Chapter3. 2022/3/7

 まだ誰も登校していない早朝、私は音楽室の扉の鍵を開ける。思い出の残滓が飛び散るこの部屋に、しっかりとお別れをしなければならない。


 私が部長を務めたこの年、数十年ぶりに全国合唱コンクールの地区大会を突破した。快進撃はそこまでだったけれど、久しぶりの吉報にOGからもお祝いの言葉が届いた。私だけの成果とは思わないけれど、十分に貢献できたかなと思う。


 いつものように掃除を始める。最後の掃除だから、塵一つ残さないよう、一時間以上かけて丁寧に行う。早朝に一人で音楽室にいると、今でも先輩の声がするような不思議な感覚がした。後ろ髪を引かれながらも意を決し、私はグランドピアノの前に座る。少しだけ手が震えていたが、大舞台で弾く前にこうなるのは慣れっこだ。


 有名な映画の主題歌。きっと先輩は知っているんだろうな。誰も観客のいない一人だけの音楽室で、私は魂を込めて音を奏でる。いつも悲観的でへそ曲がりな私にお似合いの、暗くて悲愴な曲だ。余りに入り込んでいたのか、扉が開いたことに私は気付かない。


 高校で最後の演奏を終え、心地よい疲れが体におりてくる。音楽室に一礼してから去ろうと、椅子を下げた。その時、


「初めて後輩ちゃんの演奏、間近で聞いたよ。」


 聞き覚えのある声に驚き、思わず椅子から飛び退ける。


「ビックリするくらい、情感たっぷりに弾くんだね?」

「なんで……?」

「そりゃ、後輩ちゃんの門出をお祝いしたかったからだよ。それに約束したじゃん。」


 濡れた傘を揺らしながら、少しだけ大人っぽくなったその目が私を見つめる。


「そのうち弾きに来るって。」


 やり直すならば、きっと今日、この時だ。

 昨年の卒業式の日とは違い、外では淑やかに春雨が降っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨が降ればいいのに たまやま @tamayama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ