Chapter1. 2020/6/26
梅雨の季節は嫌いだ。気温以上に蒸し暑く感じるし、湿気のせいで長い髪の毛が首元にへばりつく。元々癖毛ではあるが、この時期は上手くセットなんて出来やしない。いつもの2倍以上、時間をかけてなんとか整える。髪を短くしようと思ったこともあるけれど、どうしても踏ん切りがつかない。窓をちらっと見ると、今日も元気に弾ける雨粒が心をずっしりと重くする。
雨も嫌いだ。田舎に住んでいる私の移動手段は自転車くらいで、それは雨が降ろうが何が降ろうが変わらない。今日も愛車のペダルへと足をかけて、ふっと一息つく。どこへ向かうにも電車一本で行けると聞く、都会というものに憧れてしまう。
普通ならば忙しないはずの朝の通勤時間帯でも、車道に車の影は全くと言っていいほど見えない。何も気にすることなく、思いっきり自由に走れるのは田舎唯一の利点だろう。うだるような暑さを全身に背負い、水たまりに気を付けながら、広く開かれた道を全速力で走る。大きな雨粒がレインコートに勢いよくぶつかり、バチバチと音を鳴らす。いかにも目に優しそうな新緑が、雨でかすむ視界の端から脇に流れていく。
校舎目前の大きな坂が見え始めたところで、すっと自転車を降りる。通っている高校は小高い山の上にあり、とてもじゃないが漕ぎ上がるのは難しい。雨が降っていなければ、風を浴びて下る爽快感はあるものの、この季節ではそれも台無しだ。雨が顔に貼りつき、まともに目を開けることも出来ない。日が沈んでから元気になるカエルとセミの大合奏も、風情を思いっきりひっくり返してくる。
何を考えても気分が底に落ちて最悪だけれど、雨の日だからこその楽しみもある。敷地内の駐輪場に向かう際中、開けられた音楽室の窓から、雨音を割いて軽快なピアノの音が聞こえてくる。愛車を雨のかからなそうな場所に停車させ、少し駆け足気味に校舎へと向かう。足元の水が高く跳ね上がり、派手に靴下が濡れる。いつもなら職員室から鍵を借りる必要があるけれど、今日はその必要はない。
三階の隅っこにある音楽室へと勢いよく駆け上がる。演奏の邪魔にならないよう、音を立てずにゆっくりと、古めかしい扉を開ける。遮られていた音のボリュームがグンと一気に上がり、音圧に圧倒される。手前には小さめのピアノと楽譜棚、中央には大きなグランドピアノがあり、その奥には大量の譜面台が並べられている。物量の割に部屋がすっきりして見えるのは、私の毎日の日課のおかげだ。音に吸い寄せられるように、私は中央のグランドピアノへと足を運ぶ。
少し焼けた肌と体操着という、どこか音楽室に似つかわしくない姿から、綺麗な音が弾かれる。雨の日には何度も見ている光景だけれど、私は一向にその姿に慣れない。楽譜は立てかけられておらず、すべて暗譜しているようだ。幼いころにピアノを習っていたようで、私から見てもその腕前はなかなかのものだと思う。しなやかに伸びる指が、元気よく鍵盤を叩く。音の一つひとつが意志を持ち、軽快なメロディを奏でている。譜面内にここまでスタッカートが入っているとは思えないけど、これが先輩の演奏の持ち味なのだ。
「先輩、今日もお早いんですね。」
「よっ、後輩ちゃん! そっちこそ朝から早いね。」
「陸上部の練習はしなくていいんですか? 暇なんですか?」
ピアノを弾き終えた先輩に、私はいつも通りに軽い減らず口を叩く。
「ひどくない!? 雨の日はどうしても基礎練だけになっちゃうから時間を持て余すんだよねえ。ここでピアノを弾くのが、雨の日の習慣になっちゃってるんだ。」
「もっと遅く来ればいいじゃないですか。わざわざ早く来て時間を潰す必要、無くないですか?」
「体内時計がこの時間に合わされちゃってるの! この時間に学校へ来ないと落ち着かないの! 先に鍵開けてあげてるんだからいいじゃん!」
「鍵開けの手間なんて大してかかりませんよ。」
「もう、ああ言えばこう言う……。」
雨が降っているけれど、あたり一面には静寂が広がっていて、私には先輩との会話音しか聞こえない。秘密の雨宿りスポットでのお喋りみたいで、心が弾む。私と先輩以外、誰もこの校舎にいないんじゃないかと錯覚するようなこの静けさが気に入っている。
「今日はいつもと違う雰囲気の曲でしたね?」
「そう? これってある映画の劇中曲でさ、雨の中を楽しそうに踊りながら唄っているときの曲なんだ。まさにこんな季節にぴったりの一曲だよねえ。」
先輩は昔の映画が好きみたいで、いつもそれに関係のある曲を弾いていた。年は一つしか変わらないのに、私の知らないことを知っている先輩がとても大人に見えた。
「君も真面目だね。朝早くから音楽室の掃除なんてしてさ。」
「先輩方が引退したら、今年から部長になりますから。」
「合唱部だったっけ? ちょっとワンフレーズ歌って見せてよ。」
「その手の面倒くさい冷やかしは飽きるくらいされたので、もううんざりなんですけど。」
「なんだよ、ケチくさい子は嫌われちゃうよ?」
「ケチで結構。ほら、そこどいてください。」
「私も陸上部の部長として、君にアドバイスしてあげよう。そうだなあ……。」
私は一年生の頃から合唱部のピアノ伴奏を担当している。まだ地区大会までは日があるものの、次期部長として指名された。学生指揮も務めているので三役を掛け持ちすることになる。正直言って、かなり気が滅入る。
「先輩、部長だったんですか? サボりまくってるのに?」
「サボりじゃないんだよこれは! ちゃんと練習して、時間が余ってるからここに来てるの! まあ部長なんていてもいなくても関係ないから、むやみに心配する必要なんてないよ。なるようになる。」
「それは先輩が鈍感で無神経だからそう思うだけじゃないんですか?」
「うっ、言葉のキレが鋭い。後輩ちゃんは神経細そうだもんね。ディベート部とでも兼任したら?」
「そんな部活、うちにはありません。」
ピアノやキーボード、譜面台をきれいに拭き、床をモップで磨く。音には演奏者の魂が宿るので、出来るだけ良い環境で臨むべきだ。それは私がピアノの師匠である母から最初に学んだことで、一番大事にしていることでもある。
「私もそろそろ大会があるからなあ。さすがにここで遊んでいられないかも。」
「遊んでいること、認めてるじゃないですか。」
「すぐ揚げ足とる。言葉のアヤってやつだよ。」
「はぁ、そうですか。」
先輩は手元にあったペットボトルのコーヒーをぐびっと飲む。もし先輩が引退したら、雨の日も来なくなってしまうんだろうか。不安になるけれど、この場でそれを聞くのはさすがに空気が読めていない。
「大会の日は、もちろん応援に来てくれるよね?」
「日によります。」
「ええ……。」
つれない返事をする私に、先輩はわざとらしくがっかりした素振りをする。
「私は後輩ちゃんのこと、信じてるよ! それじゃあとはよろしくね!」
「先輩! せめて自分で弾いたピアノくらいは掃除を……。」
「どうせ私がやっても、後輩ちゃんがまた拭くんでしょ? 頼んだよ!」
「ちょっと! 待ってください!!」
先輩は颯爽と扉を開け、階段を降りていく。呆れてしまうけれど、あの笑顔を見せられたら何も言い返せない。先輩が音楽室に来てくれることが、私のモチベーションにもなっているから。
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