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 実際話をしてみると意外と気さくで、日本に来て驚いたことや美味しかったものなどを輝いた瞳で静かに語り始めれば、その少年のような無邪気さに緊張感などあっと言う間に解けて、酔いもあってかスルスルと親しくなり、気づけば周囲の目も気にせず、二人で頼んだ料理を分け合うくらいになっていた。


「それにしても、女性が一人で外出できるなんて、この日本という国は随分と治安が良いのだな」


「そうですね。確かにもっと細かく見れば危ないところはあるのかもしれませんけど、この辺りは夜でも明るいですし……。あなたのいたところは違うんですか?」


「女性が一人で夜道を歩いていたら拐かしに合うくらいには、な」


「それは……怖いですね」


 彼の故郷は随分と殺伐としたところのようだ。彼の首にある抉られたような大きな傷もまた、彼の言葉をさらに重くさせている。


「いや、良いところではあるんだ。自然は多いし、食べ物も美味い。住む者も大半は穏やか……だと思う。たぶん」


 跨麟を怖がらせたのかと思ったのか、彼は少し焦ったように故郷の良い所を上げようとするが、最後はなぜか尻つぼみになってしまう。

 見た目に変化はないはずなのに、どうしてかしょんぼりした犬が目の前にいるような気がして、そんな様子に思わず跨麟の口から笑みがこぼれる。


「ふふ、なんでそんな自信なさそうに言うんですか?」


「その、あくまで俺の基準からすれば、という話だからな。ただ、平和な日本に慣れた君には、少し刺激が強いかもしれん」


 海外では空港を出た瞬間に物取りに合うという地域もあると聞く。平和に慣れ切った日本人などは、その手の者によく狙われるらしい。

 それが一つのビジネスにまでなっている場所もあるのだから怖いものである。


「そこまで言われると逆に気になります。絶対安全って条件なら、ちょっと行ってみたくなっちゃうかも」


「っ! そう言ってくれるか」


 跨麟の冗談めいた言葉に思いのほか食いついた彼は、テーブルに身を乗り出す勢いで、もし来てくれるなら自分が護衛につくし、なんなら色々と案内するとまで言ってきた。

 その異様な熱量にタジタジになりながらも、見たことのない新しい景色を見に行くのも悪くないと思い始める跨麟だったが、出会ってすぐの異性に早々気を許すわけもなく、曖昧に微笑んで機会があったら是非、と遠回しな返事に留めた。

 色々と煩わしいことが続く日々から逃げ出したい気持ちはあるし、いまこうしてこの場に来ていること自体が現実逃避というものだが、さすがに知らない男性についていくなんていう度胸はない。

 しかし、目の前の彼は跨麟の逃げ腰な態度にも気を悪くした様子はなく、頬杖をつきながらも、跨麟を見て嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 まるで恋人と過ごしているかのような甘ったるい視線に気持ちが落ち着かなる跨麟であったが、それを気取られぬように素知らぬ顔をして会話を楽しみつつ次から次へとカクテルを口に運んでいたら、いつの間にやら自身の許容を超えた量を飲んでしまい、それに気づいた時には酔いがかなり回ってしまっていた。


 跨麟の呂律はふわふわとした怪しいものとなり、少々どころかガッツリと目が座った挙句、周囲のことなどポンと頭から飛び、どんな話の流れで行きついてしまったのか、目の前の男に先日の話を壊れた蛇口の如く話してしまった。

 どうせもう二度と会わないような、この場限りの関係である。酒を飲み交わした後は元の日常に戻るだけ。

 こんなにも美しい男が自分に熱を帯びた瞳を向けようと、それに何か思うのはきっと間違いで、この一夜限りの短い関係を彼自身も楽しんでいるだけなのだと心に言い聞かせながら、大学時代から付き合っていた彼に浮気されたこと、それを知ったのが浮気相手が突撃してきたからということ、そして今日の出来事を坦々と作業のように話す。

 最初の内は酔っぱらってふにゃふにゃとし始めた跨麟を面白そうに見ては会話に相槌を打っていた彼も、話が彼氏がいたことと浮気の件に差し掛かると途端に顔を険しくし、跨麟が話し終える頃にはすっかり元の無表情に戻ってしまっていた。

 美人が音の消えたような顔をすると、物凄く怖いんだなぁなどというくだらない考えを脳裏に浮かべつつ、跨麟はカクテルで唇を湿らせる。


「けっきょく、男性はみんなちいさくて守ってあげたいって思えるようなかわいい子がすきなんですよねぇ」


「……どうしてそう思う?」


「だって、わたしは小さくもないし、つり目だし、性格だってかわいくないから。あの人、初めは『真面目でしっかりしたところが好き』って、そういってくれてたのに、わたしとは正反対の人を【運命の人】なんていっちゃってぇ、子供までつくって……けっきょくわたしだけがあの人との将来をかんがえてたなんて、もう、ホントばかみたい」


 跨麟はいったい初対面の人間に何を話しているのだろうという、自身への呆れを感じながらも話を続ける。


「でも、もういいんです。きょうはっきり決別しましたし、こうして口にだしてはなしたら……なんだかちょっとすっきりしました」


 怒りや悲しい気持ちはあれど、今は泣きつくした時の残滓みたいなものがあるだけで、心を占める大半は虚しさである。

 数年付き合って互いに人となりを知っていったはずであるのに、その数年をいとも簡単に捨てて、出会って一年にも満たない女に靡いた。浮気相手が聞かせてくれたありがたいピロートークではしきりに運命がどうとか言っていたくせに、浮気が跨麟にバレた途端に言い訳を並び立てて追いすがってくる腐った根性は今でも気に入らない。


 結局のところ、長く一緒に居すぎて恋人としては見れなくなってしまったのだろう。

 その関係を家族のようだと言いきれるなら、きっとそのまま結婚してもある程度幸せに暮らせただろう。しかし、彼はこの関係を退屈だと思ってしまった。

 日々積み重なる愛情よりも、火花のように刹那的な愛情の方が、彼にとってはよほど魅力的だったのだ。



「……君は、そいつを殺したいとは思わないのか? 裏切られたんだぞ?」


彼のあまりに物騒な物言いに、跨麟は思わず吹き出すように笑う。


「ふふ、すっごい物騒なこといいますねぇ。んー……殺したいほど憎むって、そこにまだ愛情があるってことですよね? もう無いんです。なんにも、これっぽっちも。はくじょうかもしれないけど」


 ここまで割り切ってしまえるのはきっと、奔放な母親を持っていたからかもしれないと、跨麟は思う。


 跨麟の両親は見合い結婚だった。順調に交際して結婚、そしてすぐに妊娠。そうして母は跨麟を出産したものの、生まれてきたのはどう見ても両親に似ても似つかないどこかの国とのハーフの赤子。

 さすがにおかしいと思い親子鑑定をし、案の定父の子ではないことがわかると、母は悪びれもなく浮気相手の子を父に托卵させようとしたという。

 離婚後、当然跨麟は母が育てることになったものの、その扱いはひどいもので、結局元夫である今の養父が不憫に思って跨麟を養子として引き取り今に至る。

 そんな母を持つ跨麟としては、自分に一途でいてくれない時点で、今まで積み上げてきた何もかもがどうでもよくなってしまった。

 壊れたものはそう簡単には元に戻らない。それは人間関係だとより顕著に表れる。

 たとえ楽しい思い出もあっただろうと同情を引くようなことを言われても、二度とあの男に心を開くことは無いだろう。


「薄情とは違うな。いらなくなったものに興味を持てなくなって何が悪い。薄情という言葉を使うのなら、それはその男の行動に対してだけだ」


「そう、ですよね」


「君は自分のそんな考えに薄情だと思うことができる。それはむしろ情が深いなによりの証拠だと思うがな」


「……そういってもらえると、なんか気が楽になりますね」


「それにしても、君のような女性に好かれておきながら別の女に現を抜かすなど……理解しがたいな。こんな言い方は今まで付き合っていた君には失礼かもしれんが、そいつはたぶん、相当に頭がイカれてると思う」


 今までの硬めの口調を崩してしまうほど、心底不思議そうにそう言って首をかしげる彼に、跨麟はなんだかおかしくなって吹き出すように笑みを零す。

 後ろ向きになっていた自分が馬鹿らしくなるくらい、心が軽くなった。


「話、きいてくれてありがとうございます」


「これくらい、いつでも」


「ふふ、また会ってくれるんですか? こんな女でも?」


「こんな女なんかじゃない、君だから会いたいんだよ」


「まぁ、お上手ですね……っとと」


 彼の口説き文句に少し動揺した跨麟は、持っていたグラスに残っていたカクテルを少し零してしまい、軽く指を濡らしてしまう。

 それをごまかすように笑いながらも、濡れた指を拭こうとバッグに手を伸ばした時、どうにもうまくつかめないことに気づいて、跨麟はこてんと首をかしげる。


 そして、あぁやらかしたかもしれないと思った時には既に遅く、波にさらされたように視界がゆらぎ、感覚的にかろうじて歩けはするものの家まで帰れる自信がない。

 食事を取りつつの飲酒だからそんなに回らないだろうと高をくくっていたが、カクテルは総じて度数が高い物を掛け合わせたものが多い。それを勧められるがまま飲んだ挙句、会話についつい夢中になりすぎて滅多にやらない深酒してしまっていた。

 そんな自分が情けないと思える理性は残っているものの、どうにも考えがまとまらない。まるで泥の中に埋まったまま藻掻いているような重だるい感覚に、瞬きさえも遅く感じてしまう。


 目の前の彼は、しきりに首を傾げながらパタパタとバッグの蓋を開けては閉めている跨麟に気づくと、すぐさま向かいの席を立って跨麟の隣に腰かける。


「おい、大丈夫か? これは、だいぶ酔っているな……」


「らいじょうぶ、です。ちょっと……いつもよりも飲みすぎてしまって、ふふ」


「大丈夫じゃないだろう。あぁ、頭がグラグラしているぞ。ほら、寄りかかればいい」


 彼はそういうと、跨麟の頭を引き寄せて自身の肩に凭れ掛かるようにする。


「あ……そこまでおせわに、なるわけには……」


 引き寄せられた時に触れた手の熱さと、服越しに感じる温かな人の体温に、跨麟は遠慮の言葉を口にしつつも無意識に頬を摺り寄せてしまう。

 彼は跨麟のその行動に一瞬動きを止めるが、すぐにその大きな手で跨麟の頬をするりと撫で、乱れて頬にかかっていた髪をそっと払った。


「気にするな。……そうなった半分は、俺のせいだろうからな」


「どういう、ことですか?」


「君が、俺と出会ってくれたから。


 彼はそうごまかすように口元に笑みを浮かべると、それ以上のことは言わず、眠たげに見上げる跨麟の頬に手を滑らせた。

 そしてここ数日まともに眠れなかったせいで一気に濃くなった隈を、彼の親指が優しくなぞると、なぜか涙をこらえるような顔をする。


「どうして、そんな顔をするんですか?」


「君こそ、俺の前でどうしてそんなに無防備でいられる? 初めて会った人間のはずだろう?」


「そう、なんですけど……」


 近すぎる距離も、彼の不思議な物言いも、すべてが現実離れしているから。

 明日には無くなっているものかもしれないから、そんな理由が浮かんでしまうが、けしてそれだけが理由ではないような気がしていた。


「やっと、会えたような気がして。ふしぎですよね。疲れてるのかしら」


 本当に今日はどうしたのだろうと、跨麟は自身の失態の数々に戸惑いながらも目を伏せる。

 普段の自分ならこんな迂闊なことは絶対に口にしないはずであるのに、そう酔いの波に漂う意識の中で考えながらも、なぜかそれだけは口にしなければいけないような気がしていた。

 彼と目が合った瞬間から、自分が自分ではないような不思議な高揚感と共に、この人を一人にしてはいけないような焦燥感を、ずっと感じ続けていた。

 この出会いも、今この瞬間の出来事も、すべてはこの先ずっとこの美しい男と共にあるためのものなのだと、どこからともなく声がするような気さえしている。

 そんな現実的ではない馬鹿みたいな感覚に、彼を付き合わせてはならないとわかっているはずなのに、酩酊している思考が溢れ出ようとする何かを遮ることを許してはくれない。


 彼は跨麟の零した言葉に息を飲み、そしてジワジワと目を見開いた。

 何気なく口にしたそれが、彼にとっては相当驚くようなことだったらしい。

 今の彼がどんな心境であるのかなど跨麟にはとんと理解できないが、それでもわずかに震える唇が何かを言おうとしては言葉に詰まるようにキュッと閉められる度に、どうしようもない感情が溢れるのを我慢しているように感じた。


「……あぁ、そうだ。やっと、君に会えた」


 低い弦のような響きをする声が、その心情を吐息と共に零す。跨麟は様々な感情が込められているであろう一言につられ、ゆるりと顔を上げた。

 蒼穹の瞳と跨麟の瞳が交じり合うと、彼の眼孔は縦に裂け、虹彩には金糸が散っている。

 人ではありえない変化に戸惑うでもなく、跨麟はただただその宝石のような瞳に魅入られた。

気づけば夜も随分と深まり、店内のざわめきも落ち着いて、一人で飲むのを楽しむような者が数人、カウンター席にいる程度になっていた。

人が捌けたからなのか、あれほどあった周囲の視線も不自然なほどなく、まるでここだけ切り取られているかのように静かだ。

それもあってか、現実味のないあれこれと日ごろの疲れ、そして酒による開放感が合わさって、一気に跨麟を眠りへと誘う。

彼はそれがわかったのか、困ったように笑うと跨麟の肩を抱いてさらに引き寄せた。


「あぁ、俺だけの―――もう絶対―――」


駄目だとわかっていても、睡魔に抗えずにゆっくりと意識が沈んでいく中、彼が跨麟を抱きしめながら何か呟いていたのを最後に、跨麟の瞼は完全に落ちた。










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