閑話 龍の独白1
しばらくして蛇口に手を伸ばしシャワーを止めると、腰にタオルを巻いて冷え切った浴室を出る。
今しがた眠り込んだ彼女を自宅へと送り届け、そのまま彼女の養父と成り行きで飲み交わした後、連絡先を渡してホテルへと戻ってきたばかりだ。
彼女の自宅を見つけ出すのに少々ズルをしたが、今回ばかりは誰にも咎められないだろう。眠り込んだ彼女を起こすなど、そんな可愛そうなことはしたくなかった。
ホテルの分厚い窓から見える景色は深い闇に包まれ、見下ろす都市はラウンジバーで見た時に比べ、緩やかな眠りに包まれたように明かりが乏しい。
乱雑に髪を拭きつつ、身を投げ出すようにベッドへと腰かけると、ようやっと人心地ついた。
ポタポタと髪から零れる水滴をそのままに、被ったタオルで顔を隠すようにして項垂れながらなんとはなしに唸るも、沸き上がる感情が制御できずに寄せては引いてを繰り返す。
まるで荒波のような高揚感に、改めて己が人生の中で一番浮かれているのだと実感した。
「やっと……やっと、出会えた」
噛みしめるように、そう呟く。
まるで泣くのを我慢しているかのような、そんな情けない声に思わず小さく笑った。
万感の思いが込められたその笑いが、何よりも今日の出来事が夢でも幻でもなく現実であるのだと思わせてくれる。
借宿としているホテルで暇を持て余し、気まぐれに入ったラウンジバーで初めて彼女を視界に入れた瞬間、味気なく映っていた世界が花開くように一気に色づいた。
その中でも彼女だけがより鮮明に浮き上がり、ひと時も離れたくないとばかりに体が勝手に彼女の元へと向かう。
気づけばこちらを不思議そうに見上げる彼女の姿があった。目が合った途端に激しく心臓が脈打ち、喉元が締め付けられるような感覚に陥る。
感情が今までにないほど乱れて、その瞬間に一言でも発していれば、その場でいったいどんな醜態をさらしていたことか。その場に跪きながら無様に愛を乞い、涙していたかもしれない。
警戒心に身を固めながらも、表面上は努めて冷静であろうとしているいじらしさや、控えめながらも浮かべる困ったような微笑みに何度抱きしめようと手を伸ばしかけたかわからない。
酒が進むにつれてその警戒心がゆるゆるになっていき、しまいにはこの胸に体を預けて眠り始めた時には少々心配にはなったが、それは本来であれば当たり前のこと。
その当たり前のことが出来ずに、永い時を当てもなく彷徨い続けていたわけであるが、あの出来事があってからはいつかは出会えるだろうと希望を捨てずに生きてきたのだ。
安らかな寝息を立てる彼女は見るからに疲弊しており、目元には隠し切れない隈があった。
艶やかであろう髪も本来の艶を失いくすんでいて、けして健康的ではない青白さを隠すように化粧をしていることからも、彼女が心身ともに弱り切っているのが見て取れた。
酔いに任せて吐露した彼女の近況もけして許せるものではなく、煮えたぎった怒りが彼女に伝わらないようにするので精一杯であった。
彼女が様々なことに恵まれず、健康を損ねている本当の理由を知っているからこそ、やるせない気持ちで彼女の寝顔を見つめた。
これから先、少しでも彼女の負担を減らすことが出来るように動かなければと、自身のやるべきことを脳内で整理し始めた。
そんな最中、ベッドに放ったままのスマホが無機質なバイブ音を鳴らす。
幸福感を消したくない一心で気づかない振りをしていたかったが、いつまでたっても鳴りやまないそれに根負けし、舌打ちしながら渋々手に取る。
パッと点いたディスプレイに表示されていたのは、良く知った名前であった。
「……なんだ」
『やっと出た! もー、なんだじゃないっすよ! 何度も電話したのに』
電話に出た途端に耳元で響き渡る声に、思わず耳を離して顔を
「そうか、悪いな」
『まったく心がこもってなさそー……。はぁ、お休みのところ大変申し訳なかったとは思いますけどね、こっちは色々と大変だったんすよ?』
「休みの時のことまで知るか」
『俺だってできれば連絡したくなかったんすけど……またあのお嬢さんがヴァル先輩を指名したいって喚きたてて支部まで突撃してきたんすもん。もー、ヴァル先輩を出せ出せってほんっっとしつこくて!』
どうやら、その迷惑な客を相手にしたのは彼らしい。
その時を思い出しているのか、彼の言葉遣いが随分と荒くなる。
「そんなの、適当に相手してさっさと放り出せばいい」
『それが出来たら苦労しないっすよ……。本当にもう、無頓着というかなんというか。結局上層部が根負けして契約しちゃったんで、ヴァル先輩には悪いっすけど、またしばらく本店には戻れなそうっすよ』
電話の向こうでため息交じりにそういったのは、海外に本部を置く民間軍事会社の日本支部で知り合った
とはいっても、彼は主にヴァルのような要人警護を担当する者たちのスケジュール管理を仕事としている内向きの人間である。
そんな彼も突然降って湧いた面倒事に巻き込まれ、疲れ切っているようだった。
何せ相手は旧財閥グループ直系の社長令嬢。上層部の人間も、下手に軋轢を生むよりは生贄として日本支部にたまたま配属されてきただけのヴァルを捧げるくらいはするだろう。
たかが令嬢一人の都合で縛り付けられるなど、いつもであれば迷惑この上ないが、今回に関してはこの国に滞在する口実としてちょうどいいとさえ思っていた。
「……わかった」
『え? ど、どうしたんすか? いつもなら本部に指示を仰いでから仕事振れってグチグチいうのに……まぁ、こっちとしてはありがたいっすけど』
「ただし、休みはきちんともらう。こちらのプライベートに干渉させないように、そのご令嬢にきちんと言い含めろ」
『そりゃまぁ、もちろん最大限努力はしますよ。でも、あのご令嬢ヴァル先輩に相当入れ込んでるからなぁ……言い含めたところで聞くかどうか』
「約束が守られないのであればこちらで対処する」
『ちょっ、それはまずいですよぉー……。ヴァル先輩の対処ってあれでしょ? 物理的排除ってやつでしょ? 流石にそんなことになったら―――』
「知らん。詳細は明日聞く。切るぞ」
『あっ、ちょっ』
高木が続けて何か言う前にさっさと通話を切ると、用が無くなったスマホをベッド脇に放り投げる。
再び訪れた静寂の中、高揚していた余韻もすっかりなくなり、残ったのは先ほど聞いた内容に対する苛立ちであった。
ようやっと、念願叶って彼女に出会えたというのに、何が楽しくて他の女に言い寄られなければならないのかと思わず眉根を寄せる。
以前その社長令嬢である
どうやらその時に気に入られてしまったらしく、それからどこの国に居ても追いかけてきては必ず指名で依頼をしてくるのである。
本部としては太い客に笑いが止まらないであろうが、こちらとしては本当にいい迷惑である。これのせいで彼女を探す時間がどれほど削られたことか。
上目遣いで見られようが、胸を押し付けられようが、甘い声で話しかけられようが、唯々煩わしいだけ。
常に一定の距離を保ち、必要最低限のことしか会話をしないようにしていたのだが、それがストイックなのだと言ってさらにすり寄ってくる始末。
面倒なことになったと思いつつも、目的を達成するまでは日本に滞在する口実が欲しい。そうなると今の状況を維持するしかないのだ。
彼女を振り向かせるためには、この世界に馴染まなければならない。
あくまで自然に交流し、少しずつでも彼女に寄り添うことが出来れば、そう考えるだけで頬が熱くなる。
今後あらゆる場面でかなりの忍耐が必要になるだろうが、あの絶望に満ちた日々に比べればどうということはない。
「しかしあの女……少し邪魔だな」
そう、ポツリと呟く。
万が一にでも、彼女との交流を邪魔しようものなら、その時は―――。
俯いたままだった顔をゆっくりと上げる。
部屋の明かりに照らされたその顔には、けして跨麟には見せられないだろう、嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
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