第8話  山野朝美

                  一

 腕捲りしたワイシャツ姿で永山哲也が分厚いトーストを齧っていた。頬を膨らませて牛乳を飲み、サラダの皿を持ち上げる。フォークで刺したレタスとトマトを口に入れ込むと、咀嚼しながら固焼きの目玉焼きをフォークで刺し、それを野菜が残る口の中に押し込んだ。朝日が射し込む食卓で、彼は忙しく朝食を取る。こんがりと焼いた厚切りのトーストをもう一枚、彼の皿の上に置いた妻の祥子は、呆れた顔で夫に言う。

「あなた。もう少し、ゆっくり食べたら」

「いや……神作キャップを……迎えに行かないといけないから」

 顎を動かしながらそう答えた永山哲也は噛んでいる途中の物を牛乳で胃に流し込んだ。エプロンで手を拭きながらリビングへと向かった永山祥子はソファーの前に腰を下ろす。

「神作さん、熱は下がったの? 今日はお休みした方がいいんじゃないの。あなた達、昨日も日付が変わってから帰ってきたじゃない。風邪なら、休養しないと」

「んぐ。――ううん。俺もそう思うんだけどね。あの人、言い出したら聞かないから」

 永山哲也はサラダを喉に詰まらせながら、そう言った。祥子はフローリングの上に置いた大きなスポーツバッグに衣類を詰め始める。

「あなたも喉が弱いんだから、うつされないように気をつけてよ。昨日だって、あんまり寝てないでしょ。もう少し寝てから行った方がいいんじゃない。運転は大丈夫なの」

 永山哲也は二枚目のトーストにバターを塗りながら答えた。

「ああ。今日は都内にいるから、長距離の運転は無い。大丈夫だ」

 バッグに衣類を入れていた手を止めて、永山祥子が尋ねた。

「都内なの? 会社?」

「いや。あちこちと移動だ。夕方からは、樹英田きえた町」

 自分の実家がある地域の名を聞いて、永山祥子は目を丸くする。

「樹英田町? じゃあ、今夜は帰ってくるの」

 永山哲也はバターを塗る手を止め、祥子の方を向いた。

「なんだよ、帰ってきちゃ不味い事でもあるのかよ」

「そうじゃないけど、どうせ、私の実家には泊まらないでしょ」

「ああ、それなら、ここに帰って来るよ。近いし」

「……」

 暫らく黙って衣類を畳んでいた永山祥子は、少し不機嫌そうに口を開いた。

「もう、どっちなのよ。帰って来るの、来ないの? 急に夫が帰って来るとなると、主婦はいろいろと準備が大変なのよ。特に大食漢の夫をもってる妻は」

「わるうござんしたね。だけど、帰宅は無理だな。たぶん、山荘に直行だ」

 バターナイフを容器に戻した永山哲也は、厚切りのトーストに齧りついた。再びバッグに衣類を入れ始めた永山祥子は言う。

「やっぱり、長距離移動するんじゃない。もう……」

 トーストを頬張りながら、永山哲也は言った。

「ちゃんと新高速の自動走行中に中で少し寝るよ。それに、今が大事な時なんだ。今日か明日あたり、何か動きがありそうな気がするからね。明日は十月五日だし」

「五日は何か有るの?」

「うん。ちょっとな」

 永山哲也は、それ以上答えなかった。

 衣類を詰め終えた永山祥子は、バッグのチャックを閉めてから、夫に顔を向けた。

「仕事も大事だけど、この前みたいな事は、もう懲り懲りよ。それに、由紀だって、もうすぐ高校入試じゃない。あの子だって大事な時なんだからね」

 牛乳を飲んだ永山哲也は、トーストの残りを口の中に押し込んで、咀嚼しながら言った。

「分かってるよ。だから、こうやって、遠くても、三日に一回は、ちゃんと帰ってきてるんじゃないか」

 立ち上がった永山祥子は、バッグを持って夫の傍に歩いてくる。

「よく言うわよ。洗濯物を出しに帰ってきているだけでしょ。はい。明後日までの分を入れておきました。少し厚めのシャツとスパッツも入れておいたから」

 永山哲也は妻が足下に置いたバッグを見た。

「ああ、サンキュウ。――でも、入試までは、まだ半年はあるじゃないか。そう焦らなくてもいいんじゃないか」

 永山祥子は眉を寄せた。

「もう、何言ってるのよ。ウチは私立だから、系列の新志楼しんしろう高校に行くなら、受験は十二月でしょ。あと三ヶ月も無いのよ」

「え、そうなのか?」

 永山祥子は顰めた顔のまま、キッチンへと向かった。

「もう、しっかりしてよ。それにあの子も、もう十五歳よ。とっくに年頃なんだから、お父さんがしっかりしてくれないと」

「うん……分かってる」

 サラダの残りをフォークでつつきながら、永山哲也はそう答えた。ふと視界に入った腕時計を見て、声を上げる。

「ああ! もう、こんな時間だ。行かないと。おい、由紀を起こさないでいいのか。遅刻するんじゃないか?」

 エプロンを壁のフックに掛けた永山祥子は、弁当箱に蓋を閉めながら言った。

「もうとっくに起きてるわよ。朝食もガッツリと食べてたわ。今日は例の『コスプレ遠足』でしょ。それで、昨日の夜から大張り切りなのよ。今朝だって、ウキウキで上機嫌。まったくもう、受験前だって言うのに、うかれて……」

「コスプレ遠足?」

「みんなでハロウィンみたいな格好して、都南田となた高原まで行くんですって。あそこの葉路原丘ようじはらおか公園の花壇に、お花の苗を植えに行くらしいわよ。新志楼中学の恒例行事らしいじゃない。あなたもやったんじゃないの?」

 永山哲也は顔を顰めた。

「やらないよ。そんな恥ずかしいこと」

 永山祥子は、キッチンから夫の顔を覗く。

「あれー。本当かしら?」

 永山哲也は牛乳が入ったコップを持ち上げながら、強く反論した。

「やってないって。だいたい、農作業するのに、なんでコスプレなんだよ」

 永山祥子はキッチンで弁当箱を保温ケースに入れながら言う。

「まあ、自分の娘か、そろそろ迎えに来る上司の娘さんにでも訊いてみたら」

 永山哲也は怪訝な顔で首を傾げてから、牛乳を飲んだ。

 永山の家の補修された跡を残す小さな門柱の前に、一台の自転車が止まった。ペダルから赤いゴム長靴が地に下ろされる。短い足に真っ赤なジャージを穿き、赤い脛当てと膝当てを付けて、その上を赤く塗った鎧の草摺くさずりのような腰巻が覆っている。腰から上には深紅の本格的な胴鎧をまとい、右の肩には長方形の赤い板が、左の肩には棘の付いた赤く丸い防具が装着されていた。背中の赤いリュックからは、スコップの柄のような物が左右斜めに突き出している。その前に垂らした左右の三つ編みを振りながら、山野朝美やまのあさみはダンボール製の草摺につかえた腿を必死に持ち上げようとしていた。

「う、あれ……自転車から降りられない。足が……よっ」

 何とか自転車から足を回した山野朝美は、自転車を立て、永山宅の低く狭い門扉を開ける。枝を短く切り過ぎた庭木の横を通り玄関に向かうと、その真新しいドアを開けた。

「ゆーきーちゃん。おーはーよ」

 玄関から響いてきたガラガラ声を聞いた永山祥子は言った。

「ほら来た」

 そして、キッチンから大きな声で二階の娘を呼ぶ。

「由紀い。山野さんよお。早く降りてらっしゃい。遅刻するわよお」

「はーい。今行くー。朝美ー、ちょっと待っててー」

 娘の返事を聞いた永山祥子は、夫にも言った。

「ほら、あなたも早く玄関に行きなさいよ。朝美ちゃんよ。神作さんの娘さんの。顔くらい見せとかないと」

 コップの牛乳を飲み干した永山哲也は、少しむせた。

「うぐ。なんで俺が……」

 娘のお弁当を持ってダイニングテーブルの前まで来た永山祥子は、小声で夫に言った。

「娘が、どんなコスプレするか、気にならないの? すごい露出とかしてるかもよ」

 永山哲也は顔を険しくする。

「なに、露出だって? あの馬鹿、何考えてるんだ。まだ中学生だろうが。もう色気づき出したのか、まったく。どれ、ちょっと、釘を刺しておくか」 

「ほら、口に牛乳が付いてるわよ。ちゃんと拭いて」

 永山祥子が夫の口元をティッシュで拭いていると、玄関の前の階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。永山哲也は厳しい顔をして、リビングのドアを開け、玄関ホールに出た。

「おい、待て、由紀。おまえ、今日のコスプレ、どんな格好して……」

 玄関に立っていた朝美の恰好を見て、永山哲也は絶句した。

「あ、由紀ちゃんのお父さん。おはようございます」

「おお、おはよう……朝美ちゃん……また、なんと言うか、個性的な……な、由紀、なんじゃ、そりゃ」

 ドレッドヘアのカツラを被り、黄色と緑の斑模様の肉襦袢で全身を覆った永山由紀は、左右の腕に防具らしき物を装備し、左の肩には小さな砲筒のような物を載せていた。その砲筒は勝手に動いている。永山由紀は砲筒と一緒に顔を父に向けた。

「あ、父さん、おはよ。帰ってたの」

「帰ってたのじゃないだろ。なんだよ、それ。おまえら、なんちゅう格好してんだ。それじゃ、ただの『変わってる人』じゃないか。せっかくのコスプレ遠足だろ? もう少し、こう、露出ギリギリの線を攻めるとか、色気を出すとか、カワイイ系で男子にモテようとか、何か考えないのかよ」

 永山由紀は、棘の付いた長靴を履きながら、顔を顰めた。

「ゲ。気持ち悪い。父さん、朝から何を言ってんのよ。行こ、朝美」

 永山祥子がリビングから玄関に出てきた。

「ほら、由紀。お弁当。忘れてるわよ」

 永山由紀は母が差し出した弁当ケースに手を伸ばす。

「あ、いけね。忘れてた」

 永山祥子は言った。

「こら、『いけない』でしょ。口くらい女の子らしくしなさい」

「はーい。じゃあ、行ってきまーす」

 永山由紀はお弁当をリュックに入れると、それを背負い、朝美と共に元気よく外に飛び出して行く。永山祥子はサンダルを履いて二人を追いかけるように外に出た。

「二人とも、作業するときは、ちゃんと防虫手袋をするのよ。今、変な虫が多いからね」

 自転車に跨ったドレッドヘアの由紀が答える。

「はーい。行ってきまーす」

 同じく自転車に跨った三つ編みに赤い鎧姿の朝美が手を振った。

「小母さん、行ってきまーす」

「はい。気をつけてね」

 笑顔で二人に手を振る永山祥子の後ろで、永山哲也も二人を見送りながら、顔を曇らせていた。

「なんだ、ありゃ。心配して損したな。あの宇宙人もロボットも、どっちも最後に爆発するキャラじゃないか。いいのか、あれで」

 永山祥子は夫に背を向けたまま、忍び笑っていた。



                  二

 ピンと伸ばした短い足を左右に広げて、山野朝美は自転車を疾走させた。

「イヤッホオウ! 今日は待ちに待ったコスプレ遠足だっぜい。うほほーい」

 立ち漕ぎで朝美を追いかける永山由紀は、顔と短い砲筒を同時に朝美に向ける。

「ちょっと、朝美。危ないって。あんた、ただでさえ、自転車のペダルを漕ぐ足が上がってないんだからさ。肩も動かしにくそうだし」

「そうなんだよね。この腰のところのミニスカートみたいな部分さあ、雑誌で見たとおりに作ったんだけど、動かないんだよね。太腿が当たっちゃって。下にジャージ穿いてきてよかった。それと、この左肩のショルダー・アーマーもお手製だから、これもまた、上手く動かないんだよね。右は動かせるんだけどなあ」

 山野朝美は右腕をクルクルと回す。並走する永山由紀が尋ねた。

「どうやって付けたの」

「接着剤。ママのハイヒールの修理用のやつ。チョーくっつく。くくくく」

「また小母さんに怒られるよ。朝美のお母さん、怒るとチョー怖いもんね」

 山野朝美は顔の前で大きく何度も手を振った。

「だあいじょうぶ、だあいじょうぶ。バレやしないって。全部使っちゃったけど。くくく」

 笑っている朝美のコスチュームをまじまじと見回しながら、由紀が言った。

「それより、そのボディ・アーマーは良く出来てるよね。それも自分で作ったの」

「まさか。知りたい?」

「なに?」

 二人は赤信号の前で自転車を停めた。山野朝美は真剣な眼差しで由紀を見た。

「親友の由紀だから、教えるんだからね。ぜっっったいに、誰にも言っちゃ駄目だよ」

 永山由紀はコクコクと頷く。

「うんうん。分かった。ぜっっったいに言わない。で、なに」

「実はね。これ、本物なの」

「本物?」

「うん。しかもね、この赤い色も、もともとの色。って事はあ……」

 山野朝美は口を開けた顔を由紀に近づけた。永山由紀は大声を上げる。

「ええ! うそ、それ『深紅の旅団レッド・ブリッグ』の本物のボディ・アーマーなの。マジ?」

「しー。声が大きいぞ、おぬし。そうじゃ、本物じゃ、これを見よ」

 山野朝美は深紅の胴鎧の胸元を指差した。永山由紀が顔をそこに近づける。バーコードと活字の数字の列が刻まれていた。永山由紀は、また声を上げた。

「わあ、シリアル・ナンバーが刻ってある。現役部隊の正規品だあ。すっげ。どうやって手に入れたの」

「ネットよ、ネット。オークションに出てた。もう、即買いでゲットよ。出品者も現役の隊員さんみたいだから、これはマジでレアな一品よ。どう?」

 永山由紀は自転車の上から身を乗り出し、朝美の胴鎧を見回した。彼女の頭の動きに合わせて、左肩の砲筒も動く。永山由紀は目を輝かせながら言った。

「すっげえー。マジ? あ、弾丸が命中した痕だ。本当に貫通しないんだ。すっげえー。じゃあ、中のCPUとかメモリーとかも付いてるの」

「それは外してある。たぶん、使用済みの廃棄品なんじゃないかな。安かったし」

「でも、重くない?」

「ううん。そうでもない。やっぱ、さすがは国防軍だわ。材質も最高級品やね。軽くて薄くて丈夫。ウチら女子が求めているモノと同じよね」

「何の話よ……。それより、軍の正規品なら、なんかヤバイんじゃない?」

「だぁいじょぉぶだって。ホント、由紀は心配性だよね。こうして、私のセンスと技術で、見た目は宇宙戦闘用ロボットになった訳だし、だいたい、素人が見たってバレやしないってば。由紀だって、私が言うまで分かんなかったじゃん」

「うん。……まあ……確かに。でも、ホントに朝美って、センスあるよね。尊敬する」

「そんな事ないって。由紀だって、それ、イケてるじゃん。その肩のビームガン? カッコイイぞよ」

「でしょ。実はこれ、父さんのドライヤーなんだ。でもね、ほら」

 永山由紀は首を左右に振って見せた。肩のドライヤーも左右に動く。それを見た山野朝美は目を丸くした。

「うわ、すっげ。動く。マジ」

「これ、作るの大変だったんだよ。一週間かかった。父さんも一週間、ドライヤーを探していたけど」

「くくくっ。それウケる。くくく」

「でね。左手のこれが……」

 永山由紀は左腕の防具を朝美に見せた。

「実は壊れたゲーム・パッド。それをお母さんのベルトにくっ付けて、腕に巻いて付けてるの。あ、このベルトはちゃんとお母さんから、お古を貰ったもの。もう使わないんだって。たぶん、穴を開ける位置が無くなって、長さが足りなくなったんだと思う。うん、きっと、そう」

「くくくく。ウケる。死ぬ。くくくくく」

「そして、これが……じゃーん。シャキーん」

 永山由紀は右腕を高く持ち上げた。腕の防具から刀のような物がスライドして出てきた。山野朝美は驚いた。

「ゲッ。何か飛び出てきた。何それ。刀?」

「パパが使っていた剪定バサミを借りてきて、分解して、装着しました。どう? 自動格納式です。フフフ」

 山野朝美は、自動で剪定バサミの一片を収納した由紀の右腕の防具を見つめながら、驚愕する。

「ま、負けたわ。すご過ぎる」

 永山由紀は自信たっぷりの顔で言った。

「これで、今日の花壇の植え替えもススイのスイよ。すごいでしょ」

 信号が青になった。二人は自転車を漕ぎ始める。山野朝美は背中のリュックから飛び出しているスコップの柄のような物に手を掛けた。

「ああ……私の背中のスコップだって、実は……」

 忍者が刀を抜くように、リュックからそれを抜いた山野朝美は、それを顔の前で構えた。

「先がスナック棒です。カプッ。ムシャ、ムシャ、ムシャ」

 山野朝美はスナック棒を齧りながら自転車を漕いでいく。並走して自転車を走らせる永山由紀は、風に流されて顔に飛んでくるスナック菓子の屑を払いながら言った。

「あんたねえ。何しに行くつもりなのよ」

「青春じゃ。ガハハハハ」

 山野朝美はスナック菓子を口の中で踊らせながら、高らかに笑った。

 奇抜な恰好をした二人の中学生は、朝日に向かって自転車を漕いでいった。



                  三

 新志楼中学のグランド横の広い駐車場には、思い思いのコスチュームに身を包んだ中学生たちが集合していた。貸し切りバスでの遠足を楽しみに待つ変装した中学生たちは、友人との私語に盛り上がり、さながらハロウィン・パーティーの会場ような座柄である。

 タイヤ止めの石の上に乗った山野朝美は、背伸びをして、周囲の同級生たちのコスチュームを見回した。

「わあ、みんな、凝ってますなあ。でも、まあ、どれも大した事ないわね。『当たり切り』の域を出でないわ。うん。センスで私達に敵う奴はいない。勝ったな。ぬあっはははは」

 声高に笑う彼女の横で、永山由紀が左肩のドライヤーと一緒に、首を傾げる。

「あたりきり?……『在り来たり』でしょ」

「そう、それ。ナイス・フォロー、由紀ちゃん」

 タイヤ止めから飛び降りた山野朝美は、由紀を指差す。男子がざわざわと騒ぎ始めた。朝美と由紀はそちらに顔を向ける。山野朝美が眉をひそめた。

「うわ。何あれ。エロい。乳が出とるぞ、乳が」

「あれ、B組のレナよね。すっごーい。でも、あれで植え替え作業するのかな」

「あれは、ちょっと問題よね。男子が胸の谷間ばかり見てるじゃん。もう、男って」

 永山由紀が向こうを指差しながら、朝美の肩を叩いた。

「ほら、あれ。ヒロシ。小学生の格好だ」

「あらら、やっちゃった。ウケを狙って自爆したってパターンだね。ご愁傷さまです」

 永山由紀は、その向こうの、背の高い男子学生に気付いた。

「あ、タイセイ君だ。やっぱ、カッコイイね」

 すらりと背が高い端整な顔立ちの「タイセイ君」は、中世の海賊風のコスチュームで隣の友人と話している。彼を見つめていた山野朝美は適当に由紀に答えた。

「うん……まあまあ……かな」

 永山由紀は朝美の顔を指差した。

「ウソ。絶対、今、朝美、『きゃー、カッコイイ』って思ったでしょ。絶対、思ったね。ほら、ほら。赤くなってる」

「思っちょりませんが。赤くもなっとらんばい」

「何処の方言よ、それ」

 タイセイ君から少し離れた所で、何人もの男子が修道女風の黒服に身を包んだ少女を取り囲んでいる。目を凝らした山野朝美が言った。

「でたよ。B組のユカ。『可愛い』を前面に押し出してきましたか。うわ、周りの男子の顔。緩んじゃって、まあ。日本の将来が不安だわ、こりゃ」

 永山由紀が言う。

「あ、タイセイ君もユカを見てる」

「え。マジ」

 反射的にタイセイ君の方を向いた朝美に、永山由紀は言った。

「あ、今、気にしたでしょ。絶対、気にした。やっぱりね。そうですか。なるほどね」

 山野朝美は腰の赤い草摺に手を掛けながら下を向き、赤くなった顔を隠す。

「ちょっと、由紀、この腰のスカートみたいなの、外すの手伝ってよ。これじゃ、座れないから」

 永山由紀はニヤニヤしながら言った。

「あっらーん? 誤魔化すのは変ですねえ。これはもしかして、もしかするとお」

 向こうの方で、中年の教師が怒鳴っている。

「コラ、なんだその格好は。ちょっと来い」

 山野朝美は声がした方に視線を向けた。

「うわ、英語の猪上だ。腹も出てるけど、歯茎も出てる。オエ、気持ち悪ーい」

「うん、右に同じ。でも、今呼ばれたの誰?」

「たぶん、ケイタね。『ひょっとこ』の格好はアウトよねえ。卑猥過ぎるものねえ」

「じゃあ、さっきのレナの『リオのカーニバル』みたいな格好はオーケーなの?」

 段ボール紙で作った赤い草摺を腰から外した山野朝美は、リュックから取り出した大きなバックルのベルトを腰に巻きながら言った。

「ま、『卑猥丸出し』と、『卑猥な見方もできる』は、違うんじゃない。よっしゃ。ベルトの装着完了。どう。少し、大人っぽくなったでしょ」

 朝美の腰に装着された太いベルトを永山由紀は羨望の眼差しで見つめた。バックルには風車、腰から太腿にはガンホルダーが付いていて、そのガンホルダーには玩具のビームガンが挿してある。永山由紀は深く頷いた。

「うん。すごい。なんか、『デキル女』って感じ。かっちょいい」

 山野朝美は少し顔を上げた。

「でしょ。センスよね。センス」

 女性の甲高い声が響いた。

「はあい。皆さーん。整列してくださーい」

「出た。リカコ先生だ。なにあれ。ヨーグルトでも売りに行くつもりかな」

 ロングスカートに白いブラウスを着て、その上からフード付きのマントを羽織ったリカコ先生は、頭のカチューシャの側面に大きな赤いリボンを付けている。それを見た山野朝美は、腹を押さえて忍び笑った。

「くくく。それ、最高。くくく。でも、あれは、コスプレなのかな。それとも、私服かな」

「私服っしょ。いつも、あんな感じじゃん。ていうか、私服がコスプレなんじゃね」

「くくく。まあね。紛らわしい奴じゃ。まあ、ミニスカートじゃないだけ良いけど、歳を考えろっつうの」

「ウチの父さんも習ったって言ってたから、相当いってるわよね」

「マジ? 由紀のお父さんが習ったってことは……由紀のお父さんって、何歳なの?」

「三十九」

「若っ。でも、由紀のお父さんが三十九って事は、リカコ先生は……ええと……」

 リカコ先生が二人を指差して怒鳴る。

「はい、そこ。山野さん。ちゃんと並びなさい。計算しなくていい!」

「ゲッ。聞こえてた。ヤバイ」

 中学生たちがダラダラと動いて整列すると、前の方でリカコ先生が大きな声で言った。

「ええ、では。今日のコスプレ遠足に出発する前に、校長先生から一言、お話です」

 山野朝美が小声で囃し立てる。

「お、出たぞ。ミツゾーだ。よ、下駄顔オヤジ。待ってました」

「聞こえるって、朝美」

 茶色い三つ揃えの背広に蝶ネクタイをした白髪の太った老人が生徒達の前に立ち、拡声機能付きのマイクを四角い顔の前に構えて、音量を調整する。

「あー、あー」

 彼は生徒たちの隙を突いて、突然、大声を上げた。

「皆さん……元気ですか! 元気があれば、何でも出来る」

「……」

 生徒たちの私語が一瞬で静まった。朝美が小声で言う。

「あらら、やっちゃったね」

「うん。やっちまった」

 蝶ネクタイの老人は、気まずそうに咳払いをした。

「ゴホン。ええ……という訳で、まずは、おはようございます。校長の河野光造かわのみつぞうです。ええ、今年も、恒例の奉仕作業を兼ねたコスプレ遠足を実施する事になりましたが、本日は晴天に恵まれ、まさに絶好の遠足日和であると同時に奉仕日和でもあり、これも日頃の皆さんの行いが良いからでありまして……」

 永山由紀が顔を顰める。

「一言が、なっが」

 すると、山野朝美が由紀に小声で尋ねた。

「ねえ、由紀。由紀のお父さん、昨日、何時に帰ってきた?」

「え? うーん。一時くらいだったかな。寝てたから、分かんない。朝美んちは?」

「ううん。ウチは、ほら、別だから」

「あ、そうか。ごめん」

「うん、いいよ。でも、みんな何やってんだろうね。新聞記者って、そんなに忙しいのかな」

「今、すっごい忙しいんだって。朝美のお父さんやお母さん達と一緒に、大事件を追ってるって、父さんが言ってた。たぶん、この前の事件だよ。だから、めちゃくちゃ忙しいんだと思う」

「だよね。ママも、遅く帰ってきて、ソファーにバタンだもん。あーあ。来月の父母面談。リカコ先生と進路の話とかするんだよね。ウチの親、来れるかなあ」

 口を尖らせて下を向く朝美に、眉を寄せた由紀が尋ねた。

「どうなの。朝美のお父さんとお母さん、よりを戻さないの。ウチのお父さんとお母さんも、心配してるよ」

「うーん。なんかよく分かんないだよね。ママはいつもカリカリしてるし、パパは、たまに家に来たと思ったら、私に説教して、またママと喧嘩して、結局、出てっちゃうんだから。二人とも、何がしたいのか……」

「ふーん。そっかあ。朝美のお母さんも記者だもんね。同業者だと、いろいろ難しいのかな。でも、私の父さんも、朝美のお父さんも、ここのところ、ずっと山小屋で泊まりっきりでしょ。疲れてるんだよ、きっと。お母さんが言ってたけど、今度の仕事も、もう少しで終わるだろうって。そしたら、少しは時間もできてさ、朝美のお父さんとお母さんも、また仲良くなるよ。大丈夫だよ」

「そうかなあ。そうだといいけど……」

 前に立つ教員の一人が二人に怒った。

「ほら、そこ。私語するな。シッ」

 口を噤んで下を向いた二人は、そのまま小声で話す。

「うわ、国語の中三谷なかみやだ。相変わらず、酒臭い」

「噂では、あの胸毛で吸い上げて飲んでるらしいよ。ヒヤシンスみたいに」

「水栽培ならぬ、酒栽培。くくく、ウケる。くくく、痛い」

 後ろから朝美を叩いたリカコ先生が小声で叱った。

「ちょっと、山野さん、永山さん。静かになさい。校長先生が、まだ話してらっしゃるでしょ。人が話している時は、ちゃんと聞いてなさい」

「はーい」

「でも、リカコ先生、福沢先生は寝てますよ。ほら、あそこ」

「あれは、寝てるような顔なの。知ってるでしょ」

「じゃあ、陳先生は。ベンチに据わったまま、腕組んで、下向いてます」

「あれは、ズラが落ちないように耐えてるのよ。それも知ってるでしょ。とにかく、静かにしなさい。いいわね」

「はーい」

 二人は、校長の河野光造の話に耳を傾ける。

「……という事でありますので、皆さん、心するように。いいですね」

「はーい。で、何だって?」

「分かんない。聞いてなかった」

 河野校長と入れ替わりに前に立ったリカコ先生が、高い声で生徒たちに言った。

「では、みなさん。出発します。それぞれのクラスのバスに乗ってください」

 生徒たちは、並んで止まる貸し切りバスの方へと、ダラダラと歩いて行く。山野朝美は飛び跳ねた。

「よっしゃあ。出発だあ。ゴー、ゴー、ゴー!」

 山野朝美と永山由紀は、背中のリュックを左右に揺らしながら、全速力でバスまで走って行った。



                  四

 丘の頂上にある緑に包まれた広い公園で、コスプレ姿の生徒たちは整列して座っていた。リカコ先生が前に立ち、生徒たちに話している。

「はーい。皆さん。列を崩してはいけませんよ。皆さんは新志楼中学の生徒として、常に波羅多学園グループの名誉を背負っている事を忘れてはいけません。品よく振舞いましょう。はい、そこ! おしゃべりしない! ちゃんと並びなさい。もうすぐ校長先生がいらっしゃいますわよ」

 お揃いの戦隊ヒーローの恰好をした男子生徒たちが、ヒソヒソと話した。

「なんだよ。また、ミツゾーの話かよ。もういいよ」

「なんで、校長までついて来てんだよ」

「知らね。テレビ局が取材にでも来るんじゃね」

「マジか。じゃあ、女子アナ来んのか、女子アナ」

 ザワザワと生徒たちの私語が始まる。列の一番後ろで腰を下ろしていた山野朝美が、隣の由紀に言った。

「あーあ。やっぱり、ウチも由紀みたいなのにすればよかったかな。こうして見ると、このコスチューム、どうも納得いかないんだよねえ」

「えー。朝美のそれ、すっごくカワイイよ。とくに、その肩のトゲトゲ。超いい。腰のケーブルチューブもかわいい」

「そうかな。由紀のそれの方がいいなあ。その肩に乗っけてるレーザー砲。もう、動き過ぎじゃん。最高。マジかわいい。ウチも自分で作ればよかったなあ。ネット取引ってダメだよねえ。サイズファジーだとか言っててさ、着てみたらブカブカだもんね。あの軍人、ムカつくう」

「そこが、いいんじゃん。何か、ここの胸のところの傷とか、リアルだし。使い古したって感じ。ヴィンテージ感ってやつ? それをブカブカで着るところが大人っぽいのよ」

「そう? そうかな? やっぱり、分かる? 私のセンス。由紀には分かってもらえると思ってたのよね。さすが親友じゃん。実はね、ちょっと大人の色気の中に隠れた幼さを表現してみたの。どう? エロいでしょ」

「うん。うん。でも、やっぱり、本物の軍隊で使ってたヤツって違うよねー。私もコスプレ卒業パーティーは、そういうのにしようっと。朝美、今度そういうの売ってるサイト、教えてね」

「うん。じゃあ、夜にいつもの交換日記サイトで」

「うん。わかった」

 永山由紀は親指を立てた。山野朝美は前を向く。

「それよりさ、リカコ先生は、あれ本当に私服なのかな。やっぱり、コスプレなんじゃなね?」

「微妙だよね。コスチュームだとしても、何になりたかったのかな。ヨーグルト売りって、そんなキャラ無いもんね。あ、マッチ売りの少女かな。今どき真っ赤なリボンって、子供の頃に絵本でしか見たこと無いもんね。それに、あんなフリフリのスカートとか、あの歳で穿く?」

「絶対に穿かない。だいたい、リカコ先生って本当は何歳なんだろうね。異常に若いよね。若返り手術とか受けてるのかな。全身、再生細胞で入れ替えてたりして。くくく」

 山野朝美は笑った。永山由紀が顔を顰める。

「ええー。それは無いでしょ。でもさ、私の父さんが習ったって事は、最低でも四十六か七でしょ。いや、もしかしたら、五十はいってるかも」

 山野朝美は目を丸くした。

「うっそー。マジ? じゃあ、超オバサンじゃん。ていうか、お婆ちゃん。それで、あれ。詐欺だわ、詐欺」

「でね、父さんが言ってたけど、その時から全然変わってないんだって」

「はあ? アンドロイドなんじゃね?」

「あるいは、顔だけ、お面とか。だから変わらない。あ、お面並みにファンデーションを厚塗りしてるとか。大きく口を開けたら、ここにヒビがピキッて」

 永山由紀は頬を指差した。山野朝美は腹を抱える。

「くくく。超ウケル。それ。くくくく」

 前の方からリカコ先生が怒鳴った。

「はい、そこ! 山野さん、永山さん。私語しないの。静かにしなさい」

「はーい」

 下を向いて、永山由紀は言った。

「お面厚塗りアンドロイドに怒られた」

 山野朝美は丸めた背中を細かく振るわせる。

「くくく。死ぬ。苦しい。くくくく」

 列の前で、リカコ先生は言った。

「はい。それでは、これからコスプレ奉仕作業を開始します。ええ、今年は、日頃お世話になっている、この葉路原丘公園の管理人さんに来てもらっていますので、一言、お言葉を頂きます。皆さん、静かにして下さい」

 隅のほうに立っていた作業ズボンに緑色のビニール・ジャンパー姿の初老の男が中央に歩いてきて、少し緊張しながら生徒たちに挨拶した。

「どうも。管理人の市口です。今日はお疲れ様です。ええ、ここは都民の皆さんの憩いの場です。ここの広大な花壇の中に咲き広がる花を楽しみに、連日、多くの方が来られます。今回の植え替えも、多くの都民の皆様が楽しみにして待っていましたので、日の照る中に動きにくそうな格好で大変でしょうが、皆さん、頑張って下さい。ああ、それから、茂みの近くは、蜂や虻や、稀にマムシなんかも出ますから、くれぐれも気を付けて下さい。マダニやツチクラゲも多いですから、作業は花壇の中だけで結構です。防虫手袋は必ずして下さいね。では、宜しくお願いします」

 山野朝美は小声で言った。

「なんか、これ、遠足じゃなくね?」

 永山由紀が頷く。

「うん。騙された感、満載だよね」

 リカコ先生が高い声を張った。

「皆さん、管理人さんの日頃の丁寧な管理に感謝して、心を込めて、苗の植え替えをしましょう。花の苗は全員ちゃんと受け取っていますか」

 生徒たちは声を揃えて返事をする。

「はーい」

 すると、朝美の前に座っているビキニの水着に装飾品を付けた女子生徒が、地面に唾を吐いてから言った。

「ていうか、ちゃっちゃと植えて、早く帰りたいんだけど。わたしは管理人のオッサン達のいやらしい目線に晒されるために、コレ着て来たんじゃないんですけど。まったく」

 後ろの山野朝美は思わず呟いた。

「だったら、そんなサンバ・ダンサーみたいなの着てくんなっつうの」

 振り向いたビキニ姿の女子は、朝美を睨みつける。

「あん? 何よ。何か言った?」

 山野朝美は口を尖らせた。

「何よ。何なのよ」

「朝美。抑えて、抑えて」

 小声で由紀が止めると同時に、リカコ先生の怒号が飛んできた。

「はい。山野さん。おしゃべりしない! あんまりやっていると、また反省授業で分校送りですよ。もう一度樺太で化石の発掘作業がしたいですか。今度は一週間になりますよ」

 周囲の生徒たちがクスクスと笑う。山野朝美は膨れ面で返事をした。

「はーい。すみませんでしたー」

 リカコ先生は他の生徒たちを見回しながら言う。

「皆さんも、いいですね。新志楼中学のモットーは質実剛健と一意専心です。心を込めて、花壇に花を植えましょう。その前に、再び校長先生から尊いお話です。校長先生、どうぞ」

 山野朝美は小声でブツブツと呟いた。

「また? お話するのが好きだねえ、ミツゾー。あの四角い顔に太い眉。何回見ても、下駄にしか見えないわ、やっぱり」

 隣から永山由紀が心配そうな顔で言う。

「朝美、ヤバイって。静かにしときな。こんどはマジでシベリアとか行かされるかもよ」

 河野校長の「尊い話」が始まった。

「ゴホン。ああ、校長の河野光造です。ええ、今日は、毎年恒例のコスプレ遠足を兼ねた社会奉仕作業でありますが、こうして皆さんがコスプレして遠足できるのも、日々みなさんの生活を影で支えてくれている大人の皆さんの努力があるからでありまして、我が新志楼中学では、原田学園グループの一員として、生徒の皆さんに対し、そうした社会からの恩恵に感謝し、いつか恩返しができるように、立派な人物になれと教えておりますが、今、皆さんの手許にある花の苗も、我が新志楼中学校の卒業生であられる名士の方から寄贈された貴重な苗でして、なぜ貴重かと申しますと、その苗は、その方がご自宅で栽培された花から、ご自身で丁寧に株分けされた……」

 山野朝美が小さな声で言う。

「話長くね?」

 永山由紀も同意した。

「うん。やっぱり長い」

「ねえ、由紀。遠足から帰ったらさ、せっかくだから、この格好のまま寺師町のセンターモールに行かない? あそこの地下に新しく文房具屋ができたじゃん。そこにニョロニョロ鉛筆の新色が入ったんだって。見に行こうよ」

「マジで? 行く行く。今度は何? パープル系?」

 二人の会話を聞いていたビキニの女子は、吹き出した。

「ぷっ。ニョロニョロ鉛筆だって。ダッさ。子供じゃん」

 隣の修道女の恰好をした女子が作った声で言う。

「小学生みたーい。恥ずかしいー。ダサーい」

 山野朝美は言い返した。

「なあによ。ニョロニョロ鉛筆の何処がいけないのよ。シスターの格好してキメてるつもりかもしれないけど、そっちだって黒尽くめでダサダサじゃない。ああ、陰気くさ」

 修道女姿のユカは朝美に眼を飛ばす。

「言ったわね。真っ赤ッカのプラモデルみたいな格好してるアンタに言われる筋合いは無いわよ。あったまきた」

 山野朝美は横を向いて言った。

「だいたい、シスターとサンバ・カーニバルのお姉ちゃんって、どういう組み合わせなのよ。その格好で、二人でツルんでる気が知れないわ。ああ、恥ずかしい」

 ビキニ姿のレナが由紀を指差して言う。

「そっちだって何よ。片方は変な武器を肩に乗っけた蛙じゃない。全然、ミスマッチじゃんよ」

 永山由紀はレナに顔を突き出して言った。

「違いますう。これは、透明になる宇宙人ですう。知らないんですか。少しは勉強して下さーい」

 横から山野朝美が誇らしげに言う。

「ウチらは、宇宙つながりでーす。ちゃんと、コンセントがあるんだからね。あんた達と一緒にしないでくれる。フン」

 由紀が小声で言った。

「朝美、コンセプトだよ。コンセプト」

 すると、低い男の声が後ろから響いた。

「オイ。静かにしてねえと。今度の反省授業では、北極圏に飛ばされかねないぜ」

 永山由紀は驚いて肩を上げた。

「きゃ。なに? だれ?」

 スーツの上にトレンチコートを着て、頭にハットを被った「私立探偵」のコスプレ姿の中年男が屈んでいた。彼は立ち上がると、向こうに歩いて行く。

 男を目で追いながら、山野朝美が言った。

「分かんない。去っていった。トレンチコートをヒラヒラさせて。もしかして……」

 山野朝美は深刻な顔を由紀に向ける。

「変態?」

 河野校長の「尊い話」が終わった。

「……と言う訳なのです。みなさん、分かりましたね。私、校長の河野光造からは、みなさんに伝えたい事は、以上です」

 永山由紀が尋ねる。

「朝美、校長先生、何て言ってたの?」

「分かんない。聞いてなかった。こっちと、ガンを飛ばし合ってたから」

 山野朝美はレナの背中を指差した。



                  五

 リカコ先生の甲高い声が、太陽の光が照りつける広場に響き渡る。

「はい、それじゃあ、各クラスの担当の花壇に移動して下さい。ちゃんと、班ごとにまとまって作業するのですよ。いいですね」

 立ち上がった生徒たちが散り散りに歩いて行く。苗を持って花壇へと向かう朝美と由紀にレナとユカが近づいてきた。レナが眉間に皺を寄せた顔を突き出して言う。

「ちょっと、なにスカしてんのよ。売られた喧嘩は買わせてもらうわよ」

 山野朝美は背伸びして答えた。

「いいわよ。やってやろうじゃない。勝負しようじゃないの」

「勝負?」

 永山由紀が首を傾げる。レナは片笑んで花壇の方を向いた。

「フフ、面白いじゃない。いいわ。じゃあ、ここから、ここまでが、私達。ここから、ここまでが、あんた達ね。どっちが早く、苗を植え終わるか、勝負よ」

 隣からユカが言う。

「ま、どうせ、あんた達のその格好じゃ、動きにくくて、負けは見えてるけどね。あ、ハンディーがいるかしら?」

 ユカの小馬鹿にした態度に、山野朝美は憤怒した。

「ムッカー。要らないわよ、そんなもの。このくらいなら、チョチョイのチョイよ。ね、由紀」

「う、うん」

「じゃあ、決まりね。みんなの苗を集めてくれるかしら」

 そう言いながら、レナは思った。

(馬鹿ね。そんな動きにくいコスプレじゃ、勝てるわけ無いじゃない。それに、私の魅惑のボディとユカのロリロリ・シスターに男子はメロメロよ。みんな、途中から、絶対に手伝ってくれるに違いないわ。この勝負、勝った)

 山野朝美も心中で笑う。

(くくくく。後で吠え面かくなよ、この露出狂女にカマトト中学生。由紀の右手には、剪定バサミで作った特殊サーベルが格納されているのじゃ。私の背中のスコップは、先がスナック棒だけど。それに、そんなに露出してたり、黒尽くめだと、絶対に蜂か虻に刺されるはず。くくく。この勝負、不戦勝で勝ったも同然ね。貰ったぞい。くくくく)

 試合の場となる花壇の周りに苗が集められた。車三台分の駐車スペースほどの花壇には、夏に全力で花を咲かせた植物が葉と茎だけになって整列している。真ん中に足で線を引いて区切ったユカが合図した。

「行くわよ。よーい、スタート!」

 山野朝美は防虫手袋をはめながら、花壇の中に飛び込んだ。

「よし。由紀、例の武器で、今植えてある古い株の根元を、順にほじくるのじゃ。ウチが手で抜いていく!」

「オーケー、朝美、分かった。せーの、シャキーん! 行くぞ! とりゃあ!」

 右腕から剪定バサミの一片を突き出した永山由紀は、それで古株の根元を順に掘り返していく。天に向かって高く両手を上げた山野朝美が叫ぶ。

「防虫手袋、装着完了! 朝美、行きまーす! そりゃ、そりゃ、そりゃ、そりゃああ!」

 山野朝美は、由紀が掘り返していった土の上の古株を次々と引き抜いていった。

 隣の花壇の作業を見ていたユカがふて腐れる。

「何よあれ、腕に何か付いてる。反則じゃん」

 レナがニヤニヤしながら言った。

「大丈夫よ、ユカ。向こうの花壇は日向、こっちの花壇は日陰よ。あいつら、あんなコスチューム着て全力で作業していたら、今に暑さでバテるわ。焦ること無い」

「なるほどね、さっすがレナ。頭いいー」

「ほら、作業に飽きた馬鹿な男子が集まってきた。ユカ、笑顔、笑顔。『辛いけど頑張ってるオーラ』を出すのよ。私は、無駄に水着のズレを直すふりをするわ」

「分かった。任せて」

 ユカは眉を寄せて額の汗を大袈裟に拭きながら、辛そうに古い株の茎を引き始めた。

 腰を折った山野朝美は、古株の茎を両手で握り、足を開いて踏ん張っている。

「ぬっ、コノっ。なんじゃ、なかなか、深く根を張ってるぞ。結構、力が要るわ。由紀、もっと深めに土を返せない?」

「よし。じゃあ、これね。じゃーん。伸びろ、如意棒! シャキーん!」

 永山由紀は腰から太い棒を外すと、それを右手で握って高く上げた。棒の左右の端から一回り細い棒が飛び出し、その端から、さらに一回り細い棒が飛び出す。最後に両端から槍先のような金属刃を出して長くなった棒をクルクルと回した永山由紀は、それを土の中に深く突き刺すと、グリグリとほじくり、古株を根元から斜めに倒していった。それを見たユカが、レナの肩を叩く。

「ちょっと、レナ。あいつ、また何か道具を出したわよ。前後に伸びて、槍みたいになった。ズルくね?」

「ユカ。こっちにも武器はあるでしょ。それを使うのよ」

「そうね」

 ユカは急に涙目になると、高い甘え声を出した。

「はああ。ねえ、レナあ。手が痛くなっちゃった。もう、お花を掴めなーい。グスッ」

 涙を拭いているユカにレナが大袈裟に駆け寄る。

「ええ! 大丈夫、ユカ。ああ、血が出てるう。可愛そお。きゃあ、痛ーい。転んじゃったあ。いやだあ、恥ずかしいい。みんな、見ないで」

 レナは自分から転び、体を捻らせて胸の谷間を作って見せた。ユカは涙をポロポロと流しながら、眉を八字にした顔を周囲の男子に見せながら、古株を抜こうとする。

 隣の花壇では、永山由紀が手作りの槍でリズムよく土を掘り返していた。

「うんせ、うんせ、うんせっせ。よし、もう少し」

「由紀、頑張れ。ええい、コノっ。く……抜けた。さあ、次! 掛かって来い、地球!」

 山野朝美は大地と茎の引き合いをする。

 集まってきた男子の中の一人が、声を掛けた。

「大丈夫、ユカちゃん。手伝おうか」

「ええ。ごめんね。ヨウスケ君、ありがとう」

 別の男子も申し出た。

「俺も手伝うよ」

「じゃあ、俺も」

「わあ、ありがとう。みんな、やさしい。ユカ、感激しちゃって、また涙が出ちゃった」

 と言いながら、ユカはスカートのポケットに、こっそりと目薬を仕舞った。ゼッケンを付けた陸上選手の恰好をした男子が言った。

「レナ、この苗を植えていくんだろ」

「ああん。ジュンヤ君、届かなーい。ごめんね、水着が小さすぎて、これ以上手を伸ばすと、ブラが取れちゃうの」

「いいよ。俺がここから、渡してやるよ。ほら」

「じ、じゃあ、僕が、と、隣で、植えるのを、て、て、手伝います」

「ありがとう、マサユキ君。鼻血、大丈夫?」

 流れ落ちる鼻血を拭っている男子の後ろで、山野朝美は太い茎を掴み、顔を真っ赤にさせて、それを引き抜こうとしていた。

「ぬ、く、く……この、最後の……ひと……かぶ……が……」

「朝美、待ってて、今行く」

 駆け寄ってきた永山由紀が朝美と一緒に茎を握る。

「二人で力を合わせれば、絶対に抜ける! いくよ。せーの、ファイトお!」

「いっぱあーつ! わあ」

「ふぎゃっ」

 土を飛び散らせながら、立派な根をぶら提げた太い茎と一緒に、二人は花壇の上にひっくり返った。

 体を起こした山野朝美は、口の中に入った土を吐き出す。

「ぺっ、ぺっ。ふう……ようやく、全部抜けた。あらら、あっちは、クモの巣に男子が大勢ひっ掛かってる。どうする、由紀」

 永山由紀は火照った顔を手で扇ぎながら息を吐いた。

「ふー。どうするも、こうするも、もう、暑くて、死にそう。この肉襦袢、中が蒸れて、蒸れて……」

「そうね……こっちは重装備だからね。ちょっと、休もうか……目眩がしてきた。ええと、水筒、水筒」

 山野朝美はリュックを下ろすと、中から水筒を探し始めた。永山由紀は背中のリュックから伸びたチューブを口に挟み、リュックの中の水筒のジュースを吸う。由紀の発明品に目をパチクリとさせながら、山野朝美は水筒の蓋を開けた。永山由紀はチューブでジュースを吸いながら、遠くの方を見ている。彼女の視線の先には、さっきのトレンチコートのコスチューム姿の背の高い男が立っていた。永山由紀はチューブを背中のリュックに戻して言う。

「それよりさ、さっきのコートのオジサン、あんな端っこで立ったまま、何やってんだろ。双眼鏡で、ずっと、下の街の方を見てる」

 水筒の冷たいお茶を飲んだ山野朝美が、満足そうに息を飛ばす。

「ぷはあ。うう、ごろうぞっぷに染み渡る。生き返ったわい」

「五臓六腑でしょ。ねえ、朝美、あの人、怪しくね?」

「うん。どれどれ……」

 山野朝美は額の上に手を立てて、遠くの木の下に立つとレンチコートの男を覗いた。

「うーむ。確かに、怪しいのお。絶対に、おかしい」

 そしてポンと手を叩く。

「ああ、そうだ。きっと、変人だ。奇人変人に違いない」

「そっかあ。あれが奇人変人かあ」

「前にママが言ってた。奇人変人には近づくなって。あれは、きっと、女の敵ね。絶対にそうだわ」

「どうする。リカコ先生に言おうか」

 山野朝美は隣の花壇と遠くの「奇人変人」を交互に見た。

「そうだね……でも、勝負もあるしなあ。だけど、女の敵も放っておけない。うーん……迷う。どうしよう」

 あぐらをかいたまま腕組みをする朝美の後ろから、男子が声を掛けた。

「おまえら、ちょっと休めよ。あとは俺達が植えといてやるよ」

 山野朝美は振り向いた。タイセイ君だった。慌てて横を向く。永山由紀が言った。

「ああ、タイセイ君。朝美、ほら、タイセイ君だよ。手伝ってくれるって」

「ええと……」

 腕組みをしたまま考えるふりをした朝美は、つい言ってしまった。

「これ、勝負だから、手伝いは不要じゃ。あっち行け」

 タイセイ君は呆れ顔で言った。

「勝負って。向こうを見ろよ。あいつら、何にもしてないじゃん。植え替えてるふりをしてるけど、ほとんど、周りの男子がやってるぜ。これ、もう、おまえらの勝ちだよ。こんな広さを二人だけで、全部の古株を抜いたんだろ。あとは、俺達が植えとくよ」

「朝美、ほら、お礼、お礼」

 そっぽを向いている朝美の顔の前で小さく手を振りながら、小声でそう言った永山由紀は、タイセイ君に言った。

「あ、うん……じゃあ、お言葉に甘えて。あと、よろしくお願いします」

 タイセイ君は笑いながら言う。

「硬いこと言うなよ。同じA組じゃん。気にすんな。おい、みんな、やろうぜ」

 タイセイ君の声に、他の男子たちも朝美と由紀が引き受けた花壇の中に入ってきた。朝美の苗を手に取ったタイセイ君が行ってしまいそうだったので、永山由紀が慌てて言った。

「朝美、早く。お礼でしょ」

「あ、その……ありがと」

 少しだけ振り向いて、小さな声でそう言った山野朝美は、タイセイ君に視線を合わせる事なく、浅めに御辞儀した。そして、すぐに立ち上がると、リュックを左右に揺らして向こうに走って行く。

 永山由紀がタイセイ君に言った。 

「ごめんね、タイセイ君。朝美、シャイだから。ありがとう」

 そして、朝美を追いかけて走っていった。

 空から熱い太陽が照らしていた。



                  六

 朝美に追いついた永山由紀は、頬を膨らませる。

「もう、どうして、ちゃんと話さないのよ。せっかくのチャンスだったのに」

 朝美は左右の三つ編みを振りながら叫んだ。

「ええい! そんな事など、どうでもいいわ。出陣じゃあ! 馬引けい!」

 山野朝美は、群れている女子の方に向かって走っていった。一方、レナとユカは隣の花壇を見て不機嫌そうにしていた。膨れっ面をしたユカが言う。

「ちょっと、レナ。あいつらの花壇、タイセイ君たちが植えてるよ。なんでタイセイ君が、あっちを手伝うのよ」

「え、タイセイ君が? きー、なによ。悔しい。いいわ、私のアピールが足りなかったのね。じゃあ、お尻をそっちに向けてあげるわ。これで、どう。何なら、もっと角度を上げて……イタタッ!」

 立ち上がって尻を叩いたレナは、体を捻って自分の尻を見た。

「なに? きゃっ、蜂、蜂じゃないの。わ、あっち行け。痛い!」

 蜂が何匹も二人の周りを飛び回っている。刺してくる蜂を手で払いながら、ユカが叫ぶ。

「わ、痛い、すごい寄って来る。なんで?」

「あんたが、そんな真っ黒な服着てるからでしょ。痛いっ」

「レナだって、香水つけてるじゃない。それに寄って来てるんじゃないの? きゃっ、痛い」

 二人の惨状を遠くから眺めながら、山野朝美は呟いた。

「まさしく『じぎょうじぎゃく』ですな。ざまあ、みんさい」

 隣で永山由紀が言う。

「たぶん、『自業自得』って言いたかったんだよね。ま、いいけど」

 クルリと振り向いた山野朝美は、女子たちに向かって両手を広げた。

「はーい。清らかな女子の皆さーん。集合でーす。まだ、苗を植えてない人は、その苗を持って、集まってくださーい」

 朝美と由紀の前に女子たちが集まってくると、山野朝美は腰の後ろで手を組み、少し上を向いて言った。

「では、諸君。君達にミッションを与えよう。由紀大佐、説明を」

 敬礼をした永山由紀が一歩前に出て、軍人ぽい口調で言う。

「これより、我が部隊は、この平和な葉路原丘公園に出没した『奇人変人』を討伐しに行く。ターゲットはあのコート姿の男だ。武器は、この苗。攻撃開始時刻はこれより一分後。同作戦は、生徒総会安全保障条約に基づいて、厚化粧国のリカコ先生ほか、周辺教師の協力の下、実施する。以上だ」

 山野朝美は、二人の前で顔を見合わせている女子たちに言った。

「楽しい遠足を害する者はもとより、『奇人変人』は、たぶん女の敵じゃ。心して掛かるように。では諸君、取り掛かってくれたまえ。健闘を祈る。出動!」

 手を高く突き立てた山野朝美は、トレンチコートの男の方に勇ましく突進した。

「続けえ!」

 永山由紀が朝美の後から走っていく。苗を持った女子たちは二人の後を追いかけて、トレンチコート姿の浜田圭二に目掛けて走っていった。



                  七

 トレンチコートの「奇人変人」に攻撃を済ませた山野朝美は、公園の公衆トイレで手を洗っていた。人差し指の先を念入りに洗いながら、彼女は言う。

「やっべ。深く入り過ぎたわ。奇人変人ごときに、我が『朝美スペシャル』を使ってしまうとは……ちと早まったかの」

 隣で鏡を見ながらドレッドヘアのカツラの向きを整えていた永山由紀は言った。

「ていうか、よく手を洗いなよ。相手は知らないオジサンなんだから」

「ターッチ。そして、えんがちょお。はい、由紀に変人菌が移りましたー」

「うわ、汚い。マジ。そりゃ、タッチ返し。はい、朝美に移りましたー。えんがちょー」

「残念でしたあ。私は先に『えんがちょ』って言ったもんねえ。私には移りませーん」

「ええ。ずるい、何よ、それ」

 頬を膨らませる永山由紀の横で、山野朝美は指を洗い続ける。

「ま、とにかく、手を洗いますか。汚いもんね。ちゃんと手洗い用の洗剤を付けてっと」

 永山由紀は心配そうな顔で朝美に言った。

「でも、朝美、やっぱり、ちゃんと言った方がよくね?」

「由紀も、やっぱり、そう思う?」

「そりゃ、そうよ。何も言わずに黙ってるより、そっちの方がいいって。絶対」

 ハンカチで手を拭いた山野朝美は、首を回して、背中のリュックから飛び出しているスコップの柄を見ながら言った。

「だよねえ。この化粧水、満タンだもんね。蓋にハンガーを接着しちゃったし。このまま、ママの鏡台の上に置いていても、絶対にバレるもんなあ。じゃあ、正直に……」

「そうじゃなくって。タイセイ君のことよ。朝美の好きな人、タイセイ君でしょ」

「違いますう。絶っっっ対に、違いますう。タイセイなんかじゃ、ありませーん」

「じゃあ、私がコクっちゃおうかな。タイセイ君は、カッコイイし」

「なんですと!」

 山野朝美は目を丸くする。永山由紀は、そんな朝美の顔を指差した。

「ほらね。絶対、そうだ。タイセイ君だ。今、目がマジだった。それに、さっきの朝美の動揺の仕方ときたら、尋常じゃなかっしねえ。こりゃ、間違いないですな」

 山野朝美は口を尖らせる。

「別に、そういうのじゃ……ただ、親切な人だな、とは思うけど、タイプじゃないし」

 永山由紀は朝美の右肩を叩いた。

「ああやって、苗の植え替えも手伝ってくれたしさ。チャンスかもよ。今日、ここで、コクっちゃいなよ。応援するから。こういう普段と違うシチュエーションの時の方が、成功する確立が高いんだって。お母さんが読んでいた週刊誌の特集記事に書いてあった。『大人の恋の必勝法』ってやつ。『大人の恋』だから、間違いは無いと思う」

「そうかな。コクった方がいいかな。でも、タイセイ君が私なんかに……」

 山野朝美はハンカチをジャージのポケットに仕舞うと、下を向いて黙った。永山由紀が彼女を勇気づける。

「女は度胸でしょ。朝美がいつも言っているじゃない。ファイト」

 顔を上げた山野朝美は、鏡を見ながら言った。

「そっかあ。じゃあ、イチかバチか、やってみるかな」

「その調子」

「でも、どうやって言ったら……」

 山野朝美は、また不安そうな顔を由紀に向ける。永山由紀は朝美に小声で耳打ちした。

「さっきの花壇の植え替えが終わった頃にさ、水筒を持っていくのよ。で、お礼を言って、ねぎらって……」

「葱ラーメン?」

「ええと……とにかく、水筒を差し出して、ちょっと話したいとか、何とか言って、二人っきりになって、後は、そこで一気に気持ちを伝えて……きゃー。これ以上は恥ずかしくて、言えない」

「無理。そんなの、絶対に無理。出来ない」

 山野朝美は三つ編み頭をぷるぷると左右に振る。永山由紀は言った。

「じゃあ、今度、デートに行きませんかとか、一緒に遊園地に行きませんかとかさ。友達になって下さいでも、いいじゃん」

「同じクラスだし。別に今更……」

「ああ、もう。きっかけよ、きっかけ。それが大事だって、『大人の恋の必勝法』に書いてあったんだから。ウチら子供だから、大人の半分でもイケるはずよ。バス運賃だって半額じゃん。大人は、たぶん、高いレストランとか、映画とかに誘うでしょ。で、夜中までデートする。ドラマで、よく、カクテルとか飲んでるじゃん。その半分っていったら、夕方まで遊園地とか、ファスト・フード店とかに行く。一緒に炭酸ジュースを飲む。たぶん、この辺で大丈夫なはずよ。理論上は」

 腕組みをしながら由紀の話を聞いていた山野朝美は、大きく頷いた。

「そっかあ。なるほどねえ。由紀は大人だなあ。見直しちゃった」

 永山由紀は得意気な顔で言う。

「ま、よく、父さんから、『ませてる』とは、言われるけどね。じゃあ、朝美は親友だから、超極秘の裏情報を教えるね」

「なになに」

 目を輝かせる朝美に、永山由紀はまた耳打ちした。

「その『大人の恋の必勝法』によると、成功するには三つのポイントがあるんだって。それが、『三つのT』」

「みっつのてぃい?」

「そ。ええと、タイミングと、テクニックと、あと……なんだっけ。忘れちゃった。お母さんにバレないように、パラパラっと読んだだけだったから。とにかく、ウチらは子供だから、三つのうち二つがあれば十分だと思う。絶対に、イケるはず。そうだ、そういえば、見出しの横に、『絶対にイケる』って、書いてあったもん」

「そっかあ。なんか、勇気出てきた。タイミングと……」

「テクニック」

「テクニックね。タイミングとテクニック、タイミングとテクニック……」

 山野朝美は呪文のように単語を唱えながら、外へと歩いてく。永山由紀も横を歩きながら、ちょっと上から目線で親友に言った。

「こういう壁を一つ一つ乗り越えて、大人になっていくんだから、頑張らないと」

 山野朝美は何度も頷いた。

「そうね。そうよね。うん、そうだ。由紀、やっぱ持つべきものは親友だね。ありがと。ウチ、行くわ。行って、ひとつ、バシッと決めてくる」

 永山由紀が遠くを指差した。

「ほら、花壇の方の植え替えも終わってる。流石は男子達ね。早い早い。あ、タイセイ君が汗を拭いてるよ。今よ。今」

「分かった。じゃ、行ってくる」

 山野朝美が駆け出そうとした時、甲高い声が彼女の足を止めた。

「ちょっと、山野さん! その衣装を見せなさい。永山さんも、こっちへいらっしゃい」

「ゲッ。リカコ先生だ。なんだろ。衣装?」

 リカコ先生は鬼のような形相で、こちらに手を振りながら歩いてくる。

「こっちに来なさい、山野さん。その衣装、国防軍の『ボディ何とか』なんですって?」

 二人はリカコ先生の所まで走っていくと、山野朝美が口を開いた。

「ボディ・アーマーです。全体では、アーマー・スーツって……」

 リカコ先生は厳しい顔で言った。

「それは、その鎧が本物だと言う事ですが、そうなんですか」

「ありゃ、バレた。やべっ」

「やべっじゃありません。すぐにそれを脱ぎなさい。一旦、学校で没収します。ちゃんと元通りにして、私の所まで持って来なさい。いいですね」

「――はい」

 山野朝美は下唇を出した。リカコ先生は隣の肉襦袢姿の由紀にも言った。

「永山さんの衣装も、国防軍の物なのですか?」

 永山由紀は顔の前で右手を振る。

「いえいえ。これは違……あら、やばい」

 右腕の防具から剪定バサミが飛び出した。リカコ先生は反射的に身を引く。

「ちょっと、危ないじゃないの! 何ですか、その右手から飛び出した刀は! ここは公園ですよ。合戦場じゃないんですよ。すぐに、その危ない仕掛けを外しなさい! 誰か怪我したらどうするの。永山さんも、後でそれを持ってきなさい。いいわね」

「――はい」

 永山由紀は頭を下げた。左肩の砲筒も御辞儀する。それを見て、リカコ先生は言った。

「その肩の上で動いているのは? それも危険な物ですか」

「あ、いいえ。父さんのドライヤーです」

「ドライ……何でもいいから、それも外して、持ってきなさい! いいわね! それが済むまで、二人とも、お弁当を食べちゃいけません! わかった?」

 俯いた二人は、声を揃えて返事をした。

「――はい」

「大きな声で」

「はい。分かりました」

 山野朝美は顔を上げると、リカコ先生に尋ねた。

「あのう、リカコ先生。さっきの変質者は、どうなったんですか」

 リカコ先生は教師として子供たちに教育する。

「あの方は、ただの変質者ではありません。探偵さんの変質者です。ちゃんとお仕事の最中だったのよ。今後は、もっとよく確認してからにしなさい。怪しい人間に注意するのは、女として当然だけど、怪しい探偵さんにも注意して……」

 リカコ先生はキョロキョロと周囲を見回した。

「あら、どこに行ったのかしら。さては逃げたわね。待ちなさい、変質者探偵! ウチの生徒達に手を出したら、ただじゃおかないわよ! 何処行ったの。出てらっしゃい。この山東さんとうリカコが相手よ!」

 リカコ先生は丘の東の駐車場へと走っていった。

「あらら。行っちゃった。意外と足が速いんだね」

 リカコ先生の後姿を見送っている由紀の隣で、山野朝美が焦っている。

「あれ、タイセイ君は? タイセイ君も居なくなっちゃった」

 遠くで振り返ったリカコ先生が、こちらに向けて大声で怒鳴った。

「お昼までに提出するんですよ。いいですね。それまでは、お弁当は抜きですからね」

「はーい……」

「聞こえない! 返事は!」

「はああい!」

 大声で返事をした二人は、同時に項垂れた。山野朝美は呟く。

「最悪だ。最悪の展開だ」

 顰めた顔で遠くのリカコ先生の姿を眺めながら、永山由紀も言う。

「うわあ、リカコ先生、怒ってるわ。はあ……こりゃあ、反省授業で送られるのは、シベリアかな」

 山野朝美は肩を落として呟く。

「アラスカかも……もう、寒いの嫌」

「だよね。……」

「化石も興味ない」

「だよね……」

「タイセイ君もいない」

「はあ……どうする?」

「どうしよう……」

 二人はトボトボと、駐車場のバスの方まで歩いて行った。



                  八

 新志楼中学校舎の「反省室」には、幅の広い会議机が置かれているだけである。普段は教職員の座談室や昼食部屋として使用されているこの部屋は、寄贈品の受け渡しの儀式や記念式典の来賓の様子など大人たちの行事を記録した写真が壁に並べて貼られているだけで、実に殺風景だ。それらの写真は、大人の模範的な行いとして説教のネタにするために貼られているのだろうが、「反省室」の常連である生徒にとっては見慣れた写真で、関心も興味も湧かない。この二人の中学生もそうだった。会議机の隅の席に赤いジャージ姿の山野朝美と汗に濡れた半袖の体操服姿の永山紀子が並んで座っている。朝美の膝の上には、段ボール製の追加パーツを貼り付けた赤い戦闘防具が載せられていた。彼女はその手作りのパーツを軽量超合金の防具から引き剥がすこしに必死である。隣の席の永山由紀は斑模様の肉襦袢をせっせと畳んでいる。ドレッドヘアのカツラと短く戻された伸縮槍、剪定バサミを格納した防具は机の上に置かれていた。永山由紀は畳んだ肉襦袢をそれらの横に置きながら、上目使いで壁の時計を見た。まだ正午前だった。彼女はそのまま目線を下に降ろす。向かいの席では、学校に苗を寄贈した名士と握手する河野校長の写真を背にして、左目をオレンジ色に光らせたリカコ先生がイヴフォンで通話していた。

 リカコ先生は何度も頭を下げながら話している。

「はい。そうです。先ほど、お電話した通りでして……いえ、まさか。本人は子供ですから、そこまでの認識はなかったのだと思います。――はい。――ええ、ですから、本人だけ遠足を切り上げて、学校に連れて戻りました。――そうです。――はい。――ここで、預かっています。――いえ、どこにも。――はい、分かりました。――そうですか。わかりました。……はい。今後は二度と此のような事をしないよう、本人にも、よく言い聞かせておきますので、何卒、寛大なるご対処をお願いいたします。――はい。お待ちしております。――はい。ご迷惑をお掛けいたします。本当に申し訳ございませんでした。失礼いたします」

 最後に深く頭を下げたリカコ先生は、ブラウスの胸元に挟んだイヴフォンのスイッチを押して通話を切ると、疲れたように一度深く息を吐いた。リカコ先生は顔を上げる。

「今、国防省に連絡しました。すぐに、ここまで、その鎧を回収しに来るそうです。山野さんからも、係りの方が話しを聞きたいそうだから、そのつもりでいなさい」

「ぬ、く、く、この、接着剤……全っ然、取れない。チョー強力」

 山野朝美は歯を喰いしばって、防具の右肩の盾を引っ張っていた。リカコ先生が癇癪を起こす。

「山野さん! 聞いているのですか!」

 リカコ先生の大声に、山野紀子は首を竦めた。リカコ先生は椅子から立ち上がると、怒鳴り続けた。

「それまでに、その『ボディ何とか』を元通りにしておくのですよ。永山さん、あなたも手伝いなさい! 一緒になって浮かれていたのだから、あなたも同罪です。シールなども、ちゃんと、きれいに剥がしておくのですよ。いいですね!」

 永山由紀は答えた。

「はーい。でも、リカコ先生。お弁当は……」

「そんなものは、それを元通りにし終わってからにしなさい! まだ正午になる前じゃないの。やるべき事から、ちゃんと終わらせなさい! それまで、二人とも、この反省室から出ては駄目ですよ。いいですね」

「……」

「いいですね!」

「はーい」

 二人は声を揃えて返事をした。リカコ先生は由紀の剪定バサミを格納した防具と伸縮槍を持って、反省室から出て行った。

 激しく閉められたドアを見ながら、永山由紀が言う。

「リカコ先生、マジギレする寸前だね」

「ごめんね、由紀。私のせいで」

「いいの、いいの。親友じゃん。それより、これ、外さないとね。やっぱり、取れない?」

「うん。無理。どうしよう。このままじゃ、受け取ってくれないのかな」

「たぶん、駄目だよね。さっきのリカコ先生の話だと、これ、国の所有物らしいもんね」

 山野朝美は、半泣き顔で言った。

「どうしよう。逮捕されちゃうのかな」

「大丈夫よ。もし、そうなったら、私が命がけで弁護してあげる」

「ほんと。頼むからね。お願いね」

 永山由紀は胸を張り、その胸を拳で叩く。

「任せなさいって。裁判だって初めてじゃないし、また裁判所に行けるし、地下のステーキ・ピラフも……」

「裁判所に遊びに行きたいだけか、おぬし」

「ち、違う、違う。親友じゃん。弁護よ、弁護。それより、これ、何とかして取らないと」

「どうしよう。右肩のシールドは取れたんだけど、この左肩のトゲトゲは、ホントに取れない、ぬっ、このっ……駄目だ」

「二人で引っ張ってみようか。朝美は、そっちを持ってて。いくよ、せいの……うーん」

 二人は向かい合うと、朝美が胴鎧を掴み、由紀が棘を付けた肩の鎧を掴んで、足の底同士を合わせ、それぞれ後ろに力いっぱいに引っ張った。

「うーん……」

 それでも、肩の鎧は胴鎧から外れなかった。山野朝美は手を振りながら言う。

「駄目だ。全然取れない。それに、お腹も空いて、力も入らないし……」

「例のスナック棒は?」

「リカコ先生に没収された」

「じゃあ、少しだけ、お弁当を食べちゃおうか。それから作業をした方が、効率がよくね?」

「それも、そうじゃの。よし、そうと決まれば、善は急げじゃ。さっさと……」

 山野朝美が床に置いたリュックに手を伸ばしたと同時に、入り口のドアが開いた。

「はい、山野さん。何しているのですか」

 リカコ先生だった。山野朝美は固まったまま、答える。

「いや……これが取れなくて……。ハサミかペンチはないかと……」

 リカコ先生は呆れ顔で溜め息を吐いた。

「はあ。――仕方ないわね。後で持ってきてあげますから、先にお弁当を食べてしまいなさい」

 二人は目を丸くする。

「え? いいんですか?」

 リカコ先生は言った。

「たった今、十二時になりましたからね。本当なら、まだもう少し後の時刻に昼食ですけど、国防省の方がいらっしゃいますから、その前に食べてしまいなさい。事情聴取は長くなるかもしれないし、せっかく親御さんが遠足の為に作ってくれた御弁当ですしね。ただし、昼休みではないですからね。御トイレ以外では、部屋から出てはいけませんよ。それから、二人とも制服は持ってきてないの?」

 二人は首を横に振った。リカコ先生は由紀を指差した。

「永山さん、あなた、そのシャツは脱ぎなさい。汗でびしょびしょじゃないの。先生の着替えのTシャツとジャージを貸してあげますから、それに着替えなさい。山野さんには、余っている制服を探してきますから、それを着なさい。たしか、学校のパンフレットの撮影でモデルさんが着たのが残っていたはずですから。そんな格好で国防軍の方にお会いしたら、印象が悪いでしょ。いいわね。じゃあ、早く食べてしまって、その『ボディ何とか』を、ちゃんと元通りにしておくのですよ。いいですね」

「はい。ありがとうございます。リカコ先生」

 二人はそう言って、深々と頭を下げた。リカコ先生は再び出て行った。ドアの向こうでスリッパの音が小さくなっていくのを確認してから、永山由紀が言った。

「んー。意外といい先生だね」

「そうだね。びっくりした。遠足で学校には他の先生がいないからかな。本当はいい人なのかも」

「でも、そうと決まったら……」

「お弁当ターイムじゃ。いやっほおい」

 二人は競うように急いで身を屈め、床の上のそれぞれのリュックに手を入れると、中からお弁当箱を取り出した。袋やケースから出し、それぞれに弁当を広げる。永山由紀が朝美のお弁当を覗き込んで言った。

「わあ、朝美のお弁当、豪華あ」

「ホントだ。お、肉巻きキャロットも入ってる。アスパラも。ラッキー」

 山野朝美も親友のお弁当を覗いた。

「おお、由紀のお弁当も、美味しそうね。小母さん、料理とか上手そうだもんね」

「あ、特製玉子焼きだ。ベーコンとレタスが巻いてあるやつ。美味しそう」

「ね、どれか一つずつ、交換しようか」

「そうだね。じゃ、好きなの取って」

「そしたら……これ。はい、由紀も、どうぞ」

「じゃあ……これを、もーらいっ」

 お弁当の中身を少しずつ交換した二人は、揃って手を合わせて、元気よく言う。

「よし。じゃあ、せーの。いっただっきまーす」

 二人は反省室の中で、楽しそうにお弁当を食べ始めた。



                  九

 少し大きめのピンク色のジャージを来た永山由紀が廊下で朝美を待っていると、応接室のドアが開き、背広姿の男が二人出てきた。二人とも険しい顔をしている。そのうち一人は、左肩に棘付きの丸い肩当が接着されたままの深紅の胴鎧を抱えていた。永山由紀は前を通る二人に会釈したが、二人は無視して会話しながら通り過ぎた。

「まったく……妙な物をくっ付けやがって。これ、確実に廃棄だな」

「軍規監視局が報告を待ってますから、まず、写真だけ撮っておきますか」

「そうだな。担当の監察官は誰だ」

「例のパートの監察官ですよ。あの人、いろいろ細かいんですよね。パートのくせに」

「面倒くせえなあ。おまえから適当に報告してくれ。どうせ中学生のガキの遊びだからな」

「了解です。まったく、忙しいのに……」

 永山由紀は口を横に広げて、二人の男の背中に顔を向けた。応接室からブカブカのブレザーに丈の長いスカートを穿いた山野朝美が出てきた。永山由紀が駆け寄る。

「大丈夫、朝美。尋問、どうだった」

「怖かったあ。何に使うつもりだったのかとか、誰かに頼まれたのかとか。いろいろ聞かれた」

「あの人たち、誰? 『深紅の旅団レッド・ブリッグ』の人たち?」

 山野朝美は手に持った名刺を見ながら答える。

「ううん。国防省の総務局総務部総務課の人だって。総務三連発。すげっ」

「ふーん。何か感じ悪いね。ああいう大人には成りたくないわよね。それで、他に何か言われたの?」

「後で家に来るって。私のパソコンを調べるんだってさ」

 永山由紀は目を見開いて声を上げた。

「ええ! それ、まずいじゃん。ウチらの交換日記通信が読まれちゃうよ」

 山野朝美も目を大きくする。

「ああ、そうか。忘れてた。先生達の悪口とか、すっげー書いてるもんね。どうしよう」

「とりあえず、急いで帰って、削除しようよ。あの、中三谷先生の鼻毛のやつとか、ヤバイって。あれは消しとかないと」

「そうだね。ええと、まず、このブレザーとシャツをリカコ先生に返して、あとは自転車で全力疾走……ゲッ、やばい、ママだ」

 廊下の向こうから二人の母親が歩いて来た。山野紀子と永山祥子である。右に左に体を運んでオロオロする朝美を見つけた山野紀子は、廊下の端まで響き渡るほどの大声で怒鳴った。

「コルァ! 朝美! あんたって子は、何てことしてくれたの! 待ちなさい!」

 山野朝美は由紀の手を引いて、廊下の角に隠れた。彼女は泣きそうな顔で言う。

「ヤバイ、由紀、どうしよう。殺される。化粧水の瓶の事、もうバレちゃったのかな」

「違うと思う。この事だよ、きっと」

 永山由紀は、朝美が手に持っていた名刺を指差した。納得したように頷いた朝美の襟を山野紀子が掴み、自分の方を向かせる。

「朝美! あんた、自分のした事が分かっているの。民間人のあんたが、国防軍の兵器を購入したのよ。犯罪じゃないの。分かってるの!」

「紀子さん、まあ、落ち着いて」

 横から永山祥子がそう言った。山野紀子は少し気を落ち着けると、朝美に言った。

「あんな物を着て遠足に行くなんて、何考えてるのよ。命でも狙われたら、どうするの! 由紀ちゃんや、一緒にいる友達にも危険が及んだかもしれないのよ。この前、ママとパパがどんな目に遭ったか、話したでしょ。どこを聞いていたのよ」

 山野朝美は下を向いて、小さな声で言った。

「ごめんなさい……」

 そこへリカコ先生がやってきた。

「まあ、まあ。山野さんのお母さん、落ち着いて下さい。今回は、何の御咎おとがめも無く終わりそうですから、その辺で。本人も反省しているようですし」

 山野紀子はリカコ先生に深々と頭を下げた。

「山東先生、本当に、この度は、ご迷惑をお掛けしました。よく叱っておきますから」

 山野と一緒に頭を下げていた永山祥子は、横で立っている由紀の後頭部を押さえた。

「ほら、由紀も謝りなさい。本当に、申し訳ありませんでした」

 永山由紀は仕方なく謝った。

「申し訳ありませんでしたあ」

 山野紀子は眉を寄せてリカコ先生に言った。

「これから国防軍の方が自宅の方にも来るそうなので、今日のところはこれで失礼します。校長先生には、また改めてご連絡させていただきますので。本当に、申し訳ありませんでした。それでは。ほら、来なさい、朝美」

 リカコ先生は紀子に言った。

「河野校長には私からも報告しておきますから、どうぞ、ご心配なさらず」

 そして、朝美と由紀の方に厳しい顔を向ける。

「山野さんも、永山さんも、以後は気をつけるのですよ。こうやって、お父さんとお母さんにご迷惑が掛かるのですから。もう、こんな事はしてはいけませんからね。いいですね」

 永山由紀が返事をした。

「はーい」

「ちゃんと謝りなさい、由紀!」

 母親に叱られ、永山由紀はしゅんとした様子で言い直す。

「以後、気をつけます。すみませんでした」

 山野紀子が怒鳴った。

「朝美!」

 山野朝美は小さな声で言う。

「すみませんでした……グスッ」

 泣きかけの朝美の襟を掴んで、山野紀子はリカコ先生にもう一度頭を下げた。

「では、失礼いたします。後でまた、お電話いたしますので」

 山野朝美は母親に襟を掴まれたまま、廊下をトボトボと歩いて行った。



                  十

 永山宅の狭いリビングのソファーに山野紀子と朝美が座っている。二人は改めて、永山宅を訪れていた。永山祥子は二人の前にお茶を出すと、ソファーに腰を下ろした。隣には由紀が座っている。L字に置かれたソファーの角で膝を寄せている紀子と祥子。それぞれの母親の横に座っている朝美と由紀は、ソファーの端で申し訳無さそうに下を向いていた。

 山野紀子は祥子に言った。

「はあ、もう、本当に御免なさいね。ウチの朝美がとんでもない事を……。お宅の由紀ちゃんまで巻き込んじゃって。本当に、この子は何を考えてるのか……」

 隣の朝美を睨みつける紀子に、永山祥子は言った。

「そんな。ウチの由紀も悪いんですから、ウチはウチで、叱っておきますから。それより、家宅調査の方が大げさなことにならなくて、良かったですわね」

「ええ。娘の部屋のラップトップ一台を持っていかれただけで済んだわ。あと、娘のウェアフォンも。今日一日、国防軍で預かって、解析するんですって」

「でも、それだけで済んで、よかったですね。さっき電話したら、主人も心配していましたから」

「そう……」

 山野紀子は、祥子の夫と共に行動しているはずの自分の前夫から連絡が来ていない事に若干の苛立ちを覚えた。しかし、それを打ち消すように無理に笑顔を作って、祥子に言った。

「もう、お宅のご主人にも合わす顔がないわ。あ、これ、ご迷惑を掛けたお詫びといっては何なんだけど。よかったら、由紀ちゃんと食べて」

 山野紀子は亜細亜堂の今福饅頭の菓子折りを差し出す。永山祥子は慌てて手を振った。

「あら、どうして、そんな。そんな事をされると、こちらとしても……。由紀が借りたジャージとTシャツのクリーニングまで、そちらにお願いしたのに」

「それは気にしないで。どうせ、朝美が借りた制服もクリーニングしないといけない訳だから。それに、ハルハルに頼んだだけだし。あの子、実家がクリーニング屋なのよ」

「でも、それとこれとは……」

「いいの。受け取って。気持ちだから」

「じゃあ、遠慮なく……。すみません。ほら、由紀。あんたからも、お礼をいいなさい」

 永山由紀は上目使いで紀子を見ながら、頭を下げる。

「ありがとう……ございます」

 軽く手を振って応えた山野紀子は、朝美の方を向いた。

「朝美。あんた、明日、ちゃんと国防省までパソコンとウェアフォンを取りに行くのよ。そして、しっかり怒られてきなさい」

 山野朝美は目を丸くして、自分の顔を指差した。

「え、私一人で行くの?」

「当たり前でしょ。あんたが悪いんだから。それに、ママは今、すごく忙しいの。分かってるでしょ」

 永山祥子が口を挿んだ。

「あら。じゃあ、オバちゃんが一緒に取りに行ってあげるわよ。国防省なんて所に行くのに、一人じゃ心細いでしょうから」

 山野朝美は祥子の顔を見る。

「本当ですか?」

「コラッ、朝美」

 朝美を一喝した山野紀子は、祥子に言った。

「祥子さん、ありがとう。でも、いいの。一人で行かせるから。いつまでもヨチヨチ歩きの子供じゃないんだから、自分のとった行動には、ちゃんと責任をとらせないと」

 そして、再び朝美の方を向いて言う。

「いいわね、朝美。ちゃんと自分一人で取りに行くのよ。分かった」

「はい……」

 永山祥子は心配そうな顔で紀子に言った。

「そんな、紀子さん。いくらなんでも、あんな所に一人で行かせるのは……」

 山野紀子は朝美を見たまま応えた。

「いいのよ。国防軍に興味があるんでしょうから。現実を見てくるといいわ。いいわね、朝美。午前中のうちに行くのよ。学校には、ママから連絡を入れとくから」

「はい……」

 山野朝美は肩を落として、小さく首を縦に振った。

 出されたお茶を一口啜った山野紀子は、祥子の方を向いて言った。

「じゃあ、ホント、長居しちゃって、ごめんなさいね。こんな夕飯時に。そろそろ失礼しますわね」

「いいんですよ。どうせ、ここのところは由紀と二人だけでしたから。あ、よかったら、ウチでお夕飯を一緒にどうです? ね、朝美ちゃん」

 祥子にそう言われた山野朝美は、嬉しそうに由紀と顔を見合わせた。しかし、山野紀子は首を横に振った。

「いいえ。とんでもないですわ。それに、私も一度、社に戻らないと。来客を放り出して、その後の企画会議もスッポカシちゃったから」

「あらあ、そうなんですか。じゃあ、朝美ちゃんだけでも、どう? 帰りは、お宅まで送って行きますから。ねえ、朝美ちゃん」

 永山祥子は、朝美の方を見て微笑みかけた。朝美は紀子の視線を気にしながら、少しだけ頭を下げる。すると、山野紀子が強く言った。

「いえ、そんな。祥子さん、それは悪いわ。迷惑を掛けたうえに、娘の面倒までは焼かせられない」

 永山祥子は顔の前で手を振る。

「そんな、面倒だなんて……。それに、こうして、たまに主人がいない日が続くと、娘と二人だけでしょ。ちょうど寂しかったのよ。ホログラフィー通信もなるべく使わないようにしてますし。朝美ちゃんも一緒だと、きっと食事も楽しいわ」

 永山祥子は再び朝美に笑顔を見せて、彼女を夕食に誘った。しかし、今度の朝美は、祥子に対し少し寂しげな笑顔を見せただけで、何も言わなかった。すると、山野紀子が再度、祥子に頭を下げて、椅子から腰を上げた。

「ありがとう、祥子さん。でも、今日はこんな事があった日だから、気持ちだけで……。また日を改めて、みんなでお食事しましょ。とにかく、今日は良くないわ。この子にも、ちゃんと反省させないと」

 そして、朝美の方を見て、彼女に立つように促した。

「ほら、朝美、帰るわよ」

 朝美は、荒っぽくソファーから立ち上がると、涙目で紀子を睨んで、言い放った。

「ウチは、いっっつも、夕食はママと二人だけじゃん!」

 山野朝美はリビングから駆け出して行き、真新しい玄関のドアを開け広げたまま、永山宅から飛び出していった。

「朝美……」

 山野紀子はソファーの前に立って玄関の方を見たまま、動けなかった。



                  十一

 次の日の朝、制服姿の山野朝美は、ふて腐れた様子で自宅マンションの一階エントランスから出てきた。後ろから山野紀子が付いてくる。

「ウェアフォンを返してもらったら、それでちゃんと電話しなさいよ。分かった?」

「うるさい。分かったってば」

 山野朝美は振り向きもせず、速足で歩きながら、そう返事をした。山野紀子は更に続けた。

「ママ、十時からお昼までは臨時の編集会議だから、その時は留守電に入れといて。いいわね」

 山野朝美は前を向いたまま、後ろに手を振った。

「はい、はい」

「『はい』は一回でいいでしょ!」

 朝美の横着な態度に腹を立てた山野紀子は、駐車場の前で立ち止まり、娘の背中に言い続けた。

「家に着いたら、学校に行く前にもう一度、ママに連絡するのよ。学校にも、ちゃんと行きなさいよ。午後から行くって山東先生にも電話してあるんだからね。分かった?」

 山野朝美はスタスタと歩いていきながら、怒鳴った。

「いちいち、うるさい! 行けばいいんでしょ、行けば! 行ってきます!」

 山野朝美は三つ編みを振って、速足で歩いて行く。山野紀子は娘が通りに出るまで、その場に立って背中を見送った。

 通りに出て坂道の方に歩き始めた山野朝美は、坂の途中のガードレールに腰を載せている親友に気付いた。

「あれ? 由紀」

 制服姿の永山由紀は、ガードレールから腰を上げると、リュックの左右のベルトを握りながら駆け寄ってきた。

「大丈夫? だいぶバトルってたみたいだけど」

 山野朝美は不機嫌そうに言う。

「あのオバサン、チョーうるさい。ハイパーむかつく」

「……」

 その後、二人は無言で坂道を下っていった。暫らくすると、ふと顔を上げた山野朝美が、由紀の顔を見た。

「あれ、そういえば由紀、なんで来てんの。学校は?」

「うん。お母さんが、一緒に行っていいって。学校にも電話してくれた」

「私と? 国防省に? マジ?」

「うん。だって、朝美一人じゃ心配だし。お母さんも、そうしてあげなさいって」

 山野朝美は口を尖らせた。

「ふーん。由紀のお母さんって、チョー優しいよね。羨ましいな。ウチのママとは大違いじゃん」

「ウチのお母さんも、怒ると怖いよ。ものすごく」

 山野朝美は目を丸くする。

「マジ? 意外」

 そして、嬉しそうな顔で言った。

「でも、ありがとう。めっちゃ心強い。やっぱ、由紀は親友だね」

「当たり前じゃん。親友を見捨てる訳ないでしょ。任せて、私がバッチリとガードしてあげるから」

「由紀……」

 少しだけ目を潤ませた山野朝美は、胸を張って大股で歩き始めた。

「よーし。そんじゃ、国防省に乗り込みますか。絶対に、私のパソコンと携帯を取り返してやる。勝手に持って行きよって」

 永山由紀が掛け声をかける。

「そうだ、そうだ。その調子」

 山野朝美は拳を握った右手を高く突き立てた。

「女子中学生がネットを一晩使えないってのが、どれくらい重大な事か、ちゃんと分かってるのかー」

 永山由紀も拳を突き立てた。

「そうだ、そうだー。重大だぞー。親友と交換日記通信も出来ないぞお。人権侵害だあ」

「昨日の出来事をいっぱい書いて、由紀と通信しようと思ったのに、なーんにも出来なかった。ぜっっったいに、慰謝料をふんだくってやる。『そんばいがいしょう』じゃ!」

 リュックのベルトを強く握って腹から声を出した朝美の横で、永山由紀が呟く。

「損害賠償……だよね」

 山野朝美は、そんな間違いは気にしない。彼女は力強く気勢をあげた。

「出陣じゃ! えい、えい、おー!」

 二人は足を大きく上げて、勇ましく坂道を下って行った。



                  十二

 有多町にある巨大な国防省ビルは、入り口と門との間に、少し距離がある。門は狭く、すぐ横に警備兵たちの詰め所があり、ビルの入り口との間にも、検問ゲートのような物が設置されていた。周囲の塀は分厚く頑丈で、高い。塀の切れ目の狭い門の左右には、迷彩服の上に深緑色の鎧を付けた大柄な兵士が、機関銃を握って立っている。敷地の中に立つ彼らは、厳しい顔で近づく人間に睨みを利かしていた。

 国防省ビルの前の歩道は広い。車道とは桜並木で区切られている。国防省の狭い門の近くの桜の幹の陰から二つの頭が横に出た。低い位置から出た頭は、すぐに幹の後ろに隠れた。桜の幹に背中の四角いリュックを押し当てた山野朝美に、永山由紀が尋ねる。

「どうする、朝美。行く?」

「ま、待って。まだ、心の準備が……」

 もう一度、幹の陰から門の方を覗きながら、永山由紀が言った。

「なんか、あの門の前に立っている戦闘服の人たち、すごく怖い」

 山野朝美は、由紀の背中の後ろから頭半分だけを出して、再度、警備兵を覗いた。

「いやいや、あれはたぶん、新兵よ。二等兵って言うのかな。たいした事ない……はず」

「じゃあ、あの中には、あの人たちよりも、もっと怖そうな人が沢山いるのかな……」

「ゴクッ……」

 山野朝美が生唾を飲む音が聞こえた。永山由紀は振り向いて尋ねる。

「行かなくて、いいの?」

「あ、そうだ。生徒手帳を持ってくるの忘れてた。取りに帰らないと……」

 帰ろうとする朝美のリュックを掴んで、永山由紀は言った。

「駄目だよ、朝美。中に入らないと、パソコンとウェアフォンを返してもらえないよ」

 山野朝美はハンカチで額の汗を拭きながら頷いた。

「そ、そうだね。それが無いと、由紀とも交換日記も立体通話も出来ないもんね。よし、行こう。大丈夫。怖くない、怖くない」

 そう自分に言い聞かせた山野朝美は、その狭い門の方に歩いて行った。永山由紀も後について行く。

 山野朝美は、歩道を横切りながら呟いた。

「だ、大丈夫、怖くない、ただの新米兵士だ、下っ端だ。無視だ、無視。無視して中に入れ。頑張れ、朝美」

 強面の警備兵の姿が視界の中で大きくなってくる。山野朝美はその前を他人のふりをして通り過ぎようと心に決めた。下を向き、速足で門の中央を通り抜けようとする。

「おい」

「はい!」

 やっぱり止められた。当然である。彼女と警備兵とは、そもそも他人だった。

「そこで止まれ。何だ、おまえ。中学生か?」

「は、はい。そうです」

「何の用だ。ここはゲーセンじゃないぞ」

「い、いえ、その、あの、私は旅のチリメン問屋で、この者は、ただの連れでして、決して、怪しい者では……」

「チリメン問屋?」

 警備兵は恐い顔を顰めた。朝美の後ろに隠れていた永山由紀は、小声で朝美に言った。

「違うでしょ、朝美」

 山野朝美は直立したまま顔の横に手を挙げた。

「あ、ウソです。本当は、波羅多学園グループ新志楼中学の真面目な学生でして、中に用事があるので、少しばかり、お通し願えればと……」

 門番の警備兵は、太く厳しい声を朝美に押し付けてくる。

「中に用事? 誰かに会いに来たのか」

「ええ。まあ、会いに来たと言えば、会いに来たといいますか、取り返しに来たといいますか……」

 その兵士は少し体の向きを変えて朝美の進行を遮るように立った。

「なんだと? 新志楼中学だとか言ったな。なら、学生証は」

「が、が、学生証?」

 山野朝美は外れそうになった顎を必死に押さえた。兵士は朝美を睨み付けたまま言う。

「生徒手帳でもいい。なんか持ってるだろ」

 山野朝美は視線を逸らし、オドオドしながら答えた。

「あの、その、それが、家に忘れてきて……」

「じゃあ、そのリュックの中を見せろ」

「え? こ、これですか?」

「早く見せろ。中学生なら、教科書とかが入ってるだろ」

「ええと、あの……」

 山野朝美は思いっきり視線を逸らした。業を煮やした兵士は、語気を強める。

「いいから、チャックを開けて中を見せろ。爆弾や細菌兵器でも入っていたら、かなわんからな」

 それを聞いたもう一人の兵士が、朝美に自動小銃を構えて警戒した。奥の兵士たちも一斉に腰の拳銃に手を当てる。山野朝美は両手を上げて答えた。

「みみみみ、見せ、見せ、見せせせせ」

 後ろから永山由紀が代わりに答えた。

「見せます。見せます」

 震える手でリュックを下ろした山野朝美は、腰を引きながら、それを兵士に差し出した。その兵士は、受け取ったリュックを荒っぽく開け、中を調べる。

「ああ? なんじゃ、こりゃ。ベルトか?」

 バックルに風車が付いているベルトが出てきた。兵士はそれを中に戻すと、眉間に皺を寄せた。

「他は……スナック菓子と髪留めしか入ってねえじゃねえか。こりゃ何だ、スケッチブックか。教科書はどうした」

 山野朝美は正直に答えた。

「あ、いや、その、えっと、今日は、学校はお休みなので、ここにパソコンを入れたら、帰りに、ちょっと昭憲田池の辺でお菓子でも食べながら、次のコスチュームの構想を練ろうかと……」

 兵士の顔は余計に険しくなった。

「パソコン? 情報端末の持ち出しは厳重管理されているはずだ。それに、今日は平日だろ。火曜日じゃないか。なんで学校が休みなんだ」

 山野朝美は事情を説明する。彼女なりに。

「私たちだけが休みというか、休みになっちゃったと言うか、つまり、その……ふりふり休日です! ふりふり休日」

 後ろから永山由紀が小声で言った。

「朝美、それを言うなら『振替休日』だよ。だけど、私達だけ振替休日って変だよ」

「そっか。しまった」

 兵士は荒っぽくリュックを突き返した。

「フリフリ休日? この野郎、ガキだと思って優しくしてりゃ、調子に乗りやがって。ナメてんのか、コラ」

 兵士は強く睨み付けた。山野朝美はリュックを抱かかえたまま、顔をぷるぷると左右に振る。三つ編みが由紀の顔に当たった。鼻を押さえる由紀の前で、山野朝美は必死になって訴えた。

「い、い、いえ。いいえ。と、と、ととと、とんでもないです。大好きです。国防軍、大好き。アイ・ラブ・アーミー!」

 永山由紀も、鼻を押さえながら、朝美に加勢した。

「私達、国防軍のファンです。ファン。マニアです」

 兵士は呆れ顔で言った。

「じゃ、なんだ。ただの見学か。ここは博物館じゃないぞ。国防展示館に行きたければ、そこの角の交差点を渡って、向こうのバスに乗れ。遊園地前で降りれば、すぐに目の前だ」

「あ、ご親切にどうも。ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げた山野朝美は、そのまま反転し、スタスタと桜の木の所まで歩いて行った。永山由紀は後を追いかける。桜の幹に手をついて呼吸を整えている朝美に、永山由紀が言った。

「ちょっと、朝美。違うでしょ。帰っちゃ駄目だよ」

「お願い、由紀。ちょっとだけ休憩させて。あのまま、あそこに立ってたら、確実に失禁する」

 永山由紀は門番の兵士をチラリと見て言った。

「どうする。テラ怖いね」

「テラを通り越して、ペタだ。ペタ怖い」

「気迫っていうか、凄みって言うか、やっぱ、マジでスゲェ」

「あれが本場の軍人ね。いいわ、気に入ったわ。フフフ」

 山野朝美は不敵な笑みを浮かべた。隣で永山由紀が朝美の足下を指差す。

「て言って、足が震えてるじゃん」

「由紀だって、目が真っ赤じゃん。涙目になってるよお」

「これは朝美の髪が当たったから!」

 恐怖からくる苛立ちをぶつけ合った二人は、揃ってもう一度、門番の兵士たちを見た。兵士の一人が目線だけをこちらに向ける。二人はすぐに後ろを向いた。永山由紀が言った。

「怖かったね……」

「うん、怖かった……」

「でも、あそこを通らないと、総務課まで行けないよ。中に入らないと、パソコンも携帯も返してもらえないし」

 もう一度、門の方を見ながら、山野朝美は眉を寄せた。

「どうやって入ったらいいのかな」

「やっぱり、ちゃんと説明するしかないよ」

「じゃあ、由紀が説明してよ。私、そういうの苦手だから」

「ええー。なんで私なの? 怖い。自分でしなよ」

「うん……」

 四角い紺色のリュックを胸の前で抱えて考えた山野朝美は、しっかりと頷いた。

「そうよね。私の事だもんね。ちゃんとしよう」

 山野朝美は決然としてリュックを背負うと、門の方を向いた。

「よし。ふうー。じゃあ、まず、深呼吸して、ふうー……」

「……」

 深く息を吐く朝美を永山由紀は待つ。

 山野朝美は息を大きく吸った。

「スーぅぅぅぅぅぅッ」

「……」

 長く息を吸った朝美を永山由紀は待つ。

 山野朝美は息を大きく吐いた。

「ふーぅぅぅぅぅぅ」

「長くね?」

 大きく息を吐く朝美を永山由紀は待たなかった。

 山野朝美は頷く。

「うん。分かってる。じゃあ、行く」

 決心した山野朝美は、自分の両頬をパンパンと強く叩いた。

「うっしゃあ。気合注入。よし、行くぞお。朝美、出る!」

 山野朝美は肩を怒らせて、真っ直ぐ門まで歩いて行く。彼女は門番の兵士の顔を見据えていた。

 門番の兵士が低い声で言う。

「今度は何だ」

 直立して敬礼した山野朝美は言った。

「あの、じ、じ、事情を簡単に、説明させて、下さい」

「事情? 手短に説明しろ」

「はい、じゃあ、あの、簡単に。つまり、その……ええと……」

「なんだ、早く言え!」

 兵士が怒鳴ったので、山野朝美は事情を手短に説明した。彼女なりに。

「入手したボディ・アーマーを改造したら、ここに呼ばれました」

「なんだと?」

 その兵士は顔を顰めた。朝美の後ろから永山由紀が小声で言った。

「朝美、たぶん、その言い方はマズイよ。省略し過ぎだよ。ほら、怒ってる」

「だって、手短にって言うから……」

 その兵士は眉間に皺を寄せて、頭を斜めに横に倒した。

「おい、いい加減にしろよ。おまえら、俺達をからかっているのか。ここに立っているだけの暇人だと思っているだろ。ボディ・アーマーを改造だと? ナメた事を言いやがって」

 山野朝美は必死に説明する。

「改造じゃないです。コスプレです。宇宙戦闘用ロボにしました」

 それは確かにそうだったが、何かが足りなかった。

 その門番の兵士は、猛烈に顔を顰めた。

「はあ? 宇宙戦闘……。なんなんだ、おまえ。おい、どうする。一旦、拘束するか」

 その兵士に尋ねられたもう一人の兵士は、鼻に皺を寄せて答えた。

「ウチで抱え込むのは面倒だろ。近頃は合成麻薬をやってるガキも多いしな。指揮所に連絡して、警察を呼んでもらおう。すぐそこだからな」

「そうだな」

「はい!」

 朝美の後ろから永山由紀が手を上げた。その早い動きに、兵士たちは反射的に機関銃を構え、銃口を二人の女子中学生に向けた。

「動くんじゃない! おまえもだ! 中に入るな!」

 肩の上で踊っている右腕を左手で必死に押さえながら、永山由紀は精一杯の声を出した。

「そ、そ、総務課です。総務課に行きたいんです」

 兵士たちは機関銃を構えたまま下ろさなかった。

「総務課? 総務課に何の用だ。親でも勤めているのか!」

 完全に瞳孔が開いた山野朝美が、首を横に振る。

「いえ。い、い、いいえ。違います」

「じゃあ、他の家族にでも会いに来たのか」

「ちゃいます。か、か、かかか……」

「朝美、しっかり」

 由紀に励まされて、朝美は何とか声を出した。

「家族は勤めていません」

 しかし、完全に声が裏返っている。兵士は怪訝な顔をして言った。

「じゃあ、総務課に、いったい何の用だ。適当な事を言いやがって」

 永山由紀が必死に釈明した。

「本当です。総務課さんに、パソコンと携帯を取りに来た……」

 由紀の発言の途中から、兵士は声を荒げた。

「ウチの総務課が民間人に、しかも、おまえらみたいなイカレタ中学生のガキに、軍用のパソコンと通信端末を支給する訳ないだろ! ここは、サンタクロースの詰所じゃねえんだぞ! この……軍隊をナメてんのかよ。クソガキどもが。撃ち殺すぞ!」

 兵士は肩に機関銃を据えて、朝美に狙いを定めてみせる。

「ヒッ」

 山野朝美は両手を上げて首を竦めた。透かさず永山由紀が返事をした。

「すみません。帰ります。ね、朝美」

「はい。そうします。あれ? 腰が、ヘコッ、ヘコッとしか動かない……ヘコッ、ヘコッ」

 山野朝美は両手を上げたまま後ろを向くと、抜けた腰を前後に振りながら、フラフラとした足取りで帰って行った。永山由紀は、上がったままの朝美の両腕を下ろすと、背中を震わせながら朝美と一緒に歩いた。

 暫らくすると、二人は歩道の上を全速力で走って行った。



                  十三

 オークルのブレザーの後ろにリュックを背負った二人の中学生が、自動販売機の前で缶ジュースを飲んでいる。缶を右手で強く握り締めながら、山野朝美は眉を上げた。

「ぬうう。あの門番兵め。こしゃくな」

 隣に立っている永山由紀も尖り顔をしていた。

「絶対、あれ、八つ当たりだよ。私達を子供だと思って、馬鹿にしてる」

「八つ当たりって?」

「あの人、絶対、遅刻したんだよ。だって、私達だって、朝、学校に遅刻したら、早出させられて、一週間ずっと正門の前で『おはよう挨拶係』をやらされるじゃん。福沢先生が言ってたもん。社会に出ても同じだから、遅刻はするなって。って事は、あの軍人さんも、遅刻したんだよ。きっと」

「そっか。なるほどね。だから、八つ当たりかあ。まったく、大人気ないわね。ま、大人にも、色々いるしね。仕方ないか。これが社会の現実よ」

 山野朝美は知り顔でジュースを飲んだ。永山由紀が朝美の顔を覗き込む。

「どうする? もう一度、リトライする?」

 山野朝美は顔を曇らせた。

「うーん。でも、なんかウチらの印象、悪そうだしなあ」

「じゃあ、あの人が別の人と交代するまで、待つ?」

 山野朝美は缶を持った右手で由紀を指差す。

「あ、そうね。それ名案。別な軍人さんに交代してから、リトライすればいいんだ。でも、いつ交代するのかなあ。どれくらい、あそこに立ってるんだろ」

「学校で、『おはよう挨拶係』をやらされるのって、三十分くらいだよね。さっきの軍人さんは大人だから、一時間くらいかな」

「いや、もっとでしょ。大人だし。この前、ニュースで『ついちょうかぜい』って言ってたもん」

「ついちょうかぜい?」

 山野朝美は頷いた。

「そ。ママに訊いたら、悪い事したら余計に税金を払うんだって。大人になると、悪い事したら、割り増しなんだよ。あの軍人さん、遅刻だから、たぶん……二時間。いや、あの感じじゃ、三時間か四時間ね」

「そっか。という事は、朝から一時間以上、あそこに立ってるんだ。だから、苛々してたんだ」

 山野朝美は空き缶をゴミ箱に入れながら、納得顔でコクコクと頷いた。

「なるほどね。さっすが由紀。推理が冴えてるじゃん」

「ま、探偵モノのロールプレイング・ゲームとか、得意だからね。でも、どうする。それなら交代まで、あと二、三時間はあるよ」

「二、三時間かあ……」

 少し思案した山野朝美は、親友に尋ねた。

「ねえ、由紀。今日、マネーカードを持ってきてる?」

「うん。朝美は?」

「持ってきた。お小遣い、どれくらい貯まってる?」

「うん……そこそこ。結構、頑張った。朝美は?」

「私も、結構多めに貯めた。ドーナツ・バーガー・セットなら、デザート付で十セットは買える」

「すごい。結構、貯まったね」

 山野朝美は由紀の顔をチラチラと見ながら、誘い顔で言った。

「実は、そろそろ、例の店に行こうかなと思って」

「例の店?……ああ」

 永山由紀は口を開けて、大きく頷く。

 山野朝美が由紀に顔を向けた。

「二、三時間っていったら、丁度よくね?」

 二人は顔を見合わせたまま、同時に頷いた。

「じゃ、ちょっとだけ、行きますか」

 そう言った永山由紀は、空き缶をゴミ箱に放り入れる。

「そうね。パーっと行こう。パーっと」

 山野朝美は拳を突きたてて、大股で歩いて行った。

 永山由紀も一緒に歩く。

 制服姿の二人の中学生は、バス停の方に向かって軽快な足取りで歩いていった。



                  十四

 新首都圏一の商業地域寺師てらし町。そこには様々な店がある。衣料品店も多い。山野朝美と永山由紀は、その中のコスチューム専門店にやってきた。山野朝美は広い店内に並ぶコスチュームを見回しながら、目を輝かせている。

「うわあ、やっぱ、ここの品揃えが一番だね。いっぱいある」

 紫色の細身のロボットのコスチュームを手に取りながら、永山由紀も浮き浮きした様子で言った。

「新作も出てるね。この秋の流行かな」

 山野朝美は駆けていくと、白い戦闘服を手に取った。

「あ、これ、ネット・ゲームの『宇宙兵士ヒバリノン』の戦闘服だ。もう、出たんだ」

「だから朝美、あれ、『ハイ・バリン・オン』って読むんでしょ」

「違いますう、『ヒバリノン』ですう」

「違うよお。『ハイ・バリン・オン』だよお」

 言い張る由紀に山野朝美は目を細めて尋ねた。

「へえ、じゃあバリンってなに?」

「何か、栄養素だよね。たしか」

 少し勉強になった。山野朝美は口を尖らせて肯く。

「そっか。宇宙兵士が強くなる話だもんね。あ、これカワイイ」

 山野朝美は、赤と白の横縞模様の長袖シャツに汚れたズボンと、長い鍵爪付きの革手袋、ボロボロのハットを組み合わせた衣装を引っ張り出した。永山由紀が横から覗く。

「おお、ホントだ。やっぱ、朝美はセンスいいね。その鍵爪、最高。縞々のTシャツも、いい」

 山野朝美はトコトコと奥に走っていくと、黒いゴムスーツを陳列の中から引っ張り出した。ゼリー・ビーンズのような前後に長い頭部と細身のボディー、表面には骨格ぽいデザインが施されている。サイズを確認しながら、山野朝美は由紀に尋ねた。

「こっちのやつも良くない? この口の中から小さな口が出てるところ、ちょっと斬新」

「うーん。後ろに伸びた後頭部のところが、ちょっとねえ。シッポも、なんか、邪魔」

「そっかなあ。結構、いい感じだと思ったけど」

「これは?」

 永山由紀は、隣の列に掛けられていた緑地に黒と赤、茶色の斑を施した、爬虫類風のマスク付きの衣装を手にした。それを見た朝美が悔しそうな顔で言う。

「お! おぬしも、なかなか、やるのお。それは、シリーズの中でも、マニアが好む、『アマゾン』ではないか」

「この、ボディのまだら模様が、超カワイくね?」

「口の所の形も、トゲトゲしてて、お洒落」

 永山由紀はその衣装を列に戻して肩を落とした。

「でも、やっぱ、バイクに乗ってないと駄目か。自転車じゃ、興ざめだよね」

「そうだね……」

 そう答えた山野朝美は、由紀に提案する。

「ね、それぞれ、好きなコスチュームを選んで、試着室で着替えようよ。見せっこしよう」

「あ、いいね、それ。よーし、じゃあ、三十分後に、試着室の前に集合ね」

「三十分ね。わかった。負けないからね」

「私だって。じゃあ、行くよ。よーい……どん!」

 山野朝美と永山由紀は、それぞれ別の方角に走っていった。

 暫らく各々の好みに従って店内を見て回った二人は、ジャンルや色合いの種類を変えて並ぶ多くの衣装に目移りしながらも、自分の小遣いに見合うコスチュームを選び、試着室に入った。

「由紀、着替え終わった?」

「うん……ちょっと、待って。このつのが……うん。いいよ、朝美」

「よし。じゃあ、『いっせのせ』で同時に外に出ようね」

「わかった。せーの、いっせえのっせ!」

 二つの試着室からコスチューム姿の女子が同時に飛び出してきた。山野朝美は赤い繋ぎのラバースーツを着ている。そのスーツの胸から肩にかけては、銀地の上に金色の四角いガラスが並べられていて、頭にはカチューシャの上に鶏冠とさかのような物を載せている。腰には、お気に入りの風車付きのベルトを巻き、そこにビーム・ガンの玩具を提げていた。永山由紀も、両肩から胸の中心の玉まで赤い線が走っている銀色の繋ぎのラバースーツで、頭には左右に水牛のような太い角が付いたカチューシャをしていた。そして二人とも、サイズが合っていない。バーゲン特価のラバースーツは、少しだけブカブカだった。

「うわあ。由紀ちゃん、カワイイ! それ、『パパさん』の方だ」

「きゃー。朝美もカッコイイ。『セブン先輩』だ。赤が似合ってるね」

 鶏冠の向きを整えながら山野朝美は満足気な顔で言った。

「やっぱり親友だね。別々に選んでも、お互いに同じカテゴリーを選んじゃうね」

 永山由紀も角の尖り具合を気にしながら返事をする。

「そうだね。趣味が合うよね。でも、本当は『ママさん』の方にしたかったんだけど、無かったんだよね」

「でも、似合ってるよ。その、ぶっとい角が最高におシャレ。イケてる」

「マジ? じゃあ、やっぱり、買っちゃおうかな。朝美、どうする?」

「うん、買う。もう、これしかないって感じ。サイズも、まあまあ合ってるし。値段もまあまあ合ってる」

 しっかり者の永山由紀は、親友の懐具合を気にして忠告する。

「全部使っちゃ駄目だよ。ニョロペンも買わないといけないから」

 山野朝美は手の甲で由紀の肩を叩きながら言った。

「大丈夫。だぁいじょうぶ。残りでニョロニョロ鉛筆もキラキラ・シールも買えますがな。ドーナツ・バーガーも、二回は注文できまっせ。くくくく」

 奇抜なラバースーツに身を包んだ二人の中学生は、買い物籠に制服を放り込むと、背中のチャックにぶら下がった値札を揺らしながら、支払いカウンターまで走っていった。



                  十五

 長身の、いや、明らかに背が高過ぎる宇宙人の恰好をした二人の小柄な中学生たちは、コスチュームを買った店で紙袋に入れてもらった制服を近くのコインロッカーに放り込むと、隣の店でソフトクリームを買い、寺師町のメイン通りの歩道の上を闊歩した。山野朝美は満足そうな顔でソフトクリームを舐めながら、姿勢よく歩く。

「うん。やっぱ、ここのソフトクリームって、最高。味が濃い。ペロリ。うーん、幸せ」

「だよね。やっぱ、寺師町まで来ないと駄目ね。北園町のスーパーで食べるソフトとは、全然違う。華世区では一番人気だっていうけど、ここのを食べちゃうと、あっちのは食べられないよね。ペロリ」

「だよね。北園町のは、なんか物足りない。私達、舌が大人になっちゃったのかな」

「かもね。この、ちょっとしたコーヒーの苦味が、甘さを引き立ててるわ。私には分かる」

「ま、中学生で、この大人の味が理解できるのは、ウチらくらいのものよね」

 コスプレ中の山野朝美は、ソフトクリームを握ったまま、顔を澄ました。そんな彼女に永山由紀は言った。

「でも、そろそろ時間じゃね? 国防省ビルに行かなくていいの?」

 山野朝美は大きく手を振る。

「よか、よか。こうなったら、徹底的に寺師町の繁華街を満喫するばい。あげな事は、夕方でよか」

 聞きかじった方言を組み合わせて奇妙な話し方をする朝美に、永山由紀は言った。

「でも、午後からは学校に行かないと、リカコ先生に怒られるよ。朝美のお母さんにも」

「大丈夫。ちゃーんと、考えてあるから。くくくく。ペロリ。くくくく。ペロリ」

 山野朝美は胸に一物あるといった顔で笑いながら、ソフトクリームを舐め続けた。



                  十六

 入り口のガラス戸以外の三方を透過式のスクリーン・ガラスで覆った狭い公衆立体電話ボックスの中で、鶏冠と角を付けたコスチューム姿の朝美と由紀が肩を寄せながら話している。歩道の端に立っているボックスは、スクリーン・ガラスを透明にしたままなので、メイン通りの車道の車から中が丸見えである。かつて少年たちの心を鷲掴みにした巨大宇宙人たちが日本人の平均身長よりも明らかに小さくなって、紺色の四角いリュックを背負い、しかも一人は三つ編みを左右に提げて、電話ボックスの中に立っている姿は、メイン通りを走るAI自動車に乗っている高齢者の目を引いた。二人は、そのような事はお構い無しに、アリバイの偽装工作に取り組んでいる。

 永山由紀が尋ねた。

「どうするの?」

 山野朝美は立体通信用のヘッドセットを電話機の上から取りながら答えた。

「任せて、任せて。まずは、ママに電話。ええと、立体通信拒否のボタンはと……あ、これか」

「大丈夫?」

 サングラス付きのヘッドセットを装着した山野朝美は、口の前に人差し指を立てる。

「シー。今は編集会議中のはずだから、留守電」

 山野朝美が公衆電話に母親のイヴフォンの番号を入力し、応答を待つ。前と左右のスクリーン・ガラスが白くなった。ヘッドセットをつけていない由紀からは見えなかったが、朝美にはサングラス部分越しに、山野紀子のホログラフィーが見えている。こちらの映像は送られていない。紀子のホログラフィーは制止したままで、ヘッドホンから彼女の応答メッセージだけが聞こえた。

『はい、山野です。ただいま、電話に出られません。メッセージを発信音の後に入れて下さい』

 高い音の発信音が鳴った。山野朝美は念のため、電話機のカメラの上を手で覆いながら、メッセージを残す。

「あ、ママあ。あのね、国防省の人が、私からもう少し詳しく話を聞きたいから、まだ時間がかかるって。学校にも連絡しておいてね。お願いしまーす。ガチャ」

 山野朝美は素早くヘッドセットを元の位置に戻して、通話を切った。そして、ほくそ笑む。

「くくくく。これでよし」

 隣で角の先を整えながら聞いていた永山由紀は言う。

「やばくね。それ、絶対にバレるって」

 電話機の下から出てきた子供用のマネーカードを、もう一度電話機に入れた山野朝美は、またヘッドセットを持ち上げると、今度は手に持ったまま言った。

「矢を放たば、すかざす二の矢を放て。戦の鉄則じゃ。はい、由紀のウェアフォンを貸して」

「ウェアフォン? どうするの?」

 怪訝な顔をしながら、狭いボックスの中で、永山由紀は背負っていた四角い紺色のリュックを下ろした。山野朝美は、リュックの中からウェアフォンを探している由紀に尋ねた。

「この前の、イケメン軍人特集に載ってた画像を何枚かダウンロードしてるでしょ。それ、立体画像?」

「うん。そうだけど。それがどうかしたの?」

「いいから、いいから。それをホログラフィーでここに出して。早く」

「う、うん。ちょっと待ってね」

 永山由紀は取り出したウェアフォンに保存していた立体画像を検索し、ネットからダウンロードした「イケメン軍人」のホログラフィーを投影した。迷彩服姿で立っている端整な顔立ちの男の兵士の姿がウェアフォンの上に浮く。

「こんなのだけど」

 山野朝美は渋い顔をする。

「うーん。これだと、全身が映ってる。拡大すると色目が薄くなるし。上半身だけとか、無い?」

「ううーんと……これとか」

 朝美のリクエストに応じて保存画像を検索した永山由紀は、別の兵士の姿をウェアフォンの上に浮かせた。山野朝美は、また納得しない。

「射撃中かあ。顔はかっこいいけど、武器持ってるし。使えないなあ。こう、もっと普通の感じのショットはない? 上半身だけのやつで」

「上半身だけ? じゃあ……この人は? こんな感じ」

 永山由紀はジープから降りようとしている迷彩服姿の兵士の上半身だけを切り取って、ホログラフィーで拡大再生した。ほぼ原寸大で宙に浮かんだ、キリッとした顔立ちの男の上半身のホログラフィーを見て、山野朝美は率直に感想を述べた。

「お、いい男じゃん。なんて人」

「ええと……ウシロ曹長さんだって。昔の画像だけど、カッコイイよね。ネットのイケメン・軍人ランキングでも、ダントツで一位の人」

 山野朝美は頷く。

「よし。この人の画像にしよう。こりゃ、レベルが高いから、リカコ先生なら緊張して目を合わさないはず」

 永山由紀は顔を顰めた。

「リカコ先生? 学校に電話するの?」

 山野朝美は首を縦に振る。

「うん。ママの性格からすると、留守電を聞いたママは、まず、学校に電話すると思うんだよね。だから、こうやって、ウシロ曹長さんの画像に、この公衆電話のヘッドセットを付けているように……この辺かな。由紀、画像をもう少し下に降ろして。この公衆電話機のカメラに私の手が映らないように」

「こう?」

「うん、その辺。よし、このまま、学校に電話して。私、ヘッドセットを持ってるから、由紀がボタンを押して」

「うん。分かった……」

 永山由紀は「ウシロ曹長」のホログラフィーを投影しているウェアフォンを持ちながら、もう片方の手で電話機のボタンを押した。山野朝美は電話機のカメラの位置を気にしながら、壁に寄って立体画像の撮影範囲から身を離し、ヘッドセットを両手で持ち上げて「ウシロ曹長」の頭の位置に合わせる。そのまま、斜め後ろからホログラフィーの向こうに透けて見えるヘッドセットのサングラス部分を覗いた。由紀が新志楼中学校の電話番号を押している間、山野朝美は窮屈な姿勢でヘッドセットのマイクに向けて、低い声を発した。

「あー。あー。あー。このくらいの声の低さかな。あー。あー」

 ヘッドホンから呼び出し音が続けて聞こえた後、籠った声が聞こえてきた。

『はい。波羅多学園グループ新志楼中学です』

 ヘッドセットのサングラス越しに通話の相手のホログラフィー画像を見た山野朝美は、思わず言った。

「ゲッ。中三谷先生だ。頼む、いつも通り酔っ払っててくれ」

 中三谷先生は向こうに投影されているはずの「ウシロ曹長」のホログラフィー画像のホログラフィー画像を眠そうな顔で見ながら、気だるそうに言う。

『ええと。どちらさん? 警察……いや、パイロットさんですか?』

 山野朝美は深く首を縦に振る。

「よし。ボケてる。いける」

 そして低い声を作って、言った。

「あー。国防軍の者だが、おたくの学校の山野朝美の件で話がある」

『ああ、山野ですね。今、担任のイヴフォンに回しますから、少々お待ちください』

 中三谷のホログラフィー映像が消えた。山野朝美は頬を膨らませて息を吐く。

「ふう。焦った。まさか、中三谷先生が出るとはね。想定外だった」

 不安そうな顔でウェアフォンを持っている永山由紀は、何か言おうとしたが、ちょうどその時、『ウシロ曹長』の頭の位置に合わせてあるヘッドセットのヘッドホンから甲高い声が聞こえてきた。

『はい、山野さんの担任の山東です』

 山野朝美は『ウシロ曹長』を抜けて見えるヘッドセットのサングラス越しにリカコ先生のホログラフィー映像を探したが、どこにも像は浮かんでいなかった。イヴフォンにはカメラが付いていないので、向こうの現在映像は送られて来ないし、通常のホログラフィー通信とは互換性が無いので、こちらの映像も送られない。山野朝美は由紀と目を合わせて頷くと、ヘッドセットを素早く装着した。ヘッドホン部分の外側に永山由紀が耳を当てる。山野朝美はマイクに向かって低い声を出した。

「あー。山東先生ですかな。国防軍の者です。実は、おたくの山野朝美の尋問が長引いていましてね。夕方まで掛かりそうなので、ご連絡しました。永山由紀も参考に話を聞かせてもらっています。彼女も夕方までかかるでしょう」

『……』

 リカコ先生が返事をしないので、ドキドキしながら山野朝美は尋ねた。

「どうしました?」

『いえ。あの、私のイヴフォンの調子が悪いのか、さっきから山野さんの映像が重なって見えて……』

 朝美から頭を離した永山由紀が焦る。

「ゲッ。ヤバイよ朝美。イヴフォンは、声紋を解析して、通話者の記憶から引き出した映像を動かしながら、脳内に映すんだよ。声色を変えても、バレちゃうよ」

「シー」

 唇の上に人差し指を立てた山野朝美は、また、低い声で言った。

「あー。それはいかんですな。イヴフォンは使い過ぎると、脳に深刻なダメージを与えるといいますからな。それに、山野さんの印象がいいから、記憶に残っていて、再現されてしまうのでしょう」

『そうですか。すみません。買い換えたばかりで、まだ慣れていないもので……』

「とにかく。二人とも良い子ですから、ズル休みではありません。減点はしないように。では、忙しいので切ります」

 ヘッドセットのマイクを手で包んだ山野朝美は、声を殺して由紀に言う。

「切って、切って」

「ああ」

 永山由紀は慌てて、電話機のボタンを押した。山野朝美はヘッドホンを外すと、額の汗を拭う。

「ふう。よっしゃ。上手くいった」

「いったのかな……」

 眉間に皺を寄せながらウェアフォンをリュックに仕舞う由紀に、山野朝美は言った。

「大丈夫だって。これで、ママが学校に電話しても、国防省から聞いてますって事になるじゃん。そしたら、ママは国防省には電話しない。オール・オーケー。ウチらは、夕方まで寺師町を満喫。よしッ」

 山野朝美はガッツポーズをする。永山由紀は顔を曇らせていた。

「なんか、ヤバそうな気が……」

 朝美が電話機にヘッドセットを戻すと三面のスクリーン・ガラスが透明に戻り、電話機から子供用のマネーカードが出てきた。山野朝美はそれを勢いよく引き抜いた。

「よっしゃあ。そんじゃあ、せっかく獲得した夕方までの時間を、有効に活用するぞお。『時は金なり』じゃ。違った、『時金は成る』じゃ!」

 永山由紀がリュックを背負いながら、下を向いて呟く。

「違ってない、違ってない。後のが、おかしい」

 山野朝美は少し上を向いて言った。

「おかしくないぞよ。まずは、センターモールの文具店で……」

 顔を上げた永山由紀が目を輝かせて言う。

「ニョロペン!」

 山野朝美は頷いた。

 少しブカブカのコスチュームにリュックを背負った二人の中学生は、公衆立体電話ボックスから急いで外に出る。二人は人で混みあう歩道の上を競うように駆けていった。



                  十七

 センターモールの地下にある文房具店に到着した朝美と由紀は、お目当ての品の陳列棚の前に立っていた。様々な種類の新色が並ぶ棚をキラキラした目で見回しながら、永山由紀が言った。

「はあ、これかあ。新しく入ったニョロペン。いっぱいあるなあ。すっげぇー」

 山野朝美が厳しい顔を作って言う。

「コラ。正確には『ニョロニョロ鉛筆』であるぞ。失礼であろう。控えおろう」

「ははー。これは、とんだ御無礼を」

 永山由紀は「ニョロニョロ鉛筆」が並んだ棚に向かって御辞儀した。山野朝美も御辞儀する。顔を上げた山野朝美は、傾いた鶏冠付きのカチューシャを整えながら言った。

「でも、すごい種類だね。パープル系っていっても、こんなにあるんだ」

「朝美は、今、何色を持ってるの?」

「うーんと、イエロー系は全部揃えた。あとは、ワインレッドと、アクアブルー。モスグリーンもあったかな」

「あ、モスグリーン、いい。今度、私のホワイト・ゴールドと交換して」

「うん。いいよ。じゃあ、明日、学校に持ってくるね」

「わかった。やっほーい」

 永山由紀は喜んで飛び上がる。山野朝美はクネクネと曲がる軟性の色鉛筆を手に取りながら、溜め息を吐いた。

「でも、こんなに多いと、迷うね。どの紫にしようかな。やっぱ、こっちの青系の紫の方が大人っぽくていいかな。ピンク系の紫も捨て難いよね。どうしよう」

 永山由紀は店内の端の方を覗きながら朝美の肩を叩いた。

「ねえ、朝美。あれ、ユカとレナじゃない。あれ、サングラスしてるけど、そうだよね」

 山野朝美は由紀が指差した方角を覗いた。

「あ、絶対にそうだ。なによ、学校サボってんじゃん。しかも、私服で。いけないんだ」

「私達も全く同じだけど、とりあえず今は、すごい上の棚にあげとこう。で、どうする、朝美」

「うん。蜂に刺された所は、たいした事はないみたいね。あ、そうか。今日、二人で病院に行って、その帰りだな、きっと」

 永山由紀が言った。

「学校にチクッちゃおうか」

 山野朝美は腕組みをする。

「うーん。あいつらの事は嫌いだけど、それはねえ。一応、同級生だし。仁義ってものがあるじゃん」

「そうだね」

「とりあえず、見つかると厄介だから、こっちに隠れて、行動を観察してみよう」

 朝美と由紀はそこから移動して、少し離れた画材コーナーの隅に身を隠した。棚の端からレナとユカの様子を覗く。永山由紀が小声で言った。

「二人とも、キョロキョロしてる。何を買いに来たんだろ。文房具を使ってる人間には見えないよね。コンパスと分度器の区別もつかなそうだもんね」

「くくく。まさしく。乳の大きさを測るのに、分度器は必要であるぞ。くくく」

「……?」

 永山由紀は首を傾げた。山野朝美が言う。

「由紀、つのが出てる。気をつけて」

「あ、そうか。あぶない、あぶない」

 そう言って身を隠そうとした永山由紀は、二人の歩いていく先を見て言った。

「あ、ニョロニョロ鉛筆のコーナーに行った」

「なーによ。何だかんだ言って、自分たちも買ってるんじゃん。素直に言えば、何本か交換してあげたのに。馬鹿ねえ」

「でも、レナはあんまり興味ないみたいね。ユカの横で立ったまま、キョロキョロしてる」

「あの女、ただの露出狂だからね。あんな短いスカート穿いて。もしかして、あのGジャンの下は、裸なんじゃないの。どこで脱ごうかと、タイミングを……」

 永山由紀が声を上げた。

「ああ! ユカが鞄の中にニョロニョロ鉛筆を入れた。しかも、何本も」

「ぬぬ。これって、もしかして、もしかすると……」

 顔を見合わせた朝美と由紀は、声を合わせて言う。

「万引き……」

 山野朝美は険しい顔をして、言い直した。

「いや。窃盗よ。ママが『万引き』って言うなって。窃盗罪なんだって」

「どうする。放っとくの? 犯罪だよ」

 山野朝美は考えた。

「うーん。このまま放っておいても、どうせ、いつか捕まるよね。日本の警察は優秀だし」

「じゃあ、店員さんにチクる?」

 山野朝美は腕組みをする。

「でも、ユカもレナも、一応、同級生だしなあ」

「でも、犯罪だよ。知らんぷりは、良くないじゃん」

「うーん。それは確かに、そうなんだよね。よし」

 ポンと手を叩いた山野朝美は、歩いていった。

「え、どこに行くの、朝美」

 永山由紀も後を追う。

 さっき朝美と由紀が見ていた陳列棚の前で、サングラスを掛けたレナが周囲を見回し、その足下に屈んだユカが鞄の中に「ニョロニョロ鉛筆」を素早く放り込んでいた。そこへ、山野朝美が刑事のような風格で現れた。永山由紀は棚の隅に隠れている。山野朝美は右手を上げて、落ち着いた声で言った。

「やあ、お二人さん。また会いましたな」

 レナは驚いた。

「あ、山野!」

 振り向いたユカは立ち上がり、朝美の姿を見て吹き出す。

「プッ。なに、その格好。まだ遠足中ですかあ? コスプレ遠足は昨日で終わったんですけどお」

 レナも言った。

「あははは。もしかして、道に迷っちゃった? 昨日、お家に帰れなかったのね。可哀想な迷子ちゃんねえ。あははは」

 山野朝美は言い返した。

「違うわい。国防省と交渉した帰りに、ついでで『ニョロニョロ鉛筆』を買いに来ただけじゃ。たわけ!」

 ユカは相手にしない。

「国防省? プッ。頭おかしいんじゃないの? 行こ、レナ。馬鹿がうつるわよ」

 山野朝美は帰ろうとする二人を指差して、大きな声で言った。

「待てい、カマトト女に露出狂女。あんたら、今、窃盗したでしょ」

「セットウ?」

「万引きよ。ちゃんと見てたんだからね。欲しいものがあったら、ちゃんとお金払って買え」

 ユカはそっぽを向いて言った。

「ウソばっかし。じゃあ、証拠を出しなさいよ。証拠を」

「証拠は、これじゃ。てい!」

 山野朝美はユカのバッグを蹴り上げた。鞄が逆様になり、中に入っていた物が床に散乱する。山野朝美は、ユカの私物と一緒に床の上に散らばっている物を指差しながら言った。

「ほらね。入ってるじゃん、ニョロニョロ鉛筆。しかも、こんなに何本も」

 ユカは朝美を睨み付けた。

「ちょっと、何するのよ。後でお金を払うつもりだったのよ。ふざけんなよ」

 山野朝美はユカの顔と入り口の方を順に指差しながら言った。

「おまえらこそ、ふざけんな。そこに『マイバッグ禁止』って、書いてあるじゃん。買うんだったら、買い物カゴに入れなよ。すぐ横に積んであるんだからさ」

 ユカは反論する。

「だからって、どうして、私達が万引きした事になるのよ。ちょっと、人のバッグの中身をぶちまけたんだから、ちゃんと拾いなさいよ」

 山野朝美は口調を穏やかにして言った。

「店の人には黙っといてやるから、早く商品を戻しなよ。窃盗も万引きも、ドロボウじゃん。駄目だよ」

 眉間に皺を寄せたレナが一歩前に出て、凄んだ。

「生意気。ナメてるとヤキ入れるぞ、このコスプレ・マニア」

 山野朝美は素早く一歩下がり、頭の鶏冠を両手で挟んで腰を落とし、構える。

「ぬ。なにを。やるか」

 レナは女子の中では背が高く、健康的な体格だ。ユカはレナより背は低いが、朝美と由紀よりは高い。肉弾戦で朝美に勝ち目は無い。そう考えた永山由紀は、行動に出た。

「せやっ!」

 永山由紀は「ニョロニョロ鉛筆」コーナーの陳列棚の脚を蹴った。棚が傾き、飾ってあった「ニョロニョロ鉛筆」が床の上のユカの荷物の上に落ちた。店内に何百本もの商品が転がる音が響く。

「ああ、コラ。何やってるんだ、おまえら」

 音に気付いた店員が慌てて走ってくるのを見て、永山由紀は朝美の手を引っ張った。

「朝美、行こう。撤収」

「うん。わかった」

 二人はその場から退散する。レナも逃げようとしたが、ユカが逃げないので、その場に留まった。ユカは「ニョロニョロ鉛筆」の山に埋もれた自分の荷物を必死に探している。そこへ店員が駆けつけた。

「あーあ。陳列棚が台無しじゃないか。何やってるの、まったく。ちょっと、あんた。何してんだい。それ、おたくの荷物?」

 ユカは急に猫撫で声を出して返事をした。

「はあい。なんかあ、急にい、棚が倒れてきちゃってえ。びっくりしちゃった」

 店員は言った。

「そうですか。怪我はなかったですか。とりあえず、自分の物を拾って、この台の上に置いてもらえます? ウチの商品と混ざっちゃうといけないから。商品の本数も、急いで数え直しますんで、ちょっと待っててもらえますか。こういう時に、どさくさに紛れて盗んでいく奴がいるんですよ。ちょっと、そこの人、悪いけど離れて。誰も近づかないで。今、商品を数えてますから。あんた、そこを動かないでよ」

 店員にそう言われ、レナは仕方なくその場に立っていた。



                  十八

 センターモールから出て裏路地の方に走ってきた朝美と由紀は、疲れて立ち止まった。そこは、ビルとビルの間の暗く湿った裏通り、「中裏地区」だった。

 永山由紀が息を切らしながら言う。

「はあ、はあ、はあ……疲れた」

 山野朝美も呼吸を乱しながら言った。

「だね……はあ、はあ、はあ。由紀、ありがと、助かった。体格じゃ、レナの方が上だから、正直、ヤバイと思った。あいつ、ザ・健康乳良児だもんね。はあ、はあ……」

 呼吸は戻っていなかったが、ここは訂正しておかねばと思い、永山由紀は言う。

「健康……優良児……はあ、はあ……」

 山野朝美は、そんな間違いは気にしない。息を整えた彼女は、胸を張って言った。

「いやあ、しかし、これで犯罪の発生も未然に防げたし、ユカもレナも警察に捕まらなくて済んだし、めでたし、めでたし」

「でも、ニョロペン……じゃなかった、ニョロニョロ鉛筆を買い損ねたし」

「ま、また帰りにでも寄ってみればいいじゃん。売り切れたりはしないでしょ」

「そっかなあ。大丈夫かな」

 不安気な表情でセンターモールの方を見た。その時、由紀は視界に奇妙な張り紙を捉えた。彼女はビルの外壁の隅に貼られたその張り紙を覗きこむ。

「ン? これ、何だろ」

 由紀の隣から山野朝美も覗き込んだ。

「あかぷるこごーるど? 即売ります?」

「下の方には、コロンビア・ゴールドもアリって書いてある。何かな。コーヒーかな」

「さすが寺師町ね。こんな路地裏でも、コーヒーとか売ってるんだ。アカプルコ・ゴールドかあ。美味しいのかな。もしかして、お肌がぷるぷるになるコーヒーとか」

 永山由紀は言った。

「たぶん、そうかもね。何となく、高級な感じがする」

 山野朝美は好奇心に満ちた顔で言う。

「味も高級なのかな。都会の味とか」

「たぶんね。寺師町だもん。コーヒーの何が美味しくて、何が美味しくないのかが区別できないけど、飲んでみる? 高いのかな」

「まあ、行くだけ、行ってみようよ。こっち向きに、矢印が書いてある」

 二人は矢印が指す方向に移動した。すると、そこにもスプレーで矢印が書いてあった。その矢印の先を移動した二人は、また小さな矢印を見つけた。

 山野朝美が首を傾げる。

「あれ、ここにも矢印だ。こっちかな……」

 その矢印先に歩いていくと、今度は由紀が矢印を見つけた。

「あ、あった。また、矢印だ」

「なんか、どんどん奥に入ってくね。それに、あの男の人たち、肩に刺青してる」

 朝美が指差した先では、若い男たちがたむろしていた。皆、鼻や耳にピアスをしていて、肩や首にタトゥーを入れている。朝美と由紀は男たちから目を逸らした。

 永山由紀は肩を窄めて歩きながら言った。

「うん。でも、こんな奥に店を出しているって事は、きっと、ものすごく美味しいコーヒーなんだよ。他の人には教えたくないから、奥に隠れてるのかも」

「そっか。大人の秘伝の味か。じゃあ、怖いけど、行ってみよう。せっかく寺師町に来たんだから、味わってみないと」

 二人はオドオドしながら、路地の奥へと進んでいった。

「次の矢印は……」

 朝美と由紀がキョロキョロと矢印を探していると、小さな屋台小屋の中から、黒いフードを被った老女が二人を呼び止めた。

「ちょっと、お嬢ちゃんたち、こんな所で何やってるんだい。ここは子供が近寄る所じゃないよ」

 朝美と由紀は、その鼻の大きな老女を見て、ヒソヒソと話した。

「うわ、魔法使いみたい。何だろ」

「ホントだ。あ、タロットカードを持ってる。占い師かな」

 その老女は低い嗄れた声で言った。

「そんな格好して。今に災いが降ってくるよ。とにかく、ここは危ないから、さっさとお帰り」

 山野朝美は尋ねてみた。

「あのう、秘伝のコーヒーを飲みに来たんですけど……」

 老女は答えた。

「秘伝のコーヒー? この辺りには、そんな物を出している店なんか無いよ」

 永山由紀が言う。

「え、でも、向こうの電柱の張り紙に、アカプルコ・ゴールドとか、コロンビア・ゴールドとか……」

 老女は声を潜めて二人に注意した。

「馬鹿。それは麻薬だよ。マリファナさ。若いお嬢ちゃんが滅多な事を口にするもんじゃないよ。連れ去られて、薬漬けにされて、外国に売られちまうよ。早く帰んな」

 老女の忠告の内容がピンと来ない二人の中学生は、顔を見合わせた。

「どうする、朝美」

「美味しいコーヒーだから、子供には飲ませたくないのかも……」

 老女は声を荒げた。

「何が、『どうする』だい! 大人が、ここまで言っても、まだ分からないのかい。さっさと帰らないか。死にたいのかい!」

 すると、向こうの方から縞のスーツを着たオールバック・ヘアーの体の大きな男が歩いてきた。

「どうした、婆さん。何かトラブルかい?」

「ああ、これは、これは。いえ、何でもありませんよ。ちょっと子供がね」

 朝美と由紀は、その男が二人にも分かる威圧感を発していたので、少したじろいだ。

 男はゆっくりとした口調で二人に諭す。

「おい、お嬢ちゃんたち、中裏地区は危ない場所だ。暇つぶしにうろつく所じゃない。帰んな」

 小屋の中の老婆も言った。

「ほら、ダンナが、そう言ってくれてんだ。さっさとお帰り」

 山野朝美は口を尖らせる。

「でも……」

 老女は鬼のような剣幕で二人に怒鳴った。

「帰れと言ってるだろ! 口答えは、物事を判断できるだけのものを頭の中に入れてからにしな。それまでは大人の言う事を聞いとかないか! 私の魔法で心臓をえぐり出してやろうか」

「はい! すみませんでした。さようなら」

「二度と、この辺りには近づくんじゃないよ。いいね!」

「はい! 失礼しました!」

 朝美と由紀は脱兎の如く元来た方角に駆けていった。

 二人の様子を見ながら、男は頭を掻いて言った。

「相変わらず、婆さんは、おっかないねえな」

 老女は言う。

「子供のうちに、ちゃんと叱っとかないといけませんからねえ」

 男は遠くの方でたむろしている若い男たちが、その前を走っていく朝美と由紀に何かしないかと注意して見ながら、老女に呟いた。

「まあな、この辺りには、道理の分からねえチンピラが多いからな」

 朝美と由紀は大通りの方へと走っていった。男が振り返ると、向こうから季節はずれの毛皮のコートを来た若い女が歩いてきた。機嫌が悪そうである。女は、後ろを歩くスキンヘッドの大柄な男に言った。

「何やってんのよ。行くわよ」

 女はオールバックの男の前をスタスタと歩いて行く。困った顔で後から歩いてきたスキンヘッドの男に、オールバックの男が尋ねた。

「行くって、どこにだ」

「文房具屋だってよ」

「文房具屋?」

 引き返してきた女が言った。

「妹のレナが万引きの疑いを掛けられてんのよ! だから、その店の引っくり返った陳列棚の片付けを手伝いに行くの。わかった」

 スキンヘッドの男は、頭を撫でながら女に尋ねた。

「あの……姉御、何で俺らが片付けを手伝うんです」

 女は癇声を上げる。

「馬鹿じゃないの。レナが、この億乃目組三代目組長森ルナの妹だって知ってて、他の組の連中が因縁つけてきてるかもしれないじゃない」

「……」

 スキンヘッドの男とオールバックの男は、怪訝そうな顔を見合わせた。女は言う。

「それに、あんた達もよく言ってるでしょ。『片付けに行く』とか、『片付けた』とか」

 男達は、それぞれ言った。

「姉御、それは『カタを付けに行く』だと思いますが……」

『それに、俺たちの世界で『片付ける』ってのは別の意味でして、その……』

 女は地団駄を踏みながら言った。

「もう、いちいちうるさいわね! 私はこの前まで女子大生だったの。今もそうだけど。業界用語なんて分かんないわよ。とにかく、陳列棚が引っくり返ってるらしいから、文句を言われないように綺麗に片付けるわよ」

 オールバックの男は眉を寄せて、女に尋ねた。

「レナお嬢が万引きと関係ねえんなら、こっちが片付ける必要はねえんじゃないですか」

 女は言う。

「店の人が困ってるのよ。人が困ってたら助けるのが道理でしょ。道理を尽くすのが任侠でしょ。あんたたち、任侠者でしょ。違うの?」

 男達は再び顔を見合わせた。女は二人を指差しながら言う。

「知らんぷりして、ウチの看板に泥を塗る気なの? ほら、なにボサッとしてんのよ。行くわよ!」

 女は朝美と由紀が走っていった方にスタスタと歩いていく。

「へーい」

 スキンヘッドの男は面倒くさそうに返事をして、女の後を歩いていった。オールバックの男は苦笑いしながら呟いた。

「道理ねえ……」

 その男もまた、女の後についていった。



                  十九

 大通り沿いのハンバーガー・ショップのボックス席にテーブルを挟んで座り、朝美と由紀は「今だけハーフ・ワンコイン・ハンバーガー」を齧っていた。

 永山由紀が頬を膨らませてハンバーガーを食べながら言う。

「それにしても、さっきのお婆さん、怖かったねえ」

 山野朝美はメロンソーダをストローで吸いながら、肩を上げた。

「うう。思い出しただけで、寒気がする」

「でも、あれ、秘伝のコーヒーじゃなかったのかな」

「あれって、コロンビア…んぐ」

 永山由紀が朝美の口を押さえた。

「シー。魔法使いが口にしちゃ駄目だって言ってたじゃん」

「そっか。災いが降ってくるって言ってたもんね。うう。寒い」

 山野朝美はまた両肩を上げる。永山由紀が改めて言った。

「やっぱ、街中って、怖いね」

 山野朝美は頭の鶏冠を揺らしながら、コクコクと頷いた。

「ウチらが住んでる町って、すぐそこなんだけどね。やっぱ、何か違うね。このハンバーガーのパンも、なんかパサパサしてるし」

「でも、ポテトは、おいしいよ」

「そだね。ムシャ、ムシャ、ムシャ」

 二人は暫らくの間そこで雑談を続け、時間を潰した。

 少しずつ食べていたポテトも無くなり、それぞれのジュースの紙コップも底の氷だけになった。ズルズルと音を立ててストローで氷水を吸っている朝美に、店内の時計を見た永山由紀が言った。

「ねえ、朝美。そろそろ、パソコンとウェアフォンを取りに行った方がいいんじゃない。こんなに長い時間、学校をサボってると、やっぱバレちゃうよ」

 山野朝美は紙コップを振りながら答える。

「大丈夫、大丈夫。相変わらず、由紀は心配性ねえ。女はね、度胸が大事なのよ。度胸が」

「今朝、国防省ビルの前でビビッてたの、朝美じゃん」

「ああ、まあ、ふいんきってのがあるじゃない。タイミングとか。ね」

「雰囲気でしょ。ホントに、コスプレすると、急に性格変わるよね、朝美」

「何が国防軍じゃ。あの門番め、威張りくさりよって。片腹痛いわ、くくく」

 山野朝美は笑いながら、自分の腹を叩いた。ラバーの生地がペタペタと音をたてる。永山由紀が口を尖らせた。

「でも朝美はいつも、時代は国防軍だって言ってるじゃん。イケメン軍人の写真集とか持ってるくせに」

「だって、メチャ格好いいんだから、しょうがないじゃん。流行のアイドルなんて、子供、子供。やっぱ、ジャパニーズ・アーミーよ。くー、最高」

「タイセイ君よりも?」

 氷水を吸っていた山野朝美は、慌てた。

「ぐぺっ。つつ。くん、くん。鼻に氷水が入った」

「めっちゃ動揺してるじゃん。やっぱり、朝美の一番はタイセイ君なんだ」

「なによ。じゃあ、由紀の好きな人は誰なのよ。言ってみい」

「うーん。まだ、居ないかなあ……」

「こら。ネタは挙がっているんだ。正直に吐いて、さっさと楽になれ。田舎のお袋さんも心配してるぞ」

「なんで急に刑事になるのよ。うーん、でも、本当にウチの学校には、いないんだよね。なんか、どの男子も頼りないっていうかさ」

「だろうね。由紀、あのお父さんを毎日見てるからなあ、他の男子なんて、頼りなく見えちゃうよね、きっと」

「ウチの父さんが、どうして?」

「だって、由紀のお父さんって、なんかスポーツマンって感じじゃん。それで、新聞記者でしょ。しかも、前にパパが言ってたけど、現場主義者だって。どこにでも取材に行くって。実際に、南米のジャングルにも行ったし。戦場だよ。すごくない?」

「朝美のお父さんだって、元ボクサーじゃん」

「元ね、元。今はただの頑固オヤジ。それに、『パパ』って言っても、今は別に住んでるし、会っても口煩いだけ。しかも近頃、下腹も出てきたし。ああ、もう。思い出したくもない」

「そっかー」

 そう言って紙コップの氷水を吸い始めた由紀に、山野朝美が言った。

「これ」

「はい?」

「話を誤魔化すな、おぬし。好きな人は誰じゃ」

「だから、新志楼中には居ないって」

「では、新志楼中以外には居るのじゃな」

「……」

「そうであろう。白状せい、娘!」

「うん。軍隊なら、居るかも……」

「そうか、軍隊か……なんですとお! 軍隊? 国防軍?」

 目を丸くした朝美に、永山由紀が注意した。

「声が大きいって」

「そりゃ、大きくもなるわ。マジ、それ」

「うん……マジって訳でもないけど、憧れっていうか、私の王子様っていうか……」

「ええ、誰それ、由紀の王子様って、誰?」

「……」

「ああ! 分かった。さっきの立体画像の人だ。なんだっけ……ええと……前、違うな、右、左……」

「ウシロさん」

「そ。ウシロ曹長。確かに、カッコいいもんね。だから、名前まで調べてるんだ。あのイケメン軍人ランキングには、名前は出てないもんね。おかしいなって思ったのよ。名前まで調べるとは、おぬしも、やるのう。うっひひひ」

「違うって。この前の事件の時に、家の中に突入してきて、私を助けようとしてくれた人なの。一目見てビビーって感じ。ああ、駄目。思い出しただけで、ドキドキしてくる」

 永山由紀は顔を紅潮させる。山野朝美は呆れ顔で言った。

「あらら。そりゃ、マジで恋だわ。――ああ! 分かった。あれだ。『大人の恋の必勝法』。由紀が言ってた『普段と違うシチュエーションの時』ってやつだ」

「そっかあ。じゃあ、やっぱり、運命なのかな。きゃー」

 永山由紀は頬を押さえた。山野朝美は、そんな由紀をまじまじと見ながら言う。

「やっぱ、大人の言うとおりだ。すっげぇー。でも、いいなあ。タイセイ君の事は好きだけど、そこまでドキドキはしないもんね。やっぱ、相手が大人の男性だからかな。確かに、あの曹長さんはカッコイイわ。普段、男の評価にうるさい由紀が惚れるのも、分かる。うん。帰ったら、私も画像をダウンロードしとこう」

「ええー。朝美にはタイセイ君がいるじゃん。ずるい」

「ウソウソ。でも、これはきっと、理科で習ったフィラメントよ。ウシロさんのフィラメントを由紀が感じ取ってるのよ」

「フィラメント……?」

「あーあ。私も早く、本物のフィラメントを感じ取れる女にならなきゃ。くん、くん」

 鼻を動かしている朝美に、永山由紀は言った。

「朝美、それ、『フェロモン』だと思う……」

「ああ、『フェロモン』か。間違えた。ゴメン、ゴメン。まあ、『弘法にも筆の誤り』ね」

「あ、今度はちゃんと言えた」

「それから……、ええと……、うーんと……、あ、『サルも木から落ちる』とも言うじゃないか。気にするな。わっははは」

「ようやく登れたね。しかも、落ちてばっかりじゃん」

「でも、不思議なんだけど、今のお爺ちゃんお婆ちゃんの世代って、若い頃は大変じゃなかったのかな。電球は全部フェロモン式だったんでしょ。紛らわしくなかったのかな」

「そっちはフィラメント。全く違うよ」

「でも、由紀があんな感じがタイプだとはねえ。意外、意外」

「いいじゃん。別に。それに、ただの憧れだし。そういう朝美は、どうなのよ。どんな人がタイプなの? やっぱ、タイセイ君みたいな感じ?」

 山野朝美はタイセイ君の事を思い浮かべながら答えた。

「うーん。あれはあれで、いい感じだけど、やっぱ、王子様ってなると、別よね。グレードを上げなきゃね。うん……そうね……やっぱ、スーツよね。大人の男は、スーツが似合う人じゃないと駄目でしょ。こう、シックなスーツを着てるんだけど、何か、こう、無造作にネクタイを弛めちゃったりして、この辺にワイルドに髭なんか少し生やしちゃったりしちゃって、かー、もう、たまらんばい。くくく」

「なにを一人で興奮しているんだか、この人は」

「とか何とか言っちゃって。由紀だって、ウシロさんと結婚式を挙げるところとか、考えた事あるくせに。どうじゃ、正直言うんだ。田舎のお袋さんの為にも、全部吐いてしまえ。少しは罪が軽くなるぞ」

「だから、どうして急に刑事ドラマに……」

 その時、足元のリュックの中からメロディーが鳴った。永山由紀は屈んでリュックの中に手を入れると、取り出したウェアフォンの着信表示を見ながら言った。

「アレ? 本当に、田舎のお袋さんから掛かってきた。お母さんだ」

 テーブルの上に置いたウェアフォンの立体通話ボタンを押そうとした由紀に山野朝美が慌てて手を広げた。

「ああ、由紀、出ちゃダ……」

 永山由紀はボタンを押してしまった。

「はーい。私……」

 ホログラフィーでウェアフォンの上に浮かんだ永山祥子が烈火のごとく怒り、ウェアフォンのスピーカーから怒声を響かせる。

『コラあ、由紀い! あんた、今、どこにいるの! まだ、国防省ビルにも行かずに、二人で遊び回ってるんですって? いい加減にしなさい!』

 山野朝美は、そのホログラフィー映像を周りから見えないよう、必死に手で隠した。小さなホログラフィーの永山祥子は鬼のような形相で怒鳴る。

『あんた、なんて格好してるのよ。昨日はコスプレ遠足だったから許したけどね、そんな格好は、母さんは許しませんよ。ちょっと、横に居るのは朝美ちゃんでしょ。ウェアフォンのカメラをそっちに向けなさい!』

 由紀がウェアフォンを朝美の方に向けようとすると、山野朝美はブルブルと首を横に振りながらウェアフォンを押さえ、必死に拒否した。二人はテーブルの上でウェアフォンを押し合う。二人の手の上で右を向けられたり左を向けられたりする永山祥子のホログラフィーが大声を上げた。

『いいから、早く、向けなさい!』

 山野朝美は観念して、自分でウェアフォンの向きを変えた。朝美の方を向いた永山祥子のホログラフィーは目を丸くした。

『ちょっと、朝美ちゃんまで、そんな格好して。何やってるの! お母さんがどれだけ心配しているか、分かってるの? お母さんは、あなたを信じてくれているから、あなたを一人で行かせたのよ。親の信用を裏切るような事をしちゃ駄目でしょ! すぐに国防省ビルに行って、ちゃんと謝ったら、そのまま、まっすぐに帰って来なさい。いいわね。今すぐ行くのよ!』

「はい。――ごめんなさい」

 山野朝美は小さくなって下を向いた。ホログラフィーの永山祥子は言う。

『由紀と替わりなさい』

 山野朝美は涙目でウェアフォンの向きを変えた。ホログラフィー映像の小さな永山祥子は、大きな威厳と迫力で言う。

『あんたは、朝美ちゃんを国防省まで送ったら、そのまま、目の前のバス停からバスで帰ってきなさい。五時までに帰ってこなかったら、お夕飯は抜きだからね。いいわね!』

「はい……」

『山野さんのお母さんが、国防省に連絡を入れてあるそうだから、門の前の人に名前を言いなさい。そしたら、朝美ちゃんは中に入れてもらえるそうだから。あなたは、そこで別れたら、まっすぐに帰ってくるのよ。寄り道したら承知しないわよ! いいわね!』

「……」

『返事!』

 店内が静まりかえった。永山由紀は小さく返事をする。

「はい」

 通話が切れ、永山祥子のホログラフィー映像は消えた。顔の前で両手を合わせた山野朝美が由紀に言う。

「由紀、ごめん。バレたあ。ホント、御免」

「仕方ないね。学校をサボったんだもん。そりゃ、怒られるよ。じゃあ、行こうか」

「うん。……」

 二人はリュックを背負うと、トレイを持ってトボトボと返却棚の方まで歩いていった。



                  二十

 有多町の官庁街に夕日が射している。帰宅する役人たちで混雑する東西幹線道路沿いの歩道。車道との境に立つ桜の木の下に、銀色のラバースーツ姿の永山由紀が立っていた。彼女はウェアフォンを顎の横に当てて、母と通話している。

「――分かったって。あ、出てきた。じゃあ、今から、朝美と一緒に寺師町に行って、制服を取ってから帰るから。バイバイ」

 国防省ビルの狭い門の間から歩いて出てきた山野朝美は、駆け寄ってくる由紀を見つけると、驚いた顔をした。

「あれ、由紀。待っててくれたんだ。いいの?」

「見捨てないって言ったじゃん。親友でしょ」

 国防省の総務課まで自分のパソコンとウェアフォンを返却してもらいに行った朝美が、中で職員に叱られている間、永山由紀はずっと外で待っていた。山野朝美は心配そうな顔で親友を見る。

「でも、夕飯抜きになっちゃうよ」

「大丈夫。お母さんに事情を話したら、特別に六時までにしてくれた」

「ふーん。由紀のお母さんって、理解あるなあ。うらやましい」

 二人は並んで歩き始めた。永山由紀が尋ねる。

「それより、パソコンとウェアフォン、返してもらえた?」

 山野朝美は頭に鶏冠付きのカチューシャをはめながら頷いた。

「うん。ちゃんと返してもらえた。そんで、ちゃんと怒られた。怖かったあ。話を聞きながら、一回、気を失った」

「マジ?」

「マジ。あ、ちょっと待ってね。ママに電話する。ふー」

 山野朝美は立ち止まり、深く深呼吸する。

「大丈夫?」

「うん。たぶん。ママの二十倍くらい怖い人たちに怒られたばかりだから、今ならママに怒られても、大丈夫だと思う」

 リュックを下ろした山野朝美は、返してもらったばかりのウェアフォンを中から取り出すと、緊張した面持ちでボタンを押し、母親に電話をかけた。もう一度、長く息を吐きながら、ウェアフォンを耳の下の顎骨に当てる。呼び出し音が骨を伝って響いてきた後、母の沈んだ声が聞こえた。

『はい。山野です』

「あ、ママ。私……」

『……』

 黙っている母に、山野朝美は口籠りながら言った。

「あの……ごめんなさい……でした。……」

 山野紀子は淡々とした調子で答える。

『で。今、何処なの』

「国防省ビルの前の交差点。これから、向かいのバス停に行くところ」

『由紀ちゃんも一緒なの?』

「うん」

『じゃあ、二人とも、気をつけて帰るのよ。ママも今から会社を出るから』

「うん。分かった」

 電話は、母の方から切れた。山野朝美は顎から離したウェアフォンのボタンを押し、リュックに仕舞う。心配そうに様子を伺っていた永山由紀が両眉を上げて尋ねた。

「あれ、あんまり怒られてないみたいだったね」

 山野朝美はブカブカの赤いラバースーツにリュックを背負いながら答えた。

「うん。すぐに切れたし。逆に、なんか怖い」

 永山由紀が頷きながら言う。

「ああ、それ、マジで怒ってるわ。私達を教育するために怒ってるんじゃなくて、本当にムカついてる時だ。こりゃ、ヤバイわ」

「ああ……マジですか……」

 リュックの左右のベルトを握りながら、少し涙目で俯いて歩く朝美を見た永山由紀は、彼女を励ました。

「でも、大丈夫だよ。正直に話せは、分かってくれるよ。ほら、朝美のお蔭で、レナとユカの万引き……違った、窃盗も防げたしさ。ね、元気出しなよ」

 山野朝美は顔を上げた。

「そだね。社会の平和と安全に貢献した訳だもんね。よーし。胸を張って帰ろう。あんまり大きくないけど。あ、信号が青だ。前進! レッツゴー、レッツゴー、ワンッ、ツー、スリー……」

 両腕を大きく前後に振りながら横断歩道を渡っていく朝美の背中を見ながら、永山由紀は呆れ顔で呟いた。

「その切り替えの早さは、マジで尊敬するわ。私も身に付けたい」

 永山由紀は朝美の後を追いかけていった。

 二人がバス停に到着してみると、その停留所の前にはバスを待つ大人が長い列を作っていた。山野朝美は列の人数を数えながら、由紀に言った。

「由紀。これじゃ、バスに乗れないね。このまま次の次のバスを待って寺師町まで制服を取りに行ってたら、六時に間に合わなくね? どうする?」

 永山由紀は少し考えてから答えた。

「地下リニアで、寺師町まで戻ってから、向こうからバスに乗ろうか。地下リニアだったら、すぐ乗れるんじゃないかな」

「そだね。じゃあ、ええと、地下リニア、地下リニア……」

 周囲を見回した山野朝美は、地下道へ降りる階段の入り口を見つけた。

「あった。あそこに駅までの直通入り口がある。たぶん、あれだ」

 二人は来た道を少し戻って、階段の所まで歩いた。永山由紀が不安そうな顔で尋ねる。

「ねえ、朝美。地下リニアに乗ったこと、ある?」

 山野朝美は三つ編みのお下げと一緒に首を横に振った。

「ううん。今日が初めて。郊外の町に住んでると、街中に来る時は、いつもママの車だからね。由紀は?」

「うん。私も同じ。初めて。一人で来てもバスしか使わないし」

「じゃ、お互い、初体験だね。ムフッ」

「そだね」

 山野朝美は拳を強く夕焼け空に向けて突き立てた。

「よーし。じゃあ、今日の『シメ』は地下リニア初乗車じゃ。イヤッホオイ!」

 コスプレ姿の二人の中学生は、初めて乗ってみる地下リニア列車にドキドキしながら、有田町南駅へと続く地下道への階段を降りていった。



                  二十一

 神作真哉がマンションに着いたのは、夕飯時を過ぎた頃だった。永山と取材中だった彼は、同級生の男から連絡を受け、娘の朝美が警察に連行された事実を知った。神作真哉は、すぐに山野紀子に連絡し、永山に後を託すと、慌てて山野紀子と朝美が暮らすマンションへと向かった。一方、日中の事態を知った事で仕事を早めに切り上げて帰宅していた山野紀子は、先に帰宅しているはずの朝美が帰宅していない事を知り、不安と恐怖に駆られ、知りうる限りの連絡先に電話して娘の所在を探していた。勿論、朝美のウェアフォンにも電話を掛けたが、通話不能状態であるとの応答があるのみであった。この事が山野紀子の不安をなお一層大きなものにしていた。そこへ、当の朝美本人から電話が掛かってきた。朝美は号泣していて、事の詳細が分からない。唯一知れたのは、同伴していた由紀と共に警視庁に連行されたという事だった。朝美の後から電話を替わった巡査から、事の詳細の説明を受けた。彼は朝美と由紀に犯罪の嫌疑があると言う。山野紀子がその電話を切った途端、神作からの電話が鳴った。彼は同級生の男から聞いた事を紀子に話した。その男が目撃した状況では、朝美は地下リニアの有多町南駅で何らかの事件に巻き込まれ、警官に補導されたのかもしれないという事だった。双方の連絡内容が食い違っていたので、事態が悪化する事を恐れた山野紀子は、すぐに弁護士の時吉浩一に連絡を取り、アドバイスを求めた。いや、実のところを言えば、紀子は気が動転していた。パニック状態の彼女は、すがる思いで時吉弁護士に電話していた。時吉浩一はすぐに行動に移り、警視庁ビルまで朝美と由紀を迎えに行った。神作真哉が山野紀子のマンションに着いたのは、ちょうど、時吉が朝美と由紀の釈放のための手続きをしている頃であった。時吉浩一は取調室で二人の話をじっくりと聴いた後、謝罪する警察関係者の言には耳も貸さず、正規の釈放手続をとった。その後、パトカーで二人を帰宅させる事になったため、時吉が同乗し、途中、寺師町のセンターモールのコインロッカーで二人の制服を回収してから、まず永山由紀を自宅に送り届けた。次いで、そのまま山野朝美を自宅マンションまで送り届ける事となった。

 山野のマンションのリビングでは、深刻な顔をした神作真哉と山野紀子がダイニング・テーブルを隔てて座り、娘の帰宅を待っていた。神作の前には、お茶漬けを食べ終えた茶碗と、先の濡れた箸が置かれている。彼はその前で、手に乗せた数粒の錠剤を一気に口の中に放り込むと、湯飲みのお湯でそれを胃の中に流し込んだ。

 向かいの席に座っていた山野紀子は、神作の前の大きめの茶碗と箸を取ると、立ち上がり、それらを持ってキッチンへと向かった。カウンター・キッチンの下の食器洗浄機の中に入れ、蓋を閉める。スイッチを入れるのを忘れたまま、再びリビングに戻った彼女は、風邪薬を飲み終えた神作の前に座った。そして、神作に視線を合わせずに小さな声で言う。

「あの子、やっぱり寂しがっているみたいなんだけど……」

 神作真哉は椅子の背もたれに片肘を載せて、少し前に出た首をもう片方の手で揉みながら、厳しい視線を紀子に向けた。

「寂しいから、学校サボったって言うのかよ。じゃ、何か、俺のせいか? そう言いたいのか?」

 山野紀子は、はっきりとした口調で反論する。

「そうじゃなくて。朝美にも父親は必要だし、朝美自身も、そう思っているって事よ」

 神作真哉は運転で疲れた首を揉みながら、言い返した。

「そんな事、言われなくても分かってるよ。おまえはどうなんだよ、おまえは」

 神作に指差された山野紀子は、視線を逸らす。

「私は……別に……」

 職場で会う時と違い、実に弱々しい声で答えた紀子に、神作真哉は若干の苛立ちを覚えた。彼は椅子を引くと、背もたれを握ったまま腰を上げた。山野紀子は言う。

「真ちゃん。逃げないでよ」

「別に、逃げちゃいないだろ。電話だよ、電話」

 神作真哉はポケットから取り出したイヴフォンを紀子に振って見せた。

 山野紀子は呆れた顔で言った。

「今、電話しなくてもいいじゃない。どうして、いつもそうなのよ」

「相手が待ってるんだよ。今度の一件絡みなんだ。おまえも事態は分かってるだろ。今が山場じゃないか。特に今夜の張込みは重要なんだ。真相を掴むチャンスなんだぞ。だから、永山を残してきたんじゃないか。あいつだって、本当は俺と一緒に帰宅したかったはずだ」

 神作真哉は椅子をテーブルに戻すと、少し間を空けてから、ゆっくりとした口調で言った。

「とにかく、終わったら、また山荘に戻るからな。俺も時間がない」

「それ何よ、まるで『自分一人が大変だ』みたいな言い方じゃない」

「そうは言ってないだろ。仕事が詰めの段階にきているのは確かじゃないか。その事を言ってるんだよ」

「今は仕事の話をしてるんじゃないの。家族の話なのよ」

「分かってるよ。とにかく、掛けるからな。待たせているから」

 神作真哉はイヴフォンをいじりながらリビングの方に歩いていくと、テレビを背にして低いリビングテーブルの前に腰を下ろした。ワイシャツにイヴフォンを挟み、スイッチを押す。左目を緑色に光らせて通話を始めた神作を見て、山野紀子は苛立った。

「もう。何なのよ。仕事、仕事って。娘の将来は心配じゃない訳?」

 神作真哉は知らん顔で通話を続ける。山野紀子は軽く髪をかき上げると、両手を放るようにテーブルの上に投げ出し、今度は少し大きな声で言った。

「何よ。もしかして、小事には動じない大きな男を見せているつもり? 家庭の事は何も気にならないのかしら」

 神作真哉は宙を見て通話相手と話した。

「そうかあ。俺は高橋博士の虚言だと思うぞ。もしくは誤解か。気にし過ぎじゃないのか」

 神作の最後の一言が山野紀子の苛立ちを倍増させた。山野紀子は荒く立ち上がると、ダイニング・テーブルの所に立ったまま、わざと通話の相手に聞こえるように大声で言った。

「取材の事で頭が一杯なんですねえ! まあ、容量が少ないこと! それでよく、キャップが務まりますねえ!」

「依頼人? 誰か他に、真明教を探るように、お前に依頼しているのか?」

 神作真哉は相手との通話に集中していた。彼は元来、集中力には長けた男であったが、この時の彼は意識的に通話に集中していた。そうする事が彼に冷静を保たせる唯一の手段である事を彼自身が知っていたからである。だが、その彼の姿勢に、山野紀子は更に苛立ちを募らせた。彼女は一度、強くダイニング・テーブルの上を叩いてから、言った。

「なによ。無視? 腹立つ!」

 その時、インターンホンのチャイムが鳴った。山野紀子はインターホンの立体モニターの前に走っていく。神作真哉は通話しながら、視界の隅で山野を追った。

「へいへい。分かりましたよ。ああ、帰ってきたな。じゃあ、とにかく、資料の方は印刷して持って行くよ」

 壁のインターホンから時吉の姿が投影された。山野紀子は少し前屈みになって言う。

「あ、先生、すみません。こんな私的なことで……」

 時吉浩一は笑顔で答えた。

『いえ。私にとっては、全部仕事ですから、気になさらず。とにかく、今から一緒に上に行きます』

「ああ、今、ロックを解除します」

 山野紀子はインターホンのボタンを押し、慌てて一階エントランスのドアのオートロックを解除した。彼女はその後で、朝美の指紋でも解除できた事に気付き、ハッとした。横の姿見に映る自分を見つめた山野紀子は、舞い上がっている自分に少し落胆した。肩を落として溜め息を吐く紀子の背中を見ながら、神作真哉はイヴフォンでの通話を続けた。

「そうか。三人で久しぶりに乾杯だな。とにかく、少し遅くなるかもしれんが、待っててくれ」

 神作の発言を聞いた山野紀子は、振り返ると、肩を怒らせてリビングまで歩いてきた。低いリビング・テーブルを隔てて神作の前に立った山野紀子は、通話を続けている神作を見下ろし、睨みつける。神作真哉はそれでも話し続けた。

「お前の痔と、ウチの娘が何の関係があるんだ」

 そう言った神作を山野紀子は問い詰める。

「ちょっと。痔と仕事と、何の関係があるのよ。乾杯って何よ」

 神作真哉は左目を緑色に光らせたまま相手の話を聞いていた。

 山野紀子は言う。

「ねえ、聞いてるの。今、朝美が帰ってきたところなんですけど」

 神作真哉は紀子に顔を向けると、顔を顰めた。

「分かってるよ、切るよ」

 そしてまた、顔の向きを変える。

「――すまん、これから家族会議だ。切るぞ」

 神作真哉はようやく電話を切った。ワイシャツからイヴフォンを外しながら、彼は言う。

「なんだよ、まったく」

 山野紀子は仁王立ちのまま、神作を指差した。

「あなたね、まさか、こんな時に、飲みに行く気じゃないでしょうね」

「飲まないよ。さっき風邪薬を飲んだばかりだし」

「風邪薬を飲んだから、お酒は飲まないってこと? じゃあ、風邪ひいてなかったら、飲むんだ。真ちゃん、娘の事は心配じゃない訳?」

 神作真哉は面倒くさそうに言う。

「そういう事じゃないだろ……ったく」

「じゃあ、どういう事よ」

 神作真哉は膝に手をついて立ち上がりながら言った。

「とにかく、本社に寄って、資料を印刷して、ネタ元に会って、ネタと資料を交換するだけだ。仕事だよ。仕事」

「さあ、どうかしら。久しぶりに三人で乾杯するんでしょ。いいお仕事だこと」

 神作真哉は紀子の顔を見た。

「なんだ。疑っているのか。じゃあ、おまえも付いて来るかよ」

 山野紀子は唖然とした顔をする。

「あ……朝美はどうなるのよ。こんな事があったのよ。あの子を一人にしとく気? 真ちゃん、あんた、何考えてるのよ!」

 神作真哉は顔を顰め、頭を激しく掻きながら溜め息を吐いた。山野紀子も短く溜め息を吐くと、下を向いて言った。

「やっぱり、私は間違えてなかったわね。あなた、父親失格よ。離婚して正解だったわ」

 神作真哉は紀子を指差した。

「じゃあ、おまえは母親として合格かよ。朝美に、ちゃんと目を配ってるのか? それなら訊くが、『朝美スペシャル』って知ってるか? 知ってるなら、言ってみろよ」

 山野紀子は聞き覚えの無い言葉に怪訝な顔をした。

「何よ、それ。あの子、料理でも覚えた訳?」

 神作真哉は勝ち誇ったように言う。

「ほらな。一緒に住んでるのに、知らない」

「何よ、教えなさいよ。なんで黙っているのよ。なんで山小屋にいるあんたが、そんなことを知っているのよ。教えなさいよ。何よ、その『朝美スペシャル』って」

「俺も知らんよ。だいたい、おまえの、そのネチネチしたところがだな……」

 玄関のチャイムが鳴った。

「ほら、帰ってきた。はああい」

 大きな声で返事をした山野紀子は、急いで玄関に向かった。ドアを開けると、時吉浩一と朝美が立っていた。

「こんばんわ。娘さんをお連れしました」

「本当にすみません。こんな夜分に。お手数をお掛けしました」

 深々と頭を下げる紀子の後ろで、廊下を歩いてきた神作真哉が怒鳴った。

「朝美! おまえ、何やってるんだ。パパもママも、こんなに忙しい時に。ママだって大変なんだぞ。おまえが足引っ張って、どうするんだ!」

 時吉浩一が掌を向ける。

「まあ、まあ、神作さん。朝美さんは、何も悪い事はしていないみたいですから。今日のところは、朝美さんの話をよく聴いてあげて下さい」

「……」

 山野朝美は赤いブーツを脱いで玄関から上がると、両親を押し退けるようにして、リビングに歩いていった。神作真哉が再び怒鳴った。

「朝美!」

 山野紀子は時吉の方を向いて、再び腰を折った。

「本当に、ご迷惑を掛けました。助かりました。娘まで助けてもらう事になるとは……」

 時吉浩一は手を振る。

「いや、仕事です。仕事。私も朝美さんと由紀さんから大体の話は聴きましたから。あとは、何か必要な手配があるか、今夜もう一度検討してみます。まあ、今のところ、気になっているのは、学校の処分だけなのですが、明日にでも真志楼中に行って、私の方から事態を説明して参りますので、ご心配なく」

「ほんと、何から何まで……」

「じゃ、私はこれで。失礼します」

 時吉浩一は一礼すると、ドアを静かに閉めた。ドアが閉まるまで、父と母は深々と頭を下げたままだった。ドアが閉まり、頭を上げた神作真哉は、足音を立ててリビングへと歩いていった。山野紀子は後を追う。リビングへのドアを開けるなり、彼は怒鳴った。

「朝美! ちょっと、ここに座れ!」

「真ちゃん。そんな、怒鳴らなくても……」

「うるさいよ。おまえだって、いつも怒鳴ってるだろうが。朝美、いいから、座れ!」

 神作真哉はダイニング・テーブルを強く指差した。赤いラバースーツを着た山野朝美は、リビングテーブルの横で背を向けて座っている。神作真哉はダイニング・テーブルの横に立ったまま、娘を叱った。

「どんな事情かは知らんがな。おまえ、もうすぐ高校受験だろ。そんな格好して街をウロついている場合か? 少しは自分の将来を考えろ。今、世間は大変な事になっているんだぞ。パパもママも、他の誰も見た事がないような変化が、世の中に起きるかもしれないんだ。おまえが大人になる頃には、大変な時代になってるかもしれないんだぞ。その時に、おまえの傍にパパやママが付いていてやれるとは限らんだろ。いいか、しっかり、自分の足で生きていける大人にならんといかんのだ。その為に、今……」

 山野朝美は頭の鶏冠付きのカチューシャを投げ捨てて立ち上がると、父の顔を睨んで、言った。

「別に、今だって、いつもパパもママも、居ないじゃん。二人居る時は、いつも喧嘩ばっかりだし。警察にも迎えに来てもくれないし。居ても、居なくても、同じじゃん。偉そうに説教しないでよ」

 朝美は父の横を通って廊下の方に向かう。神作真哉が肩を掴むと、その手を振り払い、紀子も押し退けて、自分の部屋へと向かった。神作真哉が怒鳴る。

「朝美!」

 自分の部屋に入った山野朝美はドアを閉めた。スティックタイプのドアノブの下にバズーカ砲の玩具を立て、ドアが開かないようにする。内開きのドアを押さえるように、その前に腰を置いた朝美は、膝を抱えた。外から紀子がドアを叩く。電気を消したままの暗い部屋の隅で、山野朝美は赤いラバースーツの中に顔を入れて、声を殺して泣いていた。

 カーテンが開けられたままの窓から、綺麗な半月が放つ光が薄く朝美を照らした。



                  二十二

 次の日の朝、少し遅く起きた山野紀子は、時計を見て慌てて娘を起こしに行った。朝美の部屋のドアを開けると、カーテンは開けてあった。娘の姿はなく、制服もリュックも無かった。壁に赤いラバースーツのコスチュームが掛けられている。玄関に行き、制服の靴が無い事を確認した山野紀子は、朝美が学校に行ったと安堵すると同時に、ハッとして時計を見た。山野紀子は慌てて部屋に戻り着替え始めた。

 何とか遅刻せずに出社した山野紀子は、娘の事を気にかけながらも、金曜日の「週刊新日風潮」の発行日に間に合わせるため、朝から仕事に追われた。茶色い机の上に置いたパソコンから投影される記事原稿のホログラフィー文書に目を凝らしていた山野紀子は、いつものように怒鳴る。

「コラァ! ハルハル! この原稿、やり直ーし。西井上の人物調査が不十分よ」

 春木陽香の返事は無かった。

「ハルハル、返事い!」

 やはり返事が無いので、山野紀子は顔をホログラフィー文書の横に出し、机の向こうの春木の席を覗く。

「ハルハル? あれ、何処行ったのかしら」

 春木の席の後ろの、壁際の列の端の席から、椅子を回した別府博が言った。

「ああ、ハルハルなら、今日は休みですよ。有給休暇らしいです」

 山野紀子は声を裏返した。

「はあ? 休み? 冗談でしょ。この忙しい時に。なんで、こんな時に有給使うのよ」

 別府博は首を傾げる。

「さあ……僕に訊かれても……。ただ、冗談で有給休暇を申請する新人は、なかなか居ないですよ」

 山野紀子は頭を激しく掻いた。

「何やってるのよ、あの子は……。もう!」

 春木の隣の席の背の高い女が、電話の子機を肩に載せたまま、低い落ち着いた声で言った。

「山野編集長、お電話です」

「誰?」

「警視庁の捜査一課の方です。中村さんっていう刑事さんです」

「中村?」

 山野紀子は聞き覚えの無い刑事の名前に首を傾げたが、昨日の娘の事を思い出し、慌てて自分の机の上の電話機に手を伸ばしながら、その女に言った。

「繋いで。何番?」

「六番です」

 電話機からコードレスの受話器を持ち上げ、六番のボタンを押した山野紀子は、編集長らしく落ち着いた声を作った。

「はい、お電話替わりました、山野です」

 若い男の声が返って来る。

『あ、おはようございます。お仕事中すみません。警視庁捜査第一課特命捜査対策室第五係の、刑事の中村といいます』

「はあ……」

 長々とした肩書きを早口で聞かされた山野朝美は、つい普段の春木と同じような返事をしてしまった。

 中村という刑事は言う。

『いや、神作さんにご連絡しなければならなかったんですが、何故かそちらに電話が回ってしまって。あの、失礼ですが、神作さんは……』

 山野紀子は普通に答えた。

「ええ。元夫です」

『え? ――ああ、そうですか。それで、ええと……』

 中村刑事は当惑しているようで、言葉を探している。

 山野紀子の方から尋ねた。

「あの、もしかして、昨日の娘の事ですか。それでしたら、直接、神作の方に連絡してもらえませんか。今は手が離せないもので」

 中村刑事の裏返った声が帰ってきた。

『娘? ――あ、いや、それがですね、神作さんが長期の有給休暇中だという事で……。あの、どうしても至急にご面会させていただきたいのですが、今、どちらにいらっしゃるか、教えていただけませんか。こちらから会いに伺いますので』

 山野紀子は少し考えた後、すんなりと答えた。

「分かりました。彼が今いる所は知っています。メモのご準備は、よろしいですか」

『あ、ちょっと待ってくださいね。――はい、どうぞ』

 山野紀子は神作真哉と永山哲也が泊まり込んで取材している山荘の所在地を正確に中村刑事に知らせた。中村刑事は声の調子を上げる。

『――ここの山荘にいらっしゃるんですね。分かれました。どうも、ご協力、ありがとうございました。失礼します』

 中村刑事は慌てた様子で、一方的に電話を切った。山野紀子は鼻から息を短く吐くと、受話器を戻した。別府博が眉を寄せて言う。

「編集長、いいんですか。そんな簡単に、神作さん達の居場所を警察に教えちゃって」

 腕組みをした山野紀子は、険しい顔で答える。

「いいのよ。少しは父親としての責任を果たせっつうの。いっつも、私ばかり対応してるじゃない。それを自覚させるには、いい機会だわ。それに、どうせ警察からの形だけの謝罪だから。その話を聞くくらいは、父親として当然でしょ。これくらいは父親らしい事をしてもらわないと」

 昨夜の事情を知らない別府博は、目をパチクリとさせていた。

 山野紀子は彼に手を振る。

「ほら、仕事、仕事。もう水曜よ。明後日の発刊に間に合わないわよ」

 山野紀子は、他の記者が書いた記事原稿のホログラフィー文書に顔を近づけ、記事を読んでいった。



                  二十三

 新志楼中学校に授業終了のチャイムが響く。生徒たちにとっては、次の授業までの束の間の休憩時間のはずであったが、山野朝美と永山由紀は、廊下を箒で掃いていた。今朝、登校するなりリカコ先生に呼び出され叱られた二人は、休み時間はずっと校内を掃除するよう言われていた。しかし、二人は箒を適当に動かしながら、お喋りに夢中である。

 永山由紀が口を尖らせて言う。

「ふーん。そうだったんだ。ムカつくね、それ」

 眉間に皺を寄せている山野朝美は、少し強めに箒を振りながら言った。

「大人って、勝手だよね。ていうか、ウチのパパとママが勝手なんだよね。大人に成りきれてないんじゃないかな」

 永山由紀が尋ねた。

「で、結局、ウェアフォンは没収?」

 山野朝美は頷く。

「うん。由紀んちは?」

 永山由紀も頷いた。

「私も。一ヶ月、没収だって。パソコンもネット・デバイスにロックかけられた。どうやって宿題を提出すればいいのよ。いちいち、お父さんか、お母さんのパソコンを借りるしかないじゃん。もう、面倒くさい。朝美、パソコンは?」

 山野朝美は胸の前で交差させた両腕を左右に広げる。

「大丈夫。セーフ。でも、マネーカードを没収された。だから、学校の無料サイトしか繋げない。はあ」

 山野朝美は箒に掴まり、肩を落とす。永山由紀が言った。

「そっか。ウチらのパソコン、もともとネット接続が限定されてるもんね。きついなあ。あ、でも、ゲームは出来るんじゃない?」

「ヒバリノン?」

「うん。――いや、『ハイ・バリン・オン』。あれ、朝美は今、カーネル・レベルじゃん。もう少しでブリゲーダー・ジェネラルになるんでしょ。ジェネラル・レベルからはVPポイント十倍だよね。そしたら、そのVPを使えば、無料で一ヶ月は遊べるよね」

「そっかあ。そういう手があったかあ。パパとママの為に全部のVPを使っちゃって、あれから頑張って、やっとここまで来たからなあ。あと一つ宇宙基地を攻略すれば、昇格だもんね。マネーカードからの引き落としは、再来月だから、私の実力なら、その頃には、とっくにジェネラルかリューテナント・ジェネラルにはなってるかも。それなら、プラマイ・ゼロかあ。うお、由紀、あったまいい!」

「でも、土星基地のステージって、難しいんでしょ。回りの兵士プレイヤーもレベルが高いって。大丈夫?」

「そうなんだよね。足引っ張るのもいるし……」

「だよね。どんな時でも、チームはチームなんだから、協力しないといけないのに、無重力ステージになった途端に、勝手に突入する奴とかいるよね。持ち場ってのがあるのにね。ムカつくよねえ、あれ」

「……」

 山野朝美は箒で床を掃きながら、黙っていた。永山由紀が尋ねる。

「あれ、どうしたの? 朝美」

「ううん。なんでもない……」

 元気なくそう答えた朝美に永山由紀はまた、今度は小声で尋ねた。

「それよりさ、昨日の刑事さん、どうだった?」

「刑事さん?」

「王子様だよ。石原さん。朝美が言ってた、理想の大人の男、ど真ん中って感じじゃん。ネクタイを弛めてたし。髭だったし。昨日だって、言ってたじゃん。『ああ、見つけたわ、私の王子様』って」

 山野朝美は箒を握り締めたまま、顔を顰めて頷いた。

「うん。マジで射抜かれちゃった。ヤバイ。これは、本当の恋かも」

「ええー! じゃあ、タイセイ君は?」

 山野朝美は周囲を見回して言った。

「ちょ、声が大きいぞ、おぬし」

「ごめん、ごめん」

「でも、タイセイ君は、まあ、キープかな。ううん……迷う。くう……」

 山野朝美は苦悩した顔で、握った箒に額を当てる。眉を寄せた永山由紀がアドバイスした。

「どっちかに絞りなよ。二兎を追う者は……」

「一等賞! アブとハチとトラだ! いえーい!」

 一気に言い切った山野朝美は、拳を突き立ててジャンプした。永山由紀が呆れ顔で言った。

「連続で間違えよった。あのね、『二兎を追う者は、一兎をも得ず』。もう一つは『虻蜂取らず』でしょ」

「こっちは、虻にも蜂にも刺されたんですけど」

 背後から声がした。永山由紀は、振り向くと同時に少し身構えた。

「ゲッ。レナ、ユカ」

 山野朝美が構えをとって言う。

「出たな、農林水産省コンビ!」

 レナは首を大袈裟に傾げた。

「はあ? 農林水産省? 何言ってんの。馬鹿じゃない」

 ユカが高い声を作って言う。

「お掃除、ご苦労様でーす。汚れてるから、もっと頑張ってねえ」

 ユカは手に持っていた消しゴムの屑を床に撒いた。それを見て怒った山野朝美はユカに向かっていった。

「おまえが汚したんだろ。このカマト……」

「朝美」

 永山由紀が朝美を止めた。ブレザーのポケットに手を入れたレナが朝美に近づいてきて、顔を近づける。彼女は威圧的な口調で言った。

「あのさ、昨日、随分と余計な事してくれたじゃない。せっかく、儲けようと思ったのに」

 山野朝美は口を尖らせる。

「でも、ドロボウは駄目じゃん」

 ユカが耳の後ろに手を立てて、聞き取る素振りをした。

「はい? あんたら、警察ですかあ。ムカつくんですけどお」

 レナは朝美のブレザーの襟を掴むと、凄んだ。

「放課後にプールの裏で待ってなさいよ。落とし前つけさせるから。いいわね」

 すると、急にユカが猫なで声を出した。

「あ、タイセイ、おはよう」

 タイセイ君はユカに返事する事無く、朝美と由紀を気にしながら、教室に入っていった。授業開始のチャイムが鳴る。レナは眉間に皺を寄せた顔を朝美に近づけると、朝美を睨んで低い声で言った。

「わかったね」

 そして隣の教室に入っていった。ユカも低い声で言う。

「絶対に、逃げんじゃねえぞ。ペッ」

「汚っ」

 ユカが床に唾を吐いたので、山野朝美は飛んで避けた。

 永山由紀が眉を寄せて言う。

「どうする、朝美。目を付けられちゃったよお」

 山野朝美は眉間に皺を寄せる。

「どうするも、こうするも……こうなりゃ、合戦じゃ!」

 山野朝美は箒を振り上げた。向こうからリカコ先生の声が飛んでくる。

「こら、いつまで掃除しているのですか。早く教室に入りなさい。チャイムは鳴りましたよ」

「はーい」

 二人はそそくさと教室に入っていった。



                  二十四

 正午を過ぎ、生徒たちは給食の時間に入っている。二〇三八年になっても、子供たちが学校で昼食をとる風景は変わらない。机を向かい合わせて島を作り、トレイに載ったバランスのとれた料理を友人と雑談しながら食べている。

 周りが談笑しながら食べる中、山野朝美は黙って黙々とプラスチック製の食器を傾けていた。向かいの席の永山由紀が心配そうに見ている。山野朝美は空になった茶碗を置くと、その上に箸を揃えて置いた。永山由紀が目を丸くする。

「え、朝美、もう食べ終わったの。はやっ」

 山野朝美は膨らませた頬を動かした。

「もぐ、もぐ、もぐ、ごくん。はあ、ごちそうさまあ」

 手を合わせている朝美に、永山由紀が小声で言った。

「早食いは、太るよ」

「そんで……いただきまーす」

 山野朝美は、机の中から出した袋をトレイの端に置くと、一つを開けた。永山由紀が、また目を丸くする。

「ええ! 追加でパンですか。しかも、『シュガバタパン』に『豚カツサンド』……マジっすか」

「んんー。この砂糖にバターの絡みが絶妙ね。そんで、合間に、カプッ」

「あらあ、思いっきり『豚カツサンド』を……。絶対に太るわ、こりゃ」

「大丈夫。まだ成長中だから、もぐ、もぐ、余裕がある。もぐ、もぐ」

 左右の手に持った「シュガバタパン」と「豚カツサンド」に交互に齧りつき、咀嚼を繰り返す朝美に、永山由紀が尋ねた。

「もしかして、放課後に備えてる?」

 山野朝美は咀嚼しながら頷く。

「そ。もぐ、もぐ。ごくん。こういう時は、食べとかないとね。パワー・チャージ。体格では負けてるからね。カプッ。もぐ、もぐ」

 永山由紀は味噌汁を啜ると、眉を寄せて朝美に言った。

「やっぱ、相手にしなくて、よくない? こっそり帰っちゃおうよ」

 山野朝美は豪快にコーヒー牛乳を飲む。

「ゴク、ゴク、ゴク、ぷはあ。ういー」

 瓶を置いた山野朝美は、口を拭ってから言った。

「ぬあーんで、ウチらがコソコソしないといけないのよ。悪い事しようとしたの、あっちじゃん。どういう勝負を望んでくるか知らないけど、私は、逃げないからね。ゴム跳びでもドッジボールでも、何でも受けて立とうじゃないの」

 永山由紀は少し間を空けて、親友に言った。

「朝美、今回はそんな感じじゃないと思うよ。やっぱり、リカコ先生に言った方がいいよ」

「ごくん。ふう。完食です。ごちそうさまでした」

 満足気な顔で再度手を合わせた朝美を、永山由紀は本気で心配しながら言った。

「ヤバイよ、朝美。それに、カロリーも摂り過ぎだよ。そっちもヤバイって」

「そして、デザート……」

「デザート? まだ食べるの?」

「いでよ、我が栄光の『ピーナツパン』よお! ピカッ、ゴロゴロゴロ……じゃーん」

 山野朝美は、また机の中からパンを取り出した。茶色く光る大きな「ピーナツパン」だった。永山由紀は思わず言う。

「デカっ。マジ?」

「さあ、カロリー共、まとめて掛かって来い! とう! カプッ」

 山野朝美は再び食べ始めた。永山由紀が呆れ顔で尋ねる。

「そんなに食べて、さらに、そんな大きなパンまで、本当に全部食べられるの?」

「ごくん。手持ちの小銭を全部使って、売店で買ったパンだからね。全部食べないと、勿体無い。ハグッ。もぐ、もぐ、もぐ……」

 山野朝美は頬を限界まで膨らませて、上下に動かしている。永山由紀は小鉢のポテト・サラダを食べながら呟いた。

「絶対、食べ過ぎだと思うよ、それ。知らないよ……」

 山野朝美は高らかと言う。

「過ぎたればなお、男猿のごとし! シルバー・バックは最強じゃ! あーんぐ。もごごご……」

 たぶん「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の事だったが、後半がよく解からなかったので、永山由紀は黙って首を傾げた。

 親友の忠告も虚しく、山野朝美は「ピーナツパン」を最後まで口の中に押し込んでいった。



                  二十五

 新志楼中学の校長室の応接ソファーには、大人たちが腰を下ろして話していた。一人掛けのソファーに校長の河野光造が座り、隣の一人掛けのソファーに生徒指導役の福沢弘樹が座っている。低い応接テーブルを挟んで置かれた三人掛けのソファーには、福沢の向かいに朝美と由紀の担任の山東リカコが座り、その隣の河野校長の向かいの席には、オーバー・チェック柄の派手なスーツを着た青年が座っていた。彼は横を向き、リカコ先生の話を聞いている。山東リカコが朝美からの連絡の状況の説明を終えると、弁護士の時吉浩一は前を向いて河野校長に尋ねた。

「それで、御校としては、私の依頼人達にどういった処分をされるおつもりで」

「ホッホッホッホッ」

 と河野校長が言っているだけなので、福沢先生が代わりに答えた。

「いや……処分という程の大げさなものではないのですが、今日はとりあえず、毎休み時間に校内の掃除をさせる事にしました。我が波羅多学園グループは、生徒の人権には十分に配慮しておりますので、過剰な処分をするつもりはありません。決して、先生がご心配されているような事は……」

 時吉浩一は厳しい顔をして言う。

「購入と所持が禁止されている国防兵器を購入し、改造したうえ、教師を欺いて学校に虚偽の事実を申告して、正当な休みを偽ったのですよ。それだけでいいのですか。何が正しい事で、何が社会ではやってはいけない行為であるかを教えない事の方が、彼女達の『教育を受ける権利』を侵害する事になるのではないですか」

 福沢先生は額を叩いた。

「ごもっとも。いやあ、さすがですな。教師としても、教育の重要さというものを再認識させられます。いやあ、勉強になりました。ね、校長先生」

 時吉浩一は項垂れた。

「今頃ですか……。それで、どういった指導を」

 時吉浩一が顔を上げると、河野校長は笑っていた。

「ホッホッホッ。そうですなあ……」

 福沢先生が口を挿む。

「ええとですね、それは、担任の山東先生の責任でして……」

 リカコ先生は大きな目を丸くさせて言った。

「あの子達、というか山野さんは、国防兵器の購入と所持が法律で禁止されているなんて事は知らなかったんですよ。それなのに、何か罰せられるのですか?」

 時吉浩一は軽く手を上げる。

「いえ。『法律の不知は違法性を阻却せず』といいましてね、法律を知らなかったという事は、違法ではなかったという理由にならないんですよ。ただ、私が午前中に国防省で閲覧した資料によりますと、彼女が購入した兵器は、もともと廃棄予定の防衛装備品で、記憶装置や電装設備も全て外してあったものです。しかも、甲一一三式アーマースーツの、ボディ部分の一部のみ。調べてみましたが、そのボディ・アーマーも、フランス製の輸入物で、海外の軍隊でも広く使用されている物です。通常の実戦で国防軍が使用する甲一一三式アーマースーツは、その内側に、国産の防弾シールド装甲と衝撃拡散樹脂壁、体調管理システム装備が重ねられていて、外側にも国産のフル・アーマー・パーツが実装されているそうです。つまり、彼女が入手したものは機材を固定する為に間に挟んで着る付属パーツで、平たく言えば『張りぼての内側の紙』みたいなものです。しかも、外観も材質も形状も、世界中の軍隊が既に知っている。国防装備品の機能や構造の秘密保持の必要性が、そもそも無い物なんですよ。だとすると、秘密保持を担保するために国防兵器の購入を禁止している条文にある『国防兵器』には該当しない。となれば、構成要件に該当しないので、違法性や責任を論じるまでもなく、何ら『犯罪』が成立することは無い、という事になります」

 福沢先生は口を開けていた。

「はあ……えっと、ちょっと難しくて……山東先生、分かります?」

「まあ、なんとなく……」

 時吉浩一は説明を続けた。

「要するに、法に触れてはいないということです。ま、現実に当該防衛装備品は、既に国に返却済みですし、こちらの山東先生の対処が早かったおかげで、実際にも、あまり人目に晒されてはいない。せいぜい、ここの中学生達と先生方に見られた程度です。国防省の調査にも、山野さんは、私に依頼する前から素直に応じて協力しているようですし、その調査によっても、何ら不信な点も、危険の端緒となる事実も出ていない。つまり、国防軍には、さしたる実害は生じていない訳です。国がわざわざ、彼女を処罰するべく動く必要が存在しない。したがって、今後も心配はいらんでしょう」

 リカコ先生は胸を撫で下ろした。

「そうですか。よかった」

 時吉浩一は厳しい顔のままだった。

「ですが、学校に虚偽申告したり、不当に休んだのは、良くない。その点については、しっかりと指導していただかないといけません。それについて、御校が、どう対応されるおつもりなのかを伺っています」

 福沢先生は河野校長の顔を覗き見た。

「校長先生、どうしましょう」

 河野校長は悠然と構えている。

「ホッホッ。うーむ。そうですなあ……。あ、そうだ。去年、アルジェリアの学校と姉妹校の契約を締結しましたな。あちらの生徒さんで、ウチに留学したいという方が何名もいるとか。二人には、交換留学と言う形で一ヶ月程あちらへ行ってもらって、反省授業に代えてもらいましょう。どうですかな、山東先生」

 リカコ先生は声を大きくした。

「アルジェリアって、あのサハラ砂漠の真ん中の学校ですか。あんまりですわ。特に山野さんは、この前、樺太分校で反省授業を三日間受けさせられて、凍土の中から化石を発掘する作業をさせられたばかりじゃないですか。温度差が有り過ぎますわ」

 時吉浩一は眉を寄せ、リカコ先生を見る。福沢先生が顰めながらリカコ先生に言った。

「いや、しかし、このくらいの所に送らんと、身が入らんでしょう。学校に嘘を申告して、繁華街をうろついていた挙句、犯罪にまで手を染めていた訳ですからな」

 リカコ先生は強く反論した。

「今、時吉先生が、法には触れていないと仰ったじゃないですか。弁護士の先生が、そう仰ってるんですよ」

 河野校長が心得顔でリカコ先生に諭した。

「法には触れていないかもしれませんが、犯罪は犯罪でしょう。例えば、こういうのは、どうでしょうかな。山東先生が教室で一生懸命に授業をしておられる時に、机の下で電子マンガを読んでいる生徒がいたとしましょう。それを知った山東先生は悲しまれませんかな? 法律では禁止されてなくても、立派な犯罪でしょう」

 間髪を容れず時吉浩一が口を挿む。

「いえ。『犯罪』ではありませんね。法律に書かれている禁止行為に該当しないものは、犯罪とは言いません。罪刑法定主義くらい、ご存知でしょう」

「しかし、社会には守るべきルールというものがあるじゃないですか。ホッホッホッ」

 時吉浩一は河野校長の指摘に答えた。

「それは『法』です。私はその一部の『法律』についてお話ししたのです。『法律』に規定されたものに該当する行為のみが国家処罰の対象であり、社会では、それを『犯罪』と言うのです。お間違えのないように」

 福沢先生が訊き返す。

「授業中に電子マンガを隠れて読む行為は、悪くないと?」

 時吉浩一は真っ直ぐに福沢先生の顔を見て頷いた。

「悪いですね。やってはいかん事です。法に触れる悪事は違法です。民事なら、損害賠償の対象に成り得る。いまのケースだと、山東先生からの慰謝料請求の原因になる可能性は、ありますね。ま、極めて微々たる額でしょうが。ですが、法に触れる悪事のうち、国家が警察や検察、裁判所といった国家権力を発動してまで行為者を処罰する必要がある程の悪事が、刑事処罰の対象なのです。そういった『特に悪い行為』を法律に予め明記して、それをした場合には、どのような刑罰に処せられるのかを条文に記載しておくことで、人々にその『特に悪い行為』を『特に禁じている』のです。そして、その『特に禁じられた行為』をした事を『犯罪』と言うんです。勿論、司法機関たる裁判所が最終的に『犯罪』と認定しない限り、厳密には『犯罪』とは言えませんがね」

 福沢先生は軽く時吉を指差しながら、片笑んだ。

「しかし、実際に警察に連行されたのでしょう。山野さんも永山さんも」

「……」

 時吉浩一は黙っていた。福沢先生は勝ち誇ったように言う。

「ほら、校長先生が言ったとおり、犯罪なんじゃないですか。じゃあ、サハラ砂漠で反省授業ですな。ね、校長先生」

「ホッホッ。まあ、確かに時吉先生の言われる通り、裁判所が有罪判決をした訳ではありませんから、厳密には『犯罪』とは言えませんな。しかし、悪事をなした事は確かでしょうから、そうなれば、我が校の規則には従ってもらう事になりますな。ホッホッホッ」

 時吉浩一は河野校長の顔を見て、一言ずつはっきりと言った。

「確認ですが、学校に嘘を申告して、繁華街をうろついて、悪事を為せば、御校ではサハラ砂漠送りなのですね」

「ま、今回の場合は仕方ないですな」

 そう答えた河野校長に時吉浩一は、もう一度確認した。

「教育的処罰としては、重過ぎるのではないですかね。学校をサボっただけで、反省授業ですか?」

 河野校長は答えた。

「正直、ズル休みする生徒などは、いくらでも居ますよ。私も子供の頃は、よくやりました。長距離走が嫌いでしてね。それが始まる秋頃は、よく、腹が痛いとか、熱があるとか言って、学校を休んだものです。ホッホッホッ。ですが、繁華街に遊びに行ったり、まして、警察に捕まったりした事はなかったですなあ」

 時吉浩一は言う。

「では、ズル休み程度なら反省授業で他校に送られる事は無いと」

 福沢先生が口を挿んだ。

「ええ。勿論です。しかし、今回は三つも重なれば、仕方ありませんな。これも教育の一環です」

 時吉浩一は河野校長の顔を見たまま尋ねる。

「これが、山野朝美や永山由紀じゃなくても、サハラ砂漠なのですか?」

 河野校長は蝶ネクタイを整えながら答えた。

「勿論ですとも。別に彼女たちを差別している訳ではありませんよ。ご心配なく」

 時吉浩一は背もたれに身を倒すと、表情を緩めた。

「そうですか。それなら安心しました。では、彼女たちは結局、サハラ砂漠にも、その他の分校にも、反省授業とやらで送られる事はないのですね」

 河野校長は蝶ネクタイを触っていた手を止めた。

「ん? どうしてですかな」

 時吉浩一は背もたれから身を起こした。

「前提となる事実が無いからですよ。説明しましょう。彼女達の昨日の行動は、こうです。まず、彼女達は、午前中の早い時間に、一度、国防省を訪れています。私の方で確認しましたが、ちゃんと国防省の警備兵の業務日誌に記録されていました。当然、防犯カメラにも映っているはずです。そして、そこで警備兵に、中に入るのを断られています。中学生である事自体を疑われたようです。彼女達の話では、威嚇され、取り押さえられかけたうえ、所持品検査まで受けたと。ああ、自動小銃を向けられたとも言ってました」

 リカコ先生が声を裏返した。

「まあ、自動小銃を。ウチの生徒になんて事を」

 時吉浩一は続ける。

「しかし、それは当然ですよね。なんといっても、あそこは国防の拠点施設ですから。射殺されていても不思議ではありません。その為にいる警備兵たちですからね。その警備兵たちに十四、五の女の子たちが威嚇されたわけです。プロの軍人にね。相当に怖かったことでしょう。で、その場から退散した。その後、寺師町の繁華街へと移動。足取りも確認できています。まず、最初に向かったのが、衣料品店。大通り沿いで小中学生を対象に衣料品を販売している大型店です。コスチュームの専門店でしてね。学園祭や体育祭などの時に、生徒たちが着ているコスチューム、あれを売っている普通の店です。そういう場で着れる物しか売っていないので、過度に肌を露出する衣装や、卑猥な衣装などは売っていません。店構えも通り沿いでガラス張り。オープンな感じです。私もさっき行ってみましたが、小さな子供連れの夫婦が多く来ていました。まあ、とにかく、そういう店です。で、彼女たちは実際にそこで服を購入して、店内で着替えています。購入した服の趣味はともかくとして、その必要があった事は推察されます」

 リカコ先生が頷きながら時吉に加勢した。

「ですよね。警備兵達に取り押さえられたり、自動小銃まで向けられたりしたのでしたら、制服も汚れたに違いないですわ、きっと」

 福沢先生は顔を顰める。

「どうですかね。街に行って浮かれとったんでしょう。卑猥じゃないとしても、どうせ、青少年らしからぬ不純な格好だったに違いない。ミニスカートか何か。こんな短いのをヒラヒラさせて」

「あの子達は、そんな子達じゃありません!」

「まあ、まあ、山東先生。何の証拠も無いわけですから」

 取り成そうとする河野校長に、リカコ先生は食って掛かった。

「校長先生。それは教頭先生に言う事じゃないですか」

 教師たちが話している間に鞄から薄型の立体パソコンを取り出した時吉浩一は、それを応接テーブルの上に置いて言った。

「証拠ならあります。これが、その衣料品店の近くの防犯カメラで撮影された二人の様子です」

 時吉浩一は立体パソコンを操作して、赤色と銀色のラバースーツ姿でソフトクリームを舐めながら歩く朝美と由紀の画像を、平面ホログラフィーで空中に映し出した。彼は説明する。

「寺師町の防犯カメラの映像です。ここに、昨日の二人の様子が映っています。そこから、二人の部分をトレースして、多角処理で立体画像にしたものが、これです。当時の二人の服装が分かります。すみません、どなたか、カーテンを閉めてもらえませんか」

 リカコ先生が立ち上がり、カーテンを閉めた。暗くなった部屋で、赤いラバースーツに風車付きのベルトをして、鶏冠の付いたカチューシャを頭にはめた山野朝美の姿が立体パソコンの上に実物大で浮かべられた。

 福沢先生が憤る。

「な、なんだ、こりゃ。やっぱりコスプレじゃないか。こんな格好で街中を……けしからん!」

 時吉浩一は河野校長に確認した。

「御校では情操教育の一環なんですよね。一昨夜、ニュースで見ました。例のコスプレ遠足。河野校長先生もインタビューでは推進してらっしゃいましたが……」

「ホッホッホッ」

 と河野校長が笑って誤魔化しているので、福沢先生が横から口を挿んだ。

「ですが、時と場所によるでしょ。この格好は不純だ。これなら、停学か退学もやむを得ないんじゃないですか。ね、校長」

 時吉浩一は、平面ホログラフィーで表示した別の画像を指差しながら言う。

「そうでしょうか。これは、さっきの画像より前の時間に撮影された、同区画の商店街の防犯カメラの映像です。ここに小さく映っているのが、二人。着替える前です。目立ちますね。制服姿ですからね。御校のエンブレムが刺繍されたブレザーに、御校の名前入りのワイシャツ。平日の午前中に新志楼中学の生徒が街をウロウロしている。学校のイメージ・ダウンになりますね。新志楼中はどんな教育をしているんだと、行き交う人々から言われるでしょうね」

 福沢先生は強く頷く。

「当然ですよ。波羅多学園グループとしても、イメージ・ダウンになる」

 時吉浩一はホログラフィーの山野朝美を指差した。

「ですが、こっちの服に着替えれば、そんな事は言われない。ただの『街を行きかう人』ですからね。溶け込めます。実際にこの防犯カメラ映像をよくご覧下さい。ここにも、ここにも、ほら、ここにも。コスプレばっかりだ。街を歩いていても、誰からも蔑視も凝視もされない。御校のイメージにも傷はつかない。適切な対応だと思いませんか」

「こんなコスプレを着て、どこが適切な対応なんだ。不純じゃないか。詭弁だ」

 福沢先生は声を荒げて時吉を指差した。時吉浩一は冷静に反論する。

「では、御校の制服はどうでしょう。このコスプレの肌の露出の割合は全体面積の約十二パーセント。頭部と左右の手先だけです。御校の制服の場合、ハイソックスを履いていたとしても、約二十七パーセント。しかも、彼女達が実際に着ていたコスチュームは、体のラインを出したものでもありませんし、どちらかと言うと、ブカブカだ。ちなみに、これ、正義のヒーローの格好ですよね。いやらしくも、なんともない。もう一度言いますよ、正義のヒーロー。さて、不純ですか」

 時吉浩一は福沢先生の顔を見た。福沢先生はソファーの背もたれに身を倒して言った。

「しかし、寺師町をウロついていたのは、事実じゃないか」

 時吉浩一は福沢先生を見据えたまま問い返す。

「では、どうしろと。有多街を徘徊していればよかったのですか。あそこは、国家の中枢機関が集中する街ですよ。警備も厳重だが、危険度も高い。それに、中学生がお小遣いをもって時間を潰せる街ではないですよ。制服やコスチュームで入れる店なんて、ありません。周りはスーツ姿の公務員か我々のような士業の先生たちばかりですからね。高級店ばかりだ。それに、緊張感の高い街ですから、中学生には明らかに居辛い街でしょうね」

「じゃあ、家に帰るか、学校に出てくれば……」

 口を尖らせてそう言った福沢先生に手を向けて、時吉浩一は言った。

「まあ、私の説明を聞いて下さい」

 福沢先生は口を閉じた。時吉浩一は話を続ける。

「彼女達は衣料品店を出た後、公衆立体電話から、こちらに連絡を入れています。山東先生、こちらの固定回線から転送して、ご自分のイヴフォンで受けられたんですよね。どんな内容でした?」

 リカコ先生は答えた。

「ええ。さっきもご説明しましたが、声色を変えて国防省の人間のふりをして、尋問が長くなるので、午後も登校できないと言っていました」

 時吉浩一は頷く。

「ですよね。実際に国防省ビルの敷地に入る事を断られている訳ですから、午後までかかると思ったのでしょう。ちなみに、声色を変えていても、イヴフォンなら山野さん本人の像が見えたでしょう」

 リカコ先生は首を縦に振った。

「ええ。確かに、見えました」

 時吉浩一はリカコ先生を見据えて言う。

「という事は、偽ってはいますが、その偽り自体には失敗している訳ですよね。こんな方法で成功するはずがない」

「……」

 黙っているリカコ先生から視線を外し、時吉浩一は河野校長の顔を見た。

「ま、ここからが重要です。彼女達は電話を終えた後、文房具店に移動しています。ええと、なんと言ったかな、『にょろにょろ鉛筆』、そういう名前の流行の文房具を買いに。ここも、言っておきます。文房具店です。勉強するための道具を売っている、あの『文房具店』。そこから裏路地に出てしまいます。中裏地区です。ご存知でしょう。東南アジア系のマフィアの縄張りが混在する大変危険な区画です。ちょっと行って、露店で占い業をしている老婦人に道を尋ねて、もと来た道に戻ってきた。まさか、道に迷っただけで、非難はされないでしょう」

 時吉浩一は福沢先生の顔を見る。

「……」

 福沢先生が目線を逸らして黙っているので、時吉浩一は話を進めた。

「次に彼女たちが向かったのは、さっきの衣料品店の目と鼻の先のファスト・フード店です。目的は単純。昼食の為です。ちなみに、文房具店は、このファスト・フード店があるビルの地下一階にあります。このファスト・フード店は、この波羅多学園都市内にも数店舗ある、あの大手ハンバーガー店です。ああ、今建設中の新志楼大学の中にも、新規に出店する事が決まっているようですね。もう一度言います、昼食をとる為に、ガラス張りのオープンな店舗で、しかも世界的にチェーン展開している大手ハンバーガー・ショップに入ったのです」

 福沢先生は顎を掻きながら言った。

「もう、分かりましたよ」

 時吉浩一は口角を上げた。

「そうですか。とにかく、そこで昼食後、店内に居る時に、永山さんの母親から彼女の携帯端末に通信が入り、そのまま、二人は国防省ビルに再び向かっています。今度は、山野さんの母親からの連絡が警備兵たちにも伝わっていたので、山野朝美さんは中に入る事が出来ました。そして、自己所有のパソコンと携帯端末を返却してもらう事が出来て、事情聴取にも応じる事が出来た。その間、永山由紀さんは、門の外でずっと山野さんを待っていたそうです。今度の場合は、警備兵も事情が分かっていますから、追い払われる事は無かったのでしょう。なお、山野さんの通過も、永山さんが門の前で待っていた事実も、警備兵の業務記録に記載がありました。その後二人は、国防省ビルからバスで帰宅しようとしたが、折しも公務員達の帰宅ラッシュの時間帯です。彼女達はバスに乗る事は諦め、地下リニアの駅へと向かった。有多町南駅です。そして、その地下リニアのホームで事件に遭遇した訳です。内容は、もう、ご存知ですね。明らかに彼女達は被害者です。何も悪い事はしていません。正しい事をしようとしただけです」

 時吉浩一は立体パソコンから寺師町の中心地の地図を投影させて、そこに付けられた赤い点と線を指差しながら言った。

「繁華街をウロついていたと言われますが、彼女達の寺師町での移動範囲は半径五十メートル程度の範囲です。正義のヒーローの格好をしてね。しかも、子供用衣料品店、文房具店、ハンバーガー店ですよ。実に健全だ。どの店にも、その店を目指して移動しています。直行です。ウロウロと街中を彷徨った事実はない。つまり、『ウロついて』はいない」

 時吉浩一はしっかりと福沢先生の目を見て、そう念を押した。福沢先生はソファーから腰を上げると、窓の方に歩いていって、カーテンを開けた。時吉浩一は片笑みながら立体パソコンを操作して、ホログラフィー画像を消していく。カーテンを開け終えた福沢先生は、振り返ると、時吉に指を振りながら歩いてきた。

「マフィアの支配区域に迷い込んだんでしょうが。果たして、本当に迷い込んだんだか」

 時吉浩一は立体パソコンを鞄に仕舞いながら説明した。

「その前に文房具店に行ったといいましたよね。彼女達はそこで、同級生の犯罪行為を目撃しています。そして、それを防ぎ、未遂に終わらしています。彼女達は、その同級生からの報復を恐れ、急ぎ、その場から立ち去る必要があった。つまり、緊急事態です。だから、走って、店の反対側の地上出口に出てしまったのです。そして、少しだけ本通りとは逆の方角に進んでしまった。それが真相です。その証明は、後ほど」

 鞄のチャックを閉めた時吉浩一は、河野校長の顔を見て言った。

「とにかく、彼女達は他の同級生の悪事を防いだのです。ちなみに、この悪事は明らかに刑法犯に該当する行為です。つまり『犯罪』です。山野さんと永山さんは、その『犯罪』による被害が発生する事を防いだ訳です。有多町南駅で警察に連れて行かれたのも、事件現場に偶然に遭遇したから。私の感覚では、警察業務に協力したとさえ思えるのですが、まあ、大変に混乱した現場だったようですから、とにかくその場から離れて、すぐ近くの警視庁ビルに行くことになったのでしょう。本人達は逮捕されたと勘違いしたようですが。ま、子供ですから、仕方ないですよね、その点は。――という訳で、彼女達は、何ら『悪事』を為した事実はない。むしろ、正しい行いをしています」

 リカコ先生が小さな声で言う。

「まあ、そう言われれば、確かに……」

 時吉浩一はもう一度ソファーの背もたれに身を倒すと、足を組んで言った。

「繁華街をウロついてもいないし、悪事も為していない。そうなると、残るは『学校に嘘を申告し』た点ですが、さっきも言いましたとおり、嘘をつく事には失敗していますし、成功する確率も皆無に等しい方法です。ですが、その点を無視しても、校長先生、ズル休みする生徒は、御校には、いくらでも居るんですよね。校長先生ご自身も、そうでいらしたように」

 時吉浩一はソファーに深く座ったまま河野校長の顔を見据え、膝の上の手で彼を指差した。河野校長は口籠った。

「あ……う……ホッホッホッ」

 時吉浩一は河野校長に確認する。

「では、先ほど申し上げた一点の証明が終われば、山野朝美さんと永山由紀さんがサハラ砂漠に送られる事も、他の分校にも送られる事も、停学や退学になる事も無い訳ですよね。その理由となる事実がありませんからね。どうですか」

 河野校長は顔を引き攣らせながら、頷いた。

「そ、そうですな。確かに。ホッホッホッ」

 時吉浩一は、わざとらしく大袈裟に項垂れた。

「そうですか。いやあ、残念ですね。もう少し厳しく指導されると思っていましたが、指導する理由が無いなら、仕方ないですよね」

 そっぽを向いた河野校長は言う。

「ま、その『証明』とやらによりますよ」

 時吉浩一は挑み顔で片笑みながら言った。

「分かりました。じゃあ、さっそく始めましょう。まず、この二人を呼んでもらえますか」

 時吉浩一はポケットから取り出したメモ書きを机の上に置いた。



                  二十六

 最後の休み時間がもうすぐ終わろうとしていた。朝美と由紀は箒で渡り廊下を掃いている。永山由紀が箒を動かしながら言った。

「ねえ、朝美。どうするの? 放課後はリカコ先生からも呼ばれてるよ。ユカとレナには、会いにいけないよ」

 山野朝美は苦悶の表情で腰を曲げて、箒を振っていた。

「それが終わってからで、よくね? うう……お腹が痛い。うう……」

「食べ過ぎだよ。次の授業が始まる前に、トイレに行っておいた方がよくね?」

「そだね。そうする。うう……」

 校内放送が鳴った。朝美と由紀は耳を澄ます。

『生徒の呼び出しです。三年B組の林ユカさん、三年B組の森レナさん。至急、校長室まで来て下さい』

 永山由紀が言った。

「あ、農林水産省コンビだ。ていうか、林野庁コンビかな。校長室に呼ばれてる。何かしたのかな」

「くくく、林野庁、くくく、受ける、くく……うう、お腹が……」

「大丈夫? 保健室に行く?」

 もう一度、校内放送が鳴る。

『三年A組の山野朝美さん、三年A組の永山由紀さん、職員室の山東先生の所まで来て下さい』

「ゲッ。ウチらも呼ばれた。何だろ。昨日のことかな」

「たぶん、そだね。でも、今度は私が由紀を弁護するからね。大丈夫。くう……その前にトイレ」

 山野朝美はお腹を押さえながら、トイレへと駆けていった。朝美から箒を受け取って彼女を見送っていた由紀に、後ろから男子生徒が声を掛けた。

「あれ。永山、おまえ、呼ばれてるじゃん。行かなくていいのかよ」

「あ、タイセイ君」

「山野も呼ばれてたぞ。聞いてた?」

「うん。分かってる。朝美は、今トイ……いや、ちょっと用事。後で一緒に行く」

「ふーん。隣のクラスのユカとレナも呼ばれてたな。もしかして、遠足の時の、あの事?」

「あ……ううん。――実はね……」

 永山由紀は意を決して、タイセイ君に事情を話した。その頃、トイレの個室で山野朝美のお腹の堤防も決していた。



                  二十七

 校長室のドアが開き、ユカとレナが出てきた。ふて腐れた顔でドアを閉めたレナは、眉間に眉を寄せて言う。

「ムカつく。なんでウチらがサハラ砂漠なのよ。日焼けしちゃうじゃん」

 ユカが舌打ちする。

「チッ。あの弁護士、何者? なんで、あんなに調べてんのよ。ウチらが『仕入れた』物をサイトで売ってた事まで調べてた。チョーうざい」

 歩きながら、レナが言った。

「ユカのパパに頼んで、サハラ行き、取り消してもらってよ。都議会議員でしょ。ウチのパパ、今、塀の中だからさ」

「分かった。帰ったら言っとく」

 校長室のドアが開き、時吉が出てきた。ユカとレナは振り返る。続いて出てきたリカコ先生に時吉浩一は尋ねた。

「じゃあ、二人は反省室ですね。向こうですね」

 鞄を提げて歩いて来た時吉浩一は ユカとレナの前を通り過ぎた。ユカが作り声で言う。

「あ、先生。ありがとうございました。お疲れ様でした」

 時吉浩一は振り向かず、手を振って答えた。

「ん。サハラ、頑張ってね」

 そのまま歩いて行く時吉の背中を睨みつけながら、レナが言う。

「何よ、あれ。ムカつく。誰のせいで、サハラに行く事になったと思ってんのよ」

 ユカも言った。

「チョー、ムカつく。なに、あいつ。生意気」

 時吉浩一は遠くの方で一度だけ軽くスキップすると、角を曲がり、反省室へと歩いて行った。



                  二十八

 反省室の中で長い会議テーブルの真ん中に朝美と由紀が並んで座っていた。

 永山由紀が隣でお腹を押さえている朝美を心配そうに見て言う。

「朝美。お腹、大丈夫?」

「うん……とりあえず、第一ロケットは切り離してきたから、少し落ち着いた」

「第一ロケット?」

 ドアが開き、オーバー・チェックの背広を着た時吉弁護士が入ってくる。山野朝美が声を上げた。

「あ、トッキー先生だ」

「朝美」

「あ、そうか」

 由紀に小声で注意された山野朝美は、目の前の席に座った時吉に言った。

「トッキー先生……違った、時吉先生、いろいろ、すみませんでした」

「お、今日は、やけに、しおらしいじゃないか」

 時吉がそう言うと、山野朝美は首を竦めて舌を出した。

「へへ。まあ、一応……」

 時吉浩一は厳しい顔をした。

「一応? 君ら、先生に嘘ついて、学校を休んだんだぞ。分かってるのか?」

「はい。……悪かったと、思ってます」

 山野朝美は下を向いて小さな声でそう言った。永山由紀も頭を下げる。

 時吉浩一は呆れ顔で言った。

「山東先生な、さっきも必死で君らの事を庇ってくれたんだぞ。校長先生と福沢先生に反論して。その山東先生を騙そうとしたんだぞ、君ら。分かってるのか?」

 朝美と由紀は顔を見合わせた。

 時吉浩一は二人の中学生に言った。

「いいかい。君らはもう、子供じゃない。自分ひとりで買物にも行けるし、ネットで複合通信だって出来る。体育祭や文化祭の時には、いろいろな手配や準備を自分たちでやるだろ? お金の計算も、基本的な事は出来る。家事だって、本気でやろうと思えば、やり方を身につけて、一人で出来るだろ。炊事だって、洗濯だって」

 山野朝美はコクリと頷いて言った。

「はい……今日から、ちゃんとお手伝いします」

「そういう事じゃないんだ。まあ、それも大切だけどね」

 そう言った時吉浩一は、二人に話して聞かせた。

「君らは、一人で生きていこうと思えば、生きていく為の基本的な事は出来るはずだ。でも、それはまだ、十分じゃない。社会で生きていくためには、もっと多くの事を身につけなければならない。知識も技術も、生活習慣も礼儀作法も、もっと多くの事をね。みんな、それをちょっとずつ勉強したり、経験したり、他人の行動を真似たりして、ちょっとずつ、自分のものにしていくんだ。僕もそうしてきたし、今もその最中さ」

 朝美と由紀は、大人の時吉が勉強中だと聞いて驚き、また、顔を見合わせた。

 時吉浩一は二人の様子を見て口角を上げると、話しを続けた。

「大人だって、みんな勉強してるし、日々何かを学んでいる。人から教えられたり、自分で調べたり、何かを観察したりしてね。山東先生もそう。君らのお父さんや、お母さんだってそうさ。みんな、そうしてる。そして、君らが大人になって、そういった事が出来るようになるよう、学校って所で、いろいろな事を身に付けさせているんだよ。物事を学んで、自分のものにするをしてるんだ。学校での勉強は、そういう訓練なんだ。いいね」

 二人は頷く。時吉浩一も頷いた。そして、話し続ける。

「君らは、生きるための基本的な事は出来るけど、まだ、社会を知らないし、そのまま社会に出るのは危険だ。でも、何か少しずつ経験させて学ばせないと、ちゃんとした大人にはなれない。だから、周りの大人が目を向けながら、少しずつ、君らに何かを経験させようとしてくれる。分かるね」

 朝美も由紀も少し考えてから、それぞれ深く頷いた。

 時吉浩一は言う。

「うん。その時に、大人はみんな思うのさ。ああ、大丈夫かな。この子たちは間違いを犯すんじゃないかなって。大人は皆、自分でも失敗した経験があるからね」

「先生も?」

「あるさ。失敗だらけだよ。大人が失敗をすると、責任を果たさないといけないからね。他人に迷惑をかけたら、その償いをしないといけない。でも、今の君達は違う。失敗しても、お父さんやお母さんが、その償いをしてくれる。どうしてだと思う?」

「法律で、そう決まってるから」

「うん。どうして、法律でそう決まっているんだろ」

「……」

「子供は失敗するものだからさ。体育の授業や部活で、バスケットやバレーやテニスをするだろ? あれ、君ら初めからスイスイ出来た? いろいろ失敗しながら、次はこうすればいいのかって考えて、少しずつ出来るようになってきただろ。今、君達が一年生とバスケをしたら、勝つでしょ。それだけ、この三年間でテクニックを学んで、身につけてきたって事さ。でも、それ、机の上でルールブックやテクニック本ばかり読んで、出来るようになった? 違うよね。実際に体を動かして、経験して、失敗を重ねながら、知らず知らずのうちに、学んできたはずだ」

「うーん」

 山野朝美は、腕組みをして考え始めた。時吉浩一は話を続ける。

「それと同じさ。社会で生きていくうえで必要なものも、経験させなければ身につかない事もある。一人で地下リニアに乗れるか、とかね。その経験をする為に必要な知識を、学校の授業で教えてくれる。漢字が読めないと、地下リニアの時刻表も駅の表示も分からないし、読解力がないと、壁に貼ってある説明の看板に何が書いてあるのかも分らないだろ。基本的な数学が出来ないと、運賃の計算も出来ない。街へ出れは、そこもかしこも英語の表記で溢れている。ハンバーガーのメニューも読めない。家の台所を考えてごらん。危ない物でいっぱいだ。電磁コンロに温熱シャワー、合成化学薬品の洗剤に超合金の軽量包丁。理科で教わった事を何も知らなかったとしたら、毎日怖くて近寄れないだろ。歴史を知らないと、山の上のお城の跡を見ても、『なんだありゃ』ってなるし、地理を知らないと、旅行にも行けない。体育だって音楽だって、美術だって同じさ。コスチュームを選ぶのにも、どこかで役立っている。皆、君らがこれから何かを経験して身に付けていく為に必要な知識や能力だ。そして、その知識や能力を使って経験をしてみて、はじめて意味が出てくる。だけど、その時に、もし失敗したとしても、ちゃんと大人が責任をとってくれる。だから心配はいらない。そういう仕組みになっているってことさ。法律で」

 少し間を開けた時吉浩一は、話を続けた。

「ところで、法律って、大人が作るものだろ。その法律を作る大人が、どうして、君らがした失敗なのに大人が償わないといけない法律を、自分たちで作ったんだろうか」

「……」

 時吉浩一は考え込んでいる二人を指差した。

「君らを信じているからさ。今はいろいろ失敗するけど、その失敗から何かを学んで、いずれ、こっちに来て、立派な大人になってくれるってね」

 二人は口を開けて何度も頷いた。時吉浩一は続ける。

「だから、朝美ちゃんのお母さんは、朝美ちゃんに一人で行かせたんだよ。国防省の大人たちと、ちゃんとお話して、やるべき用事を済ませて、ちゃんと謝って、家に帰った後は、ちゃんと学校に行く。由紀ちゃんのお母さんもそうさ。友達を助けて、一緒にバスで街中を移動して、ちゃんと家まで帰ってくる事が出来る。そして、友達と一緒に、誘惑に負ける事無く、やるべき事をちゃんと実行する事が出来る。山東先生も同じ。君達が、大人の助け無しで、一人で出来る、もし失敗しても、次に何かする時に、その経験から何かを学んで、その次に失敗しないようになる、皆、そう信じてくれたのさ」

 笑顔でそう話した時吉浩一は、今度は少し表情を厳しくした。

「だけど、君らは、山東先生にも、お母さん達にも、嘘をついた。君らの成長のために、リスクを承知で、君らを信じて、何かを一人で経験するチャンスを与えてくれた人達を、君らは裏切った」

「……」

 朝美と由紀は、下を向いて黙っていた。

 時吉浩一は、静かな口調で言った。

「自分たちのやった事が、なぜ悪い事なのか、もう分かったね」

「……はい。……」

 朝美と由紀は、小さく返事をした。時吉浩一は二人に確認する。

「それじゃあ、休み時間の度に校内を掃除するなんていう重罰を与えられても、納得だね」

 顔を上げた二人は、真っ赤になった目で精一杯に答えた。

「はい。ピカピカにします」

「明日は、言われてないけど、トイレ掃除もします」

「そうだ、朝美。リカコ先生の車も綺麗にしようよ。お詫びに」

「そだね。理科室に万能洗剤があったよね。アレで綺麗にしてあげよう」

 時吉浩一は二人の会話を止めた。

「いや、それは、しなくていいよ。車のボディはデリケートだからね。それより、家に帰ったら、二人とも、もう一度、お父さんとお母さんに謝るんだよ。いいね」

「はい」

 由紀がそう答えた後に、山野朝美は下を向いて小声で呟いた。

「でも、ウチ、パパは家に居ないし……」

「そうだ、ウチも」

「じゃあ、どうすればいいかな。昨日、学校に偽装電話する知恵は浮かんだけど、仕事で出張中のお父さんに連絡する知恵は浮かばないのかい? 二人のお父さんは、きっと大事な仕事だったんだ。仕事は学校とは違う。自分のために職場に行っているんじゃない。他人のために職場に行っているんだ。責任がある。みんな、嫌でも辛くても、やりたくなくても、やらないといけない事だから、やってる。それが大人だ。だから、大人は、仕事を勝手には放り出せない。分かるね」

 二人はじっと時吉の顔を見ていた。時吉浩一は二人に応えるように話した。

「それでも、朝美ちゃんのお父さんは帰ってきた。きっと、由紀ちゃんのお父さんも帰りたかったはずだよ。でも、由紀ちゃんのお父さんは、朝美ちゃんのお父さんの後輩だから、遠慮して自分が残ったんだと思う。二人とも仕事を放り出す訳にはいかなったんだよ。その辺りの事情は、理解できるね。由紀ちゃん」

「はい。……」

「大人になると、皆、それぞれに忙しい。たくさんの難しい宿題を抱えているようなもんだ。それでも、家族の事を考えてくれている。どんな家族の形であってもね」

 時吉浩一は朝美に顔を向ける。俯いていた山野朝美は顔を上げた。時吉浩一は朝美の目を見て言った。

「いいかい。スポーツでも仕事でも、何でもそうだが、皆、それぞれの役割がある。人間は一人一人違うからね。誰一人として、同じ人間はいない。一人一人を大切にすること、それを『個人主義』って言うんだ。ああ……ま、いいや」

 時吉浩一は、自分の専門分野に話が流れそうになったので、中断した。

「とにかく、みんな一人一人違う。お父さんとお母さんも違う。違う人間だ。君らと、お父さん、お母さんとも違う。大人と子供だ。違う脳ミソで考えて、違う体で動いている。そして、それぞれに特性や立場がある。今、君達が家族の中で担うべき役割は、何だろうね。君達には、君達の立場で、家族の中で何かやるべき事があるはずだ。朝美ちゃんと由紀ちゃん、それぞれ別々にね。それを少し考えてごらん」

 プッと音がした。時吉浩一は再び朝美に顔を向ける。

「聞いてる?」

 山野朝美はキョロキョロと足下を見回しながら答えた。

「はい、あ、聞いてます。上履きと床が擦れて変な音が……あれえ?」

 時吉浩一は溜め息を吐くと、椅子から立ち上がった。

「ま、そういう事だから。じゃあ、僕はこれで」

 ドアの方に向かう途中で立ち止まった時吉浩一は、朝美と由紀に言った。

「ああ、忘れてた。林さんと森さんは、来週からサハラ砂漠の学校に強制的に留学する事になったから、心配は要らないよ。今日は、学校が終わったら、さっさと帰るように。いいね」

 朝美と由紀は、またまた顔を見合わせる。ドアに手を掛けた時吉浩一は追加した。

「それと、彼女達、明日からは、少年課の刑事さんとのお話で、たぶん忙しいはずだから、あまり近づかないように。邪魔しちゃ気の毒だからね。刑事さんたちの。そんじゃ。また、何かあったら、いつでも電話していいから。トッキー先生って掛けてくる中学生からの電話は、僕に回すように、ちゃんと事務員に言ってあるし。じゃ」

 軽く手を上げた時吉浩一は、ドアを開けて反省室から出ていった。朝美と由紀は、ドアを閉める時吉に丁寧に頭を下げた。

 ドアが閉まるとすぐに、永山由紀が頭を上げて、朝美の肩を叩く。

「もう、朝美。どうして、こんな時にオナラするのよ」

「だって、仕方ないじゃん。お腹が痛かったし、出ちゃったんだから」

「もう、臭い」

 二人はパタパタと手を振っていた。



                  二十九

 放課後、山野朝美と永山由紀は、まず、職員室のリカコ先生の席を訪れた。二人は、リカコ先生に叱られる前に、自分たちから深々と頭を垂れて、迷惑を掛けた担任教師に謝罪した。それを見たリカコ先生は、少し面食らったようであったが、周囲の同僚の手前、型通りの説教を二人にした。しかし、それは、そう長いものではなく、言葉に棘も無かった。

 職員室から出てきた二人は、そのまま、真っ直ぐに、いつもの通り二人で自転車を並走させて、一緒に普段の下校路を通って、それぞれの家に帰った。ただ、いつもと違っていたのは、二人とも口数が少なかった。それは別に二人が喧嘩をした訳では無く、二人ともそれぞれに相手の話に上の空で、何か考えていたからだった。

 山野朝美は、由紀の家の前で彼女と別れると、暫らく自転車で坂道を下り、商店街の裏の住宅街の中を進んだ。そして、長い坂道を立ち漕ぎで上りきると、横道に入り、少し進んでから、マンションの敷地に入った。朝美が駐輪場に自転車を押して入ってきた頃、外で雷が鳴る音がした。朝美は一瞬だけ首を竦めたが、自転車を仕舞うと、すぐにもう一度外に出て、空を見上げた。空の上には、どす黒く厚い雨雲が流れ込んで来ていた。

 朝美が我が家のある階でエレベーターから降りて、各戸のドアが並ぶ長い外廊下を歩いていると、雨が本格的に降り始めた。朝美は小走りで自分の家のドアまで進み、ドアノブの指紋認証ロックに手を掛けた。玄関に入ると、振り返って、外のどしゃ降りの雨に霞む遠くの新市街の高層ビル郡を見つめた。そして、少し何かを考えた後、その玄関の重いドアを閉めた。

 朝美は傷だらけの黒の革靴を脱ぎ捨てると、そのまま廊下を奥に進んだ。彼女は途中で立ち止まり、また玄関まで戻ってきて、自分が脱ぎ散らかした革靴を拾い、綺麗に揃えて端の方に置き直した。

 カット・ガラスがはめ込まれた木製のドアを開けてリビングへと入ってきた朝美は、カウンター式のキッチンに進むと、シンクの前でブレザーの左右の袖を少しだけ持ち上げ、隅に置かれている液体石鹸の容器のポンプを押して、左手の上に石鹸液を落とした。念入りに手を洗うと、シンクの下に掛けてある黄色いタオルでしっかりと手を拭いた。その後、少し周りを見回してから、そこから出て、リビングテーブルの上に、背負っていた重そうな四角いリュックサックを放り投げた。身軽になった朝美は、外のベランダと室内を区切っている大きなガラス窓のサッシ戸の方に歩いていき、レースのカーテンを一枚だけ開けて、外の様子を確認した。雨足は一段と増していて、いつもなら七色に点滅してくっきりと見えている寺師町の端の遊園地の大きな観覧車が、雨の奥で滲んで見えていた。窓ガラス越しに、ベランダに洗濯物が干してない事を確認した朝美は、視界の隅で何かが点滅するのに気付き、そちらの方に顔を向けた。昨夜、紀子に没収されたウェアフォンが壁際のサイドボードの上に乗せてあり、そのLEDライトが点滅していた。朝美は、そのままサイドボードへと歩み寄り、そのウェアフォンを手にとってみた。その時、メモ用紙が下に落ちた。朝美はそれを拾って読んだ。母からの伝言だった。

 ――冷蔵庫にトマト・ゼリーが入っているので、食べなさい。美容によろし。夕飯は鍋のカレーを温めて食べること。ウェアフォンは、外への持ち出しは禁止。家の中でなら使ってよし。以上――

 メモには、そう書いてあった。朝美は、ウェアフォンと、その小さなメモ紙を握り締めたまま、再びキッチンへと駆けていった。冷蔵庫を開けると、綺麗な容器に入った市販のトマト・ゼリーが三つ、低い位置の棚の上で室内灯に照らされて真っ赤に輝いていた。朝美はその一つに手を伸ばしたが、もう一度その数を数えると、その手を引っ込めて、冷蔵庫のドアを閉めた。そして、電磁コンロの上に乗せてある鍋の蓋を取って、中を覗いた。朝美の好物のチキンカレーの香が飛び出してきて、周囲に広がった。朝美は鍋の外側に手を当てて、それがまだ温かいことを確認した。朝美は蓋を閉めると、もう一度メモ用紙を読み返して、それをブレザーのポケットに仕舞った。朝美はまた、リビングの方に駆けていくと、さっき放り投げたリュックサックを持ち、今度は自分の部屋に駆けていった。部屋のドアを開け、ベッドの上にリュックを放り投げると、ブレザーを脱いで、急いで部屋着のスウェットに着替え始めた。

 ピンク色に大きな黒の玉模様のスウェットの上下に着替え終えた朝美は、すぐに風呂場へと駆けていった。腕まくりをしながら脱衣所を通り過ぎ、アクリル製の曇りガラスがついたドアを開けると、風呂場の中を見回した。この数ヶ月、母は仕事で帰りが遅いにもかかわらず、いつも浴室内が綺麗に磨かれている事に、その日、朝美は始めて気付いた。朝美は浴槽の上の蓋を開けると、半分くらいに張ってあったお湯をプラスチック製の汲み桶ですくい、少し匂いを嗅いでみた。臭くは無かったが、朝美は決心した。

「よし。いっちょ、やるか」

 朝美は脱衣所に戻ると、洗面台の下の扉を開け、中から風呂掃除用の洗剤を取り出した。透明の容器から見える洗剤液の量を確認して、朝美は言った。

「これじゃ、足りないかもな……。あ、そうだ。上の棚に新しいのがあったはず」

 朝美は、その洗剤を棚の中に戻し、再びリビングに走ると、ダイニング・テーブルの下に仕舞われている四脚の食卓用の椅子の内の一脚を、背もたれに顎を乗せながら不器用に抱え、そのまま、小股の早足で脱衣所に移動した。そして、その椅子を洗面台の前に置くと、その上に乗り、上の戸袋の戸を開けて、鼻歌を口にしながら、中から買い置きの浴室用洗剤を探した。

「あたしゃあ、も少しい、背が欲しいい……あった。これだ。よっと」

 浴室用洗剤を見つけた朝美は、椅子の上で背伸びをして手を伸ばした。朝美は左右の手の指先で挟ん縦長の容器を引き出すと、それを右手に握ったまま、椅子から飛び降りて、浴室のドアのすぐ隣にある洗濯機と壁の間を覗いた。そこにある容器に立ててあった掃除用のブラシを手に取ると、開け広げた浴室のドアの前で、洗剤の容器を持った手で敬礼をして、力強く言った。

「朝美大佐、これより浴室の清掃作戦を開始する。とりゃあ!」

 てんとう虫柄のスウェットを着た山野朝美は、新しい洗剤とブラシを持ったまま、浴室内に飛び込んでいった。



                  三十

 山野朝美が浴室内と浴槽、中の道具類を綺麗に磨き終えた頃には、日もすっかり落ち、外は暗くなっていた。

「へっくしゅん」

 ずぶ濡れになったスウェット姿のまま、朝美は最後の泡をシャワーで洗い流している。顔についた泡を袖で拭いて、手ですくったシャワーの水で顔を軽く洗い、朝美はシャワーの水を止めた。すると、換気扇の音とは別に、外から低く太く、何かを打ち鳴らすような音が聞こえてきた。朝美はカミナリの音だろうと思い、濡れたスウェットの裾を絞りながら浴室内を見回して、流し残した泡が残っていないか、確認した。

「よし。あとは、お湯を張るだけだな。完璧じゃ」

 朝美は得意気な顔で脱衣所に出ると、ドアを閉め、浴室の電灯を消した。そして、手に持ったブラシを元通り洗濯機の隣の容器に戻し、少し見直してから、元立ててあったような角度に直した。握っていた空の浴室用洗剤のプラスチック容器をゴミ箱に放り投げると、濡れたスウェットの上下と、ぐちょぐちょの靴下を脱いで、洗濯機の中に放り込み、そのまま中を覗き込んだ。

「んー。ママのブラウスも入れたままだな。ついでに、洗濯もしておくか。よし」

 朝美は、下着姿のまま、洗面台の前に置かれていた椅子を洗濯機の前まで持ってくると、その上に乗り、乾燥機の上の棚から、自分で必要と判断した洗剤と思われる容器の幾つかを、閉めた洗濯機の蓋の上に並べた。椅子から降りて、それらの容器を一つずつ確認しながら、椅子の上に置き直す。朝美が洗濯機の蓋を開けた時、換気扇の音に紛れて、外から再び轟音が聞こえた。

「あれ、今日は花火大会なのかな。まったく、いつまでも、あんな子供みたいな事を」

 朝美は少し鼻で笑って、洗剤の容器を手に取った。

「漂白剤か。ママのブラウスは白だから、まず、これか」

 朝美は蓋を開けた大きめの容器を、洗濯槽の上で勢い良く傾けようとしたが、慌てて停止し、再び縦に戻した。

「おっと。あぶない、あぶない。お気に入りのスウェットが、真っ白になるところだったわ。ナイス反射神経」

 朝美は、漂白剤の容器に蓋をすると、今度は別の容器を手に取った。

「柔軟剤ね。これは知ってる。フワッフワになるってやつだよね。よし、入れよう」

 朝美は蓋をとった柔軟剤の容器を洗濯槽の上で二周させた。

「うーん。このくらいかな。いや、フワフワに越した事はない。多めに入れておくか」

 朝美はその容器を更に二周させた。

「ゲッ。よく考えたら、ブラウスはフワフワじゃ駄目じゃん。パリッてしてないと。あちゃー、しまった……。いやいや、それならば」

 朝美は、今度は白い中くらいの容器を手に取り、その蓋を開けた。容器には洗濯糊と印刷されていた。朝美はその容器の中のトロトロの液体を洗濯槽の中の衣類の上に垂らしながら、容器を回す数を数えた。

「一周、二周、三週っと。これで、よし。四引く三で、フワフワ一周分だもんね。中和、中和」

 次に、朝美は四角い箱を手に取った。そして、その中の大きなスプーンを手に取ると、それをマジマジと見つめて、呟いた。

「たった一さじで、ママもびっくりの白さって、このスプーンの大きさにびっくりするわ。マジで」

 そして、箱の中の粉洗剤を大きめのスプーン一杯分だけ投じた後、少し考えて、さらに、もう一杯投じてみてから、大声をあげた。

「しもたあ! これじゃ、ウチのスウェットも、真っ白になるったい! あいたあ……くしゅん」

 朝美のくしゃみで、粉洗剤が周囲に飛び散った。朝美は、浮遊する洗剤の粉を手で払いながら、その洗剤の箱を椅子の上に置くと、慌てて、隣の容器を握り、そのキャップを外した。

「ハルハルお姉ちゃんちに手伝いに行った時に、ママが『差し引きゼロ』って言ってたもんな。色物洗い用の洗剤、これですべてチャラじゃ。たぶん」

 朝美は下着姿のまま仁王立ちになり、その洗剤の容器を洗濯槽の上で少し傾けた。すると、容器の口から青色の溶液が勢い良く出てきた。朝美は洗濯槽の中を覗き込んだまま、しばらく容器を傾け続けた。徐々に容器の角度を傾けていき、やがて、その容器を垂直にし終えると、その容器の口を洗濯槽の内壁に数回打ち当てて、容器の口から細く糸状に垂れる青色の溶液を切った。そして、容器をひっくり返し、キャップを閉め、そのままゴミ箱に放り投げた。その後、洗濯機の蓋も閉めた下着姿の山野朝美十五歳は、脱衣所で一人、声を上げた。

「さあ、朝美マジックの始まりじゃ。クリーニング屋もびっくりの仕上がり。期待し取るぞ、洗濯機くん。スイッチ、オン!」

 力強く全自動洗濯機のスタート・ボタンを押した朝美は、椅子の上の洗剤の容器を、細かく振動する洗濯機の上に並べると、自らは椅子に乗り、その洗剤達を棚の上に戻した。椅子から勢い良く飛び降りた朝美は、下着姿のまま、椅子の背もたれに顎を乗せて、また不器用な持ち方で椅子を抱えて、小股でリビングまで進んだ。椅子をダイニング・テーブルに戻すと、その椅子についた洗剤の粉を手で払い落として、彼女は自分の部屋に戻った。

 今度はジーンズを穿いて、上に黄色と緑のボーダー柄の長袖Tシャツを着た。風呂掃除をして洗濯をした朝美は、少し大人になった気がしたので、今日は、特別な御出かけの時にする、ちょっとだけお洒落なベルトを巻いてみることにした。花の模様が彫られた皮製のベルトをジーンズの腰に通し、花柄をあしらったシルバーのバックルを中心に整えた朝美は、姿見の前で真っ直ぐ立ったり横を向いたりして、自分の格好のチェックをした。すると、まだ部屋のカーテンを閉めていなかった事に気付き、慌ててカーテンを閉めた。少し赤らめた顔でカーテンを閉めていた時、雨に打たれる窓の向こうで閃光が見えたような気がした。朝美の部屋から見える新市街の方角に目を凝らしていると、どしゃ降りの雨の中で、あちらこちらで、閃光が走っていた。

「なんだ。やっぱり花火大会か。この雨なのに、よくやるよね。ほんと」

 カーテンを閉め終わると、朝美はウェアフォンを持って自分の部屋から廊下に出た。リビングのカーテンを閉めようと思った朝美は、先端の小さなLEDライトを点滅させているウェアフォンをベルトに挟みながら、廊下を数歩進んだ。すると、浴室の脱衣所の方からガコンという大きな機械音が連続して聞こえてきた。開け広げたリビングへの入り口のドアの前で、朝美は振り返り、ベルトに挟んだウェアフォンを指先で操作ながら、脱衣所の音に注意を払った。洗濯機の音だった。朝美は少し不安になり、そのまま脱衣所に向かうことにした。その時、朝美の腰骨を伝って、ネット上の個人フォルダーに保存されていた留守番電話の記録音声の再生音が聞こえてきた。朝美は洗濯機の事は忘れて足を止めた。

『あ、もしもし、山野。俺、タイセイ。ああ、永山から聞いた。ちょっと心配だから、電話してみた。ユカとレナには、さっき俺から言っておいたから、心配すんな。もう、何もしないと思う。ええと、おまえ、制服でも十分カワイイと思うから、もう変な格好すんなよ。じゃあ、明日もちゃんと学校に来いよ。そいじゃ』

 朝美は慌てて、ベルトからウェアフォンを外し、パネルを見て、細かな操作を始めた。

「む、むむむ。こ、これは……」

 朝美は必死でウェアフォンを操作した。彼女の後ろのリビングの、レースのカーテンが開けられたままになっていた大きなガラス窓の向こうに見える夜空で、一筋の閃光が走った。その光の筋は大きくカーブして、うねりながら徐々にこちらに近づいてくる。鳴り響く換気扇と洗濯機の音の中で、朝美はウェアフォンを両手で覆うように握ったまま耳に当てて、さっきの留守番電話の録音をもう一度再生してみた。朝美がメッセージの最後の部分に注意して目を瞑って再生を聞いていた時、その後ろのリビングの窓の向こうでは、飛来してくるロケット弾の正面の姿と、その後ろで吹き放つ炎が、次第に大きくなっていた。留守番電話の再生は最後の部分に差し掛かった。朝美は体を震わせながら体を丸め、目を瞑り、顔を紅潮させて、震える手で必死にウェアフォンを耳に押し当てた。後ろのリビングの窓の外では、雨を切り裂いてロケット弾がこちらに突進してくる。その金属体の真横に一瞬だけ光の筋が走った。それと同時に、その砲弾が空中で激しい閃光を放って爆発した。宙で膨らんだ黒煙を大雨が下に押し付けるように落していく。その窓の外の景色を背に、自分へのタイセイからのメッセージを聞き終えた朝美は、何度もガッツポーズをとっていた。

「よし。よし。よし。よし! イヤッホオイ!」

 一度大きく飛び上がった朝美は、スキップしながら、洗濯機が轟音を響かせている脱衣所へと向かった。

 脱衣所の中を覗いて、朝美は思わず声をあげた。

「な、なんじゃ、こりゃあ!」

 洗濯機が置いてあるはずの位置は泡で覆われ、洗濯機の姿すら見えない。朝美は手に握っていたウェアフォンをベルトに挟むと、慌ててその泡を退かした。ようやく見えた洗濯機の蓋の隙間から、ブクブクと泡が吹き出している。朝美は急いで洗濯機の電源ボタンを押して停止させると、内側から押し上げられるように少しだけ開いていた洗濯機の蓋を開けた。中から大量の泡が飛び出してきた。慌てて浴室へのドアを開けた朝美は、洗濯機を覆い隠していた泡をかき集め、半泣き顔で必死に隣の浴室内に送った。暫くその作業を続け、やがて大方の泡を取り除いた朝美は、浴室の床と脱衣所の間に跨って立ったまま考えた。

「このまま『すすぎボタン』を押しても、きっとまた、同じことになるわね。うーん。仕方ない、やるしかないか」

 朝美は腕まくりをして、ジーンズの裾を捲くると、洗濯槽を埋め尽くしている泡の中に両腕を突っ込み、洗濯物を一枚ずつ絞りながら取り出しては、浴室の中に放り投げていった。そして、浴室の中でシャワーホースの柄先を握ると、水を出して、まず足下に広がっている泡を流した。続いて洗濯物を一枚ずつ広げて重ねて、その上に乗り、足踏みを繰り返しながら、その上からシャワーの水を掛けた。

 重ねた洗濯物からようやく泡が出なくなり、その後、汲み桶で運んだ水で空の洗濯槽の中の洗剤を洗い流して、洗濯機の周囲の泡も拭き終えた時には、朝美の体は冷え切っていて、足の指先も皺くちゃになっていた。それでも、山野朝美は仕事を放り出す事はせず、浴室の床の上で重なっている洗濯物を絞りながら、一枚ずつ丁寧に洗濯機の中に戻していった。

「あちゃー。ママのブラジャーまで、ペッタンコだな……」

 朝美は一瞬手を止めたが、再びそれを洗濯機の中に放り込んで、ボソリと呟いた。

「ま、もともとだから、いいか」

 ようやく全ての洗濯物を戻し終え、浴室内の泡も綺麗に流し終えた朝美は、再び濡れたティーシャツを脱いで、それも洗濯機の中に入れた。

「うーん。今度は、洗剤は入れなくてもいいか。さっきのが残ってるだろうし」

 上半身だけ下着姿のまま、再び洗濯機のスイッチを押した朝美は、暫く不安気に洗濯機を監視していたが、順調に動いている事を確認すると、脱衣所と浴室の電灯を消して、換気扇を止め、鼻を啜りながら再び自分の部屋に戻った。

 今度は小さな花柄のフリース地のパーカーを着た朝美は、ベッドの上に腰を降ろし、捲り上げたジーンズの裾を戻しながら、独り言を吐いた。

「ホント。お昼にたくさん食べててよかった。普段なら、お腹が空いて、こんなに働けないもんね。『備えてれば、嬉しい』とは、よく言ったものだわ」

 前傾姿勢のまま動きを止めた朝美は、体を起こすと、散らかった学習机に向かい、電子辞書を手にとって、何かを調べ始めた。それを読みながら部屋の中を歩き回り、同時に、ブツブツと小声で繰り返した。

「備えあれば、憂い無し。備えあれば、憂い無し。備えあれば、憂い無し。よし、覚えた」

 ベッドの上に再び腰を降ろすと、部屋の中を見回してみた。壁には制服の隣に、昨日のコスチュームが掛けてある。学習机の上は工作道具や切り終えた段ボールの切れ端で埋め尽くされていた。床には数本の「ニョロニョロ鉛筆」とバックルに風車のついたベルト、作りかけのプラモデル、玩具のバズーカ砲、キラキラ・シールを途中まで貼った筆箱が散らばっていた。朝美はジーンズの膝の所に付いていた泡を指先でとって、それを息で吹き飛ばした。そしてまた、暫らく考えた。

 山野朝美はポンと手を叩いて言う。

「そっか。ちゃんと知っとくべき事を知っとけば、こういう事にはならないのかあ」

 朝美はそのまま、ベッドの上に体を倒し、そして、また、いろいろと思い出してみた。

 暫くして上半身を起こした朝美は、今度は膝をポンと一度叩いてから、言った。

「よし。勉強すっか。こんなんじゃ、大人になれないもんな。うん。ちゃんと勉強しよう」

 朝美は、玩具のバズーカ砲を手に取ると、それを立てて、その筒の中に「ニョロニョロ鉛筆」とバックルに風車のついたベルト、作りかけのプラモデルを入れた。続いて、机の上の余計なものを選別しながら、その筒の中に放り込んでいった。バズーカ砲が筒の先まで不用品で一杯になると、それを重そうに抱えて、クローゼットを開けて中に立てて入れた。その横に昨日のコスチュームを掛けて、隣のお気に入りの冬物のコートを少しずらして、その間に隙間を作ってから、クローゼットの扉を閉めた。朝美が扉を閉めた時、それより少し遅れて、音がしたような気がした。朝美はもう一度クローゼットの扉を開いて、閉めてみた。先ほど聞こえた音とは違う音が、扉が閉まると同時に普通に聞こえた。朝美は首を傾げながらリビングへと向かった。

 リビングに入ると、カーテンを閉めていなかった事に気付き、朝美は早足で奥の大きなサッシの方に向かった。窓のガラスに近づくと、微かに外から音が聞こえた。朝美は顔を横に向けて、耳をガラスに近づけた。朝美の視界に奇妙な物が映った。朝美はすぐに隣のレースのカーテンも開けた。サッシのガラスの端の所に幾つものヒビが入っていた。朝美は原因を探ろうと、サッシを開け、ベランダに出た。すると、雨音に混じって、短く鳴り響く小太鼓を連打するような音や、低く太い轟音が、不規則に聞こえてきた。朝美はベランダから音のする方角に目を凝らした。昭憲田池と高層ビル街の間の辺りで、散発的に火柱が上がったり、何かが点滅していた。少し視線を横に向けると、有多町の向こうの大交差点の辺りで、赤や白、黄色の光が激しく、あちらこちらで点滅していた。何かが爆発していた。今度ははっきりとその爆発音が聞こえた。朝美がベランダの手すりから身を乗り出して斜め下の辺りを見ると、東西幹線道路のあたりで黒煙と共に火柱が行く筋も上がっていた。部屋の中に戻ろうと思い振り返った朝美は、飛び込んできた景色に絶句した。幾つもの鉄片が、窓ガラスの周囲の壁やサッシの支柱に突き刺さっていた。

 朝美は猛烈な不安に駆られ、急いで部屋の中に入ると、サッシを閉め、鍵をして、レースのカーテンも、その上の綺麗な花柄の射光カーテンも閉めた。そして、リビングのテレビの前に立ったまま、腰のベルトからウェアフォンを外し、親友の由紀の番号を押そうとした。だが、その指を止めて、母親のイヴフォンの番号を表示させ、発信ボタンを押した。朝美が涙目でウェアフォンを耳に当てていると、暫くの無音が続いた。朝美はウェアフォンを耳から離し、表示パネルで電波の送受信強度と電池残量を確認してみた。どちらにも問題はなく、その下に「通信エラー」を示す文字が表示されていた。朝美は父親のイヴフォンの番号を表示させ、発信ボタンを押して、すぐにウェアフォンを耳に当てた。やはり無音だった。表示パネルを見ると、やはり「通信エラー」となっている。朝美はテレビのリモコンを取り、スイッチを入れながら、由紀の番号に掛けたが、やはり同じだった。テレビの画面も真っ暗なまま中央に「受信エラー」と表示されていた。外では大きな爆音が鳴っている。

 朝美は零れそうになった涙を袖で拭うと、襲ってくる恐怖と必死に戦いながら、自らを落ち着かせようと深呼吸をした。深呼吸を終えると、すぐに、キッチンの方に駆け出し、壁に付いているインターホンの横の小さな扉を開けた。マンション式の集合住宅には法令で緊急通信用の固定回線を引く事が義務付けられており、朝美が住むマンションにも各戸に緊急用の固定有線式電話が設置されていた。朝美は壁の中からコードで繋がれた受話器を取り出し、もう片方の手に握ったウェアフォンで新日風潮社の編集室の電話番号を検索した。朝美が緊急電話の受話器に付いている数字ボタンを、一つずつ押していると、廊下の向こうでドアが開く音がして、聞き慣れた大きな声が響いてきた。

「朝美! 帰ってるの! 何処なの! 朝美!」

 山野紀子は玄関でヒールを脱ぎ捨てると、鞄を放り投げて、朝美の部屋まで駆けて行き、そのドアを開けた。

 リビングに居た朝美は、緊急電話の受話器を壁の中に戻すと、思いを声にしながら廊下に駆けて行った。

「ママ! ママ!」

 廊下から走ってきた山野紀子は、リビングの入り口でぶつかるように朝美を抱きしめ、朝美も母親にしがみ付いた。それまで堪えていた涙が朝美の目から堰を切ったように零れ落ち、安堵と相対的に襲ってきた恐怖が、朝美の脚を震えさせた。

 号泣する朝美を抱きしめながら、山野紀子は言った。

「大丈夫。もう大丈夫よ。心配ない。心配ないわ」

 朝美の頭部を撫でる紀子の手も、また、震えていた。



                  三十一

 何台もの車が行き交う夜の細い道路を、山野親子を乗せたAI自動車は手動走行していた。運転席の山野紀子は、急ハンドルを切ると、前方の渋滞をかわして、手前で住宅街の横道に入った。彼女は助手席に座っている自分の娘に指示を飛ばす。

「シートベルトをしたら、後ろのヘッドレストを掴んで、両腕で頭を挟んで支えてなさい。こういう時にぶつけられるのは、大抵、横からだから!」

 忙しくハンドルを回しながら、裏道から裏道へとAI自動車を走らせて行く紀子に、助手席に座り、シートベルトをして、肘を曲げた腕で頭の後ろのヘッドレストを掴んでいた朝美が尋ねた。

「何処に行くの? 会社?」

 山野紀子は厳しい表情のまま答えた。

「あんな所、危な過ぎて近寄れないわ。それに、ママも会社から何とか西に出て、薫区から山多区の裏を回って、新高速道路沿いに進んで、ようやく華世区に帰って来れたの。今さら大交差点や有多町に近づくのは自殺行為よ。向かうのは由紀ちゃんの家。二人を乗せて郊外に避難するわよ。祥子さん、運転免許を持ってないから、二人を乗せてあげないと」

「でも、こっちは由紀ちゃんちの方角じゃないよ」

 住宅街の中の細い道路を進みながら、途中の交差点で急停車して、素早く左右を確認した山野紀子は、再び車を走らせて視線を前に向けながら朝美に説明した。

「商店街一帯も、そこからの由紀ちゃんの家までの坂道も、渋滞で通れないのよ。遠回りだけど、確実に通れる路を進んだ方がいいでしょ。ああ、ほら、詰まってる」

 山野紀子は細い道の先の闇間に停車している車のテールランプの列を発見すると、ブレーキを強く踏み込んで車を急停止させた。バックミラーの後ろに提げてあった「エケコ人形ストラップ」が激しく揺れて、ミラーを叩く。紀子は、朝美が怪我をしなかった事を確認してから、すぐに後ろを振り向き、シフトレバーを操作してギアを入れ替えると、後方を車が塞ぐ前に全速で車をバックさせた。右手でハンドルを握りながら、左手をシートにかけ、体を捻って後ろを見ながら運転している紀子に、朝美は両手でヘッドレストを掴んだまま尋ねた。

「ママ、仕事は? 今日は遅くなるんじゃなかったの?」

 さっきの交差点の所まで戻ると、車を急停止させ、素早くシフトレバーを動かして、ハンドルを右に回しながら、その交差点を右折する。ハンドルを戻しながら、山野紀子は朝美の質問に、少し興奮気味に答えた。

「仕事どころじゃないでしょ! 自分の大事な娘を放っておいて、週刊誌の編集作業をしている馬鹿がどこにいるのよ! あんたも女なんだから、母親になるって事はどういう事なのか、少しは考えてみなさい! この、どけ、邪魔だ!」

 山野紀子は前を塞いでいる車に対して激しくクラクションを鳴らした。

 朝美には肘と肘の間から見る運転席の母親の姿が、頼もしく、誇らしく、そして尊く感じられた。朝美は気になっていた事を、もう一つ尋ねてみた。

「パパは? 山荘なの? それとも、旧市街の借家?」

 紀子は黙っていた。朝美は不安そうに母の横顔を見つめている。山野紀子は上着のポケットから一枚のメモリー・ボール・カードを取り出すと、それを朝美に差し出して、運転席から前を見たまま、こう言った。

「よく聞いてちょうだい、朝美。パパは会社よ。でも、もう出かけているかも。一番危ない所を通って、有多町に行かないといけないの。お仕事で。それは、さっきパパが自画録りした朝美への立体画像メッセージ。分かるわね。しっかりと見ておくのよ」

 朝美が見ると、紀子の目には涙が溢れていた。朝美は母の言葉の趣旨を理解し、震える手で、その記憶媒体をAI自動車のメインパネルの下の挿入口に差し込んだ。メインパネルの前から薄い光が発せられ、紀子と朝美の間の低い位置に神作真哉の上半身だけが立体投影された。暗い車内で薄っすらと光っている半透明の小さな父親が、明後日の方角を見ながら、娘に語りかけた。

「朝美。怪我はしてないか。昨日は怒鳴って悪かったな。おまえに寂しい思いをさせていたのは、悪かったと思ってる。パパは仕事ばかりで、何にもおまえにしてやれなかった。せめて、高校入試の勉強くらいは、教えてやれればよかったんだが……。ああ、ええと、パパは、これから、お仕事で出かける。外は危険だが、重要な用事だから仕方がない。もしかしたら、朝美とは会えなくなってしまうかもしれないが、その時は御免な。ああ……本当はパパが朝美を助けに行かなきゃならないんだけど、ママに行ってもらう。ママはまた怒ってたけど、会社があるここも危険だから、ママもそっちに行った方がいい。ええと、もしパパに万が一の事があった時は、朝美、ママを助けてやってくれよ。ママは、気が強そうだけど、結構、怖がりだからな。――朝美、よく聞いてくれ。人生ってのはな、生きていれば、いろいろな困難や壁にぶつかる。仕事でも、趣味でも、何でもそうだ。だから、大事なのは、その困難や壁にぶつかった時に、朝美がどう対処するかだ。ギブ・アップするなとか、乗り切れとか言う話をしてるんじゃない。諦めなきゃいかん事だってあるし、どう頑張っても乗り切れない壁だってある。問題は、どういうハンドルの切り方をするかだ。そのために普段から、どうしておかないといけないか。それが大切だ。そして、その為の心の持ちようとか、思考の基礎を、今のうちに、朝美には身につけて欲しいと思う。ああ……最後かもしれないのに、また説教みたいな事を言っちゃったな。ああ、それから、大事な事。ママを裏切らないこと。昨日の様な事は駄目だ。ママは、いっつも朝美の味方だ。パパと喧嘩する時も、必ず朝美を擁護する。朝美のことが大好きなんだ。仕事が忙しくても、夕方前には家に戻って、朝美に夕食の準備をしてから、また仕事に戻ってきてる。すごいだろ。だから、朝美もママを裏切っちゃ駄目だ。絶対に。いいね。それと、友達は大切にすること。友達も守れない人に家族は守れないからな。でも、友達はちゃんと選ぶこと。悪い人間とは友達になっちゃ駄目だ。悪い人間と良い人間を区別するためには、何が悪い事で、何が善い事かの区別がつけられないといけない。それが出来るようになる人になりたければ、本を沢山読みなさい。ああ……また、説教してる。これだから、パパは嫌われちゃったんだよな。あ、ママが来た。じゃあ、これで終わるぞ。あ、そうだ、朝美、宇宙人のコスプレもいいけど、どうせなら、パパは朝美のウエディング・ドレスのコスプレが見たかったぞ。――とにかく、朝まで新市街からは離れているんだ。じゃ」

 立体メッセージの再生が終わった。神作の立体画像は、停止した後、あっけ無く消えた。

 山野朝美は大粒の涙を流しながら、ダッシュボードの前で小さく再生された父親のホログラフィー画像を最後までしっかりと見て、最後までしっかりと聞いていた。涙を親指で拭った彼女は、黙って記憶媒体を引き抜こうとした。その時、運転している隣の母のスカートの上に幾つもの水滴が落ちているのに気付いた。見上げると、紀子も泣いていた。

 朝美は、この三日間の中で一番の幸せを感じていた。だが、その幸福感は、この三日間で一番の深い悲しみを伴うものでもあった。バックミラーの後ろでは、ちょび髭の小さな人形が口と両手を広げたまま振り子状に揺れている。

 二人の女を乗せたAI自動車は、雨の中の暗い住宅街を奥へと進んでいった。



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