第7話  町田梅子

                   一

 ソファーの黒革を、窓からの朝日が強く照らしていた。狭い部屋に置かれたその応接ソファーには、高級ブランドの豹柄のスーツに身を包んだ中年の女が腰掛けている。女は、ハンカチを握った手で窓からの日射しを避けながら、テーブルの上のパソコンから投影されたホログフィー文書を熱心に読んでいた。向かいのソファーに座っていたクリーム色のスーツ姿の小柄な若い女が立ち上がり、壁のスイッチを操作する。窓ガラスは一瞬で白く曇って日射しを遮り、そこに森林の景色を高画質で写し出した。

 中年の女は読んでいたホログラフィー文書から顔を離すと、ソファーの背もたれに身を倒し、顔をハンカチで扇ぎながら言った。

「どうなんです、先生。これくらいが相場なのかしら」

 遮光ウインドウの操作に続いて、エアコンの温度調整をしていた弁護士の町田まちだ梅子うめこは、薄茶に染めた肩までの髪をかき上げながら席に戻り、真剣な顔で返答する。

「そうですね。本件と類似の遺産分割調停は、だいたいこのくらいの金額で成立しています。したがって、相手方の提示額も妥当な額だと思われます」

 水枡みずます由美ゆみは顔を煽っていたハンカチを鰐皮製のハンドバックに仕舞い込むと、不満そうに溜め息を吐いて、町田に尋ねた。

「だいだい、父が本当に死んだかどうだかだって分からない訳でしょ。あの田爪って男が言っているだけで、遺体も何も見つかってない訳だから。うちは、死亡認定の申請もしていないのよね。なのに、どうして遺産分割調停なんかに応じなければならないのよ」

 二人は、新首都地方裁判所旧市街支部ビルの中に設けられた、弁護士用の打ち合わせ室の中にいた。同建物の中腹の数階は家庭裁判所フロアとなっているが、そこに設けられた数十個の調停室の各左右には、家事調停に臨む当事者と代理人弁護士が打ち合わせるための個室が設けられていた。弁護士法人美空野みそらの法律事務所の新人弁護士町田まちだ梅子うめこは、依頼人の水枡由美と、自身が担当した遺産分割調停にかかる最終打ち合わせをするために、その中の一つの部屋の中にいた。町田梅子が担当したのは、依頼人由美の父、水枡智雄がタイムトラベルをした事に伴う相続についての、相続財産の分割手続きであった。この遺産分割調停は、既に五回を越えており、なかなか調停が整う様子を見せていなかったが、町田梅子の奮闘の甲斐もあり、今般ようやく、相手方当事者から妥協案が提示されてきたのであった。今、由美の姉とその代理人弁護士から提示された遺産分割案を記したホログラフィー書面を水枡由美に読ませた町田梅子は、自身の依頼人がそれに合意するか、拒否するかの返答を待っていた。しかし、依頼人水枡由美は、その分割案への合意に積極的ではなかった。

 町田梅子は、水枡と目を合わせることなく、応接机の上に置いた薄型の立体パソコンを自分の方に向け、その上に浮かんだホログラフィー文書を閉じながら、彼女に説明した。

「お父様は、時空間渡航をされる前に、タイムトラベル法の規定に従って有効に生存権中断の事前手続きを執られています。その他の要件も満たされていますので、実体上は、お父様の生存権は中断しています。生存権中断条項が適用されると、死亡認定を待たずして当然に相続が発生するというのが最高裁の判例ですから、他のご遺族から遺産分割の請求がされるのは、致し方ありませんね」

「遺族って……」

 水枡由美は眉を寄せた。それに気付いた町田梅子は、すぐに頭を下げた。

「失礼しました。しかし、法律上、お父様がお亡くなりになられた場合と同様に扱われていることは事実です。放置していては、債権関係の処理もできませんから。それに、現時点はまだ国の調査中ですが、タイムマシンに乗った人間は、南米で田爪健三に殺害されていた可能性が濃厚です。公開されたインタビューの通りだとすれば、タイムマシンが転送されてマシンから出てすぐに殺害されているはずです。であれば、その時が相続の開始時期ですから、タイムトラベル法の規定する生存権中断の時期とほぼ一致します。分単位や秒単位の違いで法定相続人に違いが生じてくる事案も在るには在るでしょうが、実に稀なケースです。少なくとも、本件は該当しません。従って、いずれにしても、相続は開始していますから、お姉さまから申し立てられた、この調停自体は正当なものです」

 町田の話を聞いていた水枡由美は、苛立ったように言った。

「そんな事ではなくて、実の姉と裁判までしているって事を言っているの。溝口町は古い町なのよ。中でもウチの病院と実家がある、あの水無みな区ってところは歴史が古いの。わかる? いろいろあるのよ、そこに住んでいる人間には。なんでもかんでも公の場に晒されたんじゃ、たまったものじゃないわ」

 町田梅子は笑顔を交え、早口で彼女に説明した。

「大丈夫ですよ。調停は非公開ですし、民事裁判とは別の手続きですから。勿論、調停調書は確定判決と同一の効力が認められていますので、執行力がある債務名義を得られるという点では訴訟と同じですが、訴訟に比べれば費用も手間も掛かりません。だから、相手方も調停を申し立てたのでしょうね」

「はー。もういいわ。そういう事じゃないの」

 水枡由美は諦めたように言い捨てた後、不機嫌そうな顔で町田に尋ねた。

「それで、医療法人の方はどうなるんですか」

 町田梅子は、応接机の上の立体パソコンの手前でホログラフィー・キーボードを操作し、もう一度、遺産分割案のホログラフィー文書を投影させた。宙に浮かんだ文書の頁を指で捲りながら、町田梅子は納め顔で答えた。

「ええとですね……医療法人水連会の承継については、渡航されたお父様が保有されていた持分の四分の一の相続による取得を、お姉様は主張されています。そうなれば、今後は、お姉様との共同経営になりますね。この分割案でも、それが組み込まれています。その代わり、土地建物の分割については、こちらの主張に応じると」

「それで、先生のご意見は、いかがですの?」

「水枡さんの方で水連会の経営権を掌握したいのであれば、私としては、価格弁済の方法がいいかと思います。つまり、持分の時価相当額の金員を交付する方法で、相続財産の引渡しに代える方がよろしいのではないかと。いかがでしょう」

「姉が応じてくれるかしら。あくまで持分をよこせって主張するんじゃないから」

「そうなれば、裁判を申し立てて、和解に持ち込むしかないでしょうね」

「はー。また裁判なの。気が乗らないわよ」

 町田梅子は水枡に諭すように言った。

「巷で口喧嘩するより、ずっと立派ですよ。ただ声の大きな人間が勝つと言う訳ではないですからね。こちらの主張をきちんと整理して文書で伝えて、相手方にも反論の機会と時間を十分に与えた上で、双方が提出した証拠によって確定した事実のみを裁判官に見てもらい、法律というルールで裁定してもらう。私は、これ以上に正当な事は無いと思います。ですから、水枡さんも、もっと自信を持って下さい」

 水枡由美は、町田を何度も指差しながら、けんのある口調で言った。

「そういう事をね、言っているんじゃないの。こっちの希望が叶えば、法律だろうが何だろうが関係ないのよ。もっと、ガンガンやれないわけ?」

「ガンガン……ですか……」

「そう。姉とはね、いろいろ有るのよ。だから、正直言って、こんな事で姉に大金を払うなんて、まっぴら御免なの。何とか出来ませんの?」

「はあ……」

 依頼人の予想外の反応に町田梅子は困惑した様子で少し考えたが、すぐに水枡に結論を告げた。

「しかし、この分割案に応じないということでしたら、裁判するしかないでしょうね。あるいは、お姉さまの方から相続金支払請求訴訟が提起されるかもしれません」

 水枡由美はハンドバッグの中から細長の箱を取り出すと、そこから細く長い葉巻を一本取り出し、同じくバッグから取り出した純金製のライターでそれに火を点けた。町田梅子は、応接ソファーの横に置かれた四角い小さなテーブルに植木鉢で隠すように置かれた大理石製の小さな灰皿を取り、由美の前の応接テーブルの上に置いた。水枡由美は深く吸った葉巻を口から放し、すぼめた口から勢いよく白煙を吐き出すと、その灰皿の底に葉巻の先を押し付けて丁寧に火を消してから、原型を留めたままの葉巻の吸殻を放り投げた。

「分かったわ。じゃあ、お任せするわ。その価格何とかというので、進めてちょうだい」

 町田梅子は少し煙に息を詰まらせながら、答えた。

「分かりました。では、その旨を調停委員に伝えます。その他の財産については、こちらの目録に記載の通りでいいですね。銀行預金や株券については、お姉様と均等に二分の一ずつ、土地建物については、同居されているお母様の単独所有という事で」

「ええ。それでいいわ。家土地まで持っていかれたんじゃ、たまったものではない」

 ホログラフィーを消した立体パソコンをソファーの横に置いた分厚い鞄に仕舞いながら、町田梅子は言った。

「お母様には、後日、遺言書を作成してもらっておいた方がよろしいかもしれませんね」

 小さく眉間に皺を寄せた水枡由美は、無愛想に答えた。

「そう。じゃあ、その時はまた、お願いするわね」

「分かりました。美空野に伝えておきます」

 町田がそう答えると、水枡由美は背もたれから起きて、町田に尋ねた。

「美空野先生は、お元気かしら。あの方も、随分とお忙しいのね。前に一度、ウチで開いたパーティーに来ていただいた事があって、それ以来、お目にかかれていないけれど」

 鞄のチャックを閉めた町田梅子は、眉を寄せて深刻そうな顔で話した。

「例の田爪博士についての記事が出てからは、渡航者の家族からの相続手続きが殺到して、所長も走り回っています。やはり、渡航者がタイムマシンで消えてからも、残されたご家族の皆さんの多くは渡航者の生存と再会を信じていらしたようで、財産上の手続きを放置されていた方が多かったみたいなんです。あの記事が出てから、駆け込みで手続きをされる方が多くて。面倒な事になっている案件も多いみたいです」

 水枡由美は視線を落とした。

「そう……。だから、私も母も反対したのよね。まったく、父はどうして今更『過去』に戻りたかったのか。私たち家族を残してまで。いい迷惑だわ。この前なんて、自宅にマスコミまで取材に来るし」

「マスコミが?」

 町田梅子は顔を顰めた。水枡由美は顔の前で手を一振りして言う。

「あら、言ってなかったかしら。そちらには、来なかった? 新日ネット新聞の記者さん。弁護士の方を通すように言ったのだけれど……」

「新日ネット新聞……いいえ。私の方は何も」

「そうなの? 変ねえ。本当に記者だったのかしら……」

 軽く首を傾げた水枡由美は、町田の顔を覗きこむと、尋ねた。

「ところで、先生は、弁護士になられて、どのくらいになりますの?」

「あ、今年の春に登録したばかりです」

 町田梅子は正直にそう答えた。

「あら、そう」

 外れくじでも引いたような顔をした水枡由美は、訝しげな顔で町田に言った。

「先生、なめられているんじゃないの。まだ、お若いようだし。やっぱり、美空野先生のお名前を出しておいた方がよかったかしら。せっかく父のご縁で、美空野先生にご相談に伺ったのに」

 町田梅子は少しムッとした顔で言った。

「私のような新米が担当で、申し訳ありません。しかし、お話ししたような状況ですので、美空野は今、手が回らないかと……」

「そう。仕方ないわね」

 町田の発言の途中から、彼女には顔を向けずにそう言った水枡由美は、ハンカチを握った手を顔の前で左右に振った。

「いえ。いいのよ。先生は、十分よくやって下さいましたわ」

 そして、その手を下ろすと、厳しい顔つきになって町田に尋ねた。

「ところで、おたくの弁護士法人への報酬は、どうなるのかしら。これも、姉と折半になるのかしら」

「いえ、それは全額お支払いいただくことになります。我々は水枡さんの代理人として働いた訳ですから」

 それを聞いた水枡由美は癇声かんごえを上げた。

「何よ、それ。この調停を申し立ててきたのは、姉の方じゃない。どうして私が、全額支払わないといけないのよ」

 町田梅子は水枡の誤解に困惑しながら、説明した。

「いえ、あの……お姉様の代理人は、別個にお姉様の方から報酬をいただいているはずですので……。私どもは、水枡さんの弁護をさせていただいた訳ですから、その報酬は、水枡さんの方からいただくことになりますが」

 水枡由美は憤慨した様子で町田に食って掛かった。

「何なのよ、それ。父の代から、ずっと顧問料を支払ってきてるじゃないの。どういうことよ」

 眉を寄せて一瞬考えた町田梅子は、水枡の誤解を把握してから、彼女に話した。

「あの、それと成功報酬とは別でして……。それに、ウチと顧問契約をしているのは、医療法人水連会の方でして、本件は、水枡さん個人の事件ですので、報酬も別になるんです」

 水枡由美は前に顔を突き出す。

「だって、水連会の経営権について、争ってきたんじゃない。どうして、別なのよ」

 町田梅子は即答した。

「経営持分を保有しているのは、個人じゃないですか。ですから、別になりますね」

 水枡由美は憤然たる面持ちでソファーから腰を上げた。

「もう、納得いかないわね。いいわ、帰ったら、美空野先生に直接、電話させてもらうわ。あなたじゃ、埒があかない」

 町田梅子はソファーに座ったまま、目の前で帰り支度をしている水枡の顔を見上げた。

「遺産分割の内容については、先ほどお話しした通りでよろしかったでしょうか」

 水枡由美は鰐皮のハンドバックにテーブルの上の金のライターを仕舞いながら答えた。

「ええ。それは、進めてちょうだい。これ以上、姉と関わり合いたくないわ」

 ソファーから立ち上がった町田梅子は、スーツの肩に分厚い鞄のベルトを掛けた。

「分かりました。では、先ほどの通り価格弁済の線で進めます。もし今日、話がまとまれば、後日、調停調書データがウチに届きますので、その際は再度、ご連絡いたします。成功報酬の支払いにつきましては、調停調書の副本データをお渡しの際に、ウチの会計担当とお話し下さい。それでは、私はこれで。調停委員に意向を伝えてきます」

 教わったとおりに説明した町田梅子は、顔を曇らせている依頼人に一礼すると、重い鞄を肩に提げて、教わったとおりに堂々と弁護士控え室から出ていった。 



                  二

 弁護士法人「美空野法律事務所」のビルは、有多町の東の隅に、大通りに面して建っている。その大きなビルは周囲の官庁ビルよりも低かったが、御影石風の豪華な外壁に日の光を反射させて輝き、威風を放ちながら、屹然として孤高を守っていた。

 分厚い鞄を肩から提げた町田梅子が、胸を張り、ヒールの音を鳴らしながら、歩道の上を颯爽と歩いてきた。彼女はその豪華なビルのエントランスへと向かって進むと、ガラスのドアを勢いよく開けて中に入った。法人代表者の弁護士美空野朋広みそらのともひろを模ったブロンズの胸像の前を通り過ぎ、自動ドアの前に立つ。眉間に皺を寄せて深刻な顔を作った弁護士町田梅子は、曇りガラスのドアが横に流れて開くと、その表情のまま中へと進んだ。L字に置かれたカウンターの向こうで事務に励む総務課の事務職員たちが一斉に顔を向ける。町田梅子は職員たちが軽く一礼したのを確認して、賢顔かしこがおを上げたままカウンターに沿って歩いた。カツカツとヒールの音を鳴らしながらカウンターの角を曲がった彼女は、そのままカウンター沿いに歩き、突き当りのエレベーターまで向かう。エレベーターの前まで来ると、カウンターの中の事務フロアから年配の女が町田に声を掛けた。

「あ、先生。ちょっと、ちょっと」

 上下の揃った洒落たスーツ姿のその女は、中年は過ぎているが、初老には達していない。静々と奥の席から歩いてくる様は、いかにもベテラン事務真という落ち着いた雰囲気を醸し出している。カウンターの前までやってきた事務員の牟田むた明子あきこは、エレベーターのボタンを押してから横を向いた町田に、カウンター越しにゆっくりとした口調で尋ねた。

「お疲れ様です。どうでした、水枡さんの件。上手くまとまりました?」

「ええ。まあ……」

 無愛想に答えた町田梅子は、そのまま黙って牟田の顔を凝視した。牟田明子は顔の前で手を一振りして言う。

「あ、失礼しましたわ。つい。事件の事は、お話し出来ませんものね」

「……」

 町田梅子は牟田が苦手だった。物腰が丁寧で、常に下から接してくる事務員の牟田に対し、弁護士としてどう接していいか分からなかったからだ。町田梅子は二十八歳である。若い。それは自分でも自覚していた。牟田は自分の母親くらいの年齢である。単に職業上の身分関係に則って接してよいものか。いや、弁護士は法律家であると同時に法曹でもある。他の士業とは違い、国家権力によって監督されることはなく、独立して法律判断をする権限が与えられている。つまり司法を担っているのだ。その分、責任も大きい。だから事務員よりも身分は上なのだ。ずっと上だ。そう改めて考えた町田梅子は、弁護士として威厳のある態度で牟田に接することにした。

 牟田が、首にチェーンを掛けた老眼鏡を顔から外して胸元に垂らした一瞬の隙に、町田梅子は少し背伸びをした。町田の目線がカウンターの向こうの牟田の目線と同じ高さになる。町田梅子は少し顎を上げた。表情も作り、ツンとしてみる。

 カウンターの向こうに立つ牟田明子は、それを全く気にしない様子で言った。

「ああ、あの、先生。新規のお客様のご相談が入りましたの。先生にお回ししましたけれど、よろしかったかしら。他の先生方は、手が開いていらっしゃらないそうなので」

 エレベーターのドアが開いた。誰も乗っていない。町田梅子は澄まして答えた。

「そうですか。分かりました。オフィスに戻ってから、スケジュールを確認してみます」

 牟田明子は町田に何かを言いかけたが、町田梅子はすたすたとエレベーターの中に入っていった。ドアが閉まる。牟田明子は小さく溜め息を漏らすと、また老眼鏡をかけ、フロアの奥の自分の席へと戻っていった。

 エレベーターの中で町田梅子はガッツポーズをとった。

「よっしゃあ。また新規案件きましたあ! フウ! フウ!」

 拳を握った手を何度も引く。無音で動くエレベーターの中で一人はしゃいでいた町田梅子は、自分のオフィスがある階にエレベーターが近づくと、姿勢を整え、少し咳払いをした。少しだけ眉間に皺を寄せ、憂いと悩みを抱えながら思索を続ける女の顔を作る。ドアが開いた。弁護士町田梅子は、重要事件を詰め込んだ分厚い鞄を肩から提げ、険しい顔でエレベーターから出てきた。解決が難儀な案件を幾つも抱えて気が休まる暇もない――といった感じの雰囲気を必死に作りながら、ヒールの音を鳴らして「デキる女」っぽく颯爽と歩く。三歩で止まった。すぐ目の前に自分のオフィスのドアはあった。新人弁護士である町田梅子のオフィスはエレベーターの目の前だ。エレベーターに乗降する人々の足音と話声が一番響く部屋である。町田梅子は顔を横に向けた。長い廊下の壁には、奥まで間隔を空けて先輩弁護士たちのオフィスの豪華な木製ドアが並んでいる。前を向く。非常ドアか用具室の入口のドアかと思えるほど簡素なスチール製のドアが、そこにあった。いかにも間に合わせの部屋らしいスチール製の安物ドアである。少しだけ溜息が漏れた。彼女はいつものように、そのドアに掛けられた「弁護士町田梅子」と記された表札が傾いていない事を確認してから、ドアを開けた。

「ただいま」

 戦場から帰還した疲れた兵士のように町田梅子がそう言うと、すぐに甲高い張りのある声が返ってきた。

「あ、お疲れ様です。どうでした、水枡さんの調停。終わりました?」

 狭いオフィスに入ると、目の前の真ん中に、横を向けて、町田付の事務員小彩麻子おざいまこの机が置かれていた。小彩は二十二歳である。町田梅子は自分よりも若いこの事務員のことも苦手だった。仕事はデキる。でも、すぐに帰る。いつも派手なスーツを着ていて、ネイルもカラフルだ。おまけに香水が臭かった。髪型は毎日違うスタイルに変えてくるし、スーツも毎日違う。しかも、スカートが短い。スーツの趣味も悪く、グラマーな体形を隠す気など更々ないようだ。何より気に入らないのは、事務員である彼女が弁護士の自分よりもグレードが高い、超高級マンションに住んでいるという事だった。とはいえ、数千人の弁護士を抱え、三千人近くの事務員がいる大所帯の弁護士法人に入って間もない新人弁護士としては、割り当てられた事務員を替えてくれと文句が言えるはずもなく、狭いオフィスの中で彼女の強い香水の匂いに耐えながら仕事をするしかなかった。町田梅子は今日も息を止めて彼女の机の前を通り、彼女の机の斜向かいの少し離れた位置に、窓を背にして置かれている自分の机へと向かった。オフィスには、この二つしか机が置かれていない。自分の机の上に分厚い鞄を載せた町田梅子は、鞄のベルトを肩から下ろしながら言った。

「うん……ゴホッ、ゴホッ。――まあ、一応ね。でも、水枡さん、報酬についてあまり理解されていないようだから、後で文句を言ってくるかも。経理部の方にそう伝えといて」

「あの……」

 何かを言いかけている小彩を無視して、町田梅子は鞄から立体パソコンと資料ファイルを出しながら、自分の要件を話し続けた。

「それから、家裁から調停調書データが送信されてくるはずだから、いつも通りお願い」

「あの、先生」

 空になった鞄を後ろの窓際の棚の上に載せた町田梅子は、背もたれの高い革張りの椅子に腰を下ろしながら小彩を見て言った。

「ん、なに?」

 小彩麻子はオフィスの突き当たりのパーテーションで区切られたブースを指差した。

「新規のお客様がいらしていて……」

「え? 来てるの? ここに?」

「ええ。相談用ブースでお待ちです」

「え? 予約が入っていたっけ」

 町田梅子は急いで立体パソコンを起動させ、スケジュール表を表示しようとする。小彩麻子は長い付けまつ毛を入れた目を瞬きさせながら、町田の机の前まで歩いてきた。

「いえ。今朝、飛込みでいらした方です。一階の総務課からこちらに回ってきました」

 町田梅子は椅子に座ったまま、立体パソコンから投影されたスケジュール表のホログラフィーを覗き込んだ。今日、二〇三八年十月四日月曜日の予定は埋まっている。町田梅子は顔を顰めて、嘆いた。

「えー。牟田さん、来てるなら、来てるって言ってくれればいいのに。私、この後、所長とフィンガロテル社の事件についての打ち合わせが入ってるんだけど……」

 椅子から腰を上げて近寄ってきた小彩麻子は、小声で尋ねた。

「お帰りいただきましょうか」

「うーん……」

 考えるふりをして息を止めた町田梅子は、一応、小彩に小声で尋ねてみた。

「どうな人?」

 小彩麻子は、また小声で答えた。

「お婆ちゃんです。田舎くさい」

 香水くさい小彩から顔をそらし、そのまま相談ブースのパーテーションに目を向けた町田梅子は、自分の左腕に巻かれた安物の腕時計に視線を移すと、椅子から腰を上げた。

「まあ、とにかく、簡単にさわりだけ聞いてみるわ。後日、ゆっくり聞ける日程を入れてちょうだい」

「はい」

 小彩麻子は自分の机に戻り、町田梅子は相談ブースへと向かった。すると、内線電話のベルが鳴った。小彩麻子は電話機の発信者の表示を覗き、相談ブースの入り口の前の町田を呼び止めた。振り向いた町田梅子に、小彩が上を指差して言う。

「所長室からです」

 受話器を持ち上げた小彩麻子は、顔をほころばせながら暫らく電話の相手と話している。待たされた町田梅子は苛立ちを覚え、くるりと彼女に背を向けた。そのまま、少し苛々しながら再び相談ブースに向かおうとすると、また小彩が呼び止めた。

「あ、先生。美空野所長がお呼びです。すぐに上の所長室に来るようにと」

「――もう」

 短く息を吐いた町田梅子は、相談ブースの前で踵を返し、自分の机に向かった。机の前に戻った町田梅子は、立ったままホログラフィーのスケジュール表を覗き込んで、小彩に指示する。

「じゃあ、こっちの新規の方は、出直してもらって。一応、十三時からなら少し空いているけど、そこで来られないようなら、来週の空いてる時間に入れ直して」

 業務予定で埋まったスケジュール表を小さく縮小させた町田梅子は、立体パソコンの手前にホログラフィー・キーボードを表示させて、その上で指を動かしながら言った。

「ああ、小彩さん。サーバーの、私の担当訴訟ファイルに他の資料データとのリンクを作れる?」

「ええ。はい」

 小彩の返事を聞きながら腕時計を素早く見た町田梅子は、薄茶の前髪をかき上げながら更に指示した。

「フィンガロテル社の事件ファイルに、ダクテルロッジ社のデータ・ファイルを関連付けといてもらえるかな。いちいち引っ張り出すのが面倒だから。所長に説明するのにも、その方が便利だし」

「あ、所長の管理データがそうなってます。同じ方式でよければ、すぐに出来ますけど」

 小彩麻子は自分のパソコンを操作しながら、そう答えた。町田梅子は自分のボスの美空野が自分と同じ論点に気付いている事を察し、下笑んだ。急いでホログラフィーを閉じた彼女は、その薄型の立体パソコンを小脇に抱えると、出口に向かいながら小彩に言った。

「じゃあ、そうして。あとで上で開いてみるわ。じゃ、行ってくる」

 勢いよくドアを開けた町田梅子は、ヒールの音を鳴らして揚揚と歩いていった。



                  三

 エレベーターのドアが開いた。目の前の廊下には毛足の長い絨毯が敷かれている。エレベーターから出てきた町田梅子は、その絨毯に靴のヒールの跡が残らないか気にしながら長い廊下を歩いた。突き当たりにある木彫りの彫刻が施された重厚な両開きのドアの前に着くと、そこで立ち止まる。その両開きのドアは、日本一の規模を誇り、国内の大企業の顧問を一手に引き受ける巨大弁護士法人に相応しい、威厳と風格を兼ね備えていた。町田梅子は、その格調に合わせるように、スーツの上着の襟や裾を整え、髪を直した。ドアの向こうは、弁護士法人美空野法律事務所の代表弁護士であり、弁護士業界の重鎮でもある美空野朋広の部屋である。新人弁護士の町田梅子は小脇に立体パソコンを抱えたまま、一度長めに深呼吸をすると、意を決したように右手を上げて、そのドアを遠慮気味に小さくノックした。

「はーい」

 寛闊声の長返事が返ってきた。町田梅子は腹から声を発した。

「町田です」

「うん。入りたまえ」

「失礼します」

 町田梅子は両開きのドアの片方だけをそっと中へと押し開けると、自分が通れる幅だけ開いて、部屋の中に入った。広い所長室の奥に、専門書が並べられた書架を背にして置かれている美空野の書斎机には、誰も座っていなかった。町田梅子は広い室内を見回す。壁の絵画や高そうな彫刻が目に付いた。少し顔を動かすと、有田焼の花器に生けられた青と白と紫の花の横の応接ソファーに、光沢のある生地のダークスーツを着た中年の男が、眼鏡のレンズをチーフで拭きながら座っていた。彼の向かいのソファーには、アーガイル・チェックの派手なスーツを着た若い男が座っている。美空野朋広は、眼鏡から放した赤いチーフを振って町田に手招きした。町田梅子は、その大人数用の応接セットの所まで姿勢を正して歩いて行くと、美空野に一礼して言った。

「所長、お呼びでしょうか」

 美空野朋広は眼鏡を掛けると、チーフを胸のポケットに仕舞いながら言った。

「うん。まあ、座りたまえ」

 美空野朋広は自分の左の席を指差した。町田梅子は美空野と対座している派手なスーツの若い男を一瞥すると、少し緊張した面持ちで、指示されたとおり美空野の左の席に腰を下ろした。美空野朋広は向かいの男を示しながら言う。

「紹介するよ。時吉ときよし先生だ。時吉先生、ウチの町田先生です」

 派手なスーツの男は町田に名刺を差し出しながら言った。

「どうぞ、よろしく。弁護士の時吉です」

 町田梅子は受け取った名刺に視線を落とした。そこには、「弁護士 時吉浩一」と記載されていた。聞き覚えのある名前に、町田梅子は少し慌てて、挨拶をした。 

「あ、町田です。はじめまして。すみません。私、名刺を……」

「いや、いいよ。町田君」

 ソファーから腰を上げようとした町田を制止した美空野朋広は、彼女が再び腰を下ろすと、話し始めた。

「知っていると思うが、この時吉先生は、あの時吉総一郎弁護士のご子息でね。お父様には、私も常々、世話になっている。このご子息も優秀だし、何より、新首都圏弁護士界では評判の、若手の有望株だ。この前の新聞記者等拉致監禁事件でも、あの司時空庁を相手に、随分と活躍されたと聞いている」

 町田梅子は思い出した。時吉浩一ときよしこういちと言えば、田爪健三博士に南米の戦地でインタビューをした新日ネット新聞の何某とかいう記者を、司時空庁の軟禁から解放させ、その後も、同庁の証拠捏造行為を暴き、その記者への圧力を排除した弁護士である。町田梅子は大事件の裏で活躍したという弁護士を前にして少し興奮したが、それを隠し、作った知り顔を隣の所長に向けた。

「ええ、存じ上げています」

 美空野朋広は片笑んで頷くと、町田に言った。

「権力の横暴から人権を守り、国民の『知る権利』が奪われるのを防いだんだ。立派じゃないか。我々、弁護士のかがみだよ」

 時吉浩一は顔の前で手を振って言う。

「そんな。それは買い被り過ぎです」

 美空野朋広は時吉の顔を見据えながら笑みを浮かべ、革張りのソファーの分厚い背もたれに上身を倒した。

「またまた。ご謙遜を。だから、先生なら信用できると思って、こうして申し出をさせていただいているんじゃないですか」

 隣から怪訝な顔をした町田梅子が尋ねた。

「あの……所長、どういうお話でしょうか」

 美空野朋広はソファーに深く背を当てたまま、目線だけを町田に向けた。

「いやね、例のアキナガ・メガネとストンスロプ社の訴訟だよ。あれ、内容は君も知っているね」

 町田梅子は首を縦に振る。

「はい。特許権侵害を請求原因とする損害賠償請求訴訟と、技術利用差止命令についての異議審ですよね。たしか、時吉先生が本訴原告のアキナガ・メガネ株式会社の代理人でいらっしゃるのでは……」

 町田梅子が時吉に顔を向けると、時吉浩一は頷いた。

「ええ」

 大企業ストンスロプ社の研究開発機関であるGIESCOジエスコは、新型の兵員輸送機「ノア零一ぜろいち」を開発し、国防軍への納入を準備していた。しかし、その「ノア零一」の一部に、アキナガ・メガネ社が独自に開発し特許を取得している透過式フォトダイオード技術が無断使用されている事が判明し、その特許技術使用料を請求する訴えがアキナガ・メガネ社から提起された。透過式フォトダイオード技術は巷を走る殆どのAI自動車の透過式スクリーンガラスにも使用されているので、関連子会社でAI自動車の製造と販売を行っているストンスロプ社の動向が注目され、この裁判は世間の耳目を集めていた。さらに、アキナガ・メガネ社の社長秋永広幸あきながひろゆきが、発射中止となった最後のタイムマシンの搭乗者であり、そのタイムマシン事件にストンスロプ社の会長光絵由里子みつえゆりこの養女とその夫が係わっていた事が報じられると、マスコミはこの裁判を「秋永訴訟」と勝手に名付け、さも秋永社長の報復裁判であるかのように、こぞって報道した。時吉浩一は、そのアキナガ・メガネ社の訴訟代理人として、世間の注目を浴びるこの裁判を一人で担当していた。ストンスロプ社の顧問弁護士法人として本件訴訟に対応している美空野法律事務所は、数十人の弁護士を共同訴訟代理人として選任し、事に当たらせている。同じ弁護士法人に所属する町田梅子も一応は裁判の事情と進捗を頭に入れてはいたが、それは先輩弁護士との廊下での立ち話の際に馬鹿にされないようにと気にかけていたからのことであり、本心では、そのような大事件は新人の自分には関係ないだろうと思っていて、涼しい顔をしていた。

 美空野朋広は、そんな町田の顔に視線だけを向けながら言った。

「まあ、君が入所する前の事情だから、知らんだろうがね、アキナガ・メガネは、元はウチが顧問をしていたんだ」

 町田梅子は目を丸くした。

「え、そうなんですか」

 美空野朋広は片笑んで頷く。

「そうなんだ。ところが、秋永社長の方から急に顧問契約を解除すると通知してこられてね。その後、こちらの時吉先生を代理人に選任されて提起されたのが、今やっている特許訴訟さ」

「――そうだったんですか。……」

 町田梅子は時吉の顔をチラチラと見ながら、そう答えた。美空野朋広は町田の表情を観察していたが、ソファーから上身を起こすと、町田の目を見て話した。

「いや、私はね、顧問先を奪われたと言っているのではないのだよ。過去の事はどうでもいい。問題は今だ。現にこうして、特許訴訟が提起されていて、仮処分まで下りている。ストンスロプ社からも、GIESCOを原告とした同様の訴訟を提起する準備をしている最中だ。しかしね、今は準備的口頭弁論の最中だから、まだいいが、これがこれから口頭弁論に入り、本格的に証拠調べに突入したら、お互いに相手の企業秘密を暴露し合う事になる。それは、どちらの側にとってもメリットが無い。ウチの依頼人は言うまでも無いが、アキナガ・メガネだって、日本中にチェーン店を展開する大手眼鏡販売部門を有しているし、主力製品の『ビュー・キャッチ』の製造工場も持っている。従業員の数は六千人以上、フランチャイズ契約をしている店舗は三百店舗以上に上る大企業さんだ。今回の訴訟で、お互いの企業が保有する技術情報が外部に漏れれば、企業として受けるダメージが大きい。そうなれば、その皺寄せは従業員に及んでしまう。もちろん、各種の契約先にもね。たくさんの人を巻き込んでしまう訳だ。だから、この辺で裁判外の和解にするのがいいんじゃないかと思ってね、時吉先生にご足労願ったのだよ。弁護士同士、腹を割って話せば、人権派弁護士の時吉先生なら、必ず私の打診の趣旨を理解してくれるはずだと信じてね」

「打診を聞くために、伺いました」

 町田の方に少し顔を出して笑みながらそう言った時吉浩一は、真顔に戻って美空野の方を見ると、端的に尋ねた。

「和解の申し入れという事ですか」

 美空野朋広は声を低めた。

「ああ、そうだ」

 そして、笑顔を作り、その前で手を何度も振った。

「いやいや、時吉先生もお忙しい中でしょうに、本当に申し訳ない。しかし、私も、大企業の顧問や銀行の頭取、政治家たちの顧問も引き受けていますからね。とにかく、時間がとれなくて。しかし、ストンスロプやアキナガ・メガネの従業員や取引先の事を考えると、のんびりもしていられませんからな。失礼を承知で、こうして、お呼び出しさせていただいた訳です。このとおり、どうぞ、ご容赦ください」

 美空野朋広は広げた両脚の膝の上に手を載せて、その間に頭を深々と下げた。時吉浩一は恐縮した様子で言った。

「いや、僕は構いません。それで、どういう内容なのでしょうか」

 顔を上げた美空野朋広は、穏やかな顔を作って言った。

「それを、これから話し合うんじゃないですか。それでなのですがね……」

 座る向きを少し斜めにして町田の方を向いた美空野朋広は、町田の胸の前に手を出した。

「ここにいる町田先生は、さっきも話していたとおり、アキナガ・メガネとウチの顧問契約が解除された後に、ウチに入所してきた弁護士です。他の弁護士とは違い、アキナガ・メガネについての内部事情は知りませんし、人的しがらみも無い。弁護士としては、まだ一年目の新米ですが、ローヤー・プログラムをトップクラスの成績で修了しています。この先生を本件の和解交渉の担当にしようと思うのですが、いかがですかな。フェアな交渉が出来ると思いますが」

 弁護士は相談を聞いた人間から依頼を受けるとは限らない。相談した人間が他の弁護士にも相談して、その弁護士に依頼をする事もあり得る。その場合、最初に相談を受けた弁護士は、その紛争の相手方の委任を引き受けるべきではない。最初に相談に来た人間、すなわち、自己の依頼人の相手方の事情を聞いてしまっているからだ。この状態で訴訟や交渉など、紛争の法的処理に関与する事は、最初に相談した人間に著しく不利であり、公平ではない。だから、法律に明記されていなくとも、弁護士倫理の問題として、弁護士管理機構の内部規則によって、そのような受任形態は禁止されている。この事は、顧問関係においても同様である。以前に顧問を務めていた顧問先が相手方となった場合、その顧問弁護士だった者は、その紛争に弁護士として法的に介入する事は出来ない。以前、弁護士法人としてアキナガ・メガネ社と顧問契約を締結し、会社の内情を知悉している美空野法律事務所は、本来なら、ストンスロプ社側の代理人として「秋永訴訟」に望む事には問題があった。実際、進行している損害賠償請求事件や仮処分の異議審でも、美空野法律事務所や、そこに所属する担当弁護士の訴訟代理権が正当なものかという点が争点の一つとなっていた。代理権の発生原因となる委任契約が無効という事になれば、それまでの訴訟手続で美空野法律事務所の弁護士たちがした訴訟行為は全て無効という事になる虞があり、訴訟が一からやり直しとなるか、最悪、敗訴する虞もある。アキナガ・メガネ社との顧問契約が解除された後に美空野法律事務所に採用され、同社についての事情を全く知らない町田梅子弁護士をストンスロプ社の代理人として、裁判外での任意の和解交渉に当たらせる事は、法律争訟の公平性を担保しつつ、ストンスロプ社の代理人として活動するための美空野朋広の苦肉の策であった。ただ、それは当然に、相手方の同意を要する。彼が相手方の代理人である時吉を呼びつけた真意は、そこにあった。

 町田梅子は弁護士として事情を理解は出来たものの、突然に、日本を代表する国際企業ストンスロプ社の代理人として、世間が注目する大事件の和解契約の交渉を代理するという重大かつ難儀な案件の担当に抜擢された事に当惑した。

 町田梅子は自分の顔を指差しながら、声を裏返した。

「え、あの、私ですか」

 美空野朋広は笑いながら言う。

「ははは。まあ、あのストンスロプ社の案件だからね。新人の君が躊躇する気持ちも分かるが、君もこれから弁護士として経験を積まねばならん。やってみなさい。いいね」

「は……はい。……」

 町田梅子は、とりあえず、そう返事をした。美空野朋広は前を向いて座りなおし、時吉の顔を見て確認する。

「時吉先生、よろしいですかな」

 時吉浩一は、町田の顔に何度も視線を送りながら答えた。

「はあ……私は、どうこう言える立場ではありませんので。町田先生さえ受任に御異議が無ければ、それでいいのではないですか」

 美空野朋広は真剣な顔で時吉に言った。

「いや、こういう事は、交渉当事者同士の信頼関係が大切ですからね。先生が町田先生では信頼できそうもないと仰るなら、外部から別な弁護士を連れてきて選任するつもりです。いかがですか、交渉相手は町田弁護士でいいですか、時吉先生」

「……」

 時吉浩一は向かい側のソファーから、町田の顔をじっと見つめた。町田梅子は少し胸を張り、ほんの少しだけ顎を上げて、彼女なりに余裕と自信を演出しながら、勝り顔を作った。時吉浩一は下を向くと、笑いを堪えながら美空野の方に顔を向けて、返答した。

「分かりました。では、今後、この件の和解内容の検討は、町田先生と直接お話しさせていただいて、よろしい訳ですね」

 美空野朋広は、はっきりと頷いて見せた。

「勿論です。ただ、本訴と保全関係については、既存の担当弁護士とお願いします。私からも事情は伝えておきますので」

 時吉浩一も、しっかりと頷く。

「分かりました」

 美空野朋広はすぐに町田の方に体を向けた。

「とにかく、町田君。君の方で法曹として一度、この件の和解内容を検討してみたまえ。両当事者が納得する妥当な結論を導き出すんだ。それを文面化して、時吉先生に提示しなさい。あとは、それを叩き台にして、細部を詰めればいい。こちら側では検討しきれていない相手方の利益が、交渉の過程で見えてくるはずだ。和解交渉とは、そういうものだから。それでいいですよね、時吉先生」

 美空野から鋭い視線を向けられた時吉浩一は、淡々と返答した。

「ええ。では、今後は町田先生から和解案が届くのを待てばいいですね」

 美空野朋広は安堵したようにソファーに凭れて言った。

「そういう事ですな。いいね、町田先生」

「わかりました」

 事成し顔で返事をした町田梅子は、先輩弁護士の時吉の方を向いて、改めて一礼した。

「よろしくお願いします」

 時吉浩一も座り直して、一礼して応えた。

「ああ、こちらこそ。次の期日まで一ヶ月ありませんから、まず、おおまかな骨子だけまとめて、私の事務所まで送ってください。内容を検討してみます。とりあえず、本案と仮処分の方は、現状維持という事で進めますので」

 町田が頷くと、時吉浩一は笑顔で返し、ソファーから立ち上がった。彼は意外に背が高かった。町田梅子は時吉の整ったルックスに少しだけ心を躍らせたが、眉間に皺を寄せ、闘う弁護士の緊張感を必死に演出した。

 美空野朋広は町田の顔を横から見て忍び笑うと、ソファーに座ったまま若い二人の弁護士たちに言った。

「ま、時吉先生。ウチの期待のエースですから、しっかりと鍛えてやって下さい。町田君も、時吉先生の胸を借りるつもりで、頑張りなさい。大企業同士の裁判だ。社会に与える影響も大きい。弁護士としての正義に則って、しっかりとやってくれよ」

 町田梅子は、はっきりとした大きな返事をした。

「はい!」

 鞄を手にした時吉浩一は言った。

「では、私はこれで」

 美空野朋広はソファーから立ち上がると、浅めに御辞儀をした。

「ああ、どうも。わざわざ有難うございました。ま、今後とも一つ、お手柔らかに」

 時吉浩一は、顔を上げた美空野の目を見据えて、口角を上げた。

「私は、手を抜かない主義なので。――失礼します」

 そう言って、派手な背広の若い弁護士は去っていった。



                  四

 時吉が部屋から出て両開きのドアの片方を閉めると、美空野朋広は頬を落とし、革張りのソファーに腰を下ろした。眼鏡を外し、テーブルの上に放り投げる。その眼鏡のフレームには、アキナガ・メガネ社のロゴが入っていた。それに気付いた町田梅子は、美空野の顔に目を遣った。美空野朋広は両開きの木彫りのドアを見つめながら嘆息を漏らし、眉を寄せた。

「甘いなあ。あれで大丈夫なのかね」

「……」

 美空野朋広は、怪訝な顔をしている町田の方を向いた。

「ああ、悪かったね。急に呼び出して」

 町田梅子は、横の席の上に置いていた立体パソコンをテーブルの上に置きながら言った。

「いえ。どちらにせよ、こちらからご報告に伺う時間でしたから」

「報告? ああ、フィンガロテル社の事件か。相手方のステムメイル社から、何か言ってきたのかな」

 町田梅子はパソコンを起動させながら言った。

「あ、いえ、それもですが、まずは水枡さんの件を。先ほど、旧市街支部で調停が整いましたので」

「水枡……」

 腕組みをして天井を見上げた美空野朋広は、暫らく記憶を探り、また町田の方を向いた。

「ああ、そうだったね。そうか、落とし所が見つかったかね。いや、よかった、よかった。気になっていたんだよ。で、どうなった」

 町田梅子は、立体パソコンから遺産分割案のホログラフィー文書を投影させた。

「水連会の持分四分の一相当の価格弁済で決着しました。土地建物及びその他の動産は、こちらの方で取得すると。正式な調停調書データは、午後に届くと思います」

 美空野朋広はホログラフィー文書を覗き込んだ。

「おお、現金払いで済んだか。上出来だ。流石だね、町田先生。その調子なら、今度のストンスロプの件も、任せて安心だな」

 美空野朋広は、ほくそ笑みながらそう言った。だが、町田梅子は眉を寄せていた。

「まだ資料を見ていないので、正直、何ともお答えできませんが、少し検討する時間をいただけませんか。原案が出来上がりましたら、一度、所長に提出しますので。本案と保全を担当している他の弁護士の意見も聞いてみたいですし……」

 美空野朋広は体を立て、厳しい顔を横に振った。

「いや、それはいかん。私が君を抜擢したのは、単に君が優秀だからというだけではない。さっきも述べたが、法律家としてフェアな状態で和解交渉ができると期待したからだ。この件は社会に与える影響が大きい。君の法曹としての判断が鈍るような事はしてはいかんし、その疑いを持たれる行為も控えるべきだ。本案と仮処分の担当弁護士たちは、以前、ウチがアキナガ・メガネの顧問をしていた時に、あそこの面倒を見ていた弁護士たちだ。つまり、彼らは、今は相手方であるアキナガ・メガネの内実をよく知っている」

 町田梅子は困惑した顔で言った。

「しかし、それでは、弁護士倫理上、問題があるのでは」

 美空野朋広は落ち着いた様子で頷いた。

「そのとおりだ。私もね、ウチがストンスロプ社の訴訟代理人をを引き受けたまま、この裁判を維持するのは、ちょっと問題なんじゃないかと思っていたところなんだよ。だが、ストンスロプ社は、あれだけの巨大企業だ。ウチが放り投げて、他の事務所ですぐに引き受けられる規模じゃない。おそくらく、国内ではウチの弁護士法人でなければ対応できないだろう。まあ、今のところ裁判所からは何も言われてはいないが、弁護士管理機構や法曹三者会議でウチの弁護士法人が問題視される事も有りうる。しかし、私はそのリスクを承知で、この案件に応じてきたんだよ。それが弁護士としての責任というものだ。だが、時吉先生がこうも強力に攻め込んで来るとなると、こちらとしても、反訴や別訴で対応しないといかん。そうなると、この倫理的によろしくない状態で、応訴ならともかく、こちらから積極的に裁判提起をする事になる。法的には大いに問題だ。だから、こちらから和解を申し入れて、妥協点を探ろうとしたんだよ」

 ソファーの背もたれに片肘を載せた美空野朋広は、視線を落として言う。

「それにね、弁護士も人間だ。以前に顧問先として尽力した相手から、いろいろ言われれば、感情的にもなる。本案と保全を担当している弁護士たちでは、この和解はまとまらんよ。君のような、中立的立場でなければね。つまり、君が他の担当弁護士から情報を得る事は君の判断にとって雑音になる。そういった疑いを持たれる可能性もあるしな。だから、独立した立場で、君自身で考えて判断し、君自身で和解内容を起案するんだ。いいね」

 美空野朋広は町田の目を見て念を押した。町田梅子は不安を口にする。

「ですが、私では経験不足ではないでしょうか」

「いや、そんな事はない。私も共同代理人としてバックアップしよう。それにね……」

 美空野朋広は少し声を潜めた。

「相手の時吉君も分かっているはずだが、穏便に和解といっても、我々弁護士は依頼人だけは裏切ってはいけない。やはり優先すべきは、依頼人の利益だ。その依頼人の利益を実現しつつ、可能な限り、法と正義に反しない妥協をしなければならない。非常に難しい作業だ。だから、これは、君の弁護士としての実力を磨くうえで、いい訓練にもなるはずだ。私はそう思って、君を抜擢したんだよ。君なら、できると期待してね」

 町田梅子は考えた。確かに、美空野の言うとおりである。この事案は、大企業同士の複雑な和解案件というだけでなく、弁護士としての機微も試される案件だ。しかも、和解を成立させれば、これからの弁護士人生で自分にとっても大きな自信に繋がる。やってみる価値はある。町田梅子は、そう思った。

「分かりました。やれるだけ、やってみます」

 美空野朋広は口角を上げる。

「そうかね。訴訟のデータは、私のパソコンの中にあるものを君のパソコンに送ろう。それから、私のここにあるデータもね」

 彼は自分の頭を指差した。

「所長の中に?」

 美空野朋広は片笑みながら言った。

「私の推理だよ。技術提供し合ってきた関係であるにもかかわらず、急にアキナガ・メガネがストンスロプ社に本件訴訟を提起してきたのには、きっと秋永社長の感情的な理由もあるに違いない。タイムマシンに乗って過去に行こうとして、実際にあと数分で出発というところまできていたんだ。それなのに、出発できず、しかも、その後に急遽タイムマシン事業は凍結だ。彼は、自分が予定通り出発できなかったのは、光絵会長の親族が彼の前に割り込んで出発したからだと思っているんだろう。だから裁判を起こした。ま、ニュースでも、そう報じられているが、全くその通りだと思うよ。それを焚き付けたのが時吉君だとしたら、少し灸を据える必要もあるからね。だから、呼び出したんだよ。ま、そのあたりも考慮に入れて、和解内容を起案してみてくれたまえ」

 町田梅子は眉間に皺を寄せた。どうやら、事情が違うようだった。

「分かりました。……」

 町田梅子が思案しながらそう返答すると、美空野朋広はソファーから立ちあがりながら言った。

「ああ、明日までに出来るかな。明日、ストンスロプ社の臨時の取締役会が開かれるそうなんだ。私もオブザーバーとして呼ばれている。できたら、その場で和解内容の説明だけでもしておきたい。話が煮詰まってから役員連中から異論が出ては、かなわんからね。よくあるんだよ、そういう事が。彼ら、実務的な事が全く分かってないからね。和解条項の骨子か、一般的な文面を並べたものでも構わんよ。説明は私がしよう。君は座っているだけでいい」

 町田梅子は美空野の顔を見上げ、目を丸くした。

「え? 私も行くんですか?」

 美空野朋広は立ったまま頷いた。

「当然じゃないか。君が担当なんだから。とりあえず、明日の段階では私が前に出て、役員達からの質問に応じるから、君は心配する必要は無い。ただ、この件が上手くまとまれば、君がストンスロプ社の担当になる事は間違いないだろう。その時の事も考えて、今のうちに役員達や光絵会長に君の顔を覚えといてもらう必要があるからな。だから、付いて来なさい。和解内容の起案の方は、できたら、今日の夜までに、一度私に見せてもらえるといいけどね」

 町田梅子は立体パソコンに視線を落として、顔を曇らせた。

「今夜……ですか……」

「ん? 何か、今夜は重要な予定でも有ったかね?」

「いえ。ただ、フィンガロテル社事件の準備書面の作成もあるものですから……」

 町田梅子が担当するフィンガロテル社は、ステムメイル社から巨額の契約金支払請求訴訟を提起されていた。美空野の指示により、町田梅子はステムメイル社側と全面的に争い、法的攻防に取り掛かったばかりだった。

 美空野朋広は立ったまま町田に尋ねた。

「次回期日は、いつだったかな」

「今週の金曜日です。先週末に反訴の答弁書が届いたものですから、これから、こちらの主張の検討です」

「そうか。……」

 少し考えた美空野朋広は、すぐにソファーに腰を下ろして、また町田に尋ねた。

「それで、相手のステムメイル社は、どんな対応だね。反訴の答弁書の内容は」

 町田梅子は立体パソコンのホログラフィーを事務所のサーバー内に保存されているフィンガロテル社事件の訴訟資料ファイルに切り替えながら答えた。

「ええ。請求原因事実については、広告代理契約締結の事実以外は、すべて否認です」

 それを聞いた美空野朋広は、新人弁護士にアドバイスした。

「そうか。本訴のこちらの答弁内容と同じだな。だが、気にすることは無い。経営者である馬水一家がタイムマシンで居なくなって以来、フィンガロテル社は死に体だ。本業のホテル業も赤字続きで、今期の黒字は絶望的。この訴訟に勝っても、来期末、いや来年末まではもたないだろう。もし、この訴訟に敗訴して、ステムメイル社がフィンガロテル社に差押えをかけてきたら、おそらく、来春あたりには、倒産だよ。だから、念のため、年明けあたりから自己破産手続きの為の準備を進めておけばいい。ただ、気になっているのは、フィンガロテル社が保有している株式だ。子会社であるダクテルロッジ社の発行株式の六十パーセント以上を、フィンガロテル社が保有している。破産した場合は、破産管財人がそれを売却して現金化し、配当原資に組み込むことになる。ステムメイル社は、そこでダクテルロッジ社の株式を購入する事を狙っているのかもしれん。ダクテルロッジ社のロッジ経営も伸び続けているし、不動産事業の方も莫大な利益を作っているからな」

 町田梅子は宙に浮いたホログラフィーのファイルを開き、頁を素早く捲っていくと、財産目録の有価証券欄からダクテルロッジ社株の項目を見つけ出し、その横に表示されたリンクボタンのホログラフィーに触れた。すると、ホログラフィー・ファイルの隣に、フィンガロテル社が保有するダクテルロッジ社株の詳細内容が浮かべられた。町田梅子はそれらのホログラフィー文書に目を向けながら頷き、美空野に意見を求めた。

「はい。私もそれが気になりました。フィンガロテル社が保有しているダクテルロッジ社の株式を、今のうちに第三者に移転しておいた方がいいでしょうか」

 ソファーの背もたれに、さっきと同じように片肘をついた美空野は言った。

「誰に。あの子会社も、社長は馬水家の一員だろ。親会社も子会社も、あそこは、発行している株式のほとんどを馬水一族で間接的に保有し合っている。たしか、閉鎖会社じゃなかったかな」

「閉鎖会社?」

「ああ、株式の全てに定款で譲渡制限を設けている会社だよ。確か僕が受験生だった頃は、非公開会社と言ったかな。今は、たしか……」

「非流通会社ですね。分かります。ですが、ダクテルロッジ社は、二年前に定款を変更して、全ての株式の譲渡が自由に出来るようになっています。確認しました。それから、ダクテルロッジ社の株式は、昨年、上場を果たしていますので、一部は市場で流通しています」

 美空野朋広は少し驚いた顔で町田を見て頷いた。

「そうか。さすが町田君だ。そこまでチェックしているとは。だが、今、フィンガロテル社からダクテルロッジ社の株式を動かしても、既に赤字が続いている現状では、債権者から財産隠しだと言われかねん。ま、実際の所、そういう事だし、下手をすれば、ステムメイル社が詐害行為取消訴訟を提起してくる可能性もある。得策とは言えんな」

 町田梅子は、合点のいかない顔で返事をした。

「そう……ですね……」

 ソファーの背もたれから体を離した美空野朋広は、町田に言った。

「私に、いいプランがあるんだ。君は、この訴訟の相手方のステムメイル社のメインバンクが何処か、知っているかね」

 町田梅子は少し間を置いてから答えた。

「――すみません。そこまでは……」

 美空野朋広は眉を寄せ、口を縛った。

「んーん。戦う時は、相手の急所を突かんといかん。訴訟の相手のメインバンクが何処かは、常に調べておくことだ。勝訴した場合に、その銀行の預金口座を直ちに差し押さえるという場合もあるからね」

「はい……すみません。以後、気をつけます」

 町田梅子は首を竦めた。美空野朋広は表情を和らげて言う。

「うん。いや、いいんだ。ステムメイル社のメインバンクは、伊文いぶみ銀行だよ。ウチが顧問をしてる、伊文銀行だ」

「そうなんですか。……」

 怪訝な顔をしている町田に、美空野朋広は視線を鋭くして片笑みながら言った。

「だが、ステムメイル社に対して直接に融資をしているのは、『関融』さ」

「間接融資組合ですか?」

 美空野朋広は頷く。

「伊文銀行の斡旋で、関融がステムメイル社に対して巨額の無担保融資をしている。つまり、ステムメイル社が転んでも、伊文銀行は痛くも痒くもないって事さ」

 町田梅子は、また目を丸くした。

「無担保なのですか?」

 下を向いて細かく頷いた美空野朋広は、町田に説明した。

「ああ、どうも、そうらしい。ということは、返済条件が相当に厳しいという事だ。何処の世界にも、簡単に唯で金を貸してくれる所なんて無いからね。利息制限法の上限利率を越えて、おそらく、間接融資組合法の上限利率のギリギリいっぱいまで上げて、約定利率を設定しているはずだ。そして……」

 町田梅子が先を言った。

「期限の利益喪失約款も、細かく設定されている」

 美空野朋広は何度も首を縦に振った。

「ああ。たぶん、そうだと思うよ。何か少しでも危険な状況があったら、返済期までの将来利息を添えて、全額返金してもらいますという内容だろう。ま、我々弁護士は仕事で良く見るパターンだ。ステムメイル社はネット業界では世界屈指の広告代理業の会社だ。株式も常に一部上場の優良株。多少の事では大丈夫と、高をくくったのだろう。だが、そこが命取りさ」

 美空野朋広は鼻で笑った。町田梅子は美空野の策略を予想した。

「融資をストップさせるんですか?」

 美空野朋広は真顔に戻り、首を横に振った。

「いや、結果として、そうなるという事だよ。君が今回、代理人として提起した反訴は、債務不履行による損害賠償金請求訴訟だったね。だったら、ステムメイル社に対して、資産の仮差押えをしてみたら、どうだろう」

「保全命令ですか……。しかし、『保全の必要性』の要件を満たしていないのでは。ステムメイル社は、保有資産も十分にありますし、財産が散逸する危険もありません」

 美空野朋広は町田を指差しながら言った。

「そこを見つけ出すのが、君の仕事じゃないか。一見して順調な黒字経営の会社でも、どこかにほころびがあるはずだ。そこを見つけ出して、法的に分析して、『保全の必要性』の要件に合致している事を疎明してみせるんだよ。そうすれば、仮差押えが可能だ。伊文銀行にある会社名義の口座でも、二、三、押さえればいい。あとは、関融がその事実を把握すれば、融資はストップ。ステムメイル社は関融から、巨額の融資金と約定利息金の一括での返済を迫られることになる」

「ですが、そうなると、ステムメイル社は、本件訴訟に何が何でも勝訴する必要に迫られるのでは。本件は契約金の支払いを求めてきている訴訟ですから。現金が必要となったステムメイル社は、この訴訟に全力を投じてくるはずです」

 美空野朋広は笑みを浮かべて頷いた。

「厄介だね。だから、ダクテルロッジ社に頑張ってもらうんだよ」

「ダクテルロッジ社に?」

「そう。ステムメイル社の帳簿上の資産計上額のほとんどは、現金と自己株式だ。現金は日々流動しているから、流れを止めてしまえば、すぐに穴が開く。問題は、株式さ。メインバンクの伊文銀行がちょっと声をかければ、あの会社は、保有している自己株式を売却して、現金に換えるはずだ。その時に、売りに出されたステムメイル社の株式をダクテルロッジ社に買い集めてもらうのさ。そうすれば、ステムメイル社はダクテルロッジ社の株主提案を無視できなくなる。ダクテルロッジ社はフィンガロテル社の子会社だから、ステムメイル社に対して、フィンガロテル社への訴訟を取り下げてもらうよう、提案してもらう。もちろん、きちんと裁判外の和解契約を締結してね。当然、ウチも反訴と仮差押えは取り下げる。ま、仮差押えの際の供託金の何割かは、ステムメイル社に取られてしまうかもしれないが、それが実質的な和解金となる。これで、一件落着さ。どうだね、妥当な結論だとは思わんかね」

 少し考えた町田梅子は、浮かんだ疑問を美空野にぶつけた。

「しかし、そうなると、ステムメイル社は倒産してしまうのでは」

「そうなる前に、私から伊文銀行に声をかけて、あそこに支援融資をしてもらえばいい。ステムメイル社の事業は、材料仕入れを必要とするような業種じゃない。黒字回復するのは、一年もあれば十分だ。ま、遅くても二年だな。財務上で一番大きな支出は、サーバーの維持管理費と人件費くらいのもので……」

 町田梅子は美空野の発言の途中から口を挿んだ。

「ひとつ気になるのですが、ステムメイル社の筆頭株主は、たしか、大手通販会社のミンキオーパ社ではなかったでしょうか。売りに出されたステムメイル社の株式をダクテルロッジ社が購入するとなると、ミンキオーパ社と競り合う事になるのでは。そうなると、相当の資金が必要になりますが」

「君の仮差押えが効けば、ミンキオーパ社も保有しているステムメイル社の株式を売却するかもしれん。ま、そうなる事を狙って、動けばいい」

「ですが、そうならなかった場合、ステムメイル社の株式の取得に大量の資金を拠出したダクテルロッジ社は、財務バランスが崩れ、一気に赤字へと転落するのでは。ステムメイル社の株式を、実際の評価額よりも大幅に上の線で購入する事になるでしょうから。仮に、ミンキオーパ社が手を引いた場合は、取得したステムメイル社の株価は、その後、底値近くまで下落するでしょうから、やはり、ダクテルロッジ社の資産額が減り、財務状況が悪化します。そうなると、今度はダクテルロッジ社の株価が下がり、その多くを保有するフィンガロテル社の資産総額が減ります。現時点で、これ以上、フィンガロテル社の財務状況が悪化すれば、フィンガロテル社は年末には破産。同社の株価は一気に下落して、紙くず同然になってしまうのではないでしょうか。馬水家の人々に多大な損害を与えるだけでなく、フィンガロテル社の株式を保有している他の一般投資家にも、ダメージが大き過ぎると思いますが」

 美空野朋広は力強く頷いた。

「心配ない。その時は、売りに出された株式を下落前の値段で、私が全て買い取るよ。そのくらいの覚悟はしている」

「所長がですか……」

 訝しげな顔で見つめる町田梅子を、美空野朋広はゆっくりとした口調で諭した。

「いいかね、町田君。弁護士という者は、時にリスクを背負ってでも、依頼人を助けなければならん。そして、社会への責任として、法律知識を駆使して、妥当な結論を導き出さないといけない。私はいつも、そのように考えて、決断してきた。時にそれは、犯罪ギリギリの線を歩む事もある。だが、悪い連中と我々の違いは、犯罪を犯さない事だ。法の解釈を正確にする事が出来る我々は、つまり、何処から先が犯罪なのかの境界線を明確に認識する事が出来る。そして、そこで踏みとどまる。法律知識の無い人間は、何処が境界線なのかが分からないから、そのずっと手前で足を止める。あるいは、その向こうに行ってしまう。我々は、絶えず境界線ギリギリの手前まで近づいて、依頼人を救済しなければならない。それが使命だ。そして、失敗した時には、それ相応の支出をする覚悟も必要だ。その上で、練りに練った戦術を展開するんだよ。まあ、君もいずれ、経験を積んでくれば分かる事だがね」

 フィンガロテル社は、ホテル経営を主たる事業としている企業である。直接雇用の従業員の数も多く、下請け業者も多種多様に渡り、数も多い。倒産すれば、それらの人々が路頭に迷う事になる。町田梅子は、そこまでは認識していたし、倒産を回避する為に全力でステムメイル社側の弁護士と戦う覚悟でいたが、美空野朋広ほどの覚悟を伴っていた訳ではなかった。所長の美空野は、自らの資産を投じる覚悟で、依頼人を勝たせる為に際どい勝負に出ようとしている。町田梅子は熟達した策を練りながら、それが失敗した時の腹を決めているベテラン弁護士の胆大心小な姿勢に感銘を受けると同時に、心中で脱帽した。

 町田の表情を見てソファーから立ち上がった美空野朋広は、町田に言った。

「とにかく、フィンガロテル社の事件は、仮差押えを申請する方向で準備してくれたまえ。もし他に何か原因事実が見つかれば、別訴を提起してもいいし、今の段階なら、反訴の請求の趣旨を変更して、請求額を上昇させるという手もある。要は、『関融』がステムメイル社への融資をストップするきっかけとなればいいんだ。君の優秀な頭脳で、検討してみてくれたまえ」

 町田梅子は力強くはっきりと答えた。

「分かりました」

 口角を上げて頷いた美空野朋広は、自分の大きな執務机まで歩いていった。途中立ち止まり振り替えると、パソコンのホログラフィーを閉じている町田に指を振りながら尋ねた。

「ああ、そうだ、そうだ。真明教の法務チェックは、君の担当だったかな」

 ソファーに座ったまま振り向いた町田梅子は答えた。

「はい。そうです。今月から、私が引き継ぐことになりました」

「そうかね。それは、丁度良かった。あそこも赤字が続いている。だが、あそこは宗教団体だ。商売をしている企業ではない。それに、赤字の原因も医療法人や学校法人への寄付金支出、南米の戦争難民の救済事業での支出だ。何とか、立ち直らせてあげたい」

「分かりました。一度、財務諸表を精読してみます」

 町田梅子がそう即答すると、美空野朋広は首を横に振った。

「いや、それよりも、南だ。代表者の南正覚。彼の気前の良さが問題なんだ。心根は良い人間なんだが、無計画な寄付や資金投入が多過ぎる。こんな事を続けていては、自分が設立した宗教法人から排斥されかねん。それに、彼も歳だ。そろそろ自分から引退と言い出すかもしれん。実際に時々、そんな話をしているからね。それで、彼が代表の座を降りた後も教団運営に支障が無いような枠組みが出来ているか、そっちの方を早めにチェックしてもらえないだろうか。どうも、気になっていてね」

 町田梅子は小さな声で返事をした。

「――分かりました。なるべく急いでやってみます」

 美空野朋広は頷くと、自分の机の方に歩いて行きながら、大きな声で町田に言った。

「うん。頼むよ。でも、最優先はストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の和解だ。忙しいだろうが、君にとっても、ここを乗り越えられるかが、正念場だ。壁を乗り越えずして成功した者はいない。君なら乗り越えられるはずだ。期待している」

 美空野所長は自分に期待を掛けているらしい。町田梅子はソファーから立ち上がると、美空野の机の方を向いて頭を下げた。

「有難うございます。頑張ります!」

 美空野朋広は重厚な肘掛け椅子に腰を下ろすと、拳を握って見せて、快闊な声で言った。

「うん。私も、出来るだけのサポートはするよ。一緒に頑張ろうじゃないか。それに、私も久々の現場復帰だ。弁護士法人の経営と政治家や経営者たちとのゴルフにも、正直飽きてきたところでね。君のような有能な弁護士と仕事ができるとなると、実に楽しみだよ。ま、いろいろ教えてくださいよ。町田先生」

「とんでもない。私の方こそ、ご指導、よろしくお願いします」

 町田梅子は上気した顔でそう言って、再度、頭を下げた。そして、いそいそと立体パソコンを小脇に抱え、両開きのドアへと胸を張って歩く。片方のドアを大きく開けた町田梅子は、振り向くと、こちらに向けて笑顔を見せて座っている美空野に向けて深々と一礼した。

「では、失礼します」

 ドアを閉めた町田梅子は、大きく息を吐いた。振り向いた彼女は、よしと気合を入れ直すと、絨毯張りの廊下の上にヒールの跡を残しながら、勢いよく歩いていった。



                  五

 黄色く染まったイチョウ並木。横の広い歩道の上は、通行人でごった返している。この新首都一の繁華街である寺師てらし町のメイン通りは、昼休み時になると人の混雑に拍車がかかる。この時間帯だけ増便されるシャトル便の都営バスを利用して、有多町の官庁街や湖南見原丘工業団地の工場から昼食にわざわざ訪れる人々も多いからだ。皆、この時間帯だけ各飲食店が競争して値下げする安い昼食を求めて、ここまでやって来ていた。町田梅子も例外ではない。職場のビルが有多町の東の端で、寺師町のメイン通りにも比較的近いという事もあったが、有多町周辺の高い店で昼食をとるよりも、鮨詰め状態の格安都営バスを利用して時間を割いて寺師町まで移動した方が、安く済ます事が出来た。それは彼女が勘定高い人間だったり、惜しみ手だったからではない。彼女の薄給がそれを彼女に強いていた。新人弁護士町田梅子は、客で混雑するハンバーガーショップで列に並び、「十六分の一ピザ」のランチセットを注文した。今日は奮発してピザの量を十六分の十六にする。トレイに載ったセットを受け取った彼女は、近くの低いパーテーションで区切られたボックス席が空いていたので、そこに座った。町田梅子は、下の皿を隠して広がっているビザの一六分の一枚を手に取りながら、独り言を呟く。

「もう、みんな、何なのよ。『一緒に頑張ろうじゃないか』ですって? 頑張らないといけないのは、私だけじゃない。なんで今日も残業しないといけないのよ。ここ、ブラック企業なんじゃないの? 労働局も、相手が弁護士法人だからって尻込みしてないで、ちゃんと調べなさいよ。私達だって、労働者じゃない」

 町田梅子は不機嫌そうに、手に持った一六分の一ピザにかぶりついた。

「でも、『ウチのエース』かあ。いやあ、参ったね、こりゃ。ストンスロプ社の担当って、ウチの弁護士法人の中じゃ、花形ポジションじゃない。かあ、どうしよう。こりゃあ、ますます、忙しくなるわね。しっかり、食べとかなきゃ」

 町田梅子は、食べかけの十六分の一ピザの残りを、一気に口の中に押し込んだ。

「でも、月曜から残業ってのは、納得いかないわよね。だいたい、小彩さんも小彩さんよ。どうして、こんな時に、新規の案件を午後一で入れるかな。帰ってもらったんじゃなかったの? これじゃ、水枡さんの調停調書を確認する時間がないじゃないのよ」

 腕時計を一瞥した町田梅子は、アイス・レモンティーのSサイズのカップを握り、そこに挿されているストローを唇で挟みながら、もう片方の手でサラダの容器の蓋を開けた。

「ええと……じゃあ、十六分の七で。あと、レモンティーのMサイズと、サラダ。あ、ドレッシングは要りません」

「何が十六分の七よ。中途半端ねえ。男ならガッツリ丸ごと一枚いきなさいよ」

 背後から聞こえてきた男性の注文内容にケチを付けながら、町田梅子はドレッシングのかけられていないサラダにプラスチック製のフォークを刺した。中からプチトマトを一個だけ取り出すと、横に返して置いた容器の蓋の上にそれを転がし、サラダの野菜の中でフォークを何度か動かして、野菜の間を注意深く観察してから、フォークに刺さった何枚かのベビーリーフを、そのまま口の中へと運んだ。町田梅子は、水気を多く含んだ若葉を音を立てて噛みながら、また独り言を発した。

「フィンガロテル社の書類だって、いつ作るのよ。今週中に準備書面を提出しないといけないのよ。反訴被告の準備の事も考えたら、水曜日までには提出しないといけないじゃない。反訴を提起しろって言ったのは、所長でしょ? 自分でやりなさいよ、自分で。保全申立てまで、しないといけないわけ? 結構、面倒くさいんですけど。だいたい、どうしてダクテルロッジ社の株式を現金化したらいけないのよ。正当価格で売却すれば、株式が現金に転化するだけだから、フィンガロテル社の資産は減少しないじゃない。さっさと現金化すればいいのに、何であんな面倒くさい事を考えつくのよ。それに、買い集めたステムメイル社の株式だって、後でどうするつもりなのよ。まさか、私に買えって言うつもりじゃないでしょうね。そんなお金は無いわよ、私。見なさいよ、このランチ。これじゃ、高校生のおやつじゃない。弁護士になったら、『サノージュ』で優雅にオーガニック・ランチって決めていたのに、なんで、未だにファスト・フードなのよ! 頭にくるなあ、もう!」

 町田梅子は荒っぽくピザを千切った。すると、彼女の前で、スーツの先から出た手の指先が、彼女が据わっていたテーブルの向かいの席を指し示した。

「すみません、ここ、空いてますか」

 町田梅子は、口に二切れ目の十六分の一ピザを押し込みながら、視線を向ける事無く答えた。

「ほご……ほーぞ、ほーぞ」

 派手な背広姿の男は、梅子のトレイの前に、丸い平皿の上に半分より一切れ分だけ少ない量が乗せられたピザと、サラダ、お絞りの入った袋、Mサイズのレモンティーが乗った自分のトレイを置いて、座りながら言った。

「あれ、町田先生。奇遇ですねえ」

 町田梅子は、ピザを頬張ったまま、視線を上げた。アーガイル・チェックの柄が目に入る。咀嚼しながら、更に視線を上げた。時吉浩一だった。

「んぐ、ときよ……ゴホッ、ゴホッ……」

 慌てた梅子は、ピザを喉に詰まらせて咽た。胸を叩きながらレモンティーのストローを口に当てている梅子に、時吉浩一が言った。

「別に、そんなに慌てなくても。品が出てくるのが『ファスト』なだけで、食べるのは、『スロー』でもいいんだから」

 レモンティーで口の中のピザを胃に流し込んだ梅子は、紙ナプキンで口元を拭きながら、言った。

「すみません。びっくりしちゃって。こんな所で時吉先生にお会いするとは、思っていませんでしたから」

 時吉浩一は、袋から取り出した紙のお絞りで手を拭きながら、梅子をからかうように言った。

「僕だって、たまには『高校生のおやつ』くらい、食べに来るさ」

「あ……あはははは……」

 町田梅子は、無理に笑って誤魔化しながら、向かいに置かれた時吉の十六分の七のピザの皿の前から、そっと自分の十六分の十四になったピザの皿を手前に引き、間に何気なく、お薦めメニューが表示された液晶パネルを立てて、自分の皿が見えないようにした。

 そして、財布の中から、予備で入れている名刺を取り出すと、時吉に差し出して言った。

「先ほどは失礼しました。何も聞かされないまま、呼ばれたものですから」

 時吉浩一は、梅子から両手で丁寧に名刺を受け取ると、それを軽く読んでから、ワイシャツの胸のポケットに仕舞った。

 町田梅子は、姿勢を正して言った。

「和解案の方は、水曜日までにはご提案できればと思っています。私も、これから資料を読みますので、少し時間をいただけませんか」

 時吉浩一は上着を脱いで、椅子の背もたれに二つ折りにして掛けながら、言った。

「まあ、そんなに急がなくても。美空野先生の前では、一応、ああ言いましたけど、じっくり検討してもらってからでいいですよ。こちらは、別に急いでいる訳ではありませんから」

「でも、骨子だけでも先にと思いまして。先生のご意見も伺いたいですし」

 時吉浩一は、ワシシャツの袖を捲くりながら、答えた。

「うん……じゃあ、先生が考えているポイントを箇条書きにしたものを、ファックスで送って下さい。検討して、問題なければ、私が口頭で依頼人に伝えますから。本格的な話し合いは、それからでしょ」

「提示させていただく対価については、概算になりますので、その提示額が確定しましたら、改めてご連絡を……」

 時吉浩一は、一度、町田梅子の顔の前で軽く手を広げて彼女の話を止めると、ピザを千切りながら言った。

「こういったオープンな場所で仕事の話をするのは、ここまで。さあ、チーズが硬くなってしまいますよ。食べないと。そっち、量が多いみたいだから」

 町田梅子は、顔を赤らめた。

 時吉浩一は顔を斜めに傾けながら、右手に持ったピザの一片にかぶりついた。そして、左手を顎の下に持ってきて、こぼしそうなチーズを口の中に吸い込み終えた。それを飲み込み終えると、右手の残りピザを半分に折って、口の中に押し込んだ。時吉浩一は、紙ナプキンで口元を拭きながら、咀嚼を繰り返し、それを胃の中に落とし込んだ。その向かいの席で、町田梅子は丁寧にピザを指先で小さく千切りながら、一口ずつ上品に口元に運んていた。少し緊張してピザを食べている町田梅子を見ながらレモンティーを一口飲んだ時吉浩一は、彼女に言った。

「忙しそうですね。新人の頃は、広く浅く、いろいろな分野を任されるから、大変でしょ」

「ええ。とても、手が回らなくて。悪戦苦闘しています」

 町田がそう答えると、時吉浩一は少し笑みを見せて、向かいに座る新人弁護士に言った。

「どれか、『これだ』って分野が見つかると、それに集中して取り組んで行けるんだけどね。そうすると、仕事のノウハウも蓄積されるし、スピードも上がる。ま、もう少しの辛抱だね。頑張って」

「先生は、ご専門の分野は、何なのですか。やっぱり、会社法ですか?」

「いやあ……特に無いね。来た案件を引き受けているからね。来る者拒まずで」

 人に言っておいて、なんだそりゃ、と町田梅子は思った。彼女は時吉に尋ねてみた。

「今の事務所は、オールラウンドな感じなんですか」

「うん……そう言われれば、そうかもしれないけど。ま、父親から暖簾分けしてもらった事務所だからね。顧客や顧問先も引き継いだから、それぞれ、民事、刑事、少年、商事と、いろいろな裁判が係属していてね。最初から万屋で行くしかなかったんだよ。午前中に交通事故の法廷に立ったと思ったら、午後は家裁で離婚調停、夕方からは刑事裁判の証拠等関係カードと睨めっこさ。開業当初から仕事があるっていうのも、それはそれで、大変でしたよ」

 自慢か! ボンボンめ! と町田梅子は更に思った。彼女は顔を引き攣らせながら笑みを作り、時吉に言った。

「恵まれてらしたんですね。羨ましい」

「そうだね。確かに。でも、先生も恵まれているじゃないですか。あんな大きな事務所で、大企業絡みの複雑な事件に関与できる。ウチの事務所のようにスタッフ二十人程度の事務所では、中々そうはいきませんよ。今のうちに、色々と身に付けないと、もったいない」

 スタッフが二十人も居るんかい! あんたの事務所って、弁護士はあんた一人でしょ。こっちはスタッフ一人なんですけど! しかも、香水臭くてスカートが短い! なんか、イラつくなあ、この人……と町田梅子は思いながら、上品にピザを食べた。そんな町田を見て、時吉浩一は言った。

「あれ、そんなチマチマと食べていたら、昼休み終わっちゃうんじゃない? 気にしないで、ガッといきなよ。さっきみたいに。若いんだからさ」

「あ……じゃあ、遠慮なく……」

 少し考えた町田梅子は思った。

 ――ま、いいか。

 町田梅子は気取るのを止めて、持ち上げた十六分の一のピザにかぶりついた。その時、ふと時吉のサラダの器が目に留まった。町田梅子はピザを咀嚼しながら時吉に言った。

「あ、先生も『サラダにはドレッシングをかけない』派ですか」

 時吉浩一は自分のサラダと、同じく何もかかっていない梅子のサラダに目を遣りながら、笑顔で答えた。

「まあね。本質的な素材の味を楽しむ男ですから、なんて。まあ、かけても塩だね。塩派」

「じゃあ、オーガニック・レストランとか、よく行かれますか?」

 町田梅子は勘繰り深い目で時吉を見た。

 どうせ、普段は高めのレストランでランチなんでしょ。今日は偶然を装い、私に接触してきた。ちゃんとお見通しなんだからね。と町田梅子は思った。

 時吉浩一は首を傾げる。

「うーん。どうかな。あんまり行ってないと思うけど。僕、そういう所に行っているように、見える?」

「なんか、イメージでは、そんな感じです。こだわりの高級イタリアンとか……」

「全然。ほとんど、行かないね。出された物を食べるって感じだし。だから、好き嫌いもなし。あ、このトマト、食べないの? もらっていい?」

 時吉浩一は梅子のサラダの横に置かれていた蓋の上のプチトマトを指差した。

 町田梅子は答える。

「どうぞ……トマト、苦手なんで」

 時吉浩一はそのプチトマトにフォークを刺すと、自分のサラダの上に移して言った。

「実は僕もね、玉葱が苦手なんだけど、まあ、こうして混ぜて入ってれば、何とかね」

 サラダを口の中に入れた彼は、シャリシャリとした音と共に話す。

「だけど、コーヒーはNGかな。やっぱり、紅茶。ここは選択肢がレモンティーしかなかったから、これにしたけど……」

 時吉浩一は自分のMサイズのカップをフォークで指しながら、梅子のSサイズのカップを見た。

「お、先生もレモンティーですか。気が合いますな。砂糖は?」

「いえ、入れません」

「でしょ。これね、賛同してくれる人が少ないんだよね。意外と。みんな砂糖を入れちゃうんだよ。紅茶葉の香がしなくなっちゃうと思うんだけどな」

 そうよ、その通りよ。紅茶は、お茶よ。日本茶に砂糖は入れないのに、どうしてみんな紅茶には砂糖を入れるのよ。お茶は、お茶の葉の香りを楽しむ飲み物じゃない。あんた、なかなか分かってるわね。と町田梅子は迂闊にも思ってしまったが、すぐに思い直した。

 ――いかん、いかん。取り込まれるな、梅子。この男は、これから和解契約の交渉をする相手よ。敵よ、敵。てーき。仲良くなって私に手を抜かせようって作戦に決まっているわ。騙されちゃ駄目。話題を変えるのよ、梅子。

「あの……」

「ん、なに?」

「名刺を見て気付いたんですけど、先生の事務所は、ファックスなんですか?」

「ん? おかしい?」

「いえ。だけど今時、ファックスなんて、田舎のお祖母ちゃんの家でしか見た事なかったので……」

「うーん。そうだよね。大抵は文書データか、スキャンした画像データをネットで暗号送信してくるか、共通サーバーの閲覧パスワードの送信だもんね。でもさ、こういうのって、なんか、信用できないでしょ。まあ、ファックスも電送されたものを再現して印刷しているだけだからね、同じなんだけど。だから、基本的には、全部郵送してもらうか、持参してもらってる」

「じゃあ、今度の件も、先生とのやり取りは、郵送か持参で……」

「いや、重要な書類だけだよ。契約書の原本とか、判決書や決定書とか。あとは、普通にファックス」

「やっぱり、ファックスですか……」

 肩を落とした町田梅子は、顔を上げ、更に尋ねた。

「名刺に携帯電話の番号も載ってませんでしたよね。もしかして、お持ちじゃないとか」

 町田梅子は時吉の眼を見ながら、レモンティーのストローを咥えた。

 時吉浩一は、当たり前のような顔をして答えた。

「うん。持ってない」

「ぶっ」

 町田梅子はレモンティーを噴いた。時吉浩一は淡々と話す。

「まあ、この前まで、普通にウェアフォンも使ってたんだけどね、今度、個人有線回線の使用許可を取ったんですよ。だから、今、ウチの電話は、黒電話一つです」

 テーブルの上を紙ナプキンで拭いていた町田梅子は、顔を上げて顰めた。

「黒電話?」

「そ、これ」

 時吉浩一は人差し指でダイヤルを回す仕草をして見せる。町田梅子は目を丸くした。

「じゃあ、デジタル送信とか、出来ないんですか? 困りませんか」

「まあ、どうせ固定電話にして有線回線方式にするんなら、徹底してみようと思ってね。無線式のネット通信できる端末は、外で借りればいいから、問題は無いし」

 問題は大有りじゃ! と町田梅子思ったが、冷静に尋ねてみる。

「拘る主義なのですか?」

「別に主義って訳ではないけどね。性格かな。やる時は徹底的にやらないと、気が済まないって感じかな」

「仕事もですか?」

「そうだね。ほら、僕は食べ終わったよ。新人なんだから、早く食べて戻らないと、先輩達に陰口たたかれますよ。弁護士で性格が曲がってる連中ってのは、最悪だからね」

「……」

 あんたも十分に曲がってませんかね。携帯無しで有線電話って、似非エコロジストか! 仕事するこっちは、すっごい迷惑だっつうの! と町田梅子は心の中で叫んだ。

 時吉浩一は椅子から立ち上がり上着を着ると、自分のトレイを持ち上げながら梅子に言った。

「ああ、さっきの件だけど、焦らなくてもいいから。じっくり検討してみて下さい。こっちの依頼人は待つでしょうし、裁判外で交渉を進めている事を次回期日で裁判所に報告すれば、裁判所も、その次の期日は延期してくれるはずだから。よく議論して、いい妥協点を見つけましょう。そんじゃ」

 時吉浩一はトレイの返却口の方へと歩いて行った。

 町田梅子は彼の背中を見送りながら呟いた。

「妥協点って……そっちが訴えてきてるんでしょ。まったく……」

 町田梅子は十六分の一ピザを二つに折って、口の中に押し込んだ。



                  六

 エレベーターのドアが開き、町田梅子が腕時計を見ながら出てきた。彼女は息を吐き、何とか昼休みが終わる前に自分のオフィスに帰りついたと安堵する。すると、向こうから鞄を提げた二人の若い男の先輩弁護士たちが歩いてきた。町田梅子は立ち止まり、挨拶をする。

「お疲れ様です」

 男の一人が応えた。

「ああ、梅田先生、お疲れ様。頑張ってる?」

「はあ、なんとか」

 その男は町田の答えを聞かずに、隣の男に言った。

「おい、今日から、帰りにコレ、行かないか」

 男はゴルフのスイングをしてみせた。隣の男がエレベーターに乗りながら言う。

「そうだな。そろそろ練習しとかないと、依頼人とのコンペで恥をかくからな。所長からも呼ばれなくなるし」

 スイングをした男は、エレベーターに乗りながら言った。

「よし。今週は毎日、アフターファイブで練習だな。徹底的にやるぞ」

 エレベーターのドアが閉まる。町田梅子は眉を寄せ、頬を膨らませた。振り返り、荒っぽく自分のオフィスのドアを開ける。

「徹底的に仕事しろっての。暇なんじゃないよ。どうして、私ばかり……」

 目の前では、事務員の小彩麻子が机の上に立てた鏡に顔を近づけていた。小彩麻子は付けまつ毛の角度を直しながら、気だるそうに言った。

「お疲れ様でーす」

 町田梅子は返事もせずに、自分の執務机へと速足で移動する。顔を上げた小彩が言った。

「あの、先生。そちらに……」

 町田の死角の部屋の隅に、花柄のワンピース姿の腰の曲がった老女が立っていた。

「わっ! びっくりしたあ……」

 白髪頭の老女は、深々と頭を下げた。

「あ、先生、どうも、どうも。はじめまして。平林ばあ、言うもんです」

「――あ、どうも。弁護士の町田です」

 つられて深々と御辞儀した町田梅子に、小彩麻子が言った。

「午前中いらした、新規の方です」

「あ、そう。――あ、どうぞ。奥の相談ブースに……」

 町田梅子は部屋の奥のパーテーションで区切られた相談ブースを指した。老女は厳しい顔で町田を睨む。

「ブス?」

 町田梅子は戸惑いながら老女に説明した。

「ああ……いえ、相談席です。向こうにテーブルと椅子の置かれた区画がありますから、そちらでお待ちください。すぐに準備して、伺います」

 町田梅子はもう一度、部屋の奥を指差した。老女は曲がった腰を精一杯に伸ばして、町田が指差した方を覗くと、首を傾げながら、大きな紙袋を提げて、その方角に歩いて行った。老女の背中を見つめながら机の引き出しから名刺入れを取り出した町田梅子は、それを上着のポケットに入れ、立体パソコンを小脇に抱えると、小彩の席へと移動した。そして、小彩に顔を近づけると、小声で確認する。

「一時半からだったわよね。ちょっと早くない?」

 小彩麻子は鏡を仕舞いながら、小声で答えた。

「先生が出られたすぐ後に、いらっしゃいました。ずっと廊下で待ってたみたいで」

「あらら。じゃあ、お昼も食べてないのかしら。よわったわね」

「とりあえず、事情だけ聞かれたらどうです?」

「そうね。くわしい話は後日ゆっくり聞きましょう」

 頷いた町田梅子は、顔の前で漂う小彩の香水の匂いを立体パソコンで扇いで払いながら、相談ブースへと歩いていった。

 窓際の一角を人の背丈ほどのパーテーションで区切った相談スペースには、小さなテーブルと向かい合わせに二脚ずつの椅子が置かれていた。老女は椅子の横に立っている。

「お待たせしました」

 そう言いながら相談ブースの中に入ってきた町田梅子は、テーブルの上に立体パソコンを置き、上着のポケットから取り出した名刺入れを広げた。そして、中から取り出した名刺を老女に差し出しながら、気取った声で言った。

「弁護士の町田です」

 老女は両手で丁寧に名刺を受け取ると、深々と御辞儀をしながら言う。

平林ひらばやしマリですじゃ。よろしゅう、お願いします」

 町田梅子は椅子を引くと、そこに腰を下ろしながら、手で平林に座るよう促して言った。

「どうぞ、お掛けください」

 平林マリは座る事はせず、手に提げた大きな紙袋の中から丁寧に包装された大きめの菓子折りを二つ取り出すと、それらをテーブルの上に置き、町田の前にそっと動かした。

「これ、つまらないものですが、お茶請けにでもして下さいな。こちらは、所長先生様に」

「ああ、どうもすみません」

 町田梅子は平林の顔を一瞥して軽く頭を下げると、重ねられた二つの菓子折りを窓際の方に置き直した。そして、立体パソコンの前にホログラフィー・キーボードを投影させ、その上に両手の指を載せると、平林が椅子に腰掛けるのを待った。平林マリは町田の向かいの席の椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろす。平林がもう一度御辞儀をすると、町田梅子は居住まいを正し、平林の顔を見据えて言った。

「それで、本日は、どのようなご相談でしょう」

 平林マリは憂え顔で言う。

「孫の就職が決まったとです。来月から、出勤ですが。ようやく」

「はあ、それはよかったですね」

 町田梅子は無表情のまま、そう言った。少し間を空けて、彼女は尋ねた。

「それで?」

 平林マリは深く頷いてから答える。

「それで、車を買ったとです。いやいや、ちごたあ。車を買おうとして、契約をしたとです。お金も払いました。新車です。新車」

 町田梅子は老女の話の先を予想した。

「なのに、車を引き渡してくれない、という事ですか?」

 平林マリは顔の前で手を振った。

「いやいや、違うとです。車屋さんが言うには、証明書が取れんから、名義を換えられんと言うとです。だから、その証明を、はよ取ってくれえって」

「証明書?」

 町田梅子が眉間に皺を寄せてそう訊き返すと、平林マリは耳の後ろに手を立てて顔を顰めた。

「はあ?」

 町田梅子は大きな声で言い直した。

「しょうめいしょって、何の証明書ですかあ」

 頷いた平林マリは言う。

「自動車を買う時には、地だの証明書が要るとでしょ? 保管なんちゃら証明とかいう」

「ジダの……土地のことですよね。ああ、車庫証明ですね。自動車保管場所証明書。警察に届け出て、発行してもらうんですよ」

「警察に? ウチのマユミは、何も悪いことは、しとらんですよ」

 平林マリは急に血相を変えた。町田梅子は冷静に尋ねる。

「マユミって、誰です?」

「孫のマユミですが。その子が、就職が決まって、職場が昭憲田池の反対側じゃけん、車が要るとです。なんで犯罪者扱いされんといかんとね」

 平林マリは頬を膨らませ、下唇を突き出した。町田梅子は少し困惑しながら、丁寧に説明する。

「あ、いや。そうじゃなくてですね、最寄りの警察署で、車を駐車するスペースを確保してありますよって、証明書を発行してもらうんですよ。それを陸運局に提出して、自動車の名義変更をするんです」

 平林マリは納得のいかない顔をする。彼女は言った。

「なんか難しいとねえ。でも、駐車スペースは無かよ。別の車が置いてあるからね」

「別の車が? 他に駐車する場所は無いんですか?」

「無か。庭の倉庫と塀を壊すしかないじゃろか」

「まあ、都内でしたら、二キロ圏内に駐車場を確保できていればいいはずですから、どこかで月極の駐車場を借りられるか……」

 平林マリは肩を落として項垂れた。

「高こうつくねえ。止めてある息子の車は、使っちょらんとにね。馬鹿らしか……」

 町田梅子は怪訝な顔で尋ねた。

「使ってない。ずっとですか?」

「そうよ。もう、三、四年になるかね」

「その車は、走るんですか?」

「車屋さんの話じゃ、バッテリーを入れ替えれば、すぐに動くと言っちょった。本当じゃろか」

「AI自動車なんですか」

「はあ?」

 平林マリは再び耳の後ろで手を広げた。町田梅子は大きな声でゆっくりと言う。

「えーあい、じどうしゃ。電気自動車ですかあ?」

 平林マリは頷いた。

「あー、あー。中にコンピーターば入っちょる、あれじゃろ。そうじゃ、そうじゃ」

「マユミさんは、それを使われないんですか」

「あんな黒塗りのふっとか車に、年頃のマユミが乗る訳なかでしょ。ベンツですぞ、ベンツ」

 町田梅子は双眉を寄せる。

「そのベンツの所有者は、息子さんですね。名前は?」

友也ともやです。あのバカタレが……」

 平林マリは顰めた顔を横に向けた。町田梅子は首を傾げると、平林に尋ねた。

「友也さんは、今、同居されているんですか」

 平林マリは眉を八字にして言う。

「それが、何処に居るか分からんとですよ。だから、マユミを私が育てとったとです」

 町田梅子は何度も瞬きした。

「分からないって……連絡はとれないんですか」

「とれん。外国にでも、逃げちょっとでしょ」

「外国に? お仕事は何をされていたんです?」

 平林マリは首を激しく横に振った。

「何か分からん。フラーフラばっかりしとって、嫁には逃げられるし、借金は作るし。ガラの悪い連中とばかり付き合うとるけん、こうなるとじゃ」

 町田梅子は少し考えて話を整理し、平林に確認した。

「なるほど……要は、その友也さん名義の車が、既存の駐車スペースを保管場所として登録してあるために、マユミさんの購入したAI自動車の保管場所証明書が取得できないので、マユミさんへの新車の名義変更が出来ない、そういう事ですね」

 平林マリは何度も大きく頷いた。

「そうです、そうです。さすがは美空野先生とこの弁護士さんじゃ。頭が、よかあ」

 町田梅子はホログラフィー・キーボードの上で指を動かしながら尋ねた。

「ウチへは、どなたかの紹介で?」

 平林マリは首を横に振る。

「いやいや。ずううっと悩んどったけん、思い切って訪ねてみたとです。孫のためじゃ、どうせなら、日本で一番立派な事務所の先生に頼んじゃろと思うて。テレビで見たばってんが、やっぱり、有多町の弁護士さんのビルは、立派じゃねえ。ひったまがったが」

 町田梅子は顔を顰めた。

「玉が、あが……? ええと……とにかく、よわりましたね。息子さんと連絡がつかないのでは」

「でしょ。先生、助けてつかあさい。車が無かと、マユミは仕事に行けんとです。遠かばってんが。ウチには車が無かけん、とにかく車が無かと、どうにもならんですが。マユミもようやく、運転免許を取ったばかりじゃし、その祝いにと思うて、貯金をぜーんぶ叩いて、新車を買うてやったとに、肝心の物が手元に来んち言いますがね。どういうこつですかね、これは」

 町田梅子が平林の奇妙な方言を必死に聞き取ろうと集中していると、彼女の嗅覚が強い香水の匂いを察知した。振り返ると、小彩が相談ブースの入り口の所に立っている。町田梅子は前を向き、平林に言った。

「ちょっとすみません」

 席を立った町田梅子は、小彩の所に行った。小彩麻子は言う。

「先生。美空野所長が、お呼びです。すぐ、来るようにと」

「あ、うん。わかった」

 町田梅子は相談ブースの中に戻り、元の椅子に座った。平林マリが言う。

「なんか、忙しかみたいじゃね。さすが、日本一の先生達じゃ。そりゃ、何ですか。ホロ何とかって奴ですかね」

 平林マリは机の上の立体パソコンを指差した。町田梅子は早口で答える。

「ホログラフィーです。あの、とにかく、少し検討してみますので、後日、もう一度来てもらえますか。日程と時間は、向こうの事務員と話して下さい。じゃあ、今日のところは、これで」

 町田梅子は軽く一礼すると、急いでホログラフィーを閉じ、席から腰を上げた。平林マリは精一杯の笑顔を作って、町田に言った。

「ああ、どうも、忙しい中、本当に有難うございました。いやあ、少し、気がホーっちしました。よかったあ」

 町田梅子は意図的に微笑んで見せると、立体パソコンを二個の菓子折りの上に載せ、それを下から全て抱えて、相談ブースから出て行った。



                  七

 オフィスの目の前のエレベーターの前に町田梅子が立っていた。胸の前には立体パソコンと平林から貰った菓子折りの箱を重ねて抱えている。町田梅子は所長の美空野に再度呼び出された理由を検討しながら、エレベーターの扉かが開くのを待った。

 音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。中に総務課のベテラン事務員が乗っている。

「あ、牟田さん。お疲れ様です」

 町田梅子は軽く挨拶してエレベーターに乗った。牟田明子はゆったりとした口調で言う。

「お疲れ様です」

 語尾を上げた牟田明子は、町田に尋ねた。

「先生、何階ですか」

 町田梅子は少し自慢げに答えた。

「最上階をお願いします。所長室です。また呼び出されて」

 牟田明子は何もボタンを押さなかった。町田梅子が階数ボタンに目を遣ると、最上階のボタンは既に押されている。牟田も最上階に向かうようだった。最上階には所長室と特別応接室と秘書室しかない。牟田明子は手に小包を抱えていた。牟田も所長の部屋に行くのだろうと町田梅子は思った。二人は暫らく沈黙したまま、狭いエレベーターの中に立っていたが、やがて牟田明子が口を開いた。

「あの、先生」

「はい、何でしょう」

 牟田明子は心配そうな顔を町田に向けた。

「平林さん、お引き受けいただきました?」

 町田梅子は細かく頷いた。

「ああ、ええ。今、話を聞いていたところです」

 牟田明子は表情を緩めた。

「そうですか、よかったわ。先生なら、お引き受けいただけると思っていましたの」

 町田梅子は心中で叫んだ。

 ――たかだか車庫証明手続きじゃないのよ! どうせ陳腐な案件だと思って、新人の私に回したのね。私がストンスロプ社の担当になったら、そうはいかないから。覚えてらっしゃいよ!

 しかし、牟田は総務課のお局様なので、町田梅子は機嫌を取っておく事にした。

「あの、牟田さん。それ、所長にですか?」

「え? ああ、はい。民間の速達バイク便で届きましたので、お急ぎの荷物かと思いまして……」

「私から渡しておきましょうか。行きますから」

「そうですか。じゃあ、お願いして、よろしいかしら」

「ええ」

 町田梅子がそう答えると、牟田は町田が持っている立体パソコンの上の、平林が持参した所長への菓子折りの上に、その小包の箱を載せた。箱は結構に重かった。町田梅子は箱が落ちないようにバランスを取りながら、その小包の箱の宛名書きに目を遣った。送り主の欄にアルファベットが一文字だけ記載されている。町田梅子は首を傾げた。

「T? 誰ですか?」

 牟田明子も首を傾げた。

「さあ……所長には、いろいろな方から贈り物が届きますから」

 そして、荷物で両手が塞がっている町田に耳打ちした。

「いろいろな女性からも」

「――ああ……」

 町田梅子は怪訝な顔をした。町田は美空野が既婚者である事を知っていた。眉間に皺を寄せて、一番上の荷物を見つめている町田の顔を見て、牟田明子は吹き出した。

 町田梅子は不機嫌そうな顔を牟田に向ける。

「何がおかしいんです?」

 牟田明子は、顔の前で手を大きく一振りして答えた。

「だって、先生が、あんまり深刻そうなお顔をされるものですから。フフフ」

「私の深刻な顔、おかしいですか」

「いえ、別にそういう意味じゃ。きっと、西寺師町のホステスさんからですわよ。『取扱い注意』ってことは割れ物でしょうから、中はお酒か何かですわね、きっと。フフフ」

 エレベーターの扉が開いた。町田梅子は不機嫌そうな顔のまま出ていく。

「じゃあ、渡しておきます」

「すみません。よろしくお願いします」

 牟田明子はエレベーターの中から御辞儀して、ドアを閉めた。

「何なのよ、もう。馬鹿にして!」

 町田梅子はそう吐き捨てると、重ねて持った荷物のバランスを取りながら、毛並みのよう絨毯の上を所長室まで歩いて行った。

 両開きの木彫りのドアの前に立つと、町田梅子は大きな声で言った。

「町田です。お呼びでしょうか」

 返事が無い。彼女はもう一度言った。

「あのお、町田ですけどお」

 やはり返事はなかった。町田梅子は立体パソコンを握った手の指でドアノブを動かし、片方のドアだけを腰で押して開けた。

「失礼しまーす。よっ……」

 お尻で強めにドアを押し、奥に開ける。部屋の中を見回したが、誰も居なかった。

「何よ、何度も人を呼び出しといて、居ないの? もう……」

 部屋の中に入っていき、応接テーブルの上に荷物を置く。一番上の小包を横に置いて、その横に菓子折りを並べた。町田梅子が立体パソコンを小脇に抱えて体を起こすと、入り口の両開きの木彫りのドアが中央から左右に勢いよく押し開けられた。向こうから所長の美空野朋広が、胸を張って速足で入ってくる。彼は町田を見つけると、その横を通って自分の執務机に向かいながら言った。

「やあ、町田君。来てたか。何度も呼び出して、すまんね」

 町田梅子は振り返り、応接テーブルの上の小包に手を伸ばしながら言った。

「あ、総務の牟田さんから預かりました。先生へのお荷物……」

「ああ、いいよ。それ、そのまま、そこに置いておいて」

 町田梅子は小包に近づけた手を引っ込めた。すると、美空野朋広は言った。

「その隣のは?」

「先ほど新規でご相談にみえたお客様が、お持ちになったものです。所長にもと」

「僕にも? 受任してるのは、弁護士法人だよね。君にも何か持ってきたの?」

 美空野の口調が厳しくなったので、町田梅子は声を小さくした。

「はあ……同じ菓子折りを……」

 町田の答えを聞いて、美空野朋広は眉間に皺を寄せた。

「で、君は受け取ったのかね。いかんねえ、依頼人に気を使わせちゃ。依頼人は着手金と報酬金を支払っているんだよ。その他に余計な負担をかけちゃ駄目じゃないか」

「すみません……」

「まあ、いい。それで、何だった」

「ええと、『特選賄賂わいろ饅頭』です」

「そうじゃなくて、相談の内容だよ。どんな話だったのかね」

 少し慌てた町田梅子は、立ったまま、立体パソコンを左手で支えて、ホログラフィーの相談用紙を表示しようとしながら、記憶している相談内容を報告した。

「ああ、ええと、お孫さんに購入した新車の名義変更手続が出来ないとかで。所在不明の息子さん名義のAI自動車が駐車場に停めたままになっているそうで……」

 美空野朋広は肘掛け椅子の背もたれに身を倒しながら、町田の顔を見据えて言った。

「そう……それで、あれから二時間近く経っているが、ストンスロプ社の和解案の構想は浮かんだかね」

 パソコンから美空野に視線を移した町田梅子は、答えた。

「あ、いえ、まだです。これから、訴訟資料を……」

 美空野朋広は、更に厳しい顔になった。

「私は小彩くんのパソコンにデータへのアクセスキーを送ってあるよ。君、まだ、訴訟資料データにアクセスしてないの」

 町田梅子は首を竦めた。

「すみません。すぐやります」

 美空野朋広は大きく嘆息を漏らすと、町田の顔を見て言った。

「あのね。君、分かっているかな。これは、日本が世界に誇るグローバル企業『ストンスロプ社グループ』の訴訟案件だよ。そして、相手は時吉浩一だ。司時空庁相手に一歩も引くこと無く勝利と名声を勝ち取った敏腕弁護士だ。だからこの訴訟は、業界では結構、皆が注目している。その訴訟案件の和解交渉を、私は君に任せると言ったんだ。君、これに失敗したら、弁護士業界で笑いものになるかもしれないよ。まあ、弁護士として食っていくのは難しくなるんじゃないかな。一方で、和解を上手くまとめられれば、合格点だ。あとは、ストンスロプ社の利益をどれだけ実現できたかだよ。それによって、依頼人からの信頼度が決まる。分かるかね。失敗すれば決定的に信用を失うが、成功すれば、厚い信頼を勝ち取る事ができる、そういう案件なんだよ。依頼人からも弁護士業界からもね。君も、『背水の陣』の心構えで望まないといけないんじゃないかね」

「はい。……」

 下を向いている町田に美空野朋広は更に発破を掛けた。

「相手方の気が変わらないうちに、早く和解案を提示して、こちらのペースに持ち込まないといけないんじゃないの?」

「はい。大至急、取り掛かります」

「うん。中途半端な気持ちでいては、困りますよ」

 町田梅子は立体パソコンを小脇に抱えると、一礼して、振り返ろうとした。美空野朋広が呼び止める。

「ああ、それとね。今呼んだのは、君に助け舟を出そうと思って呼んだんだよ。まだ、訴訟資料にも目を通していないんじゃ、しょうがないが……」

 町田の顔を見ていた美空野朋広は、背もたれから身を起こして言った。

「デット・エクイティ・スワップさ」

「……」

 町田梅子は眉間に縦皺を刻んだ。「デット・エクイティ・スワップ」とは、新株式の発行方式の一つで、株式の発行対価として金銭以外のものを提供する「現物出資」と呼ばれる支払い方法のうちの一つであり、株式を発行する会社に対する金銭債権で、かつ、弁済期が到来しているものを、その会社の負債の帳簿価格以下で出資、すなわち、株式取得の対価として支払う方法である。実質的には、株式払込金と債権の相殺に等しい取り引きだ。

 町田梅子は目を丸くして、美空野に確認した。

「アキナガ・メガネに債権を提供させるんですか。すると、所長は、実質的な和解対価は、株式の発行でとのお考えで」

 美空野朋広は頷いた。

「うん。まず、和解条項の前半で、これまでの特許使用料に相当するこちらの和解金支払額を決めて、アキナガ・メガネとの間の債権債務関係を確定させる。支払い方法の条項は、通常通り。支払期日は本件和解契約の成立日とする。但し条件として、今後のこちらの技術使用には、一切文句は言わない。互いに訴訟は取り下げる。そして、後半で、確定させた和解金債権の提供さ。アキナガ・メガネがストンスロプ社に和解金請求債権を提供すれば、アキナガ・メガネに対し、その何割減かの価格分のストンスロプ社の新株式を発行する。簿価を下回る額での提供だから、そうなるよね。これなら、ストンスロプ社も金を払わなくて済むし、アキナガ・メガネの資産も増える。ウィン・ウィンの関係だ。まとまり易いんじゃないかね」

 町田梅子は視線を落として考察しながら呟いた。

「安定的に株価を上げているストンスロプ社の株式なら、提供する債権価額より目減りした価格の発行数であっても、やがて株価は上昇し、最終的には和解金額よりも評価額が高くなる……」

 美空野朋広は片笑んだ顔で大きく頷いた。

「そうだ。相手に損はない。アキナガ・メガネとは業務提携という形で、世間に発表すればいい。アキナガ・メガネがGIESCOでの開発商品に、自社の透過式フォトダイオードの集積技術の使用を全面的に承諾したと。そしたら、ストンスロプ社株の株価は、一晩で跳ね上がるだろう。そうなれば、アキナガ・メガネにとっても、いい話じゃないか。妥当な結論を導きだせると思うが、どうかな」

 顔を上げた町田梅子は、首を縦に振った。

「そうですね。理想的です」

 美空野朋広は椅子に座ったまま机の上に身を乗り出して、町田を指差した。

「だろ。じゃあ、今の筋書きにそって、文面を起案してみてくれるかな。私は、予めの手を打っておくよ」

「予めの手ですか?」

「マスコミだよ。アキナガ・メガネの背中を押してもらうのさ。テレビでニュース・キャスターをしている、藤崎莉央花。あのニュースを放送しているテレビ局もウチの顧問だからね。彼女は今、一番の売れっ子キャスターだ。彼女に会って、話をしてみようと思っている。それと、もう一人は、ええと……」

 机の引き出しから二枚の名刺を取り出した美空野朋広は、それらを見比べると、一枚を引き出しに仕舞い、手に持ったもう一枚を反対の手の指で弾きながら言った。

「週刊新日風潮の山野紀子編集長。新日風潮は、時吉総一郎の女性スキャンダルを記事にした週刊誌だ。そこの文屋さん。いや、記者さんだな。いかん、いかん」

 町田梅子は怪訝な顔をした。

「山野さんって、たしか、この前の拉致監禁事件の被害者の方では……」

 美空野朋広は名刺を机の上に放り投げた。

「そう。例の津田長官を証言台に呼んだ裁判の、時吉先生の依頼人でもある。彼女の協力も得られれば、君の時吉との交渉も、少しは楽になるだろうと思ってね」

 町田梅子には美空野の妙策が理解できず、怪訝そうな顔を崩せなかった。その時、美空野朋広が宙を見上げた。彼は町田に掌を向けると、反対の手でポケットからイヴフォンを取り出し、ネクタイに挟んだ。左目を金色に光らせた美空野朋広は、イヴフォンでの通話を始めた。

「俺だ。なんだ」

 暫らく険しい顔で黙っていた美空野朋広は、急に大きな声を出した。

「なんだって? まったく、何をやってるんだ……。分かった、とにかく、対処を検討しよう。三十分後に掛けなおしてくれ。指示する」

 美空野朋広は急いでイヴフォンのボタンを押し、右手でネクタイから外すと、それをポケットに仕舞いながら、左手の純金製の腕時計を見た。

「よわったな……」

 そう呟きながら顔を顰めた美空野朋広は、応接ソファーの横に立っていた町田に顔を向けて言った。

「知人の車が事故を起こしたようでね。君、山野記者と会ってもらえるか。私はこれから、事故の対応をせんといかん。予定では、この後、伊文銀行の頭取と会う約束なんだが、キャンセルだな。例のフィンガロテル社の件の話もせんといかんと思っていたんだが……。夕方からは有働前総理と会食だ。合間で事務所に戻ってから、会食の前に、新日のビルに立ち寄るつもりだったが、これじゃ、時間が押して無理だ。藤崎さんとは私が話しをしてみるから、君は山野さんと話してもらえるか。とりあえず、さり気なく情報を伝えるだけでいい。ああいう連中は、自分たちから餌に食らいついて来るからね」

 町田梅子は不安そうな顔で頷いた。

「分かりました」

 美空野朋広は町田の顔を見据えて言う。

「悪いね。急な話なのに」

 町田梅子は顔を上げ、胸を張った。

「いえ。フットワークは軽い方ですから。気になさらないで下さい」

「そうかね。助かるよ。君のような弁護士に居てもらえて幸いだ。他の連中は腰が重くていかん」

 町田梅子ははっきりとした口調で言った。

「とにかく至急、訴訟資料に目を通して、先方とはアポをとってみます」

「いや、アポをとってから、資料に目を通しなさい」

「はい。そうします」

 一礼した町田梅子が振り向こうとすると、また、美空野が呼び止めた。

「それから、さっきのAI自動車。あれ、車種は何だね」

「平林さんの件ですか。新規のお客様の。ええと……ベンツだそうです」

「走るのか」

「さあ。でも、AIには問題ないと仰っておられましたが……」

 美空野朋広は腕組みをしながら天井を見上げた。

「そうか。AIが生きていれば、使えるな。中古でも高く売れる。職務上請求書を使って、その所有者である息子さんの住民票を取得しなさい。その記載と実体が一致せず、息子さんが所在不明という事が確かなら、息子さんに対してお祖母ちゃんから、お孫さんの養育費支払請求訴訟を提起すればいい。所在不明なら、公示送達で、期日も一回で終わりだ。判決が確定したら、その判決書を債務名義にして、そのAIベンツを差押えてしまいなさい。競売にかける時に、執行官がレッカー・ロボで持っていってくれる。空いた駐車場で、改めて車庫証明を取ればいいし、売却代金から執行費用を差し引いた残りを、ウチの報酬とさせてもらえば、有り金叩いて新車を買ったお祖母ちゃんにも、金銭的な負担を掛けないで解決できる。どうだろう」 

 一瞬、首を傾げた町田梅子は、少し考えてみた。

「……! なるほど。ありがとうございます」

 町田梅子には妙計に思えた。確かに、それなら平林マリに更なる経済的な負担を強いる事なく解決できる。

 嬉しそうに笑みを浮かべる町田梅子に、美空野朋広は人差し指を振った。

「その代わり、着手は後だ。着手金も貰っていないし、今は、ストンスロプ社の和解が最優先だからね。いいね」

「はい。早速、とりかかります」

「うん。頑張ってくれたまえ」

 町田梅子は振り返ると、両開きのドアへと向かい、片方のドアを開けて外に出た。そして、大きな声で言う。

「失礼します」

 町田梅子は両開きのドアの片方を閉めると、小走りでエレベーターへと向かった。



                  八

 自分のオフィスに戻り新日風潮社に連絡を入れた町田梅子は、執務机の立体パソコンで、データ・サーバーからストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の訴訟資料を検索した。空中に広げた資料ファイルのホログラフィーの頁を捲りながら、訴訟の進行と法的主張の構造を読み解いていく。

 そうして概略を把握し終えた町田梅子は、小彩に指示し、そのデータを自分の携帯用の薄型立体パソコンに転送させると、その立体パソコンを鞄に入れた。重く分厚い鞄を肩に掛け、町田梅子はオフィスを出て行く。すぐ目の前のエレベーターに乗り、一階に下りた。エレベーターの扉が開くと、町田梅子はキリリと知的な顔を作って、総務フロアへと歩み出て行った。長いカウンターに沿って歩いていると、カウンターの向こうの総務スペースから牟田明子が声を掛けた。

「あ、町田先生」

 町田梅子はピタリと足を止めた。牟田明子はカウンターの方に静々と歩いてきて、カウンター越しに町田に尋ねた。

「小包は渡していただけました?」

 町田梅子は牟田に顔だけを向けて返事をした。

「ええ。ちゃんと」

 牟田の向こうでは、総務課の事務員たちが銘銘の湯飲みやカップを持って、雑談しながら、札束の形をした饅頭を食べていた。「特選賄賂饅頭」だった。牟田の右手にも握られている。町田の視線に気付いた牟田明子が言う。

「さっきの平林さんから頂いたものですのよ。ちょうど三時なんで、休憩で頂いてました。先生も、お一ついかがです?」

「いえ。出かけないといけませんから。それに、私の方にも別に一箱、頂きましたので」

 牟田明子は眉を寄せた。

「そうでしたの。律儀な方ですわね。こちらでも必死に訴えてらしたけど、何でも、自動車の名義変更が出来ないとか。難しい事案でもないでしょうから、先生、力になってあげて下さいね。連絡などの手配でよければ、私達でもご協力できますから、何なりとお申し付け下さい」

 また語尾を上げた牟田に、町田梅子は若干、イラッとした。しかも、平林の事案は、牟田が言うほど簡単ではない。駐車してある自動車の所有者の住所確認はともかく、その後に裁判提起と強制執行手続を予定している。弁護士としては、結構に手間の掛かる事案だ。そのような事案に、一介の総務課の事務員に協力するなどと軽口を叩かれた事に加え、美空野所長から注意された「依頼人の過度の気配り」を、何の気兼ねも無く手に取り、満足気に食している事務員たちの姿が、町田に更に苛立ちを募らせ、怒りを増幅させた。町田梅子は、少し棘のある口調で、牟田に返した。

「必要な事は上でやります。弁護士は、もっと深く思量して、解決手段を検討しなければなりませんから。依頼人に余計な負担を掛けないように、気をつけないといけないので」

 若い町田梅子にとって、年長者の牟田に対して言うには、それが精一杯であった。町田から突然きつい言い方をされた牟田明子は、「特選賄賂饅頭」を握ったまま、キョトンとしていた。

 町田梅子は両肩を上げて速足で、大きくヒールの音を鳴らしながら、エントランスへと歩いていった。

 美空野法律事務所ビルから出てきた町田梅子は、暫らく通りの歩道の上を歩き、地下リニアの財務省下駅への入り口の階段を下りていった。長い地下道を歩いて、地下リニアの駅に辿り着くと、ホームに立って地下リニアを待った。すると、彼女の視界にイヴフォンの着信を知らせる表示が浮かび、頭の中に着信音が響いた。町田梅子は上着の内ポケットに挟んだイヴフォンをブラウスの胸元に付け直し、通話ボタンを押した。町田梅子の左目が黄色く光り、視界に美空野の姿が浮かぶ。

「はい。町田です」

『ああ、町田君か。今、どこかね』

「財務省下駅のホームです。これから、新日ネット新聞ビルに向かうところです」

『そうか。じゃあ、手短に言おう。山野さんとの話が終わったら、その足で樹英田きえた町にある真明教の首都圏施設本部に向かってくれ。不法侵入者によって、信者が怪我をさせられたらしい。君に、刑事告訴の手続をしてもらいたい』

 町田に向かって指を振る美空野の像の後ろに、音も無くホームに入ってきたリニア列車の姿が見えた。ホームに列車の到着を知らせるアナウンスが響く中、町田梅子は慌てて右手をイヴフォンに添えると、早口で美空野に言った。

「分かりました。こちらが終わったら、すぐに向かいます。リニアが来ましたので、もう切ります。失礼します」

 町田梅子はイヴフォンのスイッチを押して通話を切った。ブラウスから外したイヴフォンを上着の内ポケットに入れながら溜め息を吐く。目の前の強化アクリル製の安全壁と共にリニア列車の乗降口の扉が開いた。町田梅子は肩に食い込む重い鞄のベルトを握り、それを掛け直すと、リニア列車の中に入っていく。ステンレス製の棒に掴まった町田梅子は項垂れた。

「さらに、もう一件追加ですか。なるほどね……」

 ドアが閉まる。町田梅子が乗ったリニア列車は、地下の暗く長いトンネルを奥へと走っていった。



                  九

 新日ネット新聞ビルに着いた町田梅子は、一階ロビーの受付嬢に説明して、週刊新日風潮の編集長、山野紀子との面会を申し入れた。ロビーの水槽の太った黒い鯉を観察しながら暫く待っていると、受付嬢から、エレベーターで上の新日風潮社が入っている階に行くよう案内された。町田梅子は、その通りに移動した。幾つか並ぶエレベーターのうちの一つに乗る。彼女はエレベーターの中で、話の進め方を何パターンも組み立てた。相手は報道機関の編集長である。慎重を尽くさねばならなかった。所長の美空野は、これから会う人物を味方に付けろと言っていた。どのように話を切り出せばいいか。自分には未だ美空野のような巧妙な会話術は備わっていない。それなら、正面から行こう。嘘の無いように、正面から話して、理解を求めてみよう。その方がかえって、信頼関係を築くきっかけになるかもしれない。しかし、内容は天下のストンスロプ社の和解交渉に関わる事だ。迂闊に全容を話してしまう訳にはいかない。では、どうやって話すべきか。相手は取材のプロだ。こちらも用心しなければならない。とりあえず、今日は和解の段取りを整えている事実を伝えよう。相手の食い付き方次第で、こちらから、依頼人に有利となる情報を提供する。相手の食い付き方次第だ。それによっては、こちらがイニシアチブを取れる。相手の報道の自由を害さないようにして、報道について、こちらでイニシアチブを取らなければならない。なんとしても。町田梅子は、そう考えていた。

 所定の階でエレベーターを降りると、エレベーターホールから直接、広い廊下が延びていた。そこを少し歩くと、壁の途中にある真新しいドアが目に付いた。町田梅子はその前で立ち止まり、周囲を見回す。ドアの横の壁には、「週刊新日風潮編集室」という表札と、新品の電子ロックの認証機械、旧式のインターホンが設置されていた。老舗の大手週刊誌の会社だけあって、セキュリティーも万全である。そのインターホンが、えらく旧式であるのが気になった町田梅子は、ここの記者たちが記事にしていた「AB〇一八」の暴走の事を思い出した。

 ――やはり、ここの記者たちは本気でそう思っているのね。もしかしたら、時吉弁護士が携帯電話を持たなかったり、固定電話を非デジタル式にしているのは、そのためかもしれないわね。

 一瞬、そう考えた町田梅子は、冷静に思考し直した。

 ――いや、あのボンボン弁護士は、ただの拘りと道楽で「黒電話」にしているだけ。この旧式のインターホンも単なるパフォーマンスかもしれない。週刊誌の売上げを伸ばすために、記事の信憑性を高める効果をねらった演出かも。だけど、そうであれば、細部にまで目が行き届いているという事ね。とにかく、ここが発行する「週刊新日風潮」は、綿密な取材と偏らない客観的な記事で定評がある。記者たちも、相当な論客達に違いないわ。その記者たちを束ねる編集長なら、かなり手強い相手であるはず。表現の自由を盾に距離を置かれたら、かえって時吉弁護士との和解交渉が拗れるかもしれない。シビアな会話になるわね。気を引き締めてかからないと……。

 町田梅子は、真剣な顔で認証機械の横のインターホンのチャイムを押した。

『はーい』

 インターホンのスピーカーから、男の声が返ってきた。町田が名乗ろうとすると、男は話し始めた。

『あのなあ、ユナユナ。いい加減に覚えろよ。社員証を横の認証機械に翳すの。別に最新式のシステムでもないだろ、それ』

 続いて、若い女の声が聞こえる。

『ちょっと、別府先輩。ユナユナの指導は、私の役なんですけど』

『だったら、ちゃんと指導しろよ。俺はハルハルにちゃーんと指導してるだろ』

『ですかね。――あ、いや、はい。そうですね。感謝してます』

『ほら、早く指導しろよ。ハルハル先輩』

 少し間が置かれ、その若い女のわざとらしい咳払いが聞こえる。

『ゴホン。あー、ユナユナ。君、ちょっと、社会人として、たるんでるんじゃないかな。そんな事してると、編集長のお腹みたいに……痛っ』

 何かを叩く音の後、威勢のよい、少し低めの、年配の女の声がした。

『誰の腹がたるんどるんじゃ。遊んでないで、いいから、さっさと開けてきなさい』

『はーい。――別にインターホンは付けなくてもよかったんじゃ……』

 町田梅子はインターホンのマイクに向かって話した。

「あの……すみません。お電話した、弁護士の町田ですが」

『……』

 暫らく返事が返ってこなかった。

 長い沈黙の後、またインターホンのスピーカーから、さっきの男の慌てる声がする。

『編集長、大変です。弁護士です。弁護士ですよ!』

『聞こえてるっつうの。うるさいわねえ』

 その年配の女の声に続いて、若い女の声が聞こえた。

『やっぱり、ライトさんの件ですかね。だったら私が話を……いたっ。どうして、いつもポカポカと……』

『さっき美空野先生の代理で来るって電話してきた美空野法律事務所の弁護士さんよ。あんたが出ても仕方ないでしょ。それに、ライトの件じゃないわよ。秋永訴訟の事ですって』

『秋永訴訟? なんでウチに来るんですか。それ、上の神作さん達の記事ですよね』

 スピーカー越しでも、男が困惑している様子がよく分かった。すると、若い女の大きな声が響いた。

『ああー! もしかして、私の記事かも。秋永社長のインタビュー。なんか、問題でもあったのかな……』

『いつの話してるのよ。八月でしょ、それ。美空野法律事務所の弁護士が、そんなにのんびりしている訳ないじゃない。結構、ガツガツした弁護士ばっかりだって話よ、あそこ』

 落ち着いた年配の女の声に続いて、男の声が聞こえる。

『連中、金になると思ったら、すぐに訴えてきますからね。頭の切れる守銭奴集団。うわあ、最悪』

 町田梅子は溜め息を吐いて、また、インターホンのマイクに顔を近づけた。

「あの、聞こえてますけど……」

『……』

 再度の沈黙の後、若い女の慌てた声がスピーカーから聞こえる。

『編集長お、通話ボタンがオンになったままですよ』

『押してるのはハルハル、あんたでしょ! だから旧式のインターホンなんて要らないって言ったのよ』

『編集長が買えって言ったんじゃないですかあ。いちいちドアを開けにいくのが面倒くさいって』

『仕方ないでしょ。ドアを替えた時の予算が余ってたんだから。ものはついでよ』

 スピーカーから聞こえ続ける会話を聞きながら、町田梅子は首を傾げた。スピーカーからは、まだ、若い女の声が聞こえている。

『とにかく、どうします? お茶は別府先輩が入れるとして、前みたいに、私と編集長で話を聞いて……』

『どうして僕がお茶を入れるんだよ』

『そうよ。同じ事して、この前みたいに大変な事に発展したら、どうするのよ。縁起悪いでしょ』

『そういう問題ですかね。それに、僕、まだ編集長代理兼務なんですけど』

『大丈夫ですよ。今回は、秋物の上着ですから、ちゃんとポッケに名刺入れを……あれ? 

 名刺入れ、名刺入れ……』

『ていうか、ハルハル! 早く通話をオフにしなさいよ。いつまでボタン押してんのよ、あんた!』

『ああー! すみません!』

『――』

 スピーカーからの音がしなくなった。

 町田梅子は、その真新しいドアの前に立ったまま、呟いた。

「結局、このドアは開けてくれないのかしら……」

「どうしました?」

 落ち着いた低い声に町田が振り向くと、そこに、三脚を肩に担いで、反対の肩に一眼レフのデジタルカメラを提げた、すらりと背の高い若い女が立っていた。町田梅子は目の前の真新しいドアを指差しながら言った。

「あ、その……。開けてくれるのか、開けてくれないのか、はっきりしないもので」

 その長身の女は、首に提げた社員証を壁の認証機械に翳すと、ドアを奥に開けた。

湯名原ゆなはらです。只今戻りました」

 鈍い音がした。その女よりも背が低い、少し若い男が、額を押さえながら顔を出した。

「いってえ。急に開けるなよ」

「ああ、別府先輩。すみません。あの、お客さんが……」

 その男の後ろから、秋物のジャケットを着た小柄な若い女が出てきて、町田に言った。

「あ、美空野法律事務所の弁護士の方ですか。どうぞ、どうぞ。ほら、ユナユナ。邪魔。社会人はボーっとしない!」

 その若い女に案内されて、町田梅子は細い廊下を進んだ。もともと幅が狭い廊下が、壁際に積まれた段ボール箱で更に狭くなっている。突き当りの奥が編集室のようだった。有名雑誌の編集室にしては、随分と狭い。若い女は、左側の壁のドアを開け、中に入るように促した。町田梅子が中に入ると、そこは広い応接室で、部屋の中央には、低いテーブルを挟んで、三人掛けの革張りの応接ソファーが向かい合わせに置かれていた。その応接セットの横に、スーツ姿の年配の女が立っている。町田梅子は肩に掛けた分厚い鞄から名刺入れを取り出すと、それから出した名刺を差し出した。

「弁護士の町田です」

 その年配の女は、町田の名刺を受け取ると、自分の名刺を差し出して言う。

「編集室長の山野です。どうぞ、お掛け下さい」

 週刊新日風潮の編集長山野紀子やまののりこは、応接ソファーの方を手で指した。二人は椅子に対座する。長いソファーの中央に腰掛けた町田梅子は、姿勢を正して山野に言った。

「お忙しいところ、申し訳ありません。美空野が伺う予定でしたが、所用で来られなくなりました。代わりに私が行くように指示されましたので」

「いえいえ。美空野先生は、あのストンスロプ社の顧問を務める、日本屈指の巨大弁護士法人の代表者でいらっしゃる方ですから、お忙しいのは存じ上げています。弊社のような週刊誌の編集室長との約束を後回しにされても、仕方ありませんわ。おホホホホホホ」

 山野紀子は口元に手を当てて、無理に高い声で笑った。しかし、その目は笑っていない。すると、入り口のドアが開いた。さっきの秋物のジャケットの若い女が、お盆に湯飲みを載せて運んでくる。彼女は町田の前のテーブルの上に、茶托に載せられた蓋付きの湯飲みを静かに置くと、続いて、表面に棘が幾つも出ている素焼きの茶色い湯飲みを山野の前のデーブルの上に置いた。それを見た山野紀子は、いきなり怒鳴った。

「コルァ、ハルハル! お客様の前で、こんなトゲトゲ湯飲みにお茶を注いでくる奴があるか。入れ直っし!」

 胸の前で丸いお盆を抱えた若い女は、口を尖らせた。

「ええー。でも、編集長は、朝美ちゃんが学校の工作の時間に作ってくれた、その湯飲みじゃないと飲まないって、いつも言ってるじゃないですか」

「うるっさい! いいから、入れ直し。口答えすんな! はい、さっさとUターン」

「はあ……」

 若い女性は、渋々、その棘だらけの湯飲みをお盆の上に戻すと、トコトコと歩いて、応接室を出て行った。彼女が退室すると、山野紀子は口元に手を添え、再び声のトーンを上げた。

「御免あそばせ。あの子、まだ、教育中ですの。おホホホホホホ」

 町田梅子は、その話には乗らずに、すぐに本題に入った。

「美空野からお聞きになられているかもしれませんが、ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の訴訟の件について、報道上のご協力を頂けないかと思いまして……」

「報道上の協力?」

 山野紀子は眉間に皺を寄せた。それを見た町田梅子は、すぐに会話の舵をきる。

「いえ。何か御社の報道内容に注文を付けるとか、要求するという事ではありません。今回、私が和解交渉の代理人を務めさせていただく事になりまして、世間の注目も集めている事件でありますので、報道関係者の方々には、私の方からご挨拶しておこうと思ったものですから」

 山野紀子は怪訝な顔をした。

「和解を? あの特許訴訟で、和解するつもりですか?」

 町田梅子は頷いて見せた。

「ええ。ここだけの話ですが、水面下で交渉を開始するべく、時吉弁護士とも確認したところです。これから、本格的交渉になりますが……」

 山野紀子は首を傾げると、更に怪訝な顔をして、町田に尋ねた。

「どうして、そんな話を? 水面下で交渉を進められるおつもりなら、我々に知られない方がいいのでは?」

「いえ。どちらにしても、時吉弁護士からそちらに情報が発せられるかもしれません。それでしたら、私の方も窓を開いておいた方がいいと思いまして」

「なるほど。報道する際は、双方に確認してから正確に報道して欲しいと、そういう事でしょうか」

 町田梅子は深く首を縦に振った。彼女は説明する。

「このような和解交渉では、当事者の信頼関係に亀裂が入ると、本来まとまる話も、まとまらなくなってしまいます。特に、大きな交渉案件では、当事者の主張は相手の対応や話の流れで、局面局面で変化します。最終的に合意内容が確定するまでは、常に流動的です。そういった状況で外部から誤った情報が届いてしまうと、当事者の間に誤解と不信を生じさせてしまう。そういった事故を防ぐための対処のつもりです。御社にとっても、正確な報道をするための対策は、何ら問題のある事ではないと考えましたので、とにかく、まずはご挨拶にと思いまして、伺いました」

 山野紀子は、机の上に置いた町田の名刺を覗き込んで読み返しながら、町田に言った。

「ふーん。でも、時吉先生も存じ上げていますが、受任した事件について、私や他の者に話をするような軽い弁護士ではないですわよ。それに、弊社も取材には細心の注意を払って、何度も多方面から裏取りをして、誤報のないように務めています。どうして、わざわざそんな事で、ここに?」

 町田梅子は口角を上げると、顔の前で左右に手を振ってから言った。

「いえ。今、山野さんが仰られた事は、私も認識しています。ただ、もし、御社のような調査能力の優れた報道機関が、この和解交渉の事実を察知された場合は、まずは遠慮なく、私の方にご確認いただければと思いまして」

「勿論、そうさせてもらうけど……」

 眉を寄せた山野紀子が何かを言いかけた時、ドアが開き、さっきの若い女性が、蓋付きの湯飲みを乗せたお盆を持って入ってきた。それを見た山野紀子は、再び表情を変えた。

「コルァ、ハルハル。入る時は、ノックくらいせんか!」

 その若い女性は速足でお盆を運んできて、茶托に乗った蓋付きの湯飲みを山野の前に置くと、蓋を取って、湯飲みを山野に手渡した。山野紀子は不思議そうな顔をしながらも、湯飲みを受け取る。若い女は丸いお盆を小脇に抱え、腰を折って、小声で山野に耳打ちした。

「今、新志楼しんしろう中学から電話があって、ごにょごょごょ……」

 少し眉を寄せて話を聞いていた山野紀子は、急にその女から頭を離すと、顔を顰めた。

「はあ? 何を」

 その若い女は、山野が握っていた湯飲みの前で手を上に振り、山野に湯飲みのお茶を飲むよう勧めた。山野紀子は怪訝な顔で湯飲みのお茶を飲む。口の前で湯飲みを傾けている山野の耳元で、その若い女は囁いた。

「国防兵器です」

「ブッ」

 客人の前でお茶を吹き散らした山野紀子は、慌てて湯飲みを若い女に預けると、スカートの上の水滴を手で払いながらソファーから立ち上がった。そして、深刻な顔で町田に言う。

「ごめんなさい、町田先生。ものっっすごく重大な事件が起こったみたいなの。大至急、行かないといけないから、私はこの辺で。後は、この春木陽香はるきはるか記者が話を聞くから。ウチのエースだから、遠慮せずに何でも話してちょうだい。じゃ、私、行くわ」

 山野紀子は春木の肩を叩くと、そのままドアの方に駆け出し、外の廊下へと出ていった。応接室のドアは開けられたままだった。眉間に皺を寄せて山野を目で追っていた町田梅子は、その視線を春木に向けた。春木陽香は湯飲みを握ったまま、丸いお盆を頭の後ろに当てて、町田に愛想笑いをする。

「あははは。春木でーす。エースでーす。どうもー」

 町田梅子は、右手の人差し指と親指で眉間を摘みながら、俯いた。その町田の様子を見て、春木陽香は、お盆を持った手でドアの方を指しながら言った。

「あの、心配されなくても、編集長は、たぶん、戻ってきますよ。たぶん、新首都圏では一番せっかちですから」

 町田梅子は、外の細い廊下に目を遣った。壁の向こうで、さっきの真新しいドアが開く音がして、応接室の入り口の前の細い廊下を山野紀子が編集室の方に走って行く。春木が言った。

「ね。忘れ物すると思ったんですよ。すぐ手ぶらで出かけようとしますからね、いつも」

 編集室の方から、何か衝突音が聞こえた。続いて、山野の声が響いてくる。

「いったー。こんな所に三脚置くな、ユナユナ!」

 春木陽香はテーブルの上の茶托に湯飲みを戻し、蓋をして、スカートのポケットから取り出したハンカチでテーブルの上を拭きながら町田に言った。

「だけど、ものっすごく、いい人なんですよ。本当は、優しいし、真っ直ぐな人ですし、部下思いの人で……」

 廊下の方から山野の怒鳴り声が聞こえる。

「ちょっと、別府う、邪魔。退きなさいよ。急いでんのよ!」

 ハンカチと茶托の湯飲みをお盆の上に置いた春木陽香は、それをテーブルの隅に置いて、町田に言った。

「すぐにテンぱる人ではありますけど、責任感も強くて、いざという時は頼りになる上司で……」

 再び、応接室の入り口の前を、ハンドバッグを抱えた山野紀子が真新しいドアの方に走っていく。

 ソファーの、さっき山野が座っていた席に腰を下ろした春木陽香は、入り口の外の細い廊下を見ている町田に言った。

「とにかく、私たち皆が信頼している上司ですから、大丈夫ですよ。何の話か、よく分かりませんけど」

 すると、応接室の入り口から山野紀子が反らした上半身だけを出して、怒鳴った。

「余計な話はいい! ちゃんと話を聴かんかい、ハルハル!」

 そして、山野は去っていった。細い廊下の方に向かって春木が叫んだ。

「編集長お。夕方の企画会議は、どうされるんですかあ」

 壁の向こうから、山野の声が聞こえた。

「パス!」

 真新しいドアが激しく閉まる音が響く。町田梅子は唖然としたまま、目をパチクリとさせていた。スカートの中で足を組んだ春木陽香は、少し気取って姿勢を正すと、前髪をかき上げながら、眉間に皺を寄せて静かに言った。

「では、用件を伺いましょうか。私でよければ」

「あ……その……」

 町田梅子は言葉を探した。

 ――な、なんなのよ、ここ。どういう従業員教育をしてるのよ。この女と話しても仕方ないでしょ! 

 町田梅子は春木の目を見た。春木陽香はパチパチと瞬きする。町田梅子は項垂れた。そして、すぐにソファーから腰を上げると、鞄のベルトを肩に掛けながら春木に言った。

「いえ。結構です。私も次の用事がありますので、これで失礼します。では」

 町田梅子は春木に軽く一礼すると、応接室から出て行った。

 春木陽香は指を組んだ両手を膝の上に載せ、憂いに満ちた目を作って外の細い廊下を見つめながら、静かに息を吐いた。

「ふう。やっぱりね……」

 不機嫌そうに真新しいドアを開けて広い廊下に出てきた町田梅子は、ヒールの音を強く鳴らして歩き、エレベーターへと向かった。ドアが開いたエレベーターに乗ると、中に、くしゃくしゃの紙袋を持った胡麻塩頭の初老の男が乗っていた。町田梅子は、荒っぽく一階のボタンを押す。ドアが閉まり、エレベーターが下り始めた。町田梅子の血圧は上がったままである。彼女は、ブツブツと独り言を吐いた。

「何が老舗の週刊誌よ。こっちは忙しい中を、時間を割いて出向いてるのよ。そりゃ、国防兵器も大事ですけどね、編集長のあんたが行く必要があるのかっての。自宅に宅配便で武器でも届きましたかね。学校にミサイルでも着弾しましたか。まったく。新志楼中学って、所長の母校の、あの新志楼中学でしょ。中学校じゃない。こっちは、ストンスロプ社よ、ストンスロプ社。大事な国防兵器も作っている会社の大元。なに放り出してんのよ。企画会議はどうされるんですかあ、パス……? どこが責任感の強い編集長なのよ! こっちは取材協定の話をしに来てるのよ。いったい、なに考えてるのよ、あの人!」

 町田の後ろに立っていた胡麻塩頭の初老の男は、怪訝な顔で町田を見ていた。町田梅子は顔を紅潮させ、一人で怒っている。

「だいたい、あの二番手の女は何よ。用件を伺いましょうかあ? あんたで分かる訳ないでしょうが。歳が近いと思ってナメてんじゃないわよ。こっちは法曹よ。弁護士よ。ローヤー・プログラムを終えてんの。どうせ、あんたに、『利益衡量』とか、『積極規制』とか言っても分かんないでしょうが。何を話せって言うのよ。だいたい、顔に締りが無いのよ。一人で幸せそうな顔して。ここは職場でしょ。戦場でしょ。しっかりしなさいよ。なに『仲良くしましょうね』みたいな顔してんのよ! ――しまった。仲良くするために来たんだった。ああ、しまったあ」

 顔を手で覆った町田梅子は、横の壁に崩れるように寄り掛かった。胡麻塩頭の男は心配そうな顔で見ている。町田梅子は立ち直し、自分に言い聞かせた。

「いいや、大丈夫。問題ない。リカバリー出切るわ。もう一度、出直して、あの山野っていう編集長と、ゆっくり話せばいい。大丈夫。ここから、ここから」

 エレベーターのドアが開いた。町田梅子は腕時計に目を落としながら、速足でエントランス・ホールへと歩いて行った。向こうから小柄な中年男が歩いてくる。男は町田の後からエレベーターを降りてきた初老の男に手を振っていた。町田梅子はエレベーターの中にもう一人乗っていたのに、長々と独り言を吐いた事を気にして、その中年の男とすれ違うと、背後の二人の会話に聞き耳を立てながら歩いた。中年の男は言っている。

「ああ、しげさん。お疲れです。お、今日は重さんですか」

「ああ、上野デスク。弁当のカラ揚げが残ったからね。食うかね、あいつ」

「油モノはどうですかね。まあ、昨日、永峰がカレーパンの欠片を入れたら、食べたって言ってましたけど」

「そうですか。いやね、永山ちゃんが、魚のフライの尻尾とか、蒲鉾の切れ端とかは、共食いになるから駄目だって言うからさ。神作ちゃんは、太り過ぎだから餌は控えろっていうしな。だけど、毎朝前を通る度に、こっち見て口をパクパクされると、何だか腹減ってるんじゃないかと思えてね。つい」

「でも、まあ。風潮の連中も餌やってるみたいですから、確かに太ってますよね。そのうち、水槽に入りきらなくなるんじゃないですか」

「うーん。米にするか。日本だからな。鯉も米食って日本魚らしく、元気よくしてもらうか。あ、風潮って言えば、何かあったのかい? 山野ちゃんの家にミサイルが着弾したとか……」

「み、ミサイル? さあ。いくらあいつでも、自宅マンションにミサイルが飛んでくる事は無いでしょう」

「ですよなあ。いや、さっき、あのお姉ちゃんが……」

 町田梅子は速足で出口の自動ドアへと向かった。途中、水槽の鯉に目をやる。太った鯉が口をパクパクと動かし、町田を見ていた。町田梅子は鯉を睨み付けると、肩を上げてビルから出て行った。



                  十

 町田梅子は、高層ビル街の端のスカイタウン東駅から地下リニアに乗ると、時計回りに移動し、寺師町までやってきた。美空野の指示通り、真明教の首都圏施設本部に向かう為だった。町田梅子は、パンパンに膨らんだ肩掛け鞄を担いだまま、高いヒールの靴で長いホームと長い地下道を歩き、ようやく地上に出た。そして、今度はバスセンターに向かい、樹英田きえた町方面行きのバスに乗った。終点の樹英田区バスセンターの三つ前の停留所でバスを降りた町田梅子は、歩道橋を渡り、大通り沿いを暫く歩いて、コンビニエンス・ストアの前に来た。喉の渇きを覚えていた彼女は、コンビニに入ろうとした。駐車場では、大きな二足歩行型の建設用ロボットが不自然な体制で停止している。ロボットの足下には、フロントガラスが割れ、ボンネットに大きな窪みを作った乗用車が停まっていた。町田梅子は、店の入り口の前で口論をしている作業着姿の男とワイシャツ姿の男の前を素通りし、店内に入った。店の奥の飲み物が並べられている棚の前に来た町田梅子は、小さな紙パック入りの野菜ジュースに手を伸ばした。その手を戻し、数列隣の紅茶の小さな紙パックを手に取ると、レジへと向かった。大きな革製の鞄を重そうに肩に掛けた町田梅子は、紅茶の紙パックにストローを刺しながら、店を出て、口論している二人の男の前を通り、歩道に出た。ストローで紅茶を吸いながら、腕時計を見る。お昼過ぎに相談を受けた平林マリの家は、この樹英田区の外れであった。町田梅子は、真明教からの聞き取りが済んだ後、平林の家に行き、駐車場の現状と自動車の現況確認が出来ないか、考えていた。しかし、彼女の脳裏に、ストンスロプ社訴訟の膨大な量の訴訟データの立体画像と、美空野の幾つかの言葉が浮かんだ。町田梅子は平林宅を訪問する事を諦め、真明教の首都圏施設本部で話を聴いた後は事務所ビルに直帰することに決めた。手に握った紙パックの紅茶を吸いながら、町田梅子は歩道の上を歩いていく。細い横道の前の短い横断歩道を渡り、少し歩いて、有料駐車場の前を通りかかると、その駐車場に赤色灯を点けたパトカーが停まっているのに気付いた。飲み干した紅茶の紙パックを駐車場の入り口の所に置いてある自動販売機の横のゴミ箱に捨てながら、駐車場の中の様子を観察する。数名の制服姿の警察官たちに、ハットを被ったボロボロの背広姿の背の高い男が、深緑色の古めかしい車の横で、隣の空いている駐車スペースを指差したり、通りの方を指差したりしながら、何やら必死に説明していた。町田梅子は、さっきコンビニの駐車場で見かけた作業用ロボットと車の接触事故と同じく、隣に停めた車との接触事故であろうと推察した。そして、法律家として反射的に少し検討してみたが、結論は、単なる物損の接触事故なら、私有地上での事故は民事の範疇で、警察を呼んでも仕方がないというものだった。ハットの男を気の毒だとは思ったが、重要な仕事の前に余計な面倒に巻き込まれる事を危惧した町田梅子は、呆れ顔や厳しい顔で男を取り囲んでいる警察官たちを冷ややかな視線で一瞥すると、さっさとその場を立ち去った。

 真明教の首都圏施設本部に着くと、朱塗りの大きな門の前に、黄色いジャージ姿の信者達が整列して、町田を待ち構えていた。町田梅子は堂々とした姿勢で一度だけ会釈をすると、信者たちの列の間を通り、開け広げられた門の中央を通って施設の敷地の中に入った。信者達に案内されながら、広い敷地の玉砂利の上を高いヒールで歩きにくそうに進み、本殿の横に建っている社務所のような建物の裏を通って、裏庭の一角へと出た。すると、黄色いジャージに身を包んだ、色白で小太りな女性が駆け寄ってきた。

「まあ、先生。遠い所、申し訳ございません」

 揉み手をしながら、へつらうように大袈裟に頭を下げるその女に、町田梅子は挨拶もしないで、顰め面を作って本題に取り掛かった。

「不法侵入されたと伺いました。怪我をされた方もいるのですか」

 女は急に深刻な顔に変わって、その前で手を一振りした。

「そうなんですの。私、殴られましたのよ。あの男はきっと、政府からの刺客ですわ。これって、宗教弾圧ですよね。きっと、教祖様の教えが正しいから、政府の連中は煙たがっているに違いありませんわ」

「まあ、そうかどうかは、まだ判りません。とにかく、現場を見せてください」

「現場……といいますと……」

「信者の方々が襲われた場所です。まず、その侵入者は、どこから現れたのですか」

「ええと、私たちがその男を発見したのは、向こうの祈祷所の裏手です。中を撮影していたみたいですの。スケベですよねえ。あ、ご案内しますわ」

 町田梅子は、その小太りな女について、裏庭を奥へと進んだ。

 独立して立てられた木造の建屋の前に着くと、町田梅子は周囲を見回した。正面には戸板が外れたその木造家屋の正面入り口があり、左手には、そこへと続く屋根付きの廊下が延びている。そのまま左を向くと、廊下は信者の生活棟と代表者の住居を兼ねた建物の縁側に繋がっていた。更に左に視線を回す。枯山水の立派な日本庭園が広がっている。庭はその木造建物の角まで広がっていた。その先には大きな倉庫が何棟か建っている。小太りな女は町田をその建物の角を曲がった所の、倉庫との間の空間に案内した。そこには、背の高い痩せた信者が立っていた。女は建物の隅を指差して言った。

「ここです。ここに立ってましたのよ。カメラを持って」

 町田梅子は、その建物を見回した。建物には高い位置に小さな横長の明かり窓があるくらいで、ほとんど一面が板壁である。町田梅子は突き当りの塀の所まで歩いて、その建物の裏手を覗いてみたが、塀と建物の間に人一人が通れる隙間があるくらいで、何も無い。建物にも壁しかなく、窓がある訳ではなかった。向こう側は本殿の裏手に出るのであろう。町田梅子は信者たちの所まで戻ってくると、もう一度周囲を見回しながら言った。

「撮影を……どんな男でした?」

 小太りの女は背伸びをして、右手を精一杯に上げた。

「こーんなに背が高くて、スーツにトレンチコート姿でしたわ」

 町田梅子は顔を顰める。

「トレンチコート? この季節にですか?」

 十月になったとは言え、まだコートを着用するほどの寒さではない。町田梅子は首を傾げた。小太りの女は言った。

「ええ。しかも、そのトレンチコートが汚れていて、臭いの何の。もう、近くにいるだけで、吐き気がするくらい。ああ、髪はポマードで、こうベットリと後ろに……」

 町田梅子は話を進めた。

「それで、男を発見した後、どうなったのです?」

 小太りの女は、恐怖に怯える顔つきを作りながら言う。

「その男が突然暴れだして、襲ってきましたの。女の私を狙ったに違いありませんわ」

 町田梅子は眉間に皺を寄せて尋ねた。

「さっき、『私たちがその男を発見した』と仰いましたよね。侵入した『男』を発見したのは、あなたの他は、誰ですか」

 背の高い痩せた男が答えた。

「あ、僕と、もう一人の信者です」

 町田梅子は尋ねる。

「男性?」

「はい」

 男の返事を聞いて、町田梅子は眉をひそめた。

「三人で発見された……。突然、あなたに向かって、襲い掛かってきたのですか」

 町田梅子が小太りの女を指差すと、隣の痩せた背の高い男が訂正した。

「いや、最初に僕がまず……あ痛っ」

 男の脛を蹴った小太りの女は、町田に愛想笑いをして言った。

「おホホホホ。何でもございませんの。おホホホホ。あ、先生、そのバッグ、お持ちしますわ。重そうですから」

 町田梅子は、肩に掛けていた鞄を近くの信者に手渡しながら、長身の痩せた信者に尋ねた。

「その男は、どこから撮影していたのです?」

 男は壁の上の小さな明かり窓を指差した。

「たぶん、あの窓からです」

「随分と高さがありますよね。二メーター以上の大男だったのですか?」

 町田梅子はそう言いながら、壁に沿って視線を下げた。湿った土の上に丸い輪の跡が残っていた。小太りの女は言う。

「もう、二メートルも、三メートルも。こんなで……」

 また背伸びをして右手を精一杯の高さに上げている女に、痩せた長身の信者が言った。

「そんなに無いよ。僕と同じくらいの背丈だったから、一八五センチ前後だと思うよ。三メートルもあったら、あのマンホールは通れないじゃないか」

「マンホール?」

 町田梅子が聞き返すと、男は頷いた。

「ええ。あの柘植つげの木の向こうにあるマンホールの穴に飛び込んで逃げたんです。だから、入ってきたのも、あそこからだと思います」

 町田梅子は、男が指差した庭の柘植の木の向こうに目を遣ったが、途中、その柘植の木の高い位置の枝に防犯カメラが設置してあるのに気付いた。町田梅子は怪訝な顔で、その長身の信者に言った。

「ちょっと、そのマンホールまで案内してもらえますか」

 痩せた長身の信者を先頭に、数人の信者たちが庭の向こうの塀の方に歩いて行く。町田梅子は彼らの後を歩きながら信者から鞄を受け取り、その中から折り畳まれた眼鏡の形をした物を取り出した。眼鏡の外形をした装着型の小型撮影機器「ビュー・キャッチ」である。交渉相手のアキナガ・メガネ社の製品であり、問題の透過式フォトダイオードの集積技術を利用した製品だが、町田梅子は、その便利な製品を愛用していた。普通の眼鏡のように顔に掛ければ、透明レンズから普通に周囲の景色を見るだけで、そのレンズが捉えた町田の視界の景色を記録する事ができたので、証拠収集の際には何かと便利であった。今日も町田梅子はそれを使った。「ビュー・キャッチ」を顔に掛けた町田梅子は、まず、歩きながら周囲の植木の損傷箇所を見た。何箇所かで枝が無理に折れている。だが、荒らしたと言うより、何かが飛び込んだという感じだった。損傷している植木も、位置がバラバラで、行為者の動きに規則性を見出せない。柘植の木の上の枝の間に設置された防犯カメラを見た。その高さで視線を動かす。向こうの高い塀の上にも、庭の向こうの松の木の上にも、生活棟の軒の裏側にも、渡り廊下の屋根の下にも、さっきの建物の縁側の上にも、防犯カメラが設置されていた。町田梅子はそのまま下の方に顔を下げる。縁の下で夕日を反射して、何かが金色に輝いていた。町田梅子が目を細めて凝らすと、「ビュー・キャッチ」が彼女の瞳孔の変化を詳細に感知し、それに合わせて彼女の視線の先に自動でピントを調整する。縁の下にあった物がズームされて、はっきりと見えた。それは、鎖で繋がれた二本の太く短い金属製の棒だった。町田梅子は眉間に縦皺を刻んだ。辺りを再度見回しながら、信者たちについて歩いて行く。町田の視界に映った景色を「ビュー・キャッチ」の透過式フォトダイオードを集積した両面感知レンズが三次元圧縮データに変換して、眼鏡の細いフレームに内蔵された極小メモリーに記憶していった。

 一行は、蓋が開けられたままのマンホールの近くまで来た。鼻をつく悪臭が穴から放出されている。顔を横に向けた町田梅子は、上着のポケットからハンカチを取り出すと、それで鼻と口を覆った。反対の手で「ビュー・キャッチ」のフレームの接触式ボタンに触れ、撮影モードを暗視モードに変更する。彼女はハンカチを少し強く押さえながら、穴の中を覗いた。下水管の底のヘドロの中に靴の跡が見えた。町田梅子は散乱している足跡を一つずつ見比べていく。どれも同じ形で、大きさも同じである。どうやら、一人で行動していたようだ。顔を上げた町田梅子は、「ビュー・キャッチ」の撮影モードを通常モードに戻すと、穴の中を指差しながら、その周囲に立つ信者たちに尋ねた。 

「ここに飛び込んだのですか」

 小太りの女が答える。

「ええ。そこの躑躅の間を、スタタタタっと走ってきて、この辺でジャンプして、こんな風に、ズボーンっと飛び込んでいきました」

 彼女は短い腕をピンと伸ばして、腰を曲げて見せた。

「よほど、急いでいたんですね。普通なら、この梯子を使って下りるはずでは」

 町田梅子は顔から外した「ビュー・キャッチ」をスーツの上着の内ポケットに仕舞いながら、穴の中の側面に取り付けられた鉄製の梯子を指差した。

 小太りの女は言う。

「せっかちなのよ。侵入する時も、ピャッて飛び出してきましたから」

 町田梅子は顔を顰めた。

「侵入するところを見たのですか」

 小太りの女は目を泳がせながら答えた。

「あ、いえ……その……たぶん、そんな感じだろうと。おホホホホ」

 女の答えを途中から無視した町田梅子は、庭の躑躅つつじの間に目を遣った。そして、もう一度、他の植木の破損状態に目を配る。町田梅子は周りの信者たちの顔を見回しながら尋ねた。

「皆さんは、ここに居たのですか。その侵入者が暴れた時に」

 長身の痩せた信者が頷いた。

「ええ。みんなで取り押さえようとしましたから」

 町田梅子が確認する。

「取り押さえようと。では、こちらからも手を出しているのですね」

 小太りの女はふて腐れたように言った。

「それは、まあ、少しくらいは。でも、正当防衛ですわ。そうでしょ、先生」

「まあ、現時点では何とも……」

 町田梅子は話している途中で、生活棟の縁側に立ってこちらを見ている法衣姿の男に気付いた。町田梅子は、その男に挨拶しようと、躑躅の向こうに歩いていった。歩きながら、後ろをついてくる信者たちに尋ねた。

「盗まれた物などは、ないのですか」

 小太りの女が得意気な顔をして言う。

「いいえ。私どもは、そんなにマヌケではありませんわ」

 町田梅子は、薄ピンクの花を付け始めた山茶花の木の枝の中に設置された防犯カメラに目を向けながら言った。

「そのようですね」

 重い鞄を肩に掛けた町田梅子は、玉砂利の上に強くヒールを打ち込みながら、縁側の方へと歩いて行った。



                  十一

 町田梅子は、縁側の上で仁王立ちしたまま、こちらを睨んでいる法衣姿の老人に対し、軽く会釈した。その老人は、宗教法人真明教団の代表者の南正覚みなみしょうかくだった。南正覚は、町田に向けて軽く頷くと、縁側の上に立ったまま、こちらに下りて来ようとはしかなった。町田梅子は、真明教の担当を引き継いだ際、南正覚とは一度だけ面会した事があったが、その時の彼の非常に横柄な態度に随分と不快感を覚えていた。今回も、自分がわざわざ教団の被害のために遠方から地下リニアと都営バスを乗り継いで急ぎ駆けつけ、こうして現場を見て回っているにもかかわらず、縁側から下りてくる事もしない正覚の態度に、町田梅子は不満と不信感を抱き、同時に苛立ちを覚えていた。その彼女に小太りの女がいい加減な証言をするものだから、町田梅子は一層に苛立ちを募らせる。

 彼女は少し強い口調で言った。

「要するに、あそこのマンホールから侵入してきて、このあたりで皆さんと格闘した後、そこを通って、再びあのマンホールから逃走したのですね」

 小太りの女が前に出て、縁の上に腕組して立っている南正覚の顔を何度も見ながら答えた。

「はい。もう、素早いのなんのって。女の私の足では、とても追いつけませんでした」

 町田梅子は更に尋ねた。

「怪我人は? あなただけ?」

「いえ、ほかの一人は左手を骨折して、彼も一時、気を失っていました」

 その少し太った女は、町田の背後を指差した。町田梅子が振り向くと、長身の痩せた男が立っていた。彼も振り向き、庭の中を見回している。ハッとしたように肩を上げ、長い髪を振って、すぐにこちらを向き直したその長身の痩せた男は、視線を泳がせながら小太りの女に答えた。

「いや、別に気を失ってまでは……」

 彼は町田の背後にいる小太り女に向けて首を傾げたり、怪訝そうな顔を突き出したりしている。そして、また一瞬だけハッとしたような顔をしてから、発言を訂正した。

「あ……いえ、失っていました。完全に。はい」

 不審に思った町田梅子が振り向くと、小太り女は横に開いた口を慌てて閉じ、表情を作った。町田梅子は目を細めて彼女を睨みながら、尋ねた。

「どういう経緯で格闘になったのですか?」

 女は眼を左右させた後、顔の前で手を一振りして言う。

「とにかく、いきなり暴れだしたのよ。イノシシか何かのように。凶暴のなんのって。怖かったわあ」

 女は再び、町田の背後に立っている長身の痩せた男を指差した。

「それで、急に彼に飛び掛ってきて、彼をバタンとあそこの植え込みの中に投げ飛ばして、その後、もう一人をあの建物の壁にポカーンと叩きつけて。ほら跡が残っていますから。こちらですわ」

 彼女は、さっきの木造の建物の方に走っていった。町田梅子としては、早く南と今後の対応について打ち合わせたかったが、その小太りな女が建物の横から手招きするので、仕方なくそちらの方に移動した。他の信者たちもついてくる。

 建物の横にきた町田梅子は、小太りな女が指差した箇所に顔を近づけた。壁には、よく見れば分かる程度の新しい傷が付いていた。女はその些細な傷を手で大げさに撫でて見せた。すると、後から歩いてきた長身の痩せた男が、長髪の上から頭を掻きながら言った。

「いや、飛び掛っていったのは僕らの方なんですけど、相手が強過ぎて……」

 彼が言い終わらないうちに、小太りの女が町田と彼の間に滑り込むように移動し、大声で彼の証言を訂正した。

「いえ、相手の男が一方的に飛び掛って行ったって感じでしたよ。どう見ても。それにあの男、女の私にも暴力を振るったのですよ。ほら、ここ。青くなっているでしょ。酷いわあ」

 彼女は、黄色いジャージの上着の裾を胸の下まで捲くり上げ、突き出た柔らかそうな腹を町田に見せると、へその辺りをしきりに指差して主張した。軽く覗き込んだ町田の後ろから、長身の男が目を凝らしてその大きな腹を観察し、首を傾げる。

「青くなっているかなあ……」

「なってるの! よく見てよ」

 女は強い口調で言った。そして、町田の顔に視線を移すと、また下手な作り笑顔を見せて、公開した自らの贅肉を急いで黄色いジャージの中に仕舞った。彼女は紅潮した顔で軽く咳払いをすると、町田に言った。

「ゴホン。後は、さっきの人がそこの扉ごと部屋の中に投げ飛ばされて、その時、腕をポキンと……」

 町田梅子は、掌をその女性信者の顔の前に向けて彼女の発言を制止する。

「解りました。それで、その骨折したとかいう方は、今どちらに」

「病院に運ばれました。そりゃもう大変で」

 小太りの女が再び信憑性のない説明を始めたので、町田梅子はその途中から聞くのをやめて、祈祷所の縁側の方に移動した。縁側の前で屈むと、縁の下に転がっていた金属製の器具を拾い上げる。振り向いた町田梅子は、それを一同に見せて、厳しい顔で尋ねた。

「これは何です?」

 小太りの女は、少し狼狽しながら答える。

「あ、いや、これは……、その……、私がダイエットのために時々使っているんです。運動不足なので……」

 そんなはずはなかった。その器具は明らかに武器であり、凶器以外の何物でもない。町田梅子は眉をひそめて言った。

「ヌンチャクをですか? ――とにかく、侵入者が落としていった物ではないのですね。ま、いいでしょう」

 町田梅子は女の目を見ながら厳しい口調でそう言うと、そのヌンチャクを縁の上に置いた。その時、何かが袖を下に引いた。町田梅子は慌てて手を引く。彼女は縁側の上や周囲を見回した。袖口や手首が何かに下から引っぱられる感覚が確かにしたにもかかわらず、そこには何も無かった。もしやと思い、町田梅子は軒を見上げる。軒下に細長い機械が設置されていた。やはり「質量バリア」の稼動装置だった。エネルギー放射原理を利用して、質量差により物体を差別して下に落とす「質量バリア」は、全く透明であり、音もしない。それは、外の光や風、音を通しながら、塵や虫の侵入を防ぐ事が出来る、言わば「見えない網戸」のようなものだった。近年開発されたばかりの「質量バリア」は、まだ高額な設備あり、高級住宅の窓際や高級レストランのテラス席の周囲でしか目にする事はない。とは言っても、町田梅子はそういった所に縁が無かったので、初めて見るその最新設備を物珍し気に観察し、改めて縁側の周囲を見回した。言われてみれば、ほんの少し空気が揺らめいているように感じられる程度で、一見してもまったく気付かない。町田梅子は自分の腕も見た。どうやら人体には影響はないらしい。そう言えば、以前、テレビの特集で、織の細かい高級生地の繊維を傷めたり、体内の人工臓器を下垂させたりしてしまうことがあるので注意が必要だと言っていた。町田梅子は高級生地でもないそのスーツの袖を顔に近づけて、生地が傷んだり釦が取れたりしていないか確認した。釦は取れていなかったが、頑張って無理して買った中等のスーツの袖の生地は、素直に形を残していた。何かに摘まんで引っ張られたような形になっている。町田梅子は、その尖った袖の部分を直しながら、この無音で透明な設備が施されている事をどうして先に教えてくれなかったのかと、猛烈に苛立った。その苛立ちは露骨に彼女の顔に表れる。町田梅子は頬を膨らませ、眉間に強く皺を寄せた。低く小さく唸った彼女は、不機嫌そうな顔で振り向くと、、庭に聳え立つ天然の柘植つげの木と軒の下の梁の部分を順次に、少し荒っぽく指差して、強い口調で言った。

「あそこに防犯カメラが在りますよね。あそこにも」

 さっきの小太りの女が、町田から視線を外して、怯えたように下を向いた。町田梅子はその女を睨みつけながら指示した。

「後で、それらの画像データを事務所の私のオフィスまで送ってください。それから、骨折した方の診断データと骨折部位の透過撮影データも病院から貰っておくように」

 そう言い終えると、町田梅子は、他の信者の方を向きながら、上着の胸ポケットから再びメガネ型の撮影機を取り出し、その小さな顔に掛けて言った。

「他に被害はありませんか」

 小太りの女性信者は白々しく庭を見回しながら言った。

「ええっと……ああ、そこの松の木の枝が折れています。それから、そこの紅葉の枝も。ご覧の通り、そこの躑躅つつじなんて、もう滅茶苦茶で。葉っぱが沢山落ちてしまいましたし」

 さっきも聞いた被害内容であったが、町田梅子は一応、スーツのポケットから「ビュー・キャッチ」を取り出すと、呆れ顔をしながらそれを掛け、小太りの女が指差す方向に顔を向けて各植木を撮影していった。

 一通りの録画を終えると、町田梅子はビュー・キャッチを外して折りたたみながら、他の信者に質問した。

「盗まれた物などは何も?」

「何も無い」

 太い枯れ声が、「質量バリア」の向こうの縁側の上から聞こえてきた。町田梅子が振り向くと、彼女のすぐ前の縁側の上に、教祖南正覚が大数珠を握って立っていた。町田梅子は本来、そこで彼に何かの声を掛けるべきであったが、彼女はそれをしなかった。「ビュー・キャッチ」を通して見る町田梅子の視界には、南正覚の後ろに、その木造建物の中の豪華な祭壇が見えていたからである。その祭壇の上には、分厚く白い座布団の上に置かれた白木の箱や、その横の小型機械、純金製の小さな灯篭、漆塗りの三方、枠の装飾に宝石が散りばめられた鏡、純銀製の燭台などが飾られていた。その手前の段には、鮮やかな模様が彫られたクリスタル製の食器の上にメロンやマンゴー、高級イチゴなどが盛られている。更にその左右には、高そうな洋酒が何本も並べられていた。

 町田梅子は「ビュー・キャッチ」を掛けたまま、疑念に満ちた目で景色を見つめた。彼女がフレームに手を伸ばし、録画スイッチを押そうとすると、それを見た南正覚が声を荒げた。

「何をする! この罰当たり者めが。あれに鎮座するは、宇宙の神様より授かった聖なる啓示物であるぞ。易々と下劣な機械で写し取るではない。そちは何様のつもりぞ!」

 南正覚の太く大きな声に首をすくめた町田梅子は、反射的に謝罪した。

「すみません」

 町田梅子は、侵入者がこれらの豪華な装飾品を窃取する目的で敷地内に侵入し、物色のため祈祷所内を撮影していたと推理していた。本件の真相が窃盗未遂事件なら、信者たちに侵入者に対する過度の攻撃があったとしても、過剰防衛として弁護の余地が無い訳ではないと考えたからである。しかし、今、南正覚は祭壇の上の白木の箱を指し示して、その撮影を禁ずる趣旨の発言をしていた。これでは、被害予想品としての証拠提示が困難となる。そうなると、侵入者の立入り目的を別に明らかにする必要があり、弁護士である町田梅子としては、今後の法律活動に支障があった。弁護士町田梅子は顔から外した「ビュー・キャッチ」を折り畳みながら、南正覚に尋ねた。いや、それは尋ねたと言うよりも、反論し、論駁に挑戦したと言う方が正しかった。

「それでは、侵入者の目的は何だったのでしょう。 何か思い当たる事はありますか?」

 町田梅子の思わぬ切り替えしに、南正覚は眉間に皺を寄せ、そのまま横を向いて目を瞑った。そして、初めは低い声でゆっくりと、その後、次第に語気を強めながら答えた。

「他人にコソコソ覗かれるような覚えなどない。目的? それが判れば苦労はせんわ!」

 町田梅子は正覚の雷声に少し怯えたが、それを隠し、折り畳んだ「ビュー・キャッチ」を肩に掛けていた鞄の中に仕舞い込むと、正面を向いて南正覚に言った。

「とにかく、被告訴人不肖のままで、すぐに刑事告訴しましょう。住居侵入罪と傷害罪で。器物損壊罪も一応。よろしいですね」

 南正覚は町田の方を向いて、その目を凝視しながら黙っていた。町田梅子も真っ直ぐに南を見る。南正覚は目を瞑り、黙って頷いた。

 南の承諾を得て、その場を立ち去ろうとした町田梅子に、縁側の上から南正覚が尋ねた。

「新日ネット新聞の方はどうなっておる。ワシらの事を金の亡者であるかのように書き散らしよって。出版差止めの仮処分と慰謝料請求、あれは一体、どうなっておるのじゃ」

 それは、町田梅子が前任の担当者から引き継いだ事件だった。彼女はその事件の処理を、あえて放置していた。町田梅子は重い鞄を肩に掛けたまま、湿った裏庭の土の上で、南正覚に答えた。

「出版差止めの方は、差止め対象となっている記事を削除したものを新日側が出版した事は、先日、ご報告したとおりです。仮処分の効力は維持されていますが、週刊新日風潮をはじめとする他の媒体によって、同内容の記事が既に世間に報じられ、また、テレビやインターネットでも同内容の報道がされていますので、仮処分自体は、もはや実質的意味を失っていると思量されます。慰謝料請求訴訟については、提訴する事は可能ですが、相手方は大手新聞社とその系列会社であり、表現の自由を主張するには余り有る立場です。確実に、訴訟では全面的に争ってくるでしょうし、こちらが勝訴できる可能性は皆無に等しいと考えます。争えるとすれば、記事の信憑性ですが……」

 町田梅子は祈祷所の奥に見える祭壇にもう一度目を遣った。そして、視線を南正覚に戻すと、自分の考えを正直に述べた。

「新日側の記事に嘘があれば、こちらの主張が通る可能性はあります。しかし、嘘が無いのであれば、あとは報道の必要性の問題になります。おそらく、相手方は南米戦争での教団の難民支援行為を既に報じている事をテーブルに乗せてくるでしょうね。その事実が広く国民に知られている以上、その背景事情も当然に報道する義務があると。そして、教団がかつて有働武雄前総理大臣を支援していた事実、及び、彼が現在も現職の国会議員である事実を並べれば、民主選挙の根幹に関わる極めて重要な情報であるという事が簡単に証明できます。つまり、教団の資金が政治家に流れているか否かの事実は選挙をする上で国民の重要な判断材料になるので、その前提として教団の不透明な資金について明らかにし、国民に報道する必要が民主主義の適正な実現という事から要請される、そう主張してくるでしょう。憲法上保障されている表現の自由は、民主主義の適正な実現のための条項でもありますから、憲法に拘束されている裁判所としては、当然、相手方の主張を認めざるを得ないと思われます。あと残るのは、表現方法が過度に誇張したものであったり、広く誤解を招く内容かという問題ですが、あの新日新聞社系列の会社の記事ですからね。実際にも、どこをどう読んでも表現方法は穏やかで正確かつ正当です。したがって、仮に訴訟を提起したとしても、今回の場合、勝訴の見込みはおろか、和解が成立する可能性もありません。請求棄却となる可能性が大です。なお、記事が世に出て一ヶ月近く経った今、このタイミングで訴訟を提起する事自体が、かえって蒸し返しになり、教団の傷を広げる結果になると思います。新日を訴えれば、他のライバル新聞社や週刊誌出版社が、こぞってその事を記事にするでしょうから、結局、教団にとっては『元の木阿弥』という事になるのではないでしょうか。私は担当弁護士として、現時点でこれ以上、法的手続きを重ねるべきではなく、暫く時期を見て、速やかに仮処分を取り下げるべきだと考えます。どうせ時間と労力を裂くなら、新日ネット新聞社から記事の買取りと今後数年間の同内容の記事を出さないという契約を締結する事にエネルギー使った方がいい。可能かどうかは別として。私は、そう思います」

「なるほどな」

 町田梅子は、南正覚からの烈火ごとき怒号と、罵声を覚悟の上で、自己の考えを精一杯述べたつもりであったが、意外にも、正覚はすんなりと彼女の説明を受け入れた。南正覚は、暗くなってきた裏庭で長々と説明を続けた担当弁護士に、最後の確認をした。

「では、仮処分の方は、いずれ取下げじゃな。時期は、あんたらに任そう。今日の件は、早めに手続きをしてくれ。直接、本庁の二課に提出してもらった方がいい。所轄は動きが鈍いからの」

 町田梅子は、二度続けて頷くと、南に返事をした。

「分かりました。明日中には提出したいと思います。受理されましたら、ご連絡します」

 南正覚は、一度大きく頷いてから、言った。

「分かった。よかろう。宜しく頼む」

 南正覚は、突然、綺麗に伸ばした腕を両腿の脇に真っ直ぐにつけて正立すると、縁側の上から下の町田に対し、丁寧で美しいお辞儀をした。その南正覚の改まった姿を見て、町田梅子は、一歩後ろに下がり、自分が知りうる限りの精一杯の丁寧なお辞儀をして返した。

 頭を上げた町田梅子は、縁の上から少し口角を上げてこちらを見ている南正覚に言った。

「では。私はこれで」

 町田梅子は、先ほどまでの苛立ちや不愉快さが、嘘のように消えている自分に気付いた。そして同時に、これが南正覚の魅力なのだとも悟った。彼を慕い、付き従う信者が多くいるのも、少しだけ分かる気がした。町田梅子は裏庭に目を遣った。暗くなりかけた庭の中で、箒を持って熱心に地面を掃いたり、折れて散らばった枝を拾い集めたりしている黄色いジャージ姿の信者たちが何人もいた。木造の建物の中では、信者達が戸板をはめたり、床を汗だくで拭いていた。町田梅子は南正覚の魅力の正体が一体何なのか、気になった。だが、腕時計に目をやると、既に六時を回っていた。町田梅子は鞄のベルトを肩に掛け直し、南の方に体を向けて、一礼してから言った。

「失礼します」

「うむ。ご苦労じゃった」

 威厳を作りながらも、穏やかな声でそう返した南の前から、町田梅子は立ち去ろうとした。すると、背中を見せた町田梅子に、南正覚が再度、声をかけた。

「ああ、待つのじゃ」

 町田梅子は立ち止まり、振り向いた。南正覚は、さっきまでの顔とは別人のような穏やかな顔で、少し笑みを交えながら、彼女に優しく語りかけた。

「女性に歳を聞くのは、マナー違反じゃがの、生まれた年を聞くのは、いいじゃろう。先生は、何年生まれでしたかの」

 町田梅子は、南流のジョークを交えた予想外の質問に戸惑ったが、正直に自分の生まれた年を答えた。

「二〇一〇年生まれです」

「そうか……そうか……」

 周囲が暗くなってきていたので、町田梅子にはよく見えなかったが、灯り始めた庭の灯篭の中のLED電球の光が南正覚の目元で反射しているような気がした。町田梅子には、その質問をした事情がよく分からず、暫く彼をじっと観察していたが、南正覚は町田に背を向けると、脇に刺していた大きな扇子を抜いて、それを広げ、暫く顔を扇いでいた。

 町田梅子は、彼の背中に向けて一礼すると、黙ってその場を後にした。

 町田梅子が、暗くなった本殿の前の玉砂利の上を、高いヒールで苦心しながら歩いていると、後方の本殿の中から、なにやら妙なお経が聞こえてきた。振り返ると、本殿には明かりが灯っていて、入り口の障子に、何人もの人影が映っている。彼女が再び前を向いた時、向こうから歩いてくる大小の人影が見えた。モヒカン頭の若い男が、初老の女に無理矢理に手を引かれている。モヒカン頭の男は、前を歩く初老の女に言っていた。

「母ちゃん。俺、行かねえよ。宗教なんて、嫌だよ」

 初老の女は息子の手を引っ張りながら、言った。

「何言ってるんだい。何であれ、宗教心のない人間が一番駄目なんだよ。ようやく正覚先生が会ってくださるって言うのに。早く来るんだよ。ほらっ」

 親子は揉めながら町田の横を通り過ぎて行き、本殿の入り口へと向かっていった。暗い参道のような道の上で、振り向いたまま暫くその親子を眺めていた町田梅子は、ハッとして腕時計を見た。そして、肩のバッグを掛け直すと、再び歩き始める。町田梅子は、大きな朱塗りの門をくぐり、敷地の外に出た。すると、横の方から軽くクラクションを鳴らす音が響いた。驚いた町田梅子がその方向を見ると、ライトの光をこちらに向けて車が近づいてきた。町田梅子は、手を顔の前に置いて光を遮りながら、道路の端に寄った。その黒塗りの高級外車は、彼女の前で止まり、助手席の窓を下ろした。車内から男が顔を覗かせる。さっきの痩せた長身の信者だった。

「教祖様がお送りしろということです。暗くなってきたので、帰りが心配だと仰ってました。どうぞ、後ろに乗ってください。事務所ビルまでお送りします」

 町田梅子は少し考えたが、腕時計を見てバスと地下リニアでの移動時間を考慮し、結局、南の厚意に甘える事にした。黒塗りのAIキャデラックは、町田梅子を乗せて、住宅街の中の細い道を進んで行った。



                  十二

 町田梅子は、AIキャデラックの革張りの後部座席に座り、窓から黙って外の景色を眺めていた。体を折り畳むようにして運転席に座り、細く長い両腕でハンドルを覆うようにして握りながら運転していた長身の痩せた信者は、窓の外で流れる景色を見つめたまま、何も話さない町田梅子をバックミラーでチラチラと見ながら、話しかけるタイミングを探っていた。その彼に、町田の方から話しかけた。

「おたくは、入信してから長いのですか?」

日野張ひのばりです」

「はい?」

「僕、日野張ひのばり友博ともひろって言います。そうですね……もう、五年くらいになりますかね」

「入信は、どういうきっかけで」

「きっかけ、ですか……うーん……」

 暫らく考えた日野張友博は、片笑みながら答えた。

「助けてもらったんです。教祖様に。『無限地獄』から」

「ムゲン地獄?」

「あ、仏教の『無間むげん地獄』じゃないですよ。あっちは、あいだの『間』の字。僕らが言っているのは、永遠の方の『無限』です。かぎりの『限』の字のほう。無限大の『無限』ですよ」

「無限地獄……どういう事ですか?」

「僕ら……ああ、いや、僕は、いわゆる『就労失業者』だったんです。今もそうですけど」

「就労失業者……ワーキング・プアの事ですか?」

「はい。昔はそう言われたそうですね。でも、ワーキング・プアとは、少し違います。一応、生活するだけの給料は貰えてるんです」

「日野張さんは、何をされてるんですか」

「看護師です。民間病院で、夜勤の看護師をやってます」

「へえ。意外ですね」

「でしょ。今、看護師も大変なんですよ。医師からも、患者からも、指名制になっているところが多いでしょ。ウチの病院もそうで。ああ、樹英田区の西の方にある、結構大きな病院なんですけどね。それで、僕、こういう見た目でしょ。毎月、ほとんど指名が無くて。結局、空いている時間は、詰め所でカルテの整理とか、薬品の目録データの入力とか、事務作業ばっかりで。で、基本給しか貰えない上に、ずっと初任給と同じ額のまま。おんぼろアパートの家賃と光熱費を払って、税金を払って、毎日自炊して、一月に貯金できる額なんて、ハンバーガー一個分がいいとこですよ。後輩はどんどん指名されて、地位も給料もアップ」

 それが「ワーキング・プア」とどう違うのかよく分からなかった町田梅子は、日野張に言った。

「職場を変えたら? 指名制の無い病院に」

「そんなの、現実には無理ですよ。一度、チャレンジして、今の病院に転職したんですけどね。僕が今の病院に再就職した頃は、指名制じゃなかったんです。入ったら急に指名制を導入しちゃって。転職で再就職となると、足下を見られて、給料はまた今の額よりも下の額になって、しかも、ずっとそのまま。でも、あの頃は若かったから転職できたけど、今の年じゃ、どこも入れてもらえませんよ。唯でさえ、大卒の就職年齢が上がっているのに」

 町田梅子には、その話がよく分かった。彼女自身、今勤務している美空野法律事務所は、二度目の就職先だったからである。ローヤー・プログラムを修了後、弁護士となった町田梅子は、一度、他の事務所に就職した。しかし、彼女へのセクハラが続き、大喧嘩の末、その事務所を三日で辞めていた。その後、弁護士の求人を探し、方々を探し回ったが、なかなか条件の良い職場は無かった。劣悪な労働環境か、安い賃金、あるいは暴力団と癒着している法律事務所。町田梅子は、今後の弁護士活動も視野に入れ、慎重に履歴書を送付せざるを得ず、就職希望の申し入れにも尋常ではない程に神経を使い、苦労をしていた。それでも、彼女はまだ若かったので、並行して幾つかの事務所に応募する事が出来た。そして運よく、今の弁護士法人に就職できた訳である。そして、二度目の就職である事から、通常よりも給料は安く設定された。同一労働同一賃金が徹底されている現在でも、医師や弁護士などの専門職は、比較的、時給換算額が高い。特に、権力からの不干渉を理由に、報酬額の自由設定を認めていたり、弁護士給与の標準額を独自に定めたりしている弁護士業界は、給料の設定の自由度が高かった。それは一方で、業界内に猛烈な賃金格差を生じさせており、自浄作用は全くと言っていいほど働いていない。町田梅子は、その賃金領域の最低ラインの額で働いていた。そして一方で、弁護士も他の事務所への再就職は非常に難しい状況である。つまり、現状では、町田梅子も日野張と同じように、他の弁護士事務所に移る事は厳しいという実情の下で薄給と激務に苦しんでいた。

 日野張友博は話を続ける。

「で、やらされるのは、事務作業ばっかり。僕、患者さんの世話がしたくて看護師になったのに、患者さんの前には出してもらえない。仕事はどんどん忘れていく。僕だって、ちゃんと勉強もしてますよ。助産師の資格だって取ったんです。でも、妊婦さんは、僕は嫌だって。で、毎日やりたくない仕事ばっかりで、だんだんやる気を失って」

「それが、無限地獄?」

「そうです。転職したくても、できない。辞めたら、再就職は無理。賃金の上昇は見込めない。これじゃ、結婚もできないし、車も買えない。生活は、まあ、ギリギリ。でも、『プア』ってほどでもない。だけど毎日が苦痛。周りからは、甘えるなとか、いろいろ言われます」

「他の業種に移ろうとか考えた事は、なかったのですか?」

「ありますよ。一応。でも、国民職業能力登録センターで全国民の職業的能力や特技を一元管理する事になったでしょ。あれで、僕の職歴や能力だと、どうしても医療関係って出ちゃうんですよ。あとは、福祉関係か、保父さん。補助職員でね。でも、何処に行っても、結局やらされるのは、事務作業か裏方ばかりだと思いますよ。それに、給料は職種で差がなくなりましたから、何処に移っても同じ。遣り甲斐をもって働けるかどうかだけが、職業の違いなのに、その遣り甲斐が持てない。毎日が苦痛」

「辛くない仕事なんて無いですよ」

「それは分かってますよ。でも、その辛さに耐えられるだけの希望とか、生き甲斐とか、将来設計とかがあれば、苦痛も苦痛じゃないはずなんです。僕も、昔はそうやって頑張ってました。でも、この現状じゃあ……」

「他の信者さん達も、皆、そうなのですか?」

「ええ。のりちゃんも似たようなものです。ああ、関和野典子かんわののりこちゃん。さっき、いろいろ説明していた、ちょっとふっくらした子です。あの子が、入信して四年目くらいかなあ。彼女も、保育士をやってます。国民職業能力登録センターで子供の世話をする職業が向いているって分析されて、高校出てからは、地元の児童センターで補助職員をやって、その後、大学の教育学部に進んで、保育士の資格を取得してから上京して、都営の保育園に勤務してます。でも、本人は、自然に関わる仕事が好きみたいで、子供にはあまり興味が無い。実家が農家で、幼い頃から手伝っていたらしいんです。だから、保育士には成りたくて成った訳じゃない。でも、子供からは好かれるから、その仕事を続けている。名木山……名木山なぎやま浩介こうすけってのが、左腕を骨折した信者です。僕と同じで、入信五年目。この名木山だって、同じようなものです。人と接するのが苦手で、コンピューターのプログラムをいじるのは大好きなのに、一流ホテルでホテルマンをやってます。あいつの場合は、ちゃんと仕事もできて、今、サービス部門の何とかリーダーっていう立場で、そこそこに、ちゃんとした給料をもらっている。でも、本人は働いていて、全然幸せじゃない。『無限地獄』です。みんな、どうして『無限地獄』に落ちているのか、分かります?」

 町田梅子は、少し考えてから答えた。

「うーん……自分の価値観と、実際に働いている内容が一致してないから?」

「違います。機会が無いからですよ。再チャレンジしたり、元に戻す機会が」

「国民職業能力登録センターに登録すれば、雇用者側からのスカウトで転職や再就職するのが原則ですよね。再チャレンジする道は、国が作ってくれているでしょ」

「でも、前職と違う職種だと、給料も地位も最初からですよ。オール・リセット。最初は、それでいいかもしれませんよ。ああ、家族を抱えている人には、無理ですよね。生活を維持しないといけませんから。でも、僕みたいな独り身には、それでも構わない。だけど、考えてみて下さいよ。その賃金からスタートして、もしくは、地位からスタートして、定年や就労可能年齢まで働いたとして、最初からその仕事に就いていた場合と、同じラインになりますか。ならないでしょ。七十前になって、ようやく四十台の賃金かもしれない。人は、年齢が上がれば上がるほど、お金が必要になるでしょ。家族がいれば、なおさら。それなのに、必要な額の賃金にならない事は見えている。こんなの、再チャレンジじゃないですよ。再チャレンジする意味が無い」

 町田梅子は日野張をからかうように言った。

「タイム・トラベルが成功していれば良かったですね。もう一度、人生をやり直せる」

 日野張友博は真顔で答えた。

「そうですね。でも、だから教祖様は、金持ち連中には、タイム・トラベルを勧めていたんですよ。金があるなら、教団に寄付するよりも、そっちに使えって」

「正覚さんは、タイム・マシンに乗る事を信者さん達に奨励していたのですか?」

「ええ。再チャレンジは皆誰でも考えてるって。でも、あれは金持ちしか利用できないから、金があるなら、再チャレンジしてみるべきだってね。僕も、お金があったら、乗ったと思いますよ」

「南米に送られて、田爪健三に処刑されちゃうんですよ。いいんですか?」

「ですね。はあーあ。結局、同じかあ。どっちにしても、再チャレンジしたら人生終わり。こんなの、『機会』じゃないですよね。根本的に変えないと駄目ですよ。社会の仕組みを変えないと」

「成果に応じて、賃金を上げろってこと?」

「昔、それに変えたら、貧富の差が広がって、経済がボロボロになったから、この今の制度になったんじゃないですか。成果主義は駄目ですよ」

「じゃあ、スライドで安定上昇が原則の終身雇用に戻す?」

「まあ、成果主義よりはいいかもしれませんけど、転職できない点は同じですもんね」

 日野張の答えに、町田梅子は少し苛立って言った。

「じゃ、どうするんですか。やりたくない仕事には耐えられない、転職はしたい。でも、成果主義も嫌だ。雇用する側だって、ちゃんと働いて売上額を上げてもらわないと、賃金アップもできないじゃないですか」

 日野張友博は強く主張した。

「だから、教祖様は仰ってるんです。先人が後人をちゃんと育てないからだって。僕らみたいな『無限地獄』に陥っている人間が増えているのは、若い頃に周りの人間が、ちゃんと導いてくれなかったからだって。苦痛に耐えられる職業に就けるよう、しっかり育てて、その人が求めている人格になれるよう、技術や生き方を教える、それが職業教育だって。それが社会の作り方だって、教祖様は常々から言われています」

「それで、どうするわけ? 職業訓練校でも作るつもりですか?」

「ええ。教団では、似たような事をやってくれています。典ちゃんは今、首都圏施設本部の庭木の管理を任されています。庭師をしていた信者さんから、いろいろ教えてもらいながら。名木山は、教団のIT部門の仕事を任されている。それに、教団の奨学金で、専門学校に行く事も出来ました。僕も、教団の奨学金で、夜学に通って、助産師の資格を取ったんです。教団が経営する病院が黒字になれば、そちらで真っ当な看護師として雇ってくれるそうです。高校卒業後すぐから勤務していた場合の給与水準に三年以内に戻してくれるそうです。勿論、僕も、ちゃんと頑張って、技能を上げていかないといけません」

「でも、現実問題として、真明教の経営はかなり厳しいですよね」

「分かっています。だから、僕らも必死で、信者の獲得数を上げようとしているんですよ。体を張ってでも」

「それ、この前の警官たちとの乱闘のことですか? あれは駄目ですよ。下手をすれば、騒乱罪で教団施設が強制捜査を受けるかもしれません。それに、治安機関の監視対象にもされてしまいます。以後は、気をつけてください」

「分かりました。でも、もし教団が潰れたら、僕ら、行き場が無いです。また、ただ勤務して生活するだけの、ただ給与を貰い続けるだけの、ただ『無限地獄』だけの生活に逆戻りですよ」

「今は違うのですか?」

「はい。『無限地獄』は『無限』だから、今でも続いてますが、僕らには教祖様の『予言』があります。教祖様によれば、僕の未来は明るいそうです。美人の嫁さんを貰って、安定した生活が出来るだろうって。典ちゃんも、農園を所有して、成功するそうです。名木山も、将来、新しいプログラムを開発して、自分の研究所を持つそうです。他の信者達も、それぞれ、いろいろ予言してもらっています。だから、皆、一生懸命、今を頑張っているんです。教祖様の『予言』が実現するように」

「……」

 町田梅子は眉間に皺を寄せた。彼女は日野張の話に、おそらく、この話を聞いた正常な人間なら誰もが思うであろう印象と同じ印象を受けた。だから、眉間に皺を寄せていた。

 日野張友博は、そんな町田に気付かずに話し続けた。

「当たるんですよ。教祖様の『予言』は。ここだけの話ですけどね、国のタイム・トラベル事業が失敗する事だって、田爪健三の生存だって、教祖様は『予言』しておられました。すごい能力ですよね。きっと、宇宙の神様が教祖様の人格を認めて下さったのですよ。僕も少しでも教祖様に近づけるよう、日々努力しています。これ、教祖様の歌声が入ったデータですけど、聴きますか? 僕は、毎日一回は聴くように心がけて……」

「あ、いえ、結構です。私には勿体無いですから。でも、失敗すると予言しておいて、タイム・マシンに乗る事を他人に勧めていたのですか、正覚さんは」

「そこが教祖様の尊いところなんですよ。自分の『予言』は絶対じゃない。自分は神様じゃないって。すごいでしょ。再チャレンジが成功するかもしれない、それにチャレンジしてみること、それが本当の再チャレンジだって。いやあ、名言だなあ」

「……」

 町田梅子は傾げそうになった首を必死に止めた。日野張友博は言う。

「先生。いろいろとお忙しいでしょうが、どうか、教祖様の為に、力になって下さい。僕らは、教祖様の為に命を投げ出す覚悟は出来ています。ですから、何か必要な事があったら、何なりと仰って下さい。先生が教祖様の為に頑張って下さるのなら、僕らも先生を助ける為に、何でも頑張りますから」

「そ、そうですか。有難うございます。とても心強いです。でも、命までは必要としないから、安心して下さい。これでも、一応、弁護士なんで。ああ、もう、この辺で結構です。有難うございました」

 事務所ビルからは少し遠かったが、町田梅子はそこで車を降りた。日野張が運転するAIキャデラックは小さくクラクションを鳴らすと、ライトが煌く車群の中に消えていった。

 そこからバスで美空野法律事務所ビルまで帰ってきた町田梅子は、疲れた顔で自分のオフィスのドアを開けた。当然、事務員の小彩麻子は帰っている。誰もいないオフィスの中を歩き、自分の執務机の上に分厚い鞄と、コンビニの弁当が入ったレジ袋を置いた。町田梅子は小さく溜め息を漏らして、呟く。

「無限地獄かあ……」

 その後、執務机の上で一人でコンビニの弁当を食べ終えた町田梅子は、机の上に重ねられたストンスロプ関係の資料の山を眺めて、また深く溜め息を漏らした。そして、小彩の机を見て、鼻に皺を寄せる。

「さっさと帰りやがって。私付きの事務員なら、少しは手伝えっつうの。もう」

 紙パックの紅茶を飲み終えた町田梅子は、仕事の進行を整理した。

「平林さんの件はともかく、フィンガロテル社の件も、のんびりとはしていられないわよね。明後日までだもんね。でも、真明教の法務チェックもしなきゃね。ありゃ、南さんが引退したら、大変だわ。しっかり、体制を見直さないと。それと、刑事告訴も明日中には済ませないとね。でも、まずは、ストンスロプ。臨時取締役会は、明日の朝かあ……」

 紅茶の紙パックをゴミ箱に放り投げた町田梅子は、両頬を手で強く叩いてから気合を入れた。

「よし、やるかあ」

 町田梅子は立体パソコンの上にホログラフィーを浮かべ、六法や専門書を開きながら、和解契約条項を起案していった。その後、彼女が帰宅の途についたのは、日付が替わってから随分と過ぎた時間だった。



                  十三

 次の日の朝、町田梅子は自動走行で地下高速を走るAIジャガーの運転席に座っていた。後部座席には膝の上に立体パソコンを載せた美空野朋広が座っている。彼は立体パソコンの上に浮かんでいるホログラフィー文書に並ぶ文面に目を通していた。二人はこれからストンスロプ社ビルに向かい、臨時取締役会に出席して和解契約の内容を説明する予定である。町田梅子は運転席で少し斜めに座って後ろを覗き、その和解契約書を読んでいる美空野の表情を観察していた。彼は眉間に皺を寄せ、険しい顔をしている。町田梅子は昨夜自分が遅くまでかけて検討した条項内容と条文に問題がないか、美空野の回答に気を揉んだ。

 和解契約書を読み終えた美空野は、ホログラフィーを浮かべたままの立体パソコンを町田に渡しながら、表情を緩めて言った。

「うん……よく出来てる」

 それまで緊張した面持ちで座っていた町田梅子は、立体パソコンを受け取りながら胸を撫で下ろした。美空野朋広は後部座席の背もたれに身を倒して言う。

「だが、発行する株式についての検討が足りないね。普通株式じゃ、駄目だ」

「種類株式にするのですか」

「そ。議決権制限種類株式で行こう」

 議決権制限種類株式とは、株主総会において議決権の行使ができる事項に制限がある特殊な株式である。完全無議決権とする事も認められいて、そうなると、株主の地位としては著しく弱くなる。勿論、法律上、発行できる株式数に限度があるが、経営に関心が無い投機目的の株主にとっては、それなりにニーズもあり、また、経営を掌握したい経営陣にとっても重宝する株式制度だった。美空野朋広はその特殊な株式の発行を提案していた。

 町田梅子は顔を曇らせて言う。

「それで、相手方が同意するでしょうか。取得するストンスロプ株の価格上昇が見込めないと、話に乗ってこないのでは」

「だから、トラッキング・ストックを付けてやればいい」

 町田梅子は眉間に皺を寄せた。

「トラッキング・ストック……特定事業連動型株式ですか。株主への剰余金の配当について、特定の事業部門の業績に連動させるという株式ですよね。連動させる事業は……」

 美空野朋広は片笑みながら答えた。

「何でもいいさ。アキナガ・メガネが特許を取得している透過式フォトダイオードの集積技術は、航空機、自動車、建築部材、医療機器、ロボット、そして兵器、これらストンスロプ社のグループ企業が扱っている事業では、ほとんどが応用可能だ。実際、ストンスロプ自動車が製造しているAI自動車には、ほとんど搭載されている。その中で、一番利益が出ている部門の事業に連動させてやればいい。それが礼儀だ」

 町田梅子は思量した。

「なるほど。アキナガ・メガネの特許技術を使用した事業の業績に、配当金の優先配当額を連動させる……。でしたら、ストンスロプ社の製品のうち、透過式フォトダイオード技術の使用率が高いものを扱っている事業がいいですよね」

「いや、それよりも、単純に前年度の経常利益が一番高い部門と連動させてやりなさい。相手方は、実質的に債権放棄と特許技術の使用承諾をするようなものだから。その対価は、正当に支払う必要がある」

 町田梅子は頷いた。

「はい。確かに、それなら、相手方も納得するかもしれませんね」

 美空野朋広は目を鋭くさせて、付け加えた。

「ただし、議決権については、完全無議決権種類株式という事にさせてもらう。株主総会の度に、かき回されたら、かなわんからな」

「分かりました。訴訟資料データを読む限りでは、相手方はストンスロプ社の経営に関与したい訳ではないようですので、議決権の無い株式を交付する和解内容だとしても、交渉に支障はないと思います。譲渡制限については、付けなくてもよろしいのですね」

「ああ。その方が、向こうも呑みやすいだろう。自由に売却できた方が、いざという時に現金化し易いからな。相手の顔を立ててやる事も、交渉では重要だよ」

「なるほど……勉強になります。では、すぐに修正します」

 町田梅子は膝の上に載せた立体パソコンのホログラフィー・キーボードの上で指を動かし始めた。すると、美空野朋広が言った。

「ああ、町田君。それから、今回の件は、私と君の『共同代理』という事で、いいね」

 指を止めた町田梅子は、後ろを向く。

「え? あ……はい。よろしく、お願いします」

「じゃあ、書類の冒頭の、代理人欄の記載も、その通り修正しておきなさい」

「分かりました。……」

 町田梅子は少し不請顔でホログラフィー文書の頁を戻し、代理人欄の自分の氏名の前に、美空野の氏名を入力していった。美空野朋広は後部座席から町田の様子を観察する。町田梅子は白の立ち襟ブラウスの上に明るいベージュのジャケットを羽織り、薄茶色のオックスフォード・バッグズのズボンを穿いていた。控えめにイミテーション・ゴールドのネックレスとイヤリングもしている。役員達の前に出ることを考え、少し気負ったファッションだった。代理人欄の記載の訂正を終えた町田に、美空野朋広が言う。

「ああ、それからね。そのネックレスは外しなさい。イヤリングも」

「はあ……」

 不思議そうな顔で後ろを向いた町田に、美空野朋広が言った。

「言っておけばよかったな。今日は、会長の娘さんの命日なんだ」

「田爪瑠香さん……ですよね」

「そうだ。よく記録を読んでいるみたいだね。会長は、毎月五日には喪に服していらっしゃる。たしか、今月で四回目になるかな」

 それを聞いた町田梅子は、美空野の服装を見た。美空野朋広は白いワイシャツに無地の黒いネクタイを締め、黒地にカスケード・ストライプの背広を着ている。腕時計も、いつもの金の腕時計ではなく、黒い革ベルトの時計に替えていた。町田梅子は顎を引いて自分の服装を見ながら言った。

「そうですか……私、気付かずに、こんな格好で……」

 町田梅子がイヤリングを外し始めると、美空野朋広は言った。

「君は、光絵会長に会った事はあったかな」

 外したイヤリングを上着のポケットに入れながら、町田梅子は答えた。

「いいえ。まだ、一度も」

「そうか。お年だが、なかなかの才女だ。法律にも詳しい」

 ネックレスを外しながら、彼女は言う。

「そうなんですか。たしか、論理物理学にもお詳しいとか」

「ああ。しかも、肝も据わっている。あれだけの大会社を一人で束ねていらっしゃるだけの事はある。昨日も、今日の取締役会に出席するはずだった役員三名を、半ば強引に辞任させた」

 掌の上で安物のネックレスをまとめた町田梅子は、美空野の顔を見た。

「辞任?」

「有働前総理と内通していたんだ。どうやって調べたのかは知らんが、恐ろしい御人だ。君もよく心得ておきなさい。ストンスロプ社は、現内閣総理大臣の辛島勇蔵を推している。そして、会長と辛島総理は旧知の仲らしい。つまり、辛島総理の政敵の有働先生は、光絵会長にとっても敵だということだよ」

 町田梅子は、ネックレスを上着のポケットに入れながら美空野に尋ねた。

「あの……所長は以前、有働前総理の代理人を御務めになられていたのでは……」

「ああ。だから、気をつけないといかん。私は既に、有働先生との顧問契約を解除しているのだが、会長は信用していないだろう。信用を勝ち取るためには、結果を出すしかない。今回のアキナガ・メガネとの裁判は、いいチャンスだ。ストンスロプ社は以前、子会社のGIESCOが開発した新型細胞の特許技術についてNNC社に訴訟提起されて、結局、和解でその技術を奪われてしまった事がある。その時にストンスロプ社は大損害を被ったんだ。だから光絵会長は、今度のアキナガ・メガネ社からの特許裁判には、それなりの神経を注いでおられるはずだ。という事は、ここで、この紛争を上手くまとめる事が出来れば、逆に会長から厚い信用を得る事が出来る。しかし、失敗すれば、私の弁護士としてのキャリアは終わる。私の弁護士法人も解散に追い込まれるだろう。過去にストンスロプ社に言いがかりをつけて、その特許技術を奪ったASKITがどうなったか、君も知っているはずだ。会長は恐ろしい。きっと、光絵会長は、そういう御人だ。だから私も、君と同じで、『背水の陣』で臨むつもりなんだよ。そういう訳で、共同代理人として、名を連ねさせてもらう。責任の所在を明確にするためにもね。分かったね」

 町田梅子は膝の上の立体パソコンから投影されているホログラフィーの和解契約書に視線を落とした。彼女は呑込み顔で頷く。町田梅子は真剣な目をして、美空野を見た。

「分かりました。私も、全身全霊を捧げるつもりで、この交渉に臨みます」

「ははは」

 彼女の言葉を聞いた美空野朋広は、笑った。町田梅子は美空野がどうして笑ったのかが解からず、不思議そうな顔をしていた。彼女の表情を見て、美空野朋広が言う。

「いや、何でもない。昔の自分を思い出してね。ま、その意気で頑張ってくれたまえ」

「はい!」

 元気よく返事をした町田梅子は、立体パソコンのホログラフィー文書に向かい、眉間に皺を寄せながらホログラフィー・キーボードの上で指を動かしていった。

 自動走行で走るそのAIジャガーは、一定の車間と速度を保ったまま、地下の高速道路の中を無音で走っていった。



                  十四

 朝日が射し込むストンスロプ社ビルの大会議室には、長い会議テーブルを挟んだ左右の列に、子細者らしき顔をしたストンスロプ社の重役たちが居並んで座っていた。テーブルの上座の中央の席に一つだけ置かれた大きな椅子には、まだ光絵由里子は座っていない。その席に一番近い、左の列の先頭の角の席に美空野朋広が座っている。町田梅子は少し緊張しながら、美空野の隣の席で立体パソコンを下座の大型パネルとリンクさせる作業をしていた。町田梅子はホログラフィーのアイコンを動かしながら、役員たちの会話に耳を傾けた。

「会長、来ますかな」

「どうだろうな。昨日も体調を崩されて、GIESCOの視察を途中で切り上げたそうだ。『臨時の』取締役会に出席するのは、体力的に、無理だろう。会長も、もう御歳だ。ここは、ゆっくりと、ご休養いただこう」

「何も今日みたいな日に入れなくても……。常務も、お人が悪い」

 脂顔の常務は軽く咳払いして、一瞬美空野に目を遣ってから、隣の役員に言った。

「まあ、『ノア零一』の問題は、我が社にとって非常に重要な問題だ。一刻も早く結論を出さんといかん。会長には悪いが、会社のためだよ。会社のため。会長の墓参りに合わせて、こっちの日程をずらす訳にはいかんじゃないか」

 別の赤い鼻の役員が口を挿んだ。

「心配しなくても、昨日のご様子だと、今日の娘さんの墓参りもキャンセルされているだろう。ならば、どちらにしても、この会議には出席できんということだ」

 眉の太い若手の役員が言う。

「墓参りに行って、ご自分が墓に入られては、洒落になりませんからなあ。ま、万一、そうなった場合は、常務、我が社の舵取りをしっかり頼みますよ」

 脂顔の常務は美空野の顔を気にしながら、小声を作って、その若手役員に言った。

「コラコラ。美空野先生の前で不謹慎じゃないか」

 口髭を生やした役員が笑みを浮かべながら言った。

「では、来月からの定例会議も、毎月四日という事で……」

「おいおい。そんな事をしたら、会長は、ここに墓を移してしまうぞ」

 眉の太い役員が調子付いて言う。

「いや、ベッドも置いてしまわれるかもしれませんよ。ついでに、ご自身の墓石も」

 町田梅子はその若手役員に視線を据えると、低く落ち着いた声で言った。

「それは、少し冗談が過ぎるのでは」

「町田君」

 隣から美空野が窘めたので、町田梅子はそれ以上何も言わずに、パソコンの作業に戻った。役員たちは若い町田から注意を無視して、会話を続けた。

「いっその事、お坊さんも呼んでおきますか」

「馬鹿。それじゃあ、『臨時取締役会』じゃなくて、『臨終取締役会』じゃないか」

「わははは。そりゃあ、いい。……」

 美空野の席の後ろでドアが開いた。笑っていた赤鼻の役員が口を噤む。他の役員たちも口を噤み、会議室に入ってきた黒い帽子の老女に視線を向けた。黒色のダスターコートに身を包み、つばの広い黒い帽子を被った光絵由里子は、杖をつきながらも堂々とした態度で上座の会長席へと向かう。その後ろを、資料が綴じられた分厚いファイルを小脇に抱えた執事の小杉正宗が姿勢よく歩いた。役員たちは忍び声で会話をする中、光絵由里子は玉座のごとく置かれた大きなアームチェアーの前まで来ると、杖をテーブルに立てかけ、黒いリボンが巻かれた帽子を外し、小杉に渡した。資料ファイルをテーブルの上に置いた小杉は、白い手袋をした手で帽子を受け取る。朝露を付けたコートを脱いだ光絵由里子は、それも小杉に渡すと、椅子の前に移動した。小杉正宗は、それらを持って正面の隅のドアの所まで行き、壁のフックに帽子とコートを丁寧に掛けた。そして光絵に向けて一礼すると、そのドアを開けて出て行く。淡い黒色のスーツ姿の光絵由里子は、その大きな椅子に腰を下ろすと、威厳と怒りに満ちた眼で役員たちの顔を見回した。役員たちは皆、視線を逸らし、ある者は粛然としてスーツの襟を正し、ある者は悄然として下を向き、ある者は慄然として額の汗を拭いた。末席に近い席の役員たちは、ささめきを続けている。光絵由里子は杖の頭の銀細工を握ると、杖を持ち上げ、一度だけ強く床を突いた。斧音のような固く強い音が響く。町田梅子は驚いて両肩を上げた。役員たちは沈黙し、大会議室の中は静寂に包まれた。光絵由里子は上座に近い席の役員たちを一人ずつ睨み付けていった後、静かに口を開いた。

「どうしました。時間です。始めなさい」

 若い司会役の男が慌てて演台に向かった。臨時取締役会は定刻どおり始まった。司会役の男が形式どおりの話を終えると、眉の太い若手役員が挙手をして発言した。

「はい。緊急動議を提案いたします」

 彼は立ち上がると、他の役員たちを見回しながら言った。

「先般より首都地方裁判所に係属している、我が社とアキナガ・メガネの特許訴訟について、我が社としての対応を決議したいと思います。その前に、裁判の進捗状況と今後の法的対応、及び、今後の見通しについて、代理人弁護士法人の代表者であられる美空野朋広先生からのご報告と、ご説明を求めたいと思いますが、みなさん、いかがでしょう」

 すぐに場内に拍手が沸いた。若手役員が言う。

「ご異議ございませんな。では、美空野先生、お願いいたします」

 いかにも事前に段取りを決めていたらしい発議と議決に、美空野朋広は呆れ顔で溜め息を吐き、椅子から立ち上がった。町田に視線を送る。町田梅子は頷いた。美空野朋広は光絵に一礼すると、下座の大型モニターの方に、壁と重役たちの背中の間を通って歩いていった。

 モニター画面の隅に立った美空野朋広は、司会役の男から渡されたピンマイクを胸に付けると、その調子を確認してから、重役たちの方を向いた。彼は険しい面持ちで言う。 

「どうも。弁護士の美空野です。なにぶん、緊急の動議でございましたので、私の方から皆様にお配りする資料データを準備してきておりません。次回は是非とも、事前のご連絡を頂きたいと、ストンスロプ社の代理人弁護士法人の代表者として申し上げます。なお、今日、私は、この議事進行の監視役として呼ばれた訳ですが、その立場からも一言申し上げますと……」

 美空野朋広は、赤鼻の役員や太い眉の若手役員に厳しい視線を向けながら言った。

「今後、特定の役員を実質的に排除するべく役員会の開催日程を設定された場合、当該役員会での決議事項は法的に効力が生じないのは勿論、関与者に民事上の不法行為が成立する可能性もございますので、ご注意ください」

 美空野の席の向かいの席から、脂顔の常務が太い声を発した。

「たかが日程を決めるくらいで、何で不法行為なんだ。誰が訴える」

 美空野は即答した。

「ストンスロプ社です。そして、株主。会社の成長に最も貢献し、現在も、このストンスロプ社を支え、最も適切に判断を下している人物を、会社の執行機関から実質的に排除する事は、会社にとって大きな損害です。役員会の日程設定が意図的に当該貢献者を出席させないための設定であれば、故意でしょうし、『たかが日程を決めるくらい』の事で、適切な調整が出来ないのであれば、重過失でしょう。いずれにしても、民法上の不法行為の要件に合致します。ストンスロプ社は営利法人ですので、会社に損失が生じた場合は、その補填の請求を加害者にしない訳にはいきません。つまり、不当な日程の設定者に。ところで、この貢献者が取締役会に出席しないまま、無効な取締役会で決定された執行方針に従い、実際に会社を動かした場合、会社はいくらの損失を被るでしょうかね。皆さんの個人資産を全て差押えても、到底足りない額でしょう。また、それにより株主の保有するストンスロプ株が値下がりすれば、株主からも訴えられかねない。皆さんもストンスロプ株を保有されておられるでしょうが、一番多く保有している筆頭株主は、誰でしたかね」

 口髭の役員や赤鼻の役員は、視線を上座の光絵由里子に向けた。彼女は目を瞑って端座している。

 美空野朋広は続けた。

「なお、場合によっては、刑法上の偽計業務妨害の罪に問われることも……」

 光絵由里子が口を開いた。

「もういいでしょう。動議の提案どおり、裁判の説明をしなさい」

「はい」

 美空野朋広は、長いテーブルの遠くに座っている町田梅子に合図して、わざと役員達の印象に残るように、少し大きな声で言った。

「町田梅子先生。先生が起案された和解案のデータがありましたね。作成中のものでしょうが、構いません。それをモニターに出して下さい。重役の皆様の手許のモニターにも」

 町田梅子は、テーブルの上に置いた立体パソコンから投影されているホログラフィー・アイコンを指先で操作して、車中で修正した和解案文書を美空野の後ろの大きなモニターに表示させた。同時に、テーブルに座っている重役達の前にも、天井からそれぞれ同じホログラフィー文書を表示させた。美空野朋広は説明を始めた。

「今、我々が構想中の和解契約の条項内容です。構想段階の不完全なものですので、草案の骨子だと、ご理解下さい。読みづらい箇所もあるでしょうが、急なご要求で、こちらもプレゼン用に整えたデータを持参しておりませんので、これでご容赦願います」

 役員の一人が尋ねた。

「これは、アキナガ・メガネ側には、見せているのかね」

「いいえ。まだ我々が検討している段階の内容でして、相手方には提示していません」

 議場は騒めいた。美空野朋広は言う。

「では、始めてもよろしいでしょうか」

 場内が静まると、美空野朋広はモニターの方を向いた。

「まず、第一条ですが……」

 美空野朋広は、役員達に背を向けながら、モニターを見て説明を開始した。美空野がストンスロプ社のアキナガ・メガネ社に対する特許技術使用料の支払義務を認める内容の条項を読み上げた時、再び場内が激しく騒めいた。美空野朋広は動じること無く、その部分について解説した。

「具体的にいくらの金額の支払いとするかは、これからの交渉です。しかし、客観的に金額が算出できる以上、その額に落ち着くものと思量されます」

 役員たちは口々に不安を並べた。

「そんな……とんでもない額になるじゃないか。相手の言い分を、すべて呑めと言うのか」

「それじゃあ、裁判で争っている意味がないじゃないか。ウチだって、透過式フォトダイオードの開発は進めていたし、集積加工技術だって、ウチのGIESCOが先に実験に成功しているんだぞ。なんで今更……」

「それより、株価だ。こんな和解内容が世に知れたら、ウチの株価は急激に下落するぞ。保有する自社株式が資産を圧迫して、一気に赤字企業だ。債務超過になってしまうかもしれん。倒産じゃないか」

 美空野朋広は冷静に話を進めた。

「次の条項にあるとおり、この支払いをもって、アキナガ・メガネ社には、今後、ストンスロプ社とそのグループ会社が透過式フォトダイオード及びその集積技術を使用する事を将来にわたって承諾してもらいます。勿論、支払い金額についても、安く抑えられるように我々も交渉します。ですが、支払債務を確定させ固定するのは、別の意味があるのです。まあ、私の説明を聞いてください」

 綽綽と構えて見せた美空野朋広は、デット・エクイティ・スワップについて説明を始めた。役員たちは真剣な顔で耳を傾ける。

 黙って聴いていた光絵由里子の後ろのドアが静かに開き、小杉が入ってきて、光絵の椅子の後ろに歩み寄った。町田梅子は手元のホログラフィーから眼を離し、二人の方を見た。執事の小杉は、光絵に数枚の名刺らしきものを手渡すと、彼女の耳元に白い手袋をした手を添えて、何かを耳打ちしていた。美空野は上座での出来事に気付かないまま、役員達に説明を続けている。

「つまり、確定させた債権たる特許使用料請求権あるいは和解金支払請求権を、ストンスロプ社の新株発行の際の払込対価として、アキナガ・メガネ社からストンスロプ社に移転させるのです。結果、当該債権は混同で消滅。ストンスロプ社は金銭的支払いを免れます。ただ、債権の取得は帳簿価格以下という事になりますので、その差額が、実質的には、本件訴訟の和解金の支払いという事になります」

「発行した新株はどうなるんだ。アキナガ・メガネ社が株主として大きな発言権を持つことになるじゃないか」

「ですから、発行する新株は全て種類株式とし、その内容は、議決権無しというものにします」

「そんな提案を相手方が呑むのか? 結局、差額金の支払いで終わりじゃないか」

「仕掛けを作ります。まず、無議決権のほかに、配当優先株ともしておきます。しかも、トラッキング・ストック、つまり、特定事業連動型株式とします。優先配当に業績を連動させる事業のリストは、次のページに列記してあります。一応、我々の方でリストアップした『案』ですが、具体的には、役員の皆様でご検討下さい」

「馬鹿馬鹿しい。業績好調の事業部門ばかりじゃないか。これらについてアキナガ・メガネ社に優先配当したら、他の株主は、ほとんど配当金を得られなくなってしまう。株主総会の同意を得られんよ、こんなの」

「皆様のように、ストンスロプ株を多く保有しておられる方々は、そう思われるかもしれません。しかし、ストンスロプ社が倒産して、保有している株式自体が紙切れになるよりは、よろしいのではないでしょうか」

「なんだと。俺達が配当金目当てで株を保有していると思っているのか。我々は、この会社の経営を安定させる為にだな……」

「まあまあ、落ち着かんか」

 興奮した様子で食って掛かる赤鼻の役員を脂顔の常務が窘めた。彼は美空野に尋ねる。

「それで、他の株主を説得できる策はあるのか」

「ございます。先ほど、種類株式の内容として、特定事業連動型の優先配当と無議決権を提案しましたが、実はもう一つ……」

 その時、美空野朋広は、奥に座る光絵由里子が美空野を指差して小杉に何かを指示しているのに気付いた。美空野朋広は説明を途中で止め、光絵の方を見たまま静止した。説明の中断に気付いた光絵由里子は、遠くの玉座から、奥のモニターの前で固まっている美空野に低く落ち着いた声で命じた。

「いいわ、続けて」

「――はい。ええ……優先配当と無議決権に加えて……」

 町田梅子は、そのまま光絵由里子を見つめていた。高い背もたれの椅子に端然として座しているその老女は、黒い色調の衣類に身を包み喪に服しながらも、悲しみに暮れている様子は無く、むしろ、凛として大胆であり、そして、大様に構えているように見えた。だが、その眼差しは冷厳としていて、他の役員たちからも屹然として孤高を守っている、町田梅子には、そう感じられた。すると、彼女の視線に気付き、光絵由里子が視線を向けた。町田梅子は光絵と眼が合った。その鋭く人を見通すような眼差しに、町田梅子は恐怖すら感じ、それを誤魔化すように栗色の髪をかき上げると、目の前のホログラフィーに視線を戻した。

 町田梅子は再び美空野の説明を聞きながら、ホログラフィーの起案文書の文面を目で追い始めたが、美空野の口から発せられた言葉を聞いた瞬間、その顔を美空野の方に向けた。

「――という具合に、『全部取得条項付種類株式』にしてしまえば、最終的には、発行した新株はストンスロプ社の手元に戻って来る訳です」

 町田梅子は焦った。自分が起案した文書には、「全部取得条項付種類株式」に関する条項など無い。そもそも、彼女には、株主総会の特別決議によって会社がその種類の株式を全て取得する事になる種類の株式を発行するなど、念頭に無かった。

 美空野朋広は淡々と説明を続ける。

「その株式を取得した後に、速やかに帳簿上の消却処理を済ませてしまえば、結局、当初の小額の和解金のみの支払いで、この件は決着したことになります。もちろん、透過式フォトダイオード及びその集積技術も、将来に渡り使用可能です。結論としては妥当だと考えますが、いかがでしょうか」

「なるほど……いやあ、さすがは美空野先生だ。よく考えてありますな」

 口髭の役員の発言に続いて、疎らに拍手が鳴り始めた。すると、赤鼻の役員が言った。

「その全部取得条項付種類株式の取得対価は、どうするのだね。巨額の出費になるぞ」

 口髭の役員が追従する。

「そうだ。取得対価だ。取得対価」

 美空野朋広は答えた。

「時価で買取るという設定にします。アキナガ・メガネ社は自社が開発した技術を提供することで、ストンスロプ社の株価は右肩上がりに上昇すると考えるはずです。時価での取得という事であれば、異議はでないでしょう」

 口髭の役員は声を荒げた。

「相手が異議を出さなくても、我々に異議があるんだよ。発行した時よりも株価が上昇したら、取得の際には、その分多く支払わないといかんじゃないか。我が社に損失を与える気かね、君は。それじゃ、大損失じゃないか」

 美空野朋広は片笑んで見せる。

「上昇すればね」

 脂顔の常務がニヤリと笑って、言った。

「なるほど……その種類株式について、株価を引き下げるつもりだな。発行時の評価額よりも大幅に。そして、底値になったところで、アキナガ・メガネから、発行した株式を全部取得してしまう。そういう魂胆だな」

 美空野朋広は頷いた。彼は言う。

「議決権の無い、全部取得条項付株式で、特定事業連動型、つまり、その事業の業績が悪ければ、配当金はもらえない、こういう点を強調して、マスコミに報じてもらえれば、アキナガ・メガネに対し発行した種類株式の市場価格は、底値に向けて一直線に降下するはずです。あとは、先ほどお示しした、優先配当と連動させる事業部門のチョイスと、マスコミの報道のタイミング次第でしょう。事業部門の中で、一時的に短期で利益は見込めるが、将来廃止する予定の事業は有りませんか。有れば、それを組み込んでおけばいい」

 脂顔の常務が大きな声で言った。

「丁度いいのがあるな、例の兵員輸送機。あれで、いいんじゃないか」

「いや、せっかく軍がまとめ買いしようとしている時に、それはマズイ。他にしよう」

 騒めく場内で、美空野朋広は説明を続けた。

「タイミングよく、マスコミがその事業廃止を大々的に報じてくれれば、和解で交付した種類株式の値が下落するのは、時間の問題です。ま、連動して、他の普通株式も若干の値下がりはするかもしれませんが、アキナガ・メガネ社から株式を全部取得した後に、スムーズに消却処理を終えて、回復した財務状況と透過式フォトダイオード及びその集積技術を使った製品の発表を絡めて報道すれば、すぐに株価は元の水準に戻るはずです。いや、それ以上に上がるかもしれませんね」

 太い眉の若手役員が言った。

「これなら、いいんじゃないですかね。ねえ、常務」

 脂顔の常務は厳しい顔を美空野に向けた。

「だが、相手は、あの時吉浩一弁護士を立てているんだぞ。そう上手くいくのかね。そもそも、いくらアキナガ・メガネが金目当てだとはいえ、無議決権の株式の交付で、了解するだろうか。時吉も、そこまで馬鹿じゃなかろう」

 美空野朋広は町田を一瞥すると、落ち着いた様子で脂顔の常務に言った。

「上手くいくように、文面を考えるのです。そこは、我々、プロの腕の見せ所ですよ。それに、もしご心配でしたら、和解交渉の過程で無議決権株式の条項が削除された場合に備えて、株主割当の方法で新株を大量発行するか、株式分割を実施して発行済み株式数を増やし、アキナガ・メガネが保有する予定の持株比率が下がるように準備しておけばいい。まあ、前者の方がいいでしょうな。株価の事もありますから。いずれにしても、この取締役会だけで決定できます」

 赤鼻の役員が得心がいった顔つきで言う。

「そうだな。それは、決めておくか」

 太い眉の若手役員は何度も頷いた。

「問題ないんじゃないですかね。ね、常務」

 脂顔の常務は暫らく腕組みして目を瞑り、熟考するかのように構えて見せた後、おもむろに口を開いた。

「そうだな。では、そのプロのお手並みを拝見させてもらおうじゃないか。な、皆さん」

 口髭の役員が美空野に向けて拍手をしながら言った。

「頼みますよ。美空野先生」

 ポイズン・ピル! 鳴り響く拍手の中、町田梅子は、心の中で、そう叫んでいた。

 株式を大量発行して、買収を仕掛けてきた相手の持株比率を下げ、保有されてしまった株式を全部取得条項付株式に変更して一気に取得し、取得対価として議決権制限株式を交付する手法は、「ポイズン・ピル」と呼ばれていた。美空野朋広は、通常、買収防衛策として用いられるその手法を巧みに利用して、しかも、さらにそれを練って、相手方が取得する株式を骨抜きにしたうえで、ほぼ無対価でそれを取得しようという計画を提示していた。

 美空野の役員達に対する説明は巧みだった。おそらく、美空野は初めから、アキナガ・メガネの持株比率を下げて、株主総会で全部取得条項付株式への変更手続をするのが狙いであったに違いない。だが、そうなると、大量に新株を発行する必要があり、自らも株主である役員達は、きっと配当比率が下がることを恐れて、美空野の案に反対しただろう。しかし、美空野は、最初に無議決権株式を直接相手方に交付する案を役員達に提示することで、その賛同を得て、その後に、その担保としての対策として、ポイズン・ピルの手法を提示した。そうする事で、本命である後者に対する役員達の積極的賛同も、実に見事に取り付けたのである。それに気付いた町田梅子は、美空野の巧妙な話術と策士ぶりに驚くと同時に、自己の未熟さを痛感して、心の中で項垂れていた。

 鳴り響く拍手の中、美空野朋広が椅子に座っている町田の後ろを通って、彼女の隣の席に戻ってきた。彼は得意満面で町田の顔を見ると、斜め前の会長に見えないようにして、一瞬、口角を上げて見せた。彼がそのまま革の椅子の背もたれに手を掛けて、椅子に座ろうとした時、執事の小杉が現れて、折り畳まれたメモ用紙を渡した。美空野は町田の椅子の横に立ったままそれを読むと、黙ってそれを町田梅子に手渡した。町田梅子は、美空野から手渡されたメモを読んだ。

 ――刑事が来訪 会長は面会を拒否 ご対処よろしく――

 その小さなメモ書きには、その三文しか書いていなかった。町田梅子が横に立つ美空野を見上げると、彼は斜め前の光絵の顔を見ていた。町田梅子が彼女に視線を移すと、光絵由里子は、ただ黙って頷いた。美空野朋広は町田の肩を軽く叩き、引いた椅子を戻すと、出口のドアの方に歩いて行く。町田梅子は、慌てて美空野の後を追った。二人はその大会議室から険しい面持ちで出て行った。



                  十五

 町田梅子は美空野とエレベーターに乗り、一階のエントランスへと向かっていた。最新式のリニア・エレベーターが高速で下っていく。町田梅子は思い巡らせながら、美空野に言った。

「警察が、何の用でしょう」

 美空野朋広は眉間に皺を寄せている。

「どうやら、光絵会長に会いたがっているようだな」

「会長に? 何故ですか」

 怪訝な顔で尋ねた町田に、美空野朋広は言った。

「さあね。毎度の事だ。ただ、よく居るんだよ、権力を振り回して、こういう大企業の経営者に何か因縁をつけては、いろいろとタカってくる刑事たちが。きっと今回も、その類だろう。だが、我々は弁護士だ。権力に屈してはいかん。刑事訴訟法に則った正式な手続でないなら、全て拒否だ。いいね」

「分かりました」

 頷いた町田梅子は、少し遠慮気味に美空野の顔を覗いた。

「あの……所長」

「ん。何だね」

「ポイズン・ピルでいくのですか」

 美空野朋広は両眉を上げた。

「ああ、悪かったね。打ち合わせなしで。実は、あの場で思いついたものだからね。あれで大丈夫だよね。君、もう一度よく検討してみてよ」

「はい……。ですが、その事前準備として、キャスターの藤崎さんにお会いになられたり、私に週刊新日風潮の山野さんに会えと仰られたのではないですか」

 町田に指摘された美空野朋広は、ニヤニヤしながら言った。

「町田君、覚えているかね。僕は君に、この件には『背水の陣』の心構えで臨めと、そう言ったよね」

「はい。それは、私も理解しているつもりです。この件は何としても成功させないと、もう後が無いと……」

「君、『背水の陣』の故事、知ってる? 『史記』は読んでないの」

 町田梅子は記憶を辿ったが、読んだ覚えは無い。せいぜい、学校の漢文の授業で習った程度だ。町田梅子は正直に答えた。

「はあ……すみません」

 美空野朋広はゆっくりと首を横に振る。

「駄目ですねえ。本を読まなきゃ。――あのね、話はこうだ。漢の国の劉邦の部下である韓信という武将が、趙の国を攻めた時の話でね。韓信の率いていた兵は多くて三万、趙の軍は、約二十万、そのうえ、万全の体制で迎撃の準備をしている。正面から戦ったら負けだ。そこで韓信は、まず兵の中から二千の騎兵を選抜し、それら全員に赤い旗を持たせて、趙軍の側面の山陰に潜ませた。さらに一万の兵を、趙軍の前面を流れる川を背にして布陣させた。そして、朝、残りの兵で趙軍の城に向けて総攻撃を開始した。趙軍は、準備どおり門を開けて迎撃をする。しかし、韓信の軍は、一斉に退却し、川の辺の本陣へと敗走して見せた。趙軍は、川を背にして布陣する韓信軍の本陣を見て、今が勝機と、城から一斉に出撃して追撃を開始した。ほとんど無防備で空となった城に、山陰に潜んでいた騎兵隊が攻め入り、城は陥落。騎兵隊はその城に赤い旗を立てた。一方、川辺の本陣を攻めていた趙軍は、意外にも韓信軍に手こずる。当然だ、後ろが川じゃ、逃げ場が無い。韓信軍の兵士達は必死で戦う。趙軍が敵を攻めあぐねて、一時退却しようとしてみると、今度は自分たちの本陣の城に、たくさんの赤い旗が立っていて、敵に占拠されている。取り乱した趙軍は遁走とんそうし、韓信の作戦勝ちとなった。韓信は、その後、これが兵法を応用した練られた作戦だったと主張している。ま、これが、『背水の陣』の逸話だよ」

 町田梅子は視線を床に落として美空野の話を聞いていた。美空野朋広は続ける。

「ただ言葉を知っているだけじゃ駄目だ。その言葉の元になった逸話を知っておかないと。大事なのは、その逸話から、つまり人類の歴史から何を学ぶかだからね。この『背水の陣』の話は、韓信の成功談であると同時に、趙軍の失敗談でもある。韓信の緻密な罠と作戦勝ちと、趙軍の勘違いによる敗北だ。兵法上、敗北が決定的とされる水を背にした陣営をあえて構えて、敵を誘い、奇策で敵の城を落とし、敵軍を撹乱させ敗走させた男の話だ。それが『背水の陣』の故事だよ。『背水の陣』という言葉は、そういう故事を伝えるために使う言葉だ。僕は君に、この件には『背水の陣』で臨めと言った。それは、悲壮感を漂わせて必死に取り組めという意味ではないんだよ。韓信がとった作戦のように、緻密で巧妙な作戦で臨めという意味なんだ。なのに、君は必死の形相で、全身全霊で頑張ると言う。だから僕は、車の中で君の事を笑ったんだよ。僕が君に求めているのは、そんな事ではない」

 美空野朋広は強い口調で言い切った。町田梅子は恥ずかしそうに下を向いていた。

 一階のエントランスで、エレベーターの扉が開いた。中から、肩を張って険しい顔をした美空野朋広が出てくる。その後ろから、少し肩を落として俯いた町田梅子が出てきた。彼女は大きく自信を失っていた。



                  十六

 一階のエントランスには大理石で囲まれた円形の池がある。その向こうの壁際に置かれた応接椅子には、三人の刑事たちが座っていた。彼らは、エレベーターから美空野と町田が出てきたのに気付くと、一斉に立ち上がり、二人の弁護士の方を向いた。町田梅子は彼らを遠くから観察しながら、円形の池の縁に沿って美空野と共に歩いていく。どの刑事も、険しい表情をしていた。三人の刑事は老壮青の男達で、老刑事はヨレヨレのガンクラブチェック柄のグレーのジャケットに白のワイシャツ姿で、下は黒のスラックスを穿いている。背筋は曲がっておらず、肌艶もよい。白髪混じりの髪は薄かったが、日に焼けた額の下の目は鋭く、まるで獲物を狙う鷹のようであった。その横に立っている背の高い男は、首の太いガッシリとした体形で、短髪に薄く無精髭を伸ばし、片方の目尻には絆創膏を貼っていた。黒の洒落たスーツに白いワイシャツを襟元の釦を一つ外して着ていて、細い黒のネクタイを弛めに巻いている。町田梅子は、その壮年の刑事がポケットに両手を挿したままでいるのが少し気に障った。その体育会系の壮年刑事の後ろには、濃紺のスーツに、アイロンが綺麗にかかった白いワイシャツの一番上まで釦を閉めて、大柄の派手なネクタイをきちんと巻いている七三分けの若い男が立っていた。彼は、一度、胸のポケットから名刺か何かを取り出そうとしていたが、振り向いた壮年の刑事に睨まれたのか、彼の顔を見て首を竦めながら、背広の内ポケットから手を抜いた。町田梅子と美空野朋広が彼らの方に歩いてきている事がはっきりすると、彼らも歩き出し、こちらに近づいてきた。美空野朋広は刑事達と接触する前に、声をひそめて町田に伝えた。

「年配の刑事が三木尾みきお警部だ。司法試験崩れだが、切れ者だ。気をつけたまえ」

 彼らの前に来ると、美空野朋広は急に声のトーンを変え、大きくはつらつとした声で三人の刑事に言った。

「どうも。弁護士の美空野です。こちらは弁護士の町田先生です」

 町田梅子は、初対面の現場刑事と対峙であったので、大きな声で自己紹介するつもりだった。女だからと馬鹿にされないように印象付けておかねばならないと、頭では分かっていた。しかし、彼女は、さっきの美空野の見事なプレゼンや、彼が考えていた術策に自分がまったく及んでいなかった事、さらに、『背水の陣』の話が決定打となって、相当に落ち込んでいた。その心的ダメージは、自然と彼女の態度に表れた。町田梅子は、か細い小さな声で言ってしまった。

「町田です」

 美空野朋広は町田の横で太く張りのある声を出して、三人の刑事の独特の威圧感を押し返すように、はっきりと自己の立場を述べ、こちらの主張をぶつけた。刑事たちは、少し腰が引けて見えた。美空野の横で気を焦らしていた町田梅子は、少し大きな声を出して、会話に割り込んだ。

「どういった内容ですか。差し支えなければ」

 町田梅子の突然の介入に驚いたように、三木尾という老刑事は少し慌てて答えた。

「いや、捜査なんでね。本人に会わせて欲しい」

 町田梅子は、自らを奮い立たせるように、さらに大きな声を出して、その老刑事を問い詰めた。

「何の捜査なのでしょうか。被疑事実が分からない以上、本人も対応しかねますが」

 その町田の迫力に押されたのか、老刑事の横にいた大柄な壮年の刑事が一時撤退を老刑事に進言していた。すると、三木尾という老刑事は、その後輩の刑事を無視して、来訪の理由となる事情を述べた。彼の口から出た言葉は、「田爪健三失踪事件」だった。町田梅子と美空野朋広は、顔を見合わせた。「田爪健三失踪事件」は、二〇二八年の、いわゆる「第二実験」で、タイムマシンの開発者の一人である田爪健三が失踪している事件の事を指していると、町田梅子は思った。そして、その十年前の事件は、先般の新日ネット新聞の記事で、田爪健三が南米の戦地で生存していた事が明らかとされて既に解決し、終結している。それは国民の誰もが知る事実だった。勿論、町田梅子も美空野も知っている。そのような周知の事実を、面前の刑事が恥ずかしげもなく、捜査の理由として弁護士に述べたことに、町田梅子は激しく憤った。そして、先ほど美空野から聞いた「タカりに来る刑事」の話を思い出し、目の前の三人に軽蔑の眼差しを送りながら、今度は淡々とした口調で反論した。

「田爪氏と、我々の依頼人は姻族関係にあるというだけで、事件とは何の関係もありません。ましてストンスロプ社は法人ですので……」

 町田梅子が話している途中で、美空野朋広が割って入った。

三木尾善人みきおよしと警部。これは、任意での聞き取り調査という事でよろしいですよね」

 美空野の指摘ともいえる確認は、核心を突いていた。そして、町田梅子の反論内容を待たずして、その前提となる事実でもあった。町田梅子は、本来、この点を反論の論拠とするべきであった。任意での聞き取り調査であれば、そもそも強制捜査手続でない以上、国民には拒否する権利がある。町田梅子は、美空野に加勢せんとばかりに、彼の前に立つ老刑事を睨み付けていた。痛いところを突かれた老刑事は、その後の展開を読んで諦めたようで、溜め息を吐くと、一言だけ肯定の返事をした。すかさず、美空野朋広は、光絵由里子の代理人として、面会拒否の意を老刑事に伝えた。すると今度は、隣の壮年の刑事が美空野に食って掛かった。だが、美空野朋広は、その体格のいい血気盛んな刑事の大きな声にも屈する事なく、彼に向かって毅然と対応した。その後も刑事たちは、しつこく食い下がってきたが、美空野朋広は決して折れる事はなく、また、感情的になる事もなく、断固として自分の依頼人との面会を拒否し続けた。町田梅子は内心で、美空野の毅然とした態度に賞賛を送り、自分もああなりたいと思った。誰に、どのように脅されても、どんなに威圧されても、決してブレる事のない、真っ直ぐで強い信念を持った弁護士でありたいと思った。自信を失っていた町田梅子にとって、今の美空野は、闇夜に光を輝かせる灯台のようであった。彼女はその光に向かって、真っ直ぐに進んで行こうと心に決めた。



                  十七

 刑事たちを撃退した後、二人は再びエレベーターに乗った。リニア・エレベーターは昇っていく。

 心行き顔で階数表示パネルの数字を数えている町田の横で、美空野朋広は顰めていた。

「まったく。警察というものは、どうしていつも、あんなに横暴なんだ」

 町田梅子は美空野に合わせて眉を寄せた。

「今更、『田爪健三失踪事件』を持ち出してくるとは、驚きましたね」

「ほんとだよ。いったい、いつの話をしているつもりなんだ。我々を馬鹿にするにも、ほどがある。これが警察の実体だ。君も気をつけなさい」

「はい」

 町田梅子は、はっきりと返事をした。美空野朋広は更に言う。

「それから、ストンスロプの件は、さっき話したとおりだから、分かったね。相手方代理人の時吉だって、弁護士だ。一筋縄ではいかん。敵を油断させて、こちらの術中に陥れる。『背水の陣』を敷くつもりで、取り組んで下さいよ。あとは、君が起案する和解書の文面次第だからね。こちらの作戦を悟られないような、立派な文面を拵えなさい」

「分かりました。しっかり検討します」

 町田梅子は、きりりとした事成し顔をしてみせた。美空野朋広は満足そうに頷く。

「うん。頑張ってくれたまえ」

 エレベーターが目的の階に到着し、ドアが開いた。町田と美空野がエレベーターから出ると、ちょうど会議室から役員達が出てきたところだった。美空野朋広は廊下の壁際に寄り、役員たちがエレベーターに乗り終わるまで、その場で彼らを見送った。町田梅子は美空野の隣でエレベーターのボタンを押し、役員達が乗り終えるまで、そのドアが閉まらないようにしていた。役員達は不満そうな顔で会話しながら、二人が待機しているエレベーターの前までゾロゾロと歩いてくる。

 役員たちは口々に不平を述べていた。

「まったく。ビビッていたら、他社に出し抜かれちまうぞ」

「会長も女だからな。ドンパチの喧嘩が解ってねえんだよ」

「シー。聞こえますよ。会長室の前じゃないですか」

「構うものか。どうせ、そう長くはねえよ。アレ見ただろ。フラフラじゃないか。娘も死んだから、後継者に気を配る必要もなくなった。光絵家は彼女の代で終わりだよ」

「だいたい、司時空庁に上申書を送っていたの、お嬢さんなんだろ。会社のイメージが、どれだけ下がったと思うんだ。いい迷惑だよ」

「ほんと。おまけにその旦那の田爪健三は、殺人鬼と来ている。会長が創業者の孫じゃなけりゃ、疾うに解任ものだぜ。田爪も死んでくれてよかったよ」

 美空野朋広は前を素通りする役員たちに声を掛けた。

「お疲れ様です」

 赤鼻の役員が手を振った。

「ああ、どうも、どうも。先生。和解交渉の方、しっかり頼みましたぞ」

「はい。ですが、実際の交渉担当者は、こちらの町田梅子弁護士です。激励は、是非こちらに」

 美空野に示された栗毛の若い女を見た赤鼻の役員は言った。

「おお。そうですか。いや、こんな美人の先生が相手だと、時吉弁護士も撃沈ですな。わはははは」

 美空野朋広は眉の太い若手役員に尋ねた。

「会長は?」

「ああ、会議を中断されて、今は会長室にいますよ。どうやら、相当お疲れのようですな」

 すると、町田の事を舐めるような視線で下から上に眺めていた脂顔の常務が、彼女に話し掛けてきた。

「ところで、町田先生といったかな。今度ね、個人的に、ちょっと相談したい事があるんだけど、先生の時間が空いている時に食事でもどうですかね。昭憲田池近くのホテルの最上階にいいレストランがある。そこで、ゆっくりと」

 町田梅子はエレベーターのボタンを押したまま、適当に返事をした。

「――はあ。……」

 彼女の迷惑そうな目を見た美空野朋広は、その脂顔の常務に言った。

「事務所の方にご連絡いただければ、善処させていただきます」

 脂顔の常務は、美空野の顔を一瞥すると、また、町田をいやらしい目で見ながら言う。

「――うん。わかった。そうさせてもらう」

 そして、町田の肩に手を触れた。

「ま、頼みますぞ、梅子先生。では」

 脂ぎった顔に笑みを浮かべながら、その常務はエレベーターに乗り込んでいった。他の常務たちも乗り終え、町田梅子はボタンから指を離した。ドアが閉まるまでの間に、役員たちの会話が聞こえてくる。

「常務、人口ビーチの貸切チケットが手に入りましたよ」

「そうか。若い娘を呼べよ」

「お任せください。ばっちりです」

 ドアが閉まった。美空野朋広は軽蔑的な眼差しをエレベーターに向けながら、溜め息を吐く。

「まったく……」

 美空野朋広は眉間に皺を寄せて言った。

「あの人たちは、自分達が日本を代表する世界的企業の役員であることを、ちゃんと自覚しているのかね。何を考えているんだ」

 町田梅子は油顔の常務に触られた肩から何かを払い落とすかのように、そこを執拗にはたいていた。それを見た美空野朋広は言った。

「だからこそ、我々が会長をお守りして差し上げねば。それが弁護士の使命だからね」

「……」

 町田梅子は眉間に皺を寄せて、まだ肩を叩いている。美空野朋広は彼女に言った。

「ああ、心配しなくても、今の役員には別の弁護士を当てるよ」

 口を尖らせて肩を叩いていた町田梅子は、手を止めて美空野の顔を見た。美空野朋広はニコリと笑って頷いて見せる。町田梅子は無表情のまま、言った。

「すみません」

 美空野朋広は町田の肩を軽くたたいて言った。

「君が気にする事はない。行こう。会長がお待ちだ」

 美空野朋広は会長室に向かった。町田梅子は美空野に叩かれた肩もはたきながら、後について行った。

 会長室の前には光絵会長の執事の小杉正宗が立っていた。二人が近くに来ると、その白髪の執事はドアをノックした。光絵会長が中から返事をする。

「どうぞ」

「失礼します」

 ドアを開けた小杉正宗は姿勢を正したまま言った。

「美空野先生と町田先生がいらっしゃいました」

「通しなさい」

 美空野朋広と町田梅子は会長室の中に入った。

 中は広かった。ストンスロプ社の会長室に入るのも初めてだった町田梅子は、まず、その書架の蔵書の多さに驚いた。法律、歴史、科学、経済と多分野の専門書が並んでいる。ビルの東南の角にあるその部屋は、東南部分の壁全体が大きな窓になっていて、新市街と旧市街を一望できた。過度な装飾品は置かれておらず、意外にもシンプルだ。町田梅子は率直に素敵だと思った。

 眼下に広がる昭憲田池を背景に、こちら向きに置かれている大きな執務机の向こう側に光絵由里子は座っていた。町田梅子と美空野朋広は、分厚い応接ソファーの後ろを回り、その大きな執務机の前にきた。光絵会長に一礼した美空野朋広は、眉を寄せて言った。

「大丈夫ですか、会長。会議を中断されたと聞きました。失礼ですが、お顔の色も優れないように見受けられますが……」

 確かに、光絵由里子の顔色は悪かった。だが、依然としてその威厳ある雰囲気は消えていない。光絵由里子は机の上に両肘をつき、ハイバックの椅子の上で姿勢を正したまま、美空野に鋭い視線を向けた。

「大丈夫よ。それで、警察は、何と」

 美空野朋広は首を振りながら答えた。

「会長に面会したいとの一点張りでした。私が代理人として、はっきりと拒否いたしましたので、ご心配なく」

 光絵由里子は美空野の話の途中から、老眼鏡を掛け、机の上の書類に目を通し始めた。

「別に心配はしていませんが……。で、面会を求める理由は」

「それが、取って付けたような理由を言い出しまして。『田爪健三失踪事件』の捜査だそうです。まったく、聞いて呆れますよ」

「そうですか……」

 美空野の説明を聞き流すかのように答えた光絵由里子は、下を向いて書類を読みながら言った。

「他に何か」

 美空野朋広は一度、町田と視線を合わせてから答えた。

「――いいえ。特には何も」

 光絵由里子は書類に視線を落としながら、更に尋ねる。

「先ほどの和解案の方は、正式なものはいつ頃、出来上がりそうですか」

「勿論、今日中には」

 町田梅子は、即答した美空野の顔を見た。彼女が驚きと困惑を顔に浮かべていると、光絵由里子は、また尋ねた。

「私は、今日の何時頃かと訊いているのです」

「あ、ええと……」

 美空野朋広は町田の顔を見た。町田梅子は困惑した顔で少しだけ首を横に振る。他の案件を抱えている彼女には、到底、今日中に仕上げる自信はなかった。美空野朋広は前を向き、答える。

「五時までには、仕上げられると思います」

 町田梅子が目を丸くしていると、光絵由里子が書類を読みながら言った。

「三時までに仕上げなさい」

「――はい。承知いたしました」

 そう答えた美空野の隣で、町田梅子は肩を落として項垂れた。光絵由里子は下を向いたまま右手の指先で眼鏡を少し下ろし、額と眼鏡の間から町田を覗いて尋ねた。

「あなた、町田さんだったかしら」

「はい。町田梅子です」

 彼女がはっきりとそう答えると、光絵由里子は眼鏡を外し顔を上げた。

「交渉担当は、あなたなのね」

「はい」

 椅子の高い背もたれに身を倒した光絵由里子は、町田の目を見据えて言った。

「法曹として、あなたの思うように交渉しなさい。正しい選択をする事を期待しています」

 町田梅子は返事の仕方に少し当惑したが、大きく御辞儀をして答えた。

「――はい。精一杯、頑張らせていただきます」

 光絵由里子は口角を上げると、穏やかな口調で言った。

「必要な時には、いつでも私を訪ねてくるように。いいですね」

「はい。分かりました。ありがとうございます」

 町田梅子はもう一度、深々と腰を折った。光絵由里子は視線を美空野に移すと、表情の厳しい顔に戻した。

「それから、真明教はあなた達の事務所が顧問を務めているのですね」

「あ……ええと……」

 自分に質問されたと勘違いした町田梅子は、少し返答に窮し、助けを求めるように美空野を見た。美空野朋広は挑み顔で光絵の顔を見据えていた。

「教団とは、私の弁護士法人で法務チェックの方を引き受けています」

 光絵由里子は手に持った眼鏡のレンズを眼鏡拭き用の布で磨き始めると、片笑みながら皮肉を言った。

「法務チェック。便利な言葉を拵えたものね」

 美空野朋広は険しい顔つきで光絵に尋ねた。

「真明教が何か」

 光絵由里子は眼鏡のレンズを拭きながら言った。

「連中に伝えておきなさい。『ごまめ』は『ごまめ』らしく、皿の上で寝ておくようにと。これ以上、不快な歯軋りを続けるようなら、猫の餌にでもします。そのつもりでいるように」

「……」

 美空野朋広は眉間に皺を寄せて沈黙していた。眼鏡を掛けた光絵由里子は、再び机の上の書類に視線を落としながら言う。

「話は以上です。ご苦労でした」

 美空野朋広は光絵の背後の大窓から見えている眼下のGIESCOを指差して言った。

「あの、会長。GIESCOのセキュリティー・レベルが上げられているようですが、何かあったのでしょうか」

 町田梅子は首を傾けて、丁度、彼女の視界からは光絵の頭の後ろの辺りに重なっているはずのGIESCOを覗いた。あの巨大な研究施設GIESCOの敷地も、ここからは小さな模型のように見えるだけなので、彼女は美空野の言った事がよく理解できなかったが、どうやら施設の防犯体制が強化されているらしい。

 光絵由里子は書類の方に視線を落としながら言った。

「あなたには関係の無いことです。話す必要はないわ」

 美空野朋広は反論する。

「しかし、緊急支出があれば、会計処理も問題になりますし、労働組合への対応も考えておく必要が……」

「そういった問題が生じた時に対処するのが、あなたの仕事でしょう」

「ですが、特定警備設備のセキュリティー・レベルを変更した場合には、軍と警察への届出が必要となります。届出なしにレベルを上げれば、警備設備の設置許可が取り消される事もあり得ます。そうなれば、企業として信用を失うだけでなく、金銭的にも、かなり大きな損失が……」

「あなたは何時から、ここの経営者になったのかしら。方針は私が決定します。いいですね」

「しかし、会長……」

 美空野朋広がしつこく食い下がると、光絵由里子は眼鏡を外し、美空野の視線に鋭い威圧的な視線を重ねた。迫力負けした美空野朋広は、渋々と返事をする。

「はい……わかりました。では、失礼します」

「失礼します」

 町田梅子もそう言うと、再び老眼鏡を掛けて机の上の書類に視線を落としている光絵に一礼し、美空野と共に会長室を後にした。



                  十八

 真空の地下高速を自動走行で進んで美空野法律事務所ビルまで戻るAIジャガーには、来た時と同じように、運転席に町田が座り、後部座席に美空野が座っている。運転席の町田梅子は膝の上に置いた立体パソコンからホログラフィー文書を投影させ、ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の和解契約書の修正に取り組んでいた。後部座席の美空野朋広は左目を金色に光らせ、イヴフォンで誰かと通話している。

「――そうか。とにかく、俺のオフィスまで来い。話はそれからだ。すぐ来れるな。――ああ、そうだ。――それからな、もう一つ……おい、どうした、聞いてるのか……。おい、もしもし!」

 町田梅子がバックミラーで美空野の様子を伺う。美空野朋広は舌打ちすると、黒いネクタイに留めたイヴフォンを外した。

「切りやがった。まったく……」

 町田梅子は、ホログラフィー・キーボードの上で動かしていた手を止めて、後ろを向いた。

「何かありましたか?」

 イヴフォンをポケットに仕舞った美空野朋広は、黒いネクタイを緩めながら答えた。

「いや、何でもない。それより、例のフィンガロテル社の件だが、相手方のステムメイル社に『関融』が融資している額が分かった。私のパソコンに入っているから、あとで君のパソコンにデータを送信するよう、小彩おざい君に言っておくよ」

「分かりました。どれくらいでしたか」

「ステムメイル社の長期借入金勘定の約七十パーセントに及ぶ額だ。関融は、今週中に融資金を引き上げる手筈を整えているそうだ。だから、ステムメイル社への仮差押えの申立ては急ぎたまえ。機を逸してはいかん」

「はい。――分かりました」

 町田梅子は再び前を向くと、和解契約書の修正を続けた。ネクタイを外した美空野朋広は、バックミラーに映る町田の顔を見ながら言った。

「それから、昨日、話していた事故の話なんだがね」

 町田梅子は再び作業の手を止め、後ろを向く。

「――はい。所長の知人だという方の」

「うん。新都急行株式会社は知っているかね」

「ええと……たしか、ウチが顧問をしている運送会社ですよね。中型トラック輸送がメインの」

「ああ。昨日、自損事故を起こしたのは、そこの四トン・トラックなんだ」

 そう言うと、美空野朋広はワイシャツの襟を立て、鮮やかな赤に紫のストライプが斜めに走ったネクタイを首に掛けた。町田梅子は不安げな顔で、返事をした。

「――そうだったんですか。被害は」

 美空野朋広は顎を上げて、ネクタイを結びながら答える。

「うん。額はたいした事はない。だが、悲しいことに、運転手が死亡したそうだ」

「え、そんなに大きな事故だったんですか」

「いや、事故自体はたいした事は無いんだ。川沿いのガードレールにぶつかった程度さ」

 町田梅子は眉を曇らせた。

「それで、ドライバーが死亡ですか? エアー・バッグは作動しなかったんでしょうか」

 ネクタイを結び終えた美空野朋広は、襟を戻すと、その派手なネクタイを整えながら言った。

「作動している。だが、その時は既に重態だったようなのだよ」

 町田梅子は、首を傾げた。

「――どういう事でしょう」

 美空野朋広は左腕のダイヤのカフスを外すと、袖を一折りして、黒い革ベルトの腕時計を外し始めた。

「事故現場が、たまたま病院の前でね。その病院に運ばれた。診断の結果は、脳溢血。運転中に意識を失って、ガードレールに衝突したようだ。それで、そこの病院で緊急手術をしたんだが、何せ、そこは小さな個人病院だ。面倒を見きれない。それで、運転手の地元の病院に緊急搬送され、そこで死亡した」

 町田梅子は眉間に皺を寄せた。

「地元の病院って、都内じゃないのですか」

 美空野朋広は左手首から外した腕時計をスーツのポケットに入れると、中から純金製のベルトの腕時計を取り出して、それに左手を通した。

「隣の県の善谷よしや市だよ。運転手は、善谷市から都内まで自家用車で通勤していたそうだ。片道で一時間以上はかかる。自動走行を使っていたとはいえ、路線の全部分が手放しという訳じゃない。脳溢血という事は、相当に疲労が重なっていたのかもしれん。とにかく、そこの市立病院での治療の甲斐も無く、亡くなってしまったんだ」

「そうですか。お気の毒に……」

 少し視線を落とした町田梅子は、すぐに目線を上げて美空野の顔を見た。

「ご遺族の方は、どなたか……」

 戻したワイシャツの袖にカフスを留めながら、美空野朋広は言う。

「配偶者がいるだけだ。でも、その方が病弱でね。入退院を繰り返していらっしゃるんだ。だから、その看病のために、彼は善谷市から通っていたのかもしれん」

 町田梅子は最初に不安げな顔をしていた事を忘れ、自分から言った。

「事情は大体分かりました。それで、私は何をすれば」

 左の袖を整えた美空野朋広は町田の目を見ると、口角を上げて頷いた。

「うん。この残された遺族の方、名前は野田めぐみさんだ、この人の代理人として、善谷市の地域医療機関組合を相手に、損害賠償金請求訴訟を提起してもらいたい」

「地域医療機関組合をですか? 過労による脳溢血が死因なら、過剰労働で新都急行に対する損害賠償請求になるのでは」

「ああ、確かにそうだが、まず、そうなると、ウチは野田めぐみさんの依頼は受けられない。相手方が顧問先だからね。アキナガ・メガネの場合と同じだ。しかも、その新都急行には金が無いのだよ。あそこの先代の社長は、タイムマシンに乗って渡航したんだ。会社の金をゴッソリと注ぎ込んでね。後を継いだのが、息子。だが、この息子は、あまり会社経営が分かってなくてね。結局は放漫経営さ。この数年でしっかりと債務超過に陥った。現在は自転車操業で、いつ破産申請をしても不思議ではない状態だ。だから、労働者に皺寄せが行ったのだろうが、金が無いのは事実だ。実は、ウチへの顧問料も支払えなくて、ここ数ヶ月分が未納になっている。そんな会社に損害賠償請求しても、支払えない事が分かっているじゃないか。誰が代理人として法律手続をするにしても、それでは野田さんが気の毒だ」

 町田梅子は、その野田めぐみという人物を気の毒に思い、必死に活路を探した。

「労災は? 労災認定はとらないのですか」

「労災保険料が未納になっていてね。随分な額まで膨らんでいる。実際、滞納処分で会社の土地・建物と預金口座を押さえられているんだ。どうにもならんよ」

「しかし、認定の申請はできますよね」

 そう指摘した町田に、美空野朋広は険しい顔で人差し指を振った。

「君ね、現実的に考えんといかんよ。被害者の野田光さんは、脳溢血を起こしているが、自損事故も起こしているんだよ。保険金を支払いたくない国は、野田光さんが死んだ原因は、自損事故による脳内出血だと主張し、争ってくるに決まっているじゃないか。そんな事になったら、最高裁まで結論を待たんと、国は動かんよ。その間に経済的に逼迫するのは、残された野田めぐみさんじゃないか。彼女は病気なんだよ」

「はあ……」

 町田梅子は眉間に皺を寄せて、微妙に首を傾げながら、懸命に思案した。美空野朋広は話を続ける。

「事情は、こうだ。最初に野田光を診断し、開頭手術をしたのは、摩知まち区の外れにある堀井外科医院の医師、堀井研一だ。彼は術後速やかに救急搬送の手筈をして、野田光を善谷よしや市に送った。ところが、その受け入れ手続きの窓口となった地域医療機関組合では、受け入れを承諾しておきながら、医師の手配が決まらず、野田光は搬送車に乗せられたまま、市内の各病院を転々とさせられた。そして、最終的に、その日、休暇の申請を出していた脳神経外科の医師、川添正一郎が(かわぞえしょういちろう)休暇を返上して出勤、彼の勤務する市立病院で野田光を受け入れる事になった。だが、処置の時間が遅れたために、もはや打つ手は無し。結果、野田光は死亡した」

 その不可解な事態の流れを聞いた町田梅子は、少し憤慨しながら言った。

「つまり、野田光さんが亡くなった事の責任は、善谷市地域医療機関組合にあると。事務処理のミスが結果発生への寄与度が高いと、そういう事ですね」

「うん、そのとおり。それに、あの組合は金を持っている。何と言っても、地域の病院が金を出し合って設立している機関だからね。余るほど持っているよ。そこが相手なら、賠償金を取り損なう事は無い。金のある所が責任を負う。結論としても妥当だ」

「堀井病院の処置は適切だったのですか。そこが争点になると思いますが」

「いや、それは私も確認した。カルテ上は問題ないそうだ。診断データや手術データを、私が顧問を引き受けている都内の大学病院の医師達に確認してもらったよ。問題ないそうだ」

「手術の動画記録は残っているのですか」

「いや、それが、一刻を争う緊急の手術だったからね、準備ができなくて、録画していないそうなんだ」

「そうなると、相手方が野田光さんのご遺体を証拠保全で差押えて、解剖検査するよう申し立てる可能性もあると思いますが、その点は大丈夫なのでしょうか。野田めぐみさんのご心情として……」

「それは心配ないだろう。昨日の夜が通夜で、今頃は、葬儀が終わった頃だと思う。夕方前には火葬となるはずだから、相手方が証拠保全をしてくる余地はない」

「……」

 町田梅子は黙っていた。

 AI自動車の人工知能が、地下高速の出口が近づいた事を人口音声で知らせた。町田梅子は急いで立体パソコンを助手席の上に置き、シートベルトを締めてハンドルを握った。

 美空野朋広は前を向いた町田に指示する。

「一応、善谷市も被告にしておきなさい。野田光が亡くなったのは、善谷市が運営する市立病院だからね。だが、そちらへの請求は、例の『背水の陣』、アレだよ。川添医師の処置に間違いは無いようだから、訴訟の途中で請求を放棄するか、訴えを取り下げればいい。あくまで狙いは、地域医療機関組合だ」

 二人を乗せたAIジャガーは、流体ナノガラスの壁を突っ切り、高速出口へと続くスロープを上がって行く。町田梅子は最終の流体ナノガラスの壁を視界に捉えながら、美空野に言った。

「――分かりました。では、野田さんの初七日が開けたら、直接、めぐみさんにお会いして、逸失利益などの算出に必要な資料を貰ってきます」

 美空野朋広は即答した。

「いや、その必要は無い。野田めぐみさんからは、もう委任状も貰っているし、逸失利益の算出に必要な野田光さんの給与額の資料も、支払元の新都急行から貰っている。それで計算は出来るはずだ。堀井病院からも善谷市立病院からも、治療費明細が届いているはずだから、損害賠償額の算定は、すぐにでも出来るはずだよ。不明な所は平均額で算出すればいいし、慰謝料も標準額でいいはずだ。それが妥当だ」

 AIジャガーが最後の流体ナノガラスを通過した。町田梅子は少し緊張した顔で高級AI自動車のハンドルを握りながら、美空野に言った。

「では、今週中に算出して……」

 美空野朋広は口を挿んだ。

「いや、概算だけでも算出して、とりあえずは、善谷市と地域医療機関組合に対して、内容証明郵便で意思表示をしておきなさい。そうすれば、訴訟提起前に、相手の方から和解を申し入れてくるかもしれん。その方が早く決着がつく。めぐみさんの救済を考えたら、一日でも早く解決する事が大切だからね」

「……」

 有多町東の出口から地上に出ると、正午前の路上は車で混みあっていた。町田梅子は他の車に注意しながら、大きな高級AI自動車のハンドルを切った。後部座席から美空野朋広が言う。

「分かったね。急ぐんですよ」

「分かりました。……」

 運転に集中していた町田梅子は、とりあえず、そう返事をした。AIジャガーは車列の間に入って暫らく進み、赤信号で停止した。小さく息を吐いた町田梅子に、美空野朋広が尋ねた。

「それから、真明教の方、どうだったかね」

 町田梅子はバックミラーで美空野を一瞥すると、返答した。

「はあ、どうも、何かの調査目的の侵入のように思われますが、防犯カメラの動画資料を見てみないと、何とも」

「――ああ、不法侵入者の件か。あれは、どうでもいいよ。さっさと刑事告訴してしまいなさい。それより、法務チェックの方は」

「ああ、はい。ええと……」

 町田梅子は、前の信号機を気にしながら、助手席の上の立体パソコンに左手を伸ばした。美空野朋広が言う。

「いや、君の記憶でいいから」

 左手をハンドルに戻した町田梅子は答えた。

「はい。ええと、ざっと見た感じでは、真明教団の法人化は徹底されていますね。現代表者が欠けた場合でも、所長が臨時代行者として業務代表する事になっていますし、その後の新代表者の選任方法も明確に定められています。資産関係も、預金、不動産、車、債権、すべて、南正覚氏個人の物とは区別されていて、混在している物や、帰属が不明な物はありません。所長が設立に関与されているだけあって、法務書面は完璧です。問題はありません」

 町田梅子がもう一度バックミラーに目を遣ると、後部座席の美空野は得たり顔で笑みを浮かべていた。

「そう煽てても、何も出てきませんよ。フフフ」

 信号が青になった。町田がアクセルを踏み、AIジャガーが走り出す。美空野朋広は外の景色を眺めながら言った。

「しかし、そうですか。それは、一安心だ。忙しい時に、悪かったね」

「いえいえ」

「じゃあ、あとはストンスロプ社だね。私ね、夕方からは、ストンスロプ社の関連会社に足を運んでみようと思っているんだ」

「関連会社……GIESCOですか」

「ああ、あそこもそうだな。とにかく、抜き打ちで何社か検査してみようと思っている。そうだ、GIESCOといえば、君、ここ数ヶ月のストンスロプ社の会計帳簿を確認したかね」

「いいえ、まだ細かくは」

「そうか……」

 町田梅子はバックミラーで美空野の顔を確認しながら言った。

「何か、気になる点でも見つかったのですか」

「うん。まあ、君もいずれ気が付くだろうから、言っておくか。GIESCOへの研究助成費が急に膨らんでいる。GIESCOの会計にも目を通してみたんだが、どうも、臨時の上級研究員を入れたようだ」

 町田梅子は怪訝な顔をした。

「会計データから人事記録が分かるのですか」

「ああ、人件費が不自然に増えていればね。それに、信頼できる者からの報告だ。間違いは無いだろう。セキュリティー・レベルを国に無断で上げたり、開発中の新型兵器関係の支出項目が、どれも少しずつ上がっている事と合わせて考えると、あの研究所は何か変だ。どうも、光絵会長は何かを隠しているね。何か良からぬ物を隠している気がする。君も、何か気付いたら知らせてくれないか。いくら依頼人と言っても、弁護士としては、法を犯す者を放置はできないからね」

「分かりました。気をつけておきます」

「君、GIESCOの職員が無断欠勤している事は知っているかね」

 町田梅子は前方とバックミラーを交互に見た。

「あ、いいえ。無断欠勤ですか」

「そうなんだ。しかも、上級の研究職員や特別技術者だ。おそらく、抗議の趣旨だろう。会長が例の新型兵器の開発を無理に進めさせているようで、随分と過剰労働になっているようだ。このままでは、司時空庁のような事になるかもしれん」

 町田梅子は眉を寄せる。

「司時空庁……。あそこは今、事実上、業務停止状態なのですよね」

「うん。まあ、タイムマシンの発射以外にもやる事はあるから、一応、庁としては残っているがね。だが、職員の中に無断欠勤者が続出しているという噂だ」

「そうなんですか……」

 例の記者の拉致監禁事件で津田前長官が逮捕されて以来、司時空庁の長官ポストは空席のままである。関係者の事情聴取も膨大な人数が予定され、彼の刑事裁判は長期化する事が予想された。巨大弁護士法人美空野法律事務所に、いつ津田の国選弁護の御鉢が回ってくるかと、先輩弁護士たちも噂していたので、町田梅子も少しは事件に関心をもっていた。しかし、その司時空庁の職員が無断欠勤しているという話は初耳だった。

 口を尖らせて運転を続ける町田に美空野朋広は説明する。

「その無断欠勤している職員たちは、実験管理局時代からのベテラン職員ばかりだそうだ。津田長官が逮捕されて一ヶ月くらい経った頃から急に無断欠勤する人間が増えているらしい。あそこも酷い過剰労働を職員に強いていたらしいからね。津田長官が睨みを利かせていた頃は職員達も大人しくしていたのだろうが、彼が逮捕されて不満が続出したのだろう」

 町田梅子は言いたい事をぐっと我慢して、美空野に尋ねた。

「そんなに酷かったのですか」

 美空野朋広は他人事のように話を続ける。

「うん。津田長官はワンマン長官で有名だったからね。それに、出勤しない職員達の多くは、おそらく、共犯として逮捕されるのを恐れて逃亡しているのかもしれん。ともかく、まだ有給休暇の範囲内だから、国としても動けんのだろうが、順次その期間が過ぎる近々には、懲戒解雇される職員が続出して、司時空庁は大変な事になるだろうね。たぶん、解体だな」

 町田梅子は言いたい事を更に心中の奥の奥に沈めて、今の話題を別の会社に当てはめた。

「ストンスロプ社も同じ事をしていたら、同じようになるという事ですか」

「そう。今休んでいる職員達は、高給取りの上級職員が多い。つまり、会社にすれば、少なくともGIESCOには必要な人材だ。彼らが辞めて出て行く事になれば、GIESCOは機能停止してしまう。そうなれば、ストンスロプ社は新製品の開発を続ける事が著しく困難になるだろう。それが一時的な事でも、大損害だ」

「そうですね。新たな人材を確保するにしても時間が掛かるでしょうし、費用も掛かります。仮に三ヶ月あそこが停止したとすれば、ストンスロプ株は暴落するでしょうね」

「それを狙う他社が、この状況に仕掛けてくる事もあり得る。只でさえ、GIESCOの研究職員や技術職員にはヘッドハンティングの話が多い。ウチも、その防衛策に追われているじゃないか。毎回、厄介な人材仲介会社を振り払うのが一苦労だ。だが、手を抜く訳にはいかん。もしストンスロプ社が倒れれば、何十万人という従業員が路頭に迷う事になるからね。だから、GIESCOを始めとして、ストンスロプ社の屋台骨となる子会社の労働問題まで、顧問弁護士は目配りしないといけない。経営者が従業員に過剰な労働を強いるようなら、法曹として、きちんと指導しないとね」

「はあ……」

 町田梅子はハンドルを強く握りながら、喉から出そうな言葉を必死に抑えた。幸いにも、美空野朋広は話し続けてくれた。

「それには、現場に足を運ぶ必要がある。実際に現場で働いている職員達から、生の声を聞く。これが一番だよ」

 ――そうだ、聞いてくれ!

 町田梅子は、その言葉が口から出てしまったかもしれないと思い、焦った。バックミラーで何度も美空野の顔を確認する。美空野朋広は笑顔を浮かべていた。町田梅子は心中で安堵の息を吐く。事務所ビルの前に着いた。町田梅子はAIジャガーを路肩に停める。美空野朋広はシートベルトを外しながら言った。

「とにかく、そういう訳で、夕方からは出かけて居ませんから、君、もし真明教の刑事告訴状を提出しに出掛けるようなら、その前に僕のオフィスにストンスロプ社の和解契約書の起案を提出してもらえるかな。僕も、それを読んでから、出掛けるから」

 町田梅子は、うんじ顔を収めて、作り笑顔で返答した。

「あ……はい。急いで、やってみます」

「頼むよ。じゃ」

 そう言って、美空野朋広は鞄とネクタイを持って車から降りると、ビルのエントランスの方に歩いていった。町田梅子は溜め息を吐くと、泣きそうな顔で車を走らせ、いつものようにビルの裏手の立体駐車場まで車を運ぶ。

 町田梅子が運転するAIジャガーは、渋滞中の横道へと曲がっていった。



                  十九

 寺師町のハンバーガーショップ。町田梅子は、昨日「十六分の一ピザ」セットを食べたこの店で、今日もランチを取っていた。しかも、少し遅い昼食である。窓際のカウンター席に座り、町田梅子はハンバーガーを握り締めながら、一人でブツブツと言っていた。

「また、ここ? 何でこんな所ばっかりで、ランチなのよ。しかも、『今だけハーフワンコイン・ハンバーガー』って、私は中学生かっての。明日は、絶対に、意地でも『サノージュ』に行ってやる。行ってやるからね。レディース・ランチ・セットを頼んで、食後に本格的な紅茶を楽しんでやるんだから。じっっっくりと、味わってやる。チュー」

 町田梅子は、紙コップのプラスチック製の蓋から突き出したストローで、レモンティーを吸った。それなりに美味しかった。しかし、彼女の怒りは収まらない。

「だいたい、何が『頼むよ、じゃ』よ。どんだけ、頼んでんのよ。自分で相談を受けたのなら、自分で事務処理しなさいよね。まったく。自分だって従業員に過剰労働を強いてるじゃないのよ。いったい、どれだけ私に押し付ければ、気が済むのよ。ハグッ」

 町田梅子は「今だけハーフワンコイン・ハンバーガー」にかぶりついた。眉間に皺をよせ、怒りを込めて咀嚼する。値段の割りに美味しかった。だが、彼女の気を静めるには足りない。

「司時空庁は大変な事になるだろうねえ? ここだっていつか大変な事になるわよ! 私が過労死したら、田舎の同級生が徒党を組んで押しかけてくるわよ! 新党を作っちゃうかもよ。これでも私、高校まではモテモテだったんだからね! ハグッ」

 鼻を膨らませてハンバーガーを咀嚼しながら、町田梅子は美空野の口調を真似る。

「経営者が従業員に過剰な労働を強いるようなら、法曹として、きちんと指導しないとね。はあ? ゴホッ、ゴホッ……チュー」

 レモンティーで咀嚼物を流し込んだ町田梅子は、ガラス窓に向かって指差した。

「まず自分に指導しなさいよ! 『人のふり見て我がふり直せ』って言うでしょ!」

 ガラスの向こうの歩道を歩いているサラリーマンが、怪訝な顔で町田を見ている。町田梅子はそんな事は御構い無しに、独り言を吐く。

「なに『背水の陣』ばかり繰り返してんのよ! それしか知らないの? 私だって、故事くらい知ってるわよ。ハグッ」

 顎を動かしながら彼女は言い続ける。

「せっかく、見習おうって思ったのに、興ざめじゃない。ハグッ、ハグッ」

 ハンバーガーの残りを一気に口に入れた町田梅子は、鼻で呼吸しながら両頬を限界まで膨らましている。

「こんなに……いっぱい詰まってるのに……GIESCOまで……んぐ……手が回りますかっての」

 町田梅子は頬を膨らましたまま、レモンティーを長めに吸った。そして、ようやくハンバーガーを飲み込み、息を吐く。

「はあ。もう、食べ終わっちゃった。せめて、もう少しだけ昼休みを……そうもいかないかあ。あ、もう一個頼んじゃおうかな」

 町田梅子は、こっそりとスカートのベルトの隙間に指を入れてみた。眉間に皺が寄る。

「むむ……。うーん。三個は、やめとくかあ」

 ハンバーガーの包み紙を二枚重ねて丁寧に折りながら、町田梅子はニヤニヤと笑い始めた。

「でも、光絵会長、いつでも来ていいですって。かああ、こりゃ、顧問のご指名は確実ですなあ。ストンスロプ社の顧問かあ。いやいや、『町田梅子法律事務所』も夢じゃないわね。いや、待てよ、『梅子・ロー・オフィス』の方がいいかしら。うーん。なんか、ダサいわねえ。『梅子・ロー・ファーム』……違うなあ。この『梅子』ってのが、ダサいのよね。『弁護士法人マチダ』! ――変身ヒーローみたいじゃない。ヒーロー……」

 レモンティーのストローを口元に運びながら、彼女が店内の注文カウンターの上の時計に目を向けた時、注文の列の中に、とんでもない恰好をした二人の中学生を見つけた。

「ゲッ。なに? コスプレ? 角って、あんた水牛か。そっちの君は、そのコスチュームに、そのベルトに、そのビーム・ガンって、何になりたかったのよ。統一感が無い子ねえ。その中学校のリュックがミスマッチなのよ。どうして、その格好なのに、律儀にリュックだけは、制服のリュックを背負うかな」

 トレイを持ってボックス席に移動した奇抜な恰好の二人を、レモンティーを吸いながら眺めていた町田梅子は、我に帰り、腕時計を見た。

「あら、もう、こんな時間じゃない。戻らなきゃ。さて、午後も頑張りますか」

 レモンティーの紙コップ載せたトレイを持って、町田梅子は返却口の方に歩いていった。



                  二十

 自分のオフィスに戻った町田梅子は、執務机の上で「秋永訴訟」の和解契約書の修正を急いでいた。傍らに開いて置いた六法と、立体パソコンの上のホログラフィー文書の文面を交互に見比べながら、町田梅子はホログラフィー・キーボードの上で忙しく指を動かした。

 斜向かいに、こちら向きに置かれた机の向こうから、事務員の小彩麻子が呼ぶ。

「先生」

「はい……ちょっと、待って」

 ホログラフィー文書に顔を向けながら、そう答えた町田梅子は、区切りのいい所まで文章を入力し終えると、顔を上げた。

「なに?」

 小彩麻子は自分の机の立体パソコンを指差しながら言った。

「水枡さんの件の調停調書データが届いています。確認をお願いします」

「あ、うん。分かった。あ、そうそう、ステムメイル社の『間融』からの融資データ、所長から届いてない?」

「カンユウ?」

 小彩麻子は艶のある唇の上に人差し指を添えて、首を大袈裟に傾げた。そのカマトトぶった仕草に町田梅子は若干、苛立ったが、それも、小彩が動く度に鼻に届く香水の匂いも、精一杯に我慢して、町田梅子は彼女に説明した。

「うん。間接融資組合。都市銀行がお金を出し合って設立した組合組織なの。銀行は、そこを経由して無担保で……」

 小彩麻子は眉を八の字にして、わざとらしく泣きそうな顔をして見せる。町田梅子は一瞬で上がった血圧を精神力で鎮め、深く息を吐いた。そして、気を取り直して言う。

「とにかく、所長から金融データみたいなものは届いてない?」

「ああ。それは、もう、先生のパソコンに入れておきました。それと、野田光さんの件で、新都急行からの給与明細とか、病院の診断書とかのデータが来ていましたので、それも先生のパソコンに入れてあります」

「え? ああ、ありがとう。いつ?」

「はい?」

「そのデータは、所長からいつ届いたの?」

「ええと、今朝です」

「そう……」

 町田梅子は口を尖らせて首を傾げた。



                  二十一

 立体パソコンの上に浮かんだ和解契約書のホログラフィーの前で、町田梅子は一度だけ大きく手を叩いた。

「よしっと。だいたい、こんなものね。最初に提示する支払金額は、このくらいでよし。妥協して、後日上がると心づもりしておきましょう。それで、まず前半で、使用を許諾する特許技術の特定と使用方法なんかで、ざあっと、ゴチャゴチャ書いておく。たぶん、相手方は、この部分に意識が集中するわね。で、支払方法の条項も細かく設定して、さり気なく残額放棄の条項も混ぜる。あとは新株引受条項ね。うーん、ちょっと細かく書き過ぎたかな。さすがに時吉先生も弁護士だから、アキナガ・メガネが引き受ける株式は種類株式だって事には気付くわよね。でも、配当優先条項をこれだけ丁寧に書いておけば、そこで喜んで、特定事業連動条項でかなり舞い上がるんじゃないかな。とりあえずは、ここまででいいか。無議決権株式には、臨時種類株主総会で決定して変えてしまえばいいし、その時か、後からゆっくりでも、全部取得条項付株式に変えてしまえばいい訳だものね。あえて、この書面の中に記載しておく必要はないわね。特定事業の具体的選別については、後半の交渉に持ち込むと……よし、まずは、これで出してみるか。初回の面談交渉の日程が決まれば、こっちのものね。ペースは掴んだも同然っと」

 町田梅子は、わざと小彩に聞こえるように、大きな声で専門用語を口にして、自分が作成した書類の内容を解説した。小彩に目を遣る。熱心にホログラフィー文書に目を向けていて、聞いていない。町田梅子は項垂れた。

 顔を上げた町田梅子は、時計に目を遣った。

「あ、いけない、真明教の刑事告訴状を出しに行く時間だ。所長、まだ居るかな」

 立体パソコンの上のホログラフィー文書を閉じながら、小彩を呼ぶ。

「小彩さーん」

「はい」

 ホログラフィー文書を閉じて、こちらに顔を向けた小彩に、町田梅子は言った。

「所長のパソコンに、今そっちに私のパソコンから送った和解案の内容データと、水枡さんの調停調書データを送ってもらえる?」

「水枡さんのデータは送りました」

「あ、そう。ありがとう。じゃあ、私、上に行ってくるね」

 町田梅子は首を傾げながら、立体パソコンを小脇に抱えて、オフィスから出ていった。



                  二十二

 所長室の階のエレベーターから、ホログラフィー文書を浮かべた立体パソコンを両手で抱えて、町田梅子が出てきた。彼女は、真明教の刑事告訴状のホログラフィー文書を見ながら、絨毯の上を歩いていく。途中で立ち止まった町田梅子は、顔を顰めた。

「あ、やべっ。水枡さんの調停調書データ、中身を再確認するの、忘れてた。しまったあ、小彩さん、もう所長のパソコンには送ったって言ってたわよね」

 立体パソコンのホログラフィーを消しながら、溜め息を漏らした。

「はあ。どうして、そういう仕事だけは早いのよ。頭が悪くないなら、法律の事も少しは勉強してよね。確認くらい、事務員がやってよ。ああ、もう所長、読んじゃってるかも」

 立体パソコンを小脇に抱え、町田梅子は小走りで両開きのドアの前まで移動した。彼女はノックもせずに、すぐに片方のドアを開ける。

「失礼します。町田です」

 執務机の椅子に座っていた美空野朋広は、慌てて飾り箱の蓋を閉めた。町田梅子も慌てて一礼する。 

「あ、すみません。所長。慌てていたもので、つい……」

「いや、いいんだ。入りたまえ」

 美空野朋広は、蓋をした飾り箱を後ろの棚に置いた。町田梅子は言う。

「あの、ストンスロプ社の和解契約書の起案が終わりましたので、確認していただこうと」

「こっちに送ってある?」

「はい。小彩さんが送っていると思います」

 その時、机の隅に置かれていた立体電話機の着信ランプが点滅し、呼び出し音が鳴った。

「あ、すまない。妻から立体通信だ。ちょっと、待っててね」

 そう言った美空野朋広は、立体電話機のボタンを押した。机の上にホログラフィーで、あられもない姿の中年女性が投影される。町田梅子は慌てて、後ろを向いた。美空野朋広の慌てた声が背後から聞こえた。

「おい。ここは職場だぞ。いい加減にしなさい。服を着るんだ。まったく、昼間っから何をしてるんだ、君は」

 続いて、女の気だるそうな声が聞こえた。

『だって、寂しいし。今日くらい、早く帰れないの?』

 美空野朋広の苛立った声が聞こえる。

「今日は帰れないって行ったろ。きっと泊まりになる。用はそれだけか。切るぞ!」

 通信切断のボタンを押す音が聞こえた。顔を赤らめたままの町田梅子は、深呼吸してから前を向いた。美空野朋広は言う。

「済まないね、驚かして。妻は寂しがり屋でね。もうすぐ誕生日なんだよ。プレゼントは準備しているんだが、待ちきれないようだ」

 美空野朋広は、背後の棚に置かれた、さっきの飾り箱を親指で示した。町田梅子は額の汗を拭いながら、言った。

「いえ。女同士ですから、全然、大丈夫です。――フー」

 美空野朋広は尋ねた。

「それで、用は、それだけ?」

 町田梅子は手に持った立体パソコンを操作しながら答えた。

「あ、いえ。ええと、ストンスロプ社の和解案の確認です。それと、真明教の不法侵入事件についての刑事告訴状を確認して下さい。それから……」

 町田梅子が刑事告訴状のホログラフィーを浮かべた立体パソコンを美空野の前に差し出したが、美空野朋広はそれを軽く押し返した。

「いや、大丈夫でしょ。君の方で出しておきなさい。不法侵入程度の事件なら、私が目を通すまでもないよ。ストンスロプの和解契約書の方は、ちゃんと読んでおくから」

 町田梅子は押し返された立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー文書に視線を落としながら、美空野に言った。

「あの……まだ、防犯カメラの動画データも、骨折した信者の診断データも届いていないのですが、警察に提出するのは、それを確認してからでは……」

 美空野朋広は椅子の背もたれに身を倒すと、首を横に振った。

「そんなのんびりとした事では、犯人を逃してしまいますよ。まずは、依頼人を信じて提出することです。資料は後日、追加で提出すればいい」

 町田梅子は不請顔で返事をした。

「――分かりました。それと、水枡さんの調停……」

 美空野朋広は町田の発言を制止すると、再び着信音を鳴らした立体電話機のボタンを押した。机の上に、法衣姿の南正覚がホログラフィーで投影された。

 美空野朋広は厳しい顔つきで言う。

「なんだ。どうした」

 ホログラフィーの南正覚は、不機嫌そうな顔で、太く枯れた声を荒げた。

「どうしたも、こうしたもない。樹英田きえた町に刑事が来ているぞ。警視庁の三木尾という警部殿と、外二名じゃ。とにかく、会ってみるが、もしかしたら……」

 美空野朋広は南の発言を止めるかのように、彼の発言の途中から大きな声を被せた。

「ああ、今、来客中なんだ。詳しくは後で聞こう。警察には、俺の方からすぐに抗議しておく。すぐに帰らせるから、おまえは普通に対応すればいい」

「そうか。頼んだぞ」

 南正覚のホログラフィーが停止し、消えた。

 美空野朋広は眉を寄せて、町田に言った。

「まったく。さっきの刑事たち、今度は真明教の首都圏施設本部に行ったそうだ。これは、完全に嫌がらせじゃないか。警察に抗議せんといかんな」

 町田梅子も眉間に皺を寄せたが、ふと思いついた事を美空野に告げた。

「もしかしたら、この不法侵入事件と何か関係があるのではないでしょうか。でしたら、私が……」

「十年前の田爪健三失踪事件とかい? 無い、無い。いや、僕が電話するよ。彼らの上司に直接、抗議をしよう。それが一番効く」

 町田梅子としては、刑事たちのあまりのタイミングの良さに、二つの事件の関連を疑うべきだと考えていたが、あえて進言はしなかった。彼女は適当に返事をする。

「――はあ……わかりました」

 美空野朋広は忙しそうに椅子から立ち上がって見せると、町田に尋ねた。

「ああ、なんだったかな」

「水枡さんの調停調書です。遺産分割調停の」

「ああ。データはこちらに送ってあるんだろ。じゃあ、もういいよ。後の細かな処理は、小彩くんに訊いてくれたまえ。彼女は慣れているから」

 美空野朋広は本棚に立てて並べてある何台かの立体パソコンの一つを取り出すと、机の上に置いて操作し始めた。

「ん? まだ、何かある?」

「いえ……では、失礼します」

 町田梅子は自分の立体パソコンを抱えて、所長室から退室した。両開きのドアを閉め、絨毯の廊下を歩き、エレベーターを少し待って、到着したエレベーターに乗る。扉が静かに閉まると、町田梅子は地団駄を踏んだ。

「んーっもう! 何なのよ。小彩、小彩って。何で私が、小彩さんに訊かなきゃならないのよ。あんな香水女に。私、弁護士よ。あっちは事務員じゃない。なんで私に直接言わないのよ。信用してないわけ? いいじゃない。面白いじゃない。ストンスロプの会長さんに私の方が気に入られて、顧問をゴッソリ持っていっちゃうかもしれないからね。絶対に、あのボンボン弁護士を抑えて、この和解を成立させてやる! それに何よ、あの変態奥さん。ド変態じゃないのよ。あんなモノ見せられて、ここ辞めて独立したら、絶対に慰謝料請求してやるから。覚えてらっしゃい!」

 町田梅子を乗せて下降していくエレベーターは、暗いシャフトの中で小さく揺れていた。



                  二十三

 夕日が照りつける有多町。町を東西に抜ける太い幹線道路を挟んで、官庁ビルが建ち並んでいる。その中でも一際に大きく、威厳を保っているのが警視庁ビルである。東西幹線道路の向こう側に建つ警察庁ビルと競うように、巨大な姿を晒し、新首都の街区に睨みを利かせている。

 捜査二課に直接、告訴状の提出を終えた町田梅子は、警視庁ビルの中心を吹き抜ける空間をガラス張りのエレベーターに乗って下っていた。エレベーターの中に一人で立つ彼女は、ガラス越しに見える庁内の飲食店フロアを眺めながら、独り言を呟いた。

「あとは、フィンガロテル社の件と、野田さんの件かあ。野田さんの内容証明が先だなあ。早く解決してあげないとね。損害額の計算だけでも、ここのカフェで終わらして帰るかな。たまには違った環境で仕事するのも、悪くないもんね」

 警視庁ビルの四十階に吹き抜けの空洞を囲むようにして作られた緑豊かな公園と、その向こうの各店舗のテラス席は、若い女性である町田梅子にとって魅力的であった。ここ数日、雑多な繁華街のファスト・フード店での軽食と、事務所ビル近くのコンビニの弁当が続いていた町田梅子には、テラス席でコーヒーを啜りながら同僚と会話する女性の警察職員たちが、羨ましく思えていた。

「はあ……いいなあ。私も、もっと優雅に仕事が出来ると思ってたんだけどなあ」

 町田梅子は、下へと移動するエレベーターの中で一人、溜め息を吐いた。そして、ふと何かを思い出し、肩に掛けた革製の大きな鞄の中を漁ると、イヴフォンを取り出した。彼女はそれを少し操作すると、手に持ったまま胸元に持って行った。町田梅子の脳にイヴフォンから信号が送られ、彼女の視界に保存データが表示される。町田梅子は、目の前に並べられたチケットの画像の中から、一枚のチケットを探し出した。

「あ、あった。弁護士組合でもらった公共施設内店舗の割引クーポン。まだ、残ってるわ。ええと……イェス! ここのイタリア料理店のフルコースが三〇パーセント・オフ。デザートとドリンクは、なんと、お替り無制限! きゃー、最高!」

 町田梅子は、少し興奮気味にイヴフォンを鞄に戻すと、我に帰り、呟いた。

「いけない、いけない。私は何を言ってるのよ。まだ夕食時でもないのに。勤務中でしょ。勤務……うーん、紅茶とケーキだけにしとくか……」

 飲食店街がある四十階のボタンを押そうと手を伸ばした町田梅子は、ボタンの前でその手を止めて、そのまま、眉間に皺を寄せる。

「そっか。たぶん所長が、ここの刑事部に抗議をしたばかりよね。こんな所でお茶しながら仕事して、さっきのゴロツキ刑事たちと鉢合わせでもしたら、勝手が悪いわ。ここ、アウェーだもんね。外の店がいいか」

 彼女は昼前の出来事を思い出していた。町田梅子は手を引っ込め、そのままエレベーターで一階まで下りた。

 分厚い鞄を肩に掛けて警視庁ビルから出てきた町田梅子は、目の前の長い横断歩道を渡り、東西幹線道路を横断した。そのまま真っ直ぐ、警察庁ビルの横の道に入ると、狭い歩道を昭憲田池の方角に進み、短い横断歩道を一つ渡って、また少し進んだ。そして、細い横道に入ると、彼女の高いヒールでは歩きにくい石畳の上を歩き、四角い大きな植木鉢を並べて歩道と区切っているカフェ・テラスへと向かった。この店は「カフェ二〇〇七」といい、彼女がローヤー・プログラムの受講生だった頃によく通った店だ。テラスは以前と変わっていない。間隔を空けて植えられた細い木と木の間に、綺麗な模様のタイルを貼った丸いカフェ・テーブルがいくつも置かれ、中央には、白い綿の生地が張られた大きな日よけのパラソルが広げられていた。板張りの床をくり貫いて植えられた低く細い木は、薄い緑の葉を多く付けていて、それらが床の上に落とした疎らな影が、所々に置かれた大きな鉢に寄席植えされた花の赤や黄色を際立たせている。少し寒くなってきたせいか、客は少なかった。手前のサラリーマン風の男が一人と、奥の席で集っている主婦らしきオバちゃんたちの他は、歩道の近くの小さなカフェ・テーブルに一人で座っている濃紺の制服姿の女性がいるだけだ。その軍の制服を着た女性は、ヨーロッパ風の景色の中で浮いていた。木漏れ日を浴びながら美しい姿勢で座り、ソーサーの上に置かれた小さなコーヒー・カップの柄を指先で挟んだまま、通りを眺めている。町田梅子はその女性の顔を見て、反射的に声を掛けた。

「あれ? ホカッチじゃない。何してるの、こんな所で」

 それまで深刻な表情で通りの景色を眺めていた外村美歩は、顔を向けると、突然現れた友人に驚いたように、決まり文句の返事をした。

「あ、ウメ。久しぶり」

 町田梅子はニヤニヤしながらテラスに入り、通りに背を向けて座っているサラリーマン風の男の後ろで、昔と同じ様に友人に手を振った。奥に座っているオバちゃんたちが冷ややかな視線を向ける。町田梅子は、スーツ姿の自分が女子大生か女子高校生のような振る舞いをしてしまった事を気にして、咳払いをして気を落ち着かせると、姿勢を正して弁護士然として歩き、友人が座っている席へと向かった。

 外村美歩は、町田梅子のローヤー・プログラム時代の同期生で、年は梅子よりも一つ上であったが、プライベートでも行動を共にするほどの友人であった。性格も真面目であったし、正義感も強く、何より聡明であったので、梅子とは気が合った。成績も優秀で、ローヤー・プログラムの当時、模擬裁判では無敗を誇っていた町田梅子に唯一黒星を付けさせたのが彼女であった。プログラムの修了試験にも、梅子と並んでトップの成績で合格し、法曹としての地位を得たが、彼女は弁護士にも、裁判官にも、検察官にもならず、国防省の軍規監視局で監察官の職に就いた。軍規監視局の監察官は第四の法曹と呼ばれ、ローヤー・プログラムを修了した法曹しか就任する事が出来ない職である。監察官は軍内の規則の遵守を監督し、軍規違反を犯した軍人を逮捕し取調べ、軍事法廷などの特別裁判所に起訴する権限の他、刑法上の罪を犯した軍人を通常裁判所に起訴する権限も有している。新憲法の制定によって新たに設けられた法曹職種で、弁護士、検察官、裁判官と同様に、政府権力による介入が許されず、その職務の独立が保障されていた。だが、軍人である事には変わりがないので、危険も多く、職業軍人のみを相手とする監察官の職は、新人の法曹たちには不人気の進路でもあった。

 成績優秀だった彼女が監察官の道に進んだのは、一つの事情があった。彼女は地方の豪族の孫であったが、訳があってその地を離れ、母と二人、新首都に移住していた。同居している母親は視覚に障害を有していて、半日常的に介助が必要な状態であるので、外村美歩は常勤の法曹職を選択することが出来なかった。それで、募集定員数を下回る応募しかない監察官の職に、午後からのパート勤務の条件で就くこととなったのである。

 町田梅子は、外村美歩の母とも面識があり、昔は度々自宅を訪ねては、三人で食事をした。どちらかと言うと乱雑な環境で育った町田梅子にとって、育ちの良い外村の母は、梅子に女性としての礼儀作法や心構えなど、多くの事を教えてくれた。それは実際に梅子の今の仕事でも役立っている。そんな梅子に対し、美歩は一つ年上であるにもかかわらず、友人として実に誠実に接した。気取った所も無く、控えめで、それでいて凛としていて、明るさも失わない美歩といると、梅子はいつも心が安らいだ。梅子は美歩とはむしろ逆の性格であったが、何故か二人は馬が合い、ローヤー・プログラムの受講生時代も共に過ごした。二人は、そういう仲であった。

 町田梅子は久々に再会した親友をからかった。

「で、先輩さん。こんな所で、なにサボってるのよ」

「別にサボってる訳じゃないけど……サボってるか……」

「へえ、あのホカッチがサボりねえ。珍しいわね。私、今日は傘を持ってきてないんですけど」

「うん……ちょっとね、待機なのよ。これも命令」

「うわあ、出たよ。都合のいい言葉。『命令』だって。軍人してますこと」

「してるわよ。『指令』とか、『作戦』とか、『伝令!』とかね。……はあ」

「ほら、溜め息つかないの。幸せが逃げるわよ」

「ま、こういう機関だから、監察官っていう法曹の注入が必要なのよね。日々自分に言い聞かせてます」

「そうなんだ。……」

 町田梅子は、少し心配そうに友人の顔を見つめた。外村美歩は梅子に尋ねた。

「そっちは、どう? 忙しい?」

「忙しい、忙しい。弁護士になったら、そっちの『サノージュ』でオーガニック・ランチしてやるって思ってたのに、昨日も『今だけハーフ・ワンコイン・ハンバーガー』よ。その前は十六分の十六ピザ。しかも、ボンボンの弁護士付き」

「弁護士付き?」

「あ、いや、何でもない。こっちの事」

 町田梅子は顔の前で手を振った。外村美歩は首を傾げてから、通りの向こうにレストランの前で立ち話をしている三人の若い女たちに目を遣る。

「でも、ああやって楽しそうに話している女子大生を見てると、懐かしいなあって思っちゃうよね」

「だね。ここ、よく二人で来たもんね。で、いつも美歩がコーヒーで、私が紅茶。民法の時効の所とか、刑法の故意論とか、よく話をしたよねえ。こんな所で」

「そうね。あ、何か注文する? 相変わらず、砂糖入れずに紅茶?」

「うん……あ、いい。やめとく。これから対決しないといけないボンボン弁護士に、妙な親近感を持っちゃいそうだから」

「対決? ああ、なるほどね。ウメこそ、しっかり弁護士してるわねえ。法廷で争う相手に、飲み物まで気を使ってるわけ?」

「ま、法廷はボクシングのリングみたいなものだからね。勿論、法廷以外の交渉もね。やるか、やられるかよ」

 町田梅子は拳で宙を突いて見せた。外村美歩は言う。

「体重測定が無くてよかったわね」

「ああ! 言ってくれましたな。私だって、頑張ってるんだからね。今日のお昼だって、三個目の『今だけハーフ・ワンコイン・ハンバーガー』を我慢したんだからね」

「二個食べれば十分でしょ。相変わらず、食べるのね。パツパツになっても知らないわよ。ピザも十六分の七くらいにしときなさいよ」

「そのくらいしか食べない、嫌な感じのボンボン弁護士を一人知ってるわ。うう、鳥肌が立ってきた」

「さっきから、ボンボン、ボンボンって、誰なのよそれ。もしかして、恋人?」

「冗談は、よし子さんよ。これから、この町田梅子が料理する相手の弁護士よ。和解交渉で、ボコボコにして押さえ込んでやるわ。フフフ。応援しててね、ホカッチ」

「う、うん。頑張ってね。よく、分からないけど」

「うん。私も、よく分からないけど、燃えてるの。あのボンボンめ、ぶっ潰す!」

 町田梅子は挑み顔で拳を強く握る。外村美歩は微笑みながら言った。

「でも、本当に久しぶりね。半年ぶりくらいかしら。ウメ、全然を連絡くれないんだもの」

 この半年間、法曹職に就いたばかりの二人は多忙を極め、なかなか連絡が取れずにいた。だが、梅子は美歩の事が、美歩の母親の事も含め、気になっていた。梅子が勤務する美空野法律事務所ビルから近い所に建っているマンションに外村親子は住んでいたので、訪ねようと思えば簡単だったが、激務の中で、なかなかそれも叶わずにいた。梅子はその点を美歩に謝ると、美歩に近況を尋ねた。それは、久しぶりに会った友人の近況を知りたいという梅子の欲求でもあり、苦労している友人を案ずる思いからでもあったが、それよりも、勤務時間中のはずの日中に、国防省ビルから少し離れた馴染みのカフェ・テラスで、憂鬱な眼をして一人で通りを眺めている友人に、何か深刻な悩みでもあるのではないかと思い、心配したからでもあった。それと、梅子にはもう一つ、気がかりな事があった。友人の美歩は結婚を控えていた。相手は同じ職場の軍人で、人格もルックスも良かった。その男性を美歩から紹介された際には、梅子は若干の嫉妬さえ覚えた程だった。だが、それは一瞬の事で、梅子は友人が幸せになる事を心から応援していた。だから、今回も、その事を真っ先に尋ねた。

「……彼とのことよ。宇城さん。上手く行ってるの?」

「うん。なんとか」

「うわあ。なによ、その余裕の笑顔。腹立つうう」

「別に、笑ってないわよ」

「笑ってました。一瞬の笑みの中に、思いっきり幸福感を詰め込んでましたけど」

 町田梅子は不機嫌そうに頬を膨らませて見せながら、内心では、ほっとしていた。どうやら二人は上手くいっているようである。梅子が冗談を織り交ぜながら話すと、美歩は梅子に宇城から送られた婚約指輪を見せた。梅子は我が事のように心から喜んだ。梅子は、親の介護を続けながら幾多の苦難を乗り越えて法曹になり、今も国防軍という難所で大変な思いをしているであろう美歩には、せめてプライベートでは幸せになって欲しかったし、そうあるべきだとも考えていたからである。だが、一つだけ梅子は美歩の発言の中に気になる言葉があった。美歩は、自分が「四面楚歌」の状態だと言った。国防軍の荒くれ共を相手に、日々、警察官や検察官と同様の仕事をしなければならない以上、周りに敵が多い環境である事は梅子にも理解できた。だが、美歩が制服のまま勤務中に職場を抜け出し、カフェ・テラスで一人時間を潰しているところを見ると、梅子には、その「四面楚歌」と言った時の美歩の表現と、さっき「待機」するよう「命令」されたと言った彼女の説明が、彼女が職場で同僚から積極的に疎外され、パワハラまがいの扱いを受けているのではないかと心配されてならなかった。美歩が今、具体的に、どのような困難の中に立たされているのかは梅子には分からなかったし、国防に従事する機関に所属している人間に立ち入った質問をしてはならないという良識は、梅子も備えていて、そういった質問をする事で親友を困らせてしまう事も避けたかったから、梅子はあえて事情を訊こうとはしなかった。だが、梅子には、親友が何かに深く悩み、大きな重圧と戦っている事は分かっていた。だから梅子は、あえて冗談を交えて、明るい話題に会話を運ぼうとした。そして梅子は、美歩が今夜、宇城と二人で母親に結婚の報告をして承諾をもらう予定だという話を聞きながら、何か今の彼女を勇気づける言葉はないか、自分の中を懸命に探った。梅子は美歩の法律家としての実力を認めていた。それは、彼女の元来の真っ直ぐした性格と、その育ちの良さに基礎があるのかもしれないが、それ以上に、彼女は努力家であり、地道に事を進める性格でもあって、さらに、複雑な思考に耐えうる頭脳と、結果に向けて着実に一歩ずつ駒を進めていく慎重さと忍耐力の持ち主でもあったから、梅子がどんなに優秀でも勝てはしないと、梅子自身も自覚していた。そして、それは梅子が美歩を、親友として、ライバルとして、そして法曹として尊敬する点でもあり、また、もし、同じ弁護士業界で民事の法廷で対決したり、検事と弁護士という立場で刑事法廷において対決する事があれば、かなりの強敵になるだろうと恐れる点でもあった。同時にそれは、外村美歩という人間が、法曹として世に必要とされる人材であるという確信でもあった。ところが、その美歩が、職場で孤立無援の状態であるか、周囲から何らかの圧力を受けていて、一方で、順調に結婚の話が進んでいるとなれば、彼女は結婚を機に監察官の職を辞し、法曹として生きる道から離れてしまうのではないか、梅子は、そう心配していた。梅子は、美歩に法曹でいて欲しかった。それは、自分の中にライバルを設定することで、自らのエネルギーとするという利己的な理由もあったが、それよりも、自分が独立し、自分の事務所を持てるようになったら、美歩に弁護士として一緒に事務所を設立し、彼女に少しでも自由な時間が作れるような環境で働いてもらいたいと、常に思っていたからである。だから、それまでは、美歩に何とか法曹でいて欲しかった。ここで挫けてもらいたくはなかった。梅子は必死に言葉を捜した。その時、今朝の美空野の「背水の陣」の話が頭を過ぎった。そして、続いて、高校の時に習った「四面楚歌」の漢文が頭に浮かんだ。「史記」の項羽と劉邦の話だ。「楚」の国の項羽が、「漢」の国の劉邦の軍に囲まれたとき、自分の郷里の「楚」の国の歌が周囲の敵軍の野営から聞こえてきた。それは劉邦の策略だったのだが、目指していた「楚」も敵に寝返ったと考えた項羽は、勝利を諦め、そのまま敵に突進し、結果、討ち果ててしまった。この有名な逸話は、梅子もうっすらと覚えていた。そして、それまでは梅子も、その四文字の言葉を、美歩が言ったように、周囲を敵に囲まれた状態とか、孤立無援の状態という意味で使っていた。だが、美空野が言ったように、その逸話をよく考えてみると、要は劉邦の術中にはまった項羽の失敗談であった。そして今、美歩が、もし、項羽と同じ失敗を犯そうとしているのなら、気づかせるべきだと梅子は考えた。それで、暫しの談笑の後にカフェ・テラスを立ち去ろうとした梅子は、歩道との仕切りの植木鉢の前で振り返り、カフェ・テーブルの椅子に座ったままこちらを向いている美歩に、その話をした。美歩はキョトンとしていた。だが、聡明な美歩なら、梅子の発言の意図を理解できるはずだと、梅子は信じていた。梅子は、立っている自分のすぐ隣の席で座ったままコーヒーを飲んでいるスーツ姿の男性が背中越しにこちらに注意を向けているのに気づき、少し得意気に気取って語った自分が恥ずかしくなって、また前を向くと、美歩に背を向けたまま歩道に出て、速足で事務所ビルへと向かって歩き始めた。通り沿いに座っていた美歩の横を歩くとき、彼女の顔を見たが、美歩は口角をあげて肩の前で小さく手を振ってくれた。美歩の感謝の意を歩道との仕切りの植木越しに受け取った梅子は、栗毛の髪をかき上げながら、軽く手を振って返し、重たい鞄を肩に抱えて、高いヒールで歩きにくそうに、石畳の上を歩いていった。



                  二十四

「ホカッチは『四面楚歌』で、私は『無限地獄』かあ。いかん、いかん。脱出せねば。こんなんじゃ、私も真明教の信者になっちゃうわ。あのダサい黄色いジャージだけは着たくないから」

 町田梅子はそう呟きながら、エレベーターから出てきた。すぐ目の前の自分のオフィスのドアを開ける。

「ただいま。あれ……小彩さん。ただいまあ。……」

 部屋の中に事務員の小彩麻子の姿は無かった。

「何よ、もう帰ったの? 信じられない。私が戻ってくる前に帰る? なに考えてるのよ」

 町田梅子は不機嫌な顔で自分の執務机に向かった。分厚い鞄を載せ、中から立体パソコンを取り出す。すると、その薄い板状の機械の側面で、メール着信を知らせるランプが点滅しているのに気付いた。

「あ、所長から社内メールだ」

 町田梅子は急いでパソコンを置き、メールをホログラフィーで表示させた。立体パソコンの上に封筒が浮かぶ。町田がそれに軽く触れると、蓋が開き、中から文書が出てきて広かった。宙に浮いた白い紙には、素っ気ない短い文章が並べられていた。

 ――和解契約書の内容は光絵会長に説明済み。時吉に送れ。野田さんの交通事故の件も急げ。以上――

 町田梅子はふて腐れた顔をしながら、肩の前で手を振った。

「はいはい。やりますよ。――まったく、マジで『無限地獄』だわ」

 後ろの窓際の棚に鞄を載せた町田梅子は、オフィスの中で、一人で仕事に取り掛かる。立体パソコンから和解契約書のファイルを投影させると、そのホログラフィーを小さく縮小させた。続いて住所録ファイルのホログラフィーを浮かべ、頁を捲って、その中から時吉浩一法律事務所を探す。該当箇所を見つけた彼女は、そこに記載されたメールアドレスの所に和解契約書のファイルホログラフィーを移動させて重ねた。小さなファイルホログラフィーの横に白い紙が浮かぶ。町田梅子は立体パソコンの手前に投影されたホログラフィー・キーボードを使って、その白い紙の上に挨拶文を打ち込んでいった。

「――よろしく、ご査収ください。草々――うん。こんなものでいいかな……。余計な事は書かない方がいいわね。よし、送信っと」

 外村美歩はファイルホログラフィーの上に白い紙を重ねると、送信アイコンのホログラフィーを押した。ファイルホログラフィーが点滅し、目の前に進入禁止の交通標識の形をしたアイコンが浮かぶ。

「はあ? 送信できません? あのボンボン弁護士、ホントに固定の有線回線一本なの。ウソでしょ……」

 町田梅子は小彩の机を見た。無人である。

「こういう時に補助する為に事務員って居るんでしょ。なに先に帰っちゃってるのよ。もう少し、仕事熱心だと、私が弁護士組合から貰った割引クーポンとか、分けてあげるんだけどなあ」

 町田梅子は項垂れた。

「はあ……高級マンションに住んでる人には、必要ないかあ……」

 町田梅子は激しく机に両手をついて、椅子から立ち上がった。

「もう、面倒くさいわね。やりますよ、自分で!」

 町田梅子は和解契約書とファックス送信書をプリントアウトすると、それを持ってオフィスから出て行った。

 窓の外はすっかり暗くなり、低い位置に半月が昇っていた。



                  二十五

 町田梅子はエレベーターで一階の総務フロアまで下りて来た。カウンターの中の事務スペースには誰も居ない。町田梅子は無人の机が並ぶフロアを見回しながら言った。 

「みんな、帰るの早っ。私もたまには、早く帰りたいわあ。でも、まあ、弁護士だからね。仕方ないか。責任ある立場だもんね」

 町田梅子はL字に置かれたカウンターの内側のスペースへと入っていった。フロアの奥の方を見回しながら呟く。 

「たしか、ファックス機能付きの古い複合機があるって……」

 奥の方に歩いて行くと、隅の方にビニール製のシートで覆われた大きな機械が目に入った。町田梅子は消されていた奥の電灯を点け、シートに包まれたその機械に近づく。そして、しゃがんだり、横に顔を出したりして、それを観察した。

「たぶん、これよね。まだ使えるのかな」

 町田梅子は機械の上に詰まれた段ボール箱を退かし、ビニールシートを外した。プラスチック製のカバーが黄色く変色した古い複合機が姿を現した。上着を脱いだ町田梅子は、重い複合機を動かして、壁際から離そうとした。

「よっ。フーン……、重いわね。どうして前の方にコンセントを……」

 彼女が必死に複合機を押していると、二人の男性がエレベーターから降りてきた。その先輩の弁護士たちは、総務フロアの隅で複合機と相撲を取っている町田を見つけると、声を掛けた。

「お、町田先生じゃないですか、お疲れ様。総務の処理もこなしてるんですか。勉強熱心だねえ」

 町田梅子は愛想笑いで返す。

「あははは。どうもー。お疲れ様でーす」

 先輩弁護士たちは、ゴルフのスウィングをしながら、エントランスの方へと歩いて行った。

「ここの時に、肩が上がっちゃうんだよな。癖かな」

「腰の動きと合ってないからだよ。今日は、特訓だな」

 先輩達が出て行き、自動ドアが閉まると、町田梅子は言った。

「こんのお。覚えときなさいよ。私がストンスロプ社の担当になったら、あんたらを、こき使ってやるから。フン」

 汗だくになり、ようやく動かした複合機の後ろに手を伸ばした町田梅子は、コンセントのコードを掴んで横に引き出した。そして、コンセントの差込口を探す。

「今時、コンセントなんて無いもんなあ。でも、ここに置いてあるって事は、どっかこの辺に……あった、これか。懐かしいわね。でも、これ、使えるのかしら。ま、とりあえず、差し込んでみて、電源は……」

 複合機の電源を入れる。液晶パネルに照明が点き、機械が音を立て始めた。

「お、生きてますな。ええと、じゃあ、どっかに無線ランの接続ウィザードが……」

 液晶パネルを覗きながら、横の十字ボタンを押していると、背後から自動ドアが開く音がして、のんびりとした年配の女性の声がした。

「あら、町田先生。どうされたんです?」

 町田梅子は振り向いた。

「あれ、牟田さん。すみません、皆さん、帰られたのかと思って、勝手に……」

 牟田明子は驚いた顔でカウンターの端から総務スペースに入ってきた。町田の近くまで歩いてきて尋ねる。

「ファックスですか?」

「ええ。時吉先生の事務所、ファックスでしか送れないそうで。これ、勝手に借りましたけど、よかったですか」

「いえ、構いませんけど。そうですわよね。あそこの事務所、今、ファックスとアナログ回線の電話だけですものね。お手伝いしましょうか」

「大丈夫です。とりあえず、回線には繋げそうですから。後は送るだけなんで」

 町田の横から複合機の液晶パネルを覗き込んだ牟田明子は、町田に言った。

「あら。違いますわ、先生。ウチの今のルーターに接続しても、送信方式が異なりますから、送れないですわよ」

「え? そうなんですか」

「これ、たしか旧式モデムが内蔵されてる古い機種だから、直接、有線で……」

 部屋の隅に目を遣った牟田明子は、そこに歩いて行き、壁の横で屈んだ。

「ああ、ここ、ここ。昔、ここのソケットで使ってましたのよ。今も使えるはずですわ。そこの横の細いコードをここに繋げは、ファックスを送れますわよ」

 牟田が指差した複合機の側面を覗いてみると、テープで括ってある通信ケーブルが引っ掛けてあった。町田梅子はそれをばらして伸ばすと、牟田の所まで引っ張っていき、先端を壁の穴に差し込んだ。複合機がピッと音を鳴らし、回線に自動で接続する。町田梅子は送信書類の設置トレイに息を吹きかけて埃を飛ばし、その前に和解契約書とファックス送信書を重ねて置いた。牟田に複合機の使い方を教わりながら、ファックス機能に切り替え、時吉事務所の番号を入力して、ファックスのスタート・ボタンを押す。自動で読み取り部分に送られていく書類を珍しそうに見ていた町田梅子は、ハっとして隣に立っている牟田に顔を向けた。

「あの、ところで、牟田さんは、どうされたんです? 忘れ物ですか」

「いえ。地下リニアの駅で事件があったみたいで、えらく混雑してたものですから、少し間を空けてから帰ろうかと」

「それで、戻ってきたんですか」

「ええ。この辺りは、若者が時間を潰すようなお店しかないでしょ。それか、高いお店か」

「――ああ……」

 町田梅子は納得顔で頷いた。すると、送信が終わり、音が鳴った。液晶パネルに無事に送信された旨が表示される。肩を下ろした町田梅子は、通信用のコードを抜きに、壁の方に向かった。牟田明子は言う。

「あ、先生。片付けは結構ですわよ。私がやっておきますわ」

 町田梅子は遠慮しようとしたが、壁の時計に目を遣ると、牟田に言った。

「すみません。じゃあ、お願いします」

 書類を揃えた後、上着を着ている町田に牟田明子が遠慮気味に話しかけた。

「あの、町田先生。ちょっと、お伺いしても、よろしいでしょうか」

「はい。何でしょう」

「先日の平林さんの件、何か大変な事情でも分かったのですか?」

「……」

 町田梅子は黙って上着の釦を留めている。牟田明子は言った。

「あ、いえ。守秘義務に違反するような事でしたら、いいのですよ。ちょっと、気になって聞いてみただけですから」

 せっかく手伝ってくれた牟田に邪険な態度を取るのも気か引けたので、町田梅子は少しだけ話をした。

「来週、もう一度来てもらって、裁判についての打合せと、報酬についての説明をします。そんなに手間は掛からないと思います。公示送達の申請が面倒ってくらいですかね」

「裁判? ――そう、ですか……」

 牟田明子は含み顔で目を逸らした。町田梅子は尋ねる。

「何か」

「あ、いえ、別に……」

 牟田明子が不服そうな顔をしていたので、町田梅子は言った。

「所長にも報告してありますし、報酬についても、平林さんの負担にならないよう、例のベンツを差押えて、売得金から貰い受ける形にします。所長が、そうしてやれって」

 牟田明子は段ボール箱を動かしながら言った。

「そうですか……あの方は、欲張りですからね……」

「欲張り?」

 町田梅子がそう聞き返すと同時に、梅子の腹が鳴った。町田梅子は顔を赤らめて下を向く。牟田明子はビニールのシートをたたみながら尋ねた。

「あ、先生は、まだこれからお仕事ですか」

「ええ。まだ、やらないといけない事が、たくさん残っていて」

「じゃあ、お夕食を買いに行く時間が無いんじゃございません?」

「ええ、まあ。隣のコンビニのおにぎりで、軽く済まそうかと」

「そんなんじゃ、お体を壊しますわよ。私、何か買ってきて差上げましょうか」

「いえ、そんな……牟田さんの帰りが遅くなりますから。気にしないで下さい」

 牟田明子は顔の前で手を一振りした。

「そんな、いいんですのよ。永峰堂えいほうの和食弁当なんて、いかがです? すぐそこですから」

「そんな……」

 遠慮する町田の顔を、牟田明子は笑みながら覗きこんだ。

「美味しいですわよ」

 町田梅子は誘惑に負けた。

「――いいんですか」

 牟田明子は口角を上げて頷くと、更に尋ねた。

「御飯は、お若いから、大盛りかしら」

「あ、いえ……その……」

 牟田明子はまた顔の前で手を一振りした。

「あら、ごめんなさいね。おばさんの感覚で、つい。ダイエットとか、ありますものね。じゃあ、少し少なめに……」

「あ、いや、できたら、普通より、少しだけ、多めに……」

 町田梅子は恥ずかしそうに、そう言った。牟田明子は口に手を当てる。

「フフフ。はい。多めですね。分かりました」

「すみません」

 一礼した町田梅子は、エントランスへと出て行く牟田を見送った。



                  二十六

 牟田が弁当を買いに行ってくれている間、町田梅子は自分のオフィスで、野田光の交通事故にかかる損害額の算定に取り掛かっていた。宙に浮いたホログラフィーの書類を捲りながら 電卓キーボードで数字を打ち込んでいく。町田梅子は手を止めた。

「あ、そっか。野田光さんが生存していたとしても、脳溢血で手術までしているんだから、それなりに治療費はかかったはずよね。それは、地域医療機関組合がミスらずに速やかに搬送できたとしても変わらない訳だから、残りの生涯賃金から治療費分は差し引いておかないといけないかあ……と思うんだけど、たぶん、所長は、全額で請求しろって言うわよね。それは相手方の反対主張の内容だって。どうするかな。二パターン作って、明日、所長に確認してから、送付するか。急げとはいっても、そこまで、急いではいないわよね、きっと……」

 ドアがノックされた。町田梅子が返事をすると、ドアが開き、牟田明子がレジ袋を見せた。

「失礼します。お弁当、買ってきましたわ」

 椅子から立ち上がった町田梅子は、牟田を出迎えた。

「あ、本当にすみません。いくらでした」

「あ、支払は後払いですから、いいんですのよ。あそこは、ウチがよく仕出しで利用する業者ですから、支払は月末清算になってますの」

「そうなんですか。じゃあ、私の給与から差し引いておいて下さい」

「はい。ちゃんと、そうさせていただきます」

 牟田明子はいつものように語尾を上げたが、今日は気にならなかった。牟田明子はレジ袋を軽く叩いて言った。

「おいしそうだったんで、私の分も買っちゃいました。小さいの。ご一緒させていただいても、いいかしら」

 町田梅子は牟田を中に通しながら言った。

「あ、どうぞ、どうぞ。一人で食べるのも、寂しいですから」

 牟田明子は部屋の中を見回すと、窓際の棚の隅に置かれたポットと給湯セットを見つけて、そちらの方に歩いて行った。

「じゃあ、今、お茶を入れますわね」

「すみません」

 家事が苦手な町田梅子は、素直に牟田に頭を下げた。牟田明子は町田の机の上に浮かんでいるホログラフィー文書を一瞥すると、ポットの所に向かい、蓋を外した急須に茶の葉を入れながら言った。

「損害額の査定ですか。逸失利益の計算が面倒でしょう。今、税金も複雑だから」

「ええ……」

 そう返事をした町田梅子は、牟田から受け取った袋を覗き込みながら、相談ブースの方へと向かった。香ばしくも甘い、素敵な匂いが鼻の奥に飛び込んでくる。

 ――あの永峰堂だ。美味しいに決まっている。憧れの高級弁当。しかも、御飯多め。ああ、弁護士になって、良かった。

 町田梅子は目を潤ませながら、狭いブースの中の椅子に腰を下ろした。

 二人は相談ブースの中のテーブルに、大小の弁当を広げて、それを食べた。町田梅子にとって久しぶりに栄養バランスの良い食事だったし、味も良かった。町田梅子は、だし汁がよく染み込んだ高野豆腐や、身がしっかり詰まった昆布巻、どこか懐かしい煮しめを味わった。

「んー。おいしいです。コンビニのお弁当もいいけど。こういう、家庭の味も最高ですね。この煮付けも、完璧。こういう料理、久しぶりです」

「先生は自宅でお料理とか、されないんですか」

「全然。レパートリーが少な過ぎて。親友のお母さんが少し教えてくれたのが、二、三と、レトルトカレーくらいしか作れません」

「それはいけませんわね。少しずつ、やっていかないと、身に付きませんわよ」

「苦手なんですよね。料理とか、片付けとか。主婦の才能が無いですね、こりゃ」

 牟田明子は笑った。

「フフフ。主婦の才能をもって生まれた女の子なんて居ませんわよ。みんな、出来ない所から少しずつ続けて、出来るようになるんですよ。長い時間をかけて」

 町田梅子は首を竦めた。暫らく黙って弁当を食べながら、彼女は牟田の顔をチラチラと見た。そして、少し遠慮気味に訊いてみた。

「あの、牟田さんは、ここは長いんですか」

 牟田明子は上品に口に運んでいた箸を下ろして答えた。

「そうですね。美空野先生が事務所を立ち上げてから、ずっと居ますから、長いですわね」

「司法試験の勉強とか、されてたのですか」

「ええ。その前の旧司法試験にとりかかったら、法科大学院制度が始まったでしょ。それが廃止になって、今度はローヤー・プログラム制度。仕事をしながらだと、どれも行くことができなくて。三十代半ばまでは、予備試験とかに取り組んでいましたけど、なかなか時間がねえ。ローヤー・プログラムのバイパス・コースを半分受講して、後は子育て。気が付いたら、この年でした」

 牟田明子は肩を下ろして力なく笑った。町田梅子は更に尋ねる。

「受験は?」

「ほとんど、出来ませんでしたわ。ここ、忙しいでしょ」

「ご結婚は、されてるんですよね。たしか、息子さんがいらっしゃるとか」

「ええ。一人ね。まだ、小学生の子が」

 町田梅子は自分の母親くらいの年齢の牟田に、小学生の子供がいると聞いて、目を大きくしてしまった。彼女はすぐに下を向いた。牟田明子は言う。

「驚きましたでしょ。結婚も遅かったものですから、子を授かったのも遅くて」

「すみません。なんか、いろいろ立ち入った事を聞いちゃって」

「いいですわよ。もう慣れましたわ。他の先生達には、随分とからかわれて来ましたから」

「私は、そんなつもりじゃなかったんですけど。……ホント、すみません」

 町田梅子は申し訳無さそうに下を向いて、頭を下げた。牟田明子は少し慌てて言う。

「あ、いえ。先生に何か、どうとかと言う事じゃありませんのよ。こちらこそ、ごめんなさいね」

 もう一度軽く頭を下げてから再び弁当を食べ始めた町田梅子は、また、牟田に言った。

「じゃあ、法律にもお詳しいんですね。あのホログラフィーをちょっと見ただけで、逸失利益の計算だって分かるなんて」

「昔、随分とやらされたものですからね。見慣れていただけですわ」

「はあ、やっぱり。昔から、そうだったんですか。所長、仕事を下にさせ過ぎですよね。指示を出すばっかり。そのくせ、自分がやってるような顔するんですもんね。さっきだって、大急ぎで私に作らせた和解書を、いつの間にか依頼人にプレゼンしちゃってるし。それを知って、なんか、ちょっと、イラッとしちゃって」

 牟田明子は顔を前に出すと、小声で言った。

「美空野先生の悪口は言われない方がいいですわよ。それで弁護士業界を追われた先生を何人か知っていますから」

「でも、法曹としての判断は、独立してするべきですよね。フィンガロテル社の件は、どうも納得いかなくて……」

 牟田明子は子に叱るように言った。

「先生。お口にチャック。先生のご判断が正しいのかもしれませんけど、あの方に楯突くと、ひどい目にあいますわよ。仕事を次から次に回されて、人生の時間を奪われてしまいますわ。私と違って、先生はせっかく法曹になられたのですから、その地位を大切にされないと」

 町田梅子は眉を寄せた。

「――牟田さん、もしかして……」

 牟田明子は顔の前で手を合わせると、少し大きな声で言った。

「ああ、おいしかった。じゃあ、私、これで失礼しますわね。あ、ゴミは総務の給湯室に置いて帰ってください。明日、片付けておきますから」

 町田梅子は腕時計を見た。夕飯時は過ぎている。主婦である牟田は早く帰宅したかったはずなのに、町田がオフィスの中で一人で寂しく食事をする事に気遣い、わざわざ自分の分の弁当も買ってきて食事を共にしてくれたのだろう。町田梅子は申し訳なさそうな顔で牟田に言った。

「すみません。息子さんの晩御飯の仕度とか、ありましたよね。私、気付かなくて……。気を使っていただいて、すみませんでした」

 牟田明子は顔の前で手を一振りする。

「いえ。いいんですのよ。主人が作ってくれているはずですから。じゃあ、失礼します」

 町田梅子は椅子から立ち上がり、牟田に深々と頭を下げた。それは、彼女の肉体と精神の素直な反応だった。彼女は静々と歩いてく牟田の背中を見送った。



                  二十七

 野田めぐみの損害賠償の請求書を内容証明郵便で送る準備を済ませた町田梅子は、フィンガロテル社の損害賠償請求反訴事件を本案とするステムメイル社への仮差押命令申立書の作成に取り掛かっていた。時計の針が深夜の時間帯に入って随分と経った頃、突然、オフィスの固定回線電話が鳴った。驚いて一瞬体を動かした町田梅子は、動悸の余韻を鎮めながら、受話ボタンを押した。

「はい、弁護士の町田です」

 始め雑音混じりに機械音が鳴り、その後、変換機によって通信方式を調整された明瞭な音声が聞こえてきた。

『ああ、時吉です。まだ、いらっしゃいましたか。もしかしたらと思って、掛けてみたんですけど。大丈夫ですか、こんな時間まで仕事して。倒れますよ』

 町田梅子は対決相手の声に身を引き締める。彼女は少し声を低くして答えた。

「お気遣い、有難うございます。それで、ご用件は何でしょう」

『いや、ファックスを受け取りました。僕も、さっき戻ってきたばかりでしてね、まだ、一回サラッと読んでみただけですけど、これじゃ、ちょっと無理ですね。交付された株式を株主総会で議決権無しにされちゃったりしたら、そのまま全部取得条項付株式に変えられちゃって、取得されてしまう可能性がありますからね。もし、株価が下がったところで取得権を行使されたら、ウチの依頼人は、ただで特許技術の使用を承諾したのと同じ事になっちゃうし。そしたら、また紛争の蒸し返しですよ。この内容は、ちょっと危険過ぎます。だけど、特定事業連動型で優先配当ってのは、なかなかいい解決案かもしれないですね。でも、その場合は、普通株式の一定数の交付もバーターにしないと、当事者の権利保護のバランスとしてはマズイでしょ。もう少し検討してみて下さいよ。僕もウチの依頼人と話をしてみますから。業務提携で協力して互いの事業利益を拡大させていける方向がいいとは、僕も思っていましたから、先生の方もそういうお考えなら、もう少し精密で安全な和解内容にしていきましょう。当事者が将来、再び揉める事が無く、今後も協力していき易い様な内容に。だけど、それには時間が掛かりますよ。お互い、依頼人を説得する事もあるはずですから。それと、互いに相手方の顔を立てる事も考慮しましょう。二社で協力して市場に表明する事が必要になるでしょうからね。法的な手法の細かい点は、僕と先生でしっかりと議論して詰めていきましょう。将来、お互いの依頼人に、損害や危険が生じないように』

 町田梅子は詰まりながら返事をした。

「あ……えっと……はい、分かりました。私も、その通りだと思います。……」

『じゃあ、今日は遅いので、また、後日ゆっくり、ご連絡します。次は僕の方で、さっき送ってもらった和解案の修正という形で、事業協力を柱とした和解内容を作ってみますので、それを見て、そちらの依頼人さんとご検討下さい。先生の方には別途に、気になる箇所と、誤解を生みそうな箇所に印をつけたものを送りますから、そちらで確認してもらえば結構です。早々のご提示、ありがとうございました。これを作るの、大変だったでしょう』

「ええ……まあ……」

『次は僕の番ですから、先生は少し休んで下さい。とにかく、今日はもう遅いので、これで。失礼します』

「どうも、わざわざのご連絡、ありがとうございました。失礼致します」

 通話を切った町田梅子は、暫らく呆然としていた。

「……」

 そして頭を抱えて、机の上に倒れる。

「はあああー。強敵だあ……。どうしよう。全部、見透かされてるじゃない」

 町田梅子は、そのまま暫らく動かなかった。やがて、顔を上げた彼女は、頭を掻きながら言った。

「はー。でも、正直、時吉事務所に移りたいわ……」

 町田梅子は執務椅子の背もたれに勢いよく身を倒した。



                  二十八

 次の日の朝、町田梅子は、いつもより遅い出勤となった。それは、彼女が遅刻した訳ではなく、通勤に利用している都営バスが遅れたからであった。今朝は、新首都圏の東部を南北に流れる縞紀和しまきかず川沿いの北西部一帯と、昭憲田池西部の南北幹線道路の南方面一帯が大渋滞を起こしていた。梅子を乗せた都営バスも、北西部の渋滞に巻き込まれ、彼女はいつもより一時間も遅く事務所ビルに着いた。何となくいつもと違う雰囲気の玄関ロビーを彼女は速足で通っていく。事務員達も何人かしか出勤しておらず、カウンターの向こうの総務課も閑散としていた。その奥から牟田明子が声を掛けてきた。

「あ、町田先生。おはようございます」

「あ、牟田さん。おはようございます。昨日は、どうも」

「先生、お弁当の容器、片付けて下さったのですね。申し訳ございません」

「あ、いいえ。別に」

「車が混んでて、大変だったでしょう。他の先生達、自分のお車で通勤ですから、まだ、誰も出勤できておりませんのよ。今朝は、地下リニア通勤の私が一番乗りでした」

「ですか……何があったんでしょうね」

「聞いた話では、東方面の全トンネルで、国の安全点検の一斉実施ですってよ」

 町田梅子は眉をひそめた。

「そんなの、ニュースでもやってませんし、行政の配信サービスでも、何も連絡が来てませんよね」

「なんでも、抜き打ちの検査らしいですのよ。おかげで、樹英田区方面からの車が全部、新那珂世港方面に流れているそうで、南北幹線道路の南詰めは、車が溜まり始めているのですって。たぶん、もうすぐ大渋滞になりますわね」

「へえー」

 自分の車で通勤している訳でない町田梅子にとって、あまり関心がない事情であったから、町田は適当に返事をして、その場を去った。そして、エレベーターに乗り、いつも通り、自分のオフィスに向かった。

 オフィスのドアを開けると、すぐ正面に座っているはずの小彩の姿が無かった。彼女も渋滞に巻き込まれたのだろうか。そう思った町田梅子は、首を傾げながら小彩の机の前を歩いていく。

「変ねえ。小彩さん、地下リニア通勤じゃなかったっけ。しかも、住まいは高層ビル街の間の『ハリーカイ・ヒルズ』とかいう高級マンションだったわよね。そこって、渋滞とは関係ない地域よね」

 自分の椅子に座った町田梅子は頬を膨らまして、もう一度強く座り直してから、言った。

「ていうか、どうして事務員の小彩さんが都心の超高級マンションなのよ。私、新高速道路の近くの、ワンルームの安マンションじゃない。何よ、これ。もう!」

 一度、深呼吸した町田梅子は、気を取り直して、仕事にかかる事にした。彼女は、まず、昨夜作成した野田めぐみの善谷市と同市地域医療機関組合に対する損害賠償請求書の二パターンの起案文書データを所長のパソコンに送信した。それから、フィンガロテル社事件の訴訟資料を自分の立体パソコンの上にホログラフィーで投影させた。すると、その前に、点滅しながら回転する小さなベルのホログラフィーが浮かんだ。町田梅子はそれを指先で掴んで軽く回す。宙に掲示板のようなホログラフィー画像が広がり、メッセージを町田梅子に告げた。

「送信できません? 受信者側が電源オフ、共通サーバーに送信して下さい?」

 町田梅子は立体パソコンの端に浮いている勤務表のアイコン・ホログラフィーに触れて、他の弁護士達の出勤状況を確認した。

「ええー。所長、今日は休みなの? もう、早く言ってよ。ていうか、社内メールの受信ボックスくらい、オンにしといてよね。事件関係の重要な文書データは、共通サーバーじゃ、危なくて放り込めないじゃない」

 溜め息を吐いて項垂れた町田梅子は、野田めぐみの件の起案文書を美空野のパソコンに転送することを諦め、そのまま出勤表をスクロールして、他の職員たちの出勤状況を眺めていた。

「なるほどね、他は皆、遅刻ですか。弁護士は、ほとんど出てきてないじゃない。あら、有給休暇が二人。何よ、昨日の二人じゃないの。さては、腰でも痛めたな。まったく、ゴルフの練習ばっかやってるからだっつうの。ん……はあ? 小彩麻子、有給休暇あ?」

 町田梅子は、一度下を向いて体を細かく震わせると、目の前で空中に浮いている出勤表のホログラフィー越しに、誰も座っていない小彩の席を指差しながら言った。

「こんのお、香水女あ! こっちは昨日も日付が替わってから帰宅したんだからね。その私が八時間後には出勤してんのに、おまえは有給休暇かあ! 私は、ここに住んで、安マンションに出勤してるわけ? 冗談じゃないわよ。何が『ハリーカイ・ヒルズ』よ。だいたいね、いつか言おうと思ってたんだけどね、あんた、スカートが短過ぎるのよ。髪の毛いじったり、付けまつ毛を整えたり、爪磨いてる暇があったら、少しは仕事しろっての。ちょっと若くて可愛いからって、調子に乗るんじゃないわよ。私だってね、まだ二十八なんだからね。おっぱいだって、あんたと同じくらいはあるし、短いスカート穿けば、あんたとは変わらないんだから。可愛さ百倍よ。もう、何なのよ。いいーだ」

 誰も居ないオフィスで一人、口を横に広げて無人の小彩の席に歯を見せている若い新人弁護士は、その後、服の襟を整えて深呼吸すると、今度は黙って仕事に取り掛かった。

 町田梅子は、ステムメイル社を相手方とするフィンガロテル社からの仮差押命令申立書を作成し始めたが、ふと何かを思いつき、ホログラフィー・キーボードの上で動かしていた指を止め、その手を組んで考え出した。

「ステムメイル社もフィンガロテル社を訴えているのよ。同じように、ステムメイル社がフィンガロテル社に仮差押えをかけてきたら、どうするのよ。本訴提起しているんだから、出来るじゃない。ステムメイル社の株式を裏でダクテルロッジ社が買い集めている事を知ったら、親会社のフィンガロテル社が保有しているダクテルロッジ社の株を押さえてくるに決まってるわよね。――そうなると、本案判決後の本執行で、ダクテルロッジ社株を誰が落札するかよね。ダクテルロッジ社は、ステムメイル社の株の取得で資金を使っているとすれば、入札する資金は無い。フィンガロテル社は債務者だから法律上、入札できない。債権者の入札は禁じられていないから、ステムメイル社は入札できると……。ええー。ステムメイル社に持っていかれちゃうじゃないのよ」

 町田梅子は、開いていた作成中のホログラフィー文書を閉じると、すぐに、社内サーバーの顧問企業データにアクセスした。

「ちょっと、ダクテルロッジ社の発行済株式の保有割合は、今、どうなっているのよ。ええと、ダクテルロッジ社の株主名簿、株主名簿、馬水さんの保有は……」

 町田梅子は首を傾げた。

「あれ、ロックされてる。『アクセス不可』って、何で? もう……時間が無いですけどお」

 町田梅子は、空いている小彩のデスクに目を遣った。

「有給休暇なんだから、給料分は貢献しなさいよね」

 椅子から立ち上がった町田梅子は、小彩のデスクに向かうと、顔の前で手を何度も振りながら、反対の手で彼女のパソコンに触れた。

「ああ、香水臭い。もう、パソコンにも、ちゃんとロックくらいしときなさいよ。よっぽど浮かれて出て行ったな。ぜったい男だろ。今日、男と会うんだろ。弁護士と女は勘が鋭いんだからね。私は、その両方を……」

 彼女のパソコンを使って、再度、データ・サーバーにアクセスしてみた町田梅子は、パソコンを操作していた手を止めて、拳を握った片方の手を顔の前でプルプルと震えさせながら、歯を噛みしめて言った。

「どうして、事務員の小彩がアクセスできて、弁護士の私がアクセスできないのよ。あんた、アクセス・コードを貰ったら、私のパソコンにも入れときなさいよ。この馬鹿女!」

 投影されたダクテルロッジ社の株主名簿データを確認しながら、町田梅子は呟いた。

「あらら、やっぱり、半分以上、まだフィンガロテル社の保有じゃない。昨日、一昨日で売っておけばよかったのにねえ」

 空中に薄く広がっているダクテルロッジ社の株主名簿データを目で追って読んでいた町田梅子の顔が、一瞬、曇った。

「あら? 馬水諭隆って、フィンガロテル社の社長でしょ。タイムマシンで南米に行って、あのインタビューの時に、記者さんの目の前で殺されたのよね。まさか、まだ相続手続をしてないのかしら」

 町田梅子は、早足で自分のデスクに戻り、再び自分のパソコンからデータ・サーバーにアクセスした。

「おかしいわね。ちゃんと、ウチの弁護士法人で相続手続を受任してるじゃない。どんな処理をしたのかしら……」

 町田梅子は、ホログラフィー画像を捲り、文書の中身を確認した。そして、最初の頁で、その担当者の名前を二度読み直してから、次の頁へと進んでいった。

「へえ、たまには所長も自分で仕事するのね。なになに、ええと、父母が法定相続で、二分の一ずつ相続しているのね。相続材目録は、土地建物、有価証券、債権、預貯金、現金、自動車、その他動産……さすが、持っているわねえ。で、有価証券は……」

 町田梅子は、相続財産目録のホログラフィーの有価証券の箇所を指先で触れて、その詳細を表示させた。

「あった、ダクテルロッジ社株式。なんだ、ちゃんと相続されているんじゃない。だけど、名義書き換えが済んでないって事かあ。あれ、ストンスロプ社の株式もある。やけに多いわね。どゆこと?」

 町田梅子は、ストンスロプ社株の項目をクリックした。

「ふーん。フィンガロテル社が保有していたストンスロプ株を買い取ってるのかあ。まあ、馬水社長が居なくなったら、フィンガロテル社の経営は、どうなるか分からないものねえ。実際、倒産しかけだし。破産手続きになったら、競売に掛けられちゃうからね。これだけの量のストンスロプ社の株式が、誰の手に渡るか分からなくなるよりは、馬水家の個人財産として相続ラインに乗せておいた方が安心か。たぶん、所長の指示ね。考えたわね」

 美空野の事前の采配に感心しながら、ニヤニヤしていた町田梅子の顔から、その笑みが消えた。そして、目の前に開いていた馬水諭隆の相続処理文書のホログラフィーを閉じると、今度は、その妻の哲子の相続処理データにアクセスした。そして、同じようにして、その記載の中から、ストンスロプ社の株式の行方を探った。

「これも、フィンガロテル社から買い取っている。日付も同じ。相続処理は……」

 町田梅子は、項目を一つ戻して、相続処理の全体像の頁を開いた。

「ストンスロプ社の株式だけを遺言書で別に遺贈している。受遺者は、馬水諭隆の父母。その他の財産は、実家の両親に遺贈しているのに」

 町田梅子は、馬水諭隆の二人の子供の相続処理文書のホログラフィーも開いた。そして、その二つを交互に読み比べた。

「やっぱり、こっちも。諭隆と哲子を法定代理人として死因贈与契約。目的物はストンスロプ社の株式、受贈者は、諭隆の父母」

 町田梅子は、その死因贈与契約の締結日が先の遺言書の遺言日と同じであり、それらが、ストンスロプ株をフィンガロテル社からの買取った日の翌日である事を確認した。

「間違いない。所長は、ストンスロプ社の株式が不必要に散逸しないように、馬水諭隆の父母に集中するべく手を打っている」

 町田梅子は、すべてのホログラフィーを閉じると、今度は、先日自分が担当した水枡智雄の相続にかかる遺産分割調停調書データを探し出し、それを開いた。そして、そこに書かれた文章を丁寧に、何度も読み返しながら、呟いた。

「この内容だと、銀行預金や株券を水枡由美と、その姉で二分の一ずつ均等に分ける事になっている。水枡智雄の遺産の目録は……」

 町田梅子は、ホログラフィーにある相続材目録のタブを指先で摘んで、その文書を別のホログラフィーで表示させ、その中から有価証券の項目を見つけると、その下の株式の項目に触れた。町田梅子の前に小さな文字で書かれた一覧表が広がる。町田梅子は息を呑みながら、その何十種類もの株式銘柄の中から、ストンスロプ社の株式を探した。それは、そこに明記されていた。しかも、その株式数も多かった。町田梅子はデスクの上に両手をついて項垂れた。

「しまった。――ミスった! これじゃ、ストンスロプ社の株式が、由美さんとお姉さんに分かれて相続されてしまっているじゃない。ウチの依頼人の由美さんに集中させなければならなかったのに……」

 町田梅子は、自分のイヴフォンですぐに美空野のイヴフォンに電話を掛けた。しかし、彼のイヴフォンは通じなかった。

「なんで、電源を切ってるのよ。……」

 町田梅子は、もう一度、ホログラフィーで馬水諭隆の相続処理のデータ・ファイルを開くと、その相続関係説明図の頁を開き、それをプリントアウトした。それと同時に、イヴフォンを操作して、電話を掛けた。

「あ……えっと……おはようございます。所長の事務所の弁護士の町田と申します。美空野所長は……ああ、そうですか。分かりました。失礼します」

 町田梅子は、ブラウスの胸元に留めていたイヴフォンを外すと、プリントアウトされた書類を持って、駆け足で部屋の出口へと向かった。

「もう、連絡くらい、つくようにしといてよ。それにしても、あの奥さん、どうして朝から、あんな格好してるのよ。ド変態!」

 イヴフォンは通話している相手の今の様子を映し出すものではなく、音声を解析して使用者の脳内の記憶画像を目の前に映し出すものであるので、今梅子の目に映っていたのは、今の美空野の妻の様子ではなく、昨日の梅子が見た美空野の妻のホログラフィー映像に対する梅子の印象記憶を再現して視覚化したものであったが、今の彼女には、それに気付く余裕は無かった。

 町田梅子は足踏みしながらエレベーターの到着を待ち、扉が開くと中に駆け込んで、急いでボタンを押した。苛々する彼女前でエレベーターの扉はゆっくりと閉まっていった。



                  二十九

 エレベーターで一階へと下りてきた町田梅子は、急いでカウンターの前に向かい、その向こうの奥の席に座っている女性に声を掛けた。

「牟田さん。すみません、ちょっといいですか」

 デスクの上でパソコンのキーを叩いていた牟田明子は町田の大きな声に驚き、すぐに立ち上がって、外した老眼鏡をチェーンで首に掛けたまま、カウンターの前までやってきた。

「どうしましたの、町田先生。慌てて」

「すみません。あの、過去にウチに相談にみえた方のデータって、残ってますよね」

「ええ。ご来訪いただいた方は、すべて、来訪者記録に保存してありますわよ」

 町田梅子は手に持っていた書類を牟田に手渡して、それを指差しながら言った。

「この相続関係説明図にある相続人とその周辺親族の中で、過去にウチに相談にみえた方はいないか、調べてもらえませんか。大至急」

 牟田明子は首に掛けた老眼鏡を手に取り、それを反対の手に持った書類と顔の間で前後させながら、その書類を確認した。そして、一度、町田の顔を見ると、すぐに返事をした。

「分かりましたわ。すぐ照合してみますから、お待ち下さい」

「ありがどうございます」

 牟田明子は他の事務員の席の後ろを通り、奥の方に進んだ。自分のデスクに戻り、パソコンを操作して照合作業を開始する。彼女はテキパキと作業しながら、デスクの横に縦置きされたプリンターの前に片方の手を広げると、椅子から立ち上がって中腰のまま、プリンターからプリントアウトされ排出された紙を取り、そのまま速足で町田の前に戻ってきた。そして、町田が手渡した馬水家の相続関係説明図と、今プリントアウトした過去の来訪者記録の抽出部分とをカウンター上に並べて、町田に説明した。

「この、相続人であられるお父様、お母様のお二人と、この方と、この方と、この方が、過去にウチに来訪されてますわ。でも、馬水家では、この被相続人諭隆さんのお父様、この方が一番多く来訪されていますわね。馬水家の御当主様ですから。毎回、直接、美空野所長が全てご対応されていますわよ。十年近く前から、いらしてますわ」

 書類を覗き込んで確認した町田梅子は、顔を上げた。

「すると、その方と所長とは、懇意の仲だという事ですよね。私、実は……」

「あ、先生、そうだ」

 牟田明子は町田の発言を遮るように、急に大きな声で話し出した。

「私、昨日、先生のお部屋に化粧ポーチを忘れて来ちゃいましたの。後で取りに伺いますわね。それから、依頼人へのお礼状の文面、その時に、ついでに打ち合わせさせていただいて、よろしいかしら」

「お礼状?……」

 牟田明子は、カウンターの上に並べた書類を重ねて揃え、梅子の前に押し出して渡すと、背後の他の事務員達に見えないように右目を瞑ってみせた。町田梅子が怪訝な顔で書類を受け取ると、牟田明子はカウンターの上に置いた手先でこっそりと、早くエレベーターに乗るよう促した。

「じゃあ、後ほど伺いますわね」

 牟田明子は大きな高い声でそう言うと、スタスタと自分のデスクに戻っていった。町田梅子も、牟田から返された書類をもってエレベーターへと戻っていった。



                  三十

 自分のオフィスに戻ってきた町田梅子は、デスクの上の立体パソコンで熱心に過去の相続判例を検索していた。彼女は確定した調停内容を変更する手段はないか、探っていた。すると、ノックされたドアが少し開き、隙間から牟田が顔を覗かせた。

「先生。入っても、よろしいかしら」

「あ、どうぞ」

 町田梅子は立ち上がり、牟田を出迎える。

「さっきは、ありがとうございました。でも、どうして……」

 牟田明子は、笑いながら答えた。

「弁護士の失敗談には、事務員は面白がって耳を立てているものですのよ。ウチの総務課だって、たくさん耳と口がありますから。誰からどんな形で所長の耳に入るか分からないでしょ。『壁に耳あり、障子に目あり』ですわよ、先生」

 事態を察した牟田が機転を利かせてくれた事を理解した町田梅子は、彼女に深々と頭を下げた。そして、事の詳細を牟田に説明した。牟田明子は町田から渡された立体パソコンで水枡智雄の相続にかかる遺産分割調停調書データを読みながら、町田に質問した。

「調書内容についての承諾は、裁判所にも相手方にも、されたのですよね」

「ええ。法的には、この内容で確定してしまっています。この時点で内容を変更できる方法はないか、今、判例を探しているところです」

「でも、美空野所長には、ご確認されたのでしょ。所長が何も言われなかったのなら、問題ないのではないかしら」

「それが、調書内容を口頭で説明しただけで、調書の文面については、たぶん、ご覧になってないんじゃないかと思うんです。月曜、火曜と慌しかったですから」

「でも、それは、ちゃんと目を通されなかった所長ご自身が悪いのだから、仕方ないと思いますけど……」

「責任論はともかく、結果として、ウチが顧問を務めているストンスロプ社の株が、私が関与した遺産分割調停でウチの依頼人以外の人物に渡るのは、事実です。調停調書は債務名義として判決書と同等の効力が認められていますから、株式の引き渡しを拒絶できません。かといって、この件の依頼人である水枡由美さん以外の人の利益のために、株式の引き渡しについて裁判に持ち込む訳にもいかない。それに、由美さんも、報酬の事で不満があるようですし、最悪の場合、他の事務所に鞍替えされるかもしれません。そうなると、手の打ちようが……」

「うーん。そうですわねえ。結構な量のストンスロプ株ですものねえ。……」

「実は今、アキナガ・メガネ社とストンスロプ社は和解交渉をしている最中なんです。株式の提供を和解金の支払いに代えて、実質的に業務提携で終結できないか、模索中です。ここでストンスロプ社が議決権に影響力を及ぼせない株式が大量に発生してしまう事は、交渉する上で大きなネックになります。万一、相手方に取得されたら、完全にお手上げです。おそらく、所長は、そういった事態も考慮されて、馬水家が保有するストンスロプ社の株は、信頼できる当主の方に集中するよう、手配されたのだと思います」

「でも、そのストンスロプ社とアキナガ・メガネ社との和解交渉は、どちらの先生が担当されていらっしゃるのかしら。その先生から町田先生の方に、水枡さんの遺産分割の際に、何か事前にご連絡はなかったのですか? そうじゃないと、町田先生だって分からないじゃないですか。この水枡さんの遺産分割調停は、経緯を読むと、先生も、かなり交渉にご苦労されたみたいですわよね。それでも、通常の遺産分割調停としては問題なく、立派に遺産分割をされて、話をまとめていらっしゃる。何も知らなかった先生としては、ちゃんと真っ当に仕事をされている訳ですから、そのストンスロプ社の和解交渉担当の先生にご相談して、指示を仰がれたらいかがでしょう」

「それが……」

 町田梅子は小さな声で正直に言った。

「その担当者が、私なんです」

「あらら」

 眉を八字にした牟田明子は、もう一度、水枡智雄の遺産分割のホログラフィーに顔を向けた。町田梅子は牟田に説明する。

「その調停の終結の後、私が所長から直接、担当者として任命されました。調停調書が家裁から最終確認のために送信されてきたのは、その次の日でしたから、そこで修正を申し立てていれば、今頃、調停は再開されていたはずなんです。それを、承諾してしまったものですから……」

 牟田明子は、ドアの方を向いて、顎を触りながら言った。

「よわってわねえ。他の先生に対処法を尋ねようにも、まだ誰も出社されていませんものねえ」

 そして、その手で反対の掌を打って、町田に提案した。

「そうだ、他のストンスロプ株絡みの相続案件で、似たような事態に対処した事例がないか、調べてみましょうか。それをご参考にされたらいかがかしら」

「できますか、そんな事。過去の事件データは膨大でしょうし、相続関係のデータは、遺産分割の対象財産ごとには分類されてはいないですよね」

「各相続案件のファイルから、『ストンスロプ』で、キーワード検索してみましょう。こちらの事務員の方のパソコン、使わしてもらってもよろしいでしょうか」

「ええ、まあ、私のではないですけど……。でも、一つ一つの事件ファイルから検索していくって、大変じゃないですか」

「ああ、香水臭いわねえ」

 小彩の席に座った牟田明子は、鼻の前で手を振りながら、もう片方の手でパソコンの操作を始めた。チェーンを垂らした老眼鏡を掛けた牟田明子は、自分の机の横に立ったままの町田に言う。

「とにかく、やってみましょう。それに、もしかしたら、ストンスロプ株を別枠で処理したのは、馬水家に限った話かもしれませんわよ。所長と馬水家とは、随分と親しくされていましたから。とりあえず、古い顧問先で、相続処理をしたところから見てみましょう。先生は、調停再開の方法がないか、判例の方をお調べ下さい」

「すみません。じゃあ、よろしくお願いします」

 町田梅子は自分の席に戻り、再び立体パソコンで判例の検索にかかった。すると、梅子の前に自動でスケジュール表のホログラフィー画像が投影された。それは、フィンガロテル社の裁判の準備書面提出期限を告げていた。

「しまったあ」

 町田の声に牟田明子が顔を上げる。

「どうされました?」

「今日、別件の準備書面の提出期限なんです。保全申立も合わせてやろうと思ってますので、すみません、私、そっちから先に終わらせてしまってもいいですか」

「どうぞ、御構い無く。じゃあ、判例の方も、この検索が終わったら私の方で適当なタイトルの物をピックアップしておきますわ」

 デスクの上に広がったスケジュール表の横から顔を出して、町田梅子は牟田に言った。

「助かります。お願いします」

 町田梅子は、口をへの字にして、フィンガロテル社の準備書面に記載する法的主張の構成にとりかかった。



                  三十一

 町田梅子がフィンガロテル社事件の第一準備書面と仮差押命令申立書の作成を終えた頃、小彩のパソコンを操作していた牟田明子が、町田に声を掛けた。

「先生、一応、めぼしい顧問先の相続案件を検索してみたんですけど……」

 プリントアウトしたフィンガロテル社の仮差押命令申立書をホッチキスで綴じながら、町田が答えた。

「どうでした。やっぱり、ストンスロプ社の株式を別枠処理した事例がありましたか」

「それが……」

 牟田明子は小彩のパソコンの上に浮かぶホログラフィーに目を向けながら答えた。

「全部なんですのよ。どの案件も、馬水さんの時の処理とほぼ同じですの」

 町田梅子は、肩を落として項垂れた。

「はあ……やっぱり。どうしよう……」

 老眼鏡を外し、チェーンで首に垂らした牟田明子は、怪訝な顔で町田に言った。

「それが、変ですの。どれも、遺言書や死因贈与契約書を作成して、事前に対処されていますわ。馬水さんの時のように」

 完成したフィンガロテル社の書類を鞄に仕舞いながら、町田梅子は尋ねた。

「それが、どうして変なんです?」

 牟田明子は椅子に座ったまま言う。

「だって、水枡さんの事件は、遺言書も死因贈与契約書も無かった訳でしょ。だから、遺産分割で揉めて、調停になった。それで、調べてみましたの。水枡さんの相談記録。すみません、先生のパソコンのデータから見させてもらいました」

 町田梅子は、フィンガロテル社の第一準備書面データを裁判所と相手方代理人の弁護士にそれぞれ送信しながら、牟田に言った。

「構いませんけど。それで、何か気になる点でも」

「いえ、特に。でも、相談にいらしたのは、水枡由美さんで、お父様の智雄さんがタイムマシンで渡航されて一年以上経ってから、こちらにいらっしゃってますよね」

 町田梅子は準備書面の各送信先から受領コードが送られてきたのを確認すると、相手方弁護士から受領コードを裁判所に送信しながら答えた。

「ええ。たしか、そうでした。お姉さんとの話し合いがこじれて、どうにかならないかと」

「それで、総務課のデータで来訪者記録も確認してみましたの。そしたら、被相続人の水枡智雄さんは、タイムマシンで渡航される二年前に、こちらを訪れていますのよ。しかも、数回。私も、何となく記憶にあったものですから」

 立体パソコンの上に浮かんだ送信ブラウザのホログラフィーを閉じながら、町田梅子は聞き返した。

「数回? 何か別の案件ですか。ウチは、智雄さんが経営していた医療法人の水連会と顧問契約を締結していますから」

「いえ、それが、相続の相談のようなんですの。それで、そのファイルをデータ・サーバーから探してみましたわ」

 町田梅子は顔を上げる。

「あったんですか」

「はい。ご自身がタイムマシンで渡航した後の相続手続について、ちゃんと相談されていらっしゃいますわよ」

「え? 事前に、ですか。じゃあ、遺言書か死因贈与契約書が存在する可能性があるのですか」

「分かりません。でも、その時の相談シートなんですけど、これですのよ」

 町田梅子は、牟田が座っているデスクまで回ってきて、牟田の後ろから、デスクの上に浮かんでいる相談内容記録のホログラフィー文書を確認した。もう一度、老眼鏡を掛けた牟田明子は言う。

「これ、馬水智雄さんが提出した財産目録なんですけど、その中にストンスロプ社の株式が記載されていませんの」

 牟田の後ろから目を凝らしていた町田梅子が言った。

「日付は……ああ、智雄さんがストンスロプ社の株式を取得する前ですね。じゃあ、仕方ない」

 相続の対象となる財産は、基本的に、その相続開始時、すなわち、被相続人が死亡した時点における被相続人の財産である。智雄が過去に相続の相談に訪れた時点において智雄がストンスロプ社の株式を取得していないのであれば、それを相続予定の財産として申告していないのも当然であった。牟田明子はホログラフィーを見つめながら、背後の町田に尋ねた。

「この調停に際して、町田先生が改めて相続財産の調査をされたのですよね」

「はい。有価証券、特に株式を大量に、しかも多種多様な会社のものを購入されていましたから、証券会社から一括でデータを受け取りました。でも、その一つ一つに目を通している暇がなくて……」

「つまり、美空野先生も町田先生も、水枡智雄さんがストンスロプ社の株式を保有している事は、ご存じなかったのですわね」

「ええ、そうです。所長も、そうなのかもしれません」

「だから、町田先生に何の指示も出されなかったのかもしれませんわね。タイムトラベル法で相続処理された他の方は、ストンスロプ株については、全て、美空野先生が遺言書か死因贈与契約書を作成して、相続人中の特定の方に集中するよう事前に手を打たれていますから。それか、他には調停になっている事案がありませんから、単に美空野先生も失念されていたか、どちらかですわね」

 町田梅子は驚いた顔で言った。

「ちょっと待って下さい。遺産分割調停になっている事案は、他にないのですか?」

「ええ。ストンスロプ株絡みで、遺産分割調停になっているのは、水枡さんの一件だけですわ。勿論、タイムトラベル法による相続でも、裁判所に持ち込まれているのは、この一件だけですわ」

「全て裁判外処理なんですか? なら、任意で遺産分割協議が成立した事案とかは……」

「無いですわね。全部、遺言執行か贈与契約の履行ですから」

「という事は、タイムトラベルした人は、水枡智雄さん以外の全員が、遺言書か死因贈与契約書を作成していたという事ですか?」

 牟田明子は老眼鏡を外して後ろを向き、町田に言った。

「まあ、死亡認定を受けるか、生存権中断の手続をする事が前提ですから、それも当然かもしれませんわね」

「それにしても、ストンスロプ株を持っていた人の全員が裁判外の処理だなんて……」

 町田梅子は眉間に縦皺を刻んだ。牟田明子は目を大きくして言う。

「あら、そうは申してませんわ。タイムマシンに乗った方のうち、ストンスロプ株を保有されていた方については、水枡さん以外の全員が、調停ではない形で相続手続をなさっているだけですわよ」

 眉を寄せて暫らく考えた町田梅子は、牟田に尋ねた。

「じゃあ、ストンスロプ株を保有していた方で、普通に死亡して相続手続をした方がいるんですね。タイムトラベル法の適用による相続ではなくて、直接、民法による相続規定の適用で、財産移転の手続きをした方が」

「ええ。たぶん、いるはずですわよ。普通の相続手続ですから」

「じゃあ、その中で、任意で遺産分割協議をした事案を探してもらえませんか。水枡さんの件も、もしかしたら、遺産分割協議を裁判外でやり直す事になるかもしれませんから。そういった資料があれば、参考に出来ます」

「分かりました。あ、先生。裁判所に書類提出に行かれるんじゃありませんでしたの。もう、お昼を過ぎちゃってますわよ」

 壁の時計に顔を向けた町田梅子は声を上げた。

「ああ、しまった。じゃあ、すみませんけど、それ、よろしくお願いします」

 町田梅子は速足で自分の机に戻ると、大急ぎで書類と立体パソコンを鞄に詰め込んだ。牟田明子は慌てている町田に言った。

「道中は気をつけてくださね。気が急いているでしょうから。ああ、それから、ちゃんと、お昼も召し上がって下さいね。ファスト・フードじゃ駄目ですよ。こんな時だから、しっかり食べなきゃ」

 町田梅子は牟田に顔を向けると、しっかりと返事をした。

「はい」

 町田梅子は重い鞄を肩に掛け、外へと駆け出していった。



                  三十二

 町田梅子が裁判所に到着した時には、まもなく昼休みの時間も終わろうとしていた。ただでさえ混雑している有多町の道路をいつも以上の数の車が走っていて、梅子が乗った都営バスも渋滞の列で停止したまま、ほとんど動かなかったからである。梅子は途中でバスから降りて、そこから徒歩で裁判所へと向かった。

 昼休み中に書類提出に現れた梅子に不機嫌そうに対応した裁判所書記官に、フィンガロテル社事件の仮差押命令申立書を提出した町田梅子弁護士は、廊下で馴染みの女性事務官と少し世間話をした後、裁判所を出た。そして、昨日よりは少し軽い鞄を肩に掛けて、警視庁の方へと通り進み、軽やかな足取りで歩いていった。

「もう、こういう時は、やっぱりあの店しかないわね。天然素材の食材で体の中からリフレッシュしなきゃ」

 町田梅子は速足になっていた。警視庁ビルの前の交差点に着いた町田梅子は、昨日と同じように、長い横断歩道を渡り、警察庁ビルに沿って横の道を歩き、短い横断歩道を一本渡ってから、少し進んで細い裏通りに入った。昨日とは反対側の石畳の歩道の上を歩き、彼女はカフェ・テラスの向かいにある店へと曲がった。ガラス製のドアの前で、小さくガッツポーズをとりながら、町田梅子は言った。

「よっしゃ。念願の『サノージュ』。ここで、しっかり食べようっと」

 店の中に入り、そのまま真っ直ぐに、通り沿いのガラス製の壁際に置いてあるテーブル席へと進み、そこの椅子に満足気に腰掛けた。

「いつも、向こうの『カフェ二〇〇七』から、こっちを見てたのよねえ。うん。弁護士になって、良かったわ」

 町田梅子は、水を運んできた店員からメニューを受け取り、それを開いて眺め、「旬のシーフード・パスタ」を注文した。店員が去ると、鞄から書類を取り出して、それを読み始める。

「野田さんの件、所長は急げって言ってたからなあ。こっちの請求額が多い方を出しておくか。少ない方を送りつけて、後から請求額の上乗せって難しいからねえ」

 町田梅子は、今日、内容証明郵便で送付する予定の、野田光の死亡にかかる野田めぐみの善谷市と地域医療機関組合への損害賠償金支払請求書を再読した。彼女は途中まで読んで、それをテーブルの横に置いた。町田梅子は、水枡由美の遺産分割調停の件が気になっていた。

「相手方の弁護士は、納得しないわよねえ。絶対に、任意の再協議なんて応じてもらえないなあ。やっぱり、別個にお姉さんからストンスロプ株を買い取るしかないかあ。また、水枡病院の経営権の事を持ち出してくるかもなあ。はあ、誰か、こういう事例を経験した先輩は……」

 町田梅子が頬杖をついてコップの水を飲みながら、視線を窓の外の通りに向けた時、目の前の石畳の上をオーバー・チェックのスーツを着た青年が速足で歩いているのが視界に入った。時吉浩一弁護士だった。梅子は反射的に、分厚い窓ガラスを強く数回叩いた。驚いて足を止めた時吉浩一は、店の中の町田を見て、少し不機嫌そうな顔で方向を変え、店の入り口へと向かった。

 テーブルに座っている町田梅子の前に現われた時吉浩一は、先日とは違い、憮然とした表情で町田に言った。

「君、こんなところで何やってるの」

「すみません。つい、思わず……あ、昼食です。少し、遅くなったものですから」

 時吉浩一は言う。

「探したんですよ。そちらのオフィスに電話したら、裁判所だって言うから、裁判所にも行って、女性の書記官から、『サノージュじゃないか』って言われたものだから……」

「あ……つい、自慢しちゃって。ここ、憧れの店だったので」

 舌を出して首を竦めた町田梅子には視線を向けずに、時吉浩一は店内を軽く見回した後、一言だけ呟いた。

「憧れの店ねえ……」

 町田梅子は時吉に尋ねた。

「私を探していたとは、どういう事でしょう。例の和解の件ですか」

 時吉浩一は町田の向かいの椅子に腰を下ろした。

「いや、そうじゃないんだ。実はね……」

 その時、時吉が話しを止めて、町田の背後に視線を向けていたので、彼女も振り返り、時吉の視線の先を見た。ガラス窓の外の細い車道の上に、屋根に自動小銃を装着した軽武装パトカーが一台停まっていた。物々しいパトカーに驚いたのか、一瞬、口を止めた時吉であったが、町田梅子が顔を前に戻し、再び時吉の方を見ると、彼も再び話し始めた。

「まあ、いいや。君の話から聞こうか」

「私の?」

 時吉浩一は、横の窓ガラスの梅子が叩いた箇所を視線で示した。町田梅子は、恥ずかしそうに照れ笑いしながら、話を始めた。

「あの、実は、ちょっとミスっちゃって。事務所の先輩たちに尋ねようにも、今日の渋滞で、みんな出勤が午後からになるみたいでしたので、何とか自分で調べようと思ってたんですけど。そしたら、先生が前を通られたので、つい……」

「どんなミス?」

「あ、ええと……」

 町田梅子は、水枡の遺産分割の事を話しかけたが、そこにストンスロプ社の株式が関係しており、その懸案の大元がアキナガ・メガネ社との和解交渉であった事を思い出し、そのアキナガ・メガネ社の代理人である時吉に話をするのは、やめた。町田梅子は誤魔化す為に、急遽、先ほどまで書面作りに取り組んでいたフィンガロテル社の事件について話し始めた。時吉浩一は向かいの席で話を聞きながら、注文を取りに来た女性定員に手で合図して注文を拒否すると、今度は、テーブルの上に置いてあった野田めぐみの内容証明郵便文書を手に取り、梅子が続けるフィンガロテル社の話を聞きながら、それに目を通し始めた。町田梅子はフィンガロテル社事件について、自己の対処案と美空野からの指示内容を対比させ、交互に論理的に説明していった。時吉は書類を読みながら黙って聞いていたが、彼女の話を断ち切るように、口をひらいた。

「ふーん。じゃあ、その場合は、美空野先生は自腹を切ってフィンガロテル社の株を買うつもりなんだ」

「ええ。所長は、そこまでの覚悟の上で臨まれると……」

「覚悟ねえ……」

 町田梅子は時吉から顔を逸らした。向こうの席に美人の女性と人の良さそうな青年が座るのが視界に入ったからだ。町田梅子は、その女性の格好が自分の理想のスタイルだったので少し見入ったが、本題を思い出した彼女は、目線を時吉に戻した。時吉浩一は厳しい顔で町田をじっと見ていた。少し萎縮した町田梅子は、逆に時吉に尋ねた。

「先生は、どう思われますか。私はやはり、今のうちにダクテルロッジ株を……」

 話の途中で、今度は時吉が町田に尋ねた。

「君は、法律家になりたいのかい、商売人になりたいのかい、どっちなんだい」

「あ……それは……」

 そこへ、店員が「旬のシーフード・パスタ」を運んできた。二人は黙ったまま、店員が梅子の前にパスタの皿を整えるのを待った。店員が去った後も、そこには暫らくの間、沈黙が流れていた。町田梅子は湯気と香を立てるパスタの皿を横にずらし、澄ました顔で時吉に答えた。

「法律家です」

 時吉浩一は、間髪を容れずに返してきた。

「だが、君のやっている事は、とても法律家とは言えないじゃないか。君は悪事に加担している。君のボスは、相手方のステムメイル社の信用を落とす情報を『関融』に流して、その業務を阻害しようとしているんだよ。しかも、ステムメイル社のメインバンクと結託して。背任罪、信用毀損罪、偽計業務妨害罪、いろいろ考えられるんじゃないかな。それに、『覚悟』だって? どう見ても、最初からフィンガロテル社を使って、ダクテルロッジ株を狙っているだけじゃないか。底値まで下がったフィンガロテル社の株を買い占めれば、自動的にダクテルロッジ社の株もステムメイル社の株もついてくる。美味しい話だよね。君は、それに気づかなかったのかな」

 時吉浩一は厳しい表情で続けた。

「それに、君の案も駄目だ。ダクテルロッジ株を売却して、現金化? 君はいつから、金融コンサルタントになったんだい? 司法を担う法律家なら、まず、速やかにフィンガロテル社の倒産処理か、再建手続きに入るべきでしょ。破産法か民事再生法。フィンガロテル社の財務状況を正確に分析して、いずれかの法規に従って、正確に処理を進めていく、それが法を司る者の使命じゃないか。そうであれば、フィンガロテル社の保有するダクテルロッジ株は、裁判所の管理下で換金されるべき資産だし、その準備をするのが、僕らの仕事だろう。フィンガロテル社が勝手に売却して換金してしまわないよう、監視するのが君達の事務所の本来の役割じゃないか。それを、『今のうちにダクテルロッジ株を売る』だって? 君は、自分が弁護士だって自覚があるのかい。それじゃ、ただの『法律に詳しい人』じゃないか。僕らは信用されているんだよ。だから、いろいろな権限と高い地位が与えられているんじゃないか。君は何を勘違いしているんだ」

 時吉浩一は、手に持っていた書類を放り投げるように町田の前に置いた。

「この内容証明だって、何だい。本来、差し引くべき治療経費が引かれていない。こんなものを送りつけられたら、誰だって気分を害するよ。それに、これ、医療事故なんだろ。誰に、こんな処理方法を教わったの」

「え。マズイですか、それ……」

「この件、どんな話なの」

 町田梅子は、目の前で憤慨する時吉に押されて、その野田光の死に関して美空野から説明された内容を時吉に話した。時吉浩一は話の途中で、もう一度、その内容証明郵便文書を町田の前から取り上げ、それを読み返しながら、熱心に町田の話を聞いていた。そして、呆れたように町田に話をした。

「君ね。その話、人が一人亡くなっているんだよ。国民が一人、死んだ事案だよ。という事は、もしも、美空野先生が言うとおりの医療事故なら、業務上過失致死罪の可能性もあるんじゃない。だとすると、捜査だよね。それに、民事訴訟を提起するとしても、医療訴訟だから、まず証拠保全ってなるでしょ。どっちにしても、カルテやら透過撮影画像やら治療記録動画やらを、裁判が開始する前に、抜き打ちで、捜査機関や裁判所に差押えてもらわないといけない。それなのに、被害者の代理人の君がこんなものを相手に送りつけて事前通告したら、相手に証拠隠滅や改ざんの準備をしておいてくれって言っているようなものじゃないか。それにさ……」

 時吉浩一は、手に持った内容証明郵便文書に目を落としながら、町田に尋ねた。

「この、野田めぐみさんだっけ、この方、ご病気なんでしょ。だったら、これからも地域の病院で治療を受けるんじゃないかな。それに、ご主人が亡くなられたのなら、市の福祉課でいろいろな手続きもしないといけない。そこら辺の事とか、ちゃんと考えてる? この善谷市は、人口十万弱の町だよ。こんな小さな田舎町で生きていく人間の、その後の社会的な生活とか考えた事ある? 弁護士の手を離れた後も、その土地で生活していくんだよ、この人は」

 町田梅子は黙って下を向いていた。自分は、今時吉から指摘された事などは全く考えずに、地域医療機関組合と善谷市に、野田めぐみの代理人として、高額の損害賠償請求書を送りつけようとしていた。

「場合によっては、そういう手続をする必要もあるかもしれないけど、その場合は、その後の依頼人の人生まで、しっかり背負うつもりで、取り掛からないといけないんじないかな。弁護士の『覚悟』っていうのは、そういうものを言うんじゃないかな」

 俯いたまま硬直している町田梅子に、時吉は言い続けた。

「それに、まず労災認定の申請が先でしょ。でも、そもそも、この話自体が妙だよね。新都急行の経営者が代替わりしたなら、君の事務所が二代目社長を支援すべきだった、何のための顧問なんだって話は、まあ、当然だから置いとこう。それよりも、何故、開頭手術までした重病人を、わざわざ隣の県の善谷市まで運ぶ必要があったのか。都内の病院で処置をしてから、後日、ゆっくり転院してもよかったはずだ」

 町田梅子は顔を上げた。

「私もそう思いました。それに、事故現場が堀井病院の目の前だったというのも、気になります。あそこは、トラックが走るような道路じゃないはずなんです。それに……」

「もう一人の医師だろ。市立病院の」

 町田梅子は大きく頷いた。その時、さっきの向こうの美人の女性が、テーブルに肘をついた手で、こちらを指差しているのが視界に入った。梅子がそちらに目線を向けると、その女性の向かいに座る青年と目が合い、その男性は恥ずかしそうに目を逸らした。町田梅子はそれを無視して、時吉に自分の考えを説明した。

「最終的に死亡を確認した川添正一郎医師は、当日、休暇中だったそうなんです。それを返上して休日出勤したというのですが、医師が休みなら交代の医師が居たはずです。市立病院なら特に。それなのに、何故、川添医師が休日に出てくる必要があったのか」

 時吉浩一は、内容証明郵便文書を町田の前に、今度はそっと戻しながら、言った。

「仮に、その交代の医師が脳外科の専門医でなかったとしても、地域医療機関組合が搬送を受け入れたという事は、当日、市内のどこかの病院に少なくとも一人は、脳外科の医師が出勤していたはずだからね。君、その野田めぐみさんには、会ったの?」

 町田梅子は、正直に首を横に振った。時吉浩一は、再び顔を曇らせた。

「委任状は? 本人のものだと、確認した?」

 町田梅子はハッとして口を開け、そして下を向いた。彼女はそのまま、小さな声で答えた。

「いいえ。見てません。所長から口頭で直接指示されたもので……」

 町田梅子は、目の前の先輩弁護士から怒鳴られると予想していた。実際、下を向いていた梅子には、時吉の溜め息が聞こえただけでなく、その怒りも何となく感じ取れていた。だから町田梅子は少し緊張して、恐怖心と共に構えていた。すると、何かを言おうとした時吉より先に、梅子のイヴフォンが鳴った。勿論、それは梅子の脳内にだけ響いたものだったが、その音に驚いた彼女は肩を上げた。町田の左目が黄色く光っているのを見た時吉浩一は、呆れ顔で手を彼女の方に向けて、電話に出るように促した。町田梅子は恐縮しながらイヴフォンを持って席を立ち、店のエントランスホールへと向かった。ガラス製のドアを開けながら、梅子は本音を洩らした。

「ふう。助かった……」

 梅子がイヴフォンに出ると、相手は外村美歩だった。

『あ、もしもし、ウメ? ごめん仕事中に。今、話せる?』

「ああ、ちょっと待って」

 梅子は、店のエントランスから少し顔を出して、ガラス窓の向こうの時吉の背中を確認した。彼は、ただ、そこに座っていた。梅子は美歩に返した。

「うん。何?」

 オムナクト・ヘリの回転翼が風を切る音と、エンジン音らしき雑音に混じって届く親友の声は、彼女の窮状を如実に伝えるものだった。彼女は今夜、仕事が遅くなり定時で帰宅できないので、母親の夕食の支度を頼めないか、そういう内容の電話であった。梅子は料理が苦手であったが、二つ返事で了承した。実際には、準備のいい美歩が、夕食もちゃんと準備していて、料理する事は何の心配も要らなかったのだが、もし、数時間前の梅子が電話に出ていたならば、梅子は料理が作れない事と仕事が忙しい事を理由に、視覚障害者の美歩の母の難儀などは想像もせずに、友人の依頼を体よく断っていたかもしれない。だが、今の梅子は、美歩の母の難儀と友人の心痛を瞬時に頭に浮かべ、その他の利益衡量などをする事は無しに、依頼をすぐに承諾する事が出来た。それは、時吉の言葉の力だった。彼女は今、少しずつ、本来の町田梅子に戻ろうとしていた。だが、その本人は、その変化に気づいていなかった。

 町田梅子は、友人との短い会話を終えると、すぐにガラス製のドアを開けて、また自分の席に戻り、時吉に謝罪した。

「すみませんでした。お話の途中に……」

 時吉浩一は険しい顔で頷く。

「うん。――とにかく、その内容証明郵便文書は出さないほうがいい。ちゃんと手順に従って、事実関係を調査するべきだ。それが先だよ。僕は、そう思う」

 すると、時吉浩一は少し座り直して、町田梅子の眼を見据え、ゆっくりと話し始めた。

「それと、僕が君を探していた理由だけど……」

 町田梅子は、内容証明の文書を鞄の中に仕舞いながら、話を聞いた。

「実は、僕の事務所に、『平林マユミ』さんという方が、相談にみえたんだ」

 鞄を触っていた梅子の手が止まった。彼女の脳裏に、月曜日に事務所に飛び込みでやってきた老女の顔が浮かんだ。町田梅子は恐る恐る顔を上げた。それを見て、時吉は話しを続けた。

「分かるよね。平林マリさんのお孫さんだ。今回、購入した新車の所有者及び使用者として登録する予定の方だ。今朝一番で、この渋滞の中、バスと地下リニアを乗り継いで僕の事務所まで来られた。樹英田区の外れから、空港線を通って新市街まで出て来られたそうだ。相当に、朝早く出発されたはずだ。なぜ、彼女がそこまでして、僕の事務所を訪ねたのかは、分かるよね」

 町田梅子には、皆目検討がつかなかった。梅子は子供のような目で、キョトンとしていた。

 時吉浩一はゆっくりと話す。

「話を聞けば、マリさんの方で美空野事務所に相談に行ったという。孫のためだと思って、日本で一番大きな弁護士法人に相談に行ったんだそうだ。マユミさんには言わずにね。その思いは、理解できるよね」

 町田梅子は、ただ黙って頷いた。すると、時吉は少し声を早めて、彼女に言った。

「マユミさんが言うには、お祖母ちゃんのマリさんは、担当の町田という女性の弁護士に相談をして、その後、そのままになっていると……。それで、君、この件を、どう処理するつもりなの」

 町田梅子は、美空野から授かった処理プランを、得意気に時吉に話した。

「ええと、まず、行方不明の息子さんの住所を住民票で確認して、彼に対してマユミさんの養育費請求訴訟を提起します。おそらく、公示送達で全部認諾となって調書判決。一回で裁判が終われば、そのまま速やかに車を差押えるつもりです。それで、空いた駐車場を自動車保管場所として登録して、差押えの売得金から弁護報酬を差し引かせてもらえば、平林さんの金銭的な負担も無くて済むと。美空野所長の指示ですが、私も妥当な結論だと思います」

 梅子の説明が終わると、時吉浩一は眉間に皺を寄せて溜め息を吐き、彼女に尋ねた。

「マユミさんにマリさんが新車を購入した事情は聞いているのかな」

「ええ、マユミさんの就職が決まって、それが昭憲田池の反対側……」

 町田梅子は、発言を止めた。彼女は、この二日間、まったく気付かなかった事に、今、気付いたからである。

 町田梅子のその表情を見て、時吉浩一は頷いた。

「そうだよね。仕事が決まったからだ。だから、出勤の為に車が必要だ。初日から出勤できなければ、そりゃ、就職はパーだ。大抵は、最初は試験採用だからね。本採用になる見込みは無いだろう。それに、勤務初日に、免許取りたての人が初乗りかい? その前に、車にも運転にも慣れておくための期間が必要だろう。君は、この老女とお孫さんが今まで過ごしてきた、自動車の無い生活というものがどれほど不便だったか、考えた事はあるかい。そこに、ようやく、マユミさんが免許を取って、運転できるようになった。仕事も決まった。不自由で不安な生活から脱出するチャンスを得た。だから、この件は急がなければならない。重要な案件だ。ストンスロプ社とアキナガ・メガネ社の和解など、この件に比べれば、どうという事はない。そんな重要な案件を、君はどう処理するだって? 訴訟を提起して差押える?」

 町田梅子は、固まっていた。正直、今の今まで、この平林の案件の事は、梅子の脳裏から消えていた。だが、それは確かに重要な案件だった。他人の人生がかかる緊急の切迫した案件だった。だから、あの老女は朝早く飛込みでやって来て、追い返されても、午後一番で再びやって来たのだ。孫のために、車のある生活を手に入れるために、彼女は必死だったに違いない。慣れない都会で、苦労して、高額の和菓子を何箱も買い、事務所ビル内で配って回ったその老女の気持ちを梅子は考えた。梅子は軽い気持ちで、いや、何も考慮する事無く、次の週に再度の打ち合わせを入れていたが、車の無いあの老女にとって、遠方の樹英田区から有多町の事務所ビルまで足を運ぶ事がどんなに難儀な事であるか、梅子は時吉に指摘されて初めてそれを想像した。自分が先日、樹英田町の真明教団施設に行った際の難儀を思い出した。町田梅子は一点を見つめ、自分のした事に、自分のとった態度に、自分の姿勢に、愕然とし、呆然としていた。その梅子に、時吉浩一は怒鳴りつけるような大声で言って、彼女を叱咤した。

「何ですか、その『妥当な結論』とは! 君は何を言っているんですか。結論が妥当かどうかは、国民が判断する事でしょう。僕らが任されているのは司法なのですよ。法律に従った判断がされているかどうかをチェックするのが、僕らの仕事です。結論をリードする事じゃない。法律が法に従って適用されているかを見定める能力を認められているのですよ。法律が正しく適用されて、それでも首を傾げるような結論が出たら、その法律に問題があるんです。法律を変えればいい。それを妙な解釈論理で、法律家だけで考える『妥当な結論』とやらに勝手に持っていこうとするから、出来の悪い法律がいつまでも改正されなかったり、廃止されなかったりするのですよ。僕らは、ここを澄まして、濁り無く正確に判断しなければならないし、それだけでいいんです。判断する前から結論を決めていてはいけないんですよ」

 時吉浩一は、自分の胸を強く何度も指さしながら、少し興奮して話した。町田梅子は、彼の迫力と大きな声に、背中を丸め萎縮して聞いていた。時吉浩一は彼女の顔を真っ直ぐに見ながら、少し声をおとなしくして、説いた。

「いいですか。君もこれから法律家として、いろいろな事例に遭遇すると思う。その中には、法律を正しく適用した結果、理不尽と思われる結論が出てしまう事例もあるだろう。それでも、その結論を受け入れるのが法律家なんですよ。そして、その時には、そういった不当な事例を挙げて、その適用した法律の、どこをどう変えていけばいいかを主張していけばいい。だがそれは、君個人の政治活動ですよ。弁護士の仕事とは関係ない。国民が立法府に訴える政治活動なんですよ。それは、弁護士や他の法曹だろうが、一般の国民だろうが、誰が行ってもいい。皆で決めたものが、妥当な結論なんです。そういった人々の個々の意見が集積して、社会の具体的なルールが少しずつ変わっていく。それが民主主義の基本でしょ。この基本的なサイクルがちゃんと回るようにするためには、人々が判断基準を失わないようにする事が重要じゃないですか。文章で書かれた法律や他の法令というものが、その通り運用されているかチェックするために、僕ら法曹という人種に司法という役目が任されているんですよ。それなのに、僕ら法曹が、自分たちだけで勝手に考えた『妥当な結論』とやらに落ち着くよう、複雑に法文を解釈して、一般の人が法文を読んでも分からないような事にしてしまっては、いったい何のために三権分立をさせて、民主主義を維持しようとしているのか分からないじゃないですか。僕らはただ、法律を正しく正確に適用する事だけに専念すればいいんです。利益や利害に惑わされず、情に流されず、国民が決めたルールを、その通り機能させていけばいいんです。妥当な結論が出るように導くのは、ルールを作る立法府の仕事でしょう。国民に選ばれ託された国会議員たちの仕事でしょう。国民に選ばれた訳でもない、ただ試験に通っただけの僕らが勝手な事をするから、国会の仕事は予算の分配だけになってしまうんですよ。そうなると国民は、自分たちの社会のルールを、いったい誰に訴えて、変えていけばいいんですか。憲法学を深く学んだはずの僕らが、民主主義の前で壁を作ってしまっていては、いかんでしょう。誰かを救う時も、法律を正確に適用して、救済するんです。基本は、まずそこです。その上で、平林さんの件を考えてみなさい」

 時吉浩一は、少し間を空けた。町田梅子は黙って下を向き、考えていた。少しして、時吉浩一は、口を開いた。

「車庫証明さえ取得できればいいんですよ。使っていないAIベンツをさっさと何処か別の場所に動かしてしまえば、後はあなたが警察署の車庫証明係の職員に事情を説明するだけでしょうが。どうして、レッカー車の手配をして、そのAIベンツを移動させないのです。その新車を売ったディーラーにでも一時的に保管してもらえばいいでしょう。あなたは、その頭脳と、口と、手と、足と、そしてその襟元のバッジを、いったい何のために使うべきだと考えているのですか!」

 店の奥まで届かんばかりの大声だった。一瞬、店内が静まり返った。時吉浩一は、自身でもハッとした様に、我に帰り、自分を落ち着かせながら、今度は穏やかな声で、目の前の新人弁護士に話しを続けた。

「いいかい。僕も経験を語れるほどキャリアを積んでいる訳ではないけど、少しだけ君よりも先輩だから、そのつもりで言わせて貰う。ここからは、弁護士としての仕事との向き合い方の話だ。いいかい。本質的な問題から目を背けては駄目だ。僕らが誰のために、何のために働くべきなのか。なぜ、社会が弁護士という職業を設定しているのか。人々は何を僕らに求めているのか。こういった事は、忘れてはいけない事だと思う。弁護士が助けてくれなければ、国民は、あと誰を頼ればいいんだい。僕らは、最後の頼みの綱なんだよ。事件の軽重の度合いは、報酬額の大きさで決まるんじゃない。その依頼人の人生や立場にとって、どれほどの影響があるかだ。それが分かるためには、想像力をフル回転させないといけない。その人の人生を考えてあげないといけない。もし、想像するだけの材料や経験が自分の中に無いのなら、自分には分かっていないと、素直に認めて行動するべきだ。そうであれば、必然的に慎重に判断するようになる。僕ら法曹に求められるのは、慎重で正確な判断だ。早く機転の利いた判断ではない。奇策は不要なんだよ。いいね」

「はい……」

 町田梅子は俯いたまま小さく答えた。時吉浩一は彼女に尋ねる。

「君、トマトが苦手だったよね」

「……」

「今の君は、苦手なトマトを皿から出して、時間を掛けて調理して、トマトの味も形も無くしてから食べようとしているのと同じだ。それじゃ、何時まで経っても苦手は克服できないよ。トマトをトマトのまま食べて、その中にある旨みを感じ取れるようにならなきゃ。それには、まず、そのまま食べてみることだよ。素直に。調理するのは、その後だ。君はどんなコックになりたいんだい。味覚の狂ったコックかい。弁護士だって同じさ。今の君に求められているのは、今君がやろうとしているような事じゃない。プログラムで学んだ事を思い出すんだ」

 町田梅子は、目に涙を浮かべていた。彼女は、ローヤー・プログラムの辛く厳しい訓練と学習の日々を思い出していた。徹底的に基礎を繰り返し、地道に事務処理から学んだ。条文を記憶し先例を理解した。基本的な事務処理の課程が終わると、仕事の基本手順を学んだ。同時に判例を読み、法適用の思考手順を徹底的に叩き込んだ。法廷課程に入ると、模擬裁判を繰り返した。並行して幾つもの模擬裁判を抱える訓練もした。学説も学んだ。それらは梅子がプログラムの受講前に想像していたよりも遥かに辛いものだった。だが、心休まる時間もあった。梅子は、ガラス窓越しに見える通りの向こうのカフェ・テラスで友人の美歩と理想を語り合いながら、どんな法律家になりたいかを熱く語っていた自分を思い出していた。そして、その時に語っていた事と同じ事を、先輩弁護士から諭され、実際に、それが全く自分の中に備わっていなかった、つまり、今の自分が、あの通りの向こうのカフェ・テラスで紅茶を飲みながら思い描いていた理想の自分とは、かけ離れた、むしろ真逆の法律家に成ろうとしていた事に気付かされた。その思いが、やり場の無い悔しさが、彼女の中で膨張し、彼女の中から目に大粒の涙を浮かべさせていた。

 町田梅子は歯を喰いしばって、顔を紅潮させながら、必死に涙を堪えていた。時吉浩一はそんな梅子を見つめながら立ち上がり、静かな口調で彼女に言った。

「移動させた車は不在者の財産だから、家裁で不在者財産管理人選任の手続きをして、その後、もし君が管理人を引き受けるのなら、管理人として陸運局と交渉するか、あるいは、都知事に代行要請して、自動車を廃棄処分してもらうという方法もある。ま、裁判所の許可があれば、管理人として売却して、現金にして管理すればいいし、本人が現れたら引き渡せばいい。競売にかけられて安値で売られるよりはいいはずだ。とにかく、自動車を動かして車庫証明をとってやる事が先だよ。あとは、ゆっくり丁寧に進めればいい。君、ちゃんとやれるね。僕は、この依頼を断ってもいいね」

 町田梅子は口を縛った真っ赤な顔で、一度大きく頷いた。声は出せなかった。

 時吉浩一はしっかりと頷く。

「分かった。じゃあ、任せたよ。それから、例の和解は、ゆっくり、じっくりの案件だからね。そちらの依頼人にとっても、その方がいいはずだ。慎重に話し合いましょう。訴訟の方は裁判所に事情を説明して、暫く期日を延期してもらうから。ウチの方の依頼人にも、そう説明してあります。ま、そういう事だから、頑張って。それじゃあ」

 時吉浩一は去っていった。町田梅子は下を向いたまま、他の客に見えないようにして、涙をポロポロとスカートの上に落とした。

 肩を上げたまま俯く梅子のテーブルの隅には、冷めた「旬のシーフード・パスタ」が、手を付けられていないまま、置かれていた。



                  三十三

 町田梅子は、美空野法律事務所ビルの前に立っていた。シーフード・パスタにも手を付けず、落胆したまま黙って「サノージュ」を出た彼女は、葉を落とし始めたイチョウの木の下を項垂れたまま肩を丸めて歩き、事務所ビルの前にようやく辿り着いた。そして、その高くそびえるビルを見上げて深く溜め息を吐くと、再び下を向き、そのまま、そこで立ち尽くしていた。次第に湧き出て零れそうになる涙を必死に堪えながら……。

「――って、普通なら落ち込むところでしょうけど、残念でした。私は、そうじゃないのよ。『旬のシーフード・パスタ』だって、完食してやったわ。冷めてたけど」

 顔を上げた町田梅子は、ヒールを路面に打ちつけながら、大股で勇ましく、ビルのエントランスに向けて歩き出した。

「冗談じゃないわよ。だいたい、黙って店を出たら『食い逃げ』じゃない。冷え冷えで、伸び伸びだったけど、食べたパスタの代金は、ちゃんと払いましたあ。私は弁護士でーす。法律は守りまーす。当たり前じゃない。でも、なんで、お金払って、冷めて伸びたパスタを食べなきゃならないのよ。頭にきた!」

 町田梅子は歩きを止めると、空を見上げた。上空で旋回する一機のオムナクト・ヘリの機影が見えた。梅子は空に向かって叫んだ。

「さっきから、ブルブルうるさい! 何なのよ! あっち行け!」

 町田梅子は、肩を上げて再び大股で歩き出すと、また独り言を吐いた。

「もう、完全に切れたわよ。私を利用しようっていうの。ふざけんじゃないわよ。だいたいね、時吉先生だって判らないじゃない。平林マユミさんが相談に来た? そもそも、この前ウチに来た平林マリさんは、時吉先生の回し者なんじゃないの? 私に、そっちの仕事をさせて、私からストンスロプ社の和解について検討する時間を奪おうって作戦なんじゃないの? 私だって、それくらいの推理くらい出来るんですう。ボンボンのくせして、ちょっと真っ当な事を言ったからって、調子に乗るんじゃないわよ! 全然、響いてないからねえーだ!」

 鼻の穴を膨らましながら、怒れる町田梅子弁護士は、ヒールの音を強く鳴らして、事務所ビルへと入っていった。

「いいじゃない。どっからでも、かかってきなさいよ。まとめて料理してやるわよ。私を誰だと思ってるのよ。町田梅子よ、町田梅子!」

 その町田梅子は、エントランスに置かれた美空野朋広の胸像の前を通り過ぎ、自動ドアを通ると、受付を兼ねた総務課のL字に置かれたカウンターに沿って歩いていった。胸を張り、頬を膨らませて速足で歩く町田梅子に、カウンターの中から若い男性事務員が声をかけた。

「あ、町田先生。牟田さんは、どこに……」

「ん」

 町田梅子はピタリと停止し、眉間に皺を寄せ、頬を一杯に膨らませたままの顔で、頭だけ横に向けた。その男性事務員は、再度尋ねた。

「あの……牟田さんは……どこに……」

「牟田さんは、私のオフィスで応援として借ります。文句は小彩さんに言うように。以上」

 町田梅子は顔を前に向けると、再び大股で歩いていった。カウンターの向こうで、若い男性事務員は唖然として立ち尽くしていた。

 町田梅子はそのままエレベーターに乗ると、勢いよく振り返り、自分の階のボタンを力強く押した。ドアが閉まり、閉鎖された空間の中で一人となった町田梅子は、溜まっていた鬱憤をぶちまけた。

「始動よ、始動。町田梅子、始動お! なんですって? 『もっと、ガンガンやれないわけ?』ですって? ガンガンやってやろうじゃないの。覚悟しときなさいよ。今までセーブしてたのよ、セーブ。再就職先だからと思って、こっちが下手に出てりゃ、調子に乗りやがって。ぬあーにが、『本を読まなきゃ、駄目ですね』じゃ。これじゃ、専門書も読む暇が無いじゃないよ。ふざけんじゃないわよ。私はね、ここにファスト・フードの早食いと、冷めたパスタを食べに来てるんじゃないのよ。食べ物の恨みは、あの世までって言うんだからね。はっきり言うけどね、私はね、『ダイエットしない』派なのよ。その私に、なに無理矢理にダイエットさせてるのよ。たくさん食べて、たくさん運動するのが、私流なの! ゴルフの特訓? 肩と腰の動きが合ってない? 知るか! あんたら、身分と資質が合ってないんじゃないの。バッジ付けて、ここに何しに来てるのよ。ここはプロゴルファーの教習所ですかあ。所長も所長よ。GIESCOやストンスロプ系列会社の視察ですって? 視察が済んだら、さっさと帰ってきなさいよ。あんたは、遠足に行って居なくなる中学生か! 弁護士法人の代表者をしてるっていうのに、連絡つかないって、どゆこと? 奥さんに誕生日プレゼントを買ったとか言ってたわね。ド変態奥さんに送るプレゼントの箱を開けて眺めているあんたも、ド変態よ。どうせ、中身は変態グッズなんでしょ。ああ、気持ち悪い!」。

 エレベーターが停止した。肩に革製の鞄を掛けた町田梅子は、ドアの前で仁王立ちのまま、静かに呟いた。

「さあ、行くわよ。『ゴチ』よ。しっかり、ケリをつけてやるから。町田梅子、発進!」

 エレベーターのベルが鳴り、ゆっくりとドアが左右に開いた。鋭い眼光と不敵な笑みを浮かべた弁護士町田梅子は、すぐ目の前の自分のオフィスへと歩いていった。



                  三十四

 ドアを勢いよく開けて入ってきた町田梅子に、休暇中の小彩の席でパソコンを操作していた牟田明子が声を掛けた。

「お帰りなさい。どうでした、裁判所。仮差押の申立書、受け付けてもらえました?」

 町田梅子は牟田に向けて右手を上げると、そのまま彼女の前を無言で通り過ぎ、自分の執務机の前に来た。そして、鞄を床に置き、立ったまま、デスクの隅に置いてある電話機を操作する。

 オンフックにした電話機から、声が聞こえた。

『はい。裁判所、民事部、保全係りです』

「弁護士の町田梅子です。先ほど提出した債権者フィンガロテル社の仮差押命令申立書の件ですが」

『あ、はいはい。アレね。どうか、されましたか』

「あれは、取り下げます」

『はい、取り下げですね……え? 取り下げ?』

「はい。取下げ書は、後ほど提出しますので、その旨で処理して下さい」

『あ、いや、でも、もう裁判官に……』

「フィンガロテル社は破綻状態です。これから財務諸表を再チェックして、具体的方針を決定いたしますが、民事再生か破産のいずれかだろうと推察されます。そうなれば、フィンガロテル社が有する債権は、裁判所に選任された監督人か管財人の弁護士の管理下に入ります。その前に、不確定な債権を被保全債権として仮差押手続をする事は、監督人や管財人の仕事を増やすだけですし、裁判所にも迷惑をかけます。ですので、取り下げます」

『それは、破産係りと打ち合わせてからでも……』

「相手方の迷惑もありますので、送達される前にと思いまして。とにかく、代理人の弁護士として、そのように意思表示しますので、よろしくお願いします。では、失礼します」

『あの、ちょっと、もしもし……』

 町田梅子は電話機の「切る」ボタンを強く押した。

 牟田明子は老眼鏡と額の隙間から梅子を覗きながら、心配して尋ねた。

「せっかく受理された仮差押えの申立てを、取り下げるのですか。よろしくて?」

「いいんです。私も弁護士ですから。ちゃんと法律に従って進めないと。株屋になりたくてローヤー・プログラムを修了した訳ではないので」

「――そうですか……」

 牟田明子は、そのままじっと梅子を見つめた。そして、ハッとして梅子に言った。

「そうでした。時吉先生からお電話がございましたわよ。何でも、急な用件だとか。連絡をくれという事でした。時吉先生は、携帯端末をお持ちじゃないそうで……」

「会いました。それで、叱られました」

「叱られた?」

「ええ。人として」

 町田梅子は深く、しっかりと頷いた。

 牟田明子は、また、町田梅子を凝視した。梅子は黙々と鞄の中の物をデスクの上に乗せて並べていく。そして、それを端から順に片付け始めた。

 町田梅子は牟田の視線に気づき、彼女の方を見て言った。

「牟田さん。私、法曹として正しい判断ができる弁護士を目指します。いろいろ壁もあるかもしれないけど、頑張ります。弁護士が逃げたら、国民は救いを求める先がありませんから。牟田さんも、一緒に頑張りましょう」

 町田梅子は牟田の方に向けて拳を突き出して見せると、また、デスクの上の荷物を整理し始めた。牟田明子は呆気に取られ、暫らくまた、梅子を見ていた。

 町田梅子はデスクの上を整理しながら言った。

「牟田さん、どこか、中古車を預かってくれる業者を、ご存じないですか」

 牟田明子は老眼鏡を外すと、肩に垂らした細いチェーンで首に掛けて、梅子に答えた。

「ええ。存じ上げていますわ、たくさん。先日の平林さんの件ですね。彼女の家のすぐ近くの修理工場が、以前、ウチで依頼を受任した事がありますの。そこでしたら、お願いすれば、無料で預かって下さるはずですわよ。使ってないガレージが一台分空いていると言ってましたし」

 町田梅子は、整理していた手を止めて、牟田に顔を向けた。

「あれ。もう連絡してくれていたのですか」

「ええ。先生から指示が出たら、すぐに実施できるようにと。急に手配しても、引き受けてくれる業者はいないでしょ。高いレッカー代金を請求されたり。ですから、とりあえず、話だけはしておきました。協力していただけるそうですわよ。まだ、正式に依頼した訳ではないですけど」

 町田梅子は牟田の方を見て、一度深く頭を下げた。

「すみませんでした。私が気づかなかったばかりに。初めから、使っていない車を動かしておけばよかったんですよね」

 牟田明子は顔の前で手を一振りして言った。

「家事も仕事も同じですわ。初めは誰も失敗ばかり。周りの人から教えてもらったり、自分でコツを発見したりして、少しずつ出来るようになるものですわよ。気にしない、気にしない」

 町田梅子は苦笑しながら、また一礼した。その梅子に牟田明子は尋ねた。

「でも、大丈夫ですの? 美空野先生は、そういった指示ではなかったのでしょう?」

「確かに、この件を受任したのは、ここの弁護士法人です。しかし、私も弁護士です。私が判断して、私が責任をとります。それに、所長の『欲張り』の為に、平林さんたちを窮地に置く訳にはいきませんから」

 町田梅子はしっかりと前を見て、そう答えた。

 くすりと笑った牟田明子は、老眼鏡を掛けなおすと、梅子に言った。

「じゃあ、例のベンツの移動を正式に依頼しても、よろしいですわね」

「ええ。お願いします。ディーラーは遠方ですし、高額の保管料を請求するでしょうから」

 牟田明子は一階の総務課に内線電話を掛け、平林の件で以前に説明したとおり事務連絡するよう指示した。受話器を置いた牟田は、梅子に報告した。

「連絡はすぐにするそうです。車庫証明の方は、ディーラーさんが提携している行政書士に任せてあるそうですから、そちらで出来るでしょう。平林さんが支払った代金の中に、事務手数料として組み込まれているそうですから」

「そうですか。では、あとは、保管された車の処分ですね。そのまま長期間、ただで保管してもらうという訳にもいかないでしょうから、私の方でなるべく早く、不在者財産管理人選任の申立てをします。家裁に事情を説明して、急いで手続きに入ってもらいますので、それまで暫く、協力してもらうよう、お願いして下さい」

「わかりました」

 そう答えた牟田明子は、また、老眼鏡を下にずらして、上目で梅子を見つめた。今度は、梅子が尋ねた。

「なんですか」

「いえ。なんだか、先生が急に頼もしくなられたものですから」

 町田梅子は、片付け終えたデスクの上をティッシュペーパーで拭きながら答えた。

「始動しましたから」

 梅子の発言の意図を理解しかねた牟田明子は、首を傾げながら、再びパソコンに向かった。

 自分の椅子に座った町田梅子は、立体パソコンにパスワードを入力しながら、牟田に尋ねた。

「あ、牟田さん。ストスンスロプ株に絡んだ相続案件の方、どうでした。相続原因がタイムトラベルではない案件は、見つかりましたか」

 牟田明子は眉を寄せた。

「それが、ずっと探してるんですけど、出てきませんわ。どれも、タイムトラベル法による相続案件ばかりですのよ。民法による通常の相続案件でストンスロプ株を保有されていた方は、いらっしゃいませんの。今、ウチで扱った相続事件を五年前まで調べてみたところですから、これより前に出てくるかもしれませんけど」

「そうですか……」

 町田梅子は首を傾げた。立体パソコンから手を離した町田梅子は、椅子の背もたれに身を投げると、天井を見て、少し考えた。そして、牟田に指示を出した。

「牟田さん、それ、もういいです。お手間をかけました。ありがとうございました」

 牟田明子は驚いた顔で言った。

「よろしいんですの? でも、水枡さんの件は、どうなさいます? ストンスロプ株が分かれて保有されてしまったままでは、アキナガ・メガネとの交渉担当者として、責任を問われるんじゃありません?」

「責任を問われるのは、仕方ありません。当然の話ですから。それに、再協議して遺産分割をやり直すとしても、こちらが受け取る株式の価格に相当する対価の支払いは必要ですから、それなら、相手方から株式を通常通り購入すればいいんだと思います。私の方から由美さんに、正直に事情を説明して、ご協力いただけるようなら、相手方に対してストンスロプ株の売渡しを改めて申し入れるのが、筋だと思います」

「……」

 梅子をじっと見つめていた牟田明子は、老眼鏡を外しながら言った。

和昭わしょう堂の一口羊羹ひとくちようかん

「一口羊羹?」

 町田梅子が聞き返すと、牟田明子は、また顔の前で手を一振りした。

「あれ、美味しくて、デパ地下でも、なかなか手に入りませんのよ。寺師町の販売店も、午前中で売り切れ。お値段も結構する高級品ですし、水枡婦人に差し上げるには、ちょうどいいんじゃないかしら。それに、相手方に売渡しを申し入れるんでしたら、手ぶらという訳にはいかないですものね。あ、亜細亜あじあ屋の今福いまふく饅頭なんかも、高級和菓子としては有名ですから、いいかもしれませんわね。洋菓子なら、そうねえ、『鬼目のトモミール』でしょうね。セレブのご婦人方には、人気の商品らしいですわよ」

 牟田明子は若い弁護士の真摯な対処を必死で応援しようと、自分が知っている限りの高級贈答品の例を梅子に教えた。町田梅子は牟田の厚意に心から感謝した。

「ありがとうございます。今度、当事者宅を訪問する時には、買って行きますので、その前にまた、贈り物に相応しい大人のお菓子を、いろいろ教えて下さい。あまり、高級菓子とか知らなくて」

「いいですわ。私がレクチャーして差し上げます。美味しいものが、いろいろ有りますわよお」

 笑みを見せて、そう答えてくれた牟田に、町田梅子は深く一礼した。牟田明子は、もう一度だけ顔の前で手を振ると、またパソコンの方を向いて、シャット・ダウンしてサブ電源を切る準備を始めた。町田梅子は再び仕事に取り掛かった。彼女は立体パソコンで受任事件のデータ・サーバー内を探っていたが、大きく首を傾げると、再び牟田に尋ねた。

「あの、牟田さん。野田めぐみさんって、ご存知ですか」

「野田めぐみさん? さあ。存じ上げませんわ」

「ウチで受任しているはずなんですけど、受任事件のデータ・サーバーで検索しても、出てこないんですよ。他にデータが在りそうな所、知りませんか」

「総務の来訪者記録と顧客データを見てみますわね。一度でも来訪されているか、ウチの弁護士の先生か職員が接触した方は、全て顧客データに記録することになっていますから。ほら、年賀状とか暑中見舞いを出したりしますでしょ」

 牟田明子は、一度シャット・ダウンした小彩のパソコンを再び立ち上げた。その時、牟田が声を出した。

「あらいやだ。どちらかしら」

 町田梅子は、立体パソコンのホログラフィー越しに、牟田に尋ねた。

「どうしました?」

「いえ。このパソコン、アカウントが二つ設定されていますの。たぶん、一つは小彩さんの個人的なアカウントだと思うのですけど」

 町田梅子は顰めた。

「まったく、あの子は……。事務所のパソコンで個人設定するなっつうの。ゲームでもやってんじゃないでしょうね」

 牟田明子は二つのユーザー・アカウントの内の一つを選択した。パソコンは通常通り起動した。しかし、牟田明子は、また、怪訝な顔をして言った。

「変ねえ。さっき開いていたのが、もう一つのアカウントだったのかしら」

 町田梅子は受任事件のデータ・サーバーの中をもう一度検索しながら、牟田に言った。

「やっぱり、ゲームしてました?」

「いえ。今は、下で私が使用しているのと同じ状態ですのよ。各社内ネットワークへの接続には、認証用の個別ピンコードを入力してから、使用する形ですから。でも、さっきのアカウントは、何もコードを入力しなくても、所内のネットワークやサーバー内を自由に検索できましたの。フリーパスで。現場の先生方のオフィスのパソコンは、全て同期してあるのかと思っていましたわ。でも、こっちのアカウントは、そうじゃないですわ。先生のパソコンにもアクセスできませんし、識別アドレスが表示されてもいますから。誰が、いつ、どこに接続したかも、分かりますわ。こっちのアカウントなら」

 怪訝な顔をして覗いた町田梅子は、牟田に尋ねた。

「さっきまでのアカウントだと、分からないのですか」

「ええ。えらく使いやすいなあって思っていましたの。今朝、先生がパソコンでフィンガロテル社の仮差押命令申立書を作っていらしたでしょ。あれも、リアルタイムでこちらに転送されて保存されて、同時に美空野先生のパソコンに自動転送される設定になっていましたから、さすが、若い方は違うなあと思ってましたの。事務処理を短時間化するための対処だと。でも、この方、通常の勤務時間カウントは、今の、このアカウントで登録されていますのよ」

 町田梅子は立ち上がり、牟田が座っている小彩の机に移動した。そして、牟田の後ろから、その立体パソコンを覗き込んで、彼女に尋ねた。

「前のアカウントは、開けますか」

「無理ですわね。パスワードと生体ロックが掛けられていますから。さっきはスタンバイ状態でしたから、そのまま使えましたけど、一度、シャット・ダウンしてしまいましたわ。もう一度開くには、パスワードとDNAデータが必要になるみたいですわよ」

 牟田明子は、アカウントをもう一つの方に切り替え、そこに現れたパスワードの入力を促すホログラフィーと、点滅するキーボードのホーム・ポジションを指さした。

「生体ロックって、それじゃ、何かあったとき、本人以外は誰も小彩さんのパソコンを開けないじゃないですか。これ、事務所の仕事用のパソコンですよね。どうして、そんな厳重なロックを掛けてるんだろ。やっぱり、個人的な使用をしていたんですかね」

「そうでもなかったですわよ。ゲームとかネットサーフィンとかもした形跡は無かったですから。このアカウントでも、普通に仕事をしていたみたいでしたわ。水枡さんの調停調書データを受け取って、美空野先生のパソコンに転送した履歴が残っていましたから」

 首を傾げる町田梅子の前で、牟田明子は、もう一度、通常のアカウントに戻してから、言った。

「ほら、こちらのアカウントなら、何も表示されない。そのまま使えますわ。データ・サーバーへのアクセスも、普通の事務員がやっているように、配布されたピンコードを入力すれば……」

 牟田明子は、自分に交付されたピンコードを入力して、顧客データにアクセスしてみせた。

「ねえ。普通にアクセス出来ますでしょ。私がこのパソコンからアクセスした事は、記録に残りますけど、ちょっと面倒くさいだけで、後は何も不便はありませんわ。でも……」

 牟田明子は、さらに、すぐそこにある町田のデスクのパソコン内を検索しようとした。すると、空中にホログラフィーのウインドウが広がり、そこにアクセス・コードの入力を促す文章が表示された。

「このとおり。先生のパソコンには、先生の許可がないと入れないはずですの。でも、さっきのアカウントでは、簡単にアクセスできましたわ。コードの入力なしで」

 町田梅子は、そんな話は入所してから説明された事がなかった。彼女は、担当事務員は、その所属するオフィスの弁護士のパソコンに普通に接続できるものだと思い込んでいた。だから、彼女は牟田に尋ねた。

「普通は、そうじゃないのですか。同じオフィスの担当事務員でも」

「ええ。他人のパソコンに許可無く接続するって事は出来ないはずですわよ。事務員同士でも。でも、小彩さんのパソコンからは、先生のパソコンにもデータ・サーバーにもコード入力なしで接続できましたわ。それ用のショート・カット・アイコンも作ってありましたし。美空野先生のパソコンと、先生のパソコンの次に」

「所長のパソコン?」

「ええ。美空野先生からの社内メール専用の受信ボックスも作ってありましたわよ。ご存知ではありませんでしたの?」

「いいえ。初耳です」

 町田梅子は顔を曇らせた。牟田明子は頷きながら言った。

「あ、そうそう、下の総務部へは、ネットワーク上に受け取りボックスを作られていますでしょ。郵便関係の連絡をご通知する。他の先生方もそうされていますわ。でも、先生への連絡ボックスだけ、小彩さんのボックスと同期されていますの。前から変だなとは思っていたんですけれど、先生のオフィスの事なので、立ち入った質問は控えようと……」

「つまり、私への郵便物の連絡は、自動的に、このパソコンにも連絡される……」

 町田梅子は自分の机の方に歩いて行った。老眼鏡を外した牟田明子は、彼女に言った。

「先生と小彩さんは、よほど信頼関係が深いんだと思っていましたわ。でも、先生のお話しされる感じだと、どうも、そうじゃないような……。それで、さっきから変ねえと思っていましたの。あの……正直に言いますとね、私、どうもあの子は、好きになれなくて。服装も品の無い部類の派手な感じでしょう。それに、あの歳で、高層ビル街の高級マンションに住んでいるそうですのよ。ご存知でした? 総務課でも、皆、噂していますわよ。どうも、美空野先生と親密な仲なんじゃないかって。この前だって……」

 自分のデスクまで戻り、後ろの窓の前の棚に手をついて下を向いていた町田梅子は、右手の掌を牟田の方に向けると、牟田が話している途中で言った。

「牟田さん。もう、いいです。だいたい、分かりました」

 町田梅子は、窓辺で棚に両手をついて下を向いたまま、体を細かく震わせた。そして、低く、殺気に満ちた声で、ゆっくりと言った。

「ぬあーにが、『ハリーカイ・ヒルズ』じゃあ、あの香水女あ……」

 町田梅子は、そのままの姿勢でブツブツと何か言い出した。

「なるほどね。すぐ目の前で私のパソコンをハッキングですか。香水女さん、やってくれたわね。しかも、所長とつるんで。どおりで、私より先に所長からの指示を知ってる訳だわ。納得です、納得」

 町田梅子は、下を向いて頷きながら、続けた。

「おかしいと思ったのよ。平林さんの件で所長に報告した時も、所長は既に、平林さんが『有り金を叩いて』孫に新車を買ってやった事を知っていたわ。だから、平林さんには弁護士報酬を払えるだけのお金がないと思って、私に裁判だの、競売だのさせようとしたんでしょ。だけど、あの時、私は所長には、平林さんがお孫さんに『新車を購入した』としか言ってないのよね。どうして平林さんにこれ以上資金が無いと分かっていたのよ。香水女でしょ。あの香水臭い露出狂女の仕業ね。小彩に全部、報告させていたって事ですか。なるほど。だから、事件の事務処理の方法も、彼女に教えてもらえと。ほほう、そうですか、そういう事ですか……」

 まだ言い足らなかった町田梅子は、更に続けた。彼女の後頭部からは、薄っすらと湯気が立っている。

「ふううう。短いスカート穿いて高級マンションに住めるなら、お相撲さんは皆、富士山の山頂にお城を建てているわよ。あの馬鹿女めえ。プラス、変態強欲色ボケ弁護士い!」

 そして、ついに、肩を小さく上下させながら、笑い出した。

「フフフフ、なかなか、おもしろいじゃない。フフフフ、フフフフフ……」

 町田梅子の背中から聞こえる低く不気味な笑い声を聞いて、心配した牟田明子が声を掛けた。

「先生……大丈夫ですか……」

 体を起こした町田梅子は、振り返って牟田明子に言った。

「牟田さん。反撃するわよ。昔、父が言ってました。『ゴチ』です。『ゴチ』。私はこいつらを、『ゴチ』で、やっつけます。ですから、牟田さんも『ゴチ』で、お願いします」

 若い町田梅子は、年長の牟田を鼓舞しようと、彼女の世代に合わせて古い言葉を使った。そのつもりだった。

 牟田明子は、宙を見て少し考えてから、一度頷いて梅子に言った。

「ああ、『ガチ』ですわね。ガチンコ勝負の『ガチ』。また、随分と懐かしい言葉をご存知で……」

 町田梅子は自分の椅子に激しく腰を降ろすと、立体パソコンのホログラフィー・アイコンを、投げ捨てるように荒っぽく移動させて分類しながら、牟田に言った。

「牟田さん。顧客データと来訪者記録から、『野田めぐみ』という名前を探して下さい。それから……」

 町田梅子は思い出したように、メモ用紙を引き寄せてボールペンで書き込み、素早く破って牟田に差し出した。

 老眼鏡を掛けたまま町田のデスクに歩み寄り、そのメモを受け取った牟田明子は、それを読んだ。町田梅子は牟田に言った。

「その二人の名前も探して下さい」

「堀井研一、川添正一郎……」

 牟田明子はメモを読みながら、小彩のデスクに戻ろうとして立ち止まり、梅子に言った。

「あの、堀井研一って、堀井研一先生のことかしら。摩知区の堀井外科医院の」

「ええ。医師の堀井研一です。ご存知なのですか」

「ご存知も何も、ウチの古い顧問契約先ですもの。美空野先生が開業当初からの付き合いじゃないかしら」

「こ、顧問……ですって?」

 町田梅子は目を丸くした。牟田明子が頷く。

「ええ。ずいぶんとお年を召した先生ですわよ」

「手術とか出来そうですか。開頭手術とか。ああ、頭を開く手術です。パカッと」

 町田梅子は自分の頭を掴んだ手を広げたまま、横に動かした。牟田明子は顔の前で手を小刻みに左右させた。

「とんでもない。もう、とっくに九十歳は越えられていますわよ。随分前に引退するとか仰ってましたけど、まだ、病院の方は続けてらっしゃるのかしら」

 町田梅子は低い沈んだ声で尋ねた。

「もしかして、この弁護士法人は、川添正一郎とも顧問契約を締結してますか」

「さあ、こちらは存じ上げないわねえ。今調べてみますわね。まずは、顧問契約者リストから検索してみましょうか」

 老眼鏡を掛けた牟田明子は、再び小彩の立体パソコンのホログラフィー・キーを叩いた。

「えーと……あらあ、居ないわねえ。川添萬知子さんって方ならいらっしゃるけど。その方のご職業は何ですの? 職業分類で再検索してみますわ」

「医者です。善谷市立善谷市民病院の勤務医です」

「善谷市、あら? さっきの方……」

 牟田明子は、ホログラフィー文書の頁を戻し、それを読み返した。そして、怪訝な顔で町田に言った。

「川添萬知子さん、住所は善谷市ですわよ」

「なんですと。善谷市? 職業は何ですか」

「空欄になっていますわね。専業主婦かしら。あ、なんだ、美空野先生が個人契約で顧問をお引き受けになられている方ですわね。個人顧問マークが付いていますから」

「個人顧問? 牟田さん、ちょっと待って下さいね」

 町田梅子はパソコンを操作して、野田光の死亡診断書の文書画像を開いた。現在の固定電話の回線使用は法律で許可制となっており、個人の携帯電話への連絡が原則である以上、大抵の文書には、作成責任者の連絡先として仕事用の作成者個人の携帯電話番号が記載されているはずだった。

 町田梅子は、その死亡診断書のホログラフィー画像の中から、作成者の携帯電話番号の記載を探した。そして、そこに押してある医師川添正一郎の座版の下の部分にある彼の携帯電話番号を見つけると、それを見つめたまま牟田に尋ねた。

「その、川添萬知子さんの携帯電話の番号は分かりますか?」

「ええ」

 町田梅子は、牟田明子が伝える川添萬知子の携帯電話の番号を聞きながら、目の前に広がっているホログラフィーの診断書に記載された川添正一郎医師の携帯電話の番号の数字を一つずつ確認していった。梅子の耳から入ってくる数字と、梅子の目で見ている数字は、最後まで全て順序が一致していた。

 その携帯電話番号の末尾の数字を聞いた町田梅子は、デスクの上を強く叩いた。驚いた牟田明子が両肩を持ち上げる。町田梅子は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、また窓の方を向いて、手前の棚に両手をついた。

「ぬううう。おーのーれえー。ゴチじゃあ。ゴチで頭にきたあ。ぬううううう」

 町田梅子は野田光の死に関して、ある推理をしていた。そして、その推理が彼女の頭の中で整理されてくるに従い、町田梅子は更に猛烈に怒りを募らせていった。

 小彩の席でパソコンのキーを叩いていた牟田明子が言った。

「やっぱり、無いですわ。野田めぐみさん。来訪者記録にも顧客データにも、名前が有りませんわ。曖昧検索も使っていますから、配偶者の方でもいらしていたら、ヒットするはずですのよ。さっきの川添さんみたいに。でも、野田めぐみさんでは、類似名も全く出てきませんわ。この方、どちらの方ですの?」

 牟田明子が老眼鏡を下げ、窓辺の梅子を見ると、町田梅子は窓から寺師町の繁華街を眺めながら、爪を噛んでいた。肩は震え、片方の足は激しく貧乏ゆすりを繰り返している。窓に微かに反射する彼女の顔は紅潮し、コメカミには薄っすらと血管が浮き出ていた。額と首からは湯気が立ち上がっている。呼吸は細かく速い。牟田明子は老眼鏡を外すと、隅に置かれた小さな冷蔵庫の方に向かい、その中からパック入りのレモンティーを取り出した。それを梅子のコップに注ぎ、そのコップを持って窓辺の梅子の所に向かう。牟田明子は冷たいレモンティーが注がれたコップを梅子に手渡しながら、真っ赤な額から湯気を立てている梅子の肩にそっと手を掛けた。そして、優しくゆっくりと肩を叩きながら、梅子の耳元で言った。

「フー。フー。はい、深呼吸、深呼吸。ゆっくり吐いてえ、ふー、ゆっくり吸う、すー。はい、吐いてえー、吸ってえー、吐くうー。さあ、お紅茶を飲みましょう、先生」

 彼女のお蔭で、町田梅子は過呼吸で倒れずに済んだ。



                  三十五

 その日、町田梅子は早めに仕事を切り上げ、オフィスを出た。ドアにロックをして、重たい鞄を肩に掛けると、大きな紙袋を提げた牟田明子と共にエレベータに乗り、一階に向かう。エレベーターを出て総務課のカウンターの前で牟田に丁寧に礼を言って、別れた。速足でエントランスに向かう町田の背中を、牟田明子は心配そうに見送った。町田梅子はエントランスを通り、更に速足で美空野の胸像の前を、そっぽを向いて通過して、そのビルから外に出た。時計を見ながらバス停へと急ぎ、歩道を進む。バス停に着くと、停留所の前には、まだそんなに長い列は出来ていなかった。梅子は列の最後尾に立ち、腕時計を見ながらバスを待った。バスが到着するまでの間、何度か先ほどの怒りが込み上げてきたが、牟田に教わったように深呼吸して冷静を保った。やがて、やってきた路線バスに乗り込み、渋滞の中を北へと移動した。

 バス停を四つ過ぎた所で、町田梅子はバスを降りた。通りを少し歩き、角の中華料理店を曲がると、商店街の細い中道を暫く歩く。途中の和菓子店で餡子がぎっしりと詰まった饅頭を一箱購入した。その他にも、惣菜店でてんぷらと御浸し、酢の物、トマト入りのサラダを購入した。重たい鞄を肩に掛けた町田梅子は、ビニール袋を反対の手に提げて暫く歩き、細い車道に出た。手動運転で走るAI自動車が多く行き交う車道の脇を、少し注意しながら歩いていると、水滴が梅子の肩を叩いた。梅子が空を見上げると、分厚い黒い雲が空を覆っていた。見上げた梅子の顔に続けて水滴が落ちてきた。町田梅子は小走りで進み、大理石で囲まれた花壇の横を曲がって屋根の下に入った。外を見ると、少しずつ水滴が落下してきていた。梅子は振り返り、綺麗に磨かれた階段を三段上がって、その奥の美しいカットガラスがはめられた両開きのドアの片方を開けた。広々とした空間を進むと自動ドアがあり、その横に、腰くらいの高さの生体認証用の太い棒が立っていた。その前にはランドセルを背負った子供達がたむろしている。下校した小学生達の中の一人がその太い棒を握ると、連動して自動ドアが開き、その小学生はドアの向こうに駆け込んで行った。他の小学生も彼を追うように駆け出したので、町田梅子は彼らと共に走り、一緒にその開いている自動ドアを通り抜けた。そして、彼らと共にエレベーターに乗ると、それぞれが得意気にボタンを押すのに混じって、友人宅がある階のボタンを押した。子供達が一人ずつエレベーターから降りる時、他の子供たちに合わせて、町田梅子も小学生風の挨拶をして、一人ずつをエレベーターから見送った。最後の一人を見送り、ドアが閉まったエレベーターの中で一人になった町田梅子は、少しだけ笑みを含んでいた。さっきまで、烈火のごとき怒りの炎を自身の中で膨らませながら、体を破裂させんばかりにして堪えていた自分が、少し馬鹿らしく思えた。町田梅子は、よく対処方法を検討してから、冷静に適切に行動しようと思った。ただ、具体的にどういう行動をとるべきかは、今の梅子には、まだ分からなかった。

 エレベーターを出て少し進むと、角があり、その角を曲がって直ぐの所が外村美歩のマンションの専有部分だった。町田梅子は美歩から頼まれたとおり、というよりも、美歩からの電話で事情を知り、梅子自身も美歩の母の事が心配になり、定時より早く仕事を切り上げ、ここへやって来たのだった。町田梅子が角を曲がると、開けられた玄関ドアの前で、コンクリート製の壁に手をついて掴まりながら、腰を曲げて、柄の短い手箒で床を掃いている女性がいた。その初老の女は、黒いサングラスを掛け、手箒の先を開いたドアに何度もぶつけながら、懸命に床を掃いていた。町田梅子はその女性の姿を見て、慌てて彼女に駆け寄り、コンクリートについている女性の手を握って支えながら、彼女に言った。

「こんにちは、小母おばさん。梅子です。すみません、突然。下のエントランスのインターホンからご連絡すべきだったんでしょうけど、直接上がってきちゃいました」

 外村美歩の母、外村陽子は、雨が降り始めた夕刻の薄い日光を眩しそうに避けながら、懸命に梅子の顔を覗こうとしている。

「わあ、びっくりしたわ。梅子ちゃんなの? あらあ、いらっしゃい。久しぶりねえ」

「どうも。ご無沙汰してます。あの、小母さん、何をなさってるんですか」

「ちょっと、玄関の掃除をね」

 町田梅子は怪訝な顔で玄関の中を覗いた。サンダルが揃えて置いてある。梅子が返事をしないので、外村陽子は言った。

「今、ヘルパーさんが来てるのよ」

「あ、じゃあ、お邪魔でした?」

「いいの、いいの。もう、時間だから。今、帰ってもらうわ。美歩は、まだ帰ってきてないけど、さ、お上がりなさい」

 町田梅子は陽子を支えながら玄関のドアを閉め、サンダルを脱いで玄関から上がる陽子の足下に注意しながら、彼女に言った。

「ホカッチ……じゃなかった、美歩さんから電話を貰って。今日、仕事で遅くなるそうなので」

「あら。昨日も遅かったのよ。何してるのかしら、あの子ったら」

「お邪魔します」

 町田梅子は、二の腕に掴まる陽子と共に移動し、玄関の前のリビングへのドアを開けた。大音量にしたテレビをソファーの上で寝転んで見ていたヘルパーの有水は、梅子に気付き、慌ててソファーから体を起こすと、床の上の雑誌を拾い集め、それを揃えて自分のトートバッグに入れた。梅子に捕まっている外村陽子が言う。

「有水さん。有水さん。どちら、いらっしゃる?」

 有水は厳しい顔をしている町田梅子から顔を逸らし、不機嫌そうに答えた。

「はい。ここに居ますけど」

 外村陽子は丁寧に言う。

「あ、今日は来客なの。だから、もういいわ。有り難うございました」

「じゃあ、私は帰りますね。テーブルの上だけ、片付けときます」

 そう言った有水は、ソファーの前のリビング・テーブルの上に置かれていた二つのコーヒーカップを両手に持ち、台所に運んだ。水道の水を音を立てて強く出し、洗剤も付けないままスポンジで荒っぽく洗う。水を切って乾燥機の中にカップを放り込んだ有水は、スタスタと玄関へ出て行った。町田梅子は点けっぱなしのテレビのリモコンを探し、テレビを消すと、陽子に尋ねた。

「あの、小母さん。失礼ですけど、テレビは、いつも点けているんですか」

「見えないんだけどね。ヘルパーさんも、何の音もしないと、気が滅入っちゃうでしょ。私のために何時間も割いてもらっているのだから。BGM代わりにね」

 玄関から有水の声がする。

「それじゃあ、帰ります。失礼しまーす」

 鞄とレジ袋を置いた町田梅子は、ダイニング・テーブルの椅子を引いて、そこに陽子を座らせると、部屋の中を見回しながら陽子に言った。

「小母さん、ちょっと、台所を見せてもらっていいですか」

 陽子が返事をしてから、梅子は台所に向かう。

 料理を作った形跡は無かった。炊飯器の中の炊き込みご飯は美歩が作ったものだ。冷蔵庫を開けて中を見てみる。何も作っていない。作り置きの食材がタッパーに入れてあった。几帳面な美歩が準備しているものだろう。しかし、どの容器の蓋も微妙に開いていた。中の食材も少しずつ減っている。梅子が知る限り、美歩が蓋を中途半端に閉め忘れる事など無い。勿論、その母親の陽子も。冷蔵庫を閉めた町田梅子は、シンクの角の残飯入れを覗いた。使い終わったティーバッグが入っている。台所の隅のゴミ箱を覗く。ビスケットの箱の開け口の紙片が入っていた。

 町田梅子は陽子に尋ねる。

「小母さん、今日、紅茶を飲まれました?」

「いいえ。飲んでないわよ。コーヒー派だから。でも、この頃、夜に眠れなくてね。歳のせいね。だから、コーヒーは控えてるのよ。カップが有るからでしょ。それは、有水さん用のカップよ。休憩の時に使うの。さっきは有水さんだけ飲んだのよ。何時間も働きっぱなしじゃ、疲れるでしょ。休憩くらいしなさいって言って」

「そのコーヒーを入れたのは、有水さんが自分で入れたんですよね」

「ええ、そうよ。私じゃできないし、お湯で焼けどしちゃうから」

 有水はカップを二つ持っていた。彼女は陽子が見えないのをいい事に、その善意を利用して、紅茶も一緒に入れている。冷蔵庫の中の摘まみ食いも彼女の仕業に違いなかった。

 町田梅子は陽子にもう一度尋ねた。

「ビスケットは食べてませんよね」

「ええ。戸棚の中に有るはずよ。日曜に美歩と買物に行って、いろいろ買ってきたから。梅子ちゃんも疲れたでしょ。奥の戸棚だから、適当に好きなものを選んで食べなさい」

 町田梅子は台所の奥の食器棚の戸棚を開けた。美歩が、陽子が取り出しやすいように、低い位置のこの戸棚に、陽子の歳の好みに合わせた袋菓子などをたくさん入れている事は知っていた。その戸棚は空だった。自分独りでは買いに行けない母親のために、美歩がここを空にしておく事はない。まして、日曜日に買物に行って、何も残っていないのは不自然だった。町田梅子はゴミ箱の中に手を入れると、菓子箱の紙片を取り、それを握って駆け出した。靴を突っ掛けながら外廊下に出て、角まで急ぐ。角を曲がると、エレベーターのドアが閉まりかけていた。町田梅子はエレベーターまで走り、閉まる直前のドアの間に手を挿し込んだ。中にいた有水が驚いている。扉が左右に開き、町田梅子がドアを背中で押して、エレベーターに片方の足を入れた。彼女は体の大きな有水を睨みつける。

「ちょっと、あなた」

 有水は憮然として言った。

「なんでしょう」

「そのバッグの中、見せてもらえます」

「なんですか、急に」

「いいから、見せなさい!」

 町田梅子は大きな声でそう言うと、有水が提げていたトートバッグの中に手を入れた。雑誌と通信端末の他に、紙の箱があった。町田梅子はそれを無理矢理にバッグから取り出した。振ってみると、中身は殆ど空である。町田梅子は、もう片方の手に握った紙片を有水に見せて言った。

「はい、窃盗罪。あんた、手が込んでいるわね。くすねて食べたお菓子の容器は、いつも持ち帰ってるって訳ね。ゴミ箱に空の箱や袋が入ってなければ、帰ってきた美歩も気付かないもんね」

「なんですか。これは私が持ってきた物ですけど」

「へえ。じゃあ、美歩か買ってきたビスケットの箱はどこなのよ。小母さんは食べてないって言ってたわよ。棚の中に有るはずだって。それにこれ、ゴミ箱の一番上に載ってたんですけど」

 町田梅子はバッグから取り出した箱と模様が一致する紙片を有水の顔の前に突き出した。そして、強い口調で言った。

「何なら、美歩の領収データから、日曜日に購入したビスケットがこの箱だって事を証明してもいいんですけど。知ってます? 加工食品には食品識別管理法で商品の一つ一つに個体識別番号が付いているんですよ。それ、マネーカードを使った時の領収データと連動してるんで、どれが、いつ、どこで、誰が買ったものか分かるんです。ああ、勿論、警察は、そういうの集めるのが得意ですから、そっちにやってもらいましょうか」

「……」

 有水は急に口を噤んで、梅子を睨み付けた。町田梅子は更に言った。

「ヘルパーさんなら、通信端末型の業務日誌を持参していますよね。そのバッグの中の端末、それですよね。それを見せてもらえるかしら」

 有水は挑戦的な顔で言う。

「あの……何なんですか。あなた」

 町田梅子は襟元の金バッジを見せて言った。

「弁護士の町田といいます。外村さんの娘さんとは、同期でして」

 有水は顔を青くした。町田梅子は有水の顔を見据えて、不敵な笑みを浮かべていた。



                  三十六

 有水は外村のマンションのリビングに立ったまま、ふて腐れていた。ソファーに座っている陽子の隣で、町田梅子は有水から受け取った業務用端末を指先でスクロールさせている。町田梅子は厳しい口調で有水を問い詰めた。

「この業務日誌では、今日はベランダの掃除とトイレ、玄関の掃除をしたことになってますよね。それと、洗濯と洗濯物干し、それから、それを取り入れて畳んでる。その畳んだ洗濯物って、何処にあるんです。玄関の掃除だって、さっき、小母さんが一人でされていましたよね」

 有水は目を逸らしながら言う。

「あの、一応、外村さんから確認の電子印鑑は貰ってますけど」

 町田梅子は陽子に尋ねた。

「この、『認め印』の電子印カードは、小母さんが、この端末に差し込んで、暗証番号を押すんですか」

「いいえ。まさか。その端末は、音声読み上げもしないし、接触式パネルじゃ、私たち視覚障害者には使えないから、カード渡して、有水さんにやってもらっているの」

 町田梅子は有水に顔を向ける。

「あなた、この内容を毎回、小母さんに読み聞かせてから、承諾を得て、電子印鑑を入力してますか」

 有水は小声で答えた。

「いいえ。――すみません」

 町田梅子は端末の画面をスクロールさせた。

「十月五日。昨日もベランダの掃除をしてますね。料理、台所の掃除、床掃除の補助にお風呂掃除。小母さん、本当ですか」

 陽子の顔を見てそう言った町田梅子は、ベランダ沿いのサッシに歩み寄った。カーテンを開け、外を覗く。外村陽子は答えた。

「お風呂掃除は、私がしたわ。昨日は来客がある予定だったから、美歩の手が少しでも空けばと思って。いつも、娘にやらせているから」

 町田梅子はカーテンを閉めて言う。

「ベランダ、汚れてますね」

 外村陽子は驚いていた。

「あらそう? 壁際の植木鉢を植え替えたのよ。美歩が掃除してくれたんだけど、その後で、小母さんが植木鉢を一つ、ひっくり返しちゃったのよ。昨日、有水さんが片付けてくれた後で、そのお客さんが、残りも片付けてくれたんだけど、夜に帰ってきた美歩も週末にブラシを掛けとくって言っていたものだから、そのままにしていたの。でも、そんなに汚れているかしら。あの子、今朝は何だか随分と忙しそうで、いつもよりだいぶ早く出て行ったものだから。変ねえ、そんなに汚れていたかしら」

 町田梅子は有水の顔を睨みつけながら言った。

「小母さん。その来客の方も片付けてくれたんですね。その植木鉢をひっくり返したのは、いつの事ですか」

「昨日、有水さんがいる時だったわよね。割れた植木鉢の破片が何処に散ったかも分からないものだから、困ったものね。この目は……」

 町田梅子は端末を操作しながら言った。 

「小母さんが気にされることは無いですよ。そのために、ヘルパーさんが来てくれているんですから」

 有水は開き直ったような態度で梅子に言った。

「もう、その端末、返してもらっていいですか。帰りたいんですけど。時間、過ぎてますし」

 町田梅子はそれを無視して、端末で有水を派遣しているウェルエイド社に通信した。呼び出し音が暫らく鳴り、端末からホログラフィーで、ポロシャツ姿の中年男性が投影された。男はすぐに話し出す。

『いやあ、有水さん、お疲れ様。雨の中、ご苦労でしたね。外村さんの所も大変だろうけど、次の人との交代まで、もう少しの辛抱だから……あら?……おたく、どちら様ですか?』

 町田梅子は端末のカメラを見て答えた。

「弁護士の町田といいます。あなたが管理責任者ですか」

 ホログラフィーの男は困惑する。

『あ、ええ。そうですが、有水は……』

 町田梅子は言った。

「有水さんは大変でもなければ、疲れてもいません。勿論、苦労もしていません。一つお訊きしますが、おたくの会社では、雇用しているヘルパーと、ヘルパーの介助を必要としている要介護者の、どちらが優先されるべきだと、お考えなのでしょうか。お答え下さい」

 男は気を悪くした様子で言い返す。

『な、何なんですか、いきなり。ウチの有水が何かしたのですか』

 町田梅子は声を荒げた。

「何もしていないから、問題なのです」

 その剣幕に驚いているホログラフィーの男に対し、町田梅子は滔滔とうとうと捲くし立てた。

「お宅の使用人の有水さんは、外村さんが視覚障害者であることをいいことに、テレビを見ながら、ここのお宅の菓子と紅茶を口にして、ずっとサボっていたようですよ。このソファーの上に寝転んで。業務日誌には嘘八百を書いていますね。そればかりか、外村さんが健常者の何倍も苦労してこなした掃除や洗濯を、さも自分がした仕事のように記載しています。冷蔵庫の中の物も摘まみ食いしているみたいですね。いったい、この人は何のために派遣されてきているのですか。外村さんが怪我をしたかもしれない状況すらも、目の前で放置していたのですよ。あなた、管理責任者として、日頃からどのような社員教育をなさっているのです。だいたい、動画通信ができる端末を持たせながら、業務の確認もせずに帰らせていたのですか。それと、おたくは、視覚障害者の自宅にヘルパーを派遣するのに、どうして音声読み上げソフトを搭載した端末を渡さないのです。そういったものを準備する為に、あなたがた福祉事業者には、行政からの補助金が交付されているのではないですか。あなた方のような人間が福祉を引き受けているから、安心して任せられないのですよ。そのせいで、優秀な人材が十分に仕事をする事も出来ずにいるのですよ」

 そこまで言った時、町田梅子は自分の配慮の無い発言に気付き、陽子に目を遣った。外村陽子は黙って目を瞑り、下を向いている。町田梅子は一瞬口を噤んだが、再びホログラフィーの男に顔を向けると、そのまま言い続けた。

「とにかく、明日からの業務に改善が見られないようなら、代理人として、直ちに法的措置をとらせてもらいます。それと、弁護士である私個人として、そちらに事業許可を出している主務官庁に、この件を報告する準備をさせていただきますので、そのつもりで」

 男は狼狽して言った。

『いや、それは、どうか穏便に。早急に対処いたしますので、先生。ウチも業務停止だけは勘弁してもらいたいんですよ。そうなると、いろいろと苦労しますから』

 町田梅子は語気を強めた。

「苦労しているのは、外村さんの方です。私が事実報告をするかどうかは、今後、外村さんの意見を聞いて決めたいと思います。そして、私がこの目で、こちらの介護情況を再度確認した上で、手続きをします。それまでに、速やかに契約内容を確認し、業務改善に取り組んで下さい。あなたの先程の発言を聞く限り、あえて期待はしませんが、一応、申し上げておきます。いいですね」

 そう念を押した町田梅子は、一方的に通信を切った。何か言おうとしていた男のホログラフィーは、直線に吸い込まれるように消えた。町田梅子は端末を有水に返すと、彼女の顔を見据えて、はっきりと言う。

「あなたも、ちゃんと仕事をして下さい。今後も対応を改めないようなら、私にも考えがありますので、そのつもりで」

 有水を睨み付けた町田梅子は、更に付け加える。

「それから、こちらの娘さん。私と同じ、法曹ですからね。しかも、軍隊お抱えの。検察官のような仕事です。あまり、馬鹿にした事をされない方がいいですよ。彼女、私と違って、ドロボウなんかを逮捕する権限を有していますから。念のため、教えときます」

 それを聞いた有水は、急に態度を変え、声も高くした。

「あ、お嬢さんは、法律家さんだったんですか。どうも、すいませんでした。今後、気になることがあったら、何でも言って下さいね。外村さん。言ってもらわないと、分かりませんからね」

 町田梅子は大きな声で言った。

「あなたが、気が付かないといけないんでしょ。こちらの方は、視覚に障害をお持ちなんだから。それと、実施業務内容の確認の電子印鑑ですが、電送方式かメールで、後の時間でもできるはずです。明日からは、ちゃんと、こちらの娘さんに確認してもらって、直接、電子押印してもらって下さい。いいですね」

 有水は下を向いて小さな声で答えた。

「はい、分かりました」

 町田梅子は真っ直ぐに有水を見据えていた。



                  三十七

 有水が帰った後、町田梅子は陽子と二人で夕食を取った。買ってきた惣菜とサラダを小皿に分けて、それらを陽子が分かりやすいように並べ、取り皿も用意した。美歩が作った炊き込みご飯を御椀につぎ、食い箸と取り箸を準備する。そして、陽子の食事に気遣いながら、ゆっくりとしたペースで食べた。

 夕食を終え、食器を洗っていた町田梅子は、シンクの前の小窓から外を覗きながら、陽子に言った。

「随分と激しく降ってきましたね」

 ダイニング・テーブルに座っている陽子は、シンクで洗い物をする梅子に言った。

「ごめんなさいね。梅子ちゃんにまで、気を使わせちゃって」

「ああ、いえ。私の方こそ、すいませんでした。ちょっと、言い過ぎてしまって」

「あら、何を?」

「いや、その……美歩さんの事を……」

「ああ、仕事の事ね。いいのよ。分かってるの。でも、そうしてもらわないと、どうしようもないんだから、いいのよ。あの子には悪いけど」

 陽子は悲しげな顔で頷いていた。町田梅子は食器を濯ぎながら言った。

「ここからなら、私の職場の方が近いですから、何かあったら、いつでも電話して下さい。私は構いませんので」

「ありがとう。でも、そうもいかないでしょ。梅子ちゃんだって忙しいだろうし。第一、法廷に立っている時は、どうするの。迷惑じゃない。ウチの子も同じ。みんな、忙しいの。分かってる。仕方ないわ」

「……」

 町田梅子は暫らく黙って食器を濯いでいたが、最後の皿を洗い終えると、タオルで手を拭きながら、陽子に言った。

「でも、本当によかったですね。二人の結婚が決まって。ホカッチ……美歩さんは、なかなか決心しないんじゃないかと心配してました。これで、小母さんも一安心ですね」

「他人の心配をしてる場合じゃないでしょ。梅子ちゃんも早くいい人を見つけなきゃ」

「はい。相手が見つかったら、そうします。洗ったお皿は、このまま乾燥機に入れたままでいいんですね」

「ええ。助かるわ。お土産まで貰っちゃって、悪いわね」

「いいえ。そこの商店街で買ったものですから。本当は、寺師町で何かと思ったんですけど、今日は車がえらく混んでいて。また、今度、何か買ってきますね」

「いいのよ、気を使わなくても。ここに来る時くらいは、手ぶらでいらっしゃい。それより、せっかく梅子ちゃんが買ってきてくれたのだから、これ、一緒に食べましょうか」

 外村陽子は梅子が買ってきた饅頭の箱を持ち上げて見せた。

「そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて。あ、何か飲まれますか。お茶か何か、入れましょうか」

「じゃあ、お願いしていいかしら」

「何にします?」

「紅茶がいいわね。たまには、紅茶が飲みたいわ。後ろの棚にあるはずよ」

「小母さん、もしかして、私に気を使ってます? 人様のお宅にお邪魔して、こんな事を言うのも何なんですけど、せっかくなら、ドリップのコーヒーにしませんか。ポタポタ、じっくりと。たまには私も、コーヒーを飲んでみたいですし。なんて」

「あら、そう。じゃあ、久しぶりにドリップにしましょうかね。お饅頭とコーヒーも、いいかもしれないわね。右の扉の奥に、コーヒー豆が仕舞ってあるはずだけど……」

「右の扉の奥ですね。ああ、在りました。じゃあ、少し待っていて下さいね。飛び切りに美味しいコーヒーを入れますから。私、美歩さんと違って料理はド下手ですけど、紅茶とかコーヒーをじっくりと入れるのだけは、自信があるんですよね」

 町田梅子はコーヒーを入れる準備をした。挽いたコーヒー豆をフィルターの中に入れながら、陽子に目を向ける。外村陽子は音声時計を耳元に当てて時間を確認しながら、呟いていた。

「それにしても、美歩、遅いわね。何かあったのかしら」

 フィルターにお湯を少しずつ注ぎながら、梅子は言った。

「何か、仕事が伸びるような事を言っていましたけど。緊急の案件だと」

「そう……」

 外村陽子は暫らく眉を寄せていたが、気を紛らわすように、梅子に話しかけた。

「ところで、梅子ちゃんは、ウチの子と法廷で一緒になる事はあるの?」

「いいえ。私は、どちらかというと民事専門なんですけど、美歩さんは、軍内部の裁判か、刑事事件がほとんどだと思いますから、裁判所でも会う事は無いですね。正直、ホッとしてます」

「あら、どうして?」

「だって、美歩さんには勝てませんから」

「そんな事ないでしょう。あの子、ボーっとしてるから。美歩がいつも言っていたわよ、梅子ちゃんは優秀だって。たぶん、弁護士としてデビューしたら、連勝街道まっしぐらだろうって。そうなの?」

「ええ、もう、白星ばっかりで、眩しくて目が痛いです。ハックション」

 梅子が鼻を啜った音を聞いて、外村陽子は椅子から腰を上げようとした。

「あら、寒い? 少し肌寒くなってきたから。エアコンをつけましょうか。ええと、リモコンは……」

「ああ、小母さん、大丈夫です。気にしないで下さい。それより、昨日、偶然、街のカフェで美歩さんに会ったんですよ。もう、半年ぶりで、びっくりしちゃって」

 椅子に腰を戻した陽子は言った。

「ええ。聞いたわ。私、よく見えないけど、随分と色っぽくなってたって、美歩が言っていたわよ。きっと、大人っぽくなっているんでしょうね、梅子ちゃん。はっきりと見えないのが、本当に残念だわ」

「あれ、私には、真逆の事を言っていましたけど。相変わらず、勇ましいとか、何とか」

「もう。あの子ったら、私にも、ああなのよ。口が悪いの。ごめんなさいね」

「いえ。全然。美歩さんで口が悪いって言われたら、私はどうなるんです? さっきの聞いてましたでしょ。あんな感じなんです、私。それに、私も実家に電話した時は、親には目茶苦茶に言ってますし。――すみません、全然フォローになってませんね」

 コーヒーを注ぎ終えた町田梅子は、湯を立てる二つのカップを持ってダイニング・テーブルへと遣ってきた。

「でも、正直なところ、美歩さんには、法廷でも、料理でも、敵いませんから」

「また、そんな事言って。美歩もね、梅子ちゃんの事を尊敬してるのよ。優秀な弁護士だって。それに、誰よりも正義感が強くて、まじめだって。ああいう人が法曹界には必要だって」

「……」

 町田梅子は少し目を潤ませた。それを誤魔化すように言う。

「あらあ。残念でしたね。それに、『美人で可愛らしい』が付いてくると、完璧だったのですけどねえ。今度から、それも付けるように美歩さんに言っておいて下さい。はい。コーヒーですう。熱いですから、気をつけて下さいね。カップは、ここです」

 町田梅子は陽子の手を握り、カップの持ち手に添えた。そして、テーブルの横の棚を見回しながら言う。

「お砂糖は……あ、在りました。えっと、どのくらい入れますか。それとも、ノンシュガーですか」

「たっぷり、おねがい。歳取るとね、甘いのがいいのよ」

「いいんですか。太りますよお」

 笑いながら梅子が砂糖をスプーンですくった時、カーテンの向こうで、ドンという音がした。それは、すぐ近くという音ではなかったが、遠くから聞こえる音でも無かった。町田梅子は砂糖を乗せたスプーンを容器の中に置くと、椅子から立ち上がり、カーテンの方へと向かった。外村陽子は言う。

「何の音。こんな季節に、花火かしら」

「いや、雨が降ってますからね。でも、今の音、大きかったですよね。火事かな」

 カーテンを開けた町田梅子は、ベランダから外の様子を覗いた。降りしきる雨の暗闇に薄っすらと電光を浮かべる新市街の有多町の付近で、あちらこちらから黒煙と炎が上がっている。時折、斜めに閃光が走り、その先に明るい光が広がった。彼女がそれに目を向けると同時に、爆音が届く。細かく揺れる窓から顔を離した町田梅子は、慌ててカーテンを閉め、陽子に言った。

「すみません。小母さん、テレビ見させてもらっていいですか。何かニュースをやってるかもしれないので」

 リビング・テーブルの上のカード型のリモコンを手にした町田梅子は、それをサイドボードの上の棒状のテレビに向けた。平面のホログラフィーが浮かべられ、そこに街の様子が映し出される。見慣れた高層ビル街の西側の一画だったが、雨に打たれ、ずぶ濡れのままマイクを握ったリポーターの後ろでは、迷彩服の戦闘員が、向こうに機関銃を撃ち続けていた。周囲のビルは窓ガラスが割れ、炎を立てている店舗もある。路上では、破壊されたAI自動車が放電を繰り返していた。

 リポーターは流れ弾を避けながら、必死の形相で状況を伝えた。

『ご覧のとおり、路上では激しい戦闘が始まっています。ここから先のAB〇一八の施設までの道は、深紅の旅団レッド・ブリッグの装甲兵によって完全に封鎖されていて、通る事が出来ません。うわあ、向こうの高架橋の上では、ものすごい銃撃戦が……』

 梅子はチャンネルを変えた。緊迫感の無い群集の前で、真剣な顔をしたリポーターがマイクを握っていた。

『ええ。こちらは、GIESCOの施設を一望できる都南田となた高原の上の葉路原丘ようじはらおか公園からの中継です。ご覧のように、雨の中、見物に集まった若者で大変に混雑しています。ええ、依然、GIESCOの敷地内では、深紅の旅団レッド・ブリッグと国防軍とが、激しく交戦中であり、こうして今も……ああ、今、火柱が上がりました。防衛用のロボットでしょうか。激しく炎上しています。うわっ。危ない。ええ……たった今、こちらの丘の上まで、流れ弾が飛んで……うわ、逃げろ。弾が飛んでくるぞ。逃げろ。やばい、やばい』

 画面が激しく揺れ、カメラが反対の方角にターンする。町田梅子は険しい顔でチャンネルを変えた。記者会見場の長机の向こうで、背広姿の男がフラッシュの光を浴びながら、声明文を読んでいる。

『――という政府関係者の談話を踏まえ、我々、放送協会としては、あくまで中立の立場を貫くものであり……』

 もう一度チャンネルを変える。スタジオでアナウンサーが原稿を読んでいた。町田梅子は暫らく、それを聞いた。

『お伝えしている通り、ただ今、新首都中心部で、政府軍と反乱軍による激しい戦闘が行われています。先程ご覧頂いた映像は、戦闘ヘリが新型の飛行機により撃墜される瞬間を撮影したものです。この墜落したヘリが政府軍の物なのか、反乱軍の物なのかは、未だ情報が入ってきておりません。ええ、死傷者の数も、未だ不明であります。外は危険です。外は大変危険です。新首都新旧市街地及び近郊区域にお住まいの方々は、なるべく早く、建物の中に非難してください。絶対に、戦闘領域には近づかないようにして下さい。外は大変危険です。絶対に、外には出ないで下さい!』

 アナウンサーはカメラに向かって必死に呼びかけていた。町田梅子が再びチャンネルを変えると、街の戦闘の様子の映像に被せて、ナレーションが流れていた。

『政府の発表によれば、今回の戦闘は、反乱軍の鎮圧作戦であり、軍内部における内部抗争ではないという事です。なお、今回、反乱を起こした第十七師団は、国防軍内部の規則違反者を取り締まる機関、軍規監視局の女性職員一名と民間人一名を人質としており、国防軍においては、まず民間人の人質を救出することを第一目標に作戦を展開するとのコメントが……』

 コーヒーカップが割れる高い音がした。梅子が振り向くと、陽子が床に倒れている。梅子は駆け寄った。

「小母さん。小母さん。しっかり!」

 町田梅子は親友の母を抱きかかえて、必死に呼びかけた。



                  三十八

 カーテンが閉じられたリビングでは、サイドボードの上の棒状のテレビが、空中に黒一面の平面ホログラフィー映像を投影していた。スピーカーからは雑音の混じった高音が小さく発せられている。カーテンの向こうでは、時々、爆音が窓を微かに揺らしていた。

 外村美歩の母外村陽子は、口に濡れたタオルを当てて、リビングの隣の和室で座り込んでいた。横に座っている町田梅子はイヴフォンのボタンを押すと、それを上着のポケットに仕舞いながら呟いた。

「おかしいな。雑音ばかりで、繋がらない……」

 眉間に皺を寄せて首を傾げた町田梅子は、カード式のリモコンをテレビに向けると、黒一色のホログラフィー・モニターを消した。そして、意識的に作った明るい声で、項垂れている陽子に言った。

「小母さん、心配しないで。人質になったのが美歩さんだとは、限らないじゃないですか。軍の中には宇城さんもいますし、大丈夫ですよ」

 外村陽子はそれに答えずに、深刻な表情で尋ねた。

「連絡は。美歩と連絡はついたの?」

 町田梅子は沈んだ顔で首を横に振る。

「いいえ。でも、美歩さんだけじゃなく、ウチの事務所にも繋がりません。テレビも映りませんし、たぶん、軍から妨害電波が出されているのかもしれませんね」

 町田梅子は立ち上がると、陽子に尋ねた。

「小母さん、ここのマンション、ネットの回線は有線ですよね」

「ええ。そうだと思うけど」

「すみません。美歩さんのお部屋のパソコン、使わせてもらってもいいですか。旧式のパケット通信方式のメールなら、連絡が取れるかもしれません」

 陽子が頷くと、梅子は美歩の部屋へと移動した。リビングから玄関に出て、横の廊下を進み、突き当りのドアを開ける。外村美歩の部屋は綺麗に片付けられていた。町田梅子は机に近づく。机の上には、デスクトップ型のパソコンが置かれていた。町田梅子は液晶モニターと有体キーボードを使用するタイプのその古いパソコンを見ながら呟いた。

「しまった、電源を落とすの、頼まれてたんだった。ま、メール送ってからでも……」

 町田梅子はマウスに手を伸ばすと、スリープ状態から復帰したパソコンの液晶画面に顔を近づけた。

「それにしても、相変わらず懐かしいパソコンを使ってるのね。OSも古っ。ええと、あらら、忘れたなあ、このタイプ。どうするんだったっけ。ええと……ホカッチは、SNSをするタイプじゃないので、たしかメールは……うーん、このショートカットだったわよね。あれ違った、これだったかな……ん?」

 町田梅子は画面の左の隅に、「ウメへ」と名前が付けられた文書ファイルのショートカット・アイコンを見つけた。

「何かしら……」

 アイコンをクリックしてみる。液晶モニターに文書作成ソフトのウインドウが広がり、作成された文書が表示された。町田梅子は、その文書の題目に目を遣った。

「捜査所見概要……どうして、私に?」

 彼女は画面をスクロールさせた。液晶モニターの上に「ストンスロプ社」という文字を含んだ文章が並ぶ。町田梅子は真剣な顔で文章を読んでいった。 

「何よ、これ……」

 マウスを握る彼女の手が震えた。椅子を引いてそこに腰掛けた町田梅子は、眉間に縦皺を刻みながら、画面の上の説明文を読み続けた。

 カーテンが閉じられた横の窓の外では、散発的に轟音が鳴り響いていた。



                  三十九

 町田梅子が和室へと戻ってきた。彼女の表情は硬い。畳の上に座っている外村陽子は、梅子に尋ねた。

「どお? 梅子ちゃん。メールは送れた?」

 町田梅子は少し遅れて返事をした。

「――あ、はい。送りました」

 彼女は深憂に顔を曇らせている陽子を安心させようとして、言った。

「とにかく、すぐに小母さんに連絡を入れるよう、書いておきましたから。大丈夫ですよ。連絡は来ますよ」

 そして、リビングの中を見回しながら、陽子に尋ねた。

「それより、小母さん。こちらの予備電話を使わせてもらってもいいですか」

「予備電話?」

「あ、ええと……『固定電話』の事です。すみません。年輩の方は、固定電話って言いますよね。アレのことです」

「ええ。たしか、台所の横の壁にある、コンピュータの装置とかが入っている穴の部分があるでしょ。白いカバーがついている。そこを開けたら、中に受話器が入っているって、前に美歩が言っていたけど。小母さん、使った事がないから……」

「大丈夫です。分かります」

 戸別のインターネット制御パネルは、大抵の集合住宅ではリビングの壁の中に隠されていた。その制御パネルの近くには、集合住宅に設置する事が法律で義務付けられている有線式の緊急回線電話がある事を町田梅子は知っていた。玄関ホールへのドアのすぐに横の、台所とリビングの境の壁に制御パネルのカバーを見つけた彼女は、そのカバーを開け、壁の中の制御パネルの横に掛けられた受話器を取ると、それを耳に当てた。

「よし、繋がる」

 受話器の内側にある数字ボタンを押しながら、町田梅子は言った。

「すみません。使わせてもらいます」

 電話番号の入力を終えた彼女は、すぐに受話器を耳に当てた。暫らくそのまま待った後、受話器を下ろすと、内側のボタンを押した。

「駄目ですね。美歩さんには繋がりません。電波の届かない所にあるって。やっぱり、新首都圏内に妨害電波が出ているのかもしれないですね」

 そう陽子に伝えた町田梅子は、人差し指を立てて言った。

「もう一件、掛けたい所があるんですけど、いいですか」

 その指は陽子には見えていない。陽子は答えた。

「どうぞ、どうぞ。自由に使いなさい」

「すみません。ありがとうございます」

 一礼してから受話器のボタンを押し始めた梅子に、外村陽子は眉を寄せた顔で尋ねた。

「でも、妨害電波が出ているなら、繋がらないんじゃないの?」

 電話番号を押し終えた町田梅子は、自信を持って答えた。

「大丈夫です。こういう時に、絶対に繋がる電話を使っている人ですから」

 町田梅子はコードが繋がれた受話器を耳に当て、呼び出し音を聞き続けた。



                  四十

 爆音が窓を揺らす室内では、テーブルの上に詰まれた分厚い書籍や、書類の束が微妙に振動していた。窓から離れて置かれたソファーに、工事用のヘルメットを被った背広姿の男が座っている。ヘルメットの上に天井から落ちてくる埃を払いながら、彼は応接テーブルの上に広げた新首都圏の地図を睨んでいた。その地図の上には、マジックで所々に印が書き込まれていた。

 窓の近くの書斎机の上に置かれたダイヤル式の黒電話がベル音を鳴らした。ソファーから腰を上げ、身を屈めながら移動した男は、受話器を持ち上げると、ペン立てに引っ掛かったコードを指で外してから、受話器を耳に当てた。

「はい。時吉です」

 外村美歩のマンションのリビングで、制御パネルの前に立っている町田梅子は、受話器を強く握り締めたまま、早口で言った。

「もしもし。弁護士の町田です」

 受話器を持ったまま、もう片方の手で黒電話を持ち上げ、机の角に引っ掛かったコードを引っ張りながら、机の前の床に腰を下ろした時吉浩一弁護士は、傾いたヘルメットを整えながら答えた。

「やあ、どうも、町田先生。あの……お昼は悪かったですね。僕も、つい、カッとなってしまって。ああいう話、つい熱くなっちゃうんですよね。君の上司でもないのに、偉そうな事を言って、すみませんでした」

 リビングの隅で真っ直ぐに立ったまま、町田梅子は言った。

「謝らないで下さい。支柱を失います」

「シチュウ?」

 町田梅子は落ち着いた口調で話した。

「いいえ、こっちの事です。あ、トマト、夕食のサラダで、ちゃんと食べました。一応、お伝えしておきます」

 書斎机の側面に背中を当てた時吉浩一は、少し間を空けて、微笑みながら答えた。

「――そうですか」

 大きめの爆音が事務所の窓ガラスを激しく揺らす。机の上の万年筆が細かく跳ねた。時吉浩一はヘルメットに手を添えると、梅子に言った。

「で、平林さんの件、どうですか。着手されましたか」

 マンションの台所の小窓が、外で不規則に点滅する光を映していた。向こうに見えるビルとビルの間から火柱が上がる。町田梅子はしっかりと頷いて時吉に答えた。

「ええ。あれはすぐに手配しました。後は、マユミさんの車庫証明までは明日で終わると思います。証明書が帰ってくるのは、来週でしょうけど。それと動かした古い車は、不在者財産管理人制度で対処します」

 肩をはたいて天井から降ってくる埃を払いながら、時吉浩一は梅子に言った。

「そうですか。それはよかった。ま、また今度、ゆっくりランチでもご馳走させて下さい。今日、いろいろ言い過ぎたお詫びに。あ、玉ねぎとトマトの入ってないサラダを出す、紅茶の美味しい店、知っていますから」

 受話器を握ったまま、町田梅子はクスリと笑った。

 時吉浩一は、一度だけ鈍く点滅した電灯を見上げると、梅子に言った。

「じゃ、わざわざの報告、どうも」

「だあー! 切らないで下さい、先生」

「――?」

 町田梅子は受話器を握り締め、真剣な顔で尋ねた。

「先生、今、事務所ですよね」

「ええ。そうですよ」

「外の状況、分かってます?」

 梅子にそう言われて、時吉浩一は書斎机の上までヘルメットを被った頭を出し、机の向こうの窓を覗いた。窓に貼られた「時吉浩一事務所」というカッティング・シールの文字の間から、向かいの区画の奥で一瞬だけ膨らんだ炎の塊が見えた。時吉浩一は慌てて机の陰に頭を引っ込めると、細かな衝突物が窓を叩いて揺らした。時吉浩一は黒電話のコードを引っ張って四つん這いで応接ソファーの所まで進みながら、梅子に言った。

「ああ、そうだった。いやいや、何だか、大変な事になってますね。そっちは大丈夫ですか。大通りは戦闘が激しいみたいですよ。そっちの事務所のビルは頑丈でしょうが、メイン通り沿いだから、窓から離れていた方がいいですよ。いろいろ飛んでくるから」

 リビングの壁の横に立っている町田梅子は、受話器を強く握り締めながら時吉に言った。

「先生。実は大事なお話しが」

 応接テーブルの上から地図を取って、書斎机の陰まで戻ってきた時吉浩一は、そこに身を隠しながら言った。

「ん?……はい、何です?」

「お会いできますか」

 時吉浩一は床の上に地図を広げながら梅子に聞き返した。

「会う? 今から? いやいや、この中を出歩くのは危険だよ。何か急ぎの用件ですか」

 町田梅子は真剣な面持ちで答えた。

「ええ。ものすごく、緊急の用件です。多分、今の事態に関係していると思います」

「……」

 黒い受話器を耳に当てたまま、時吉浩一は眉間に皺を寄せた。床に広げた地図を見ながら、彼は言う。

「分かりました。どうやら、電話では無理な内容のようですね。で、何時ごろになりそうですか。そっちの事務所ビルから移動できそうな安全な場所は……」

「あの……」

 町田梅子は和室で座っている美歩の母親を一瞥すると、時吉に伝えた。

「私、今は動けない状況なんです。それで、先生の方から、来ていただけませんか」

「え? 僕が、そっちに行くの? この戦闘の中を? ちょっと待って下さいよ。ええと、この状況だと、北から裁判所の裏を回って行かないと危ないから、かなり大回りになるなあ。遅くなりますけど、いいですか」

 時吉浩一は床に広げた地図を見ながら、そう梅子に答えた。町田梅子は時吉に言う。

「いえ、今、事務所のオフィスからではないんです。友人の自宅から掛けてまして。それで、ここは、先生の事務所からだと、裏の住宅街を抜けてすぐの所ですから、危険な場所を通る事はないと思います」

 時吉浩一は顔を上げて、眉を寄せた。

「まさか、町田先生。怪我でもしているんですか」

「いえ。私は大丈夫です」

 時吉浩一は再び地図に目を落として梅子に言った。

「だったら、途中で合流した方が時間の短縮に……」

 町田梅子は大きな声で言った。

「とにかく、今は動けないんです! 男だったら、ピリッとして下さい。こちらの住所を言いますね。……」

 時吉浩一法律事務所の窓ガラスに何かが飛んできて当たり、ガラスに亀裂が走った。時吉浩一は集中して梅子の言葉を聞いている。

 梅子から外村のマンションの所在地とマンション名を聞いた時吉浩一は、地図の上からそのマンションを探しながら梅子に言った。

「ああ、そこのマンションなら分かるけど。まったく……行けば、いいんだね。雨だから三十分くらいかかると思うけど。あ、君は、部屋の中にいなさい。外は何があるか分からないから。それから、窓からも離れとくんですよ。そこ、戦闘域から遠くないから、ベランダから見物などしては絶対に駄目だ。流れ弾や砲弾の破片が飛んでくるかもしれないから、危ない。いいね」

 町田梅子は素直に頷く。

「はい」

 時吉浩一は地図を折り畳んでポケットに仕舞いながら、梅子に尋ねた。

「それで、伝えるのは、そこの住所だけでいいの? 何か他に必要なものは? 持って行くものがあれば、言ってくれれば……」

「いいえ。他に必要な物はあません。今、私が必要としているのは、一つだけです」

「なんですか」

 町田梅子は姿勢を正して立ったまま、はっきりと答えた。

「先生からの指導です」

 カーテンを揺らす窓の外の爆音が次第に大きくなっていた。町田梅子は、時吉の黒電話と繋がる緊急用電話の受話器を、耳の横で強く握り締めていた。



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