5
昨日の名残をさっぱりと落としきり、お手伝いの女性が作り置いていた食事でしっかりと腹を満たした後、跨麟は自室で例の紙切れと再び対峙していた。
フカフカのラグに胡坐をかいたまま、テーブルの上に置いた紙とスマホを見つめる跨麟の姿はいつになく真剣であるが、そんな姿を見る者はいない。
「どうしよう……なんて連絡すればいいの? 挨拶から? 突然名前言ってもわからないよね……でもお父さんと話したって言ってたし……」
誰に語り掛けるわけでもなくブツブツと呟く跨麟は、昨日の失態をどう相手に詫びるべきかを悩みながらも、スマホに手を伸ばしてはひっこめる動作を幾度も繰り返す。
しかしこのまま何もしないというわけにはいかない。こういう時は何事も早い方がよいのだと自分を叱咤し、跨麟はスマホを手に取り手早く番号をタップした。
電話口で響くコール音の中、緊張により心臓が痛いほど脈打つ。緊張でスマホを握る手がじっとりと湿っているのがわかった。
『……はい』
少しの沈黙の後に続く、短い返答。聞き覚えのある低い弦を弾くような声が耳元で聞こえ、跨麟の鼓動がさらに跳ねた。
繋がってしまった、そう思いながらも恐る恐る跨麟は口を開く。
「あの、突然お電話してしまい申し訳ありません。昨夜ホテルのバーで―――」
『あぁ、君か。体調はどうだ? 辛くはないか?』
思いの外食い気味に返ってくる言葉に、跨麟は呆気にとられたものの、すぐに気を持ち直して彼の言葉に対し電話越しでありながらも頷く。
「はい、いつもよりも調子がいいくらいで……」
『そうか、それはよかった』
そんな安堵するような声色に、跨麟も自然と笑みを浮かべる。
「昨日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。まさかあんなことになるとは思っていなくて……家まで送っていただいたのに、お礼も何もできなくて」
『いや、俺の方こそ君と一緒にいるのが楽しくて、飲むペースが早くなってしまった。おそらく君もそれにつられたんだろう……すまない』
「そんな、私の方こそ」
そうして二人で謝りあっているうちにだんだんと緊張が解け、気が付けばどちらからともなく笑いが零れだした。
電話越しで聞く彼の声は、軍人を思わせる屈強な肉体を持つ人物とは思えないほど穏やかで優し気だ。
その声色は感情の起伏が乏しいながらも、突然の電話にも気を悪くしたような素振りもなく、跨麟の体調を真っ先に心配する言葉を投げかけてくる。
それが本心からだということを電話越しでも察してしまうのは何故だろう。そう跨麟は不思議に思いながらも、それでもこうして誰かに心配してもらえるという事実がささくれ立っていた心を優しく撫でるようで、どうにもこそばゆい。最近はずっと嫌なことが続いていたからなおさらだ。
彼の気遣いと寛容さに甘えて、自分の犯した昨日の失態を忘れて純粋に会話を楽しみそうになるのをどうにか押さえ、跨麟は軽く咳払いをする。
「昨日はその場限りの出会いだと思って自己紹介も何もせずにすみません。
そう自己紹介をすると彼も自身の名を告げ、ようやく知り合いの一歩を踏み出すことが出来た。
ヴァル・メルキオールと名乗った彼との会話の中で、彼が要人警護の仕事でこの日本にやってきたことを知った。鍛え抜かれた体格の彼にぴったりの仕事だと思いながらも、ふと悠詩が言っていた【嫁探し】という単語が頭の中を
あんな美麗な男ならば探すも何もより取り見取りのはずだろうと、跨麟は昨夜ヴァルから向けられていた視線の熱をポイと思考の端へと追いやった。
「あの、昨日の支払い、ヴァルさんがしてくださったんですよね。立て替えていただいてありがとうございます」
たわいない会話がひと段落したところで、跨麟は今回電話をした一番の理由を話し始める。
酔い潰れてしまった跨麟には支払いをした記憶が全くない。しかし何事もなく家で朝を迎えているということは、その場に居たヴァルがどうにかしてくれたということであり、それなりの金額をその日に会ったばかりの人間に背負わせてしまったということである。それはもう、とんでもない罪悪感が起き抜けの跨麟を打ちのめした。
昨日のことを思い出すたびに要らぬことを散々口にした羞恥心で顔から火を噴きそうになるものの、流石に他人に迷惑をかけっぱなしにはしておけない。
特に金銭面で迷惑をかけるなど言語道断であるし、何より真面目な気質の跨麟からすれば、なあなあに事を済ませるなどということはありえなかった。
『あぁ、別に構わないよ。さっきも言ったが、君と共に過ごすのは楽しかった。だから別に支払いのことは気にしなくていい』
「そんなの駄目です! こういうのはキチッとしておかないと。金銭面のあれこれは必ずどこかでもめ事の原因になるんです。ヴァルさんがそういう方でないのはわかってるんですけど、お互い気兼ねしないためには、きちんと清算した方がいいと思うんです」
こういった金銭の問題は、大なり小なり後を引く。特に男女間でそういったやりとりがあると、余計にトラブルになったりするものだ。
よほど親しい人間でない限り、奢ったり奢られたりする行為は自分や相手にとって負担になりかねない。後腐れないようにきっちりと割り切るのが一番である。
『そ、そうか? わかった……』
跨麟の熱弁と呼べるような言葉にたじろぎつつも、ヴァンはふと思いついたようにとある提案を口にした。
『では、またどこかに飲みに行かないか? その時に今回の支払い分、俺に奢ってくれればいい』
「え?」
『駄目か? この国に来てまだ日が浅いから、君と飲みながらこの国について色々と教えてもらえると助かるんだが』
ヴァルの提案は予想外のことで、跨麟は思わず気が抜けたような声を出す。
確かに、ただ金を返すだけというのも味気ない。単に後腐れなくということであれば、振込先を指定してもらって金を振り込んでしまえば簡単である。
けれども、彼は跨麟と居た時間を楽しかったと言った。そんな言葉は職場ではもちろんのこと、私生活においても言われることはなかなかない。
それに、ヴァルと共にいた時間が思いの外居心地がよく、跨麟にとっても新鮮で楽しかったというのも事実だ。
人と関わることに対して一定の線を引いてしまいがちな跨麟が、人と話して気疲れせず、純粋に楽しいという気持ちになることも珍しい。
ヴァルは控えめな態度でありながらも、跨麟の話に目を輝かせては聞き入っていた。そんなヴァルの姿を思い出した跨麟は、この提案がなかなかに魅力的なのではないかと思い始める。
彼が仕事で日本に来ているというのであれば、いつかは住んでいる国に帰ってしまうのだろう。その限られた期間だけであるならば、割り切って付き合える。
昨夜の会話で日本という国が彼にとって物珍しいものであるということは知っているし、昨日のお礼と謝罪にもなるのではないだろうか。
なにより一人きりで巡る飲み歩きも気軽だが、たまには趣向を変えてみるのも気分転換になるかもしれない。
そんな言い訳じみた考えが頭を過りながらも、跨麟は彼の言葉に頷きながら小さく笑う。
「わかりました。私でよければお付き合いします。でも、本当に私でいいんですか? ただの観光案内とか美味しいものを紹介するくらいしかできないと思いますけど……」
『だからこそ、君に頼みたいんだ。気が合いそうな人に教えてもらった方が、こちらも楽しめるからな。……よかった、正直断られるかと思った』
普段であれば断っていただろう。昨日やらかした様々な失態をなかったことにしたくて、早々に金を払って関係を終わりにしていたはずである。
しかし、惜しいと思ってしまったのだ。まるでこの関係は断ち切るべきではないと、誰かに囁かれるように。
「私の話を聞いてくださるんでしょ? まぁ、愚痴ばっかりになっちゃうかもしれませんけどね」
『はは、俺でよければ喜んで愚痴でもなんでも付き合うよ』
そんな跨麟の軽口に、ヴァルも柔らかく笑って跨麟と同じようにそう返す。迷惑などとは微塵も思っていなさそうな彼の声色に、跨麟は言いようのない感情が胸に湧きあがるのを感じた。
金銭を口実に愚痴を言える相手を見つけた感動からなのか、それとも別の何かなのかはわからなかったが、それでも跨麟にとってはけして嫌な感情ではなかった。
「じゃあ今度は日本らしい料理が食べられるところを紹介しましょうか?」
『それはいいな。楽しみにしてる』
そうして大本の話が落ち着いたところで、跨麟とヴァルは再びたわいない話に戻っていく。
通話開始時の緊張などはすでになく、跨麟はヴァルとの会話に夢中になりながら、次に行く予定の店を頭の中でピックアックしていった。
こうして、跨麟とヴァルの唐突でいて不思議な関係は幕を開ける。
これが跨麟にとって、人生の大きな分岐点であることも知らずに。
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