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 跨麟は予定通りに仕事を終わらせ、定時にタイムカードを切った。

 自身のデスク周りを片付けている沙耶を含んだ数人に軽く挨拶をしてから、既に人の姿がまばらになったオフィスに背を向けてロッカールームへと向かうと、そこには数人の女性社員が帰り支度をしているところだった。

 彼女らにも軽く挨拶をしてササッと着替え終えると、結っていた髪を降ろして整えメイクを直し、忘れ物が無いかの確認をしてからロッカーを閉める。

 おしゃべりに夢中になっている彼女たちの隙間を抜けてロッカールームを出ると、廊下の先には給湯室で姦しくしていた女性社員たちがいたが、あちら側が愛想よく挨拶をしてきたので何事もないように返すと、横を通り過ぎた。


「堅物メガネ、ちょっとお洒落してない? デートかな」


「えぇ? うそぉ、ありえないでしょ。ウケる」


「ちょっと、聞こえちゃうでしょ!」


 そんな嘲笑交じりの言葉が背後から聞こえたが、いちいち相手にしているのも面倒だと、そのままにしてビルを出る。


 子供じみたやりとりをしている連中は、大概数人で固まっていないと何もできないタイプの人間が多い。結束力というものをもっと別の形で仕事に取り入れてくれればいいのだが、そういう時に限ってその結束力とやらがマイナスに働くことになることが多く、結局のところ大事なところでまったく役に立たないのである。

 一人ひとりであれば、案外余計なことも言わず、まだ話が通じるのだが、ああやって揃ってしまうと互いの意見に同調し、気が大きくなってしまうようだった。

 そうした互いの結束や意思疎通も大切だが、距離感の線引きも大切なのだと、跨麟は学生時代からほとほと身に染みている。彼女らも早いところそのあたりを理解出来たらいいと心の中で思う。こちらからのアドバイスは余計なお世話だろう。


「さて、どこに行こうかな」


 彼女らのことはさておき、跨麟はいつも通り駅までくると、スマホを開いてよさそうな店を検索する。

 店の検索サイトで写真を見ながら、店の雰囲気を確認したり、一人で行きやすそうかどうかを調べていると、都内にある高級ホテルのラウンジバーが引っかかった。

 かなり高めの値段設定だが、ドリンクの種類が多く、アラカルトメニューも多彩で何よりもジャズの生演奏も聴けるステージがあるらしい。

 一人で行けるようなところだろうかとレビューなどを見てみると、案外女性でも一人でも楽しめるとある。しばらく忙しくしていたせいもあり、懐にはまだまだ余裕がある。たまの贅沢も悪くはないかもしれないと行き先を決定し、跨麟はホテルまでの道順を検索しつつも電車へと乗り込んだ。


 そうしてたどり着いた都内の某高級ホテル。ホテルの近くまで来て見上げると、天を突くような高層ホテルで、思わずしり込みしてしまう。ラウンジバーの階層は五十階。こんな仕事帰りの服装で来ていいものかと迷ったものの、やはり非日常感を味わいたいという想いが上回り、跨麟はホテル内へと滑るようにして足を進めた。


 エレベーターの中で身なりを整えながらもバーの階層へと着くと、意外と店内は騒がしい。広々とした店内は、天井が高く開放的で、テラスのように張られたガラス窓からは見渡す限り万華鏡のような美しい夜景が広がっている。

 静かにグラスを傾けるようなおもむきというよりは、どちらかといえば親しい仲間でゆったりと語り合い寛げるような空間だ。

 平日であるからか、席がすべて埋まっているようなこともなく、跨麟は夜景が一望できる窓際の席へと案内された。



 メニューには写真などは一切なく、シンプルに文字のみで書かれていた。

 文字から大体の味を想像し、メニューからカクテルを一種と前菜とメインの魚料理を一種ずつ選んだ。写真ありきのメニューに見慣れているせいか、こういったシンプルなメニューは少しばかり戸惑う。酒や料理名もやたらと長く、注文する時に全部言わないといけないのかと若干不安になったが、なんてことのないように取り繕いながらオーダーを済ませた。


 品を待っている間にそっと周囲を見回すと、客層は意外にも外国人が多いようだった。観光客だろう装いをしている者から、キッチリとしたスーツ姿で談笑している者まで様々だ。むしろ跨麟の方が外国へ来たような気分になる。元々この店は海外の有名ホテルのラウンジバーをモデルにしていることもあり、海外の方には馴染みがあるのかもしれない。


 ふいに、ポロロンと転がるような音色が響く。店内の中央にあるステージにはグランドピアノが置いてあり、壮年の外国人男性が指慣らしとばかりに軽く音を奏でていた。

 他にも弦楽器を持つ男性が数人ステージへと上がっていく。ちょうど演奏が始まる時間だったのかと、思わず心が弾む。


 そうして始まった演奏は、軽快なジャズから始まり、しっとりとしたジャスバラードへと移っていく。

 先に運ばれてきたカクテルを口にしつつも贅沢な生演奏に耳を傾けていると、頼んでいた品が次々と運ばれてきて、テーブルの上は一気に華やかになった。

 三つのアミューズスプーンに盛られた前菜はクラッシュチーズとオニオン、スモークサーモンのマリネと薔薇の形に成形された生ハムのキャビアオリーブ乗せ、そして乱切り卵とコンソメジュレに薄切りのトリュフが添えられた一品だ。そのどれもが少ないながらも満足感を得ることのできるもので、そのおいしさに思わず目を細める。

 そしてメインは真鯛のポワレ。こんがり焼かれた皮の香ばしさと、ほろりと解ける身に絡んだレモンクリームが滑らかで、ほんのりとレモンの爽やかさが後を引き、時折訪れるピンクペッパーの粒がプチリと潰れると、途端にスパイシーながらも柔らかな辛みが舌を刺激する、非常に上品でいてアクセントのある味だ。


 なんだかとても贅沢している気がする。跨麟は思わずそう口にしそうになったが、さすがに独り言は恥ずかしいのでゆっくりとしたペースで食べすすめる。

 まるで心の洗濯をしているような気分だった。美しい夜景を視界に入れながら、贅沢な生演奏を聴き、美味しい料理と酒に舌鼓を打つ。五感すべてが満たされていく感覚に、やっぱり来てよかったと顔が緩まずにはいられない。


 カクテルが無くなり、今度は甘めの物にしようかとほろ酔い気分でメニューに目を落としていた時、ふとメニューに影が差した。

 気を遣って店員が来てくれたのかと思い顔を上げると、そこには見覚えのない大柄な外国人男性が無表情で立っていた。

 白のワイシャツと黒地のズボンというなんてことない服をラフに身に着けているだけのはずなのに、鍛え抜かれたであろう肉体が隠し切れずに形どられ、首にある大きな傷も相まって、周囲をこれでもかと威圧している。

 そして何より跨麟を見つめるその顔が、あまりにも端正すぎて言葉が出なくなった。感情を宿さぬ相貌は目鼻立ちの華やかさはもちろん、男らしさが溢れながらもこちらを見つめる瞳はチャーミングな猫目をしていた。彼は美しい金髪を後ろに撫で付け、蒼穹を閉じ込めたような瞳で跨麟をジッと見つめたまま、跨麟がだんだんといたたまれなくなってきたのを物ともせず、なぜかそのまま跨麟の向かいの席に腰かけた。


「えっ」


 思わず跨麟がそう漏らすと、目の前の彼は跨麟から目を離すことなく、ほんの僅かに口元を緩ませ笑みを浮かべる。

 それがなぜだかとても幸せそうに見えて、跨麟はさらにいたたまれなくなってそっと目をそらした。


(どうしよう、なんなの? 席なんて他にも空いてるのに……っていうか、ずっと見られてる?)


 恐る恐る視線を戻すと、やはり彼の視線は跨麟に向かっていて、目が合うと嬉しそうにキュッと目を細める。

 どうしてそんな表情をされるのか見当もつかない跨麟は、少しだけ酒が入っていたのもあり、目の前にいる美丈夫に思い切って声をかけることにした。


「あの……」


 声をかけようとして気づく。目の前の男に果たして日本語が通じるのだろうかと。

 跨麟はまたしても黙り込み、強すぎる視線から逃げつつも疾うに空になったグラスへと口をつける。しかし目の前から伸ばされた手によりグラスをヒョイと奪われると、彼は流暢な日本語で店員を呼び止めてグラスを渡しながら何かをオーダーしていた。


 とりあえず会話が成立しそうな相手だとわかりホッとしていると、彼は再び跨麟を視界に移して先ほどよりも少しだけ笑みを深める。

 元々あまり表情が動かないのか、それはほとんど無表情に近い物ではあったが、ほんのりと乗せられただけの笑みであっても十分に魅力的で、跨麟の頬に自然と熱が集まる。


「次の酒は奢らせてくれないだろうか?」


 突然の言葉に、跨麟は戸惑う。

 え、なんで? という言葉をどうにか飲み込み、どう反応していいのかもわからないまま、とりあえずお断りしようと跨麟は口を開いた。


「……初めてあった方に奢ってもらうのは、ちょっと」


「今日は俺にとって、人生最高の日なんだ。だから、少しばかり付き合ってほしい」


「は、はぁ……」


 控えめなお断り文句は流れるようにスルーされ、跨麟は彼の眩しい顔面と勢いに押されるようにかろうじて返事をした。


 一杯しか飲んでいない弱すぎる酔いなどあっという間に覚め、跨麟は目の前にいる美しい男の笑顔に唯々気圧されていた。

 こんなモニター越しにしか見られないような美形と知り合った憶えなどないし、恋愛抜きにしたとしても一度会ったら絶対に忘れられないだろう。

 鮮烈な美貌がどことなく甘やかな笑みを浮かべ跨麟を見つめている。跨麟が次の言葉を選んでいると、彼は小さく首を傾げた。後ろに撫で付けていた金糸の前髪がハラリと一筋落ちるだけで、語彙力が崩壊するほど神々しい。

 ここ最近の不幸続きですっかりささくれ立っていた心には、いささか刺激が強すぎるそれに跨麟は頭が真っ白になった。

 この沸き立つような感情はなんだろう、自分はそんなにも面食いだったのかと心の中でパニックになりつつも、努めて冷静なフリをしてポワレを一口含む。

 味覚に刺激を与えたおかげか、先ほどよりも現実に思考が戻ってきたものの、今度は周囲の視線が痛いほど集中していることに気づく。

 特に女性からの視線は突き刺すほどで、積極的であろう女性たちは、どう話しかけようかとうずうずしているような感じさえ見られる。


 彼はそんな視線をものともせず、注文していたものがテーブルに届くと、跨麟のグラスに合わせて出会いを祝福した。


「こういうところには、よく一人で?」


「え、えぇ、まぁ。ここに来るのは初めてですけど」


 そう言って彼が注文してくれたカクテルグラスに口をつける。

 クランベリーを主体とした甘酸っぱいカクテルは、口に入れた瞬間のフルーティーな滑らかさとは違い、喉を通ると途端に熱くなる。

 非常に飲みやすいが、度数が高めのものなのかもしれない。跨麟は一気に飲むようなことは避け、ちびりと唇を濡らす程度に留めた。


「なら、君と出会えたことは相当な奇跡ということか」


 上機嫌らしき彼の静かな笑みはいっそう周囲の興味を引き、室内の空気がわずかに揺らいだ。

 その遠回しに口説かれているかのような言葉に、跨麟はグッと喉を詰まらせそうになるが、何とか耐えきりひきつった笑みを浮かべてやり過ごす。


 目の前の彼は一目見た時から変わらず僅かにしか表情を作らないが、何故だか初対面であるはずの跨麟に対して妙に心を開いているように感じた。

 そして跨麟自身もまた、彼という強烈な存在を目の前にして動揺はしつつも、警戒心がとんと仕事をしたがらない。

 元々人を懐に入れるということに対してものすごく慎重になってしまう性分なのだが、この男に対してはその無意識の制限が効いていないようだった。

 酒の力や周囲の雰囲気に流されているということもあるかもしれないが、つい最近不義理を経験したはずであるのにどういうことなのだろうと内心首を捻る。もしやこれが、かの有名な『ただしイケメンに限る』ということなのだろうか。

 人は第一印象が全てではないというような言葉も聞くが、彼の場合は第一印象からしてすでに優勝してしまっている。それはもう、人によってはその後に来る様々なことなど些末であると感じてしまうほどに。


 跨麟はこの場の雰囲気に流されないように数日前の屈辱や、会いたくもなかったあの野郎の顔を思い出す。するとたちまち浮ついていた心がスンと静かになった。

 あの男を思い出すだけで正気に戻るとは、たまには役に立つなと脳内で散々な言い方をしながら、せっかくの出会いだと半ば自棄になりながら会話を続けることにした。











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