第4話  南 正覚

 



                  一

 壁の高窓の磨りガラスに、朝日に照らされた庭木の葉がくっきりと影を映していた。その小さな高窓の向こう側では、目覚めたばかりの鳥たちが歌っている。内側の薄暗い板の間に、初老の男の低い嗄れ声が数珠玉の摩擦音に混じって響いていた。男は、丸刈り頭の前に広がった額に大粒の汗を浮かべ、黒地に金糸を織り込んだ豪勢な着物の中で肩を強張らせている。左手にはうるし塗りの大粒の数珠が握られ、右手には少し大きめの大幣おおぬさが握られていた。それらを激しく動かしながら、男は必死に何かを唱えている。その豪華な法衣を照らす護摩壇の炎の向こうには、眩く装飾された小さな祭壇があった。その最上段に置かれた台座の上には、白木の箱がうやうやしく飾られている。彼は時折、目の前の火柱を払い除けるようにして、その白木の箱に向かって大幣の先の紙垂しでを激しく振った。

 その白木の箱は真明しんめい教の信者たちから「聖櫃」と呼ばれ、崇め奉られている。男がその聖櫃に向かって行っている行為は、彼がこの真明教団首都圏本部の祈祷所で長年の間行ってきた、宇宙の神に対する帰依の儀式であり、覚りの境地へと達するための修行でもあった。

 男は、祭壇に向かって大声で唱え始めた。

「大宇宙にします我らの神よ。どうか我にまことの未来を明らかとして下さい。どうか、その『お言葉』にて我を御導き下さい。さすれば、世のため人のため、我が生涯を捧げん。この身が朽ち果て、無と成らん時まで。念。念。念。念。念。……」

 この男、真明教団の代表者・南正覚みなみしょうかくは、ここ数日の間ずっと寝ていなかった。眠れなかった。彼自身の肉体は、六十五年の歳月を経ていたから、修行者である彼の克己的な生活と宗教法人代表者としての多忙なスケジュールのために、既に限界に達していた。しかし、それでも尚、彼をして依然として覚醒せしめる何かが、彼の中のしじまの淵から南智人みなみ ともひとという本来的な一個人を呼び覚まし、彼の精神を喧騒で埋め尽くしていた。だから、今日も彼はこうして、自らの中に平穏と静寂と秩序を取り戻すべく、日も昇らない早朝から祈祷所に入り、冷たい板張りの床の上で膝をついて、祭壇の上に掲げられた聖櫃に向けて一心不乱に、彼の信ずる文言を繰り返し唱え続けていた。そうして彼は、自分の中で日々膨張していくものを必死に押し込めようとしていた。しかし、その力は彼が想像していた以上に大きかった。彼がそれを押し戻すには、炎の前で必死の形相を見せざるを得なかった。喉を嗄らし、額に玉汗を浮かべ、肩を硬直させ、背中を震わせながら念を唱えても尚、「過去の事実」から許可なく一方的に大量に送り付けられて来る「記憶」という汚物が、彼の中に積もり、酷い悪臭を放っていた。容易に拡散し、接触すれば身体に着いて離れない、この悪臭が、南智人は幼い頃から嫌いだった。

 南智人の両親は、祖父から受け継いだ小さな農場を営んでいた。智人は農家の一人息子らしく、年端も行かない幼い時分から、よく家業の加勢をした。朝早くから、畜舎の掃除をし、家畜たちに餌を与え、牛たちの間を移動しながら搾乳して回り、その小さな体で、自分の胴体と同じ大きさの容器に溜まった牛乳を運んだ。夕刻に学校から戻ると、飼料の詰まった重い袋を父と共に納屋に運び、積み上げた。休日には父と共に農場の草を刈り、農機具の手入れをした。智人は、物心ついた頃から、そのような毎日を送っていた。それが彼の日常であった。だから、当初は特に意識した事はなかったが、十を超える歳になると、自然と家業を継ぐ事を意識し始め、それと共に反比例して、家畜たちの獣の臭いと自身の汗の臭いが混合した父の作業着の臭いも気にならなくなった。だから、智人は、小学校の卒業文集には、日本一の酪農家になると、将来の夢を綴っていた。

 ところが、中学生になると、彼は迷い始めた。一九八〇年代の後半、世間はバブル景気に浮かれていたが、酪農業の彼の家は、その過剰膨張する経済から何の恩恵も受けていなかった。出荷する牛乳は多少の高値で引き取ってもらえたが、一次産業である出荷元に支払われる額は程度が知れていた。むしろ、好景気で配合飼料の価格や農機材の価格は高騰していたので、彼の家の家計は、どちらかというと逼迫した状態であった。そして、そのような事情は、中学生の彼にもよく理解できていたので、彼は自身の将来について悩んでいたのであった。いや、むしろ彼が実情を理解できたからこそ、現実的選択において悩み、もがき苦しんでいたのだ。それは、彼が思春期という相応の年齢であったからではない。現に、彼の周りの同級生たちは、部活を楽しみ、テレビゲームに勤しみ、漫画や小説、音楽に浸り、受験勉強に逃避し、実に非生産的に青春を謳歌していたから、社会の現実を見据える事もなく、または、既に見切ったかのような素振りで抽象論に溺れ、空想と虚構の中を浮遊していた。さらに悪い事に、周りの大人も子供たちをそこから連れ出すだけの実力を備えていなかったから、彼と同い年の若者たちのほとんどが、自分たちの将来について現実的に、実質的考察をしてはいなかった。それは、客観的に確かであった。だから、思春期の彼らは迷っているふりをしていたり、あるいは、迷っているつもりになっていたが、それは決して歳相応だからそのようであった訳ではなく、ただ、現実の枠の外で意識を朦朧とさせていただけだった。一方で、南智人少年は、幼い頃から現場で大人の補助者として働き、現場の作業を肌で知り、また、大人が他者と如何に遣り取りするものかを近くで観察して社会に参加していたので、自分が大人になってから何が必要か、今何を為すべきか、何を身につけておくべきかを具体的に知っていた。そして、自分がその「大人」に成るのが、そう先の事ではないという事も明確に認識していた。それも、客観的に明らかであった。つまり、彼が包含していた自分の将来についての心の動揺は、彼が自己の実体験を基礎とした現実的で具体的な将来像を持ち合わせており、同時に一方で、現実社会の現状を直視した結果の予測も持ち合わせていて、その両者を的確に比較できたからこそ生じたものであった。それは、現実を真摯に受け止めた若者こそが陥ってしまうという、世のジレンマの典型例であった。ただ、彼が不幸であったのは、彼がまだ若く、経験も知恵も知識も無かったうえ、それを補ってくれる責任ある大人が周囲に居なかったという点にあった。それ故に、人生の重要な分岐点において冷静さを保つ事が出来なかった南智人少年は、酪農に将来性は無いと稚拙にも独りよがりな結論を下してしまい、父母の反対を押し切り、高等学校へ進学を辞退して、就職して建築の道へ進む事を選択した。当時の彼の担任教師も進路指導係の教員も、彼が普段から汚れにまみれて家業を手伝っている事を知っていて、彼が勉学に全力を投じている訳ではないという認識も有していたので、彼がそのような道に進むのは当然であると稚拙な判断をし、蒙昧に結論を下し、彼に対し特に手を差し延べてやる事はしなかった。

 かくして、一九八九年、中学を卒業した南智人は、他県の田舎町の小さな工務店に就職する事になった。就職とは言っても、実質的には弟子入りに近く、その扱いは過酷なものであった。南智人少年は、現場での雑用係りと清掃は勿論、工具の手入れ、社用トラックの洗車から兄弟子の作業着の洗濯まで全てをさせられた。住み込みで働いていた彼は、時には、社長宅の掃除から庭の雑草刈りまでしなければならなかった。南智人少年は忙しかった。さらに、その工務店は寺社の修繕を中心に扱う、いわゆる「宮大工」の大工業であったので、棟梁は生活の終始にわたり為来しきたりを重んじた。朝は仏壇に向かい、弟子全員で礼拝と合掌をして、昼は、現場に居ようが工場に居ようが、一番近くの神社に参拝した。夜も就寝前には必ず神棚に拝礼し、さらに仏間で仏壇に向けて礼拝してからでないと、床に入る事を許されなかった。しかし、南は、現在もその棟梁に感謝している。というのは、彼がこうして宗教法人を設立し、一億人を超える数の世界中の信者を束ねる事が出来ているのも、彼自身が、他のどの信者よりも信心深く修行熱心であるからに外ならず、そのような資質を彼に植えつけてくれたのは、あの宮大工での就業時代に他ならないからである。それに、当時の南智人も、厳しい棟梁や兄弟子たちとの共同生活をそれなりに楽しんでいたから、さほど苦痛を感じていなかったのも事実であった。初めてする親元を離れての生活と多様な先輩たちとの交流で成長する自分を実感しつつ、夢と希望に満ちた毎日を智人少年は満喫した。だから、彼は仕事を覚えるのも熱心であった。どの弟子たちよりも早く現場に入り、技術の習得に励み、休日には密かに一人でかんながけの練習をした。朝には、棟梁から借りた書物にある寺院の写真を何度も観察して検討し、昼には、現場の神殿や寺院の構造と装飾を頭に焼き付け、夜には、部屋に戻ると直ぐにその日学んだ事をノートに書き留めた。誰よりも早く一人前になりたい、将来は親方のような立派な棟梁になる、そのような思いだけを胸に、十六、十七歳の智人少年は、なんら経営について苦悩する事も無いまま、その責任を免除された唯一の時間を、ただひたすらに自己の研鑽に費やせばよかった。そのはずであった。

 十八の時、棟梁の勧めで、夜学に通うことになった。棟梁も南智人の才覚と努力は認めていたから、中卒のまま世に出すのは惜しいと思っていた。智人も、たまの帰省で耳にする同級生たちの動向に、自身の将来について気を焦らせていた時期であったから、親方の勧めは彼にとって良い契機となった。昼間の肉体労働の疲労を残しながら、遠方の現場からの移動の後に学校に通う事は、若く逞しい南智人の肉体をもってしても決して容易な事ではなかった。しかし、彼は努力し、一九九五年、智人が二十二の時には、何とか高校卒業の資格を取得する事ができた。その頃は、バブル経済崩壊の余波が、地方の零細中小企業にまで広がり始め、大震災やテロ事件の陰で小都市の名も無い小さな事業所が次々に倒産し始めていた時期であった。経済参加者の減少が、為政者や評論家から遠く離れた世界で静かに進行していたのである。ところが、大都市の人間たちは地方都市の実情を正確に把握してはいなかった。だから、グローバル化だのIT革命だのと、本質とはかけ離れた議論を繰り返し、経済復興を謳っていた。実際、一九九七年頃に所謂ITバブルの華が開き始めると、外資系の企業が日本国内に多数流入し、振興のベンチャー企業を押し退けていった。NNC社の日本法人としてNNJ社が設立されたのも、ちょうどこの時期であった。外国資本の流入に加え、技術革命と新ツールの普及が表面上の経済を一時的に底上げし、「セレブ」と呼ばれて浮かれる若い成り金の成功者たちが自己の利益と幸福のみに酔いしれ、世を闊歩した。そんな彼らを作り上げた大人たちも、誰一人として、その責任をとろうとはしなかった。金は小都市から大都市へ、地方から中央へ流れ、海外に流出していった。九十年代末になると、地方での中小企業の倒産と自殺者、自己破産者の増加が深刻化していった。南智人が勤めていた工務店が倒産したのも、丁度そんな時であった。




                  二

「教祖様、只今戻りました」

 数時間に渡る朝の祈祷と、その後の信者向けのネット配信の収録を終えた南正覚は、自室で茶を啜り、暫しの休憩を取っていた。そこは二十四畳の和室で、特に煌びやかな装飾が施されている訳でもなく、高価な芸術品が飾られている訳でもなかった。一見すると、巨大宗教法人の代表者の個室にしては質素なようであったが、実は、畳は天然素材の藺草いぐさを使用した最高級品であるし、天井にも、フェイクカーボン素材ではなく天然の木材が使用されていて、相当に高額な作りでる。室内の襖はすべてナノLED糸を編みこんで作った電子和紙を使用した代物であり、季節により好きな絵柄を映し出す事ができる最新式の高級襖だ。また、広い縁側と和室を隔てる障子は、防弾性の強化和紙が張られた真新しいもので、その向こうの縁からは、枯山水式に仕立てた立派な庭を望む事ができた。その縁と庭の境界には、雨水が打ち込まぬように透過式の「質量バリア」が張られていた。庭から飛んできた小さな虫が透明の質量バリアに当たり、真下に流されて、またどこかへ飛んでいく。南正覚は、高額な壷や掛け軸を眺めるよりも、この広縁に座り、そこから質量バリア越しに、四季の花々や玉石の流れの中に鎮座する小岩を眺めながら、ゆっくりと日本茶を啜るのが好きであった。

 今日も、短い休憩時間をそうして過ごしていると、長身の痩せた男性信者が長髪を揺らしながら、広縁を走ってきた。彼の後ろから、中背で丸刈り頭の男性信者と、背が低く少し太った女性信者がついてくる。揃いの黄色い運動着を着た三人は、教祖南正覚に一礼すると、床の上に正座して頭を垂れた。南正覚は、握っていた湯呑み茶碗を茶托の上に静かに置くと、真明教団の教祖としての威厳と風格を意識して、低く籠った声で答えた。

「うむ。ご苦労じゃった。して、どうじゃった。何か特別な動きでもあったか?」

 長身の信者は、南に対し頭を垂れたまま答えた。

「いえ。相変わらずでございます。光絵は、今日も研究所と自宅を往復したのみです」

 南は庭の石を眺めたまま、さらに尋ねた。

「光絵由里子は、そこにどれくらい居たのか」

「は? 研究所にですか? ええ……一時間少々の間でございます」

 南は、その時間が、いつもより長い事が気に掛かったが、その指摘を省略して諭すことにした。

「その研究所で、彼女が一体何をしているのかを明らかにせよと、宇宙の神様は仰せなのじゃ。分かっておるな」

 痩せた長髪の信者は顔を上げた。南正覚は、丸く大きな目で彼を力強く睨みつけていた。痩せた信者は南の視線と発言の内容に畏怖し、真明教の教祖南正覚に両手を合わせて懇願した。

「どうか。どうかお許しください。どうか天罰だけは免じてくださいますよう、お取り計らいください。教祖様!」

「よかろう。念じてやろう。ぬぬぬぬぬぬ……てぇい!」

 正覚は額の前で、右手の節くれた太く短い二本の指を立てると、暫く念じるふりをして、その後、その太い二本の指を法衣の袖と共に上下左右に振り回し、奇声を上げて再度額の前に持ってくると、制止した。少し間をあけて、彼は息を吐き、脱力する。そして、安堵した顔を痩せた長髪の信者に向けた。長髪の信者は、広縁の天然檜の板張りの上にひれ伏すと、額を床に押し当てたまま両手を頭の上で合わせ、南にこう言った。

「ありがとうございます。ありがとうございます」

「うむ」

 顰めた顔で頷いた南正覚は、ひれ伏している痩せた長髪の信者の後ろに目を遣った。

「ところで、そなた。こちらに来るがよいぞ」

 南は、奥に座っていた中背で丸刈りの男性信者に手招きして言った。

「宇宙の神様からのお告げじゃ。そなたの懈怠について、近く神様からの天罰が下るであろう。心するがよい」

 丸刈りの信者は目を丸くして声を上げた。

「ええ! 天罰ですか! どうか、それだけは、お許しを!」

 南は、その中背の信者の嘆願を聞き入れる事無く、彼の隣に座っている女性信者を指差して、さらに発言を続けた。

「そして、そなた。そなたの事も、神様は、お怒りであられるぞよ」

「ええ! 私もでございますか? 恐ろしいや。 恐ろしやあ」

 その小太りの女性信者は、力なくその場に崩れ落ちると、広縁の床に伏したまま震えていた。南の発言は続く。

「そなた達は、GIESCOの調査を担当しておるな。その働きが不十分だと、神様がお怒りじゃ。おお、恐ろしいや。恐ろしやあ!」

 南は天を仰ぎ、両手で挟んだ大数珠をジャラジャラと鳴らしてみせた。

 丸刈りの信者が哀訴する。

「しかし教祖さま。GIESCOは世界屈指の研究施設でございます。そこのメインコンピュータへの侵入は、とても私どもには無理でございます。やはり、外部の専門家……」

 丸刈りの男性信者が言い終わらないうちに、南正覚の怒声が響き渡った。

「黙らっしゃい! 何を言うか不届き者めが。絶対なる宇宙の神様のお言葉ぞ!」

 南は、硬直する三人の信者に背を向けて座り直すと、今度は小声で静かに語った。

「宇宙の神のお告げに逆らう者には、大きな災いが降り注ぐであろう。恐ろしい事じゃ。念。念。念。念……」

 三人の信者たちは、三者三様に取り乱した。長髪の痩せた信者は、震える右手を震える左手で押さえながら、ただひれ伏していた。丸刈り頭の中背の信者は、背中を丸めて正座したまま、黄色い運動着の上着の裾を引っ張り上げ、額の汗を必死で拭いていた。その隣で、小太りの女性信者が、嘔吐を必死に抑えながら、背中を見せている南に向け、震える両手で合掌をしていた。その女性信者は、ついには泣き出し、嗚咽しながら訴えた。

「どうか教祖様。教祖様あ。どうか助言をお授けください。どうか助言を!」

 南は三人に背を向けたまま、暫く瞑想するふりをしていたが、予想以上の恐怖心を露わにした女性信者に少しだけ同情したので、同じく少しだけの助言をする事にした。

「うーむ。迷える信者たちよ。ただ信じるのじゃ。神様は信じる者をお救いになる。神様のお告げぞ。我ら凡人は、その絶対成就を信じるのみ!」

「ははあ。あなかしこー。あなかしこー」

 三人の信者たちは、全員、床に額を押し当てたまま、合掌して上げた両手を南正覚の背中に向けて何度も振った。

 南正覚は立ち上がり、彼らに背を向けたまま言った。

「少し早いが、ワシは昼の祈祷きとうを始めることとする」

 三人の信者は互いに顔を見合わせた。

 長身で長髪の信者が意を決したように申し出た。

「教祖様。どうか、この未熟な私たちも、教祖様の昼のご祈祷に、ご一緒させていただけないでしょうか」

 南正覚は三人の申し出を予想していたが、即答する事はせず、少し考えるふりをしてから答えた。

「――よかろう。信心深い者も、また、救われよう」

 南は三人の信者と共に祈祷所へと移動した。

 長い渡り廊下を進むと、その先に別棟で建築された祈祷所があった。祈祷所の中は、朝の南正覚の祈祷の熱気が残っていて、少し蒸し暑かった。南は祭壇の前に立つと、聖櫃に礼拝し、法衣の長い袖を外側に大きく払って、姿勢を崩さずに床の上にあぐらをかいて着座した。三人の信者たちも南に続いて床に座ったが、三人とも正座であった。南正覚は、首に掛けていた大珠の数珠を外し、四指をしっかりと伸ばした左手に掛けると、親指で力強く挟んだ。続いて傍らに立ててあった大幣おおぬさを右手に取り、その太い白木しらきの棒を胸元でしっかりと握り直す。それを祭壇に置かれた聖櫃に向けて静かに突き出した南正覚は、棒の先端の紙垂しでを細かく振り、摩擦音を鳴らし始めた。そして、白木の棒の手元についているリモコンスイッチを押す。南と祭壇の間の床板が左右に開き、中から装飾された護摩壇ごまだんがゆっくりと上がってきた。壇上にホログラフィーの炎が投影される。護摩壇の中のヒーターで温められた空気が排出され、南正覚の顔にぬるい温風が当たった。そこまで両目を閉じていた南正覚は、少しだけ右目を開いて、擬似炎の立体画像にノイズが走っていない事を確認すると、再び両目をしっかりと閉じて、嗄れた低い声で力いっぱいに彼独自の文言を唱え始めた。彼の後ろに正座していた三人の信者たちは、祭壇の上に置かれた聖櫃に向けて両手を突き出し、掌を精一杯に広げながら、一斉に同じ文言を唱え始めた。三人の信者の声は次第に大きくなり、やがて南の声を呑み込んでいった。

 この三人の信者は全員、かつて「就労失業者」と呼ばれた者たちであった。就労失業者とは、表面上は就業しており、形式的には失業状態ではないので、政府の失業者数調査の統計上はカウントされないが、現実には収入により生活を向上させる事が出来ない状態にあり、かつ、再就職や転職が事実上出来ない状態にある者のことである。二〇二〇年代初頭に政府が雇用流動化システム法を施行してから、一定数以上の従業員を雇用する大企業は、原則として、系列会社や利害関係先以外の場所で法定期間を就業した者しか雇用できなくなったので、ほとんどの大企業では中途採用が原則となった。同じ頃、公務員の採用試験の受験資格に民間企業での就業経験が条件として加わったので、新卒採用でそのまま役人や公立学校の教師、公立病院職員等になる者は原則として存在しなくなった。それにより、中小企業や個人事務所で新卒採用された若者は、もの作り、流通、その他の産業において、まず下請けの現場で三年から十年程度を過ごす事になり、そのまま同じ仕事を続けるか、その後、二十二歳前後から三十歳前後で大企業や公的機関に就職するかを選択するのが一般的となった。大企業や公的機関の人員の入替わりのサイクルは早くなったが、その分、組織に風通しが良くなり、表面上は、組織の全体が本来的に設計された機能どおりに稼動するようになった。国民からも、個人事業者や中小企業と大企業、官公署の間の意識差が解消されたという肯定的な意見が多かった。ただ、問題は労働者層の賃金収入の安定であったので、抱き合わせの政策として、賃金統一管理法と職業転換促進法という二つの法律が制定され、その対策が図られた。前者の法律により全労働者の就業内容、労働条件、市場動向が一元管理されるようになったので、業種による就業年数ごとの細かな平均賃金相場が算出され、さらに、労働の内容や危険度、体力消費量、精神疲労度に応じて職種ごとの最低労働賃金が統一的に見直され、それを基にして、各自の労働時間に応じて個別具体的に基本賃金が決定されたため、同一職の各労働者間に不平等は生じなくなり、さらに、労働者は収入の高低を基準にして職業を選択する事がほぼ無くなった。また、後者の法律により、全国の公共職業安定所は一斉廃止され、現職の全労働者と失業者や就職希望者だけではなく、全国民の職業的能力や特技を国民職業能力登録センターで一元管理する事となった。そして、そこに使用者側が有料で匿名の情報提供を求めるというスカウト方式を原則として、就業中の者の情報提供と求職中の者の情報提供の手数料に大きな金額差を設定したので、ヘッドハンティングと求職者の就職がバランスよく進み、一方で、冷やかしや企業宣伝のために求人を謳う企業は皆無となり、非正規労働者も含めて、人材の掘り起こしと就労の定着が実現した。これらの労働システム三法の施行から数年が経過した時点で、失業者数は激減し、やがてゼロに近い統計数値が出た。これらは政治家、法学者、経済学者たちの優れた功績であったが、一方で、自己の意に反する形で就業せざるを得ない労働者も生み出してしまった。職業は単に賃金を得るためだけの時間の消費ではない。意にそぐわない業種にやむを得ずして就かざるを得なかった者たちは、労働そのものの意欲と関係なく、能力とは別の要素、すなわち「適性」の問題として職能の向上を図る事ができずにいた。これらの者たちは、昇級による賃金の上昇が実現できず、自己の労働による収入で最低限の生活は維持しつつも、依然として、その最低ラインの生活水準の領域から離脱する事が出来ずにいた。賃金収入は毎月の生活費で消費されていくだけで、自己の研鑽を積む余裕すら無い彼らは、やがて具体的な労働に対する意欲を失い、生活を向上させる意思を喪失し、人生を設計する事すらしなくなった。このような者たちをマスコミは過去のワーキングプアと呼ばれた人々と重ね合わせ、「就労失業者」と呼んだ。そして、南正覚も以前、正覚を名乗るよりもずっと前に、同じような状況に陥った事があった。



                  三

 南智人が失業者となり、住んでいた家も追われる事となった時、彼は二十五歳であった。弟子入りして十年になろうかという頃で、一定の技術も身につき、職場での立場も職長名目で後輩たちに指導するところにまでなっていた。社長たる棟梁の自宅の敷地に建てられ職員用のアパートに部屋も与えられていた。四畳半程度の小さな部屋であったが、それは、南智人が職人として、社会人として認められていた証でもあった。

 一九九八年当時は、全国的不況の嵐の中、銀行による貸し渋りと消費者金融による高金利の貸付が横行する世の中だった。建設業界の受注量が減少の一途を辿る中、智人が勤務していた工務店の経営者たる棟梁も、時勢の流れどおり、消費者金融の貸付に手を出し、多重債務に喘いでいた。棟梁が相談にいった弁護士は、山のように抱えた経営破綻案件に頭を抱えつつ、他の案件と同様に、難儀な経営再建の弁護方針を取る道を選ぼうとはしなかった。彼は形式的な机上解決の方法を選択し、自己破産の手続きを棟梁に勧めた。裁判所も、この事業所が抱えている従業員たちの再就職に目配せする事は無く、ルーチン・ワークのごとく書類を審査し、法的形式要件の検討のみで、破産決定から免責決定まで一気に推し進めた。勿論、それらの司法関係者の行為は業務として当然であり、適正であった。しかし、親切ではなかった。

 破産法に従った約一年弱の手続きの途中で、社長宅に隣接する職員用のアパートは敷地の競売に伴い、解体されることになった。細かな法的事情も解からないまま、南智人青年は突如としてアパートを退去させられ、停滞する経済の冷たい荒波の中に放り込まれたのであった。

 南智人は無職となった。家もない。彼にも多少の貯えはあったが、職が決まっていない若い男性に部屋を貸すところなど無かった。それに、この就職難の中で、いつ職が決まるか分からずに不安であったので、小額の貯蓄には手をつけない事にした。彼は、とりあえず、別の借家に住んでいた兄弟子でしの所に転がり込んだ。当然、一間のスペースも確保されなかったので、所有していた家財道具は処分するしかなかった。

 仮住まいの身となった南智人は、復活を目指した。彼はまず、公共職業安定所を訪ねた。彼が「ハローワーク」と丸く親しげな字体で書かれた看板の横を通り、自動ドアを潜ると、正面エントランスに設けられた二階に続く階段の上から長蛇の列が続いていた。最後尾の人は「求職者の人はこちらへ」と書かれた紙が貼り付けてあるガラス製のドアの直ぐ近くに立っていたので、南が並んでいる理由を尋ねてみると、その人は、失業保険の給付金受領に必要な失業認定手続きのための列だと答えた。南はその人に礼を言うと、ガラスのドアを開けて中に入った。入ってすぐの所には、パソコンの端末が二十台ほど並んでいて、どの端末でも、眉間に皺を寄せた失業者たちが画面に顔を近づけて求人情報を検索していた。受付と書かれた札が天井から下がっているのに気付いた南智人は、その下にある小さなカウンターに向った。カウンターの向こうには中年の女が立っていたので、南が失業中である旨を小声で伝えると、その中年の女は、求人企業の紹介手続きには登録が必要であると言う。そして彼女は、紹介手続きを説明したパンフレットと登録用のOCRシートを南に渡し、隅のテーブルを指差して、そこで記載するよう指示した。その女が、まるで幼児に諭すかのような口調であったので、南は少し不愉快になったが、そのまま黙ってテーブルに向った。登録用のシートを見ると、氏名、住所、連絡先の外に、学歴、職歴、希望職種、前職での収入額などの記載項目が並んでいた。智人は少し戸惑った。というのは、彼自身、履歴書の様なものを書くのは、実に十年ぶりであったし、また、軽い見物のつもりで訪れた訳でもなく、就職というものを真剣に考えていたので、部屋に入ってわずか数分でこのようなものを渡され、その場で記載するよう言われるとは思ってもいなかったからである。その当時の彼がもう少し横着な人間であれば、書類を一度持ち帰り、よくよく検討しながら慎重に記載した上で後日に提出する事も出来たであろうが、南は元来から真面目な性格であったから、その係官の言に従い、狭い机の上で指を数えたり、棒状の携帯電話機を取り出して、電卓機能で計算したりしながら、悪戦苦闘して、履歴事項や希望職種、自己PRなどを、即席でその場で書き上げた。彼が書き上げたOCRシートをさっきの受付の中年女に提出すると、女はそれを無愛想に受け取り、番号札を彼に渡して、今度は向こうの待合椅子で待つように指示した。南は言われるがまま、込み合う室内を進み、並んで置かれている長椅子の空いている場所に腰を下ろした。直ぐ目の前では、若い男がカウンター越しに安定所職員と就職についての相談をしていた。職員が、その男の職歴やら住所地やら、生活の状況などをいちいち確認していたので、南には、その男の大まかな事情がすべて分かってしまった。南が下を向いて俯いていると、聞き覚えのある名前がカウンターの向こうから聞こえてきた。彼は顔を上げた。南が訪れた公共職業安定所は地方の小都市に設置された小規模の安定所だったので、室内は非常に狭かった。彼がちょっと見回しただけで、数名の知った顔を見つけた。そんなものだった。そんな中で、職員は電話の受話器に向かって得意気に大声で問い合わせをするものだから、誰が何処に就職申し込みをしようとしているのか、直ぐに知れた。南が耳にしたのは、中学の同級生の名前だった。ただ、彼が気になったのは、その続きだった。安定所の職員が大声で、地元では名の知れた清掃会社に問い合わせをする前で、彼女は真剣に何かの書類に目を通していた。南智人からは彼女の背中しか見えなかったが、その後ろ姿に昔の面影を感じた。安定所の職員の話すところによれば、先方はシフト制だが担当顧客を固定するので、急な休みを取るようなら採用は無理だと言っていたようだった。その安定所の職員は受話器の口を手で覆ったまま、彼女に、離婚の裁判中であれば、急に休みを取らないといけない事もある事を指摘し、それでもこの企業の求人に申し込むのかと確認していた。彼女が二度続けて頭を縦に振ったので、その職員は、覆っていた手を受話器から外して、彼女の氏名と年齢、通勤に使う最寄り駅名を先方に伝えた。それは、同時に、彼女のプライバシーをその場にいた周りの人間に公表する事にもなった。中学の頃の彼女は、勉強もでき、聡明であって、その後も難易度の高い高校、大学へ進学したと聞いていた。そんな彼女に、安定所の職員が履歴書の書き方から封筒の入れ方まで説明しているのを見て、南は、その職員の事が可笑しかったが、彼女は真剣に聞いていた。その時、機械の奏でる合成音声が、南智人に割り当てられた受付番号を読み上げた。彼は向こうのカウンターの上でランプが点滅しているのを見つけたので、立ち上がってそこまで移動し、席上の電光掲示板に表示された番号と自分に渡された札の番号が同じである事を再確認してから、その席の前に置かれた椅子に座った。南が席に座り、係りの職員に挨拶すると、その中年の男性職員は中途半端な挨拶を返した後、先ほどの男性や同級生の女性の時と同様に、南智人のプライバシーを惜し気も無く公開し始めた。そして、職員はさっき智人が記載したOCRシートに眼を向けたままの姿勢で、彼に対し希望する産業と業種は何かと、型どおりの質問を始めた。南が小声で回答すると、その職員は、やはり眼を下に向けたまま、建設業界は厳しいので業種を変えるよう彼に勧めた。職員が南に、運転免許以外の資格を何か持っていないのかと訊いてきたので、南が、自分は宮大工の修行に専念してきたので、他の資格は持っていない旨を伝えると、職員は頭を掻きながら大きく溜め息を吐いた。そして、傍らのパソコンの画面に顔を向けると、素早くキーを叩き、何枚かの文書をプリントアウトした。職員は、それらの文書を南の前に並べ、とりあえずこういう仕事ならどうかと尋ねた。それらの文書は企業ごとに求人内容が記載されたものであり、ひとつは倉庫での荷物整理、ひとつは建設現場での警備業、もうひとつには遠方の建築現場での作業員の募集が印刷されていた。南は、そのどれもが日雇いかパート扱いだったので、安定して働ける場所を探していると訴えた。職員は、今度は小声で彼の学歴を指摘すると、渋々顔でパソコンに向った。南智人は、カウンターの下で両腿の上のズボンの布を強く握り締めていた。

 暫らくの遣り取りの後、彼はようやく一社を紹介してもらえる事になった。地元では有名なホームセンターでの正社員の募集であり、そこは建築資材の卸も営んでいて、時々には簡単な修繕工事も請け負っているという。南智人青年は、自分が培ってきた能力は、この様な所でなければ生かせないと思い、そこで絶対に働くつもりでいた。職員に、他にもあと三件は紹介できる事になっていると言われたが、南は、この職員と散々に掛け合ってようやく出てきた求人企業であったし、他の事業所に申し込んだところで、ここ以外には行くつもりは無かったので、それを断った。職員は、彼の回答をすんなりと受け入れ、他に何のアドバイスをする事も無く、さっきのOCRシートを読み取り機械に放り込むと、その下から出てきたバーコードが表示された小さな紙を取り、二つ折りにして南に手渡した。職員によれば、次にここを利用する際には、このカードを窓口に提示すれば、直接に職業紹介に移れるとの事であった。南には、その職員の言っている真意が分からなかったが、彼がその二つ折りのカードをポケットに仕舞うと、その職員は、彼に履歴書の書き方や職務経歴書の書き方を説明し始めた。彼がそれを聞いていると、職員は並行して、安定所からの紹介状を印刷して南の前に置き、履歴書の説明の後で、紹介状の重要性について解説を始めた。南は、一通りの話を聞き終わると、職員に礼を言って、カウンターを後にした。さっきの同級生を探したが、彼女の姿は既に無かった。

 南智人は、その日の夜のうちに、近くのファミリー・レストランで必要書類を作り上げ、朝方には管内の中央郵便局の時間外窓口に持参し、速達で書類を送付した。そして、一週間ほど返事を待つことにした。

 送付から二日後、南の携帯電話が鳴り、彼の不採用が伝えられた。彼は落胆した。




                  四

 護摩壇から立体映像で映し出された炎が、タイマー設定によって徐々に小さくなっていた。祈祷所内の陰影も少しずつ変化し始め、それまで陰になっていた部分が、窓からの外の光により直接照らされる。その光が揺れていた。明るさの変化に気付いた長身の痩せた信者は薄目を開けて高窓の方を覗いた。彼の視界に、高窓から中に向けて小型カメラを構えている男の姿が映った。耳を澄ますと、壁の外から何やら独り言が聞こえてくる。

「誰だ!」

 長身の痩せた信者は、咄嗟に大声で叫んだ。その声に驚いたように、男は高窓の下に姿を隠す。

「誰かいるぞ。侵入者だ!」

 長身の痩せた信者は長髪を振り乱しながら祈祷所の外へと駆け出していった。彼の足音と逃げていく男の足音に気付いた中背の丸刈り頭の信者は、長身の信者に続いて祈祷所から出て行った。それに遅れて、少し太った女性信者が、しびれた足を引きずりながら、やっとのことで二人が出て行った方に走っていった。壁の向こうで暫らくゴソゴソとした声が聞こえた後、小太りの女性信者の声が響いた。

「誰か来て。侵入者よ。誰か来て」

 しかし、教祖南正覚は、祈祷所のすぐ横で展開されている緊迫した事態に反応する事も無く、ただ一心不乱に、独自の方法による祈祷を続けていた。

 高窓の下の壁の外では、信者たちと侵入した男が激しく格闘する音と声が響いていた。室内では南正覚が念じる声が響いている。高窓に、宙に浮いた長髪の信者の黄色い運動着姿が一瞬映ったと思うと、植木の葉が激しくこすれる音と小枝が無数に折れる音が聞こえた。続いて、丸刈りの信者の掛け声が聞こえると、祈祷所の壁を外側から激しく打ち付ける音と衝撃が室内に届く。南正覚は祈祷を続けていた。扉が開いたままの入り口の向こうで、箒を振り上げた小太りな女性信者が、少し突き出た腹を揺らしながら壁の向こうへ走っていった。入替わりに、壁の向こう側から入り口の向こう側に、長身の痩せた信者が飛ばされてきた。その後、先ほどの女性信者が箒を杖にして、腹部を押さえながら苦しそうにヨタヨタと歩いてきて、地べたで気絶している長髪の痩せた信者の横に座った。外から奇声が聞こえる。フェイクカーボン素材で木製を模した戸板を破って、丸刈りの信者が祈祷を続ける南正覚の後ろに投げ込まれてきた。丸刈りの信者は左腕を抱え込みながら、膝を突いて何とか立ち上がり、自分が飛んできた方角に向かってフラフラと歩いてく。三歩ほど歩いていった彼は、力尽きて床に倒れた。

 失業した南智人青年も、連敗続きで打ちのめされていた。何度職安に足を運んでも、彼の技術をそのまま発揮できる企業の求人には出会えず、必ずいくらかの妥協を強いられた。それでも彼は、気持ちを切り替えて、この会社こそ自分が身を置くべき場所と自分に言い聞かせながら、自らを奮い立たせ、誠心誠意の思いを込めて履歴書等の必要書類を作成し、とにかく早く先方に送付した。そのようにして履歴書を送った求人企業は百社を超えていたが、どこもまともに取り合っては貰えなかった。徹夜して何度も書き直し、何回も読み直した履歴書を送っても、先方に書類が到達したであろう時刻とほぼ同時刻に、彼の携帯電話が鳴り、それまでと同じように不採用の結果が通告された。そしてまた、あの二つ折りの小さなカードを職業安定所で提示して、職員との不毛な遣り取りの後で、ようやく事業所を紹介してもらい、屈辱的な授業と交換に紹介状を受け取り、履歴書を一から書いて先方に送る。その後、不採用の通知が来る。この繰り返しであった。あまりの無慈悲な現状に、さすがの南智人も腐りかけていた。

 ある日、部屋に泊めてくれていた先輩がそんな彼の事を心配し、智人を近所の居酒屋に誘った。その先輩は三十を超えている歳であったので、正社員としての再就職を早々に諦め、近所のパチンコ店でアルバイトを続けていた。南は先輩の好意に甘え、その日は発泡酒の注がれたコップを片手に、隣に座っている先輩に、役所の愚痴と社会に対するありったけの不満をぶつけた。先輩は、ただ黙って、彼の横で安い焼酎を飲んでいた。二人が暫く、その安い居酒屋のカウンターの隅の席で飲んでいると、黒色の背広の上着を肩にかけたワイシャツ姿の男たちが店に入ってきて、南たちの後ろのテーブル席に座った。彼らは若く、ちょうど南智人と先輩の間くらいの年齢であった。席についた彼らは、慣れたように注文を済ませると、何やら専門的な難しい用語を並べてあれやこれや議論し始めた。彼らは地元の市役所の職員たちで、行政内部の手続きの非効率的である点を指摘したり、役人としての心構えを誇らしげに語ったりしていた。暫くして、彼らの顔がアルコールで紅潮してくると、話題は職場の女性の話に移り、何人かの女性職員の名前をあげて、その容姿や体形や性格の話になり、続いて恋愛や結婚の話題になった。暫くすると、上司への悪口の出し合いになり、最期には職場環境や自己の待遇への愚痴を並べ始めた。南が、どこの世界も同じだと思って聞いていると、一人の男が、自分は他にやりたい仕事があったが、長男だから仕方なく帰省し、ここに勤めるしかなかったと言い出した。そして、上司に辞表を叩きつけて転職してやろうとか、男を見せてやるなどと、くだを巻き始めた。隣に座っていた男が彼に酒を注ぎながら、今の時期にその歳で再就職なんて無理だと吐き捨てると、向かいに座っていた男が、自分たちの職種が民間企業に比べて恵まれている点を並べ始めた。南が彼の話に注意を傾けていると、それまで静かに焼酎の入ったコップを口にしていた先輩が、飲み干した空のコップをカウンターのテーブル板に叩きつけるように強く置き捨てた。その音が大きかったので、南の後ろの席の男たちが顔を向けたが、彼は男たちに背を向けたまま黙って立ち上がると、ズボンのポケットから皺くちゃのお札をカウンターテーブルの上に置いて、そのまま店を出ていった。南も、その先輩に続いて店を出たが、頭の中には、さっきの男たちの話のいくつかの点が、しっかりとこびり付いていた。

 次の日、南智人は書店の中にいた。午前十時の開店の前から入り口の前で待ち、開店すると真っ直ぐに、公務員試験対策の書籍が並んだ一画へと進んだ。徹夜明けの充血した目でその中のガイダンス本を何冊か立ち読みしていると、まだ自分にもチャンスがある事を知った。それで、一度それらの本を棚に戻すと、今度は、何冊かの目ぼしい試験対策本の値段を確認した。そして、近くのATMまで行き、貯金の中から必要な書籍代金に相当する現金を引き出した。それは、彼の全財産の一割に及んだが、そんな事は気にしなかった。彼は再び書店に戻り、さっき目をつけていた何冊かの書籍を取ると、抱えてレジに運んだ。レジで、漫画本を購入した大学生が横に退くと、カウンターの上に数冊の試験対策本と問題集を積み上げ、財布から壱萬円札を三枚も取り出し、支払い棚の上に置いた。

 一週間後、彼はコンビニのレジカウンターに立っていた。とりあえず、近場のコンビニエンスストアでアルバイトをする事にしたのだった。いつまでも先輩の部屋に厄介になる訳にもいかなかったし、そのままでは彼の計画も実行できそうになかったから、とりあえず、居住先を探す事から優先させた。それには、先立つ物が必要であったから、貯金では足りない額を作る事にした。

 一ヵ月後、彼は無事に住居を得る事が出来た。風呂無しの一間の古いアパートではあったが、礼金を大目に支払う事で、保証人なしでも何とか貸してもらえた。おかげで一文無しとなったものの、代わりに引越しスタッフのアルバイトが決まっていたので、経済的計画は立っていた。ただ、目的は公務員試験に合格する事であったから、学習時間の確保は最優先にしたかったが、そう上手くはいかなかった。引越しのアルバイト先では、一日八時間の就業を提示されていたが、実際には十時間以上拘束され、帰るのは毎日深夜であった。肉体的疲労も相当なものであったが、今の彼には、その若さで何とか乗り切るしかなかった。今、その時に、出来るだけの事をするしかない。彼は毎日、そう自分に言い聞かせ、体に鞭打って、仕事と勉強に励んだ。苦痛に耐えること十カ月、最初の試験日がやってきた。結果は、不合格であった。しかも、合格には程遠い結果であった。しかし、彼は挫折しなかった。南智人は、子供の頃から現実を直視して冷静に分析する資質を持っていた。この試験を狙ったのも、そのような分析の結果であったし、試験勉強を始めるにあたっても、働きながらの中途半端な学習で簡単に合格できるはずはないと、当初から綿密な計画を立てていた。歳を重ねていた彼は、どの資格試験であっても、受験準備の計画段階から破綻しているようであれば、そもそも試験に合格したとしても、その身分で仕事をする資質そのものが無いはずである事を理解していた。だから、最初の試験に落ちても、何ら動揺する事無く、計画通り次の年に焦点を合わせて、慎重に丁寧に勉強を続けた。アルバイトも、警備会社での夜勤の仕事に切り替えた。深夜勤務の方が割がよかったのと、体力的にも帰宅後の学習に支障が出ない程度の消費で済んだからである。それに、引越し屋のアルバイトでは街中を移動するので、昔の同僚や同業者と出くわす事も多く、何かと面倒を感じていたという理由もあった。しかし、生活は貧を極めていたので、宅配業者の集荷センターで荷物の仕分けをやったり、青果市場で荷降ろしをやったり、その他にも牛乳配達や中古車販売店での洗車業務など、いくつかののアルバイトを掛け持ちながら、なんとか勉強を続けた。そして一年後、二度目の試験を受験した。二〇〇〇年秋の最終合格発表の日、掲示板に自分の受験番号を確認した時、南智人は二年ぶりに笑った。彼は二十七歳になっていた。



                  五

 偽の炎の立体映像が消え、機械音と共に護摩壇がゆっくりと床の下へと下がっていった。護摩壇が下がり終え、床が左右からスライドして閉ざされると、教祖南正覚は右手に握っていたリモコン付の大幣おおぬさを傍らの台に立掛けた。左手の大数珠を首に掛け直すと、法衣の襟を整えながら静かに立ち上がり、振り返った。彼の正面で、黄色い運動着を着た信者たち数名が、外れた戸板を元に戻したり、丸刈り頭の男性信者を介抱したり、長身の痩せた信者に水を飲ませたりしていた。

 南正覚は彼らのもとに近寄り、尋ねた。

「一体何事じゃ」

 丸刈り頭の信者が、腕の痛みをこらえながら、泣きそうな声で答えた。

「し、侵入者でございます。あ痛たた……」

「何? 侵入者じゃと?」

 南正覚は、それまでの騒動に全く気付いていなかった。それ程に彼は祈祷に集中し、また、過去の自分を見つめる事に精一杯であった。

 正覚は尋ねた。

「して、そやつは、どこじゃ」

 長身の痩せた信者が小太りの女性信者に肩を借りながら、教祖南正覚のもとに近づいてきて答えた。

「申し訳ござません。とり逃がしました」

 南正覚は溜め息を吐くと、顰めた顔で言った。

「だから言ったであろう。天罰が下ると」

 すると、その女性信者は痩せた信者を支えていた両手を離し、自らの開いた口を押さえた。長身の痩せた信者は、そのまま床に転がる。

 小太りの女性信者は顔の前で両手を合わせて唱えた。

「あなかしこー。あなかしこー」

 その場で床にひれ伏し、隣で転がっている痩せた信者などは気にもせずに、教祖南正覚に向けて両手を合わせて、泣きながら懇願した。

「恐ろしや。ああ、恐ろしやあ……。教祖様、どうかお救い下さい。教祖様」

 すると、丸刈り頭の男が大きく腫れた左腕を見せながら南正覚に言った。

「教祖様。診てください。どうか、教祖様のお力で治してください」

 南は彼を一瞥すると、南の足下で腰を押さえながら立ち上がろうとしていた長身の痩せた男に手を貸し、言った。

「どいつもこいつも、自分の事ばかりじゃの。未熟者どもめが。それに、ワシは医者ではないわ。とっとと病院へ行けい」

「あなかしこー」

 丸刈り頭の信者と小太りの女性信者は、床に額を擦り付けながら、萎縮した。

 南の手を借りて立ち上がった長身の痩せた信者は、その長髪をかき上げると、黄色い運動着の埃を払った。そして、眉間に皺を寄せ、遠くを見つめながら、深慮するかのような表情と口調で言う。

「それにしても、一体何者でしょうか。あの身のこなしといい、相当な使い手……イタッ」

 神聖な祈祷所の床の上に埃を払い落とした彼の高い位置の頭を、南正覚が大きな扇子で強く叩いた。

「ここにゴミを落とすな、馬鹿モノが。警察か軍の者に決まっておろうが」

 そして、眉間に皺を寄せて呟く。

「それにしても、ついに国家権力が弾圧に乗り出してきたか……。むむむむむ」

 南正覚は少しだけ顰めてみせたが、すぐに表情を緩めると、長身の痩せた信者の背中を大きな扇子の先で、今度は軽く叩いて、嬉しそうに言った。

「どうじゃ。ワシが予言した通りであろう」

 長身の信者は深く頭を下げた。

「はい。全くその通りでございます。教祖様が予言なされた『大きな災い』とは、この事だったのですね」

「何を言うか。もっと大きな災いじゃ。恐ろしやあ。恐ろしやあ。念。念。念。念……」

 教祖南正覚は、数珠を振ってみせた。そして、突然、宙を見つめて言い出した。

「おお。おお。光じゃ。光が見える。光の向こうには……『無』じゃ。『無』が見える」

 辺りに居た黄色い運動着の信者たちの全員が慌てて動きだし、正覚を取り囲んで整列し始めた。その動きの中で一人だけ動かずに立ったまま、予言者南正覚を見つめていた一人の信者が叫んだ。

「お告げだ……。宇宙の神様からのお告げだ。教祖様にお告げが届いたぞ!」

 整列を終えた他の信者たちは、全員が南正覚に向けて手を合わせていた。

「ああ、ありがたや。ありがたや」

「ああ、ありがたや。ありがたや」

 信者達の唱和の後、南正覚は呻き始めた。

「ぬぬぬぬぬぬぬ……」

 予言者南正覚は頭を押さえ、少し苦しんでみせた。彼を支えようとした長身の痩せた信者の手を振り払い、祭壇の前まで歩いて行く。祭壇の前で聖櫃に向けて暫らく手を合わせた彼は、軽く飛び上がって振り返り、信者たちの方を向いて背筋を伸ばして直立すると、目を閉じて言った。

「はい。お告げです」

 信者達はどよめいたが、さっきの女性信者が人差し指を口元に置いて、皆に静かにするように合図したので、祈祷所の中は再び静まり返った。その静寂の中で、真明教開祖であり予言者の南正覚が静かに口を開いた。

「お告げを申すぞよ。……」

 彼は、皆の表情を確認して、少し間を置いた。

 長身の痩せた信者は、ハッとして叫んだ。

「ははー。ありがたや。ありがたや」

 他の信者たちが唱和する。

「ありがたやあ。ありがたや……」

 その信者たちの反応が今一であったので、南正覚は足を大きく前後に開き、腰を下げ、突き出た腹の前で両手を交差させると逆手に組み合わせて、その組んだ両手を、そのまま胸の前でくるりと返して、顔の前で停止させた。両手の隙間を覗く。周りの信者たちが再び大きくどよめく。近くにいた小太りの女性信者は、その姿に興奮して倒れ、気絶した。長身の痩せた信者が彼女を抱かかえ介抱する。

 教祖南正覚は、両掌の隙間を覗きながら、苦しそうに声を上げた。

「うむ。ぬぬぬぬ。お告げはな……」

 信者たちが唾を飲む音が響いた。

 予言者南正覚は言った。

「美空野じゃ。ウチの顧問弁護士の美空野に大至急連絡するのじゃ!」

 祈祷所の中で信者たちが大きく騒めいた。

 小太りの女性を抱かかえていた長身の痩せた信者が、慌てた様子で言う。

「かしこまりました。美空野先生だ。誰か美空野先生に連絡を。それから、教祖様に電話と御茶をお持ちしろ。急げ」

 黄色いジャージ姿の信者たちは、電話機を取りに走っていった。



                  六

「はい。了解しました。県道沿いの銀杏の木ですね。どちら側の枝でしょう……」

 南智人は右手でメモを取りながら、暫くの間電話の相手と遣り取りをした後、静かに受話器を戻した。そして、メモを再確認すると、狭い部屋の奥に座っている上司の机に向かい、メモを見ながら電話の内容を報告した。上司は呆れ顔で、何やら南に指示した。

 地方公務員となった南智人の現場での仕事は、ほとんどが電話対応であり、いわば連絡係りのようなものであった。市民からの苦情や、上司の上司からの連絡を受けては、それをメモして、現場での自分の上司に伝える。その上司からの無理な内容の伝言を、その上司の上司に伝えて怒鳴られる。そんな毎日だった。最初の二年間は研修漬けの毎日だったが、現場で活躍する事を夢見て頑張った。現場に出てからは、雨の日も風の日も、外回りをやらされた。公用車ではなく、公用自転車で。休日出勤は当たり前だったし、地元の夏祭りや大きなイベントの際には、必ず駆り出された。厄介そうな来訪者の対応にも、毎回、彼が当てられた。公用車の洗車や職場の掃除、広報チラシの街頭での配布など、命じられた事は何でもこなした。仕事は辛かった。しかし、彼はこの仕事が好きだった。地域の人の役に立っている実感が持てたし、何より失業の不安に晒される事なく自分の職業能力の向上に専念できた。また、そうしなければならないと思っていた。だから、職場で友人を作ることは無かった。仕事帰りに同僚たちが連れ立って飲みに行っても、南智人は真っ直ぐに帰宅した。もともと高卒枠ながらも二十七歳で採用された彼にとって、同期はおろか先輩たちも皆、彼より随分と年下であったから、彼は自分の同期とも馴染めず、職場の先輩とも微妙な空気で接さざるを得なかった。しかし、それ以上の理由が、彼をして怠惰や刹那と決別せしめていた。それは彼の強い責任感であった。公給を貰っている以上、職業人としての知識や技術の向上に努めるのは当たり前だと思っていた。不測の事態に対応できるよう、常に自己研鑽を積んでおくべきだと自覚していた。だから、帰宅後も、休日も、公務に必要な法律の勉強を怠らなかったし、書式のチェックも欠かさず為していた。町の地理や歴史についても、一から勉強した。何かの緊急事態が起これば、常に真っ先に現場に駆けつけた。仕事に取り組む姿勢も熱心であった。彼が作成する書類は、いつも緻密で正確なものであったし、内部規則にも正確に則したものだった。遅刻する事もなく、欠勤は一度も無かった。市民にも丁寧に接した。要するに、南智人は誰よりも誠実であった。そして、彼のそういうところが幸子は好きであった。幸子は地元の飲食店でアルバイトとして勤務していた女性で、智人よりも二歳年下だった。幸子は、小柄な智人と違って、長身でスタイルも良く、美人であった。だから、男性にもてないはずも無く、実際に交際していた男性が別にいた。その男性は大柄で太っていて、アンパンとチョコレートが大好物であったが、その不摂生が祟ってか、よく病院に運ばれた。それで定職に就いていなかったので、よく幸子の職場に押しかけては、彼女に金をせびった。その日も、彼は幸子に金を貰いにやってきたのだが、彼女が拒絶すると彼は逆上して、店内で暴れだした。近くを回っていた智人が店内の異変に気付き駆け寄ると、彼は、彼と目が会った智人に対し、幸子に気があるのか、俺の女に手を出しているのかなどと、根拠不明の理不尽な言いがかりをつけて智人に絡み、ついには智人に殴りかかってきた。彼よりずっと小柄な智人ではあったが、大工仕事や数々のアルバイトで培った肉体に加え、智人にも体術の心得があったので、彼を難なく投げ飛ばすと、そのまま取り押さえ、後から駆けつけた機動捜査隊の警察官に引き渡した。その後、諸々の事情とその大男が精神に異常を来たしている事を知った智人は、幸子のことが気にかかり、仕事で外を回る時には必ず、その店の前を通る事にして、仕事の帰りには、その店に寄る事にした。次第に幸子と智人は親しくなり、やがて交際へと発展した。そして、智人が三十五歳となった二〇〇八年に、二人は結婚した。新婚当初は、安普請の小さなアパートでの二人住まいであったが、智人には毎日が幸せで一杯であった。生活は質素であったが、智人は幸子のために誠心誠意を尽くした。また、幸子も智人のため全身全霊を捧げた。彼女と智人は安い給料を切り盛りして、生活を支え合った。智人も幸子も趣味や遊びに時間を費やす事は無く、真面目に働いた。二〇一〇年には、男児に恵まれた。地上デジタル放送全面移行を前に、智人が多少の無理をして買った薄型の最新式デジタルテレビの画面では、連日、日本の小惑星探査機「はやぶさ」の帰還が話題となっていた年だった。だから、智人はそれに因んだ名前にしたいと思っていたが、丁度、生まれた日が、日本人化学者二名のノーベル化学賞受賞が報じられた日であったので、両博士の名前にあやかって「英章ひであき」と名づけた。病院のベッドの上で、この世の何者にも勝る愛らしい笑顔で眠る南英章を、父親となった南智人と母親となった南幸子の幸せそうな笑顔が囲んでいた。



                  七

 縁側に立つ南正覚は不機嫌そうな顔で庭の向こうを見ていた。彼の視線の先には、教団施設の敷地の隅で一箇所に集って立っている黄色いジャージ姿の信者たちがいる。横には眼鏡を掛けたスーツ姿の若い女が立っていた。彼女たちは皆で円になり、ハンカチやジャージの袖で鼻と口を押さえながら、その中心の足下のマンホールの入り口を覗いていた。

 スーツ姿の若い女がハンカチを鼻の前で振りながら、緩く巻いた薄茶色の髪を耳に掛ける。彼女が眼鏡のフレームに触りながら、ハンカチを持った手で下を指差して何か言うと、黄色いジャージ姿の小太りな女が短い腕をピンと前に伸ばして背を丸め、その女に何かを説明していた。スーツ姿の女は重そうな鞄のベルトを肩に掛け直しながら、怪訝そうな顔をして聞いている。彼女のスーツの襟には、真新しい金色のバッジが光っていた。

 彼女は町田梅子まちだうめこという弁護士である。今秋から教団の担当となった弁護士で、宗教法人真明教団と顧問契約を締結している弁護士法人美空野法律事務所に所属している。南正覚が所長の美空野弁護士に、教団施設内に不法に侵入した者がいると伝えると、美空野弁護士は彼女を派遣した。南正覚は、教団設立の当初から顧問契約を締結し、長年に渡り巨額の顧問料を払い続けているにもかかわらず、このような緊急事態に、この春に弁護士登録を終えたばかりの新人を美空野が派遣した事に腹を立てていた。しかも、その若い弁護士は、呆れ顔で眼鏡を外し、それを畳んでスーツのポケットに仕舞うと、依頼人である教団の信者たちを問い詰めるように、厳しい顔で足下を指差して、何度も質問している。彼女に必死に説明する黄色いジャージ姿の信者たちの困惑したような顔を見て、南正覚は更に怒りを募らせた。

 暫らくの遣り取りを終えて、その若い弁護士はこちらに歩いてきた。高いヒールを玉砂利に刺して歩き、音を鳴らす。彼女の後を信者たちもついてきた。その若い弁護士は信者たちにまだ質問していた。

「盗まれた物などは、ないのですか」

 小太りの女性信者は毅然とした態度で答えていた。

「いいえ。私どもは、そんなにマヌケではありませんわ」

 若い弁護士はそっぽを向いて答えた。

「そのようですね」

 随分と皮肉めいた口調だった。南正覚はあまりの不愉快さに、思わずその弁護士に声を荒げそうになったが、自分は宗教法人の代表者であり、信者たちのアイドルでもあるから、醜態は晒すまいと、それをグッと堪えた。その分、顔が更にいかめしくなる。

 小太りの女性信者は、町田という弁護士に一生懸命に状況を説明していたが、その若い弁護士は不機嫌そうな顔を作って先生然として彼女の話を聞き、一方的に彼女の説明を要約した。

「要するに、あそこのマンホールから侵入してきて、このあたりで皆さんと格闘した後、そこを通って、再びあのマンホールから逃走したのですね」

 南正覚は歯を食い縛った。この若い弁護士は、すぐ目の前に依頼人がいるのに、挨拶もしない。さっき目が合った時、少しだけ、軽く会釈はした。こっちは年上だ。しかも、宗教法人真明教団の代表者だ。威厳を崩してはいかん。と考えた南正覚は、黙って頷いて返したが、この町田梅子という弁護士は、それで「挨拶」を終えたまま、彼に何も言わずに信者たちの話を聞いていた。そればかりか、信者の懸命な説明を高校入試の国語の要約問題に解答するようにまとめ、切って捨てた。南正覚はその点だけでも、腹を立てた。

 彼の不機嫌さを気にしてか、小太りの女性信者は南に何度も視線を向けながら、目の前の若い弁護士と話している。その姿が不憫でならなかった。

 小太りの女性信者は必死に訴えた。

「はい。もう、素早いのなんのって。女の私の足では、とても追いつけませんでした」

 町田弁護士は、それを聞き流すかのように次の質問をする。

「怪我人は? あなただけ?」

「いえ、ほかの一人は左手を骨折して、彼も一時、気を失っていました」

 町田弁護士はクルリと振り向いて小太りの女性信者に背を向けると、彼女が指差した先の長身の痩せた信者を見た。彼は町田弁護士につられたようで、一緒になって後ろを向いた。南正覚は溜め息をつく。それが聞こえたのか、長身の信者はすぐに町田弁護士の方を向き直した。彼は、その若い女の弁護士に少しドギマギしているようで、いかにも挙動不審といった様子で答えていた。

「いや、別に気を失ってまでは……」

 若い女に見栄を張る彼を見て、南正覚は忍び笑う。

 一度、町田弁護士の背後に立っている小太りの女性信者に視線を向けた彼は、とりなすように発言を訂正した。

「あ……いえ、失っていました。完全に。はい」

 どうやら随分と緊張しているようである。町田弁護士は、そんな彼に話しかけることもなく、気難しそうな顔で後ろを向いた。なぜか小太りの女性信者を一睨みした彼女は、そのまま、まるで容疑者に尋問するかのように彼女に尋ねた。

「どういう経緯で格闘になったのですか?」

 南正覚は、また腹を立てた。彼が腹を立てたのは、その弁護士が被害者であるはずの真明教の信者に尋問口調で質問することも理由ではあったが、それよりも、若い男の微かな恋心にも気付かない彼女の無粋さに、南正覚は怒っていた。しかも、そのように威圧的な態度で接する女弁護士に、小太りの女性信者は精一杯に友好的態度で接している。それを見るにつれ、南正覚の機嫌は一層に悪くなった。

 小太りの女性信者は、顔の前で手を一振りして言った。

「とにかく、いきなり暴れだしたのよ。イノシシか何かのように。凶暴のなんのって。怖かったわあ」

 そして、彼女は再び、町田の背後に立っている長身の痩せた男を指差した。

「それで、急に彼に飛び掛ってきて、彼をバタンとあそこの植え込みの中に投げ飛ばして、その後、もう一人をあの建物の壁にポカーンと叩きつけて。ほら跡が残っていますから。こちらですわ」

 小太りの女性信者は短い足で、祈祷所の方まで走っていった。ところが、その若い弁護士はそこに立ったまま動かない。困ったように時折こちらに顔を向ける。その女性信者は現場の説明をしようと必死に走ったのである。事件の状況を訊きに来たのであれば、追いかけて当然のはずだが、町田弁護士は動かなかった。南正覚が怒鳴りつけようかと口を開いた時、祈祷所の横で手招きする女性信者に気付いた町田弁護士は、一度ガクリと項垂れてから、面倒くさそうに歩いていった。それを見た南正覚は大粒の数珠を強く握り締め、それを振るわせた。彼は一瞬、そのまま縁側から下りて、彼女を追いかけようかと思ったが、そうもいかなかった。彼は、この広縁から庭に下りることができないからだ。シルクの高級足袋を履いているからではない。そこから外に出られない身体的な事情が彼にはあった。だから、南正覚は胆力で怒りを沈め、その横柄な若い弁護士を追いかけるのをやめた。南正覚は祈祷所まで続く長い外廊下を歩いて行く事にした。彼は教祖らしくゆっくりと大股で悠然と歩いていく。誰も見ていなかった。祈祷所の近くに移動した信者たちは、町田弁護士に必死に侵入者の様子を伝えていた。

 南正覚が長い渡り廊下を歩いていくと、その先で町田弁護士が祈祷所の入り口の前の縁の上に何かを置いた。彼女が放るように置いた物は、金色のヌンチャクだった。凶器である。とんでもない物を聖なる祈祷所の前に置いた非常識な若い弁護士を、南正覚は強く睨みつけたが、町田弁護士は自分のスーツの袖を熱心に見ているだけで、こちらに顔を向けない。どうやら彼女は、真上の軒に設置された装置から下に放射されて広げられている「質量バリア」に触れたスーツの袖が傷まなかった気にしているようだった。

 この「質量バリア」は、多くの豪邸に設置されている最新式の電子網戸のような物である。質量によって通貨物質を差別するので、空気などの気体は通過させても、雨水などの液体は通過させず、そのまま真下に落下させた。だからといって、その重力負荷は微量であるから、人間がそこを通過しても体に若干の重みを感じる程度で、難なく通過できる。ケーキなどの軟らかい物や壊れやすい装飾品などを持ってバリアを通過する時は注意が必要であるが、それ以外は、ほとんどの場合で何の支障も無くそこを通過できた。ただ、織りの丁寧な上質の生地で仕立てられた衣類などは、織りが歪んで生地が傷む事があるので、そのような場合は質量バリアを切ってから通過する手間を要したが、従来の透明ナノ粒子を蓄積した特殊ガラス・いわゆる「流体ナノガラス」よりも格段に使いやすく、見栄えも気にする必要がなかったので、開発されて間もない製品で高額であるにもかかわらず、富裕層には人気があった。南正覚も少し見栄を張り、教団施設内の建物の縁側に張り巡らせている。この「質量バリア」は「流体ナノガラス」と違って、人間の目や耳では直接には感知できない。「流体ナノガラス」は透明粒子の蓄積物であるので、透明とは言っても、そこに水の壁のような屈折した視界が広がっていて、前に立った人間にはすぐに存在を視認できたし、空気も遮断したので、向こう側の音が聞こないが、この「質量バリア」はエネルギー放射原理を利用したものであるので、目には見えず、かつ、空気は通すので、音の変化も無く、風の体感もあり、実際に通過するまでは全く気が付かないのが普通であった。それに、通過しても全く人体に害が無かったので、町田弁護士のように上質な衣服を着ていない限り、さして気にする必要もなかった。ただ、南正覚のように、体内に旧式の人工臓器を入れている者にとっては、その人工物が質量に応じて下垂するおそれがあったので、危険である。また、微弱ながら電磁波を発する特性もあり、それが防犯カメラのような精密機器と干渉して画像にノイズが生じたり、動作不良を起こす事も、稀にではあるが報告されていた。それは、旧式の人工臓器も例外ではなかった。すなわち、南正覚にとって質量バリアは「見えない死の壁」である以外の何物でもなかった。だから、彼は、見栄を張って「見えない死の壁」を建物の周りに張り巡らせてしまった事を後悔していた。彼が縁側から外の庭に下りるには、いちいち装置を操作して「質量バリア」を切らなければならないからだ。さっき町田弁護士と信者たちがマンホールの周りに集っていた時も、彼が町田弁護士を追いかけようとした時も、彼が縁の内側に留まってそれを見ているしか出来なかったのは、そのような事情によった。

 町田弁護士は「質量バリア」の内側の南正覚に背を向けて、まだ袖をいじっていた。南正覚は渡り廊下の上に留まったまま、苛々しながら彼女を睨みつけた。町田弁護士はそれに気付かないようなので、彼女の視界に入るように、祈祷所の入り口の前の縁まで移動することにした。彼女を睨みつけながら渡り廊下を歩いていると、その若い弁護士は猛烈に不機嫌そうな顔と口調で信者たちに言っていた。

「あそこに防犯カメラが在りますよね。あそこにも」

 彼女は、スーツの袖が「質量バリア」に引っ掛かった苛立ちをぶつけるように、激しい調子で庭の木や正覚が歩いてきた渡り廊下の軒を指差した。そのあまりに威圧的な態度と棘のある口調に、目の前の小太りの女性信者は怯えたように下を向いている。他の信者たちは、彼女が指した方向に揃って顔を向けていた。

 町田弁護士は生徒に命じる教師のように言う。

「後で、それらの画像データを事務所の私のオフィスまで送ってください。それから、骨折した方の診断データと骨折部位の透過撮影データも病院から貰っておくように」

 信者たちは叱られた生徒のように首をすくめて頷くと、黙っていた。それを見ていた南正覚の怒りは頂点に達した。何故に自分に従う信者たちが、このような屈辱的な扱いを受けなければならないのか。しかも、彼らは被害者である。不法に侵入した輩に暴力を受けたのだ。その彼らに対し、このような言い様はない。南正覚は憤慨した。信者たちは南正覚を信じて従っている。だから、信者たち保護する責任がある。彼はそう信じていた。だが一方で、信者たちの信仰心を壊すような言動をしてはならないとも考えていた。南正覚が常日頃から信者たちに説いている「宇宙の神様との約束を守り自分を律する」という事、それは南正覚自身が実践して見せなければならない事であった。「すぐにカッカとしない」――南正覚は宇宙の神様とそう約束していた。それは守らねばならなかった。それで彼は必死に怒りを抑え、自らを律した。鼻の穴から細く長く息を吐き出して、気を静めた。町田弁護士のすぐ後ろの縁の上に立ち、「質量バリア」に気をつけながら、落ち着いて構えてみせる。南正覚は、宗教家として、年長者として、この若い弁護士にどう説いて彼女を救いの道に導くべきかを考えていた。

「他に被害はありませんか」

 そう言って信者たちの顔を見回す町田弁護士に、小太りの女性信者は丁寧に説明していく。

「ええっと……ああ、そこの松の木の枝が折れています。それから、そこの紅葉の枝も。ご覧の通り、そこの躑躅つつじなんて、もう滅茶苦茶で。葉っぱが沢山落ちてしまいましたし」

 町田弁護士はその説明をろくに聞きもしないで、さっきスーツのポケットに仕舞った眼鏡を取り出すと、それを顔に掛けた。その時、それを近くで見た時、南正覚はそれが眼鏡ではないことに気付いた。それは「ビュー・キャッチ」だった。「ビュー・キャッチ」は去年のクリスマスに発売されたアキナガ・メガネ社製の眼鏡型撮影機器だ。「透過式フォト何とか」という最新式の技術を使った3D画像録画機で、昨年末に爆発的にヒットして売れた人気のアイテムである。南正覚も欲しかったが、購入権の抽選で漏れて買えなかった。その後、この半年間に何度も購入権の抽選にチャレンジしたが、一度も当たりくじを引いたことがない。一応、購入予約はしてみたが、商品が手に届くのは来年になりそうであった。その「ビュー・キャッチ」を、この若い弁護士は颯爽と顔に掛けて、使い慣れた手付きで操作しながら、南のお気に入りの庭を撮影していた。南正覚はさっきよりも強く大数珠を握り締め、それを振るわせる。その前で、一通りの録画を終えた町田弁護士は、さっきも信者たちに尋ねた質問をもう一度繰り返した。

「盗まれた物などは何も?」

「何も無い」

 南正覚は、つい思わず、いや、ついに我慢の限界に達して、怒りを込めて低く攻撃的な口調で、そう答えた。

 町田弁護士は少し驚いたように肩を上げると、こちらを向いた。だが、そのまま、こちらを向いて立っているだけで、何の挨拶もしなかった。さすがの南正覚も、これには心底頭にきた。彼が縁の上から鬼のような形相で彼女を睨みつけ、台座の上の仁王像のように見下ろしているにもかかわらず、その若い弁護士は「ビュー・キャッチ」のフレームに手を伸ばし、撮影を開始しようとした。南正覚も若い女性信者からカメラで撮られる事はあったし、その際には快く撮影に応じ、時にはポーズもとってみせたが、無許可で間近から撮られた事はなかった。しかも彼女は、南ではなく、彼の背後の祈祷所の中に視線を向けている。南正覚は、いつ信者から撮影を申し込まれても、それに応じる事は勿論、その信者の信仰心を挫いてはいけないと思っていたので、常に撮影を意識して、身形には気を使っていた。髪の毛は無くても、眉毛だけは毎日整えていたし、髭の剃り残しにも気をつけていた。肌の手入れも欠かさず行い、超高画素数のデジタル・カメラで撮影されても支障が無いよう、たまにヒアルロン酸注射を打ったりもしていた。それなのに、この若い女の弁護士は、目の前の教祖南正覚を無視して、祈祷所の中を、大切な祭壇を、その上にある信者たちの信仰の拠り所である「聖櫃」を、まるで観光地でネットにアップするための画像を撮影するかのように、しかも、南正覚がまだ手に入れる事ができていないあの「ビュー・キャッチ」を使って、堂々と撮影しようとしている。南正覚はキレた。

「何をする! この罰当たり者めが」

 彼は無礼な弁護士に大声で怒鳴りつけた。その向こうで見ている信者たちは恐れて首を窄めた。南正覚は大声を出した手前、そのまま怒声を張り続けた。

「あれに鎮座するは、宇宙の神様より授かった聖なる啓示物であるぞ。易々と下劣な機械で写し取るではない。そちは何様のつもりぞ!」

 彼の表現には若干の嫉妬が込められていたが、その迫力に押されたのか、意外にも町田弁護士は素直に謝った。

「すみません」

 町田弁護士は慌てて「ビュー・キャッチ」を外す。それを見て、南正覚は少しだけ宥恕の念を抱いた。彼は、弁護士であるその若い女が理詰めで反論してくると予測していたからだ。逆にすんなりと謝罪した彼女に好感さえも持った。そして、南正覚は宗教家である自分が感情に任せて怒声を響かせてしまった事を恥じた。彼が少しばつが悪そうにしていると、町田弁護士は手に持った「ビュー・キャッチ」を折り畳みながら、案の定に反論してきた。しかも、かなり挑戦的な口調で。

「それでは、侵入者の目的は何だったのでしょう。 何か思い当たる事はありますか?」

 これが「ソクラテス・メソッド」である。質問を投げ掛けて、相手に矛盾を自覚させる、そういった手法だ。南正覚は若い頃、この手の詰問を嫌と言うほどに受けた。だから、よく承知していた。この弁護士は、侵入者を刑法犯として立件するためには、その侵入者が撮影していた祈祷所の中の物を証拠資料として撮影しておく事が必要だと暗に指摘しているのだ。確かに、そのとおりだった。どうも、この町田弁護士はなかなか優秀な弁護士であるようである。美空野弁護士が自己の代役として派遣した理由も分かる気がした。しかし、南正覚にしてみれば、彼女などは、まだまだ未熟な子供であった。この若い弁護士は、ここで起こった事を、どうせ「居空きイアキ」や「建侵ケンシン」程度の事件としか認識していないのであろう。だから、侵入者が狙っていた物は何かを明らかにしようとしているのだ。南正覚はそう思った。だが、そう思っただけで、同調はしない。彼にも相応の知識はあった。「居空き」とは、家人が在宅中に実行される侵入窃盗の手口で、「建侵」とは、建造物侵入のことであるが、どちらも刑法犯として規定されており、決して軽微な犯罪だとは言えないとしても、現実の警察の対応としては、「殺人事件コロシ」や「強盗事件タタキ」は花形たる捜査一課、「汚職事件サンズイ」や「詐欺事件ゴンベン」、「横領事件ヨコ」などの事案は二課、「窃盗ウカンムリ」や「侵入窃盗ノビ」は三課、「ゴタ」と呼ばれる喧嘩や揉め事などの雑多な事案は、交番ハコ派出所ハッショの仕事と相場が決まっていた。この若い弁護士が正覚の考えたとおりに軽い認識をもってこの事件を処理すれば、所轄に提出された告訴状は、仮に本庁に上がっても、二課を経由して三課止まりである事は知れていたが、南正覚は、その点が気になっていた。彼は、それ以上の犯罪の影を恐れていたのである。この若い弁護士はそこまでは考えが至っていない。南正覚と町田弁護士の間にある「質量バリア」に、秋になっても居なくならない小さな虫たちが飛び込んできて、そのまま下に引き流されては、それを理解しない彼らは再び飛び上がり、同じ方向に飛んで、また、下に引き流される事を繰り返していた。今の南正覚には、目の前の「死の壁」以上に危険な壁が、その質量バリアと同じように音も姿もなく、彼に迫ってきていた。彼は、その一端がこの不法侵入事件であると感じていた。そのような南正覚の不安を蚊帳の外に置き、安易な判断を基に投げ掛けられた未熟な弁護士の挑戦的な問いに、初め南正覚は冷静に答えようとしたが、それまでの不愉快と苛立ちが徐々に加わってきて、彼の声は次第に大きくなった。

「他人にコソコソ覗かれるような覚えなどない。目的? それが判れば苦労はせんわ!」

 最後には大声で怒鳴っていた。宗教家にあるまじき態度である。南正覚は必死に自分を抑えた。町田弁護士に目を向けると、彼女は南の剣幕に驚いたのか、眼を瞑り、首をすくめている。この町田弁護士は新人弁護士である。分厚い鞄を重そうに肩に掛けているところを見ると、おそらくは美空野に命じられて他の案件の出先からここにやってきたに違いない。彼女は顧問弁護士として馬鹿にされないよう、精一杯に気を張っていたはずだ。だからこそ、虚勢を構え、強気な発言になったのだろう。若気の至りというやつである。そんな彼女に怒鳴ってしまった事を、南正覚は申し訳なく思った。

 南から視線を外した町田弁護士は、その小さな肩に掛けて提げていた分厚い鞄の中に「ビュー・キャッチ」を折り畳んで仕舞うと、心得顔を正覚に向けて、落ち着いた声で言った。

「とにかく、被告訴人不肖のままで、すぐに刑事告訴しましょう。住居侵入罪と傷害罪で。器物損壊罪も一応。よろしいですね」

 それは、こちらの希望するとおりの内容の提案だった。やはり、この町田弁護士は誠実にこちらの心中を酌もうとしていたようである。南正覚は、ついでに、以前から相談していた別件の方の対処も尋ねてみた。するとやはり町田弁護士は、その対処案について、立て板に水を流すように説明し、真っ直ぐに自分の意見を述べた。だから、南正覚はその若い弁護士を信用することにした。彼はそういう男だった。

「分かった。よかろう。宜しく頼む」

 そう答えた南正覚は、町田梅子弁護士の顔を正視したまま、背筋を伸ばして一拍置くと、その真っ直ぐに伸ばした上半身を崩すこと無く、素早く丁寧に腰を折って、目の前の若い弁護士に綺麗な御辞儀をした。頭を垂れたまま再び一拍置くと、素早く身を起こし、元の真っ直ぐな姿勢をとる。そして、彼女の対応を待った。

 町田弁護士は南の凛とした御辞儀に応えるように、仕事を頼まれた身であるにもかかわらず、若者にしては、また、弁護士にしては随分と丁寧な御辞儀をして返した。

「では、私はこれで」

 町田弁護士は南にそう言うと、今度は隣の小太りの女性信者に言った。

「さっきのデータ、宜しく頼みますね。病院のデータは、今夜中に貰えたら、それも一緒に送ってください」

 今度はさっきのような威圧的な言い方ではなかった。

 その女性信者は、少し戸惑いながら応答した。

「分かりました。――あ、先生。お茶でも……」

「結構です。ありがとうございます。急ぎますので、私はこれで」

 そう言って遠慮した町田弁護士は、なぜか溌剌とした顔でもう一度、南に挨拶した。

「失礼します」

 南正覚には彼女の心中の変化も、その理由も判らなかったが、一応、宗教法人の代表者らしく全てを理解しているかのように落ち着いて構えて、返事をした。

「うむ。ご苦労じゃった」

 そう憮然として言ったが、彼は若い弁護士の丁寧な態度に、少しだけ気を良くしていた。彼女には何か気を惹かれる部分があった。それは南の記憶の奥底から彼に呼びかける何かである。それで、もしやと思い、彼はその若い女性弁護士に生まれた年を尋ねてみた。彼女の生まれた年は、彼の息子の英章ひであきが生まれた年と同じだった。それが分かると、南正覚は急に、その弁護士に親近感を抱いた。彼は、我が子を見るような目で彼女を見た。そして、鼻を啜りながら彼女に背を向けた。町田梅子弁護士は口角を上げて一礼すると、去っていった。

 彼女が去った後、質量バリア越しに庭の風景を眺めていた南正覚は、そこが随分と暗くなっていることに気付いた。南正覚は、あの若い女性の弁護士が、ここから一キロほど先にある大通りのバス停まで一人で歩いていく様子を想像し、様々な危険を想定した。いつの時代も夜道を女性が一人で歩くのは危険である。だから、彼は気を回した。南正覚は庭を掃いていた信者たちの中から、さっきの長身の痩せた信者を探すと、彼に聞こえるように言った。

「暗くなってきたからの。この時間じゃと、帰りのバスも地下リニアも、混雑して大変じゃろう。誰か、町田先生を事務所まで送って行って差し上げなさい」

 それを聞いたその長身の痩せた信者は、大きな声で返事をすると、長髪を振り乱しながら奥へと駆け出していった。それと入れ替わりに別な信者がやって来て、教祖南正覚に言った。

「教祖様。今日も新たな信者の方がいらしてます。宜しくお願いいたします」

 南正覚は教祖の厳しい顔に戻り、ゆっくりと頷いた。

「うむ。分かった。行こう。ご聖櫃を本殿に移すのじゃ。くれぐれも丁寧にな」

 教祖南正覚は、祈祷所の前の縁側から本殿に続く長い渡り廊下の中央を、背筋を正して速足で歩いていった。



                  八

 英章が生まれてから五ヵ月後、東北地方を地震と巨大津波が襲った。多くの尊い人命が犠牲となり、街々は壊滅状態となった。それまで普通に存在していた幸せや、貴重な日常生活、永年にわたり紡がれてきた故郷の歴史、伝統、人々の思いが、自然という魔物によって奪われていった。

 父親となった南智人も、テレビの生放送で、人々の命が津波によって理不尽に奪われていく映像を見て、拳を握った。

 政権交代したばかりの当時の若い与党は対応に苦慮し、野党の大物狩野かりのを副総理として迎え入れ、与野党合同の臨時政権を樹立した。同時に、若い総理は体調不良を理由に表面上は第一線から退き、事実上の狩野政権が時限的に誕生することとなった。狩野は、この複合政権が、超法規的で時限的なものであると国民に宣言した後、与党の若い大臣たちをそのまま据え置き、自身の総理経験を基に的確迅速な指示を発していった。そして、すぐさまに緊急対策会議を設けると、そこで官邸直轄の任意団体として救難救助総力隊を組織させ、そこに、自衛隊と海上保安庁から救助救出に必要な組織と人員、全国の消防本部、警察の山岳救助隊等を集結させ、全国統一組織として一元化し、被災者の救助支援に向わせた。同隊は、形式的には、あくまで任意団体との呼びかけであり、隊員は各部署から有給休暇ないし臨時休職扱いで出向していたので、これにより煩わしい立法作業を大幅に省き、速やかに被災者の救助に向かう事ができた。しかも、指揮命令系統の統一された単独の部隊であったから、その救助効率は非常に良かった。その組織は救助活動終了後も解隊されずに維持される事になり、正式の立法手続きを経て防災省所管の統一部隊となった。ここに、自然災害や有事の際に国民を救助するための、世界初の兵器を持たない大規模実力部隊が組織され、それは後に「防災隊」として正式発足することとなった。防災隊の組織形態は、当時の自衛隊や世界各国の軍隊と変わらず、有事の際にも軍事指令系統と混乱が生じる事が無いよう配慮されていて、一個小隊の編成も通常救助隊員と、電気、通信、化学、土木、IT、機械、医療、語学等の専門知識と技能を備えた特殊隊員たちで構成され、その所持する装備も、兵員輸送用の装甲車や軍用艦、飛行機、ヘリなどから武器弾薬を外して再利用したものであり、隊員装備も統一化され、銃器の代わりに単発式の携帯型放水銃を所持していること、耐火防破片スーツや隊服のカラーが目立つ黄色やオレンジ色をしていること以外は、彼らの装備は、ほとんど軍隊の装備と変わらないものであった。ただ、決定的に違ったのは、彼らは人間の命を救う事を使命としており、自然災害によるものと外敵の攻撃によるものとを問わず、想定する敵は常に、人の救出を阻害する瓦礫や土砂などが孕む「危険」そのものであった。

 そして、彼らの、自衛隊の軍事技術を応用した危険地帯への速やかな到達技術と海上保安庁、消防組織から投入された人員救出と人命救助の技術を駆使した働きは、世界中から喝采を浴び、その後、世界各国がこれを模して、自国の軍隊から救助部隊を分離させ、そこに消防組織や救急組織を吸収させ統合し、日本の防災隊と同様の救助部隊を「第三の実力部隊」として組織した。これを機に、世界中で軍縮が進み、外交上の世界地図が大きく変化していったのであった。

 しかし一方で、防災隊へと装備品を提供した自衛隊の最新兵器への入れ替えが急速に進み、人命救助部門を切り離した自衛隊は、戦闘専門の組織として急速に実力を向上させていった。そして、戦闘の専門集団と国民保護救出の専門集団の二極による対立構造が生まれ、両集団が存在する憲法上の根拠を巡って論争が巻き起こった。明確な法的根拠もないまま防災隊を組織した狩野は内閣を辞し、その後の総選挙を経て、第二次田部政権が成立した。当該選挙の争点は、アジア周辺諸国との緊張状態が続く中で、この二つの実力組織を憲法上明確にするべきか否かであったが、国民は憲法改正による各実力組織の明確化を選択した。二〇一五年、自衛隊は国防軍として防災隊と共に憲法に明記され、それぞれ国防省と防災省の監督下に置かれることになった。同年、先に防災隊が正式発足し、その後、約一年半の移行準備期間を経て、二〇一七年春に国防軍が正式発足した。

 一地方公務員であった南智人も、これらの時代の波に大きく呑まれていった。東北大震災の後しばらくして、現地の地方行政活動と治安維持の支援のため、全国自治体から行政職員と警察官が現地に派遣された。二〇一三年、四十歳の智人も復興支援職員として現地の小さな漁港町に出向するよう命じられ、幸子と三歳にならない英章を残して、単身赴任する事になった。智人は、被災地で懸命に働いた。確かに、夫として父として、幸子と英章の事が心配ではあったが、それ以上に、テレビ放送で見た惨劇と、後の報道で知った、自分と同じ公務員が市民を守るために危険を顧みず職務を遂行し、多くがそのまま犠牲となったという事実が、彼を消極的にさせてはおかなかった。彼は、自分に与えられた職務だけでなく、休日にはボランティアとして、かつて培った大工技術を駆使して、汗まみれ泥まみれになって働いた。防災隊員のように、海外メディアに取り上げられる事も、世界各国から喝采を浴びる事も、国防軍のように国会の議題になる事も、功績を讃えられる事も無かったが、智人は、そして智人の他にも名も知れない多くの人々は、自分に出来る支援を自分に出来る方法でコツコツと行った。何らの見返りを得る事も、求める事もせずに。犠牲になった多くの御霊を想い、自らの苦痛を比較の対象とする事もせず、残された被災地の人々と共に泣き、苦しみ、復興の希望を分かち合った。

 二〇一五年、二年の任期を終え、智人は帰ってきた。帰る前のテレビ電話で、幸子から、幼稚園に通い始めた英章に土産を買ってくるように頼まれ、当然、智人自身でもそう考えていたので、新幹線の駅で建設予定の新型リニアの模型を買った。妻には、この間のねぎらいの意味と、これまで以上の愛情を示すつもりで、想定外に多く貰えた出張手当を少しだけ使って、真珠のネックレスを購入した。この前の英章の入園式には何とか出られたが、その時に幸子が安物のネックレスをしていた事が気になっており、また、その後の行事や諸々の事は、すべて幸子に任せていた事を思うと、智人は、普段辛抱ばかりさせている幸子に、どうしても何か買ってあげたかったのだった。その他にも、お菓子や特産品などの土産を購入した智人は、それらが詰まった大きな紙袋を両脇に抱え、憲法改正を祝うパレードを見物する人々をかき分けながら駅に向い、込み合う電車を乗り継ぎ、へとへとになって地元の駅に着いた。改札から出て、バス乗り場のあるロータリーの前に行くと、そこに一台の警察車両が停まっていた。その車の中から出てきた私服の刑事に呼ばれた智人は、訳も分からないまま、その車に押し込まれた。車はそのまま智人の帰宅する方向へと進んで行き、自宅のアパートの前に停まった。アパートの前には立ち入り禁止と印刷された黄色いテープが張られ、野次馬の向こうで多くの警察関係者が忙しく動いていた。智人が車を降りると、警察官たちの同情に満ちた視線が一斉に智人に向けられた。その奥から、黒いビニール袋に包まれたものが担架に乗せられて丁寧に運び出されてきた。両脇の警官によって持ち上げられたテープを潜り、ふらつく足を必死に前に動かしながら、その担架に近づいた智人は、袋のチャックを開けた。中には血まみれになった蒼白の幸子が目を閉じて入れられていた。

 智人を連れてきた刑事が、崩れ落ちた智人の両肩を掴んで支え、放心状態の彼を別の大型車両の中に案内した。刑事は彼にお茶を出し、暫く黙って横に座っていた。そして、少しずつ彼に事件の様子を説明した。刑事によると、幸子を刺殺したのは、幸子が結婚前に交際していたアンパン好きの例の大男であった。

 その日、幸子は英章を幼稚園に送り、自宅アパートで智人の帰宅を祝うための飾りつけや、彼の好物である散らし寿司を作っていた。注文していたケーキと花束が届く時間に玄関のチャイムが鳴ったので、ドアを開けると、そこには精神病院から退院したばかりの大柄な男が立っていた。部屋に押し入った男は、以前と同じように金をせびる発言を繰り返し、意味不明の単語を連呼しながら暴れ、台所にあった包丁で彼女を十数回に渡り刺した。その後、男は血まみれのまま現場を逃走し、この町でも開かれていた憲法改正の祝賀祭に沸く繁華街で、祭りの見物客と通行人数名を傷つけた後、駆けつけた警察官と格闘になり、最終的には、警察官の発砲により右大腿部を負傷し、運ばれた病院で出血多量により死亡した。男の衣類が他人の多量の血痕を帯びていた事から、警察は男の移動経路を探り、このアパートに辿り着き、そこで幸子の遺体を発見したのだった。後の検察の捜査で判明した事だが、男は幸子が英章を幼稚園に送って行く時も、そこから戻ってきた時も、アパートの周辺で、不審な人物として多くの人に目撃されていた。近隣住民からの度重なる通報にも、祝賀祭の雑踏警備に人員を裂いていた地元警察は、戸締りを指導したのみで、現場に警察官を派遣する事はなかった。幸子が部屋の中で必死に叫んで助けを求める声も、数人の通行人が聞いていたが、誰も助けには行かなかった。携帯端末によって撮影された、アパートから繁華街まで血まみれのまま歩いている男の姿が、ほぼリアルタイムでネットに多数アップされてもいた。しかし、それを見た人間のうち警察に通報した人間は誰もいなかった。何件かの匿名の通報はあったが、地方の田舎町の所轄署員は、それを本気にせず、現地を確認する事もしなかった。地元の警察は男が繁華街で暴れるまで、その事態に真剣に対応しようとはしていなかった。



                  九

 真明教団の首都圏施設本部と称されたその広大な敷地には、数棟の神殿造りの家屋があった。住宅街の中に広く面積をとっているその施設は、二〇三八年の新しい首都圏の町並みの中では異彩を放つ存在であった。流線を取り入れたニューデザインの家が流行るこの時代になっても瓦屋根の家が消えた訳ではなく、木造の日本家屋も一般家屋の半数近くを占めていた。しかし、彼らの教団施設は、それらとも違っていた。教祖南正覚によって伝統的技法を取り入れて設計されたものではあったが、だからといって、施設そのものが伝統や歴史に支えられていた訳では無いので、決して人々に安心感を与えるものではなく、むしろ、その建物の技巧的な風貌が、逆に一種の異様な空間をそこに作り上げていた。住宅街の中の細い道路を進むと、一般的なブロック塀の並びに朱色の巨大な門が忽然と姿を現す。真南に面したその門は信者たちを待ち構えているように建っていた。その門を抜けると、その奥に本殿と称される大きな寺院風の建物があり、その少し後ろの方に信者たちの修業棟が建ち並び、そこから続く長い廊下の先に祈祷所があった。その廊下は途中で分岐しており、もう一方の先には教祖の住居を兼ねた信者たちの生活施設が建っている。生活施設と本殿の間には中庭が設けられていて、別途に直接、太鼓橋で結んであった。生活施設の裏手には、祈祷所との間に、古風な枯山水式の庭園が造られていて、そこには美しく剪定された季節の木々が並べられていたが、本殿との間の中庭には、玉砂利の上に、土星の形に似た巨大な石造が置かれ、朱色の太鼓橋と不釣合いな空間を演出していた。

 本殿に入ると、正面の壁一面に敷き詰められた液晶画面に銀河系の映像が映し出されていて、その周りに煌びやかな装飾の灯篭と色とりどりの生花が飾られ、手前には祭壇が設置されていた。その祭壇の上に金色に輝く燭台や香炉、供え物が乗せられた高杯と小さな機械が数台並べられており、その中央には、周りを銀細工で縁取られた丸鏡が飾られ、左右を榊が入れられた華筒が固めている。そして、その一番高い場所の台座の上に、彼らが「聖櫃」と称する白木の小箱が恭しく飾られていた。

 本殿の中に入ってきた新しい信者たちは、その独創的な仏神混合の祭壇に、始めは誰もが面食らったが、やがて黄色い運動着を身につけた修行信者の紹介と共に、自動で開いた電子和紙製の襖の間を通って入室してきた教祖南正覚の姿を目にすると、その全員が広い板の間の上に正座して、彼に頭を垂れた。

 七色に変色しながら点滅する電子和紙製の襖が自動で閉まると、南正覚は、入信を希望する新しい信者たちの前を通り、祭壇の中央の前に設けられた台座に上った。

 一段高い場所の大きな座布団の上で、座禅を組みながら皆を見下ろしていた教祖南正覚の前には、入信を希望して施設を尋ねてきた人間たちが何列かに綺麗に並んで座っていた。その最前列には、身形みなりの良い老夫婦、着物姿の老女とモヒカン頭の若い男、ワイシャツ姿でマスクをつけ、眼鏡を掛けた筋肉質で短髪の男、中年の夫婦が横に並んで座っていた。

 教祖南正覚は、彼らに向けて力強く命じた。

「宇宙の神に帰依する理由を述べよ!」

 端の老夫婦のうちの夫の方が、深くお辞儀をして答えた。

「はい。未来をお教え願いたいからでございます」

 南正覚はさらに尋ねた。

「何ゆえ未来を知りたいのか」

 老いた男は答えた。

「はい。ご覧の通り、私どもは老いてまいりました。少なからずの財は築く事が出来ましたが、晩婚のせいもあり、子供には恵まれませんでした。甥や姪はおりますが、なにぶん親戚縁者ばかりか田舎の兄弟達とも疎遠でございますので、この先、老後の世話を期待できる者もおりません。そこで、さらなる財の拡大を図り、この連れ合いとの老後の生活を安心できるものにしようと思っております。ところが、この年でございますので、せいぜい投機して儲ける事くらいしか方法がございません。そこで、未来を見定める事がお出来になる教祖様のお力を賜りたく、本日、宇宙の神様に帰依する所存でございます」

 南は溜め息を吐いて暫く目を瞑っていたが、目を開けると、その大きな眼を向けて彼らに言った。

「よろしい。結構な心掛けじゃ。次」

 老夫婦はキョトンとしていた。

 教祖南正覚が握っていた大きな扇子の先で指された和装の老女が答えた。

「はい。私は今年で七十になりますが、こちらの馬鹿息子は三十を過ぎたというのに、未だ定職にも就かず、こんな鶏みたいな頭をして……すみません、ご覧のような有様でございます。今後、この息子の未来がどうなるものか知りたくて、こちらに入信させていただこうと思い、伺いました。どうか、息子の将来を教えてくださいませ」

 南正覚は彼女の話を聞きながら、その隣で胡坐あぐらをかいているモヒカン頭の若い男をじっと見つめていたが、彼女の話が終わると、静かに目を閉じ、赤い鼻とへの字に縛った口の隙間から音を立てて空気を吸い込んだ。そして、大きく目を見開いてモヒカン頭の男に言い放った。

「馬鹿ちんが! 次っ!」

 土下座をする和装の老女の隣で、下を向いて項垂れているモヒカン頭の男を気にしながら、その横に座っていたマスクに黒縁の眼鏡をした短髪の男が姿勢を正した。彼は癖なのか、一瞬だけ胸ポケットに挿したペンの先端に触れたが、その手を戻すと、少し戸惑いながら語り始めた。

「ええと……あの、私は会社員なのですが、中学になる娘が一人おりまして、この娘がネットゲームばかりしていて、学校の勉強はしないは、外に遊びには行かないはで……あ、いや、別に引き籠っている訳じゃないんですけどね。コスプレに夢中みたいで、困ったものでして。ああ、あとそれから、会社で先日、大仕事を任されまして、その時に色々と大変な目に遭ったんですけど、その際にですね、いろいろ助けてくれたキャップ……いや、上司がですね、何故か急に休職しまして……。それで、どうしたのだろうって思っていたら、今度は突然、えらい田舎に家と土地を借りちゃって、有給休暇を申請して、それが認められてもいないのに連続欠勤したあげく、農業とか釣りとかを始めるって言い出したんですよ。もう、この御時世に……。まあ、それで、今後、この上司がどうなる事かと心配で。助けてもらった恩義もありますし、彼の以前の奥さんも心配していまして。なにせ、会社の上の人たちは、これ以上欠勤が続けば、クビだとか言い出しているので……」

 南正覚は、彼が話している間ずっと、彼の眼鏡とマスクに覆われた顔を凝視していたが、やがて、腕組みをして彼の支離滅裂な訴えを頭の中で整理し始めた。そして、深刻な顔をしながらおもむろに口を開いた。

「分かった。……いや、分からん。さっぱり分からん。とにかく、安易な転職は危険を伴うぞよ……というのは、その上司の話か。すると、そちは他人のためにここに来ておるのじゃな?」

 眼鏡にマスクの男はコクコクと頷いた。

 南正覚は腕組みをして唸る。

「うーん……そうか、稀有な奴じゃのお。――まあ、よかろう。その上司の男を救えるか否かは、そちの信仰心の深さ次第ぞよ。さあ、告白の終わった者から順に、宇宙の神様に信仰心を示すがよいぞ。では、次」

 教祖の言葉に応じて、黄色いジャージ姿の信者が部屋の隅から前に進み出てきて、祭壇の上に何台か並べられた小型の端末機の前まで、先ほどの身形の良い老夫婦をいざなった。夫の方が、高級スーツの内ポケットから金色のカードケースを取り出すと、その中からマネーカードを一枚取り出し、祭壇の上の小さなカードリーダーにそれを差し込んだ。そして、その前のテンキーで何やら入力を終えると、その機械からチンと音がして、横に座っていた黄色いジャージ姿の信者が深々とお辞儀をした。その老夫婦が元の位置に戻ってきたのと入れ替わりに、和装の老女がモヒカン頭の息子に手招きしながら、中年の夫婦の話を聞いている南正覚の横を通って、祭壇の前まで進んだ。そして、同じように機械にマネーカードを差し込むと、暗証番号と金額を入力し、最上段の白木の箱に手を合わせてから、戻ってきた。モヒカン頭の親不孝者は、祭壇の前でウロウロして、席に戻った。マスクに眼鏡の男は、最初は知らぬふりをして、ワイシャツの胸ポケットに挿したペンの先端をいじっていたが、正覚の後ろに立つ黄色いジャージ姿の信者に手招きされたので、仕方なさそうに立ち上がり、正覚の後ろを通って、祭壇の前に移動した。その短髪の男は、眉間に皺を寄せてズボンの後ろのポケットから財布を取り出すと、その中からカードを取り出し、目の前のカード読取り機に渋々顔でそれを差し込んだ。男が暫くテンキーをいじっていると、機械からブブーッという音がけたたましく鳴り響いた。それを聞いた南正覚が背中越しに言った。

「信仰心が足りん。利己心を捨て去るのじゃ」

 短髪の男は眼鏡の奥の目をパチクリとさせながら、機械の液晶画面を覗き込み、その短髪を激しく掻いた。そして、もう一度テンキーを打ち直した。ブブーッ。再度、同じ音が鳴った。そしてまた、南正覚が前を向いたまま、背後のマスクの男に言った。

「宇宙の神様がお怒りぞ。精進せい」

 ブブーッ。正覚の後ろから、また、先ほどの機械音が鳴った。さすがの南正覚も、今度は振り向き、機械の前で頭を掻く短髪の男を一喝した。

「この不埒ふらち者が。何をしておるか。本当に、身も心も神様に捧げるつもりがあるのか」

 男の横で機械の液晶画面を覗き込んでいた黄色いジャージ姿の信者が、正覚のもとに駆け寄り、小声で耳打ちした。

「あの……、そもそも残高が、最低お布施価格に満たないようで……」

 信者の報告を聞いた南正覚は、小さく舌打ちすると、再び前を向いて言った。

「そちには、ちと早過ぎたようじゃの。まだまだ修行が足りん。娑婆で鍛錬を積んでから、出直してくるのじゃ。今日は参加料だけでよいから、社務所で支払ってから帰るが良いぞ」

 ずり落ちた眼鏡を気にしつつ、マスクの奥で何かブツブツ言っていた短髪の男は、そのまま黄色いジャージを着た男たちに両脇を抱えられ、本殿の外に連れ出されていった。

 その様子を視野に入れつつ他の入信希望者の話を聞いていた南正覚は、誰にも聞こえないほど小さな声で、ひとり呟いた。

「金は大事じゃぞ。金は……」

 その時の南正覚は、暗愁を顔に浮かべ、肩を落としていた。深い悲しみが彼の中から沸き起こり、やがて彼を覆っていった。



                  十

 紙吹雪の中、憲法改正祝賀パレードが首都圏の目抜き通りで盛大に執り行われていた。多くの政治家や評論家、学者、芸能人などがリムジンや高級外車に乗り、パレードの先頭部分を進んでいた。その後に、全国から集められた郷土芸能集団のそれぞれの歌や踊り、太鼓囃子や学生の鼓笛隊などが続いた。どのデジタルテレビのチャンネルも、CSのチャンネルもこの中継番組で埋め尽くされていた中で、幸子の事件が少しだけ報じられた。この事件は決して隠蔽された訳ではなかったが、地元警察の失態や他の人的要因もあり、積極的に報道される事は無かった。当時の智人も、英章の小学校入学を控えていたので、あまり大きく報道される事を好ましくなく思っていたが、世間とは薄情なもので、一ヵ月もすると誰も取材に来なくなり、半年も経つと地元の人々の記憶からも忘れ去られた。

 幸子の一周忌が終わり、英章の小学校進学の準備が始まった頃、入学前の健康診断で、英章に思わぬ病が見つかった。心臓の重篤な疾患であった。南智人は、英章に元気が無いのは、事件によって急に母を失ったからであろうと思っていた。顔色が良くないのも、色白であった母親に似たのであろうと思っていた。しかし、それらはすべて、心臓の疾患が引き起こす血流の悪さが原因であった。英章の疾患は智人の予想以上に重篤で、診せに行った市立病院では治療できず、六十キロ離れた県庁所在地にある大学病院での診察を勧められた。その大学病院で精密検査を繰り返した後、そこで、首都の官庁街にある巨大私立大学病院を紹介された。

 この頃、憲法改正に伴う一斉法律改正と、その際に立法された長年の懸案事項に対処する新法の施行により、社会に大きな変革が起きていて、人々は期待と活気と緊張に満ちた表情で街を闊歩していた。特に、首都圏の官庁街を行き交う人々は、省庁再編の巨大変革の中で生き残ろうと、必死の形相を隠し切れないまま、誰もが早足で歩いていた。そんな中を、智人は英章の手を引いてゆっくりと歩くのだった。

 紹介された英章の担当医は、テレビで名医として報じられた事がある有名な心臓外科医であった。地元の大学病院の医者からその説明を受けた智人は、胸を撫でおろした。早速、休暇を取り、英章を連れて上京した。その病院に着くと、紹介状を提出し、待合ロビーで待った。幼い英章には、そこでの待ち時間は退屈以外の何ものでもなかったが、父が買ってくれた小型ゲーム機のお蔭で、何とか数時間を過ごす事が出来た。ようやく名前が呼ばれ、診察室に二人で入ると、そこには、テレビで見た名医とは別人の若い医者が座っていた。智人が英章を椅子に座らせ、その医者に一礼すると、彼は患者を長らく待たせたことに何ら触れることも無く、智人に英章の症状の質問を始めた。そして、英章の胸元に聴診器を当て素早く何度かその丸い器具を動かした後、英章に後ろを向くように言い、今度は背中の方から聴診した。机の方を向いて机上のパソコンで電子カルテに色々と入力し終えた医師は、智人が地元の市立病院や大学病院で聞いた病名と同じ病名をさらりと述べた。智人が意を決して、テレビで見た名医の名前を出して尋ねると、その医者は少し機嫌を損ねたように態度を変え、横柄な口調で、名医の診察は予約で埋まっていて、今予約しても診察は五年後以降になるが、それまで英章が持つかどうか分からないと、幼い英章の前で配慮無く答えた。智人は、傍にいた気の利かない看護師に英章を外に連れ出してもらうよう頼み、それからまた改めて、その医者の説明を聞いた。医者の説明によれば、英章の病気の治療法方には、心臓移植と人工心臓に切り替えるという二つの方法があるが、現時点では、成長期の英章の年齢に適した埋め込み式の人工心臓は開発されておらず、そうなると体外型の人工心臓になり、日常生活に大きな支障が出るので、結局、心臓移植がベストであると言うことであった。ただ、英章の場合、年齢のために、まだ心臓が小さく、大人の心臓を移植することは基本的に難しいので、子供の心臓提供を待たねばならなかったが、それには時間がかかるので、海外での移植も視野に入れる必要があるとのことだった。

 英章が生まれた年である二〇一〇年の七月に改正臓器移植法が全面施行され、一五歳未満の子供でも、臓器提供が可能となった。しかし、法律改正後から六年以上が経過したこの時でも、国内の子どもからの臓器提供は皆無に近く、それゆえ、国内での移植を諦め、海外に渡り移植を受ける子供が後を絶たないというのが現実であった。英章を診察した医者も、国内のそのような事情を踏まえて智人に説明したのであろうが、問題は、その必要資金であった。その医者の説明では、だいたい一億円程度を必要とするとのことであった。その医者は、軽く「程度」と言ったが、月給取りの智人にとっては到底手の届く金額ではなく、適当に計算する額ではなかった。とりあえず、移植待ちのレシピエントの登録をするための書類を預かり、その日は帰ることにした。帰りに、智人は疲れた英章を背負い、途方に暮れて官庁街の広い歩道の上をトボトボと歩いた。途中でレストランに寄り、英章に好きな物を注文させ、好きなだけ食べさせてやった。ハンバーグを口いっぱいに頬張る英章を見て、智人は御絞りで汗を拭くふりをしながら、あふれ出る懺悔の涙をしきりに押さえた。

 数ヵ月後、智人は地元の商店街の一角で、街頭募金の箱を持って立っていた。移植に詳しいNPO法人をネットで探し出し、相談に行くと、具体的な手続きや渡航費用、必要資金の細目などを教えてもらえた。そして、街頭募金で資金を集める方法と手順を教わった。そのNPOの人たちや、彼らに紹介してもらった地元の協力団体の人たちと共に、智人は仕事の前後で毎日、街頭に立った。週末には首都圏に出向き、朝から夜遅くまで街頭に立ち続け、街行く人々に懸命に頭を下げた。時には、通りすがりの人間に心無い言葉を投げ掛けられる事もあった。絡んでくる酔っ払いも多かった。公務員であった彼を見つけ、ここぞとばかりに皮肉を込めた偽りの励ましを言う者や、直接に侮辱する言葉を浴びせる者もいた。だが、南智人は、いつも頭を下げ、それらの理不尽にじっと耐えた。ただひたすら耐えた。耐えなければならなかった。国民皆保険を実現し、世界でも最高水準の福祉の実現を謳うこの国でも、親が病気の子供に必要な治療を受けさせてやるためには、このような屈辱に耐えなければならなかった。街頭に立ち、手作りの箱を掲げて、声を嗄らして恵みの寄付を求め、マスコミによって自分と家族のプライバシーを公にするという代償を払わなければ、生存権が保証されているはずのこの国においては、一般庶民は親として我が子の命すら救う事が出来なかった。国民の生命と財産を守る事が役人の本分であると叩き込まれてきた公務員の南智人にとって、そして、その理念を己の肉体で実行してきた南智人にとって、この理不尽は、他の誰よりも耐え難いものであった。しかし、現状では英章を救う方法はこれしかなかった。だから、当時の彼は、ただひたすら耐えた。流血するほどに己の唇を噛みしめながら、南智人は耐えた。

 南智人が息子のために募金活動を始めて三年が経ようとしていた頃、人々の小さな善意が積もり、募金総額はようやく必要資金の半分に達した。この間、それまで仕事熱心で一度も有給休暇を使った事が無かった南智人は、自己の未消化分の有給休暇日数をすべて使用し、残業も拒否し、同僚との付き合いも断り、休日の他に募金活動をするための時間を出来る限り作って活動したのだが、それでも彼の思うようにはいかなかった。三年で、やっと半額しか集まっていなかった。全額を集めるには相当の時間が予想された。だが、英章の病状はそれを待ってはくれなかった。智人は焦った。何とかして資金を集めなければならなかった。そんな折、テレビ局からの取材の問い合わせがあり、幸いにも英章の事と募金の宣伝を世間に報じてもらえる事になった。もちろん、特集番組である以上、英章の日常生活だけでなく、智人の生活までもが報じられる事になった。四十六歳になっていた智人は、市内にある官公署の一室で勤務していたが、夜間高校卒の彼にしてみれば、それは異例の出世人事であった。マスコミはその点にも注目し、その特集番組の中で、彼のまじめな勤務の様子や市民の評判なども英章の件と絡めて報じ、彼の生い立ちと、彼がどれだけ不利な条件と窮状の中でここまで出世したのかを誇張的に報じた。それは視聴者の同情を誘い、それにより彼と英章への支援の輪が広がることを狙ったテレビ局側の計らいであったが、別な局面で思わぬ波紋を呼ぶ事になった。放送された番組では、南智人のような人物こそ地方公務員の鏡であり、市民が彼に恩返しをする方法は募金をする事しかないと締めくくられていた。この放送内容は職場の上層部の逆鱗に触れた。彼らは、自分たちの集団が絶えず市民の上に座していなければならないという事に、いつも神経を尖らしていたからである。その一員の南智人が市民に対して募金箱を差し出してペコペコと頭を下げ、必死に寄付を乞うている映像を見て、気位の高い上層部の人間たちは、対外的には南を支援する発言を繰り返しながらも、対内的には、ほぼ全員で南智人を批判した。上層部の反応に、その下の人間たちは敏感に反応した。それに加え、大卒の同僚たちは彼を疎ましく思い、高卒の同僚たちは彼に嫉妬した。また、一部には、彼が高額所得者にでも成ったかのような稚拙な誤解をする同僚もいて、小さな田舎町のそのような人間たちは皆、彼の影口を叩いた。そのような状況の中で、南智人は通常の勤務中にも同僚や上司たちから、陰湿な嫌がらせを受けるようになった。また、上司や同僚、時には部下からは面と向かって皮肉を言われたり、罵声を浴びせられたりもした。それは、智人が勤務後に歓楽街で行っている募金活動や、休日に繁華街で行っている募金活動の際のそれよりも酷かった。それでも南智人は耐えた。というのは、やはりテレビ放送の影響力は絶大であり、放送後に募金額が急速に伸び、手術のための渡航が現実味を帯びてきたからである。また、手術ができれば英章は元気になり、そうなれば、智人は父として英章を育てていかねばならないからだった。彼は二度と失業する訳にはいかなかった。

 テレビ番組の放送から二ヵ月後、募金額は目標の一億円に達し、最終的には目標額を遥かに上回る金額が集まった。それを報じるために再びテレビカメラが職場に来ると、上司や同僚は、その前では態度を変え、智人に対し口々に祝いの弁を発した。しかし、彼らの本音を言えば、その逆であった。長く続いた不況から好景気へと転じていた時期に、民間の給与と物価は上昇しても、公務員の給与は伸びずにいたので、残業や付き合いを拒否し、マスコミや市民に媚びて、短期間で巨額の現金を手に入れた南智人のことを、他の同僚たちは誰も快く思ってはいなかったのだ。それで、南智人への職場での風当たりは、なおいっそうに厳しいものとなった。しかし、彼の心配は別なところにあった。資金が必要以上に集まっても、肝心の臓器提供者ドナーが、その時は現われなかったのである。国内では、十五歳未満の子供から臓器移植できる立派な法律があっても、それが実現されることがなかった。国外にも、運悪く、英章の年齢に合ったドナーが現れなかった。そればかりか、目標額を大幅に上回る金額が集まった事を聞きつけた海外の病院は、それを奇貨として、外国人の移植希望者である彼らに対し手術金額を大幅に吊り上げてきた。それで南は、再度、大学病院を通じて世界各国の病院と交渉せざるを得なかった。

 忙しい師走の勤務の間を縫って、南智人がこれらの所為に奔走する中、英章の症状は悪化を極め、ついには病院の集中治療室で昏睡状態に陥った。この時になって、大学病院はようやく、人工多能性幹細胞、いわゆるips細胞技術を利用した人造再生心臓の移植を南智人に提案してきた。智人に難しい話は理解できなかったが、医者の説明によれば、大方は、こうであった。まず、智人と英章のそれぞれの細胞から、人工培養でそれぞれの心臓を作る。培養には時間を要するので、その期間を少しでも短縮するため、それぞれの心臓から細胞を取り出し培養基とする。そして、その間の繋ぎとして、智人の心臓の筋肉の一部を英章に移植し、時間を稼ぐ。その間、智人には機械の人工心臓を部分的に移植し、培養完了後に、完成した疾患のない人造再生心臓を、それぞれに移植し直す。これらの智人の理解は間違えていたかもしれなかったが、この他に説明された、この手術は、まだ国の正式認可が下りていない治療方法であるので、智人の人工心臓の移植以外は保険の適用外である事、この大学病院では実績が無いので、手術は実績のある遠方の大学病院で行い、そこのベテラン医師と共同で執刀する事、その遠方の大学病院までは英章をヘリで搬送する事、資金的には手術費と搬送費の諸々が集まった募金額でちょうど賄えるという事、これらの点は智人にもしっかりと理解できた。そして、智人にも、彼らが智人のもとに集まった大金を当てにして、他の大学病院の医療技術を修得するのに、智人と英章の体を利用しようとしているということくらいは察しがついた。仮にそうであっても、智人にはそれを頼るしか選択肢が無かった。

 夜、南智人は大学病院の集中治療室の窓から、首都官庁街の消えない明かりと、その向こうに広がるネオン街の煌びやかな光を眺めていた。ベッドの上で無数のチューブに繋がれた英章の手を握りながら、彼は何かを考えていた。この当時、日本中が新たな技術革命に浮かれていた。二〇一七年、ストンスロプ社の研究機関であるGIESCOが「O2電池」と呼ばれる、理論上の電池寿命が一二〇年とされる小型電池の開発に成功した。翌年には各種の市販家電製品に搭載され、その年の年末からは一般向けのO2乾電池が店頭に並んだ。実際に購入してみると、使用機器によっては短期間で使えなくなる物もあったが、それでも、従来のバッテリーの使用時間を遥かに凌駕するものであった。その他にも、二〇一八年には、多国籍企業NNC社によりバイオ・コンピュータが、日本が誇る世界企業ストンスロプ社により量子コンピュータが、それぞれ開発された。そして、その翌年には、政府により、この二つのコンピュータを結合させた世界最高水準のスーパーコンピュータの開発を目標とした、生体量子コンピュータ構想が打ち立てられ、国民は日本が再び世界経済と技術の頂点に立てると沸いた。

 だが、それらの技術は、南智人と英章には何の役にも立たなかった。彼らに必要だったのは、英章の心臓疾患を治癒させる技術と社会システムであった。どれだけ高性能のバッテリーやコンピュータが開発されたところで、それが心臓疾患の治療に利用や応用がされなければ、彼にとってはまったく無用の長物でしかなかった。彼は、それが需要と供給の結果である事は理解していた。世間の多くが金で動いている事も経験から知っていた。しかし、この時の南智人は、それを訂正せざるを得なかった。彼は訂正した。「世間はすべて金で動いている」と。幼い頃に汗まみれで働いた酪農業で、大工での弟子入りで体験した倒産で、失業中の屈辱とアルバイトで、失った妻の命で、そして英章の治療で、彼は、この世のすべての人間が、実は金によって支配され、それを基準にして、それを求めて生きている事を知らされた。そして智人は、なぜ法律施行から九年近くを経てもなお、臓器提供者がほとんど現われず、英章のような病の子供の多くが国内で移植手術を受ける事ができないのかも理解した。ベッドの上で眠る英章の手を握っていた智人は、反対の手に、病院の移植コーディネーターから渡された、英章の臓器を誰かに提供する事についての「親権者の承諾書」を握っていた。もし、このまま二週間以上、英章の意識が回復しないようなら、他の患者のために英章の心臓以外の臓器の提供を検討して欲しいとの事であった。智人はその書類を破り捨てると、机の上に置かれたもう一枚の同意書にサインした。それは、智人が自分の心臓の一部を英章に一時移植する手術の同意書だった。部屋の中では、英章の心拍を伝える機械音が弱いリズムを刻んでいた。窓の外では、クリスマスを祝うイルミネーションが街全体を包んでいて、クリスマスソングと鈴の音がリズムよく鳴り渡っていた。

 数日後、智人の人工心臓の埋め込み手術が実施された。手術は順調に進んだ。その後、冷凍された智人の心臓と英章は、ヘリで数時間かけて遠方の大学病院に運ばれ、そこで智人から取り出した心臓の心筋の一部移植手術が英章に施されると同時に、智人の心臓と英章の心臓から細胞がそれぞれ摂取され、細胞培養室に運ばれ、人工多能性幹細胞とのハイブリット処理が開始された。

 二週間後、車椅子に乗って大学病院の屋上で待つ智人の前に、英章を乗せたヘリが下りてきた。運び出された担架には、酸素マスクをつけたままの英章が目を瞑って横たわっていた。鳴り響くヘリのプロペラ音と風の中で、智人は必死に担架に近づき、何度も我が子の名を呼んだ。担架の上で英章がうっすらと目を開けて、ありがとうと一言だけ父に伝えた。安堵した智人は、プロペラ音よりも大きな声で泣き崩れた。

 春になり、智人の回復は順調で、人工心臓も彼に馴染んできていた。職場にも復帰して、少しずつ元のように働き出した。しかし、英章は未だ退院できずにいた。遠方の大学病院から首都圏の私立大学病院に戻ってきて数週間は、意識もはっきりしており、血色もよく、食欲もあった。このまま回復するかと智人は錯覚したが、その後すぐに、英章は再び意識を失った。懸命の蘇生措置が施され、何とか意識を回復したが、やはり急場しのぎの手術であるために一時的回復しか見込めず、完全な回復には、英章の心筋細胞から培養された人造再生心臓の移植が必須であった。しかし、人造再生心臓の生成には、まだ暫くの時間を必要とした。

 夏になり、英章は首都の私立大学病院から、地元の公立大学病院に移された。智人には、片道六十キロの運転で済むので、毎週末に首都まで登るのに比べれば楽であったが、英章の治療の事を考えると不安であった。そして、それよりも人造再生心臓の培養の進捗が気がかりであった。それは、予定の時期から大幅に遅れていたからである。英章にとって、この状況はチキンレースに近かった。この半年ほどの間も、英章の病状は決して良くはなく、幾度も智人が覚悟しなければならない時があった。一刻も早い人造再生心臓の培養完了を智人は望んだ。だが、大学病院に尋ねても、首都の私立大学病院に問い合わせても、電話をたらい回しにされるだけで、その時期はいっこうに曖昧なままだった。

 秋になった頃には、英章の症状は重篤になっていた。顔色は悪く、やつれて、小さな体がさらに小さくなっていた。立ち上がるどころか、ベッドで体を起こすのがやっとの状態であった。もはや酸素マスクを外せない状態となっていた。そんな時、朗悲二つの情報が智人に届いた。一つは、人造再生心臓の培養があと一週間程度で完了するというものであった。もう一つは、英章を大学病院から設備の足りない地元の市立病院に移さねばならないというものだった。入院先の大学病院によれば、医療保険の適用期間を過ぎたので、形式的に一度、他院で最診察してから、再度紹介の上、入院して欲しいとの事であった。智人は、その大学病院の事務局長に会いに行き、人造再生心臓の培養がもう少しで完了する事を何度も説明したが、その事務局長は聞き入れず、入院継続したければ全額自費治療になると言って、智人の前を去った。結局、英章は田舎の市立病院に転院する事になった。英章は、急な入退院の移動の疲労が重なって、転院して直ぐに危篤状態に陥った。そして、数日後の二〇二〇年一〇月五日土曜日午後八時二十七分、十歳の誕生日を目前にして息を引き取った。首都の大学病院から、完成した二つの人造再生心臓が到着したとの連絡があった日の翌日のことであった。

 英章の初七日が過ぎ、智人は首都の大学病院の医師に、完成した人造再生心臓の引渡しを請求した。数回の交渉の末、英章の四十九日の頃に智人の下に一箱の冷凍ケースが送られてきた。その中には、冷凍された大人の心臓と、小さな子供の心臓が入っていた。結局、そのどちらも使うことはなかったが、智人はそれらを、他の誰かのために使用する事も、医学の発展のために使用する事もしなかった。自分に埋め込まれた機械の人工心臓と、自分の細胞から再生された人造再生心臓を入れ替える手術も受けなかった。智人は、白煙を吐き続けるその冷凍ケースの蓋を閉めて、すくと立ち上がると玄関に向かい、靴を履いた。彼の手には「辞表」と書かれた封書が握られていた。



                  十一

 午後の会議室の中では、そこに置かれた長い机の両側に、向かい合わせに並んで座る黄色いジャージ姿の信者たちが、上座に座る南正覚に白く長い封書を提出し、一人ずつ各担当部門の定例報告を行っていた。教祖南正覚は、約一ヶ月をかけて国内外の真明教団の各支部施設を聖櫃と共に巡回し、最後に地方都市の郊外に所在する総本山に聖櫃を持ち帰って、宇宙の神とやらに報告の祈りを捧げる。その巡回の際に、各支部において朝の祈祷会を終えた後、午後は、その支部の事務担当者が南正覚に一ヶ月間の運営報告をするのが慣わしであった。毎月、総本山を聖櫃と共に出発する南正覚は、最初は必ずこの首都圏施設本部に立ち寄り、そこから巡回を始めた。そして、全ての施設を視察し終えた後に、必ずこの首都圏施設本部に立ち寄ってから総本山に戻った。それは、首都圏施設本部には彼の住居があるからであったが、実質的に教団全体の事務統括をなしているのは、ここに置かれた事務局であるという、もう一つの理由もあった。ただ、今回の南正覚は、一週間前に他の施設の巡回を終えて帰ってきてからずっと、この首都圏施設本部に滞在したままであり、総本山へ参拝するのが通常の予定よりかなり遅れていた。普段と異なる教祖南正覚の行動に、信者たちは天変地異の発生を噂し、不安に駆られていた。そのような中で起こった昨日の侵入事件が、彼らの不安を更に大きくしていた。しかし、南正覚は彼ら以上に、自らに迫る危険を憂慮し、猛烈な不安にさいなまれていた。それで、昨夜もまた眠れなかった。そのような中で、この午後の定例報告会は開催された。

 宗教法人真明教団の代表者南正覚は、隣に座っている長身で長髪の痩せた信者に、それぞれから提出された白く長い封筒を開封させた。その長髪の信者は、開封した封筒を左手で逆さにして、中から落ちてきたMBC(memory・ball・card)を右掌で受け取った。日高電機製作所が発明したMBCは、名刺程度の大きさの板状のプラスチック体で、組成粒子の中にナノレベルで配置された球体フォトニックフラクタルを利用して記憶する汎用型の記憶メディアである。長髪の信者は、後ろに座っていた丸刈り頭の信者に、自分の肩の上からそれを手渡した。左手を三角帯で吊っている丸刈りの信者は、MBCを右手で受け取ると、横のパソコンに挿入し、格納情報を展開する。パソコンの上に平面ホログラフィーで展開された情報は、同時に南正覚の前に置かれたパソコンの上にも平面ホログラフィーで表示された。そのホログラフィー文書の記載内容を食い入るように見ていた宗教法人代表者南正覚は、険しい表情で語気を荒げた。

たるんでおる。弛んでおるぞ。新規の信者の獲得数が横ばいではないか。海外支部からのお布施の送金も減少傾向にある。そちたちは御神言ごしんごんに背くつもりか」

 信者たちは皆、下を向いた。

 正覚は続けた。

「よいか。もう一度言うぞ。宇宙の神様は、ワシらに世直しをせよと仰せなのじゃ。娑婆には必要以上に理不尽な苦しみを与えられている者たちが大勢おる。その者たちを救済せよと、神様は仰せなのじゃぞ。救済するためには何が必要じゃ? 言ってみい」

 座っていた一人の信者が答えた。

「金です」

 南正覚は大きな声で言う。

「そうじゃ。金じゃ。金が無ければ、なんにも出来ん。電気自動車も電気が無ければ動くまい。我々も同じじゃ。世界中に建設した戦争孤児保護施設を運営するにも、国内の真明高校と大学を運営するにも、真明病院を継続するにも、とにかく金が必要じゃ。よいな。こればかりはワシの予言ではどうすることも出来ん」

 すると、中ほどに座っていた老年の信者が正覚に手を合わせて言った。

「何をおっしゃいます。教祖様の予言は絶対であらせまする。教祖様は、あの核テロ攻撃を予言され、それは見事に的中いたしました。高橋教授や田爪教授が失踪する事も予言され、的中されました。教祖様のお力さえあれば、大学の赤字もなんとか……」

 彼が言い終わらないうちに、正覚は大声で怒鳴った。

「馬鹿者。それとこれとは別じゃ! 予言は予言。赤字は赤字。関係なかろうが。だいたい真明病院のこの数字は何じゃ。何もかもが真っッカではないか。トマト農園か。ここも三角、あそこも三角。赤字項目ばっかりで話にならん。プラスにせい、プラスに! これは人々の命を救う病院ぞ。役人が天下りのために作った特殊法人ではないぞよ!」

 ホログラフィーの会計報告書を何度も指先で叩いて苛立つ正覚を見て、会計係の信者が口を挿んだ。

「申し訳ございません。しかし、雇用している医者たちの組合が待遇の改善を要求して、ストライキを起こしたものですから、どうしてもこういう数字に……」

 南正覚は顔を顰めた。

「待遇の改善? 報酬の吊り上げか。あの娑婆気の塊どもが。かといってクビには出来んしのお……。そうじゃ、奨学金を出してやった学生どもの中で、医師免許を取得した者は未だおらんのか」

 正覚の厳しい視線の先に座っていた、奨学金の管理を担当している穏やかな顔立ちの信者が、代表者からの急な質問に慌てて答えた。

「あ、はい。残念ながら、未だ一人も。ほとんどの者が一般の民間企業や法律系資格者の道へ進んでおりますので」

 南正覚は、その管理担当の信者と左右の信者たちを何度も指差して、怒鳴りつけた。

「医学部に進んだ連中が法律家にじゃと? そち達が金ばかり配って、ほったらかしにしておくから、いかんのじゃ。若年者を導くのは年長者の責任ぞ!」

 顔を赤くして怒鳴っている正覚に対して、会計担当の信者が慎重に口を開いた。

「あの。美空野先生に管理してもらっている例の資金を少しだけ充ててみてはどうかと。赤字補填のためですので……」

 その稚拙な案に南正覚は激怒した。

「馬鹿もん! あの金は臓器移植支援基金を設立するためのものぞ。絶対に手は付けられぬわ! この未熟者が!」

 南正覚は、その浮かんだ腰を椅子に沈め直すと、大きく深呼吸をして自らを落ち着かせた。そして、法務担当の女性信者を大きな扇子の先で指して言った。

「そうじゃ、基金設立の認可はまだ下りんのか」

 女性信者は指先で眼鏡を上げてから答えた。

「はい。美空野事務所の担当弁護士の話では、まだ時間がかかるという事でした」

 南正覚は、持っていた大きな扇子で机の上を一度強く叩くと、視線を左右に泳がせながら言った。

「まったく……。時間、時間、時間、金、金、金……。いったいこの国はどうなっておるのじゃ!」

 正覚は暫く考えて、隣の痩せた長髪の信者に命じた。

「よし、有働代議士に連絡を取れ。週末にゴルフに行く予定を取り付けるのじゃ」

「はい。分かりました」

 その会話を聞いていた、中ほどに座っていた老年の信者が、正覚に再び両手を合わせて言った。

「なるほど。さすが教祖様。この拝金主義的な世の中で、あの実力派代議士を説得すれば、きっと国も動くでしょうし、それを見た人々も心を入れ替えることでしょう。教祖様がお授けになるお言葉で、有働先生も、さぞや清らかに……」

 南正覚は彼の方を見る事も無く、顔に皺を寄せて言い捨てた。

「戯けが。賄賂に決まっておろうが。政治家に金を配るのは、卵かけご飯に醤油をかけるようなものぞ」

 隣に座っていた長髪の痩せた信者が小さく首を捻る。彼の様子に気付いた正覚は、彼を軽く睨み付けると、会計担当の信者の方を向き直して指示を発した。

「そういう事なので、現金勘定から何か理由をつけて、いつもの額を……いや、少し多めにしとくかの……とにかく、例の方法で金を準備しておくように。よいな」

 会計係は、一瞬だけ法務担当の女性信者に眼を向けたが、彼女が背筋を正したまま、白く反射する眼鏡をこちらに向けて何の反応も示さないので、正覚の方を向いてしっかりと首を縦に振った。

 そこへ、少し太った女性信者が、黄色いジャージの中の贅肉を揺らしながら、背中を丸めてコソコソと入ってきた。彼女は正覚の所まで小走りで来ると、小声で正覚に何かを伝えた。それを聞いた正覚は大きな声で確認した。

「なに、警察が来ているじゃと?」

 会議室内が騒めいた。正覚は暫く目を瞑り、考えるふりをして、それから落ち着いて彼女に問い直した。

「それで、何の用じゃ」

 小太りの女性信者は机に居並んで様子を伺っている他の信者たちの視線を気にしながら、さっきより少しだけ声を大きくして答えた。

「教祖様にお目にかかりたいと申しております」

 そう言いながら、その女性信者は、訪れた警察官たちから預かった三枚の名刺を正覚に手渡した。正覚はそれをじっくりと見ながら呟く。

「ほう、本店の捜一か。本庁の捜査一課の警部殿が何事かの。まさか、入信したい訳ではあるまい」

 正覚の眉間に深く皺が刻まれているのに気付いた女性信者は、正覚の表情を伺いながら彼に質問した。

「どうしましょう。何なら、お帰りいただきましょうか」

 南正覚は、今度は本当に少し考えたが、やがて立ち上がって法衣の襦袢の襟を直しながら言った。

「いや、会おう。ワシは警察が嫌いじゃが、今日は会うようにと宇宙の神様が申しておられる」

 正覚のこの発言に、室内は大きくどよめいた。中ほどの席に座っていた老年の信者は、また正覚に手を合わし、体を小刻みに震わしていた。他の信者は互いに顔を見合わせ、何かをメモしたり、両手を組んで天を仰いだりしていた。正覚の魔法の言葉にめまいを覚えた小太りの女性信者は、壁に凭れて必死に立っている。その横で少し屈んだ教祖南正覚は、半開きにした大きな扇子で口元を隠しながら、痩せた長髪の信者と左手を吊った丸刈り頭の信者に向けて小声で指示した。

「光絵の監視とGIESCOへのハッキングは一時中止じゃ。よいな。それから、一応美空野に電話をしておけ、警察がここに来ておるとな。たまには弁護士らしい仕事をするように言っておけ」

 二人の信者が真顔で首を縦に振ったのを確認して、正覚は部屋を出て行った。



 十二

 二〇二一年、年が明けると同時に、南智人は再び無職となった。しかし、今回の彼は前回の時とは違った。彼は自らの意思で職を辞した。勿論、周囲の状況も全く異なっていた。二〇一八年にGIESCOが開発した最新の量子コンピュータを搭載した統合型同時並行処理端末加速装置IMUTAイムタを軍が導入した事により、日本のサイバー空間防衛には磐石の体制が整い、日本は、ネットワーク通信網が世界で最も安全な国として、再度、全世界にその名を轟かした。やがて、金融取引の中心地は日本へと移行し、世界の経済は日本を経由しなければ動かせない状況になった。そして二〇二〇年、政府はNNC社製のバイオ・コンピュータAB〇一八とIMUTAの接続に成功し、ハイブリッド型の生体量子コンピュータ・システム「SAI五KTサイ・ファイブ・ケーティーシステム」が完成した事によって、日本は、世界中で激化していたコンピュータ開発競争の中で、他国に大きく溝を開けて頂点に立った。それにより、世界中から外資、技術、人材、物資が流入し、急速過ぎるほどの経済成長を遂げた。そのような強烈なバブル経済に狂喜する人々の中を、公務員の身分を捨てた南智人は、息子の死の悲しみと廃退した社会システムに対する嫌悪の念を胸の奥に潜め、俯いたまま歩いていた。

 正月ムードの余韻が残る街の中を歩きながら、南智人が自己の経験と社会への訴えを著作にして出版するべく構想を練っていると、電気店のショーウインドウに内側から何枚も張られた超薄型テレビのあちこちに、記者会見を開く科学者たちの動画がいくつも映っていた。それは巷で話題のタイムトラベルに関する科学者たちの会見であった。タイムトラベルは、成功すれば、日本経済の更なる起爆剤として各界から注目されていたが、この時の智人にとっては、それはどうでも良い事であった。ただ、もし過去に戻れるならば、幸子や英章を救えるかもしれないと淡い期待を寄せながら、智人がその映像を見ていると、画面が切り替わり、最新型の薄型携帯電話や単色ホログラフィー表示を採用した薄型ボイスレコーダ、ポケット・インの薄型ビデオカメラなどの携帯端末の紹介の後に、装着型の複合端末「ウェアラブル・ワン」の利便性と快適性を誇張するコマーシャルが始まった。智人はズボンのポケットから自分のスマートフォンを取り出して、暫くそれを眺めていた。昭和の団塊ジュニア世代の智人は、同世代の者たちと同様に物持ちが良く、古い二〇一三年式のスマートフォンを、契約会社からの再三の買い替えの勧めをかわしながら、ずっと使っていたが、それは、視線認識機能によるノータッチパネルが主流となっていた二〇二一年当時においては、いまだに指先で触れてパネル操作する旧式の携帯端末であった。そのスマートフォンは、幸子が生きていた頃や英章が元気だった頃は、家族との連絡に随分と使ったものだったが、もうこの頃には、充電器とズボンのポケットを往復するのみで、ほとんど使う事がなくなっていた。智人は、電気店の前で暫くの間、久しぶりにスマートフォンのタッチパネルを指先でいじっていたが、ふと何かを思い立ったように顔を上げると、そのまま電気店の中に入っていった。一時間ほどして、コートの襟を立てた智人が美しく装飾された小ぶりの手提げ袋を提げて、お礼を言いながらお辞儀をする店員に見送られながら電気店から出てきた。

 帰り道、彼は歩きながら、タイムトラベルについて少し真剣に考えてみた。仮に、過去に戻れたとして、幸子と英章を救えたとしても、それで実際に死んだ幸子や英章が生き返る訳ではない。共に時間を過ごした二人が味わった苦痛がなくなる訳でもない。それに、過去に戻ったとしても、英章の病気を治せる訳ではない。そもそも息子は病気によって命を奪われたのではなく、この国のシステム、この社会の仕組みによって殺されたのだ、だから過去に戻っても仕方がない。もしあの時、自分が過去に拘り、宮大工の仕事に就くことに固執していたら、公務員にはなれなかっただろうし、幸子や英章との幸せな生活も送れなかった。だからやはり過去に拘ってはいけないのだ。未来を変えなければならない。英章のような、自分のような思いをする人間がいなくなるように、この社会の仕組みを変えなければいけない。智人は真剣にそう考えた。

 二〇二一年の夏、照りつける太陽の下、智人は街頭でしきりにビラを巻いていた。彼は人々を導かなければならないと思っていた。強烈な責任感に駆られて、彼の持てる知能の総力を挙げ、これから社会が進む方向と起こるであろう出来事を予測した。そして、それを人々に警告し啓蒙するべく、その内容を「予言」としてビラにしたため、行き交う人々に配った。ほとんどの人々からは相手にされなかったが、それでも彼は、ビラの配布を続けた。英章の募金を集めた時のように、必死で、通りすがりの見知らぬ人々に訴えた。ただ、あの時と違ったのは、この時の智人は毅然としていたという事だった。他人に助けを求める智人ではなく、他人を教え導く智人であった。罵声や嘲笑も、あの時と比較にならないほどに多かった。しかし、今度の智人はそれに耐える事はしなかった。罵声を浴びせる者を高貴な態度で一喝し、嘲笑する者を威勢よく排除した。議論を持ちかけてくる者とは、聴衆の面前で堂々と議論し、論駁した。彼には絶対的な自信があった。彼のその自信は何者にも破壊する事が出来なかった。彼の確信に満ちた態度と信念に満ちた主張に興味を抱いた者たちが少しずつ現われてきた。その者たちは南を崇拝し、従うようになった。南智人は、それを拒絶し、自分は預言をする予言者であるに過ぎないと主張した。そのような彼の謙遜に人々は感心し、彼につき従う人間の数は更に増えていった。

 ある時、南が新首都の街中の大きな公園で多数の聴衆を前に予言を述べていると、群衆の中の一人の若者が、テレビやネットで話題になっているタイムトラベルが可能か否かを、からかい半分で南に質問してきた。南は、聴衆を前にして大声で、可能であると予言した。すると大爆笑が起こり、群集から石や塵が南に向けて投げられた。それでもなお、南は誠心誠意の予言を続けたが、その群集の大多数は、タイムトラベルなどはSF映画のフィクションに過ぎない、と思っていたので、誰も彼のその後の熱弁を最後まで聞くこと無く、群集は散り散りに解散していった。この公園での騒動は、それまで南を奇人扱いして特集していた何誌かの週刊誌と、テレビニュース、新聞などで大きく取り上げられた。それを機に、彼の予言内容がネットでも話題となり、彼は世界中から注目され、同時に馬鹿にされ、まやかし者だと批判された。

 二〇二二年の一月の末、前年十二月二十四日にハイブリッドコンピュータSAI五KTシステム内の仮想空間で時間逆送実験が成功していた事実が、ある全国紙によってスクープされた。その後、暫くの間、新聞各紙やテレビは、タイムトラベルの話題一色であったが、一方でマスコミは、実験の成功を言い当てた南にも注目し、彼を「謎の予言者」として祭り上げた。この頃から、彼は「正覚しょうかく」と名乗るようになり、独特の容貌と法衣姿で、各メディアに多く露出するようになっていった。

 秋になると、時吉総一郎博士による、いわゆる「時吉提案」なる一大論争がマスコミを賑わせた。この論争は、要はタイムトラベルによるパラレルワールドの発生を肯定するか否定するかというものに過ぎなかったが、丁度同じ頃にメディアに引っ張り蛸であった南正覚は、度々、この論争についての意見を求められた。南正覚は科学の専門家ではなかったが、彼が何かの番組で肯定説を支持する発言をすると、マスコミはそれを正覚の新たな予言として大々的に報じた。すると世論の多くは、肯定説へと大きく傾いた。

 二〇二三年、南正覚は「宗教法人真明教団」を設立し、真明教の教祖として活動することになった。正式信者数は百数十名の小さな宗教団体ではあったが、それまで正覚がマスコミを通じて発信した予言の数々が見事に的中していたので、それ見て心中で彼を信じている潜在的な信者はその数千倍に上っていたはずで、その事は日々集まってくるお布施の総額に表れていた。南正覚は財力を得た。すると、その真明教の資金力と、南正覚の発言の影響力に、政治家の有働武雄が目を付けた。有働は政界の実力者であったが、総理就任を目前にして些細な失言から政界を追われていたので、政界に返り咲くためには強力な支援を必要としていた。真明教団も有働の権力を必要としていたので、両者の利害が一致した。真明教団は有働武雄の政界復帰を全面的に支援し、二〇二四年の選挙では、有働の当選を全力で後押しした。同時に、南正覚は、二〇二五年九月二八日に核爆発が国内で起こる事と、それを機に政府が海外の戦争に介入する事を、マスコミで頻りに予言し続けた。そして実際に、同年同日にタイムマシンの旧実験場で核爆発と思われる大爆発が起きた。実験施設の警備対策と安全対策を怠った責任を有働から激しく追及された当時の内閣は総辞職し、その後に有働内閣が誕生した。この頃から、現職総理大臣の後ろ楯と、大爆発の正確な予言をした実績を背景に、宗教法人真明教団は信者の数を急速に増やしていき、教団規模を拡大させていった。そして、国内を始め、世界中に数多くの関連施設を建設していった。その後も順調に信者数を増やしていき、今や、世界中の総信者数が一億人を超える巨大宗教団体へと成長していた。

 二〇三八年現在、教祖「南正覚」こと南智人は、その頂点に君臨していた。



 十三

 左手に大数珠を握り締めた南正覚が静かな足取りで本殿にやって来ると、その本殿の玄関に三人の背広姿の男たちが立っていた。

 男たちは現れた正覚に気付くと、三人とも背筋を整え、素早く凛とした綺麗な御辞儀をした。それで正覚も立ち止まり、彼らと同じように背筋を正して、腰の箇所から真っ直ぐに伸びた上半身を素早く前に下げると、一拍置いて、また素早く上半身を戻した。

 正覚が男たちに、法衣から出た節くれた指先で本殿の室内に上がるよう手招きすると、三人の中の一番年老いた男が手を顔の前に挙げて遠慮したので、正覚はそのまま玄関部分の踏み込みの板張りの上まで降りて、立ったまま、彼らの話を聞く事にした。

 その初老の刑事は、流行遅れのガンクラブチェックのジャケットに、襟の摩れたワイシャツを、首の釦をはずして着ていて、ネクタイはしておらず、傷だらけの古い革靴を履いていた。一目見ただけで、彼が正覚と同年代の生まれで、物持ちも良いという事が判ったが、彼は正覚と違って姿勢もよく、均整の取れた体形を維持していた。そして、その使い古した衣類の上には、年季が入った刑事の顔が、鷹のような鋭い眼光と共にあった。その隣には、長身で体格の良い四十前の男が立っている。その男は無精髭を生やしていて、やはり目つきが鋭い。ダーク・スーツを粋に着こなし、丁寧にアイロンの掛かった白いワイシャツの第一釦だけをはずして、地味な細めのネクタイを少し緩めに締めている。靴は傷だらけではあったが、よく磨かれていた。彼が威勢のよい性格である事は、左目の横に貼った絆創膏と、よく見ると無数に付いている顔の傷痕を見れば分かった。もう一人の男は若かった。七三分けの頭を動かしてキョロキョロト周囲を観察しながら立っている。彼は細身のスーツと真新しいワイシャツに、派手な柄のネクタイを上の方でしっかりと結んで締めていた。スーツの前釦は丁寧にかけてあり、靴も綺麗なままである。彼が新米の刑事で、その他の二人が彼の教育係であろう事は、正覚にも察しがついた。正覚は、ベテランと中堅の二人がスーツの前釦を外し、左手の親指をズボンのベルトのバックルに乗せている仕草を見て、おそらく彼らは拳銃を携帯していると推測した。すぐにホルダーから銃を抜けるように構えているのだろうと思われたからだ。それで、南正覚も少しだけ腹筋を縮ませ、緊張度を高めた。

 正覚の警戒する表情に気付いたのか、ベテランの刑事は正覚に対して、本殿の装飾を色々と褒めて機嫌をとってきた。正覚は、その偽の賞賛に惑わされること無く、彼らに来訪の理由を尋ねた。

「警部殿、ええと、三木尾さんとおっしゃいましたかな、今日は一体どういうご用件で。この南正覚に何を訊きたいのかな?」

 警視庁捜査一課の警部・三木尾善人みきおよしとは少し面食らったようであったが、彼もまた思い切って、単刀直入に正覚に尋ねた。

「実は、おたく達の教団とストンスロプ社とは、どういう関係なのかを聞きたくて、伺ったのですよ」

 南正覚は、その老刑事の眼球をじっと見つめた。コンタクトレンズは入れていないようだった。過去に、正覚は地方の飲食店で有働と会食しているところを、店員に扮した週刊誌の記者に、至近距離から盗撮された事があった。その時に、その記者はコンタクトレンズ型の隠しカメラを自分の眼球に装着していた。その事があって以来、正覚は他人の眼球には注意を払っていて、その経験が積まれてくると、正覚は他人がコンタクトレンズを装着しているか否かを直ぐに見極められるようになった。しかし、今の正覚の関心は、そこには無かった。彼の意識は、自分の同世代の目前の男が、自分よりも健康的で若々しいことに集中した。正覚は、三木尾がコンタクトレンズを付けていない事は分かったが、かく言う正覚も、実はコンタクトレンズを入れていたので、少し悔しかったのだ。正覚は、修行者として徹底的に節制した生活を送っており、それは克己的なものでもあったから、この時代になってもまだ人工心臓を埋め込んでいるとはいえ、その他の部分の肉体的健康には十分な自信があった。しかし、その正覚も寄る年波には勝てず、読む文字、書く文字が近頃薄れてきたので、眼科医院で診察してもらった。眼科医によれば、加齢による視力低下であった。つまり老眼である。それで眼鏡をかけようと思ったが、普段、信者たちに対して、健康は修行の賜物と豪語していた手前もあり、密かにコンタクトレンズを入れる事にした。世の中の大抵の眼科医が眼鏡を着用している事を鑑みれば、些かの不安と疑問があったが、信者たちの信仰心を削らないためにも、コンタクトレンズを彼は選択した。だが、いま彼の前に立っている初老の刑事は、裸眼ではっきりとこちらを見ている。そういえば、この男は腰も曲がっていないし、よく見ると同年代の者たちに比べて皺の数も少ないかもしれない、自分は結構な金を消費して、他の信者たちの希望のために、仕方なく精一杯の若作りをしているのに……悔しい。教祖南正覚は、そう思った。そして、こうも考えた。隣の喧嘩っ早そうな刑事はなんだ? 不精を気取ってはいるが、結構シックにまとめていて、なかなかお洒落じゃないか! その髭、わざと生やしているだろ。待てよ、若い頃、こういう格好をした刑事を映画で見た事あるぞ。なんて題名だったかな。俺は若い頃に映画館なんかには行けなかったから、たぶん、テレビ放映版で見たに違いない。何だったかな。老刑事と一緒に連続殺人犯を追いかける話。まあ、いい。どうせ、その映画の公開されていた時は、この男は未だ生まれていないだろう……待てよ、もしかしてこいつも、実はワシと同年代で、見た目が異常に若いのか? だとすると、こっちの若造も実は……いや、この馬鹿は違う、目つきが子供だ、しかし、何かくやしい、腹が立つ。南正覚は、単に若さへの嫉妬だけから眉間に皺を寄せた訳ではなく、彼らの堂々とした挑戦的な態度と醸し出す洒落た雰囲気、特に作られた無造作に、無性に腹を立てていた。それで、三木尾の質問にも、つい、ぞんざいに回答した。

「知らんよ。ワシらとは何の関わりも無い」

 それは真実であった。修行者南正覚は、宇宙の神に全霊を捧げる者として、いくつかの誓いを自らの中に立てていた。怠けない事、有言は実行すること、他人にはしっかり挨拶すること、歯磨きは三分以上すること、出されたご飯は残さないこと等であったが、その誓いの中には、嘘をつかないことというものもあった。だから彼は、信者には勿論、誰に対しても決して嘘を言わなかった。しかし、正覚の言動を訝った刑事たちは、彼の答えを疑っているようだった。

 一番年上の刑事が正覚の目をじっと見ながら、さらに口を開いた。

「南米でも、随分と熱心に布教されておられるようですなあ。この戦争の最中に。大変だったでしょう」

 真明教団は、確かに南米で布教活動をしていた。さらに、現地にいくつかの施設を保有している。だから、南正覚は正直に答えた。

「うん。まあ、確かにな、苦労は多かった。それで、何が訊きたいのじゃ」

「いや、実はね、私、先日向こうへ行ってきたのですよ」

「ほう」

 この老刑事が、戦争が終結したとは言っても、お世辞にも治安が良くなったとは言えない南米まで地球を半周して実際に足を運んだという事に、南正覚は驚いた。というのは、月に一度の施設巡回でも、南米支部と中央アジア支部への訪問は、長い間実施していなかったからである。それで、南正覚は、この刑事がその年で南米まで行ったというのが本当かどうか、彼の目を見て真偽を探った。南に凝視されていたその老刑事は、南の視線を気にしながら話を続けた。

「向こうの人たちが言うには、おたくの信者は、そのほとんどがイカモノかゲリラだってことらしいのですよ。それでね、これはまあ、噂なんですがね……」

 その老刑事は、鴨居の上に掛けてある一幅の書に目を転じると、少し間を置いて、今度は慎重に言葉を選びながら話しを続けた。

「噂では、どうも、向こうのゲリラの活動を、真明教団が裏からバックアップしていたんじゃないかって……なんせ、私は日本人でしょう。向こうで現地の人たちに色々と訊かれましてね。まあ、私も警察官なんで、それで、こうして今日、お話を……」

「何をぬかすか、この無礼者が」

 正覚の低く嗄れた声が、神殿に響いた。

「ワシらは、あの戦争で焼け出された戦災孤児や民間人を救うために金を送っておるのじゃ。ワシらが南米にどれだけの数の戦災孤児保護施設を建設したと思う。ワシらはその施設に食料や医薬品などの必要物資と運用資金を提供しているだけじゃ。勿論、信者の中には、前科者もいれば、ゲリラ兵士もいる。しかし、それがどうした? 彼らには未来への希望が必要じゃ。ワシの予言が必要なのじゃ」

 正覚の言葉に嘘はなかった。彼には信念があった。戦地で焼け出された人々が流浪する姿をテレビで見て、その姿をかつての自分に重ねた。そして、その人たちを放ってはおけないという義侠心と強烈な責任感が彼を動かした。現地の政府に多額の賄賂を提供し、ゲリラ軍側にも大量の食料を第三国経由で送り、双方から十分な了解を得た上で、両者が立ち入らない非戦闘区域を確保した。そして、その区域に西洋風の寺院を建て、まず戦争孤児から収容し、保護した。さらに入信を希望する者たちは、お布施の有無に関わらず、誰でも収容した。入信者の多くはゲリラ軍の兵士たちの家族であった。ゲリラ軍は小部隊でジャングルの中に分散して奇襲を繰り返す遊撃部隊の集団であったから、ほとんどの兵士たちは、村々や田舎の小都市に自分の家族を残して、広大な戦闘区域の中を転々と移動する事を強いられていた。彼らがもともと生活していた村や小都市は過疎化が進み、十分な国の支援もなく、経済的発展からも取り残され、衰退の一途を辿っていた。人々に職はなく、疲弊した者の中には、やむを得ずして犯罪に手を染めた者も多かった。そのような者たちの多くは、戦争が始まるとゲリラ軍に身を投じ、職業軍人として働いた。そして、戦闘区域が拡大していく中で、兵士たちは自分たちの家族に、真明教団の施設に行くよう勧めたのだった。施設の中にいれば、協定によって政府軍からもゲリラ軍からも攻撃が行われる事は無かったし、信教の自由を盾としていたので、政府側の警察権力が侵入してくる事も無かった。だから、ゲリラ軍の兵士たちは、安心してそこに家族を預けることができた。そうすれば、政府軍に家族を傷つけられる心配が無かったのである。南正覚は、その者たちの心情と責任感を理解し、戦争難民やゲリラ軍の兵士の家族は勿論、政府軍の兵士の家族であっても施設に収容した。噂は広まり、生命の安全を求める人々が、真明教への入信と施設への入所を希望して、施設の前に殺到した。そして、施設に人が収容しきれなくなると、安全を求めた人々は、自主的に非戦闘区域内にバラックを建てて住むようになり、やがて、教団施設を中心としたスラム街が形成された。このようなスラム街は、正覚が南米で建てさせた数箇所の施設の場所にそれぞれ形成され、それらの場所で暮らす人々の総数は五千万人に近い人数に及んでいた。それでもなお、正覚は、お布施をしないこれらの人々に対して、彼らの生活のために必要な食料や物資を送り続けていたので、その経済的負担は、教団の運営する他の施設の経営を圧迫し、猛烈な勢いで教団全体の負債を拡大させていた。

 そのような経緯や内部事情はおろか、愚行と批判されながらも支援を続ける南正覚という人物の歴史的背景など、まったく念頭に置いていないであろう老刑事のデリカシーに欠けた質問に、正覚は怒り、目を剥いたのである。しかも、その隣で若い七三分けの刑事が、いかにも先輩たちの話を聞いていないと言わんばかりの態度で視線を明後日の方向にむけている。そればかりか、面倒くさそうに顰め面をしている彼の横柄な態度を見て、南正覚は怒り心頭に発した。彼の血圧は急激に上昇する。正覚の怒りの真の理由を察したか否かは不明であるが、横にいた中堅の刑事が、わざと伸ばした偽りの無精髭を触りながら、話題を転換させた。

「たしか、こちらの教団の方々が信じておられるのは、予言を信じて悪しき事態を回避する……そういう事ですよね」

 南正覚は自制しながら静かに答えた。

「そうじゃ。それが宇宙の真実じゃ。ワシが予言した事は必ず起こっておる。予言は正しい。だから、それを信じて、危険を回避すればよいのじゃ。しかし、実際には回避できていないようじゃがの」

 彼はまた真実を述べた。実際に彼の予言は当たっていた。それに、いつも、その予言を政府に提言していたし、マスコミを通して国民にも提示していた。それなのに毎回、信者以外は誰も彼の予言を信用せず、結局、彼の予言したとおりの悲劇が実現されるのであった。政府や国民が事前の対策を講じれば回避できたはずの悲劇が、人々の怠惰や無知蒙昧によって、悲しくも毎回、繰り返されていた。それを思った正覚は、大数珠を強く握り締めた。すると、少し考えていた老刑事が、首を傾げながら尋ねた。

「時吉提案では、パラレルワールド肯定論者でいらっしゃいましたな。その方が予言を?」

 正覚は両目を瞑り、考えた。が、彼の言っている事の趣旨がよく解らなかったので、とりあえず顔の前で合掌して、静かに答えた。

「どの未来においても、宇宙の神により予言された事は絶対に起こる。宇宙の神様は万能の神様なのじゃ」

 薄目を開けて彼らを見てみると、南の回答を聞いた老刑事と中堅の刑事は互いに顔を見合わせていた。少し同様しているようだった。魔法の言葉は効く。南正覚はこっそりと微笑んだ。すると、二人刑事から少し離れていた若手の刑事が、下を向きながらボソリと言った。

「丸投げでしょ、もう……」

 彼は小さな声で呟いたが、南正覚には確かにはっきりと、そう聞こえた。教祖南正覚はその一言に腹を立てた。もともと、あまり気に入っていなかった派手なネクタイの青瓢箪あおびょうたんが生意気な発言をした事に、しかも、自分の息子くらいの年齢の若造に年長者を小馬鹿にしたような小声でこっそりと吐き捨てられた事に腹が立った。その若い七三分けの刑事は、普通の老人なら聞こえないくらいの声の大きさでボソリと言ったのだ。南正覚は、自分の耳は遠くなっていないと自負している。その若い刑事は、どうせ老人には聞こえないだろうと思って小声で言ったと、南正覚は解釈した。怒った南正覚は、大数珠を握っていた左手をその若い男の前に突き出して怒号を上げた。

「なんじゃと。もういっぺん言ってみい!」

 即座に彼の隣にいた老刑事が、その若い刑事の後頭部を叩いて、言った。

「すみません。――馬鹿、謝れ!」

 先輩刑事に促されて、その若い刑事は、右手で後頭部を抑えたまま、教祖南正覚に軽く頭を下げた。その軽い頭の下げ方と、口を尖らせて横を向いた彼の態度に、正覚の怒りは倍増する。正覚はその若い刑事に飛び蹴りしてやろうかと思ったが、宗教家としてそれは控えた。さて、どうしてやろうかと心中で怒りを膨らませながら、正覚がその若い刑事を睨みつけていると、こちらを見ていた中堅の刑事が取り成すように発言した。

「とにかく、おたくではゲリラの支援は、なされていないと」

 ナイス・タイミングだと正覚は思った。彼は、これで面子が保たれたと安心した。若い刑事に飛び蹴りしても、着地に失敗する事は目に見えていたし、玄関の床は石敷きだから、落ちたら痛い。だからと言ってこの不届きな若者を放置しておく訳にもいかない。巨大宗教団体の教祖としての面目が丸潰れである。正覚がそう考えている時に、その中堅の刑事は話題を転換してくれた。南正覚はその助け舟に遠慮なく乗る事にした。中堅刑事の気遣いに解顔しそうになった正覚であったが、彼はそれを必死に抑え、宗教家としての威厳を保つべく口を引き垂れて、鼻の穴を膨らませた。そして、宗教家らしく目を閉じて背筋を伸ばし、正直に答えた。

「当然じゃ。なぜワシらが戦争の支援をしなければならん。そんな事は断固として否定するぞよ。それとも何か、警察はワシらの信仰にケチを付けに来たのか? 権力が信仰の自由を侵害するつもりか?」

「いえ、そんなつもりは……」

 初老の刑事が慌てて口を挿んだ。彼は笑顔を作り、手を振りながら言っている。その横で、さっきの若い刑事が宙に向かって何やらボソボソと話していた。彼は最新式の携帯電話『イヴフォン』で誰かと通信しているようだった。イヴフォンは脳内に通話相手の音声と記憶画像を再現する通信機だから、周囲の人間には通話相手の声は聞こえないし、ホログラフィーも見えない。だからバレないだろうと思ったのだろうか、この若造め、と正覚は苛立った。正覚はその若い刑事を再度睨みつけたが、彼は後ろを向いて、まだコソコソと通話を続けた。その横着な態度に南正覚は憤慨した。

 通信を終えたその若い刑事は、隣にいた老刑事に報告する。

「警部、何やら新原しんばらさんが直ぐに戻って来いって言っているみたいです」

 更に彼は老刑事に何かを耳打ちをした。老刑事は眉を寄せると、深く溜め息を吐く。南正覚はその老刑事の顔をみて、ピンときた。高い顧問料を支払っている美空野弁護士が顧問弁護士らしい仕事をしたに違いない。そう察した南正覚は、それが嬉しくて、つい上がりそうになる頬を必死に下げた。

 顔を上げた老刑事は、正覚に言った。

「すみません。急に戻らんといかんみたいで。お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした」

 そこまで言うと、老刑事は少ない髪を掻きながら、さらに正覚に言った。

「いやあ、しかし、これで安心しましたよ。例の田爪の事件で、南米の市民は随分と怒っているみたいなんでね。もしも教団がそれに関与していたら、イチBあたりのレベルで警戒態勢とって、ここやら他の施設やらを警備しなきゃならんかなと思っていたんですよ。南米から移住している人間も多いですからね。いや、でも本当によかった。安心しました」

 初老の刑事が一瞬見せた鷹のような鋭い眼光に、正覚は少し萎縮したが、彼ら警察権力が自分たちを弾圧するつもりで脅迫してきたと感じた正覚は、その脅迫に臆する事なく、ただ黙って、彼の目を睨み返した。だが一方で正覚は、警察が自分をそこまでの警護対象者として考えている事に、少し満足もしていた。

 初老の刑事は正覚の目を見たまま、同伴した刑事たちに言った。

「じゃあ帰るぞ」

「どうも失礼いたしました」

 中堅の刑事に続いて、さっき若い刑事がお辞儀をした。正覚にはその御辞儀の仕方が、どうも違っているように感じられた。正覚は彼に手本を示すつもりで、凛としたお辞儀をしてみせた。若者には手本を見せること。それが、彼が「宇宙の神」にした誓いの一つでもあった。

 高めの敷居を跨いで三人は本殿から出ていった。南正覚が振り返り、戻ろうとすると、背後からさっきの老刑事の声がした。

「あ、それからもう一つ。田爪の奴がね、生きているかもしれんのですよ。なんせ、奴も信念の男ですからな。ま、何か気になる事がございましたら、私どもまでご一報下さい。市民を守るのが我々の義務ですから」

 南正覚が少しだけ振り返ると、ベテラン刑事がこちらに向けて軽く敬礼している。

 正覚は、彼につられて持ち上げてしまった右手を誤魔化すように細かく振りながら、彼らに礼を言った。

「うむ。わかった。ご苦労じゃった」

 戸を閉めて、刑事たちは去って行った。

 南正覚は法衣の裾を鳴らして後ろを向き、本殿の奥に戻って行く。その額には、大粒の汗が吹き出ていた。



 十四

 新首都圏から伸びる新高速道路の自動走行誘導パネルの上を一台の高級AI自動車が郊外に向け進行していた。二〇三二年に開催された博多オリンピックを機に、AI自動車の自動運転システムと路面の誘導システムを連動させた「定速自動車流制御システム」が九州自動車道の一部と福岡市内の一部で試験的に導入された。このシステムは、帯状に制御パネルが敷かれた路面をすべての自動車が人工知能に運転を制御された状態で、同じ速度で走るというもので、ドライバーは入り口のインターチェンジで、予定する出口のインターチェンジを登録するだけで、後はすべて自動で車が進むので、ハンドルを握る必要はまったく無いというものであった。逆に手動で運転する者がいると、かえって危険であるので、システム上での手動運転は全面的に禁止され、重い反則金が課された。このシステムは、インターチェンジやサービスエリアからの合流の際の速度調整が難点で、リアルタイムで絶えず変化するシステム上の全車両数と変則的に変化する条件の下で、それを瞬時に予測計算して先回り的にシステム全体を調整しなければならないという点で、技術的に困難を極めた。しかし、この点を、生体量子コンピュータ・システム「SAI五KTシステム」が一気に解消してくれた。SAI五KTシステムに接続した定速自動車流制御システムの試験運用の成果は目覚しいもので、運用区間での試験期間内に起こった事故は一件も無く、渋滞が発生した事も皆無であった。加えて、ドライバーはシステム上を移動している間に他の仕事ができ、あるいは休息を取ることができ、また、移動時間もほぼ正確に予測できたので、利用者からは概ね評判がよかった。丁度その頃、全国の高速道路は耐用年数の限界に達し、補修工事では対応できず、全面的に再建築する必要に迫られていた。そこで政府は、新たに建設する高速道路にこのシステムを導入することで、利用者数の向上と通行料収益の上昇を見込んで、全国高速道路改造計画を打ち立て、ここ四、五年で、全国の高速道路のほとんどが、制御システムを導入した新高速道路として生まれ変わっていた。

 その新高速道路上を無音で走る高級AIリムジンの運転席で、長髪の痩せた男性信者が夕食の弁当を食べていた。後部の迎賓席に二つの人影がある。一つは、法衣を着て、装飾された布で包まれた白木の箱を膝の上に大事に乗せ、両手でしっかりと支えていた南正覚であった。もう一つは、ルーフライトの辺りから発せられた光線によって作られた、高級スーツを着た眼鏡の男のホログラフィー画像である。三木尾警部たちへの応対を終えた南正覚は、弁護士美空野朋広とネット回線を使ったホログラフィー通信をしながら、新首都近県の千穂倉ちほくら山の中に建つ総本山施設に向かっていた。

 ソファーの上に投影された半透明の美空野の像が南正覚の方を向いて尋ねた。

『それで、警察は何と言ってきたんだ』

 南正覚は、膝の上に聖櫃の包みを乗せたまま、リムジンの皮製のソファーに深く腰掛け、遮光ガラスから、反対車線を一定速度で規則正しく間隔を空けて流れてくる車両の列を眺めながら、彼に答えた。

「別にたいした事は言っとらんよ。ワシらがストンスロプ社と関係しているかとか、南米のゲリラ軍を支援していたのかとか、まったく的外れな事ばかり訊いてきおった。それにしても、警察も、少し見ない間に随分と阿呆になったものじゃ」

 正覚の向かいのソファーの上に投影された美空野が言った。

『彼の事を何か言っていたか』

「いや。ああ、そういえば、帰り際にゴチャゴチャと言っておったな。何かあったら連絡をくれだとか、何とか。どうやら、奴らも探しているらしい。ワシの所へ来たのは、どうも、その情報を得る事が目的だったようじゃ。相変わらず、警察は頼りにならん」

『そうか。だが、権力による宗教弾圧がいかに巧妙なものであるかは、これまでの歴史が物語っている。気を付けるんだぞ。警察は信用ならん』

「よく分かっとるよ」

 正覚はホログラフィーの美空野を睨みつけると、横のテーブルのホルダーからワイングラスを取り出し、そこに注がれた赤ワイン越しに美空野の立体映像を見ながら、言った。

「で? そっちの方はどうなんだ。その信用ならん警察より先に、田爪を見つける事は出来たのか?」

『馬鹿。ネット回線なんだぞ。発言に気をつけろ』

 美空野朋広は顔を顰めた。

 正覚は、少し笑みを見せてワインを飲み干すと、ホログラフィーの美空野に謝った。

「すまん。すまん」

 ソファーの上の半透明の美空野が腕組みをして言った。

『どうも彼は、会長のお宅か、例の研究所に囲われているような気がしている』

「それは、どういうことじゃ」

『このところ、会長の様子がおかしくてな。おまえの言うとおり、頻繁に研究所に足を運んでいる。体調も良くないというのに、わざわざ自分で視察に行っているんだ。だから、もしかしたらって思ったんだよ』

 確かに正覚にも、ストンスロプ社の光絵会長が、何故、自社製のホログラム通信を使用せずに直にGIESCOに足を運ぶのか不思議だったが、それを問うことなく、美空野に彼自身の進退を問うてみた。

「それで、あんたはどうするんじゃ。大口の顧問先である依頼人を裏切るのか」

 ホログラフィーの美空野朋広は首を横に振った。

『馬鹿な。俺は弁護士だ。依頼人を裏切る事など有り得ん。だが、依頼人が違法行為をしているとなれば、話は別だ。逃亡中の殺人犯を匿えば、犯人蔵匿ぞうとくの罪にあたる。私は法律家である以前に法曹だ。不正を見過ごすわけにはいかんよ』

 得意気に笑みを浮かべて眼鏡を整えている美空野のホログラフィーを見ながら、正覚は皮肉たっぷりに言った。

「ふん。ご立派な事じゃ」

 美空野には正覚のこの一言が聞こえなかったようで、彼はそのまま話を続けた。

『それに、お前とは、教団設立以来の仲じゃないか。友人の命を狙う輩を匿うのなら、いくら依頼人といえども、支援する訳にはいかんだろう』

 美空野の言葉に、目を細めて眉を顰める正覚を見て、ホログラフィーの美空野朋広は精一杯の笑みを作りながら正覚に言う。

『まあ、そう心配するな。いつものように俺に任せておけ。上手くいくさ。何なら、今夜これからでも、研究所に彼が居るかどうか確認に行ってこよう。警察に引き渡すかは別にしても、彼の居場所が分かるだけでも、安心だろう?』

「ああ、頼むぞよ」

 そう言うと、正覚は再びサイドガラスの外の風景に目をやり、夕日の中を行き交う自動走行中のAI自動車の列を眺めた。

 美空野朋広弁護士は話を続ける。

『もし、俺の予想通り、あそこに彼が居るなら、警察には見つけられんだろうし、彼も簡単には外に出られないはずだ。ただ、会長が彼を始末してしまうかもしれんな。彼は会長の養女を殺した男だからな。普通に考えれば、放ってはおかんだろう。だが、不謹慎なのを承知で、あえて言えば、客観的にはその方が教団にとっては都合がいい。そうだろ?』

 南正覚は声を荒げた。

「馬鹿を言うな。人の命を何だと思っているのじゃ!」

 正覚は、長い付き合いの美空野の真意は察していたが、あえてそれに乗り、強く否定した。しかし、心中では、もう一つの可能性、つまり研究所に彼が居なかった場合はどうなるかを検討していた。正覚にとっては、そちらの方がより危険であり、回避したい事態であった。彼の居場所が明確である方が、それなりの対策もとれるし、毎日安心して眠れるというものだ。正覚としては一刻も早く彼の確定的な居場所を知りたかった。だが、美空野朋広はそんな事など検討しないまま、一方的に会話を進めていった。ホログラフィーの美空野朋広は続けた。

『そうだ。だから、そうならないように手を打たねばならん。だから俺は、彼を探しているんじゃないか。それより、そっちの方こそ、どうなっているんだ。例の物は何か分かったのか』

「パンドラEの事か」

『だから……』

 迂闊に発言する正覚に対して、美空野朋広は、ネット回線での言語照合による盗聴を恐れ、あからさまに苛立ちを顔に表した。そのホログラフィーの美空野の表情を見て、正覚が美空野をからかうように言った。

「すまん、すまん。ネット回線だったな。だが、心配するな。ワシらの優秀な科学班の者たちが、回線にアンチ・スーパー・エシュロンの盗聴対策を施してくれておる。なあ」

 正覚は、ホログラフィーの美空野の映像越しに、前の運転席で弁当を食べていた長髪の信者に確認した。コンビニの弁当の白米を口いっぱいに頬張っていた信者は、慌ててお茶を飲み、口の中の物を胃に流し込むと、少しむせながら左後ろを向いて、ホログラフィー越しに教祖南正覚に返答した。

「あ、はい。教祖様。ばっちりだと思います」

 思わぬ方向から集音された音声に驚いた表情をしていた美空野のホログラフィー映像に向かって、正覚は得意になって言った。

「な。聞いたろう。あんたこそ、そう心配するな」

『ん……んん……』

 ホログラフィーの美空野朋広は頬を下げた。そして、直ぐに話題を修正した。

『で、その優秀な科学班の力で、目的の物の正体は判明したのか?』

「……」

 今度は正覚が口を噤んだ。美空野の問いに対して明確に答えられるだけの成果を信者たちがあげていなかったからである。しかし、彼はそれを信者たちの実力のせいにするような小物ではなかった。だからと言って嘘もつけなかったので、彼は黙っていた。すると、立体映像の美空野朋広が正覚を何度も指差しながら言った。

『あのな。俺もいい加減な情報だけで、顧問先の不正を告発する訳にはいかんのだよ。任せろと言ったのは、お前の方じゃないか。だから、そっちの顧問報酬も考えてやったんだぞ』

 南正覚はふて腐れた顔で答えた。

「ああ、感謝しとるよ。先生。だがな、ワシの方も、これまで、あんたへの顧問報酬とは別に、それ以上の額の仕事をあんたに紹介してきたじゃないか。貸し借りは無しのはずではなかったかの?」

 正覚は美空野の、まるで法廷で反対証人を詰問するかのような態度に対し、毅然と反論した。その正覚の威厳に、半透明の美空野朋広は少し勢いを和らげた。美空野朋広は話を続けた。

『ああ、分かっているよ。とにかく、どうなんだ。分かったのか』

 南正覚は片笑みながら言った。

「まあ、そう慌てるな。物が物だけに、慎重に事を進めておる。じきに、ちゃんと知らせてやるぞよ」

 ホログラフィーの美空野朋広は眉を上げて興奮した声で言った。

『何? そうなのか? じゃあ、ある程度の目星は立っているのだな。ところで、お前は今、どこにいるんだ。首都圏本部か?』

「いいや。これから総本山に、この聖櫃を戻しに行くところじゃ。新高速の上じゃよ」

『そうか……』

 ホログラフィーの美空野朋広は下を向いて、映像化されていない何かを調べる仕草をすると、再び正覚の方を向いて、また一方的に話し出した。

『じゃあ今夜、遅い時間なら、こっちで会えるな。いつもの料亭でどうだ。俺も研究所の方の結果を報告したい』

 正覚は、握っていたワイングラスを脇のテーブルのホルダーに戻すと、丸坊主の頭を撫でながら言った。

「総本山に戻ったら祈りを捧げねばならんからのお。今日の祈りは特別でな。念入りに拝まねばならん。だから、それから戻るとなると、かなり遅く……おい、聞いているのか」

 また、映像外の何かを真剣に操作している美空野に、苛立った正覚が怒鳴った。

 美空野朋広は正覚の方を少し見ると、すぐに左手の高級腕時計を確認しながら、言った。

『すまん、すまん。光絵会長に連絡を入れる時間でな。悪いが切るぞ。遅くなるのは構わん。その方がこっちも都合がいい。じゃあ、いつもの料亭で待っているからな』

 鈍い機械音と共にルーフライトの辺りからの光の照射が終わり、停止した美空野の半透明の姿が波打ちながら消えていった。

 南正覚は軽く舌打ちして言う。

「まったく。こっちの都合も考えずに」

 運転席で、食べ終わった弁当箱を片付けながら会話を聞いていた長身の痩せた信者が、正覚に言った。

「相変わらず横柄な方ですね」

 正覚は再び外の景色に目を遣りながら、その痩せた長身の信者に説明した。

「弁護士なんぞ、皆こんなものじゃ。どいつもこいつも、若い頃に大金を注ぎ込んで、他人の事などお構い無しに勉強ばかりしていた連中だけじゃないか。たいした労苦でもない体験を、さも苦労して弁護士になったかのように自慢げに語る奴らばかりじゃ。新養成制度に変わっても、そんな奴らが後輩を指導するのじゃ。世の中がちっとも良くならんはずじゃよ」

 すると、その痩せた信者は正覚に言った。

「弁護士が悪いのですね」

 正覚は溜め息を吐いて、彼に説教した。

「馬鹿者。特定の職業に限った事では無いわ。教師も先輩も、職安の官吏も職場の上司も同僚も、通行人も刑事も、医者も弁護士も、ワシが見てきた人間は、皆同じじゃ。皆、自分の事ばかりなのじゃ。それが人間の正体。だから、人間には宗教が必要なのじゃ。心の中の法がな。よいか、宗教は決して、自己を高める為にあるのではないぞ。ワシは、カルチャーセンターの講師をしているつもりはない。覚えておけ」

 そして、正覚は、今度は反対側の窓を見て、ガラスに反射する自分の姿を見ながら、不機嫌そうに言った。

「それより気に食わんのは、美空野の奴め、こちらからの仕事の紹介が途絶えた途端に、顧問料の金額を跳ね上げおった。まあ、今度の件で、一応は、それも据え置いてもらっているが、そろそろ顧問弁護士も替え時かもしれんな」

 すると、運転席から、長身の信者が体を反転させて身を乗り出さんばかりの体勢で、正覚に提案した。

「あの町田先生はどうでしょう。まじめそうですし」

 正覚は、若いその信者が弁護士の町田に気があるのを感じ取っていたので、目の前の若者を少しからかってやる事にした。

「あの先生は、美人じゃしのお」

「いえ、教祖様……別に、そういった理由では……」

 顔を赤くした痩せた信者を見て、正覚は笑った。

「ははは。冗談じゃ。しかし、悪くはないかもな。いや、まじめなのは良い事じゃ。そうじゃ、昨日は、そちが運転して送っていったのじゃったの。どうじゃ、何か独立するような話はしておったか」

「いえ、特には……」

 長髪の信者は残念そうに首を左右に振った。

 正覚は大きな扇子を広げると、それで自分を扇ぎながら言った。

「そうか、惜しいのお。随分と優秀そうじゃが……。ま、少し考えてみることにしよう」

 灯り始めた対向車のヘッドライトに反応して、フロントガラスのカラー濃度が少し上がった。秋の夕日に照らされた山々には、早めの紅葉がうっすらと広がっている。山々の中腹に作られつつあるニュータウンでは、少しずつ明かりの数が増え始めていた。教祖南正覚を乗せた高級リムジンのAI自動車は、夕日に照らされた橙色の山間を真っ直ぐに延びている新高速道路の上を、山裾に広がる暗闇に向かって定速で進んで行った。



 十五

 次の日の朝、正覚はスポーツジムに居た。

 彼は、金糸と銀糸が織り込まれた専用の黒い運動着姿で、滴る汗を首に掛けたタオルで拭いながら、必死に運動用固定自転車のペダルを踏み込んでいた。

 汗だくの南正覚は、息を切らしながら言った。

「暑い。もう少し下がれ」

 正覚を取り囲んで立っていた十人前後の信者たちが、一斉に正覚から距離をあけた。

 南正覚はペダルを踏みながら言う。

「どうして、こんなについて来たんじゃ。暑苦しいのお」

 いつも正覚の側にいる長身の痩せた長髪の信者は、今日は黒いサングラスを掛け、耳からイヤホンコードを伸ばしている。黒のジャケットを着た彼は、教祖南正覚を警護していた。ただ、なぜかジャケットの下は、いつもの黄色い運動着のままであった。ジムには、正覚たちの他に数人の利用客が来ていたが、長身の信者はその一人一人を、サングラスの奥の鋭い眼差しでチェックした。バイクを漕ぐ南正覚の向こうには、豊満な肉体に小さめのシャツと半ズボンを身につけて体操をしている若い綺麗な女性が一人、その先の壁際のベンチの端に、白いジャケット姿の白髪の男性が一人、その隣に、体に密着した運動着で惜しげもなく女体の曲線美を露にして座談している女子大生らしき人間が三人いた。向こうのマシンではベンチプレスをしている日焼けした若い男が一人、その奥の廊下に、ビキニ姿でプールに向かう途中の胸の大きな女性が二人歩いている。奥のガラス窓の向こうでは、レオタード姿の女性たちが飛び跳ねていた。

 キョロキョロと周りを観察している長身で長髪の痩せた信者の後ろでは、茶色のパーカーを深く被った大柄な男が、ランニングマシンの上で全力疾走していた。長身の痩せた信者はその男に気を向ける事なく、奥の部屋で踊っているレオタード姿の女性たちや、廊下を歩く水着姿の女性達ばかりを目で追っている。正覚からの冷ややかな視線に気付いた長身の信者は、慌ててサングラスを外して答えた。

「しかし教祖様。もしも教祖様の御身に何かありましたら、大変です。私たちは生きてはいけませんから」

 すると、正覚のマシンの前で仁王立ちしていた、左腕を三角帯で吊った丸刈り頭の男が、その左腕を少し持ち上げながら言った。

「そうです教祖様。教祖様の予言による導きがなければ、またこのような事になりかねません。私たちには、教祖様が必要です」

 教祖南正覚は、彼らの忠誠らしき言葉を一蹴した。

「ふん。どうせ自分たちの為であろうが。だいたい、その左腕でどうやってワシを守るというのじゃ」

「左腕の一本や二本、教祖様のお命に比べれば、どうでもようございます。田爪が現れた際には、この私が盾になって……」

 正覚は呆れた顔で言った。

「左腕は一本しかなかろうが。馬鹿チンが。だいたい、そち達は、親御さんから授かった大事な体を何だと思っておるのじゃ。それにな、昨晩の美空野の話では、田爪は例の研究所から出られん状態だそうだ。だから、これで暫くは安心じゃ。そち達も、必要以上に気を焼くでない」

 正覚は周りを取り囲んでいた信者たちに向かってそう言った。

 長身の痩せた信者が前に出て、進言しようとする。

「しかし、一昨日の侵入者といい、昨日の警察といい、不可解な事が多ございます。どうか、くれぐれも……」

 正覚は動かしていた両足を止め、長身の信者の方を向いて言った。

「ええい。大丈夫じゃと言っておろうが。例の侵入者は、どうせ流しの『居空きイアキ』の仕業に違いない。美空野が今日にでも直々に、警視庁に刑事告訴すると言っておった。時機に捕まるわい」

 正覚がそう長身の信者に怒鳴りつけた時、彼の後ろのランニングマシンの上で全力疾走していたパーカー姿の男性が躓き、マシンの上から後方へ転げ落ちた。

 その男を一瞥した正覚は言った。

「うるさい奴じゃのう」

 そして、再びバイクのペダルを踏み始め、今度は目の前に立っている丸刈り頭の信者に言った。

「それより、城への夜討ちはどうなっておる。そちの担当であったろう」

 丸刈り頭の信者は、はじめ正覚が言っている事の意味が分からなかったので、少し考えていたが、ハッとして正覚に問い返した。

「GIESCOへのハッキングの件でございましょうか」

 南正覚は大きく咳払いする。

 丸刈りの男は、今度は少し声を小さくして言った。

「あの……教祖様が昨日の会議の時に一時中止しろと……」

 正覚はバイクのペダルから足を離して、サドルに跨ったまま両足を床に着こうとした。彼の短い足は床まで届かなかったので、そのまま真っ直ぐに伸ばしておく事にして、そのまま考える。そして、確かに昨日、中止を命じた事を思い出したので、目の前で困っている丸刈り頭の信者に言った。

「一時と言ったのじゃ。一時は一時じゃ。いっときじゃ。分かったの。その一時はもう過ぎた。だから聞いておるのじゃ。どうなんじゃ。出来そうなのか」

「はあ……それが、やはり予想以上に侵入防壁が厚く、なかなか……」

 丸刈り頭の信者は下を向いた。業を煮やした正覚は、マシンを降りながら、その左腕を吊った丸刈り頭の信者に言った。

「その『やはり』とは、つまり、そちの予想通りに、また失敗するかもしれんという訳か。まったく……」

 正覚は、首に掛けていたタオルで額の汗を拭き終えると、そのタオルを丸刈り頭の信者の顔に投げつけ、言った。

「よいか、おそらく、あの『パンドラE』は宇宙の神様からの啓示の書ぞ。一刻も早く我々が手に入れて、世に知らしめねばならんのじゃ。分かっておるのか」

 丸刈り頭の信者は、足下に落ちたタオルを右手で拾いながら言った。

「はい。申し訳ございません」

 彼のその悲痛の回答を聞くことなく、正覚はシャワー室へと向った。

 シャワー室で、南正覚は鏡に映る己の姿と頻りに格闘していた。鏡の前で背筋を伸ばしてみたり、腕に力こぶを作ってみたり、横を向いて腹を凹ませてみたりと、昨日の老刑事を意識しながら、いろいろとポーズをとった。正覚は、自分がその刑事よりも背筋が曲がっていないか、肉が弛んではいないか、腹が出てはいないかをチェックしたが、そのどれもが「いる」という回答で揃っている事を認めた時、改めて、今後はちゃんとジムに通って、運動も頑張ろうと思った。そして、宇宙の神への誓いのひとつに、「腹筋を一日三十回する」を加えた。

 シャワーを浴び終え法衣に着替えた南正覚が、地下駐車場に並んだエレベーターの一台から降りてきた。イヴフォンで通信をしながら、後ろに黄色い運動着の信者達をぞろぞろと従えている。彼の視界の中央には、小太りの女性信者の像が浮かんでいた。

「それで、予約は取れたのか」

 正覚が出てきたエレベーターのドアが閉まると同時に、隣のエレベーターが開き、さっきのパーカー姿の男がタオルを頭に被って髪を拭きながら出てきた。

 正覚の脳内に映る小太りの女性信者は、何か困っている表情をしていた。現実の彼女の状況や恰好が正覚の脳内には再現されている訳ではないが、彼女の音声を解析したイヴフォンが正覚の脳内にそのような彼女の記憶映像を再現させたという事は、実際の彼女もそのように困惑していたはずである。その小太りの女性信者の像は、眉を寄せた顔の前で手を合わせて言った。

「いえ……あの、思った以上の人気で、すごい人数が朝から並んでいまして、私も並んでいたんですけれど、やっぱり本人じゃないとダメみたいで……。別の店にしましょうか」

 正覚は思わず激怒した。

「なんじゃと。一体どういうことだ!」

 イヴフォンの脳内通信は、イヴフォンの装着者だけにしか認識できないものなので、彼の後ろにいる信者たちには、いったい正覚が誰に怒っているのか分からなかった。この最新式の通信端末にまだ慣れない正覚は、一人で宙を向いて怒っている自分が、少し恥ずかしくなり、急に小声になった。

「丸坊主のワシが出来るお洒落と言ったら、爪くらいしかないのじゃぞ。そちが、今巷で一番話題のネイルサロンじゃと言ったのではないか」

「はい。すみません。でも、店員さんは本人さんが並ばないとダメだって、聞かないんですよ。なんか態度も悪くて……。人気はあるんですけどねえ……」

 彼女の気だるそうな回答に、再び業を煮やした正覚は、決断した。

「もうよい! ワシが直接行く」

 そう言うと、正覚は自分の黒塗りの高級AI自動車の新型キャデラックが停めてある方向に、スタスタと歩き出した。そこへ黄色いジャージの上に黒のジャケットを着た長身の痩せた信者が、長髪を振り乱して駆け寄ってきた。

 正覚は、その信者の前に手を出して言った。

「カギを渡せ。ワシが一人で行く」

 正覚は長髪の信者からキー・カードを受け取ると、AI自動車の右側に回り、運転席の横に立った。ドアノブに手を掛けると、彼の上皮質からDNA配列を即時に識別した自動車の人工知能がスピーカーから合成音声を発した。

『ドアガ開キマス。ゴ注意クダサイ』

 自動で運転席のドアが開き、正覚はそこから乗り込んだ。運転席に座った正覚は、少し戸惑っていたが、横に立っていた長髪の信者が指差した箇所にキー・カードを差し込むと、ドアを閉め、ハンドルを握った。ハンドルの指紋認識機能が作動して、その指紋が登録された所有者のものと一致することが確認され、自動車の人工知能が速やかに車のエンジンをスタートさせた。ハンドルを握ったままの正覚は、アクセルを踏み込んで、車を発進させる。

 その高級AI自動車は、駐車場の中を左右に揺れながら走っていた。地上に続くスロープの前で一旦止まると、急にワイパーを動かし始める。それが止まると、今度は急発進して坂道を上がって行った。正覚の覚束ない運転の後ろを走っていた為に、駐車場から出られずにいたテントウ虫型の自動車が、坂道を登っていった正覚の車の後で、ようやく坂道を登ろうとした時、同じく正覚の車が出るのを横で待っていた青のスポーツカーと鉢合わせになり、ぶつかりそうになった。青のスポーツカーは激しいクラクションを鳴らし、その音が地下駐車場内に鳴り響く。その後で、青い車の方が先に坂を上がっていった。

 正覚が手動運転するAI自動車は、地上へ出て暫くは右へ左へと蛇行していたが、やがて、まっすぐに市街地の混雑の中を進むようになった。正覚は肩に力を入れてハンドルを握っている。彼は久々の運転で緊張していたが、やがて昔の勘を取り戻すと、首に提げていた大数珠を外して、ダッシュボードの上に置いた。彼は暫らく手動での運転を楽しんだ。

 やがて、目的地が近づいてくると、正覚はナビゲートボタンの所在を探してダッシュボードを見回しながら、独り言を発した。

「まったく、久々に自分で運転してみたが、近頃の車は設備が少な過ぎて、逆に分からん。このボタンは何じゃ」

 正覚は、ハンドルの後ろの黄色いボタンを押した。

『ココハ、オートモード禁止道路デス。ココハ、オートモード禁止道路デス』

「ええい。何なんじゃ。それでは……これか?」

 メインパネルの横の丸いボタンを押してみた。人工知能が人工音声で答える。

『パーキングヘ、ゴ案内シマス。次ノ交差点ヲ左デス』

「ぬ。ちょっと待て、まだ降りんぞ」

『パーキングヘ、ゴ案内シマス。次ノ交差点ヲ左デス』

「ぬぬ。くそ。――ええい、しょうがない」

 教祖南正覚はハンドルを左に切った。真明教団代表者の教祖南正覚を乗せた高級AI自動車は急左折し、イチョウ並木の大通りに出ると、そのまま直近の駐車スペースを自動検索し、自動運転でゆっくりと道路の左脇に車体を寄せて、空いている路上駐車区画の上に縦列で駐車した。運転席のドアから短く排気音を鳴り、人工知能が合成音声で案内する。

『オ疲レ様デシタ。ドアガ開キマス。前後ニ、ゴ注意クダサイ』

「まったく。これだから最新式のAI自動車は嫌いなんじゃ」

 真明教団代表者の教祖たる予言者南正覚は、勝手に開いたドアをそのままにして、ダッシュボードの上に乗せた大数珠を、豪華な法衣の上から首に掛けた。そして、バックミラーを自分の方に向け、丸坊主の頭に剃り残した毛がないかを確認しながら、何度か頭部を手で撫でていた。諦めをつけて彼が車から降りようと体の向きを変えた時、さっきの青いスポーツカーが、電気自動車の独特の無音と共に近づいてきて、南のAI自動車の開け広げたドアの幅ギリギリで横に停まった。その青い車の左側の運転席のサイドガラスが静かに下りる。次の瞬間、真明教団代表者の教祖たる予言者南正覚こと南智人の顔が、眩い緑色の光に照らされた。

 その後すぐに、その青い車は無音のまま走り出し、その場を去った。

 少しだけ黄色を帯びたイチョウの葉がヒラヒラと、停車したままの高級AI自動車の漆黒のボンネットの上に落ちた。運転席のドアを車道側に開け広げたまま、その高級AI自動車の新型キャデラックは停車している。運転席の上には、大粒の数珠と金糸の織り込まれた豪華な法衣と高級襦袢だけが乗せられていた。襦袢は彼の体温を残している。車の人工知能は無人の運転席に向けて、滑らかな合成音声による案内を続けていた。

『ドアガ開イテイマス。ゴ注意クダサイ。ドアガ開イテイマス。ゴ注意クダサイ。ドアガ開イテイマス。ゴ注意クダサイ。ドアガ開イテイマス。ゴ注意クダサイ。……』

 車内に冷たい風が吹き込み、シートの上の法衣と襦袢を捲る。そこに包まれていた人工心臓が、襦袢の上で転がったまま、いつまでも鼓動を続けていた。


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