第5話  浜田圭二



                  一

 外の月明かりが、俺には少し眩し過ぎるぜ。今夜は美しい半月だ。半月――この新首都と同じだぜ。光と影、今夜も俺は、その間を彷徨っている。

 ここは場末の酒場。新首都圏に生まれたばかりの小奇麗な市街地と、歴史という塵に埋もれた旧市街地の境に位置する暗黒地帯の掃溜めだ。路地の入り組んだこの街は、まるで迷路。一度迷い込んだら出られねえ都会のラビリンスさ。地図は要らねえ。必要なのは鋭い勘と研ぎ澄まされた嗅覚だ。獣のような嗅覚。俺はその嗅覚で、危険の臭いを辿って、この小汚い店にやってきた。普段は荒くれ共が集う、この店にな。だが安心しな。今、カウンターに座っているのは俺だけだ。他には誰もいない。俺にはタキシードも、高級カクテルも、洒落たジャズも似合わねえ。グラスと氷と、このバーボンがあれば、それでいい。

 おっと、紹介が遅れたな。俺は浜田圭二はまだけいじ、しがない探偵さ。裏の世界じゃ、人は俺を「ダーティー・ハマー」と呼ぶが、そんなことはどうでもいい。今夜も危険が俺を呼んでいる。

 俺は今ここで、ある男を待っている。そして、ある女も。この男と女は、それぞれ別々に、ここにやって来る。男の方は俺の馴染みの情報屋だ。女の方は、まあ、ちょいと俺に気のある女ってとこだ。まったく、探偵ってのは因果な商売だぜ。出会う女には、すぐに惚れられちまう。たとえ互いに敵同士だと分かっていてもな。だが、相手がどんなにいい女でも、油断は禁物だ。俺はこの女の美貌に隠された本性を知っている。危うく近づくと、デコピンを百発食らう事になるぜ。覚えときな。これは危険な任務だ。何故かって? それは、奴らが俺との接触場所に、ここを指定してきたからだ。俺の馴染みの店である、この店「モーリ・タック」をな。それがどれだけヤバイ事か分かるかい? 俺の素性が知られちまっているという事さ。たしかに、この男も女も、それぞれ長い付き合いになるし、共に多くの危険を乗り越えてきた仲だ。信頼は出来る。だが、油断しちゃいけねえ。俺たちの世界に裏切りは漬物だ。間違えた、付き物だ。裏切りと謀略が犇くダークシティーでは、いつ、どこに危険が潜んでいるか知れねえ。出会う奴の全てに注意が必要だ。この目の前のバーテンでさえも油断はならねえ。

「あの、ハマッチさん。何をブツブツ言っているんだよ」

「ハマッチって呼ぶな」

 このバーテンは馴れ馴れしい。馴れ馴れしい奴には馴れ馴れしく接するのが作法だが、俺は馴れ馴れしいのは嫌いだから、馴れ馴れしくはしない。だから、一言だけ答えて黙っていよう。なのに、この髭のバーテンは顎を引いて、細い首に巻かれた蝶ネクタイの角度を直しながら、また俺に話しかけてきやがる。うるさい奴だ。

「分かった、分かった。ええと、なんだっけ、ダーティー・ハマーさんだっけ。ああ、面倒くせっ。とにかくハマーさんよ、御代りは、またウーロン茶ですか? それとも本物のバーボンですか? どっちにするんです」

「ウーロン茶で」

 俺がそうシンプルな回答をすると、そのバーテンはカウンターの上に両手をついて、俺の前に半身を乗り出し、また話しかけてくる。まったく、面倒くさい奴だぜ。

「あんた酒が飲めないのに、どうしてウチに来るんだよ。ウチはショット・バーなんですよ。しょっとばー。喫茶店じゃないんだよね。ちゃんと営業許可とって酒類提供してるんですけどね。市販のウーロン茶出す為に、私はバーテンやってる訳じゃないの。いいかい。カクテルを出す格式の高い店なんだよ、ウチは」

 確かにそうだが、ショット・バーでウーロン茶を出しても罪ではあるまい。まあ、いい。どうであれ、普通、この手の店のバーテンは黙って仕事するんじゃないのか。探偵、バー、グラス、カウンターと来たら、次は無口なバーテンと相場が決まっているはずだ。無粋な奴だ。ちょっと頭にきたな。言ってやるか。

「え、どこだよ。その高い格式ってやつ。どこにあるんだ?」

「ここだよ。ここ。ほら、あそこにも」

「ウソ言え。ここの敷居は猫でも跨げるじゃねえか」

「失礼な人だな。幾ら常連だからって、言っていい事と悪い事があるだろ」

 客に説教するとは、いい度胸だ。分かった。俺と議論したいんだな。じゃあ、議論してやろうじゃないか。見てろ。

「だいたい、俺しか客が居ねえじゃんよ。経営が傾いてるんじゃないの?」

「それはアンタのせいだろ。そんなカパカパのトレンチコート着た大男が、カウンターでブツブツ独り言を続けてるんだ、誰だって気味悪がって帰るっつうの。店の中ぐらい、脱げよ、そのコート。てゆうか、ツケも払え。これだけ溜まっているのに、どうして堂々と、ほぼ毎日来るかな」

 うーん。たしかに一理ある。なかなか、切れのいいバーテンだ。こいつには用心が必要だぜ。だが、理屈には理屈だ。論をもって論を制す。俺の流儀だ。一言、バシッと言ってやるか。

「危険が俺を呼んでいるからさ」

「呼んでねえよ。こっちの経営が危険なんだよ。頼むよ。それに、ここは暗黒地帯でもなけりゃ、ダークシティーでもないだろ。人聞きの悪い。『小奇麗な市街地と、歴史という塵に埋もれた旧市街地の境に位置する暗黒地帯の掃溜めだ』って、意味わかんねえだろ。ここは旧市街なの。向こうの大通りの下の下水管から向こうが大林おばやし町で、こっちが中堂園町。知ってるだろうが。ここには、素区もとく中堂園町なかどうぞのちょう三田みた鹿羊かよう四の三っていう、ちゃんとした住所があるんだよ。ちゃんと。なに勝手に人の店を迷宮入りさせてんだ。あんたが方向音痴なだけだろうが。あ、いらっしゃいませ」

 おっと、やっと来たぜ。例の男だ。この店のバーテンは久しぶりで忘れていただろうが、俺にとっては随分と見飽きた顔だ。陽気な男だが、コイツもなかなかの切れ者だ。日中の仕事場では隠しているのかもしれないが、俺は知っている。コイツの正体を。執念深く、粘り強い男。豊富な知識と判断力、そして行動力。荒く激しい気性。昔、俺もコイツには随分と手を焼かされたぜ。だが、それにしても、今夜のコイツは随分と静かだ。

 俺がこの男と会う理由を説明する前に、諸君には、ここまでの話をしてやろう。話は昨日、二〇三八年十月四日の月曜日に遡る。ちょっと長いが、まあ聞いてくれ。



                  二

 月曜の朝は静かだった。俺はその時、葉路原丘ようじばらおか公園の西部ブロックに居た。

 この葉路原丘公園は、新首都で生活する市民の憩いの場だ。新首都の南側に位置する小高い丘、都南田となた高原の上に造られたこの公園は、新首都全体を一望することができる格好のビュー・スポットさ。春は桜や躑躅つつじ、夏は向日葵ひまわり、秋はコスモス、冬は耐寒性の人工薔薇ばらで人々の目を楽しませてくれる。

 せっかくだから、この新首都の街並みを簡単に説明しておこう。

 ここは新首都圏の中心地、新首都市街地だ。二〇二〇年の第二回東京オリンピックの裏で、政府は密かに遷都計画を実行に移していた。まったく、いつの時代も、政治家ってのは油断のならねえ奴らだぜ。その二年後には遷都宣言が発せられ、正式にここが日本の新しい首都になった。昭和憲法制定の頃に作られた広大な溜池を現代の最新土木技術で再整備した昭憲田池しょうけんたいけを中心に、半径四十キロ圏内に、この新首都は収まっている。その新首都圏の全体像が、昭憲田池の真南に位置するこの都南田高原から簡単に一望できるって訳だ。ああ、ちなみに、昭憲田池は南北に長い楕円形の池……いや、湖だ。小さな町くらいなら、すっぽり入っちまう大きさだ。まあ、とにかくでかい。深さは知らないが、時々、馬鹿でかい魚が釣れる事もあるらしい。ま、そんな事はどうでもいいが、とにかく、縦長のでかい湖がこの新首都のど真ん中に在るって事は覚えといてくれ。俺は今、その南の端の丘の上にいるんだ。

 それより、海の話をしよう。男は海だ。そこの階段を上れば、よく見える。

 この公園の西部ブロックにある展望台から南を望めば、那珂世なかよ湾とその先に広がる大海原を一望できる。眼下には新那珂世ニューなかよ港がある。遷都に伴って新しく建造された最新式の港だ。主にコンテナ船や大型タンカーなどが寄港している。港の手前には天然ガスや石油などを備蓄するための大型貯蔵タンクが無数に並んでいる。そこで万一の事故が起こっても、この東西に連なる都南田高原の南の急斜面が壁になって、ここから北に広がっている新首都中心市街地を守っているって形だ。よく考えられているぜ。新那珂世港の左手、東西南北で言えば東には縞紀和しまきかず川が見え、その河口と、さらに東のひる川の河口に挟まれる形で新首都総合空港が広がっている。蛭川の向こうの海沿いに見えているのは、例の司時空庁のタイムマシン発射施設だ。勿論、今は閉鎖中だがな。どちらも、巨額の税金を投じて造られた広大な施設だが、総合空港に比べれば、タイムマシンの発射施設なんて、何の価値も無い施設だぜ。ほんの一握りの超富裕層しか利用できなかった訳だからな。まったく、大多数の国民にとっては無用の長物だって言うのに、よくあんな物を建設したもんだ。閉鎖されて当然だぜ。おっと、話が逸れちまったな。新那珂世港の右手、つまり西側には、新首都の物流の拠点となる臨海物流発進地域が隣接している。今朝も色とりどりの無数のコンテナがモザイク模様を描いているぜ。その手前で東西に長く伸びているのが建設中の第二東西幹線道路。総合空港から臨海物流発進地域の端まで延びている。この臨海物流発進地域の端からは真北に向けて高架式の立派な幹線道路も延びているぜ。南北幹線道路だ。自動走行パネルつきの最新式道路さ。俺には関係ねえが、AI自動車でその上を走る時は、完全に手放しだ。運転嫌いの怠け者連中にとっては、チョー便利な道路だぜ。その南北幹線道路を境に、そこから西に広がっているのが、旧市街地。ここに首都機能が移転する前から存在した街で、昔はこの辺りの中心市街地だった所だ。この旧市街地には、海沿いの旧那珂世なかよ港から内陸に向かって梨花りか区、水無みな区、その手前隣に臨海物流発進地域と接する形でもと区が広がっている。旧那珂世港は主に漁船の水揚げ港として使用されている古い港だ。まさに新首都圏に住む市民の海の台所さ。だから、それがある梨花区には市場や魚の卸店が多い。特に種田たねだ町の鮮魚市場の魚は活きが良くて最高だ。北側の水無区は溝口みぞぐち町を中心に病院や福祉施設が多く建つ古い町だ。隣の素区は昔ながらの商店街が広がっている商業地域。俺の事務所も、そこの中堂園なかどうぞの町って所にある古びたビルの中さ。この町は、それなりに活気もあるが、何故か居心地のいい落ち着いた町だぜ。おっと、話を戻そう。水無区と素区の北から内陸に向けては、国道沿いに郊外型の大型店舗が立ち並び、その周りに箱に詰められたチョコレートのように住宅が並ぶ、旧新興住宅街と呼ばれる地域が広がっている。「旧」なのに「新興」だと。まったく、ややこしいぜ。丁度、この公園からだと、真西から西北西に当たる地域だ。どれも二〇〇〇年代初頭に建てられた古い家が多い。確かに、開発された当時は新興住宅街だったんだろうがな。ま、いいか。そこから、そのまま北へ進み、東西に走る太い幹線道路を越えると、そこには煌びやかな邸宅が間隔を空けて建ち並んでいる。かおる区の高級住宅街だ。とんでもない金持ちばかりが住んでいる日本のビバリーヒルズさ。そこの菊永きくなが町の西の奥手にある小山の上には、あのストンスロプ社の会長の大邸宅が建っているという話だ。なんでも、あの小山全体が邸宅の敷地らしい。会長さんは、そこの邸宅の豪華な一室の窓から毎朝、東南に見える新首都の超高層ビル群を眺めて、ほくそ笑んでいるんだろう。そこには、ストンスロプ社の馬鹿でかい本社ビルが建っているからな。その会長さんの邸宅がある小山の後ろに南北に連なって見えているのが、下寿達山かずたちやまだ。新首都圏の西側から北側にかけて、扇状に連なっている。麓には、ナチュラル・ライフを求めて移住した団塊ジュニア世代が多く住むニュータウンが形成されつつある。そして、その東側、この公園からだと北西に当たる方角の北の下寿達山の麓には、山多やまた区がある。ここは自然豊かな地域だ。理科系の研究施設や大学キャンパスが多く建ち並ぶ区域だが、風致地区に指定されている面積も広く、最先端の箱物と緑豊かな自然が上手く調和して建ち並んでいる。たしか、この中の桜森ろうもり町に警察庁の科学警察研究所、通称『科警研』があったはずだ。俺の幼馴染が、そこで働いている。その山多区の南部には金下都ゴールデン・ダウンタウン区という小さな新しい高級住宅街があるが、俺はこの成り金趣味的な新興住宅街が大嫌いだ。だから、説明もあまりしない。この成り金町と、この公園の中間に、無駄に高く、そして多く建ち並んでいるのが、さっき話した新首都の超高層ビル街。多数の民間大企業の本社が集中している。その手前、つまり、俺が居るこの公園の北側の眼下に広がっているのがストンスロプ社の民間研究機関GIESCOジエスコだ。新首都の中心部に在る昭憲田しょうけんた池の西岸に、円柱形の巨大なビルを南北に何棟も並べているのが一望できる。洗練されたデザインの研究棟の足下には、優雅な庭園が西に広がっていて、まるで美術館のようだ。とても、あの中で最先端の科学技術が研究・開発されているとは思えないぜ。昭憲田池の対岸の工場群とは大違いだ。この都南田高原の葉路原丘公園からは、北に長く伸びる形で昭憲田池が見えるが、巨大な楕円形に近い形をしたその池は、豊富に湧き出ている下寿達山からの地下水を溜め込み、新首都全域の重要な水源となっている。さっき話した通り、池の西岸にはGIESCOが在るわけだが、その対岸の、つまり池の東岸には湖南見原丘こなみばらおか工業団地が、北から南へ流れる一級河川・縞紀和しまきかず川の岸辺まで広がっていて、主に中小零細企業の製造工場が雑然と軒を連ね、その間から無秩序に何本もの煙突を出している。その煙突から吐き出される灰色の煙に隠れているのが、その北に広がる寺師てらし町の繁華街だ。ちょうど、ここからだと昭憲田池の北東に見えるはずの位置だが、湖南見原丘の工場の煙が邪魔をして、よく見えない。池の北部には寺師町から続く形で市民公園、遊園地、野球場、陸上競技場、屋内スポーツ施設、美術館、コンサートホールなどの多くのレジャー施設や文化施設が並んでいる。そして、その奥には、この新首都と、この国の中枢機関たる公的機関のビルが物々しく建ち並んでいる有多ありた町の官庁街が在る。ついでに言っておくと、官庁街の北東から東部にかけては本当の新興住宅街が広がっているぜ。といっても、そのほとんどが高層マンション形式の集合住宅で所謂いわゆるコンクリートジャングルを作り出している訳だが、そこから東に進んで縞紀和川を渡ると様子が一変する。そこには香実かみ区の田園地帯が広がっていて、ひる川の辺まで果樹園や農園が続いている。川と川の間の一帯が農業振興地域に指定されているらしい。その静かな環境のためか、農業地帯の手前の低い土地には、都営の広大な墓地霊園が在る。周りを雑木林に囲まれた、おっかない場所だ。夜は近づかない方がいいぜ。その墓地の南部には縞紀和川と蛭川に挟まれた広大な平地が、海沿いの新首都総合空港の近くまで広がっているが、ここは今、開発ラッシュの真っ最中だ。空港から近いという事もあり、今後、観光客向けの巨大ホテルやレジャー施設、ゴルフ場なんかが多数建造されるらしい。ああ、噂では、例の新日の記者たちは、ここからASKITの連中のオスプレイに乗って、例の拠点島に向かったそうだ。ま、噂だから本当の話なのかどうか分からんが。とにかく、そこから墓場と農園地帯を越えたずっと上の方、つまり香実区の北側の位置にあるのが華世かよ区だ。そこの西側にある北園きたぞの町に、あの新日ネット新聞の記者・永山哲也ながやまてつやの自宅があったはずだ。若年夫婦向けの静かな住宅街なのに、自前の警備兵を使ってまで記者を幽閉するとは、司時空庁もよくやるぜ、まったく。ちなみに、華世区は、新首都圏の北部を東西に走る新高速道路の手前まで広がっている。そこから東にひる川を跨いだ所に、波羅多はらた学園グループの学園都市がある。新志楼しんしろう小、新志楼中学、新志楼高校が在り、現在、大学を建設中だ。その経済効果もあってか、学園都市の東に隣接する県境沿いの摩知まち区は、近頃急速に栄えてきた。中でも蔵園くらぞの町の商店街は、テレビでも話題の飲食店や大型スーパーの出店が続いている。隣県にある多久実たくみ第二基地に勤務する兵士たちとその家族にターゲットを絞った出店なのかもしれないが、交通アクセスが向上してくれば、寺師町に人が流れるはずだから、あまり期待は持てそうも無い。その蔵園町の南側から蛭川と平行に南北に広がっているのが、樹英田きえた区だ。新首都建設前の町村統一合併に最後まで反対した為か、新首都全体の中では、一番開発が遅れている地域ではある。だが、近頃は、その中心地の樹英田町の周囲にも新築の一戸建てが建ち並ぶようになり、郊外のちょっとした住宅街を幾つも形成しつつある。やっぱり、歴史を重んじ、しっかりと地に足を着けた街づくりをしてきた地域は実力が違うぜ。しかし、ちょっとしたがんもある。その中にある真明しんめい教団の首都圏施設本部だ。ここからじゃ、さすがに見えないが、住宅街のど真ん中に、とにかく場違いな宗教施設をぶっ建てちまっている。まったく、近所迷惑な話だぜ。その樹英田区を蛭川に沿って南下すると、平坦な低地に田圃が広がっていて、その先にある司時空庁のタイムマシン発射施設が海に向けて発射台を大砲のように延ばしているって訳だ。

 さてと、ここから見える街の位置関係と概略を、ざっと真南から時計回りに説明してみたが、どうだったかな?

 おっと、重要な施設について説明するのを忘れていたぜ。こいつを忘れちゃ、話にならない。ストンスロプ社のGIESCOが建造した巨大な量子コンピュータ「IMUTAイムタ」は、この公園からは南西に見える所にある。臨海物流発進地域の北の位置の、旧市街に近い所、南北幹線道路の南の端の近くだ。そこから真北へ二十キロメートルほど行った所に、NNC社が建造したAB〇一八があるって形だ。丁度、有多町の官庁街のメインストリートを西へ進んだ所で、その東西幹線道路と、高層ビル街を貫く南北幹線道路が交差する「大交差点」と呼ばれる巨大な十字路の南西部分さ。ここからは、高層ビル街の巨大ビル群が邪魔で、まったく見えないがな。この二つを結んで、例の「SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステム」を成立させているのが、地下トンネルの中を走っている神経ケーブルだ。この神経ケーブルという物で、この性質を異にする二つの巨大コンピュータは接続され、一体的に機能しているらしい。ま、新首都の地下については、追々説明するとするぜ。何せ、かなり複雑だからな。旧首都の反省が全く無いみたいだぜ。

 ところで、なぜ俺がその時、葉路原丘公園に居たのかって? 俺は葉路原丘公園から街の見物をしていた訳じゃない。勿論、任務の為さ。おっと、任務の話は漏らさないのが俺の主義だが、まあ、俺とあんたの仲だ、少しだけ話してやろう。誰にも言うなよ。

 俺はある人間から依頼を受けて、真明教の教祖・みなみ正覚しょうかくをマークしていた。いつもなら、全ての教団施設の視察を終えた正覚は、首都圏施設本部に立ち寄った後、そのまま、隣の県の千穂倉ちほくら山に向かい、真明教内部で「総本山」と呼ばれている山寺で「宇宙の神様」への報告の祈祷を行うはずなのだが、今回はそれが無かった。正覚は首都圏施設本部に入ったきり、この一週間ずっと動いていなかったんだ。だが、その手下の信者たちは、妙に頻繁に施設本部から出入りしていた。それで奴らの後をつけてみたら、奴ら、どうもGIESCOの周辺をうろついているようだった。あのGIESCOは、国内でも国防施設と肩を並べるほどにセキュリティーレベルが高い施設だ。迂闊には近づけねえ。奴らは自分たちがGIESCOの高性能カメラにより姿を捉えられている事に気付いていないのかもしれないが、こっちはプロだ。そうはいかねえ。少し離れた場所から奴らの動きを観察することにした。といっても、少し離れ過ぎたが……。

 だが、ここの丘は、GIESCOの施設が一望できる絶好のポイントだ。一方で、向こうからこちらは見えない。こっちは木陰だ。だから安心して偵察が出来るって訳だ。俺の愛用の超高性能電子双眼鏡「北園ホクエンK四五」でバッチリとな。車の出入り、そのナンバー、施設内のセキュリティー体制、監視カメラの位置、防衛ロボットの配置、すべてお見通しだぜ。その日、午前九時二十八分に黒塗りのAIセンチュリーが一台、厳重警備の正門から敷地の中に入って行った。そのまま地下駐車場に入ったようだったが、その時、後部座席に一瞬だけ見えた黒スカーフのオバちゃんが、ストンスロプ社の会長、光絵みつえ由里子ゆりこだろうと俺は思った。国産の高級AI自動車に例の白い口髭の運転手。間違いなかった。その後、一時間近く経っても、その車は出てこなかった。施設の正門近くの路上には、相変わらず真明教の信者が乗った車が停まっていた。この車は会長の車を尾行してきたようだ。そして、その車が来ると他の信者の車が施設の前から去っていった。奴らが任務を交代した事は明らかだった。別動隊がGIESCOに張り付いていたって訳さ。つまり、奴らの目的は光絵会長で、しかもGIESCOと何か関係がある、俺はそう確信した。俺はしばらく、葉を落とした桜の木々と風に揺れるコスモスの陰から、事態の監視を続けた。

 その日、葉路原丘公園には、俺の他にも厄介な連中が居た。それは数百人の集団だった。奴らはいつも集団で行動する。移動の時も、やるべき事を為す時も、トイレに行く時も、掃除の時も。その日も、何やら数人ずつの小集団に分かれて、花壇の中に腰を降ろしていた。奴らに法は通じない。倫理も条理も受け入れない。日本語さえも通じない事がある。それが小さな子供や小学生程度なら、腕力や体格や知恵の違いで制御する事が可能だが、奴らは体力も有り体格も優れ、そこそこに悪知恵も働く。にもかかわらず、どいつもこいつも馬鹿かアホときている。ほとんど制御不能だ。俺は、その点を危惧していた。そして、案の定、俺の不安は的中した。

「先生。あそこに電子双眼鏡を構えた、変なオジサンがいます。変態です」

 一人の甲高いガラガラ声が葉路原丘公園の西側広場の芝の上に響いた。俺が振り向くと同時に、今度は別の声が別の場所から飛んできた。

「変質者だ。きゃー」

 知ってのとおり、変態と変質者は違う。するとまた、違う奴が大声を上げた。

「この痴漢! あっちに行け!」

 それは、もっと違う。

「気持ち悪いぞ、オジサン。あっちへ行け」

 四方八方から、土のついた花の苗が幾つも飛んできた。普段なら全部よけてやるところだが、相手は素人だ、本気を出す必要は無い。俺はそう考え、耐えた。すると、飛んでくる土や苗の量は、どんどん増えた。俺のトレンチコートは、土と植物の破片で真っ黒に汚れた。しばらくすると、その「苗木爆弾」の嵐がピタリと止んだ。

「ちょっと、あなた。そんな所で何をやっているのですか。警察を呼びますよ」

 さっきよりもさらに高音の声を発しながら随分と年齢層の違う女性が、コートに付いた土を払っていた俺に駆け寄ってきた。すると、数十人の女子中学生が一斉に俺と彼女を取り囲んだ。そして、その中の一人が女性の後ろに隠れて、俺を指差しながら言った。

「リカコ先生。この人、変人です。きっと奇人変人です」

 どちらも問題なかろう。奇人でも変人でもいいじゃないか。その女子中学生は俺に精一杯の軽蔑の眼差しを向けていたが、俺に言わせれば、そいつの格好の方が奇人変人というに相応しいものだった。そいつは、左の肩に作り物の小型ビーム砲の様な物を乗せ、頭にはドレッド・ヘアのカツラを被り、黄緑と茶色で斑模様に塗った肉襦袢を着て、棘の付いた奇妙なブーツを履いていた。その横に居た三つ編みの少女が、彼女に加勢した。

「先生。ママが奇人変人には近づくなって言っていました。何とかして下さい。安心して花壇の花の植え替えが出来ません」

 その三つ編みの少女は、軍用の赤い鎧を上半身にまとい、片方の肩には大きな棘の付いた赤く丸い肩当てを着け、赤い膝当てと脛当てを装着し、赤い長靴を履いていた。背中にはリュックを背負い、そこに忍者刀のように二本の中型スコップを差していた。腰のベルトのバックルには、中心に渦巻状の風車のようなものが付いていて、その両脇から腰を周って背中の方に、節のある金属製のチューブの様な物を這わしていた。

 落ち着いて周りを見ると、他の生徒たちも思い思いに奇抜な服装をしていたが、俺の感覚では、この二人の女子中学生の格好の奇抜さは、その中でも群を抜いていた。俺は、何処かで見た宇宙人とロボットの格好をしている馬鹿な中学生に構っている暇は無かったので、北を望んで彼女たちに背を向けると、再び電子双眼鏡を覗いて任務を続けることにした。でも、ちょっとだけイラッとしたので、一言だけ言ってやった。

「コスプレで遠足している馬鹿共に付き合っている暇は無いぜ。俺は仕事中だ」

 すると今度は、その「リカコ先生」なる人物が、顔を真っ赤にして俺に食って掛かった。

「まあ、何ですって? 馬鹿ですって? コスプレは文科省も推奨している立派な情操教育ですのよ。お分かりですの?」

「じゃあ、文科省も馬鹿なんだ。馬鹿の推奨をそのまま実施しているあんたらも馬鹿だから、あんたらに教育されたガキ共も馬鹿になるんだ」

 しまった。前半で止めておけばよかった。俺の反論に、リカコ先生は烈火のごとく怒り、怒鳴り返してきた。

「馬鹿とは何ですか、馬鹿とは! 私の事はともかく、生徒の事を侮辱するのは許しませんわよ。あなた、この子たちが今日、ここに何しに来ているか、ご存知なのですか?」

「知るか」

「奉仕作業です。ほ・う・し、作業。我が新志楼中学を卒業された名士の方が提供して下さった花の苗を、ウチの生徒が無償でここの花壇に植えているのですのよ。都民の皆さんに喜んでもらおうと、ドロにまみれて必死で作業しているんです。それを馬鹿とは何ですか、馬鹿とは!」

 リカコ先生は、純粋に生徒を思う気持ちで俺に反論していたのだろうが、当の生徒たちの方は、そんな事は気にしていなかったようだ。実際、さっきの三つ編みの赤いアーマースーツの生徒は、額から湯気を上げているリカコ先生の後ろで、隣の宇宙人姿の生徒とこう話していた。

「よーし。行ーけ。行ーけ。リーカーコ。正体不明のオジサンVS年齢不明のオバサン。くくくっ。超うける。くくくっ」

「聞こえるって、朝美。ていうか、その背中のスコップの二本差し、二本ともアレなの? それに、重くない?」

「ぜーんぜん。だって、ママの化粧水の瓶とスカート用のハンガーで作った偽物だから。くくくっ。よく出来てるでしょ。それにこれ、どっちにも、先に『スナック棒』を取り付けてきたから、重くもない。あと一本は残ってるから、お腹が空いたら、こっそり……ゲッ! やばい、この化粧水の瓶、まだ中身が一杯入ってる。新しい奴だ。間違えた。どうしよう、由紀。ママに殺される」

「ていうか、こうして見ると、やっぱり、リカコ先生は歳が分からないよね。どんな化粧水を使ってるんだろ。肌がツルツルだよね。でも、ウチのお父さんとかも習った先生なんでしょ。って事は、相当に歳がいってるよね。でも、それにしては、声が若いんだよね」

「はあ、どうしよう。これ、ママが大事にしてる高い化粧水の方だった。ここ、接着剤で着けちゃった。どうしよう。蓋がハンガーと合体してる!」

 リカコ先生が生徒のためを思って憤激してくれているのに、不届きな奴らだぜ。俺は、少しリカコ先生に同情した。それで、その女子中学生たちに言ってやった。

「おい。その卒業生さんが、どこの名士さんか知らねえが、母校の在校生にただ働きさせて良い様に使うとは、祭りの時に地元学校の吹奏楽部をパレードに引っ張り出す商店街の奴らと一緒だな。はい、無償労働、ご苦労さん。お前ら、もっと自分を大事にしろよ。自分たちが強制労働に不当に駆り出されている事にも気付かんのか。コスプレなんかに精を出してないで、もっと本を読んで、いろいろ考えろ。その調子じゃ、一生他人に利用されて終わるぞ」

 フッ。言ってやったぜ。俺はちょっと、いい気分だった。だが、その油断がいけなかった。俺が最後の「終わるぞ」を言い終えたと同時に、俺の下半身に激痛が走った。

「カンチョオー! はい、朝美スペシャル。天誅の一発です」

 俺は「北園ホクエンK四五」を下に落とし、臀部を押さえて仰け反った。カンチョウは、いけない。俺は痔持ちだ。痔持ちにカンチョウするのは、正座で痺れた足にローキックする様なものだ。いや、それより酷い。犯罪だ。やってはいけない。桜の幹に手をついて尻を押さえている俺の後ろで、リカコ先生の声がした。

「何をしているんですか、山野さん! はしたない。早く手を洗ってきなさい」

 そういう問題か、リカコ先生。その子は痔持ちの俺のケツにカンチョウをしたんだぞ。ガソリンスタンドで煙草に火を点けた様なものじゃないか。爆発するだろ。今、俺のケツは大爆発しているんだ。燃焼中だ。

「はーい。ねえ、由紀、付き合ってよ。変人菌を落とさなきゃ」

 由紀と朝美という二人の中学生は、向こうの公衆トイレの方に去っていった。俺は激痛を必死に堪え、声を震わせて言った。

「なかなか、いい教育をされていますな。おたくの学校は」

 リカコ先生は自慢気な顔で言った。

「ええ。我が波羅多学園グループでは礼儀作法と衛生管理の教育を徹底しておりますの」

「そういう事ではなくて……」

 ていうか、今の奴らの行動は、どっちも駄目だろう。すると、一人の老人がやって来て言った。

山東さんとう先生。いかがされました。何かトラブルでも?」

「あ、校長先生。この方、何か怪しいんです。さっきから双眼鏡で、ずっと向こうを覗いていますの。もしかしたら、覗き魔かもしれませんわ。女子生徒たちも恐がっていて」

 おお、今度は覗き魔か。またレベルアップしたな。だが、覗き魔が、こんな白昼堂々、犯行に及ぶか。だいたい、恐がっている女子生徒が覗き魔にカンチョウするかよ。

 俺は腹が立ったので、また言ってやった。

「あのですな。世の中には色々な職業があるんですよ。あんたらの知らない、危険な仕事もな。俺は今、正当な任務を遂行してるの。分かる? 仕事中なんだ。この電子双眼鏡だって、プロ仕様の優れ物……」

 しまった。俺の「北園ホクエンK四五」が無い。さては、崖の下に落ちたか。北の斜面の下は、ああ、昭憲田池……。俺の「北園ホクエンK四五」はプロ仕様だから、結構に高額だ。まだ分割払いの最中だったのに……。

 落ち込んでいる俺に、無頓着な老人は声を掛けてきた。

「私は波羅多学園グループ新志楼中学の校長をしております河野光造かわのみつぞうと申します。失礼ですが、お名刺をお持ちではありませんかな」

 俺は仕方なく、ズボンの後ろのポケットからケースを取り出すと、中の名刺を一枚取り出して、その四角い顔の老人に渡した。俺の名刺を受け取った白髪の老人は、眼鏡に手を掛けながら、その名刺をじっくり読んで、言った。

「ほう、新日ネット新聞の方ですか。上野さん。次長さんが、現場で取材ですか?」

「あ、すまん。間違えた。それは返してくれ。トイレットペーパー配達人の名刺だ。大便仲間なんだ」

「トイレットペーパー配達人? 大便仲間?」

「ああ。上野と書いて、『うえにょ』と読む。暇な時に電話して、おちょくるのに丁度いい、便利な奴だ。失礼、こっちが俺の名刺だ」

 俺は再度、自分の名刺を差し出した。河野校長は、またじっくりと名刺を読んで言った。

「ほう……ダーティー・ハマー探偵社、浜田圭二さん。探偵さんでいらっしゃいますか。それで、今日はお仕事で?」

 だから、さっきから何度も、そう言っている。俺はコクコクと大きく頷いて見せた。すると、その派手な蝶ネクタイの老紳士は、四角い顔の上の太い眉を八字にして言った。

「なるほど、そうでしたか。これはどうも、お疲れ様です。いったい、何の調査ですかな」

「それは言えないぜ」

「そうですか。大変なお仕事ですな。まだ暑さが残っているとはいえ、高台に吹きつける秋風は随分と冷たくなってきました。どうぞ、風邪などひかれませんようにな」

 手紙か。普通に喋れ、普通に。

 リカコ先生が俺を指差しながら言った。

「校長先生。この人、変質者ですよ」

「まあまあ、山東先生。変質も一つの個性ですよ。他者の個性を尊重するのが、我が校のモットーではないですか」

 俺は変質者で確定か。どうも、これ以上話していても埒が明きそうも無かったので、俺は話題を変えることにした。

「ところで、さっきのおたくの生徒さん。国防軍のアーマースーツ、それのボディ・アーマーの部分を身につけていたようだが、あれ、本物じゃないのか。兵士の認識ナンバーも刻んであったようだし。赤い色で塗装してあるところをみると、今話題の『深紅の旅団レッド・ブリッグ』の物かもしれんぞ。だとすると、ちょっとマズイんじゃないかな。現役中学生が現役国防兵器を身につけて遊んでいるってのは……ねえ」

 俺はリカコ先生に同意を求めた。が、リカコ先生はプンプンだった。

「遊んでいる訳ではありません。奉仕作業です! 何度言えば分かるのですか」

「山東先生。遊びも奉仕作業も同じですよ。何事も楽しみながら取り組まねば、生徒たちは伸びません。だから、コスプレで実施しているのですから。はははは」

 それでいいのか、校長先生。伸ばし過ぎて、緩んじまってるんじゃないか。俺は、フックの法則とか弾性限度の話を講義してやろうかと思ったが、向こうの方が専門かもしれないから、止めた。すると、公衆トイレから出てきたさっきの二人を見つけたリカコ先生が、二人を呼びつけながら、小走りで彼女たちの方に駆けていった。

「ちょっと、山野さん。その衣装を見せなさい。永山さんも、こっちへいらっしゃい」

 フッ。ざまあみろ。チクってやったぜ。これが大人だ。よく覚えとけ。

 俺はその隙に、その場を立ち去り、駐車場まで全力疾走すると、愛車のダットサンに乗り込んだ。別に逃げた訳じゃないぜ。下で光絵会長の車らしき高級AI自動車がGIESCOの地下駐車場から出てくるのが見えたからだ。そうとなれば、きっと真明教の奴らのAI自動車も動き出す。事件のニオイがするぜ。俺の天性の勘が俺を突き動かしたのさ。

 俺の愛車は、ダットサン・ブルーバード一二〇〇。一九六二年製のオールド・カーだ。死んだ親父と同い年のこの車は、水冷直列四気筒のE一型エンジンを搭載した三速トランスミッションのマニュアル車で、出力を増強してマイナーチェンジされたP三一二型だ。人工知能(AI)搭載車が主流のこの時代には似合わねえ代物だが、AI自動車だの、自動定速走行システムだのってのは、そもそも俺に似合わねえ。つまり、時代が俺に似合ってねえという事さ。でも大丈夫。心配するな、俺は探偵だ。もともと世の中の流れとは関係なく泳いでいる鮫みたいなものさ。欲望と犯罪の渦巻くドス黒い海を彷徨う、一匹の孤独な鮫。それが俺だ。鮫は群れでは泳がない。たった一匹で、獲物を追い、海深くどこまでも泳いでいく。俺も、これまで、たった一人で見えない獲物を追い、幾度も危ない橋を渡ってきた。探偵は危険な商売だ。他人を巻き込む訳にはいかねえ。だから探偵には孤独が付き物だ。孤独には慣れている。まあ、もともと他人とツルんで動くのが好きじゃない性分だ。だから、若い頃に防災隊にいた時も、周りとは上手く馴染めなかった。何度も、隊長の制止を振り切り、救助のために危険の中に身を投じたものだ。最後には、猫一匹のために揚陸艇一隻を大破させちまって、挙句に隊をクビになっちまったが、まあ、俺は今でも後悔はしてねえ。ま、世の中には、俺みたいな馬鹿もいるってことよ。危険を承知で前進する男がな。誰も俺のことは止められねえ。制御されるのは御免だぜ。だから、車もコイツを乗り回している。この深緑色のダットサンは、ネットや演算処理、赤外線誘導とは縁がない。新高速道路でも自動運転制御はされない。決してお利口さんって訳ではないが、俺の鼓動ビートに合わせてエンジンを吹かし、俺の素早いハンドル操作に機敏に反応してくれる。だから、右へ左へ自由自在。そこに危険が転がっていようが、四股を踏んでいようが関係ねえ。臨機応変に危険を回避し、前に向かって進むのみ。これが俺の性に合っているのさ。だが、欠点が一つ。その欠点は、アンタにも今に分かるぜ。まあ、見てな。



                  三

 ともかく俺は、高台の下に向かってダットサンを飛ばした。都南田高原のスロープを下り、工事中の国道に出ると、すぐに裏路地へとハンドルを切った。狭い道路を注意深く進み、幾つも角を曲がって、俺の深緑のダットサンは、一般道と遮音壁で区切られた、高架式の広い幹線道路に出た。この南北幹線道路は、臨海物流発進地域から北へと延びている定速自動車流制御システムによる誘導パネル付きの道路で……、これは言ったか。とにかく、この特殊道路は高層ビル街を貫けて、有多町のメイン通りに繋がる東西幹線道路と直角に交差し、そのまま、北の新高速道路が下寿達山のトンネル入る手前の分岐点へと繋がっている。俺の狙いと計算が正しければ、光絵会長を乗せたAIセンチュリーは、この幹線道路に出てくるはずだ。そして、その後ろに真明教団の奴らが乗っている尾行車が付けているに違いない。そう考えた俺は、裏道を通って近回りし、幹線道路に乗って、目的の自動車を探す事にしたって訳だ。俺のダットサンは完全手動運転式のオールド・カーだから、この幹線道路や新高速道路の「定速自動車流制御システム」の誘導制御には反応しない。つまり、勝手に自動運転に切り替わる事も無く、俺の意のままにハンドルとアクセルとクラッチを操作できるのさ。これがこのダットサンの良い所だ。俺は、定速の自動走行で走るAI自動車たちの均等な車間を縫うようにしてダットサンを走らせながら、視界に入る黒い高級AI自動車を一台ずつ確認していった。すると、数台先に黒いAIキャデラックを発見した。真明教の奴らの車だった。思ったとおりだ。目を凝らすと、その前には光絵会長を乗せた漆黒のAIセンチュリーが走っていた。その前のAIスポーツカーとの間隔が、他のAI自動車同士の車間よりも少し広いところを見ると、どうやら光絵会長の車も手動運転に切り替えているらしい。大会社の会長さんが違法改造した車に乗っているとは、畏れ入ったぜ。とにかく、相手が手動運転だという事は、注意が必要だ。どこかで突然、ハンドルを切って幹線道路を降りるかもしれない。おそらく会長たちは、後ろの尾行車に気づいているのだろう。真明教の奴らは、やっぱり素人だぜ。俺はダットサンと奴らのAIキャデラックからの車間距離を他のAI自動車同士の車間距離と同じくらいに保ったまま走り、自動走行中の車を装って、光絵会長の車を尾行する車を尾行する事にした。

 暫くそのまま進んでいると、やがて、左右の遮音壁の外側にイチョウ並木が見えてきた。そして、時々、右側に奇妙な塔のような建物の先端が見えた。普段は気付かなかったが、何故かその時は、それが妙に気になった。そう言えば、さっきもそれと似たような建物を幹線道路の右側で見たような気がする。俺が幹線道路の高架の右側を気にしながら走っていると、左右に超高層ビル達が姿を現し、急に日当たりが悪くなった。俺は、ストンスロプ社の本社ビルの近くに差し掛かっていた。それで、二台先のAIセンチュリーが急ハンドルを切るのではないかと注意して、ハンドルを強く握り締めたが、そこで、予想外の事態が起こった。そのAIセンチュリーは、どの降り口に入る事もなく、そのままストンスロプ本社ビルの下を直進して行きやがったんだ。そして、また暫く進むと、今度は東西幹線道路との大交差点を左折して、薫区の方角に進んでいった。GIESCOを出た光絵会長は本社ビルに向かうと踏んでいたのだが、どうやら予想が外れたようだ。月曜から出社しないという事は、光絵会長が体調不良か、よほど重要な用事が別にあるかだ。だが、俺の任務は真明教の調査だ。奴らが光絵会長の何を狙っているのかを調べなければならないが、依頼も受けていないのに光絵会長のプライバシーを侵害する事は、俺の職業倫理に反する。俺は、前を走る真明教のAIキャデラックに集中する事にした。

 二台のAI自動車は、大交差点から西へ延びる東西幹線道路を進み、途中で降りると、綺麗に整備された国道を北西へと進んだ。やがて薫区の高級住宅街に入り、クス並木の木漏れ日に照らされた都営道路を直進して菊永町の小山の麓にたどり着いた。前の二台からは少し距離を空けて走っていた俺は、先頭のAI自動車が小山への上り口に差し掛かったのを確認すると、車を停めた。たしか、あの先の坂道を少し上がった所に光絵邸の門があるはずだ。このまま深追いして、Uターンしてきた真明教のAI自動車と鉢合わせるのは不味い。俺は、手前の住宅街の脇道で待機する事にした。それにしても、近くで見ると、小山とは言っても随分と大きなものだ。このほとんどが光絵会長の邸宅の敷地だとすると、いったいどれだけの固定資産税を年間に支払っているのか気になったが、想像しただけで、つい自分の年収と比較して虚しくなってしまったので、任務遂行のモチベーションを保つ為に、それ以上は考えない事にした。

 俺が、狭い横道に停めたダットサンの運転席で、トレンチコートに付いていたさっき中坊共に投げ付けられた花の苗の土や葉っぱなどを手で払っていると、俺の前を左から右に一台のAIキャデラックが通過して行った。俺は頭に乗せたお気に入りのハットを左手で整えながら、右手でキーを回しエンジンをかけた。深く沈んだ音の後、若干の振動と擦れた排気音がして、一九六二年製のエンジンが目を覚ました。クラッチを軽く踏んだまま、二、三度エンジンを噴かすと、やがてその後期高齢のエンジンはボンネットの下で細かなリズムを刻み始めた。俺は、今度はクラッチを強く踏むとギアをチェンジして、ブレーキペダルの上に乗せていた足をアクセルペダルに乗せ替え、力強く踏み込んだ。ダットサンの後輪が高い摩擦音と白煙を発し、その小振りでエレガントな車体を前に押し出した。俺はハンドルを右に回しながら、再度クラッチペダルを踏み、素早くシフトレバーを動かすと、アクセルを踏み込んだ。ダットサンのエンジンが熱いビートを打って車体を加速させた。そして俺の愛車のダットサンは、随分と先に進んでいた奴の最新式AIキャデラックに、すぐに追いついた。

 さっきこのAIキャデラックが俺の前を通過した時、俺は運転席でハンドルを握っている男の顔を見た。長髪の痩せた男だった。長身なのであろう、天井すれすれの位置にある頭を、丸めた背中から前に突き出た首の上に乗せ、手首の細い痩せた長い腕で、ハンドルにしがみ付くようにして運転していた。肩すれすれまで伸ばした髪の毛は、汗で濡れてベチョベチョで、その下の額は広く、目はギョロ目、鼻はまあまあの高さで、緩んだ口元からは血色の悪い歯茎と黄色い歯が出ていた。袖に太い黒線の入った黄色いジャージを着ているところを見ると、奴が真明教の信者である事は間違いなかった。その男は、何かに取り付かれたように運転していて、後方で尾行している俺の車には全く気付いていないようだった。

 俺のダットサンは、暫くその信者が運転する黒いAIキャデラックの後を走った。奴は薫区を出て再び東西幹線道路に乗ると、そのまま元来た方角へと、東に進んで行った。普通に自動走行にしているらしく、奴は運転席に座ったまま、ハンドルから離した細く長い両腕を不対称な形で左右に伸ばしたり、奇妙なストレッチを始めた。蟹みたいだった。やがて、おそらく警告アナウンスに驚いたのか、飛びつくようにしてハンドルにしがみ付くと、そのまま大交差点を直進して行った。そこから暫く進むと、幹線道路は一般道へと変わり、そのまま官庁街に入った。デザイン性の無いいかめしい構えの巨大ビルが左右に建ち並ぶ大通りを、混みあう車に紛れながら、俺は奴の尾行を続けた。奴のAIキャデラックは、左側の歩道から五番目の、進行車道の丁度真ん中の車線を走っていた。ということは、奴の車は、この先しばらく右折も左折もしないという事だ。これだけ混みあう官庁街を抜けても、まだ有多町のオフィス街が続くし、その先には寺師町の繁華街のメイン通りへの入り口となるT字路の交差点もある。今のうちに車線変更しておかなければ、この交通量であの位置の車線からは、この先の、新首都圏で一番混雑する道路での右折左折は不可能に近い。しかも、奴のキャデラックはAI自動車だから、T字路の手前から定速自動車流制御システムの誘導パネル道路が始まる事を考えれば、ここで五番目の車線を走っていて、そのT字路を右折するはずはない。たしか、五番目の車線にあるのは直進専用の誘導パネルだ。しかも、この先暫くは「地下高速道路」への入り口も無いはずだから、奴はこのまま香実区方面に向けて直進を続けるに違いない。俺はそう考えて、奴に尾行を気付かれないよう、左から四番目の車線を、奴のAIキャデラックから二台後ろの位置で走る事にした。ああ、「地下高速道路」については、後でゆっくりと説明することになるが、とにかく、俺のダットサンは「地下高速道路」を走る事が出来ないんだ。その点だけは、覚えといてくれ。俺の愛車の欠点の一つだ。その理由も後で説明する。

 とにかく、俺が、官庁街の相変わらずの混雑ぶりに辟易しながら、停止と発進を繰り返していると、左手に警視庁ビル、右手に警察庁ビルという何とも居心地の悪い所にある横断歩道の前に差し掛かった。しかも、運の悪いことに、俺のダットサンは、そこで赤信号に引っ掛かっちまった。奴の車は赤信号に掛からず、そのまま先へと進んで行った。奴が車内から、横の歩道の上を歩くミニスカートの女子高校生たちを見てニヤニヤしていたのが見えた。煩悩の塊だ。だが、そのせいか、奴のAI自動車は比較的ゆっくりと進んでいた。俺のダットサンがあのノロノロ運転のAIキャデラックに追いつくのは簡単だが、俺も流石に、この場所で信号無視は出来ないので、その横断歩道の手前で車を止めたままにしておいた。まあ、当然だな。信号が変わるのを待ちながら、奴のスケベ走行を見守るとするか。しかし、人間は待つとなると不思議なもので、急に時間が長く感じられるし、追っている対象も早く去って行くように感じられる。俺はハンドルの上に乗せた右手の指先で、ハンドルの上を小刻みなリズムで打ちながら、徐々に遠くの方へと小さくなっていく奴のAIキャデラックを見失わないよう、目を凝らしていた。すると、目の前の横断歩道の上を右から左へと歩いて渡っていく知っている男が視界に入った。やばい、警視庁の「ぜんさん」だ。俺が「善さん」と呼んでいるその男は、警視庁の刑事だ。名前は三木尾みきお善人よしと。善人の「善」で「善さん」だ。たしか、階級は警部だったはずだ。まあ、俺のちょっとしたダチさ。じゃあ、なんで「やばい」のかって? 別に俺は何も悪い事はしちゃいない。安心しな。ただ、俺は今年で四十七になるが、俺の世代は若い頃、よくこの「やばい」という言葉を使ったものだ。美味いスウィーツを食べても「やばい」、感動する小説を読んでも「やばい」、街でアイドル集団のセンターの子を見かけても「やばい、可愛いぜ!」だ。でも、この場合の「やばい」は違う。トイレで用を終えた後にトイレットペーパーが無い事に気付いた時の「やばい」、あれと同じだ。重大なるピンチだ。善さんは悪い奴じゃない。だが、あのオヤジは異常に勘が鋭い。俺も勘には少々自信があるが、善さんの勘は明らかに俺以上に鋭い。超能力の三歩手前だ。きっと俺に気付けば、俺が真明教を追っている事にも気付く……かもしれない。少なくとも、超お節介な善さんのことだ、また何か、助け舟を出そうと首を突っ込んでくるに違いない。触らぬ三木尾に祟り無しだぜ。ここは無難にやり過ごすとしよう。幸い、旧式のスマートフォンをいじりながら、連れの若造との会話に夢中のようだ。横断歩道での「ながら歩き」は危ないぞと注意してやりたいところだったが、その時の俺は任務が優先だった。こんな所で退職前のお爺ちゃん刑事に邪魔されては、たまらん。放っておこう。俺はそう考え、ハットを深めに被って下を向いている事にした。こうしておけば、俺には気付くまい。

 俺が暫く顔を伏せていると、やがて左右の車が動き出した。俺は信号が青に変わったのを確認して、横断歩道上に人が残っていない事も確かめると、クラッチペダルを踏み込みシフトレバーを素早く操作して、思いっきりアクセルを踏み込んだ。急発進するダットサンが俺の上半身をシートに押し付けた。俺は、制限速度ギリギリまで急加速すると、二ブロック先の車列の中に消えた奴のAIキャデラックを追った。

 俺が奴に追いついたのは、縞紀和しまきかず川の橋の上だった。奴は案の定、東西幹線道路の誘導パネル道路の上を自動走行で呑気に東へと進行していた。ここまで来れば渋滞も混雑も無い。俺は少し安堵した。橋を渡り終えると、左右には無数のビニールハウスが並んでいた。暫く行くと、今度は遮音壁の上に、豊かに葉を付けた果樹園の樹木の枝が顔を覗かせた。俺の車には、人工知能もネットリンクのカーナビも搭載されていないから、自分の居場所は周りの景色と自分の勘に頼るしかないが、たぶんそこは香実区の田園地帯の辺りだったはずだ。時々飛んできては、俺のダットサンのフロントガラスに体当たりして絶命する虫が、何よりの証拠だった。果実の甘い香に誘われて飛んできた虫たちだろう。甘い香には要注意だぜ。などと自戒の念を心に廻らしつつ前方のAIキャデラックを追尾していると、その車は蛭川の橋に差し掛かり、縞紀和川より穏やかな流れの水面に反射する日光に照らされて、黒い車体を白く輝かせた。よく手入れされピカピカに磨かれた黒の高級AI自動車は、キャデラックという外国車でなければ、趣味はいいと褒めてやるところだが、ま、俺の国産自動車ダットサンに比べれば、今流行りの「単なる高級車」に過ぎない。「愛車」と呼ぶには程遠いな。尾行に飽きた俺が、奴の高級AI自動車をいろいろと評価していると、そのAIキャデラックは、俺の批判の言葉の矢から逃げるように、進行車線を左に変え、幹線道路から下りていった。俺もすかさずハンドルを切り、幹線道路を降りた。そこは思ったとおり、樹英田きえた町の落ち着いた住宅街だった。



                  四

 黒のAIキャデラックは、樹英田町の住宅街の中の細い道を低速で進んでいた。俺は、その車を見失わないように、且つ、気付かれないように、一ブロック程の間隔を空けてダットサンを走らせた。やがて、住宅街の真ん中に、奇妙な雫形の建物が見えてきた。スライムか、いや、モスクだ。何度も見ているが、いつも間違える。何か本来の「モスク」とは作りが違うのだろう。その隣にあるのが、神社仏閣風の屋根と、壁のステンドグラス。うんにゃ、ますます分からん。この訳の分からない混沌とした雰囲気を作り出している建物が、真明教の首都圏施設本部だ。奴ら真明教の、新首都圏にある幾つかの教団施設の中心的施設なのだそうだ。そして、その黒のAIキャデラックは、思ったとおり、その施設の中に入っていった。俺は、まずはその施設の正門の前を通り過ぎてから、施設の高い塀に沿って時計回りに周囲を一周した。そうやって施設への入り口や防犯カメラの位置を確認し終えると、そこから一旦離れた。

 どうやら、施設への侵入は容易では無いようだ。GIESCOとまではいかないが、施設の周りを防犯カメラが隈なく撮影している。理由は分からんが、セキュリティーは相当に厳重だ。だが、諦める訳にはいかない。この調査の最後の仕上げをしなければならないからな。とにかく、どこかカメラの死角を探さねば。俺は思案しながら、車を走らせた。

 少し行くと、大通りに出た。少し行って、通り沿いにコンビニエンスストアを見つけた。店の前には数台分の駐車場があり、空いていた。しめた。そこに停めよう。俺がダットサンの左のウインカーを点灯させ、駐車場の前の歩道の上に車の左の前輪を乗せようとすると、俺のダットサンの前に大きな人影が映った。俺は急ブレーキを踏んだ。歩道の上で停止したダットサンの中から見上げてみると、その人影の正体が判明した。建設工事用のロボットだった。その背丈が十メートル程の二足歩行ロボットは、何処から現れたのか、一組の両手でエアコンの室外機を持って、もう一組の両手で取り付け用のドリルや電動ドライバーを持っていた。ロボットは店の前の駐車スペースから隣のビルの三階の窓の横に、室外機を設置する作業をしていたのだ。俺は、その出来の悪そうなロボットに大事な愛車を壊されたくなかったので、そこに駐車するのは止めた。それで、バックして一度大通りの車道に戻ると、そのまま少し進んで、横道を過ぎた所の小さなコインパーキング場に車を入れた。幸い、赤いスポーツカーの隣が一台分だけ空いていた。俺は、そこにダットサンを頭から突っ込み、駐車した。俺はすぐに車から降り、トレンチコートの襟を立たせると、頭の上のハットを深めに整えて、両手をポケットに入れたまま駐車場の出口へと歩き始めた。数歩進んで、車のドアにロックするのを忘れた事に気づき、再び戻ってドアにキーを差し込んで回した。そして、少し考えて、キーを再び回してドアを開け、ハットを外し、それを車の中に放り込むと、再度ドアを閉めてキーを回してロックした。それから再度同じようにトレンチコートの襟を立て、少し髪を整えてから、車から離れた。歩道に出る前に少しだけ振り返って見てみると、俺のダットサンの左隣に停めていた深紅の流線形をしたAIスポーツカーが、俺の愛車の深緑色を引き立ててくれていた。俺は満足気に口元を緩めると、再び前を向いて、真明教団の首都圏施設本部に向かって、大通り沿いの歩道の上を歩き始めた。

 住宅街の中にある真明教団の近くの小道に着くと、俺は路上のマンホールの重たい蓋を持ち上げた。この樹英田区一帯は、まだ昔の下水道がそのまま残っていて、大深度地下の低圧排水管はここまで延びてはいない。どの家も昔ながらの排水方法で、直接、浅い位置に掘られた下水管に排水している。真明教の施設も、この下水道を利用しているはずだ。あれだけの広さの施設だ、数筆の宅地を合筆して敷地を作っているはずだし、そうであれば、敷地の真下を下水道が走っている確率も高い。決して望んで中に入る訳ではないが、俺はこの臭い下水道の中を通って、真明教の施設の敷地内に潜入する事にした。

 息を止め、鼻をつまみながら臭い下水道の中を進み、梯子を上って、俺は重たいマンホールの蓋を下から押し上げた。新鮮な日の光が、丸いマンホールと蓋の隙間から差し込んできた。外の綺麗な空気を吸いながら、俺は肩と首で支えた鉄製の重い蓋を横にずらし、悪臭漂う空間から半身を出した。

「ゲホッ。ゲホッ。かあああ、くせえ。ゲホッ。ふう」

 どうやら、俺の計算どおり真明教の施設の中に出たようだ。それにしても、臭い。

 ハットを車に置いてきて正解だった。あの帽子は、死んだ親父の形見だし、俺のラッキーアイテムでもある。俺の父親の浜田はまだ公二郎こうじろうは俺と同じ探偵業をしていたが、いや、俺が親父と同じ探偵業をしているのだが、生前は「マイティー・ハマー」と言われる、この業界じゃ名の知れた名探偵だった。俺と共に遂行したある任務で命を落とし、俺は親父のトレードマークだったハットを受け継いだ。親父の信念と共にな。親父を死に追いやった奴は、今もどこかで娑婆をうろついていやがる。俺はそいつを生涯懸けて追うつもりだ。とにかく、そういう訳で、あのハットは大事な帽子なんだ。下水道で汚したり流されたりしたら、かなわない。それでダットサンの中に置いてきたのさ。俺は、両手で髪を整え直すと、トレンチコートに染み付いた汚臭を確認して、体中の汚れを払いながら、周囲を見回した。

 植木は綺麗に整えてあった。白の玉砂利が敷かれた枯山水の庭だ。悪くねえぜ。向こうのデカイ建物が本殿だとすると、ここはやっぱり裏手か。こっちの右の建物は、洗濯物が干してあるところをみると、信者たちが寝泊りしてる所に違いない。それから……。俺が躑躅つつじの間を通って前に進み、縁側えんがわの中を覗こうとして首を前に出すと、トレンチコートの襟を何かが軽く下に引っ張る感触を覚えた。俺は咄嗟に体を戻した。

「おっと、あぶねえ。質量バリアか。レーザーカメラがイカレちまうところだったぜ」

 俺は思わず、そう言った。ポケットの中の超精密機器が壊れてしまうのを、優れた運動神経で回避した俺は、その場で周囲をよく観察した。どうやら、その渡り廊下の周り全部に質量バリアが張ってあるようだった。あ、質量バリアは知っているよな。もう、結構に有名なものだからな。俺は足下の白く丸い玉砂利を一粒拾い上げた。

「どれ、コイツで確かめてみるか。よっ」

 俺は、その小さな砂利石を、ちょっと向こうの縁側の中に向けて投げてみた。白い砂利石は、弧を描いて縁側の端の真上まで行くと、空中で何かに上から叩かれたように、急に垂直に落下した。それを見て、やはり俺は呟いた。

「ああ、やっぱりだ。全面に質量バリアが張ってあるぜ。まったく、豪勢なこった」

 俺は、縁側から繋がっている渡り廊下の向こう側にある太鼓橋の方から本殿の方に行くのが狙いだったが、俺が持参していた小型のレーザーカメラは、精密機器だ。ここをこのまま通過すれば、質量バリアと干渉して壊れてしまうかもしれない。そうなれば、任務を遂行する事が出来なくなるぜ。臭い思いをして、せっかく潜入したのに、中の撮影が出来ないんじゃ、意味が無い。俺は、そう思ったので、質量バリアが張られている離れの反対側から外側を回ることにした。

 建物の壁に沿って、敷地の裏手を歩いていると、目の前の小さな木造建物から、何か、お経か祝詞らしきものが聞こえてきた。俺は、声の聞こえる方に歩を進めた。そして、その建物の裏手に着くと、木製の壁に耳を当て、中から聞こえてくる皺枯れた声に耳を澄ました。どうも、御経のようで御経では無い、祝詞のようで祝詞では無い、何とも奇妙な独特の念仏だった。俺は、中の様子が知りたがったが、その時、さっき葉路原丘公園で崖から下の昭憲田池に落とした電子双眼鏡「北園ホクエンK四五」の事を思い出した。あの高性能電子双眼鏡なら、木造の壁くらい簡単に透視する事が出来たんだが……。俺は、また思わず呟いた。

「はあ……まだ、あと半年、ローンが残っているのに……畜生、あの中学生どもめ」

 悔やんでも悔やみきれないが、仕方ない。俺は上を見上げ、壁の上部に採光用の高窓があるのを確認した。何か踏み台にする物を探すと、都合の良いことに、ブリキ製のバケツが一つ転がっていた。バケツって物が二〇三八年になっても無くならなくてよかったぜ。俺は、逆さに置いたそのバケツを踏み台にして、その底の部分に片足を乗せると、壁に這うようにして手を伸ばし、上の高窓の端を掴んで動かしてみた。曇りガラスの窓が少しだけ横にずれた。

「ナイス、開いてますねえ。戸締りはちゃんと確認しましょうねと」

 俺は、音を立てないように、そっと高窓を開けると、その窓枠にぶら下がり、懸垂をして窓までよじ登った。そのまま両肘を窓枠にかけてぶら下がると、手に持った小型レーザーカメラを顔の前に構えた。安心しな。キツくはなかったぜ。俺は毎日鍛えている。探偵にとってストイックな生活は、ラーメンに乗っているチャーシューみたいなものだ。別に特別な事じゃない。沢山乗ってりゃチャーシュー麺。一枚二枚なら普通のラーメンだ。ただ、それだけの事さ。探偵は、何時、如何なる状況にも対応できる体を維持しなければならない。探偵に危険は付き物だ。それを忘れちゃいけねえ。怠惰や不摂生は、「死」を意味する。まったく、難儀な商売だぜ。俺は、窓枠にぶら下がったまま、震える手でレーザーカメラのスイッチを入れた。すると、カメラの背面の画面に、不可視レーザーによって認識された画像が再生された。俺は、窓の少し下からその画面を確認した。

 部屋の中には、四人の人間が座っていた。正面に祭壇、その前に、ホログラフィーで立体投影された炎を映し立てている偽物の護摩壇があった。ニセ護摩壇からは、温風が吹き出されているようで、その温風の正面に、法衣姿で何かを唱えている初老の男が座っていた。男は左手に大きな玉の連なった数珠を持ち、右手で、先に白いヒラヒラの紙が付いた棒を懸命に振っていた。真明教の教祖の南正覚だった。南の後ろには、三人の信者が座っていた。一人は、さっきAIキャデラックを運転していた痩せた長髪の男だった。もう一人は丸刈りで中肉中背、どちらかと言うと鍛えられた体つきで、武闘派という感じだった。その後ろに、美人なのだが少し小太りの女性が、両手を顔の前で合わせて、背中を丸めて座っていた。俺は、中の様子を次々に撮影した。レーザーカメラはフラッシュの閃光が走らない。シャッター音もしないようにカスタマイズしてあるから、こうした撮影にはお誂え向きさ。ただ難点は、消費電力が異常に大きい事だった。俺は、カメラの背面モニターで残りの撮影可能枚数をチェックした。なっ。少ないぜ。しかも、電池残量も少ないぜ。O2電池は百二十年持つんじゃなかったのか。だから技術競争って嫌なんだ。すごい電池が世に出てきたら、すごい電力を使うモノが続けて出て来る。まあ、これは技術競争とは言わないのだろうが……。それにしても、この小型カメラ、そんなに電気食うの? あと何枚取れるか分からないぜ。まあ、いい。とにかく、撮影、撮影。カシャッっと。どうだ。ゲッ。マジか。すげえ電池が減ってるぞ。レーザー撮影って、どんだけ電力食うんだよ。マジか。これじゃ、あと、二、三枚だな。とりあえず、護摩壇と……カシャッ。はー。電池は……ギリギリじゃねえか。くう。名探偵はいつもギリギリのところで生きているぜ。ていうか、俺の体力もギリギリだぜ。手がプルプルしてきた。どうするかな。あと一枚いけるかな。あの祭壇の上の白い座布団の上に置かれてる白木の箱が、どうしても気になるぜ。あっちから先に撮っておけばよかった。そうだ、電池カバーを開けて、この接触部分を指先で擦ってから……すぐ閉める! うお、危ねえ。落ちるとこだったぜ。これで、どうだ。カシャ。よっしゃ。いけた。撮れたぞ、撮れた。よおし、ちゃんと撮れてるぜ。残り二枚はいけそうだぜ。とりあえず、正覚の顔でも撮っとくか。そら、こっち向け。早く向け。電池切れるだろ。俺の体力も。く、く、落ちそうだ。正直、この体勢は、き、きつい……。

 俺は、いつの間にかブツブツ言っていた。探偵に独り言は付き物だが、この時のこれは実に不味かった。俺はその時、隠密行動の最中だったはずだ。俺としたことが、とんだミスをしちまったぜ。案の定、中の人間が俺の独り言に気付き、声をあげた。

「誰だ!」

「うわ、やべえ。バレた。ぐわっ」

 俺は反射的に窓枠から手を離した。地表に格好良く着地する予定だったが、俺の片方の足は、下に置いたバケツの底を貫通していた。足が抜けない。その前に、痛い。

「誰かいるぞ。侵入者だ!」

 建物の中から幾つもの足音が激しく聞こえた。これは普通に「やばい」。俺は必死にバケツから足を抜こうとしたが、やはり抜けなかった。焦った俺が顔を上げ周囲を見回した時、俺は、その建物の角の所の暗がりに立つ、とんでもない奴の姿を目にした。その男は、銀色の派手なスーツを粋に着こなし、胸のポケットには赤いチーフと一輪の青い花を挿していた。手にも同じ青い花を一輪持っていて、それをクルクルと回しながら、奴は気配を消して立っていた。いや、立っているというより、防犯カメラの死角になるように建物の陰に身を隠していたというのが正確だろう。そして、俺がたてたバケツの音に驚いたようにこちらを向いたその顔には、顔の片方の部分に目の上を通って大きな刀傷が刻まれていた。間違いない、あの男だ。親父を死に追いやった、あの男。あの冷たい目に、にやけた口元、忘れる訳がない。刀傷の男! 例のASKIT事件にも関与し、俺が親父の仇として追っている「殺し屋」だ。奴も俺に気付いたようで、一瞬、動きを止めたが、駆けつけた三人の信者たちに目を向けると、慌てて周囲を見回し、「ちっ」と口を鳴らして、手に持っていた青い花を投げ捨てて、その場から逃げていった。俺は奴を追おうとしたが、足のバケツが邪魔で上手く走り出せなかった。なんとか建物の角の所まで行き、奴を探したが、奴の姿はもう無かった。俺は足下に落ちていた一輪の青い切花を拾うと、スーツの内ポケットに仕舞った。そして振り返ると、俺の前にさっきの三人の信者たちが立ちはだかっていた。俺は咄嗟に、広げた左手を前に突き出して、声をあげた。

「だっ、ちょっとタンマ。足がバケツに……くそっ、抜けねえ」

 こういう場合、洒落た映画なら、機転の利いた台詞でピンチをやり過ごすのだろうが、現実はそうじゃない。つい、どうでもいい発言をしてしまうものだ。俺もそうだった。

 長身の痩せた信者が叫んだ。

「あー! 何者だ、キサマ! ここで何をしている!」

 マジでやばい状況だ。完全にミスった。仕方ない。ここは例の「ぶりっ子作戦」で行くか。そう咄嗟に判断した俺は、口を尖らせて、ゆっくりと言った。

「あのう、なんかあ、ちょっとお、そこを通ったんですけどお、バケツに足が刺さっちゃってえ……」

「入信の希望ですか。だったら身分証明書になる物を見せてもらえますか」

 長身の痩せた男の隣に立っていた、中背の丸刈りの男が鋭い目つきで言ってきた。俺はその男に向けて目をパチパチとさせてみたが、相手にされなかった。結構、訓練されているな。どうやら俺の心理戦法は通じそうにない。そう分析した俺は、手法を変えて、前で両手を揉み合わせながら、少し背中を丸めて言ってみた。

「どうも、すみませんね。へへへ。道に迷っちゃってですね。向こうに行きたかったんですけどね。いやあ、どうも、どうも、向こうに行こうかなって……」

 俺は奴らの後ろを右手で指差した。なんと、俺のその右手には小型レーザーカメラが握られたままだった。これはアウトだ。俺だって稀にミスはする。俺の右手の中の小型カメラを見た長身の痩せ男が声をあげた。

「あー! この男、カメラを持ってるぞ! 怪しい奴だ! それに……臭いぞ」

 俺は慌ててカメラを仕舞うと、笑顔を作って、頭を掻きながら言った。

「いや、これは、ただ、珍しい建物なんで、ちょっと記念になんて……」

 中背の男に隠れていた色白で小太りの女が、高い声で叫んだ。

「誰か来て! 侵入者よ。誰か来て!」

 俺は、バケツに突っ込んだ片方の足を引きずりながら、三人の前を通り過ぎようとしてみた。

「だから、別に怪しい者では……帰りますから。ね」

 すると、さっきAIキャデラックを運転していた長身の痩せ男が俺を指差して言った。

「足をバケツに突っ込んで、臭いトレンチコート着て、カメラ持っている大男……十分に怪しいぞ。怪し過ぎるぞ。ああ、そこの窓から覗いてたんだな。このスケベ!」

「おめえに言われたくねえよ」

 俺は咄嗟に言い返した。すると、丸刈りの男が構えをとって俺に言った。

「キサマ、いったい何者だ!」

 どうやら、やる気だ。仕方ない、男には戦わなければならない時がある。その前に、あれを言っておくか。

「フッ。ったく、仕方ねえ。俺はな、裏の世界じゃ泣く子も黙るダーティー……」

「コイツは不法侵入者だ。捕まえろ!」

「馬鹿、最後まで言わせろ……ていうか、スゲー沢山出てきたな。時代劇の切られ役か、お前ら」

 何処から出てきたのか分からないが、十人以上の黄色いジャージを着た男たちが現われた。長身の痩せ男は、右手を高く振って叫んだ。

「かかれ!」

「馬鹿、よせ、怪我はさせたくないぜ。――お、マジで向かってくるのか。ええい、仕方ねえ!」

 俺は已む無く奴らと戦う事になった。言っておくが、俺は探偵だ。多少の体術は心得ている。だが、無用な殺生はしない主義だ。素人相手に本気を出しちゃ、大怪我させちまうぜ。ここは少し、手加減してやるか。

 先ず最初に飛び掛ってきたのは、あの長身の痩せ男だった。意外と度胸のある奴だ。「隗より始めよ」だな。奴は俺に左から拳を投じてきた。俺はそれをかわして、その右手を取り、奴の高い腰を自分の腰の上に乗せて、そのまま前に背負い投げた。奴の体重は思った以上に軽かったので、奴はそのまま躑躅の茂みの中に飛んでいってしまった。怪我をしなかったか心配になり、少し目をやると、どうやら植木がクッションになったようで、大事には至らなかったようだ。よかった。

「せやあああ!」

 今度は丸刈り男が飛び掛ってきた。しきりに「突き」を出してくる。俺は真っ直ぐに撃ってきた奴の左手を握ると、その勢いを利用して奴の体を後ろに流し、バケツに刺したままの足で奴の足を掛けて払った。奴は板張りの壁に丸刈りの頭を激突させた。俺は、赤く腫れたピカピカの頭を両手で覆ってうずくまっている奴の背中を指差しながら言った。

「だから、そうマジになるなって。腰が高過ぎるんだよ。それに、もしそこがコンクリートの壁だったら、お前、大怪我してたからな。神様に感謝しろよ」

 俺が丸刈り君にレクチャーしていると、後ろから掛け声が聞こえた。

「どりゃあああああ!」

 俺は、こちらに走りこんできた黄色いジャージの若者の顔の前に掌を立てると、その男の進行を止めて、反対の手で自分の足下を指差しながら、言った。

「はい! ちょっとタイム。コレ見て、コレ。足が抜けてないでしょ。バケツに足を突っ込んだ相手に飛び掛ろうっての? フェアじゃないだろ。それ。ちょっとくらい、待っててくれよ。今抜くから。な。――よっと。ああ、ありがとう。抜けた、抜けた。いやあ、よかった。よかった。拍手。拍手」

 パチパチパチパチパチパチ。皆が拍手した。暫らく、その場に拍手が鳴り響いた。

「じゃ、そういう訳で、失礼するよ」

 俺は右手を挙げて悠然とその場を立ち去ろうとした。

「どりゃああああああ!」

 黄色いジャージの若者は、再び闘いを挑んできた。まったく、聞き分けの無い奴だ。俺はその若者の黄色いジャージの襟を取り、足を掛けて後方に放り投げた。また別の信者が飛び掛ってきた。俺はその信者の右手を払って、左手も払って、足かけて、喉を押した。そいつは後ろに倒れた。ありゃあ。大丈夫か? 後頭部を打たなかったか?

 俺がそいつを覗き込んでいると、背後から声がした。

「うおおお。僕の魂の叫びを聞けえええ!」

 振り返ると、さっきの長身の痩せ男が茂みの中から立ち上がり、仁王立ちになって天を仰ぎ叫んでいた。アホか。

 俺は奴に言った。

「何なんだよ。その少年マンガの台詞みたいなのはよ。大人しく茂みの中で寝てろっての。十分がんばったよ、君は。なんだ、まだやるのか。止めとけって。腰から落ちただろ、さっき。足もフラフラじゃねえか。うわっ」

 誰かが俺を後ろから羽交い絞めにした。そして、叫んだ。

「捕まえたどおおおお!」

 そこへ気合十分のさっきの長身の痩せ男が走りこんできた。

「よし! そのまま、押さえとけよ。この野郎! うりゃあああ!」

「な。二人がかりかよ。そういうのは、男の子はやっちゃいけないんだぞ」

 俺は、羽交い絞めにしている腕を逆に掴んで、さっと身を屈め、前から飛んできた痩せ男の拳を避けた。すると、その拳は俺を羽交い絞めにしていた男の顔面を打ったようで、俺が振り向くと、その男は鼻を押さえたまま地面に倒れていた。長身の痩せ男は、目の玉をキョロキョロとさせながら言った。

「くそう。しまった。僕としたことが。大丈夫か、兄弟! この野郎、急に避けるとは卑劣な奴だ。許さん。てやああ!」

 人間関係には、ちゃんと気を配る奴だ。だが、人生はそんなに甘くないぞ。俺はそういう思いを込めて、向かってきた長身の痩せ男を再び一本背負いで放り投げた。今度は、男は随分と向こうまで飛び、玉砂利の上に鈍い音を立てて背中から落下した。

「あらら、飛び過ぎたな。おーい。大丈夫かあ。あイタッ。おい、こら、女! 箒は人を叩くものではな……イタッ」

 色白の小太り女が箒の柄で何回も俺を叩いてきた。彼女は実に奇妙な掛け声を発していた。

「きええええええ!」

「だから、コラ、痛い。いい加減にしろッての」

 俺はその箒の柄を掴むと、彼女の鳩尾に軽く一撃を入れた。

「ぐほっ」

「ほらな、言わんこっちゃ無い。でも、ちょっと腹に深く入り過ぎたかな。大丈夫か? 痛かったろう」

 彼女は膨らんだ腹を押さえながら、いや、もともと膨らんでいたんだが、とにかく、彼女は逆さにした箒を杖にしてトコトコと向こうに歩いていった。すると今度は、俺の背後から何かヒュンヒュンという風を切る音と共に掛け声が聞こえてきた。

「あちょあああ。ほあ。ほあ。ほあ」

 さっき壁に激突した丸刈り君だった。今度はヌンチャクを振り回している。思ったとおり武闘派だ。俺は少しウンザリしながら言った。

「またお前か。あーあ。武器は反則だろ、武器は。丸刈り君。それにな、それは『性質上の凶器』って言うんだぞ。そんなの振り回すなよ。犯罪だぞ、マジで。うわ。危ねえ」

 丸刈り君は顔を紅潮させて、ヌンチャクを容赦なく振り回してきた。鎖の先の鉄製の棒が俺の鼻先をかすめた。俺は足下に転がっていた、さっきまで俺の足にまとわり付いていたブリキのバケツを取ると、それを盾にして奴のヌンチャク攻撃を避けた。それでも奴は、滅多矢鱈とヌンチャクを振り回してきた。

「ちぇあああ。ちょあ。ちょあ! ちょうあああ!」

 俺は奴の半狂乱の攻撃をバケツでかわしながら、奴に言った。

「あのな。このバケツも、ここの備品だろ。ベコベコじゃねえか。俺は弁償しねえぞ。まったく、解らん奴だなあ。そんなら、これでも被ってろ!」

 俺は一瞬の隙をついて、奴の頭にバケツを被せた。

「うお! ま、前が見えん」

 そして、バケツの上からゲンコツを一発だけ食らわしてやった。

「どうだ? 効いたろ。どれ、外してやる。おっと、まだやるか」

 奴は虚ろな目でヌンチャクを持ったまま、俺に殴りかかってきた。俺は奴の右からの大降りを屈んで避けると、すぐに立ち上がり、返ってきた腕を左手で受け止めて、絡ませ、右手で奴の肘の裏を軽く押した。奴は手に持っていたヌンチャクを落とした。俺はそのまま奴の左腕を抱えて、建物の戸板の方に投げ飛ばした。丸刈り君は声をあげて飛んでいった。

「うわああ」

 丸刈り君は激しく戸板にぶつかると、そのまま戸板ごと建物の中に投げ込まれてしまった。たぶん、ちょっと痛かったかもしれないが、ヌンチャクを振り回すのだから、仕方がない。俺は部屋の中で寝転んでいる丸刈り君に再び忠告した。

「まったく。まあ、腕は折れてないと思うが。もう、立ち上がるなよ」

 そう言って俺が振り返ると、さっきより黄色いジャージが増えているような気がした。

「なんだ、なんだ? どんどん増えてきたな。キリがないぜ。三十六計、逃げるに如かず。ここは一先ず退散するしかないぜ。すたこらさっさ、すたたたたっと」

 俺は躑躅の間を駆け抜けると、そのまま、入ってきた時のマンホールの入り口にジャンプしてダイブした。後は、ご想像の通りでござんす。



                  五

 車が行き交う樹英田町の大通りの歩道を、俺はコートに染み付いた臭いを嗅ぎながら歩いていた。通り過ぎる人が鼻をつまんで俺を避けて歩く。相当に臭かったらしい。その時の当の本人は、もう鼻が馬鹿になっていて、分からなかったぜ。幸い、汚水の中に落ちる事だけは避けられた。スーツの方はそんなに汚れてはいないが、トレンチコートは泥だらけだ。いや、こりゃ「ヘドロ」だな。鼻を近づけると、かああ、臭せえ。まいったぜ。俺は、ラッキーアイテムのハットを被ってこなかった事を少し後悔しながら、駐車場へと歩いていった。しかし、とんだ日だった。朝から中学生に土の付いた苗を投げつけられるわ、下水道の中を移動するわ、黄色いジャージ集団に襲われるわ。だが、俺はこの時、この後に、さらに重大なピンチが襲ってくる事になるとは、まだ気付いていなかった。

 俺はトレンチコートの汚れを執拗に払いながら、駐車場に停めている愛車の所に戻った。隣に停めてある車の赤色が俺のダットサンの深緑色を一層に美しく見せていた。俺は、汚れてヘドロ臭いトレンチコートを着たまま、その愛車のシートに座るのは気が引けたので、助手席の方に周り、隣の赤いAIアルファ・ロメロ4Cを眺めながら、トレンチコートを脱いだ。ワインレッドも悪くないが、オールド・カーはモスグリーンに限る。それに、二〇一〇年代のボディに新型の電気エンジンやAIを搭載するなんていうのは、俺に言わせれば、邪道だ。古いパーツを探してまで、丹誠こめて丁寧に整備し、マニュアル操作でテキパキと乗りこなしてみせる、それがオールド・カーを転がす醍醐味さ。このAIアルファ・ロメロ4Cの車体の色がいくら美しいワインレッドだと言っても、一九六二年式のダットサン・ブルーバード一二〇〇を乗りこなしている俺にしてみれば、ドライバーはまだまだ青いぜ。俺は、優越感に浸りながら、俺の愛車の深緑色を映えさせてくれた赤い中途半端なオールド・カーの持ち主に感謝しつつ、ダットサンの助手席のドアを開け、そこのシートの上に放り投げられていたハットを被ろうと手に取った。だが、ヘドロの臭いが付きそうだったので、被るのをやめ、それを後部座席に放り投げて、綺麗に畳んだトレンチコートを助手席のシートに乗せた。やれやれ、まさかヌンチャクを振り回してくるとは思わなかったぜ。参ったぜ。しかしまあ、頑張った甲斐はあった。任務どおり撮影は出来たし、思わぬ収穫もあった。ま、「終わりよければ、全て良し」って奴だな。そう考えながら、俺は襟元の釦を一つ外してネクタイを少し緩め、手櫛で髪を整えながら、助手席のドアを閉めた。すると、自分の視界に映りながらも、すぐには認識できていなかったモノを遅れて認識したので、俺は慌てて再びドアを開けた。そして、隣の赤い車との間でしゃがみ込むと、畳んだトレンチコートを乗せたシートの下に手を伸ばし、ある物を拾った。それは今朝、葉路原丘公園で女子中学生たちに投げつけられた花の苗の葉と茎の部分だった。俺は、さっき真明教の施設で拾った青い切花をスーツの内ポケットから取り出して、葉や茎の形状を比べてみた。よく似ていた。女子中学生たちに投げつけられた方には青いつぼみが付いていたが、真明教の施設で拾った物にも、青い花が付いていた。俺は、そこにしゃがんだまま、助手席のダッシュボードから適当な大きさの紙袋を取り出すと、その中に二つの植物片を入れ、丁寧に口を折り畳んで再びダッシュボードの中に戻した。

 俺は立ち上がり、助手席のドアを閉め、運転席の方に回ろうと、体の向きをダットサンの後方に変えた。その時、俺の視界の隅に、また、衝撃的な物が映った。それはあまりにも偶然に過ぎ、都合がよかった。俺は立ち止まり、隣のAIアルファ・ロメロ4Cの車内を覗き込んだ。左ハンドルのAIアルファ・ロメロ4Cは俺のダットサンの左側に同じ向きで、駐車スペースに頭から突っ込んで停めていた。だから、この二台は助手席を隣り合わせる形になっていた。俺は、隣の車のこちら側の助手席を覗き、さっき視界に入ってきた物を確認した。助手席にはセロハンで包まれた小さな花束が乗っていた。その花はどれも青かった。そして、それらは、俺がたった今、紙袋に入れて自分のダットサンの助手席のダッシュボードに仕舞いこんだ切花と同じ形をしていた。俺はある疑念を抱いたので、ダットサンの運転席側に行く為に、慌てて二台の車の間を、その後方に向かって移動した。ダットサンの角を曲がろうとした時、俺の目に三度、目を疑う光景が飛び込んできた。国道を行き交う車を背に、右手に握った赤いチーフでしきりに光沢のある銀色の派手なスーツについた汚れを払い落としながら、あの刀傷の男が歩道から駐車場へと入ってきたんだ。俺は驚いて一瞬固まった。忘れる訳がないぜ、あの目の傷。奴の鼻、にやけた口、とがった耳、全て覚えている。刀傷の男、俺の父親の仇だ。そして因果なことに、俺の愛車の隣に停めていた赤いAIアルファ・ロメロ4Cは、その刀傷の男の車だったのさ。なぜなら、奴の銀色のスーツの左胸には、AIアルファ・ロメロの中の花と同じ青い花が一輪、気障っぽく挿されていたからだ。俺は奴を睨んだ。奴も俺に気付き、驚いて足を止めた。そして奴は、一瞬の間の後、笑顔を見せながらチーフを握った右手を俺に向けて振り、馴れ馴れしく「やあ」と挨拶しやがった。そのチーフをスーツの左の内ポケットに仕舞い、そのまま次に、その右手がスーツの中から出てきた時、そこには銀色のリボルバー式の拳銃が握られていた。奴は躊躇無く俺の方に銃口を向けると、立て続けに数発撃ってきた。俺は反射的に赤い車と深緑の車の間に身を投じた。乾いた銃声と共に飛んできた銃弾は、赤いAIアルファ・ロメロ4Cの黒いリアガラスに当たって、それを砕き散らした。ダットサンの助手席側のタイヤの横に転がった俺は、すぐにスーツの肩の辺りを見たが、弾がかすって生地が切り裂かれていただけで、肉体にダメージはなかった。俺はすぐに立ち上がり、ダットサンの影から奴が居た方角に目を向けた。既に奴の姿は無かった。俺は駆け出し、歩道に出て奴を探した。まず右を見た。コンビニの方角に向かって全速力で走る奴の背中を見つけた。俺は奴を追った。奴はコンビニの手前の角の短い横断歩道を渡りきろうとしていた。奴を追って俺がその横断歩道を渡ろうとした時、右側の横道からクラクションが鳴り響いた。俺は踵に体重をかけて急停止した。俺の鼻先三十センチくらいの距離を大型トラックの銀の車体が右から左に通過していった。そのトラックはコンテナを乗せた三台のトレーラーを連結して牽引していた。連結列車のようなトラックは国道に出て、大回りでゆっくりと左折し始めた。俺は、それが待っていられなかったので、二台目のコンテナが前に来た時には、三台目のコンテナの後ろを回って、強引に横断歩道を渡っていた。しかし、その先に奴の姿は無かった。一瞬、俺は落胆したが、すぐに振り返って、さっき渡った横断歩道の上に奴の青い花が落ちていたことを確認した。俺は慌てて横断歩道を戻った。さっきのトラックの三台目のトレーラーが、ようやく角を曲がり終えたばかりだった。俺は、そのトラックを追い、まだ十分に加速できていないそのトラックと並行して、歩道の上を全速力で走った。そして、そこから、その二台目のトレーラーと三台目のトレーラーの間の連結部分に飛び乗った。俺は、二台目のトレーラーに積まれたコンテナの後部に掴まりながら、進行方向の右側に移動し、角から頭を出して前を見た。すると、一台目と二台目の連結部分の隙間から、銀色のスーツの裾が風になびいて出ているのが見えた。連結の間に俺と奴を乗せた三台のトレーラーを牽引したその大型トラックは、そのまますぐに東西幹線道路に乗ると徐々にスピードを上げていき、気付いた時には、もう飛び降りる事は出来ない速度にまで達していた。トラックは幹線道路の左側から二番目の車線を走っていた。嫌な予感がした。再度、俺がコンテナの角から前を確認すると、奴はまだ乗っていた。やはり、この速度では奴も降りられないようだった。しかし、俺は今がチャンスだと思った。それで、俺は二台目のコンテナの上によじ登り、風を受けながら、その前方まで屋根の上を這って進んだ。コンテナの前方に辿り着き下を確認すると、奴が一台目と二台目のコンテナの間で、それぞれを乗せたトレーラーの連結部分に足を乗せて、前の一台目のコンテナの後部扉の握りを掴み踏ん張っていた。俺は手を伸ばすと、上から奴の首に腕を回し、肘の関節に奴の顎を引っ掛けて、そのまま一気に引き上げた。二台目のコンテナの屋根の上に奴を引き上げようとする俺に対し、奴は一台目のコンテナの扉に付いている鉄製の棒に足を引っ掛けて、両手で俺の腕を掴み、逆に俺を連結部分に引きずり落とそうと、必死に抵抗した。

 暫く俺と奴は、その場で引きつ引かれつの力比べをする事になったが、やがて、俺は一台目のコンテナと二台目のコンテナの間から奴の半身を引きずり上げることに成功した。それでも奴は足の甲を一台目のコンテナの角の金具に掛けて、力の限り抵抗した。すると、奴を後ろから羽交い絞めにしていた俺の視界に、「やばい」光景が飛び込んできた。俺たちが無断乗車したトラックが走っていた車線の先には、「地下高速道路」のインターチェンジへの入り口が在った。俺の嫌な予感は的中した。

 ここで、地下高速道路について説明しておこう。この新首都の地下には、実験的に特殊な高速道路が建設されている。それは、昭憲田池を中心とする環状の中央環状線を中心に、周囲に四つの枝分環状線を配し、それぞれ、華世区北部、樹英田区西部、香実区南部と走り寺師町東部で中央環状線と合流する第一環状線、香実区の南方の開発地域を中心に新首都総合空港までの半径で回り湖南見原丘の地下で中央環状線と合流する第二環状線、IMUTAを中心に臨海物流発進地域と旧市街東部と回り、都南田高原の南西部で中央環状線と合流する第三環状線、薫区南東部と山多区南部を回り大交差点付近の地下で中央環状線と合流する第四環状線という形で造られている。その形状から、都民からは『四葉のクローバー』とか、単に『クローバー』などと呼ばれる事もあるが、そんな事はどうでもいい。

 その時、このトラックは東西幹線道路を西に進んでいた。幹線道路に入ってからずっと左から二番目の車線を自動走行しているところをみると、縞紀和川を渡ってすぐの第一環状線へのインターチェンジに入るはずだった。地下高速道路への入り口は、どこも一台分ずつのトンネルになっていて、通常、外から二番目のレーンはそのトンネルへの直通車線となっているからだ。そして、俺のその予想は当たっていた。これは実に「やばい」。なぜ「やばい」のかは、後で説明する。まずは、目前に地下高速道路への入り口が迫っていた。時間が無い。高さも無い。そうだ、俺の目算が正しければ、このトラックのコンテナの屋根までの車高は、あの入り口の制限高さギリギリだ。隙間は十センチ無いはずだ。俺は、そのコンテナの上に膝をついて座り、刀傷の男を羽交い絞めにしていた。百キロ近い速度で走行しているこのトラックが、あの入り口から中に進んだ途端、一台目と二台目のトレーラーの間から俺によって上半身を引っ張り出されているこの刀傷の男も、中腰でこいつを羽交い絞めにしている俺も、どうなっちまうか、想像がつくだろう。これはピンチだ。つまり「やばい」。

 暴れながらも、前方の状況を察した刀傷の男は、俺の腕をタップしながら声を荒げた。

「ちょ……おい! 待て待て! 地下高速だぞ。タイムだ、タイム!」

 俺は奴の発言に耳を貸すこと無く、その体勢を維持し続けた。入り口が徐々に近づいてきた。すると奴がまた叫んだ。

「分かった。分かった。親父さんの事は悪かった。謝る。な。だから、手を離してくれ」

 この野郎、やっぱり覚えていたな。俺は思った。こいつは親父の仇だ。ここでこのまま殺してしまおうか。俺がこのまま、こいつの体を抑えていれば、こいつは確実に俺と共に、あの世行きだ。わずか十センチの隙間と、その上の金属フレームに時速百キロで突入だ。こいつには相応しい死に方だぜ。

 俺の腕を掴んで必死の抵抗をしながら、前に見える「あの世への入り口」を青ざめた顔で睨んでいた刀傷の男は、無理に笑顔を作って、さらに言った。

「あれは仕事だったんだ。分かるだろ。恨みっこ無しにしようぜ。もう、済んだことだ。な、だから離せよ。あんたも鬼じゃないだろ。そうだろ?」

 インターチェンジへの狭い入り口がはっきりと見えてきた。刀傷の男は叫び倒した。

「ばかやろう! 真っ二つになっちまうぞ。やめろ! やめてくれ! 助けてくれ!」

 最後のは効いた。俺は若い頃、防災隊で訓練を受けたが、どうしてもその時に叩き込まれた習性が抜けなかった。助けてと言われれば、敵でも悪人でも助けてしまう。そう教えられたからな。それがダーティー・ハマーだ。それに、俺は親父と同じ探偵だ。マイティー・ハマーの息子だ。こいつの様な殺し屋じゃない。

 俺は手を離した。奴の体は、コンテナとコンテナの間にずり落ちた。だが、安心するのはまだ早い。俺は迫って来る入り口の上部の金属の鴨居の部分から必死で逃げた。牽引しているトラックの屋根と一台目のコンテナの屋根が鴨居の金属フレームの下に滑り込んで行き、その金属フレームがコンテナの上をこちらに向かってきた。俺は全速力でコンテナの上を後方に向けて走ると、そのコンテナと三台目のコンテナの間に飛び降りた。俺の後頭部のすぐ後ろを金属製のフレームが高速で通過したのが分かった。



                  六

 トラックは地下高速道路へとスロープを下り始めた。この地下高速道路は、全線の全部分が地下に建造されていて、全線が「定速自動車流制御システム」を導入している。つまり、中に入れば自動運転だ。このトラックのように定速自動車流制御システムの施されている幹線道路から直通で入って行く場合は、ただ乗っているだけでいい。全ての事は車に搭載された運転用の簡易人工知能コンピューターがやってくれる。ドライバーは車内の端末から降りる予定のインターチェンジを登録するだけで良い。だから、俺の愛車のように、人工知能もネットリンク端末も搭載していない自動車は中に入れない。しかし、理由はそれだけじゃない。そして、その「もう一つの理由」は、ピンチを脱した俺と奴を、更なるピンチへと追い込もうとしていた。時間が無いから答えを言おう。騒音防止の為と、空気抵抗を極力抑えて各自動車の消費電力を最小限とする為に、地下高速道路内部は殆ど真空に近い状態になっているんだ。何でも一番気圧が低い部分では〇コンマ〇一気圧程度しかないそうだ。だから、真空状態に耐えられる密閉気密設計と酸素充填システムの組み込みが施されていない旧式の自動車は、中に入れないって訳さ。こんな所に、宇宙服も着ないで、均一バーゲンで買った安物のスーツだけ着て飛び込めば、一体どうなることやら。ついこの間、地下高速内の接触事故で初の死亡事故が起きたばかりだ。車外に投げ出された学者さんが無惨な死を遂げたらしい。ずっと前には、オープン・カーで地下高速道路に入った馬鹿な男女が、遺体で発見された事もある。その二人の遺体がどんな状況だったかまでは報道されなかったが、惨過ぎて、その状況内容すら報道できなかったのかもしれない。とにかく、二人の遺体は死後三日以上経って、自動走行中の車内から発見された。三日以上、地下高速の中を無惨な状態の二人の遺体を乗せたAI自動車が自動走行で回り続けていたって訳さ。まったく、おっかねえ話だ。そして、そんなおっかねえ場所に、車の外でトレーラーの連結部分に掴まっているだけの俺と奴は、お互い背広一枚で、これから突入するのさ。笑えないぜ。これは、さっきよりも「やばい」状況だ。つまり、「かなりやばい」。ああ、「かなり」の語尾は上げてくれ。

 地上との気圧差を区切っているのが、入り口から一定距離ごとに設けられた流体ナノガラスだ。この半液体状のナノ粒子の壁を通過する度に、地下高速道路内部の気圧は徐々に低くなっていく。やばい、インターチェンジを通過して最初のナノガラスが迫ってきたぜ。時間が無いから、流体ナノガラスについての説明は他の人間から聞いてくれ。俺はナノガラスを通過する瞬間のあの不快な感じが大嫌いだ。なんとなく、ベチャベチャした感覚の何かが皮膚の表面を舐めるように通り過ぎていく。衣類は特に汚れる事は無いが、手にソフトクリームや剥いたバナナなんかを持っていると、人工ナノガラス粒子が食い物の粒子の隙間に残って、食えなくなっちまう。時々、小さな子供がそれを食って、病院に運ばれるので、現在では人体に無害な人工ナノ粒子を使用したものが主流らしい。だが、安物のナノガラスは依然として質の悪い人工粒子を使用していると聞いている。財政状況が悪い都営の地下高速道路に、最新式の流体ナノガラスが使用されているとは思え……。

 俺は目を瞑り、鼻を手でつまんで口を縛ったまま、もう一方の手でコンテナの扉の鉄棒をしっかりと握り締めて、流体ナノガラスの壁をトラックと共に通過した。トレーラーに積まれたコンテナとコンテナの間に居たので、人工ナノ粒子との接触はあまり無かったようだが、何となく気分的にめいるぜ。俺は軽くつばを吐くと、すぐに上を向いて天井の高さを確認した。地下高速道路の道幅は狭く、片側二車線しかない。高さも同じで、俺が掴まっていたコンテナの屋根からは一メートルくらいの高さで、トンネルの天井が流れていた。そして、時折、天井から下げられた無線ユニットや標識が素早く通過していった。俺は、さっきのようにコンテナの屋根の上を這って移動する事は諦め、コンテナの側面を移動する事にした。ナノガラスを通過してから、耳の調子がおかしかった。鼓膜がふさがっているような気がした。目も開けづらかった。空気の量が減ったせいか、少しだけ呼吸が浅くなっている気もした。反面、コンテナの角から顔を出して前を覗いても、さっきのように風に顔を激しく打たれる事はなかった。だが、全くの真空ではないし、トラックも速度をさらに上げていたので、それなりに風が吹きつけてはいた。俺は、コンテナの左の上の縁に指を掛けると、トレーラーと積まれているコンテナの僅かな幅の違いが生んでいる下の縁に爪先を乗せ、吹き付ける風の中を、猛スピードで流れるコンクリート製の側壁を背にしながら、コンテナの側壁にへばり付いて前に移動した。風にはためく俺の上着の裾が、直ぐ後ろの硬い側壁を何度も擦った。俺は慎重に手と足を動かしながら、地下高速道路の側壁とコンテナの側壁の狭い隙間を少しずつ前に移動した。早く前の牽引車まで移動しなければならない。奴とは一時休戦だ。ここで心中するつもりは無い。運転席まで行けば、中のドライバーに事態を知ってもらう事ができるだろう。ああ、言い忘れたが、二〇三八年現在では、ほとんどのAI自動車の窓は、ガラス製ではなく透過式の透明スクリーンになっている。自動走行中に窓をスモーク状態に変化させて、中で寛いでいる様子を外から見られない様にする為だ。勿論、警察や運輸局の指導で、運転席のフロントと両サイドは透明スクリーンにしないように言われてはいるが、あまり守られてはいないようだ。さっきから右側の車線を併走しているRV車も、全面の窓を真っ黒な壁に変化させているから、中のドライバーも、俺達の事にも気付いていないのかもしれない。もしかしたら、中でフロントガラスの内側に映画でも映し出して、見ているのだろう。ま、俺は空気抵抗の事も考えて、コンテナの左側を移動していたので、右の車線を走るRV車から俺の姿は見えない訳だがな。とにかく、このトラックの運転手も透明スクリーンを変色させていることだろう。だとすると、俺たちが荷台に無断乗車している事には気付くまい。なんとかして、牽引車両の運転席まで辿り着き、中のドライバーに俺たちの存在を知らせねばならない。そうこう考えているうちに、二台目のコンテナの左前の角に辿り着いた。奴はどうしているだろうか。まだ窒息するほどの低い気圧ではない。そう思って、一台目と二台目の間の連結部分に入ろうと前を向いたとき、俺は直ぐ前に次の流体ナノガラスが迫っていることに気付いた。また、やばい。この速度で直に流体ナノ粒子の堆積物に衝突すれば、ちょっとした衝撃を受ける事になる。たぶん、プロレスラーのビンタくらいの強い衝撃だろう。しかも、ナノ粒子だから、毛穴の中で内出血をしてかなり広範囲に青アザが出来ちまうかもしれない。さらに悪いことに、側面には流体ナノ粒子の壁を支える装置のような物が飛び出していて、道幅が少し狭くなっている。俺は、トラックのサイドカメラの幅に体が収まるよう、自分の体を精一杯コンテナに押し付け、同時に左手の上腕に頭部の左側面を当てて耳と顔面を保護して、さっきと同じように息を止めながら、半透明の流体ナノ粒子の不快な壁を通過した。今度は体の全体に衝撃が走り、壁を通過した直後に、俺はコンテナにぶら下がったまま、足を踏み外してしまった。暫く足をバタつかせたが、何とか両足の爪先を再び下のトレーラーの縁に乗せることができた。だが、安心は出来なかった。さっきよりも、はっきりと気圧の低さを感じた。耳は痛く、口を閉じていても唇の隙間から肺の中の空気が引っ張り出されていった。俺は無我夢中で体を回し、一台目と二台目のトレーラーの連結部分に滑り込んだ。トラックは空気抵抗の低下により、さらに加速していた。俺が二台目のコンテナの扉の鉄棒に手を掛け、両足を前後のトレーラーの荷台の端に乗せて顔をあげると、俺の顔面に奴の拳が打ち込まれてきた。俺はバランスを崩し、後ろのコンテナの鉄棒を握ったまま、左足を滑らして、トレーラーとトレーラーの間に落ちかけた。ぶらさがった俺の左足の革靴の底が、高速で流れるアスファルトと自動走行用の誘導パネルに当たって、焦げた臭いを発した。俺は必死に鉄棒を握り締め、連結部分の上に体を上げようとしたが、奴は俺を突き落とそうと、何度も俺に蹴りを入れてきた。俺はコンテナの鉄棒にしがみ付いたまま、奴の攻撃に耐え、一瞬の隙をついて奴の足を掴むと、それを力一杯にこちらに引いた。奴は、前と後ろのコンテナの鉄棒を左右の手で握ったまま、仰向けになって倒れた。俺は、それと同時にトレーラーの連結装置の上にあがり、そのまま奴に飛び掛った。俺が奴に覆いかぶさる形で、俺と奴の上半身がトラックの右側に飛び出した。奴は一台目のコンテナの後ろの鉄棒と二台目のコンテナの前の鉄棒を左右それぞれの手で握って、仰向けのまま落下しないようにぶら下がっている状態であったので、上から圧し掛かっていた俺には抵抗できなかった。俺は奴の顔面を好きなだけぶん殴ってやろうかと思ったが、トラックの速度が増した分、風の勢いも激しく、奴の襟元を掴んで体を押さえつけておく事で精一杯だった。空気量が減り気圧が低下しているとはいえ、さらに加速したトラックは時速二百キロ近くで走っていたはずだから、やはり風の強さは相当なものだった。俺は左側から押し付ける強い風と抵抗する奴の力に負けないよう、肩と両腕に渾身の力を入れて、奴の首と顎を押さえつけた。もうすぐ、三つ目の流体ナノガラスを通過するはずだった。この速度で通過すれば、生身で流体ナノガラスに当たった瞬間に、その衝撃で、普通の人間なら気絶するはずだ。俺はそれを狙っていた。奴もそれが分かっていたのだろう。奴は時折、顔を横に向けて前を確認しては、鉄棒を握っていた両腕を曲げて、トレーラー同士の連結の隙間に俺と自分の上半身を押し戻そうとした。俺もそれを力で封じていたが、奴は二台目のコンテナの鉄棒を握っていた左手を離すと、その手で俺の襟首を掴んで、俺の体に体重を乗せて自分の上半身を引き上げてきた。俺は奴と入れ替わる形で上半身をトラックの外側に放り出してしまった。その瞬間、先頭の牽引車が流体ナノガラスに突入した。その独特の太鼓を叩くような音がした瞬間、俺は腹筋に力を込めて瞬時に上体を起こし、一台目のコンテナの後ろに隠れた。一瞬、人口ナノ粒子のヌメリ気のある嫌な感触が俺のうなじを勢いよく舐めていった。そしてまた、さらに気圧が低くなり、今度はいよいよ、呼吸する事が出来なくなった。そればかりが、肺の奥や胃の中の空気までが口と鼻から吸い出される感じだった。これは「かなりやばい」を通り越している。「激ヤバ」だ。奴は、左手で前のコンテナの後部扉の鉄棒を握ったまま、右手にはリボルバーの拳銃を握っていたが、この状況に、銃を撃つ事も出来ない様子だった。それに、酸素量が極端に少ないこの状況でリボルバー式の拳銃を撃っても、薬きょう中の発射火薬への点火がうまく行かず、弾丸をうまく発射できない可能性がある。弾が引っ掛かれば、次の弾が撃てないし、下手をすれば暴発するかもしれない。奴はプロだから、それで拳銃を撃たなかったのかもしれない。とにかく、助かった。だが、俺と奴の死の確率は、このトラックのスピードと共に、格段に上がっていた。何となく、体が膨らんだ気がする。次の流体ナノガラスを通過したら、おそらく前身の血液が瞬時に沸騰して体が破裂するか、口や鼻、肛門から体内の臓器が飛び出して死んでしまうだろう。それよりも、このままでは、次の流体ナノガラスが来る前に、酸欠で死んでしまう可能性の方が高い。俺がそう考えていると、奴の片方だけの視線が俺の後方に移った。俺が振り向くと、トラックの右側の車線を走っていたRV車がゆっくりと速度を落とし、後退していった。そして、その前から、RV車との車間距離を保ったまま、同じ速度で、四トントラックが後退してきた。おそらく、この四トントラックが予定を変更して次のランプで地下高速道路を出るのであろう。定速自動車流制御システムが走行車両の配列を計算し直し、この四トントラックを左側車線の適当な位置に配置しようとしているのだった。俺がその四トントラックに目を向けた瞬間、刀傷の男は俺を突き飛ばして、三連式の大型トラックのトレーラー連結部分から、その四トントラックに向けて飛び出して行った。向かい風に押された奴は、一瞬、体を空中で後方に流されたが、何とか四トントラックの助手席側のドアと荷台の間の辺りにしがみ付いて、飛び乗ることが出来た。そして、直ぐに助手席のドアを開けると、吐き出される車内の空気を押し返すようにして、その四トントラックの運転席の助手席に乗り込んだ。運転手は驚いて唖然としていたが、刀傷の男は、持っていた拳銃で躊躇無く、その運転手の頭を撃ち抜いた。そして奴は、その不運な運転手のシートベルトを外し、遺体を助手席側に引き倒すと、何事も無かったように血の着いた運転席に座り、そこから俺に手を振りながら、車内の快適さをアピールした。その四トントラックは、そのまま速度を落として後退すると、俺が乗っているトラックの後方へと車線変更した。俺はすぐに、トラックの左側に移り、コンテナの角から身を乗り出して後方を確認したが、奴を乗せた四トントラックは、この大型トラックが通り過ぎた出口ランプへと分岐したトンネルに入って行き、そのまま見えなくなった。俺は拳で力いっぱい、コンテナの壁を叩いた。空気が薄く音が響かない。だが、その時は、それ以上そんな事に気を回している場合ではなかった。自分の身が危なかった。このままでは酸欠で死んでしまう。俺はすぐに、さっきと同じように、コンテナの側面壁の上下に指と爪先を掛けて、そのまま一台目のコンテナの左の側面を前に移動した。途中、何度か気を失いそうになったが、何とかコンテナの左前の角まで辿り着くことが出来た。手先が痺れてきた。俺は咄嗟に左手でネクタイを襟から引き抜くと、それを使って、一台目のコンテナの前の扉の鉄棒を握っていた自分の右手を、その鉄棒に縛り付けた。そして、左腕を伸ばすと、トラックの左側のサイドカメラに向かって手を振った。何の反応も無かった。牽引車の運転席の窓は全て真っ白な磨りガラス状に変えられていた。たぶん、運転手は外の様子に気付いていない。俺はさらに左手を伸ばし、助手席のドアを無理矢理開けようとしたが、中からロックがされていて開かなかった。それで、ドアの表面を激しく何度もノックしてみた。やはり反応は無かった。ネクタイで鉄棒に縛りつけた右手を伸ばし、体を牽引車の後方の壁に近づけて、そこに耳を当ててみた。微かに中から音が聞こえた。カラオケだ。運転手は自動走行中に車内で一人カラオケを楽しんでいた。よく有りがちな話だが、この状況では少しも笑えない。しかも、この低濃度の空気の中であるにもかかわらず、車内から外に微かに音が伝わってくる程の大音量で、このトラックの運転手はカラオケの音楽を運転席に流し、大熱唱していた。俺の意識は次第に遠のいてきた。喉の気管の奥が締め付けられ、胃袋が鳩尾の辺りまで上がっているのが分かった。足の力は抜け、腕は肘から先が勝手に痙攣し始めた。俺は牽引車の後部の壁にもたれ掛かると、頭を壁に付けて脱力した。白目をむいた俺の頭に、車内から微かに頭部の骨を伝ってくる運転手の下手な歌声が響いた。

「アイ、ニー、ドゥー! アイ、ウォンチュー!……」

 必要としているのは、こっちの方だ。懐メロなんか歌っている場合か。こっちは「激ヤバ」なんだ。いや、「鬼ヤバ」か。どっちでもいい。頼む。気付いてくれ。俺は苛つきと恐怖から、一度だけ思いっきり、運転席の後ろの壁を左手の手の甲で叩いた。そのまま、縛り付けた右手にぶら下がるように、牽引車とトレーラーの隙間に崩れ落ちた。すると、牽引車の運転席のリアスクリーンの色が消され、透明になった。中から頭に鉢巻を巻いて手に炭酸飲料とマイクを持ったままのオッチャンが、トレーラーとの連結部分の方を覗き込み、紅潮した顔でぐったりとしている俺に気付いた。オッチャンは、炭酸飲料とマイクを車内に投げ捨てると、慌てて運転席に座りなおし、何かを操作していた。たぶん、自動運転の非常解除ボタンを押していたんだろう。そして、ハンドルを左に切ると、大型トラックを流体ナノガラスで区切られた緊急避難帯へと入れてくれた。緊急避難帯の中は、気圧が通常通りの一気圧に保たれている。トラックを路肩に停めた後、慌てて運転席から出てきたオッチャンは、車内に携帯が義務付けられている小型の酸素ボンベを持ってきて、その先の吸入口を俺の口元に装着してくれた。それによって、俺はなんとか九死に一生を得ることが出来たのさ。本当に、このオッチャンには感謝だ。それにしても、今回は本当にヤバかった。三途の川を体験遊泳しちまったぜ。地下高速道路は二度と御免だ。

 その後、鉢巻のオッチャンは、親切にも俺を乗せたまま地下高速道路の出口まで送ってくれた。勿論、今度は牽引車の中の助手席に乗せてもらってだ。オッチャンは第一環状線から第二環状線を通って中央環状線に入り、時計回りに進んで、臨海物流発進地域まで無農薬の農作物を詰め込んだコンテナを届ける途中だったようだが、とんだ荷物も乗せちまったようだ。申し訳なかったぜ。申し訳ないといえば、さっきの四トントラックの運転手だ。彼を殺した刀傷野郎はきっと、遺体が見つからないように、あのトラックを何処かに隠すに違いない。まずは警察に届け出ないと。俺はそう思って、オッチャンに頼んで遠回りしてもらい、寺師町南部の地下高速道路出口付近で降ろしてもらった。そこから近くの交番まで歩いて行き、長友寛とかいう中年のお巡りさんに、事情を説明した。その後、その長友巡査長と一緒にパトカーに乗り、樹英田町のコンビニの近くの駐車場まで行った。そこには、俺のダットサンは停まっていたが、その隣に赤いAIアルファ・ロメロ4Cは停まっていなかった。そればかりか、散らばっているはずの黒いリアガラスの破片は綺麗に片付けられていて、代わりに強い匂いの酒と割れた酒瓶の破片が、そこには撒かれていた。おそらく、あの刀傷の男の仕業に違いない。俺の警察への届出の信憑性を失わせる為だ。奴の狙い通り、長友巡査長は、俺の供述を酔っぱらいが見た単なる幻覚だと決めつけた。俺はそのパトカーの中で散々アルコール検査をされた上に、薬物検査までされて、アルコールの即効分解薬でも飲んだのだろうと疑われた挙句、ちゃんと記録にはしておくから、分かった、分かったと宥められるような形で相手にされなかった。結局、その巡査長は何の捜査もしないで、帰ってしまった。俺は、実に腹立たしい気分で、少々荒い運転をして、旧市街素区の自分の事務所へとダットサンを飛ばした。途中、車を降りて、夕日に照らされた新首都総合空港の上を飛び交うスーパー・ジャンボ・ジェット機を眺めながら、久々に煙草を一本だけ吸ってみた。苦い煙が、随分と目に沁みたぜ。チクショウ。



                  七

 日も暮れた頃、少し体調も回復した俺は、事務所に戻ってから軽く晩飯を済ますと、格闘の末に痛んだスーツを脱いでシャワーを浴びた。地下高速道路で無理やり開かれた全身の皮膚の毛穴からシャワーのお湯が染み込んで激痛を走らせた。シャワーを浴びるのをやめ、俺はスウェットの上下を着ると、汚れたコートとスーツを持って、近所のクリーニングと衣類補正を生業としている店を訪ねた。この店は「九畳クリーニングくじょう」といって、その名のとおり九畳程の広さの店舗で、九十歳になるミチル婆さんが元気に店番をしている、中堂園町の商店街の中では有名な老舗だ。俺は随分と、このミチル婆さんには世話になっていて、服が汚れたり破れたりすると、いつもここに持ち込んでは元通りにしてもらっていた。この前も取れた釦を付けてもらった。この店のいいところは二十四時間ずっと営業していて、いつでも受け付けてくれるうえに、このミチル婆さんに一つも商売気が無いところなのだが、ひとつ気になるのは、俺がこの九畳クリーニング店を何時に訪れても、いつも、このミチル婆さんがカウンターの向こうに、ちょこんと座っている事だ。いったい、いつ寝て、どこで飯を食っているんだろう。俺にはその謎が解けなかった。その夜も、疑問に頭を悩ましながら、俺は九畳クリーニング店の重たいサッシを開けて、低い鴨居をくぐった。

「こんばんわ。ミチル婆さん。居るかい?」

 必ず居るのだが、一応、訊いてみた。ミチル婆さんの高く枯れた声が返ってきた。

「あいよ」

 ミチル婆さんは、その日もカウンターの向こうから、ひょいと小さな頭を出した。皺はあるが肉付きの良い下膨れの丸顔にボブカットの茶髪。九十度曲がった背中は御太鼓を背負ったようになっているが、ハイネックのTシャツの上から羽織ったグレーのパーカーのフードがそれを隠していた。いかにも太平洋戦争直後に生まれた第一次ベビーブーム世代のお婆ちゃんって感じだ。だが、格好は若くても、どう考えてもミチル婆さんの年齢は九十代だ。だから俺は、一応、確認した。

「元気かい?」

 ミチル婆さんは、ガッツポーズをしながら、目を細めて答えた。

「あいよ。元気だよ。この通りさ。お前さんは元気かい?」

「いや、少し疲れているぜ。さっき、ちょっとヤバかったからな」

 ミチル婆さんは、ぬるそうなお茶を啜りながら答えた。

「若いのに、そいつはいけないねえ。ところであんた、見かけない顔だねえ」

 先週もジャージの切れたゴム紐を直してもらったばかりなのだが、まあ、いいか。俺は笑顔で答えた。

「そうかい? そうでもないだろう」

「そうでもないかねえ……。ズズズ……」

 ミチル婆さんは、湯飲みを口に当てながら停止していた。「ズズズ」は、湯飲みの中のお茶を啜る音ではなく、いびきだ。年寄りの睡眠と豪雨はゲリラ的だ。気をつけねば。俺は、婆さんに優しく声を掛けた。

「婆さん。ミチル婆さん」

「あいよ。元気だよ。お前さんは元気かい?」

「ああ、元気だ」

「そいつは、うらやましいねえ。あたしゃ、この通りさ。まったく、生きるってのは、難儀なもんだ……。ズズズ……」

 今度の「ズズズ」は、お茶を啜る音だ。紛らわしいが、そのうち、あんたも慣れるはずだ。まあ、年寄りには優しくしよう。俺は本題に入った。

「ミチル婆さん、これの補正とクリーニングを頼みたいんだが……」

「あいよ。元気だよ。おや、探偵さん。元気そうじゃないかい」

 ようやく起きたか。ミチル婆さん覚醒。俺はこのチャンスを逃すまいと、直ぐに答えた。

「ああ、元気だ。難儀しているがな」

「そうかい。あんたも大変だねえ。それで、今日は何の用だい?」

「この破けた所の直しと、こっちのコートのクリーニングを頼みたい」

 ミチル婆さんは湯のみをカウンターの端に置き、俺が持ち込んだスーツの上着を手に取ると、カウンターの上で広げて、その表面を何度も撫でながら高い声で言った。

「おや、まあ。随分と痛めたねえ。肩のところ、これは酷いねえ。当て布をしないと駄目だね。直しだね。分かったよ。よっこらしょっと。メモを取っておかないと、近頃は物忘れが酷くてねえ。ええと、直し、直しと……。ズズズ……」

「寝るなよ」

 カウンターの上の台帳にボールペンで受注内容を書き込みながら停止したミチル婆さんは、俺の一言に反射的に答えた。

「失礼言うんじゃないよ。若造が! 仕事中に寝ちまう程、耄碌もうろくしちゃいないさ!」

 婆さんの主張に若干の反論はあったが、俺の発言が非礼であった事は確かだ。素直に謝ろう。

「悪かった。ミチル婆さん。それで、そっちのトレンチコートの方は、ちょっと急ぎたいんだが……」

「人生、そんなに急いだからって、得はしやしないよ。それで、何時までだい?」

「ああ、出来たら、明日の朝までに仕上げて欲しい。明日も仕事なんだ。やっぱり、探偵にトレンチコートは必須アイテムだからな。それに、この親父の形見のハットとコーディネートをして買ったものだから、それ無しで、ハットだけ被るってのも、ちょっと……おい、ミチル婆さん。聞いているのか?」

「あいよ。あたしゃ元気だよ。この通りさ。全部、直すのかい?」

 ミチル婆さんは、またガッツポーズして答え、続いて俺に質問してきた。よし、今日の会話は、先週来た時より噛み合っている。いける。俺は根気強く説明を続けた。

「いや、直すのは、こっちのスーツの上下の方だ。破れている所を頼む。こっちのトレンチコートはクリーニングだ。クリーニング。な」

 ミチル婆さんは、小さな鼻の上に乗せた丸い眼鏡と額の隙間から、俺の顔を暫くジッと見つめた後、膝の上でスーツの上着を畳みながら、独り言を発した。

「なんだい。それならそうと、早くいいなよ。あたしゃ、忙しいんだよ」

 俺は、カウンターの前に並べられた小さな丸椅子の一つを引くと、その上に腰を下ろしてから言った。

「どうだい? 明日の朝までに出来そうかい?」

「ズズズ……」

 俺の耳にはちゃんと聞こえた。湯飲みはカウンターの端に置いてある。これは、お茶を啜る音じゃない。

「婆さん?」

「あいよ。あたしゃ……」

「元気だな」

 俺の返しに、ミチル婆さんは少しムッとした顔をして俺を睨みながら言った。

「なに言ってんだい。この通りさ。どこもここもガタガタだよ。年寄りを若者扱いするんじゃないよ。それで、これ、急ぐのかい?」

「すごく急ぐ。明日の朝までに……」

 ミチル婆さんは、膝の上で畳んだスーツの上着をカウンターの上に置くと、俺に笑顔で言った。

「それなら、大林町のコインランドリーに行ってきな。あそこのプレミア・コースで洗えば、ソフト仕立てで、一時間くらいで綺麗さっぱりさ。ウチに出すより安くで済むじゃないか」

「そうかい。でも、いいのかよ。あれは商売敵だろ」

「そうなんだよ。近頃、肩が凝ってしかたないのさ。まったく、年は取りたくないものだねえ」

 そんな話はしていない。まあ、婆さんは年だ。仕方ない。確かに仕方ないが、それとは別に、俺は少し心配になったので、ミチル婆さんに言ってやった。

「大事にしてくれよ。婆さんが倒れたら、みんな悲しむからな」

「そいつあ、どうかねえ。ところで兄さん、こっちのスーツとズボンは直しとかなくて、いいのかい? 随分と、破れているようじゃが」

「ああ、そうかい。じゃあ、頼むよ。気付いてくれて助かった」

「こっちのコートは、なんだい。随分と汚れているねえ。草むらにでも飛び込んだのかい?」

「ああ、まあ、似たようなもんだ」

 ミチル婆さんは、俺のコートの襟の裏に付いていた植物の破片を手に取り、それを眼鏡のレンズに近づけて言った。

「こりゃあ、百日草じゃないかい。また青なんて珍しいねえ。人工品種かい?」

 それは、午前中に葉路原丘公園で中学生達に投げつけられた植物の短い茎と、その先の折れた茎の先に付いていた小さな蕾、そして、途中で切れた葉っぱだった。

「ヒャクニチソウ? 何だい、それ」

「知らないのかい。ジニアだよ」

「じにあ?」

 流石は年の功だぜ。年寄りは何でも知っている。ミチル婆さんは豊富な知識の一片を俺に伝授してくれた。

「ジ・ニ・ア。キク科の一年草さ。まったく、近頃の若造は、こんな事も知らないのかい。街でも地下を走っているじゃないかい。このアンポンタンが」

 それは、リニアだ。リニア・モーター・鉄道。だが、俺は余計な突っ込みはせずに、重要な論点に話の焦点を絞った。

「その花は、『ジニア』とか『百日草』って言うんだな。青は珍しいのかい?」

「そうさねえ。珍しいといえば、珍しいやねえ。だけど、近頃は真冬に赤いヒマワリが咲いたり、真夏に青いキンモクセイが香ったり、おかしな世の中だからねえ。あたしゃ、何とも言えないよ。だいたい、ありゃ、キンモクセイって言えるのかね。まったく……」

 ミチル婆さんは、カウンターの上を見つめたまま、何やら一人でブツブツと言っていた。 俺は、店の横の壁に貼られたカレンダーに目をやりながら、膝を叩いてから言った。

「そうか……品種改良された人工品種って可能性もあるのか。ってことは、数はそう多くは出回ってないかもしれないな。なあ、ミチル婆……」

 俺がカウンターに視線を戻すと、ミチル婆さんは、元々折れ曲がった腰をそのままに、カウンターの上に額を乗せたまま、動いていなかった。俺は焦った。

「おい、婆さん! ミチル婆さん! 大丈夫か! おい!」

 ひょいと顔を上げたミチル婆さんは、何事も無かったように答えた。

「あいよ。あたしゃ、元気だよ。何だい、あんた見ない顔だねえ。何か用かい?」

 俺は胸を撫で、息を吐いた。そして、額の汗を拭きながら言った。

「なあ、ミチル婆さん。ちゃんと休みは取っているのかよ。いつ来ても、そこに座って働いているじゃないか。無理しちゃいけないぜ」

 ミチル婆さんは、カウンターの上で俺の汚れたトレンチコートを畳みながら、言った。

「なに言ってんだい。休んでなんかいられないよ。忙しいったらありゃしない」

「そうかい。でも、体調だけは注意しなよ。婆さんも、もう、年なんだからな」

 ミチル婆さんは俺を睨みつけて、高い声で言い返した。

「人を年寄り扱いするんじゃないよ。この青二才が! おや、青のリニアだね。珍しい」

 ミチル婆さんは、手に持っていた植物の断片を再び見つめた。

「ジニアだろ」

「さっきから、そう言っているじゃないか。いちいち煩い探偵だねえ。まったく」

「それ『百日草』って言うんだろ?」

「そうだよ。随分と物知りじゃないか。若いのに偉いねえ」

 ミチル婆さんに褒められた。なんか嬉しい。

「ミチル婆さんが教えてくれたんだよ」

「そうだったかね。近頃、物忘れが酷くてねえ。ちょっと前の事も忘れちまうよ。注意せにゃいかんねえ。ご忠告に感謝、感謝と」

 ミチル婆さんは、カウンターの上に綺麗に畳まれている俺のコートに手を合わせた。俺は生きているぞ。縁起でもない。そう俺は思ったが、手を合わすミチル婆さんの姿を見て、つい何となく、また優しい言葉を掛けてしまった。

「そう忙しけりゃ、忘れちまう事だって誰にでもあるさ。気にする事はないよ」

「なに言ってんだい。この花の花言葉だよ」

「花言葉?」

「そうさよ。ジニアは、『遠くの友を心配する』とか、『不在の友人を思う』とか、『別れた友への想い』とかが花言葉なんよ。長く咲く花だからねえ、昔の人は、鉢植えにして遠方の友人に送ったんじゃろ。暗号みたいなものじゃよ。貰った方は、咲き始めた花を見て、そのメッセージを読み取った訳さ」

 俺は、初めは意味が分からなかったが、ミチル婆さんが言っている『昔』が、えらい昔のことだと分かると、ようやく合点がいったので、一拍だけ手を打った後、腕組みをして言った。

「なるほど。そうやって、遠方の友人に注意を促したってわけか。つまり、『注意を怠るなよ』って事だな。中世以前の騎士たちの話かあ」

「そうやって、仲間と連絡を取ったのかもしれないねえ。だからかは知らんがね、この花には他にも花言葉があってね、『高貴な心』と、もう一つは、ええと、ええと……」

 必死で記憶を辿るミチル婆さんを余所に、俺は、あの刀傷の男のことを考えていた。奴は、侵入した場所や暗殺した人間の遺体の傍に、必ず何がしかの花を置いていく。それは、自分の仕事が成功した事の証であり、自らの実力の顕示でもある。今回奴は、俺の親父を襲ったときと同じように、青いジニアの花を置いていった。「高貴な心」だって? ふざけるな。身形は立派だが、奴は外道の中の外道だ。「不在の友を思う」だと? そうやって、侵入先に皮肉を込めてメッセージを伝えているつもりなんだろう。俺が来たぞ、注意しろよってな。どこまでも、腹立たしい奴だ。だが、この場でミチル婆さんに八つ当たりしても仕方ない。それに、これで何故、奴が切花を置いていくのかも分かった。まあ、よしとするか。探偵に冷静沈着さは必需品だぜ。俺は少し息を吐いてから、カウンターの向こうに座って下を向いて必死に記憶を辿っているミチル婆さんに言った。

「いやあ、流石はミチル婆さんだな。何でも知ってるな。勉強になったよ。お蔭で、以前から疑問だったことが少しだけ……婆さん、ミチル婆さん」

「……」

 返事は無かった。さては、また寝ているな。俺はそう思った。

「まったく、頭をフル回転させ過ぎたんじゃないのか。注意しないといけないぜ。今度は俺が、『布団で寝ろ』って意味の花言葉の花を……ミチル婆さん?」

 下を向いてちょこんと座ったまま動かないミチル婆さんの生死が不安になり、俺は尋ねてみた。

「おい、ミチル婆さん、大丈夫か? そう、必死になるなよ。思い出さないなら、いいよ。また、今度教えてくれ」

「……」

 何の返事も無かった。鼾も聞こえこない。俺は丸椅子から腰を上げ、カウンター越しに手を伸ばすと、ミチル婆さんの肩をゆすった。

「おい、婆さん。大丈夫か、ミチル婆さん! しっかりしろ! ミチル婆さん!」

「あいよ。思い出したよ。『幸福』じゃ。『幸福』。ああ、すっきりしたわい」

 あの野郎、何が幸福だ。今度会ったら、絶対にぶっ飛ばす。俺の感情は、ミチル婆さんの発言に、単純にそう反応した。すると、ミチル婆さんが、さらに言った。

「おや、このコートは汚れているねえ。クリーニングでいいのかい?」

 俺は丸椅子に腰を戻しながら答えた。

「ああ。でも、大林町のコインランドリーでもいいんだろ?」

「なに言ってんだい。あそこはウチの商売敵じゃないか。どうしちまったんだろうね、この子は。まったく」

「でも、さっき婆さんは、あそこのプレミア・コースなら、一時間くらいで綺麗さっぱりだって……」

 ミチル婆さんは、顔を梅干のように紅潮させて言った。

「どこの婆さんだい、そんないい加減な事を言うのは。ここいらのコインランドリーなら、どこでやっても同じだよ。水がいいから綺麗になるのさ」

「そうかい。その話、よく聞くよな。旧市街は水がいいって。あれ、本当に水が綺麗だってことなのか?」

「そうさよ。いいかい、ここいら素区一帯から御隣の水無区にかけては、土が固くて家を建てるにはいいが、水が出ないんだよ。だけど、向こうの高いビルが集まってる新しい町の方は土が軟らかい。だから、下寿達山からの水が地下を通って昭憲田池に湧き出ているんだよ。それを地下の給水管で、こっちの旧市街地まで引いているのさ。向こうに新しい町ができる、ずっと前からだよ。あたしらが生まれたちょっと後だから、探偵さんみたいな移住民には分からないだろうがね。あたしらは、ずっと昔から昭憲田池の水で暮らしているのさ。あそこの水は綺麗な軟水だからね。洗濯するには持ってこいなんだよ。昔はよく、洗濯板でガジガジやったもんさ。手が赤切れだらけになってねえ。今は楽なもんだよ。スイッチ一つでポンだからね。最新式の機械が昭憲田池の湧き水で綺麗に洗ってくれる。だから、何処で洗っても同じなのさ。でもね、ウチは違うよ。アイロン仕立ても完璧さ。ワイシャツなんてシャキーっとね。新品同様になるよ。そのオンボロコートも、ウチでやったげるよ。任しんさい。いつまでの仕上がりが御希望なんだい?」

「明日の朝までに頼む」

「――ズズズ……」

 寝るな。仕方なく、俺は譲歩した。

「明日の夕方まででも、良いけどなあ」

「あいよ。引き受けた。アイロン掛けて、イオン皮膜の撥水仕立てにしといてあげるよ。ついでに、防汚ワックスも掛けといてあげようかね。探偵さんは、お得意様だからね。これさ。さっきスーパーで買ってきたんだよ。どうだい?」

 ミチル婆さんは、カウンターの下から、何やら大きめの缶を取り出し、俺に手渡した。俺は、それに書いてあることを読んで、言った。

「こりゃ、自動車用の液状ワックスじゃないか。また、高い物を……なになに……強化皮膜が事故の時の衝撃を跳ね返し、車体を傷から守りますだって? ワックスくらいで、どうにかなるか? ていうか、事故ることが前提じゃねえか。縁起でもねえ。いったい、どこの店員に売り付けられたんだよ。こんないい加減な物。俺が返してきてやるよ。レシート持っているかい?」

 ミチル婆さんは頭を何度も傾けて言った。

「そうなのかい? おかしいねえ。カーボン・ポリマー・皮膜でいつまでもピカピカって書いてあったはずだけどね。あたしも、とうとう耄碌してきたかねえ」

「ミチル婆さんが仕事熱心なのは、よく分かったよ。俺も見習わないとな。でも、これ自動車の写真が載ってるぜ」

「なんだい、自動車用なのかい。じゃあ、自動車に使ってみるかね」

「なんだ、婆さん、運転するのか?」

「何をだい?」

「自動車だよ」

「車なんて、持ってやしないよ。こんな年で運転すりゃ、大変な事になるじゃないか。まったく」

「でも今、自動車に使うって……」

「自動車のクリーニングが来たら、それに使うんだよ。ウチはクリーニング屋だよ。分かってんのかい?」

「いや、分かっているけど。自動車もクリーニングするのか、ここ」

「おうよ。アイロン掛けて、ピッカピカのパリッパリだよ。お兄さんも一度どうだい?」

 いや、それは不味い。それに、その質問は、俺の車にアイロンを掛けるって趣旨なのか、俺にアイロンを掛けるって趣旨なのか、どっちなんだ。いや、どっちも不味い。とりあえず断ろう。

「いや、遠慮しとくよ。時間も無いしな」

 すると、ミチル婆さんは眼鏡を下にずらして、俺の後ろの大きな文字盤の時計を見ると、慌てて椅子からノロノロと立ち上がりながら、俺に言った。

「おや、まあ。こんな時間だ。『しょうてん』が始まっちまうじゃないか。今日はゴロウちゃんが出るんだよ。早く見なきゃ。さ、さ、帰った、帰った」

「なんだよ、その『しょうてん』って。まさか、落語のあれか? まだ、やってるのかよ」

 まさか、こんなゴールデンタイム枠で放送しているのか。そんなに人気なのか。知らなかった。

 すると、ミチル婆さんが答えた。

「なに言ってんだい。違うよ。歌番組だよ。『昭和歌謡天国』。略して『しょうてん』だよ。早くしないと、始まっちまうじゃないか。さ、帰っておくれ」

 俺はミチル婆さんに急きたてられ、丸椅子から腰をあげた。

「ああ、じゃあ、諸々、頼んだぜ」

「あいよ。任せときな」

 俺は、九畳クリーニング店を後にした。半月に成りかけた月が中堂園町の古びた商店街を薄っすらと照らしていた。俺は、その弱い月明かりを頼りに、薄暗い裏路地へと入って行った。



                  八

 中堂園町の路地裏に、灯るネオンが夜道を照らす。心に沁みる秋風は、馴染みの店に男を運び、今夜も朝まで一人酒。――アル中か! 俺は酒は飲まん。読書だ、読書。俺は調べ物をしに行ったんだ。仕事だ。

 どうも。浜田圭二です。裏の世界では、他人は俺をダーティー・ハマーと呼んでいるが、そんなことはどうでもいい。俺は九畳クリーニング店を出た後も、仕事を続けた。探偵に休息は無い。中堂園町の裏路地には、小さなスナックや居酒屋が軒を連ねている。その裏の裏の通りに小さな横道があり、その横道に入ってすぐの所に、その店の看板は立っていた。「ToDoトゥードゥー書店」。電子書籍が主流となっている今では珍しい、紙媒体の書籍を売っている店だ。つまり、本物の「本屋」だ。消費資源管理条例で一店舗あたりの資源利用量が制限されている世の中だ。紙の印刷物はお役所や大企業が無駄に使用する以外は、けっこう珍しい。紙の書籍を販売するにも、行政の許可が必要だ。紙は貴重だから、お上としては、なるべく流通させたくないのだろう。当然、古本、古雑誌の類も随分な高値で回収されて再利用されているようだが、一部はこうしたモグリの書店に集まってくる。俺は、ここに集まる様々な情報から、必要な情報を探すため、いつもここを利用している。今夜は、これで最後の仕事だ。そう自分に言い聞かせて、俺は看板の横の狭い階段を下りていった。

 木製の年季の入った扉をあけると、いかにも廃業したスナックの後の空き店舗をそのまま利用したという感じの光景が目に入る。高い位置のカウンターテーブルに座り心地の悪そうな回転椅子。埃の被ったシェードの暗いランプが手の届く高さまで何本も吊り下げられていて、その光を、逆さにJの字を描いた水道の蛇口が少しだけ反射していた。その細長いカウンターの向こうには、グラスや酒瓶ではなく、厚薄様々な書籍の背表紙が棚一杯に並べられていて、カウンター席の後ろにも、ボックス席があったであろう位置に背中合わせに何個もの本棚が立てられている。その棚の中は勿論、棚の上と天井の間にも、そこを埋めるように無数の書籍が積み重ねられていた。俺はカウンターの中ほどの椅子に腰掛けると、その向こうに座っているアフロヘアーにスカジャン姿の若者に声を掛けた。

「おう。バット、元気か。客だぜ」

「やあ、旦那。珍しいっすね、こんなに早くから。いつもは、もっと遅い時間に来るのに。今日はスウェット姿ですか。こいつも珍しいや」

 この若者は小森こもり亜富朗あふろうという。この店のアルバイト店員だ。夜中はここで店番をしている。だが、あのミチル婆さんとは違う。婆さんは二十四時間勤務だが、コイツはただの夜勤だ。ミチル婆さんは知識が豊富だが、コイツの頭の中は空っぽだ。これだけの書籍に囲まれながら、いつもゲームばかりしている。本を読んでいる形跡は全く無い。で、俺は、コイツのことを「バット」と呼んでいる。夜勤をしているコイツと、コイツの苗字を掛けて「バット」、つまり、蝙蝠こうもりの意味で呼んでいるという理由もあるが、もう一つの理由は、毎月と言っていいほど上のネオン街で飲み騒ぎ、挙句にトラブルを起こすコイツの素行の悪さも現している。ま、もっと知りたけりゃ、英和辞典かスラング辞典でも引いてくれ。

 とにかく俺は、知る人ぞ知るこの書店に、ある情報を探しにやってきた。それは、今回の俺のもう一つのミッションであり、この事件の最大の謎だ。ん? どうして、インターネットを利用しないのかって? ああ、言い忘れたな。今の時代、インターネットは幾つかの世界に分かれている。通信方式が違うのさ。従来どおりの電気通信方式を利用しているハイパーインターネット。情報ヒッグス粒子を利用した多次元衛星ネット、宇宙線を応用した高次元ネットワーク。まあ、いろいろさ。だが、俺はそのどれも信用しちゃいねえ。特に今回はな。ネット通信で得た情報は、どうも信用できねえ。いや、信用できない可能性がある。一方で危険の確率がゼロである安全な道があり、他方で危険の可能性が少しでもある道があれば、俺は後者を選択する事はしない。ただ、それだけだ。紙の本は安全だ。それに、ネット情報には無いものがある。匂いだ。紙に染み込んだインクの匂い。俺はそこから野生の嗅覚で事件の臭いを嗅ぎ取るんだ。それが俺のやり方さ。俺は、その夜も、研ぎ澄まされた嗅覚で、事件の臭いを追った。

 奴が酒臭い息で話しかけてきた。

「旦那。今夜は何をお探しで? 哲学書ですか、文芸書ですか。あ、ウチはポルノ関係は置いてませんよ。そういう店じゃないんで」

「知ってるぜ。それに、俺がそんな下品な本を買いに来た事があるか。これについて記載のある書籍を買いたい」

 俺はメモ用紙をバットに渡した。バットは、手に取ったメモ用紙をパソコンのホログラフィー・モニターの灯にかざして読みながら、言った。

「真明教南正覚……」

「そっちはいいぜ。だいたい調べた」

「じゃあ、こっちですかい? ええと、『パンドライー』……。乾パンですか? 旦那、パン屋でも始めるんですかい?」

「違うぜ。パンドラ、イーだ。たぶんな」

 俺は依頼人から確かな情報を得ていなかった。ただ、その依頼人も確かな情報が欲しくて、俺に調査を依頼した訳だが。

 今回の任務は危険な任務だ。依頼人は、そこそこの大物で、俺の古くからの馴染みだ。おっと、ここまでしか言えないぜ。ま、内容も簡単なものだから、引き受けた。つまり、それは南正覚の素行調査みたいなものだ。だが、事件とは不思議なものだ。いつどこで何が繋がってくるか分からねえ。そして、今回の俺は、おそらく俺の探偵人生で一番の難事件の解決の鍵となる「繋がり」に、随分と驚かされることになる。

「ふーん。『イー』はアルファベットの『E』ですかい?」

 バットは顎の髭をいじりながら、俺に尋ねた。

「たぶんな。何か知っているか」

「いやあ、聞いたこと無いですねえ。『パンドラE』かあ……」

 お前の場合、大抵の事が「聞いたこと無い」だろう。まあ、いい。俺がそう溜め息混じりに心の中で呟いていると、バットはカウンターの向こうのキッチン台の上に置かれたパソコンに手を伸ばした。俺は咄嗟に言った。 

「ああ、待て。ネットで検索するのは無しだ。探知されるとマズイ。だから、ここに来たんだ」

「なんですかい、何か、ヤバそうな感じですねえ。いいですねえ」

 バットはヘラヘラと笑いながら、今度は引き出しの中から図書目録の様な分厚い冊子を取り出して、その頁を捲り始めた。

「ええと、パンドラ、パンドラ、パピプペ……パ……パンドラ、パンドラ……」

 俺はカウンター越しに言った。

「ギリシャ神話とかの本も探してくれ。それから……」

「ああ、有りました。パンドラ。ちょっと待ってて下さいね」

 バットは何かを見つけたようだった。そして、その図書目録のような冊子を持って立ち上がると、カウンターの端に移動し、テーブル板を持ち上げてカウンターの内側の領域から外に出てきた。それから、俺の後ろの本棚に向かい、そこから何冊かの本を探し出してきた。奴は、俺の前に三冊の書籍を放り投げた。

「はい。これと、これと……これです」

 世界神話全集第二巻、古代ギリシャ神話集、ギリシャ神話概説。どれもギリシャ神話に関する書籍だった。俺は、その中の一冊を手に取ると、その目次を開いて、パンドラの文字を探した。

「旦那、今回は一体何を探ってるんです? たまには俺も混ぜて下さいよ」

「ああ、また、そのうちな」

 俺は題名と異なり一番分厚い「ギリシャ神話概説」という本の頁を捲りながら、適当にそう答えた。バットはしつこく訊いてきた。

「ネット検索が駄目って事は、スーパー・エシュロンとかの探索に引っ掛かるって事ですよね。ってことは、何か軍事情報絡みですか? ウハッ、かっこいい!」

「違うよ。じゃあ、特別に教えてやるぜ」

 関係の無い人間を事件に巻き込む訳にはいかない。俺は、奴に適当な嘘を伝える事にした。

「何ですか。はいはい」

「今度、新しく発売される洗剤の商品名だ。ストンスロプ社からな。だから、絶対にネット検索に掛けるな。ストンスロプ社かライバル会社から口封じで殺されてしまうぞ。いいな」

「分かりやした。洗剤ですね。綺麗にするヤツですね」

 それ以外に、どんな「洗剤」があるんだ。そう思ったが、気にせずに次の注文をした。

「そうだ。気をつけろ。ついでに、ストンスロプ社の歴史が分かる資料と、植物図鑑を探してくれ」

「植物図鑑?」

「いいから、探してくれ。花言葉が載っているやつがいいぜ」

「プッ。花言葉? 旦那、どうしちまったんですか。いつもは、こう、もっとハードボイルドな感じじゃないですか。スーツにハットにトレンチコートで、『危険が俺を呼んでるぜ』って。それが今日は、雪駄にスウェット姿だし、花言葉って。オイラはね、旦那に憧れてるんですよ。いつか旦那の弟子にしてもらおうと思って。そんな事じゃ、困りますよ」

 俺はバットの事を相手にしないで、下を向いて書籍を読みながら、また適当に答えた。

「どうして、お前が困るんだよ。それにな、今日は『危険』に呼ばれたどころか、閻魔大王とハイタッチして帰ってきたんだ。俺の仕事は遊びじゃないぜ」

 バットは額に手を当てて、体を仰け反らせながら、興奮した声で俺に言った。

「かあー。そういうところが、カッコいいんですよね。『閻魔大王とハイタッチ』、くー。しびれる」

「悪いもんでも食ったのかよ。早く注文品を探してくれ」

「へえ。へえ」

 バットは再び、後ろの本棚に歩いていった。俺は、「ギリシャ神話概説」の中で見つけたパンドラに関する説明文を読んだ。

「パンドラ……ギリシャ神話の登場人物。ヘパイストスが土から形作り……ヘパイストスって誰だ?」

 俺は、その「ギリシャ神話概説」の別の頁を開いて、その聞き慣れない神話の人物について調べてみた。ヘパイストスは、炎と鍛冶と工芸の神のようだ。ゼウスの奥さんのヘラの子だが、身体障害を理由に捨てられちまった不遇の子で、助けてくれたテティスとエウリュノメって奴らに水中の洞窟で育てられたらしい。そこで鍛冶技術を修得して、金縛り椅子みたいなものを作り、ヘラにリベンジ。その後オリュンポスに招聘され、チャリオット(二輪戦車)や真珠の神殿、無敵の武器「雷電」とか言う物を作ったそうだ。器用な奴だぜ。俺は再びパンドラの頁に戻り、その逸話を読んだ。その解説によると、ゼウスがヘパイストスに作らせたのが、パンドラ。ゼウスが生命を吹き込んで、人類最初の女性として生を得たようだ。このパンドラちゃん、結構に美人だったようで、神々から様々なプレゼントを貰った。肉体美だの、若さだの、技術だの。変身する技まで授けてもらったそうな。羨ましい。俺にもくれ。そんで、ゼウスの使者ヘルメスから貰ったのが、有名なアレ、いわゆる「パンドラの箱」だ。ま、正確に言うと、パンドラの亭主のエピメテウスが貰ったんだけどな。ああ、このエピメテウスってのは、あの有名な神様プロメテウスの双子の兄弟だそうだ。でも、プロメテウスが賢かったのに比べ、エピメテウスはちょっとばかり頭が悪かった。パンドラちゃんは見栄えはよかったが、かなり性根の曲がった子だったそうで、それはゼウスがそういうふうな性格になるようヘルメスに命じて仕込ませたようなのだが、それを見抜いていたプロメテウスはエピメテウスにパンドラちゃんを嫁に貰うなと忠告していた。なのに、馬鹿なエピメテウスは見栄えに惹かれて、パンドラちゃんと結婚。よく在る話だ。そんで、案の定、このパンドラちゃんは、やらかした。例の「パンドラの箱」さ。この金ピカの箱は、絶対に開けてはいけないとゼウスから言われていた。ていうか、そんな物を他人に送るな、ゼウス。ともかく、パンドラは、ゼウスの言に反して、その箱を開けてしまった。すると大変、中から病気だの貧困だの犯罪だの、その他いろいろ、「あらゆる災い」が飛び出してきたそうだ。まあ、豪華な箱を開けて、中からろくな物が出てきたためしが無い。慌てたパンドラはすぐに蓋を閉めたので、中には一つの物だけが残った。「希望」が……。という事だそうだ。つまり、現時点で「希望」は「パンドラの箱」の中に閉じ込められているので、人間世界に希望は無い。辛いねえ。泣けてくるぜ。

 でも、待てよ。箱の中には「あらゆる災い」が入っていたんだろ。それなら、中に残ったものが、本当に「希望」と言えるものか分からないじゃねえか。うーん。

 ま、俺が思うに、「災い」が今で言うところの病原菌みたいなものだとしたら、「希望」は、その病原菌から作る予防ワクチンみたいなものだろうな。だとすると、要は……やっぱり元々、病原菌じゃねえか。ていうかこれ、まるで、生ゴミの詰まった純金製のゴミ容器を他人に贈ったようなもんだろ。「絶対に開けるな」って、さも「開けてみたら」と言わんばかりのメッセージ付で。で、僕は開けるなと言ったんだからね、知らないよ、かよ。ゼウス、お前は今時の駄目公務員か知能派ヤクザか。何がしたかったんだ。ところで、この使者のヘルメスって奴がまた、怪しい奴だ。コイツ、ゼウスの息子で、パンドラを作ったヘパイストスの育ての親のテティスとは異母兄弟らしいが、商業をはじめ、角力すもうと力業の支配を司っていたようで、しかも、コイツは更になんと、盗賊の守護神だったそうだ。要は、ワルの親分じゃねえか。しかもボンボン。そんな奴が、黒塗りの高級車でイカツイ子分を引き連れて、残飯が詰まった金の箱を置いてったという訳だろ。そりゃ、パンドラちゃんも断れねえよな。それまで、エステの無料券やら職業訓練校の受講券やら美容整形の回数券か化粧品の無料引換券なんかを貰いまくってたお姉ちゃんの前に、突然、ワルの親分がやってきて、金ピカの箱を差し出して、「絶対に開けないで下さいね」だと。その状況で「開けないで」は「開けろ」の意味じゃねえかよ。ワルの連中が一般人に金品を要求する時と同じ手法だな。最初に甘い汁を吸わせて恩義を着せといて、その後で法外な額の金を要求する。でも、絶対に「金を出せ」とは言わねえもんな。「誠意を見せろ」とか「道理を尽くせ」とかいろいろ言って、遠まわしに威嚇して金を要求する。そんで、必ず言うのが「金は要りませんよ」だ。そう言って、後々、恐喝で逮捕されるのを免れようとする。この場合も同じだぜ。それまで散々いろいろ貰っていたパンドラちゃんは、開けない訳にはいかないじゃないか。彼女の性格の問題じゃないぜ。ゼウスはそのつもりで、わざわざヘルメスなんて言うワルの親分みたいな奴をパシリに使って、「パンドラの箱」を持って行かせたんだろ。しかも、「僕のせいじゃないですよ、開けるなと伝言しましたからね」と責任回避か。「今のこの世の災いは、あの時、パンドラちゃんが箱を開けちゃったからなんだよ。天の統治者の僕のせいでは無いですよ」ってか。なんだよ、この話。人間を馬鹿にしてるのかよ。責任転嫁するための、とんだ茶番劇じゃねえか。まるで、旧首都の永田町の話みたいだぜ。呆れるぜ、まったく。

 俺は、その本を閉じて、背表紙をもう一度確認した。何度読んでも、「ギリシャ神話概説」だった。

 すると、バットがカウンターの隅のテーブル板を持ち上げて内側の領域に戻ってきて、そのテーブル板を戻しながら言った。

「旦那、有りませんねえ。植物図鑑はあるんですけどね。花言葉は載っていませんでした。今時、花言葉はねえ……」

「そうか。ストンスロプ社は?」

「そっちも無いですね。あ、そうだ。ちょっと違うかもしれませんけど、『ストンスロプ社史』っていう本なら有りますけどね」

 それを「歴史が分かる資料」と言うんだ。ああ、疲れる。

 バットはカウンターの向こうの壁際の棚から、また分厚い本を取り出した。

「見せてくれ」

 俺はバットから受け取った本を、表紙、背表紙、裏表紙と順に見ていった。その本は、まだ真新しい感じの本だった。数頁捲り、前書き部分を読んでみると、どうもストンスロプ社創立百周年を記念して発行されたものらしい事が分かった。俺はその本を斜め読みしながら、バットに別の注文をした。

「あと、それから、ここは地図はあるか。この新首都圏全体のやつ」

「ああ、ええと、有りやすよ。こんなんで良ければ」

 バットは、薄い新首都圏観光マップという冊子を俺に手渡した。俺はその中の新市街の部分の地図を確認してから、バットに答えた。

「ああ、十分だぜ」

「今更、地図なんか見て、どうしたんです? 旦那も、この街は長いでしょうに」

「いや、ちょっとな。今日、南北幹線を走っていて、ちょっと気になった事があってな」

「何ですか? いい女のいる店でも見つけましたか?」

「塔だよ。幹線道路の右っ側に、五キロ置きくらいで並んでいる、三階建てくらいの塔があるだろ、ほら、この地図にも載っているぜ。これと、これと、これ。ああ、大交差点の傍にもあるな」

「ああ、何だ、旦那、知らないんですか。これ、地下整備用の総合入り口ですよ」

「総合入り口?」

「この新首都には、地下高速道路、地下リニア鉄道、あと、地下の水道管とか配水管とか、ガス管や送電管、ネットケーブル、それから神経ケーブルと、まあ、いろいろと埋まっているじゃないですか。その交差するポイントに大型のエレベーターが作ってあるんですよ。いちいち、別々に穴を掘らなくても、それぞれの地下道に重機を下ろせるように、縦に直結したエレベーターシャフトを通してるんです。いや、まあ、重機って言っても、小型のものですけどね」

「そうなのかよ。詳しいな、お前」

 バットはカウンターの向こうの自分の席に腰を下ろすと、自慢気に答えた。

「だって、よくそれで車ごと下に降りて遊んでますからね。ほら、俺のAI自動車、ルーフを外してオープン・カーにしたでしょ」

「知らねえよ」

「したんですよ。新車のAIビートルを惜しげも無くオープン・カーに。シートも替えたんですよ。こんなハイバックのやつに。もうこれで、ナンパに失敗する事は無いですよ」

 大体、話が読めたので、俺はバットに忠告した。

「そんなんで、地下高速道路になんか入るなよ。偉い目に遭うぞ」

「分かってますよ。だから、その地下整備用の入り口から入るんですよ。こっそりと。ケケケ」

 分かってないじゃねえか。俺は地図から顔を離して、奴の目を見て真剣に言った。

「死ぬぞ」

「ちゃんと、酸素マスクとゴーグルと耳栓して入るんですよ。走るのも低気圧の一区間だけです。ギリギリセーフの距離。でも、このスリルが、たまんねえですよ!」

 バットは声を裏返し、興奮して、そう答えた。俺は再度、真剣に忠告した。

「馬鹿か、お前。やめとけ」

「大丈夫ですよ。頭がクラクラしてハイになるだけですから」

 馬鹿は死ななきゃ直らんと言うが、若者を死なす訳にはいかん。俺は必死に忠告した。

「それは酸欠で死にかけてるんだよ。そのうち、廃人になるか、肉片になっちまうぞ。とにかく、やめろ。俺はさっきそれで、死にかけたんだぜ。本当だぜ」

「おえっ。マジですか。どうして教えてくれないんですか。見に行ったのに」

 俺はそれ以上、言葉が出なかった。コイツは何を見たがっているのか、俺には皆目見当がつかなかった。さっきの俺の窮状を教えてやるべきだが、今こうして普通にここに居る姿を見せていては、返って逆効果だ。実際には、横隔膜の辺りはズキズキと傷むし、目の奥も痛む。耳は片方が詰まったまま聞こえにくい。両手両足の爪の根元は内出血の跡で黒くなっているし、何より、前身の皮膚がヒリヒリと痛む。スーツに着替えなかったのは、その為だ。だが、こんな話をしても、この馬鹿は信じないだろう。爪が浮く程度で済むと考えてしまうに違いない。明日、病院に行って、その診断書を貰ってから、それをコイツに見せて説得するか。俺はそう結論を出して、バットに言った。

「じゃあ、この本全部と、この地図をくれ。それから、花言葉の本、手に入れといてくれ。なるべく詳しいのがいい」

「わっかりやした。手に入ったら、連絡すればいいですかい。あ、そうか、旦那は、携帯端末を持たない主義でしたね」

「別に持たない主義じゃないぜ」

 俺はポケットの中の四角い携帯端末、ウェアフォンを取り出して、バットに見せた。

「あれ、どうしたんですか、それ。フルメタルジャケット・シリーズじゃないですか。しかも、これ、最新式のやつ。テレビでCMやってますもんね。ピストルとかマシンガンでバンバン撃って、ダンプカーで踏んづけて、最後に綺麗なお姉ちゃんがヒールで踏んでいくヤツ。そんで、アクションスターのブロッコ・リーが拾ってから耳に当てて、『うん、使える』ってやってますからね。相当に壊れにくいんですよね。いいなあ、それ、ネットでもなかなか手に入らないって評判でしたよ」

 バットは俺の前で、そのテレビコマーシャルを一人で再現して見せた。このウェアラブル・フォンは、俺に惚れている女が、俺にプレゼントしてくれた物だ。俺は別に、携帯端末を持たない主義ではないが、どうも今回の事件は、何か臭う。通信端末は持たない方が良さそうだ。俺は、それまで使っていたウェアフォンもイヴフォンも解約して、端末自体も廃棄した。ところが、それによって俺と連絡が取れなくなったその女が、俺に強引に、このフルメタルジャケット・シリーズとか言う強化カーボンプラスチック製の超耐久型ウェアフォンをプレゼントしてきた。よほど俺と連絡が取りたいらしい。探偵はモテる。困ったもんだぜ。だが、俺はこのウェアフォンが、そんなに人気の最新機種だとは知らなかった。俺は手に持ったそれを、まじまじと観察しながら言った。

「そうなのか。結構な貴重品だな。知らなかったぜ」

「あれ? 電源は? それ、契約してないんですか?」

「ああ、まだ、してないぜ」

「ああ、さては、これに貰いましたね」

 バットはニヤつきながら、小指を立てて俺に言った。別に鼻をほじりたかった訳では無いようだ。バットは、さらにニヤニヤしながら、俺に言った。

「それで、もったいなくて使えないんだ。ケケケッ。旦那もやりますねえ」

「違うぜ。同級生に貰っただけだ。まあ、仕舞い込んでおくのも悪いんでな。一応、持ち歩いている」

「じゃあ、ちゃんとイミテーションパックも一緒に持ってなきゃ駄目っすよ」

「イミテーションパック?」

「ここの電池パックのイミテーションですよ。おしゃれな柄のが付いてたでしょ。それが超合金製で高価なんだし、人気なんですからね。それを持ってないと、せっかくプレゼントしてくれた彼女さんは、がっかりでしょうねえ」

 俺は、このウェアラブル・フォンが入っていた箱の事を思い出した。確かに、隅の方に丁寧にプチプチで包まれた銀色の綺麗な板状の物が入っていた。表面には、薄く唐草模様が刻まれていたような気がする。おしゃれな柄か? まあ、いい。あの女らしいチョイスだ。でも、そうなると、このウェアラブル・フォンの他にもう一つ、その板状の物を持ち歩かないといけないのか。でも、持っていないと、街でバッタリとその女に出くわした時に、なんて言われるか……いや、言われるだけならいいが、何をされるかが問題だ。俺は、つい、呟いた。

「そうなのか。面倒くさいな」

「なんで契約しないんです?」

「まあ、いろいろな」

 なんだか、もともと痛い胃がさらに痛くなってきた。そろそろ帰ろう。俺はそう思って、席を立った。そして、四冊の本と地図をバットから貰ったビニール袋に入れると金を払って店を出ようとした。バットは俺に言った。

「旦那、また現金ですかい? 頼みますよ。今どき現金払いって。申告の時、どれだけ面倒か知ってるんスか。こっちの身にもなって下さいよ。いい加減、電子決済にしてもえませんかね。カードで、ピャッじゃないですか」

 俺がネット関係の電子モノを使わないのには、それなりの目算があっての事だが、コイツに言っても分かるまい。そもそも売上の申告なんて、やってないだろう。ここは闇本屋じゃねえか。俺は適当に答えを出した。

「マネーカードなんて洒落たモノは、俺には似合わないぜ」

「俺には似合わないぜ、じゃなくて、足りないっスよ。全然。半分の額しかないじゃないですか」

「残りは、次の本が届いてからにしてくれ。今は金欠なんだ。ミチル婆さんの所でクリーニングと補修を頼んだし、明日は病院にも行かにゃならん。それに、愛車にご馳走も、しなくちゃならないからな」

「かああ。また、アレですか。ええと、何でしたっけ。ガソリン?……でしたっけ。アレ入れなきゃなんないんですか。車に、わざわざ」

「そうだ。お前は電気自動車世代だから、バッテリーパックをガコンって入れ替える車しか知らんだろうがな。ガソリン・カーってのはな、危険なんだよ」

「マジっスか。電気自動車しか乗ったことないんで、知らないっスけど、そんなにヤバイんスか?」

「ああ、やばい。ガソリンが切れるとな……」

 バットは俺の顔を覗きこんだ。面白そうなので、少しからかってやった。

「ドカン! だ」

 俺は右手を顔の前で広げて見せた。バットは少し興奮した様子で言った。

「マジっスか。ハードっスねえ」

「んん。その日本語の使い方は、よく分からんが、とにかく、そういう訳だ。頼むぜ」

「そうっスかあ……そりゃ、ヤバイっスねえ。――分かりやした。じゃあ、次の本が届いたら、その時に一緒にという事で」

「ああ、よろしく頼むぜ」

 無知とは悲しいものだ。

 俺は出口に向かい、ドアの取っ手を握ったまま振り向いて、バットに言った。

「バット、本が手に入ったら、俺の事務所に連絡をくれ。それから、俺の弟子になりたければ、今の車で絶対に地下高速道路には入るなよ。分かったな。絶対に入るなよ」

「へーい。分かりやした」

 俺は痛む腹の辺りを押さえながら、ToDo書店を後にした。

 その日、事務所に戻ってからは、特に何もしなかった。洗面所でツバを吐くと、少し血が混じっていた。疲労感も相当なものだった。前身の皮膚も痛んだ。今日はもう、寝るとしよう。俺はそう決心した。机の上に買った本を放り投げ、愛用の熊さん柄のアイ・マスクをしてから、ソファーの上で横になった。

 こうして、俺の長い一日は、ようやく終わった訳だ。とりあえずは、ここまでが、昨日の話しだぜ。お疲れさん。おやすみ。



                  九

 どうだ、休憩は済んだか? 複雑な話を回りくどく丁寧にしているから、根を詰めると疲れるぞ。適当に間を空けて、休みながらにしてくれ。まだまだ、話はこれからだ。

 じゃあ、そろそろ今朝の話をしよう。おっと、忘れた奴もいるかもしれないから、もう一度言っておく。俺の名前は浜田圭二。探偵だ。裏の世界では、人は俺のことを「ダーティー・ハマー」と呼ぶが、そんなことはどうでもいい。俺は、死と隣り合わせの世界で生きる危険な男。それが俺の宿命だ。そして今日も、俺は深い闇の世界へと踏み出す事になっちまったのさ。まったく、探偵とは、因果な商売だぜ。

「痛い。顎と向こう脛を……くくっ」

 俺は、熊さん柄のアイ・マスクをしたままソファーから起き上がろうとしたので、前のテーブルに全力で躓いて、転倒した。まあ、探偵に危険は付き物だ。これくらいは何でも無い。しかし、痛い。

「何だよ。アザになってるじゃねえか。たしか、打ち身と捻挫用のスプレーが……」

 俺はアイ・マスクを頭の上にずらしたまま、冷却スプレーを探した。それをソファーの下から見つけた俺は、何回か振ってから、自分の脛と膝に吹きかけた。

「ノーおおおお! いてえええ」

 俺はその激痛で、昨日、自分が古いバケツにその足を貫通させた事を思い出した。脛には無数の切り傷があったぜ。そこに吹きかけた冷却スプレーの強烈な刺激に、俺の痛覚は最高レベルの刺激信号を俺の脳に送った。俺は思わず大声を上げたのだが、それがまたミスだった。昨日の地下高速道路の真空に近い気圧のために引っ張り上げられていた俺の横隔膜が、急激に発せられた大声に呼応して、激しく運動し始めた。

「お、おえええ」

 俺は、突如として訪れた嘔吐の欲求に耐え切れず、トイレへと直行した。便器に向かって何度か吐逆を繰り返した後、俺はフラフラになりながらシャワー室に入り、熱いお湯を浴びた。

「ぎゃあああ、いてえええ」

 忘れていた。皮膚に熱いお湯が沁みるのだった。シャワーを止めて、洗面所で歯を磨くことにした。

「むもごっ! ぶはっ。いてええ!」

 忘れていた。昨日、刀傷の男に何度か殴られたり蹴られたりしたんだった。口の中を切りまくっていて、歯磨き粉がマックスで沁みたぜ。俺は、ヨタヨタと歩きながら、シャワー室を出て、とりあえず着替える事にした。途中、朝のオナラをしたくなった。一回だけだ。健康の印だ。いくぞ。プッ。

「ふぎゃあああ! いてえええ!」

 忘れていた。朝美スペシャル。あの中学生め。今度見かけたら、ただじゃおかん。俺は心にそう誓った。

 いつもどおりスーツに着替えた俺は、最新式のコーヒーメーカーでコーヒーを入れた。

 さて、仕切り直しだ。

 プラズマ焙煎コーヒーの香りが今朝も冴えてるぜ。ろうも……イカン、あくびが……ふああ。――よし。

 どうも。違いの判る男、浜田圭二です。コーヒーに砂糖だのミルクだの蜂蜜だのを入れるイカレた連中は、俺のことをダーティー・ハマーなどと呼んでいるようだが、そんなことはどうでもいい。俺は単なる探偵さ。ただ、このブラックコーヒーのように、シンプルだが奥深く、少しの苦味と、カップの底の美しい模様を隠す仄暗さを持っているだけだ。コーヒー豆の香りだけが、緊張の中で一日を送る俺の荒んだ心を癒してくれる。

 うーん。いまいちだが、まあいいか。

「プラズマ」の真意がよく分からないまま、その「プラズマ焙煎コーヒー」を飲みながら、俺は落ち着きを取り戻した。俺は、湯気を立たせたコーヒーカップを握ったまま、ブラインドの隙間から外の景色を眺めてみた。中華饅頭屋の裏口しか見えなかった。忘れていた。俺の事務所は一階だった。しかもビルの一番奥の角。今朝はどうも調子が悪い。やはり、お気に入りのトレンチコートが無いせいか。仕方ない、ミチル婆さんに期待しよう。

 それにしても、昨日は結局、あまり眠れなかった。夜中に眼を覚ましては、買ってきた本を読み漁った。そして考えた。いったい『パンドラE』って何なんだ? 俺は一晩中、考えていた。たぶん、キーワードはGIESCOだ。コーヒーの会社じゃないぜ。ストンスロプ社の研究機関だ。依頼人も、『パンドラE』は南正覚が探しているものだと言っていた。そう言えば、今日は南が総本山に行く日だな。さすがに今日は行くだろう。特別な日だからな。だが、どうするかな……俺は昨日の潜入の失敗で、真明教の連中に面が割れちまった。動き難くなったぜ。かといって、GIESCOはあの警備だ。無理して侵入しても、下手すりゃ、あの護衛ロボットに蜂の巣にされちまう。ていうか、民間企業が庭にあんな物を置いていいのか。どう見ても軍事用ロボットじゃねえかよ、あれ。そもそも、何であんなに厳重に警備しているんだ? やっぱり、あの施設の中に何か相当に重要な物を隠しているのか。とすると、それが……。うーん、情報が足りないぜ。それにあいつだ。あの刀傷の男。奴は、あそこで一体何を探っていたんだ? もし、俺と目的が同じなら、奴も『パンドラE』の正体を探っているのか。どうも、謎は深まるばかりだぜ。考え過ぎて、胃が痛くなってきた。――いや、違うぞ、コーヒーがやたらと胃に沁みるんだ。やはり病院に行くべきか……。でも、任務もあるしな……。俺は迷っていた。そして結局、任務を優先させる事にしたぜ。腹が痛くても、俺は探偵だ。

 俺はコーヒーを飲み終えると、早速、ハットを被り、事務所を出た。そして、ダットサンに乗り込み、朝日に向かってそれを走らせると、もう一度、都南田となた高原の葉路原ようじばら丘公園に向かった。俺にはどうしても我慢できなかった。どうしても、湧き上がる怒りを抑え切れなかった。俺は、葉路原丘公園の駐車場に車を停めると、真っ直ぐに、昨日、新志楼しんしろう中学のガキどもが無償労働で苗を植えていた花壇に向かった。その花壇には、例の青いジニアの苗が等間隔で綺麗に植えてあった。中学生にしては上出来だ。俺は花壇の前に屈んで、その青いジニアの蕾を観察した。そして、ポケットから小さなビニール袋に入れた一本の切花を取り出した。昨日、あの刀傷の男が真明教の施設で落としていった花だ。小さなものだが、この花壇の花のつぼみがくの部分は同じだった。葉の形も似ていた。奴はここから花を摘んで行ったのだろうか。そう思った俺は、花壇の中に手を伸ばし、植えられた苗の中の一つの蕾を茎の根元から摘み取ろうとした。すると、どこからか声がした。

「ちょっと、そこ。何やってるの。止めて下さい」

 俺は周りを見回した。誰も居なかった。朝の公園は人が多いのが常だが、ここは都会の中の公園とは言っても、車で上がって来なければならない高台の上の公園だ。早朝にわざわざ都心から数十分かかる公園まで車で来る人は少なかった。今朝の葉路原丘公園も人は疎らで、その広い公園の一番西の端にある、公園で一番の高台部分には、俺の他に誰も居なかった。

 俺は気のせいだと思い、もう一度、花壇の中に手を伸ばした。

「だから、あんた。駄目だよ、摘んじゃ。そこから離れなさい」

 また声が聞こえた。俺は同じように周りを見回したが、やはり誰も居なかった。すると、また声が聞こえた。

「今、そっちに行きますからね。そこを動かないで。いいですね」

 俺は声のする方角を探索した。公園に幾つか立てられたLED外灯の上に付けられたスピーカーからの声だった。暫くすると、公園の東の下の方から、作業ズボンに緑色のビニールジャンパーを着た、日に焼けた白髪の老人が、照りつける朝日を背にして石段を駆け上がってきた。

「ちょっと、あんた。困るんだよね。今、花を摘もうとしたでしょ」

 俺は、つい謝った。

「すみません。綺麗な花だったもんで……」

 そのオジサンは、厳しい顔で言った。

「あのね、綺麗なら摘んでいいってもんじゃないでしょ。多いんだよね、あんたみたいな人。せっかく学生さん達が植えてくれた花を、平気で摘んで行っちゃう人が。そこのカメラで全部監視していますからね。止めて下さいよ。管理棟の中では、全部分かってるんですよ。いいですね」

 俺は、そのオジサンが指差した方角に目を遣った。花壇の中の中心部に、俺の膝丈くらいの高さの太い棒が立てられていて、その先端の丸い部分が全方位レンズになっていた。

 俺は、すかさずオジサンに質問した。

「あのカメラで監視しているんですか。二十四時間?」

「ああ、そうですよ。ここは都が管理する公園ですからね。ちゃんと録画もしてあります」

「もし、それでも摘んだら、どうするんです? 例えば、こう、顔を隠して摘んだりとか」

 俺は、頭の上のハットを手に取り、それで顔全体を隠して、花壇から花を摘む仕草をして見せた。オジサンは不機嫌そうに答えた。

「録画してあるって言ったでしょ。顔を隠していても、一応、警察には届け出ますよ。十分、器物損壊か窃盗ですから。当たり前でしょ」

 なるほど。だとすると、あの刀傷の男が、この花壇から花を摘んでいったという線は考え辛いな。奴は、防犯カメラに姿を残さないのが売りだ。ここにあるカメラは三六〇度を同時に撮影できる全方位レンズだ。死角は無い。それに、見る限り、どの花壇の中心部にも立ててある。という事は、この公園全体が撮影されているという事だ。奴はここには現われない。そう思った俺は、オジサンに別の質問をしてみた。

「いや、私の知人が持っている花と似ていたもので。これ、珍しい品種なんですよね。たしか、ジニア。そうですよね」

「そうですよ。でも、ジニアの中でも古く西洋から入ってきたジニアの品種を改良したものらしいがね。青は特に珍しいんじゃないですかね」

「誰かの寄贈なんですか。昨日、新志楼中学の先生は、地元の名士の卒業生だと言っておられましたが。その方のお名前をご存じないですかね。苗を分けてもらおうと思って」

「さあ、名前までは。毎年、新志楼中学の方に届けられて、それを少しずつ株分けして植えているそうですからね。誰が寄贈されているかまでは、私の方では、ちょっと……」

 オジサンは、かなり警戒した目つきで俺を見ながら答えていた。するとオジサンは、慌てた素振りで俺に言った。

「ちょっと、あんた、鼻血が出ているじゃないか。眼の充血も酷いし、大丈夫かい」

 俺は手で鼻の穴の辺りを触ってみた。指先に温かいものが触った。手を鼻から離し見てみると、指先に鮮血が乗っていた。俺は期待どおりの声をあげてしまった。

「なんじゃ、こりゃあ!」

 やはり、昨日の地下高速道路の影響だろう。どうも体のあちらこちらが、やられてしまっているらしかった。俺は急に不安になって、その場でオジサンに礼と謝罪を述べると、すぐに駐車場のダットサンに戻った。そして、ハンカチで鼻の下を押さえながら、愛車を飛ばし、旧市街水無みな区の病院へと向かった。



                  十

 俺は水無区にある医療法人水蓮会の水枡病院へと駆け込んだ。水枡病院は中規模の総合病院で、旧市街では誰でも知っている古い病院だ。患者へのサービスが行き届いていると、評判もいい。一昨年、病棟を建て替えたばかりで、受付の所から随分と今風の斬新なデザインになっていた。白い床に明るい緑の壁、天井は全面が照明も兼ねた液晶ハイビジョンのスクリーンパネルになっていて、そこには雲が流れる青空が映し出されていた。受付のカウンターは全て個人ブースで、完全に来院者のプライバシーは守られるようになっている。俺は、総合受付のカウンターで渡された薄型端末を持って、待合ロビーの長椅子に座った。端末を見ると、俺が提示した保険証に連動して俺の個人情報が表示されていて、「次へ」にタッチすると、画面が切り替わり、幾つもの問診事項が表示された。この時代になっても、待合ロビーで待つ患者に対し他の患者の前で、看護師さんが平気で体調やプライバシーに関する質問をする馬鹿な病院も多いが、この病院は、その点はちゃんとしていた。しかし、具合の悪い人間に、端末操作をさせるってのは、いただけない。いったい何時の時代になったら、患者に配慮した、ちゃんとした病院ってものが現われるのか。まあ、はっきり言って、国の政策と医学部教育に問題がある事は明白だが、その時の俺には、それを強く主張するだけの気力も体力も無かった。それもそうだ。ここは病院だ。そんな元気のある奴は来ない。元気そうに見える奴も、どこか本調子では無いはずだ。病院って所は、そこのところをちゃんと分かっているのかね。まったく。

 俺は端末に入力を終えると、それを持ったまま、待合ロビーで暫く待たされた。いや、随分と長く待たされた。病人を待たすな。トリアージは普段から使えよ。普段から。そんな具合に俺が苛々していると、間もなく俺の端末が受付の個人ブースの番号を告げた。その番号のブースに行くと、左右を高い壁のようなもので仕切られた空間の奥に、カウンター状の机が置かれていて、その上にホログラフィー用の立体パネルと平面パネルがそれぞれ置かれていた。俺はその前の小さな丸椅子に座り、机の向こうに笑顔で座る濃紺の背広を着て髪を整えた青年に挨拶した。彼は俺に言った。

「いらっしゃいませ。ご来院、感謝いたします。今日は、どのような治療をご希望ですか」

 それが分かれば苦労はせん。しかし、開業医も経営が大変だ。ここまでせんといかんかね。いったい幾らの医療費を無駄に使ってくれているんだ、まったく。辛島総理が医師会と対立してまで、全国の医者の原則公務員化を実現しようとしているのも頷けるぜ。社会問題化して四十年以上たった今でも、医療過疎地の問題は解消できていないじゃないか。結局、自分たちに自浄能力が無いって事なんだからさ、さっさと国の言うことを聞けばいいのに。いや、聞いてくれ。あんたらの為に患者になっている訳じゃないんだよ、国民は。ああ、具合が悪いと余計に苛々するぜ。

 俺の不機嫌そうな対応に少し気を引かせていた青年は、三枚の美人で若い女性の写真を横のモニターに表示して、俺に言った。

「本日は、浜田様のご担当を、こちらの三名の看護師の中からお選びいただけます。右から松田看護師、竹田看護師、梅田看護師です。どの看護師がよろしいでしょうか」

 ここはキャバクラか。こんな事をやっていると、全国の看護師さん達に怒られるぞ。医療界の非常識さも、ここまで来たか。けしからん。俺は言ってやった。

「じゃあ、竹田看護師で」

 流行りは、中を取れ。ミチル婆さんも言っていたぜ。こうして、ようやく診断を受ける為の手続きを終えた俺は、また待合ロビーまで歩かされ、そこの長椅子で長いこと自分の順番が来るのを待った。

 やがて、俺の患者ナンバーを呼ぶ声がした。うん。個人の氏名を声に出さない。この点は合格だ。医療情報ってのは個人情報の中でも最高機密事項だぜ。他の病院は、番号札を配っておきながら、途中から平気で、苗字で呼びやがる。なに考えてんだ。どこの誰が何科で診療を受けたのか、知られ放題じゃねえか。普通に内科や外科に通うこと事態が、自分の仕事の受注量の減少に関わるって人間は、万と居るんだぜ。誰だって、仕事を依頼したり、共に仕事したりする相手は健康な人間を望むからな。院内で名前を連呼される事が、事業上の死活問題になる可能性のある人もいるかもしれないだろ。そこら辺の事に対する責任ってものを考えた事は……無いんだろうねえ。俺がガキの頃から変わってねえからなあ。そういえば、地方の頭の悪い銀行も、そういう所があるよな。何のために番号札を配布しているのやら。地方の小都市の金融機関は、特によく考えないといけないぜ。狭い街で個人の財産情報が知られ放題じゃないか。

 俺は苛々しながら、俺のナンバーが表示された診察室に入った。看護師の竹田さんが待っていた。勿論、普通の白衣だぜ。勘違いするな。ちゃんと仕事をしている看護師さんだ。竹田さんは、俺をスツールに座らせると、先生を呼んだ。奥のドアから、ハイネックのセーターに直接に白衣を着た髪の毛ツンツンの若い医師が出てきた。その医師は俺の前の椅子に座ると、眉間に皺を寄せて、人生の多くを悟ったかのような顔をしながら、机の上の端末をいじりだした。そして、言った。

「で。どこが悪いの?」

 それを調べに来てるんだろう。患者に訊いてどうする。だいたい、その口の利き方はなんだ。今日は具合が悪いから放置するが、普通なら一発食らわしてるぞ。ていうか、一般社会なら通用せんだろ、それ。ちゃんとしろ。具合の悪い人間を更に具合悪くさせる気か。

 その若い医師は、立体パネルの上のホログラフィー・カルテ文書を読むと、ニヤニヤしながらこちらを向いて、俺に言った。

「地下高速で窓を開けちゃったの。なるほどね。何かあったのかな。機嫌も悪そうだし」

 お前だよ、お前。お前は人として何がしたいんだ。もっとよく考えろ。医療知識しかないアホなのか。俺はいろいろと言いたい事を我慢して、その医師に言われるままに、舌を出したり、腹を見せたり、背中を出したりした。すると、その医師はまた机の方を向いて、独り言のように言った。

「うーん。内視画像も問題ないね。少し、肺に傷が出来たかな。でも、水も溜まってないみたいだし、腸もよじれてないね。胃の入り口に出血があるけど、自然治癒しますよ。一応、鼻腔内の血管を傷めているみたいだから、出血を抑える薬を出しときますね。目の方は、眼下に行って下さい。皮膚の痛みについては、上の階の皮膚科で診てもらって」

 ここは総合内科じゃないのか。総合なら総合的に診てくれ。俺は言いたい事をグッと我慢して、ワイシャツの釦を閉じながら言った。

「はあ。そうですか。内視画像は、いつの間に撮ったんです?」

 医師は、横向きの机でパソコンにデータを入力しながら、俺に言った。

「ああ、受付の個人ブース、あの両側の壁が透視カメラになっているんですよ。説明されなかった?」

「ああ、そうなんですか」

「他に、どこか気になる所、ある?」

 その問いに対し、俺は一瞬「朝美スペシャル」の事を言おうと思ったが、恥ずかしかったので、止めた。代わりに、別の負傷箇所について尋ねた。

「昨日、足を怪我した状態で、下水道の中を歩いたんで、ばい菌とか入ってないですかね。なんとなく、悪寒がする気がして」

「あ、そう。ちょっと見せて。どっちの足です?」

 俺はバケツに突っ込んだ傷だらけの足を見せた。医師は俺のすねに顔を近づけて言った。

「あらら、これ、何を塗ったの。炎症を起こしているね」

「間違って、冷却剤を……」

 医師は呆れたように言い捨てた。

「そりゃあ、駄目だよ。竹田さん、消毒して、処置してあげて。一応、血も採っとこうか。感染がないか調べといて」

 大きな声でそう指示した医師は、また横を向いて、机の上で診察データを入力しながら、靴下を履いている最中の俺に言った。

「念のため、抗生物質も処方しておきますね。ばい菌は恐いからね。後は、向こうで怪我の消毒をしてもらって下さい。本当は外科の範囲なんですけどね。ま、いいでしょ。はい、じゃあ、次の人」

 何がいいのか、よく分からんが、俺は別室で、さっき指名した竹田看護師の処置と採血を受ける事になった。俺はその医師に礼を言うと、そのまま診察室の中を通って、隣の処置室の中に入った。ポツンと置かれたスツールに腰を下ろし、その前に置かれた小さなテーブルの上の四角い枕のような物の上に、右腕を乗せた。道具を揃えてやって来た竹田看護師は、笑顔で俺に言った。

「はい。じゃあ、お手てを出してねえ。血を採るからねえ」

 医療関係者のこの口調は何とかならんのか。癇に障る。一体、どこで教わるんだ、その話し方。俺は、日本中の病院を回った訳ではないが、だいたいの病院で、医療関係者はこの手の話し方をする。そして、俺は日本中の人に訊いて回った訳ではないが、大体の日本人が、こんな話し方をされれば、イラッとするはずだ。俺は、そう思いながら、右手のワイシャツを捲った。

「ちょっとチクッとしますよお。我慢して下さいねえ」

 急に丁寧語になったと思ったら、言い終わらないうちに、竹田看護師は採血用の針を刺してきた。

「ふんぐっ」

 痛い。しかも、そこは血管じゃないぞ。俺も防災隊の救助部隊にいた。注射針の刺し方は訓練済みだ。お前より上手いぞ。これは、絶対に血が出てこないぞ。

 俺がそう予想したとおり、採血管に血は出てこなかった。竹田看護師は言った。

「はい、痛かったですねえ。あら、出ない。おかしいわねえ。もう一度、刺しますねえ。はい、チクッとしまーす」

「はうっ」

 だから、もっと下だ。そこじゃない。そこは神経だ。ここは針灸院か。俺が少し腕を動かしてやったろう。なぜ、お前も針を動かす。そこじゃないんだ。

 俺の心の叫びを受け取ることなく、竹田看護師は元気良く笑顔で言った。

「はーい、痛かったあ。あら、もう少し手前かな、この辺……もう一回だけ刺しますねえ。すみませんねえ」

 すみませんって思ってないだろう、絶対。ああ、「松田さん」にしとけばよかった。

「あう!」

「ああ、今度は出ましたね。はい、よく頑張りました。じゃあ、少し多めに採っておきますね」

 「じゃあ」の意味が分からん。しかも、なぜ多めに採る。俺の血液は牛丼屋の汁じゃねえぞ。必要な量だけにしてくれ。おいおい、目つきが違ってきているぞ。大丈夫か。ニヤってするな。採血の何がそんなに嬉しい。

「はい、終了でーす。お疲れ様でした。そしたら、足の消毒をしましょうね」

 くそお、どんだけ採血したんだよ。目眩がするぜ。

「あらら、フラフラしますか」

「ああ、ちょっとな」

「……」

 それで終わりか。ナイチンゲール精神はどうした。蝋燭つけてないと、やっぱり駄目か。それなら、いっそ病院の室内灯は全て蝋燭にしろ。今、目の前にふらついている患者がいるんだぞ。おお、何事も無かったように消毒を始めるか。マジか。

「ちょっと沁みますよお」

「いっ……」

「ああ、痛い痛い、痛いですねえ。我慢して下さいねえ。すぐ終わりますからねえ」

 竹田看護師は、俺をそう宥めながら、患部の消毒を終えた。そして今度は、瓶を左右の手に一本ずつ持って、そのラベルの表記を読み比べ始めた。

 なんだ、おい、何を見比べている。首を傾げるな。まさか、どっちの薬か分からないのか。なら、誰かに訊けよ。「たぶん」で決めるなよ。医療だぞ、医療。理科の実験じゃねえんだぞ。

「たぶん……こっちね」

 おいおい、本当か、それでいいのか。分からなかったら、先生か先輩看護師に確認しろ。もう少し慎重に行った方が……。

「くあっ……く、く……」

 だろ。違うだろ。それ。すごく沁みるもんな。なんか、スースーするし。くうう。あんた、今、間違えたよな。俺の経験からいくと、その左手に持っている方が正解だ。そっちが再生促進剤だよ。今、俺の足に垂らした右の薬剤は表皮冷却薬だ。火傷の時に使うんだよ。麻酔スプレーの後で。これは擦り傷だ。擦過傷だ。間違えるな。それに、ちゃんと濃度も確認しろ。濃過ぎるぞ。これじゃ、上皮層だけじゃなく、真皮まで冷えちまう。間違えんな。おいおい、だからって涙目になるなよ。それは反則だろ。何も言えんじゃないか。くうう。沁みる。

「クズ……念のため、もう一度、洗浄しておきますね」

 「念のため」じゃないだろ、間違えたんだろ。だから洗い流すんだろ。うわ、眼をウルウルさせて、涙を堪えながら必死の笑顔をみせる健気な女の子を演じるな。やめろ。ずるいぞ。そんな顔で必死の処置を演出するんじゃない。戦場の衛生兵みたいな顔すんな。そうやって、包帯を巻く時だけ真剣な顔をしやがって。さっきの採血のときは、ニヤついていたじゃないか。

「はい、おしまいです。お疲れ様でした。痛かったですねえ。グス」

 半分はあんたのせいだろう。鼻を啜ってもポイントは上がらんぞ。俺は騙されん。次は絶対に「松田さん」だ。決めた。

 俺は、かなりムッとした表情で処置室から出た。そのまま待合室に移動して、会計の順番が来るまで長椅子に座って待った。すると、背広姿の事務職らしい中年男性と派手なブランド物のスーツ姿の女性が廊下の真ん中をズカズカと歩いてきた。彼女は、丁度俺の前で立ち止まると、振り向いてその中年男性にものすごい剣幕で言った。

「だから、どうして二重に払わないといけないのよ。あんたが顧問契約する時に、ちゃんと契約書を確認しないからいけないんでしょ。ここを姉に乗っ取られてもいいわけ?」

 背広の男は、膝の前に両手で鞄を提げたまま、困り果てたように答えた。

「はあ。しかし、美空野先生の仰られるとおり、お嬢様個人の財産に関する事ですので、病院の会計から支出する訳には……」

「誰も病院から出せとは言ってないわよ。私は、今まで顧問料を支払ってきたのに、どうして私の相談は別料金になるのかを言っているの。あんたの所には、一緒に払ってるじゃない」

 中年の男は、鞄の持ち手から離した右手を顔の前で振りながら、恐縮して答えていた。

「いえいえ。それは、私が税理士として先代の院長先生からのお付き合いがあったからでありまして、あの超一流弁護士法人の美空野法律事務所と同じようには……」

「同じ法律家でしょ。あんた、お金の計算しか分からないわけ?」

 どうやら、このスーツ姿の中年男性は、この病院が契約している税理士らしい。ということは、この派手な女は、この病院の経営者だな。俺はそう察した。

「とにかく、優秀な弁護士を揃えていると評判の事務所ですから、今後の事も考えて、穏便に対処された方がよろしいかと……」

 税理士の男がそう言うと、女は眉間に皺を寄せて言った。

「着手金で相続の対象となる財産の二割も支払った上に、成功報酬でさらに三割って言うのよ。しかも、あんな小娘の新米弁護士に担当させて。どう考えても、ぼったくられているじゃない。どうして穏便に対処できるのよ」

 どうやら、相続に関する話らしい。ま、俺には関係ないが。しかし、美空野法律事務所は、そんなに優秀な弁護士が揃っているのか。昨日の事もあるし、ちょっと相談に行ってみるかな。俺は、昨日の地下高速道路で刀傷の男に殺された四トントラックの運転手の事が気になっていた。普通に警察が取り合ってくれないとなると、次は弁護士に頼んで刑事告発するしかないだろう。それでも駄目なら……善さんか。

 俺が「やばい」解決策を思いついた時、俺の耳に、その税理士の話が飛び込んできた。

「いや、まあ、通常、弁護報酬というものは、依頼人の利益額の何割ですから。今回の場合、お嬢様の取り分の三割となる訳で、全体財産から言えば七割五部程度に……」

「二割とか三割とか七割とか、そんな事はどうでもいいの。ウチは蕎麦屋じゃないのよ。筋の話をしてるのよ。筋の。もういいわ」

 この女、なかなか面白いぜ。俺が笑いを堪えていると、女はそれに気付いたのか、俺を一睨みして、行ってしまった。その後を、中年の税理士が頭を掻きながら追いかけて行った。しかし、俺が笑いを堪えていたのは、彼女のジョークに対してではなかった。税理士だという男の馬鹿な計算違いに、いや、彼女を宥める為の数字のトリックを使ったのかもしれないが、とにかく、それに気付いて、俺は笑いを堪えていた。通常、弁護士の着手金は、相手方への請求額を基準にする。全体財産は基準にしない。ここから先の細かな事は割愛するが、話が相続だとすると、結論として、さっきのあの女は、間違えていなかったのさ。彼女は、ぼったくられているぜ。

 俺は会計を終えて、水枡病院から出て行った。スルスルと外れていく脛の包帯を引きずりながら。



 十一

 旧市街を出た俺は、南北幹線道路を北上し、大交差点から東へ東西幹線道路上を移動した。昼食までは、まだ時間があった。だから俺は、美空野法律事務所を訪ね、昨日の刀傷野郎の凶行を明らかにする法的手続きの支援について、相談してみようと考えていた。俺は有多町の官庁街を東へ進み、その先の寺師町の角との境の交差点に差し掛かった。電話帳で調べた住所によれば、美空野法律事務所ビルは、この交差点を右折した先にあるはずだった。青信号を確認して右のウインカーを点灯させ、ハンドルを右に切った。俺のダットサンが右折を終え、中央の車線に入った時、同じ交差点を対向車線から左折してきた車が左前を走っていた。俺は思わず、その車を二度見した。黒いリアガラスが割れたワインレッドのAIアルファ・ロメロ4C。俺はアクセルを踏み込み、自動走行中のその赤いAI自動車に追いついて併走した。左を見て、その車の左側の運転席を確認すると、白いスーツを着たあの刀傷の男が、イヴフォンで誰かと通話しながら、黒い皮製のシートにふんぞり返っていた。俺はクラクションを何度も鳴らし、歯を剥いて奴を睨み付けた。こちらを見て俺に気付いた奴は、舌打ちをするとすぐに、手に持っていたイヴフォンを車内に放り投げ、AI制御パネルに触れて自動走行を切った。そして、右手でシフトレバーを素早く動かしながら、左手でハンドルを左に大きく回した。奴の赤いAIアルファ・ロメロは、後輪から煙を上げて、さしかかった小さな交差点を急左折した。その時、俺の深緑色のダットサンは直進車線を走っていたが、俺は交差点の真ん中でブレーキを踏み込むと同時に、一気にハンドルを左に何度も回し、車を強引に左向きにさせた。そのまま、クラッチを踏み込みながら左手でシフトレバーを素早く動かしギアを入れ替えると、クラッチを戻しながらアクセルを全力で踏み込んだ。白煙と摩擦音を撒き散らして尻を振りながら前進するダットサンの中で、俺は右手でハンドルを右へ左へと回して車体のバランスを取りながら、左手で更にギアを入替え、アクセルを踏み込み、更にもう一度、ギアを操作してから、今度はアクセルを力いっぱいに踏込んだ。向きを安定させた俺のダットサンは、前方のAIアルファ・ロメロを狙って射られた矢のように、その深緑色の小さな車体を猛スピードで直進させた。高い笛の音のような電気モーター音を鳴り響かせて、奴の赤いAIアルファ・ロメロ4Cは寺師町の繁華街へと直進して行った。低く潰れた虎の喉笛のようなエンジン音を撒き散らしながら、俺の深緑色のダットサン・ブルーバード・一二〇〇がその後を追った。周囲の込み入った景色が横縞模様となって運転席の左右を流れた。奴は寺師町のメインストリートに出ると、また、急ハンドルを切って左折した。俺のダットサンも、路上脇に落ちていたイチョウの葉っぱを巻き上げながら、高い摩擦音を鳴らして急左折した。奴は猛スピードで直進したまま、次の交差点の赤信号にさしかかった。右に左に行き交う車の間を上手くすり抜け、減速する事無く直進した。俺が素早く右を確認すると、向こうに大型バスが見えた。俺は瞬時にアクセルを踏んで更に加速し、やって来る大型バスより先に交差点に侵入した。と同時に左を向くと、目前に乗用車が迫っていた。俺は急ブレーキを掛け、素早くハンドルを反時計回りに切り、車体の後部を横に振って乗用車を後ろに通すと、すぐにハンドルを時計回りに急回転させ、横滑りしながら交差点を通り抜けた車体を元の向きに直した。急いでギアを操作しながら再度アクセルを踏み込んで、ダットサンに爆音とスピードを維持させたまま、奴を追った。奴の赤いAI自動車は、既に東西幹線道路とのT字路を右折しようとしていた。俺は、猛スピードで直進すると、T字路の少し手前で、クラッチとブレーキの両方を踏み込むと同時にサイドブレーキを引いて、ハンドルを全力で右回転させた。白煙を立たせながら九十度右に方向転換した俺の愛車の車体は、そのまま横に滑りながらT字路へと進入して行った。高音を立てて急停止する周りのAI自動車の間をすり抜けて滑っていくダットサンの中で、俺は体を左に傾けながら、シフトレバーを動かしてギアチェンジし、サイドブレーキを下げて、アクセルを目一杯に踏み込み、エンジンをフル回転させた。白煙を振り払って緑の車体を現した俺のダットサンは、車体後部の左角をT字路の側壁ギリギリまで近づけると、そこから離れ、赤い獲物を目掛けて唸り声をあげて突進した。奴は東西幹線道路を東に逃げた。奴のAI自動車の後部ガラスは割れたままだ。地下高速道路には入れない。そう確信した俺は、更に加速して奴の車の赤いリアバンパーにダットサンの鼻先を近づけた。俺がアクセルをもう一度強く踏み込んで、ダットサンを奴の車に追突させようとした時、奴のAI自動車のリアガラスの窓枠の向こうに、奴が運転したまま肩越しに銃口をこちらに向けているのが見えた。俺は頭を下げて、急ブレーキを踏んだ。それとほぼ同時に銃声と高い打撃音が響き、ガラスの破片と共に車内のバックミラーが後部座席に飛ばされた。バックミラーの天井からの支柱が砕かれていて、その先のフロントガラスに穴が開き、周りにヒビが入っていた。俺はダットサンが停止しきる前に、再度ギアを入れなおし、アクセルを踏んで再加速した。一度離れた奴の赤い車体が近づいてきた。すると奴は、また左に急ハンドルを切って蛭川の手前で幹線道路を降りた。俺の反応がもう少し遅かったら、側壁に挟まれた幹線道路の中で、奴が曲がった降り口を通り過ぎてしまうところだったが、俺は奴に食らいつくように左折し、同じ降り口で幹線道路を降りて、奴のAI自動車を追った。奴と俺の車は香実区の上下にうねる農道で何度もバウンドしながら、猛スピードで爆走し、新首都圏を北上した。俺は痔の痛みに耐えながら、必死にハンドルを握った。やがて、俺たちの車は華世区の中心街の大通りに出た。奴は他の車を縫うように蛇行運転を繰り返すと、また急ハンドルを切って住宅街の中に入り、狭い幅の道路を躊躇無く暴走した。俺は住宅街の周囲の車や歩行者に注意しながら、奴を追った。奴は住宅街を突っ切り、その住宅街を外周する大通りに出ると、そこでも暴走して、そのまま新首都圏北部を東西に走る新高速道路のインターチェンジに入った。そのままETCレーンを爆走すると、ゲートを突き破り、新高速道路の中の西進線に入って行った。俺のダットサンも奴のAIアルファ・ロメロを追って、ゲートの壊れた新高速道路のインターチェンジを突っ切った。俺はそのまま、ダットサンのエンジンを高速回転させて、奴のAI自動車に再び急接近した。すると今度は逆に、奴のAI自動車が急に減速した。俺が反射的にブレーキを踏むと、奴の車の後方から車間距離の異常な減少を知らせる警報音が鳴った。奴はAI自動車を自動走行に切り替えていた。俺がブレーキを踏みながら、奴の赤い車体の割れたリアガラスの大穴から見える車内に目を遣ると、奴は運転席と助手席のシートの間から後部座席に半身を乗り出して、こちらに拳銃を向けていた。それを見た俺は体を左に倒すと同時に、そのままハンドルを左に切った。その瞬間、ハンドルの正面のフロントガラスに風穴が開き、俺のシートのヘッドレストに穴が開いた。奴はそのまま後部座席に移り、割れたリアガラスの窓枠の中から、更に銃撃してきた。奴のAI自動車の左後方で緊急車両用の補助車線を走る俺のダットサンのボンネットの右隅に火花が走り、そこに開いた小穴から白煙が吹き出た。俺は咄嗟にアクセルを踏み込むと、スピードを上げて、俺のダットサンの先端を奴の車の中ほどまで進ませてから、右に急ハンドルを切った。俺の深緑色のダットサンが力強く奴の赤い車体の左後方に体当たりした。車内から俺を狙っていた刀傷の男は、衝突の勢いで手許を狂わせ、発射された弾丸は、俺のダットサンの右後部ドアのガラスを割って、後部座席のシートに突き刺さった。奴のAI自動車の人工知能は、俺のダットサンに体当たりされても、その衝撃でずらされた車体の位置を瞬時に計算し軌道修正して、車体を元の自動走行用の誘導パネルの上に正しく戻した。俺はダットサンのエンジンを噴かしたまま、一度、車体を補助レーンに戻すと、再度アクセルを踏み込んでダットサンをAIアルファ・ロメロと同じ位置まで進ませ並走させてから、もう一度ハンドルを右に切った。ダットサンは、右側面全体を激しく奴の車にぶつけ、奴の車を右の車線に押し退けた。俺のダットサンの右のサイド・ミラーが外れ、運転席のサイドガラスも、奴のAIアルファ・ロメロの黒いサイドガラスも、粉々に割れて方々に飛び散った。俺は右手でハンドルを握ったまま、左手で頭の上のハットを取ると、それを使って右肩に乗ったガラスの破片を払い落とした。すると、右の窓枠の向こうから、風を切る音と共に、人工知能の発する合成音声が徐々に大きくなって聞こえてきた。

「進行車線カラ外レマシタ。車体位置ヲ修正シマス。進行車線カラ外レマシタ。車体位置ヲ修正シマス。進行車線カラ外レマシタ。車体位置ヲ修正シマス」

 奴のAI自動車は、その合成音声と超電導モーターの高い回転音と共に、右の車線の方から徐々に迫ってくると、そのボディを力強く俺のダットサンに衝突させ、押し退けて、再び車体を誘導パネルの車線の上に戻した。奴の車から体当たりされた俺のダットサンは、そのまま弾き飛ばされて、左側の補助レーンを越えて左の側壁にぶつかりそうになった。俺は慌ててハンドルを切り、車体の左側面を側壁に一瞬だけ擦り付けて、何とか補助レーンに戻った。俺が以前に「欠点がある」と言っていたのは、この事だ。ダットサンのようなオールド・カーのガソリンエンジンは、二〇三〇年代のAI自動車が積んでいる超電導モーターのパワーには、全く敵わない。俺は、その事をこの後も嫌ってくらいに思い知らされたぜ。とにかく、俺が再び、百キロ丁度の速度で進行を続ける奴のAI自動車に目を向けると、奴は左前方の運転席に戻り、シートの上に膝をついて、そこから両手で拳銃を支えて、しっかりと俺に狙いをつけていた。俺は瞬時に身を屈め、同時に強くアクセルを踏み込み、また右へ急ハンドルを切った。今度はさっきよりも勢い良く、ダットサンを奴のAI自動車に体当たりさせた。奴が撃った弾は逸れ、俺とシートの背当ての間を貫けて、助手席のシートの背当てに着弾した。奴はバランスを崩し、左手で運転席のシートを掴んだまま、AIアルファ・ロメロの右側の助手席の方に倒れていた。だが、奴の車は相変わらずの合成音声を繰り返しながら、再び走行車線に復帰しようと、こちらに迫ってきた。俺は少しハンドルを左に切ると、再び勢いよく、ハンドルを右に回した。今度はかなり強烈に奴の車にぶつかり、同時に銃声も響いた。奴はその勢いで、拳銃を握っていた右手を運転席のシートにぶつけ、その拳銃を後部座席に落とした。奴が撃った弾は、ダットサンの右側の後部ドアを貫通していた。奴のリボルバーは六発装填だ。弾はこれで撃ち尽くしたはずだ。しかも、銃は後部座席のシートの下だ。もう奴は撃ってこない。そう判断した俺は、アクセルを限界まで踏みながら、白煙を上げて速度を維持するダットサンを再度、補助レーンに動かした。そしてすぐに、ハンドルを右に切って、また奴の車に体当たりした。後部座席のシートの下に手を伸ばして拳銃を拾おうとしていた刀傷の男は、俺のダットサンの体当たりで、体ごと右の助手席の上に転がった。奴は苛立ったように体を起こし、後部座席の拳銃を拾うのを諦め、右手をズボンのポケットに入れると、中から短い棒状の物を取り出した。それを一度横に振って、折り畳まれていた刃を広げると、親指で、そのナイフの握りの部分のボタンを押した。刃の部分が青白く光り、熱を発していた。レーザーナイフだった。奴はそれを握ったまま、助手席のシートの上から運転席のドアを蹴り開けた。丁度その時、俺はとどめの一撃を食らわそうと、一度左に振ったダットサンを奴の車にぶつけようとしていた。とどめの一撃で奴のAI自動車を右側の側壁に衝突させようと考えていたのさ。だが、その考えが安易だった。俺のダットサンの体当たりで、奴が蹴り開けた運転席のドアは、二台の車に挟まれて、くの字に曲がった。俺がもう一度体当たりしようと車を奴の車に近づけた時、奴は自分から車外に飛び出してきた。そして、くの字に曲がった運転席のドアに掴まると、俺の車が曲がったドアの先にぶつかると同時に、曲がったAIアルファ・ロメロの運転席のドアと、ダットサンの右前輪の上辺りのサイドボディを、刃の部分を青く光らせているレーザーナイフで一気に貫いた。俺のダットサンと奴のAI自動車は、曲がったサイド・ドアで連結された形のまま、並走することになった。俺は、二台の間で橋のような状態になっていたドアに掴まっていた奴の左腕を掴むと、そのまま力一杯、割れた窓からダットサンの車内に奴を引っ張り込んだ。奴は下半身をダットサンの運転席の窓から外に出した状態で、両足をバタつかせた。その向こうから、奴のAI自動車の合成音声が聞こえた。

「ドアガ開イテイマス。走行中ハ、ドアヲ閉ジテ下サイ。落下ノ危険ガアリマス」

 レーザーナイフで接合された二台の車は、新高速道路の補助レーンと通常車線の上を猛スピードで走行していた。俺は右手でハンドルを握ったまま、左手で奴の白い上着の後ろの襟を掴んで、奴を車内に引き込んだ。ふだんなら、ここで一発食らわして、奴を気絶させているところだが、今朝の過剰な採血のせいで、力が出なかった。次はマジで「松田さん」に担当してもらおう。いや、「梅田さん」でもいい。とにかく、あの竹田看護師は駄目だ。あの吸血女め。今思い出しても腹が立つぜ。とにかく俺は、爆走するダットサンの車内で、車のハンドルと奴の体を必死に押さえつけていた。奴は、上着の襟で後頭部を押さえつけられたまま、俺の右手や左手を掴んで必死に抵抗していたが、やがて、右手がハンドルに当たると、それを掴んで勝手にハンドルを切ろうとした。俺は咄嗟に奴の上着の襟から左手を放し、ハンドルを両手で握って、AIアルファ・ロメロと連結されたダットサンの走行バランスを保とうとした。すると奴は、その隙に体勢を変えると、俺の首の辺りを強く蹴って、その勢いで自分のAI自動車の車内に飛び込んで戻った。奴はすぐに運転席に座りなおすと、AI自動車の操作パネルに触れて、自動走行を解除した。開けっ放しの運転席のドアから吹き込む向かい風など全く気にせずに、今度は両手でハンドルをしっかりと握った奴は、アクセルを踏み込んで、AIアルファ・ロメロを急激に加速させた。俺のダットサンは、レーザーナイフで串刺しにされた奴の車のドアのせいで、奴の車に引っ張られる形で、全ての車輪から黒煙を立たせながら、補助レーンの中を走らされていった。俺は必死にハンドル操作しながら、ブレーキを精一杯に強く踏んだが、奴のAI自動車の超電導モーターの力には歯が立たなかった。俺が下唇を噛みながら、奴の方に目をやると、奴はニヤニヤしながら、余裕の表情で運転していた。俺は、奴がこのまま、下寿達山のトンネルの前の分岐点にあるコンクリート製の太い柱に俺の車を激突させる算段であると気付いた。それで、慌てて窓から右手を出して、ダットサンの車体の前方側面で、曲がったドアを貫いてダットサンに突き立てられているレーザーナイフの柄に手を伸ばした。しかし、左手でハンドルを握り、右足ではブレーキを踏みしめていたので、俺の右手は刺さっているナイフまでは届かなかった。奴は左ハンドルの運転席から、こちらをチラチラ見ながら、更にスピードをあげた。俺のダットサンは、奴のAI自動車に引っ張られながら、補助レーンの上を引きずられて行った。視界の先に下寿達山の下のトンネルが見えてきた。その手前の分岐点で左に入れば、側壁に囲まれたカーブを大きく左に曲がって、そのまま山多区の東部を通って、南北幹線道路の端の所に出る。ハンドルを少し右に切って、その分岐点を緩やかに右折すれば、下寿達山の下の長いトンネルだ。その分岐点の中央に、直径が俺のダットサンの全長よりも大きい、コンクリート製の巨大な円柱がある。奴はそこに俺を衝突させるつもりだった。これはマジで「やばい」。焦った俺は、ハンドルから手を離し、右手を肩まで窓から外に出して、ダットサンのボンネットの右の側面に手を伸ばした。しかし、曲がったドアの上からそこに突き立っているナイフの柄まで、あと数センチ足りなかった。灰色の無機質な柱が近づいてくる。俺はサイドブレーキを引いた。大きく不快な金属摩擦音が鳴り響いた。俺のダットサンは車体を斜めにして、四方のタイヤの下から黒煙を猛烈に立たせながら、急ぐ大人に無理矢理に手を引かれていく子供のように、奴のAIアルファ・ロメロに引きずられていた。柱がはっきりと目前に近づいた時、俺は左足をシートの上に乗せて腰を上げると、窓から出した手を精一杯に伸ばし、ボンネットの側面に刺さったレーザーナイフの柄を掴んだ。それを力いっぱいに引き抜くと、すぐに放り捨て、運転席に体を戻してハンドルを左に回した。俺のダットサンと奴のAIアルファ・ロメロは手を離し、分岐点でそれぞれ左右に別れた。俺は反時計回りにスピンするダットサンの中で必死にハンドルを回し、サイドブレーキを解除して、アクセルを踏んだ。奴のAI自動車は、開いたままの運転席のドアを激しくコンクリート製の柱に激突させると、そのドアを勢いよく吹き飛ばして、車体を少しだけ右に振った。俺のダットサンはスピンしたまま左のカーブへと入って行き、回転したまま横滑りを続け、そのまま左の側壁に車体の右側を衝突させると、激しくバウンドした。俺はハンドルを全速で回し続けたまま、ブレーキペダルを何度も踏みつけた。ダットサンは、今度は時計回りにゆっくりとスピンしたまま、黒煙と摩擦音を立てて流されるように進み、車体後部の左側を激しく右の側壁に打ち付けると、また反時計回りに、今度は一度だけ回転して、大きなカーブを描く新高速道路の中央で、走行すべき方向と逆の向きで、ようやく停止した。肘に力を入れてハンドルを握ったまま、俺がハットのツバの先から前を見ると、遠くに漂う白煙と黒煙の中で、奴のAI自動車から外れた赤いドアが角の部分を軸にして駒のようにクルクルと回っていた。やがてそれは回転を止め、路面に倒れた。奴のAI自動車はその場から走り去ったに違いない。俺は再び、親父の仇である男に逃げられた。俺は何度も強くハンドルを叩いた。



 十二

 丁度、正午を過ぎた頃だったと思う。俺のダットサンは、ボンネットの四方から白煙を朦々と吐きながら、大きな振動と共にドラムのリズムのようなエンジン音を鳴らして、山多区の南方のエリアにある小さな街区、金下都ゴールデン・ダウンタウン区の住宅街を走っていた。もう一度言おう。「ゴールデン・ダウンタウン区」。――もう二度と言わない。

 この辺は、新しく出来たばかりの、そこそこの高級住宅が建ち並んでいて、俺が走っていた並木道も、直進すれば森を抜けて薫区に出る道だ。路上には、雑誌で見た高級AIスポーツカーや、映画で見たレトロなボディの高級AIリムジンが何台も止まっていて、その車の向こう側の歩道を高そうな運動着に身を包んだ若い女性が、リードの先の子犬に引かれて小走りで歩いていた。先のロータリーには、中央に円形の池があり、その中心に大きな金色の彫刻が立っていて、その抽象的なオブジェの頂点から噴水の水が傘を描いていた。ここは、ニューセレブ街とも呼ばれている。つまり、「成り金」たちの町で、薫区の住人のような本物の上層階級が住む町とは、少し違った雰囲気があった。大抵の住人は、この道の先にある薫区の住人のような地位と財産と権力を目指しているのだろうが、大抵の住人が、あの噴水のあるロータリーで一周してから、また戻って来る。そのまま元の家に帰れればいいが、中には、そのままこの町を去る者もいた。そんな事を短期間で繰り返しているものだから、住人が定着しない。だから、本当の意味でのコミュニティーが形成されない。町のネーミングも最悪だ。俺なら、自分の住所を何処かで何かに入力する度に、嘔吐するかもしれない。見た目にも統一感がない町だ。住人たちは思い思いに庭先を飾り、支離滅裂な街並みを作ってしまう。ま、そこの家のように庭で好きなだけ花植えを楽しんで、色とりどりにしようが、その隣の家のようにコンクリート張りの足下にLED電飾を埋め込んで奇抜な空間を演出しようが、俺には関係ないがね。ただ、この町の住人は皆、自分の事しか頭に無いというのが嫌いだ。自分の為だけに金と労力を使い、それで経済に貢献していると豪語する。そんな生き方は、あのロータリーの噴水の水と同じだ。あの噴水の水のように、ただ宙で煌びやかに輝いては、下に落ちていくだけ。誰の喉を潤わせることも、何の植物の糧となる事も無い。ただ溜まり、またポンプに吸い込まれ、持ち上げられて宙に撒かれる。それを数回繰り返した疲れた水は、排水溝から、はい、おさらばさ。俺はこの町が大嫌いだが、この時は仕方が無かった。俺のダットサンは、とても市街地まで走れそうになかったからだ。どうもハンドルが左に取られる。エンジン音も明らかにおかしい。アクセルペダルを踏み込んでも、シャフトが空回りしている感じだ。覇気が無い。とりあえず、車の行き交う大通りの真ん中でエンストする事だけは避けたかったので、俺は新高速道路から繋がっている南北幹線道路に入らずに、横道に入ってこの町に出てきたって訳だ。そして、どうやら、ここいらが年貢の納め時って感じだ。ダットサンのエンジンがいよいよ「おはら節」のリズムをとり出したぜ。このままどんどんテンポが上がって、最後には……ぷスン。

 思ったとおり、俺のダットサンは、あっけなく停止した。燃えて上がらなくてよかったぜ。俺は車から降りると、頭のハットを団扇うちわ代わりにして煙を払い、周囲に人は居ないか探した。さっきまで居た散歩中の女性や、高級車の持ち主たちは何処に行ったのか、誰も見当たらなくなった。俺としては逆に、四方からの視線を感じてはいたのだが、ま、予想通りだったぜ。でも、予想通りではあったが、俺は困惑した。なぜなら、レッカー車を呼ぼうにも、俺は携帯電話のような通信端末というものを持ち合わせてはいなかったからだ。誰かに借りなければならなかった。言っておくが、俺は決して機械音痴ではないぜ。この事件の依頼人の話が本当なら、通信端末を持ち歩く事も、ネット通信をする事も、暫らくの間は避けた方がいい、そう考えて電子製品から距離を置いているだけだ。いや、このオールド・カーは、単に俺の趣味だがな。まあ、そういう訳で、昨晩も「ToDo書店」でバットにいろいろと本を探させたのさ。紙の本なら、コードにも繋がってないし、ネット通信もしていない。稀にチップが表紙の厚紙の中に埋め込まれているハードカバーの書籍もあるが、古本屋に並ぶような本には、そんなヘンテコな書籍は無い。その紙の上にインクを盛って活字を固定的に表現している。思うように頁は捲れるし、書き込みも自由。バージョンアップの度に買い換える必要も無い。安定していて、且つ、親切だ。この町の住人どもとは、大違いだぜ。

 とにかく俺は、その時の俺に手を差し伸べてくれそうな人間を探した。しかし、やはり周囲に人は居なかった。それで俺は、とりあえず目の前の綺麗な庭の家の門に向かった。鉄格子のような真鍮製の門扉には、周囲に薔薇の細工が施してあった。門柱はレンガ仕立てで、建物の外壁と合わせてある。その門柱には、高い位置に立派な大理石製の表札が掲げられていて、中ほどの位置に、広角レンズが装着されたカメラ付のインターホンが埋め込まれていた。俺は表札を見ながら、その最新式のインターホンのチャイムを鳴らした。少し待っても返事がなかったので、もう一度押してみた。すると、今度は気だるそうな感じで答える女性の声が聞こえた。

「はあい。どなたですかあ」

「あのう、すみません、お昼時に。実はお宅の前で車がエンスト……壊れてフリーズしてしまいまして、レッカー車を呼びたいのですよ。ご迷惑でなければ、電話をお借りできないものかと思いまして」

「携帯電話はお持ちではないの?」

「いやあ、今は持ってないもので。申し訳ない」

 しばらく間を空けて、返事が返ってきた。

「今お持ちしますわ。お待ちになって」

 やった。ついている。ラッキーだ。俺は不覚にはも、そう感じてしまった。しかし、それは全くの間違いだった。やはり、どうも今朝の病院からこっち、調子が出ないぜ。

 俺は暫く待たされた。その間に塀の隙間から、その家の綺麗な庭を眺めていた。赤や黄色、白の地植えの花が、美しいモザイク柄を描いていた。あの葉路原丘公園の花壇にもあった青のジニアも植えられていた。どうやら、流行っているらしい。ふと横に目をやると、塀の側面に掛けられた数個の半円形の植木鉢に、それぞれ赤、青、黄色、白のジニアが綺麗に植えられ、それぞれの色の四つの花弁を可憐に広げていた。暫らくそれを眺めていると、門の向こうでドアが開いた。中から、大きな派手な柄の短いワンピースを着た若い女性が、いや、そう若くもなかったが、俺より少し下くらいの年齢の女が、髪をいじりながら出てきた。女は、鉄格子のような門扉の前まで来ると、身を屈めて胸の谷間をアピールしながら、その門扉の鍵を開けた。そして、片方の掌を広げてその上に乗った電話機の小さな子機端末を俺に差し出しながら、もう片方の手で短いワンピースの裾を直す振りをして、そこから出た太腿をモジモジさせながら言った。

「あら、モニターで見るよりいい男ね。どうぞ、お使いになって」

「どうも、すみません。お借りします」

 俺は女から小型の子機を受け取ると、彼女に背を向けて、その小さな端末に馴染みの自動車修理工場の電話番号を入力した。すると、女が俺の肩に手を乗せて、俺の肘の所に胸を押し付けながら、俺の手の上の小型子機を覗き込んで言った。

「使い方、分かります? 良かったら、中でお教えしましょうか。今、フルーツを頂いていたところなの。一緒にどう?」

 俺は女から少し離れて、熱を帯びているダットサンを指差しながら彼女に言った。

「いや、結構です。こいつを取りに来てもらうまで、見とかんといかんですから。どうぞ、御構い無く」

「あら、そう……残念ね」

 女は薄い短いワンピースに包まれた凹凸のある体をくねらせながら、俺にそう言った。俺が彼女に会釈すると、子機の受話口から声がした。

『はーい。九八きゅうはちツール・モータースです。只今、留守にして……』

「昼飯なんか食ってないで早く出ろ。俺だ。ハマーだ」

 受話器を上げる音と共に、口に何かを入れたままで答えるオッチャンの声がした。

『なんだ、ハマッチかい。どうした?』

「ハマッチって言うな。俺の相棒がイカレちまった。路上でストンだ。悪いが取りに来てくれないか」

『ああ? この前、ファンベルトとバッテリーを替えたばかりだろうが。なんで』

「まあ、いろいろあってな。とにかく、取りに来てくれ。ゴールデン・ダウンタウンの大通りだ。噴水の少し前」

『今、昼飯中なんだよ』

「悪い、急いでいるんだ。何か、いい代車があれば、それも頼むぜ。悪者を追っかけねえとな」

『まったく、仕方ねえな。お得意様だからなあ。よし。丁度、代車なら、いいのがあるぜ。きっと気に入ると思うぞ』

「そうか、じゃあ、楽しみにしてるぜ。あ、そうだ。ペンチも持ってきてくれ。有るだろ?」

『有るに決まっているじゃねえか。ウチは修理工場だぜ。分かったよ、待ってな。代打選手をレッカーで牽いて、超特急で送ってやるからよ』

「いつも悪いな、オッチャン。頼んだぜ」

 俺は電話を切った。振り向くと、さっきの女がまだ待っていた。女は肩にかかったワンピースの薄い生地を指先で巻いて引っ掛けては離しながら、首を傾けて俺に言った。

「ねえ、修理屋さんが来るまで、時間掛かるんでしょ。暫く、お上がんなさいよ。お茶でも出してさし上げるわ。あら、襟元が汚れてるわね。洗ってあげるわよ。その間にシャワーでも浴びて……」

「いや、結構です。馴染みのクリーニング屋がありますんで。それに……」

 あんたは不細工だ、とは言えなかった。まあ、俺の基準だが。

 念のために言っておくが、仮に彼女が先天的に美人でも、結果は同じだ。日中からこんな接し方をしてくる女性が美人に見えるはずがない。女性の美は性格の中にあると、あのロダンも言ったが、まったくそのとおりだ。実際に彼女の容貌が世間的基準に照らして、どうなのかは分からんが、その時、俺には彼女が猛烈に不細工に見えた。まあ、だから拒否した訳でもないが。

 その露出度の高い女を前にしながら、俺はふと、別の女の事を思い出したので、子機を返す前に、その女にも電話してみる事にした。たしか、あいつの番号は……

『はい? 誰? 何よ、今時、音声通話だけ? 面倒くさいわね。この番号、誰なのよ』

 その女が出た。俺に惚れている女だ。言っておくが、その時、俺の目の前でクネクネしていた女性に比べて、この女は百万倍も美人だ。これは間違いないと思う。俺は、いつものように、素っ気なく答えた。

「俺だ」

『はあ? どちらの『俺』さんですか? 名乗りなさいよ。切るわよ』

 まあ、不器用な奴だからな、仕方ない。感情表現が苦手なのさ。男の俺が大きく受け止めてやるか。

「俺だ、ハマーだ。元気か」

『ハマッチ? 何よこれ、何処から掛けてるの? 民家?』

 相変わらず勘の鋭い奴だ。ま、そのくらいの女じゃなれりゃ、俺とは上手くやっていけない。しかし、もう少し素直に喜べないものか。

『この発信者番号の上二桁、民家の固定電話でしょ。今時、民家の固定電話って、緊急時以外は使っちゃ駄目なのよ。何やってるのよ。通信局から怒られるわよ。何処から掛けてるのよ』

「だから、緊急時なんだよ。今、お前の職場のすぐ近くだ。ゴールデン・ダウンタウンで電話を借りた。どうだ、会えないか」

『残念でした。今、私はそこには居ませーん。警視庁のオーガニック・レストランで婦警さんたちと女子会中でーす。聞こえる?』

 受話口から、無数の黄色い声が響いてきた。俺は小さな子機を思わず耳から離した。そして、今時では死語に近い、その騒がしい「女子会」とやらの最中の女に言ってやった。

「おまえ、昼真っから何やってるんだ。給料貰って宴会か?」

『違うわよ。リコちゃんとご飯食べてたら、人がいっぱい集まってきちゃって、今、この店を貸切り状態』

 すると彼女は、急に小声になって言った。おそらく、口元をイヴフォンのマイクに近づけて、手で隠しながら話していたのだろう。

『でも、丁度良かったわ。これじゃ、ゆっくり食べられない。今時の若い子たちのエネルギーには、正直、負けるわね』

 珍しく弱音を吐いた彼女だったが、すぐに修正した。

『は、いけないわ。同級生のオジサンの声を聞いたら、つい。私としたことが。違う、違う。私は女子大生、私は女子大生。私は女子大生』

 自己暗示も、ここまで来れば犯罪だ。言っておくが、俺は四十七だ。それだけは、はっきりさせておこう。とにかく、俺はその女に要件を伝えた。

「そうか。じゃあ、いつもの場所で会おう。頼みたい事がある」

『その、じゃあの意味が分かんないわよ。何で私があんたに呼び出されて、すたこらさっさと出かけて行かなきゃなんないのよ。だいたい、いつもの場所って、あそこでしょ。ここからだと、今あんたが居る所より遠いじゃないの。なんで、普通に普通の場所で会えないかな』

「探偵には、あの場所がお似合いなのさ」

『あ、そうね、トレンチコートには舟の汽笛が……って、私は探偵じゃないし!』

 俺は、この女の「ノリ突っ込み」に付き合っている暇は無かった。向こうの方から、火花を撒きながら、猛スピードで走ってくるレッカー車が視界に入ったからだ。早過ぎるぜ、オッチャン。焦った俺は彼女に言った。

「じゃあ、切るぜ。探偵には遊んでいる暇は無い。あばよ」

『ちょっ、待ちなさいよ。何時に……』

 俺は小型子機の「切」ボタンを押した。何か重要な事を伝え忘れたような気がしたが、まあ、そんな事はどうでもいい。あの女が元気にしていれば、それでいい。俺はそういう男だ。

 俺が顔を上げると、さっきの女が薄いワンピースの短い裾を握って、太腿の中程より上でヒラヒラさせながら、まだ立っていた。

 彼女は俺に言った。

「なあに、女の人? ニヤニヤしちゃって。私じゃ駄目なの?」

 駄目だ。決まっていよう。と言うわけにもいかず、俺はさり気なく小型子機の発進履歴を消去してから、彼女にそれを返し、礼を言って、その場を離れた。君子、危うきに近づかずだぜ。

 歩道を降りて、ダットサンの横で立っていると、向こうから走ってきたレッカー車が、後ろに別の車を牽いたまま猛スピードで直進してきて、俺のダットサンの横で高い音をあげて急停車した。鼻を上げて牽かれていた後方のベージュの車が、大きくバウンドした。前のレッカー車から汚れた繋ぎ服のオッチャンが降りてきて、ダットサンを見るなり、言った。

「かああ、なんだ、随分とひでえな、こりゃ。何処をどんな走り方すりゃ、こうなるんだ」

「新高速道路でAI自動車と手を繋ぐと、こうなるぜ」

 オッチャンは俺の発言の趣旨がよく分からなかったようで、ダットサンを眺めたまま首を傾げていた。

 俺はオッチャンに言った。

「それにしても、随分と早かったな」

「あったりめえよ。ウチは寺師町のインターのすぐ傍だぜ。地下高速をぶっ飛ばして、そこの山多区の端までシュウッよ」

 オッチャンは口を尖らせて、音を鳴らした。

 俺はオッチャンに尋ねた。

「地下高速道路は強制的に自動走行だろ? それ以上に好きには飛ばせないんじゃないか?」

 オッチャンは、自分の腕を叩きながら答えた。

「そこは、ほら、俺のここよ。ちょっと細工すりゃあ、自動走行に支配されること無く、ピュー」

 オッチャンが油の染み付いた二本指を立てた腕を、流れるように伸ばして見せた。その先には、牽引されてきたベージュの代車が止まっていた。

 オッチャンは自慢気に言った。

「どうだい。気に入ったろ。一九六四年モノの『スバル三六〇』だ。通称『てんとう虫』。航空技術を応用した超軽量構造に、強制空冷二ストローク直列二気筒の三百五十六cc、しかもリアエンジン・リアドライブ方式だぜ。それに、お好みのマニュアルトランスミッション仕様に乾式単版クラッチとノンシンクロメッシュの三速式ときてる。どうだい、浮気するには、いい相手だろう」

「そう言われると、気が引けるがな。だが、マジな話、悪くないぜ」

「キャブレターへのエア吸入口が前方になっている旧式バージョンだが、ま、周りを走っている車は、ほとんどがノン排気の電動AI自動車だ。吸気を気にすることは無い」

「サスペンションは? 油圧式か?」

「贅沢を言うない。バネ式だよ。でもよ、車輪を支えているトレーリングアームには、クローム・モリブデン鋼を使用してるし、トーション・バーの中央位置には補助スプリングも搭載してあるんだぜ。聞いたことあるだろ、『スバル・クッション』。乗り心地は最高よ。いま降ろしてやるからよ、乗ってみな」

「その前に、ペンチは持ってきたか」

「おう。ほらよ」

 オッチャンはポケットから取り出したペンチを俺に放り投げた。俺がそれを受け取り、見ると、先が細くなったペンチだった。俺はニヤリと口元を緩めた。オッチャンは俺の目的を察していた。たぶん、ダットサンが止まった理由も。だから、急行してくれたのだろう。俺は、レッカー車からスバル三六〇を離しているオッチャンに感謝しながら、路上で大人しくなっているダットサンのドアを開けた。そして、運転席のシートのヘッドレストに開いた穴にペンチの先を突っ込むと、中から先が潰れた弾丸を取り出した。一度ガラスに当たってから、それを貫通してシートに当たっていたので、その弾丸は先端から根元まで圧縮したように潰れ、あまり原型を留めていなかった。それで俺は、助手席のシートの隅に開いた穴にペンチを押し込むと、その先が中で硬いものに当たったので、それを掴んで取り出した。見ると、やはり弾丸だった。こっちの弾丸は、直接シートに当たったものだったので、先端が少し潰れているだけで、根元までの円柱形の部分は形を留めていた。次に俺は、ボンネットの方に回った。側面のレーザーナイフの傷が痛々しいぜ。俺は、ボンネットの右隅に開いた小さな穴を確認しながら、前に回った。片方のフォグランプが取れていた。バンパーは大きく変形し、外れてかけて斜めになっちまっていて、格子状の吸気口から涎をボタボタと垂れていた。少し身を引いてボディ正面の全体像を見ると、全体的に左上がりの平行四辺形になっていた。どうりで、ハンドルを取られたはずだぜ。俺は、恐る恐るダットサンの細めのボンネットカバーを空けた。中からゴムの焦げた臭いと共に白黒両色の煙が一斉に解き放たれた。俺は、ハットを取ってそれで扇ぎながら、ボンネットの右隅に開いた穴の下を覗いた。弾は貫通し、何処か下の方に行っている。俺は、その弾を探すのを諦めて、今度は右側の後部ドアの方に向かった。ドアには風穴が開いていて、そこを通る直線を想像して、その上を目で追うと、その先端のシートの上に少し擦れた痕があった。俺は、窓ガラスが割れた後部ドアの窓穴から体を入れて、中に積んでいた邪魔物をどけながら中を覗くと、シートの座面の隅の方に穴が開いていて、中に弾が突き刺さっていた。そこにペンチを持った手を伸ばすと、シートの下の床に、もう一つ弾丸を見つけた。俺はそれを拾ってダットサンの小さな窓穴から体を抜いた。集めた弾丸をポケットに入れながら、ペンチをオッチャンに返した。オッチャンはペンチを受け取りながら、ダットサンの後部座席の床の上に立ててあった、曲がった赤いAIアルファ・ロメロ4Cのドアを見て言った。

「こいつは、相手さんの物かい?」

「ああ。見た事あるか。アルファ・ロメロ4Cのボディに現代式のAIと超電導電気エンジンを積んだ車だ。たぶん、パワーアップの為の特殊なチューナップもしている」

「いや、ウチでは扱った事はねえな。ウチは、見栄えだけの『なんちゃってオールド・カー』は、やってねえしな。郊外の板金屋か他県の修理屋じゃねえか」

「まさか、ドア無し、リアガラス無しで使い続ける事は無いだろうから、必ず修理に出すはずだ。もし、何か情報が入ったら教えてくれ」

「分かったよ。まったく、俺の傑作をこんなにしやがって。何処のどいつだ」

 ほとんどは俺の運転に問題があった訳だが、ま、黙っておこう。

 俺はオッチャンに言った。

「こいつの仇も取るさ。それから、オッチャン。悪いんだが、警察への通報も頼めるか。こんなに撃たれて、隠しとく訳にもいかんからな。警視庁に『三木尾』って刑事がいる。その刑事さんに連絡してもらえると助かる」

「分かった。で、その刑事さんの苗字は」

「苗字が『三木尾』だ。三つの木に尾っぽ。下の名前は善人だ。たしか、今は捜査一課にいるはずだ。名前のとおりで、善い人なんだが、俺が話すと、いつも喧嘩になっちまう。悪いが、オッチャンから、頼む。撃たれた場所は、東西幹線道路の香実区インターの前で一発と、残りは新高速の華世区東インターから下寿達山トンネル前の分岐点までの間だ。このドアは、その時、相手の車が分岐点の所の大柱にぶつけて落としていったものだ。俺の車には六発着弾しているが、三発は俺が抜いて、直接知り合いに鑑定に出すから、そう伝えてくれ。修理の方は、警察の検証が終わってからにしてもらえるか」

 オッチャンは外した手袋を振りながら、了解した旨の仕草をした。俺は、地面に降ろされ四足を付いている「代車くん」に近づいていった。

 丸みを帯びながらも流線形のラインをバランスよく描いているボディは、「カブトムシ」とか「ビートル」と言われたというフォルクス・ワーゲンのタイプ1とは、また違った趣があった。キョトンとした目のような、丸い大きなランプと、小さなボンネットカバーの下の方にある吸気口が、ニコリと笑うチョビ髭の恍けたオジサンの顔ようで、車輪から離れた所に上がっている小さなボディが、その愛嬌のある外観をいっそうひょうきんに見せていたが、屋根の部分の安定感のあるラインや窓枠の形、車内のデザインは、貴賓と優雅さが感じられ、俺には勿体無いくらいだった。俺が運転席のドアに近づくと、オッチャンが俺の名を呼び、俺に鍵を投げた。俺はそれを右手で掴み、前開き式の運転席のドアを開けた。シートに腰を下ろすと、さっきまで上がっていたボディが、大きく下に沈んだ。なるほど、これが噂に聞く「スバル・クッション」か。なかなかいい。シートは、まあまあか。室内も思っていたよりも広く感じた。ヘッドクリアランスもいいし、レッグスペースも十分に確保されている。ん、ペダルは全体的に左によっているのか。オッチャンの改造かな。俺はクラッチとアクセルの位置を確認してから、鍵穴にキーを差し込んだ。ブレーキとクラッチを踏んだまま、ゆっくりとキーを回し、エンジンを掛けた。すると後方から、あまり感じたことのない微妙な振動が伝ってきた。これが横置きエンジンの振動か。悪くない。俺がアクセルを踏んでエンジンを噴かし、その感触を確かめていると、開いていた窓の枠に肘を掛けて、オッチャンが言った。

「どうだい。いいだろ。エアコンが付いてないのが難点だが、ま、長く乗るつもりなら、特別に付けてやる。計器も速度と距離しか付いてねえが、その方がいいんじゃねえか。あんたには」

 俺はオッチャンを見て、ニヤリとした。車のビートは目ではなく、体で感じるもんさ。俺は細めのハンドルを握りながら、オッチャンに尋ねた。

「後輪駆動なんだな。変速機も後ろなのか」

「ああ。そいつも当然に横置きだ。デフギアと一体になってる。ギアチェンジする時の振動が少しあるが、慣れれば気にはならんさ。それから、シャフトに横圧が直接伝わるからな、あまり荒い運転はしないほうがいいぜ。ま、言っても無駄だろうがな」

 俺はアクセルを目一杯に踏み込んで、エンジンを大きく鳴らし、オッチャンに返事をした。オッチャンはニヤニヤしながら言った。

「随分と愛称がいいみたいじゃねえか。でも、入れ込んじゃいけねえぜ。あくまで『代車』だからな。それにコイツは、結構なお天気さんだ。感情の起伏が激しいからな。慎重に扱ってやりなよ」

「まあ、そいつはこれから、よく確かめてみるぜ。助かったぜ、オッチャン」

 俺はシフトレバーを一速に入れると、クラッチを丁寧に戻しながら、アクセルを踏み込んだ。「代車くん」は勢いよく飛び出して行った。俺はクラッチを踏み込んでシフトレバーを二速に入れ、暫く進んで三速にした。少し減速して二速に戻し、ハンドルを右に切りながらステアリングの具合を確かめつつ、噴水のあるロータリーを一周した。そして、再び元来た道を戻り、俺のダットサンを連結している最中のレッカー車の所を目指して、二速に落としたギアを再び三速にして一気に加速しようとした。

 プスン、ガクガク。

 そのテントウムシは、大きく前後に震えながら、惰性で前進して、ヨタヨタとレッカー車の横に着いた。

 オッチャンが呆れた顔で言った。

「だから、『代車』だって言ったろ。もともとスクラップ予定の車なんだから、気をつけて運転しろよ。俺の腕で、何とか走るようにした代物だからな。無理は禁物だぜ。いいな」

 畜生、何だかんだ言って期待させた割には、ポンコツ代車かよ。本来のスバル三六〇は、こんなんじゃないぞ。ま、緊急の代車だしな。仕方ないか。ディーラーが車検の時に貸す、新車買い替えセールスの為のピカピカの代車とは違う訳だ。貸してくれるだけで、有難いと思うことにするぜ。

 俺はオッチャンに礼を言うと、気まぐれな「代車くん」を走らせて、新那珂世ニューなかよ港へと向かった。



 十三

 俺は昼下がりの波止場に車を停めて、車内でその女が来るのを待っていた。探偵に危険は付き物だ。どんな時も気は抜けない。それにしても腹が減った。諸君は忘れているかもしれないが、俺は朝のプラズマ焙煎コーヒーを飲んで以来、朝食も昼食を取っていない。空腹だ。昼食時は疾うに過ぎている。アイ、アム、ハングリー。私はハンガリー人だ。いや、違う。いかん、栄養が足りない。血も足りない。限界だ。俺は疲れた体で、女を待った。暫くすると、赤いAIポルシェがゆっくりと近づいてきて、俺の「代車くん」の隣に止まった。その赤い車から颯爽とスタイルのいい女性が降りてきて、俺の代車の前を通り、助手席のドアの方に回った。女は、前開きのドアに少し戸惑うようにして、そのドアを開け、車の中に乗り込んできた。

 女は俺に言った。

「よう。ハマッチ。元気してた。車、変えたのね。分からなかったじゃない。いい加減に、携帯通話機くらい何か持ちなさいよ。誕生日に私がプレゼントしたアレ、まだ使ってないの?」

 俺は胸のポケットから例のウェアフォンを取り出すと、彼女に見せた。このウェアフォンは、この女が俺の誕生日に俺にプレゼントしてくれた物だ。まったく、探偵はモテて困るぜ。ウェアフォンというのは、もともと腕や太腿などに着装して使用する骨電動式の携帯電話で、軍隊や防災隊では腕時計式の物を使っていたり、スポーツ選手なんかは、首巻式の物を好んで使用していたりする。サングラス式の物もあったかな。まあ、要は体に付けて使用する新しいタイプの携帯電話で、脳に直接に情報を送り込むイヴフォンより少し前に市場に出回った物だが、現在は、イヴフォンと熾烈なシェア争いを強いられている商品種だ。ま、俺はどちらも嫌で、普通の持ち歩くタイプの端末がいいんだが、だからと言って、善さんみたいに、いつまでも「スマホ」を持ち歩く程の原始人ではないぜ。ありゃ、やり過ぎだ。今は二〇三八年だぜ。もっと高性能の小型端末はいくらでもあるぜ。でも、このウェアフォンは、折角、この女がプレゼントしてくれたフルメタルジャケット・シリーズとか言う人気商品らしいから、一応大事に持っておくとしよう。俺は女に、はっきりとそう言ってやったが、逆に契約を未だしていない事を怒られた。まったく、女って奴は。

 女は、昨夜バットが指摘したとおり、例の超合金製のイミテーションパックの事を言ってきた。やっぱり、そっちを付けていないと、機嫌が悪かったようだ。女は、こういう事にうるさい。そのくせ、何時までたっても、靴擦れだの外反母趾だのに悩まされている。馬鹿な奴らだ。自分たちの平均身長が高くなっているのに、販売される靴のサイズや形に文句を言わず、苦痛に耐えて商品に自分たちを合わせようとする。年度末になれば、来年の流行色が発表されて、それに合わせて服や化粧品を買おうとする。着色料の原材料は大抵が鉱物資源だ。採掘量や採掘地の情勢、株価の変動や為替レートの上下によって、一番輸入しやすく儲かりやすい鉱物資源で企業が「流行色」を作っているだけだ。だいたい、流行ってものは、その期間が過ぎて、その事後的な分析で「今年はこの色が流行っていた」とか「こんな物が流行った」と分かるものなんじゃないか。どうして、事前に宣言したものが「流行」なんだ。女っていうのは、そういう事には全く噛み付かない。デパートなんかで婦人服売り場のマネキンを見て、いつも思うのだが、どうして日本人の平均的体形のマネキンを作らないのか。それに着せて可愛くとか美しく見える服を売り出してもらえば、苦行に近いダイエットなどせずに済むだろうに。そういう指摘や要望は出さないくせに、男のミスには猛烈に噛み付いてくる。とくに、装飾品やオシャレに関することで男が何か忘れていると、そりゃあもう、うるさい。この女も、さっきから俺の事をジロジロ見て、あれこれチェックして……。

「ちょっと。あんた、また何か、危ない事に首を突っ込んでいるんじゃないでしょうね。どうしたのよ、その怪我」

 ほら来た。怪我くらいする。ていうか、お前も毎回、顔やら脛やら、どこかしらに絆創膏を付けているじゃないか。それにしても、この包帯の巻き方は少し大げさだ。やっぱり、次にあの病院に行くときは、「松田さん」だ。そうしよう。それがいい。

 俺は適当に答えてから、探偵の仕事の危険さを彼女に教えてやった。男としてバシッとな。すると、その女は少し大人しくなった。

「で、何を調べて欲しいのよ」

 俺は女に要件を伝え、事情をはっきりと説明した。

 女は俺に言った。

「――どうするつもりなのよ」

決着けりをつける」

「ちょっと、馬鹿なこと考えてるんじゃないでしょうね」

 ここから先は男の世界だ。女が口出しする事じゃない。それに、俺に惚れているこの女を巻き込む訳にはいかない。それが俺の本心だった。しかし、この情報だけは、この女でなければ調べられない。何とか、これ以上、この女を巻き込まないようにしなければ……。

 俺はそう考えているのだが、この女はそれに気付いているだろうか。軽い気持ちで頼み事をしていると思っているのでは。どうする。目をパチパチしてみるか。いや、これは真明教の信者たちにも通じなかった。やめておこう。この女が俺の要求を蹴ったら、どうするか。俺は非情になれるのか。この女に対して、非情になれるのか。いや、無理だ。そんな事は、俺の心も望んでいない。どうすればいい……例の「ぶりっ子作戦」か。いや、あれはもっと駄目だ。使えない。俺は彼女をこの難解で危険な事件に巻き込みたくは無い。それが俺の本心だ。出来ることなら、関わらせたくない。だが、ちょっとだけ調べてもらおう。それくらいなら、この女に危険は生じまい。しかし、本当にそう言い切れるだろうか。もし、この女に何らかの危険が迫ったら、その時は……俺がそう憂いていると、女は意外にも素直に俺の要求を呑んだ。その代わり、こちらも一つ要求を呑まされたが、そこは男と女の駆け引きだ、仕方ない。俺は女に、調べさせた情報をいつもの店で受け取ると告げた。そうさ、その店がここ、「モーリ・タック」さ。俺は今、その女が、その時俺が依頼した情報を持ってくるのを、この小汚い店で待っているのさ。

「どこが小汚い店だって?」

「うるさい、お喋りバーテン。少し黙ってろ。今、いい所なんだよ。シッ、シッ。あっちに行け」

 ゴホン。失礼したぜ。

 とにかく、俺はこの時、女にある情報の確認を依頼した。女はそれを了承し、俺の「代車くん」から出て行った。ドアを閉める前に、その女は俺に、自分がプレゼントしたウェアフォンを、ちゃんといつも持っていて欲しいと頼んできた。ほんとうに、まったく、女って奴は、困ったものだぜ。俺が適当にあしらうと、その女は最後にもう一度だけ念を押してから、助手席のドアを閉めた。俺は、ボンネットの前を歩いて横切って行くその女の姿を見て、やはり彼女は美しいと思った。やっぱり、ロダンの言ったとおりだ。女は赤いAIポルシェに取り込むと、一度クラクションを短く鳴らしてから、車を走らせ、去っていった。俺は「代車くん」の中から、その赤い色が遠くに小さくなっていくのを見つめながら、自らの中の押さえきれない欲求を思わず口にしてしまった。

「――腹が減った」

 空腹が限界に達していた。俺は気紛れな「代車くん」を転がして、近くの定食屋に向かった。毎日大量の物資を荷揚げしている、この新那珂世港には、新首都圏内外から多くのトラックがやってくる。当然、その運転手たちを目当てとした飲食店が、近くに軒を連ねているって訳さ。俺が遅くなった昼食のメニューを思い浮かべながら「代車くん」を運転していると、アクセルペダルに妙な感触が伝わってきた。微妙に振動を感じる。クラッチを踏み、ギアをニュートラルにして、一度アクセルペダルを踏み込んでみると、後ろのエンジンから、どうも気の抜けた音しか返ってこない。もう一度クラッチを踏んで、それを戻そうとすると、プスン。まただ。止まりやがった。どうも、こいつは気紛れ過ぎる。俺は考えた。このまま定食屋に行って、レバニラ炒め定食を食べて精を付けるべきか、この「代車くん」を九八ツール・モータースに持って行き、ちゃんと診てもらうべきか。ここからなら、定食屋が近い。しかし、もし、緊急に動かねばならない事態となったら、どうする。このままの「代車くん」では、どうにもならない。俺は探偵だ。任務がある。このままでは、いざと言う時、任務の遂行に支障を来たす事になるかもしれない。しかし待てよ、今、適切な栄養を摂取しておかねば、やはり任務に支障を来たすだろう。俺の体力は限界だ。たしか、撃たれて大量に出血した怪盗ルパンの子孫も、たくさん食べて回復していたぞ。俺は撃たれて出血した訳ではないが、「うたれた」と言えば打たれたし、出血もした。クラクラするくらい大量に。しかも病院で。ここは食べなければ。食は医なり。うん、レバニラ炒め定食だ。

 俺はシフトレバーを動かして一速に入れ、クラッチを慎重に戻しながらアクセルを踏んだ。そして、再度クラッチを踏んで二速に入れようとした時、俺は気付いた。

「そうか。この『代車くん』を修理に出して、その間に食事をすればいいんだ」

 俺はハンドルを切り、「代車くん」を北東に向けて走らせた。都南田高原の東を回って湖南見原丘工業団地の中道を通れば、寺師町の南部に出る。そうすれば、九八ツール・モータースはすぐそこだ。そこに「代車くん」を戻して、再点検してもらっている間に、何か食べよう。近くに何屋があったか、蕎麦屋、ラーメン屋、ハンバーガー・ショップもあったな、ファミレスは……「デリカ・レスト」があるか。あそこの海老ドリアは安くて美味い。いや、こういう時は、肉がいいか、肉、肉、ステーキ、ステーキ、「ステーキハウス・カウ・ウォーター」だ。あの店のステーキランチは安いぞ。ワンコインだ。いや、今回はツーコインで一気にドーンと行こう。俺は綿密な計画を練りながら、「代車くん」を走らせた。俺は間違えていた。脳に栄養も血も回っていない時というのは、人は妙な判断をする。その時の俺もそうだった。今思えば、その時に近場の定食屋でニラレバ炒め定食を食べてから、その後でゆっくり「代車くん」の不具合を検討しておけば、あんな事にはならなかったのだが……。

 俺はフラフラした運転で、湖南見原丘工業団地の中を暫く走って、ようやく、寺師町に出た。この先の、大通り沿いの地下高速道路への入り口の手前を左折すれば、数軒行った所に九八ツール・モータースは在る。大通りを進み、その横道の前に来た。そこで俺がハンドルを左に回した時、「代車くん」はスルスルと力なくエンジンを止めた。そして、俺を乗せた「代車くん」は、それまでの残りの勢いを利用して修理工場の入り口まで何とか辿り着き、再び、そのまま惰性でオッチャンの前まで進んで、ブレーキ無しで自然と停止した。油で真っ黒になった手袋を外しながら近寄ってきたオッチャンに、俺は車内から言った。

「よう、オッチャン。久しぶりだな」

 オッチャンは、呆れたような顔で俺に言った。

「なんだ。もう壊したのか。渡してから一時間しか経ってねえぞ。もっと大事に乗れよ」

「いや、違うんだ。どうも、調子がおかしい。本来のスバル三六〇の能力が発揮されないんだ。本当なら、こいつは、もっと出来がいいはずだろう」

「おかしいな。ちゃんと仕上げたんだがなあ。どら、診せてみな」

 オッチャンは、前開きの運転席のドアを開けた。そして、「代車くん」から降りた俺と入れ替わってシートに座り、再度エンジンをかけて、アクセルを何度か踏んだが、やはりエンジンは不機嫌に停止した。オッチャンは首を傾げた。俺は、腰を屈めて車内に頭を入れて言った。

「な。さっきまで、エンジンの音は正常だったんだ。ギアチェンジも丁寧にすれば、問題なかった。そしたら、急にこの調子だぜ。参った」

 オッチャンは運転席から降りると「代車くん」の後ろに回り、エンジンフードのルーバーに手を掛けた。それを重そうに持ち上げると、中のエンジンルームの上にある燃料タンクに顔を近づけ、その蓋を外して、中を確認した。オッチャンは、蓋に取り付けてあった燃料ゲージを指先でつつきながら、俺に言った。

「ガス欠だよ、ガス欠。リザーブのガソリンも全部使っちまっているじゃねえか。これで走るかよ」

「ガス欠? そう言えば、ダッシュボードに燃料計が無かったような……」

「こいつには付いてないんだよ。もうちょっと後に作られたタイプからは、燃料計が付けられてるんだがな。残念だったな」

「マジか。でも、まだそんなに走ってねえぞ。昭憲田池を一周した程度の距離だと思うが」

「予備のリザーブポジション内のガソリンと俺からのご祝儀分だけで、それだけ走れば十分だろうが。アホ」

「ああ? 満タンにしてくれてなかったのかよ」

「当たり前だろ。今、ガソリンなんてもんが幾らするかは、よーく知ってるだろうが。燃料的には骨董品じゃねえかよ。いくら俺が親切だからって、満タンで渡せるか。自分で入れろ」

 今の時代、ガソリンは確かに高値品だ。あまり需要が無いからな。ほとんどの車がAI電気自動車だから、積んでいるバッテリーパックをフル充電のバッテリーパックに乗せ替えて、前のパックの充電残量との差電量分の金額を支払うって形だ。ああ、AI自動車には、車体の底に非接触式の急速充電装置ってのも、あるらしい。エアコンや室内灯、車内コンセントなんかの電力は、スタンドやスーパーの駐車場に車を駐車している数分で、地下の放電コイルから放出される電磁波を車体の底の充電コイルが受け取って、充電するそうだ。ま、分かりやすく言えば、電動歯ブラシの充電、あれと同じさ。大手のスーパーなんかは、買物すれば、ただで充電してくれるらしいぜ。それから、駆動系統のバッテリーからは独立させている人工知能制御システムのバッテリーは、ボディとルーフの太陽光発電で賄われていて、電力切れでAIが停止する事は、まず無い。だから、AI自動車の充電は、スマートに早く静かに、知らない間にって訳さ。もちろん、知らない間にカードで御代が清算されていたりもするが。ま、とにかく、便利ではある。だから、乗用車に限っての話だが、液状の燃料を入れる車なんてのは、地方の田舎町でもあまり走っていない。それで、ガソリン需要が急激に落ち込んで、今ではほとんどのスタンドがバッテリーパックの交換店だ。そうなると、売れない商品の「ガソリン」は非常に高価になっちまう。税金も高い。採掘天然資源使用者負担税なる訳の分からん税金も払わねばならん。生きにくい世の中だぜ。

 俺は、その小さな修理工場から周りの商業ビルを見回して、オッチャンに尋ねた。

「あちぁあ……マジかよ。どっか、この辺にガソリンを入れられるスタンドは在るか?」

「在る訳ねえだろ。旧市街に数店しかないんだろ? それに、コイツはオイル混合ガソリンをタンクから重力直下させるタイプだからな、普通のガソリンじゃ駄目だぜ。あと、純正のオイル添加剤も要るしな。そうなると、梨花区の旧那珂世港の傍のスタンド、あそこじゃねえと売ってねえんじゃないか」

「参ったな……オッチャンの所にストック分は無いのかよ」

「だから、それをご祝儀で入れてやってたんだろうが。どうして先に、スタンドに行かなかったんだ。まあいいや、あそこのガソリンスタンドのオヤジは、ライン仲間だからよ。連絡して、持ってきてもらうわ」

 オッチャンは俺に手を差し出した。俺は意図を察しかねて、その掌とオッチャンの顔を交互に見た。オッチャンは言った。

「先払いじゃねえと、来てくれる訳ねえだろ。俺が電子決済で建て替えといてやるからよ、その分を先に払えよ」

「マジか……」

 俺は渋々、持ち合わせの紙幣をポケットから取り出すと、それを一枚ずつオッチャンの掌の上に乗せた。適当な額の分を乗せて、残りをポケットに仕舞おうとすると、オッチャンが言った。

「足りねえよ。運搬費用も」

 俺は溜め息を吐いて、もう一枚、紙幣をオッチャンの手に乗せた。

 オッチャンが言った。

「さっきのレッカー代」

 俺は、さらにもう一枚、紙幣を乗せた。愛車のダットサンを人質に取られている身だ。どうしても立場が弱い。子供を学校に出す親が、家庭訪問の際に担任教師の賄賂の要求に応える気持ちがよく分かる。俺の親は、決して応じなかったし、俺が習った先生たちも半分くらいの先生しか要求してこなかったが。

 とにかく、オッチャンは掌に紙幣を載せたまま、さらに言った。

「オイル添加剤の分も」

「くうう」 

 俺は、最後の一枚の紙幣を、オッチャンの手の上の紙幣の上に重ねた。

「俺の電話代は」

「それは勘弁してくれ。頼む」

 オッチャンは受け取った金を数えながら言った。

「分かったよ。じゃあ、そこいらでもブラついて、ガソリンが到着するのを待ってな。すぐに持ってきてもらうからよ」

 俺は幾分かホッとした。だが、手持ちの金は、ほとんど取られちまった。俺は右手でハットを整えながらオッチャンに言った。

「警察の善さんには連絡してくれたか」

「ああ。でも不在だったから、留守番のお姉ちゃんに要件を伝えといた。折り返し連絡が来るそうだ」

「そうか、じゃあ、宜しく頼むぜ。俺もちょっと、給油してくるぜ」

「給油? どうした。顔色が悪いぞ。大丈夫か」

 俺は左手を挙げて背中で挨拶しながら、そのボッタクリ修理工場を後にした。



 十四

 俺は雑踏の中を彷徨った。探偵は孤独な狼だ。荒野を彷徨う狼。絶えず危険と背中合わせで生きているのさ。その研ぎ澄まされた嗅覚で善と悪の臭いを嗅ぎ分けながら。

 ん、この臭いは小龍包だな。美味そうだ。この焦げた感じは、ピザか。ピザもいい。お、こっちはカレーか。シーフードカレーに季節の野菜カレー、どっちも美味そうだ。しかし、俺には金が無かった。ポケットの中には硬貨が数枚だけ。それはワンコインで食べられるステーキランチが注文できる硬貨で無いことは、諸君も察しがつくだろう。す、ステーキランチ……美味そうだ。

 俺は血に飢えた狼のような形相で繁華街を彷徨った。とにかく、何か食わねば。俺は目に入ったハンバーガー店にふらつく足を踏み入れた。

 店内に入った俺の目に、奴らの姿が真っ先に飛び込んできた。狭いフロアに並ぶ若者と無理に置かれた人工の観葉植物の向こうのボックス席に、その二人は向かい合って座っていた。右に座っていた少女は、赤いラインを胸から肩に走らせた銀色のゴム製のボディスーツを着て、頭には水牛のような銀色の太い角を付けたカチューシャをはめていた。左の席に座っていたもう一人も、同じくお下げ髪の上からカチューシャをはめていたが、そのカチューシャには銀色の斧のような鶏冠とさかが縦に取り付けられていた。下も向かいの少女と同じような繋ぎのゴムスーツだったが、色は全身が赤で、肩から胸にかけての銀色の部分には黄色い小さな四角が幾つも並んで全体的に金色に輝いていた。腰には太いベルトをしていて、太腿の辺りには玩具の銃器らしき物を挿したガンホルダーを装着している。二人の足下には、濃紺の揃いのリュックサックが二つ無造作に置かれていた。俺は注文の列に並ぶ事無く、注意深く、その二人が対座している席を回ると、その向こう側のガラス板で仕切られた隣の席に座り、その少女たちの会話に耳を傾けた。

 水牛のような角の少女がフライドポテトをかじりながら言っていた。

「ねえ、朝美。そろそろ、パソコンとウェアフォンを取りに行った方がいいんじゃない。こんなに長い時間、学校をサボってると、バレちゃうよ」

 頭に鶏冠を付けた少女は、紙コップから突き出たストローから緑色の炭酸水らしき物を吸い上げ終えて音を鳴らすと、その紙コップを横に細かく揺らしながら氷をカラカラと鳴らして言った。

「大丈夫、大丈夫。相変わらず、由紀は心配性ねえ。女はね、度胸が大事なのよ。度胸が」

「今朝、国防省ビルの前でビビッてたの、朝美じゃん」

 間違いない。昨日の中学生だ。なんだ、学校をサボっているのか? けしからん奴らだ。昨日のあの防衛装備品は、ちゃんと返したんだろうな。馬鹿共が。事の重大性が全く分かっとらんな。ま、とにかく、学校をサボるのはいかんよな。

「ああ、まあ、ふいんきってのがあるじゃない。タイミングとか。ね」

「雰囲気でしょ。ホントに、コスプレすると、急に性格変わるよね、朝美」

 聞き覚えのある名前の鶏冠のガキは、椅子にふんぞり返っていた。やっぱりこいつだ、俺に「朝美スペシャル」を撃ち込んだのは。ゆるさん。その朝美というガキは、わき腹をポンポン叩きながら言った。

「何が国防軍じゃ。あの門番め、威張りくさりよって。片腹痛いわ、くくく」

「いつも、時代は国防軍だって言ってるじゃん。イケメン軍人の写真集とか持ってるくせに」

「だって、メチャ格好いいんだから、しょうがないじゃん。流行のアイドルなんて、子供、子供。やっぱ、ジャパニーズ・アーミーよ。くー、最高」

 馬鹿中学生が。いつものトレンチコートを着ていないのが幸いしたか、どうやら俺には気付いていないようだ。どれ、ひとつ灸を据えてやるか。

 俺は席を立ち、カウンターへと向かった。並んでいる人の列の間を通って前に進み、カウンターの前まで来ると、その向こうでは制服姿の若い女たちが訓練されたスマイルを無償で客たちに振舞っていた。その中の一人に俺は言った。

「すまないが、電話を貸してもらえないか」

 若い女性店員は、こちらを見ると、黙って店の外を指差した。店員は俺には笑顔をご馳走してはくれなかった。俺が、その店員が指差した先に目を向けると、店の外の広い歩道の向こうに、今では珍しい公衆電話ボックスが建っていた。それを使えという事か。俺は人をかき分けて店の外に向かった。そして、出口のガラス製のドアの前で足を止め、ズボンのポケットの中から小銭を取り出すと、それを数えてから、振り向いて、注文カウンターの上に掲示されている店のメニュー表に目を凝らした。俺は、栄養不足で調子の悪い俺のハイスペックな頭脳をフル回転させて、割高の公衆電話での通話料金と「今だけハーフワンコイン」の激安ハンバーガーの値段を比較計算した。――足りない……。俺がその時に所持していた全財産は、その数枚の貨幣だけだった。それを公衆電話での通話料に使えば、たとえ最安値の圏内通話を最短時間でしたとしても、残った金では「今だけハーフワンコイン・ハンバーガー」は買えなかった。俺は岐路に立たされた。このガラス製のドアを開けて出て行くべきか、このままあの列に並ぶべきか。俺には栄養が必要だ。しかし、中学生にお仕置きも必要だ。けじめをつけさせて社会のルールを教えてやるのは、大人の責任だ。しかし、それをすると、俺はあの「今だけハーフワンコイン・ハンバーガー」を食べることが出来ない。くそ、あの忌々しい中学生どもめ。待て、あの端の方に書いてある「十六分の一ピザ」、あれなら食えるぞ。地下リニア一駅分の運賃と同じだ。十六分の一か……いやいや、電話がすぐに終われば、十六分の三はいけるかもしれん……。半分の半分より、ちょっと少ないくらいか。まあいい。食わんよりマシだ。よし、コスプレ狂いの馬鹿中学生め、大人のリベンジがどれだけ恐いか、思い知らせてやる。待っていろ。

 俺は店の外に駆け出した。そして、そのまま、歩道の隅に建てられた公衆電話ボックスに飛び込むと、周囲のガラスの色を変えるスイッチを入れ、立体画像視認識用のグラス付のヘッドセットを装着し、持ち合わせの硬貨の中から二枚の硬貨を投入口に放り込んだ。四方の窓ガラスのうち、入り口以外の三方が白く濁り、メインモニターが指示を表示しながら、合成音声がそれを読み上げた。俺は指示に従いモニターの接触パネル上のボタン画像に触れると、目の前に立体表示で企業の宣伝が流れ始めた。それを見るのが面倒くさかったので、俺はそれをスキップするボタンを押そうとしたが、そうすると通話料金が割高になってしまうので、それを我慢して見ることにした。俺は延々と新色ファンデーションと超高性能生理用品のコマーシャルを見せられた後、ようやく、電話を掛けることが出来るようになった。その時、俺は思った。しまった。電話番号が分からない。電話会社に問い合わせか。有料だよな、畜生。ピザが十六分の二になっちまう。半分の半分の、そのまた半分じゃねえか。ええい、仕方ない。俺は、電話会社の「電話お繋ぎサービス」の番号を入力した。大企業の大規模回線や国、自治体、特別使用の許可を取っている個人などの回線以外は、すべて携帯型通信端末になっていて、許可を取っている一般家庭でも非常時以外では固定電話の使用が禁止されている現在では、昔のように電話番号そのものを教えてくれるサービスは、どの電話会社も実施していない。その代わり、こちらの氏名と個人識別コードを入力すれば、探している相手の電話番号を電話会社の方で調べて、直接繋いでくれる。勿論、相手が電話番号情報を公開、つまり、昔で言うところの「電話帳に載せている」場合の話だが。俺は、その「電話お繋ぎサービス」で、あの中学生の親の職場か、通っている学校か、どちらの番号を探してもらうべきか迷ったが、結局、確実に公開しているはずの学校の名前を告げた。たしか、波羅多学園の新志楼中学だったはずだ。ビンゴだった。サービスが電話を新志楼中学に回すと、すぐに、あの甲高い声の女性教員の立体映像が目の前に浮かんで見えた。リカコ先生だ。

『はい。波羅多学園グループ、新志楼中学、職員室でございます。あら、昨日の探偵さん』

「ああ、昨日はどうも。あの、早速ですが、ちょいとお尋ねしますがね。おたくの生徒さんは、学校をサボって繁華街で遊んでいても、何も怒られないんですかね。もしそうなら、おたくの学校は本当に良い教育をされていますなあ。自由気ままに生き放題だ」

『どういう事でしょう』

「いやね、昨日、私にカンチョウした女子生徒、何やら、朝美とか、由紀とか呼び合っていましたがね、彼女たちを寺師町のハンバーガーショップで見かけましてね。また妙なコスプレを着てましたよ。ちょっと、おたくの情操教育も、やり過ぎじゃないですかね。とにかく、まあ、平日のこんな時間に中学生がコスプレして街で遊んでいれば、目立ちますからな。警察に補導でもされちゃいかんと、ちょっと、気になりまして」

『まあ、本当ですか? 信じられませんわ。あの子たちったら。よく、言い聞かせておきますので、ご心配をお掛けして申し訳ありません。当校としましても、今後しっかりと指導して参り……』

 俺は電話を切った。よし、チクってやったぜ。ざまみろ。怒られるぞお。ぬふふふふ。

 俺は、ほくそ笑みながらヘッドセットを外し、電話機の上に戻して、ガラスの色を透明に戻した。俺の正面と両脇のガラスが透明になり、その向こうに外の景色が広がった瞬間、また、俺の目に、俺の怒りを呼び起こさせる奴の姿が飛び込んできた。奴は通りの反対側の歩道の上を、白の上下のスーツを雑踏の中で一際目立たせて歩いていた。奴だ。刀傷の男だ。俺は公衆電話ボックスの折りたたみ式のドアを慌てて開けると、そこから飛び出した。

 公衆電話ボックスから飛び出してきた俺に驚いた若い女が短い悲鳴をあげた。俺が通りの反対側に目を遣ると、奴もこっちを向いていた。奴は雑踏の中を走り出した。俺は奴を追った。奴と並行して走り、人ごみの中を、ハットを押さえながら進んだ。奴は地下への入り口に入って行った。俺は通行人を押し退けて、手すりを飛び越え、地下道への階段を駆け下りた。地下に降りると、こちらからは、通りの反対側からの階段への連絡通路しかなかった。俺は、その連絡通路を、人を避けながら走り、奴が降りた方の地下道に出た。奴の姿が見当たらない。奴の身形は、真っ白のスーツに白いワイシャツ、白いネクタイ。白尽くめだ。そこが集団結婚式場でもない限り、かなり目立つはずだった。俺は人ごみの中を注意深く探索した。そして、ある標識が目に入り、その標識の示す通り、階段を駆け下りた。長い階段を下り、暫く地下商店街を走って、更にもう一度長い階段を駆け下りると、そこは地下リニアの駅だった。地下リニアのホームに入っていく奴の後姿が見えた。俺はそれを目で追いながら、地下リニアの切符売り場に急いだ。新首都新市街の地下リニアについては、ここに音声案内付の看板が出ているぜ。悪いが、それを読みながら聞いてくれ。俺は今、忙しい。

 都営環状地下リニアモーター鉄道のご案内。

 都営環状地下リニアモーター鉄道は、二〇二二年に遷都宣言と同時に開通しました。二〇二三年にSAI五KTシステムと運行管理システムを接続して、世界一安全な乗り物となっています。

 当都営環状地下リニアモーター鉄道には、内回り、外回りの二つの環状路線があります。内回り線は昭憲田池を中心に時計回りにリニアモーター列車が走っており、外回り線は反時計回りにリニアモーター列車が走っています。各路線上には、時計の文字盤と同じ配列で一番駅から十二番駅までが設置されており、それぞれの駅に名前が付いています。案内アナウンスの際には、駅番号の後、各駅の名前を申しますので、ご注意下さい。内回り線、外回り線ともに各路線上を常時六機のリニアモーター列車が定間隔で走行しています。なお、各リニアモーター列車は各駅停車で走行しており、快速列車、特急列車は走行しておりませんので、ご注意下さい。また、新首都総合空港への直結線は、六時の駅からの発車です。ホームは下の階となっておりますので、専用エスカレーター、エレベーター、階段をご利用下さい。各リニアモーター列車は全長五十五メートルの車両の五両編成であり、先頭車両から最後尾の車両までは約三百メートルの長さがございます。停車時の各ホームには、車両停止位置に対応した階段、またはエスカレーター、エレベーターが設置されておりますので、お降りの際は、ご利用の地上出口までの通路に対応した各ホームの最寄りの階段、またはエスカレーター、エレベーターをご利用下さい。なお、リニアモーター鉄道は超電導による磁力を利用しておりますので、内回り線と外回り線は各別のトンネル内に設置されています。内回り線と外回り線の各路線間の乗り換えは、一度ホームから上階へ上がっていただき、他方のホームへ降りていただかなければなりませんので、お乗り間違いにご注意下さい。それでは本日も、リニアモーター列車での快適な移動をお楽しみ下さい。

 どうだ、地下リニアの全容は解かったかい? ま、そのうちに慣れてくるさ。

 とにかく、俺は有り金の全てを硬貨投入口に放り込むと、二駅分の運賃ボタンを押し、切符を買った。券売機から勢いよく飛び出してきた厚めの紙片を引き抜くと、俺は改札口へと全力疾走した。切符を通過させ、改札口を過ぎると、俺は左右の階段への下り口を交互に見て奴の姿を探したが、奴の白い姿は見当たらなかった。外回りか、内回りか、どっちのホームに行ったんだ。奴が俺を撒くとしたら……奴は車内で俺に捕まりたくはないはずだから、そう長くは乗らないはずだ。ここは寺師町南駅で二時の位置にある。時計回りの内回りなら、次は湖南見原丘工業団地、その後二つの駅は建設中の駅で、まだ、どちらも閑散とした駅だ。つまり、リニア列車を降りてから俺に見つかりやすい。六時の位置の都南田高原下駅は、空港線と連結している巨大駅。この時間なら空港からの人と本線の利用客で大混雑しているはずだ。人ごみに押されて簡単には逃げられないだろう。それ以上先の駅まで乗っていれば、車内で俺に見つかるはずだ。だとすると、外回りか。次の一時の位置の駅から九時の位置の駅までは、財務省下駅、有多町南駅、都庁下駅、スカイタウン東駅、昭憲田西駅と人の乗降が激しい巨大地下駅が続く。九時の位置の昭憲田西駅までにリニア列車を降りれば、雑踏の中に姿を潜めることが出来る。奴は外回りに乗る!

 俺は、左の方にある外回り線のホームに続く階段の下り口に向けて駆け出した。階段を下りると、既にホームにはリニア列車が到着していて、透き通った強化アクリル製の安全壁の扉と連動させて、全ての乗降口の扉を開いていた。俺は階段を三段ずつ跳んで駆け下り、そのまま階段から一番近いリニア列車の乗降口に走ると、扉の閉塞を知らせるアナウンスが鳴り止むとほぼ同時に、閉まりかけの扉の隙間から車内に飛び込んだ。俺の背中ギリギリの所でドアが閉まり、発車を知らせるベルの後、そのリニアモーター列車は動き出した。その車内は結構に混み合っていた。全く身動きが取れない程ではなかったが、立っている乗客の肘と肘がぶつかる程度には、人が詰め込まれていた。緩やかに助走を始めたリニア列車は、無音のまま少しずつ車体を浮かせると、急激に加速して行った。これだけ高速で走っているのに、乗り心地は抜群だ。車体が揺れたり進行時や停車時に体が持っていかれる事も無い。いたって静かでスムーズだ。短時間で加速する割りに、重力加速度も感じない。よく出来ているぜ。だが、その時の俺は、そんな事など、どうでもよかった。次の財務省下駅までは、三分弱で到着する。急いで車内を探して奴を見つけないと。幸い、俺が乗り込んだ車両は最後尾の車両で、乗り込んだのも一番後ろの扉だ。奴はここから前にいる。俺は立っている乗客、座っている乗客を注意深く確認しながら、前に進んで行った。そうして、最後尾の車両を端まで進んだが、この車両の中に奴の姿は無かった。俺は、強化ゴムで周囲を覆われた連結部分を通り抜け、四両目の車両に入った。全体を奥まで見通すと、少し先に白いジャケットを着た男を見つけた。俺はその男を目指して立ち乗りの乗客をかき分けながら、前に進んだ。車内には一定間隔で防犯用の全方位多角カメラが設置されている。各車両の前後には、警備ロボットも格納されているはずだ。奴はここの中では暴れないだろう。捕まえるなら今しかない。俺は焦る気持ちを抑えながら、乗客の間を前に進んだ。そして、ついに、乗降ドアのすぐ前に立っている男の白い上着の肩を掴み、こちらを向けた。俺は言った。

「あ、いや、人違いでした。すみません」

 その男は若く、ジーパンの上にTシャツ、その上に白いジャケットを羽織っていた。勿論、顔に傷も無かった。俺は周囲を見回し、今通った車両の部分に奴が乗っていない事を確認してから、更に前方の乗客に注意しながら前に進んだ。左右の椅子に腰掛けている乗客や、立っている乗客の一人一人を確認しながら進んだが、車両の中ほどまで来ても、奴の姿を見つける事は出来なかった。もしかして、奴は内回り線に乗ったのか。いや、白いジャケットを脱いで、白いワイシャツ姿になっているかもしれない。ワイシャツ姿のサラリーマン風の男性は、車内を見渡す限り大勢いる。俺は、男性で奴と背格好が似た乗客の顔を一人ずつ確認しながら、少しずつ前に進んだ。俺が四両目の先頭に辿り着いた時、車両が少しずつ降下しながら速度を弛めているのが外の景色の流れで分かった。やがて、停車を知らせる車内アナウンスが響いた。

「一番駅、財務省下駅、一番駅、財務省下駅でございます。お降りの際は足下にご注意ください」

 乗客たちは、その車内アナウンスを聞いて初めて停車に気付いたように、いそいそと席を立ったり、降車のために移動を始め、車内の人々がうごめきだした。俺は降車する乗客の流れに乗り、四両目のリニア列車の一番前のドアから降りた。ドアと連動して開いた透明強化アクリル製の隔壁のドアをくぐり、ホームに出るとすぐに車列の前方に向けてアクリル製の壁際を前に進んだ。そして、三両目の車両の一番後ろのドアの前で、そのドアからと、その二十メートルほど先のドアから降りてくる人を確認した。白いジャケットだ。着ているか、手に持っているか。とにかく、顔に大きな刀傷がある男。俺は頭の中でそう繰り返しながら、降りてくる男性に注意を払った。すると、俺が立っている横のドアの一つ先のドアから、こちら側の列を奴が降りてきた。奴はホームに出るとすぐに俺に背中を見せて、まだ降りてくる人を避けながら、リニア列車の進行方向に沿って歩き始めた。そしてすぐに、奴は立ち止まった。まだ乗車する人と遅れて降車する人の列に阻まれたのだ。それを見た俺は、横のドアからリニア列車の中へと乗車する人の列をかき分けて、前に駆け出した。奴は左右から流れる乗降客の人波の中に入って行き、その中に姿を消した。人波からようやく抜け出た俺は、ホームの縁をリニア列車に沿って全速力で走り、奴を追おうとした。丁度その時、人々の乗降が終わり、リニア列車に乗り降りする人々の姿が乗降用のドアの前から消え、ホームの縁を向こうまで見通せるようになった。俺はその光景を見て思わず叫んだ。

「しまった!」

 奴はまだ乗降用のドアの前に立っていた。奴が振り向いてニヤリとした瞬間、列車のドアが閉まるアナウンスが鳴った。俺は車両のドアとドアの中間地点の少し手前で、慌てて踵を返した。そして、さっき通り過ぎた三両目の一番後ろのドアまで再び全速力で戻り、そのまま中に飛び込もうとした。しかし、俺は閉塞した強化アクリル製の隔壁のドアに衝突し、リニア列車に乗り込む事が出来なかった。その頃、奴は既にそのリニアの車内に乗り込んでいた。奴を乗せたリニアモーター列車は、透明の強化アクリル製の隔壁の向こうで音も無く、ゆっくりと滑るように流れ出し、発車して行った。俺が隔壁から下がって車両の先を見ると、一瞬、車内から窓に体を近づけて、こちらに向けて手を振る奴のニヤけた顔が見えた気がした。俺はその場で、一度だけ地団駄を踏んだ。そのリニアモーター列車は、地下の闇の中に小さくなって消えていった。



 十五

 俺は、三連敗に肩を落としながら、トボトボと財務省下駅の階段を上って行った。ホームからの階段を上りきり、連絡通路に出て、キヨスク・コンビニの前を通った。そこでは、名物の「ワイロ饅頭」を売っていた。札束の形をしたシュールなデザインの饅頭だ。だが、その時の俺は、それを見ても、とても笑う気にはなれなかった。そんな気力すら無かった。あのリニア列車の出口から動かずに、奴の動きを確認しておけば……ドアが閉まってからでも奴には十分に追いつける距離だったし、ああやって奴が乗り込んだら、自分もすぐに乗り込んで、車内で奴を捕まえる事が出来たはずだった。完全に判断ミスだった。拙速が過ぎたって奴だ。やはり、朝から何も食べていないからだろう。あの時、まず、ニラレバ炒め定食を食べておけばよかった。俺は心底から後悔した。

 俺は駅構内で自動現金預払機、いわゆる「ATM」を探した。電子決済が主流となっている現在では、公衆電話と同様に、めっきり姿を消した機械だ。第二回東京オリンピックの際に、旧首都圏内で外国人によるATM強盗や、ATMを破壊しての窃盗などが多発したのも、ATMの数が減った大きなきっかけとなっていたが、やはり、一番の理由は、オレオレ詐欺に始まった特殊詐欺事件を警察が刑法の一般的詐欺罪の条項のみで対処し続けて、その根絶を図る事が出来なかったからだろう。過剰な本人確認や振込み限度額の低額設定など、利用するのに御世辞にも便利とは言えなくなったATMに顧客は寄り付かなくなり、その利用者数を大きく減少させた。その結果、現金取引が激減し、反面、電子決済が主流となって、巷では手元の端末での生体認証と犯罪被害保険により担保された電子送金を利用する者が急増した。各金融機関はATMのメンテナンス費などの維持費用を、その使用料収入で賄えなくなり、多くの金融機関がATMを撤去していった。それにより、さらに現金の流通量が減り、社会は急速に電子決済社会へと移行していった。ま、そういった流れに逆らっている俺みたいな人間もいるがな。俺は現金主義だ。現ナマは、停電になっても、SAI五KTシステムが停止しても、経済的効力が失われる事は無いし、ハッカーによる電子強盗の被害に遭う事も、入力ミスによる過失破産を引き起こす事も無い。それに俺は探偵だ。探偵は地方に出向く事も多い。地方に行けば、やはりまだ現金取引が主流で、特に町村レベルの小都市では、高齢化と過疎化がピークに達している事もあり、何処の店に行っても、客も店主も売り子も老人ばかりだ。電子決済などという、ややこしい取引は毛嫌いされている。だから、そういう街で動く時には、必ず現金を持っていないと駄目だ。それに、俺の住む旧市街では、高齢化率が地方都市並みに高いので、日常生活でも大抵が現金取引だ。あのバットみたいな馬鹿を除いて。皆、その街に住むあらゆる年齢層に対して気配りして生活している。それがコミュニティーって奴さ。ただ世帯同士の人間関係が出来上がっていればいいというものではない。大抵の店では電子決済の他に、現金でのつり銭も準備しているし、電子決済の出来ない店に行っても、誰も文句は言わない。ノープロブレムだ。人間社会の本質を失っていない街だから、旧市街などと言われながらも、世界最先端のメトロポリスの隣で、しぶとく生き残っていけるんだ。さてと、俺も旧市街の人間らしく、もう少し、しぶとく頑張ってみるとするか。

 俺は何とかATMを見つけて、自分の口座から現金を引き出す事が出来た。流石は財務省下駅だ。寺師町では、ほとんどATMを見かける事は無いからな。ま、とにかく俺は、現金を手にした安心感と預金が減った不安感が入り混じった複雑な心境のまま、再びホームへと階段を下った。そして、残っている一駅分の乗車券を使って、再び地下リニアに乗った。

 俺は、地下リニアで一駅移動して、有多町南駅にやって来た。官庁街の中にある馴染みのレストランに行くためだった。今日は何となく運が悪い。そういう時は、通い慣れた店に行くに限る。

 俺は改札を出て、有多町南駅の長い地下道を歩くと、幅の広い階段の中央に設置されたエスカレーターに乗った。普段の俺の主義からすれば、自分の脚の筋肉を使って階段を上っているところだが、その時の俺は、空腹で目が回りそうだったので、緊急措置として自分の主義に沿わない選択をした。アクビが出る程に長いエスカレーターで、ゆっくりと上階まで運ばれた俺は、再び長い地下道を歩いて、最後の仕上げのように設置された階段を上り、やっと地上に出た。どうせエスカレーターを作るのなら、どうして最後まで作らないのか。歩行困難者などは、大変だろうに。途中にエスカレーターが設置されていれば、その先にも設置されていると考えて、そのエスカレーターに乗っちまうじゃねえか。その先に続く狭く長い地下道を人ごみに押されながら、ようやく歩いてきても、最後に普通の階段かよ。ただでさえ歩くのが不自由な人が、また、そこから引き返さないといけないだろ。何考えてんだ。地上に出た俺は、地下リニアへの降り口の横の歩道の上で、周囲の建物を見回した。少し向こうには、警視庁のビル。その向いには警察庁。手前には総務省、目の前は厚生労働省のビルが建っていた。国土交通省のビルは、寺師町との境の財務省下駅の真上にある財務省ビルの斜向かいに建っているから、ここには無かった。俺は軽く溜め息を吐くと、歩道の上を腹に手を当てながら歩いて行った。

 俺は、三歩足を進める度に音を鳴らす俺の胃袋を押さえながら、その歩道の端の交差点を渡った。そこは、俺が昨日、尾行の際に赤信号に掛かった交差点だった。長い長い横断歩道を、ようやく渡り終えた俺は、警察庁の横の道を南に進み、裏通りに出た。もう一つ、横断歩道を渡ると、暫く進んで、今度は横道を左に入った。向こうのブロックまで抜けているこの道は、片側一車線の二車線道路で、両側の広い歩道の脇には、常緑の綺麗な形の葉をつけた木が等間隔で植えられている。まばらに木陰を映す歩道の上には、西洋風の石畳が敷かれていた。本物の石畳だから、ハイヒールのお姉ちゃんは歩きにくくて、大変だ。だが、女性客は多い。ここの通りは飲食店が軒を連ねている。官庁街の公務員たちをターゲットにした、ちょっと小奇麗な店が多い。女子大生たちにも人気だ。ま、目的はいろいろだろうが、とにかく、女子大生も多く歩いている。俺は、この活気と希望に満ちた爽やかな通りを、鼻歌まじりでスキップしながら進んだ。だが、四回目のスキップから着地すると、俺の腹が空襲警報のように大音量で音を鳴らしたので、俺は恥ずかしくてスキップを止めた。俺が少し前屈みになって右手で腹を押さえたまま左手で頭の上のハットを押さえて、周囲をキョロキョロと見回していると、俺の視界にお目当ての店の看板が飛び込んできた。オーガニック・レストラン「サノージュ」だ。ここの食材は新鮮だ。しかも全て天然モノ。空腹の限界に挑戦し、そこから胃袋のパフォーマンスを回復させなければならなかったその時の俺にとっては、最適の店だった。その前の道路を挟んだ向かいには、「カフェ・二〇〇七」もある。単純なネーミングの小さな店だが、ここのホットサンドとブルーマウンテン・コーヒーは、味に深みがあって美味い。ホットドッグも美味いぞ。老舗の味だ。少なくとも、あの中学生のガキ共には分からない味だろう。大人には大人の味覚ってものがある。ガキは緑色のジュースでも飲んでいろ。ケッ。

 ともかく俺は、この二軒の馴染みの店のうち、どちらに行くか迷った。そこで、例の方法で決定することにした。

「どーちーらーに、しーよーおーかーな」

 サノージュだった。天は俺に、オーガニック・レストランに行けと命じていた。俺はその場から一目散に、サノージュへと駆け込んだ。

 俺は店内に入るとすぐに、店員に用件を告げた。

「外の看板に書いてあった、『旬のスタミナセット』をくれ。俺には今、スタミナが必要だ」

 店員は笑いを堪えていた。

 俺は広い店内を見回し、他の客の位置と数を確認してから、敵が潜んでいないかを確認した。確認は大事だ。大丈夫、敵はいない。だが、安心するのはまだ早いぜ。二流の探偵は、ここで安心して適当に席に座るから、駄目なのさ。危険は、いつ、どこから訪れるとも限らない。賢い兎は巣穴を二つ以上持つと言うが、俺は兎以上に賢いつもりだ。さっきのスキップだって軽やかだったぜ。まあ、それはともかく、俺は店内を見回し、裏口を探した。『危険』と戦う男は、常に、いつ襲ってくるかも知れない『危険』からの退避路を確保しておかなければならない。表に出入り口がひとつしかない、そんな店には俺は入らない。俺の主義だ。俺は厨房へと続く従業員用のドアを確認した。よし、前に来た時と変わっていない。そのドアの向こうの広い厨房には、外に通じる裏口があったはずだ。いざと言う時には、そこが脱出口になる。だから、俺はいつも、その厨房へとつながる従業員用のドアの傍の席に座る。そして、食事の時も、周囲への注意は怠らない。それが俺の主義だ。その日も俺は、俺の主義を通すはずだった。しかし、その日は、そのいつものお気に入りの席にカップルが座って幸せそうに食事をしていた。勿論、知らない俺が、そこに相席させてもらう訳にはいかない。しまった、こんな時はどうすればいいんだ! 俺は悩んだ。途方にくれた。探偵の俺が、危険な他の席に座る訳にはいかない。しかし、注文をしてしまった以上、今更、店を出る訳にもいかない。きっと、もう、俺の注文に合わせて、コックさんがデミグラスソースの温めに入っているはずだ。玉葱も切っているかもしれない。

 焦った俺が店内をキョロキョロとしていると、ウェイトレスさんが近づいてきて、俺に言った。

「あちらのお席が、空いております」

 その店員さんが指差した方角を俺は見た。通り沿いの窓際の、しかも、壁全面がガラス窓のところにピタッと付けて置かれているテーブル。一番危険じゃないか。しかも、恥ずかしい。なんで、通りを歩く人たちに俺の食事風景を晒さないといけないんだ。ここは、ホームドラマのスタジオか。しかし、現実には、他の席はどこも空いていなかった。そのウェイトレスさんは、俺の承諾を確認する前に、さっさと水の入ったコップを、その窓際の危険で恥ずかしい位置のテーブルの上に置いた。それとほぼ同時に、俺の腹が再びけたたましく鳴った。ウェイトレスさんは笑いを堪えながら、俺の前を通り過ぎていった。「背に腹はかえられぬ」という。実際にそんな事をやってみようと考えた馬鹿が居たのかは別として、その時は緊急事態だった。俺は俺の主義を曲げて、その窓際の席に座ることにした。

 注文の品が来るまでの間、俺は電子新聞を読んで待つ事にした。今朝はいろいろと忙しくて、新聞を読む暇がなかったからな。それに窓際の席は恥ずかしい。新聞で顔を隠しておくのがいい。テーブルの脚の所に立てられた電子新聞用の二本の棒の束を、ホルダーから抜くと、胸の前に持ってきた。丁度、新聞紙の縦の長さくらいのその棒の束を、左右の手で一本ずつ握り、そのまま左右に広げると、棒の中に巻き込まれていた薄い液晶シートが二本の棒の間に広がった。俺は右の棒のスイッチを押して、その液晶シートにネットから配信された新聞記事を表示させた。

 新聞には、「深紅の旅団」が行軍中に公道上で一斉エンストを起こした先週末の騒動の記事が大きく載っていた。この事件の詳細については、自分で電子新聞紙を読むか、この事件に関係した他の誰かに詳しく話してもらってくれ。とにかく、俺が読んだ新日ネット新聞の、その事件についての記事の見出しは、「野党 徹底的原因解明を要求」とか、「政府は極秘出動の目的を明かさず」とか、「与野党論戦 防衛予算委員会協議難航」などというものだった。まったく、的外れな事ばかりほざいているぜ。同級生の神作に言っておくか、政府の情報隠蔽よりも、お前さんの娘が「深紅の旅団」のアーマースーツを着てコスプレ勤労奉仕をしていた事の方が、問題としては深刻なんじゃねえかってな。俺が気付いてないとでも思っていたのか、あの馬鹿中学生が。思い出しただけで腹が立つ。尻の穴もズキズキしてきた。ホント、教育って大事だぜ。

 俺はまた、ブツブツと独り言を発していた。

 俺は、紙の新聞と同じ大きさの液晶シートの両端の棒の部分を、左の棒の方に右の棒の部分を持ってきて、また右に戻した。すると、液晶シートいっぱいの大きさで表示された新聞紙の画像が、左から右に頁が捲られて、次の社会面の頁になった。今日も、SAI五KTシステムの不調を危ぶむ記事が紙面を埋めていた。このところ、システムが機能不全を起こす事が続いていたからな。停電も多かった。世界最高のスーパーコンピュータ二機を繋いだ、日本が世界に誇る大型メインコンピュータ・システムだからな。今のところ、ちょっとした停止で済んでいるが、もしこれが本格的に止まったら、世の中は大混乱さ。AI自動車も公衆立体電話も、地下リニアも地下高速も、やっと全面的に繋がりそうな全国の新高速道路も、何もかも使えなくなっちまう。だから、世の関心は、すごく高い。そして、その時流に乗らんとばかりに、OSに根本的欠陥があるとか、担当の技官を刷新しろだとか、まあ、いろいろと学者さんたちが言いたい放題だ。紙面には、何やら理科系の難しい単語がズラズラと並んでいた。それにしても、電子新聞紙は読みにくい。ま、俺が慣れないせいか。俺は左右の棒を入れ替えて持ち直し、液晶シートを裏返すと、裏面に表示された新聞の一面とテレビ欄の画像を見ることも無く、また、今度は左の棒を右に持ってきて重ねてから、再び左に戻した。液晶シートの新聞画像の頁が右から左に捲られた。俺はその中の三面記事から、昨日のトラック運転手の記事か、それらしい記事が載っていないか探した。いくら探しても、どこにも彼の死についての記事は載っていなかった。国民が一人いなくなっているんだぞ。なぜ記事にならない。俺は苛立ちを抑えながら、電子新聞紙の頁を同じ方法で少し荒く捲った。するとそこに、「旬のスタミナセット」が、鉄板に肉汁を焼き付ける音と、香ばしいデミグラスソースの匂いと湯気を立てて運ばれてきた。来たぞ、命の源! 平皿の上に盛られたシーフード・ピラフとガラスの器に盛られたサラダ、そして、別皿に盛られた椎茸のホイル焼き。うん、完璧だ。俺は心の中でそう呟くと、電子新聞紙をいそいそと片付け、ウェイトレスさんが去っていくのも待たず、フォークとナイフを手に取った。そして、俺の目の前で、熱せられた鉄板の上に横たわっているステーキ君とハンバーグ君、そしてエビフライちゃんに向かって、こう言った。

「君たちの捧げし命に感謝する。俺の血となり肉となって生き続けてくれ。俺も君らの分まで精一杯、清く正しく生きようぞ。感謝。いただきます」

 俺は食った。今朝から、朝食、血、昼食、財布の金を、この順番で抜かれていた。普通なら死んでいる。だが俺は探偵だ。ここを生き抜く精神力を有している。だからここまで辿り着いたのだ。とにかく栄養を摂取して、ここから巻き返しだ。まだまだ戦うぞ。悪には負けない。だから、まずは、さっさと食べてしまおう。俺はその時、夢中で食べていた。

 俺が「旬のスタミナセット」を食べ終わり、御代りのシーフード・ピラフを食べていると、ふと、窓の外から視線を感じた。俺が口にスプーンを差し込んだまま窓の外に目をやると、歩道の上で立ち話をしている女子大生らしき若い女性の三人組の一人と目が合った。俺は無視して食べ続けたが、どうも、彼女はずっとこちらを見ているようだった。話は変わるが、俺の好物はステーキ・ピラフだ。美味い店も知っている。あ、店の名前は後で教えるが、一応、裏メニューだぜ。とにかく、シーフード・ピラフは、特に好物と言う訳ではない。腹が減っていたので、御代りをしただけだ。だが、俺が言いたいのは、そんな事ではない。ここのレストランのシーフード・ピラフは、天然の魚介類を使っている。人工細胞で培養された、いわゆるクローンのイカや貝は使っていない。米も無農薬米のオーガニック物だ。そう聞いている。だが、果たして本当にそうなのか。これは確かめてみる必要がある。俺はスーツの内ポケットに手を入れた。そして中から、サングラスを取り出した。これは普通のサングラスではない。特殊偏光レンズ付のサングラスだ。赤外線や不可視レーザーなどの、目に見えない光線をくっきりと映し出す特別なサングラスだ。レーザーカメラと同じく、探偵の七つ道具の一つさ。業界紙の後ろの方の頁に載っている通販で購入した。俺は、その特殊偏光レンズ付のサングラスを装着した。二杯目も途中になっていて今更だが、もし、このシーフード・ピラフの中に入っているイカがクローンのイカなら、外界の光に反応して、特殊な光を発しているはずだ。薄っすらと紫色に光っているかも。俺はそのレンズ越しに、手許のシーフード・ピラフを覗いた。何も光っていなかった。よし、本物だ。看板に偽りなしだぜ。念のために言っておくが、窓の外の女子大生の視線が恥ずかしくて、サングラスを掛けた訳じゃないぜ。俺も、いいオジサンだ。いちいち、そんな事では動揺しない。しかも、探偵だぜ。見ず知らずの女子大生ごときの視線にビクビクするはずがないだろう。このサングラスは必要があったから掛けたんだ。しかし、外の女の子たちは俺の方を見て、三人で笑っていた。俺はそんな事は気にせずに、残りのシーフード・ピラフの乗った平皿を手に持つと、その端に下唇を当て、皿の底で顔を隠すように平皿を傾けて、スプーンを使って一気にピラフを口の中に送り込んだ。俺が両頬を限界まで膨らまして、鼻の穴を広げ、口の中を占拠した魚介類と無農薬米を必死に噛んでいると、こっちの方を見て、また、三人が笑った。俺は彼女たちが何故こっちを見て笑っているのか、いろいろ考えた。そして気付いた。しまった、ハットを被ったままだった。これは不自然だ。しかも、礼儀作法にも反する。ハットの事だけに、ハッとした俺は、すぐに帽子を取ろうかと左手を頭の上にやった。しかし、その手を止めて思った。待てよ、ここでハットを外すのは、何か、外の女子大生の視線を気にして、慌てて外したみたいじゃないか。それはカッコ悪いぞ。そうだ。これが当然なんだというフリをしておこう。これで押し通してしまえ。よし。俺は頭の上に乗せた左手でハットの角度を直すフリをして、その左手を下に置いた。俺が口の中のピラフをようやく飲み込んで、水の入ったコップに手を伸ばすと、外の女子大生たちが、ゲラゲラと腹を抱えて笑っていた。俺は、奴らを完全に無視して、コップの水を飲んだ。そして、ガラス窓に背を向けて座り直すと、偏光サングラスを外して、胸の内ポケットに仕舞おうとした。その時、偏光レンズの内側に映った俺の顔に、奇妙なものが付いているのに気付いた。俺は仕舞いかけた偏光サングラスを高く掲げて、それを鏡の代わりにして、その内側に自分の顔を映してみた。俺の右頬には、赤い輪が付いていた。それは、シールだった。たぶん、「STOP」の「O」だ。一時間ほど前に、財務省下の地下リニアの駅で、リニアに飛び込もうとして、その手前の強化アクリル製の隔壁にぶつかった時に付いた物だろう。あの外の女子大生たちは、俺の顔に付いたシールを見て笑っていたのだ。探偵ともあろう俺が、一生の不覚だった。俺は、上に掲げたサングラスを口の前に持ってくると、軽く息を吹きかけて曇らせ、ハンカチでそれを磨いてから、何事も無かったように、それを再び掛けた。念のために言っておくが、必要だから掛けたんだ。恥ずかしかったからではない。絶対に。そして、少しハットの角度を前に傾けると、何気なくテーブルの上に手を伸ばし、何気なく、紙製のお絞りを手に取った。そのまま、それを右手に持ち替え、テーブルに右肘をついて、右の頬を掻く仕草をしながら、そのお絞りでシールの上を覆い、その上から爪でシールを少しずつ剥がした。シールを剥がし終えた俺は、サングラスを外すと、勝利した顔で窓の外を見た。ちょっと古い言葉で表現すれば「ドヤ顔」だ。だが、女子大生たちは、もう居なかった。

 その後、シーフード・ピラフが盛られていた皿を片付けてもらい、食後のコーヒーを出してもらった。さっきも言ったが、お向かいの「カフェ・二〇〇七」のブルーマウンテン・コーヒーは美味い。歩道沿いのカフェ・テラスの木製の椅子に座って飲めば、さらに美味い。だが、この「旬のスタミナセット」には、コーヒーがセットになっている。いかにも安手のブレンド豆って感じの味だが、仕方あるまい。だいたい、温度が熱過ぎる。コーヒーは、沸騰させたお湯をそのまま使っちゃ駄目だ。十秒ほど寝かせ、九十七度前後にして落ち着かせたお湯を、挽いたコーヒー豆の上から満遍なく注いで三十秒ほど蒸らす。その後に、二分ほどかけてゆっくりとドリップする。これが美味いコーヒーの入れ方だ。ま、俺の自己流だがな。とにかく、ここのコーヒーは熱過ぎる。言っとくが、俺は猫舌じゃないぜ。それは善さんだ。あの人は過度に猫舌だ。注文したホットコーヒーに水を入れる。最初からアイスコーヒーを頼めと、いつも思うのだが……。まあいい。などとブツブツ言いながら、俺は、その熱過ぎるコーヒーを啜った。

 顔を顰めた俺が手に持ったカップをソーサーに戻し、向かいのカフェ・テラスに目を向けると、そこに知った顔を発見した。と言うより、彼女はすこぶる目立っていた。

「あれ、美歩ちゃんじゃないか。まだ五時前なのに、こんな所で何やってんだ?」

 俺は、思わず、そう口にした。ま、他人のプライバシーを本人の承諾も無く公開するのは、俺の主義じゃないので、彼女の詳細については、何も言わない。ただ、昔ちょっと助けた女の子で、ちょっとした知り合いさ。その子が軍隊の制服を着て、カフェ・テラスに座っていたとだけ言っておこう。濃紺のテーラーカラーのジャケットに青いネクタイ。初めて見た訳じゃないが、やっぱ似合っているぜ。でも、まあ、新人だから、きっと仕事も大変なんだろうな。上司のお局さんに虐められたりとか。軍隊のOLさんも、大変らしいからな。美歩ちゃんはコーヒーの入ったカップを手に持ったまま、木製の椅子に座って、ボーっと、歩道とカフェ・テラスを仕切っている四角いプランターに植えられた花を見つめていた。きっと、何か考え事でもあるんだろう。ま、美歩ちゃんも年頃だからな。そっとしておいてやるか。俺がそう思って、もう一口、美味くはないコーヒーを啜ると、彼女の前に、スーツ姿で、いかにも「ビジネス・ウーマン」って感じの女性が現れた。その女は美歩ちゃんの知人らしく、二人は親しげに話しをしていた。どうも、あのリアクションだと、偶然に出会ったという感じだった。スーツ姿の女は、肩に重そうな皮製の鞄を掛けたまま、美歩ちゃんの手を取り、かなりはしゃいでいる様だった。男の友人同士が再会しても、こうはならない。大抵、「おう」で終わりだ。男の友情に言葉は要らない。だから、男子トイレの小便器の横には衝立は無いが、女子トイレは全て衝立で区切られている。しかも、個室にまでなっている。なに、そういう問題じゃないだと? そうさ。確かに男子トイレも大便用は個室だ。だが、それは臭いからだ。仮にその個室と個室の間の壁に小窓が付いていたとしても、男は用を足しながら、隣の個室の男とは、お喋りはしないだろう。もし、それでお喋りするようなら、歴史的に男子トイレの個室には小窓付きになっていたはずだ。あるいは、小便器の横に高い壁が立てられているか。と、俺は思う。ちなみに、この俺の主張は、未だに誰一人も同意してくれた奴はいない。残念だ。

 コーヒーを飲みながら、暫く二人を観察していると、俺はある事に気付いた。カフェ・テラスの隅の方で、こちらに背を向けて座っているグレーのスーツの男、この男、何か変だ。さっきから、後ろから見ても分かる大きな耳に手をやったり、襟に手を掛けて直したり、どうも落ち着きが無い。しかも、テーブルにはコーヒーカップが一つ置かれているだけ。もう、とっくに飲み終わっているはずだが、落ち着きが無い割りに、コーヒーの御代りも、カップの返却もしない。誰か人と待ち合わせか、禁煙中か……。いや、どうも変だ。さっきから左手ばかりを動かしている。耳を触っているのも、襟を触っているのも左手だ。だが、コーヒーカップの持ち手は、右にある。つまり、やつは右利きだ。それに、そろそろ五時になろうかという時間帯なのに、カフェ・テラスでコーヒーを飲んでいるスーツ姿の男に必ずワンセットになっている物が無かった。鞄だ。テーブルで美歩ちゃんと話しているビジネスウーマンも、大きな鞄を持っていた。美歩ちゃんは、鞄は持ってないようだが、軍人だから、まあ分かる。だが、その隅の男は、スーツ姿であるにも拘らず、足下にも、膝の上にも鞄は置かれていなかった。

 俺は、もしやと思って、もう一度、胸の内ポケットから特殊偏光レンズのサングラスを取り出した。そして、今度は本当に仕事として、それを掛け、その男の方を見た。男が左耳の近くに置いている手から、三本の赤い光線が出ていた。俺がその赤い光線をたどると、その先は美歩ちゃんの前で喋っているビジネス・ウーマンの横顔に当たっていた。不可視レーザーだ。その男は、レーザーカメラで、後から来たスーツ姿の女の顔を盗撮していた。しかも、そのレーザー・カメラは俺が持っているレーザー・カメラと違い、超小型の高級品だ。その男は俺よりも随分と小柄だったが、カメラは奴が手の中に隠せるほどの小ささだった。俺のレーザー・カメラよりも、高性能で値段も高い物だろう。しかし、白昼堂々とストーキングか。いや、おそれいった。俺は偏光サングラスをスーツの内ポケットに戻すと、少し考えた。さて、どうしたものか。この店を出て、通りを渡り、美歩ちゃんに話しかけて、前に座る彼女の友人に危険を知らせてやるべきか、いや、このまま直接その男を取り押さえて、警察に引き渡すべきか。俺は、また迷った。仕方ない。迷った時は……。

「どーちーらーにー……」

 俺が運命を天に任せようと思った時、スーツ姿の女が腕時計を見ながら立ち上がった。そして、美歩ちゃんの前から立ち去ると、歩道に出る前の、丁度、その男の背中の後ろの位置で立ち止まって振り返り、美歩ちゃんに何か告げた。その後、得意気な顔で再び前を向き、歩道の上に出ると、そこを歩いて美歩ちゃんの前を通り、スタスタと東の方に歩いて行った。おかしい。男が動かない。単に彼女が好みのタイプだったのか? 俺はそう思ったが、一応、美歩ちゃんの知り合いみたいだから、知らせておこうと思い、店を出て、向かいのカフェ・テラスに行く事にした。俺が席を立ち、レジがあるカウンターのところで清算をしながら通りの向こうに目を遣ると、美歩ちゃんも席を立ってコーヒーカップを返却棚に戻していた。俺はつり銭を受け取ると、それをズボンのポケットに放り込み、歩道に出ようとしていた美歩ちゃんに視線を向けたまま、店のガラス製のドアを開けた。その時、また、おかしな事に気付いた。さっきまで座っていた例のグレーのスーツの男が、カップを返却棚に戻していた。俺は、店から出てすぐにドアの前で足を止めて、その男を観察した。男は、ギョロリとした大きな目で、歩道の上を歩いていく美歩ちゃんの方を見ていた。男が一瞬、こちらを見たので、俺は振り返って、ガラス製のドアに映った自分の姿を見ながら服装を正すふりをして、男の注意を逸らした。男は美歩ちゃんが歩いて行った方角に、歩いて行った。

 俺はその場で、ドアに反射して映っている男の動きに視点を合わせながら、すこし間を空けた。ガラス製のドアに反転して映る景色から男の姿が消えると、俺はすぐに、その男の尾行を開始した。その男は、美歩ちゃんを尾行していた。カフェ・テラスでの撮影も、本命は美歩ちゃんだったに違いなかった。スーツ姿の女性の撮影は、美歩ちゃんの身辺の人物をリスト・アップするためだろう。つまり、奴は同業者か。いや、あんな猿みたいな顔の小男は知らん。新入りだろうか。それなら、それで、ちょっと実力を見ておくかな。いつ、どこで同じ案件に取り組む事になるかも知れんからな。同業者の事は把握しておかねば。俺はいろいろと考えながら、男の後を追った。

 美歩ちゃんは、さっき俺が通ってきた道を歩いて行った。警察庁ビルの横の道の歩道の上を少し早歩きで歩いていく。妙だった。美歩ちゃんが勤務する国防省のビルは、さっきのカフェ・テラスからは反対方向に歩いて行った方が近いはずだ。それは、スーツ姿の女が歩いて行った方角だったが、美歩ちゃんが実際に進んでいた道は、それとは逆方向の明らかに遠回りの道だった。すると、美歩ちゃんが警察庁の裏通りの横断歩道のところで、止まった。赤信号だ。グレーのスーツの男は立ち止まる事も、速度を落とす事もなく、信号の方にそれまでどおり歩いていた。

「あれ、違ったかな」

 俺は一瞬そう思い、首を傾げた。すると、すぐに信号は青になり、再び美歩ちゃんは歩き始めた。男は歩幅を変える事無く、依然として同じ速度で横断歩道に侵入し、そこを渡っていった。美歩ちゃんは、警察庁ビルの横を速足で進んで行き、その前の交差点の自動車用の信号が黄色になると、まだ青信号の長い横断歩道に向けて小走りで駆け込んで行った。彼女は、小走りのまま横断歩道を渡り終えると、すぐに振り向いた。その時、歩行者用の信号は点滅していて、その下をグレーのスーツの男が走っていた。それを見た美歩ちゃんは、帰宅する役人たちで混雑している歩道の上を小走りで国防省ビルの方角に進んで行った。俺が横断歩道の手前に辿り着いた時、信号は赤になっていて、目の前の大きな道路を車が左右に行き交い始めていた。グレーのスーツの男は、横断歩道を渡りきり、帰宅する人々で溢れんばかりの歩道の上を、やはり国防省ビルの方に向けて歩き出していた。俺はこちら側の歩道の上を、美歩ちゃんと男を確認しながら進んだ。と言っても、向こう側の歩道との間には、片側十車線の東西幹線道路があった。しかも、ちょうど夕刻の帰宅ラッシュが始まった頃だった。いくら俺でも、あんな遠くの歩道の上の雑踏の中から、小柄な二人の位置を確認するのは、難を極めたぜ。俺は、途中で何度も立ち止まっては、背伸びをしたり、目を凝らしたりして、前を左右に流れる車の間から一瞬だけ見える向こう側の歩道の景色に目を凝らした。人々の往来の中から、二人の姿を探し、その度に、人をかき分けて前に進んだ。暫らくそれを繰り返していると、そのブロックの端の俺が上ってきた地下リニアへの入り口付近、厚生労働省ビルの角の交差点の所で、信号待ちをしていた人々が、何やらザワザワと騒いでいた。俺は、背筋に冷たいものが流れたのを感じると、すぐに駆け出し、こちら側の歩道の上にある地下リニア駅への降り口へと向かった。人をかき分けて、ようやく階段の降り口へと到着すると、そこに溜まった人波を見て、俺は唖然とした。階段の下で何かあったようで、階段の上で人の流れが止まっていた。地下への階段は帰宅する人で犇いていて、今にも将棋倒し事故が起こりそうな状態だった。俺は振り返って、通りの向こう側をもう一度見た。向こう側の横断歩道を国防省ビルの方に渡った先の歩道の上に、一瞬、美歩ちゃんの姿が見えた。ホッとした。美歩ちゃんは、振り返って後ろの横断歩道の向こう側の人ごみを見ているようだったが、すぐに前を向いて、国防省ビルの方に歩き出した。俺は、その後方にグレーのスーツの男の姿がないか探したが、男の姿は見当たらなかった。念のため、俺は美歩ちゃんを追う事にした。人を避けて前に進み、こちら側の横断歩道を渡って、再び美歩ちゃんと並行して、こちら側の歩道の上を進んだ。暫く進むと、バス停に並ぶ帰宅者が長い列を作っていた。俺は、その列の横を進み、次のブロックとの境の交差点に着いた。進行方向の信号が赤で渡れなかったので、反対に青になった大通りの方の長い横断歩道を渡ろうと思い、通りの向こうに目を向けると、美歩ちゃんは、先に向こう側の横断歩道を渡っていて、そのまま国防省ビルの正門に向かっていた。そして、敬礼する門番の兵士の前を通り過ぎ、中に入っていった。

 俺はとりあえず、その長い横断歩道を渡り、通りの向こう側の歩道の上に辿り着いた。さっきのグレーのスーツの男を捜したが、男の姿は何処にも無かった。俺は首を傾げながら、美歩ちゃんが渡った横断歩道を渡り、少し疎らになった人波の中を、国防省ビル前の地下リニア駅への降り口に向けて歩き出した。途中、ちらりと国防省ビルの中を覗いた。防弾ガラス製の入り口からビルの中に入っていく美歩ちゃんの後姿が遠くに見えた。俺は少し安心して、そのまま地下リニア駅の降り口へと歩いた。その降り口に辿り着き、下を見ると、そこも何やら混んでいた。人だかりの奥に制服を着た警察官の姿も見えた。俺は、その降り口を下るのを諦め、もう一つ先の降り口から、地下リニアの駅に降りる事にした。

 俺は雑踏の中を、ブロックの東の端にある外務省前の降り口に向けて歩いた。丁度、サラリーマンの帰宅ラッシュがピークを迎えた頃だった。俺は、その帰宅者たちの波に乗りながら、栄養を摂って少し回ってきた頭で、いろいろと考えた。



 十六

 今回の事件について、少し整理をしよう。

 俺は今回、馴染みの客から重要な依頼を受けた。真明教団の首都圏施設本部への侵入だ。いつもよりも長くそこに滞在している南正覚を画像に納める事と、真明教団のここ数日の妙な行動の目的を明かす、それが俺の任務だった。そして、もう一つ。「パンドラE」の正体を明かすこと。正直、依頼を受けた当初は、楽勝だと思ったね。まあ、実際に、正覚の画像は撮れたし、奴らの行動目的も分かった。どうやら、奴らはストンスロプ社の会長さんの行動を探っているようだ。だが、なぜ探っているのかは、まだ分からない。そして、あの刀傷の男。奴が俺の親父の仇だという点は、ここでは置いておこう。しゃくな話だが、あの刀傷の男は、裏の世界では名の知れた、一流の仕事屋だ。隠密行動、潜入、殺し、何をさせても腕はピカイチだという話だ。STS(Space Time Security)とかいう特殊警備員たちが厳重警護している、あの司時空庁の施設や、軍や警察が囲んでいる総理官邸にも、たった一人で侵入したらしい。そんな男が真明教団の施設なんかで、何をしていたんだ。まさか、本気で改心して入信するつもりだったとは思えん。それに、奴はあの時、例の青い花を持っていた。奴が不法侵入した事を誇示する為に、現場に残す為の花だろう。という事は、奴は入信の相談をする為にあの施設を訪れた訳じゃない。何かを探っていたか、何かを盗むのが目的だったか、あるいは両方だ。そして、きっと、奴の標的は「パンドラE」。うーん、こいつは面白くなってきたぜ。奴と俺のどちらが先に「パンドラE」に辿り着くか。だとすると、まず、その「パンドラE」の正体を明かす事が先決だぜ。いったい「パンドラE」とは何なんだ。ま、それが新製品の洗剤ではない事は確かだ。このコードネームのような呼び名が、例の「パンドラの箱」の逸話に則しているとすると、「パンドラE」は、あまり良い物ではないようだ。見た目は綺麗で好奇心をそそられるが、中身は、ろくな物じゃない、そういう物だ。いや、あの刀傷の男まで出てきたという事は、やはり相当に重要な物なのか。いずれにせよ、奴を雇った人間は、ただ者じゃない。奴は一般人の依頼で動くような安い工作員ではない。奴のバックにいるのは、きっと結構な大物だ。だとすると、この事件には何か大きな裏があるに違いない。この依頼の真の目的は、ただ南正覚の素行調査なんていうレベルのものじゃないはずだ。どうも、もっと大きな陰謀が絡んでいるようだぜ。それに、依頼人が依頼人だからな。間違いなく、とんでもなく複雑な真相が隠れているはずだ。おっと、依頼人については、絶対に言えないぜ。勘弁してくれ。とにかく、このパズルのピースは、真明教、ストンスロプ社、刀傷の男、謎のキーワード「パンドラE」。――まったく、大事件の臭いがプンプンするじゃないか。ちょっと待てよ。刀傷の男は真明教へ、真明教は光絵会長を……そして「パンドラE」……。なるほど、そういう事か。だいたい分かったぜ。パンドラEってのは、光絵会長が持っているんだな。刀傷野郎は、まだそれを知らない。なるほどね。しかし、それにしても、また一歩、知らないうちに真相に近づいてしまった。名探偵の悲しい性だぜ。参った、参った。

 俺は、ハットの上から後頭部を軽く叩きながら、有多町南駅へと続く長い階段を下りた。途中、何度も制服の警察官たちとすれ違った。そう言えば、さっきから慌しく警察官が階段を下りていったり、駆け上がってきたりしていた。俺は、少し気になった。

 ホームに出ると、特に変化は無かったが、長い地下ホームの向こうの方には、やはり多数の制服警官が居て、何やら忙しそうに現場検証の様な事をしていた。俺は次のリニア列車が来るのを待つふりをして、目の前の中年の制服警官に注意を向けた。彼は、ホームと線路を仕切っている強化アクリル製の隔壁の前で立ちながら、片耳につけた小型ヘッドセットで誰かと通信していた。すると、腰のベルトからウェアフォンを外し、そこからメールか何かの文書ファイルを立体表示させて、目を凝らしていた。彼は、老眼だったのか、後ろの強化アクリルの壁に反射する照明で見え難かったのか、そのウェアフォンの角度をしきりに変えながら、立体表示された文書の向きや角度を変えていたので、俺にも少し、その文書が見えた。どうやら、捜査上の指示書のようなものらしい。内容を確認した彼は、耳のヘッドセットのボタンを押して、通信を切り替えると、手に握ったウェアフォンの先で宙に浮いている文書を読みながら、言った。

「こちら、機捜十二。警部殿より緊急の指示あり。確認されたし。なお、その二人は容疑者だ。至急連行せよ。どうぞ」

 そこへ、次のリニア列車が入ってきた。俺は彼の横を通って、左右に開いたアクリル製のドアとリニア列車のドアから、その車内に入っていった。すぐ横の椅子が空いていたので、そこに腰掛けて、上半身を回して後ろの窓から外を覗いた。ホームの上では警官たちが慌しく動き回っていた。さっきの制服警官が、息を切らしながらホームの先の方に向けて走っていた。暫くして、人の乗降が終わり、ドアが閉まるアナウンスと共に、リニア列車のドアが一斉に閉まった。例の如く、音も実感も無いままにリニア列車が動き出した。俺が窓越しに流れていくホームの様子を眺めていると、遠くの方に、警官に連れて行かれる奇抜な格好をした二人の少女の後姿が見えた。片方の小柄な子は、頭に鉄の鶏冠を乗せていた。間違いない、あの馬鹿中学生だ。さては、また何かやらかしたか……。俺は目を凝らして、警官たちに連れて行かれる二人の姿を目で追ったが、リニア列車の速度は見る見る上がり、二人の姿は長いホームの遠くへと小さくなっていった。

 俺は、リニア列車に乗りながら、また少し考えていた。

 リニア列車が寺師町駅に到着すると、俺は開いたドアから急いでリニア列車を降りて、リニア列車の先頭に向かって長いホームを走り、一番端のエスカレーターへと向かった。息を切らしながら人をかき分け、何とかエスカレーターを駆け上がり終えると、また長い地下道を走って、エレベーターへと向かい、今度は咳き込みながらエレベーターに乗って、やっと地上に出ることが出来た。大通り沿いの歩道の中を人ごみをかき分けて進み、横道に入ると、また走って、ようやく九八ツール・モータースに到着した。俺は、さっきの「代車くん」のように、ヨタヨタしながらオッチャンの前に駆け寄り、ガクガクと震えている膝を両手で押さえながら、息を切らして言おうとしたが、苦しくて言えなかった。

 オッチャンは俺に言った。

「よう。どうした、そんなに慌てて。ガソリンなら、届いているぜ。お前さんが来るまで、店を閉めたりはしねえよ。水でも飲むか。今持ってきてやるよ」

「いや……いい。それより……電話を……貸してくれ」

「あん? そうだったな、あんた携帯端末を持ってないんだったな。ったく、しょうがねえな……」

 オッチャンは俺にウェアフォンを貸してくれた。俺はそれに、覚えていた男の電話番号を打ち込むと、端末を耳に当てた。

「もしもし、俺だ。ちょっと聞いてくれ」

『ハマッチか。どうした、そんなに慌てて』

「ハマッチって言うな。とにかく、ちょっとやり過ぎたみたいだ。朝美ちゃんが警察に連行されちまった」

『ああ? どういう事だ。何処の警察だ』

「あれは、たぶん警視庁の本庁だ。有多町南……十二番駅、そこで連行されていた。もしかしたら、何か別の事件に巻き込まれたのかもしれん」

『――わかった。とにかく、すぐに戻る』

「そうか。気をつけろよ。ああ、それから、落ち着いたら事務所に電話をくれ。頼みたい事がある」

 彼は返事をする事もなく、通信を切った。よほど慌てていたようだ。自分の娘の事だ、無理もないか……。

 それから俺は、オッチャンに礼を言うと、満腹の「代車くん」を運転して、旧市街に戻ってきた。燃料タンクを充実させた今度の「代車くん」は、スバル三六〇の本来の性能を十分に発揮していた。足取りは軽やかだし、クッションもいい。新那珂世港脇の大型トラックに痛めつけられたガタガタの道路を走っても、実にスムーズな走りだった。

 俺は素区中堂園町の三田商店街に着くと、いつもの通り、ガレージに車を入れ、そこから徒歩で自分の事務所兼自宅に向かった。途中、ミチル婆さんのクリーニング店に寄り、例の如く右往左往の会話をして、昨日頼んでいたコートを受け取った。俺は綺麗に畳まれてビニールに包まれたコートを持って帰路に付き、古びたビルの入り口のガラス製のドアを開けた。郵便ポストの前を通りがてら、自分のポストを覗いてみたが、相変わらず空だった。エレベーターの前を通って、横の廊下を奥に進みながら、コートを包んでいたビニールを歯で噛み破って開けた。隣の行政書士事務所では、もう八時が過ぎているというのに、痩せたノッポの先生が一人で仕事をしていた。俺は突き当たりの角をさらに曲がると、そのすぐ奥のドアの前でポケットに手を突っ込んで、キーを捜した。メッキの剥げたドアノブの鍵穴にキーを差し込んで回し、ドアを開け、足下に撒いた塩に他人の足跡が付いていないことを確認してから、壁際に左手を伸ばしてスイッチを押し、室内の灯を点けた。素早く部屋の中央に移動すると、四方に向けて順に構えを取りながら、部屋の中に敵が潜んでいないか確認した。誰もいなかった。俺はハットを外して、ソファーの前の小さなテーブルの上に置いた。

 次に俺は、ビニール袋からコートを出して、それを広げて着てみた。何となく硬かった。しかも、気のせいか、少し重い。俺は呟いた。

「ミチル婆さんの奴、やりやがったな。自動車用の衝撃閑散ワックス。カパカパじゃねえか……」

 俺が皮膜コーティングされて強度を不必要に増してしまったトレンチ・コートを着たまま、両手を回したり、ポケットに手を入れてポーズをとってみたりしていると、突然、電話が鳴った。ああ、言っておくが、固定回線使用の許可は、ちゃんと取っているぜ。まあ、とにかく俺は、その電話に出た。

「はい。こんばんは。任せて安心、頼んで楽々、あなたの街に平和と未来と幸せを。早くて正確、丁寧な仕事で御馴染み、ダーティー・ハマー探偵社です」

『俺だ』

「なんだ、お前か。――で、どうだった。朝美ちゃんは、帰してもらえたか」

『ああ。大事無かった。知り合いの弁護士が迎えに行ってくれて、今、パトカーでご送迎中だそうだ。ったく、あの馬鹿』

「まあ、年頃なんだ。あんまり叱るなよ」

『すまん。心配掛けたな。それより、頼みがあるとか言っていたが、なんだ』

「ああ、お前のところにある資料が見たいんだ。いや、資料って言っても、お前のところが発表したものでいい。過去の物が読みたい。全部」

『全部? また、印刷した物か?』

「ああ。手間を掛けるが、そうしてもらえると助かる。どうも気になるんだよ、例のアレ。お前が話していたSAI五KTシステムの話。なんか、マジっぽくてな」

『そうかあ。俺は高橋博士の虚言だと思うぞ。もしくは誤解か。あんな状態の爺さんが言っていた事だからな。信用ならんぞ。気にし過ぎじゃないのか』

「いや、念には念さ。だからネットでのデータ送信は駄目だ。印刷した紙の情報がいい。面倒だろうが、ひとつ頼む。その代わりと言っては何だが、前から頼まれていた真明教の内部の写真。撮れたから、プリントして持って行くよ」

『本当か。助かる。オリジナルのネガのデータは』

「いや、そっちは依頼人に渡す事になっている。コピーデータでいいか」

『依頼人? 誰か他に、真明教を探るように、お前に依頼しているのか?』

「まあ、ちょっとした義理のある客でな。その依頼人には、お前に写真とデータを渡す事は伝えてある。そっちで自由に使って構わんそうだ」

『何者なんだ、そいつは』

「それは言えねえぜ。探偵には守秘義務があるからな」

『へいへい。分かりましたよ。ああ、帰ってきたな。じゃあ、とにかく、資料の方は印刷して持って行くよ』

「ああ、印刷する時は……」

『分かってるって。ネットに接続されているコンピュータは使用するな、だろ。ウチのプリンターは、ハッキング対策で記者のパソコンとは、直接の有線接続になっているし、もちろん、パソコンもサーバーもオフラインだ。心配するな。じゃあ、引渡しは、いつもの店でいいな』

「ああ、待ってるよ。それから、あいつも来る事になってる」

『そうか。三人で久しぶりに乾杯だな。とにかく、少し遅くなるかもしれんが、待っててくれ』

「分かった。ああ、それから。お前からのもう一つの依頼だが、たぶん大丈夫だと思うぞ。ターゲットにされている様子は無いし、至って元気そうだった。元気過ぎて、俺の痔が悪化したくらいだ」

『お前の痔と、ウチの娘が何の関係があるんだ』

「朝美スペシャルだよ。まあ、いい。別に変わったところは無かったぞ。至って普通に壊れているし、変わり者であり続けたいと思っているみたいだ。つまり、ごく普通の中学生って事さ。問題ない。と思うぞ」

『そうか。――分かってるよ、切るよ。――すまん、これから家族会議だ。切るぞ』

「おう」

 俺は電話を切った。そのまま、ソファーに腰を下ろし、少し目を瞑った。部屋の中を眺めて、思わず溜め息が出たが、そんな事はどうでもいい。俺はテーブルの上のハットを頭に乗せると、少し硬めのトレンチコートの襟を立て、事務所を出た。そして、夜の中堂園町の商店街を抜け、その裏通りへと向かった。路地を幾つか過ぎると、大きな交差点の歩道橋を渡って、その向こうの飲食店が並んでいる通りに入った。その中ほどの細い路地に入り、更にその中ほどの所にガス灯を模したネオンを立てている古びた店のドアを開けた。ドアの上に取り付けられた西洋風の銅製の鈴が鳴り、俺の入室をバーテンに告げた。バーテンは大きな溜め息を吐いたが、俺は気にせずに、カウンターの隅のいつもの席に座った。

 いつものようにバーボンを頼むと見せかけてウーロン茶を注文すると、それを飲みながら、ここで会う約束をした男と女を待った。待ちながら、ついでだからステーキ・ピラフを食べた。この店「モーリ・タック」のバーテンが作るステーキ・ピラフは美味い。俺は、「サノージュ」のシーフード・ピラフより、こっちの方が好きだ。薄切り牛ステーキも乗っていて、この値段は魅力的だ。

「あのね、ハマッチさん。それはウーロン茶だけの値段なの。ステーキ・ピラフは別。あんたが金を払わないだけだろうが」

 俺は無視して食事を続けた。男は無口に限る。

「限らねえよ。口いっぱい頬張ってから……小学生か、あんた」

「……」

 俺は超高速でステーキ・ピラフを平らげた。とにかく、腹に入れてしまえば、こっちのものだ。それに、何だかんだ言っても、ここのバーテンは口は悪いが、やっている事は親切だ。俺にはちゃんと判っている。この恩は、いつか返そう。「ザ・出世払い」。便利な言葉だ。俺は食べ終えたステーキ・ピラフの皿をスプーンを乗せたままバーテンに差し出した。バーテンは黙ってそれを受け取ると、グラスを回してウーロン茶の底の氷を鳴らしている俺に、御代りを尋ねてきた。俺がウーロン茶を注文すると、文句を言ってきた。うるさいバーテンだ。俺はまた、グラスを揺らして、中の氷を鳴らした。すると、カウンターの上に両手をついたまま、肩を上げてバーテンが言った。

「もう一度言うがね、ウチは『ショット・バー』なんだよ。レストランじゃないの。飯は他の店にしてもらえるかな。何でウチに来るかな」

「美味いんだから、ケチケチするのは無しだぜ。それに、一度アンタのピラフを食ったら、他の店では二度とピラフは食えねえからな。たぶん、世界一美味いピラフだぞ」

「ウソ言え。さっき、『サノージュ』のシーフード・ピラフがどうとか言っていたじゃないか。有多町の『サノージュ』だろ。だが、まあ、あそこのピラフより美味いと言われて、悪い気はしないよな。ほら」

 バーテンは俺に御代りのウーロン茶を出してくれた。やっぱ優しいぜ、あんた。

 そうこうしていると、店のドアが開いて、あの銅製の鈴の音が店内に響いた。男が入ってきた。長身の男の背丈は、俺より少し低いくらいで、この頃少し背中が曲がってきている。白髪も増えた。俺と同い年だから、俺も増えたのかな。とにかく、その男は、いつもの通り、俺の隣に座った。手には重そうに紙製の袋を提げていた。だがそれ以上に、コイツの肩には、もっと重いものが乗せられているように見えた。俺には、そう見えた。



 十七

 とまあ、ここまでが、昨日の朝から今までの話さ。そんで、今、俺の隣に座っているのが、俺の同級生の情報屋だ。と言うより、幼馴染ってやつだな。幼稚園からずっと一緒だからな。こいつには、今回の事件についての資料を持参してもらった。まあ、手提げの紙袋がいっぱいになる量だ。コイツを読むのは一苦労だぜ。だが、俺は探偵だ。労は惜しまない。真実の探求に向けて、どんな困難とも闘うのさ。たとえ、自らの命を危険に晒してもな。

 俺は今回、この任務について、ある推理を立てている。そして、俺の推理が正しいとすると、これはちょっと気をつけなければならない。ま、俺流に言わせてもらえば、「かなりヤバイ」。語尾は上げてくれ。とにかく、そういう訳で、その推理した事実が正しいかを確かめる為に、この情報屋を呼んだ。そして、プロの女もな。まだ、ここには来ていないが、港であった例の女だ。この女は科学のプロで、鑑定にかけては超一流だ。それなりの組織を動かしてもいる。ま、ついでに言えば、この女は俺に惚れている。どうだ、いいだろ。もう一つだけ、ついでに言えば、この女はめっぽう美人だ。八方美人ではない。めっぽうだ。スタイルもいい。出る所も出ている。この女が動けば、大抵の男共が後を追いかける。異性だけではない、同性からもモテる。憧れの先輩って奴だろう。そのくらいのいい女だ。だが、困った事に、この女にはその自覚が全くと言っていいほど無い。モテるという自覚は多少持っているようだが、すこぶる人気があるという自覚は無いようだ。そして、変人だ。俺もよく変わっていると言われる事が多いが、この女は俺からしても変わっていると言わざるを得ない。無茶が過ぎるというか、行動力があるというか、決断が早いというか……とにかく、何事にも躊躇する事を知らんようだ。だから、毎回いろいろとトラブルを起こす。その度に俺が後始末さ。まったく、探偵ってのは、難儀な商売だぜ。ああ、念のため言っておくが、この女が俺に惚れているだけで、俺は全くその気は無いぜ。勿論、今付き合っているとか、男女の関係にある訳でもない。それに、直接この女から交際を申し込まれた事もない。じゃあ何故、彼女が俺に惚れていると言えるのかって? フン。男の勘さ。ま、強いて言えば、探偵の的確な推理って奴だな。このくらいの事にも気付かないようじゃ、探偵稼業をやってはいけない。ここは愛と欲望と裏切りの街、新首都旧市街だからな。あんたも気をつけな。油断していると、背中をズドンとやられるぜ。この街では、油断は死を意味するからな。

「馬鹿、ハマッチ。水滴を落とすな、大事な写真なんだぞ。気をつけろよ、まったく」

「ハマッチって言うな。今はダーティー・ハマーだ。何度言えば分かる」

 昔からそうだったが、俺の情報屋は、ガサツで強面のくせに、やたらと神経質だ。俺が撮ってきた真明教団の施設内部の画像をプリントしたものに、ウーロン茶のグラスの水滴が落ちただけで、この大騒ぎさ。まったく、コイツはこれでも元ボクサーなのだが、よくあんな激しいスポーツをやれたと思うよ。ホント、信じられんね。ほら、見な。今も、カウンターの上で背中を丸めて、薄型端末の拡大鏡機能を使って、俺がプリントしたその画像の、あちらこちらを熱心に確認している。おやおや、ルーペまで取り出したぞ。まったく、いったい何をそんなに神経質に見ているのやら。

「ああ、写ってる、写ってる。完璧だ。ネガのデータは持ってきたな」

 この男は、ルーペでカウンターの上に広げた写真を覗き込んだまま、左手を俺の前に伸ばして、その掌をこっちに向けている。それが人にものを頼む態度か。同級生だから許してやるが、俺が昭和のお父さんだったら、拳骨を食らわしているぞ。まあいい、仕事熱心なのは良い事だ。渡してやるか。

「ほらよ」

「なんだ。メモリー・ボール・カードじゃないのか。今時、HSDメモリーかよ。データを拡大した時の、解像度は大丈夫なのか?」

「大丈夫だ。請負うぜ。八ペタバイトのレーザーカメラで撮影して、多角情報画像の圧縮方式で保存してある。四万倍まで拡大できるはずだから、飛んでいる蚊の毛穴まではっきりと見えるはずだぜ」

「そうか……。ウチの会社にHSDメモリーを差し込めるインターフェースってあったかなあ……。千佳ちゃんに訊いてみるか」

 まったく、いちいち細かい奴だ。俺なら一言で解決だがな。「ま、そんな事はどうでもいい」ってな。

「どうでも良くねえよ。重要な画像なんだぞ。いい加減な写真じゃ駄目だからな。会社の信用も落としちまうし。とにかく、すぐに社に戻って、画像を拡大再生してみるよ。でも、撮影してくれてホントに助かった。今度、礼をさせてくれ。ああ、それから、資料の方は、とりあえず今日はそれだけだ。残りは後日印刷して持ってくるよ」

「なんだ、もう帰るのか。ここは、ショット・バーなんだぞ。格式の高い。カクテルくらい飲んで帰れよ。お前も、ウーロン茶一杯かよ」

「ああ……マスター、御免な、車で来てるんだ。それに、風邪もひいてしまって、薬を飲んだばかりだからな。治ったら、今度ゆっくりと、うまいカクテルを飲みに来るよ」

「それはお大事に。でも、お待ちのお客様の方は、よろしいんですか」

 やれやれ、ここのバーテンは、俺に対する態度とコイツに対する態度が全く違う。俺にはさっき、カクテルを頼まないなら帰れと言ったくせに。

「ちょっと急ぐからな。ハマッチ、悪いが、そういう訳だ。悪いな」

「なんだ、久しぶりに三人で飲めると思ってたんだがな。アイツもガッカリするだろうな」

「そうもいかんのだ。とりあえず俺だけ戻ってきたからな、また、山荘にも戻らないといかん。それに、あいつとは、さっき電話で話したんだ。山から戻ったら、訪ねることになっている。この件が終わったら、今度また、三人でゆっくり飲もう。じゃ」

「おいおい、大丈夫なのか。顔色が良くないぞ。熱が高いんじゃないか。あんまり、無理するなよ。それから、朝美ちゃんの方はどうだった。うまく話が出来たのかよ」

「ああ……まあ……相変わらずだ。まったく、年頃の娘には適わんよ。加えて、紀子もカンカンだしな。まったく、この忙しい時に……」

「とにかく、朝美ちゃんが変わってるのは、あの年頃なら、普通の事だよ。別に虐められている様子もない。大丈夫だ。ま、俺もまた、気が付いたら見ておいてやるから、そんなに心配するな。ただ、カンチョウはするなと言っといてくれよ」

「わかった。迷惑かけたな。今度、この借りは返すよ。それじゃ。何か分かったら、連絡くれ」

 はあ。帰りやがった。「何か分かったら」は、どっちの事なんだ。この事件の事か、自分の娘と別れた女房の事か。まあ、いい。――いや、良くないぞ。ウーロン茶代は! あの野郎……。まあ、仕方ない。呼び出したのは俺だからな。ここは俺が払うか。

「名探偵のダーティー・ハマーさんよ。他人のウーロン茶代を心配する前に、自分のツケを払って下さいよ。頼みますよ」

「なんだよ。どうして、俺にはそんなに冷たいんだよ。常連じゃねえか」

「随分と、優しくしているじゃないですか。ピラフも作ってあげたり……あ、いらっしゃいませ」

 この店に俺や俺の知り合い以外の客が来るとは、珍しい。しかも、若い男とはな。どうせ、道でも尋ねるためにドアを開けただけだろう。こんな店に来るのは、俺のような男か、売れない小説家くらいのものだ。こんな爽やかな青年が客として来る訳がない。ま、ウーロン茶でも飲んで、客が来たと喜んでいたバーテンが苛々しながら道を教えてやるのを見物するとするか。

「あの、失礼ですが、浜田さんですか?」

「ブッ」

 畜生、ウーロン茶を噴いてしまったじゃないか。勿体無い。なんだ? 俺に用か? 何者だ。敵か、味方か。この俺としたことが、迂闊だったぜ。若者だからと安心しきっていた。まさか、こんな至近距離まで簡単に接近されるとは。どうする、どうする俺。――プラン一、このウーロン茶をかけて、若者が怯んだ隙に顔面にパンチ、そして、カウンターの上に押さえつけて、何者か尋問する。うーん、鼻血も出るし、鼻骨も折れるかもな、可愛そうだ。では、プラン二、横の椅子を蹴って若者にぶつけ、それと同時に襟を掴んで背負い投げ。これくらいなら、いいだろう。次に、床に寝転んでいる若者の頭を踏みつけて、正体を吐かせる。頭を足で踏むってのは、少し品が無いな。著しく人格を傷つける行為ってやつだな。止めとくか。プラン三、目を合わさずに無視。相手の出方次第で、プラン一とプラン二へ移行する。よし、とりあえず、それで行こう。大人の会話で何とかなるかもしれん。無視だ、無視。

「あの……すみません。もしかして、浜田さんという方では……もし、人違いだったら、申し訳ありません。伺っていた背格好と似ているものですから。すみませんでした」

「いや、気にするな。いかにも、俺は浜田圭二だ」

 馬鹿、何を笑顔で答えているんだ。しかも、下の名前まで。尋ねられてもいない情報は相手に渡さないのが、この世界の常識じゃないか。しっかりしろ、俺。ここで「いい人スイッチ」を入れてどうするんだ。相手は誠実そうではあるが、所詮は若造だ。気にすることは無い、無視して帰してしまえ。知らんふりだ、知らんふり。

「裏の世界では、人は俺をダーティー・ハマーと呼んでいるみたいだが、そんな事はどうでもいい。誰に何と呼ばれようが、俺は俺だ。正義の実現と真実の探求の為に、俺の力と才能を必要としている人間が居れば、全力を尽くすだけさ。そいつが悪者じゃない限りな」

 くそお、止まらない。空腹を満たしたせいか。今夜に限って、絶好調だぜ。名文句が次から次へと浮かんできやがる。誰か、止めてくれ。

「悪者かどうかは、この鼻で嗅ぎ分けるのさ。いや、ここだな。心の嗅覚さ。安心しな、あんたに悪者の臭いはしねえ。俺には分かる。こう見えても、数々の修羅場を経験してきたからな。例えば、今朝も……」

「申し遅れました、僕は、こういう者です」

 止めるな。ここからが、いい所なのに……。名刺か、ん? なんだ、あの女と同じ職場か。おっと、名刺を貰ったら自分も名刺を渡すのが、社会人としての常識だぜ。ええと、名刺、名刺。どこに仕舞ったっけな……。

「あの、主任から言付かりまして、浜田さんに、これを渡すようにと。本人は、所用で来られないようなので」

 なんだ? コイツに頼んだのか。まったく、アイツめ。そんなに恥ずかしがる事はないだろうに。意外と可愛い所があるんだな。それにしても、名刺は何処に……。

「ハマッチ、尻のポケットだろ」

 うるさいバーテンだ。親切も度が過ぎると迷惑になる。何で俺の名刺を仕舞っている場所まで、あんたが知って……本当だ。ここだった。忘れていたぜ。

「すまない、俺の名刺だ。少し皺が寄っているが、気にしないでくれ。ここのポケットに入れていたんだが、昨日、今日と、いろいろ有ってな。皮製のケースごと、曲がっちまった。新しいのが必要なら、そこに書いてある電話番号に掛けてくれれば、俺の方から綺麗な名刺を送って……」

「いえ、結構です。これで十分です。では、僕はこれで。どうも、急に失礼しました」

 なんだ、帰っちゃうのか。寂しいじゃないか。バーテンも機嫌悪そうだしな。よし。

「おい、ちょっと待て、兄ちゃん。まあ、こっちに来て、座れ」

「は、はあ……」

「お前、ショット・バーに来て、一杯もカクテルを飲まずに帰る気かよ。まったく、アイツも、非常識な部下を持ったものだなあ」

「いや、でも、運転があるんで。それに、ショット・バーは別にカクテルに限定は……」

「あ? なんだ、年上に口答えするのか。だいたい、お前、上司の顔に泥を塗るつもりなのかよ。見てみろ、あのバーテンの冷ややかな目。分かるか、その奥に見える、底知れない悲しみと絶望感。ああ、いったい俺は何の為にカクテルの技術を磨いてきたんだろう。『ロブ・ロイ』、『スウィズル』、『ドライマティーニ』に『アレクサンダー』。せっかく色々と練習したのに。あの修行の日々は何だったんだ。このシェイカーを振ったのは、いったい何年前の事だろうか」

「ハマッチ、よさないか……。いいんですよ、気にしないで下さいね。お車なら仕方ないですよね。また今度、ゆっくりといらして下さい。美味しいカクテルを作ってさし上げますから」

「はあ……すみません」

 逃がすか。いい男には、世の男が皆、意地悪するものだ。これは常識だ。そう簡単に帰れると思うなよ、ハンサム君。

「若造くん、君はきっと後悔するぞ。ああ、あの時に僕が何かを注文していれば、バーテンさんは馬鹿な事を考えずに済んだかもしれないのに。今夜、この店を閉めて、彼はそこにあるマドラーで、自らの喉を一突き……グサッ。はあ、かわいそうに。遺体の横には、彼が得意のカクテル『サイドカー』。彼はきっと、そのレモンとブランデーの香の中で、静かに息を引き取ったのだろう。無念だっただろうなあ。テーブルの上では、誰も口をつけていない『マイ・タイ』がオレンジやレモン、パイナップルの香りを漂わせている。彼の最後の作品か。そのカクテルを飲んでみると、まあ、それは、それは美味しいこと。この鼻に抜ける香り、この舌触り、さわやかで癖になる喉ごし。どうして誰も、彼のカクテルを注文しなかったんだ。ああ、また一人、日本の中の貴重な職人の命と技術が失われてしまった。常識も人情もない馬鹿な来訪者が殺したも同じだ。いや、社会が彼を死に追いやったんだ。バーに入ったけど、カクテルなんて頼まなくていい。そんな風潮が、彼を死に追いやったのさ。ああ、悲しいかな、悲しいかな」

「わ、分かりました。注文します。死なれたら、困りますから」

「おお、そうか、そうか。そう来なくっちゃ。よかったな、バーテン。彼の注文した分の勘定を、俺のツケから引いといてくれよ。俺の説得の賜物だからな」

「なんで。意味が分からんよ。お客さん、すみませんね。無理なさらないでいいんですよ」

「いや、何だか、美味しそうだなと思って。ノンアルコール・カクテルって、出来ますよね」

「ええ、出来ますよ。『ロイ・ロジャース』とか『シャーリー・テンプル』とか。ええと、それから……『ヴァージン・マリー』などもありますね。どれにしましょう?」

「どれも美味しそうですね。じゃあ……、『ロイ・ロジャース』でお願いします」

 ち、賢い奴だ。ノンアルコール・カクテルと来たか。「ヴァージン・マリー」といやあ、「ブラッディー・マリー」のノンアルコール版だな。「ロイ・ロジャース」を選ぶ所が生意気だ。小慣れているじゃねえか。俺も、それを選ぶぜ。だが、ちょっといい男だからって、あまり生意気な事をやっていると、本物の血を見る事になるぜ。気をつけな。大人の男には注意した方がいい。特に、大人の探偵の男にはな。

「あ痛っ。指切った。血が出た」

 手渡された封筒の中の真空パックを一つ取り出したら、端っこの方で指を切ったぜ。しかも、血が出てる。男は血に弱いぜ。今朝、葉路原丘公園で自分の鼻血を見た時も、死ぬかと思ったぜ。しかし、若造の前で取り乱しては、男が廃る。とりあえず唾付けてと……。

「ああ、それ、気をつけてください。その真空保管ケース、ウチの職員もよく指を切るんですよ。でも、浜田さん。それ、花ですよね。何でウチに鑑定を依頼したんです?」

 俺の依頼の動機まで訊かんでよろしい。それにしても、こんな小さな花を色々細かく少しずつ切り取ってくれたんだな。随分と細部まで調べてくれたようだ。有難い。でも、それとこれとは話が別だ。少しばかりイケメンに生まれた自分を恨め。これが社会の洗礼だと思えばいい。さてと、そういう訳で、この若造君には、少し手荒に答えてやるか。

「ん。お前ら、暇そうだからな」

「暇じゃないですよ。主任も僕も、この一ヶ月、ほとんど泊まりっきりなんですから」

「なんだと。お前、アイツに手を出してないだろうな」

「職場です。職場。みんな、ちゃんと我慢してます」

 うっ。こいつ。一発食らわしてやろうか。俺に惚れている女と、一ヶ月お泊りだと。許せん。あんな美人と一ヶ月も一つ屋根の下か。くううう。

「はい。『ロイ・ロジャース』です。サクランボは少しアルコールが染みてますから、苦手でしたら、こちらに出して下さい」

「いえ、大丈夫です。いただきます」

 このクソガキ。マラスキーノ酒漬けのサクランボをパクリと行きやがった。美味そうじゃないか。本当は俺だって飲みたいんだ。「ロブ・ロイ」とか、「サザラック」とか、「ギムレット」なんかをな。探偵は「ギムレット」に決まっているだろ。俺が好き好んでウーロン茶を飲んでいると思っているのか。毎回、毎回、カクテルを注文したいのを我慢しているんだ。なぜなら、俺は、金欠だからだ。今は特に厳しい。来月は愛車ダットサンの修理代も支払わねばならん。ここは、我慢だ、我慢。給料取りが羨ましいぜ。そうだ、バーテンに目をパチパチしてみよう。俺の円らな瞳に心打たれて、一杯くらい、何かご馳走してくれるかもしれん。パチパチパチ。

「どうした、ハマッチ。目にゴミでも入ったか」

 これだ。無情とは、正にこの事だぜ。今日の俺は頑張ったぞ。諸君もそうは思わないか。一杯くらい、奢ってくれても……そうか、仕方ない。氷で薄まったウーロン茶の残りを啜るとするか。ああ、情けない。

「で、どうなんだ、若造君。仕事の方は。アイツ、頑張っているか」

「小久保です。名刺を渡したじゃないですか。ええ、そりゃあ、もう。頑張り過ぎていて、逆に主任の体調が心配で……」

 うおっ、なんだ、こいつ。今、マジで心配そうな目をしていたぞ。ちょっと待てよ。こいつ、もしかして、俺に惚れている女に惚れているのか。俺は、お前には惚れてはいないぞ。ん? それは、関係ないか。とにかく、あの女に惚れているな。くそお、こいつ爽やかで、ハンサムだからな。でも、背はそんなに高くはないか……俺の勝ちだな。おっと、重要な事を忘れていた。これを訊いておくか。

「ゴホン。――ところで、小久保君とやら。君、歳は幾つだ」

「三十五です」

 ぬ、一番危ない年齢じゃねえか。男として元気バリバリ、仕事もノリノリ、髪もフサフサ。絶対、危ないぞ。いや、待て。落ち着け。アイツは俺と同い年だ。ッて事は、こいつは、アイツよりも一回り下。子供だ、子供。アイツが相手にするはずは無い。いや、待てよ。歳の差カップルって言葉が国語辞典に載っていたぞ。それに、本人の前では認めたくはないが、アイツ、見てくれは、どこからどう見ても三十前半にしか見えんし、下手すれば二十台後半で通らない事もないかもしれんからな。巷の人間の生血でも吸っているのか。ああ、恐ろしい。いや、そんな事より、「見た目」的には、この若者とのカップル成立は、十分に「有り」だな。うーむ。ここはひとつ、アイツの悪口でも言っておくか。有る事無い事をベラベラと吹き込んで、アイツへの印象を悪くしておこう。ヌフフフ。馬鹿な奴だ。自分に惚れている男を、自分が惚れている男の許に送り込んだのが失敗だったな。ざまみろ。

「あの、浜田さんは、主任とはどういうご関係で」

「ん? ああ、どういうと言うか、まあ、そうだな、運命と言うか、腐れ縁と言うか、小、中、高、大学と同じ学校だった。まあ、なんだ、あれだ。若い頃には、こう、いろいろある訳だ。好いただの、惚れただの。あいつは昔から美人だったし、頭も良かったからな、とにかくモテていたが、本人にその自覚が無いんだよなあ……」

「要するに、同級生で、浜田さんも主任の事が好きだったという事ですね」

 いや、違うぞ。諸君、それは違う。厳として否定する。俺はそんな事は言っていない。うーん。これはいかん。年上の面目丸潰れじゃないか。なんとか巻き返さないとな。よし、ここは大人の男の威厳ってやつを見せてやるか。

「それは小久保君、君の方なんじゃないか。さっきから随分と、アイツの事を気にしているみたいじゃないか」

「ええ。そうです。プロポーズしようと思っていますから」

「……」

 ぷ、ぷ、ぷろ、ぷろろろ……。

「ハマッチ、落ち着け。水だ。遠慮するな、これは店の奢りだ。水道水だが、気絶する前に、まあ飲め」

 ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。プハァ。ふう、バーテン、助かったぜ。危うく、過呼吸で気絶するところだった。水道水がこんなに美味いと思った事はないぜ。それにしても、ぷ、ぷ、プロポーズだって? この若造は、顔は賢そうだが、馬鹿なのか。相手は、見た目は三十台前半でも、中身はオバサンだぞ。ていうか、あれはもうオッサンだ。いくら美人でスタイル抜群だからといって、それは無謀すぎる。しかも、あの女、めちゃめちゃ秀才だぞ。君、そんなんでいいのか? 一生、頭が上がらんぞ。悪い事は言わん、諦めろ。一時の戯れ事だと思って、忘れるんだ。俺は予備校の講師ではないが、一応、嘘と分かっていても言っておこう。君にはまだ、多くの可能性がある。やれば出来る。諦めるな。

「どうしたんですか、口をパクパクさせて……」

「いや、小久保君、あれだな、人生ってのはだな、石橋を叩くように慎重に進む奴が最後に勝つのが一般的で……」

 おい、コラッ。年上の先輩が隣で人生論を語ろうって時に、無視してイヴフォンか。脳内通話しているんだな。左目がピカッて光っていて、気持ち悪いぞ。何なんだ、失礼な奴だな。近頃見ない誠実そうな男だと思って、少しは買っていたんだが、見当違いだったか。やっぱりコイツも、今時の新世代って奴で……。

「撃たれた?」

 びっくりしたな。急に大声出すな。何なんだよ。なんで若い奴は急に大声を出すんだ。それにしても、なんだ、善さん、ようやく動いてくれたか。だが心配はいらないぜ。俺には一発も当たらなかった。ほら、このとおり無傷だ。探偵ってのは、日々の鍛錬が……どうした、何処へ行く。――なんだ若造、もう帰るのか。

「すみません。急用で」

 お前、年上の探偵が横でこれから武勇伝を語ろうって時に、勝手に席を立って帰っていくのか。どうしたんだ、そんなに慌てて。カクテルが残ってるぞ。あらら、血相を変えて出て行きやがった。

「なんか、忙しそうですね」

「ま、あの年齢で忙しいってのは、いい事だよ」

 しまった! お代は。また、俺のツケに乗るのか。くそお。あの若造め、飲み逃げじゃねえか。訴えてやる。

「なんか、ただ事じゃない雰囲気でしたがね。また来てくれますかね」

 うーん。確かに、このバーテンの言うとおりだ。これは何か事件に違いない。待てよ。俺の勘が俺に何かを囁くぜ。これは、まさか、もしかして……ああ!

「おいおい。頼むよハマッチ。私だって、こう見えても、もうすぐ六十なんですよ。この前、血圧の検査で引っ掛かったばかりなんですから。急に大声を出すのは勘弁してくださいよ。心臓に悪い」

 そんな戯言を聞いている暇は無い。俺の「代車くん」は、通りの向こうのガレージの中だ。早く取りに行って、小久保君を追いかけねば。

「おおい、ハマッチ。帽子を忘れているぞ。それに、紙袋と封筒も」

 おっと危ねえ。大切なラッキーアイテムを忘れるところだったぜ。封筒はとりあえず紙袋の中に一緒に入れてと。よいしょ、重いな。

「悪いな、また来る。御代はツケといてくれ。すまん」

「またかよ。いったい、いつ払ってくれるんですかね。無理して来なくても、いいですからね」

「そう言うな。とりあえず、あばよ」

 よし、店は出た。小久保君は、どっちに行った。車で来たって言っていたな。この辺の駐車場に停めているとすれば、西の立体駐車場か、裏通りのコインパーキングだな。俺のガレージまで「代車くん」を取りに行っている暇はねえな。とりあえず、ここを渡って、向こうの通りに……おっと危ねえな。何処見て運転してんだ。こっちの横断歩道が青だろうに。このトレンチ・コートがミチル婆さんの衝撃拡散ワックス仕立てじゃなかったら、今頃どうなっていたか。ちゃんと前見て……お、なんだ、運転席の君は、小久保君じゃないか。

「俺だ、俺。浜田だ。小久保君、ドアを開けてくれ。俺も乗せてくれ」

「はあ?」

 はあ? じゃねえよ。緊急事態だろうが、まったく。俺は乗るぞ。

「いいから、このまま出発だ。裏道を教えてやる。ほら、早く出せ、出せ。ゴー、ゴー、ゴー!」

 と言う訳で俺は今から、俺に惚れている女に惚れている男の運転で出かけるぜ。今夜はこれくらいにしてくれ。どうも只ならぬ事態だ。詳細は、また今度ゆっくり話そう。



 十八

 フン! 朝っぱらから……百キロの……バーベルに……挑戦している……浜田けい……くう、駄目だ。ビクとも動かん。ふう。ふう。

 あ、こりゃどうも。何事にも挑戦する男、浜田圭二です。裏の世界じゃ、人は俺のことを「ダーティー・ハマー」と呼ぶが、そんな事はどうでもいい。俺は今日も、正義の実現の為に、圧し掛かる社会の重圧に耐えながら悪と戦うのさ。それが探偵の指名だから……フン……駄目だ、やっぱり上がらない。

 それにしても、百キロは流石に無理だな。八十キロくらいなら、上げられるかな。こんど、挑戦してみよう。しかし、バーベルってのは、そこに在ると、何故か挑戦してみたくなるよな。なんでだろうな。

 おっと、説明しておこう。俺は今、都内のスポーツジムにいる。寺師町の隅に建っているビルの中だ。俺は昨日の夜から、改めて真明教の教祖、南正覚の尾行をしていたんだが、奴は真夜中に、隣の県の千穂倉ちほくら山にある総本山施設から戻ってきて、昭憲田池の辺にある高級料亭で、ある人物と食事をした後、樹英田町の首都圏施設本部に戻ってきて、そのまま朝を迎えた。そして、今朝は、こうしてジムでトレーニングって訳さ。お蔭で、徹夜明けの俺まで、疲れた体で運動する羽目になっちまった。

 ああ、昨日の夜の急用は、何とか片付いたぜ。もう、気にしないでくれ。詳細は、あの女に訊くといい。あるいは、小久保君か。とにかく、俺はその後も仕事さ。「代車くん」で樹英田町に行って、教団施設の近くで正覚が現れるのを待った。待ちながら、昨夜入手した分厚い資料と格闘さ。暫くして、日付が変わる前だったかな、正覚の奴を乗せたAIキャデラックが帰ってきて、そのまますぐに、正覚を乗せて出かけて行った。そして、寺師町の高級料亭「心路楼」に入って行きやがった。「こころろろう」って読むのかな。いや、違うな。「ろ」が多過ぎるもんな。やっぱり、「しんじろう」だろう。とにかく、美味い創作料理が人気の高級料亭らしい。よく分からん。で、例によって、例の如く、偵察さ。奴が誰と会っているのかを。今度は楽だったぜ。昭憲田池の遊覧用のボートを、ちょいと拝借するだけでいい。時間外だからな、仕方ない。俺は近くのボート乗り場から借りた手漕ぎボートで、夜の湖面をこっそりと、料亭の見えるところまで移動した。結構疲れたが、後は楽なもんさ。奴らの会食風景をレーザーカメラでパチリ。まあ、俺が予想した通りの相手だったぜ。そいつが裏で、何かコソコソ動いてやがる。その後、正覚は樹英田町の施設本部に戻り、そのまま朝さ。勿論、俺は「代車くん」の中で一夜を明かした。でも、心配する事はない。あのスバル三六〇は、レッグスペースが広いから、長身の俺でも窮屈な思いをすること無しに、幾分か楽に過ごせたぜ。でもまあ、それにしても腰が痛い。俺も歳だな。まいったね。疲れたなあと思いながら、近くのコンビニで買ったお握りを朝食に食べていると、奴のAIセンチュリーが出てきた。慌てて尾行してきたら、ここだよ。スポーツジム。まったく、六十五歳のお爺さんが、朝から元気なことだ。お蔭でこっちまで、疲労した体に鞭打って、運動さ。腰も痔も痛いのに。探偵ってのは、本当に難儀な稼業だぜ。正覚の奴はいいぜ、周りにお付の信者がごっそりだからな。ランニングマシンに乗って汗をかいても、信者さんの一人が冷えた水を差し出してくれる。ウエイト・マシンでガチャンガチャンやっても、疲れたら周りの信者が手助けしてくれる。ところが、俺はと言えば、一人だぜ。さっきも、ウエイトマシンで、途中から全く動かせなくなって、ここの職員さんが助けてくれなかったら、危うくスクラップになるところだったぜ。だからと言って、何もしないで、ただ突っ立ている訳にはいかないだろ。尾行がばれちまう。せっかく、下の売店で茶色のスウェットを買ったんだ。あ、この上着のパーカーは、ここのジムの入会特典で貰った物だ。上着だけもらってもなあ。結局、下の売店で同じ色のスウェットのパンツを買わなきゃならなかった。よく出来たシステムだぜ。でも、せっかく運動着の上下を着ているんだから、何か、それらしい事はしないとな。それに、正覚が信者共と何を話しているのかを知る絶好のチャンスだ。なるべく近くに行って、奴の話を聞き取ろう。それには、やはり、何か運動をするふりをしないと……。

 なんだ、正覚の奴、今度はバイクマシンを漕ぐのか。俺は疲れているんだぞ。勘弁してくれ。仕方ないな、何か近くに空いているマシンは……あった、ランニングマシン。また、よりによって、有酸素系かよ。一昨日から走ってばかりじゃねえか。出来るかな。だからと言って、あそこの壁際のベンチに座っているジャケット姿のオッサンみたいに、ただ座ってるって訳にはいかんしな。ん? このオッサン、何処かで見たような……。ま、いいか。折角、健康的な施設に来ているんだ、暗い顔して思いつめたようなオッサンは、放っておこう。おっと、こっちは奴らに面が割れている。あまりキョロキョロはできないな。目立たないように、こうしてフードを被っておかないと、まずい。ここでバレたら、またこの前みたいに、大乱闘になるからな。それにしても、あの丸刈りの信者君は、三角巾で左腕を吊っているところを見ると、やっぱり、折っちゃったのか。悪い事をしたな。申し訳なかった。でも、正当防衛だ。理解してくれ。

 さてと、始めますか。このボタンがスタートボタンだな。よし。このくらいの速度なら、早歩き程度だ。行ける、行ける。やばい、例の長身の信者だ。こいつにだけは見つかりたくないな。ゲッ、横に来やがった。絶対に後ろを向くなよ。頼むぞ。目の前の正覚に集中するんだ。そうだ、そのまま前を向いていろ。こっちを向くなよ。それにしても、こいつ、なんでジャージの上にジャケットを羽織ってるんだ。サングラスにイヤホンまで。正覚のガードマンを気取っているのは分かるが、お前だけだぞ、そんな変な格好をしているのは。皆、普通に黄色いジャージじゃないか。いや、普段の奴らの異様なジャージ姿が、ここでは妙に馴染んでいるのが、それはそれで、逆に恐いぜ。

「暑い。もう少し下がれ」

 ほらほら、教祖様がご不満らしいぞ。ちゃんと聞いてろよ。警護対象者に接近し過ぎなんだよ。みんな。

「どうして、こんなについて来たんじゃ。暑苦しいのお」

 ほんと、その通り。これじゃ、警護って言うより、まるで「おしくらまんじゅう」じゃないか。正覚さんも大変だねえ。

 それにしても、長身の信者くん。君、さっきから、向こうの水着姿の女性やら、レオタードのお姉ちゃんたちの方ばかり見てるじゃないか。サングラスして、目だけ別の方を見ているだろ。顔の向きの方角には誰も居ないじゃんよ。正覚先生はもう少し右だろ。まったく、相変わらず君は煩悩の塊だね。修行が足りないんじゃないの。そのうちいつか、正覚に叱られるぞ。怒ったら怖そうだもんな、正覚さん。こういう……昭和生まれの男は……意外と筋道を大事に……する……なんだ、このランニングマシン、どんどん早くなってないか。速度を遅くするには、どうするんだ。このボタンか。あれ、また早くなったぞ。はっ、ほっ、はっ……やばい……くそ、正覚の奴が信者たちと、何か大事な話をしているみたいだぞ……だが、今の俺には……とても、そんな事に集中する余裕は……これは、もう、短距離走の走り方だろう……くっ……死ぬ……誰だ、このランニングマシンを設計したのは……世の中に、こんな速度で走る人間が……そんなに居る訳ないだろ……と、止めてくれ……誰か止めてくれ……これは……もう……後ろに飛ぶしかない……うわっ!

「うるさい奴じゃのう」

 うう……痛い。飛んだと言うより、発射されたって感じじゃねえか。このランニングマシンは、人間発射機かよ。設計者は何を考えてるんだ。あぶねえな。あ痛たた。腰を捻っちまった。やばい、正覚にバレたか。このまま、フードを被って、少し向こうに行って離れよう。信者たちにバレてもまずいし。ったく、何か大事な話を始める雰囲気だったんだがな。それにしても、腰が……なんで、ジムに来て、具合悪くしないといけないんだ。まったく。泣けてくるぜ。

 なんだ、正覚の奴、まだバイクを漕ぎ続ける気か。どこまで元気なんだ。ん? なんだ、なんだ? 丸刈り君と何かヒソヒソと話しているぞ。なんか、「ジエスコ」とか「ハッキング」とか言っていたぞ。たぶん、あの「GIESCO」の事だな。ようやく、ボロを出したか。どれどれ、こういう時は、これだな。探偵七つ道具の一つ、「ザ・集音器」。ちょっと値が張ったが、小型イヤホン式のタイプを買っておいて正解だったぜ。業界紙の通販の頁に「思わぬ時に必要になるかも」って書いてあったからな。ホント、買っておいて、よかったぜ。こいつを耳の穴に入れてと……集音率を上げる。うん、うん。聞こえるぞ。なになに。正覚は何と言っているんだ。

「一時と言ったのじゃ。一時は一時じゃ。いっときじゃ。分かったの。その一時はもう過ぎた。だから聞いておるのじゃ。どうなんじゃ。出来そうなのか」

「はあ……それが、やはり予想以上に侵入防壁が厚く、なかなか……」

 ははーん。なるほど。やっぱり、真明教の奴ら、GIESCOのサーバーにハッキングを仕掛けていたのか。馬鹿じゃねえの。あんな強固な城壁を崩せる訳ないじゃないか。自分たちが何処にハッキングしているのか分かっているのかね。あのGIESCOだよ。無理だって。外国の諜報機関でも尻込みする相手じゃないか。まったく。

「その『やはり』とは、つまり、そちの予想通りに、また失敗するかもしれんという訳か。まったく……」

 あらあら、正覚さん。ずいぶんと苛々してるねえ。何をそんなに怒ってるのかね。不可能に近い事をやらせているのは自分なんだから、そう怒るなよ。丸刈り君が可愛そうじゃないか。お、正覚の奴、丸刈り君にタオルを投げつけやがった。しかも、自分の汗を拭いたタオルを。それは良くないぞ。丸刈り君にだって、プライドってものがあるんだぞ。ほら見てみろ、丸刈り君、下を向いて、ジャージのズボンの横で拳を握り締めているじゃないか。入信して頭を丸めるような真面目な子だろうに。分かってやれよ、正覚さんよ。

「よいか、おそらく、あの『パンドラE』は、宇宙の神様からの啓示の書ぞ。一刻も早く我々が手に入れて、世に知らしめねばならんのじゃ。分かっておるのか」

 お、出てきたな。「パンドラE」。なんだ、そうか。あれは「宇宙の神様からの啓示の書」だったのか……って、そんな訳ねえだろ。でも変だな。それを世間に公開する事が、コイツらの最終目的なのか? じゃあ、俺は、何の為に「パンドラE」を探っているんだ? 依頼人は俺に「パンドラE」の正体を突き止めさせて、何をするつもりなんだ?

 あ、丸刈り君がタオルを拾ったぞ。君、左手を骨折しているんだろ。そんな事までしなくていいのに。律儀だねえ。

「はい。申し訳ございません」

 謝る事ないだろ。正覚の奴が、もともと無理難題を言いつけてるんだから。出来ませんって、はっきり言ってやれよ。ああ、正覚の奴、無視しやがった。酷い奴だな。丸刈り君、涙目になっているぞ。命がけで俺に向かってきて、おまえを守る為に骨折したようなもだろうが。分かってるのか、正覚。彼は今も、左腕がズキズキと痛いはずだぞ。それなのに、おまえの警護に参加しているんじゃないか。おまえの気まぐれの運動に同行してくれているんだぞ。もう少し、大事にしてやれよ。大切な信者だろうが。無視して立ち去る事は無いだろ。何処行くんだ。シャワー室か。仕方ない、ついていくか。

 ――ん? なんだよ。VIPルームかよ。俺は入れないじゃん。そんじゃ、このまま外で待つとしますかね。

 いやあ、しかし、朝から高級スポーツ・ジムで運動して、VIPルームのシャワー室でご入浴とは、いいご身分ですねえ。中で冷え冷えのトロピカル・ジュースでも飲んでいるのかね。まったく。でも、俺の推理が正しければ、おまえ、そろそろ危ないぞ。昨日、おまえと会食していたあの男、どうみてもお前を利用しているからな。俺も、だいたい事情が飲み込めてきたぜ。たぶん、気付いてないのは、南正覚、おまえだけかもしれんぞ。しかし、依頼人はどうして南正覚の目的を阻むかのような依頼を俺にしたんだ? 南の目的が「パンドラE」を世間に公開するという事なら、それを黙って静観すればいいだけじゃないか。わざわざ、俺みたいな優秀な探偵を動かさなくても済んだはずだ。その前に内容を知っておきたいと言う事か。いや、それなら真明教のハッキングを支援すればいいだけだ。それに、あの刀傷の男。奴を動かしている黒幕が、俺が考えている奴だとすると、そいつの狙いは何なんだ。何にせよ、依頼人も、その黒幕も、南の行動を阻止する方向で動いている事は確かだ。という事は、「パンドラE」は、南正覚が考えているようなものではなくて、やはり相当に危険な物なのか。それが、悪者の手に渡るとマズイ事になるような。だから、依頼人は俺に「パンドラE」を探させた。待てよ。一昨日と昨日に起こった、俺が刀傷の男と黒幕を結びつける結論を出したきっかけになった出来事は、本当に偶然の事なのか。あまりにも出来過ぎているぜ。俺は携帯端末もAI自動車も使用していないから、奴には動きを知られていないはずだ。ん? 待てよ、ちょっと待て。どの出来事も、公共インフラ設備を利用した後に起きているぞ。すると、やっぱり奴に把握されていたのか。そんな馬鹿な。俺は完全にスタンド・アロンの状態だぞ。動きを察知されるはずは……しまった、水枡病院で患者情報を端末に入力したな。それに、俺が自動走行システムを使ってなくても、俺が尾行していた車や刀傷野郎の車は、AI自動車だ。ああ、コンビニで工事用ロボットにも会った。畜生、そういう事か。だから、中堂園町に帰ってからは、何も起こらないのか。あの町は、ネットインフラが旧式のままだからな。防犯カメラも少ないし、歩行者数計測システムも何十台かしか設置されてない。ガソリン車も結構走っているしな。それに、新型のロボットも、あまり稼動していない。新市街と変わらないのは、携帯端末が普通に使えるくらいの事だが、それは今の俺には関係ない。なるほど、そういう事か。

 となると、事はかなり深刻だな。やはり本当の敵は、かなり強力だ。こうしている間も、俺を狙っているかもしれんという事か。待てよ、俺はネットからはスタンド・アロン状態の男だから、直接には俺の行動を把握する事は出来ない。なるほど、だから、依頼人は俺に「パンドラE」を探させているのか。そうすると、あの「パンドラE」は、敵を倒す為に必要なツールになるかもしれん訳だな。たぶん、そうだ。やはり、あの神話に擬えたコードネームだったという事か。――ん、だとすると、こいつは、マズイな。俺はとんだ勘違いをしていたのかもしれん。刀傷の男は、「パンドラE」を狙っていたのではない。南正覚だ。正覚の命を狙っていたのかもしれないぞ。奴は暗殺のプロでもあるからな。こいつは、正覚を尾行する目的が随分と変わってきたぜ。

 お、ようやく出てきたな。すがすがしい顔しちゃって。南正覚、爽やか法衣バージョン、なんつって。向かう先は……エレベーターか。一緒に乗るのはマズイな。さすがにバレるだろう。隣のエレベーターに乗るか。行き先は、たぶん地下の駐車場だろうからな。しかし、折角エレベータの中だっていうのに、会話が聞けないのは残念だ。ああいう場所で、よく密談するんだよな。でも、大抵のエレベーターはネット通信と繋がっているからな、正覚さん、気をつけろよ。ち、向こうのエレベーターの方が先に来やがった。先回りしようと思ったのに。おお、おお、大勢乗っていくね。暑苦しい。警護の意味が分かっているのかね、あの信者さんたち。やべっ、丸刈り君と目が合った。こっちのエレベーター、早く来い。カモーン、カモーン。よし、来たぞ。知らぬふりして、さっさと乗り込もう。

 正覚たちが乗ったエレベーターと、ほぼ同時に出発か。という事は、そう離れていないな。となりのシャフトだもんな。こっちのエレベーターに乗っているのは、俺だけだから、今のうちに集音器の集音率を最大にしておくか。こうして壁に耳を当ててみれば、隣のエレベータの中の会話が、少しは拾えるかもしれん。――うーん、雑音ばかりだな。無理かあ。あら、止まった。誰か乗ってくるのか。よし、普通のスポーツ・ジムの会員のふりをしておこう。ええと、こうして壁に手をついて、斜め腕立て伏せとか……いや、こんな事はしないか。あれ、誰も乗ってこないぞ。変だな。ドアが閉まるぞ。まさか、丸刈り君が追ってきたのか。マズイな、こりゃ。――おっ、なんだ、なんだ。誰か走ってきたと思ったら、水着のお姉ちゃん達じゃねえか。しかもビキニ。「開く」ボタンを押してやろう。さあ、どうぞ、どうぞ。

「何階ですか」

 なんて、ちょっといい人をアピールしてみる。

「ええとお、温水プールの階に行きたいんですけど。七階ですよね」

「ああ、たぶん、そうですね。俺も今日入会したばかりなんで。七階ですね、七階」

 なんて冷静を保つふりをしているが、エレベータの内壁に取り付けてある鏡越しに、どうしても見てしまう。この三人、まるで見てくれと言わんばかりに、前向き、横向き、後ろ向きで立っていてくれてるじゃないか。ああ、ドキドキする。ううむ、集音器から水着の中で揺れる胸の音らしきものが聞こえてくるぞ。これは、いかん。だが、ここで耳から集音器を外すと、逆に怪しまれるからな。このまま、聞いていよう。仕方ない。仕方ないんだ。

 それにしても、なぜ水着のまま移動しているんだ。普通、上から何か羽織るとか、七階の更衣室で着替えるとかしないか。しかも、水着が小さめだし。ははあ、なるほど。サクラか。こうやって、水着のお姉ちゃん達をウロウロさせて、男性会員の数を増やしているんだな。まったく、商魂たくましい事で。馬鹿な一般の男は騙せても、探偵の俺は騙せないぜ。一昨日の香実区でダットサンのフロントガラスに飛んできた虫とは違う。甘い果実にも騙されないぜ、俺は。お、もう着いたのか。早いな。

「はい、七階に着きましたよ」

 さあ、降りて、降りて。どうも、ホントに、ご馳走様。いい目の保養になりました。ん、また誰か乗ってくるのか。なんだ、今度はビキニパンツ一丁の筋肉ムキムキのお兄さん達かよ。しかも、オイルを塗りまくって。女性会員むけのサクラ要員か。四人も乗るな。この中には俺一人だろ。状況を見て、乗るのを控えろよ。応用力なしか、おまえら。

「何階ですか」

「一階をお願いします。どなたでも見学自由の『ボディビル・トレーニングルーム』まで行きますので」

 行き先までは訊いていないぞ。しかも、軽く解説付きか。明らかにサクラだろう、おまえら。ったく、暑苦しいな。こいつら、なんか妙に元気が良さそうだぞ。セロトニンを分泌し過ぎなんじゃないか。なんだ、集音器から心拍音が聞こえてくるぞ。血圧が高過ぎるんだろ。ドックン、ドックンと鳴ってるじゃないか。よくみると、あちこちに血管が浮き出過ぎだもんな。そのうち、切れちまいそうだ。パンパンじゃねえか。ああ、鼻息まで聞こえてくる。馬鹿、こんな狭い空間でポーズをとるな。オイルが飛んでくるじゃねえか。うわあ、ビキニパンツが尻に食い込む音まで聞こえてくるぜ。最悪だ。うわあ、息を吐くな、息を。ものすごく、よく聞こえるんだ。かあ、気持ち悪いなあ。なんで最大音量で男の吐息を聞かなきゃならないんだ。まったく。ああ、我慢ならん。集音器の集音率を下げよう。こいつらに見えないようにして……。よし、これでいい。もう少しで、吐きそうだった。お、ようやく着いたぞ。

「着きました。一階です。どうぞ、どうぞ」

「すみません。どうも。『ボディビル・トレーニングルーム』のご見学は、無料ですので、よろしかったら、いつでもどうぞ」

 そんなのいいから、早く降りろ。俺は急いでいるんだ。ほら、急げ、急げ。早く出ろ。

 ったく。床がオイルでベトベトじゃねえか。年寄りが滑って怪我したら、どうするんだ。ゲッ、奴らの飛ばしたオイルが、俺の髪の毛にも付いているぞ。畜生、タオル、タオル。なに体中のオイルを撒き散らしてるんだよ。かあ、男の汗とオイルが俺の整髪料かよ。頼むぜ、まったく。

 お、着いたな。地下駐車場だ。さて、正覚は何処に……おっと、まだ、そこに居るじゃねえか。ん、なんだ、正覚の奴、イヴフォンで立体通話か。誰と話しているんだ。イヴフォンは通話者の脳の視覚野に直接、画像を送るから、偏光レンズのサングラスで覗いても分からないんだよな。誰と話しているんだ?

「なんじゃと。一体どういうことだ!」

 どうした。何があった、正覚。そんなに血相を変えて。何か緊急事態か。なんだ、小声で何かを話しているぞ。しまった、集音器の集音率を最小にしていた。これじゃ、この距離で聞こえるはずがない。正覚の奴、いったい何を話していたんだ。何か、事態に重大な変化が生じたって感じだったぞ。何事だ? くそ、俺としたことが、こんな大事な時に。ミスったぜ。

「もうよい! ワシが直接行く」

 正覚が直接だって? どういう事だ? よほどの緊急事態で、且つ、重要な用件だな。これは事件に違いない。とりあえず、車で移動するはずだ。「代車くん」に戻るとするか。ええと、どこに停めたっけ。ここの駐車場は、広いからな。このエレベーターは、どの位置にあたるんだ? ここがBの六だから、向こうがCの一から四で……おお、すぐそこに在るじゃないか。俺の「てんとう虫」。

 さてと、俺は「てんとう虫」こと、「代車くん」のスバル三六〇に乗り込んでみる。いよいよ、初仕事だぜ、「代車くん」。君の性能を存分に発揮すべき時が来た。正覚の奴は……おお、例の黒塗りのAIキャデラックを自分で運転するのか。珍しいな。大丈夫か。しかし、信者を連れて行かないという事は、出かける目的は、それほどの重要案件だという事だな。こいつは、意外と早く大物を釣れそうだぜ。どれ、正覚が乗車に手間取っている間に、こっちのエンジンの調子を確認と。うん。いい感じだぜ。ガソリンもちゃんと満タンにしたし、俺も運転に慣れてきた。これでエンストしたら、「代車くん」、君のせいではない。俺の運転技術の問題だ。

 さあて、正覚さんのご出発だ。あらあら、右に左に、危ないねえ。久々の運転だろうからな。俺だって、AI自動車の運転には慣れるのに少し時間がかかるぜ。公道に出る前に、駐車場内で慣らし運転した方がいいんじゃないか、正覚さん。あらら、行っちゃうんだね。じゃ、こっちも出しますか。

 さてと、少し車間を開けて追尾……おっと、急停止かよ。危ねえな。ぶつかるところだったじゃないか。上り坂の前で急に止まるなよ。こっちはマニュアル車なんだぞ。ギアを落として踏み込むところなんだからさ。気をつけてくれよ。ん、おいおい、ワイパーを動かして何やってるんだ。間違えたろ。違う、違う、それはウインカーのボタンだ。もう一回、システムを再起動させてみろ。そうそう。動くだろ。おおっと。今度は急発進かよ。まったく、見てらんねえ……おっと、危ねっ。……何だ? うるせえな。割り込みか? 危ねえだろ。そんなに激しくクラクションを鳴らさなくてもいいじゃないか。まったく、譲り合いの精神ってのを知らないのかね。どんな奴が乗ってるんだ。ち、左ハンドルかよ。ドライバーが見えねえな。ま、青のAIフェラーリに乗って、クラクション鳴らしまくって割り込んで来る奴に、ろくな奴はいねえよな。ここは地下駐車場から地上に出る坂道の手前なんだからよ、事故が一番多い所だし、私有地内だから、事故ったらいろいろ面倒だろ。考えろよ。お、なんだ、先に行く気か。頭にくるなあ。何なんだよ。こっちが先……くそ、エンストかよ。急ブレーキかけたからな。クラッチ板をやっちまったかな。ここは、慎重に回転数を振動で確認しながら……よし、よし。いいぞ「代車くん」。復活だ。この急勾配の坂道も難なく上っていく……なんて、喜んでいる場合か。正覚のAIキャデラックは何処に行った。あれ? 何処だ? 畜生、見失っちまったじゃねえか。くそ、何なんだよ、さっきのAIフェラーリ。視覚認識率の低い「青」なんて色にしているから、ぶつかりそうになるんだろ。そんな車で割り込むなよ。先に俺を通せよ、まったく……。ボヤいてもしょうがないか。正覚を探そう。ちくしょう、今日は道路がやけに混んでいるなあ。でも、あの運転では、まだ、そう遠くへは行っていないはずだ。この辺を探していれば、必ず見つかる……ん?

 見つけたぞ。間違いない。絶対にアイツだ。刀傷の男。今、俺の前を右から左に通り過ぎたオレンジ色のAIレクサスRCF。見た目は昔のGTカーだが、あの音はAI自動車の電気モーターが作る擬似エンジン音だ。嘘っぱちの偽物エンジン音だぜ。奴の顔の傷もはっきりと確認したぞ。間違いない。絶対にアイツだ。こっちはスバル三六〇で、身形もスウェットにパーカー姿。奴は俺に気付かなかったみたいだな。だが、おまえは相変わらずの派手なインチキAIオールドカーで、身形も黒のスーツ姿かよ。随分と図々しいじゃねえか。見つけてくれってか。上等だ。お望みなら、きっちりと「けじめ」をつけてやるぜ。

 待ちやがれ。何処に行きやがる。オラオラ、ダーティー・ハマー様が本物のオールド・カーで、ぴったりと後ろにつけているぜ。何処に行くんだ。逃がしはしないぜ。だが、お前さんが気付いていないなら、このままじっくりと後をつけさせてもらうぜ。おまえを動かしている黒幕が誰なのか、そいつが俺の考えている奴かどうか、はっきりと確認させてもらう。ん、おっと、どうやら気付いたみたいだな。また、自動走行を切りやがったな。そんでもって、お得意の急ハンドルかい。いいだろう。今度はマジで逃がしはしねえ。こうして、素早くギア・チェンジして、カーブを急転回だ。うお、危ねえ。どけっ、危ないぞ。右に……今度は左か……よし、交差点は抜けたぜ。待ちな、そこのオレンジのAIレクサス。スバル三六〇の小回りは伊達じゃないぜ。こうして、小振りの車体で、車間と車間を縫うように……よっ……ごめんよ、通してくれ。悪者を追っている。悪いな、どいてくれ。ようし、追いついたぞ。逃げた方角が悪かったな。そっちは寺師町の南部だ。しかも、今日は水曜日。通勤ラッシュが一息ついた、この時間帯は、大型トラックの渋滞が始まる時間帯だぜ。しかも、今日はいつもより混んでいる。ほらな、この前みたいに猛スピードでダッシュって訳にはいかないだろう。残念だったな。さあ、どうする。前も左も大型トラックだ。右にはAIワゴン。ボディに貼ったカッティングの絵柄から察するに、乗っているのは結構なチンピラさんだぜ。真後ろには俺の「代車くん」だ。さあ、囲まれちまったな。ほら、このまま赤信号でストップだ。どうやら、年貢の納め時だな。よーし、たっぷりと納めてもらおうじゃねえか。――おお! 右のAIワゴンに体当たりか。関係ねえ市民を、また巻き込みやがって、とんでもねえ奴だ。そのまま、前のセダンにもぶつけて、退かしやがった。ああ、その次の車にもドカンと……くそっ、信号待ちしている車を押し退けて、そのまま赤信号に侵入する気かよ。畜生、仕方ねえ。追うか。すまねえな、通してくれ。俺もそこを通る。悪い、ドアを閉めてくれ。俺も通るぞ。みんな車から降りてくるなよ。危ないぞ。御免よ。おい! あの野郎、もう少しで、横断歩道を渡っている爺さんを撥ねるところだったじゃねえか。爺さん、驚かして申し訳ない。ついでに俺も通るぞ。爺さんの分も、俺が食らわしといてやる。だから、そんなに怒らないでくれ。すまん。横を通るぞ。ゆっくりと通るからな。離れていてくれよ。くそ、マジか。赤信号を左折しやがった。この車の往来に飛び込んだのかよ。仕方ない……今だ!……ビックリさせてすまん。前の車を追っているんだ。列に入らせてもらったぞ。周りがAI自動車でよかったぜ。やっぱり、コンピュータは反応が早いな。うお、危ねえ。あの野郎、滅茶苦茶しやがるな。今度は、一番左の車線から無理矢理に右折かよ。あーあ、奴のせいで追突事故だらけじゃねえか。いくらAI自動車の危険回避プログラムでも、さすがにこれは無理だな。横からあんな無理な右折をされたら、避けられねえよな。あの野郎、どの車線の先頭車両にも衝突して行きやがった。大丈夫か、みんな。エア・バッグはちゃんと作動したか。よし、誰も怪我人は居ないみたいだな。よかったぜ。ちょっと、その隙間を通させてもらうぞ。通りますよ。開けてくださいよ。俺も右折しまーす。通して下さーい。あとは、警察に任せな。心配するな、あんたらの車をぶっ壊した奴は、俺が捕まえてやるぜ。



 十九

 あの野郎、「ガテン道」に入りやがった。ああ、「ガテン道」ってのはな、この新首都を建設するときに、工事車両の専用道路として造られた道幅の広い片側一車線の対面道路で、新市街の周囲を一周するように走っていた道路だ。大体が作り変えられているが、寺師町の東には南北に縦に走る形で、「湖南見原丘工業団地」の先まで残されていて、今でも、建設車両なんかが通る裏道として使われている。奴はそこを南に向けて走り出しやがった。畜生、前を大型クレーン車がノロノロと走っているぜ。だが、この「てんとう虫」は、ちょっとの隙間でも……こうして通過できるのさ。そう怒るなよ、クレーン車の運転手さん。クラクションが大き過ぎて、ビックリするじゃないか。ちょっと追い越しただけだよ。くそ、それにしても、どうして警察のパトカーが出てこないんだ。奴が寺師町の外れで、あれだけの暴走をして、事故を起こしまくったんだ。普通なら、軽武装パトカーが数台現れてもいいはずだぞ。何やっているんだよ、警察は。みんなして、どっかで、アイドルのケツでも追いかけているのか? 今朝はやたらと、司時空庁ビルの辺りをヘリが旋回していたじゃないか。あのヘリは、何処に行っちまったんだよ、この大事な時に。

 畜生、随分と先に行かれたな。だが、見失いはしねえぞ。お前のオレンジのAIレクサスRCFは、とにかく目立つからな。ほらな、そんな所で急に右折しても、バレバレなんだよ。じゃあ、俺もこの辺で右折させてもらうぜ。よっ。

 野郎、この中に入り込みやがったな。「湖南見原丘工業団地」。中小企業の工場が建ち並ぶ、まるで「キューポラの街」のワンシーンのような街だ。その間を、運搬用のトラック一台が通るのがやっとという程の狭い幅の道路が碁盤の目のように走っている。どこに行きやがった。そういえば、奴の「なんちゃってオールド・カー」は、レーシングカーのような低く太い擬似エンジン音を鳴らしていたぜ。電気エンジンの無音モータでは、後方から走ってくる車に歩行者が気付かないので、二〇〇〇年初頭に政令で擬似エンジン音を出す事が事実上、義務づけられた。二〇三八年の現代では、エンジン音は所有者が自由に選べる時代だ。あいつは、あの爆音を選択したって訳か。だが、それがミスだったな。この工場街でも、その音は響き渡るはずだ。俺は「代車くん」のエンジンを切るぜ。そして、窓を開けてみる。周囲では、工場の機械音が鳴り響いている。同じリズムで鳴り響く低い金属の打音。不規則に何かを削る高音の摩擦音。短いテンポで鉄を打つ高音。溶鉱炉から型枠に溶鉄を流す音。機械の稼動を知らせるベルの音。運搬用のトラックがバックする警告音。誘導員の笛の音。作業員が何かを指示する怒鳴り声。焦るな。集中だ。耳を澄ませ。奴の低く擦れたエンジン音だ。エンジン音。集中しろ。ヴォン、ボボボボボ。これだ。聞こえたぞ。作り物のガソリンエンジンの音だ。どっちの方から聞こえる。集中しろ、耳を澄ませ。――向こうだ、西だ! よし、今日の「代車くん」は、機嫌がいいぜ。すぐにエンジンがかかる。絶好調だ。向こうだな。この細い路を通るか。さすがに、ここでスピードは出せないぜ。おっと、トラックと鉢合わせか。しまったな、一方通行を逆走しちまってた。どうする。戻るか。いや、その工場の中を通してもらおう。右折だ。うわ、作業員さん、御免よ。お仕事中、失礼しまーす。通りまーす。熱っ。あちち。なんだよ、溶けた鉄が、すげえ飛び散ってるじゃねえか。このスバル三六〇のルーフは、プラスチック製なんだよ。穴が開いちまったぜ。アチッ。パーカーのフードにも穴が。マジか。さっきスポーツジムの入会特典で、貰ったばかりだぞ。ああ、下のスウェットは買ったものなのに。くそ、焦げちまってるじゃねえか。まったく、また、ミチル婆さんに「当て布」してもらわないといけないぜ。おっと、通してくれ。今更、Uターンは出来ん。通してくれ。よし、ようやく工場建屋内を通過できた。奴は……よーし、見つけたぜ。待ちやがれ、そこのオレンジのボコボコAIレクサスRCF。ああ、車体の右側がベッコベコじゃねえか。あらあら、エアバッグも開いちゃったのね。運転しづらそうなこと。あんな無理な運転をするからだよ。おお、この細道でそんなに速度を上げますか。危ないだろ。それに、そっちに行っても、結局……ほらな。ダンプカーが何かを積んでる最中だ。どうする。戻ってくるか? この工場に挟まれた細い道をバックして俺の前まで戻って来るしか、選択肢はないぜ。よおし、素直だ。そうやって、素直に戻ってくれ……馬鹿、スピードを出し過ぎだ。くそ、ケツで体当たりする気かよ。うわっ。これ、代車だぞ。ぶつけやがって。借り物なんだぞ。うわわわ。くそっ。そのまま押し退ける気か。駄目だ。さすがのスバル三六〇も、超電導電気モーターエンジンの出力には適わないぜ。ブレーキ踏んで、ギアも引いてるのに、そのまま押されっちまう。畜生、またかよ。このまま押されて、その先は……ゲッ、溶接用のガスボンベが並んでるじゃねえか。マジかよ。昨日よりもレベルアップしてるぞ。くそ、どうする。どんどん押されていく。ブレーキを掛けてるタイヤが擦れて、煙まで出てるじゃねえか。しまった、この「代車くん」は、リア・エンジン車だ。このままケツからガスボンベに突っ込んだら、マジでドカーンだぜ。この辺でハンドルを切っておかないと……俺もバックして、車体が奴の車と離れたところで、左折して横道に入るっと。ふう、危なかったぜ。奴は、おお、急ブレーキか。さすがに反射神経はいいな。って、そのまま前に右折して逃げる気か。逃がすかボケ。あれ? くそ、またエンストか。こんな時に。ええい、かかれ。かかれ。よし、いい子だ。待てコラ。逃げんじゃねえ。なに? また右折かよ。じゃあ、こっちも手前の角で右折して先回りだ。そんで、次の次を左折して、進めば……奴の前に出るはず……なんだが……あれ? 何処に行ったんだ。うわっ。痛っ。今度は左から追突かよ。くそ、また押し相撲じゃねえか。ていうか、横に押されてるぞ。車は前に進むものなんだよ。横じゃねえよ、横じゃ! くそ、完全に左側の前輪と後輪が浮いちまってるぜ。奴のAIレクサスの変な形のバンパーに車体の左側が乗り上げちまってるじゃないか。馬鹿野郎。タイヤってのはな、縦に回す物なんだよ。横に擦る物じゃねえんだ。いい加減にしろ。なんで、広がったエア・バッグの越しにニヤニヤしてやがるんだ。何処まで押していくつもりだ。ん、まさか。ちょっと待て、あの先の馬鹿でかい機械の所まで、車ごと押していくつもりか? あれは、鉄板を薄く伸ばすプレス機だろ。大型の。このスバル三六〇ごと俺をスクラップにするっていう計画かよ。マジか。おまえ、どこまでサディストなんだ。馬鹿、止めろ。うおっ。

 ふうう。マジで、やばかったぜ。奴は……。あらら、自分がプレス機に突入したみたいだな。危なかったねえ。バンパーとフロントライトの所がペシャンコじゃないかよ。滑り台みたいになっちまったな。ざまみろ。畏れ入ったか、これが「スバル・クッション」だ。お前の手荒い運転も、柔の心で流す。振動を利用してスバル三六〇の車体が跳ねたところを、AIレクサスのフロント・バンパーをタイヤで蹴って、横に脱出さ。ま、俺様のドライブ・テクニックが在ってこその妙技だがな。どうやら、策に溺れたみたいだな。――はあ? なんだ、まだ動かすつもりなのか。無理するなって、電気モーターの制御システムがショートするぞ。止めとけって。ボンネットの上から放電してるじゃねえか。くそ、走り出しやがった。瞬時に加速できる所が、AI自動車の厄介なところだぜ。待ちやがれ。工場の中でそんな運転すると、作業員に迷惑だろうが。止まれって。あらら、シャッターを突き破りやがった。そのまま、外かよ。でも、そこは結構広めの道路が横に走っているだけだろ。思ったとおりだ。あらら、左折ですか。好きだねえ。でも、仕方ないか。正面は、右から左にずっと工場の壁が塞いでいるしな。それに右には、奥の方に昭憲田池の水面が見えただろうからな。誰だって、咄嗟に左折するだろうよ。でもね、この道はたしか、東西に伸びる大きな横道だからねえ。今、俺たちが出てきた工場を含め、道の左右は大きな工場の壁で挟まれている。で、おまえが走っていった方角の突き当たりは、崖になっていて行き止まりだろ。崖の下は雑木林で、その下に縞紀和川沿いの幹線道路が走ってはいるが、流石に、いくらおまえでも、そのボコボコペッタンコのAIレクサスRCFで、その高さの崖を下って、雑木を薙ぎ倒してバイパス道路に出るなんて事は、不可能だよな。死んじまうもんな。そうそう。そうやって、Uターンするしかない。だからと言って、車に掘削用のドリルでも付いてない限り、この下を南北に通って交差している湖南見原丘工業団地の中道には、降りられないよな。つまり、この道とは十字に立体交差している訳だからな。どうだ、分かっているか。俺たちは、今、湖南見原丘工業団地の中心の一番高くなっている部分に出たんだよ。いいだろう。俺もバックするぜ。ずーと後ろまでな。ずーと、ずーと、後ろまで。これでどうだ。俺のスバル三六〇の真後ろは、昭憲田池だ。お前の後ろは崖。俺たちの左右は工場の壁で、お互いに逃げ場は無い。俺とおまえの中央の位置に、さっきおまえが突き破った、壊れたシャッターの残骸がある。その横の位置に、おまえと俺が出てきた工場の入り口だ。逃げ道は、そこしかない。どうだ、勝負してみるか。おお、エンジンを噴かしやがって。やる気だな。ていうか、それ擬似エンジン音だろ。ま、いいか。俺の「代車くん」も、車体はボコボコだが、リアのエンジンは絶好調だぜ。どうだ、こっちは本物のエンジン音だ。それに、いい加減、俺も頭にきたぜ。よーし。掛かってきな。ケリをつけてやる。じゃあ、行くぜ。

 いいね。俺とほぼ同時に、こっちに突進してきやがった。お前のAIレクサスRCFは、前の部分が潰れてる。衝突回避のレーダー照射装置も壊れているだろう。勿論、俺のスバル三六〇には、そんな物は装備されていない。これで五分と五分だ。ガチンコ勝負だぜ。奴のAI自動車は、潰れたフロントボディの先が路面を擦って、すさまじく火花を散らしてやがる。閃光で奴の表情が見えないぜ。さあ、どうする。恐怖一杯の顔で向かって来ているのか。それとも、いつもの通り、あのニヤついた顔でハンドルを握っているのか。AI自動車の超電導電気エンジンのパワーで、俺のスバル三六〇を押し返す算段だろうが、そうはいかねえ。こっちは本気だ。そうだ、向かって来い。こっちもフルスピードだ。ケリをつけるって言ったろ。絶対に、避けるつもりはねえぞ。ほら、そろそろブレーキを掛けないと、衝突しちまうぜ。そうか、そっちも、そのつもりだな。じゃあ、恨みっこ無しだな。目の前に来たぞ。決着は、あの世でつけようじゃないか。覚悟しな。思いっきり、ガツンと……

 うわ、痛っ。な、あれ? 工場の屋根が見えるぞ……なんで宙に浮いているんだ? ああ! 奴のAIレクサスの滑り台みたいになったフロントに乗り上げて、そのまま、奴の車体の上を飛び越えちまったのか。ジャンプ台を跳ぶみたいに。しまった、どんな悪路でも快適に走る「スバル・クッション」だった。AIレクサスRCFのフロントボディの上も、なんのそのってか? ここで本領を発揮してどうする、「代車くん」! しかも、衝撃で両側のドアが開いてるぞ。君の前開きのドアは翼か。それにしても「代車くん」、君はこんなに高く飛んで、着地する術を有しているのか? すごく高いぞ、ここ。おお、落ちていく。「代車くん」、君は重力には素直に応じるのか。で、この曲線を描いて落ちていく先は……道路の端っこじゃん! おいおい、前開きのドアをパタパタさせて降りている場合か、「代車くん」! おお、いいぞ、いいぞ。なかなか、ゆっくりと……でも、その先は、うわっ。痛っ。どわっ。ちょ……本当に崖じゃねえか。くそ、しかも「スバル・クッション」のせいで、すげースムーズに下っていくぜ。悪路なんて、なんのそのって、ここでは必要ないぞ。うおっ。上下に、揺れる、揺れる。ドアがバタン、バタンと……開いたり閉じたり……ヤベー、このままじゃ、下の林の木に激突じゃねえか。く、ここは、とにかく、脱出だ。とう!



 二十

 こんにちは。泥と濡れ落ち葉まみれになっても、決して挫けない男、浜田圭二です。裏の世界じゃ、人は俺のことを「ダーティー・ハマー」と呼ぶが、そんな事は……いや、今回はマジでダーティーだぜ。泥だらけ、落ち葉まみれじゃねえか。畜生。それにしても、この幹線道路、正午前だって言うのに、さっきから車一台すら走って来ないぜ。あーあ、スニーカーも、ぐちょぐちょだあ。「代車くん」は、杉の木にタックルして、逆立ちして抱きついたままだ。しかも、ケツから煙を上げているし。俺は携帯端末を持ってないし。トホホ。仕方ない。歩くか。四時の位置の地下リニアの駅まで、いったい何キロあるかな。五時の位置の駅の方が近いかな。いや、そんなはずは無いな。四時の位置の駅にしよう。とりあえず、このバイパス道路沿いに歩いて行けば、どこかに看板が出ているはずだ。はあ、それに、九八ツール・モータースのオッチャンに、なんて言おうか。貸してくれたスバル三六〇を、お釈迦にしてしまった。まさか、殺し屋とチキンレースしたら、ジャンプしちゃって、崖の下の林に突っ込みましたとは、言えないよな……。はあ、どうしよう。

 あ、トラックだ。

「おおい、ここだあ。乗せてくれー」

 ――無視か。だよなあ、こんなに汚れていたら、誰も乗せてくれないよなあ。

 それにしても、何なんだよ。今回の任務は、超ハードワークじゃねえかよ。トラックの荷台で地下高速の真空の中を走ったり、新高速道路で銃撃戦をしたり、空腹のまま地下リニアで追いかけっこしたり、ランニングマシンで全力疾走したり、市街地でカーチェイスしたり、挙句の果ては、「代車くん」でカー・スタントかよ。まったく、我ながら生きているのが不思議だぜ。ちゃんと報酬を払ってくれるんだろうな、あの依頼人。まあ、堅い仕事の人だからな、大丈夫だろうが……。待てよ。でも、個人的な依頼だとか何とか言っていたぞ。一応、その事情は理解できたが、本当に大丈夫だろうな。ここまで頑張って、報酬無しじゃ、洒落にならんぞ。一度、連絡しておくかな。経過報告と俺の推理も伝えないといけないしなあ。とにかく、この格好じゃ、会ってもらえないよな。一度、事務所に戻って、スーツに着替えよう。――ああ! しまった。スーツをスポーツ・ジムのロッカーに入れっぱなしだぜ。このスウェットとパーカーに着替えたんだった。南の追跡に夢中で、つい、取って帰るのを忘れていたぜ。もう一着はミチル婆さんに補修を頼んであるし……事務所に帰っても、着替えのスーツは無いなあ。それにトレンチコートと、俺のラッキーアイテムのハットもロッカーの中だ。じゃあ、さっきのスポーツジムに戻って、あそこでシャワーを浴びて、汚れを落とすか。あ、そうだ。昨日預かった資料が「代車くん」の中だなあ。ま、でも、あれは全部読んだから、いいか。とはいえ、「代車くん」をあのままという訳にはいかんよなあ。あれは、事故車回収用のロボットを使って持ち上げないといけないな。最低でも、アーム重機が必要になるよなあ。かあ、高いんだよなあ、あれ。どうするよ、まったく。ダットサンの修理代もあるし、ほんとに金が……しまったああ! 財布もジムのロッカーの中だ。これじゃ、地下リニアに乗れないじゃないか。あちゃー。どうしよう。マジで、ヒッチハイクするしかねえな。しかし、どうなっているんだ。なんで、こんなに車が走ってないのかね。このバイパスの先は新那珂世港だし、その隣は臨海物流発進地域じゃないか。普段なら、この縞紀和川沿いの幹線道路は、寺師町方面や新高速道路に向かうトラックなんかがバンバン走っているはずだぞ。どうなっているんだよ。一台くらい……お、さっき俺を無視したトラックだな。戻ってきたのか。

「おおい、ここだ。止まってけろー」

 お、止まってくれたぞ。よかった、よかった。ちょっと待っててくれよ。今、そっちに渡るからな。右よし、左よし。はい、渡りまーす。

「いやあ、止まってくれて助かりました。実は、ちょっと困っていて」

「どうした兄ちゃん。えらく汚れてるじゃないか。肥溜めにでも落ちたか」

 なんだ、いかにも長距離トラックの運転手って感じだな。パンチパーマにサングラス。金のネックレス。三点セット完備じゃねえか。ま、でも一応、頼んでみよう。

「申し訳ないんですが、寺師町の方まで、乗せてもらえませんかね。後ろの荷台で構いませんので」

「あ、いや。無理、無理。悪いな。それに、この先は、今朝からずっと通行止めだ。そろそろ解除になってるかと思って来てみたが、まだ止められたままだ。だから、寺師町には西回りで行くしかねえな。そうなりゃ、地下リニアに乗った方が早いだろう」

「通行止め? 西周りって、香実区の方は通れないんですかね」

「あっちも全然駄目。トンネルっていうトンネルが、全部、通行止めよ。湖南見原丘工業団地から東に、高台が尾根になっているだろ。だから、何処を通っても必ずトンネルがあるからな。ま、一般車両が通るような小道を行けば、トンネル無しでも行けるが、このトラックじゃなあ。湖南見原丘工業団地の中道を通って寺師町に出るか、中道からガテン道に入って北上するって方法があったんだが、どっかの馬鹿が街中で暴走して、あっちこっちで事故が起きたみたいなんだ。だから、現場検証で通行止めばかりで、寺師町付近は大渋滞しているらしいんだよ。カーナビにも出てる。事故マークだらけだ。湖南見原丘工業団地でも、何か事故があったみたいだからな。中道も止められているかもな。それに、蛭川を渡って旧道を北上して樹英田町から蔵園町に抜けて、新高速道路に乗るって手もあるが、遠回り過ぎるからな。新高速道路を東に向かう予定の連中は、皆そうしているみたいだが、俺は西方面なんでね。悪いな」

 う……その、どっかの馬鹿の一人は俺です。すみません。でも、一応、訊いてみよう。

「地下高速道路は?」

「クローバーかい。ありゃ、今は満車だ。さっきから全然、入れない」

「満車? 渋滞しないように制御されているはずじゃ……」

「地下高速の中ではな。問題は、そこから出た所だよ。出口から先が渋滞してるものだからよ、中から外に出られないのさ。だから、酸素切れで窒息する奴が出る前に、都が入車規制を掛けているんじゃねえの」

「トンネルの通行止めは、カーナビに予定表示されてないんですか。解除時刻とかの」

「それがよ、突然なんだよ。ダチの話じゃよ、今朝方から急に始まったらしいぜ」

「何がです?」

「よく分かんねえよ。中でトラックでも事故ったんじゃねえの。でもよ、他のトンネルでも事故なんて、何かおかしいだろ。噂では、トンネル管理組合のストなんじゃねえかって話だぜ。まったく、いい迷惑……ああ、ほら。蛭川を渡るルートで行ったダチが、蔵園町のトンネルで引っ掛かったそうだ。今、ラインで知らせてきたよ。あっちのトンネルも通行止めらしい。こりゃ、西回りも、大交差点までは大渋滞になるな。全部、南北幹線道路の方に回ってくるからな。悪い、もう行くわ。急がねえと、渋滞にハマっちまう。じゃあな」

 スト? トンネル管理組合は、道路を管理している自治体が共同で作っている組合だろ。事務処理の必要で作られた団体じゃないか。ストライキなんかするのか? いったい、どうなっているんだ? こいつは調べる必要が有りそうだぜ。しかし、どうするかな。ここからトンネルまで歩くとなると、相当に距離が有るぜ。オッチャンに連絡が付いたとしても、どうせ、ここまで来れない状況みたいだし、あとは……あの女は、いくら俺に惚れていると言っても、今は無理だよな……ミチル婆さんは勿論、無理。バーテンは寝ている時間かあ。バット、あいつなら、来てくれるかな。いや、あいつも寝ている時間だな。あ、小久保君……無理かあ。ああ、そうだ、あいつ……いや、あいつは山荘だしなあ。あ、リカコ先生。いや、絶対に無理だな。誰か、忘れているような……。お、ミニ・トラックじゃないか。昔は「軽トラ」って言っていたよな。あれ? 昨日の葉路原丘公園の管理人さんだ。

「おおい、待ってくれえ。止まってくれえ」

 今、通り過ぎる時に、ちょっと目があったよな。お、止まってくれたぞ。しかも、バックして来てくれた。これは脈ありかもしれん。

「なんだ。昨日の人じゃないか。具合の方は大丈夫でしたか」

「ええ。お蔭様で。ご心配かけました」

「また今日は、どうしました。えらく汚れて」

「いや、崖から落ちちゃいましてね。ドジなもので」

「そりゃ、災難ですなあ。怪我は」

「いや、大丈夫です。それより、荷台でいいので、乗せてくれませんかね。荷物を取りに行きたいんですよ。財布も何もかも、ある所のロッカーの中に置きっぱなしで」

「いや、それは構わんですよ。何処までですか?」

「寺師町の東部です」

「私も、有多町の都庁まで行く所ですから、どうせ途中だ。どうぞ、どうぞ」

 お、助手席のドアを開けてくれたぞ。意外と親切な人だなあ。でも、俺のこの格好で本当に乗ってもいいのか。シートを汚しちまうよな。一応、謝っておこう。

「いやあ、こんなに汚れているのに、すみません」

「なあに、私を御覧なさい。作業服で泥だらけだ。いつもこんな格好で乗っている車ですから、気にせんでもいいですよ。ちょっと狭いですがね。どうぞ」

「ありがとうございます。感謝します」

 ああ。本当に感謝だぜ。ありがとう、管理人さん。恩に切るぜ。

 という訳で、俺は今、昨日叱られた葉路原丘公園の管理人さんが運転するミニ・トラックの助手席に乗せてもらい、寺師町へと向かっている。しかし、「捨てる神あれば、拾う神あり」とか「人の世に、木股より生まれる人は無し」とは、よく言ったものだぜ。この、人のいい管理人さんが通りかかってくれて、本当に助かった。

 おっと、忘れていたぜ。

「私、浜田圭二と申します。姓は浜田、名は圭二、世間では時々、ダーティー・ハマーなどと呼ばれてはおりますが、そんな事はどうでもいいんですよ。気にはしていません。私はしがない探偵です。こうして、日夜、困っている依頼人の為に、泥にまみれて任務を遂行しているんです。ま、時折、死にかけることもありますがな。はははは」

「へえ。危険なお仕事ですなあ」

「ええ。ですが、『危険』は探偵にとって、ラーメンに付いてる海苔みたいなものですからな。要らないのに、必ず付いてくる」

「ははは。なるほど。じゃあ、昨日の鼻血も、名誉の負傷というヤツでしたか」

「ええ、まあ。それより、昨日はすみませんでした。任務の関係で調べる必要があったものですから」

「そうでしたか。ちゃんと言ってくれれば、端の一輪くらい分けたんですがね。私だって、鬼じゃないんだから」

 本当に、その通りだぜ。反省、反省。

「ああ、こりゃ失礼。私、市口といいます。姓は市口、名は和明でござんす」

 なかなか面白い人だ。気に入ったぜ。

「管理人さんは、ずっとあそこで?」

「いや、去年からですよ。数年前に福祉施設を退職して、今は年金暮らし。週に三日ほど、管理で回っています。趣味も兼ねてね」

「ほお。悠々自適ってやつですな。羨ましい」

「いや、そのつもりでしたがね。実際にはこうして、空いている時間に都庁で清掃の仕事です。七十過ぎて、ようやく年金がもらえるようになったと思ったら、その額は若い頃に聞いていた額の半分だ。退職金も減額でしたしね……。まったく、前の世代は、私たちにいい老後を残してくれましたよ。若い頃は散々に我々の世代を振り回したくせにね」

 そうなのか。法改正で年金の支給開始年齢が引き上げられたのに、その上、額も半分じゃなあ。公的年金の加入者が激減するのも当然だぜ。お、トンネルだ。誰か、番をしているぞ。三人か。警察官じゃないな。軍の制服でも戦闘服でもない。民間の交通誘導員か? それらしい服装だが、何か雰囲気が変だぞ。それに、えらく目つきが鋭いし、体格もいい。お、一人が運転席に近づいて来やがった。どうやら、この管理人さんも、通行止めは知らなかったみたいだな。

「すみません。ここでUターンして下さい。中は通行止めです」

「はあ。何かあったんですか?」

 いいぞ、管理人さん。聞き出してくれ。

「中で、民間のトラックが横転しましてね。荷物が散乱しているんですよ。今、積み込んでいるところです。とにかく、引き返してください」

 さっきのトラックの兄ちゃんは、今朝から始まったとか言っていたぞ。じゃあ、半日も掛けて散乱した荷物を積み込んでいるのか? 横転事故なのに、警察も来てないぞ。それに、今、この男は「民間のトラック」と言ったよな。お前も民間の作業服を着ているのに、どうしてわざわざ「民間の」って言い方するんだ? 変だな。

「よわったな。西の南北幹線道路は、えらい渋滞なんですよ。それで、こっちに回ってきたんですが……この辺りから、香実区の方に抜ける道はありますかね。カーナビを操作するのが、苦手でしてね」

「向こうも、トンネルのメンテナンスで通れないはずですから、湖南見原丘工業団地の中道の方に回って下さい。一キロほど戻れば、横道があるはずです」

 おかしいな。二人が話している間に、カーナビで見てみたが、トンネルのメンテナンスの情報なんて、出てないぞ。ちょっと訊いてみるか。

「あの、すみません。トンネルのメンテナンスの情報は、ネットでも発表されていないようですが……」

「――ええと……国土交通省が、ナビゲーション・センターに報告するのを忘れているんじゃないか。知らないよ。とにかく、Uタンしてくれ。中は工事中だ」

「あれ? 散乱した荷物を積み込んでいるんじゃなかったのですか?」

「何でもいいだろ。とにかく、通れないんだよ。邪魔だから、さあ、行った、行った」

 邪魔だからって、この広い幹線道路には、このミニトラックしか居ないじゃないか。何か変だぞ。ん? この男、作業服の下に赤いTシャツを着てるな。胸元から丸襟がチラリと見えたぞ。あんな真っ赤なTシャツを下着にするか? あんなTシャツを着ている連中と言えば……。

「まったく。仕事に遅れてしまうじゃないか。それに何だ、あの態度は」

 ありゃ、管理人さん、怒っちまったな。でも、ま、管理人さんとしては、ここでUターンするしかないか。このまま、言われたとおり、湖南見原丘工業団地の中道に向かうつもりだな。

「さっき、トラックの運ちゃんから聞いたんですが、湖南見原丘工業団地の中道も通れないみたいですよ」

「ほんとかい。どうすりゃいいんだよ」

「そこの釣具屋の横の道から入って、裏道を通れば、『ガテン道』に出ますから、そこから寺師町を過ぎて東西幹線道路まで出ればいい。そしたら、少しは楽に都庁まで行けると思いますよ」

「道に詳しいですな。さすがは探偵さんだ」

 ま、そこいらのカーナビよりは、俺の方が優秀だぜ。それより、Uターンする時に、ちょっとだけトンネルの奥が見えたんだが、確かに大型トラックがこちら向きで止まってはいた。だが、あれはトラックというより、重機の運搬車両じゃないか。横転した形跡も無かったぞ。普通にこっちを向いて止まっていた。それに積んである何かは、緑色のシートで包まれていたぞ。建設用の重機をいちいちシートで包むのか。それから、その奥のトラックは道に対して横向きに止まっていた。というより、中で方向転換している最中って感じだったぞ。さっきの誘導員も変だ。足下は頑丈なブーツだった。あれは、俺が防災隊にいた時に履いていたのと同じだ。コンバット・ブーツだ。民間の交通誘導員が履くものじゃない。

「どうしました。深刻そうな顔して。何か事件ですかね」

 その通りさ。確信は持てないが、乗せてくれた恩返しだ。伝えとくか。

「管理人さん。ご自宅はどちらです?」

「は? まあ、旧市街の外れですが。それが何か」

「いや、今日は出来たら、お仕事はお休みになられて、帰宅された方がいいかもしれない。さっきの連中、どうもおかしい。あれは、どう見ても軍人だ。トンネルの中でやっているのは、たぶん兵器の積み込みか何かだろう。何の作戦かは分からんが、どうも、きな臭い」

「あんなトンネルの中で? まさか」

「いや。あそこなら、どの国の偵察衛星の画像にも写らないからな。そうなると、よほど極秘に進めないといけない作戦だ。さっきのトラック運転手の話を足して考えると、ここから東方面で同じような事をしているみたいだから、相当に大規模な作戦で、且つ、かなり緊張度が高い。だとすると、これから何か、危険な事が起こるのかもしれん。しかも、この新市街で。旧市街は安全だろうから、向こうに居た方がいいかもしれないですよ」

「冗談じゃないよ。来週は、孫の誕生日でね。新市街のマンションに住んでいるんだが、その子に誕生祝も買ってやらんといかんのですよ。今日休んだら、今日の分は給料から引かれてしまう。一時間の掃除の代金は、一時間の代金ですからね。今日は四時間も働けると思ったのに、これじゃ三時間がせいぜいですわ」

 孫の為に危険を顧みずか……。老人を安心して生活させる社会を目指していたはずだがね。現実はこれだ。せっかく、職業間の時給格差が無くなったのに、あまり世の中は変わらないのかね。だいたい、こんなご老人に館内の掃除をさせる役人たちの気が知れないぜ。もっと他に、同じ給料でやってもらう事があるだろうに。肉体労働は若者に集中させろよ。中年期にそこから転職する道を作っておかないから、若者が肉体労働に就かないだろうが。中途採用が当たり前に浸透してきたんだからさ、その他の事もちゃんと整えろよ。まったく……。ま、今その事に腹を立てても仕方ない。こりゃ、予定変更だな。早く依頼人に会わなきゃな。

「すみません。その先の交差点で降ろして下さい」

「え。いいのかい。寺師町の入り口じゃないか」

「ええ。ちょっと知り合いの修理工場に寄ります。本当に助かりました。今度改めて、お礼に伺います」

「いいんだよ、そんな事。じゃあ、気をつけて」

「どうも。有難うございました。でも、なるべく早く帰ってくださいね。出来たら、お孫さんとご家族も、管理人さんのお宅に呼ばれた方がいいかもしれない。どうも、新市街の方は危険な気がします」

「あいつらがウチになんか来る訳ありませんよ。プレゼントか小遣いを貰う為なら、飛んで来るんでしょうけど。すぐそこの華世区に居ても、年に一度、私に会いに来るのが、やっとですからね。それじゃ」

 ふう……なんか、悲しいぜ。



 二十一

「なにい? 林の中で三点倒立しているだと?」

 な、オッチャンはブチキレただろ。ああ、ここは九八ツール・モータースだ。そんで、今、俺は、オッチャンに「代車くん」の状況を報告したところだ。

「どこの林だよ」

「湖南見原丘工業団地の東の崖の下。あの、中道と立体交差している横道の、ちょうど下のあたりだ」

「かああ。バイパス線の横の林か。レッカー車も入れねえじゃねえか。ロボットを使うしかねえな。しかも、あの崖の下の林じゃ、斜面歩行用の三足ロボットじゃないと無理だな」

「悪い。任せる。ロボットのレンタル料は、俺が持つよ」

「当たり前だ、馬鹿。ロボット・レンタルが、一日いくらすると思っているんだ。立て替えてやる金なんて、ねえよ。それに立て替える義理もねえ」

「ごもっとも。ごもっともです。そのごもっともついでと言っては、何なんだが、別の代車を貸して……」

「一日一台、ぶっ壊す奴に代車を貸せるか。だいたい、その汚れた格好で運転席のシートに座ってもいい代車なんて、ウチには置いてねえよ」

「そう、怒るなよ。俺だって、わざとやった訳じゃないんだからさ」

「この野郎。俺がどれだけの年月をかけて、あのスバル三六〇を復活させたと思っているんだ。パーツを集めたり、無いものは自分で作ったり、大変だったんだぞ。それを、たった一日で……」

「いや、爆発したとか、炎上した訳じゃないからさ。オッチャンの凄腕で修理すれば、また元通りに……」

「ふざけるな。代車の使用料は、倍額。修理代金は三割り増しで貰うからな。もちろん、レッカー用のロボットのレンタル料は、お前さんの前払いだ。いいな」

「そんな……」

「俺の慰謝料を乗せられないだけ、感謝しろい」

「分かったぜ。はあ……。それより、ダットサンの方は」

「まだだよ。警察からも、何の連絡もねえ。また電話してみるけどよ。いつまで、ウチのガレージを塞がせておくつもりだよ。これじゃ、いつまでも修理に手がつけられねえだろうが」

 やばいな。これ以上、オッチャンの顔が赤くなると、頭の血管が切れて死んでしまうかもしれん。ここは一先ず退散するか。



 二十二

 結局、代車は無しか。車の無い探偵なんて、聞いたことないぞ。それに、また、昼飯を食ってないし。ま、しかし、今回は昨日とは違う。このビルの中にあるスポーツジムの更衣室に行けば、ロッカーの中には、ちゃんと俺の財布がある。だから、こうしてシャワーさえ浴びて綺麗になれば、後はいつも通りだ。ただ、車が無いだけ。どこかで、レンタカーを借りるかな。でも、ガソリン車のレンタカーなんて、無いよなあ……。

 ふう。さっぱりしたぜ。髪も整えたし、鼻毛も抜いた。あとは、このロッカーの中のスーツを着て、トレンチコートを羽織り、ハットを被れば、本格始動だぜ。ちょっと待っていてくれ。


 さて、スーツにハットにトレンチ・コート。完璧だぜ。やっぱ、こうでなきゃ。どれ。仕切り直しだ。行くぜ。

 俺の名は浜田圭二。一匹狼の探偵だ。裏の世界では「ダーティー・ハマー」と呼ばれているが、そんなことはどうでもいい。今日も俺は、託された事件の謎を解くために、このコンクリート・ジャングルの中を疾走するのさ。この都営循環バスでな。――って、なんか、違うな。やっぱ、自分で運転していないと、どうもしっくり来ないぞ。それに、トレンチコートにハットだけど、手ぶらだしな。絵的には、鞄を持っていた方が自然だよな。この、吊り革に掴まっている手と反対の手を、ポケットに入れておくべきか、出しておくべきか。なんか、不自然なんだよな。両手で吊り革を握るか……。うーん、これも、変だな。遊んでいるみたいだもんな。お、ここだ。降りまーす。ボタン、ボタン。久々にバスに乗ったからな。これか。ポチッとなっと。

 さて、ここは有多町の大通りだ。ちょうど真ん中くらいかな。ここから昭憲田池方面にちょっとだけ歩くと、ちょっとした公園がある。官公庁近くの公園では、よく有りがちだが、ここの公園も地下が公営の駐車場になっていて、俺もよく利用する所だ。公営だけあって、駐車料金が安い。昨日のカフェ二〇〇七のすぐ近くさ。今日もこれから遅い昼食だが、今日はカフェ二〇〇七には行かない。この公園の屋台でハンバーガーを買う。いつもはこの辺に居るんだが、おお、居た居た。いつ来ても相変わらず、客が少ないねえ。そのキャンピング・カーを改造した移動式の屋台の中では、いつも通りなら、髭面のマッチョなオヤジが、狭い車内で葉巻を咥えながら、クロスワード・パズルをして暇を持て余しているはずだが、さて、今日はどうかな……。おお、居た。やっぱり、いつも通りだ。

「こんちわ。オヤジ、ハンバーガーは在るかい?」

「ウチはコーヒーショップでね。ハンバーガーは売ってないんだよ」

「じゃあ、特製ハンバーガーにしてくれ。ケチャップ付の。急いで食いたい」

 お、睨んできたな。相変わらず、眼光が鋭いね。おお、怖い。

「中の具は、持って来てるのか。それとも、何か好みの具でもあるのか」

「そうだな。バンズの焼き具合によるな。この前と同じケチャップなら、具も提供できるぜ」

 お、立ち上がったぞ。って、頭が天井に閊えてるじゃねえかよ。俺と同じくらいの身長か。ていうか、どうみてもヘビー級だな。怖ええ。なんだ、エプロンを外して、出てきたぞ。うお、コイツが降りたら、車体が持ち上がったぞ。体重は何キロなんだよ。うわあ、大胸筋パンパンだし、Tシャツの半袖の所が上腕筋で裂けそうじゃねえか。格闘技のチャンピオンかよ。なんだ、近づいてきた。やる気か。前に立つと、俺よりデカいな。二メートルはあるんじゃないか。俺も、こっそりとちょっと、背伸びしたりして。なんだよ、そう睨むなよ。やんのか。

「待ってな。今、材料を買ってくる」

 なんだ、今からかよ。えらく、のんびりと……わっ。びっくりしたな。葉巻をカウンターに置いたのか。もっと、そっと置けよ。ビビッちまったじゃねえか。

「向こうの東屋の下に灰皿がある。捨てといてくれ」

 え、向こうですか。何処に……ああ、あれか。これを捨てとけば……って、自分で捨てろよ。あれ、居ない。なんだ、もう行ったのか。ったく、この葉巻、火が点いたままじゃねえか。仕方ねえな。捨てといてやるか。しかし、他人が咥えていた葉巻ってのは、どうしても指先で持っちまうよな。ん? この葉巻、本当に火が点いているのか? 煙は出ているけど、熱くねえぞ。変な葉巻だな。だいたい、飲食業で葉巻なんか咥えながら客待ちするなよ。厨房の中で葉巻咥えているマッチョが注ぐコーヒーを、誰が飲みたいと思うんだよ。コーヒー豆の匂いじゃなくて、葉巻の煙の臭いを漂わせて、どうするんだ。いくら屋台のコーヒーショップでも、少しは気を使えよな。そもそも、ここの公園は喫煙禁止だろうが。市民の憩いの場だぞ。ほら、子連れのママも多くいるじゃねえか。そのうち、受動喫煙で訴えられるぞ。絶対に。

 ここだな。まったく、なんでこんな所まで、他人が吸った葉巻を俺が捨てに来ないと行けないんだよ。ええと、灰皿、灰皿。――無いじゃねえか。どこに灰皿が在るんだよ。ベンチだけじゃん。あの口髭マッチョ。人をこんな所まで歩かせやがって。灰皿は無いじゃないか。灰皿が、無い! かと言って、そこのゴミ箱に捨てる訳にはいかんしなあ。ここに置いとくのも、その子供が手にして火傷でもしたら危ないし……。うわ、清掃員のオバちゃんが、こっちを見てるぞ。ゲッ、こっちに来た。違うぞ。俺が吸っていた訳じゃないぞ。うわ、また、このオバちゃんも、目つきが鋭いなあ。

「ちょっと。ここの公園は喫煙禁止なんだよ。タバコは灰皿に捨ておくれ」

「あ……いや、俺が吸っていた葉巻では……」

「地下の駐車場に灰皿があるよ。Gブロックの三番の所だ。捨ててきな」

「地下の駐車場? あそこの公衆トイレで水を掛けてきますから、それならゴミ箱に捨てても……」

「Gの三だ。早く行きな」

 なんだよ、まったく。人様が吸った葉巻を捨てるのに、地下駐車場まで行けってのかよ。都営だからって、調子に乗るなよ。俺だって都民だぞ。それにしても、この葉巻の火は消えないなあ。ええと、階段は……ああ、ここか。まったく、俺が親切な探偵だから、いいけどな、柄の悪い探偵も大勢いるんだぞ。そんな奴らだったら、そこら辺の花壇の中にポイして終わりじゃねえか。俺が几帳面で綺麗好きだったから、いいようなものの。普通の人間は、ここまでしないからな。あのカウンターの上に葉巻を乗せたまま、怒って帰っていると思うぞ。ああ、着いた。ええと、ここはAからEか。Gはもう一つ下の階かよ。ったく。エレベーターがあるだろうに。なんで非常階段を使わせるかな。これだから、公務員ってのは嫌だね。こう、想像力が無いというか、自己中心的というか。もう少し、階段を利用する人間の身にもなってほしいね。俺みたいに、まだ昼飯を食べていないクタクタの人間だって、地下二階まで降りるかもって事は考えないのかね。ああ、ここだな。地下二階、FからK。下の階はLからPだよな……? ま、いいか。ドアを開けてみよう。本当に、中に灰皿が在るんだな。ええと、G、G、Gブロック、Gブロック……ああ、ここか。って、普通に壁際の駐車スペースじゃねえか。ここの三番……なんだ、Gの三番には、黒塗りのバンが一台、駐車してあるぞ。おお、これもガソリン・カーか。九十年代のものか?

 さてと。この車でいいんだな。ほら、後部座席のスライド・ドアが開いた。中に居るのは、やっぱり依頼人さん。ったく、こういうのが好きだねえ。おたくら。頭が下がるよ。ほんと。

「君から会いに来るとはな。乗りたまえ」

 はいはい。乗りましょう。言っておくが、普段の俺はもっと用心深いぜ。こんなホイホイと他人の車に乗る事はしない。だが、この依頼人は信用できる。そう思って乗っただけさ。でも、これは一応、言っておかないとな。

「俺はまだ、昼飯も食ってないんだぞ。そんな人間を、よくまあ、こんな所まで歩かせますなあ」

「そうらしいな。君のボヤキは全て聞こえていたよ」

「そう思って、わざと言ったんですよ。この火の消えない葉巻。はい、どうぞ。灰皿へ」

 ニヤリとして受け取ってんじゃねえよ。どうせレーザー通信機能がついた集音マイク内蔵なんだろ。ほらな、何か真ん中の所を押して、火が点いたまま胸のポケットに仕舞いやがった。本物の火じゃないんだろ。ったく。紛らわしい。ホログラフィーか何かかよ。依頼人さん、あんた、黒のスーツに真っ赤なネクタイでビシッと決めているが、やってる事は三流手品師と同じ事じゃねえか。思わず、首を傾げちまうね。

「悪く思わないでくれ。念には念だ。それほど、事態は逼迫している」

「俺の胃袋も逼迫していますがね」

「そうか。そう思って、昼食を用意させた。後でさっきの髭の大男から受け取るといい」

「そりゃ、どうも」

 気の利くことで。俺の機嫌を取ろうって作戦か。そうは問屋が卸さねえぞ。こっちは何度も死に掛けた挙句、車を二台も大破させられてるんだ。報酬は、まけないからな。

「それで。真明教の目的は分かったかね」

「ええ。どうも、ストンスロプ社の光絵会長の行動を監視しているようです。それと、GIESCOにハッキングしているのも、目的は同じようですね」

「パンドラEか」

「ええ。南正覚も、そう言っていました。その所在を探っているようです。ただ、奴らも、それが何なのか分かっていないようですね。南正覚は『宇宙の神からの啓示の書』だとか言っていましたが、果たして本気でそう思っているものかどうか。ま、もう少し奴の行動を監視すれば、正覚がどこまで知っているのか、はっきりすると思います」

「そうか……。残念だな」

 何が残念なんだよ。人が命がけで集めた情報だぞ。もう、教えてやんねえぞ。コラ。

「という事は、『パンドラE』の所在は、まだ不明なのだな。君の推理は」

「おそらく、GIESCOの中でしょう。そして、その正体は、やはり……」

「いや、いい。おそらく、君の推理は当たっているはずだ。それは危険な情報だ。危険な情報は、容易く口にせんことだ。それにしても、さすがは、マイティー・ハマーさんのご子息だ。どうやら、全て分かっているようだな。畏れ入ったよ」

 ほらな。そうだろうが。全部お見通しなんだよ。このダーティー・ハマーにはな。俺の思った通りだから、AIもネット・カーナビも付いてないオールド・カーの中でお話なんだろ。あらら、ラジオまで外してあるわ。用心深いこと。

「実は、その親父の仇が、この件に絡んでいるようでしてね」

「あの、刀傷の男か。ASKITのメッセンジャーとして雇われていた」

 なんだ、知ってたのか。早く言えよ。

「ええ。どうやら、転職したようです。奴もおそらく『パンドラE』を追っているんでしょう。真明教の首都圏施設本部の中で会いました。奴の雇い主は分かっています。これが証拠品です」

「なんだね、これは」

「花ですよ。ジニア。改良品種の青です。こっちのが、奴が教団施設で落として行った物で、こっちが、親父が前の事件で手に入れたもの。そして、いま渡したそれが、俺が奴の依頼人の家から採取したものです。全て、植物DNAが一致しているそうです。これが、その鑑定書」

「どうやって、こんな鑑定を……」

「ちょっと、コネでね。大丈夫、何も事情は話していません。ただ……」

「昨夜の事なら、事情は掴んでいる。犯人は警察が全力で追うそうだ。我々も協力するつもりでいる。実際に、既に手も打ってある」

「そうですか。なら安心です」

「例の画像は」

「これです。オリジナルです。私の手許の物は消去しておきました。といっても、事務所にパソコンは置いていませんが。これが、使用したレーザー・カメラです。約束どおり、これもどうぞ。ちゃんとデータを消してあるか、調べてください。何なら、そちらで処分してもらっても、結構です」

「すべて撮れたんだな」

「バッチリです」

「彼らには、データのコピーは渡したのかね」

「ええ。昨日の晩に。もちろん、真明教の分だけですが。それでも、スクープだと喜んでました」

「だろうな。――それで、これから君はどうする」

「とりあえず、GIESCOの中を調べてみようと思います。俺の推理が正しいか、確かめてみたいので」

「いや、無茶はするな。もう、君はこの辺で手を引いてもらっていい。これ以上は危険だ」

「この三日間で、十分に危険な目には遭いましたよ。何度死に掛けたことか。それに、あそこに行けば、親父の仇とも会えそうな気がしますから」

「それなら、私の部下を送ろう。あの男は訓練された戦闘のプロだ。君が追うには、手強わ過ぎる相手だ。それに、君のお父様が奴に殺された時、我々がもう少し長くあの場に留まっていれば、お父様は死なずに済んだかもしれんのだ。我々にも責任がある」

「いや、それは気にしないで下さい。親父も墓の中で、あの時助けに来てくれた皆さんには、感謝していると思いますよ。それに、これは俺の個人的な仕事ですから」

「私の依頼は、もう終わりだ。ここまででいい」

「いや、俺はあんたの部下じゃないんでね。自由に行かせてもらいますよ」

「水面下で複雑な事情が交錯している事は、君も理解できているだろう。危険過ぎる。手を引くんだ」

「水面下って言えば、何かこれから起こるみたいですね。随分と色々、忙しそうで。ま、言えないでしょうから、いいですけどね。あと、報酬の方は、ちゃんとお願いします」

「勿論だ。大破した車の分も、上乗せしておこう。その他に何か必要な経費があった場合は、後から請求してもらって構わん。もちろん、このレーザーカメラの分もな」

「そうですか。他にも、いろいろありますから、宜しく」

 ようし、ミチル婆さんに補修を頼んでいるスーツの分も請求したろ。それにしても、なんだ。やっぱり知っていたのか。俺のダットサンや「代車くん」が大破した事を。まったく、こいつらときたら、油断も隙もあったもんじゃねえな。もしかして、だから警察が動かねえのか? あ、そうだ。あれも言っておくべきだな。

「それから、二日前、無関係な一般人が一人、地下高速の中で奴に殺されました。犯人は、あの刀傷の男です。まだ警察が動いて……」

「分かっている。地下高速内の保安カメラのデータを入手した。だが、殺人としては処理されていない」

「え? 被害者は助かったのですか?」

「いや。亡くなっている。警察からの情報では、映像から判明したナンバーのトラックを調べたところ、所有している会社を特定する事が出来たそうだ。だが、そのトラックは、当日、事故を起こしていて、ドライバーは都内の病院ですぐに応急処置を受けた後、別の病院に搬送され、その病院で死亡している。つまり、事故による頭蓋骨損傷と脳挫傷によって、治療の甲斐もなく、彼は死亡したという事だ。そうなっている」

「そんな馬鹿な。撃たれるところを見たんですよ。カメラの映像にも映っていたでしょう」

「いや。あの映像には、奴がトラックに飛び移る瞬間までは記録されていたが、次のカメラが捉えたのは、奴が運転席から君に手を振っているところだった。発砲の瞬間は映ってはいない」

「そんな……」

「それが奴の手口だ。今回、奴の姿をカメラに捉えることが出来た事は、奇跡的だ。君に追い詰められ、よほど切迫していたのだろう。君のおかげで、我々も貴重な情報を得る事が出来たと認識している」

「そんな事は、どうでもいい! 結局、奴の逮捕は無しですか。人殺しなのに」

「勿論、我々も奴が殺害したものと考えている。だが、犯行の瞬間を映した記録も無く、一方で、警察の事故記録、医師の診断書、死亡所見が全て揃っている以上、現時点で奴の犯行を立証するのは難しいはずだ。仮に奴の身柄を拘束できたとしても、きっと奴は、裁判で『傷害』の事実を自白してくるだろう。『緊急避難』の主張付きでな。真空状態から脱するために、他人の車に乗り込む必要があり、ドライバーが抵抗したので、自己の生命を守るために、已む無く、ドライバーを殴打して気絶させたのだと。その後の事故の時には、奴はトラックから既に降りていた、だから知らない。そう主張されれば、検察側もそれ以上は追及できまい。そうなれば、奴の無罪が確定してしまう」

「人を殺しといて、無罪? 何なんだよ、そりゃ。この国は、どうなってんだ」

「冷静になれ。奴を野放しにしておくつもりはない。ドライバーの事故死が、奴によって偽装されたものだと証明できる証拠が必要だ。それに、奴の姿を捉えた唯一の映像記録を手に入れたんだ、警察としても慎重に動かざるを得ないのだろう。公安部が既に動いているそうだ。だとすると、情報が外部に洩れないよう、水面下で極秘に動いているはずだ。それに、奴を追い詰めた君のことも考慮する必要がある。今、正式に警察が動けば、君の行動も明らかにせねばならん。それは、我々にとっても非常に都合が悪い。だから、信頼できる人間に協力してもらって、極秘に捜査を進めてもらっているところだ。この件が終わったら、正式捜査に切り替えるそうだ。その時のために、カメラの映像の詳細な分析と証拠の収集も進めているそうだから、心配は要らん。それに、我々も、準備はしている」

 なんか、納得はいかねえが、奴を捕まえるために動いている人たちの邪魔は出来ないしな。とりあえず、応じておくか。この依頼人さんを信じよう。

「分かりました。ああ、カメラで思い出しました。そのレーザー・カメラの最後の一枚に、妙な男が写っています。昨日、そこの『カフェ二〇〇七』のテラスに座っていた男です。向かいの店から俺が撮影しました。その男は、女性の軍人さんと、連れの女性を盗撮していて、その後、軍人さんの方を尾行して行って、途中で姿を消しました。見覚えがあればと思いまして」

「女性の軍人だって? 誰だね」

「軍規監視局の外村美歩ですよ。よく御存知ですよね」

「ああ」

「連れの女性の方は分かりません。ただ、金バッジを襟に付けていました。美歩ちゃんと親しく話していたところをみると、たぶん、弁護士でしょう」

「手を打たんといかんな」

「宜しくお願いします。じゃあ、俺はそろそろ、これで」

 よっしゃあ、とにかく、報酬アップと経費請求権をゲットしたぜ。よかった、よかった。いや、不謹慎だな。無関係な人が一人、巻き込まれたんだ。よくは無いな。

「最後にもう一度だけ忠告しておく。ここから先は我々プロの領域だ。プロ同士の戦いになる。君は手を引け。これ以上、首を突っ込むと、我々としても君の安全を保障出来なくなる」

 俺だってプロだっつうの。馬鹿にするない。まったく、付き合っていられねえぜ。どれ、そろそろ、この陰気なバンの中から出るとするか。

「ご忠告をどうも。そいじゃ」

 こうやって、トレンチ・コートにハットで、背中を見せたまま、手を振って帰って行く。一度、やってみたかったんだよなあ。うーん。快感。俺って、かっこいい。

「ハマー君」

 ん? おっと。投げるなよ。なんだ、車のキーじゃないか。

「私からのプレゼントだ。報酬とは別だ。受け取りたまえ。上の階に止めさせている。Bの三だ」

「……」

 車をプレゼントしてくれるのか。ああ、そうか。この人は、俺のダットサンやスバル三六〇が任務で大破したのを知っている訳だからな、それで悪いと思ったのかな。意外と、いい人だな。ま、今は足になる物も無いし、とりあえずは、有難く頂戴しておくか。

 あれ、もう車を出すのか。なんだよ。礼を言おうと思ったのに。相変わらず、せっかちだねえ。どうも、さようなら。また会う日まで。なんつって。どれ、上の階か。行ってみるか。

 それにしても、どの街でも官公署の傍の公園は、たいていが地下を駐車場にしてあるものだが、その理由がよく分かったぜ。ま、秘密の通路か何かで、近くの複数の官公署のビルと繋がっていて、こうやって、役人同士がこっそりと行き来しているんだろ。そんで、世間の知らないところで、こうやって、いろんな事が決まっていくんだ。まったく、よく出来ているよ。世の中は。ここの駐車場も、いろんな省庁の地下と繋がっているんだろうな。それぞれの省庁ビルの地下にも、職員用の駐車場があるはずだから、そこと繋がっているのかな。さっきの黒塗りのバンもエンジンだけは超電導モーターみたいだった。わざわざノン排気にしているって事は、きっと秘密の地下通路を移動するためのものだな。という事は、その地下通路は車一台分の道幅があるということか。まったく、とんだ税金の無駄遣いだぜ。歩いて来いよ、歩いて。地上を歩くのが、そんなに嫌なのか。モグラみたいな連中だな。ふう。地下一階に上がってきたぜ。ええと、Bの三とか言っていたな。Bの三は、このドアを入って、すぐ右……Bの一、二、三……。

 へえ。まったく、あの依頼人ときたら、俺の趣味をよく分かっているじゃねえか。こいつは「マツダR三六〇」のクーペタイプじゃねえかよ。スバル三六〇の二年後に発売された、正真正銘のオールド・カーだぜ。たしか、エンジンはマグネシウム合金を使用した空冷V型の二気筒だったな。四ストローク、三五六ccか。ちょいと物足りないが、ま、「代車くん」もこれくらいだったからな。それに、スバル三六〇と同じ、リア・エンジン方式。ボディカラーは水色ねえ。ま、いいか。ドアは普通だな。ツードアで、一応、後部座席もついてはいると。そんで、ボンネットと……エンジンフードはアルミ製だな。乗ってみるか。うん、少し狭いが、まあまあだな。クラッチとブレーキペダルにアクセル……ん、ブレーキは、アルフィンドラムか? ほほう、スポーツカー並みじゃないか。どれ、エンジンを掛けてみますか……。うん、いい感じだ。これは「代車くん」と違って、エンジン縦置きタイプだな。素直な振動だ。ガソリンも満タンと。気配りが出来ていますなあ。よーし、発車しまーす。出発、進行。うん、ステアリングも悪くない。でも、俺にはちょっと視界が狭いかな。このハットが邪魔だな。置いとくか。サスペンションは……んんー、この感触はゴム式かな。でも、意外と乗り心地はいいぞ。さあて、地上に出る坂道だ。あれ、駐車料金は無料になっているぞ。まったく、細かいことに気が利くね。感謝、感謝と。では、坂道の上り具合はどうですかね。――うん、うん。まあ、いい感じだな。スムーズに上るじゃないか。よし、これなら行けそうだ。じゃあ、さっきの葉巻のオッサンから、お昼ご飯の差し入れを受け取って帰るかな。



 二十三

 昭憲田池の湖面を走る風が、俺の疲れた心に沁み入るぜ。どうも、探偵の浜田圭二です。裏の世界じゃ、俺のことを「ダーティー・ハマー」と呼んでいるそうだが、そんな事はどうでもいい。俺は今日も都会の片隅で、こうして一人、事件の裏に隠された謎を黙って追うだけさ。次々と襲ってくる危険をかわしながら。

 うお、なんだ。鳩。来るな。あっち行け。来るなよ。

 ゴホン。失礼した。俺は今、昭憲田池の辺の公園で、ベンチに腰掛けている。湖面の細波を眺めながら、髭面のオッサンから受け取ったステーキバーガーを食べているところだ。肉厚のステーキがジューシーだぜ。うお、鳩め。だから、あっちに行けってば。来るんじゃない。俺は食事中アンド考え中だ。シッ、シッ。ああ! 人のフライドポテトを勝手に食うな。やめろ。俺のだぞ。あっちに行け。――なんだよ、何を見てる、そこの子供。何か問題か。

「ママ。おじさんがハトさんを虐めてるよ」

 虐めてはいないだろ。俺は俺の権利を守っているだけだ。

「あら、いけないわね。あんな大人になっちゃ駄目よ」

 ママさん。それは違うだろう。鳩から昼食を守ったら、動物虐待なのか。じゃ何か、ゴミ捨て場のカラス避けのネット、あれも動物虐待か? 冗談じゃないぜ、まったく。ああ! 俺のフライドポテト! くそ、箱ごと咥えて行きやがった。マジかよ。まったく。おまえら、「平和の象徴」の肩書きを返上しろよな。めちゃくちゃ強硬派じゃねえか。なんだ、さっきの子供、まだ見ているのか。いいか、もし、ここで俺が、あのドロボウ鳩の背中に踵落としでもすりゃ、そりゃあ動物虐待かもしれないが、俺はそんな事はしないぜ。あいつらだって、食う事に必死なんだ。そこら辺の理解はある。でもな、人間でもそうだが、鳩にだって色々いるんだよ。行儀のいい奴、悪い奴。ディナーショーでマジシャンの袖から出てくる鳩が、客の料理を啄ばむか? しないだろ。あの鳩たちは、ちゃんと教育されている。だが、こいつらは、どうだ。食事中の他人の物に横から嘴を突っ込んでくる。こいつらは、教育がなってないんだよ、教育が。最初から、俺の足下で大人しく整列して待っていれば、俺だってフライド・ポテトの一本や二本、放り投げてやったぜ。だが、今こいつらがとった行動は、明らかに強取だろ。あるいは窃取だ。人間だったら強盗か窃盗だぜ。それを追い払おうとして、何が悪いんだよ。正当防衛じゃねえか。基本的な正義感覚が麻痺しちまってるんじゃないか、ママさんよ。こっちを見ながら、子供に耳打ちしている場合か。子供の教育は、もっとよく考えてしないといけないぜ。大人の責任だぜ。数十年後には自分たちに返ってくるんだからな。よーく覚えとけよ。まだ、耳打ちしているのか。なんだ、向こうの若者、なに勝手に他人を撮影しているんだ。鳩を追い払って何が悪い。そんなに珍しいのか。まったく、どいつもこいつも……。

 しかし、こうして行き交う人々を眺めていると、まったく平和なことだぜ。みんな、楽しそうに、公園を歩いている。ここは、湖畔の遊園地のすぐ隣にある公園だ。親子連れやカップル、友達同士、皆のんびりと寛いで、幸せそうに歩いている。東の方では、国防軍の精鋭部隊「深紅の旅団レッド・ブリッグ」の奴らが、何かコソコソと準備しているっていうのにな。早く家に帰れっつうの。知らねえぞ、急にドンパチが始まっても、俺はお前らを……ああ! カモメ! 今度はおまえらか。空中攻撃かよ。マジか。俺のステーキバーガーが……ああ! 肉が無い! マジか。これじゃ、ただのレタスサンドじゃねえか。まだ半分以上、肉が残っていただろ。なんて事をしてくれるんだ。それじゃ、おまえ「カモメの水兵さん」じゃなくて、「カモメの強盗さん」じゃねえかよ。今言ったばかりだろ。ちゃんとしろ! 鳩と同程度に扱われるぞ。勝手にサブレにされたり、時計に使われたり、式典の度に箱に詰められて発射されたりって身分になってもいいのか。童謡やポップスの歌詞に使ってもらっているうちに、少しは改心しろ。なんだよ、カモメを追い払っても、誰も冷たい視線は浴びせないのか。「水兵さん」だからか? 戦って当然だと思っているのかよ。「平和の象徴」は、追い払われただけで、「かわいそう」かよ。なんでだよ。不公平だろ。鳩だって、そこそこに本性は獰猛どうもうだぞ。おまえら、ガレージの軒下に出来た鳩の巣を撤去しようとした事とか、無いだろ。あいつら、めちゃくちゃに反撃してくるぞ。しかも、その時の奴らの顔つきときたら、猛禽類も真っ青って感じだぞ。本性見たりさ。お前らも騙されるなよ。人間にも似たような奴は大勢いるぞ。気をつけろ。

 さてと、中途半端だったが、一応、ステーキバーガーも食ったし、ジンジャーエールも飲み終えた。行くとするか。とりあえず、どこに行くかな。まず、さっきのトンネルの反対側にでも行ってみるか。俺が追っている事件と関係するのかは分からねえが、どうも何かひっかかる。依頼人も何か隠しているみたいだしな。いや、まさか、この事を知らないとか。いやいや、そんなはずは無いよな。あの人の立場なら知っているはずだ。ま、とにかく行ってみるか。何をしているのかは、確かめといて損は無いだろう。よっこらしょっと。うーん。腰が痛い。今朝、捻った上に、あのカー・スタントだったからな。帰ったら、湿布を貼っておこう。どれ、駐車してある俺のマツダR三六〇に……長いな、何て呼ぶかな。うーん。代車じゃないしな。貰ったものだし。車検証も俺名義になっていたもんな。でも、まだ、そこまでの親しみも無いな。そうだな……「マツダさん」。なんか、他人行儀だな。「マッちゃん」は、軽いか。「貰い物くん」っていうのも、なんかなあ。やっぱ「マツダさん」か。いや、なんか色々と物議を醸しそうだな。そうだ、「新入りくん」にしよう。そんな感じだもんな。暫らくして慣れてきたら、何か別の愛称を考えるとするか。「クーペくん」とかな。よし、とりあえずは、これで行こう。「新入りくん」、それじゃあ、今後ともよろし……おお! なんじゃ? ルーフに思いっきり鳥の糞が付いているじゃねえか。くっそー、どっちの仕業だ。「偽平和主義者」か、それとも「水兵さん」の方か。ああ、もう、よくもこう、ポタポタと気前よく落としてくれたもんだぜ。仕方ねえな。どこかで洗うか。ガソリンスタンドは……この辺には無いかあ。じゃあ、電気スタンド。電気スタンドは……ああ、すぐあそこにあるぞ。行ってみるか。とにかく、まずは乗り込んでっと、くそ、狭いな。ああ、帽子が屋根に当たるんだった。これは外してと。エンジンをスタート。おお、何度掛けても順調だね。なかなか素直だ。よっ。レッグスペースが狭いんだよな。ま、貰い物だ、贅沢は言うまい。ええと、電気スタンドは……ここですか。はい、入りまーす。おっと、ここはAI自動車用のピットじゃないか。危ない、危ない。AI自動車用のピットは床に非接触式充電用のコイルが埋められていて、そこから放電するからな。ガソリン・カーを停めたら、ガソリンに引火してドカンさ。あんたも気をつけろよ。ええと、洗車スペースは、どこですかねえ。あ、ここか。はい、停車。

『いらっしゃいませ。洗車サービスのご利用、有難うございます。ロボットによる手洗い洗車、自動噴射による機械洗車、お客様ご自身による洗車、いずれをご希望でしょうか』

 お、芸能人みたいな可愛い店員さんが出てきたぞ。今時、店員が出てくるスタンドも珍しいな……と思ったら、ホログラフィー画像か。なんだよ。どれ、降りるか。

『いらっしゃいませ。洗車サービスのご利用、有難うございます。ロボットによる手洗い洗車、自動噴射による機械洗車、お客様ご自身による洗車、いずれをご希望でしょうか』

 はいはい、分かったよ。繰り返し再生するなよ。興ざめするだろ。じゃあ……

「自分で洗う」

『かしこましりました。前方の精算機にマネーカードを御投入のうえ、後方の噴水機とソフトブラシをお使いくださいませ。課金は十分ごとに加算されます。最初の三分は無料となっております。ご不明な点がございましたら、横の呼び出しボタンを押してください。サービスマンが丁寧に対応いたします。それではマネーカードを御投入ください』

 だが、俺は、この黄色い呼び出しボタンを押す。

『はーい。何ですか』

 今度は生の声だな。だが、面倒くさそうに答えるな。インターホン越しでも、声でバレバレだぞ、姉ちゃん。

「あのう、マネーカードを持ってないんだが、現金じゃ駄目かな」

『チッ。はーい。少々、お待ちください。今、伺います』

 なんだ、今、「チッ」って舌打ちしなかったか。聞こえたぞ。横着な店員だな。出て来たな、走って来い、走って。ダラダラと歩くな。俺はこうして、車から降りて待っているんだぞ。なんだ、顔にタトゥーを入れたお姉ちゃんか。口と鼻にもピアスと。なるほどね。髪の毛は銀色でツンツン。上着だけここの制服を羽織ってはいるが、中は黒のタンクトップに皮のショートパンツと網タイツか。パンクだねえ。奇抜さでは、例の中学生たちと、いい勝負だ。ま、人は外見で判断しちゃいかん。話してみよう。

「俺は、マネーカードを持ってない。こう見えても、現金主義者でね。何とかならんかな。この屋根にこびり付いた無法者どもの排泄物を、きれいに除去したいだけなんだが……」

 聞いているのか。ガムをクチャクチャ噛むな。仕事中だろ。なんだ、俺の「新入りくん」をジロジロ見やがって。何か文句でもあんのか。

「オジさん、いい趣味してるじゃん。めちゃハード。イケてる」

 助詞も接続詞も無しか。肯定的な発言だとは理解できるが、何が言いたいのか、よく分からん。ん、マネーカード、自分のか。しかし、何処から出しとんじゃ。ショートパンツに仕舞うのなら、どうしてポケットに入れないんだ。

「あたいのマネーカードで払っといてやるよ。はい、お金」

 指輪だらけの手を広げやがって。なるほど、立替え分を前払いしろってか。九八ツール・モータースのオッチャンと同じパターンだな。若いのに応用力があるじゃないか。いや、待てよ、こいつもオッチャンと同じで、ボッたくる気じゃないだろうな。かといって、細かいのを持ち合わせてないしな。困ったな。

「洗うの、洗わないの。どっち」

「ああ、じゃあ、これで頼む」

 かあ、このお札の分なら、一時間は洗車できるじゃねえか。しまったなあ。

「そんじゃ、突っ込むよ」

「突っ込む?」

「マネーカードだよ。最初の三分は無料だから。終わったら、出てきたカードとレシートを持って、向こうのレジん所に寄んな」

 あれ、スタスタと歩いて行きやがった。お前のマネーカードを俺が機械から引き出して持ち去ったら、どうするんだ。お、また、立体映像の擬似店員姉ちゃんの登場か。

『ご利用、ありがとうございます。それでは、機材の説明を致します。後方にある黄色いホースから、ワックス剤混合のシャンプー液が出ます。初めは勢いよく出ますので、発射ノズルは車体から離してご使用ください。ソフトブラシは……』

 ははあん。この誠実そうで可愛い姉ちゃんのホログラフィー画像に見とれて、その説明を聞いていると、二分三十秒くらいは経ってしまうんだな。騙されないぞ。俺は説明を聞きながら、洗車に着手し、三分の無料サービスを最大限に有効利用する。まず、シャンプーノズルだな。ホースを伸ばして、車体から離して、放出。おお、結構、勢いよく出るな。この、排泄物どもめ。「新入りくん」から離れるんだ。うわあ、泡だらけじゃないか。すごいな、このノズル。で、このソフトブラシで気になる所を洗えと。やっぱり、この屋根だよな。ほら、こびり付いている。おのれ小癪な。不浄な排泄物どもめ、これでどうだ。うおおお、落ちろおおお! ぜえ。ぜえ。ぜえ。これでどうだ、落ちただろう。次は、放水ノズルで水洗いか。よーし、まだ一分と少し残っているぞ。このホースを伸ばして……あれ、伸びない。巻き込まれた所から出てこないぞ。これじゃ、短すぎて屋根の上に水を掛けられないじゃないか。この、こうか。あれ、どうするんだ。

『ホースの先端の、ノズルの後ろにあるロックを解除して、ゆっくりと引き出してください。次に……』

 なんだ、これか。このロックを外してから、ゆっくりと引くと……おお、出てきた。よし、これで届くぞ。そりゃ、放水じゃ。覚悟せい! あれ、今度は水が出ないぞ。おかしいな。どうなってんだ。中に何か詰まっているのか。ブッ。うわっ、出た。

『水圧の充填に時間がかかりますので、ホースの中は絶対に覗かないで下さい。それでは、快適な洗車をごゆっくりとお楽しみくださいませ』

 プハー。早く言えよ。くっ、くっ、くー。鼻の穴の奥まで、水が入っちまったじゃねえか。おお、ミチル婆さんの撥水仕立てが功を奏したぞ。トレンチコートのおかげで、下はあまり濡れてない。あーあ、でも、髪の毛はビショビショだ。ハットを中に入れといて良かったぜ。と喜んでいる場合じゃないな、時間は? ああ、あと十秒を切ってるじゃないか。くそ、放水、あれ、また出ない。どうして? やっぱ、壊れてるんじゃないか。中のパッキンが……ぶあっ。

『水圧の充填に時間がかかりますので、ホースの中は絶対に覗かないで下さい。それでは、快適な洗車をごゆっくりとお楽しみくださいませ』

 プハあ。またかよ。冷てえな。鼻に水が……なんだよ、一回毎に圧力を溜めてるのかよ。俺は顔を洗いに来た訳じゃねえぞ。そうか、なるほど、銭湯の蛇口と同じ感じか。早く言えよ。いや、言ってるか。ちゃんと聞いておけばよかったな。次は、よし、圧力が溜まったぞ。行くぞ。排泄物どもよ。洗剤で浮かされた挙句、ソフトブラシで剥がされたのじゃ、貴様らに逃げ場は無い。諦めろ。行くぞ。てやー。そうだ、そうだ。泡ぶくと共に、排水溝へと流れていくがいい。ぬわっはははは。あれ、また、水が止まった。くそ、また圧力充填か。こうやって時間稼ぎするんだな。ええい、早くしろ。もう、とっくに有料時間に突入しているぞ。もういいだろ。どうだ。放水! あら。マジか。本当に壊れてるんじゃ……ブプっ。

『水圧の充填に時間がかかりますので、ホースの中は絶対に覗かないで下さい。それでは、快適な洗車をごゆっくりとお楽しみくださいませ』

 ふプルルル。楽しめるか。うわ、耳に水が入ったぜ。畜生。何なんだよ。こうして、頭をトントンと叩きながら、ジャンプすれば、聞こえるように……よし。ま、でも、こんなものでいいかな。綺麗になったしな。あとは、この大型ドライヤーで、水気を飛ばすと。俺の顔と髪も、これで乾かしてみるかな。よっこいしょと。こっちを向けて、スイッチオン。ふぎいいい、あうぁうぁうぁうぁ、ほへへは、ひひは……これでは、息が出来ん。駄目だ。風が強すぎる。仕方ない、とりあえず「新入りくん」の車体だけ乾かすか。よーし、みるみる水が飛ばされていくぞ。おお、結構、綺麗になっているじゃないか。よーし。この辺でいいかな。ドライヤーを元の位置に戻して……と。重いな。女性がこれを使うのは、大変なんじゃ……は、しまった。急がねば。ここは時間制だ。ええと、終了ボタン、終了ボタン、これか。

『マネーカードと明細票をお受け取りください』

 よし、出てきたな。じゃあ、パンク姉ちゃんの所に持って行ってやるか。クシュン。おお、冷た。髪の毛がビショビショだあ。ああ、ここか。なんだ、ゲームですか。ちゃんと店番しろよ、姉ちゃん。

「どうも。助かったよ。はい、マネーカード。それと、明細票だ」

「プッ。ハハハハハ」

「なんだよ。何がおかしい」

「だって、顔も髪もビショビショ……ハハハハ」

 そんなに笑わなくてもいいじゃないか。俺だってたまには失敗くらいする。腹立つ小娘だな。

「ちょっと待って。これ」

「ん? なんだ、これ」

「お釣りだよ」

 なんだ。意外と律儀じゃないか。

「そうか。小銭だ、取っときな。マネーカードを使わせてくれた礼だ」

「いいよ。要らない。そんなのは、好きじゃない。それから、ほら。タオル」

 投げるなっての。でも、タオルを貸してくれるのか。意外と優しい子だな。

「悪いな。助かるよ。ついでに訊くが、ここはガソリンも入れてもらえるのか」

「ああ、後ろの方でやってる。でも、クソ高いよ。ここのガソリン」

「なんで高いって分かるんだ」

「あたいも、ガソリンバイクに乗っているからね。もう、いい? 忙しいんだけど」

 忙しいって、どうせゲームじゃねえか。まったく。

「タオルを有難う。お前、見かけによらず、いい奴だな。そうだ、旧市街にガソリンの安い店がある。今度来たら、教えてやるよ。じゃあな」

「じゃあな」

 俺は客だろうが。そんな事してると、いつかクビになるぞ。



 二十四

 秋深き トンネルは何を する人ぞ。

 どうも、浜田圭二です。裏の世界では「ダーティー・ハマー」と呼ばれているようだが、そんな事はどうでもいい。俺はこうして、隠された真実を探り続けるだけさ。

 俺は今、湖南見原丘工業団地の東隣のトンネルの近くに来ている。寺師町側の入り口の近くだ。ファミレスの駐車場に停めた「新入りくん」の中から向こうを見ているが、さっきからトンネルの中に、マイクロバスやら、中型トラックやらが出たり入ったりしている。どうやら、何かをピストン輸送しているって感じだ。マイクロバスは、全部の窓が中からカーテンがしてあって、中の様子が分からない。どうも変だぜ。どれ、ちょっと、トンネルの入り口まで行ってみるか。

 東西幹線道路も随分と混んでいたが、このマイクロバスやトラックは、華世かよ区の住宅街か香実かみ区の農道を通って来たようだ。どれも自動走行用の制御ユニットを外してあるし、こんなに何度も往復するって事は、大型の輸送車を使っていないって事だからな。それは大型輸送車が通れない細い道を通るからだろう。つまり、田畑の間の農道だ。それに、こっちの寺師町の東の裏道は随分と空いている。きっと、トンネル封鎖の噂が広がっているんだろうな。お、トンネルだ。やっぱり、立ち番している奴らがいるな。しかも、また交通誘導員の格好だ。こっちは、ひい、ふう、みい……七人か。厳重だな。はいはい、止まれってか。どれ、話を聞いてみるかね。

「すみません。ここのトンネルは通行禁止になっています」

「あ、そうなんですか。知らなかった。どうしてです? 何かあったんですか?」

「いや、単なる安全上の検査の実施です。国が抜き打ちで行っています」

 安全上の検査? 向こうでは横転事故だと言われたぞ。よし、ちょっと揺さぶってやるか。

「あの、向こう側の入り口では、横転事故だと言われたと、知人が言っていましたが。違うのですか」

「あ、いや、それはもう済みました。それで、急遽、国が検査を実施することになったのです。安全のためですから、ご協力ください」

 こいつ、なかなか嘘がうまいな。足下は……やっぱりコンバット・ブーツか。胸元には首からタオルを巻いているな。赤いTシャツを隠すためか。腕時計は……してない。軍用の専用腕時計をしていると思ったが……。でも手首の所だけ、日焼けしていない部分が残ってるな。今日だけ腕時計を外しているんだ。

「すみません。おたくの車を見て、他の車も来ると混雑しますから、もうUターンして戻ってもらえますか。周囲の方にも、ここのトンネルと、ここから東のトンネルは全て、今夜まで通れないと伝えて下さい」

「今夜までですか」

「はい。夜までには全て終わりますから。急な抜き打ちの検査のようで、ネット上のナビシステムにもアップしてないそうなんですよ。だから、あなたのように、ここまでやって来る車も多くて。その度に止めて、一から説明です。正直、もう、ヘトヘトで」

 全然、そうは見えないぞ。むしろ、何か異様な緊張感すら感じるが……。

「そうですか。それは大変ですね。ご苦労様です。いや、分かりました。Uターンします」

「ご迷惑をお掛けします。おおい、そこのトラバースを除けてくれ。この車がUターンする」

 トラバースだって? 軍で使う言葉じゃないか。今、ここに並べられているのは、車止め用の、ただのアルミ柵だろ。それをトラバースなんて言うか? トラバースってのは、防弾障とか横檣おうしょうとかのバリケートのことじゃなかったかな。そんな言葉、一般人はあまり使わないぞ。ま、この人がたまたま、軍隊経験者って事も考えられるが、どうも変だな。とりあえず、耳の集音機の集音率を最大にしておいて、よかった。このまま、窓をあけておいて、ゆっくりとUターンしよう。奴らの会話が聞こえるかもしれん。お、さっそく、何か聞こえてきたぞ。

「どうだった。マスコミじゃなかったか」

「いいや、違うだろう。ただの民間人だ。向こうの看板を無視して、ここまで来たみたいだ」

「またかよ、まったく。進入禁止って看板を立てたんだろ。字が読めねえのかよ」

「それより、反対側をカバーしているのは、ユニット・イレブンの連中だったな。奴ら、横転事故だとか言っているらしい。今のドライバーにそう問い詰められて、焦ったよ。適当に誤魔化したが、話を統一するように、もう一度よく伝令してもらえないか」

「ったく。あいつら、ブリーフィングの何処を聞いていたんだ。分かった。伝令兵を送って、軍曹に伝えとく。こんな事で作戦がパーになったら、かなわんからな」

 やっぱり、軍人じゃねえか。どういう事だ。こっちからは奥の様子が見えなかったが、いったい、中で何をやっているんだ。さて、どうするかな。こりゃ、やっぱり、どうも変だぞ。この時期にって事は、もしかすると、俺が追っている事件と関係があるんじゃないか。うーん。ちょっと何処かで頭を整理しよう。



 二十五

 これがまあ 終の施設か レール五十メートル。

 一茶先生の句を真似てみました。今日は十月六日だから、冬の句でいいんだよな。でも、現実には秋に爪先が掛かったくらいだから、さっきは秋の句を文字ってみたんだけどな。ま、この俺の句には季語が抜けているから、どうでもいいか。おっと、探偵の浜田圭二です。裏の世界で「ダーティー・ハマー」と呼ばれているかどうかは、どうでもいい。俺はただ、事件解決のために、この広い新首都圏を隅から隅まで走り回るだけさ。

 俺は今、司時空庁のタイムマシン発射施設に来ている。といっても、中には入れないから、フェンスの外から眺めているだけだ。ここは、例の田爪事件以来、封鎖されている。その後、ここで新聞記者等拉致監禁事件が起こった。そんな曰く付きの施設なのに、政府は封鎖したまま、発射施設の解体にも、施設跡地の利用計画策定にも、まったく着手していない。どうやら、政府はタイムトラベル事業というものを、まだ諦めていないらしい。今も施設から海に向かって延びている五十メートルほどの発射レールが、そのままにされている。

 ん、俺がなぜ、再び新首都圏南東部のこんな場末までやって来たのかって? それは風に訊いてくれ。といっても、そんな事は超能力者じゃないと出来ないだろうから、特別に教えてやろう。まず、俺がここへやって来た目的は、この施設の現状を確認するためだ。ま、現状は、今言ったとおりさ。そのまま。それから、もう一つの目的は、ここに来る途中、寺師町から「ガテン道」を通り、裏道からバイパス、縞紀和川を渡って開発地域を通り、蛭川沿いに南下して、一番南の蛭川大橋を通って、ここまでやって来た訳だが、その際に、さっきの国防軍らしき連中の動きを探るためだ。どうも、トンネルから南の開発地域一帯や湖南見原丘工業団地、都南田高原では何の動きもとっていないようだ。もちろん、この発射施設の周囲にも誰も居ない。ホント、人っ子ひとり居ないぜ。そして、第三の目的は、そう、考えるためさ。ちょっと、ここに来て考えてみたかった。

 今から十年前。一人の天才科学者がタイムマシンの実験で姿を消した。その天才科学者の名は、田爪健三。奴の失踪後、そのタイムトラベル実験は成功したと国家により認定され、その後、次から次に民間人が、この発射施設からタイムマシンで送られた。南米の戦闘区域にな。そして、田爪健三により処刑され続けた。奴が自分の失敗を隠そうとした訳じゃない。奴は奴なりに正義の制裁を下しているつもりだった。まあ、奴にとっては、贖罪の儀式だったのかもしれないぜ。ともかく、その事実は新日ネットの記者永山によって暴かれ、田爪は死を選択した。が、誰も田爪の死を見てはいない。田爪健三は永山にバイオ・ドライブを授け、永山はそれを新型のタイムマシンに乗せて何処かに送った。たぶん、それは過去だ。いつかは分からないがな。きっとそれを回収した奴がいる。俺の依頼人は、それを探しているようだが、その捜索の中で、「パンドラE」という言葉に出くわした。俺の推理では、おそらくそれは、例のバイオ・ドライブの事だ。それに、おそらく田爪健三は生きている。そして、この日本にいる。だって、あのバイオ・ドライブを使いこなせるのは、奴しかいないからな。製造したNNC社でさえ、自分たちは管理も操作も出来なかった代物だ。それを巡って、真明教や依頼人、そして刀傷の男とその依頼主たちか動き出しているという事は、それを手に入れた後、使用する目算があるという事だ。つまり、田爪健三を匿っているか、居場所を掴んでいるか、もしくは動かす自身があるかのいずれかだ。という事は、奴は生きている。ここで、もう一つの事件だ。例の新聞記者等拉致監禁事件。どうも、あの記事を徹底的に読み込んでみたが、やはり、田爪健三より前に失踪したもう一人の天才科学者、高橋諒一が生きていたというのは、本当らしい。そして、その高橋諒一によれば、あのAB〇一八は暴走していて、人類にとって危険な存在だということだ。まったく、何度も通った大交差点のすぐ傍で、人類を危険に晒しているおそれのある機械が、堂々と稼動しているんだからな。ぞっとするぜ。まあ、俺の同級生のあの男も含め、世間の連中も、その話を信じてはいない。高橋の血迷い事だと考えているようだが、俺は、この点に付いては高橋諒一に乗るぜ。どうも、いろんな事がおかしい。それで、俺は自分自身をネットからスタンド・アロンにした訳だが、そんな俺に、依頼人が白羽の矢を立てた。という事は、俺の推理は当たっているという事さ。この依頼人については、その氏名を明かす事は出来ないが、まあ、諸君には察しがついている事だろうと思う。そして、その事件解決の鍵となるのが、例のバイオ・ドライブ。つまり、「パンドラE」。とまあ、ここまでが俺の推理だ。だが、残念な事に、俺の推理は当たっていたようだ。さっき、依頼人もそう言っていたし、それに、これが政府絡みだとすると、だから、こうして今も、タイムマシンの施設を解体せずに維持しているに違いないからだ。問題が解決して、その後も田爪が生きているなら、タイムマシン事業を再開できる。そういう事だろう。だが、気になるのは、このコード・ネームだ。「パンドラの箱」の神話に絡めて付けたコード・ネームだとすると、このバイオ・ドライブは、相当にヤバイ。いや、かなりヤバイ。語尾は上げてくれ。とにかく、このバイオ・ドライブをAB〇一八に接続すれば、問題は解決すると周囲は期待しているが、もしかしたら、実際はその逆かもしれない。あらゆる害悪が解き放たれちまうのかもしれないぜ。ネットを介してな。これはきっと、例のゼウスの「開けては駄目ですよ戦法」だ。もったいぶらせてはいるが、実は開けさせたくてたまらない。それでわざわざ、ヘルメスとかいうワルの大将を使って、プレッシャーを掛けさせた。おそらく今回、そのヘルメスの役を担わされているのが、南正覚だ。奴にGIESCOをハッキングさせた事で、依頼人は「パンドラE」の存在を知った。ま、南正覚は素人だからな。俺の依頼人とは力量に差があり過ぎる。依頼人にすれば、それくらいの情報を入手するのは、カップラーメンを作るより簡単だったはずだ。依頼人は「パンドラE」を手に入れようとしているようだが、俺は賛成できないね。これは罠だ。俺はあれを、AB〇一八に接続しちゃまずいという気がしてならない。でも、待てよ。さっきのトンネルの国防軍の連中は、何をしているんだ。あいつらが、ここの施設でうろついているようなら、AB〇一八に「パンドラE」を接続するための作戦、つまり、衛星カメラに写らないようにして、AB〇一八にこっそり近づくための作戦だと思ったんだ。AB〇一八の問題が除去できれば、次は田爪を、このタイムマシン発射施設に連れてくるはずだからな。それに、施設を再稼動させる事が目的なら、ここは最重要の防衛対象となるはずだ。しかし、実際には誰もいない。全く無視って感じだ。発射施設の再稼動が最終目的ではないということか。だとすると、依頼人の目的は何なんだ。ううん……考えろ。考えろ。ここ数日の事を細かく思い出すんだ。――違う、スポーツジムの水着のお姉ちゃんの事じゃない。忘れろ。思い出せ。何か見落としているぞ。思い出せ。

 ん、待てよ。南正覚が「パンドラE」を探しているという事実を俺が確実に知ったのは、今朝のスポーツジムでの会話を聞いたからだぞ。それを依頼人に伝えたのは、さっきだ。でも、この国防軍の連中、前にも同じ様な事をしようとしているよな。カフェ二〇〇七でネット新聞に載っていた記事を読んだぞ。土日のエンスト事件。あの時点では、「パンドラE」の所在も分からないのに、どうやってAB〇一八と対決するつもりだったんだ? 結果は、ああやって、奴に阻止されちまったじゃないか。もっと危険な目に遭っていたかもしれないのに。――そういえば、俺が危険な目に遭ったのは、全て、ネットに接続されているインフラを利用した直後だ。つまり、AB〇一八に操作されていた可能性がある。でも、AB〇一八は、どうして俺を狙ったんだ? 俺はAB〇一八を狙っている訳では無いぞ。つまり、奴にとって俺は、直接に危険な存在ではないはずだ。俺は「パンドラE」を狙っている訳でもない。その所在を探っているだけだ。だが、刀傷の男は……南正覚を殺すことが目的なら、もうとっくに実行しているはずだ。奴の狙いは正覚ではない。奴はおそらく、「パンドラE」を狙っている。では、AB〇一八の標的は、俺じゃなくて、刀傷の男の方だったのか? だとすると……。

「ああ! ヤバイ!」

 しまった。ドジったぜ。AB〇一八が刀傷の男を狙ったとすれば、奴や奴の雇い主の目的とAB〇一八の利益が相反するという事だ。敵の敵は味方。真明教や、俺の依頼人は、AB〇一八に有利な行動選択をしてしまっている可能性がある。真明教は何をしようとしているか。「パンドラE」の公表だ。それは何か、AB〇一八にとってプラスになる事なんだ。もし、そうだとすると、俺たちは本来、その逆をしなければならない。つまり、「パンドラE」を闇に葬る事。ちょっと待てよ。ええと、ええと。なんか忘れているような。ええと……。あ、そうだ。さっき依頼人は、「プロ同士の戦いになる」と言っていたぞ。プロ同士の戦い? 刀傷の男は、たった一人だ。それに、その雇い主も……。

 そうか、なるほど。俺の依頼人は、俺が全て分かっていると言っていたぞ。確かに、そう言った。という事は、さっきの俺の推理と同じ考えなんだ。つまり、AB〇一八にとっては敵なんだ。だから、オールド・カーを使ったり、レーザー通信を使ったりして、AB〇一八に行動を察知されないように警戒している。だが、同じ様に警戒しているが、目的が違う連中がいる。同じ鳥でも、カモメと鳩は違う。連中は、俺の依頼人とは違う事をしようとしている。連中が無線を使わずに、わざわざ伝令兵を動かしているのは、やはりAB〇一八を警戒しているからだ。つまり、AB〇一八にとっては敵。でも、俺の依頼人とは、きっと目的が違う。とすると、AB〇一八に敵は三者。その内、俺の依頼人の目的は違う。そうか、くそ。残りの奴ら、グルだな。刀傷の男は囮か。しまった。騙されたぜ。

 待てよ。連中が、このタイミングで何かを準備しているって事は……やばいぞ。やばい、やばい、やばい、やばい。急がないと。これは、かなりやばい。語尾なんか上げられないくらいに、やばいぞ。くそっ、キーは何処だ。急げ、急げ、急げ。奴らより先に「パンドラE」を見つけないと。あ痛っ。天井が低いな。とにかくGIESCOに急行だ。ここからなら、飛ばせば一時間以内に着くはずだ。よし。「新入りくん」、少し頑張ってもらうぜ。



 二十六

 くそ。なんだよ。渋滞かよ。トラックばかりじゃねえか。あ、浜田圭二です。時間が無いんで、その後は省略します。

 まだ都南田高原の裏手だぞ。ここから南北幹線道路に乗るのに、この調子だと何時間かかるか分からんな。仕方ない、一旦、上の葉路原丘公園まで上がるか。反対側に降りれば、少しは時間短縮になるかも。はい、すみませーん。ウインカーを点灯させていまーす。車線変更しまーす。通してくださーい。はい、通りますよ。失礼。ああ、ちょっと通してくれ。そこの上り坂に入りたいんだ。頼む。なんだよ、ケチ。ああ、通してくれえ。そこの坂道に……ああ、有難う。急いでるんだ。有難う。日本に生まれてよかった。さあ、「新入りくん」、この坂道を全力で駆け上がってくれ。おお、なかなか元気がいいな。君、あれか、実力を内に秘めておくタイプなのか。この上り、すごく調子がいいじゃないか。本当に三五六ccなのか? おお、もう上に着いちゃうじゃないか。すごいね、君。ようし、到着。では、ここから西の駐車場に回って、そこからスロープを降りれば、GIESCOのすぐ近くに出る……ああ? なんじゃ、ありゃ。この葉路原丘公園から見える限り、GIESCOの周囲の道路を、十トントラックが埋め尽くしているじゃねえか。なんだよ、みんな裏道を抜けようとして、四方八方でお見合いしちまったのかよ。大渋滞になっているぞ。これじゃ、下に降りても近づけねえな。ん? GIESCOに何機も並べられているアレは、警備ロボットか。この前より数が増えてるじゃん。光絵会長さん、GIESCOの警備体制のレベルを引き上げたのか。あの端っこの警備ロボット、完全武装じゃねえか。あんな戦闘用の大型ロボットは、巡洋艦に乗ってる奴をニュースで見た事しかないぞ。マジか。なんか、すげえ事になっているんですけど。ん、あの二人、何やってんだ、あんな所で。一昨日、俺が立っていた所じゃないか。もう日も暮れてきたというのに、男二人で、こんな公園の端の木陰で、何をやってるんだ。双眼鏡なんか覗いて、バードウォッチングか? 本物の覗き魔じゃないだろうな。いや、あれは、あの双眼鏡は、「北園ホクエンK四五」シリーズじゃないか。しかも、軍用の。俺が落としたヤツより、高額なタイプだぞ。高感度動体センサーとか、光信号照射機能とか、照準システムリンク機能とかが付いているヤツだ。待てよ、光信号……と、こういう時は、これだ。偏光レンズのサングラス。こいつを掛ければ、その軍用双眼鏡から照射されている不可視レーザー光線も、バッチリと……うん、暗くなってきたから、逆によく見える。光線は、何処に向けて延びているんだ。あれあれ、下の十トントラックかよ。ゲ、なんじゃこりゃ。ほとんどのトラック同士が不可視レーザーで光通信しているじゃねえか。どうなってんだ。AIトラックなら、圧縮方式の通常無線通信で事足りるはずだぞ。なんでレーザー光線を使って、直接通信を取り合っているんだ。流行ってるのか。あの双眼鏡でここから下を覗いている奴らとも、通信しているんだな。これは……なんか、やばい、まずいぞ。急いで降りないと。くそ、ライトが少し暗めじゃないですかね。見えにくい。ここの下り坂は急カーブが連続してるからな……と。くそ、危ねえな。今度は右カーブか……よいしょ、次は左と……うわわ、だいぶ暗くなってきたな。秋の……日暮れは……釣瓶落としの如しとは……よく……うわ、右か……言ったものですねっと。しかも、ポツポツと雨まで……。よっしゃ、無事に下に降りて来たぜ。でも、この先に無理矢理に進むのは危険だな。かといって、幹線道路にも出れないしなあ。どうやって、GIESCOに侵入するかな。うわ。分かった、分かった。うるせえな。夕飯時なんだ、プップー、プップーとクラクションを鳴らすなよ。すぐそこは住宅街だぞ。俺だって動かせねえんだよ。前見てみろよ。詰まっちまってるだろうが。見て分かんないのかよ。ったく。うわっ。なんだよ、うるせえな。どいつも、こいつも。クラクションを鳴らすな。もう、夜だぞ。近所迷惑だろ、何考えて……ん、おお、丁度いい時に、いい人を見つけたぞ。

「おおい。ここだ。ここだ。おおい」

 くそ。気付いてねえな。同じガソリンカー仲間だ。電子再生音と違う生のクラクションの音なら、気付くだろ。もう一回、鳴らしてみよう。どうだ。おお、気付いてくれたか。よし、そうだ、こっちに来てくれ。よし、よし。いいぞ。は、自分のためなら、平気でクラクションを鳴らしちまった。いかんな。

 お、来た、来た。窓を開けてやるか。

「なに。なんか用?」

「おお、電気スタンドのパンク姉ちゃん。また、会ったな。バイクで通勤か」

「いや。これだよ」

「あ? これから釣りか? 雨降ってきたぞ。なのに、夜釣りか。まさか、海までいくつもりなのかよ。危ねえぞ、やめとけ。昭憲田池でも淡水魚なら釣れるだろう」

「あそこは、もう飽きた」

「マジか。海と見紛うくらい広い池だぞ。どこまでマニアなんだ、おまえ」

「そんで、用は、なに」

「ああ、そうだった。悪いんだが、そのバイクをちょっと貸してくれないか。この渋滞でも、そのバイクなら、車の間を進めるだろ。緊急事態なんだ。頼む、このとおり」

「無理」

「今度、安いガソリンスタンドを教えるアンドぼったくりの修理工場を紹介してやる。腕はピカイチだ。どうだ?」

「あれ」

 何だ。大人の前で、顎でモノを指すな。なんか、横柄というか横着というか……。

「あ? 何だ」

「あのトラック。あっちのトラックも。何か、チョーヤバイ」

「ヤバイのは確かにヤバイんだが……おまえは、どうして、そう思うんだ」

「こんな細い道でお見合いしてるのに、どっちのドライバーも車から降りてこないし、動かそうともしない。タイヤの所を見てみな。あんなに車体が沈んでる。何か重たいもの物を乗せてるか、何かをたくさん積んでるって事じゃん」

 その通りだ。冷静だな。

「ああ、確かにな。サスペンションの沈み具合が異常だ。相当に重量がかかっているな」

「それに、どのトラックの荷台の扉も、左右に開くタイプじゃないし、荷降ろし用の昇降機もついてない。上からパタンって斜めに倒すタイプの扉じゃん。牛とか馬とか乗せるときの。でも、牛とか馬は、あんな全面が鉄板のコンテナには入れない。大抵は何処か一部が柵になってる。動物の鳴き声も聞こえないし。なのに、コンテナの隅には通気口が付いてる。上と下に。あれは、呼吸の為のだよ。しかも、積み込み口の扉に、外からロックがされてない。でも、扉が倒れてこないって事は、内側からロックされているって事」

 このパンク姉ちゃん、よく見ているなあ。

「つまり中に『人』が乗ってる。しかも大勢。こいつら軍隊だろ。たぶん『深紅の旅団レッド・ブリッグ』の連中じゃね?」

 その通り。もう少し聞いてやろう。

「『深紅の旅団』? どうして、そう思うんだ」

「あっちのトラック。ほら、よく見な。その後ろも。ライト点けてないじゃん。外はこんなに暗くなってきたのに。向こうのトラックは、普通にライトを点けてる。ライトを点けてないトラックは、どれも、電気自動車じゃなくて、ガソリン車かディーゼル車。しかも、運転席には必ず男が二人。あそこでお見合いしたまま止まってるトラックも、それぞれ二人乗ってる。よく見ると、どのトラックのドライバーも、真新しい軍手をしてる。汚れてない、真っ白な軍手。一日も終わりなのに。それに、作業着の着方がダサい。全然イケてない。しかも、みんな、下に赤いTシャツ着てるし。最悪。それから、さっきここに来る時に前を走ってたトラックは、荷台のデカイ荷物を覆っていたシートの隙間から、キャタピラが見えてた。その上に少し見えた装甲は赤。たぶん戦車だね、あれ」

「だから、『深紅の旅団』か。おまえ、するどいな。実は俺もそう思っていたんだ」

 確かに、そう思ってはいたが、こんなに色々な事には気づかなかったぞ。女の観察眼は怖ええな。どこまで細かく見ているんだよ。

「これ、なんか、ヤバイじゃん。だから、今日は昭憲田池で釣りすんの、やめた。オジさんも早く、新市街を離れた方がよくね?」

 こいつ、なかなか、洞察力と勘がすげえな。逸材かもしれん。よし。

「実はな。俺は探偵なんだ。ダーティー・ハマーと呼ばれている」

「ダサっ」

 放っとけ。今はそれどころじゃないんだ。

「ある事件で、どうしても、こいつらより先に行かなきゃならん所がある。手を貸してくれないか」

「ふーん。そうなんだ」

 ガムを噛みながら、人様を観察するな。ドキドキするだろうが。

「あんた、どっち。悪モン?」

「知らねえよ。それが自分で分かれば、苦労するか。とにかく、倒そうとしている相手は、悪者だ。それは、はっきりしている」

「じゃ、バイクは貸さない」

 やっぱりな……。子供に付き合ったのが馬鹿だった。

「その車を歩道に乗せな。ここに停めていったら、後ろの車が動けないだろ。あたいのバイクの後ろに乗せて送ってやるよ」

「マジか。分かった。ちょっと、待っててくれ」

 マジかよ。すげえラッキーじゃねえか。そうと決まれば、彼女の気が変わらないうちに、急いで歩道にと。すみませんね。緊急事態なんで。鍵はつけときますから。おっと、ハットを忘れる所だったぜ。これでよし。うお、なんだ、雨か。本格的に降ってきたな。

「早く乗りな」

「ああ。じゃあ、失礼して」

「変なところ触ったら、これで刺すからね」

「分かった。物騒な物を出すな。ナイフは仕舞え」

「どこに行けばいい?」

「あの塔だ。地下設備のメンテナンス用のエレベーター。あそこに向かってくれ」

「急ぐんだろ。ちょっと飛ばすよ」

「ああ、ガンガンいっちゃってくれ。俺は全然……」

 うお。おいおい、返事くらいしろよ。それに、出すなら出すって言えよな。危ねえだろ。運転の方は……めちゃめちゃグレードが高いじゃねえか。いったい、おまえは何者なんだよ。おいおい、交差点だぞ。

「交差点だぞ。交差点。こ・う・さ・て……」

 聞こえてんのか。まさか、突っ切る気か。ヒー! 危なかった。冗談じゃないぞ。なんちゅう運転を……っと、急停止か。ん?

「おい、何やってるんだ。まさか……」

「下りる」

「下りるって、おまえ、ここは……」

 馬鹿野郎、階段じゃねえか。俺は痔なんだぞ。ぐわわわわ、痛い。腰も、痔も。おい、こら、公園を突っ切るな。道路を進め。道路を。よし、ようやく道路に出たな。ていうか、早過ぎだぞ。

「ちょっとヤバイかも。しっかり掴まってな」

「ちょっとって、何が……」

 うおっ。マジか。これは、向かってくるヘッドライトの光を、すごい、速度で、右に、左に、よけて、よけて……お前、これは反対車線って奴じゃねえか。完全に道路交通法違反だろ。マズイぞ、これ。おいおい、次は一通を逆走か。おまえ、まさか無免許じゃねえだろうな。おいおいおい! そんなに倒して急カーブすんな。路面が雨で濡れてるぞおおお! ちゃんと考えてるのか。この女、マジか。信じられん。もっとスピードを落とせ。おおおっと。落ちる。――ふう。止まったな。

「着いたよ。降りな」

 着いた事より、まず、生きている事を確認させてくれ。これは、マジで、この三日間で一番の恐怖だったぜ。

「わ、悪かったな。助かったぜ」

「じゃ。気をつけて」

「おまえも気をつけろよ。運転が荒すぎるぞ」

「仕方ないじゃん。つけられてたんだから」

「つけられてた?」

「上」

「上?」

「雲の上にオムナクト・ヘリが飛んでる。昼間、あんたが洗車に来た時も、真上で飛んでた」

「ああ? マジか」

「マジ。そんじゃ」

 なんだよ。ずっと監視されてたのか? あの依頼人か? ていうか、この雨雲の中で、どうやって分かったんだ。飛んでるのは、あの雲の上の方だろ。おまえ、超人か。どんだけ視力が……って、おい。もう帰ったのか。何なんだ、あの子。何者なんだ。名前も聞かなかったな。今度、訊いておこう。

 さてと。バットの話が本当なら、ここから地下の下水道に入れるはずだ。ガス通管や送電管は、ちょっと怖いからな。下水道しか、なかろう。ここからなら、GIESCOまで、五、六百メートルってところか。建物の中までだと、一キロくらいあるかな。ま、頑張りますか。ええと、どこから入るんだ。ああ、これか、エレベーターの扉は。でかいな。どうやって開けるんだ? バットの奴が入れたんだからな。何か方法があるはずだ。ええと、ここを開けるのかな。なるほど、ここが暗号カード・キー・システムの接触パネルで、その下が操作スイッチか。暗号カード・キーは、都か国の職員が持ってるはずだからな。それ無しで、どうやって起動させたんだ、バットの奴!

「これ」

「わ、びっくりした」

 なんだ。パンク姉ちゃん。戻ってきたのか。

「マスターキー。ダチの間で出回ってる」

 それは違法じゃないか。わざわざ俺に届けに来てくれたのか。親切だな。だけど、これは……。

「これ、見た目は旧式のスマホじゃねえか。こんなんで本当に回路が起動するのか」

「そこに近づけてみな」

 あ、本当だ。起動した。見た目で判断しちゃいかんなあ。

「じゃ。また」

「ああ、おまえ、名前は」

「……」

 どうした。なぜ名乗らん。

「――ユイ」

 ん? なんて? 雨の音で聞こえん。なんで、そんな小さな声で言う。まあ、いいか。

「よかったら、俺の事務所で働かないか。まあ、俺の経営がうまく行けばの話だが」

 ん? なんだ、その手は。何が欲しい。俺と握手したいのか?

「それ。返して」

「ああ、すまん。助かった」

 おいおい。また、そこに仕舞うのか。カンガルーか、おまえ。

「雇ってくれるんなら、死ぬなよ。そんじゃ」

 と言って、風船ガムを一度パチンと口元で破裂させ、雨の中を大型バイクで去って行く網タイツの彼女……って、どこまでクールなんだ。よく分からん子だ。今度、ゆっくりと話してみよう。

 ほう。エレベーターの中は、普通車が一台乗るくらいのスペースか。バットの言っていた意味が分かったぜ。さてと、何階なんだ。地図、地図……おお、あった。ええと……。ああ、ハイパーネット用のケーブル管があるじゃないか。ここを通るか。ここなら、汚れないし、臭くならないぞ。レベル三だな。よし、三と。どーれ。そんじゃ、行きますか。

 はい。地下三階っと。それで、中はただの広いスペース……ああ、これか。ネットケーブル。この穴だな。狭いなあ。直径が百五十センチってところか。仕方ない。ここを進みますか。この中を一キロねえ。難儀ですねえ。ん? なんだ、このスケボーみたいな物。ああ、作業員さんが、これに寝転んで進む訳ね。電動台車かあ。いいねえ。では皆さん。報告は後ほど、GIESCOに着いてから。それでは、行ってきます。



 二十七

 地下深く 潜り探って GIESCOかな。

 こんばんわ。浜田圭二です。ようやく、GIESCOに潜入する事が出来ました。おっと、人は俺を「ダーティー・ハマー」と呼ぶが、そんな事はどうでもいいぜ。俺は、このGIESCOから、例の「パンドラE」を探し出す。ただ、それだけさ。

 それにしても広い施設だな。今、俺が要るのは、地下何階なんだ。随分と下に降りたぞ。当ても無く、ただ飛び込んで来たはいいが、さて、どうやって何処を探したらいいやら。あ痛っ。痛えな。配管かよ。こんな所に……。しかし、配管だらけだな。暗いな。じめじめするし、通路は狭いし、最悪だ。ミチル婆さんがトレンチコートをワックス仕立てにしてくれていて助かったぜ。さっきから、色んな所で擦っているもんな。ああ、行き止まりか。地図とか案内図とか、見取り図は無いのかよ。こういう制御機械類が置いてある階には、見取り図くらいあるだろう、普通……ああ、あった、これだ。ええと、今いるのがここだから……向こうに階段か。一つ上の階に出るのかな。大抵の大事なものは、地下室に仕舞ってあるものだが、さすがに、ここには無いよな。機械室だもんな。ネズミもいるし。もう、これより下の階は無いみたいだし、あそこから上がって、上の階を順に探っていくか。そうはいっても、俺一人じゃなあ。ここの地下は広過ぎだよ。この調子だと、ワンフロアをただ歩いて回るだけでも、一時間じゃ足りねえな。この階は配管スペースだったから、適当に済ませたけど、ここから上の階は、たぶん迷路みたいになっているんだろ。しかも、地上にはビルが八つもあるんだっけ? 一つ一つもデカいんだよね。とても、全部を俺一人で探るのは無理か。ヤマを張らないとな。ええと、全体像は……ああ、ここに書いてある。ええい、このペンライトめ。こんな時に寝るな。こら、起きろ。よし、点いた。頼むぞ、ほんとに。ええと、一昨日、光絵会長を乗せたAIセンチュリーが入っていった地下駐車場は、八つのビル全部の下に広がっているんだな。これじゃ、どのビルに向かったのかまでは、分からないか。仕方ない。例のアレでいくか。

「どぉれぇにしぃよおかな。ってんのかぁみぃさぁまぁのいうとーおーり」

 七号棟か。いや、まだ続きがあるぞ。

「スッケラケンのスッケラケン」

 二号棟か。いやいや、まだ続きがあるぞ。

「柿の種。アブラムシ」

 意味が分からんが、四号棟か……四は縁起が悪いな。最後までいくか。

「神様の鼻毛」

 六号棟か。

 いかん、いかん。こんな一大事に、何をやっているんだ、俺は。考えろ。遊びじゃないぞ。ちゃんと考えろ。

 そうだ。護衛ロボットの配置だ。重要な物を置いているビルを守る為に、そこには護衛ロボを集中させているはずだ。さっき、葉路原丘公園から見た感じだと……。ここか。二号棟。ここを中心に、ロボットは外を向いていた。二号棟が防衛の中心だ。という事は「パンドラE」は、この二号棟にある。ここからだと、近いな。ええと、その階段を登って、中の廊下を北に進む。最初の角を右。そこから、東にエレベーターのドアを三つ過ぎて、階段か。よし、とりあえず、そこまで行ってみよう。

 トレンチ・コートのカパカパ感も、だいぶ無くなってきたな。腕を回しても、全然、普通に、あ痛あ……く、く。肘を打った。ビリビリするぜ。狭いんだよな、ここ。あれ、ペンライト、ペンライト。ああ、あんな所に。マジか。落としちまった。駄目だ、届かない。諦めるか。まったく、何なんだよ。今日はツいてるのか、ツいてないのか。モノはよく、壊したり無くしたり、取られたりする日だな。でも、人にはよく助けてもらう日だよな。やっぱり、ツいてるのかな……。ん? 誰だ。誰かいるぞ。遠くの方で、一瞬、足音がした気がした。気のせいか。ま、とにかく、早いとこ、この鉄製の階段を上ってしまおう。上の階の廊下に出れば、電気が点いているはずだ。

 ん? いや、やっぱ、足音がしたぞ。俺の足音に合わせて動いているな。ならば、こうして手すりに掴まって、腕で体重を支えながら、階段を上るふりして……エアー・ステップ。ほら、今、完璧に聞こえたぞ。俺は、この鉄製の階段には足を着けてないのに、足音が向こうから聞こえた。誰か居るな。こういう時は、集音機の集音率を……あれ、集音機が……ああ、しまった。さっきのバイクだ。あのジェットコースター並みの運転で、落としたな。探偵が大事な時に七つ道具を落として、どうするんだ。やっぱり、今日は持ち物運が悪いな。じゃあ、この特殊偏光レンズのサングラスで……おお! なんだ、レーザー光線が出まくってるじゃねえか。一、二、三箇所から。あれは、暗視カメラから出ている不可視レーザーだな。三人か。うお、素早いぞ。一人が動いてから、すかさず、また一人が動いて、最後の一人は少しずつか。音もしないで動くぞ。やべえ。プロ中のプロさん達じゃねえかよ。どんどん、近づいてくるな。早く、進もう。ドアの鍵は、よし、開いている。

 よし。廊下に出たぞ。とにかく、全力疾走だ。あの連中は、かなり訓練されている。軍人か? いや、殺し屋かもしれんな。近頃は日本にも、チームで動くプロの連中がいるらしいからな。ストンスロプ社なら、そんな奴らを雇っていても不思議じゃない。とにかく、あんなのが三人じゃ、さすがのダーティー・ハマーも、勝てないぜ。おっと、ここを右だな。ちょっと、壁に背中を付けて、今来た廊下の様子を伺うぜ。あ、ドアが開いたぞ。ん、すぐには出てこないな。あ、出てきた。ゲッ。完全武装じゃねえか。やっぱり、軍人かな。小型のマシンガンを構えているぞ。防弾用の甲冑に顔面保護用のマスクまでしてやがる。完全にマジじゃねえか。うわ、もう一人。デカイな。プロレスラーかよ。一人目が廊下の安全を確認してから、出てきたな。しかも、めちゃくちゃ動きがスムーズじゃねえか。二人目が後方を確認にして、小銃を構えている間に、三人目か。こっちに進んで来た。マジでやばい。ありゃ、かなりハイレベルな連中だぜ。すっげー連携じゃねえかよ。あんなのが三人かよ。勝てる訳ねえよ。どうするかな。この先に階段があるんだよな。よし、ここだな。やべえ、近づいてくる。早く、上に行こう。三段ずつ、上って、一気に、上に。よっ。ほっ。とりゃ。お母さん、長い脚に生んでくれて有難う。あいつら、かなり警戒しながら、ゆっくり進んでいるな。よし、今のうちだ。とにかく、この階段をもう一つ上の階まで、よっ、ほっ、三段ずつ、よっ、ほっ。……

 ふう。さて、どうするかな。このエレベーターで、上まで行くか。とにかく、地上に出ないとな。あいつら、黒尽くめで、急襲のプロって感じだったもんな。こんな地下スペースでは、断然に俺が不利……ん、黒尽くめ? 赤じゃない。じゃあ、あいつらは「深紅の旅団」じゃないのか? そう言えば、「深紅の旅団」は機械化兵団だったよな。最新鋭のパワード・スーツだかアーマー・スーツだかを着てるって、記事に書いてあった。赤いフルフェイスのヘルメットも被っていて、ロボットみたいな見た目のはずだ。ところが、今の連中は、そんなもの着てなかったぞ。体にピタッと密着した黒か濃紺の甲冑だった。ヘルメットも被ってなかったし。あ、しまった。まだボタンを押して……あれ、エレベーターが下りてくるぞ。まずい、誰か来る。隠れろ。今上がってきた階段は……、駄目だ、さっきの三人に見つかっちまうな。こっちか。反対側の廊下に出て、角に身を隠す。お、エレベーターが着いたな。降りてくるのは誰だ。くそお、ここからは距離が近くて顔が出せん。とりあえず、耳だけ澄ましておくか。

「大丈夫だ。誰も居ない」

 えらく警戒してるな。中年のオッサンの声だ。ん。違う靴の音がするぞ。女性だな。ヒールの音だ。女が、もう一人乗っているのか。

「じゃあ、本当に、ここでいいんだな」

「ええ。下で彼らと合流出来るはずです」

 合流? さっきの三人組か? なんか聞き覚えのある声だな。

「中尉は、オムナクト・ヘリで待機していて下さい。もしも、十七師団が攻めてきた場合は、速やかに撤退する必要がありますから。同士討ちは避けなければ。我々も、館内の探索を終えたら、一旦すぐに戻ります」

「わかった。だが、そうなると戦術飛行になるからな。下村が乗ってきた戦闘ヘリの方が使いやすい。俺の送迎用ヘリは、下村に操縦させて、先に帰らせるよ。あいつが居ても、足手まといになるだけだ」

「分かりました。お弟子さん思いですね」

「そんなんじゃないよ。それより、あんたは、これから大事な事を控えているんだ。絶対に、無茶はするなよ」

 中尉? 十七師団? 戦闘ヘリに送迎用ヘリ? 同士討ちだって? どうなってるんだ? 大事な事ってなんだ? お、エレベーターが閉まる音だ。誰だ、今の女。ん、階段の方に行くな。やっぱり、さっきの奴らの仲間か。どんな奴だ。ちょっとだけ覗いて……軍の制服姿の女性か。くそ、速足だな。顔が分からん。しかし、あの後姿、どっかで見たような。まあ、いい。とにかく、他にも奴らの仲間がいるのか。マズイな。どうする。ここは、何号棟の地下なんだ? たぶん、二号棟の地下でいいんだよな。じゃあ、この廊下を奥に進むか。たしか、この先にも階段が……。ええと、階段、階段、あった。お、見取り図があるぞ。ええと、今、ここだから、ここから、こっちの方に進んで……。ん? ここに空間があるな。変だな。何でこんな所に空間があるんだ。何も書いてないな。この階段からは行けないのか。どっか、別のところに階段かエレベーターが在るはずだな。ええと。こっちに行ってみるか。くん、くん。なんだ、この臭い。焦げ臭いな。あれ? あんな所に、両開きの扉があるぞ。ちょっと待てよ。戻って、さっきの見取り図を確認してみよう。ええと……変だな。この見取り図では壁になっているぞ。向こうには、何も無いように記載されている。怪しいな。行ってみるか。くん、くん。やっぱり、焦げ臭いよな。変だな。この両開きのドアの近くが臭い。このドア、いろんな意味で臭うぞ。見た目は、鉄製の防火扉のようだが、廊下の真ん中のこんな中途半端なところに防火扉を作っても意味無いじゃん。普通、防火シャッターの横とかに設置されてないか。階段の出入り口付近とか。なんで、こんな中途の部分に。しかも、両開きって……あれ、鍵穴があるぞ。横の黒い四角は、指紋認証用のセンサーか。でも、何も書いてないし、他にボタンもない。カモフラージュしてあるって感じだ。上は……あ、こんな所に小さな穴が。カメラか。携帯端末とかに付いている小型カメラじゃないか? あれ、何か落ちてる。何だ、これ。標識か。非常階段の位置を示す矢印か。さっきの階段だな。この向きだよな。なるほど。この小穴の上から取り付けられていたのか。これで隠していたんだな。この高さだと、普通の背丈の人間の目の位置か。すると、網膜認証用のレンズかもしれんな。ちょっと、前で手をかざしてみても……何の反応も無し。このドア、猛烈に怪しい……あれ、開いている。なんだ、ロックの部分が焼き切られているぞ。さっきの臭いは、これか。

「あちっ」

 なんだ。ついさっき、焼き切られたばかりじゃないか。この切り口は……レーザー・ナイフ! 奴だ。刀傷の男。レーザー・ナイフなんていう世界中の軍隊でも使用が禁止されている武器を使っているワルは、そういない。奴に違いない。こりゃあ、行くしかないぜ。やはり、ここに来ていたか。これまでの借りは、きっちり返させてもらうぜ。



 二十八

 中は、広めの廊下だな。結構、奥まで続いている。行ってみるか。注意しろ。奴がいるぞ。という事は、やはり「パンドラE」も、この先にあるんだな。突き当たりだ。立ち止まれ。左に曲がっているのか。角の先には……よし。誰もいない。すぐ行くと、また突き当たりか。今度は右に曲がっているぞ。なるほど、よく出来ているな。誰かが攻め入った時に、こうやって立ち止まらないといけないから、進行の速度を落さざるを得ない。城の設計と同じだ。よほど考えられて、設計されているぜ。これは絶対に怪しい。ちょっと覗くと、この先も……よし。誰も居ない。ここにはエレベーターか。ええと、この階が一番下の階か。上に四つの階があるのか。どうなってんだ。一番上の階に行っても、まだ地下だろ。ん! なんだ、今の。銃声か? 二発聞こえたぞ。何処だ。この階段の上から聞こえた。コンクリート製のただの階段か。上に続いている。上がってみるか。踊り場だ。先に人は……居ない。くそ、あの野郎。誰かを撃ったのか。階段の先は、正面に廊下か。まっすぐ向こうまで続いている。とにかく、階段を上りきって……。正面が狭い廊下、右にさっきのエレベーターか。この階段は上まで続いているのか。銃声は、こっちからしたのか。いや、落ち着け、状況分析だ。この廊下の幅は二メートル弱ってところだな。一間幅になっているのか。奥の突当りまで、左右は壁。ドアも窓もなし。誰も居ない。突き当たりで右に曲がっているみたいだな。階段の上は……人の気配は無し。右のエレベーターも動いていない。さてと、どっちから、音がしたんだ。階段の上か、廊下の突き当たりを曲がった先か。うお! また銃声だ。近いぞ。しかも、三発、たて続けに。こっちだ。廊下の方だ。走れ。くそ、長い廊下だな。狭い分、余計に長く感じるぜ。よし、突き当たりだ。止まれ。音はこの突き当たりを右に曲がった先からだ。気をつけろ、相手は銃を持っている。火薬の臭いがするぞ。やっぱり、この角を曲がった先だな。よし、一瞬だ。この角の壁際から、一瞬だけ、顔を出して、状況を確認するんだ。三、二、一、チラッと。

 見えたぞ。居た。刀傷の男だ。床に倒れている人に拳銃を向けていた! あと一発だけ残っているはずだ。銃口を向けていたという事は、まだ撃つつもりか。という事は、撃たれた人は、まだ生きているんだな。くそっ、大変だ。

「おい! やめろ!」

 危なっ! 野郎、反射的に、こっちに向けて撃ちやがったぜ。だが、俺の反射神経の方が上だったな。こうして、瞬時に床に伏せて、弾を避けたぜ。間抜けが撃った弾は、後ろの壁に御着弾っと。じゃ、立ち上がりますか。

「やれやれ。毎回、毎回、やってくれるぜ。お花好きの殺し屋さんよ」

「貴様……また現われたのか。しつこい男だ」

 まだ、こっちに銃口を向けているのか。どっちがしつこい男だよ。まったく。

「ま、それくらいしか、取り柄が無いんでね。さて、どうするよ、刀傷のオッサン。この前と同じだな。この狭い廊下の両側は壁。窓は無い。おまえの後ろには、奥の方に鉄製のドアが一つ。ま、鍵が掛かっているだろうから、おまえに逃げ場は無いぜ。俺を倒して、元来た道を戻るしか、帰る方法は無い。さあ、どうする」

 ん。この爺さん。光絵会長の運転手じゃないか。何かを覆い隠すように床にうつ伏せで倒れているぞ。何を隠しているんだ。よし、よかった。まだ生きているみたいだ。

 野郎、まだ俺に銃を向けているのか。いい加減にしろよ。また無関係な人間を巻き込みやがって。俺は今、マジで怒っているぜ。ただの運転手の爺さんを撃つことはないだろ。年寄りだって、老体に鞭打って懸命に働いているんだ。それを、てめえ……絶対に許さん。俺は、この歩みを止めないぜ。てめえが、そうやって銃口を俺の方に向けていてもな。そこまで行って、ぶん殴ってやる。覚悟しろよ!

「爺さん。大丈夫か! もう少しの辛抱だ。頑張れよ」

「うう……銃を……」

「大丈夫だ。奴が持っている銃は、リボルバー式の六発装填。俺はさっきから、銃声をちゃんと数えていたぜ。さっきの一発で計六発。この野郎は、ハッタリかまして俺に銃を向けているが、その拳銃は弾切れだ。ちゃんと分かっている。諦めな。後は俺に、しこたま殴られるだけぜ」

 なんだ。この野郎、何をヘラヘラと笑ってやがる。もともとニヤついた顔してやがるから、余計に腹立つぜ。いいだろう。その顔で二度と笑えなくしてやるぜ。ダーティー・ハマーの正義の鉄拳を、ウッ!

 なんだ? 今、銃声が聞こえたぞ。い、息が……。あれ? 床に倒れっちまった。この左胸の衝撃は……俺、撃たれたのか? そんな馬鹿な。刀傷野郎、てめえ、何を笑ってやがる。

「この銃は、外装は六発装填のリボルバー式を模したデザインだが、実は、十六発装填のフル・オートマチックなんだよ。あれ、言ってなかったかな?」

 十六発装填? しまった。そうだったのか。見た目で判断しちまったぜ……。畜生、紛らわしいものを作りやがって……。

「外観はレトロに。中身は最新式に。車と同じさ。それが俺のこだわりでね。ああ、ちょっと待っててくれ、探偵君。今、大事な仕事を先に済ませてしまうから」

「や……め……ろ……」

 くそう。声が出ない。息も出来ないぞ。体が動かん。

「え? 何だって? 聞こえないな。もっと大きな声で言ってくれなきゃ。後でゆっくり聞いてやるから、それまで死ぬなよ。俺は、この男にとどめを刺さないといけないからな。ま、そこで寝転んで見ていてくれ。いくぞ。バン。――はい、終わり。お疲れさんっと」

 野郎、瀕死の爺さんの背中に、更に一発、至近距離から撃ちやがった。何て事を……。

「ああ、探偵君。悪く思わんでくれよ。俺もいろいろと大変なんだよ。前の雇い主のASKITが倒産しちまっただろ。次の再就職先が決まったばかりなんだ。その大事な初仕事だからさ。ミスる訳にはいかんのよ」

 てめえの身の上話なんかを聞くつもりは、ねえ。くう……息が……

「このGIESCOの中に潜んでいる田爪健三を消すのが、今回の仕事のメインでね。ようやく、白髪の老人を見つける事ができた。苦労したよ。ま、この仕事が上手くいけば、報酬もしっかり入る。信用できる雇い主だからな。金の払いに問題はない。俺も暫らくは安心って訳だ。悪いねえ、探偵君。あとは、君が田爪を殺した事にさせてもらうよ。大丈夫、バレないように、しっかり偽装するから」

 馬鹿、白髪違いだ。間違えてるぞ。その爺さんは違う。その人は、光絵会長の運転手だ。人違いだよ。ぐうう。駄目だ。声が出せない。もうすぐ心停止する。息も止まっている。少しだけ耳の後ろで自分の心臓の鼓動が聞こえるぞ。ものすごく、ゆっくりだ。これは、マジで……。

「あらら、苦しそうだね。ま、探偵君も頑張ったからね。せめて、楽に死なせてあげるよ。ああ、しまった。君の分の花を持ってきてなかったなあ。車に置いてある花があるから、後で取ってきて、横に置いてあげよう。いい花が手に入ったからね。多めに置いておくよ。サービスだ。敢闘賞ってとこかな。さて、そろそろ終わろうか。どこがいいかな。やっぱり、頭かな」

 くそ。親父、許してくれ。仇は取れなかった。地下高速で被害に遭った四トントラックのドライバーさん、光絵会長の運転手の爺さんも、本当にすまない。あんたらを救えなかった。俺が未熟だったばかりに。あの世で会ったら、改めて謝らせてくれ。駄目だ。目が霞んできたぜ。銃口を俺の顔の目の前に近づけている奴の姿が、ぼやけて見える。悔し涙のせいかな。本当に無念だぜ。パンク姉ちゃん、どうやら雇ってやれそうもないぜ。悪いな。ミチル婆さん、出来上がった背広は、俺の棺桶にでも入れてくれ。長生きしろよ。葉路原丘公園の管理人の市口さん、お礼に「ワイロ饅頭」でも持っていくつもりだったが、勘弁してくれ。バット、注文していた本の代金と未払い分は、おまえが払っておいてくれ。馬鹿中学生の朝美と由紀、しっかり生きろ。何事も諦めるなよ。依頼人さん、車を有難うな。嬉しかったぜ。九八ツール・モータースのオッチャン、いろいろ世話になったな。俺のダットサンは、好きにしてくれ。あんたなら、大切にしてくれるはずだ。「新入りくん」の方も任せるよ。「代車くん」の事は本当に悪かった。それから、地下高速で助けてくれたトラックのオッチャン、あんた、名前は何だったっけ。でも有難う。みんな、本当に感謝している。有難う。それから、俺に惚れている女、本当に世話になった。でも、悲しむんじゃないぜ。俺の事は忘れるんだ。おまえは、おまえの人生を生きろ。小久保君、君に任せたぞ。幸せにしてやってくれ……。ん、何だ? 足音か? 銃声だ。駄目だ、暗い。何も見えない。あの世からお迎えが来たのか。聞こえていたはずの足音が消えていく。ああ、こうやって人は死んでいくのか。耳の後ろで微かに響いていた俺の心臓の音が、今、止まっちまった。それじゃあ、最後に少しだけ、聞いてくれ。

 俺の名前は、浜田圭二。間抜けな探偵さ。裏の世界で、俺は「ダーティー・ハマー」と呼ばれたかったが、そんな事はもう、どうでもよくなった。俺はこうして、死んでいく。正義のために、悪の凶弾に倒れてな。無念だ。俺の出来なかった事は、君らに託す。頼んだぞ。どう生きればいいかは、もう分かっているはずだ。じゃあ、そろそろ俺は逝くぜ。みんな、あばよ。元気でな。


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