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柔らかい風が頬を撫でる。朝を告げる鳥の
僅かに開け放たれたガラス障子の隙間から入る風にカーテンがそよぎ、そこから漏れ入る日差しが眩しい。軽く目を細めながらもゆるゆると自身の腕で目元を隠し、小さく息をついた。なんとも酒臭い吐息だ。
「……いつ帰ったんだっけ……?」
今だ覚め切らない思考の中、時折眠たさに瞼を落としつつも昨夜のことを振り返るが、途中からとんと記憶に残っていない。
眩いほどの美男が突如として現れ、なぜか同じ卓で飲み食いしながら楽しく過ごしていたような気がするのだが、夢か現実化の区別は今の段階ではつかず、跨麟はゴロリと体の向きを変えて枕に頬擦りする。ふわりと香る柔軟剤の香りに癒されながら、しばらくの間ベッドでゴロゴロしていると、だんだんと意識がはっきりしてきた。跨麟はゆっくりと体を起こすと、昨日の姿のままメイクすら落とさずに寝入っていたようだ。寝ぐせで乱れた髪を大雑把に撫で付けながら、ベッドから降りて部屋を出ると、ふわりと鼻を掠めるみそ汁の香り。跨麟はその香りにつられるようにして、ギシギシと嫌な音を立てる階段をゆっくりと降りてダイニングキッチンへ向かう。
大正浪漫を思わせる和洋入り乱れた内装には、跨麟の養父である
有名な小説家である彼は何かにつけて形から入る悪癖があり、一日の大半を過ごす空間くらいは好きなようにしたいと古い邸宅を買い、これでもかというほど自分好みに改装した。
跨麟自身も、多少の不便さはあるもののこの家の非日常感が好きで、就職後も一人暮らしはせずにこの家から通っている。
それよりも、悠詩の生活能力の無さも心配であるので、早々家を離れられないというもの一つの理由ではあるのだが。
ダイニングキッチンにつくと、そこには小難しい本を片手に食後のコーヒーを嗜む悠詩の姿があった。
緩やかなカールがかかった茶髪をふわふわと揺らし、大きめの眼鏡をかけた彼は詰襟の袴姿で湯気を
跨麟と一緒に出掛ければ一度は必ず兄妹と間違えられるほどだが、その
彼は跨麟の姿に気づくと、コーヒーをソーサーに戻しながらも朗らかな笑みを浮かべた。
「おはよう跨麟ちゃん」
「お父さん、おはよう。今日は起きるの早いのね」
「やだなぁ、僕が早いんじゃなくて、跨麟ちゃんが遅いんだよ。もう昼だからね?」
「嘘っ! ホントに?」
悠詩にそう言われて慌てて時計を見れば、確かに指し示している時刻は昼を過ぎている。一週間のうちの貴重な休日を寝て過ごしてしまったことに後悔しながらも、跨麟は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、口に残っていた酒臭さを洗い流すように一気に飲み干した。
「あのさ、跨麟ちゃん……昨日のこと覚えてる?」
麦茶を一気飲みする跨麟をなんとも言い難いような目で見ていた悠詩は、そういうと持っていた本をテーブルに置いた。
「昨日? それが途中から全然なの。どうやって帰ってきたのかわかんないくらい」
「あー……そっかぁ」
「なに? お父さん、私なんかした?」
そう言って首を傾げるも、悠詩の言葉はどうにも歯切れが悪く、泥酔した自分はいったい何をしたのだろうと、跨麟はだんだんと不安になる。
「いやね、昨日跨麟ちゃんが泥酔したっていって送ってくれた人がいたの。ものすごいイケメンの外国人」
「え?」
「あんな金髪で青い目の彫刻みたいなド美人初めて見たよ。あんまりにも綺麗だから、本当に生きてるか触って確認しちゃったくらい」
そう言ってあはははーと能天気に笑う悠詩に、跨麟はほんの数秒の間をおいてから驚きに目を見開く。
父が言った言葉が、昨日のひと時がけして夢ではないということを示している。あの海外のアクション映画に出演していそうな精悍な美丈夫は、跨麟の脳が作りだした想像上の生き物ではなかったのだ。そんな彼に介抱されながら家に帰ってきたとなれば、跨麟の顔色が一気に青ざめるのも当然である。
そんな跨麟の様子に頓着せずに、悠詩は終始上機嫌そうに話を続ける。
「それにしても彼、見た目に反して日本語ペラペラだねぇ。彼ね、かなり遠いお国からわざわざ嫁探しに来たんだって。いやぁ、嫁探しとか浪漫があるよねぇ」
何故そんなプライベートなことまで知っているのか、思わず跨麟は悠詩に
「あんなヨレヨレの跨麟ちゃんを親切丁寧に送ってくださったのに、それで『はい、さよなら』は無いでしょ? だから、ちょっと家にあがってもらったんだよ。その時に色々と話を聞いてね。いやぁ、今時珍しい好青年だよ。お父さん感激しちゃった! ああいう子が跨麟ちゃんと一緒になったらなんにも文句言わないのになぁ」
いったいどこまで深く話せばそれほど感激するようなことが知れるのか、跨麟にはとんと見当もつかないが、とりあえず悠詩が彼を相当気に入ってしまっていることだけは窺えた。
少しでも小説のネタになりそうなことがわかると、相手のことも考えずに質問攻めをしてしまう厄介な性質を持つ悠詩であるが、おそらく彼もその洗礼を受けたに違いない。
無表情が通常装備そうな彼が悠詩の異様な熱にタジタジになっている姿が脳裏に浮かび、親子ともども迷惑をかけてしまったことに対して頭を抱えそうになる。
「もう、変なこと言わないで。しばらく恋愛は
いい笑顔を向ける悠詩に呆れるようにしてため息交じりにそう返すと、彼は跨麟の言葉をお気に召さなかったようで、今度は子供のようにむくれる。
「あのクソ野郎と一緒にしちゃだめだからね? 次元が違いすぎるから。あんなその辺に転がってる綿埃みたいな頭の軽い男と一緒にされたら可哀そうだよ」
「わかってるけど……でもすぐにそんな気分になんてなれない」
「跨麟ちゃんの気持ちもわかるけどさ、時間は有限なんだよ。クソ男のことで跨麟ちゃんの貴重な時間が消費されるなんて、僕は嫌だなぁ」
悠詩がクソ野郎とこけ下ろしているのは、もちろん将司のことである。
将司自身も悠詩の気難しさに、あまり跨麟の家にはきたがらなかったので、もっぱら跨麟の方が将司の家へと行くことが多かった。
さすがにいい歳の娘の交際に関して口を出すということまではしないまでも、全方面に愛想のいい将司と自分が認めた者以外は遠ざけがちな悠詩では、相性の悪さは否めない。
跨麟自身も結婚時にはその辺りがネックになるだろうとは感じていたが、そうなる前に今回のことがあり、悠詩はますます将司のことが嫌いになったようだ。
悠詩にとってはもう二度と会うことのない人間だろうに、自身の娘を蔑ろにされたことがよほど腹に据えかねたのだろう。いまだに怒りが収まらないようである。
悠詩の言っていることももっともであると頭では理解しているものの、早々に気持ちを切り替えられないというのも跨麟の本心である。
別れてからまだ数日、気持ちだけが日常から取り残されてしまったような感覚が続く中、新しい恋愛に目を向ける余裕などないし、そもそも昨日知り合ったばかりの男にそんな目を向けるなど相手にも失礼な気がしてしまう。
相手がとんだ屑だったとはいえ、築いてきた数年間の関係を思い出すとなかなか割り切ることはできなかった。
「とりあえず、これ渡しておくね」
黙り込んでしまった跨麟を見て小さく息をついた悠詩は、そう言って一枚の紙を跨麟へと手渡す。そこにはおそらく昨日出会った彼の連絡先だろう番号が書かれていた。
「迷惑かけたんだから、お礼くらいはちゃんとしなさい。それが礼儀ってものだからね」
「……うん」
散々迷惑をかけた相手に電話をかけるのは勇気がいる。
電話口でいったい何を言われるのか、内心戦々恐々としつつも、跨麟はとりあえず問題を先送りにするようにテーブルに紙を置くと、悠詩の視線から逃げるようにそそくさと浴室へと向かった。
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