雨が降ればいいのに
たまやま
雨が降ればいいのに
Chapter0. 2019/4/16
目覚めに相応しい爽やかなオーケストラが、不釣り合いにけたたましい音量で部屋に鳴り響く。既に目を覚まし学校へ行く準備をしていた私は、右手を伸ばし、キーボードの横に置かれたスマホのボタンを強く押した。変なところで細かいというか律儀というか、一度もアラーム音より遅く目覚めたことがない。自分でも少しだけ、損な性格をしていると思う。
まだ着慣れていないセーラー服に袖を通し、姿見の前に立つ。成長を期待してか大きめのサイズを買ったので、やはり着せられている感じがする。寸分の狂いなく綺麗に反転する世界が心の奥底まで見透かしているように見えて、自然に背筋が伸びた。リボンが曲がっていないか、もう一度だけ確認してみる。通学時にどうせ崩れるけれど、しっかり確認しておかないと気が済まない。
着替えを終えて通学用のカバンを手に取り、一階のリビングへと降りる。既に両親も起きており、ゆったりと時間を過ごしていた。ふつふつと音を立てて沸くコーヒーメーカーからは、息がむせるようなほろ苦い香りが漂う。いつものように朝食を取り終え、足取り軽やかなまま家を出る。空気が少しだけ湿っぽい。今日の天気予報は晴れだったが、遠くにはうっすらと灰色の雲が見える。念のため、薄手のレインコートをカバンの中に入れておいた。
早朝の瑞々しい雰囲気は嫌いじゃない。人が少ない時間帯に通学していると、何故かそれだけで特別なことをしている気分になる。中学校までは近所の学校に通っていたので徒歩だったが、高校からは自転車通学だ。新調した自転車のボディをきらりと輝かせながら、でこぼこした道を走っていく。ケタケタと虫が鳴く畦道、ようやく開花を迎えたサクラ、水場をひらめく蝶々。まだまだ目新しい通学路は刺激的で、何もかもが新鮮に見える。
二十数分で学校へと到着し、駐輪場で自転車を止めた。職員室に寄り、既に見慣れた事務員さんから音楽室の鍵を借りる。入学したばかりだというのに、ここまでの作業はもう慣れたものだ。窓を開けて校庭を眺めると、熱心な運動部員が大きな声を出していた。
私の母はピアノ教室の先生をしており、その影響もあって、私は5歳のころからピアノに触れていた。私にとって音楽はとても身近な存在で、物心ついたときから傍にいる感覚だ。中学校では伴奏者として合唱部に所属していたので、高校でも同じように合唱部へと入った。朝の練習はしていないようだが、私にとってはそちらの方が都合が良い。
床や黒板の掃除を終えて、グランドピアノに歩み寄った。威厳のある佇まいを前にすると、小柄な私はとても小さく見えるに違いない。重い椅子を引き、鍵盤の前に相対する。引き心地を確認するように柔らかく指を押し当て、軽く音を立てる。唄うような心地よい音色が、音楽室内にこだました。
弾き終わりの余韻を味わった後、いつものように屋根から足まで丁寧に拭いていく。音楽室に掛けられた時計を見やると、まだ始業時間まで三十分以上余っていた。私は放り投げられていた室内の椅子へと足をかける。窓の外は雲行きが怪しく、どうやら霧雨が降っているようだ。活動していた運動部もいなくなり、校内は凪のない水面のような静けさに支配されている。
どうしようかなと思案していると、不意に扉がきしむ音がした。合唱部の先輩が来たのだろうか。でも、今まで先輩方が早朝に来たことはないはずだ。怪訝そうに扉の方を見つめる。すると、とても文化部の生徒には見えない風貌の女子生徒が入ってきた。入部して数日しか経っていないけれど、合唱部の先輩でないことだけは分かる。
「ピアノの音が聞こえたから、誰かいるんだろうとは思ったけど……。」
私を見つけたほんの数秒だけ表情が曇るが、瞬くうちに、人好きのするような笑顔が溢れる。
「初めて見る顔だね? おはよう! えっと、君のお名前は?」
それが私と先輩の、初めての出会いだった。
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