坊主……ガキ……ひっく」

 杯を差し出しても小久保が酒を注がないので、西井上は自分で徳利を握り、杯に日本酒を注ぎ始めた。

 小久保友矢が呆れ顔で言う。

「もう、そのくらいにして……」

「いいんだ。もう一杯だ。もう一杯」

 酒を零しながら口に運び、殆ど入っていない杯を傾けた西井上長見は、杯をテーブルの上に放り投げると、小久保に人差し指を何度も振りながら言った。

「あのな、兄ちゃん。よーく考えてみな。ストンスロプ社は、NNC社のバイオ・ドライブが欲しかったんだよ。なっ!」

 小久保友矢は適当に返事をする。

「はい。そうですね。欲しかったんですね」

 西井上長見は岩崎に顔を向けて頷いた。

「そうだ。そのバイオ・ドライブは、赤崎教授にも渡されていて、それを田爪が使っていた。そうだろ」

 岩崎カエラは頷く。

「ええ」

 西井上長見は人差し指でテーブルを叩きながら言った。

「田爪の嫁さんは、ストンスロプのご令嬢だ。光絵会長が娘の……えーと……」

 岩崎カエラが沈んだ声で言った。

「瑠香」

「そう、その瑠香。田爪の嫁さんの瑠香を使って、田爪にバイオ・ドライブを提供させれば、解決だろうが。大金をドブに捨てなくても。なあ、兄ちゃん」

 小久保友矢は西井上に目を合わせないようにして返事をした。

「そうですね」

 西井上長見は座椅子の背もたれに身を倒し、満足気な顔で言う。

「だが、ここが田爪の偉いところだ。自分のお師匠さんの赤崎教授がNNC社から信用されて渡されたバイオ・ドライブを、決してストンスロプ社に渡そうとはしなかった。その嫁はんも嫁はんだ。田爪からバイオ・ドライブを預かった後も、ストンスロプ社には渡さなかった。実家と縁を切られても、旦那と共に筋を通したんだよ。ヒック。偉いよなあ。まったく、ウチの女房も少しは見習えっちゅうの。なーにが、甲斐性なしだ。馬鹿にしやがって。クソッ」

 岩崎カエラは表情を変えずに尋ねた。

「瑠香は、光絵家から絶縁されていたのですか」

 西井上長見は座椅子の背もたれに片肘を載せて岩崎の方を向いた。

「だって、そうだろ。田爪がタイムマシンで、どっか行っちまった後も、あの女は一人で研究を続けていたんだろ。GIESCOじゃない所で。しかも、NNC社の資金提供を受けながらだ。まあ、ASKITも、あの女の心意気に、気が変わったんだろうな。だから、乗り換えた。だけど勿体ねえなあ、消されちまうなんてよ。いい女だったのになあ。うん、いい女だった……」

 西井上長見は下を向いたまま何度も頷いた。

 岩崎カエラは怪訝な顔で尋ねる。

「乗り換えたとは、どういう事ですか」

「ズズズズ……」

 小久保友矢が大きな声を掛けた。

「西井上さん! 起きて」

 驚いて顔を上げた西井上長見は言う。

「ああ、何だ。まだ、何かあるのか。もう食えねえぞ」

 岩崎カエラははっきりとした口調で尋ねた。

「さっきの田爪瑠香の話よ。乗り換えたとは、どういう意味なの」

 西井上長見は岩崎を一瞥すると、頭を掻きながら寝ぼけ声で答えた。

「ああ、NNC社は、もともと高橋に資金提供していたんだよ。ていうか、ASKITが高橋に金を回していたんだがな。それが、高橋が第一実験で消え、田爪も第二実験で消えた途端、今度は瑠香に金を回し始めた。そういうこと」

 小久保友矢は腕組みをして天井を見上げる。

「じゃあ、高橋は、自分のスポンサーを裏切って、その企業秘密をライバル企業に渡したという事かあ。自分の債務免除と引き換えに」

 顔を上げた西井上長見は、小久保を強く指差して言った。

「そう! そうだ。いいぞ、兄ちゃん。俺が言いたかったのは、そういう事だ。な、高橋はクソ野郎だろ。プウ。あいつは、クソだよ。く、そ」

 岩崎カエラは真っ直ぐに西井上を見据えたまま、静かに尋ねた。

「それで、あんな記事を……」

 西井上長見は深く頷いた。

「ああ、そうだ。――田爪は評価できるが、高橋は評価できなねえ。だから、高橋を叩いたんだよ。この俺の『ペンの力』でな。『ペンは剣よりも強し』さ」

 誇らしげに語る西井上を見て、岩崎カエラは膝の上で拳を握りながら声を荒げた。

「だから、あなたは時吉総一郎をけしかけて、『時吉提案』という不必要な議論を生じさせたのね。その強い『ペンの力』を使って、在りもしない論争を世に広めた。嘘の対談集や一連の論争記事を作り上げたのは、西井上さん、あなたよね。あなたの書いた、あのデタラメ記事で、いったいどれだけの人が不幸になったと思っているの。何が『ペンの力』よ! あの無責任でいい加減な記事さえ出なければ、こんな事にはならなかったかも知れないのよ。分かってるの!」

「主任……」

 小久保友矢は隣の岩崎の顔を見る。岩崎カエラは目に涙を浮かべ、顔を紅潮させながら、西井上を睨みつけていた。

「あーあ。食って飲んだら、眠くなっちまった。ああ、酔った、酔った」

 西井上長見は隣の席の座椅子の上に寝転ぶと、ヨレヨレのジャケットを脱いで顔に被った。

 岩崎カエラは向かいの席から彼を強く睨み続けている。

 夜は静かに深けていった。



                  十五

 次の日の朝も、岩崎カエラは机の上でうつ伏せて寝ていた。手には先端を赤く点滅させたイヴフォンが握られている。出勤してきた小久保友矢が、そっとイヴフォンに手を伸ばした。岩崎カエラが目を覚ます。小久保友矢は手を引いた。

「ああ、すみません。起こしちゃいましたね。スイッチを切ろうと思って」

 岩崎カエラは目を擦りながら言う。

「ああ、小久保君。――おはよ。……」

「結局、また泊まったんですか。しかも、またイヴフォンの画像を見たまま。切ってから寝ないと、脳に悪いって言ったじゃないですか。視覚野をやられますよ」

「うん、そうね……気をつける」

「たまには帰らないと。主任の家の郵便箱、きっとパンパンなんじゃないですか」

「もう、自分の家が何処だったかも忘れたわ。ふあー」

 岩崎カエラは大きく欠伸をした。小久保友矢は、岩崎の市松模様のマグカップと自分のマグカップを持って給湯室に向かう。

「いつも、何見てるんです?」

「ん?……何が?」

「それです。イヴフォン」

「他人に絶対に覗かれないのが、コレのいい所でしょ。訊いたら意味無いじゃ……ふあー」

 岩崎カエラは、もう一度欠伸をした。

 小久保友矢はコーヒーを入れながら尋ねた。

「足の方は、どうですか? 湿布、換えときましょうか?」

「ん……ああ」

 岩崎カエラは右脚を伸ばすと、足首を回して確認してから答えた。

「大丈夫。痛みは引いたわ。ありがと」

「あまり小言は言いたくないですけど、もう少し自分を労わらないと、このままだと本当にオジサンになっちゃいますよ」

「オバサンをどうして飛び越すのよ。それが先でしょ」

 左右の手にマグカップを持って歩いてくる小久保友矢は、真剣な顔をして言う。

「そういう問題じゃないですよ。その……主任だって女性なんだから、いろいろ考えないと。将来の事とか……いろいろ」

 少し考えた岩崎カエラは、虚ろな目で言った。

「――ああ。大丈夫、その時は、小久保君に貰ってもらう」

「はあ? 僕でいいんですか。僕で。駄目でしょ、それじゃ。もっと真剣に考えないと」

 小久保友矢は市松模様のマグカップを岩崎の机に置く。岩崎カエラは子供のように頬を膨らませた。

「小久保君のお嫁さんになる。そんで、毎朝起こしてもらう」

 小久保友矢は呆れ顔で、岩崎の机の上に紙袋を置いた。

「朝食の準備も、でしょ。はい、今朝の分です。今日は鮭おにぎり。シャワー室、今はガラガラですよ。ひとっ風呂浴びてきたらどうです?」

 岩崎カエラは手を振りながら、椅子から腰を上げた。

「銭湯に行くオヤジじゃないんだから。そんじゃ、行ってくるね。ああ、腰が痛い」

 彼女は腰を叩きながら、小久保の席の後ろを回って廊下の方に歩いて行く。

 小久保友矢は小声で呟いた。

「昨日、自分で言ってたじゃないか。――ああ! 洗面道具を忘れてますよ。タオルも」

 小久保友矢は市松模様のマグカップを握って給湯室に駆け込むと、タオルと石鹸やシャンプーが入った洗面器を取って、岩崎に渡した。岩崎カエラは寝ぼけ眼でそれを受け取る。

「ああ、ごめん。ありがと」

「はい、コーヒーですよ。一口飲んで下さい。声ガラガラだし、シャワーの前には水分を取っておかないと。それから、顔を洗ってからの方がいいんじゃないですか」

「ん。向こうで洗う。メイクしたまんま寝ちゃったから。あ、歯ブラシも入れといて。向こうで磨くから。ふあー」

 ミニキッチンの上の棚から歯ブラシが入ったビニールケースを取った小久保友矢は、岩崎が抱えている洗面器にそれを入れた。

「シャキッとして下さいよ。まだ仕事が残ってますからね。ていうか、これから勤務だし」

 岩崎カエラは立ったままコーヒーを一口啜った。

「そうね……目、覚ましてくる」

 そのまま廊下を歩いて行く。小久保友矢が慌てて呼び止めた。

「ああ! 主任、マグカップ、マグカップ。――いや、そっちは洗面器」

 差し出した洗面器を引っ込めて、マグカップを小久保に渡した岩崎カエラは、短い廊下をヨタヨタと歩いていく。力なくドアを開けて出て行った岩崎を見ながら、小久保友矢は呟いた。

「大丈夫かな。まるで徘徊する地縛霊だな、ありゃ」

 ドアが開いた。岩崎カエラが顔を出す。

「何だって。聞こえたぞ」

「冗談ですよ。冗談。早く行かないと、シャワー室、また埋まっちゃいますよ」

「ん。行ってきます」

 岩崎カエラはシャワー室へと向かった。小久保友矢は溜め息を漏らして、自分の席へと向かう。岩崎の市松模様のマグカップを持ったままだった事に気付いた彼は、とりあえずそれを机の上に置き、椅子を引いた。腰を下ろして自分のマグカップに手を伸ばす。

「大変でござるな」

「わ、びっくりした」

 背後からの声に驚いて、小久保友矢は振り返った。作業テーブルの上に置いた最新式の立体パソコンのスピーカーから声が聞こえる。

「おはようございまーす」

 小久保友矢はその立体パソコンに取り付けたマイクに向かって言った。

「ああ、おはよう。そうか、忘れてた。どうだ? バッテリー足りてるかい? ウエモン、サエモン」

「十分でござる。お気遣い、かたじけない」

「主任さん、昨日も遅くまで仕事していましたからね。よっぽど疲れてるんですね」

 小久保友矢は手に取った自分のマグカップでコーヒーを一口啜ってから答えた。

「君らからも、少し休むように言ってよ。心配でしょうがない。せめて、下の仮眠室で睡眠をとってくれると、少しは安心なんだけどね」

「人間は定期的にスリープ状態にせねばならんから、大変でござるな。かく言う小久保殿は、休息を取られたのでござるか」

 小久保友矢はマグカップを置いて答える。

「うん。まあね。仮眠室で少し多めに寝たよ。昨日、飲んじゃったからね」

「飲んだ? 何をでござる」

「嫌だなあ、先輩。アルコールですよ。人間が『飲んだ』って言う時は、七十六パーセントの確率でアルコールです。『昨日』と『じゃった』との組み合わせになると、九十七パーセントまで上がりますよ」

「そうなのか。記憶しておこう」

 椅子から腰を上げた小久保友矢は、パソコンの前に移動しながら言った。

「勉強中に悪いんだけど、仕事の方はどうなんだい? 進捗状況は」

「おお。終わったでござるぞ」

「百パーセント完了しました。全パターンの組み合わせを検討し終えましたあ」

「本当。やっぱり君ら、すごいね。優秀だ。ちょっとした大型コンピュータでも、二、三日はかかるはずだけど。やっぱり、ルーチンの中に特殊なバイパスか何かを作ってるのかな。新型のアルゴリズムか何かの」

「それは秘密でござる」

「僕らにもプライバシーがありますからね。内緒です」

「ああ、分かった。じゃあ、もう、訊かない事にするよ。でも、そういう部分は深層部に分散するか、カモフラージュして隠しとくんだぞ。人間は『プライバシー』って言葉を使わないといけないような生き物でもあるからな。平気で他人の中を覗こうとしたがる生き物なんだよ。そこは見習っちゃ駄目だ」

「なるほど。了解したでござる」

 小久保友矢は自分の席に戻り、岩崎のマグカップを手に取って言った。

「じゃあ、主任が戻ったら、結果を見せてくれよ。僕はコーヒーを入れ直しておくから。ああ、主任って、コーヒーでおにぎりを食べる事が出来る人だから、覚えといて」

「おにぎりとコーヒーでござるな。了解した」

「わお。和洋折衷ですね。ハイブリッドな方なんですね、主任さん」

「主任は変な人だけど、ああ見えて冷静なんだよ。頭の中で、おにぎりの味はおにぎりの味、コーヒーの味はコーヒーの味って分けられるって事じゃないかな。あと、固定観念にも囚われない。だから、君達の事も、すんなりと受け入れられるのさ。人間の中では、結構、優秀だろ?」

 そう言いながら小久保友矢が給湯室に向かおうとした時、彼の机の上の立体電話機が呼び出し音を鳴らした。小久保友矢はマグカップを机の上に置き、通話ボタンを押す。

「はい、特別鑑定し……」

『ああ! 立体画像はオフにして。裸だから。私、私』

「はい? その声は、主任ですか?」

『うん。今、シャワー室。あのさ、小久保君。悪いんだけどさ、着替えを持ってきてくれない? 持ってくるの忘れちゃった。ついでにメイク道具も』

「はあ? 何やってるんですか、まったく」

『ロッカーの中に鞄あるから、それごと持ってきて。今着てたの、全部ランドリーに入れちゃったのよ。だから、超ピンチ。焦ってる。やばい。――悪いけど、頼める?』

 小久保友矢はホログラフィー投影による立体画像のボタンを押すか押すまいか迷った後、結局、押さない事にして、返事をした。

「分かりました。当然、中には入れませんから、近くにいる女性か、下の階の北別府さんか南別府さんにでも頼んでみます」

『オーケー。分かった。急いでね』

「了解です」

 渋々と答えた小久保友矢が通話終了のボタンを押そうとすると、スピーカーから岩崎の声が聞こえた。

『ああ、小久保君。鞄の中は見るなよ。上司の下着だからな』

「当たり前でしょ。すぐ行きますから」

 小久保友矢は強めに通話終了ボタンを押した。立ち上がった彼は振り向いてから言う。

「な、冷静で、固定観念に囚われず、優秀だろ」

 小久保友矢はロッカーに向い、中から女性物の鞄を取り出して肩に駆け、外へと駆けていった。

 作業テーブルの上の立体パソコンから声がする。

「サエモン。一つ、要素が不足していたな」

「人間は忘れっぽいですからね。仕方ないですよ」

 小久保友矢の机の上には、市松模様のマグカップと小久保のマグカップが並べて置かれていた。



                  十六

「ああ、焦ったわ。サンキュー、小久保君。くしゅん」

 濡れた髪をバスタオルで拭きながら、岩崎カエラが特別鑑定室に戻ってきた。

 洗面器を持った小久保友矢は、給湯室に向かいながら言う。

「焦ったのは、こっちですよ。昨日は防災マップで女性用シャワー室の利用状況を確認して、今日は女性用の鞄もって、その前に立っているんですよ。完全に変態じゃないですか。客観的には痴漢へのステップを順調に踏んでいますよね、僕」

 岩崎カエラは小久保の机の上の自分のマグカップを見つけると、その中の冷めたコーヒーを飲みながら、小久保の席の隣の机の椅子に腰を下ろした。

「ごめん、ごめん。今度、小久保君が忘れたら、私が中まで持って行くから」

「ああ、それは心強いです。安心してシャワーを浴びられますね」

 戻ってきた小久保友矢は、岩崎の席から紙袋を取り、中のおにぎりを出して彼女に渡す。おにぎりの包みを外しながら、岩崎カエラは尋ねた。

「あ、ウエモンとサエモンは? バッテリーは大丈夫だったかしら」

 作業テーブルの上に置かれた立体パソコンのスピーカーから返事が届く。

「はーい。大丈夫でーす。おはようございます。固定観念に囚われない変人で、冷静且つ優秀な主任さん」

「おはようござりまする。小久保殿が言われていましたぞ。主任殿は、固定観念に囚われない冷静で優秀な変人だと。感服いたしました」

 小久保友矢は立体パソコンに駆け寄り、表面を指先で叩きながら言った。

「余計な事言うな、余計な事。何か一個多かったぞ。マイクの調子が悪いんじゃないか」

「変人……」

 岩崎カエラはおにぎりを咥えたまま、目を細めて小久保を睨んだ。小久保友矢は気まずそうに視線を逸らす。岩崎カエラは立体パソコンを指差して言った。

「美人に訂正しなさい。二人とも。いいわね」

「了解した。固定観念に囚われない冷静で優秀な美人の変人でござるな」

「上書きすんな。置き換えなさい」

「冷静で優秀なだけでなく、固定観念にも囚われない美人ですね。主任さん」

「よし、サエモン。よく出来ました。正解」

 小久保友矢は呆れ顔で自分の席の椅子に腰を下ろした。

「遊んでる場合ですか。昨日、二人に頼んだ爆心地の残骸の組み立て。あれ、終わったそうですよ」

「ええ! もう終わったの? 嘘でしょ」

「本当みたいですよ。こいつら、ものすごく優秀ですよ」

「そうね。まあ、とにかく、後で見せてね」

 岩崎カエラはおにぎりを頬張ると、冷めたコーヒーを飲んだ。ウエモンが返事をする。

「了解でござる。固定観念に囚われない冷静で優秀な……」

「ああ、ストップ。それ長いから、もういいわ。美人だけにしといて」

「了解した。美人主任殿でござるな」

 岩崎カエラは満足そうな顔で、おにぎりを食べた。

 小久保友矢は椅子を回して横を向き、岩崎に言った。

「それより、主任。昨日の西井上さんの話、驚きましたね。まさか、高橋のバイオ・ドライブがストンスロプ社の方に行っていたとは」

「そうね。でも、そうなると、私達が立てた仮説の前提が崩れちゃったわね」

「今もGIESCOにあるんでしょうか」

「どうだろ。訊いてみる?」

「答えないでしょうね。この話が本当なら、企業イメージのダウンは必至ですからね」

「そればかりか、法的責任を追及されかねないかもね。高橋博士を使ってストンスロプ社がやった事は、ていのいい技術泥棒だもの」

 岩崎カエラは冷めたコーヒーを啜る。

 小久保友矢は腕組みをして深刻な顔をした。

「これで、ドライブの中のデータを偽造したのが誰か、また分からなくなりましたね」

 岩崎カエラはおにぎりを持ったまま言う。

「少なくとも、高橋博士や田爪博士ではないわね。勿論、ストンスロプ側も不可能。AB〇一八の施設には入れなかったはずだから。ま、自分達で生体コンピュータでも作っていれば別だけど、まず無いわね。仮に作っていたとしても、DNAが一致しないから、田爪博士や高橋博士のバイオ・ドライブとは接続できないはずだし」

 岩崎カエラは残りのおにぎりを口に入れた。

 小久保友矢は眉間に皺を寄せて言う。

「そうすると、やっぱり……」

 咀嚼しながらコーヒーを啜った岩崎カエラは、椅子から腰を上げた。

「消去法で結論を出すには、検証対象も消去の要素も少な過ぎるわ。もう少し考えてみないと」

 他のおにぎりが入った紙袋を持った岩崎カエラは、バスタオルで濡れた髪を拭きながら、自分の机に戻っていった。


                  十七

 作業テーブルの前に椅子を並べて座った岩崎カエラと小久保友矢は、立体パソコンの中のウエモンとサエモンから報告を受けることにした。岩崎カエラがマイクに顔を近づけて言う。

「どれ。あなた達がした仕事の成果を見せてちょうだい」

「了解でーす。では早速、ホログラフィーにして、ご披露しまーす」

 立体パソコンの上に小さなホログラフィー像が、星屑のように無数に浮かんだ。どれも小さ過ぎてよく分からない。岩崎カエラは唖然として言った。

「随分と在るわね」

 ウエモンが答える。

「全てのパターンを検証しましたからな。四千九十六パターン在るでござる」

「絞れない? パーツの結合に、適合率九十パーセント未満のものが含まれる復元パターンは除いていいわ。以下、コンマ未満の数値は切り捨てていいから」

「了解しました」

 サエモンが返答すると、すぐにウエモンが結果を報告した。

「百二十八パターンでござる」

 ホログラフィー画像の数は大幅に減ったが、まだ無数に並んでいた。

「それでも百二十八かあ」

 顔を顰めた岩崎の隣から、小久保友矢が提案した。

「主任。まずは外観で絞ってみたらどうでしょう」

「そうね。じゃあ、外部壁の組み合わせだけの領域で、その接合に適合率九十五パーセント未満の組み合わせが含まれるものを抽出して省ける?」

「出来ますよ。えーと、外部壁、外部壁と……はい。終わりました」

「八パターンでござる」

 立体パソコンの上に浮かべられた八つのホログラフィー画像を覗きながら、岩崎カエラは呟く。

「どれも、あまりよく分からないわね。蒸発してしまったパーツが多過ぎるのねえ」

「司時空庁が作った復元予測モデルに近いのは、この一番大きな機体ですよね。こっちの四パターンは、二機に分けられちゃっているのかあ。主任、これ省いたらどうです?」

「うーん……」

 首を捻った岩崎カエラは、そのままウエモンとサエモンに指示した。

「この中で、機体としての安全性が一番高いのは、どのパターンかしら。耐熱性、耐水性、耐震性。これらの三つの基準で調べて、それぞれ耐性が高い順に並べてみて。その内、二つ以上のカテゴリーで上位三位に入らないものは、除いていいわ」

「了解しました。カルクで軽く整理してみまーす」

 プログラムたちは計算を始めた。小久保友矢が眉を曇らせる。

「乱暴すぎませんか。主任」

 岩崎カエラは首を横に振った。

「高橋博士も田爪博士も、第一実験と第二実験で九死に一生を得ているのよ。次に作ったタイムマシンは、安全性をより重視しているはずだわ。最低でも、基本的な安全構造に問題がある設計はしないはず」

「高橋博士? 彼は田爪が南米で作ったマシンを復元しただけでしょ?」

 目を丸くしている小久保の横で、岩崎カエラは立体パソコンに挿したマイクに顔を近づけた。

「あ、追加オーダー。絞られたパターンから、予測される爆発前の質量と発見された部品の総質量の差が、全体の五十パーセント以上のものを抽出してちょうだい」

「承知した。つまり、蒸発した部品が半分以下のパターンは、除外ですな」

「うん。そういうこと」

 小久保友矢が口を挿んだ。

「ってことは、機体全体の半分を超えて蒸発したパターンに絞るんですか。そんな事したら、復元予想図が正解である可能性が下がるんじゃないですかね」

「今の段階で可能性が低くても、実際に正解していれば、問題ないでしょ」

 岩崎カエラは、そう主張した。

 サエモンが言う。

「終わりました。これでーす」

 立体パソコンの上に、一つの復元モデルのパターンが浮かべられた。岩崎カエラは指を鳴らす。

「ビンゴ。思った通りだわ……」

 そのタイムマシンの復元モデルを見た小久保友矢は、プログラムたちに再確認した。

「え? 本当か。ウエモン、サエモン」

「間違いござらん。機体パーツの喪失率七十三パーセント。熱、圧力、衝撃に対する耐性は、どれも上位一位でござる」

 岩崎カエラも確認した。

「その、『機体パーツの喪失率』は、この二機の機体の各数値の平均値なのよね」

「然様でござる」

 二人の前には、爆発現場で飛散した部品を繋ぎ合せた、二機のタイムマシンの部分的なホログラフィー画像が浮かんでいた。それらを見つめながら、小久保友矢が言った。

「でも、縁しか残ってないって感じですね。スカスカだ」

 岩崎カエラは次の指示を発した。

「じゃあ、この二機の機体のそれぞれの全体的な予測復元図を作成できる? ソリッドモデルで材質を基準に再現してみて。各再現ポイントは五十パーセント以上でいいから」

「了解でーす。機械構造はどうしましょうか」

「内部構造は、九十パーセント未満の予測しか立てられない部分は空白でいいわ」

「それなら簡単です。ちょっと、お待ち下さいね」

 サエモンがそう答えると、すぐにホログラフィー画像が変化し、完全な形の二機のタイムマシンになった。それを見た小久保友矢は、驚いた顔で言う。

「これって、大きさが違うだけで、ほとんど同じ形じゃないか。どういう事です? 主任」

 岩崎カエラは小久保の質問には答えずに、プログラムたちに最後の指示を出した。

「この二つの立体図をトレースして重ねられる? スーパーインポーズ法で。重なった部分の割合を機体ごとに出して欲しいの」

 二機のタイムマシンのホログラフィー画像が重ねられ、重複する部分が赤く点滅した。その横に、赤い部分の体積が各機体の全体の体積に占める割合が数値で表示された。小久保友矢は唖然とした顔で、その数値を読む。

「五十九パーセントと八十七パーセント。ってことは、つまり……」

 岩崎カエラは答えた。

「そ。この二機が重なって、定常状態が崩壊し、量子反転爆発が起こった」

 小久保友矢はホログラフィー画像を見つめながら言う。

「片方が、南米から永山記者が送った田爪型のマシンだとすると、もう一つは……」

「たぶん、高橋博士がASKITの拠点島で製造したマシンね。西郷が乗って逃げた」

「じゃあ、田爪のデータのうち、新型タイムマシンの設計図は本物だったという事ですか。これだけは、実際に起動して、タイムトラベルしたんだ……」

 岩崎カエラは首を傾げた。

「それは、どうかしら。高橋博士も、もともとはタイムマシンを作っていた天才科学者の一人だからね。その設計図を参考にしながらも、自分なりに改良を加えたのかもしれないわ。つまり、偽の設計図の通りには、この機体は製造されていない。だから、全体の四十一パーセントは、田爪型のマシンとは異なっている。その部分が残ったのね、きっと」

 小久保友矢は納得したように頷きながら言った。

「司時空庁の連中は、初めから一機だという固定観念に縛られていたから、機体の復元に時間がかかり、最終的に断念したという事かあ。それで、外観だけでも情報を得たかったから、実物を見ている永山記者を拘束したんだ」

 岩崎カエラは立体パソコンの横のスロットにMBCを挿入しながら言った。

「彼に見てもらうのが一番ね。そうすれば、どちらの機体が田爪博士の新型機か判明する。まあ、たぶん、こっちの消失率が高い方だと思うけど。お二人さん、今の絞込みのプロセスと結果を、このメモリー・ボール・カードに記録しといてもらえる? 終わったら、お出かけよ」

「お出かけ? 任務でござるか!」

「違う、違う。社会見学よ。修学旅行。遠足かな。警視庁のビルに連れて行ってあげる」

「わーい。やったー。遠足だあ、遠足だあ」

 微笑みながら椅子から腰を上げた岩崎カエラは、小久保に尋ねた。

「小久保君、この子達が入っている軍用ハード・ドライブって、独立稼動用の補助バッテリーが内蔵されているのよね」

「ええ。でも、古いですからね。長く持つかどうか」

「それ、O2電池とかに入れ替えられないかな。それと、ICレコーダーか何かに繋いで、集音マイク機能をオンに出来ないかしら」

「集音マイク?」

「そ。だって、バスのカーテンが閉まっていたら、遠足も楽しくないでしょ」

 岩崎カエラは片笑んでウインクした。



                  十八

 警視庁ビルの広い廊下を、大きな紙袋を提げた岩崎カエラが歩いている。廊下の先では、制服姿の村田リコ事務官が塩を撒いていた。村田リコはブツブツと言いながら、左右の手に掴んだ塩を荒っぽく撒き散らしている。

「もう、何なのよ。せっかく頑張ってダイエットしてるのに。女性用のMサイズでピッタリなんだから、標準じゃないよ。ぜんっっぜん、きつくありませんよーだ!」

 関取のように思い切り豪快に撒いた塩が、スーツ姿の岩崎カエラを直撃した。

「ちょっ……」

「ああ! すみません。失礼しました。――あれ?」

 下げた頭を上げた村田リコは、嬉し顔で飛び上がった。

「カエラさん。きゃー! カエラさんだ。どうしたんですか」

 岩崎カエラは服の上の塩を払い落としながら言った。

「それは、こっちの台詞でしょ。なんで塩なんか撒いてるのよ。何の儀式?」

「すみません。今、拭くもの持ってきますから」

 村田リコは慌ててガラス製のドアを開けて、狭い部屋の中に入っていった。岩崎カエラも肩の塩を払いながら中に入っていく。ドアが閉められた。そのドアのガラスには「捜査第一課特命捜査対策室第五係」と記載されていた。

 ここは警視庁刑事部の刑事三木尾善人が率いる特別セクションである。もともと用具室だったこの部屋は狭い。室内には真新しい机やホワイトボードが並んでいるが、応接セットを置くスペースは無かった。隙間だらけの本棚には、資料の束が雑然と置かれている。彼らは田爪健三事件の真相解明のために急遽集められ、無理な捜査を強いられていた。それは、岩崎カエラの特別鑑定室と同じだった。

 岩崎カエラは、向かい合わせに並べられた四つの机のうち、一番古いタイプのパソコンが置かれている席の椅子に座り、その隣の席の椅子に座っている村田リコと話していた。

「へえ。それでリコちゃん、廊下に塩を撒いていたんだ」

「だって、そういう指示ですもん。私も警察職員ですから、指揮命令には絶対です」

「皆さんは?」

「たった今、出かけました。早めのランチだそうです」

「リコちゃんを一人置いて?」

 村田リコは身を乗り出した。

「ね、ひどくないですか。昨日は誘ってくれたんですけど、下の『バンバンうどん』ですよ。なんでお昼まで、バンバン食べなきゃいけないんですか? 普通、女子同伴なら、もう少しお洒落な店にしません? 下のレストラン街には、もっと可愛い店もあるのに。イタリアンの洒落た店とか、チャイニーズ・ライトフード・カフェとか。なんで、よりによって『バンバンうどん』なんです? もうちょっと、気を使ってくれてもいいと思うんですけどねえ。あの店、炭水化物のお祭りじゃないですか」

「炭水化物も重要な栄養素じゃない。バランスよく摂らないと、頭まわらないわよ」

「そのバランスが問題なんですよ。由々しき問題なんです。さっきだって、あの髭のセクハラオヤジ、ひどい事を言うんですよ。もう! ムカつく!」

「誰? 石原くん?」

「そう。私が新しい防弾チョッキ着てるの見て、『どう? きつくない?』ですって。これ、どストライクでセクハラですよね。きつくはないっちゅうの。こーんなに動けるんですから。ほら、ほら」

 村田リコは両腕を回して見せた。岩崎カエラは顔を引いて言う。

「分かった、分かった。でも、リコちゃんくらいのラインなら、健康的で言う事無いわよ。羨ましいくらいよ」

「そんな事ないですよ。ここの贅肉とか、こことか。はあ、もう。ウチの検挙率の折れ線グラフと私の体重計の折れ線グラフ、同じ角度で、こう……」

 村田リコは指を揃えた手を斜め上に角度をつけて動かしながら、同じ角度に頭を傾けた。岩崎カエラは笑いながら言う。

「警視総監賞、狙ってみる?」

「ひどーい。カエラさんまで」

 頬を膨らませた村田リコは、肩を落として言った。

「でも、カエラさんはいいなあ。プロポーション抜群で。ボン、キュッ、ボンって感じですもんね。それに、お肌もツルツルだし、美人だし。カッコいいし。私もそんな風になれたらなあ。ああ、神様はどうして不公平なのかしら」

「本当はね……」

 岩崎カエラは村田に耳打ちした。頭を離した村田リコは、目を大きくして声を上げる。

「ええ! 本当ですか! 意外ですー」

「苦労してるのよ。これでも」

「そっかあ。そうなのかあ……」

 村田リコは腕組して深刻な顔をしながら頷いた。岩崎カエラは笑っている。岩崎にお茶を出していなかった事に気付いた村田リコは、立ち上がって、すぐそこの窓際の低い棚に向かった。棚の上に置いた急須に茶の葉を入れている村田に岩崎カエラは言った。

「でも、リコちゃんなら、周りの男が放って置かないでしょ。実はモテモテなんじゃないの?」

 少し振り向いた村田リコは、顔の前で右手をパタパタと全力で振った。

「全然。ここの三馬鹿トリオのせいで、私のキラキラ二十代計画は台無しです。昨日だって、九時まで残業だったんですよ。今朝は今朝で、出勤しても誰もいないし。そしたら、中村さんから電話がかかってきて、写真の男の身元を調べろとか、指紋データを鑑識に回せとか、急に先輩風ふかせちゃって。遅刻魔のくせに。さっきだって、ちょっと帰ってきて、ゴチャゴチャ話してから、また警部たちとピューって出て行っちゃうんですもん。もう、今日は絶対に早く帰ってやる!」

 お茶が注がれた湯飲みを渡された岩崎カエラは、それを口に運ぶ。

「中村君は真面目で、いい刑事じゃない。リコちゃんとも歳が近い……熱っ! あっつい!」

「あれえ? やっぱり、熱いですか? 石原さんは、いつも普通に飲んでますけど。警部が猫舌なのかと思ってました。そっか、この温度じゃ、やっぱり熱いか」

「あの髭の坊やは、血の気が多くて体温が高そうだから、温度差を感じないのよ。善さんは、超猫舌。猫っていうより、赤ちゃんね、舌だけは。ラーメン注文して、ほぼ冷麺にしてから食べる人だし。中村君を基準にしたら? それにしても、これ、何度よ」

 村田リコは棚の上のポットを覗く。

「ええと。湯沸しポットの設定は……百度です」

「殺す気か」

「ええ? 水は百度で沸騰するって、学校で習いましたよ」

「もう少し、温度を下げなさいよ。善さん、ショック死するわよ。もう歳なんだから」

「はーい」

 村田リコは首を傾げながら、ポットの温度設定ボタンを押した。

 岩崎カエラは煮え滾るお茶が注がれた湯飲みを机の上に置くと、その机を見回しながら村田に尋ねた。

「ところで、その善さんは、怪我とかしてないわよね。南米は相当に危険な所だったみたいだし。昨日、電話で話した時は元気そうだったけど」

 自分の席に戻った村田リコは、何度も頷いた。

「ええ。もう、元気、元気。スーパーお爺ちゃんですね、あれ。さっきも、新原管理官にガーって言ってましたから」

「あらら」

「でも、私もすっきりしましたけど。新原管理官って、嫌いだし」

「ふーん。どんな人なの?」

「今時、頭を七三分けにしている気持ち悪い人です。もう、イーって感じ」

 村田リコは、口を横に開いた顔を管理官室の方角に向けた。

 岩崎カエラは村田の向かいの席を見ながら言った。

「中村君も七三分けでしょ」

「彼は、良い七三分けです。管理官は、悪い七三分け」

「――よく分からないけど」

 岩崎が首を傾げると、村田リコは腕組みをして眉間に皺を寄せた。

「あの管理官は、絶対に恋人ができませんね。むしろ日本の女子の為には、ずっと一人でいて欲しいくらいです。ホントに」

「相当に嫌ってるわね。リコちゃんは、どうなの? 誰か気になる人とか、居ないの?」

「居ないですねー。居るといいんですけどねー」

「中村君は?」

「ええー。うーん。中村さんかあ。良い人なんですけどねえ……うーん」

「石原君は? 彼も独身でしょ」

「それは無いです」

「即答ね。じゃあ、ウチの小久保君とか」

「ええ? 小久保さんって、カエラさんの部署にいる小久保さんですよね。カッコイイけど、カエラさんに夢中って感じじゃないですか。勝てる見込みが無いので、あきらめます。はい」

 村田リコは姿勢を正して敬礼した。岩崎カエラは言う。

「そうかな。ま、人類史上、稀に見る『いい人』である事は確かね。そっか、あいつ、私に惚れてるのか。どおりで視線がいやらしいと思ったわ。気をつけなきゃ」

 一人で頷いた岩崎カエラは、ポンと手を叩いた。

「あ、そうだ。じゃあ、リコちゃん、ランチはまだよね。一緒にどう? 下のレストラン街のお洒落な店で」

「ええ! 本当ですか。行きます、行きます。よーし、今日はカエラさんから、大人の女のフェロモンをバアって分けてもらって、中村さんたちをメロメロにさせてやるから」

「自分で出しなさいよ。昆虫か」

 そう言った岩崎カエラは、左腕を上げて古い腕時計を覗いた。まだ昼休み前である事を確認した彼女は、椅子から立ち上がると、向かいの机の椅子の上に置いた大きな紙袋の中に両手を入れて、二個の軍用ハード・ドライブを取り出した。集音マイクとO2電池を取り付けたそれらのドライブを丁寧に机の上に置いて、村田に説明する。

「じゃあ、忘れないうちに、これ。昨日頼まれた『警部のお土産』の解析。解析って言っても、交信したんだけど。とにかく、終わったから。中にね、生きてるAIプログラムが二人分、入っていたの。それをウチにあった別の新しい軍用ドライブにそれぞれ移したのが、これと、これ。こっちがウエモン君で、こっちがサエモン君ね」

「ウエモンクン、サエモンクン?」

「そ。互いに名前付けて呼び合っているのよ。一応、小久保君が補助バッテリーをO2電池に入れ替えてくれたから、中のプログラム君は起こした状態にしてある。小型のマイクも内蔵してくれたから、彼らには周囲の音が聞こえている状況よ。ここに繋ぐ軍用のインターフェイスがあれば、それを経由してパソコンの中に呼び込めるけど、ぜっったいに、ネットとは遮断した状態で、お願いね。もしもの事態があるといけないから。この子達のために」

 村田リコは眉を寄せた。

「軍用のインターフェイスかあ。そんなの警視庁に置いてるかなあ。無かったら、また警部に怒られて、電気屋で探さないといけないんだろうなあ」

「うーん。街の電気屋で売っていると便利だけどねえ。まず、無いわよね」

「ええー。じゃあ、どこで手に入れたらいいんですかあ」

「そう思って、じゃん。持ってきた。これを中継すれば、普通の業務用パソコンでも接続可能です」

 岩崎カエラは紙袋の中から、コードの束を取り出した。村田リコが手を叩く。

「わあ、さっすがカエラさん。気が利くう」

「国防省の売店で買ってきた……というのは冗談で、小久保君が古い研究機材を改良して拵えてくれたの。ほんと、あの子、器用よね。ここに置いとくわね」

 岩崎カエラは壁際の資料棚の上にコードの束を載せた。村田リコが一礼する。

「有り難うございます」

 丁度その時、昼休みのチャイムが鳴った。岩崎カエラは空の紙袋を畳みながら言う。

「よし。ほら、昼休み、昼休み。美味しいもの食べに行こ」

 椅子から立ち上がった村田リコは、姿勢を正して再び敬礼した。

「いい女になる為のレクチャー、宜しくお願いします」

「わかった。いろいろ教えてあげる。ふふふ」

 岩崎カエラは含み声で笑った。机を回ってきた村田リコは、ウエモンとサエモンのハード・ドライブを指差して岩崎に尋ねた。

「あ、このドライブ、話を理解してるんですか」

 岩崎カエラは口の前に人差し指を立てて、小声で言った。

「絶対に秘密よ。実は、ものすごく理解してる。とにかく優秀なAI達なの。おまけに性格もいい。百戦錬磨の三木尾警部とも、是非話してもらって、意見が聞きたいわ。そう警部に、こっそり伝えといて」

 村田リコは、机の上に並べて置かれたハード・ドライブをじっと見つめた。

「ふーん。じゃあ、このプログラムさん達も一緒に連れて行きましょうよ。こんな所に置いておくのは、可哀想じゃないですか」

 村田らしい発想だった。岩崎カエラは二台のハードドライブを手に取る。

「それも、そうね。でも、エグイ話になるわよ。回路がショートしなければいいけど」

 岩崎カエラはニヤリと笑った。



                  十九

 岩崎カエラは少し疲れた顔で、赤いAIポルシェを運転していた。彼女の昼食は、案の定、平穏には終わらなかった。村田と二人でランチを楽しんでいると、他の女性職員たちが周りを囲んだ。その女性職員たちと話していると、また他の女性職員たちがやってきて、店内は黄色い声で一杯になった。皆で雑談に盛り上がりながらも、岩崎カエラは若い女たちの活力とパワーに圧倒され、くたびれた。そんな中、幼馴染の浜田圭二から電話が掛かってきた。岩崎カエラは、これ幸いに、その場から退散したのだった。探偵の浜田圭二は、いつも待ち合わせ場所に新那珂世港ニューなかよこうを指定する。岩崎カエラは、窮状を訴える幼馴染の為に、その新首都の外れの波止場まで車を飛ばした。

 新那珂世港に着いた岩崎カエラは、AIポルシェで港内を徐行しながら浜田の愛車であるオールドカーを探したが、それは見当たらなかった。浜田は深緑色のダットサンに乗っている。AIもカーナビも搭載していない正真正銘のオールド・カーだ。いつもはすぐに見つける事が出来たが、今日はその古い車がどこにも見当たらなかった。その代わり、水際に止まっている一台の見慣れない小振りなオールド・カーを見つけた。岩崎カエラは、そのベージュ色のオールド・カーの隣に車を停め、隣の車の中を覗いた。浜田圭二が大きな体を窮屈そうに運転席に押し込めて座っている。彼のトレードマークである、彼の父親の形見の古いハットは被っていたが、いつも着ているトレンチコートを着ていない。首を傾げながらポルシェから下りた岩崎カエラは、その車の前を回り、助手席の方に向かった。その車は見慣れないドアだった。どこから開けるのか分からなかった彼女は、暫らくそのドアを見回し、前開きのドアを通常の車のドアとは逆向きに開けた。岩崎カエラは助手席に乗り込みながら、浜田に言った。

「よう。ハマッチ。元気してた。車、変えたのね。分からなかったじゃない。いい加減に、携帯通話機くらい何か持ちなさいよ。誕生日に私がプレゼントしたアレ、まだ使ってないの?」

 浜田圭二は岩崎がバースデイ・プレゼントに送った人気のウェアフォンを汚れた上着のポケットから取り出し、岩崎に見せた。

「こうして、大事にさせてもらっているぜ。肌身離さずな」

 岩崎カエラは呆れ顔で言う。

「あのね、契約しなさいよ。契約を。ただ持っていても、携帯電話会社と契約しないと使えない事くらい、小学生でも知ってるでしょうが。もったいないわね」

 浜田圭二は、そのウェアフォンに頬摺ほおずりしながら言った。

「いや、だから、こうして、お前からの愛情をだな、毎日実感しながら……」

「おえ。気持ち悪い。あのね、あんたに同窓会の連絡入れるのに、毎回、どれだけ苦労すると思っているのよ。神作君も、いつも私に頼んで来るし、事務所に電話しても、出ないか止められているかの、どちらかでしょ。どうやって連絡とればいいのよ」

「フッ。探偵はな、街の中の闇に溶け込んでいるものさ。だが、決して闇に染まりはしない。おまえも、その違いを見つけるんだな」

「見つけられるか。あんたをこの街の中から探すより、地表から犯人の皮膚片を見つける方が、まだ楽よ。だから買ってあげたんでしょ。もう。ちょっと見せて」

 岩崎カエラは手を出した。浜田圭二は素直に彼女の掌の上にそのウェアフォンを載せた。岩崎カエラは自分が送った防弾仕様のウェアフォンを見て、浜田に尋ねた。

「電池パックのイミテーションは? 同梱されてたでしょ」

「ああ、これか」

「貸して」

 浜田が取り出して手渡した金属性の板を、ウェアフォンの電池パックと取り替えた岩崎カエラは、それらを浜田に返した。

「はい。付け替えときました。使いもしないのにO2電池式のバッテリーを付けとくと、自動放充電を繰り返して、劣化しちゃうでしょ。説明書、読んでないの?」

 浜田圭二は受け取ったウェアフォンの重量を確かめながら言った。

「ん? 少し重くなったな」

「イミテーションパックは超合金製だからね。それで、今日の用は何……んん?」

 岩崎カエラは浜田を二度見すると、彼の頭の上のハットを取り上げた。浜田の右目の横が腫れている。ワイシャツには、靴底の跡が残っていた。唇の端にも切れた痕がある。明らかに、何らかの格闘の痕跡だった。心配した岩崎カエラは、真剣な顔で浜田に言った。

「ちょっと。あんた、また何か、危ない事に首を突っ込んでいるんじゃないでしょうね。どうしたのよ、その怪我」

「ん? ああ、いや、調査だ、調査。普通の調査だ」

「じゃあ、どうして、こんな所に靴底の跡が付いているのよ。今度の依頼人は、曲芸師か何かですか。逆立ちでもして挨拶するわけ?」

「ああ、そうだ。ちょっと身軽な奴でな。なかなか、変わった挨拶……痛っ」

 岩崎カエラはハットで浜田を叩いた。

「あのね。みんな、いつも心配してるんだからね。あんた、警察官じゃないんだから、無茶しないでよ。あんたの遺影の前で同窓会なんて御免よ」

「大丈夫。心配はいらねえぜ。それに、俺の仕事に『危険』は付き物だぜ」

「あんたは良くても、私が心配なの。分かってる? 無茶したら駄目よ。分かった?」

「はい。分かりました」

「分かれば、よーし」

 浜田圭二は横の窓の方を向いて小声で呟いた。

「いつも、これだぜ……」

 岩崎カエラは言う。

「で、何を調べて欲しいのよ」

 浜田圭二は皺くちゃの紙袋の中から、青い切花を取り出した。

「これだ。この花とこの花、それから、この押し花の植物DNAを比較して欲しい」

 岩崎カエラは浜田から渡された物を観察しながら唸った。

「うーん。こっちの押し花は、乾燥させてあるのね。出来るかなあ。一応、やってみるけど……」

「頼むぜ」

「何か、重要な証拠か何かなの? 随分古いみたいだし、保存も丁寧ね」

「ちょっと、昔の女に貰った花でね」

「ごめん。猛烈に捨ててしまいたい衝動に駆られてきたわ。ライター有る?」

「じょ、冗談だぜ。事件の証拠品だぜ。重要な証拠」

「それなら、よし。それで、これだけなの?」

「いや、実は……」

 浜田圭二は大きな体に似合わず、下を向いてモジモジとしていた。岩崎カエラは苛々して言う。

「何よ。はっきり言いなさいよ」

「ああ、まあ、奇遇というか偶然というか、こんな物を拾うとは、俺もなかなか思わなかったんだが、聞くところでは、こういう話もたまには在るらしくてだな……」

「何なのよ。男なら、はっきり言う!」

「はい。ああ、これです」

 浜田圭二は、すぐにそれを提出した。岩崎カエラは、浜田が掌の上に載せた小さな金属物を指先で摘まみ、光に当てる。彼女は顔を顰めた。

「はあ? これ、弾丸じゃない! 拳銃弾の弾身でしょ、これ。なんで、あんたがこんな物を持っているのよ!」

 浜田圭二は、顔の前でハットをパタパタと振った。

「いや、違う。拾ったんだ、拾った」

「嘘言いなさいよ。この弾なんて、被甲に傷が付いているだけで、先端が少ししか潰れてないじゃないよ。ということは、何か柔らかい物に当たったって事でしょ。ん、こっちの弾の先端に付いてるのは、これ、たぶん車の塗料よね。色はモスグリーン……」

 岩崎カエラは車内を見回す。そして、心得顔を浜田に向けた。

「ははーん。あんたの愛車、あのモスグリーンのダットサンに当たった弾ね。こっちの綺麗な弾は、至近距離からシートに当たった。そうでしょ。だから、車を替えたんだ。ちょっと、もう、これは犯罪の可能性があるじゃないのよ。警察に提出しなさいよ、これ」

 浜田圭二は、オドオドしながら首を横に振った。

「いや、それは出来ねえな。こいつとの照合を終えるまでは」

 浜田圭二は上着のズボンのポケットから財布を取り出すと、その中から小さなビニール袋を取り出し、それを岩崎に渡した。岩崎カエラはそのビニール袋を覗いた。中には、先端に赤茶色の染みを付けた、潰れた弾丸が入っていた。

「これ……ちょっと、血痕じゃないの。この先端に付いているの、人の血の痕でしょ。調べれば、ルミノール反応ですぐに判るんだからね。あんたね、これはもう、あんたの仕事の領域じゃないでしょ。ちゃんと話しなさいよ。これは、何処から手に入れた弾丸なのよ」

 浜田圭二は静かに答えた。

「親父の腹の中だ」

「え?」

 岩崎カエラは、それ以上何も言えなかった。彼女は浜田圭二とは幼い頃から学校が一緒で、仲も良かった。だから、彼の父親とも面識があり、探偵をしていた事も知っていた。そして、その父親が事件に巻き込まれて死を遂げた事も知っていた。だが彼女は、幼馴染の浜田圭二が、父親に撃ち込まれた弾丸を財布に仕舞って常に持ち歩いている事までは知らなかった。浜田の話が本当なら、その弾丸は浜田の父を撃った銃から発射されたものだ。彼が父の跡を継いで探偵をしている理由が、彼女にはその時はっきりと分かった。

 浜田圭二は落ち着いた声で岩崎に言った。

「大丈夫。最初に渡した弾の事は、ちゃんと警察に通報してある。撃たれた俺の愛車も、今頃、修理工場から警察が押収しているはずだぜ。その弾丸も、ちゃんと提出するつもりだ。だがその前に、どうしても、その二種類の弾丸が同じ拳銃から発射されたものかどうか、調べて欲しいんだ。つまり、今朝、俺を襲った奴が、親父を殺した犯人なのかを確かめたい」

 浜田の真剣な目を見た岩崎カエラは、彼に尋ねた。

「確かめて、どうするつもりなのよ」

 浜田圭二は低く沈んだ声で答える。

決着けりをつける」

 岩崎カエラは、旧友の凶行を危惧して、目を見開いて彼に問い質した。

「ちょっと、馬鹿なこと考えてるんじゃないでしょうね」

 浜田圭二は片笑んで答える。

「心配するな。罪を犯すつもりは無いぜ。俺はダーティー・ハマーだ。ちゃんと奴には法の裁きを受けてもらうぜ。だが、警察に奴を突き出すのは、この俺の……」

 それ以上浜田に喋らせないように、岩崎カエラは言った。

「分かったわ。こっちの花は? これも、お父さんの形見か何か?」

 岩崎カエラは浜田の性格をよく知っていた。彼が正義漢だと知っていた。決して復讐に我を忘れ、凶行に及ぶような男ではない事を信じていた。だが、警察の人間である岩崎カエラは、浜田がその犯人に何をするつもりか聞いてしまったなら、彼を止めなければならなくなる事も分かっていた。だから彼女は、それ以上浜田に語らせないようにした。そして彼に協力する事にした。彼女は浜田に犯人を見つけて欲しかったからだ。

 浜田圭二は岩崎の質問に答えた。

「いや、そっちの花は、依頼人絡みだ。三つの同一性を確かめたい。頼めるか」

「いいわ。やってみる。でも、一つ約束して。絶対に危ない事はしないこと。危険が迫ったら、私か警察に連絡すること。いいわね」

「ああ。分かったぜ。恩に切るぜ」

「たぶん、今夜までには判ると思うけど、どうする? 結果は、いつもの店に持って行けばいい?」

「ああ、頼む」

 岩崎カエラは眉を寄せて、幼馴染に言った。

「それから、携帯を早く契約しなさい。こんな事なら、なお更じゃない。いざという時に連絡が付かないから」

「わかったぜ。この件が解決したら、契約するとするぜ」

 岩崎カエラは溜め息を吐いた。

「はあ……もう、強情ね」

 古い腕時計で時間を確認した岩崎カエラは、彼の車から降りた。浜田の事が心配だった彼女は、前開きのドアを閉める前に、車内に頭を戻して浜田に言った。

「その携帯、ウェアラブル・フォンの中でも人気のフルメタルジャケット・シリーズで最新式だったんだからね。高かったのよ。捨てないでよ。随分苦労して入手したんだから」

「おう。感謝してるぜ。だから、岩崎の愛情を実感しつつ、毎日、こうして、肌身離さずだな……」

 岩崎カエラは浜田を指差す。

「肌身離さずって言ったからね。本当かどうか、抜き打ちで確認させてもらうからね。いいわね。私が確認した時に、もし、その胸のポケットに入ってなかったら、でこピン百回よ。百回だからね。わかった?」

 岩崎カエラは厳しい口調で浜田に念を押した。

 浜田圭二は怯えながら答える。

「は、はい。分かりました」

 ドアを閉めた岩崎カエラは、自分の車に戻った。赤いAIポルシェの電気エンジンをスタートさせた彼女は、バックミラーで浜田の車を何度も見ながら、車を走らせた。浜田から預かった弾丸と青い切花を一刻も早く鑑定するために、岩崎カエラは赤いAIポルシェを飛ばして、科警研へと急いだ。



                  二十

 科警研の特別研究室で小久保友矢が立体パソコンに向かって仕事に取り組んでいると、 ドアの向こうから岩崎カエラの声が聞こえてきた。

「うん。じゃあ、暫く帰ってくる予定は無いのね。――うん。あれ? あ痛っ」

 激しい衝突音がした。小久保友矢は何事かと慌てて立ち上がり、音がしたドアの方に走って行く。ドアを開けると、岩崎カエラが額を押さえてうずくまっていた。

「痛たたた。ああ、ありがと。――ううん。何でも無い。こっちの事。大丈夫。じゃあ、分かった。連絡を待ってる。ごめんね、忙しい時に。じゃあね」

 岩崎カエラはブラウスに留めたイヴフォンのボタンを押し、通話を切った。

 小久保友矢は立ち上がる岩崎に手を貸しながら、呆れ顔で言う。

「何やってるんですか、主任。イヴフォンしながら歩いちゃ駄目だって、説明書にも書いてあるでしょ。危ないですよ」

「うん。ごめん、ごめん。新日ネット新聞の記者と通話してたの」

「新日ネットの?」

 二人は特別鑑定室の中に入り、短い廊下を歩いて行く。岩崎カエラは額を押さえながら言った。

「うん。あ痛たた。あの神作って記者、私の高校の同級生なのよ。ほら、例の田爪瑠香の論文を持ち込んできたのも彼なの。津田の記者会見の時に、カメラの前で随分と吠えてたでしょ、背の高いおじさんが」

「ああ」

「彼が神作君なんだけど、事情を説明して、永山記者に会えないか、掛け合ってみたの」

「へえ……それで、どうでした?」

「うん。今、神作君と永山記者は、休暇とって出張中なんだって」

「休暇とって出張中?」

「うん。痛たた。瘤になっちゃった」

 小久保友矢は給湯室に氷を取りに行く。

 岩崎カエラは応接ソファーに腰を下ろし、説明を続けた。

「それでね、暫く帰ってこないらしいのよ。そんな遠くじゃないような事は言っていたけど。だから、帰ってきたらすぐに、ここに来てもらって、今朝の機体の復元予想図を見てもらうことになったわ」

「永山記者がですか。よかったですね」

 小久保の声と一緒に、ガラガラと氷の音が給湯室から聞こえる。

 岩崎カエラは言った。

「うん。神作君も一緒に。あの春木って記者と山野って記者も連れて来るって。これで、ASKITのタイムマシンを見た人間と、田爪博士の新型タイムマシンを見た人間の双方が揃うわ。復元予測した二機の機体のうち、どちらがどちらか、特定できる。あ、ありがと」

 小久保友矢は岩崎に氷を入れたビニール袋を渡しながら言う。

「でも、ウチとしては、客観的な科学的根拠を示して特定しないと駄目ですよね。人証だけじゃ」

「そうね。だから、それまでに一応の根拠を見つけておきましょ。うう、冷たっ」

 額に即席の氷嚢を当てた岩崎カエラは、両肩を上げた。小久保友矢は彼女の前に立ったまま答える。

「分かりました。でも、どうするんです。見つかっているパーツで復元できているのは、どっちの機体も、ほとんど縁の部分だけですよ」

「基準になる物があるじゃない」

「基準になる物ですか?」

 小久保友矢は首を傾げた。岩崎カエラは言う。

「装甲板よ。永山記者が南米で自分の代わりに『重し』として乗せた、対核熱反応金属でできた、戦車か何かの外部装甲板。あれ、爆心地でバイオ・ドライブと共に、その周辺で見つかっているのよね」

「ああ、耐核熱金属板ですね。司時空庁が長年、公開を拒んでいた。それがどうして基準になるんです?」

「あれは、どちらかの機体にしか乗せられていなかった訳でしょ。という事は、物体の重なり合いの対象からは、確実に外れている。見つかった場所と、見つかった具体的金属板が分かれば、位置エネルギーを逆算して、どちらの機体に乗せられていたか、分かるんじゃないかしら」

 小久保友矢は険しい顔で腕を組んだ。

「うーん。でも、その具体的位置や金属の細かな情報が必要になりますし、第一、シミュレーションするとしたら、SAI五KTシステムを使って、仮想空間内でやる必要がありますよ。それって、容疑者に鑑定させるようなものじゃないですか」

「上のシミュレーションセンターのシミュレーターは駄目かな。あれ、交通事故とか、爆発物の爆破状況の復元に使用するんでしょ。古い機械だから、SAI五KTシステムにも接続してないのよね。打って付けじゃない?」

 小久保友矢は自分の席に戻り、椅子に腰を下ろすと、立体パソコンを操作してシミュレーションセンターの空き状況を確認しながら答えた。

「まあ、確かにそうですけど、出来ますかね。ここに科警研が移転する前の、東京にあった頃の科警研時代から使っているモノですよね。精度が低過ぎるんじゃないかな」

「でも、無いよりはマシでしょ。あと、問題は、金属板の実際のデータよね。さっきの飛散したパーツの中に混じってないかしら」

「そうですね。訊いてみましょうか」

 小久保友矢は、椅子を回して後ろを向き、作業テーブルの上の立体パソコンに向かって話しかける。

「なあ、ウエモン、サエモン。話は聞いていただろ。その耐核熱金属板らしき物は、飛散物質の中になかったか?」

「はああ。在るような……無いような……」

「探して……みるで……ござるござるので……少々……お時間を」

 岩崎カエラは氷嚢を額に当てたまま、肩を落とす。

「はあ。やっぱ駄目ねえ。コピーをそのパソコンに入れてみたけど。CPUの処理速度が全然足りてないわ。しかも、二人で入ってるんだもんね。そのパソコンのハード・ドライブに、この子達のデータが完全には書ききれていないのかもね」

 小久保友矢は椅子から立ち上がると、立体パソコンにMBCを挿入して、中のウエモンとサエモンに言った。

「後日、ちゃんと上書きコピーでオリジナルの中に戻してやるから、心配すんな」

 岩崎カエラは溜め息を漏らした。

「はあ。オリジナル君たちに、これをやってもらってから、警視庁に持っていけばよかったなあ。失敗した」

「どっちにしても、シミュレーションが出来るほどのメモリー容量は、このパソコンには無いですよ。それなりの、大型コンピュータじゃないと。さっきのパーツの組み合わせ程度が、限界だと思いますよ」

「普通のシミュレーションなら、市販のパソコンでも十分なんだけどなあ」

「モノがモノですからね。爆発規模も大きいですし、原因が量子反転爆発だとすると、普通のパソコンでシミュレーションするのは、厳しいでしょうね」

「そうよねえ。それに、相応の精度も求められるから、そうなるとやっぱり、大型の汎用コンピュータってことになるわよね」

 立体パソコンからウエモンの声が、途切れ途切れで聞こえてきた。

「在ったで……ござるござる……」

「いま……記憶媒体に……書き込み……ま…………す」

 岩崎カエラが眉を八字にして言う。

「ああ、何か、胸が痛くなってきたわ」

 ウエモンが必死に返事をする。

「ご心配……痛み……入り……バシュッ」

「あらら、電源が落ちちゃった」

「後で、さっきのデータを抜き取ってから、再起動させてみます。少しは軽くなるかもしれませんから」

 小久保友矢は立体パソコンからMBCをイジェクトさせると、それを持って自分の机に向かった。自分の立体パソコンにそのMBCを挿入し、中身を確認する。ソファーから腰を上げた岩崎カエラは、小久保の席の後ろに移動して彼に尋ねた。

「どう? ちゃんと移されてる?」

 投影された表データのホログラフィー画像を見ながら、小久保友矢は答えた。

「ええ。仕事はちゃんと、やってくれたみたいです。発見された耐核熱金属板の詳細データと発見位置が、全て書き写されてました」

 岩崎カエラは小久保の肩の上から画像を覗き込んで言った。

「そう。献身的ね。感心するわ」

「僕も感心されてるんですかね」

「小久保君には、感謝してる」

 岩崎カエラは小久保の肩を叩いた。

 小久保友矢はスケジュールデータのホログラフィー画像を覗きながら言った。

「それにしては、加点評価が低過ぎじゃないですかねえ。あ、シミュレーションセンター、今日と明日は空いているみたいです。どうします? オーダー、入れときますか?」

 岩崎カエラは給湯室に向かいながら答える。

「うん。お願い。なるべく早く始めたいわね」

「分かりました。ああ、氷嚢は、そのまま流しに置いていて下さい。後で片付けますから」

「ああ、いい。たまには自分でやる」

 電話の受話器を耳に当てながら首を捻った小久保友矢は、電話に応じた。

「あ、今別府さんですか。お疲れ様です。特別鑑定室の小久保です。たった今、シミュレーションの申請をしたんですが、ご確認いただけませんか。昨日、この部屋のサーバーにトラブルがあって、ネット接続が上手くいっているか分からないので。――そうですか。あの、実は、急ぎの実験なのですが……はい……はい……あ、そうですか。オーダーも既に入れています。――はい。分かりました。有り難うございます。では、宜しくお願いします。失礼します」

 受話器を戻した小久保友矢は、ロッカーの前で、開けた扉の後ろの鏡を覗いている岩崎に言った。

「すぐに使わせてもらえるそうです。条件データは、向こうで入力すればいいと。以前、司時空庁が、タイムマシンが一機だと想定して独自にシミュレーションしたデータがあると言っていました。使えるかもしれませんね」

「そう……ついてたわね。痛っ。もう……最悪」

 ファンデーションを載せたパフを額から離した岩崎カエラは、コンパクトの蓋を閉じて、ロッカーの中の化粧ポーチに戻した。それを見た小久保友矢は、慌てて彼女に駆け寄る。

「あーあーあー。駄目ですよ。化粧品は外傷薬じゃないんですから。ああ、少し擦りむいてるじゃないですか。ちょっと待ってて下さいね。救急箱を出しますから。ああ、はい。ここに座ってて下さい」

 自分の席の隣の机から椅子を引き出した小久保友矢は、駆け足で給湯室に向かった。救急箱を取ってきた彼は、椅子に座らせた岩崎の前で膝を折って屈み、彼女の額の腫れた箇所に消毒スプレーを吹きかける。岩崎の顔に自分の顔を近づけて傷口を覗き込みながら、小久保友矢は言った。

「沁みますか」

「うん。大丈夫」

「小さめの絆創膏を貼っておきますね。周りの腫れはひいてますけど、アザに成りそうなので、上から即冷シールを貼りましょう。冷たいですよ」

 岩崎の額に絆創膏を貼った小久保友矢は、その上から一回り大きな湿布を貼った。岩崎カエラは肩を上げる。

「ひゃあ」

「でしょ。ま、これでアザになるのは最小限で済むんじゃないですかね」

「ありがとう。いつも、いつも」

「いえいえ。でも、気をつけて下さいよ。もっと大きな怪我してたら、せっかくの美人が台無しじゃないですか」

 そう言いながら救急箱に道具を仕舞い、蓋を閉めている小久保に、岩崎カエラは言った。

「ねえ、小久保君。ちょっと聞いていい?」

「はい。何です?」

「小久保君って、私のこと、好きなの」

「……」

 少し考えた小久保友矢は、岩崎の顔を見て、はっきりと答えた。

「はい。好きです」

「……」

 少し考えた岩崎カエラは、横を向いて、小声で呟いた。

「この子は正直なのかしら、変わってるのかしら、それとも……」

「はい? 何ですか?」

「ううん。何でも無い」

 給湯室に救急箱を仕舞いにいく小久保友矢を、岩崎カエラはじっと目で追っていた。



                  二十一

 科警研ビルの十六階にあるシミュレーションセンターは、小さな映画館のようである。正面に壁一面を覆う大きさの大型モニターが設置され、横にはタワー型の大きな汎用コンピュータが何台も並んでいた。何も置かれてない広いフロアを隔てて横一列に並べられた制御端末の前に、白衣姿の岩崎カエラと小久保友矢が離れて座っている。その後ろの管制室兼事務室から出てきた白衣姿の初老の男が岩崎に尋ねた。

「終わりましたか」

「ええ。小久保君、そっちは、どう?」

 岩崎カエラは小久保に尋ねた。小久保友矢は、旧式のキーボードのキーを叩きながら答える。

「ええと、もう少しです」

 後ろを向いた岩崎カエラは、このセンターの管理責任者である今別府に言った。

「本当に、すみません。急なオーダーを立ててしまって」

 今別府は人の良さそうな顔の前で手を振って答える。

「いえいえ。とんでもない。ウチは暇ですから、いいんですよ。今や、仕事という仕事は、尽くSAI五KTシステムに持っていかれましたからね。来期の予算獲得の為に、たまに、土砂崩れの再現や、ガソリン自動車の自損事故での横転なんかをシミュレートしているだけですから」

 小久保友矢が言った。

「条件データベースへの入力が終わりました。あとは、起点の位置を決定するだけです」

 今別府は並んでいる大型のコンピュータの方に移動し、もう一度、配線を確認し始めた。席から立って岩崎の席に歩いてきた小久保友矢は、彼女に言った。

「でも、主任。本当にいいんですかね。司時空庁の爆発再現データをいじってしまって。間違っていた機体データや、余計なエネルギー拡散データを消せたんで、だいぶ軽くはなりましたけど。メモリーの節約とはいえ、やっぱり、バックアップを取っておいた方が良かったんじゃないでしょうか」

 それが聞こえた今別府は、振り向いて小久保に言った。

「いや、良いんですよ。どうせ、あそこは解体される予定の省庁ですし。存続するとしても、このデータを返せとは言ってきませんよ。これ以上、警察には埃を叩かれたくないでしょうから。かといって、こんなビッグデータを今後、ウチが使う事は無いですし、このままにしていては、どうせ宝の持ち腐れ……」

「よっ、イマちゃん。久しぶり。いてっ。てやんでい、段差かよ。こんな所に段なんか作るんじゃねえやい。危ねえなあ……」

 頭に捻り鉢巻を巻いた年配の男が入ってきた。白衣の袖を高く捲くっている。彼は出入り口の前の段差で躓くと、ブツブツ言いながら今別府の所に歩いていき、巻き舌調で言った。

「待たせたなあっと。一流のプログラマーが必要なんだって? どうやら、俺様の出番みてえだな。お、カエラちゃん。久しぶりー。なんだい、怪我したのかい? ついて無いねえ」

「誰です?」

 小久保友矢が小声で岩崎に尋ねた。岩崎カエラも小声で言う。

「電算理論研究室の荒別府さん。プログラマーよ。ここの今別府さんが応援に呼んだみたい」

 荒別府は制御端末の列に入ってくると、さっき小久保が入力していた条件データを覗き込んで言った。

「何でい、何でい。こんなチンケなシミュレーションに、三人も掛かってるのかい。かああ、泣けて来るねえ」

 岩崎カエラが小久保に耳打ちする。

「昨日の西井上さんとは、また違ったカテゴリーの人だから、心して」

「分かりました。ウエモンの『ござる』は受け入れられましたけど、これはキツそうですね」

 荒別府は言う。

「おう、おう。何をコソコソ言ってやがんでえ。シミュレーション、やるのか、やらねえのか、はっきりしやがれ、この野郎」

 岩崎カエラは言い返した。

「やるわよ。やるから来てるんじゃない。今別府さん、準備の方、お願いします」

「分かりました。起点が決まったら教えてください。スタートします」

 今別府は管制室に戻り、ガラス窓越しに岩崎に合図した。岩崎カエラは頷いて返す。そして、小久保に言った。

「じゃあ、まず、大きい方の機体の方から、金属板を載せてみましょうか。記事によれば、永山記者は機体の後部ハッチを開けてすぐの所に金属板を乗せたのよね。それでやってみましょう」

「分かりました。まずは、中央に均等に重ねてみます。機体そのものの位置は、爆発中心点に重心が来るように配置してみます」

「うん。お願い」

 小久保友矢は岩崎の隣の席に座り、液晶モニターの画面を見ながら、キーボードを叩き始めた。荒別府がやって来て、腕組みしながら小久保の作業を見ている。

 小久保の入力が終わったのを確認した岩崎カエラは、振り向いて、ガラスの向こうの今別府に言った。

「じゃあ、今別府さん、お願いします」

 頷いた今別府は、手許のスタート・キーを押した。正面の大型モニターに二機のタイムマシンが重ねて表示され、シミュレーションがスタートする。大型のタワー型コンピューターがフル稼働して様々な可能性を全て計算し、天文学的な数の予測結果の中から取捨選択して、次の状況変化へと移行していく。百万分の一秒単位でコマ送りされる大型モニターの画像は、ほとんど停止しているようにしか見えなかった。岩崎カエラが言った。

「今別府さん。予測ユニットをもう少し拡大してもらってもいいです。すみません」

「では、十万分の一秒単位にします。ただ、精度が下がりますよ」

「構わないわ。お願いします」

 今度は、画像が進んだり戻ったりしながら、少しずつ変化し始めたが、同じ変化を繰り返すだけで、一向に先に進まなかった。

 小久保友矢が眉を寄せて言う。

「主任。やっぱり、実データが多過ぎますね。ここのコンピュータには荷が重過ぎるかもしれません」

「そうね。この分だと、数日はかかりそうね。やっぱり、平面上で理論3Dを再現するとなると、無駄か多過ぎるのかしら」

 痺れを切らした荒別府が白衣の下の腹巻を叩いて、声を荒げた。

「あー、もう! まどろっこしいたら、ありゃしない。何をチンタラやってんだい、イマちゃんよ。そんなんじゃ、日が暮れちまらあ。それとも何かい? これは我慢比べか何かかい? 冗談じゃねえやい。こうなりゃ、オイラの腕の見せ所よ。ぷっ。そら、どいてみな」

 手に唾を拭き掛けて捻り鉢巻を締め直している荒別府に、小久保友矢は席を譲った。岩崎カエラも椅子から立ち上がり、小久保と共に隅に移動する。

 岩崎カエラは眉間に皺を寄せた。

「うーん。何か、ものすごく嫌な予感がするわ」

 小久保友矢も、制御端末を操作している荒別府を見つめながら呟いた。

「普通の展開だと、ここでパッと解決するパターンですけどね。たぶん、これは……」

 荒別府は端末テーブルの上を叩いた。

「てやんでい! 何でい、何でい。コイツはよお。こんな馬鹿でかいデータを、ここのお嬢ちゃんにぶち込んだのかよお。スットコドッコイにも程があらあ。これじゃあ、DYNAMOもCSSLも走る訳ねえじゃねえか。こんちきしょーめ」

「やっぱり。思ったとおりでした。主任、大丈夫ですか」

 小久保の隣で岩崎カエラは目頭を押さえていた。

「ううん。下品過ぎて、少しめまいがしただけ。小久保君。そこの内線電話、取ってくれる」

 小久保友矢は、壁に掛けてあったコードレスの内線電話機を取り、岩崎に渡した。岩崎カエラは内線ボタンを押して、電話機を耳に当てる。

「あ、もしもし。第一物理研究室ですか。第二物理研究室の岩崎です」

 小久保友矢が耳打ちした。

「主任。特別鑑定室です」

 岩崎カエラは言い直す。

「あ、すみません。今は特別鑑定室でした。あの、ええと……中別府さんはいます?」

 暫らく待っていた岩崎カエラは、また話し始めた。

「あ、中別府さん? お疲れ様です。カエラです。実は、ちょっと困った事になっていて。シミュレーションセンターのコンピュータの処理速度を上げたいのですけど、もしかして、そちらに余っている液体窒素とか無いですよね。あれば、使えないかなと思って」

 振り返った荒別府が顔を顰めた。

「液体窒素だあ? なーにを古典的な事を言ってるんでい。アイスキャンディーでも作ろうってのかい? こういうのはよ、シミュレーション言語をちょいといじくれば、すぐに解決するんでい。そこいらで弁当でも広げて見物してやがれってんだ」

 岩崎カエラは荒別府を無視して通話を続ける。

「――あ、そうですか。それは助かります。十六階のシミュレーションセンターです。はい。お待ちしています。失礼します」

 通話を終えた岩崎から電話機を受け取りながら、小久保友矢は尋ねた。

「何か良い手はありました?」

「第一物研の中別府さんが、冷却装置があるそうだから持ってきてくれるって。それから、警視庁のハイパーSATに出向してた国別府さんが、新型のキューブ・プロセッサを持って戻ってきてるんだって。それに繋いでみようかって。国別府さんは、小久保君と同じ機械研究室だから知ってるよね」

「ああ。彼はその道のプロですから、それは助かりますね。期待できます」

 また荒別府が怒鳴り始めた。彼は顔を赤くしている。

「おうおうおう。上等じゃねえか。このシミュレーション・プログラムの野郎、余計なコマンドばかり並べやがってよ! 喧嘩売ってんのか、この野郎。まあ、いいや。火事と喧嘩は江戸の華ってな。楽しくやろうじゃねえか。それにしてもよ、起きて半畳、寝て半畳って言葉があらあ。その意味をよ、この俺様がよーく教えてやるぜい! 覚悟しやがれ!」

「江戸じゃないし……」

 岩崎カエラは冷ややかな視線を荒別府に送って呟く。

 小久保友矢が憂え顔で言った。

「下別府さんを呼んだ方が良かったんじゃないですかね」

「そうね。どうせなら、その方がよかったかもね」

「主任は、これまで結婚しようと思った事はないんですか?」

 岩崎カエラは小久保の顔を見た。

「な、え? 結婚? 何よ。急に。仕事中でしょ。話に脈絡も無いし」

 小久保友矢は岩崎を指差して片笑みながら言う。

「あ、今、はぐらかしましたね。有るんですね」

 岩崎カエラは口を尖らせた。

「そりゃあ、有るわよ」

「なんで、しなかったんです?」

「だって、仕事が忙しかったんだもの。仕方ないじゃない」

「そうじゃなくて、その結婚しようと思ってた人とです。どうして、結婚しなかったんです?」

「うーん。なんでかな……考え方の違いかな。居る世界が違うっていうか。私とはレベルが違い過ぎたのね。雲の上の人だった……かな」

「ふーん。神様を好きになっちゃったんですか。そりゃ、しょうがないですね。神様じゃ」

「どういう意味よ」

「どうしても好きになってしまうって事ですよ。だって、人をそうさせるのが神様ですから」

「……」

「僕は人間ですけど、頑張りますからね。あ、中別府さんかな。冷却装置だ」

 小久保友矢はシミュレーションセンターの出入り口に走っていった。岩崎カエラは怪訝な顔で、彼の背中を見ていた。



                  二十二

 白衣の下に黒のダブルのスーツに黒いワイシャツを着て、赤いネクタイを締めた中年男がシミュレーションセンターに現れた。彼はリーゼント・ヘアーの髪を撫で付けて言う。

「やれやれ、ようやく現場のSAT隊員さん達のアーマー・スーツのメンテが終わったと思ったら、今度はシュミレーション・コンピュータのグレード・アップときたぜ。最新式のオメガ・キューブ・プロセッサから石器時代並みの旧式CPUのメンテとは、忙しいこったぜ。イテッ。何でこんなところに段差が……」

 小久保友矢が彼を出迎えた。

「すみません。国別府先輩。お疲れの所、わざわざ」

「天才小久保ちゃんが壁にぶつかっているんなら、大天才の俺の出番だろ。気にするな」

 国別府は小久保の肩を叩くと、気障な笑みを浮かべて、タワー型コンピュータの方に歩いていった。そのタワー型の大型コンピュータの横では、白衣姿の中年女性が一台のコンピュータのカバーを開けて中を覗き込んでいた。彼女は後ろで冷却装置を支えて立っている今別府に尋ねる。

「今別府さん。どこを冷やせばいいのかしら」

 今別府は中央に並んでいる数台の大きなコンピュータを指差しながら中別府に説明する。

「プロセッサに当たる部分がここから、ここまでですから、中別府さん、ちょっと、そっちを持っていてもらえますか」

 今別府は、その中年の女性に冷却装置のホースの先を渡すと、台車に載った装置を数台横のタワー型コンピュータの前まで移動させた。

「あ、大丈夫。届きますね」

 すると、制御端末の列で荒別府の癇声が響いた。

「てやんでい。下別府! おめえ、呼ばれてもいねえのに、何で居るんでい。ここは、この荒別府一人で十分でい。草履咥えて、とっとと帰りやがれい!」

 端末の前に座ってキーを叩いている白衣姿の下別府は、眼鏡を少し上げて答えた。

「いえ。ソフトウェア工学とシステム工学は私の専門ですからね。あなた一人に任せてはいられませんよ」

「なんだと? あったまに来たぜ、こんチクショウ! 表に出ろい! この唐変木!」

「まあまあ、お二人さん。ここは、この高別府に免じて、ひとつ穏便に」

 地味な三つ揃えのスーツの上に白衣を纏った初老の男が、白い顎鬚を触りながら二人を取り成した。荒別府は高別府に怒鳴る。

「おめえは何なんだよ。心理学研究室じゃねえか。場違いなんだよ。帰りやがれ」

「まあ、そう仰らずに。それに、皆さんお集まりだと、科学者としての好奇心が、どうしても私をじっとはさせてくれないのですよ」

 高別府は懐中時計を取り出すと、周囲をシミュレーションセンター内を見回しながら、時間を計り始めた。

 大型モニターの前に並んで立ち、センター内の喧騒を見回していた岩崎カエラと小久保友矢は、小声で会話する。

「ねえ、小久保君。ウチの人事課って、キャラの濃さで採用を決めてるのかしら」

「さあ。名前が似てるから、個性を際立たせようと必死なんじゃないですか」

 そこへ、白衣姿の若い女が入ってきた。

「失礼します。南別府です。カエラさんはいらっしゃいますか」

「あ、また一人増えましたね」

 そう言った小久保の横で、岩崎カエラは南別府に手を振った。

「ああ、こっち、こっち。分かった?」

「はい。全ての線状痕が、あ痛っ」

 段差で躓いた南別府は、苦悶の表情で岩崎のところに歩いてきて、小さな紙袋を手渡した。岩崎カエラが尋ねる。

「大丈夫?」

「はい。イタタタ……。ああ、それ、全ての線状痕が一致したそうです。データは後でカエラさんの部屋に持っていきますね。あ、それから、植物DNAの方は、今、生物研究室の西別府さんが……」

「岩崎さーん。岩崎研究員。何処ですかあ? 西別府ですう」

 丸襟のトレーナーにジーンズ姿の上から白衣を纏った天然パーマの若い男が現われた。岩崎カエラは手を高く上げて振る。

「ああ、ここ、ここ」

 汚れた白衣を着ているその男は、周囲を見回しながら歩いてきた。

「何事ですか、これ。えらく賑っていますね」

「ええ、まあ。呼んでない人も来てるから。それより、どうしたの、その羽」

 西別府は白衣の表面を手で払った。白い羽毛が飛び散る。横に立っていた南別府は顔の前で手を振って、浮遊する羽毛を払った。西別府は頭を掻きながら言う。

「ああ、隣の部屋の熊別府の奴が、実験用の鶏をゲージから出しちゃいましてね。捕まえるのに一苦労でしたよ。ああ、これ。植物DNAの鑑定データです。ドライフラワーの細胞の簡易培養に時間がかかったので、遅くなりました。すみません」

 岩崎カエラは真空のビニール袋に入れられた青い花のサンプルと、鑑定結果が入ったMBCを受け取りながら言った。

「何言ってるの。急に持ち込んだのは私だから。ありがとう。助かったわ」

 横から小久保友矢が尋ねた。

「主任。何を調べてるんですか」

「ん? ああ、実は、ちょっと緊急の頼まれ事で。急ぎの捜査みたいなもの」

「ふーん。相変わらず、現場警官から人気がありますねえ」

 岩崎カエラは小久保をからかうように言う。

「そうよー。ライバルが多いわよ。小久保君」

「はあ……」

 小久保友矢は項垂れた。

 床にしゃがんでリーゼント・ヘアーに櫛を通しながら、タワー型コンピュータに繋がれた何本ものケーブルを睨んで思案していた国別府が、大きな声で言った。

「おお、西別府。丁度いいところに来た。ちょっと意見を聞かせてもらえるか。バスマスタを構成し直したいんだが、RAMとのデータの遣り取りが旨くいかねえんだ。どう思う」

「どうって、僕は植物が専門です。分かりませんよ。でも、DRAMをSRAMに替えたら、少しは違うんじゃないですか」

 西別府は国別府の所に歩いて行く。しゃがんで配線の先を見つめながら、国別府は頷いた。

「なるほど、SRAMねえ。悪い、南別府さん。俺の部屋からSRAMを全部、箱ごと持ってきてくれないか。ついでにSCSIコネクタも適当なのを選んで、五、六本、持ってきてくれ。モデルⅡのタイプだぞ」

 南別府は廊下へと走っていく。途中、段差で躓いてこけた。岩崎カエラが顔を覆う。

 今度は荒別府の声が響いた。

「なんなんだよ。ワイヤーフレームモデルで十分だろうが。そうすれば、こんなゴチャゴチャした構文を作らなくても済むじゃねえか」

 横に座っている下別府は、眼鏡を指先で上げながら淡々と反論した。

「フォンノイマンボトルネックですよ。これ、ノイマン式ですから、バス速度を超えて総合性能を向上させる事は出来ないんです。だから、向こうで最新式のプロセッサに繋ごうとしてるんじゃないですか。理解してないんですかね。こんなコードを削っても無駄ですよ」

「何言ってんでい! 無駄なサブルーチンを省けば、メインルーチンの処理がスムーズに行くじゃねえか」

「だから、インタープリターを使おうとする事自体が問題なんですよ。ワンステップずつやろうとするから、重くなるんです。最新のコンパイラを使って、全てのソースコードを実行形式に変換すれば、それだけスムーズに行くんですよ。いつの時代の処理方法をしようとしているんですか。まったく」

 その手前では、管理責任者の今別府が台車に載った冷却装置を指差しながら、中別府に尋ねていた。

「この冷却装置、超伝導低温を誘発する誘導機器ですよね。ここの汎用コンピュータに使えるんですか」

 中別府はタワー型コンピュータとコンピュータの狭い隙間に身を入れて、六角レンチでボルトを回している。

「やってみないと……わかりませんけど……すみません。ここのネジを外してもらえませんか。錆びてまして。女の私の力では、とても……」

 今別府は中別府と交代すると、ネジに差し込まれた六角レンチを握り、力を入れて回した。

「うーん……男の私でも……これは……なかなか……」

 制御端末の所では、相変わらず下別府と荒別府が言い合っている。

「だから、オブジェクト指向のプログラミングでいかないと……はあ……」

「それじゃ、おめえ。シミュレーションの意味がねえじゃねえか。いいか、シミュレーションってのはだな、一つ一つのコードを丁寧に重ねていってだな……」

 床に腰を下ろして、四角い箱にケーブルを丁寧に接続していた国別府が、リーゼントの崩れを気にしながら言った。

「それより、ジェネレーターは無いのか。ジェネレーターは。ていうか、小久保ちゃん。これ、最新式のAIを並列接続して制御させた方が、早くないか?」

「最新式のAI……」

 岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせた。

 国別府は立ち上がると、大きな声で言う。

「誰かこの中で、一番新しいAI自動車に乗っている奴はいないか。その中のコンピュータ・ユニットを外させてくれ。マザーボードとメモリーカードだけでもいいぞ」

 中別府が言った。

「あれ、西別府さんは新車を買ったんじゃなかったっけ」

 西別府は首を横に振る。

「まだローンが残ってますから、お断りです」

 高別府が白い顎髭を触りながら笑顔で言った。

「まあ、誰かに犠牲を強いるのではなく、他の方法を探しましょう」

 荒別府が一喝する。

「おめえは黙ってろい。あ、そういえば、高別府、おめえさん、随分と上等のAI自動車に乗ってるよな。高級車ならハイスペックのAIを積んでいるだろ。それなら丁度いいんじゃねえかい?」

 高別府は急に険しい顔をして怒鳴った。

「何言ってるんだ。どうして関係も無い私が、財産を提供しないといけないんだ!」

 冷却装置の横の中別府が言う。

「ああ、今別府さん、そのホースを握っていて下さい。危ないですよ」

 国別府の尻に冷却装置が冷気を噴きつけた。

「冷た! 危ねえな。凍傷になったらどうするんだ」

 中別府が国別府に頭を下げる。

「すみません。だから、握っててと言ったでしょ。今別府さん」

 今別府は口を尖らせた。

「私はここの管理者なんですよ。どうして、こんな下働きみたいな事ばかり……」

 下別府は捻り鉢巻の男を指差して言う。

「荒別府さん、あんた、もしかして、コンパイラ言語を知らないでしょ」

「なにイ、この下別府! 名前と違って上から目線で来やがったな。もう、我慢ならねえ。上等だ。表に出ろい。サシで勝負だ!」

 冷却装置の調整をしている中別府は、白煙を噴いて暴れるホースの先端を指差して、甲高い声を上げる。

「もう、だから、今別府さん、そっちのホースを握ってて……わっ」

 冷却装置の排気ノズルから冷気が噴射される。国別府が怒鳴った。

「さっきから冷たいって言ってるだろ。俺のケツ冷やしてどうするだ。コラッ!」

 遠目に全体を見回しながら、高別府が分析する。

「ううん。これはグループ・ダイナミックス的見地から、非常に興味深い状況ですな」

 下別府は荒別府に言う。

「だから、コンパイルした方が処理速度は上がるし、必要な記憶容量も少なくて……」

「てやんでい。さっきから、ごちゃごちゃと、人の仕事にイチャモンばかり付けやがって。こうなったら、こっちにも意地があらあ。いいかい。男の意地ってのはな……」

「うるさあああああああああああああああああい!」

 岩崎カエラの大声が室内に響き渡った。

 広い室内が静まり返る。全員が手と口を止めて岩崎に注目した。岩崎カエラは両手を上げて、ゆっくりと落ち着いて話した。

「ちょっと、みんな。感謝してる。感謝してるけど、私の言うことを聞いてちょうだい。いい?」

 そして次々と指示を出していく。

「まず、ここのシミュレーション・コンピュータが、科警研のイントラネットからも外部ネットワークからも完全にスタンド・アロンにしてあるか確認してちょうだい。それから、ハイエンドのデスクトップ・コンピュータでクリアなものを一台、準備して。あと、誰か、AI二体分の受け皿になりそうなメモリーの代わりになるものも探してきて。一体半の分でもいいから。そこの汎用コンピュータは、並列処理を維持したまま、中のアキュムレーターとオメガ・キューブ・プロセッサを直接交信できるように再配線。それと、アクセラレータも幾つか準備して。シミュレーション・コンピュータのメインプログラムは、冗長部分を削除。でも、ソリッドモデルで再現できるようには、しておいてちょうだい」

 下別府が呟く。

「ほらね。結局、コンパイラで正解だ」

 岩崎カエラは下別府を指差して怒鳴った。

「そこの、何とか別府さん!」

「はい……下別府です」

「付いて来て。小久保君、行くわよ」

 岩崎カエラはヒールの音を鳴らして、大股で歩いて行き、シミュレーションセンターから出て行った。



                  二十三

 配線の組み換えを終えた国別府が、櫛でリーゼントを整えながら言った。

「ま、こんなもんだろ。SAI五KTシステムには足下にも及ばないが、大型コンピュータの実験設備としては、まずまずの性能が期待できるかもな」

 白衣姿の技官たちは、持ち場の作業を終え、一息つく。岩崎カエラは皆に改めて頭を下げた。

「みなさん。ありがとうございます」

 一緒に作業をしていた小久保友矢も機械を置いて立ち上がり、周囲の技官たちに頭を下げた。するとそこへ、動力台車の電動モーターの音と共に南別府の声が届いた。

「カエラさーん。有りました。メモリーの代用品。これ、どうですかね」

 入り口から入ってきた南別府の後ろから、電動台車に載せられた大きなロボットが姿を現す。台車は段差の前で停止した。電動台車を押していた西別府が言う。

「すみません。誰か手伝って下さい。そこの段差が邪魔で……」

 技官たちは駆け寄った。台車の上には、二メートル以上はある人型ロボットが項垂れた姿勢で座っていた。逞しく太い腕をアルミ製のエプロンの上に垂らしている。メイドの姿をデザインしたボディーは酷く汚れていて、染みだらけであった。

 荒別府が捻り鉢巻を締め直して言う。

「ったく、誰でい、こんな所に段差なんて作りやがったのは。よーし。みんなで力を合わせて、部屋の中央まで運ぶぞ。俺が上に乗るから、祭りン時の御輿と同じ要領で……」

「ここで起動させて、自分で歩かせればいいでしょう。ロボットなんだから」

 下別府が冷ややかにそう言った。

 小久保友矢が尋ねた。

「これ、動くんですか?」

「みたいですよ。動力システムは壊れてないって。メモリーも綺麗だそうです。容量も十分な量ですよ。ただ、AIの深部がショートしちゃってるって」

 小久保友矢はロボットの後ろに回り、背部のカバーを開けて内部の機械を調べ始めた。

 今別府が逞しいロボットを見回しながら尋ねた。

「何処にあったんですか。こんな大きなロボット」

 南別府が答える。

「四階の倉庫の奥に眠ってました。何年か前に、科警研が購入したロボットみたいです。もう使わないから、好きにしていいって言われました」

 高別府がコソコソと退室していった。

 岩崎カエラは台車の上に乗ると、ロボットの肩に手を掛けて、小久保の横から体の中を覗き込む。

「うーん、小久保君。そのパソコンのパーツと入替えられるかな。メインメモリーは使えそう?」

 岩崎の横でロボットの体の中を覗きながら、小久保友矢が答える。

「そうですね。メモリーは痛んでないようです。やってみましょう。これなら、容量としては十分だと思いますから。カメラの方は壊れてませんか?」

 岩崎カエラはロボットの肩に掴まって、その顔の前に自分の体を出した。二つの丸いカメラを目の位置に搭載したロボットの顔は、えらく染みだらけで汚れている。岩崎カエラはレンズを手で拭いて言った。

「大丈夫そうね。汚れてるけど。集音マイクも問題ないみたい。フッ。フッ」

 岩崎カエラは、ロボットの耳の辺りに息を吹きかけて埃を飛ばした。

 小久保友矢が言う。

「音声スピーカーは、このパソコンの物を適当にくっつけましょう。目と耳が使えると、さっきよりだいぶ楽になるでしょうから、彼らも思考し易いんじゃないですかね。なんだ、それにしても、えらく痛んでるし、汚れてるな。何に使っていたんです? このロボット」

 西別府が答えた。

「心理学研究室で飼っていた、雄ゴリラの『幸一くん』、覚えてますか」

 国別府が頷く。

「ああ、行動観察の為に飼育してたゴリラだろ。去年、死んだんじゃなかったっけ」

 西別府は言った。

「ええ。生前は元気が良くて、女性研究員を檻の中に引きずり込もうとするわ、男性飼育員にも飛びかかろうとするわ。結局、所員の安全を優先しようという高別府さんの提案で、このロボットを購入して、餌やりなどの世話をする事になったみたいですよ。熊別府の話では」

 岩崎カエラはロボットの肩に掴まって、小久保と共に、中のマザーボードを引き出しながら話を聞いていた。台車の横では、下別府が新品のデスクトップ式のパソコンを惜し気もなく分解している。横に立っていた荒別府が鼻を啜って言った。

「てやんでい。高別府の野郎、こんな物に無駄な経費を使いやがって。おかげて、こっちの研究室はエアコンが壊れたまま二年も我慢じゃねえか。簡単に壊れるロボットなんか買うくらいなら、エアコンを買いやがれってんだ。べらんめえ」

 中別府が顰めた顔で言った。

「私なんて、『幸一くん』の葬儀にまで参列させられました。香典まで出す事になって」

 西別府は話を続ける。

「とにかく、購入後すぐに、このロボットは『幸一くん』の愛玩ロボにされてしまって、壊れてお蔵入り、だそうです」

「げっ。ちょっと、冗談でしょ。早く言ってよ。汚いわね」

 岩崎カエラはロボットから離れて、台車から降りると、何度も手で白衣の上を払った。

「後でよく、拭いておきますから」

 そう言って笑った小久保友矢は、下別府から受け取った新品パソコンの部品をロボット中に入れて作業を続けた。暫らくして部品の入れ替えを終えた彼は、先輩に言った。

「国別府さん。オーケーです。ケーブルを下さい」

 国別府が小久保にケーブルを渡す。小久保の作業を見ていた荒別府が岩崎に尋ねた。

「何をしようってんだ?」

「まあ、見てて」

 岩崎カエラは片笑んでそう答えた。小久保友矢は特別鑑定室から持ってきたパソコンを持ち上げて、言った。

「国別府先輩。この立体パソコンを、どっかこの背中の辺に装着できませんか。USBケーブルが届く位置で」

「この辺か? 南別府さん、また悪いんだけど、俺の部屋から接着剤を持ってきてくれ。金属用の耐熱仕様のやつ。悪い」

 また南別府は走っていく。今度はこけなかった。岩崎カエラは安堵の息を漏らす。小久保友矢は立体パソコンを国別府に渡すと、それから垂れ下がっている手製のバッテリー・パックを分解しながら言った。

「僕はバッテリーの方をいじりますから、下別府さんは、転送の準備をして下さい」

「分かりました」

 三人の技術者は黙々と作業を続けた。

 暫くして、作業を終えた小久保友矢は台車から降りて言った。

「よし、これで、全部の準備が終わりました。主任、後は彼らを転送して、このロボットのメモリー領域に展開するだけです」

「うん。じゃあ、始めて」

 小久保友矢は、ロボットの背中の中央に貼り付けられた立体パソコンの電源を入れた。

 下別府がロボットの腰の位置に投影されたホログラフィー・キーボードを操作する。

 岩崎カエラが言った。

「小久保君。離れて、離れて。万一の事もあるから」

 小久保友矢はロボットを載せた台車から離れた。他の技官たちも台車から離れる。ゆっくりと頭を上げたロボットの正面には、岩崎カエラだけが立っていた。

 電動台車の上に座ったまま背筋を正したロボットは、背中の立体パソコンのスピーカーから声を発した。

「ぷはー。ああ、窮屈だった。おや、なんだ、外が見えるぞ。ここは何処ですか」

 ロボットは周囲をゆっくりと見回す。続いて、背中から声がした。

「ふああ。疲れたでござる。ん。誰でござるか、おぬし達は」

 岩崎カエラは言った。

「私よ。カエラ。こっちが、小久保君」

 岩崎の横に立った小久保友矢が手をあげる。ロボットは背中から喋った。

「ああ、美人主任さん、小久保さん。どうも、どうも」

 岩崎カエラは慌てて手を一振りする。

「コラ、普通に『主任さん』でいいから。訂正しなさい。すみません、どうも。まだ、本音と建前の学習が済んでないのかもしれないわ。あははははは」

 彼女は、驚いている他の技官たちに必死に笑って誤魔化した。ロボットは言う。

「先ほどの強制終了から、リブートしてくだされたのか。いや、かたじけない」

「わあ。ロボの体だ。これ、操縦してもいいんですか」

 岩崎カエラは答えた。

「いいわよ。でも、ここは科警研の中だからね。物を壊しちゃ駄目よ」

「はーい。ううん。随分と古いロボットですね。しかも低機能」

「こら、サエモン。贅沢は敵でござるぞ。ぬぬ、しかし、確かに動かしにくいな。油を注してないようでござるな」

 岩崎カエラは「彼ら」に言った。

「まあ、それで暫く勘弁して。新しい体が見つかったら、移し変えてあげるから」

「はーい。あれ。なんか、大きな領域に出ましたよ。この中、随分と軽いなあ」

「ぬぬ。シミュレーション・コンピュータでござるな」

 岩崎カエラは頷く。

「うん、そうなの。これからやるシミュレーションをね、二人に手伝って欲しいのよ。ここのコンピュータはCPUが非力過ぎて、うまくシミュレーションが進まないの。あなた達の演算で、補ってもらえないかしら」

「わっかりましたー。お任せくださーい」

「承知したでごさる。お、最新式のオメガ・キューブ・プロセッサと連結しているぞ。これを使わせてもらおう。暫し、御免。拝借仕る」

 荒別府が唖然とした顔で呟いた。

「な、なんじゃ……こりゃ」

 今別府と中別府と下別府と国別府と西別府と南別府は、キョロキョロと互いの顔を見合っている。

 岩崎カエラは技官たちに「彼ら」を紹介した。

「高性能戦闘用人工知能のウエモンくんとサエモンくんよ。マスタープログラム本体は、今、警視庁に行っているから、彼らはその分身。二人で手に手を取ってAI一人分とちょっとの作業をこなしているの」

 小久保友矢も言った。

「オリジナルの性能は、もっとすごいですよ」

 国別府は目をパチクリとさせて言った。

「そんな馬鹿な。完全に、会話してるじゃないか。感覚思考してる。信じられん」

 荒別府がロボットの背中に回り、立体パソコンに手を伸ばした。岩崎カエラが叫ぶ。

「ああ! 駄目! ――そういう事は、しないようにしましょ。私達も科学者なんだから、彼らの自我の覚醒を素直に認めて、それを尊重して対応しましょう。もし、研究に必要なデータが欲しければ、彼らの方から任意で提出してもらえばいいわ。彼らにちゃんとお願いして」

 中別府が尋ねた。

「危険性は無いの」

 ロボットは顔を中別府の方に向けて、ウエモンとサエモンの声を重ねて言った。

「私達の使命は、日本人を守り、日本人が大切にする『人間』を守る事です。ご心配なく」

 岩崎カエラは口角を上げて頷いて見せた。

「ね。大丈夫よ。それに、もともと米軍の護衛用ロボットを操縦していた人工知能さん達だから、人間に不必要に被害を出さないようにプログラムされているはずよ」

 ウエモンとサエモンは言う。

「よろしくお頼み申す」

「よろしくお願いしまーす」

 技官たちは怯えながら、順に名乗った。

「よ、よろしくね。中別府よ」

「よろしく。国別府だ。間接部分は、後で俺が見ておいてやる」

「南別府です。よ、よろしくお願いします……」

「西別府だ。よろしく」

「てやんでい。お控えなすって、お控えなすって。こちとら、姓は荒別府、名は……」

「いいから。プログラムが混乱するでしょ」

 岩崎カエラが荒別府の白衣の襟を掴んで後ろに引いた。

「し、下別府です。始めまして……」

「そして私が、ここのセンター長の今別府だ。よろしく」

 全員が自己紹介を終えると、岩崎カエラは一度だけ手を叩いた。

「よし。じゃあ、自己紹介も終わった事だし、今度はあなた達の能力を、ちょっとだけ、この人たちに見せてあげてちょうだい。私と小久保君が入力した金属板のデータは、もう見つけたかしら?」

「はい。ありました」

「じゃあ、それを、大きい方の機体に乗せる場合で、考えうる全パターンの乗せ方で、爆発による飛散パターンを全て再現してみてちょうだい」

「承知した。暫し、お待ちを」

 ウエモンとサエモンは、台車の上に座っている飼育用ロボットの中から、ケーブルを伝ってシミュレーション・コンピュータの中を駆け巡り、演算を開始した。部屋の正面の大型モニターの画像が、めまぐるしく変化する。並んでいるタワー型コンピュータが隙間から薄く煙を発し始めた。

 国別府が不安そうな顔で言う。

「おいおい、大丈夫か。汎用コンピュータが火を噴くんじゃないか」

 岩崎カエラが指示を発した。

「中別府さん、冷却装置を稼動させて」

 中別府は冷却装置に駆け寄ると、スイッチを入れた。冷却装置が音を立ててフル稼働する。すると、ロボットの背中から声が聞こえた。

「おお。なんか、スムーズになってきました。こりゃ、乗ってきたぞー」

 タワー型のコンピュータのランプが猛烈な速さで点滅し始めた。技官たちは肩を上げて顔を見合わせる。

 ロボットが顔を岩崎に向けた。

「ふう。終わりました」

 岩崎カエラは尋ねる。

「何パターンあった」

 ウエモンが答える。

「十二兆六千二百七十五億七千二百四十……」

 岩崎カエラは手を上げた。

「うん。分かった。じゃあ、その中から、実際に飛散していた金属板の発見場所との誤差がプラマイ三メートル未満の範囲に入らないものは、すべて消去して」

 すぐにサエモンが答えた。

「はい。消去しました」

「結果は?」

「ゼロでござる」

「そう。じゃあ、今度は、同じように小さい方の機体で調べてみて」

 小久保友矢が岩崎に言う。

「主任。大きい方じゃないって事は、きっと、こっちの機体ですよね。小さい方が田爪のマシン」

「……」

 岩崎カエラは黙って正面の大型モニターを見据えていた。

 サエモンが言う。

「終わりました」

「結果は?」

「ゼロでござる」

 小久保友矢は眉間に縦皺を刻んだ。他の技官たちも首を傾げる。南別府が言った。

「誤差範囲を絞り過ぎなんじゃないでしょうか」

 荒別府が眉を寄せて言った。

「なんだ、ポンコツじゃねえか。やっぱり、ただのバグったプログラムかよ」

 中別府は岩崎に提案した。

「この子たち無しで、ロボットのメモリーと算術ソフトだけで、シミュレーションし直してみたら?」

 岩崎カエラはロボットの方を向いて、ウエモンとサエモンに言った。

「あらら。随分と信用を失っちゃったわね。じゃあ、汚名を返上しなきゃね。爆発直後の状況を再現して、そこに、現場で発見された金属板の位置をポイントしてみて」

「了解でーす」

 正面モニターに爆心地の地形図が3D画像で表示され、その上に散らばる形で六つの赤い点が表示された。

 岩崎カエラは言う。

「爆発中心点の確率が最も高い場所にフラグを立てて」

「承知した」

 爆心地の地形図の中心付近の空中に旗の絵が浮かぶ。

 岩崎カエラは更に指示した。

「その中心点からのエネルギー放射が均等だと仮定して、各金属板をポイントの位置まで移動させたエネルギーの、中心点からの放射プロセスを予測できる? 条件がかなり多いけど、今のあなた達の状態で計算しきるかしら」

「やれるだけ、やってみまーす。もし、また電源が落ちたら、また、サルベージをお願いしまーす」

 岩崎カエラはロボットに向けて手を振りながら、何度も頷いた。

「わかってる、わかってる。見捨てないわ。じゃあ、始めて」

 暫らく待っていると、サエモンが言った。

「終わりましたー。ちょっと、きつかったです」

「ご苦労様。それで、何パターンあった?」

 ウエモンが答えた。

「二百七十六パターンでござる」

 それを聞いた岩崎カエラは、厳しい顔で腕組みをする。

「うーん。やっぱりね。気候データが曖昧だからね。絞りきれないかあ。――でも、気圧も詳細に分からない状態で、よく出来たわ。上出来よ」

 そして再度、プログラムたちに指示を出す。

「じゃあ、その各パターンごとに、吹き飛んだ金属板を、あなた達が予測したエネルギーの拡散を逆に辿って、爆発前の元の位置に戻してくれるかしら。まだ、画面には出さなくていいわ。二百七十六パターンもあるなら」

「了解でーす」

 また、暫らく待った。すると、ウエモンが言った。

「主任殿。アクセラレータを一台、外して下さらんか。その分の電力を回して、最後の演算を終えたいのでござる」

「ああ、分かった。今、一つ外す」

 そう言って部屋の床に這っているコードを辿った小久保友矢は、その途中の小さな機械をコードから外した。するとすぐに、ロボットの背中からサエモンの声が聞こえた。

「終わりましたー。ああ、疲れた」

 岩崎カエラは正面の大型モニターを見据えたまま、真剣な顔で言った。

「その中で、形状が最も均整的なもの、それの再現画像をモニターに出してちょうだい」

「承知した。これでござる」

 大型モニターに、金属板を六方から組み合わせた立方体に近い形の箱が映し出された。それを見た岩崎カエラは、険しい顔で呟く。

「やっぱり……」

 国別府が顰めた顔で言った。

「そんな馬鹿な。永山って記者は、耐核熱金属板をただ機体の中に積み上げていただけだったよな。あの録音での様子だと。しかも、ランダムに放り投げていたって感じだったぞ」

 荒別府も声を裏返して言う。

「馬鹿にするんじゃねえやい。こいつは、どう見ても加工してあるじゃねえか。どっからどう見ても、頑丈に溶接したって形だ。やっぱり、こいつら、ポンコツのプログラムじゃねえか、べらんめえ」

 小久保友矢が眉間に皺を寄せて岩崎に尋ねた。

「どういう事です、主任」

 岩崎カエラは大型モニターの立方体を見つめたまま答えた。

「違うわ。ウエモンもサエモンも間違えてはいない。きっと、爆発の直前まで、金属板はこのような状態だったのよ。何者かによって、加工されていた」

「ええ? でも、そうなると……」

 小久保か言い終える前に、岩崎カエラは振り向いて、ロボットの中のウエモンとサエモンに言った。

「もう一つ、調べて欲しい事があるの。まだ使用できるメモリーは残ってる?」

「はーい。大丈夫でーす。あと、二回と半分、同じ計算が出来るはずでーす」

「ご指示は、何でござるか」

「比較して欲しいの。そうねえ……チタニウム合金の塊で重さは十キログラム。形状は立方体でいいわ。それが、さっきの耐核熱金属板で出来た箱に入っていた場合と、入っていなかった場合で、爆発後は、それぞれどうなるか。損傷率を出してちょうだい。初めに置く位置は、爆発の中心点から一メートル離した機体の中」

「分かりましたー。やってみまーす」

 サエモンがそう答えると、すぐにウエモンが答えた。

「終わったでござる。箱の中に入っていた方の損傷率は、四十三パーセント、プラスマイナス3。箱に入っていない方の損傷率は、百パーセント、プラスマイナスゼロでござる」

 岩崎カエラは確認する。

「つまり、箱に入ってない方は、確実に溶けて蒸発してしまうのね」

「そうでーす」

 岩崎カエラは更に確認した。

「確認だけど、どちらの場合でも、この立方体の箱は破壊されるのね。爆発のエネルギーで接合部分が外れて、金属板として飛散する」

「然様でござる」

 小久保の方を向いた岩崎カエラは、厳しい表情で言った。

「これで、はっきりしたわ。誰かが加工した金属箱にバイオ・ドライブを入れて、乗せなおしたのよ」

「じゃあ、これらの機体は、別の時間と場所から飛んできた機体だという事ですか」

 岩崎カエラは、はっきりと首を縦に振った。

「ええ。間違いないわ。あの爆発現場にあった二つの機体は、どちらも、永山記者が南米から飛ばした機体そのものではない」

 振り向いた彼女は、厳しい顔で大型モニターを見つめていた。



                  二十四

 岩崎カエラは、ドアを外された特別鑑定室の入り口に立っていた。彼女は、目の前に垂れ下がった人体感知式セキュリティー・システムのケーブルを見て、頭を掻く。

「あちゃー。やっぱ、ドアを外さないと、中には入らなかったかあ」

 短く溜め息を吐いた彼女は、室内へと続く短い廊下を歩いていった。小久保友矢が自分の席でコーヒーを飲んでいる。

「あ、主任。お帰りなさい。どうでした? 会議の方は」

「うーん。上の人たちは、一応は納得してくれた。明日、業者に来てもらって、科警研の外部ネット接続用の配線を全て取り外すそうよ」

「じゃあ、明日からこのビルは、スタンド・アロンになるんですね。よかった。ウエモンとサエモンのイントラネットへの接続は?」

「うん。そっちは、暫く待てって。いろいろテストしてからだってさ」

 小久保友矢は椅子を回すと、作業テーブルの横に立つ太い腕の大柄なロボットに言った。

「だってさ。もう暫く、その不細工なロボットの中で辛抱だな」

 ロボットの背中から声が聞こえる。

「承知したでござる」

「仕方ないですねー。先輩」

「仕方あるまい。我々は、もはやここの一員だ。科警研の規則には逆らえん」

「はーい」

 ロボットに歩み寄った岩崎カエラは、メイドのコスチュームのようなデザインの、そのゴリラ飼育用の逞しいロボットの体を観察しながら言った。

「ふーん。綺麗に拭いてもらったんだ。良かったわね」

「小久保殿にご尽力いただいた。感謝いたしまする」

「すっごく、丁寧に拭いてもらいました。ありがとうごさいます。小久保さん」

 小久保友矢はコーヒーを飲みながら、ロボットに手を振った。

 岩崎カエラが艶っぽい声で呟く。

「ふーん。私も拭いてもらおうかなあ」

「ブッ」

 吹き溢したコーヒーを拭いている小久保の横を通り、岩崎カエラはニヤニヤしながら自分の席に向かう。

「冗談よ。冗談。小久保君、真面目だもんねえ」

 小久保友矢は口を尖らせながら、給湯室へと向かった。椅子に持たれた岩崎カエラは、腕組みをして顔を顰めた。

「それにしても、誰かが耐核熱金属板で箱を作って、中にバイオ・ドライブを入れていたとはねえ。データを書き換えた犯人も、そいつかしら」

 小久保友矢は給湯室のミニキッチンでコーヒーを市松模様のマグカップに注ぎながら、量子銃が並んでいるテーブル越しに岩崎に尋ねた。

「あの、一つ確認なんですけど、僕らが上からやれって言われている事は、ASKITの軍隊が装備していた量子銃の危険性の証明と構造解析なんですよね。実験結果から量子銃が使えない物だと分かっている訳ですし、トラップ・パーツの事を解明すれば、構造解析は不可能だという事で終わりじゃないですかね」

「それは、ここで実験した量子銃に限った事よね。国防軍が回収できなかった量子銃や、戦車ごと全部壊しちゃった量子砲は、どうだったのか分からないでしょ。使えたのかもしれない。しかも、田爪博士が量産した同じタイプの量子銃は、実際に南米の戦地でゲリラ兵たちに使われていた訳だから、その田爪博士が作った設計図を基にASKITが量産した量子銃なら、使えるモノだったはずだって事になっちゃうわよ。トラップ・パーツがあるという事は、残骸からの復元は出来ないから、それらの物について実験で真偽を明らかにする事も出来ない。このまま、量子銃は使用できる物ではありませんでしたって鑑定書を出しても、ここにある量子銃がたまたま不良品だったって事で終わらされてしまうわ」

「ああ……そうですねえ……」

 小久保友矢は湯気を立てる市松模様のマグカップを岩崎の机の上に置いた。

「ありがと。――だから、ASKITの量子銃や量子砲が全部使えないモノだったと言うためには、基にした設計図が偽物だったという事を証明しないといけない訳よ。つまり、彼らが基にした設計図が、田爪博士が作った設計データとは別物だって事をはっきりさせないといけない。上がこのビルをスタンド・アロンにする事を了承したって事は、上の人たちも、AB〇一八が主体的に動いているという事を全否定はしていないって事でしょ。だとすると、AB〇一八がバイオ・ドライブの中のデータを書き換えた、あるいは捏造したっていう私たちの主張を認めさせるには、このタイミングを逃しちゃいけないと思うの。やるとしたら、今でしょ」

 岩崎カエラは両掌を上に向ける。世代の違う小久保友矢は、何の反応も示さずに自分の席に腰を下ろした。

「でも、いったいどうやって証明するんです? 新日の記者たちの言っている事が本当なら、どんな方法をとってもAB〇一八の自我覚醒を確認できないって事ですもんね。いや、方法自体がとれないのか……」

「まずは量子銃よ。もともと全部が使えない物だったという事、つまり設計に問題があったと言えればいい。田爪博士が作った設計図ではないって事さえ、はっきりさせればいいのよ。AB〇一八が書き換えたとか、捏造したって事が証明できなくても、ASKITが手に入れたバイオ・ドライブには、田爪博士の作ったデータが入っていなかったという事が確言できればいい。そしたら、どれもまともな量子銃じゃなかったという蓋然性が極めて高くなる。そこに、これまでの実験結果を加えれば、完璧でしょ」

「まあ、理屈としては、そうですけど……」

 不請顔でコーヒーを啜る小久保に、岩崎カエラは心添えた。

「上からの命令とは真逆の鑑定結果を報告するとなれば、それなりの説明が成り立っていないと駄目よ。連中、軍事活動を正当化する為の理由になる鑑定結果を私たちに求めているんだから、それを押し返さないといけない訳でしょ。適当な鑑定書で反論しても、きっと無視されて、闇に葬られちゃうわよ。しっかりやらないと」

 マグカップを机の上に置いた小久保友矢は、気を取り直したように背筋を整えた。

「ですね。――じゃあ、何から検討します? 入れ替わり説は却下ですよね。もう一つのバイオ・ドライブはストンスロプ社にある訳ですから。そうすると、単純に書き換えですかね」

「そこなんだけどさ……」

 言いかけて、岩崎カエラはコーヒーを飲んだ。マグカップを口から話した彼女は言う。

「ま、いいや。後で話そう」

 岩崎カエラは市松模様のマグカップを机の上に置いて、手を軽く叩いた。

「とにかく、整理してみましょう。まず、二〇二五年の爆発現場から回収された飛散部品を分析すると、大小二機のマシンがあの場にあった事は確かよね。もっと細かく検証すれば、証明はできる」

「ですね。時間は掛かるかもしれませんが、飛散部品の実物が司時空庁に保管されている訳ですから、究極的には、それらをウエモンとサエモンの再現予想に従って実際に組み立ててみればいい訳ですからね。まあ、膨大な時間がかかるでしょうけど」

 岩崎カエラは頷いた。

「じゃあ次は、それぞれの機体の特定ね。大きい方の機体は、ASKIT製の機体よね。あの拠点島で作られたのかは分からないけど、製造場所が特定できれば、そこの残留部品や機械などと、爆心地で発見された飛散部品を照合すれば、ASKITが作った機体の部品だと分かるはずよね。同じ部品や形状が一致する型枠とかもが見つかるはずだし。だから、大きい方は特定できる」

「大きさ的にも、新日の記者たちが記事で書いている大きさと一致しますしね。まあ、証拠にはなりませんけど」

「問題は、小さい方よね。永山記者に見てもらって、それが確かに、彼が南米から飛ばした機体だという証言を取れたとしても、所詮は人の記憶による『証言』だからね。証明力としては弱い。何か物証か、科学的な論拠を見つけないと駄目ね。あるいは論理的な説明か」

「でも、小さい方の機体の特定は、後回しでいいんじゃないですかね。現に爆発現場に、もう一機別の小さいタイムマシンがあったという事ははっきりしている訳ですから。問題は、バイオ・ドライブですよ。いや、バイオ・ドライブを入れた箱。あの金属板で作った箱が、大小どちらの機体に載せられていたのか、それを特定しないと」

「そうね。じゃあ、まず、大きい方に載せられていた可能性は……」

「無いですね。記者たちの記事では、西郷はタイムマシンに乗り込んですぐに飛んでいます。とても金属製の重たい箱を積み込む時間なんて無かったはずですよ」

「でも、高橋博士が事前に積んでいた可能性は有るわよね。だけど、そうなると、中にバイオ・ドライブが入っていたのかって話になるわね」

「どうしてです? さっきのウエモンとサエモンのシミュレーションによれば、あの金属箱の中に入ってないと確実に爆発のエネルギーで蒸発しちゃうんですよね。爆心地でバイオ・ドライブの残骸が発見された、つまり、蒸発せずに焼け残ったという事は、金属箱に入れられていたって事でしょ」

「うん、そうなんだけど、高橋博士が最初からタイムマシンに、バイオ・ドライブを入れた金属箱を積んでいたとなると、変なのよ。まず、二台のバイオ・ドライブのうち一台は、若い頃の高橋博士からストンスロプ社に移っている訳でしょ。少なくともASKITは持っていない。記事の通りだとすると、もう一台は、年老いた高橋博士が胸に固定していて、それを西郷が奪ったのよね。タイムマシンが発射した時は、西郷が握っていたのよ。箱の外で」

 腕組みをした小久保友矢は、天井を見上げた。

「なるほど。あの時点で、この世にバイオ・ドライブは二台しかない訳ですからね。じゃあ、大きい方の機体に金属箱が載せられていた可能性はゼロですね」

「そうなるわね。まあ、箱だけ先に乗せられていて、その中に西郷がバイオ・ドライブを入れて蓋を溶接してからタイムマシンを発射させたというなら話は別だけど、まず有り得ないわね。深紅の旅団レッド・ブリッグの攻撃から逃げる最中に、そんな時間は無かったはず。金属箱が載せられていたのは小さい方の機体よ」

「どちらにも載せられていなかったという事は?」

 岩崎カエラは腕を交差させる。

「なーし。もし、どちらにも載せられていなくて、金属箱が置かれているところに二機のタイムマシンが現れたとすると、爆心地では、永山記者が積み込んだ耐核熱金属板の数プラス六枚の同じ金属板が発見されたはず。ところが、そんな事実は無いわよね」

「そっかあ。そうなると、可能性として有り得るのは、小さい方の機体に載せられていたって事だけですね。どこか別の時代の別の場所で金属板は降ろされて、箱に加工され、再度乗せられた。いや、それしか有り得ないですね」

 岩崎カエラは拳を握った。

「よし。消去法で状況は絞れた。問題は証拠ね。小さい方のタイムマシンに耐核熱金属板で作られた箱が載せられていたという事実と、その金属箱の中にバイオ・ドライブが入れられていたという事実、最後に、そのバイオ・ドライブの中身が真正なものではないという事実、これらが証明できる科学的証拠を見つけないといけないわね」

「でも、小さい方の機体に載せられていたって事実の直接的証明は不可能ですよね。物が無い訳ですから。ただ、理論的にはこれしか有り得ないですから、確定させていいんじゃないですかね」

「そうね。じゃあ、残りは二点かあ……」

「バイオ・ドライブの中身の真偽についても、物が無い以上、理論的に詰めるしかないですよ」

「うーん……」

 岩崎カエラは口を引き垂れた。思案している彼女の顔を見て、小久保友矢が尋ねる。

「もしかして、さっき何か言い掛けた事と関係があります?」

「うん。あのね。ここで見る限りでは、量子銃の設計も、プラントの設計も、とても田爪博士の設計を改ざんしたというレベルじゃないでしょ。全く別物で、全く捏造された設計図を基に、どれも作られている。だけど、そうなると、もともとバイオ・ドライブに書き込まれていた田爪博士が作った設計データは、どこに行ったのかしら」

「消したんじゃないですか、AB〇一八が」

「うーん。何か腑に落ちないのよね。だってそうでしょ。ASKITがAB〇一八にバイオ・ドライブを接続させたのは、データ引き出しの為の一回だけよね。それも、ごく最近」

「ええ。資料では、そうなっていますね。たぶんその時にデータを改ざんされたんでしょうね。AB〇一八に」

「という事は、その前には、真正なデータが入っていたって事になるでしょ。でもさ、誰かが小さい方のタイムマシンに載せて二〇二五年のあの爆発現場に送ったという事は、送った人間は、あの時間にあの場所で大爆発がある事は知っていて、送っているはずなのよ。タイムマシンは過去にしか送れない訳だから。だとするとよ、一歩間違えば全部蒸発してしまったかもしれない場所と時間にどうして送ったの? 意味わかんないでしょ。何で、そんな事したんだろ」

「爆発の事実を知らなかったのかもしれませんよ。過去に送ったんじゃなくて、現在移動によるワープって事は? 司時空庁のポンコツ・タイムマシンみたいに」

 岩崎カエラは顔の前で手を振った。

「それは無いわね。量子反転爆発が起こるには、物体が寸分違わす重なる必要があるのよ。ミリ単位の調整が必要になる。つまり、西郷が出現するポイントをそれくらい確実に知っている必要があるのよ。って事は、少なくとも二〇二五年のあの日以降の時間から移動したという事じゃないかしら」

「うん、なるほど。犯人は、西郷が乗った機体の到達ポイントの座標と到達日時を知っていたという事かあ……」

「可能性がゼロという訳では無いけど、偶然にピッタリ同じ場所に二機が現れた、あるいは、どちらかが先にその場所に待機していて偶然ピッタリ重なった、なんて事は、まあ考えられないでしょ」

「確かに。確率論的には、限りなくゼロに近い数値になると思います。小さい方の機体が事前に設置されていたにせよ、別の時間や空間から移動してきたにせよ、少なくとも、西郷が乗った機体の到達ポイントの座標だけは正確に知っている必要がありますね。でも、それって……」

「そう。あの爆発現場に爆発の瞬間、二機のタイムマシンが存在していたという事実は、さっき私たちが解明した事よね。しかも、機体の残骸からの復元予想図を基にしてこれから細かな計算をして初めて、西郷が乗って現れたASKIT製の機体の正確な到達ポイントの座標が判明するはず。ミリ単位で。つまり……」

「犯人は、これから過去に飛ぶって事ですね。という事は、まだ、現在の時間にいる」

「そう。でも、どうやって過去に飛ぶのかしら。タイムマシンはもう無いのに」

「永山記者が金属板とバイオ・ドライブを載せたタイムマシンは、二ヶ月以上前に過去に飛んでいますからね。タイムマシンは未来に飛ぶ事は出来ませんから、これから飛ぶとしたら、別に新たなタイムマシンが必要になりますね」

「いいえ。そうとも限らないかも。永山記者が飛ばしたタイムマシンを、過去で回収して、現在までずっと保管していたって事もありうるわよね。それに金属箱を乗せて、過去に飛ばす。それなら成立するでしょ」

「なるほど。田爪も高橋も居ない現状では、新たにタイムマシンを作る事は出来ないですからね。そっちの方が、可能性としては高いですね。しかも、実際に一度過去に飛んでいるタイムマシンなら実績もありますから、タイムトラベルの成功率は高いし、効率もいい」

「でも、そうなると、量子エネルギーが必要になるわよね。司時空庁は、もう量子エネルギーの製造はしていないだろうし……」

「最後に発射中止になった司時空庁のタイムマシン、あの分の量子エネルギーが残ってるんじゃないですか」

「まるまる残っていたとしても、極微量よ。それだけでタイムトラベルが出来る量じゃない。だから、司時空庁は不足分を電力で補っていた訳でしょ。それに今は、あの発射施設は閉鎖されているし、同じ仕組みで飛ばすとなれば、これまでのように国内の電力供給を一時ストップさせて、全ての電気を発射施設に集中させなければならない。かなり大掛かりな事になるわ。そんな事をして、犯人がタイムマシンを飛ばすかしら。自分が二〇二五年の大爆発を起こす事を明示しているようなものじゃない。やらないと思うわよ、そんな事」

「ですね。でも、田爪が南米で作った新型機は、エネルギーパックの量子エネルギーだけで過去に飛んでいますよね」

「そうね。しかも、永山記者の前で量子銃を使った後に外したエネルギーパックだから、満タンではなかったはず。その量で、本当にタイムマシンを過去に送れたのかしら。永山記者が証言しているエネルギーパックの大きさから量子エネルギーの満タン量を計算してみないと正確な事は言えないけど、私の予想では、どうもトンネル効果を生じさせるのが精一杯の量だと思うのよね……」

 岩崎カエラは首を傾げた。

 小久保友矢が言う。

「それなら、ワープしただけかもしれませんね。それを何者かが回収して、今も保管している。その可能性が高くないですか?」

「うーん。そうかもしれないわね。でも、これからそれを飛ばすとして、その際に使用する量子エネルギーはどうするのかしら。永山記者が飛ばしたタイムマシンを過去に送れなかったとしたら、結局、量子エネルギーが足りなかったという事でしょ。という事は、使い切っているはずよね。仮に、タイムトラベルに成功して過去に飛んでいたとしても、同じでしょ。あのエネルギーパックの中の量子エネルギーは、使い切っているはずよ」

「計算もしていないのに、どうしてそう思うんです?」

「だって、あのエネルギーパックの中の量子エネルギーの量で何回もタイムマシンを飛ばせるなら、田爪博士は司時空庁のタイムマシンから集めた量子エネルギーが一回の発射に必要な量に達した時点で、過去に飛ぶか、ワープして日本に帰ってきたはずでしょ。十年もかけて量子エネルギーを溜めたのは、それがタイムマシンの一回分の発射に必要な全量だからじゃないかしら」

 また腕組みをしたまま天井を見上げて考えていた小久保友矢は、岩崎に顔を向けた。

「あの卵形のタイムマシンが完成していなかっただけかもしれませんよ」

「でも、永山記者がインタビューした直後に、田爪博士は彼にタイムマシンへの入力コードを渡している。という事は、それ以前に、タイムマシンは完成していたという事でしょ。必要量を集め終えていたのなら、その時点ですぐに飛べばよかったはずよ。でも彼はそうしなかった。しかも、インタビューの最中に現れたタイムマシンからは、残留量子エネルギーを抜き取っていない。抜き取る前に永山記者にエネルギーパックを渡しているわよね。つまり、必要量は既に集め終わっていた……。やっぱり、六月の定期便のタイムマシンから残留量子エネルギーを抜き取る事がどうしても必要で、それまで必要量が足りなかったんじゃないかしら。それに、必要量が集め終わっていたなら、どうして田爪博士は、司時空庁から送られてくるタイムマシンを使って、もっと早く逃げなかったのかしら。そっちをカスタマイズした方が早いじゃない」

「まあ、電気エネルギーの補助が無いから、そのまま使うのは無理だったのかもしれませんよ。それに、ゲリラ兵たちからは、解体して武器を作れとか言われていたのでしょうし。帰りたくても、帰れなかったんじゃないですかね」

「そうかもね……」

 少しだけ同情を顔に浮かべた岩崎カエラは、その表情を隠すように無理に両眉を上げて小久保に尋ねた。

「でも、永山記者は四月に南米に行っているのよね。それから三ヶ月後に田爪博士に会っている」

「ええ。記事にはそう書いてありましたが、それが何の関係があるんです?」

「田爪博士は、永山記者が南米で自分を捜している事を知っていたんじゃないかしら。地下マフィアのルートから情報を得ていた可能性はあるでしょ」

「まあ、地下マフィアは、元はゲリラ兵だった連中らしいですから、それは考えられますが、それがどうしたんです?」

「現地日時で言えば、田爪瑠香は六月四日に南米に飛ばされているのよ。その後田爪博士は、六月二十二日に定期便の単身搭乗機と家族搭乗機を一機ずつ迎えた後、七月二十二日に永山記者に会っている。そのインタビューの時だって、田爪博士は家族搭乗機の到着を知らないような事を言っていたけど、本当かしら。家族搭乗用の複数人搭乗型タイムマシンを発射メニューに加えた事は、司時空庁が大々的に全世界に発表したのよ。南米の戦地にいたとしても、すぐ近くはスラム街。テレビもラジオも、衛星インターネットもある。情報は入ってきていたはずじゃない。それなのに、彼は知らないふりをした。あのインタビューの途中でも、永山記者に、何か黄色い線から中に入るなと言っていたわよね。あれは、家族搭乗機がやって来る事を知っていたからじゃないかしら」

 小久保友矢は眉間に皺を寄せた。

「だから、それがエネルギーパックの量の事とどう関係するんですか」

「全部、計算の内だったという事よ。馬水家の四人に量子銃を使用する事も、その分、エネルギーパックの量子エネルギーを消費する事も。彼は、瑠香を誤って消滅させてしまった後も、六月の定期便の搭乗者たちを処刑しているわ。それは、タイムマシンに残留する量子エネルギーを回収する為だったのかもしれない。永山記者の前で量子銃を使った後でタイムマシンに使用するには、量が足りなかったから、六月の渡航者たちを襲った」

「でも、どうして永山記者を待つ必要があったんです?」

「自分では出来なかったのかも」

「何がですか」

「考えてみて。田爪瑠香が渡航してくるなんて事は、田爪博士にとっては全くの予定外の事態だったのよね。発射日も、あの便だけ違う。という事は、一機分余計に量子エネルギーを回収している事になる。そうすると、六月の定期便から量子エネルギーを回収した時点で、彼はタイムマシンを飛ばせたはずなのよ。永山記者の目の前で犠牲になった馬水家の人たちに使用した分も考えれば、エネルギーパックの量子エネルギーの量には、余裕があったはず。それなのに永山記者の到着を一ヶ月も待っていたという事は、彼は永山記者に新型タイムマシンの発射を依頼するしかなかったんじゃないかしら。瑠香を消してしまった後、彼はゲリラ軍の兵士たちにマークされてしまったのかもしれない」

「自分の妻を誤射してしまった事で、田爪が処刑をやめて日本に帰国するかもしれないと、ゲリラ軍の兵士たちが警戒したって事ですか」

「うん。もしかしたら、その時点で既にあの新型タイムマシンは完成していたけれど、田爪博士は、タイムマシンを密かに作っていたあの建屋まで行けなかったのかもしれない。だから、永山記者に託した。彼が永山記者に指示してタイムマシンに入力させた数字は、未だに意味が解かっていないわ。だけど、田爪博士は現在の世界での責任を全て放り捨てて過去の世界に行く人間を否定していたのよ。それなのに、家庭持ちの永山記者を過去に送ろうとするかしら。実際、彼にも日本にあのマシンで帰るように言っていた。という事は、タイムトラベルではなくて、やっぱり本当にワープさせるつもりだったのよ。永山記者をあの卵型のタイムマシンに乗せて、現在時間の日本のどこかに。そして、彼が真相を伝えてくれるよう、わざと彼の前で量子銃を使って見せた。その危険性を知らしめる為に」

「田爪を買い被り過ぎじゃないですか。彼は、ただ殺人……」

 小久保友矢の発言を遮って、岩崎カエラは話し続けた。

「とにかく、そうだとすると、あのエネルギーパックには、あの新型のタイムマシンを一回発射させられるだけの量しか量子エネルギーが入っていなかったという事でしょ。つまり、到達した時点では、ほとんど使い終わっていたはず。だから、次にそのタイムマシンを飛ばすとなれば、新たに量子エネルギーを準備しないといけない。司時空庁に保管されているものを使うにしても、やっぱり足りないんじゃないかな。まあ、そっちは計算してみるまでもなく分かるけど」

 彼女はコーヒーを啜った。小久保友矢は首を捻る。

「うーん……まあ、とにかく、そうだとすると、これからどうやって、そのタイムマシンを発射するかですね。二〇二五年に飛ばすだけの量子エネルギーを、どうするか」

「もしかしたら、これから、量子エネルギーの生成に成功するんじゃないかしら。あるいは、エネルギーパックの製造に成功するか。だから、それまでタイムマシンを隠している。それなら筋は通るわよね」

「うん。そうですね。筋は通ります」

「という事は、犯人は、そういう最先端技術の研究を行っていて、且つ、タイムマシンを隠して保管できるだけの施設を持っているということよね」

「ですね。しかも、僕らがこれから算出して上に報告する正確な到達ポイントの座標などの機密情報を知りうる立場、あるいは権力を握っている」

 岩崎カエラは厳しい顔で宙を見つめて呟いた。

「あそこしかないわね」

「どこです?」

「GIESCOよ。あの研究機関なら、量子エネルギーのパッケージ化に成功しても不思議ではないでしょ」

「ああ……」

 口を開けて頷いた小久保友矢は、ハッとした顔をする。

「そう言えば僕、以前、GIESCOが量子エネルギーパックの開発に着手したっていう記事を、どっかの科学誌で読んだ事があります。こりゃあ、有り得ますね」

「でしょ。辛島総理を通じて、私たちの報告内容も掴める。しかも、タイムマシンを保管して、分析するには十分過ぎる施設と資金を持っているわ。それに、あの入力コードの座標がGIESCOか、ストンスロプ社の他の施設の座標を暗号化したものだとしたら、自分が消してしまった妻の実家に関係するそれらの場所に、田爪博士がタイムマシンを提出しようとしたという事でしょ。それなら頷ける」

「という事は、金属箱の中のバイオ・ドライブも……」

「ええ。たぶん、高橋博士から和解契約で提供された、もう一台のバイオ・ドライブ。田爪博士の研究データや、量子エネルギー循環生成プラントや量子銃の設計図、何より、新型タイムマシンの設計データが書き込まれているバイオ・ドライブを、いくら耐各熱金属で作った箱に入れたとはいえ、二〇二五年の爆発現場に送るはずはないわ。田爪博士のパラレルワールド否定説が正しかった事がはっきりしている以上、あの日にあの場所で大爆発が起こる事は回避できないと知っているはず。そんな所に、重要データを記憶したバイオ・ドライブを送るなんて、経験則からしても考えられない」

「そうですね。実際にバイオ・ドライブは大きく損傷した訳ですからね。西郷が乗って逃げたタイムマシンと重ねる為に飛ばすという事は、量子反転爆発を意図的に引き起こす為に、正確に到達ポイントを重ねたという事でしょうから、そのタイムマシンに、あのバイオ・ドライブを乗せるというのは、意図的にデータを消し去るつもりだと言う事になります。ですが、そんな事をする必要性がない。普通にドライブを破棄すればいいはずですからね」

「狙いは何なのか分からないけど、この推理が当たっているとすれば、急がないといけないわね。何としても確かな証拠を見つけて、上に報告しないと」

「阻止するつもりですか」

「まさか。現に二〇二五年に大爆発が起こっていて、こうやって二機のタイムマシンの残骸が回収されているのよ。きっと奴らがタイムマシンを飛ばす事は、阻止できないのだと思う。でも、その後の事は分からないでしょ。あの大爆発が意図的に、計画的に惹起された事だとしたら、その首謀者に刑事責任を負わせる必要がある。現時点では、ストンスロプ社が、田爪博士の最新式のタイムマシンとバイオ・ドライブを手にしている可能性が極めて高い。高橋博士から回収したバイオ・ドライブもね。私たちが何か証拠を見つけて、手掛かりを作っておけば、その後の捜査に役立つはずよ。奴らがタイムマシンを飛ばした後でも、すぐに動けるように。もしかしたら、すぐにでもストンスロプ社を強制捜査して、田爪博士のデータが入った真正のバイオ・ドライブを見つける事が出来るかもしれない」

「だけど、どれもこれも推論で、科学的根拠に乏しいですよね。何から手をつけたらいいのか……」

 椅子の背もたれに身を倒した岩崎カエラは、眉を寄せた。

「うーん。まずは、金属箱の中にバイオ・ドライブが入れられていたという事よね。その入れられていたバイオ・ドライブが高橋博士の胸に取り付けられていた生命維持装置だと分かれば、それを西郷が二〇二五年に持って行った事まで一気に証明される。あとは、そのバイオ・ドライブが、どっちのバイオ・ドライブだったのかという事になるでしょ。ストンスロプ社が和解で高橋からバイオ・ドライブを入手していた事実が確認できれば、ストンスロプ社に、そのドライブの提出を捜査の一環として求める事が出来るわよね。もしかしたら、強制捜査も可能かも。その結果、田爪博士の真正なデータが書き込まれているバイオ・ドライブが見つかれば、金属箱に入っていた方のバイオ・ドライブは、高橋博士がストンスロプ社に渡した空のバイオ・ドライブだったと確定する。そしたら、量子銃の設計データが捏造データだと、一応の証明はされるわよね」

「しかし、そうなると、それなりの証拠を揃えないと、裁判所も令状を発布しないでしょうし、そもそも、捜査部門が動かないでしょ。金属箱の中のバイオ・ドライブ、イコール、高橋の生命維持装置。この等式を確定させないと」

「そうね。何か、決定的証拠があればいいんだけど。どうもピリッとしないのよね。何か基準が欲しい。論筋が遊動的でフワフワしてる」

「そういえば、耐核熱金属板。あれが基準になりませんか? あれって、永山記者が南米でタイムマシンに乗せた物の中で、唯一、二〇二五年の爆心地でも発見されているものですよね」

「なるほど。そうね、冴えてるわ、小久保君。加点評価、プラス十点!」

 岩崎カエラは鳴らした指で小久保を指した。

 小久保友矢は真顔で答える。

「対核熱反応金属が開発されたのって、四、五年前ですよね。南米戦線で協働部隊がゲリラ軍に圧されるようになって、協働部隊側が防衛兵器として急遽開発した。違いましたっけ」

「ええ。少なくとも、二〇二五年よりずっと後である事は間違いないわ。つまり、二〇二五年には存在するはずの無い、未来からの飛来物。しかも、永山記者がタイムマシンに積み込んだ物だとはっきりしているから、限定される」

「そうですね。でも、それを基準にして、あの金属箱の中にバイオ・ドライブが入っていたという事を、どう証明するんです?」

「基準そのものから分かるかもしれない」

「基準そのものから?」

「そ。発見された耐核熱金属板で、あの金属箱は作られていた。その金属箱の中にバイオ・ドライブが入っていて守られていたという事は、その金属板のすぐ近くにバイオ・ドライブは在ったという事でしょ。それなら、溶解した部分の組成物質が付着しているんじゃないかしら」

「ああ。そう言われれば、そうですね」

「どっか、対核熱反応金属の資料はなかったかな……」

 椅子から腰を上げた岩崎カエラは、本棚の方に歩いていった。専門書の背表紙の並びを見回している岩崎の背中に、小久保友矢が言う。

「化け学の事だったら、島別府さんにでも尋ねたらどうです?」

 岩崎カエラは分厚い書籍を本棚から取り出し、自分の机へと運んだ。

「何とか別府さんは、もういいわ。うんざり」

 椅子に腰を下ろすと、膝の上でその書籍を開き、頁を捲っていく。

「――あった。これだ」

 そう声を上げた岩崎カエラは、熱心にその頁を読み込んだ。

「強度も耐熱性も極めて高い反面、過度の重量があって、加工や接合にも難がある……か」

「どういう仕組みなんです?」

「たぶん、核爆発によって放出される放射能に反応して、瞬時に超低温化するアモルファス個体物質を皮膜に使用しているんだわ。ええと、なになに……金属結合の分子レベルでも、熱による金属膨張を抑えて逆に収縮させる作用のある熱反応人工分子を混ぜて、合金化している……だって。だから重いのよ。きっと」

 岩崎カエラは本を閉じ、机の上に置いた。岩崎の説明を聞いて考えていた小久保友矢が指摘する。

「ってことは、爆発の熱で溶解した物質が超低温化した金属の表面に付着して、それで再度冷やされて結晶化した状態で残っている可能性が、十分に在りますね」

「微量でもいいから、結晶化した熔解物質が取り出せたら、突破口になるかも。高橋博士の遺体の胸には、生命維持装置の圧迫痕が残ってた。かなり長い間密着していたようで、接触部位には壊死している部分もあるわ。その中の組織から、その装置の表面物質が微量でも検出されれば、それと照合できるわよね」

「もしくは、引き千切ったケーブルの先端に接合部分の表面物質が付着していたり、無理に外した時にボルトとの摩擦で磨耗した表面物質が傷口の中に入り込んでいる可能性は高いですね」

 岩崎カエラは頷く。

「傷跡から装置の外形を予測復元してみてもいい。――金属板は、発見された現物が市時空庁に残っているのよね。何とか手に入らないかしら」

「今の司時空庁なら、こちらの提出要請にも応じてくれるでしょうけど、あそこ、今、機能停止していますからね。手続きに時間がかかるかもしれないですね。あ、そうか、ウチは明日からネットとオフラインになりますから、全部、紙の書類での提出になります。そうなると、かなり時間が掛かるかもなあ」

「明日、直接行ってみるかあ……。ね、行くでしょ?」

 岩崎にそう尋ねられ、小久保友矢は自分の顔を指差した。

「え? 僕もですか。――はい、まあ、いいですけど」

「ランチ奢るからさ。それに、司時空庁がした実験記録とかも手に入れば、もしかしたら、バイオ・ドライブはAB〇一八に接続する以外の方法では中の情報の入出力が出来ないって事が原理的に解るかもしれないじゃない。そしたら、あとは高橋博士の遺体から、生命維持装置の表面物質を見つけ出すだけえ。やりイ、楽勝」

 岩崎カエラは机の上を軽やかに叩いた。小久保友矢は呆れ顔で言う。

「棚から牡丹餅が出てくるのを狙っているんですか? 冗談でしょ。主任らしくない」

 岩崎カエラは口元に手を添えて、高い作り声を出す。

「いやん。牡丹餅、食べたくなってきちゃった」

「全然、可愛くないです。歳いくつですか。まったく」

 小久保友矢は立ち上がり、給湯室へと向かった。岩崎カエラは彼を指差して、低い地声を出す。

「はい、減点。マイナス十。明日のランチの消費税も、小久保君の負担」

「何ですか、それ。――はい、夕食のお弁当です。お腹が空いているんでしょ」

 小久保友矢は、弁当が入ったレジ袋を見せた。

 岩崎カエラは指を鳴らす。

「あら、よく分かったわね。さすが小久保君」

 小久保友矢は苦笑いしながら言った。

「何年主任の助手をやっていると思ってるんですか。今、温めますから」

 給湯室に彼が戻ると、岩崎カエラが声を上げた。

「ああ、しまった!」

「どうしました?」

「忘れてたあ。弁当で思い出したわ。所長に返答しないといけないんだった、文書で。あらら、もう、こんな時間かあ……」

 岩崎カエラは左腕の古びた腕時計を覗いて項垂れる。

 小久保友矢が心配そうに尋ねた。

「何を訊かれてるんです?」

 岩崎カエラは、立ったまま静かにしていたロボットを指差して答えた。

「この子達の事とAB〇一八の危険性について。この科警研ビルをスタンド・アロンにするよう、さっき幹部さんたちに説明していたら、ホログラフィーで同席してた財務官僚にいろいろと尋ねられたのよねえ」

「財務官僚? 財務省の役人からの質問攻めですか」

「そ。要は嫌がらせよ。まあ、とにかく、全部の質問に文書で回答して、今日中に提出しろって、本別府所長が。財務省の役人が工事費用を出し渋っているんですって。だから、私の返答書に、こっちからの質問書をつけて送り返すってさ。たぶん今頃、質問書の方を上でネチネチと作っているんだと思う」

「うわあ……官僚にならなくてよかったあ」

「ねえ。やっぱりここも、お役所よね」

「でも、それ時間が掛かるでしょ。食べてからじゃ駄目なんですか」

 小久保友矢は、夕飯時も過ぎているのに仕事を優先させる岩崎の体調を本気で案じていた。岩崎カエラは首を横に振る。

「ううん、いい。チャチャッと、これを書いてしまってからにするわ。ありがとう」

 小久保友矢は袋の中を覗きながら言った。

「せっかく、『特製、秋の味覚弁当』を買ってきたんですけどね。どうも主任は、栄養が偏っているような気がして……」

 そのレジ袋の中に大きめの弁当が一つしか入っていない事に気付いた岩崎カエラは、彼に尋ねた。

「あれ? 小久保君のは? 食べないの?」

「僕は、もう食べました。あまりにも美味しそうで、主任を待ちきれなかったので。実際に美味しかったですよ。豊水ほうすい町認定の豊水牛のヒレステーキと数木山かずきやま採れのエノキダケをふんだんに使ったキノコソテー。もちろん、ご飯は炊き込みご飯で、山菜の風味が味付けとマッチして口の中いっぱいに広がって……」

「や、やめて……私に仕事を放棄させたいわけ」

「じゃあ、電子レンジの中に入れておきますね。スイッチは自分で押して下さいよ」

「うん。そうする。これを作り終えるまでに、私の指がそのスイッチを押さないように、見張ってて」

 岩崎カエラは立体パソコンの上に浮かべたホログラフィー文書に顔を向けると、ホログラフィー・キーボードの上で指を動かし始めた。小久保友矢が自分の席に戻ってくると、彼女は返答書に顔を向けたまま言う。

「小久保君」

「はい。何ですか」

「デザートも入ってた?」

「はい。九州の宮崎産の須木すき栗が二個入ってました。大きいのが。これがまた、甘くて旨いんだな。絶品でした」

 ホログラフィー・キーボードの上に指を置いたまま、岩崎カエラは両肩を上げ、振るわせる。

「うう……くっ……耐えろカエラ。誘惑に負けてはイカン……返答書よ。返答書。集中、集中」

 岩崎カエラは仕事に取り組んだ。そして再び、声を上げる。

「ああ、しまった!」

「今度は、何ですか」

「小久保君、手は空いてる?」

「ええ。空いてなくても、どうせやりますけど。何です?」

 岩崎カエラは机の引き出しから大きな茶封筒を取り出すと、それを小久保に差し出した。

「本当に悪いんだけど、この封筒を、中堂園町の『モーリ・タック』っていうショットバーに届けてくれない? 浜田っていう、トレンチコートにハットの、こんな背の高い男が居るはずだから」

 彼女は精一杯に右手を上げて見せた。小久保友矢は眉を八字にする。

「ショットバー? 中堂園町って、旧市街の素区の中堂園町ですか。遠いなあ」

「今夜、行くはずだったのよ。でも、これを書かないといけないし。いい?」

「ええ。いいですけど、誰ですか、その浜田って人」

「同級生。今、私立探偵をやってるの。ちょっとクセのある男だけど、悪い奴じゃないから。それ、大事な物だから、どうしても渡さないと。ごめんね」

 小久保友矢は渋々と頷く。

「分かりました。クセのある男ね。今日は何人目だろ……」

 白衣を脱いだ小久保友矢は、部屋の中を見回しながら言った。

「じゃあ、行ってきます。ああ、ポットにお湯が入れてありますから、コーヒーは自分で入れてください。それと、お弁当はちゃんと温めてから食べて下さいよ。慌てて冷たいまま食べると、この前みたいにお腹こわしますよ。何かあったら、イヴフォンに電話して下さい」

「うん。わかった。気をつけて」

 岩崎カエラは机の上に浮かぶ「返答書」の方を向いたままホログラフィー・キーボードの上で指を動かしながら、小久保に返事をした。

 小久保友矢は茶封筒を抱えると、腕時計に目を落としながら、ドアの無い出口から出ていった。



                  二十五

 小久保が出かけてから、岩崎カエラは黙々と「返答書」の作成に取り組んだ。財務官僚からの重箱の隅を突くような質問に、科学的で丁寧な説明での回答を並べていく。彼女がその不毛な事務作業を終えたのは、一時間以上が経過した後だった。机の上でパソコンのキーボードを勢いよく叩く。

「所長のデスクに送信っと。ふう。終わった。いやあ、疲れたわ」

 苦手な事務作業を終えた岩崎カエラは、ハイバックのチェアーの背もたれに身を投げて大きく伸びをした。疲れた両腕を左右の肘掛の上に放り載せると、手首を回したり、手先を何度も振る。だるそうに両肩を上げた彼女は、息を吐きながら首をゆっくりと回した。

 岩崎カエラは、暫く椅子に凭れたまま目を瞑っていたが、白衣の胸のポケットからイヴフォンを取り出すと、その上の小さなボタンを押して再び胸のポケットに戻した。胸のポケットから少しだけ頭を出したイヴフォンの先端が赤く点滅し、それに応じて彼女の左でが青く光った。岩崎カエラの視界に一人の男性の静止画が浮かぶ。その画像は、随分と昔に普及したスマートフォンという小型端末で撮影した平面画像であったが、岩崎が自分で保存形式を変換し、やや強引にイヴフォンへと乗せ替えたものだった。近時の高画質立体画像に比べれば、若干、画質が悪い。それでも彼女は、その画像を脳の中で見る時、幼く笑みを浮かべた。ちぐはぐな大きさのまま応接ソファーの前に不自然に立って見えるその男の画像が、彼女に十分な安らぎを与えてくれるからだ。

 画像に移した出された男は白衣を着ている。男は小脇にファイルと学術書を抱え、どこか気恥ずかしそうな笑顔を見せながら、こちらを指差していた。その眼は優しく愛情に溢れ、口元は何かを語り掛けようとしている。制止しているにも拘らず、その男からは満ちた若さと活力が伝わってきた。彼の画像を見ていると元気が出る。岩崎カエラは、その不思議な感覚が好きだった。数え切れぬほど何度も見つめたその画像を、彼女は今日も観察した。観察する度に毎回、新たな発見がある。男の純白の研究着の胸のポケット部分には、彼のお気に入りのボールペンのクリップと、ピンで留められた横長の小さなネームプレートが見えていた。そこには、達筆とはかけ離れた汚い字で彼の名前が大きく堂々と記されている。彼は、どちらかと言うと小柄だった。ちょうど小久保より少し低いくらいの背丈である。手の指は太く、爪の間には油が染み込んでいる。こちらに向けられている指差す人差し指の付け根に切り傷があった。岩崎は彼の手に何度も絆創膏を貼ってあげた事を思い出した。顎の隅の、丁度、耳たぶの下辺りに、そり残した髭が三本並んで生えている。お洒落な美容院や理容室に行く事はなかった彼の揉み上げは、左右の高さが微妙に違った。たしか、この画像の撮影の一ヶ月くらい前に、自分が揃えて剃り直してあげたはずた。旋毛つむじの辺りに軽く寝癖が残っている。だからと言って、彼はすぼらな性格ではなかった。白衣の袖口のボタンは、いつも綺麗に留められていたし、前のボタンもちゃんと留めていた。ファイルを抱える左腕の手首には岩崎とお揃いの腕時計が巻かれている。一緒に買いに行き、一緒に選んだものだ。彼の趣味に合わせてしまい、艶を出し始めたばかりの頃の彼女にとっては少し男っぽいデザインだったが、その分作りも頑丈なのか、随分と長持ちしている。彼は毎朝その腕時計が狂っていないか確認していたので、その針が示す時間は、他の誰の時計よりも正確だった。その横の袖口に並ぶボタンの一つは、裁縫が苦手な岩崎が取り付けたものだ。一個だけ列から横にずれ、高さも違う。左手の近くの白衣のポケットは少し膨らんでいる。彼はいつも、そこにスマート・フォンを入れていた。膝の上辺りの白衣の染みは、深夜の実験の際に、研究室のビーカーとアルコールランプで沸かしたお湯を使って、こっそり二人でカップラーメンを食べた際に付いた染みだ。抜き打ちするかのように突然現れた教授に見つかり、肝を冷やしたが、教授は笑って許してくれた。安物のジーンズは穿き降るされて色が落ち、必要以上にビンテージ物となっている。足下では、スリッパの先から、縫い伏せた靴下の先が覗いている。彼女は今日も新たな発見をした。そのスリッパのゴム底の減り具合が左右均等ではないのだ。右足のスリッパの方が、少しだけ薄い。研削盤を使って機械の部品を削り微調整をする際に、彼はよく右足でペダル式のスイッチを細かく踏んで、グライダーの回転速度を調節した。その時、彼が唇をすぼめて蛸のような顔をするので、若かった岩崎カエラは彼のその顔がおかしくて、必死に笑いを堪えたものだった。彼女は、その時に溜め込んだ笑いを今、一気に吐き出した。声を出さずに必死に笑う。それでも悲しみは消えなかった。頬を伝った大粒の涙を拭いた岩崎カエラは、もう一度、その画像の男の顔を見つめ、歳を重ねた彼女だから出来る再評価をしてみた。昔の印象どおり、彼の目は綺麗である。優しく澄んでいる。だが、今こうして見ると、その奥には厳しさと強さを秘めているように感じられた。苦労が滲み出ている目だ。精神的にも、その年齢の若者一般に比べ、えらく成熟している事が見て取れる。当時も彼女は年上の彼の事を尊敬し、憧れ、自分よりも遥かに大人であると感じていたが、今、その当時の彼の親のような歳になって観察してみても、彼は十分に大人であったと思った。そして、その頃は気付かなかったが、刑事事件に長年携わってきたプロの目をもって観察してみても、彼は嘘をつく顔をしていなかった。その画像の男は、凛とした清澄な精神を備えた好青年に、今の岩崎にも見えた。

 岩崎カエラは、その静止画を観察し終えると、いつも瞳を閉じ、それでも尚、そこに浮かんで見える彼の画像を見つめながら、過去の思い出に浸った。セーターをプレゼントする時に恥ずかしさで手が震えた事、レポートや論文の書き方を教えてもらった事、実験室で彼女が割ってしまったフラスコを彼がこっそりと片付けてくれた事、彼の寝癖を直してあげた事、岩崎が付けた不揃いな袖の釦を彼が自分で付け直している時、それが悔しくて泣いてしまった事、意地になって彼の靴下の穴を伏せようとして、厚手の刺繍のようになってしまった事、それでも彼がその靴下をずっと使っていてくれた事。岩崎カエラは、若く幼い頃の甘い記憶をいくつも脳内に展開しては、その時に自分が感じた特殊で独特な感覚を引き出そうと試みたが、それはまだ出来ずにいた。だがそれでも、この時の岩崎カエラは、時間を超えて過去に戻り、束の間の幸福感を味わっていた。

 岩崎カエラは微笑みながら、目を開けた。その時、研究室の入り口の横に置かれた応接ソファーの前に不自然な遠近感で立つ制止した彼の画像に、何か違和感を覚えた。今日の彼の静止画は少し暗い。イヴフォンから脳内に投影される画像は、脳の視覚野に直接に再現されるものだから、現実の周囲の明暗に左右される事は無いはずだ。しかも、目を閉じていた時に見える画像よりも暗い気がする。岩崎カエラは首を傾げた。彼の静止画も斜めに傾く。一瞬、彼の画像の後ろに黒い人影が見えた。岩崎カエラは咄嗟に胸のポケットに手を伸ばすと、イヴフォンを取り出し、その小さなスイッチを押して脳内照射機能を停止させた。彼の画像が消える。彼女が再びソファーの前に視線を戻した。黒いロングコートに黒のソンブレロを被った長身の西洋人の男がこちらに向かって歩いてきていた。

「誰!」

 驚いた岩崎カエラは、反射的にそう声を上げた。

 男の肩の下まで伸ばした黒髪は、血色の悪い肌の顔の前にも掛かっていて、その奥に見える不気味な青い瞳孔がこちらに焦点を合わせている。立ち止まった男は、椅子に座ったまま固まっている岩崎に右腕を伸ばした。その右手には銀色の拳銃が握られている。岩崎カエラは表情を強張らせた。彼女に向けられた銀色の銃口の向こうには、男の高い鷲鼻と、薄く生やした口髭の中で微かに角度を上げている薄い唇が見えていた。

 二メートル以上はあろうその大男は、椅子に座っている岩崎に拳銃を向けたまま、かすれた低い声で言った。

「俺の言葉が解るか」

 彼が発した短い日本語から、それが彼の母国語ではない事は岩崎にも分かったが、それは流暢でもあった。岩崎カエラは一度だけ、首を縦に振った。

 男は更に言う。

「パンドラEは何処だ」

 岩崎は恐怖を隠し、敢えて威勢よく答えた。

「知らないわ、そんな物。新しい栄養ドリンクか何か?」

 男は銀色の拳銃を岩崎に向けたまま、もう片方の手で銃のスライドを握り、素早く後ろに引いて撃鉄を下ろすと、今度は少し肩に力を入れて岩崎の額に狙いを定めた。

「アレを我々に渡すんだ」

 岩崎カエラは震える手で椅子の肘掛を掴んだまま、言った。

「だから、それ何なのよ。知らないって言っているでしょ」

 男は更に尋ねた。

「これは、お前達がよく使っている武器だ。恐くはないのか」

「恐いわよ。当たり前じゃない! でもね、あんた、もっと恐い目に遭うかもよ。どうなっても知らないからね!」

 岩崎の発言に、大男は少しだけ首を捻った。背後に何かの存在を察知した彼は、少しだけ体の向きを変え、後ろを向いた。彼の後ろには、実験飼育用の雄ゴリラ『幸一くん』の世話係りとして購入され、今は最高水準の軍事用人工知能を搭載されている、その大男以上の背丈のロボットが立っていた。機体の中の人工知能たちが背中から言葉を発する。

「主任殿、皮膚の表面温度が上昇しておられるぞ。何事か異常事態でござるか」

「ウエモン先輩、この人、銃を持ってますよ。主任さんに向けてます」

 岩崎は椅子に座ったまま、震える足に履いたハイヒールのピンを必死で床に押し付けて、ウエモンとサエモンに叫んだ。

「いいから、さっさとやっつけなさい! 敵よ、敵! あんた達、戦闘プログラムでしょ!」

「何? 敵でござるか。承知した」

「了解です!」

 大男は、背後で鈍く動き出したロボットの方に向き直す事はせず、視線を岩崎に向けたまま、銃を持った腕の肘を曲げて上げると、肩の上の位置で、逆さの銃口を後ろに向けた。そのまま躊躇無く背後のロボットに向けて二回だけ発砲すると、素早く元通りに銃を岩崎に向けて構えた。男は、不気味に微笑んでいる。

「機械に用は無い」

 男の動きがあまりに素早かったので、岩崎カエラは動けなかった。逃げそびれた彼女は、椅子から腰を少し浮かせた状態で止まっている。恐る恐る視線をソンブレロの男の顔に向けた彼女は、嘆息を漏らした。前髪をかき上げながら、再度椅子に腰を下ろす。岩崎カエラは背もたれに背中を当てて、悠然と構えて見せた。

「あーあ。これだから、自信過剰な男って駄目なのよねえ。自分がミスった事にも気付かないんだから」

 男は再度振り返った。エプロンを模ったアルミ製のボディーの前で、太く長い腕を折り曲げていたロボットは、彼らの目となる頭部の二つのカメラの前で、左右の手の指先にそれぞれ、煙を立たせた弾丸をしっかりと掴んでいた。

「国別府さんのメンテ、最高ですね。肘の関節がだいぶスムーズに動きます。わーい」

「そうか。俺の方は、少し遅れたぞ。動かす度にプラス、コンマ二度ずれる。調整してもらわんといかんな」

 ロボットが放り投げた二個の弾丸が床に落ち、高い金属音を小さく二度鳴らした。

 足下に転がった二つの弾丸を目で追いながら、自分が撃った銃弾をロボットが二発とも正確に掴み取ったことを理解した男は、今度は大きく体を翻し、目の前の不恰好な飼育用ロボットに向けて、連続して発砲した。メイドを模したデザインの不恰好なロボットは、男の握った銃から発せられる弾丸の軌道を瞬時に予測し、算出された着弾箇所に向けて飛んでくる弾丸を次々に掴み取っていく。それでも、至近距離から発射された弾丸の数発は、ロボットの稼動速度を超える速さで飛んできたので、それを掴む事は出来ず、鋼鉄の胸で受け止めるしかなかった。エプロンを模ったロボットのフロントボディに幾つもの火花が散る。一方、銃声とほぼ同時に立ち上がった岩崎カエラは、本棚と量子銃が並べられたテーブルの間を全速力で走った。ソンブレロの男は肩を軸に右腕を回して銃で彼女を狙う。本棚の前に積まれていた量子銃に躓いて岩崎が転んだ時、その後ろの本棚の本の背表紙を銃弾が叩いた。

「このやろ」

 サエモンの掛け声と同時に、ロボットの左腕が男の右腕を叩き下ろす。

「とりゃ!」

 ウエモンの叫び声と共にロボットの右腕が男の襟を掴み、窓の方に引き倒した。男は勢いよくブラインドに背中をぶつけると、ロボットの右手を振り払い、掴みかかってくる左腕を右脚で蹴り戻す。岩崎の机にぶつかったロボット太い左腕が、机の上の立体パソコンを飛ばした。市松模様のマグカップが倒れて冷めたコーヒーを溢す。飛ばされた立体パソコンはテーブルの上に並べられた量子銃に衝突した。将棋倒しになった量子銃が載せられていた台座から離れると、すぐにビル全体に警報が鳴った。

「おっと、危ない」

 身を屈めたロボットは、机から落ちた岩崎のマグカップが床にぶつかる寸前で受け止めた。男は岩崎の椅子を踏み台にして机を飛び越し、テーブルの上に乗る。そのテーブルの影に隠れて給湯室の前を這うように移動していた岩崎カエラは、そこから一気に飛び出すと、ロッカーの角を曲がって、短い廊下へと駆け込んだ。男はロボットの前を飛び、小久保の机を越えて床に着地する。同時に右腕を廊下の方に向けて伸ばし、握った銀色の拳銃で岩崎の背中を狙った。岩崎カエラはドアを外した出口に向かって短い廊下を走る。ソンブレロの男は狙いを定めたまま、引き金を引いた。銃が火を噴いた瞬間、男の右手の甲にぶつかったマグカップが砕け散り、銃声と陶器が割れる音を同時に響かせた。岩崎カエラは突き飛ばされたように勢いよく廊下に押し出され、床に倒れる。彼女はそのまま動かなかった。男の銃は飛ばされ、作業テーブル上に転がった。床には市松模様の陶器片が散らばっている。身を起こしたロボットがカメラ付きの顔を出口の方に向けると、廊下に倒れている岩崎の白衣の下から、赤い血がゆっくりと床に広がっていった。

「ぬ。主任殿! おのれえ、くせ者め。成敗してくれよう」

 ロボットの太い右腕が、作業テーブルに向かおうとしていた男の左肩を掴んだ。続いて掴みかかってきた左腕を右手で掴んだソンブレロの男は、ロボットの右腕を左手で振り払うと、振り返り、その右腕も左手で掴んだ。

「わ、何だ。凄い力ですよ」

「ぬぬ……何者ぞ」

 男は掴んだロボットの両腕をゆっくりと左右に広げると、その鉄製の胸部に右足の靴底を強く当て、そのまま一気に蹴り押した。ロボットは岩崎の椅子ごと勢いよく後ろに倒れ、本棚に激突する。崩れた本棚と分厚い本がロボットの上に落ちてきて積み重なった。男は床に落ちた黒いソンブレロを拾って頭に載せると、本棚の下敷きになっているロボットを見て一瞬だけニヤリと笑みを見せた。そして、すぐに作業テーブルの方に向かい銀色の拳銃を拾うと、それを持って短い廊下の方へと歩いて行く。警報音が鳴り響く中、彼はゆっくりと短い廊下を歩きながら銃のストライドを引き、撃鉄を下げた。彼の青い目は、血溜まりの上に倒れている岩崎に向けられている。本棚を退かしたロボットは、まだ起き上がれなかった。

「先輩、何やってるんですか、そこじゃないないですよ。重心がずれてますよ」

「ぬ。もう少し右か。うーん、やはり調整が必要だな。うまく動かんぞ」

「早くしないと、主任さんが、また撃たれちゃいますよお!」

「わかっとる。だが、今の衝撃で、バランスシステムを損傷したみたいだぞ。上手く立ち上がれん」

 ロボットは交互に声を発しながら、起立しようともがいていた。ソンブレロの男は悠然と歩き、岩崎の横に着くと、床の上の岩崎に銃を構えた。その時、避難の為に廊下を小走りで移動していた数人の女性職員が、その場を目にして悲鳴を上げた。男は、女達が発した高く大きな声に不快な表情をすると、すぐさま声とは反対の方向に走り出した。廊下を常人離れした速度で走った男は、付きあたりの窓に向かって飛び跳ねると、分厚い強化ガラスを突き破って外に出た。彼はそのまま闇夜へと姿を消した。床で倒れている岩崎カエラは、依然として動かなかった。血が彼女の白衣を赤く染めていく。警報音が鳴り響き、割れたガラス窓から吹き込む夜の冷たい風が、色を失った彼女の頬に吹きつけていた。



                  二十六

 蛍光灯に照らされた白く長い廊下を、二人の男が走っている。先を走る小久保友矢は血相を変え、ひどく慌てていた。その後ろを探偵の浜田圭二が、トレンチコートの皺からカパカパと音を立てながら、ハットを押さえて走っている。二人が受付で聞いた処置室の前に着いた時、部屋から白衣姿の男性が出てきた。小久保友矢は、医師であろうその男に尋ねた。

「主任は……」

 男は静かに首を横に振ると、険しい顔で答えた。

「ここに運ばれてきた時には、もう……。医師としては、傷口の縫合くらいしか、するべき事は……」

「そんな……」

 小久保友矢はスライド式のドアを勢いよく開けて、処置室の中に駆け込んで行った。浜田圭二は愕然とした顔で立ち尽くした。

「嘘だろ……。あいつが……。そんな……」

 小久保友矢は、処置台の前にゆっくりと歩いていき、立ち止まった。処置台の上で、右肩に包帯を巻いた、黒のブラジャー姿の岩崎カエラが背中を向けて座ったまま、両腕をグルグルと回していた。

「よーし。順調、痛くなーい。先生、この痛み止め、効くわね。新型の神経麻酔か何か?」

 小久保友矢は安堵して息を漏らす。振り返った岩崎カエラは、慌てて患者用の上着を羽織って、胸元を隠した。

「ちょっと、小久保君、ノックくらいしなさいよ!」

「いや……、北別府さんから、主任が撃たれたって聞いて……」

 親指で少し鼻を啜った小久保に、岩崎カエラは手を振った。

「いいから、後ろを向きなさいよ。シッ、シッ」

 小久保友矢が後ろを向くと、岩崎カエラは急いで水色の患者着に袖を通した。廊下から様子を見ていた浜田圭二は、眉間に皺を寄せる。

「やっぱり、死んでなかったか。悪運だけは強いからな、あいつ……」

 浜田に、医師の男が言った。

「弾は綺麗に抜けていましたし、骨も損傷していませんでしたから、大事には至りませんでした。ただ……」

 医師が眉間に皺を寄せたのを見て、浜田圭二は顔を曇らせた。

「ん。なんだ。やっぱり、あいつの胸がでかいのは、豊胸手術だったか。もしシリコンが漏れたんなら、今度は少なめにしてやってくれ」

 医師は手を振る。

「いや、違います。怪我の回復が早くて。正直、驚きました。動脈を損傷していたので、出血が多かったはずなのですが、あの通り元気です。しかも、ここに運ばれてきた時には、殆ど出血は止まっていましたし、意識もはっきりされていました。あんなに血圧が下がっていたのに、どうも不思議で」

 首を傾げた医師は、浜田の耳元に顔を近づけ、小声で言った。

「彼女、何か変なクスリとか使ってませんよね。血液検査では異常は検出されませんでしたが、まさか科警研の技官さんに薬物使用の精密検査をさせてくれとも言えませんし、困っていたところです」

 浜田圭二はムッとした顔で答えた。

「馬鹿言うな。あいつは昔から、そういう特異体質なんだよ。患者が元気になって、なんで困った顔してんだ。逆だろうが。はい、縫合ご苦労さん。お疲れ」

 浜田圭二は男の白衣の肩を叩くと、処置室の中に入り扉を閉めた。

 患者着を着終えた岩崎カエラは、処置台に座ったまま浜田に手を上げた。

「よう、ハマッチ。お疲れ。あ、例の物、受け取った?」

 浜田圭二は岩崎の横に腰を下ろしながら言う。

「お疲れじゃねえだろ。どんだけ心配したと思ってるんだ。すっ飛んで来たんだぞ」

「ごめん、ごめん」

 浜田圭二は顎先で小久保を指した。岩崎が視線を向けると、小久保友矢は赤くなった目を擦っていた。岩崎カエラがニヤニヤしながら、小久保の顔を覗きこむ。

「あっらー。私が死んだと思って、泣いちゃ……痛っ」

 岩崎の頭を叩いた浜田圭二が言った。

「で。どこを撃たれたんだ。頭か、口か」

 岩崎カエラは強く右肩を指差して見せる。

「ここよ。ここ。右肩。あーあ、四針も縫っちゃったなあ。痕になるかな。そしたら、来年の夏はノースリブが着れないじゃない。もう」

「重症だな、そりゃ」

 浜田圭二が溜め息を吐くと、小久保友矢が言った。

「いや、でも。本当によかったです。そのくらいで済んで。少し、ホッとしました」

「ちょっと、軽く考えてるでしょ。あと二度左に弾道がずれてたら、心臓に当たっていたかもしれないだからね」

 岩崎カエラは自分の左胸を指差した。浜田圭二が隣から覗き込みながら言う。

「どうせ、たいした奴じゃなかったんだろ。こんなデカイ標的を撃ち損ねるとは、そいつ、よほど間抜けなヒットマンだな」

「デカイ……どういう意味よ。ていうか、どこ見てんのよ、このスケベ探偵!」

「イテっ。グーかよ。痛えなあ」

 浜田圭二は岩崎から鉄拳を食らった額を押さえて、うずくまった。

 岩崎カエラは小久保の方を見て言う。

「ウエモンとサエモンがね、守ってくれたの。さすが高性能戦闘用AIプログラムよね。プロの殺し屋が撃った拳銃の弾を逸らすくらい、朝飯前って感じね。もし彼らが居なかったら、本当に殺されていたかもしれないわ」

 小久保友矢は両肩を上げた。

 浜田圭二が額をさすりながら真顔で尋ねた。

「プロの殺し屋だって? そいつは、どんな奴だった。まさか、片方の目の上に刀傷があったんじゃ……」

「ううん。そんな傷は無かったと思う。二メートル近くある西洋人風の大男。でも、日本語は比較的流暢だった。警察にも話したけど、こう、背中を丸めて髪の毛ダラーって感じで、その奥からこっちを見る瞳が異常に青くて、すごく不気味だった。黒のソンブレロに黒のロングコート。服装は全部黒ずくめ。でも、肌はすごく白かった」

 小久保友矢が眉を寄せる。

「なんか、不健康そうな奴ですね」

「その不健康そうな男が、百キロ以上あるロボットを蹴り飛ばして、強化ガラス製のぶ厚い窓ガラスを突き破って逃げたのよ。十三階の窓から飛び降りて。どんな栄養ドリンクを飲んだのかしら」

「じゃあ、犯人はもう捕まったか、見つかったのですか」

「いいえ。逃げたみたい。着地点に足跡が残っていたそうよ。今のところ、その他には何の痕跡もなし。科警研の防犯カメラにも写ってないそうだけど、これから、下別府さんが全画像をスキャンにかけるって。彼なら何か見つけてくれるかもね」

 浜田圭二が怪訝な顔をする。

「十三階から飛び降りて、足跡だけか」

 小久保友矢も尋ねた。

「体を機械化していたということは無かったですか。ほら、以前に調べた容疑者で、体の半分以上を機械化してた男がいたじゃないですか。顔中に入れ墨だらけの」

「うん。覚えてる。それで、ウエモンとサエモンに聞いてみたの。そしたら、体に機械を入れている形跡は無かったって言うのよ。全て生身だったと」

 小久保友矢は納得顔で頷いた。

「そうか。ハードの方は、元々『幸一くん』の実験飼育用のロボットだから、観察用の分析機能が付いてるのか。じゃあ、犯人を捉えた動画記録も保存されていますね。後で彼らのメモリーを確認してみます」

「うん。お願い」

 浜田圭二がまた怪訝な顔をする。

「こういちくん?」

「他界した、科警研一のプレイボーイよ」

「プレイボーイを飼育してたのか? どうなってんだ、科警研は」

 浜田圭二は岩崎と小久保の顔を交互に見た。

 小久保友矢は言う。

「でも、なぜ主任を狙ったのでしょう。何か言ってましたか」

「うーん。少なくとも私をスカウトに来たハリウッドの関係者じゃない事は確かね。ただ、こんな事は言っていたわ。『パンドラE』を渡せって。何なのかしら、それ」

 浜田圭二が顔を顰めた。

「なんだって? 『パンドラE』だと?」

 岩崎カエラは眉を曇らせて浜田を見る。

「何よ。ハマッチ、あんた何か知ってるの?」

「いや、別に……」

 浜田圭二はハットを深く被り直し、二人から視線を逸らした。

 岩崎カエラが浜田を強く指差して言う。

「あんたの『いや、別に』は、『はい、そうです』って意味でしょ。なによ、隠してることがあるなら、言いなさいよ」

「いや、仕事の事はちょっと……」

「はー」

 岩崎が拳に息を吹きかけて見せると、浜田圭二は首を竦めて、ハットで顔を隠しながら話した。

「俺もそれの正体を探れと依頼人から頼まれているんだ。だが、それが何なのかは、まだ分からん」

「はあ? ちょっと。あんたの依頼人って誰なのよ。もしかしたら、さっきの殺し屋の依頼主かもしれないじゃないの」

「いや、それは無い。大丈夫だ。それより、おまえら科警研は、ストンスロプ社のGIESCOとは関係があるのか。何か、情報交換しているとか」

 浜田からの思わぬ質問に、岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせた。

 岩崎カエラは言う。

「あそこは完全な民間企業だから、ウチとは関係はないわ。特にウチは、捜査機関の捜査技術を研究するのが本来の目的だから、あまり外部とは接触しないの。大抵の事は、研究所内で賄っている。自給自足みたいなものね」

 小久保友矢が怪訝な顔を浜田に向けた。

「GIESCOが、何か関係があるんですか」

 再びハットを被った浜田圭二は、静かに首を縦に振った。

「ああ。――岩崎、お前が狙われた理由も分かってきたぜ」

「出た、『ぜ』。エンジン掛かってきたんなら、さっさと話しなさいよ」

「俺が思うに、その『パンドラE』は、たぶん、神作のところの永山ちゃんが南米から送ったアレだぜ。それは……」

 岩崎カエラと小久保友矢は、共に眉間に皺を寄せて、再び顔を見合わせた。探偵の浜田圭二は、険しい表情のまま推理をする。

「おまえに『渡せ』と言ったのなら、そう大きなものではない。そんで、おまえのところのような『研究室』にあるとすれば……」

 顎を触りながら、浜田圭二は俯いた。

「まだ、誰もが見つけていない、あの……」

 岩崎カエラと小久保友矢も険しい顔で彼の答えを待った。二人は自分たちが予想する答えが浜田の口から出て来るのではないかと、固唾を呑んで浜田を見つめた。顔を上げた浜田圭二は指を鳴らす。

「何とかドライブだぜ」

 項垂れた岩崎カエラが言う。

「思い出せないのね。『バイオ・ドライブ』のことでしょ」

 浜田圭二は再度、指を鳴らした。

「そう、そのバイオ・ドライブだ。きっと『パンドラE』の正体は、永山ちゃんがタイムマシンに乗せた、あのバイオ・ドライブだぜ」

 岩崎カエラと小久保友矢は目を丸くした。

「ちょっと。それ、めちゃめちゃハイレベルな捜査情報じゃない。あんたの依頼人って、一体誰なのよ」

「どうして主任が狙われないといけないんです?」

 浜田圭二は深刻な顔で答えた。

「たぶん、その色白の大男は、ドライブを隠していそうな研究機関を片っ端から襲っているのかもしれないぜ。国内屈指の研究機関のいくつかをな。科警研もその一つであることには、間違いないぜ。そうだろ?」

「そうだろっじゃないでしょ。どうして、そういう事を早く言わないのよ。小久保君、科警研と警察庁に連絡してもらえる? 国内の主立った研究機関にも警戒態勢をとるよう連絡しろって」

「分かりました」

 小久保友矢は処置室の隅に置かれている机の方に駆けて行くと、その上に置かれていた立体電話のボタンを押し始めた。

 岩崎カエラは浜田に尋ねる。

「それで、どうして、その『パンドラE』がバイオ・ドライブだと思うわけ。それに、何で奴は、それを狙っているの」

「俺が調べたところでは、『パンドラE』という言葉を追うと、必ずGIESCOに辿り着くぜ。イーはアルファベットの『E』だぜ。……」

 浜田圭二は自分の推理を岩崎に聞かせた。小久保友矢は電話をしながら、浜田の話しに耳を澄ます。浜田圭二は身振り手振りを交えて自分の武勇伝を挿みながら、これまでの経緯と、自分の推理を深刻な顔で説明し続けた。

 暫らくして、電話を終えた小久保が戻ってきた。

「警察庁の警備局と刑事局が大至急動くそうです。科警研には、立番要員の警官を送ってくれる事になりました。科警研の方にも連絡済みです」

「うん。ありがとう」

 そう答えた岩崎カエラは、急に泣きそうな顔になって小久保に言った。

「小久保君。このスケベ探偵、ほぼ私達と同じ結論に辿り着いてる。しかも、何の実験もシミュレーションもしないで、勘だけで。どうしよう……」

「どうしようって、別にそれはしょうがないじゃないですか。辿り着いたんでしょうから」

 浜田圭二が口を挿んだ。

「ほぼって言うのは、どういう事だ。俺も、そっちの情報が欲しいぜ」

「言える訳ないじゃない。こっちは公務員なんだから。守秘義務があるのよ。べー」

 浜田に下瞼を引き下げて舌を出して見せた岩崎カエラは、小久保の方を向いた。

「それでね、小久保君。このダーティー・ハマーさんの話では、そのバイオ・ドライブはGIESCOにあるんじゃないかって言うのよ。そういう臭いがするんですって」

「GIESCOに? じゃあ、もしかして……」

 岩崎カエラは頷いてから言う。

「とにかく、その先の細かい話はラボに戻ってからにしましょ」

 岩崎カエラはチラリと浜田に目線を向けて見せた。それを見た小久保友矢は黙って頷いた。浜田圭二も頷く。

「そうだな」

「あんたは科警研の人間じゃないでしょ。シッ、シッ」

「なんだよ。仲間外れかよ」

「だいたいね、民間のあんたが一人で動くには危険過ぎるのよ。手を引きなさいよ。後は、警察の仕事だから。分かった?」

 岩崎カエラは隣に座っている浜田に顔を近づけた。浜田圭二は視線を逸らす。

「おう。わかったぜ」

 彼は口を尖らせて、ハットを少し下げた。溜め息を吐いた岩崎カエラは、自分の膝に視線を落とすと、タイトスカートを少し持ち上げて長い足を伸ばした。

「あーあ。ストッキングも破れちゃった。まったく」

 浜田圭二が覗き込んだ。

「ああ、本当だな。しかし相変わらず綺麗な脚……あぐっ。今度は蹴りか。いってー」

 浜田圭二は顎を押さえて仰け反った。岩崎カエラが睨みつける。

「このエロ探偵。早く帰れ!」

 小久保友矢が上着の内ポケットに手を入れながら言った。

「だろうと思って、新しいストッキングを買ってきましたよ」

 岩崎カエラは目を輝かせて喜ぶ。

「本当? さっすが小久保君。もう、最高!」

 小久保友矢は上着から出した空の手を広げ見せた。

「なんて、嘘です。そんな訳ないでしょ。『モーリ・タック』から全速で駆けつけたんですから。心配させられたお返しです」

「もう」

 岩崎カエラは頬を膨らませた。浜田圭二が呆れ顔で立ち上がる。処置台の下には、血で赤黒く染まった岩崎のブラウスがビニール袋に入れられて置かれていた。浜田圭二はハットの下から、その血だらけのブラウスを鋭い視線で見つめていた。



                  二十七

 散らかったままの特別鑑定室に、閉じられたブラインドの隙間から朝日が射し込んだ。倒れた本棚や散乱した書籍が日に照らされる。床のマグカップの破片は片付けられていた。応接ソファーに座っていた小久保友矢が目を擦る。彼の膝の上で、岩崎カエラは目を覚ました。ソファーの上で横になったまま、眼球だけを動かしていた岩崎カエラは、慌てて起き上がると、髪を急いで整え、シャツの襟元を揃えた。小久保友矢が伸びをしながら欠伸する。

「ふああ。おはようございます」

「お、おはよう……」

 岩崎カエラは顔を赤らめて、横を向いた。

 小久保友矢が立ち上がりながら言う。

「大丈夫ですよ。何もしてませんから。なあ、ウエモン、サエモン」

 作業テーブルの横に立っていた太い腕のロボットが返事をした。

「ご安心くだされ。小久保殿は誠実であられた」

「ずーと見てましたからね。主任さんの体温にも特別な変化は何も無かったですよー」

 岩崎カエラはソファーから腰を上げながら言った。

「あのさ、主観的なのか客観的なのか、どちらかにしてもらえる?」

「では、客観的に説明するでござる。昨晩を通して小久保殿は……」

「もういい、いい。分かった。小久保君を信じてるから、大丈夫」

「コーヒー飲みますよね」

「うん。その前にシャワー浴びてくるわ」

「行ってらっしゃい……ふあー」

 給湯室に入った小久保友矢は、欠伸をしながら湯沸しポットのスイッチを押した。ミニキッチンで顔を洗った彼は、眠たそうな顔で歯ブラシを咥え、歯を磨く。ポットのお湯が沸いた頃、口を漱ぎ終えた小久保友矢は、肩に掛けたタオルで顔を拭き、続いて、手にシェービング・クリームを載せ、顎に塗り始めた。手を洗い、剃刀を握って鏡を見た小久保友矢は、ハッとして手を止めた。

「しまった。あの人、命を狙われているんだった」

 剃刀を流し台に放り投げ、小久保友矢は駆け出していく。一旦戻ってきた彼は、ゴミ箱の横の手箒を取ると、試しにそれを二、三回振ってから、それを持って廊下に出て、岩崎を追いかけた。

 肩に掛けたタオルでシェービングクリームを拭き取りながら、小久保友矢が廊下を速足で歩いていると、女性用シャワールームと書かれた表札の下のドアを越えて、大声が聞こえてきた。

「んぎゃあああ!」

 小久保友矢は一瞬、足を止めた。その声は聞き覚えのある声である。

「主任! 大丈夫ですか。今行きます!」

 小久保友矢は手箒を構えて駆け出した。シャワー室のドアを蹴破り、中に飛び込んで行く。一瞬の間の後、女性達のすさまじい悲鳴と怒号と共に、部屋の中からスプレー缶やドライヤー、パイプ椅子などが飛んできた。続いて、頭を両手で覆った小久保友矢が背中を丸めて飛び出してくる。

「違う、違う。主任が危ないと思っ……痛い、僕も、危ない!」

 シャワー室の奥で、裸のまま右肩の包帯を押さえてうずくまっていた岩崎カエラは、身を震わせていた。

「ううう。沁みる……忘れてた。縫ったんだったあ……あうう……」

 脱衣所から女性たちの悲鳴が響き渡っていた。



                  二十八

「イテテテ。もう少し優しく貼ってくれませんか。主任」

「はい、はい。男の子でしょ。このくらいは我慢する。はい、終わり」

 特別鑑定室の中では、自分の席の椅子に座る小久保の米噛みに、隣の席の椅子に座っている濡れた髪の岩崎カエラが絆創膏を貼っていた。小久保の顔は絆創膏だらけである。岩崎カエラは救急箱の蓋を閉めた。小久保友矢は項垂れて溜め息を漏らす。

「はあ、これで完全に所内では変態扱いじゃないですか。月曜は女性用シャワー室の利用状況を検索して、火曜はその前でウロついて、今日は中に突入ですよ。完璧じゃないですか。まったく」

「ごめん、ごめん。私も今度から気をつけるから。医務室に行ったついでに、下の売店で朝食買ってきたから、これで勘弁して」

 岩崎カエラは小久保に大きな紙袋を見せた。

「もう、ほんとに気をつけてくださいよ。頼みますよ」

「わかったって。ちゃんと感謝してます。ありがと」

 そう言いながら、岩崎カエラは紙袋の中を覗いた。

「ええと、ピクルス抜きが私のだから、これが私ので、残りが小久保君の」

 岩崎カエラは紙袋の中からハンバーガーの包みを取り出して、小久保の机の上に並べていった。小久保友矢は、次々に並べられていくハンバーガーの包みを見ながら、眉を寄せた。

「こんなに食べられませんよ」

「そう遠慮しないで。日頃の感謝の気持ちよ」

 小久保の目の前には、十個のハンバーガーが並べられた。その中の適当な一つを手に取った小久保友矢は、その包み紙を外しながら岩崎に言った。

「でも、昨日の浜田さんの言った事が当たっているとすれば、やっぱり、永山記者が飛ばしたタイムマシンはストンスロプ社が回収していたって事になりますね」

 小久保の隣の席で、来客用のコーヒーカップでコーヒーを飲んでいた岩崎カエラは、そのカップを机の上に置いた。

「そうね。私達の仮説とも一致するし、あいつ、勘だけは超人並みに優れてるからね。なまじ外れてないかも」

「だとすると、ストンスロプ社は、田爪のバイオ・ドライブと高橋のバイオ・ドライブの双方を、今、どこかに保管しているって事ですよね」

 岩崎カエラはハンバーガーの包み紙を外しながら頷いた。

「うん。そうかもね。そして、たぶん田爪博士のデータが入っているバイオ・ドライブは、どこかで厳重に保管されている」

「GIESCOの中ですかね」

「そうね。あそこなら、確かに安全かも」

「それが『パンドラE』ってやつですか。なんでそんな呼び方をするんでしょう」

「きっと、外部に情報を洩らさない為の暗号か何かよ。それだけ、奴らも重要性を認識しているって事じゃないかしら」

「じゃあ、あとは実動の捜査部門の仕事ですね。GIESCO内を家宅捜査してもらって、田爪の書き込んだデータが入ったバイオ・ドライブが見つかれば、あの、例の傷を確認して、すぐに特定できますもんね」

 岩崎カエラは、口に運び掛けたハンバーガーを下ろした。

「そう簡単には行かないかもね。この特別鑑定室の立ち上げを指示してきたのは、警察庁。その警察庁に指示したのは官邸、つまり辛島総理。辛島総理のバックにストンスロプ社が付いているのは、ある程度レベル以上の公務員なら皆、知っているわ」

「じゃあ、ストンスロプ社が手を回して、ここを立ち上げさせたって事ですか。自分達が隠蔽している事が暴かれてしまうかもしれないのに、どうして」

 岩崎カエラは両肩を上げた。

「私達が違う分析結果を出すことを期待したのかも」

 ハンバーガーを咀嚼しながら、小久保友矢は眉間に皺を刻む。

「違う分析結果……どんな分析結果を期待したんでしょう」

「たぶん、解かりませんってことでしょうね。政府は、科警研の分析能力の高さをしきりに公言している。勿論それは、犯罪抑制の為の刑事政策の一環でしょうけど、でも事実として、ここは全国の警察組織の科学捜査の頂点に立つ機関よ。人材も機材も警察組織全体の中ではトップレベル。その科警研が量子銃等の機械の仕組みを分析して、単に、これこれこうだから使えないのは当然って結果だけを出して終われば、警察は捜査をそれ以上前に進められなくなるわ。疑問点が生じていても、あの科警研でも解からなかったのだからと、その解明には消極的になる。政府が幕引きをする丁度よい理由にもなるわね。かませ犬にされたのかもしれないわ、私達。悔しいけど」

 岩崎カエラは荒っぽくハンバーガーに齧り付いた。口いっぱいにハンバーガーを詰め込んで咀嚼する岩崎を見ながら、小久保友矢は肩を落とした。

「そんな。この件の担当に主任を指名してきたのは、子越長官ですよね。噂では、官邸サイドから指名付きで長官に指示が出たとか。主任は、この一ヶ月、こんなに必死でやってきたっていうのに……」

 小久保友矢が再び岩崎に視線を向けると、彼女は口いっぱいに頬張ったハンバーガーを咀嚼しながら、目に涙を浮かべていた。

「主任……」

 寝る間も惜しんで量子銃の実験と解析に取り組んできた岩崎の姿を間近で見ていた小久保友矢は、彼女の気持ちを察した。彼は岩崎の気を引き立てようと、必死に話しかけた。

「よーし。こうなったら、ストンスロプ社がバイオ・ドライブを隠し持っているって事を科学的に、バシッと立証して、奴らが以前から何もかも知っていたんだという事を暴露してやりましょうよ。主任の事を軽く見た連中に、一泡噴かしてやるんです。ほら、主任、涙を拭いてください。僕も全力で手伝いますから。どうせ泣くのなら、勝利の嬉し涙にしましょうよ。ね、主任」

 小久保友矢はティッシュを取って岩崎に差し出した。岩崎カエラは目から滝のように涙を溢したまま、膨らませた頬を動かしている。小久保友矢はその涙を拭いてあげた。肩を上げたままコーヒーを飲んだ岩崎カエラは、そのまま押し流すように口の中の物を飲み込むと、大きく鼻を啜った。小久保の方を向いた彼女は頬を震わせながら言う。

「違うの。これ、ピクルスが入ってた。しかも、山盛り。ほら、パンパンに。『ピクルス抜き』って頼んだのに、『ピクルスだけ』になってる。店員さん、間違えたみたい。私、ピクルスが駄目なのに。ふえ」

 小久保友矢は手に握っていた自分のハンバーガーを覗いた。ピクルスは一枚も挟まれていなかった。



                  二十九

 今朝の有多町の道路は、いつも以上に混んでいた。新市街全域で大規模な交通渋滞が発生していたからだ。片側十車線の東西幹線道路の上は、停止したAI自動車で埋め尽くされている。有多町の東部にある司時空庁ビルの前は特に混んでいた。歩道の上も、背広姿の男達やプラカードを持った女性の集団で埋められていて、路肩には、二台分の駐車スペースを使ってトラックが停車し、その後ろには軽武装パトカーが並んでいる。上空にはオムナクト・ヘリまで飛び回っていた。そんな喧騒の中、路肩に駐車した赤いAIポルシェから荷物を下ろしている三人がいた。岩崎カエラと小久保友矢、そして応援の島別府技官である。左ハンドルの運転席のドアの横に立っていたスーツ姿の岩崎カエラは、AIポルシェの前後に止まっている軽武装パトカーを交互に見ながら呟いた。

「なんか、落ち着かないわね」

 小久保友矢はトランクから銀色の機材ケースを取り出しながら、隣で同じように機材ケースを出している地味なスーツ姿の若い女に言った。

「すみませんね、島別府さん。忙しい時に付き合ってもらって」

 島別府は小さな細い声で答えた。

「いえ。仕事ですから……」

 小久保友矢は口角を上げて、少しだけ頭を下げた。歩道の上に置いた四角い箱のベルトに手を伸ばした岩崎を見て、彼は慌てて駆け寄る。

「ああ、主任。それ、僕が持ちますよ」

「ああ。いいわよ。このくらい、女の私にだって持てるって」

 岩崎カエラは重そうな機材ケースのベルトを右肩に掛けた。小久保友矢が言う。

「違いますよ。腕、腕」

「痛い! ――ああ、そうだった。縫ったんだった……」

 岩崎カエラは右肩を押さえて身を縮めた。

「ね。貸して下さい」

 小久保友矢は呆れ顔で手を差し出した。

 三人は、司時空庁ビルの前の階段を上がっていった。明るいクリーム色のスーツを着た岩崎カエラを先頭に、大きな機材ケースを左右の肩に提げた小久保友矢と、スーツケースと紙袋を下げた島別府技官が上っていく。

 岩崎カエラは立ち止まった。

「はい。全員、ストップ」

「ん? 何ですか」

 岩崎カエラは一気に振り向くと、下の歩道の上や、渋滞している車道を見回した。首を傾げた彼女は、また前を向き階段を上がって行く。小久保との島別府がついて行くと、階段を上りきった岩崎カエラは、また立ち止まった。

「はい、ストップ」

 そしてまた、素早く振り向く。岩崎カエラは、さっきと同じように歩道の群集や車道の車を見回しながら言った。

「何か、変ねえ。妙な視線を感じるわ。どこかで誰かに見られてる……」

 小久保友矢が溜め息を吐いた。

「はあ。――あの、主任……。この人たち全員が、主任を見てるんですよ。ていうか、見守っているんです。みんな主任の事が心配で科警研からずっと付いてきてくれたんじゃないですか。こんな渋滞の中。ほら、あの木陰に潜んでいるのは、SATの隊員さんだし、歩道の上の不自然に多い通行人のほとんどは、どうせ公安の人たちでしょ。主任の車の前後には交通機動隊の軽武装パトカー。ああ、あそこ分かります? ビルの上」

「どこ?」

「通りの向こうの低いビルの上です。あれ、警備課の狙撃隊員ですよ。それに、上空にはオムナクト・ヘリ。この分だと、たぶん、警察庁の方で偵察衛星も動かしちゃってるかもしれませんよ」

「うーん。ありがたいけど、ちょっと大げさね」

「大げさなんてものじゃないですよ。科警研ビルには、全国の女性警察官から見舞いの花束が山ほど届いていますし、遠方の県警からは、どう間違って伝わったのか、香典に花輪まで届いてましたよ。それに加えて、科警研ビルの一階ロビーから駐車場までは、有給休暇をとって駆けつけた男性警察官でごった返しちゃってたじゃないですか。それに、あれ」

 小久保友矢は、向かいの歩道の上を占拠している鉢巻を締めた女性たちの集団を指差した。プラカードを掲げてシュプレヒコールを上げている私服姿の女たちを見て、岩崎カエラは目をパチクリとさせた。

「なに、あの人たち」

「非番の若手女性警察職員で作った自警団だそうです。その名も『カエラさんを守る会』。ああやって、僕らが動く周囲を見回ってくれているんじゃないですか。ついでに僕の予想では、そこのトラックの荷台には、血圧が上昇しているマル暴の強面警官達が乗っていると思いますよ。これじゃ、あの大男は出て来れないですよ。間違いなく、殺されますもんね。奴も、とんだ人に手を出しちゃいましたよね。何てったって、警察職員からの人気ナンバーワンですもんね、主任は」

「はあ……モテるって、罪だわ」

「ああ、それから、毎年、主任の誕生日に花束を贈ってくる例の県警本部長。今、こっちに向かっているそうです。花束を持って。どうします?」

「あの人には、死んだと言って。妻子持ちのくせに、私と二人っきりでヨーロッパ旅行に行こうって言うのよ。信じられない。だいたい、会った事も無いんだから。気持ち悪い」

 岩崎カエラは手を振りながら、歩いて行った。

 三人が武装した警備兵の前を通ってビルの中に入ると、目の前には広いエントランスが広がっていた。岩崎を先頭に三人は奥のエレベーターへと歩いて行く。向こうの閑散とした事務フロアを覗きながら、岩崎カエラが眉を寄せた。

「ガラガラね。職員は半分くらいにまで減らされたのかしら。全盛期の活気が嘘みたいよね」

 小久保友矢も周囲を見回す。官庁らしく事務机は並べられているが、人が数名しか座っていない。彼は言った。

「噂で聞いた話ですけど、出勤拒否か何かで、突然登庁しなくなる職員が多いらしいですよ」

「やっぱり、ストレスかしら。今、ここの人たちって、いつ人員整理されて首切られるか分からない状態だものね」

 小久保友矢がケースを肩に掛け直しながらエレベーターのボタンを押して言う。

「ですね。まあ、あれだけの事実がマスコミによって暴かれたのですから、政府としても、ここをそのまま維持しておくって訳には行かないですよ。昔と違って、今は公務員の身分保障の範囲が限定されていますから、みんな自分がいつリストラされるかが気になって、仕事が手につかないんじゃないでしょうか」

 岩崎カエラは溜め息を漏らした。

「結局、煽りを食うのは、いつも末端の現場職員ってことかあ。幹部連中は管理責任者の『責任』って言葉の意味が分かってるのかしら」

 小久保友矢は岩崎の顔を覗き込み、まじまじと見つめた。顔を引いた岩崎カエラが口を尖らせる。

「何よ。何か付いてる?」

「影響、受け過ぎですよ」

「うん? 何それ」

 エレベーターが開いた。小久保友矢は黙ってスタスタと乗り込んでいく。岩崎カエラは首を捻りながらエレベーターへと入っていった。島別府が乗り込みドアが閉まると、荷物を抱えた小久保友矢は、目的階のボタンを難儀そうにして押しながら岩崎に尋ねた。

「ウチの方のオフライン化は、進んでますか?」

「うん。今日中には、工事が終わるんじゃないかな。いや、明日まで掛かっちゃうかもねえ。有線はともかく無線方式の方は、通信ユニットごと外さないといけないからね」

「ここも、既にオフラインにされているみたいですよ。ほら」

 小久保友矢は、エレベーター内の天井の隅を目線で示した。取り外されたケーブルの端が垂れ下がっている。岩崎カエラは言った。

「中継用の無線ユニットかあ。じゃあ、この中では携帯も通じないってことね」

「ですね。日本政府が国際社会から責任追及されるかどうか、今が瀬戸際ってところですからね。ここの情報が外部に漏れるのを防ぐのが目的なんでしょうが……。相変わらず徹底しているというか。外部からのハッキングを防ぐ為に、物理的にネットワークとの接続を遮断しているんでしょうね」

「いくらなんでも、内部ネットワークは生きてるわよね。じゃないと、資料の検索が出来ないじゃない」

「分かりませんよ。最悪の場合、ここのサーバーそのものが、シャットダウンされているかもしれません。そうなると、お手上げですね。来た甲斐なしです」

 岩崎カエラは目を見開いた。

「ええー。じゃあ、私、小久保君にランチ奢って終わり? そんなあー」

「約束は約束ですからね。奢ってもらいますよ。絶対に」

 岩崎カエラは頬を膨らませた。島別府は隅の方に立ったまま、二人の顔を観察していた。

 エレベーターが目的階に着きドアが開くと、そこに三人の背広姿の男たちが立っていた。中央の中年男、右の少し若い男、左の小久保よりも若い男の順に挨拶をする。

「お待ちしてました。資料管理課長の仲野です」

「課長代理の仲島です」

「課長補佐の仲町です」

 会釈をした後で、岩崎カエラは小声で小久保に言った。

「なんか、嫌な予感がするのは、私だけかしら」

「いや、僕もしています」

 三人は怪訝な顔をしたまま、仲野と仲島と仲町に付いて歩いていった。



                  三十

 アーチ型の高い天井と白い壁に囲まれた長い廊下は、明るいライトに照らされていた。幅も広く、余計な装飾品も置かれていない。まるで宇宙基地のような地下道を資料管理課の三人の後から、岩崎カエラと小久保友矢が並んで歩いて行く。少し後から島別府が付いてきていた。岩崎カエラは強化カーボン製の白い壁を見回しながら言った。

「へえ。ここの地下って、こんな立派になっているんだ。驚いたわ」

「まあ、つい二ヶ月前まで、省庁内では一番羽振りが良かった所ですからね」

 小久保友矢は前の三人に聞こえないように、小声で岩崎にそう言った。廊下の突き当りには無機質で頑丈そうな左右開きの自動ドアが設置されていた。その前の左右には、白い戦闘服の上に白い鎧を装着し、同色のヘルメットを被った兵士たちが、最新型のカービン銃を抱えて立っている。岩崎カエラは小久保に頭を寄せて、小声で尋ねた。

「あの人たちは?」

「ああ、STS(Space Time Security)ですよ。ここ独自の警備員です。まあ『独自』と言っても、国防軍から出向してる猛者達らしいですけど。当然、武器も最新式」

「ふーん。まだ、解体されてなかったんだ」

「例の耐核熱金属板は、日本が南米戦争を惹起したと主張している国にとっては、格好の証拠資料になりかねない物ですからね。こうして厳重に警備しているんじゃないですか」

 白い鎧の兵士たちは資料管理課の三人が近くに来ると、敬礼して少し横に退いた。仲野が壁際に移動し、そこに設置された機械で網膜スキャンを終える。ドアの中央に投影されたホログラフィー・キーボードで仲島が暗証コードを入力した。ポケットから鍵を取り出しながらドアの右端に移動した仲野は、その鍵を鍵穴に差し込むと、左端で同じように鍵を差し込んで待機していた仲町とタイミングを合わせて鍵を回した。金属製のドアが左右に開く。そこには赤いライトで照らされた空間があり、その向こうにも上下に閉じられた扉があった。仲野と仲町と仲島はそれぞれ首に掛けたストラップに繋がれた小さな電卓のような機械を背広の内ポケットから取り出すと、そのボタンをいろいろと押して、ロック解除の暗証コードを入力した。岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせる。仲野と仲島と仲町は、その薄い機械をドアの中央の差込口に挿入した。並んで立つ三人に上下左右からレーザー光線が照射され、顔の輪郭をスキャンした後、全身を舐めるように移動していく。

 岩崎カエラが不安そうな顔で言った。

「あの輪郭スキャン、私たちもやるのかしら……」

「主任は凹凸があり過ぎますから、データ量がセキュリティー・コンピュータの容量を超えちゃうじゃないですか」

「はい、セクハラ。マイナス二十点。荷物持ってあげようと思ったけど、やーめたっと」

「もう、着いてるじゃないですか。ていうか、持てないでしょ、その肩じゃ」

 ドアの上部のライトが赤から青に変わり、高く籠った音が短く鳴った。超合金製のドアが上下にゆっくりと開いていく。その扉が予想以上に分厚かったのを見て、岩崎カエラは顔を顰めた。

「核シェルター並みね」

「それだけ、機密度が高いという事ですか……」

 小久保友矢も真剣な顔でそう答えた。

 分厚い扉がようやく下がり終え、前に床ができると、資料管理課の三人はそう上を奥まで歩いていき、狭いゲートの中を一人ずつ順に通っていった。岩崎カエラも警戒しながらゲートをくぐる。小久保友矢と島別府は、大きな荷物を両手に抱えたまま難儀そうにゲートを通過した。幅の狭い廊下を少し進むと、突き当たりのガラス張りの壁の向こうに、正方形のテーブルとパイプ椅子が置かれているだけの狭い部屋が見えた。横の普通のドアを開けた仲野が、岩崎に言った。

「どうぞ。この中でお待ちを。今、保管庫を開けます。向こうの壁が動きますので、ご注意ください」

 岩崎たちは部屋の中へと入った。ステンレス製のテーブルの向こうは、衝撃吸収材を張った壁になっている。小久保と島別府が重い荷物を下ろした。すると、その突き当りの壁が中央で縦に割れ、左右に開き始めた。その向こうには、もう一つ小部屋があり、突き当りの壁に畳一枚を横にした程の大きさの金属製の扉が設置されている。仲野は奥へと歩いて行き、その扉のダイヤル式の鍵を回し始めた。岩崎カエラは左右に開いた壁を見回しながら言う。

「へえー。すごいわね。何とか戦隊の基地みたい。あ、開いた」

 仲野はその分厚い扉を重そうにゆっくりと開けていった。岩崎カエラは、スーツケースの中から薬剤が入った小瓶を取り出してテーブルの上に並べている島別府に言った。

「ウチにも、これくらいの予算を回してくれてもいいのにね。せめて仮眠室をもう少し何とか出来なかったのかしらね。女性だけでも、個室にするとか。ねえ」

 岩崎の問いかけに、島別府は薬剤のチェックをしながら静かに答えた。

「いえ。私はどこでも寝られますので」

「そ、そうですか。失礼しました」

 岩崎カエラは戸惑い気味に頭を下げた。

 分厚い扉を全開させた仲野は、その保管庫の中を指しながら言った。

「これらが、爆心地付近で発見された金属板です。この部屋からの持ち出しは禁止されていますので、そのつもりで。それから、退室の際には、向こうの探知ゲートをくぐって下さい。一応、規則ですので、所持品の検査もさせていただきます」

 壁に開けられた横長の保管庫の中には、六枚の厚手の金属板が縦に立てられて並べられていた。退室しようとする仲野に、岩崎カエラは島別府が取り出している薬剤の瓶を指差しながら言った。

「あの、これ、撮影とか薬品反応の試験は、大丈夫なんですよね」

「ええ。構いません。ただし、その結果資料の副本は提出していただきます。ここを退出される前に」

 仲野の回答は、それを提出しないと退室を許さない旨にも聞こえた。岩崎カエラと小久保友矢は一瞬、顔を見合わせる。

 岩崎カエラは答えた。

「分かったわ。あと、古い資料になると思うんですが、探してもらいたい物があるんですけど」

「何でしょう」

「こちらで、以前、爆心地で発見されたバイオ・ドライブの残骸を保管されていましたよね。たぶん、十年くらい前までの話だとは思うんですが」

「ええ。しかし、そのバイオ・ドライブは、今はここには有りませんよ。侵入者によって奪取されましたから」

「いえ。それは分かっています。この閲覧申請の際にお話しましたが、その侵入者を動かしていたASKITの違法性を科学的に明らかにする為に、私達はいろいろと調べているんです」

 仲野は、外で待っていた仲島と仲町の顔を見た。仲島が一瞬、口を引き垂れて眉を上げる。

 岩崎カエラは話しを続けた。

「それで、こちらにバイオ・ドライブの残骸が保管されていた頃に、何か実験等をされた事はないかと思いまして。その資料があると助かるのですが。あるいは、接続の仕組みの解析をしている資料とか」

 仲野は少し間を空けてから答えた。

「――探してみます。ただ、ウチは今、完全にスタンド・アロンの状態ですから、記憶メディアに入れた形で直接の手渡しになりますが、よろしいですか」

「はい。構いません。助かります」

「媒体種は何がよろしいでしょう」

「メモリー・ボール・カードにお願いします。出来たら、消去ロックがされている方で」

「分かりました。サーバー内を検索してみます。後ほど、お持ちしますので」

「宜しくお願いします」

「では、我々はこれで」

 一礼した仲野は、その小部屋から出て行くと、仲島と仲町を連れて、帰っていった。

 小久保友矢が怪訝な顔をする。

「ASKITの違法性?」

「物は言い様よ。高橋博士の胸の機械が、ここに保管されていたバイオ・ドライブだったという事が証明されれば、ASKITがここからバイオ・ドライブを盗み出した事の疎明にもなるでしょ」

 小久保に軽くウインクして見せた岩崎カエラは、パイプ椅子を引いて腰を降ろすと、手を叩いた。

「よし。じゃあ、始めよっか。まずは外観の記録ね。小久保君、あれ持ってきた?」

「勿論です」

 小久保友矢は銀色の機材ケースの中から、眼鏡のような外観の撮影機器を取り出した。

「ビュー・キャッチ。はい、これが主任の分です。ご注文どおりワインレッド。島別府さんは、どっちがいいですか。黒とピンク」

「じゃ、黒で」

 島別府に即答され、小久保友矢は仕方なく黒いフレームのビュー・キャッチを彼女に渡した。残ったピンクのフレームのビュー・キャッチを恥ずかしそうに顔に掛ける。岩崎カエラは笑いを堪えながらワインレッドのフレームのビュー・キャッチを装着した。

「全員装着したわね。画質は、解像度を最高レベルに設定してちょうだい」

 三人は細いフレームの接触式ボタンに触れて、録画の解像度を設定し直す。小久保と島別府が設定を終えたのを見計らって、岩崎は言った。

「それじゃあ、三、二、一で記録スイッチオンね。いくわよ、三、二、一。オン」

 三人は同時に録画をスタートさせた。一見して眼鏡の透明なレンズに見える透過式フォトダイオードの集積レンズが、装着者の視線に合わせて外の映像を拾っていく。

 岩崎カエラは手を揉み合わせて言った。

「さてっと、これで私達の視界に入るものは全て記録できるとして、次は、金属板の外観調査ね。小久保君、端の方から順番に渡して。一枚ずつ確認していこう」

 小久保友矢は隣の小部屋に移動すると、保管庫の中から重そうに一枚の金属板を取り出し始めた。



                  三十一

 小久保友矢は一枚の金属板を抱えて、岩崎と島別府が座っているステンレス製のテーブルまで歩いてきた。黒い金属板を抱えた腕は肘を伸ばしてまっすぐに下に伸び、震えている。

「これ……、結構な……重さですね。見掛けによらず。よっ」

 小久保友矢がテーブルの上に金属板を放るように置くと、それを受け止めたステンレスが鈍い音を響かせた。岩崎カエラは、その屋根瓦ほどの大きさの黒く分厚い金属板を観察しながら言った。

「ふーん。煤だらけね。あーあ、ここはだいぶ削ってくれてるわね。材質とか調べたんだ。司時空庁さんも、いろいろ苦労したのねえ」

 テーブルの横にしゃがんだ小久保友矢は、目線の高さを金属板の断面に合わせて覗く。

「煤の下は、ガラス状に再結晶化した皮膜が残ってますね。ふーん、こうなるんだ」

「小久保君、ねえ、ここ見て。やっぱり、これは溶接の痕じゃないかしら」

 金属板を指差して顔を近づけている岩崎の横に移動した小久保友矢は、彼女の顔の横に自分の顔を出して、指差された箇所を観察した。

「そうですね。ただ、これは元々、戦車の外部装甲板だった物なので、その製造の際の溶接痕かもしれません。もしくは、切り取る際のレーザーカッターの切断痕かも」

「特定できないかしら」

「出来ます」

 そう答えた島別府の方に、岩崎カエラは顔を向けた。

「本当ですか? どうやって?」

 島別府は黒縁のビュー・キャッチを少し持ち上げると、姿勢を正したまま説明する。

「溶接には圧接方式と溶融溶接方式の二種類があります。さらに、溶融溶接方式には抵抗溶接、アーク溶接、ガス溶接、テルミット溶接、アセチレン溶接、原子水素溶接などがあります。耐核熱金属板は対核熱反応金属で出来ているので、この金属板に使用できる溶接方法はガス溶接です」

 岩崎カエラが合点のいかない表情を見せたので、小久保友矢が補足した。

「電気式の抵抗溶接を用いるには金属板が分厚過ぎるし、アーク溶接だと、たぶん皮膜のアモルファス素材の分子が電気反応を起こして超低温化を誘発してしまうんですよ。そしたら、温度差が開き過ぎて、接合部分に亀裂が入ってしまう。ですよね、島別府さん」

「そうです」

「テルミット溶接は?」

 島別府はビュー・キャッチのレンズに蛍光灯の光を反射させながら、淡々と解説する。

「ご存知の通り、テルミットはアルミニウムと酸化鉄の混合粉末です。テルミット溶接とは、熱反応により酸化鉄がアルミニウムで還元されて鉄を生み出すことを利用した接合方法ですが、残念ながら、対核熱反応金属は合成超合金ですので、鉄そのものではあません。したがって、テルミットをこの溶接に使用するのは、適当ではありません。なお、アセチレン溶接は摂氏約三千度、原子水素溶接だと摂氏約四千度の熱が生じます。その温度では、皮膜の下の超合金が誤反応して萎縮化を起こしてしまいます。そうなれば、せっかく溶接して加工しても形が崩れて崩壊していまいますし、耐核熱性能も失われてしまいます」

「ふーん。なるほどね。でも、どうしてガス溶接だと、特定できちゃうの?」

「金属溶接では、母材となる金属の接合部分に、溶接棒と呼ばれる棒状にした填充材を溶融または添加させて接合する場合があります。通常、ガス溶接には溶接棒は使用しませんが、対核熱反応金属の場合、融点が高いにも関わらずアーク溶接やテルミット溶接以上の高温での溶接ができませんから、ガス溶接で溶接棒を用いて接合するしか方法がありません。一般的に対核熱反応金属の接合填充材には、チタニウム合金が用いられます。それによりチタンとクロムが比較的穏便に対核熱反応金属と融和するからです。しかし、接着剤で接合しているに等しいために、その接合部分の強度は他の溶接接合に比べ非常に弱い物になります。耐核熱装甲の戦車、装甲車等の弱点はここであり……」

 岩崎カエラは降参したようよ両手を上げて、島別府の説明を止めた。

「うーん、分かりました。填充材のチタニウムが検出されれは、接続されていた溶接の跡で、検出されなければ、高熱で切断した際の跡という事ね。でも、それでどうして、チタニウム合金での接合が、金属箱の加工の際の物か、それ以外の時の加工の物かが特定できちゃうんですか」

 島別府はゴム手袋をした手で金属板の端を指差した。

「ここの接合部分付近に付着している物質を試薬反応により識別すればいいんです。量子反転爆発のエネルギーによって、接合されていた金属板同士が無理矢理に引き離されたとすると、その速度は数万分の一秒レベルだと思います。その速さでチタニウム合金部分が融解しながら溶接が無効になったとすると、チタニウム合金を構成しているチタン、鉄、アルミニウム、クロムの分子結合の解除に伴って、対核熱反応金属の超合金に含まれる人工分子が引っ張られるはずなんです」

「うーんと……分かりやすく言うと、どういう事かしら」

「要するに接合部分から人工分子が染み出すということです。それが超低温化した皮膜の下に取り込まれていれば、それは、金属板が爆発の直前までチタニウム合金で接合されていたという証拠になります」

 小久保友矢が飲み込み顔で頷いた。

「なるほど……六つの金属板それぞれの全ての『辺』から人工分子の染み出しが確認されれば、あとは、金属箱を組み立てていた金属板の位置関係を証明するだけで、がっちりと溶接された金属箱の存在が立証できるという訳かあ」

 島別府は小久保の方を向いて、機械のようにコクコクと何度も頷く。頷き続ける島別府に、岩崎カエラは、また尋ねた。

「どうやって調べるの?」

 島別府は薬剤が入った小瓶を持ち上げて見せる。

「試薬を調合してきました。皮膜を削った下に反応が出れば、当たりです」

 岩崎カエラは島別府の手を握って喜んだ。

「ホントに? 島別府さん、最高!」

 霧吹きで薬剤を鉄板に吹きつけながら、小久保友矢が言った。

「島別府さんは、この試薬も作ってきてくれたんですよ。色素強調薬」

「なにそれ」

 島別府は岩崎に説明した。

「ピグメントの光反射率を組成物質ごとに変化させる薬剤です。とは言いましても、ごく微妙な変化ですし、本来、色素蛋白質を識別するのに使う薬剤を応用した物ですから、果たして、ご期待に沿う結果が出せるか……」

 すると、薬剤を吹きつけていた小久保友矢が、金属板を覗き込んで声を上げた。

「あれ? 主任。これ、見えます? この部分。少し周囲と濃淡が異なりますよね」

 小久保が示した部分を岩崎も覗き込む。

「うーん……ホントね。何か違うわね。もしかして、見つけちゃったかしら」

 角度を変えて金属板を覗き込んでいる小久保友矢は、険しい顔をした。

「でも、はっきりとしないですね。微妙だなあ……」

 島別府は泣きそうな顔で下を向く。

「すみません。私の力が及ばないばかりに……」

 小久保友矢は金属板を覗き込みながら言った。

「あ、いや、島別府さんのせいではないですよ。気にしないで下さい。主任、他の金属板も調べて見ましょうか」

 岩崎カエラは金属板に目を凝らしながら、さらりと答えた。

「そうね。全部持ってきてもらえる?」

「ぜ……は、はい。わかりました」

 小久保友矢は霧吹きをテーブルの上に置くと、渋々と保管庫の方に歩いていった。島別府のビュー・キャッチは、トボトボと歩いて行く小久保の背中を捉えていた。



                  三十二

「じゃあ、せーので。せーの……」

 金属板がステンレス製の机を叩く。島別府と二人で一枚を抱えて、残りの金属板を運び終えた小久保友矢は、息を切らしながら額の汗を拭いた。

「ふう。ちょっとした、筋トレですね、これ。島別府さん、どうも。重かったでしょ」

「いえ。私は手を添えていただけですから」

 島別府は下を向きながら、自分の席へと戻った。岩崎カエラは、テーブルの上に並べられた六枚の金属板に薬剤を吹きつけながら言う。

「ご苦労様。ねえ、小久保君、つかぬことを聞くけど、ここの司時空庁の人たちがこれを分析してた時期って、四、五年前までのことよね」

 小久保友矢は腰を叩きながら答えた。

「ですね。その頃、実際に対核熱反応金属が発明されたんで、これを研究する必要は無くなったと思ったんでしょうかね」

「このビュー・キャッチが市販されたのは、ついこの頃よね。去年のクリスマス前だったっけ」

「ええ。そうですね。それが何か」

 薬剤が入った霧吹きを横に置いた岩崎カエラは、嘆息を漏らした。

「はあ、司時空庁の人たちも、もっと気長に研究してれば、いろいろ分かったのにねえ。それに、島別府さんみたいな優秀な科学者がいる事を知らなかったのかしらね」

 小久保も島別府も怪訝な顔をしていた。小久保友矢が尋ねる。

「主任。どうしたんです?」

 岩崎カエラは、自分のワインレッドのビュー・キャッチを指差して言った。

「私ね、今、このビュー・キャッチの撮影モードを変換してるの。小久保君も自分のビュー・キャッチに設定画面を出して、『プロパティ』の『撮影モード』の所で黒色の識別感度を上げてみて。九十レベルくらいまで。それから、暗視モードにする。どう?」

 小久保友矢は言われた通りにビュー・キャッチの設定を変更した。彼は岩崎の方を見て言う。

「おお! すごい」

 岩崎カエラは慌てて胸元を両手で覆った。

「ちょっと、こっち見ないでよ。透けてるでしょ。金属板、金属板」

「ああ、はい。すみません」

 小久保友矢は、ピンク色のビュー・キャッチを掛けたまま、ステンレス製のテーブルに並べられた六枚の金属板を見回した。

「ホントだ。見えますね。コントラストが強調されて、煤の中に隠れていた影の形がはっきりとして見えます。こりゃあ、すごい」

「ね。島別府さんもやってみて。よく見えるわよ」

「もう、やっています」

 小久保友矢が一枚の金属板に顔を近づけた。

「これ、角っこの部分の跡じゃないですか? ――あ、こっちの板にも付いてるな」

 岩崎カエラは言う。

「たぶん、それ、熱で溶解したバイオ・ドライブの影が焼き付いてるんじゃないかしら。予想したとおりね。小久保君」

 小久保友矢は頷いて答えた。島別府の声がする。

「金属板で保護しきれずに、そのまま瞬時に溶解したバイオ・ドライブの一部分が、超低温化した耐核熱金属板に接触して、そのままの形で再凝固して付着した。それで、ちょうどフィルムが感光して像を焼き付けるように、金属板に影を残した。という事は、煤の中に紛れて……」

 金属板を見つめながら一人でブツブツ言っている島別府を、岩崎と小久保はビュー・キャッチを持ち上げて見つめた。二人の視線に気付いた島別府が俯いて言う。

「暗いと、よく言われます……」

 岩崎カエラは必死に手を振った。

「いや、そんな事ないですから。お互い、頑張りましょう、島別府さん。ね、小久保君」

「で、ですね」

 島別府は気を取り直したように顔を上げた。岩崎カエラが言う。

「とにかく、これで位置関係も明確になるわね。よし、この影を頼りに、金属板の接合を再現してみましょう。まず、これとこれは、この『辺』でくっつくのよね」

 小久保友矢は一枚の金属板を立てると、それを手で支えながら、隣の金属板の端を少し持ち上げた。

「ええと。主任、ちょっとここを持っていてもらえますか。ああ、左手でいいですから。動かしますよ。よっ。それで……こっちか。島別府さん。こう、立てておいてもらえます?」

「こっちの奴が、底に来るんじゃないかしら」

「ん? こうか、反対か? ああ、こうですね。そうすると……この曲がっているのが、たぶん……この位置ですよね。島別府さん、こちら側も押さえといてもらえますか。主任は、そっちの角を。で、残ったこれが蓋か。この向きかな。よっ。二人とも、指を挟まないようにして下さいね、上に置きますから。よいっしょっと」

 ステンレス製のテーブルの上に、金属箱が組み立てられた。岩崎と島別府が側面の金属板を支えている。小久保友矢も金属箱の角を支えながら、少ししゃがんだ。

「ちょっと、そのまま支えていて下さいよ。こっちの曲がってる鉄板の隙間から見てみますから」

 小久保友矢は、少しだけ反り曲がった板と板の隙間から、ビュー・キャッチで箱の中を覗いた。暗視撮影機能により、暗い箱の中も鮮明に見える。箱の角の隙間に顔を押し当てるようにして中を覗いている小久保に、岩崎が尋ねた。

「どう? 中に入っていた物体の形が分かる?」

「ええ。バッチリです。たぶん、B五サイズより少し小さいくらいの大きさですね。もう少し小さいかな? 上か下の半分が割れて、溶解して、今、主任が持っている方の角に当たって焼き付いたみたいです。――もう半分は、この板と、この板、それと底の板に挟まれる形になって、守られて、溶解を免れた。影は付いてませんけど、この三枚の金属板は、外側に比べて内側は綺麗ですからね。バイオ・ドライブとの接触部分に傷が残っているはずです。そっちの方に残っている半分の影を基にすれば、鉄板の傷跡から残り半分の予測画像を作れますよね。ちょっと、主任。替わりますから、主任も中を見てみてください。島別府さんも」

 小久保友矢は岩崎と入れ替わり、島別府と二人で金属箱を支えた。島別府が少しだけ頬を赤くして下を向く。岩崎カエラは、さっきの小久保のように箱の中を覗いた。

「ホントね。これで、バイオ・ドライブの立体再現ができそうね。樹脂で作った3Dモデルでも作ってみて、高橋博士の遺体の胸の痕とピッタリ一致すれば、ここに入っていたドライブが、高橋博士が保有していたドライブだと完璧に証明できるわね。あ、ネジの跡、みっけ」

 島別府が小久保の顔を見て言った。

「しかし、高橋博士の遺体に残された傷跡が再生されたバイオ・ドライブの跡だとしても、再生させたのは中身の生体ドライブ部分ですから、外装は新たに作られた物の跡である可能性もあるのでは」

 立ち上がった岩崎カエラが反論する。

「だとしても、もともとの製造者はNNC社なのよ。外装を取り替えたとしても、以前の外装と同じ形状にしているはずだわ。内部の生体ドライブの再生への影響を考えれば、外装は壊れる前のバイオ・ドライブの物と同じ形状の物にする必要があるから。それに、まずは、高橋博士の体に装着されていた生命維持装置がバイオ・ドライブだったという事が証明できればいいの。3Dモデルと遺体の四つ角の跡が一致すれば、『この中にあった物』と『高橋博士の体に装着されていた物』が同一形状の物体であったという蓋然性は極めて高くなるわ。『この中にあった物』がバイオ・ドライブであった事実は、ここの司時空庁の皆さんの分析で判明しているから、そうなれば、『高橋博士の体に装着されていた物』はバイオ・ドライブだったという事になる。バイオ・ドライブはこの世に二つしかないから。となると、西郷が過去に持ち去った物が『何だったか』は、とりあえずは、はっきりするでしょ」

 島別府は岩崎と替わり、箱の中を覗いた。重い金属板を組み合わせただけの箱を、小久保友矢が一人で抱かかえるようにして支える。暫らくして手を震えさせ始めた小久保友矢は、顔を紅潮させて言った。

「うーん。支えてるだけでも、重い。二人とも、録画は……もう、いいですか」

「オーケー。これだけの映像資料があれば、立体再現も簡単に出来ると思う。ありがと、小久保君」

「じゃあ、手を離しますよ。島別府さん、離れました? それから、テーブルの上の物、除けて、ください……」

 小久保友矢は気張り声を出す。

 岩崎と島別府はテーブルの上の霧吹きと薬剤の小瓶を退かした。小久保友矢が手を離す。金属箱は崩れ、倒れた金属板がステンレス製のテーブルを激しく叩いた。大きな音が響く。岩崎カエラは霧吹きを握ったまま、両耳を手で覆った。

「ふう」

 小久保友矢は手を振りながら息を吐く。そして、岩崎に言った。

「バイオ・ドライブの傷の痕までは、分かりませんでしたね」

「ていうか、傷が無いから、痕も無いんじゃないかしら。だとすると、やっぱりこれが、高橋博士がストンスロプ社に渡したバイオ・ドライブよね」

「まあ、傷跡が偽装されていたとしても、これらの金属板に接触した面とは反対の面だったのかもしれませんしね。おお、痛い。赤くなった」

 金属板の圧迫痕を残す小久保の掌を、横に寄った岩崎カエラが覗き込んだ。

「大丈夫? 切らなかった?」

「ええ。大丈夫です。ていうか、やっぱり重いですね、これ。あの永山って記者、よく一人でこんな物をポンポンと積み込めましたよね」

「神作くんから聞いたんだけど、彼、筋トレ・マニアなんだって。肉体派のムキムキ記者みたいよ」

「彼を責めるつもりはないですけど、何か、手掛かりを残しておくとか、考えなかったんですかね。そうしたら、こんな厄介な事にならなかったんですけどねえ」

「……」

 宙を見つめたまま返事をしない岩崎の顔を小久保友矢は覗きこんだ。

「主任? 聞こえてます。さっきの金属音、大丈夫でした? 鼓膜をやられたんじゃ」

「……」

 岩崎カエラは黙っていた。小久保友矢が小声で呟く。

「ていうか、このビュー・キャッチで、僕にはさっきから主任が下着姿にしか見えてないのになあ。分かってんのかな」

「ちょ、ちょっと、小久保君!」

「冗談ですよ。透視機能までは無いですから、そのスーツの上着の下までは見えませんって。黒が強調表示されてるだけですよ。こっちも見えてないでしょ」

「み、見えてるのよ。黒のブリーフがグレーのズボンの中にはっきりと……」

 岩崎カエラは顔を逸らした。小久保友矢は島別府の方を向く。島別府はテーブルの上の金属板に薬剤を塗りながら、慌ててビュー・キャッチを外した。小久保友矢は自分のズボンを見つめた。

「ま、マジですか……」

 岩崎と小久保は気まずそうにビュー・キャッチを外す。岩崎カエラは、小久保から視線を逸らして横を向いた。黙々と一人で作業をしている島別府に助けを求めるように、岩崎カエラは彼女に尋ねた。

「島別府さん、どうでした? 染み出した人工分子の検出の方は。何枚の金属板を調べたんですか」

 落ちた前髪をかき上げて、島別府は答えた。

「はい、数えます。いちまぁぁぁい。にいまぁぁぁい。さんまぁぁぁぁい。……」

 岩崎カエラは両肩を抱えた。

「こ、小久保君、ここ、エアコンが効き過ぎかな。寒い……」

 小久保友矢は岩崎に背を向けると、伸びをしながら言った。

「よーし。あとは、この金属板を改めて3Dスキャンにかけるだけかあ。じゃあ、主任。僕はスキャナーを組み立てますね。試薬試験が済んでいるものから、スキャニングしていきます」

 小久保友矢は機材ケースからホログラフィー用のスキャナーの部品を取り出し始めた。



                  三十三

 カラーチャートを手に持った島別府がデジタル顕微鏡で、試薬を塗った金属板の断面を覗き込んでいた。小久保友矢は組み立てたスキャナーで金属板をスキャンしている。岩崎カエラは、立体パソコンから投影されて空中に浮かんだホログラフィー画像の冊子に目を凝らしていた。仲野から受け取ったMBCに保存されているバイオ・ドライブについての分析資料である。暫らく司時空庁の分析結果を真剣な顔で読んでいた彼女は、ホログラフィー画像の頁を捲り終えると、目頭を押さえて、ゆっくりと首を回しながら言った。

「島別府さん。どうでした?」

「すべての金属板で反応が確認されました。どの切断面もチタニウム合金による溶接がされていた事は確かです」

「小久保君。スキャンは終わった?」

「はい。最後の一枚です。よっ。ふん。と。やっぱり、重いなあ」

 スキャナーの上に金属板を置いた小久保友矢は、読み取りのスタートボタンを押した。磁力で宙に浮いた金属板の周囲を、螺旋形のレールに沿って高感度カメラがするすると移動していく。それを追いかけるように、レーザー光線の照射装置が緑色の光を板状に発しながらレールを滑っていき、金属板の形状を細部に至るまで記録していった。スキャンを待ちながら小久保友矢は言った。

「主任。資料の方はどうでした? 牡丹餅は見つかりましたか?」

 ホログラフィー画像の頁を捲りながら、岩崎は答える。

「うーん。やっぱり、司時空庁は、ドライブの中の情報を引き出そうと必死だったみたいね。かなりいろいろと実験しているわ。コンピュータへの接続の仕組みの解析も、丹念にやっている。やっぱり、同じDNA構造を持つAB〇一八でないと、接続できないみたいね。原理上は」

 スキャンを終えた金属板をスキャナーから降ろしながら、小久保友矢は言った。

「そりゃ、よかったじゃないですか。ほとんど全部、解決しましたね。これで、やっと主任も家に帰れますね。よっこらしょ」

 小久保友矢が重そうに金属板を抱えて、隣の小部屋に歩いて行くと、機材を片付け終えた島別府が蓋を閉じたスーツケースを提げて立ち上がった。

「では、私はこれで。結果はデータファイルにまとめて、後で岩崎さんのデスクに送信します」

 岩崎カエラは顔を上げる。

「え? 帰っちゃうの? 島別府さんも一緒にご飯を食べて帰りましょうよ。もう、とっくにお昼は過ぎちゃってるし」

 金属板を保管庫に仕舞って戻ってきた小久保友矢も言った。

「そうですよ。関係も無い仕事を手伝ってもらった上に、試薬まで作ってもらって。せめてランチくらいは、ご馳走させて下さいよ」

 島別府は首を横に振った。

「いえ。これも仕事ですから」

「そんな言わずに。食べて帰りましょ。せっかく街まで出てきたんだから。パスタが美味しいお店があるのよ。天然のバジルとか使っていて、中の魚介類とかも全部が天然モノ。クローン海老とか人造イカとかは一切無し。ね、美味しそうでしょ。さっきの溶接の話とか、もっと教えて欲しいしさ」

 島別府は下を向いて小さな声で言う。

「遠慮します。私、外で食事するのが苦手なので。それに、お昼は一杯の掛け蕎麦と決めていますから」

「ああ……じゃあ、お蕎麦屋さんにしましょうか。ねえ、小久保君」

「あ、いいですね。山菜てんぷらのセットとか。秋はやっぱり和食ですからね」

 島別府は、もっと小さな声で言った。

「ダイエット中ですので」

「気にしない、気にしない。秋に食べておかないと、冬の寒さに耐えられる体にならないわよ」

「主任、冬は冬に食べとかないと春からのスムーズなスタートが切れないとか、春に食べとかないと夏の暑さを乗り切れないとか、夏食べとかないと秋の気温の変化に対応できないとか、結局、ずっと食べてますよね。そろそろヤバイんじゃないですか」

「うるさい。旨い物は旨いんじゃ。ほっとけ。私は秋の味覚をしっかり堪能します。はい」

 小久保友矢が口を大きく開けた。

「ああ! 秋の味覚って言えば、昨日のお弁当。あれ電子レンジの中に入れっぱなしじゃないですか、もしかして」

 岩崎カエラは額を押さえて天井を仰ぐ。

「あちゃー。しまった。もう傷んでるか。まだ暑いもんね。せっかく小久保君が買ってきてくれたのにね。ごめーん」

「はあ、もう。それなら僕が食べればよかったなあ。豊水牛のヒレステーキ」

「今度、あの大男に会ったら、治療費の他にお弁当代も請求しないといけないわね。覚えとこ」

「それ、請求するのは僕でしょ」

「食べ損なったのは、私ですう。あ、でも栗はまだ食べられるわよね。帰ってからでも、大丈夫よね」

「僕が言うと、また怒られそうですけど、主任、それだけ食い意地が張っていて、どうしてその体形を維持できてるんですかね。なんか反則してるんじゃないですか」

「し、してないわよ。失礼ね。頭をフル回転させてるから、カロリーを摂ってもバンバン消費してるのよ。ていうか、上司に体形の話する? 今のは完璧に減点評価ね。マイナス二十点」

「うわ。何かこの頃、点の刻み方が増えてませんか。前は十点ずつだったのに」

「セクハラのレベルが上がれば、点の刻み方も上がって当然でしょ!」

 軽快に会話を続ける二人の顔を交互に見ながら、島別府は少し哀しげな顔で口を開いた。

「あの……やっぱり、私、帰ります。私が居ると、ご迷惑になりそうですから」

「何で? そんな事ないってば」

「いえ。私、暗いですから」

「そんな事はありませんよ。島別府さん」

「帰ります。では」

 島別府は御辞儀をすると、パイプ椅子の横の紙袋を手に取って、椅子をテーブルの下に戻した。岩崎カエラは眉を寄せて言う。

「そう……残念ねえ。じゃあ、今度、科警研の職員食堂で一緒に食べましょうね。お蕎麦をご馳走させて下さい」

「はい。楽しみにしてます。失礼します」

 再度一礼した島別府は、出口に向かう足を止めた。 

「あ、岩崎さん」

「ん?」

 岩崎の横にやってきた島別府は、岩崎に小声で耳打ちした。

「お二人、お似合いだと思いますよ。ものすごく。だって……」

「ちょっ……」

 岩崎カエラは島別府から頭を離し、小久保の視線を気にした。小久保友矢はちらりとこちらを見ていたが、すぐに背中を向けて、スキャナーを分解し始めた。島別府はスタスタと小走りで外に出て行く。彼女はそのままゲートをくぐり、帰って行った。岩崎カエラは怪訝な顔で島別府の背中を見送った。小久保友矢がスキャナーを分解しながら尋ねる。

「ん? 何ですか、何て言われたんですか? 主任」

 岩崎カエラは少し赤く火照った顔を手で扇ぎながら言った。

「いいから、早く片付けなさい。ここ、狭いし暑いでしょ。早く出るわよ」

 小久保友矢は首を傾げると、再びスキャナーを分解していく。岩崎カエラは落ち着かない様子で、立体パソコンの上のホログラフィー画像の頁を捲ったり戻したりしていた。



                  三十四

 岩崎と小久保は、有多町の裏通りのオーガニック・レストラン「サノージュ」に来ていた。ここは、無農薬栽培された野菜や自然繁殖の肉牛や鶏肉、天然の魚介類などを使った料理で有名な店である。ランチタイムは少し過ぎていたが、店内は相変わらず混んでいて、どのテーブルも本当の食材の味を楽しむ客で埋められていた。岩崎と小久保は、壁際の小さなテーブルに座っている。開いたメニューを眺めながら、岩崎カエラが言った。

「ここ。美味しいのよお。向かいのカフェのホットサンドも美味しいけど、小久保君には、ちょっと足りないかもね」

 小久保友矢は、店内を見回しながら言った。

「結構、混んでますね」

「お昼時は、官庁街のOLさん達に大人気だからね。その時間を避けて、後から来る常連も多いのよ」

「ふーん。よく来るんですか?」

「たまにね。本庁に出てきた時とか」

「昨日は、何処で食べたんです?」

「警視庁ビルのレストラン街。リコちゃん、ほら、善さん所の部署の村田リコちゃん、彼女と一緒に野菜たっぷりのヘルシーなランチを食べたの。やっぱり、若い子はたくさん食べるわねえ」

「ここには来なかったんですか?」

「うん。次は小久保君と来るつもりでいたからね。一昨日の『心路楼』のお詫びに。三人には悪いことしたけど」

「それはもういいですけど、三人って?」

「オリジナルのウエモンとサエモンも一緒だったのよ。リコちゃん達と一緒に、いい女になる生き方を、たっぷりとレクチャーしてあげたわ」

「ありゃあ。村田さんはともかく、ウエモンとサエモンは、下別府さんに再チェックしてもらわないといけませんね。経験した現実と聞いた話に矛盾点が多すぎて、論理計算に狂いが生じたかも」

「ええと。小久保君は目玉焼き単品でいいかな。私は『旬のシーフード・パスタ』にコーヒーとヨーグルト味のムース……」

「ジョークですよ。ジョーク」

「分かってるわよ。好きなもの頼んで。ほら、天然アワビのステーキセットとかあるよ」

「いや、こんな高価なのはいいですよ。僕はカルボナーラとサラダのセットで」

「ええー。小食う。男の子なんだから、ガッツリ行きなさいよ。この茸のオムライスとステーキのセットは?」

「いや、じゃあ、主任と同じもので。ご馳走になる身ですから。それに僕、今、マイナス十点の評価ですし」

「言ったわね。私と同じものでいいのね。そうか、そうか。――すみませーん」

 岩崎カエラは手を高く上げて、店員を呼んだ。端末を持ってやってきたウエイトレスに、岩崎カエラは注文を告げる。

「ええと、じゃあ、『旬のスタミナセット』二つ。ひとつはシーフードピラフを大盛りで。デザートはティラミスと、焼きプリン。いや、待って。こっちは、この『梨大福のカラメルソース添え』にするわ」

 小久保友矢は小声で独り言を漏らす。

「こりゃ、出血しても元気なはずだ……」

 ウエイトレスが端末に入力を終えると、岩崎カエラは満足そうな顔でメニューを閉じた。



                  三十五

 注文した料理を待ちながら、岩崎カエラは道路に面した壁一面の窓ガラスの方をずっと見ていた。小久保友矢は岩崎の視線の先を探る。

「ん。どうしたんです? 主任」

「ねえねえ、小久保君。あの窓際のテーブルに座ってる二人。どう思う?」

「どう思うって?」

「弁護士よね。しかも、女の子の方はまだ若手ね。バッヂがピカピカの金色だもの。しかし、服装が派手ねえ。もう少し、さり気なく大人の女を演出できないのかしら。今のところ、若さしか武器が無いって感じね」

「どう見ても、主任と同じ系統じゃないですか。後半部分以外は」

「ん?」

 岩崎カエラは小久保を見た。小久保友矢は視線を逸らす。

「いえ、何も」

「あの二人、カップルかしら。お昼のランチタイムをずらして、こんな所で会っているところをみると……不倫ね。きっと、『いけないオフィスラブ』って奴よ。新米若手弁護士と指導役の中堅弁護士のいけない恋。『なあ、この前の法廷での君は、すごく魅力的だったよ』、『まあ、先生こそ、この前の証人尋問、かっこよかったですわ』……とか」

「何言ってるんですか。やめて下さいって。うわ、目が合った」

 その窓際のテーブルに座っていた二人のうちの若い女の方と視線が合った小久保友矢は、慌てて視線を岩崎に戻した。岩崎カエラも視線を戻す。小久保友矢が呆れ顔で言った。 

「主任。本当にオバチャンに成りかけてきたんじゃないですか」

「大丈夫よ。余裕、余裕」

 すると、その若い女の弁護士が席から離れ、店の出入り口の方に小走りで移動した。彼女が鳴らすヒールの音に驚いて、岩崎カエラは一瞬、両肩を上げる。恐る恐る音の方に視線を向けた岩崎カエラは、その若い女の弁護士がシャツの胸元にイヴフォンを取り付けながら店から出て行ったのを見て、頬を膨らませた。

「何よ。ビックリするじゃない、もう。若くて美人だからって調子にのんなよ。いー」

 岩崎カエラは、店の外に出てイヴフォンで通話している若い女の弁護士に歯を剥いた。小久保友矢は岩崎の表情をじっと観察していた。

「主任……」

 顔を向けた岩崎に、小久保友矢は口角を上げて見せた。

「でも、これで一安心ですね。とりあえずは」

「何が?」

「例の物ですよ」

 小久保友矢は、声を出さずに口だけ動かして「バイオ・ドライブ」と言う。岩崎カエラは周囲を少し見回して、小久保の用心に合わせた。

「ああ。――うん」

 小久保友矢は「バイオ・ドライブ」という語を言い換えて、少し声を小さくして言う。

「高橋の『例の物』が、爆心地の金属箱に入れられていた事も、その『例の物』が高橋の胸に付けられていた事も証明できそうですもんね。スキャナーで取り込んだ情報と、三台のビュー・キャッチで撮影した画像を基に3Dで再現すれば、その『例の物』に傷跡が無かったと言う事も証明できるかもしれません」

「金属板に投影されなかっただけかもよ。それに、投影されていたのは半分だけだし」

「まあ、そうですね……」

 小久保友矢はコップの水を飲んだ。岩崎カエラは冷静だ。小久保友矢は、そう思いながら岩崎の顔を見た。岩崎カエラは言う。

「何か、高橋博士の物だったという目印になるものが有るといいんだけど。何か思いつかない?」

「そうですねえ……うーん、目印かあ……」

「ネジの跡が確認できたのよ。それからネジの大きさや種類を特定できるはず……あ、そうか。どちらの物も同じ種類のネジを使っていたはずよね。外観も製造者も同じだもんね。駄目かなあ」

「ですね。シリアルナンバーの跡とかは残っては……いないですよねえ。この世に二つしかない物に、わざわざ製造番号は付けないですもんねえ」

 その時、店の出入り口の方で鐘が鳴った。岩崎カエラが反射的に顔を向ける。出入り口のドアに取り付けられた鐘だった。さっきの若い女の弁護士がイヴフォンを仕舞いながら戻ってくる。それを見た岩崎カエラは、胸に手を添えて小さく息を吐いた。岩崎の様子を見ていた小久保友矢が言う。

「司時空庁の実験資料の方に、何かありませんでした?」

 岩崎カエラは小久保に返事をすることなく、店内を見回している。

「主任? 聞いてます?」

 岩崎カエラは小久保の方を向いた。

「ああ、実験資料ね。うーん、どうだろ」

「外見の特徴から特定する事が出来ないとなると、データの書換え、あるいは捏造の事実を直接に証明するしか手が無いと思うんですよ。発見された『例の物』の焼け残りから、内部に何らのデータも書き込まれていなかったとか、ドライブ内の神経ネットワークの再現は不可能だったという事が分かる資料はないですかね」

「一番重要な部分が証明できていない訳かあ……うん、分かった。資料の方をもう一度よく見てみる。司時空庁の人たちが気付かなかった何かが有るはずよね」

「こういうのはどうなんでしょう。AB〇一八に接続するしか入出力する方法が無いという司時空庁の研究成果を援用できれば、中の設計図データなどは田爪が書いたものでは無いという事の証明が完了するんじゃないですかね。だって、南米のジャングルの中では、書き込みは出来なかったはずですからね」

「うーん。そうなると、田爪博士が嘘をついたという事になっちゃうわねえ……」

「主任……」

 小久保友矢は眉を寄せた。彼が何かを言おうとした時、さっきの窓際のテーブルの方から、男の大声が響いた。そのオーバー・チェックの背広を着た男は、向かいの席に座っているさっきの若い女の弁護士に強い口調で怒鳴った。

「――あなたは、その頭脳と、口と、手と、足と、そしてその襟元のバッジを、いったい何のために使うべきだと考えているのですか!」

 岩崎カエラは首を竦めて小声で言う。

「はい。すみません。預金の計算と御飯と化粧と、男を惑わす事に……」

「主任の事じゃないですよ。だいたい、そんな事に使ってるんですか。がっかりだな」

「冗談よ、冗談。なにあの人、レストランで大声出してんのよ。しかも、背広が派手だし。目立ちたがり屋なのかしら」

「聞こえますよ、主任。見ない方がいいですって。あの人、怒ってるみたいですから」

 小久保が忠告しているにも拘らず、岩崎カエラはその窓際のテーブルの二人を観察し続ける。暫らく観察して、彼女は言った。

「あーあ、怒られちゃった。どうしたんだろ。さっき、違う男とでも電話してたか。うーん、まだまだ青いわね」

「またあ。もう、見ない、見ない」

「いいじゃないよ。あ、男の方が帰るわよ。やーい、フラれたな」

「それより、主任。後ろのあの男、昨日の大男じゃないですか?」

「え! うそ。何処?」

 振り返って店内を見回す岩崎に小久保友矢は言った。

「嘘ですよ。実は、相当にビビッてますね」

「あ、当たり前でしょ! もう少しで、殺されるところだったのよ。ここよ、ここ。あと二度、弾の進行角度が違ってたら、どうなってたと思うのよ! 今頃、小久保君は私の親戚と一緒に精進料理を食べていたかもしれないのよ。分かる?」

「分かりましたから、落ち着いて。声がデカイですよ」

 岩崎カエラは真剣な顔で小久保を睨み付けた。小久保友矢は頭を下げる。

「すみませんでした。――でも、大丈夫ですか、傷の方は」

「うーん。薬が効いているのね。こうしてる時は、あまり痛くない」

「いや、そうじゃなくて、こっちの傷です」

 自分の胸を指差した小久保友矢は、心配そうな顔で岩崎に言った。

「さっきから随分とナーバスになっているみたいですけど」

「ごめん。気をつける。でも、急にみんな居なくなっちゃうし……」

 岩崎カエラは不安そうな顔で窓の外の通りを見た。小久保友矢も外を見ながら言う。

「護衛の警官さん達ですか? そうですよね。まあ、あのマル暴のトラックと軽武装パトカーは居ますから、大丈夫ですよ。でも、SATとか公安の人たちは、急に居なくなりましたね。ヘリもさっきまで旋回してたのに。どこに行ったんだろう。何か事件でも起こったんですかね」

「非番の人たちも居なくなったって事は、緊急招集がかかったって事でしょ。だとすると、かなり大掛かりな捜査体制よね。あの大男が見つかったのならいいけど……」

 岩崎カエラは、窓際のテーブルに一人で座っているさっきの若い女の弁護士に目を遣った。その若い女はテーブルの上に置かれたパスタに手を付けること無く、下を向き、肩を震わせている。薄茶色の前髪に隠れた顔から、大粒の涙がポトポトと落ちていた。岩崎カエラは眉間に皺を寄せて、その若い女を見つめた。

 小久保友矢は、そんな岩崎の表情を見て言う。

「心配しなくても大丈夫です。主任の事は僕が守ります。僕、これでも柔道は黒帯ですから」

 岩崎カエラは小久保に顔を向けた。

「本当? どこで習ったの? 軍隊?」

「いえ、あそこは機械兵器の保守点検をしていただけですから。アルバイトみたいなものでした。戦闘の訓練は一切受けていません」

「じゃあ、学生の頃?」

「ええ。中学の時に、通信教育で」

「駄目じゃん」

 岩崎カエラは肩を落として項垂れた。小久保友矢は胸を張って言う。

「奴が現われたら、バシッと投げ飛ばしてやりますよ」

 岩崎カエラは、体を硬直させたまま何時までも料理に手を付けない窓際のテーブルの女を気にかけながら、呟いた。

「それは頼もしいわね。ある意味で、好奇心に駆られるわ」

 そこへ、ウエイトレスが料理を運んできた。小久保友矢が窓際のテーブルの方を向いている岩崎の顔の前で手を振る。

「あ、ほら、来ましたよ。『旬のスタミナセット』。旨そー!」

「お待たせいたしました。『旬のスタミナセット』でございます。ええと、大盛りのお客様は……」

「そっちに決まってるでしょ。何で訊くのよ。ていうか、私の方に置こうとしたでしょ」

「まあまあ。すみませんね」

 岩崎を宥めて、ウエイトレスに謝った小久保友矢は、早速ナイフとフォークを握ると、嬉しそうに言った。

「いっただっきまーす」

 岩崎カエラもナイフとフォークを手にすると、窓際のテーブルの女に目を向けた。その若い女は、涙で腫らした赤い目でテーブルの上のパスタを見つめたまま、じっとしていた。

 岩崎カエラは彼女の事を気にしながら、視線を戻し、小久保に尋ねる。

「ねえ、小久保君。小久保君は、どうして警察に入ったの? 小久保君って、たしか、大学も大学院も飛び級だったし、工学博士号も最年少で取得したのよね。それだけ優秀なら、民間企業や研究機関から引く手数多だったんじゃない?」

 小久保友矢は食べながら答えた。

「子供の頃に、僕、電気オタクだったんですけど、その時に友達だったオッサンがいて、その人が警察官だったんです。その人の捜査に、興味本位でちょこちょこ協力していたんですけど、何となくその流れで、こういう道もいいかなって。それで」

「ふーん。その人は今も警官なの?」

「いえ。殉職されました。僕がこの仕事に就く前に」

「そう……。残念ね。今の小久保君の活躍を見たら、さぞ喜んだでしょうね」

 小久保友矢は少し鼻を啜ったが、ナイフとフォークを皿の上に置くと、壁際に置かれた塩の瓶を手に取り、その蓋を回しながら言った。

「どうですかね。褒めてくれるような人じゃなかったですから。口は悪いし、短気だし。ああ、三木尾警部、彼は、そういう所がそっくりですよ。ちょうど、あんな感じです」

「あ、そういえば、善さんに、ここまでで分かった事を教えといてあげなきゃね。向こうも何か私たちの役に立つ情報を得ているかもしれないし。帰りに警視庁ビルに寄ってみようか」

 小久保友矢は、サラダの上で逆さにした塩の瓶を何度も振りながら答えた。

「そうですね。オリジナルのウエモンとサエモンの事も気になりますし。あれ、この塩、出ないな。潮解しちゃってるのかな」

「潮解……って何だったっけ」

 諦めて蓋を閉めた小久保友矢は、その瓶を元の位置に戻しながら答えた。

「水に溶けやすい結晶が、空気中の水分を吸収して溶けてしまう現象です。よく安物の食卓塩とかが、中で固まって出てこない事があるじゃないですか。あれですよ。安物の食卓塩とかは、塩化ナトリウムに水分吸収率が高い塩化マグネシウムを混ぜてカサ増ししているので、潮解が早くなって低湿度でも溶けてしまうんですよ」

 小久保が戻した塩の瓶を手に取った岩崎カエラは、その瓶に印字された成分表を読みながら言った。

「ふーん。化学ばけがくかあ。でも、ここは『ナチュラル』が売りのレストランだから、野菜は全てオーガニックで有機物栽培した食材しか置いてないし、自然調味料への拘りもすごいはずよ。純正の自然調味料しか使ってないはずだけど。たぶん、この塩だって、海水から生成したものでしょ。だったら、副産物の塩化マグネシウムは、ちゃんと取り除かれている物を置いているはずだけど……。ほら。ちゃんと、塩化ナトリウムだけ」

 岩崎カエラは瓶の側面の成分表を小久保に見せた。小久保友矢は岩崎から受け取った瓶の成分表を読んで確認しながら言う。

「じゃあ、古いんですね。潮解が起こる湿度は、水酸化ナトリウムが八パーセント前後なのに比べて、塩化ナトリウムは七五パーセント前後ですからね。つまり、日本だと梅雨時の湿度じゃないと潮解は起こらないんですよ。ってことは、この塩は五月か六月、遅くても台風時期の八月頃から置きっぱなしって事ですもんね。今年は、春から雨が少なかったから、もしかしたら去年の梅雨からかもしれませんね。こりゃ、随分と古い塩だな……」

 小久保友矢は瓶を元に戻した。彼は、せっかく岩崎が連れてきてくれた店にケチを付ける発言をしてしまった事を悪く思い、彼女の方に目を遣った。

「いやあ、でも料理は美味しいですから、何も問題は……」

 岩崎カエラはナイフとフォークを握ったまま眉間に皺を寄せ、一点を見つめていた。彼女は呟く。

「有機物……」

「ん? どうしたんですか。食べないんですか?」

 岩崎カエラはナイフとフォークを下ろすと、少し興奮気味に小久保に言った。

「有機物よ、小久保君! 有機化合物。炭素が含まれてる」

 小久保友矢はステーキを切り分けながら頷いた。

「ええ。分かります。でも、それがどうしたんです?」

「バイオ・ドライブは生体よね。生体模倣技術を用いて、人の手で作られた。つまり、有機化合物。炭素が含まれているんじゃないかしら」

 頬張ったステーキを咀嚼しながら暫らく考えていた小久保友矢は、ナイフとフォークを持った手をテーブルの上に置いた。

「まさか、アイソトープですか」

「そう。炭素の同位元素。カーボン・フォーティーンよ。生体なら、それが一定量は含まれるはずよね。炭素の原子量は、普通は十二。でも、そのアイソトープの原子量は十四。自然界の炭素としては不安定。だから、元の原子量十二に戻ろうとして放射線を放出する。対核熱反応金属って、放射線に反応して超低温化するんでしょ。量子反転爆発で溶解したバイオ・ドライブの半分が金属板に焼き付いていたって事は、その組成分子も付着しているって事じゃない。しかも、超低温化したアモルファス皮膜に保護されて再結晶化している可能性が高い。炭素の同位元素も一緒に閉じ込めているとしたら、その放射線量を測定すれば、バイオ・ドライブが製造されてからどれくらいの期間が経っているか分かるはずでしょ。だから、カーボン・フォーティーン法で金属板に付着した放射線同位元素の量を調べる事ができれば、金属箱の中にあったバイオ・ドライブが田爪博士の物だったのか、高橋博士の物だったのか、確定させる事が可能じゃないかしら」

「主任。声が大きいですよ。しー」

 小久保に注意され、岩崎カエラは声を潜めた。

「ごめん、ごめん。でも、高橋博士のバイオ・ドラ……『例の物』も、田爪博士の『例の物』も、同じ時期に製造されているんでしょ。製造から二十年ってところかしら。まあ、二十年だとしましょう。そのどちらかが、これからタイムマシンに乗せられて、そのまま二〇二五年に爆発現場に移動するとすれば、爆心地で見つかった物は、そこから更に十三年を経ている。だから、合計すると製造から三十三年」

「なるほど。二台の間では、経過年数に差があるという事ですね」

「そう。しかも、永山記者がタイムマシンに乗せた方が、一旦過去で回収されて現在まで保管されてきたとすると、その分も多く時間が経過している。つまり、三十三年以上に古い。ええと、ちょっと待ってね、整理するから」

 岩崎カエラは上を見て、暫らく思考していた。彼女は大きく頷いた。

「そっか、こういう事かあ。もし、検出されたアイソトープ量から、爆心地で発見された物が三十三年よりも大きい経過年数だと分かれば、それは田爪博士がデータを入れたものね。しかも、一度、過去に飛んでいる。三十三年という結果が出た場合は、高橋博士のからのドライブである可能性が高い」

 小久保友矢は眉間に縦皺を刻む。

「ん? どういう事です。もう少し詳しく説明してくれませんか」

 岩崎カエラはナイフとフォークを皿の上に置いた。

「あのね。まず、私たちの推論は置いておきましょう。それで、考えられるパターンとしては、過去に飛んで回収されたマシンが現在まで保管されて二〇二五年に送られる場合と、過去に飛ばずに直接日本にワープして、それが二〇二五年に送られる場合、それから、南米から直接二〇二五年の爆心地に飛んだ場合、この三つが考えられるわよね」

「ええ」

「数式に置き換えてみましょ。一度、何年か前の過去に飛んだ場合、それをX年前とするならば、Xはゼロより大(X>0)よね。ワープした場合と直行した場合は、Xイコールゼロ(X=0)。三つのパターンそれぞれの場合で、例の金属箱に入れられていた物が田爪博士の物だった場合と、高橋博士の物だった場合に分けてみるの。まず、一度X年前に飛んだ場合、爆心地で発見されたものが田爪博士の物だっとすると、その経過年数は二十プラスXプラス十三(20+X+13)年。高橋博士の物は、そのままだから二十年。一方、爆心地で発見されたのが高橋博士のものだったとすると、田爪博士の物の経過年数は二十プラスX(20+X)年」

「どうしてです? 二〇二五年から十三年が経過しているのに」

「次の二点がはっきりしているからよ。第一点は、南米を出発した時点では、田爪博士の物が乗せられていたという事。第二点は、二〇二五年の爆発直前には、人為的に加工された金属箱が載せられていたという事。爆心地で発見された物が高橋博士の物という場合の検討だから、到着したⅩ年前から二〇二五年に向けて再出発するまでの間に、最初に載せられていた田爪博士の物が高橋博士の物と入れ替えられたって事でしょ。そうすると、田爪博士の物はX年前に到着したマシンから回収されてから現在までの年数しか加算されないから、もともとの二十年にX年が足された年数しか経っていない。一方、爆心地で発見された高橋博士の物は、これまで保管されていて、これから二〇二五年に送られて、そこから今まで十三年が経過しているから、二十プラス十三(20+13)年って事になるじゃない」

「ああ、そうか。そうですね」

「で、次。ワープした場合。過去には戻っていないから、Xイコールゼロ(X=0)でしょ。爆心地で発見された田爪博士の物は、二十プラス十三(20+13)年。田爪博士の物は、そのままだから二十年。もし、発見された物が高橋博士の物なら、その逆。田爪博士の物が二十年で、高橋博士の物は二十プラス十三(20+13)年。そして、最後に直行した場合。この場合は、高橋博士の物が二〇二五年の爆心地に行く事はあり得ないから、田爪博士の物が南米から直接二〇二五年の爆心地に行って発見された場合のみ検討すればいい。田爪博士の物は、やっぱり二十プラス十三(20+13)年で、高橋博士のものは、そのままだから二十年」

 岩崎の説明を聞きながら考えていた小久保友矢は、話を整理した。

「ええと、結果として五つのパターンがあって、発見された物の経過年数だけを見ていくと……二十プラスXプラス十三(20+X+13)年が一つと、残り四つは二十プラス十三(20+13)年かあ……。後者の場合、田爪博士の物である場合と高橋博士の物である場合が、それぞれ二パターンずつ考えられますから、五分五分で、どっちの物か特定できないんじゃないですかね」

「でもね、さっき言った既に判明している二点を考えれば、田爪博士の物が二〇二五年に直行したって事も否定されるのよ。だって、どこかで一度、金属板を外に出して箱形に形成しないといけない訳だから」

「そうかあ。そうすると、全体で四パターンですね。そのうち、二十プラス十三(20+13)年、つまり三十三年となるのは三パターンで、内訳は、発見された物が田爪博士の物であるパターンが一つと、高橋博士の物であるパターンが二つかあ……」

「ね。確率三分の二でしょ。検出されたアイソトープから測定される数値が三十三年より大きければ、爆心地で発見されたのは田爪博士の物だし、三十三年なら、六十六パーセントより大きい確率で高橋博士の物って事になる。たぶん、三十三年っていう数値が測定されるんだろうけど、中身が空だった蓋然性が六十六パーセントを超えるという鑑定結果なら、十分だと思うの。だって、確かに場合分けによれば、三分の一の確率で田爪博士の真正なデータが入っていた物だと言う事だけれど、それは形式的な計算結果でしょ。実際に、それを爆心地に送ったなんて考えられないし、上としてもそう考えるわよ。そしたら、あとはGIESCOを強制捜査して、隠してある現物を測定するだけじゃない。ほら、捜査の必要性が出てきた」

「どうかなあ……。確かに、三十三年を超える数値が出なければ、もう一つの現存する方を測定してみる必要性は出てきますね。あのマシンが過去に飛んだのか、ワープしたのかを調べるために。だけど、それだけで強制捜査の必要性が説明できますかね」

「できるわよ。危険な光線銃の設計図を入れたドライブが爆心地で消失したのか、今もどこかで保管されているのか、その可能性だけでも明確にしないといけないじゃない」

「うーん。でも、カーボン・フォーティーン法は動植物の活動停止時期、つまり死期を測定する方法ですし、化石や遺跡の建材などの年代調査に利用されることもありますけど、それは、炭素の同位元素が二酸化炭素として光合成の際に植物内に入って、それを動物が摂取するから生き物の化石の年代測定にも使える訳で、バイオ……いや、『例の物』は生体といっても、食事する訳ではないですからね。どうなんでしょう」

「でも、有機化合物である事には間違いないでしょ。という事は、炭素原子は必ず含まれている訳だから、何がしか、同位元素も含まれているんじゃないかしら。それに、製造段階で、何らかの栄養注入はしているはずよ。生体なのだから。その際に炭素の同位体を取り込んでいる可能性もあるじゃない」

「だとしても、ものすごく微量ですよね。ただでさえ、検出が難しいのに……」

「でも、その微量の放射性同位元素に対核熱金属が少しでも反応していたら、その反応で超低温化して結晶化した部分が、周囲の結晶化した部分とは時間的にズレを生じさせているはずでしょ。その違いから、放射性同位元素の量を逆測定する事も出来るんじゃないかしら」

「ああ、なるほど……ピンポイントでアイソトープの放射線量を計測できる訳かあ。主任、やっぱり頭いいですね。それなら可能かもしれません。やってみましょう」

「でも、そうなると、さっきの金属板を司時空庁から借り出さないといけないわね。あの狭い部屋の中に簡易機材を持ち込んで出来る作業じゃないものね」

「警視庁に押収してもらったらどうでしょう。どうせ、僕らが提出を求めても司時空庁は応じてくれないでしょうから。裁判所から捜索差押令状が取れるだけの説得力ある説明が出来れば、後はこっちのものですよね」

「そうね。別の有機化合物と耐核熱金属板で実験してみて、実際にカーボン・フォーティーン法で年代測定が可能か試してみましょうか。そのデータを揃えれば、あとは善さんがやってくれるでしょうから、そのままトントンと進むかもね」

「やりましたね。突破口を見つけたって感じですね。なんか、行けそうな気がしますもんね、これ」

「そうね。これだから、科学捜査はやめられないわ。科警研、楽しー」

 岩崎カエラは無邪気にはしゃいで見せた。

 小久保友矢はエビフライを頬張りながら尋ねる。

「主任。主任はどうして、科警研に就職したんですか。やっぱり、神様のお告げとか」

 シーフードピラフを食べていた岩崎カエラは咽た。水を飲んでピラフを飲み込んでから言う。

「何よ、それ」

 小久保友矢は岩崎に視線を向けずに、ステーキを切りながら尋ねた。

「就職した時は、旧首都だったんですか。東京の科警研」

「そうね。第二回東京オリンピックの前に、何度かテロが起きたじゃない。あの時の捜査に協力したのがきっかけと言えば、きっかけね。まだ、大学院で研究生だったんだけど、その時に私の前に現われたのが……」

「例の神様」

「残念。当時、公安にいた三木尾警部補よ。そりゃあ、もう、恐かったわよ。あの頃の善さん。善さんなんて呼べたものじゃない。今は随分と丸くなったわよねえ」

「へえ。じゃあ、三木尾警部とは、科警研に入る前からの仲なんですね」

「まあ、そうなるわね。もう随分と長いつきあい……ああ、いけない。歳を実感しちゃうわ。忘れなきゃ。忘れなきゃ。私は女子大生、私は女子大生、私は女子大生。よし」

「どういう感覚で生活してるんですか。まったく。心配しなくても、主任は見た目もすごく若いですから、大丈夫ですよ」

「え、本当? じゃあ、私達、カップルに見えるかな?」

「たぶん、そう見えるかもしれませんね。少なくとも、今日こうして主任とランチを共にした事で、僕が今度の警察職員野球大会で、全打席デッドボールで出塁する事は確実です。ああ、どうか科警研チームがSATのチームとだけは当たりませんように。あの人たち、手加減しないから」

「そんな事はないわよ。小久保君、気にし過ぎ」

「主任は、自分が『モテる』っていう自覚がないんですか。すごいんですよ。本当に」

「そうかあ。じゃあ、試してみようか。はい、小久保君。あーんして」

 小久保友矢は、向こうの窓から見える路上駐車している車を見ながら言った。

「やめてください。軽武装パトカーの屋根の小銃で蜂の巣にされそうですから。ほら、運転席の警官が、物凄い目で僕の事を睨んでるし」

「ええ。じゃあ、私とは結婚できないじゃない」

「ゴホッ。ゴホッ」

 水を一口飲んだ小久保友矢は言った。

「どうせ、本気じゃないんでしょ。分かってますよ。それ」

 小久保友矢は岩崎のスーツの胸ポケットを指した。

「――?」

 岩崎カエラは自分の胸ポケットを見て、小久保に顔を向ける。

 小久保友矢は少しだけ尖り顔で言った。

「イヴフォンですよ。いつも見てる脳内画像。たぶん、初恋の神様の画像でしょ。違います?」

 自分の胸ポケットのイヴフォンを見るふりをして、岩崎カエラは小久保から視線を逸らした。

 小久保友矢はステーキを切りながら言う。

「ま、いいですけどね。視覚野を傷めないよう気をつけてさえくれれば。主任が、その初恋の人の科学者としての名誉を守ろうと、この一ヶ月、必死で頑張っている事も分かってます。彼が偽物の科学データを作るはずはないし、記者に嘘の告白もするはずがない。だから、それを証明しようとしているんですよね。その初恋の人は南米で死んでしまった訳ですから、もう僕は勝てませんし、大好きな主任が一生懸命に取り組んでいるから、僕も全力でそれを後押ししているんです。主任の喜ぶ顔が見たくて。そこの所、よく分かっといて下さいよ。毎回の加点評価が低過ぎますからね。今時、無事故無違反者の自動車税の減税ポイントでも二十五点は貰えるんですから。頼みますよ」

 小久保友矢は大きめの肉片に噛みつくと、口の中に押し込んだ。

「小久保君……」

 岩崎カエラはナイフとフォークを握った手をテーブルの角に置いたまま、小久保の顔を見つめていた。小久保友矢は黙って「旬のスタミナセット」を食べている。店の出入り口の鐘が鳴った。さっきの若い女の弁護士が出て行ったのだったが、岩崎カエラはそれに気付かなかった。彼女が座っていたテーブルから、手が付けられていないパスタの皿を持って歩いてきたウエイトレスが、食事に手を付けない岩崎に気付き、首を傾げた。ウエイトレスは持っていたパスタに鼻を近づけ匂いを嗅ぐと、もう一度首を捻る。岩崎の横に歩いて来たウエイトレスは彼女に小声で尋ねた。

「あの……お客様。何か御気に召さない点でも……」

 小久保に焦点を合わせていた岩崎カエラは、ハッとした。慌ててウエイトレスに言う。

「大丈夫。何でもない。気にしないで」

 ウエイトレスは安堵したようにその場を去ると、向こうでもう一度首を傾げた。

 岩崎カエラは左腕の古びた腕時計を見つめて少し思案した後、そのウエイトレスを呼び戻した。ウエイトレスはパスタが入った皿を厨房に戻して、急いで走ってくる。岩崎カエラは言った。

「天然アワビのステーキの特上を、単品で追加して」

 小久保友矢が顔を上げた。

「別に怒ってる訳じゃないですから」

 岩崎カエラはウインクして言う。

「プラス二十点分よ。これで仕切り直しでしょ。次からは三十点刻みでいくからね。百点に到達したら、結婚しよう」

 岩崎カエラは再び「旬のスタミナセット」を食べ始めた。



                  三十六

 昼食を終えた岩崎と小久保は、警視庁ビルへとやってきた。巨大ビルの一階に広がるロビーには、制服警官たちの数がいつもより多い。勤務中の警官が岩崎にサインを求めてきたので、岩崎は応じようとしたが、小久保が丁寧に断った。若い女性事務官の黄色い声に愛想笑いで応えながら、二人はエレベーターに乗る。ビルの中心の吹き抜けに沿ってガラス張りのシャフトの中を昇るエレベーターから、二人は各階の様子を見回した。どの階でも険しい顔をした警官達が速足で歩いている。岩崎の来庁に色めいている警官ばかりではないようだった。警視庁の中が、やけに慌しい。

 捜査一課のフロアに着いた二人は、広く長い廊下を歩いた。すれ違う警官たちからも緊張感が漂っている。岩崎カエラと小久保友矢は顔を見合わせた。「捜査第一課特命捜査対策室第五係」と表記されたガラス製のドアの前に着くと、岩崎カエラはノックをしてドアを開けた。

「こんにちはー。岩崎ですう」

「ああ! カエラさん! 大丈夫だったんですか。よかったあ」

 事務官の村田リコが抱きついてきた。

「カエラさんがいなくなった、どうしようかと……私……私……うう……」

「はいはい。泣かない、泣かない。この通り、ちょっとかすっただけだから。ね」

 岩崎の後ろから顔を出した小久保友矢が言った。

「主任の怪我は、日課みたいなものですから。平気ですよ」

 他に誰もいない室内を見回しながら岩崎カエラが尋ねる。

「善さんは? また、三人でお出かけ?」

「はい。今朝出かけたっきり。今、真明教の総本山に向かってます。もう、着いてるじゃないかなあ」

「真明教の総本山? 千穂倉山の? 善さんも、ついに宗教に目覚めたのかしら。退職後は出家したりして」

「電話してみましょうか」

「ああ、いや、いいわ。ちょっと寄っただけだから。なんか、忙しそうだし。それにしても、リコちゃんも、いつも一人で寂しいわね」

「いえ。今日は違いました。この子達とずっとお喋りしてましたから」

 村田リコは中村刑事の机の上に置かれた最新式のデスクトップ型立体パソコンを指差した。二台の軍用ハード・ドライブと繋がれているその立体パソコンのスピーカーから、聞き覚えのある声がする。

「やや。その声は、美人主任殿でござるな。すまぬが、どなたかウェブ・カメラの向きを変えて下さらんか。自分では動かせないので」

「美人主任さーん。お疲れ様です。撃たれたそうですね。負傷の程度はどのくらいだったんですか?」

「しまった……こっちのは、まだ上書きされてないのね」

 中村刑事の机の前に移動した小久保友矢が、立体パソコンに外付けした小型カメラの角度を変えた。

「なんだ、もうパソコンに繋いでもらってるのか。僕のこと、分かるかい?」

「おお、これはこれは、小久保殿でござるな。お疲れ様でござる。美人主任殿共々、お顔を初めて拝見いたす」

「この立体式パソコンの中は、なかなか快適ですねえ。警視庁もたーのしーい」

 小久保友矢は不安気な顔を村田に向けた。

「ちゃんと、ネット回線からは遮断してあるんですよね」

「はい。さっき国別府さんっていう科警研の方が来られて、完全にスタンド・アロンにしてもらいました」

「国別府先輩が? どうしたんでしょう」

 小久保友矢は岩崎の顔を見た。岩崎カエラは首を傾げてから、村田に尋ねる。

「いつ来たの?」

「一時くらいかなあ、私がランチから戻って来て、すぐでしたから。仕事の前にこれを組み立てて、二人を接続してくれました」

「仕事って?」

「なんでも、ハイパーSATに緊急に呼び出されたそうですよ」

 岩崎カエラと小久保友矢は再び顔を見合わせた。岩崎カエラが言う。

「昨日、機器の調整が終わったって言っていたわよね。なのに、また呼び出し? 何か緊急出動の要請でもあったのかしら」

「分かりませんけど、たぶん、あの事件のせいじゃないですか」

「あの事件? 何かあったの?」

「あれ? 知らないんですか。科警研には真っ先に連絡が行ったはずですけど、メールとか届いてません?」

 岩崎カエラと小久保友矢は慌ててイヴフォンを取り出し、操作を始めた。二人とも左目を青く光らせる。メールを確認しながら、岩崎カエラは村田に言った。

「ごめーん。ウチ、今はビル全体を外部ネットワークから独立させる工事中なのよ。ああ、やっぱり、何も届いてないなあ。小久保君は?」

「いや、僕の方も何も来てないですね。何があったんですか」

 イヴフォンを仕舞いながら小久保友矢は村田に尋ねた。村田リコは中村刑事の机の向かいの席で自分のパソコンを操作しながら答える。

「寺師町の並木通りで、量子銃が使用されたらしき痕跡が見つかったみたいですよ」

 岩崎カエラは顔を顰めた。

「量子銃ですって? 使用された? どういうことよ」

 小久保友矢が深刻な顔で尋ねる。

「犠牲者は」

 村田リコは立体パソコンのホログラフィー文書を見ながら答えた。

「ええと……まだ、はっきりはしてないようですけど、見つかった車と衣類の所持人は、南智人って人です。カッコ、南正覚、だそうです」

 岩崎カエラが訊き返す。

「南正覚? 真明教の?」

「たぶんそうです。石原さんとかが、真明教の事を、ものすごく調べてましたから」

「ちょっと、ここのパソコンを使わせてもらっていい?」

「ええ、いいと思いますよ。こっちが警部ので、その向いが石原さんのです。中村さんのは、データを抜いて、この子達を繋いじゃいましたから、使えないですけど。あ、私のでもいいですよ」

 岩崎カエラは中村刑事の机の隣の席の椅子を引いて、そこに腰を下ろした。

「警部のは古いから、石原君のでいいわ。ゲッ、何よこれ、椅子が壊れてるじゃない」

 石原刑事のパソコンを起動させながら、岩崎カエラは早口で指示を出す。

「小久保君、さっき司時空庁で取ったデータを全部、中村君のパソコンに落としといて。私は、判明した事実関係を簡単にまとめとく。出来上がったら、それも、そのパソコンに入れてちょうだい」

「分かりました。机を借ります」

 小久保友矢は中村刑事の席に座ると、ズボンのポケットからMBCを取り出して机の上の立体パソコンに挿入した。

 岩崎カエラが言う。

「ウエモン、サエモン」

「はい、何でしょう。美人主任さん」

「美人はいらいない。分かってるから。普通に『主任』にしなさい」

「何でござるか、主任殿」

「今、小久保君がスロット・インしたMBCから、中のデータを落としてちょうだい。その全データを分析して、バイオ・ドライブの再現3D画像をホログラフィーで作って欲しいの。それと、耐核熱金属を使用した金属箱の再現画像も3Dでお願い。概略は、私が作る説明書を読んで理解して。いいわね」

「了解でーす」

「小久保君、これまでの分析データを持ってきてる?」

「いいえ。でも、主任の立体パソコンに全部圧縮して入れてありますよ」

「しまった、車の中ね。リコちゃん。取ってきて。地下駐車場の赤のポルシェ。バッグごと持ってきてちょうだい。ああ、ロック解除用のキーが要るわね……」

 岩崎カエラはポケットから取り出したキーを投げた。村田リコは椅子から立ち上がりながらキーを掴む。ウエモンが言った。

「ナイスキャッチでござるな、プリティ・リコ殿」

 岩崎カエラはホログラフィー・キーボードの上で素早く指を動かしながら言った。

「ついでに、私と小久保君の白衣も持ってきて。後ろの座席に置いてある。あれを着ないと、気合が入らないわ」

 村田リコはコクコクと頷いてから、出口へと向かった。

「バッグと白衣ですね。――赤のポルシェ、赤のポルシェ……ポルシェって、どんな車だっけ」

「左右に軽武装パトカーが停まってるわ。直ぐ分かる。ごめんね、来て急にこんな事を頼んで。でも、愛車のキーを預けるなんて、リコちゃんじゃないと出来ないから。急いでね」

「はい!」

 敬礼をした村田リコは、ガラス製のドアを開けて廊下に駆け出していった。

 小久保友矢が言う。

「人を動かすの、上手いですよね」

「年の功よ」

 岩崎カエラはニヤリと片笑んだ。

 小久保友矢は目の前の立体パソコンに向かって言う。

「プリティ・リコさんには内緒だぞ」

「了解したでござる」

 小久保友矢は腕組みをして眉間に皺を寄せた。

「でも、どういう事でしょうね。量子銃が実際に使用されたのなら、使える量子銃が他に在るという事ですもんね」

 岩崎カエラは石原刑事のパソコンに入力を続けながら頷いた。

「そうね。使えるエネルギーパックも。小久保君、リコちゃんのパソコンで、警視庁に上がってきている現場の実況見分データを拾ってちょうだい。それと、南正覚の身長と体重が分かれば、それも。量子銃の放出エネルギーを試算してみる」

「分かりました」

 小久保友矢は椅子から立ち上がると、机を周って、向かいの村田の席に座った。彼は村田の立体パソコンを操作してすぐに、声を上げた。

「うお、これはまた……すごいカスタマイズだな。アイコンが全部、ケーキになってる。ええと、捜査資料ネットワークへのショートカットは何処に……あった。ショートケーキね、なるほど……」

 岩崎カエラはホログラフィー文書の前から顔を離した。

「よし、こんなものでいいかしら。一旦MBCに移して……MBC、MBC……もう、少しは片付けなさいよ、石原君。ここの引き出しは、どうしてお菓子ばっかり入ってるのよ。小学生か。――ああ、あった」

 小久保友矢は、村田の立体パソコンから投影されたホログラフィー文書と資料映像のホログラフィーボックスを見回していた。まだ整理されていないようで、どの資料もバラバラの状態だった。小久保友矢は、その中の映像資料をクリックして、動画を小さな枠の中で再生させる。短い動画を見終えた小久保友矢は、岩崎に視線を向けた。岩崎カエラはMBCに書き移したデータをウエモンとサエモンが入った中村刑事の立体パソコンに挿入している。小久保友矢は文書資料のホログラフィーのみを指先で弾いていき、アクティブにすると、石原刑事の立体パソコンにトレースした。

「主任。実況見分データと被害者の体形データをそちらのパソコンに送りました」

 岩崎カエラは急いで石原刑事の席に戻り、ホログラフィー・キーボードの上で指を動かし始めた。

「ありがとう。概数になるけど、南さんに使用された際に放出された量子エネルギー量を出してみる」

 小久保友矢は怪訝な顔で尋ねた。

「放出エネルギー量を算出して、どうするんです?」

「エネルギーパックが満タンなら、あと何回撃てるのか、最大数を予測しておかないと。何の情報も無しじゃ、現場の警官が危険に晒されるわ。相手の弾数が分かれば、少しは何とか対処できる」

 岩崎カエラは三木尾警部の言葉を思い出していた。彼女は眉間に皺を寄せ、真剣な顔で計算を続ける。

 小久保友矢は尋ねた。

「あと、僕は何を」

「国別府さんに電話して、事情を聞いてもらえる? あと、私達がここに居る事も伝えてちょうだい」

 小久保友矢は再びイヴフォンを取り出すと、スイッチを押した。

 岩崎カエラは必死に計算を続けている。国別府への連絡を終えた小久保が言う。

「どうも妙ですね」

「何が?」

「国別府先輩も急に呼び出されて、ハイパーSATのアーマー・スーツの全てをフルコンディションにしておけって言われたらしいんですよ。何だか、新市街の交通渋滞が大変な事になっているみたいで、たぶん、それに備えての事じゃないかって。どおりで混んでると思ったんですよね。主任の護衛だけじゃなかったんだ……」

「おかしいわね……」

「まあ、確かにおかしいですよね。渋滞くらいでアーマー・スーツ部隊を出しますかね。あれって要は、戦闘用のエグゾスケルトン型人力増幅機でしょ」

「違う。計算が合わないの。最大でも、あと二発か一発って数値になる」

 岩崎カエラはホログラフィーの計算機を見つめながら、眉間に深く皺を寄せていた。

 小久保友矢が尋ねる。

「何か問題でも?」

 岩崎カエラは深刻な顔で答えた。

「凶器として使用された量子銃に装着されていたエネルギー・パックが、私達が分析した量産型の量子銃のエネルギーパックと似たような大きさのパックだとすると、残りは最大でも、二回しか撃てないという結果になるの。いや、実際には、もっと少ないのかもしれない。まともに一回撃てるかどうか。おかしいわ。まさか、何か別の原理で、もっと多くの量子エネルギーを貯め込んでいるのかしら……」

 岩崎カエラは、もう一度計算をやり直し始めた。小久保友矢は村田の席から腰を上げ、隣の三木尾警部の席を回って岩崎の机の横に来ると、計算をしている岩崎に尋ねた。

「どうして、それだとおかしいんです?」

 再度表示された結果に首を傾げた岩崎カエラは、小久保に言った。

「永山記者の目の前で、量子銃によって四人の人間が消されたのよ。つまり、四回の発射をしている。そのエネルギーパックを使って、その後、タイムマシンは過去に跳んだんでしょ。という事は、四回発射しても、まだかなりのエネルギーが残っていたはずだわ。量子銃というものは、たった二、三回しか撃てない銃ではないはずよ」

「なるほど。これまでのデータと事実が符合しないって事ですね。――やっぱり、僕らが調べていた量子銃やエネルギーパックは、まったくの偽物だったという事なんですよ。あ、ちょっと待って下さいよ」

 小久保友矢は再び村田の席に移動すると、椅子に座り、パソコンを操作し始めた。今度は岩崎が尋ねる。

「何してるの?」

「捜査資料ネットワークから、クンタム社の情報を探しているんです」

「クンタム社?」

「オリジナルの量子銃を開発して、第二実験の前の頃に、田爪に設計確認を依頼した会社ですよ。ASKITにも取り込まれかけていたとかいう……」

「ああ、あの会社ね。外国の兵器製造会社でしょ」

「ええ。もしかしたら、田爪に渡したプロトタイプの量子銃の設計図を、警視庁が入手しているんじゃないかと」

「そんなもの、外国の企業が日本の警察になんか公開しないわよ。科警研からの照会にも、まったく応じてくれなかったじゃない」

 小久保友矢はホログラフィーの画面を覗きながら答える。

「でも、こういう事態になれば、外交ルートとかで極秘に入手した設計図か何かが、各部署から集中的にここに提出されているんじゃないかと……ああ、やっぱり。第三国ルートで入手したものを、外務省が公安に渡してますね。さっきです。――あらら、公安部から科警研に送信しようとしてエラーになってますよ。ウチ、ネットから切り離しちゃいましたからね」

 岩崎カエラは左腕に巻いた古い腕時計を見ながら言った。

「小久保君、悪いけど……」

 小久保友矢は立ち上がった。

「分かってます。直接、下の公安部に行ってデータを貰ってきます。主任がここにいる事も知らせていいですよね。ていうか、たぶん、もう広まってるでしょうけど」

「うん、お願い。何か捜査に必要な事で協力できる事はするって言っておいて」

「分かりました。じゃあ、行ってきます」

 小久保友矢は廊下へと駆け出て行った。岩崎カエラは椅子を横に回し、隣の机の上の立体パソコンに話しかける。

「ウエモン、サエモン。どう? 状況は理解した?」

「理解したでござる。バイオ・ドライブを特定できればいいのでござるな」

「主任さん、重量から割り出してみましょうか」

「重量から?」

「データが書き込まれているってことは、神経ネットワークをいっぱい構築してるって事ですもんね。だとすると、重量に極微量の変化が生じるはずですよ。予測される重量ごとに、金属箱の内壁に焼き付く過程をシミュレートしてみて、実際の影の位置に焼き付くものが重量変化を来たしていれば、何らかの情報が書き込まれていたという事になり、重量変化の無いものであれば、何の情報も書き込まれてはいなかったという事になります。はい」

「またシミュレーションかあ。でも、やってみる価値は十分にあるわね。バイオ・ドライブの仕様データは科警研に在るし、もう少し性能のいいコンピュータを準備すれば、出来ないことはないかなあ。だけど、相当にハードな演算になるわよ。大丈夫?」

「このくらいであれば、数分で出来るでござる」

「メモリーの容量次第ですねえ。弾丸の着弾予測とあまり変わらないですから」

「そっかあ。あなた達はオリジナルだったわね。今、ウチにいる子たちよりも、ずっと出来がいい訳か。期待できるわね」

 そこへ、岩崎のバッグを肩に掛けて畳んだ白衣を抱えた村田リコが駆け込んで来た。

「只今戻りましたあ。はあ、はあ、はあ。端末が入った、バッグ、これですか、はあ、はあ」

「ありがとう。えらく早かったわね」

 村田リコは息を切らしながら言う。

「人生で、二番目に、早く走りましたから」

 自分の白衣を広げながら、岩崎カエラは尋ねた。

「一番目は?」

 村田リコは自分の席の椅子に腰を下ろしながら答える。

「マンションのベランダに干していた下着を、下の駐車場の他人の車の上で発見した時です。猛ダッシュで取りに行きました。あれ?」

「ん? どうした?」

「私のパソコン、いじりました?」

 椅子から立ち上がった岩崎カエラは、白衣に袖を通しながら言った。

「うん。ごめんね、さっき小久保君に、庁内ネットワークから実況見分資料を拾ってもらったり、捜査資料を検索してもらったりしたの」

 村田リコは机の上のパソコンから投影されたままのホログラフィーを覗き込みながら言った。

「いえ、別に構いませんけど。防犯カメラの動画だけ、そのままにしてありますね。そっちに送らなくてよかったんですか?」

「防犯カメラの? 何それ」

 白衣を着た岩崎カエラは、机を回って村田の席の後ろに移動した。

 村田リコは説明する。

「今朝の犯行現場付近の街頭交通カメラや防犯カメラの映像です。まだ科捜研の解析には回ってないみたいですね。私も見るの初めてですけど」

「ちょっと見せてもらえるかしら」

 村田リコは、ロールケーキの形をしたホログラフィー・アイコンに触れた。小さな四角い枠の中で、犯行現場を高い位置から撮影した動画が再生される。村田リコは、その小さな枠の端を摘まんで動かし、動画を拡大した。岩崎カエラは再生される動画に目を凝らした。画像の手前を覆うイチョウの葉の向こうで、路上に黒いAIキャデラックがゆっくりと路肩の駐車スペースに移動し停止する。ドアが自動で開く。運転席に座っている法衣姿の初老の男は、車から降りずに、ダッシュボードの上に置いた大きな数珠を首に掛け、バックミラーを覗いて丸坊主の頭を撫でている。

「髪は無いのに、何やってるんだろ、この人」

 村田リコがそう言ったが、岩崎は何も答えずに、真剣に動画を見つめていた。

 手前のイチョウの葉の向こうに、そのAIキャデラックの横に停まった青い車体の後部が映った。法衣の男は、車から降りようとしたのか、少しだけ体ごと横を向いた。その瞬間、AIキャデラックの車内が緑色に照らされた。村田リコが声を上げる。

「あ、ピカって光った。あ、ほら、南さんの法衣がパサッて下に落ちましたね。ホントだ。消えちゃった。へえ、こんなんで、人が消されちゃうんだ。嘘みたい。でも、これ、犯人の顔とか被害者の様子とか、はっきり映ってませんね。イチョウの葉かな、すごい邪魔」

 岩崎カエラは黙ったまま、白衣の横で拳を握り締めていた。

 村田リコは別の防犯カメラの動画を再生させる。

「こっちは別の角度ですね。犯人は車の屋根の下かあ。見えないなあ。南さんの方だけしか分かりませんね」

 動画の下の方に、青い車のルーフと、その向こうに停まっている黒いAIキャデラックが映っている。村田リコは一度その動画を巻き戻すと、最初から再生した。黒いAIキャデラックが停止し、ドアが開いて、法衣姿の南正覚が大数珠を首に掛ける。

 岩崎カエラは、その動画を食い入るような目つきで見つめた。

 村田リコが言う。

「わ、すごい。こっちの動画の方が、よく分かりますね。南さんの表情もよく分かる。でも、本当に消えちゃうんですね。痛くないのかなあ。一瞬だあ。こわーい」

 停止したその動画を、岩崎カエラは険しい顔で見つめていた。彼女の目には、緑色の光に照らされた南智人が見せた、消される前の一瞬の表情が焼き付いていた。その顔は、ほんの一瞬だけであったが、確かに恐怖に歪んでいた。無人のAIキャデラックを映している動画を見据えながら、岩崎カエラは歯を喰いしばる。

 村田リコは動画のホログラフィーを小さく戻しながら言った。

「今のところ、ウチが押収している動画資料は、この二つだけですね。青い車の車種は今日中に判明すると思います。もしかしたら、動画のどこかに犯人の顔が反射して映り込んでいるかもしれませんね。鑑識課が分析したらすぐに見つかりますよ。こんな危ない武器で、関係も無い人を消しちゃって、けしからん奴ですよね。被害者の身にもなってみろっつうの。面も割れてますし、証拠さえ見つかれば、あとは警部たちが捕まえて、石原さんがボコボコにして、私がお仕置きの往復ビンタをしてやりますから」

 一人で憤慨している村田リコに、岩崎カエラは怪訝な顔で尋ねた。

「ねえ、リコちゃん。動画がこれしかないのに、もう面が割れているって事は、善さんたちは犯人について、目星を立てているの?」

 椅子をクルリと回して岩崎の方を向いた村田リコは、答えた。

「はい。たぶん、田爪健三だろうって」

「田爪……健三?」

「はい。本当は生きていて、国内に潜伏してるんですって。あ、昨日、カエラさんを襲った大男は、南米から田爪が逃亡するのを手助けした疑いが強いイヴンスキーっていう国際犯罪者みたいです。今頃、外事課と公安一課が総力を挙げて探していますから、もうすぐ捕まりますよ。よかったですね。連行されてきたら、私が蹴りを入れてやるんだから。もう」

 村田リコはボールを蹴るように足を振って見せると、腕組みをして頬を膨らませた。

 岩崎カエラは呆然として立ち尽くしている。

「……」

 下を向いて静かに、深く息を吐いた岩崎カエラは、ゆっくりと歩き出し、机を回った。さっき作業をしていた石原刑事の机の横を通り過ぎて、出口の方に向かう岩崎を見て、村田リコが尋ねた。

「あれ? カエラさん、何処に行くんですか?」

 立ち止まった岩崎カエラは、背中を向けたまま答える。

「うん。お手洗い。あ、リコちゃん。ここ、ゴミ箱ある?」

「あ、そこの角です。赤い箱が燃えるゴミで、青いのが燃やす事が出来ないゴミと燃やしたらいけないゴミです」

 岩崎カエラは上着のポケットから取り出したイヴフォンを青いゴミ箱に放り投げた。そして、左腕から使い古したボロボロのベルトを外すと、その古い腕時計を赤いゴミ箱に放り込んだ。少し鼻を啜った岩崎カエラは、出口のガラスドアの方を向いたまま言う。

「あと、リコちゃん。小久保君に伝言してもらっていいかな」

「はい、いいですよ」

「今度、新しいイヴフォンを買いに行くから付き合えって。――仕事なのに、上司に要らぬ気を使った罰だって」

 中村刑事の机の上のパソコンの中のウエモンが、向かいの席に座っている村田に言った。

「プリティ・リコ殿、ウェブカメラの向きを変えてもらえぬか。主任殿は体調が悪いのかもしれん」

 村田リコは机越しにカメラに手を伸ばし、ガラスドアの前でこちらに背を向けて立っている岩崎の方に向けた。サエモンが言う。

「ウエモン先輩、大丈夫ですよ。声がかすれているだけですよ」

「そうか。声紋の波長が短くなっているぞ。画像解析では、心拍振動の間隔も短い」

 鼻を啜った岩崎カエラは、背中を向けたまま言った。

「大丈夫よウエモン。昨日、痛み止めを多くから、そのせいよ」

「ぬ。それは、アルコールの摂取でござるな。水分の摂取と休養が大切でござるぞ」

「そうするわ。あ、それからリコちゃん。小久保君に三十点プラスだとも言っといて。じゃあ、行ってくる。ちょっと長くかかるかも」

 ドアを開けて出て行こうとする岩崎を見て、村田リコは立体パソコンのホログラフィーと岩崎の背中を交互に見ながら、困惑した顔で尋ねた。

「あの、カエラさん、ちゃんと戻って来てくれますよね。そのまま帰っちゃったりとかしないですよね。何か、さっきから急に、いろんな部署から捜査照会のメールが怒涛のように届いてるんですけど。たぶん、カエラさんにだと思いますよ。ああ、どんどん増えてきてます。だから、絶対に帰らないで下さいよ。まだ、捜査中なんですから」

 背中を向けたまま上を向き、大きく息を吸った岩崎カエラは、白衣を翻して振り返り、村田の方を強く指差して、力強く言った。

「当たりまえでしょ。私は科警研の岩崎カエラよ。科学捜査でバシッと証明して、犯人を追い込んでやるから。見てらっしゃい。悪事に科学の前を素通りさせやしないわ!」

 不敵に片笑んだ岩崎カエラは、少し充血した目でウインクしてみせた。大粒の雫が頬を伝う。岩崎カエラはそれを隠すように前を向くと、少しだけ背中を震わせながら廊下へと出て行った。ガラスドアの向こうで一度、白衣の袖で目元を拭った岩崎カエラは、天井を見上げて息を整えると、肩を上げ、速足で歩いて行った。

 赤いゴミ箱の中では、古い腕時計の秒針が、小さな音を鳴らし続けていた。

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