Chapter2. 2021/3/8

 聞き慣れたオーケストラが部屋中に響き渡る。着替えを終えて防寒着を着込んだ私は、右手をそっと伸ばして音を止めた。


 めったに閉まらないはずの踏切で待ちぼうけを食らい、思わずため息が出る。はらりと雪降る季節はすでに過ぎ去り、山模様は次の景色へと変わっていた。外は暖かくなり始めたものの、薄いコートを羽織った人をまだ見かける。自転車で感じる風は爽やかになり、とても過ごしやすくなってきた。


 踏切が上がり、重いペダルをギュッと踏み込む。今日は先輩たちにとっても、私にとっても、特別な日だ。足取りはお世辞にも軽いとは言えない。しかし、体は毎日の日課を明確に覚えている。未練がましく足を引きずりながら、校舎の中へと入る。職員室で鍵を借りようとすると、既に音楽室の鍵はなくなっていた。いやまさか、と心の中で否定しながらも、わずかな想いに心が揺れる。


「せん、ぱい……?」

「おはよう、後輩ちゃん。卒業式が終わったら、部活の奴らに引っ張られちゃうからね。君と話せるチャンスはこの時間しかないからさ。」


 梅雨のあの日から音楽室に来なかった先輩が、椅子に座って待ち構えていた。相変わらずすらりとした筋肉質な体形に、タイトなセーラー服が良く似合っている。前と変わらず微笑みをたたえているけれど、さすがにどことなく寂しげだ。


「ひょっとして、私のこと心配してた?」

「別に心配はしていません。でも急に来なくなるんだから、多少は寂しがります……。」


 私の声音を察してか、少し真剣な表情へと変わる。


「これから部長として頑張ろうってところに、邪魔するのは悪いと思ってさ。本音を言えば遊びに来たかったんだけどね。」


 後ろめたそうに目線が下に落ちる。この人は本当に鈍感だ。陸上部の後輩達も、きっと苦労したに違いない。


「そういえば最後の大会、見に来てくれた?」

「時間があったので行きましたよ。格好良かったです。結果は残念でしたけど。」


 見に行ったに決まってる。大好きな先輩の晴れ舞台だ、見に行かないわけがない。


「あはは、ありがとう。結果が伴わないと、みんなに示しがつかないよね。」

「そんなことないです! 颯爽と走る先輩の姿、私は、本当に……。」


 言葉が詰まる。言いたいことは決まっているのに、出てこない。上手く言い表せない自分の情けなさに、涙が溢れそうになる。


「そんな表情しないでよ。今日はさ、今まで私の話相手をしてくれた愛すべき後輩ちゃんに、一曲プレゼントしようと思ってね。」


 そう言うと、先輩はおもむろにグランドピアノの前へと腰掛ける。


「この曲を、君に送るよ。」


 少し気障な物言いをした先輩は、てきぱきとした指使いで奏で始める。それは、最後の梅雨の日に先輩が弾いていた曲だった。今日の天気には相応しくない題名の曲だけれど、軽快で楽しげなメロディはまさにハレの日にぴったりだ。気持ちとは裏腹に、先輩が紡ぐメロディにのせられて、思わず私は口遊んでしまう。コンクールではきっと勝てないけど、誰しもに元気を与えるような演奏だ。私のためだけに弾いてくれているという事実が、感情を強く揺すぶる。


「うっ、ぐすっ……。」

「えっ!? 泣くほど感動したの?」


 演奏を終えた後、泣きじゃくる私を見て驚いた先輩が、宥めるように私の髪を撫でる。初めて先輩の手が髪に触れたのが、梅雨の時期じゃなくて本当によかった。


 連絡先も交換していない、雨の日だけの関係。仲の良い先輩後輩同士なら気兼ねなく聞けると、みんな思うかもしれない。でも、私の口からは一言が出なかった。その自然なやり取りでさえも意識してしまうほどに、私は先輩のことを好きになってしまった。口に出してしまえば、先輩への不純な好意が完璧に証明されてしまう。そんなことあるわけないのに、見えない不安に怯えていた。


「落ち着いた?」

「はい、ごめんなさい……。」


 背中をさすってくれていた先輩の手が離れる。少しだけ開いた窓から吹き込む風を受け、先輩のスカートがなびく。穏やかに差し込む陽光は、まるで旅立ちの日を残酷に祝福しているかのようだった。


「先輩のピアノ、大好きでした。」

「君みたいな本物のピアニストに褒められると、悪い気はしないね。また、そのうち弾きに来るよ。」

「今日が最後の登校日じゃないですか……。」

「私は約束を守る女だよ?」


 本当に私は、最後まで可愛くない後輩だ。


「卒業、おめでとうございます……。」


 不安に思ったのか、先輩は私のことを優しく抱きしめる。頬をつたって落ちていく涙も、雨に流されて見えなくなってしまえばいいのに。今日だけは、思いっきり雨が降って欲しかった。


「後輩ちゃんも頑張るんだよ。悔いが残らないようにね。」

「はい……。」

「それじゃ、またいつか。」


 ポンポンと私の頭を軽く叩き、先輩は音楽室の扉を開ける。立ち去る先輩の淀みない動きに、伸ばした指先は虚しくも空を切る。気持ちを伝えていれば、もっと違った関係になれたかもしれない。あり得ない妄想を抱き、先輩を追いかけようとするけれど、私の足は動いてくれない。ただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。

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