ユウガオ

若槻きいろ

第1話


 


 夕顔を見よう、と貴方は言った。八月最後の週末だった。


 初夏の頃になると、貴方は勇んで夕顔の苗を買いに行く。終の棲家である団地からバスに乗っていくと、わりかし大きめな園芸センターがあるのだ。そこで前の年に買わなかった品種を求め、ついでに野菜用の土と他に目に付いた苗を買ってくるのはもはや恒例行事となりつつある。団地の一階を根城にしている者の特権である、小さな庭のそこかしこに植木を置いていく。数年前には何処からか使わない火鉢をもらって、簡易な水槽を作って魚を放っていた。少しずつ庭を埋め尽くす植木鉢と、季節を感じさせる木々がひしめく。春の訪れには紅梅と木蓮が、初夏には紫陽花、秋には金木犀が辺りを散らす。


 小さな箱庭はそのまま、ちいさくもそれなりのビオトープになった。道路に面していることもあって、ほぉ、と感心していく通行人にはやや自慢顔になる。小さな楽園だ。貴方が作った、私のお城。

 けれど、立派ねぇ、なんて言う近隣の方々は知らないだろう。ほぼ世話をするのは、たった一人であることに。



 新しい品種を手に入れたとはしゃぐ貴方に、私は年甲斐なく、と呆れ声で呟く。

 茜が落ちてゆく時間に、私たちは一つの鉢を囲んでいた。陰って久しい庭先は案外涼しくて、夏夜と言えど外気は私達の体温を少しずつ奪っていく。灰色の帳が落ちてゆく。

 明日の昼までには枯れ行くこの花が、どうして毎度そんなに貴方の気を引くのかわからない。

 なんで、と思わず漏れた声は近すぎて聞こえてしまっただろう。

 きょとん、と目を丸くする貴方は、次の瞬間頬を綻ばせた。どれだけ経っても、その顔はいつもあどけない。それはね。内緒話をするみたいに、他の誰も聞きやしないのに、貴方は声を潜めてそぅっと私の耳に打った。

「ずっといてくれる君と、同じだと思ったからさ」

 真白い花が、はにかむように咲きほころんでゆく。それに反して、私は怪訝な顔を浮かべずにはいれなかった。

 夕顔みたい、とはどういうことか。今まで聞いたことのなかった言葉を考えるうちに、日は緩やかに沈み、烏がかかぁ、と馬鹿にしたような鳴き声を響かせた。


 夕顔、と私は知っていることを一つずつ指折で数えていく。夕暮れから日中に至るまでのいっとき。花弁はしろく、先が五つに尖っている。秋ごろ着く実は薄緑でやわらかく、煮物やどんな料理にも合う。出てくるのはそんなものばかりで、いくら考えても似ているところなんて出て来やしなかった。

「ああ、今日もいるね」

 貴方ははにかみながら、安堵したように庭先にやってきた。気が付けば日はとっくに傾いていた。貴方は私を確認し、そしてそのまま、夕顔の植木に向かって膝をついた。恭しく、まるでいとしいひとに対する面持ちで。ふい、と私は視線を逸らした。なんだか見てられなかったのだ。

「ユウガオ」

 確かに、貴方は私の名を呼んだ。だから見返した。そうすると、いつだって貴方は照れたように笑うのだ。

 心に住んでいる人がいながら、私を呼ぶの、どうかと思うわ。口には出さず、漏れた息は夕暮れに混じって消えた。つい、と縁側へと視線を動かせば、明かりがついた部屋の奥には、手入れされた仏壇が見えた。

 ここにいる私も私だけれど。貴方の望むユウガオのまま、私はここに存在している。

「呆れられるわよ」

「なぁに、ただの夜伽だろう」

「健全な方のね」

 くくっと可笑しそうに顔をしわくちゃにさせて、年月を重ねた手で私に触れた。貴方の手は日に焼け、斑点の染みがよれた皮膚に折り重なっていた。

「また来年も来てくれるかい」

「気が向けばね」

 最後まで言葉は軽く、軽妙に。はかなくその場限りの、真夏の夜の夢のように。

 気づけば、もう秋の始まりはすぐそこだ。次第に金木犀が甘い香りを漂わせることだろう。何処かで山茶花が蕾をつけては花びらを散らし、蝋梅がほたりとまるっこい黄色を咲かす。季節は巡って、いずれ私のところまでやってくる。

 そのときに、貴方はここにいるのだろうか。見た目さえ変わらぬ私のまま、受け入れてくれる貴方は。

 貴方がいてくれる限り、このたった三月分の逢瀬は続けられる。貴方が望む、貴方の見たい姿で、私はここに存在する。花が咲き、貴方のもとに姿を現せる、この間だけは。

 季節をまたぐ度に見目を変えてゆく、先も数えるばかりだろう貴方に、出来ることは数少ない。ただ穏やかに笑む貴方が見ているのは、私であって私ではない。貴方が呼ぶその名も、私であって私ではないのだ。

 仏間を飾るこの庭で撮られた写真と同じような笑みで、私は貴方にせめてもと微笑みを返した。

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ユウガオ 若槻きいろ @wakatukiiro

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