一章 貴方と私の邂逅

1








「あの【堅物メガネ】、ほんとうざいったらないわぁ」





 気だるさ漂う午前の終わり。デスクに積まれていた仕事をある程度片付け、昼食がてらコーヒーでも一杯、そう思いカップ片手に給湯室の扉に手をかけた瞬間に聞こえたのは、聞き覚えのある女性社員たちの声だった。


「ちょっと営業の人とおしゃべりしてただけなのに『仕事の話以外は休憩の時にしてちょうだい』とか言ってすごい睨んで邪魔してくんのー」


「あれでしょ? 営業の樋上君と話してた時でしょ。堅物メガネすっごいにらんでたよねぇ。アラサーの僻みこわすぎ。自分が相手にされないからって僻んでるのバレバレだよね」


「仕事の時もさぁ、いちいち進み具合の確認とかしてくるの。言われなくてもやるから放っといてって感じ」


「そういうとこあるよねー。自分が仕事できるからって他人にも同じレベル求めんなっての。こっちはまだまだ新人なのにさぁ」


「そうそう! 仕事できるっていっても何年も同じ事やってんだからできるに決まってんじゃん? そんなのでマウント取ってくるとか、マジでお察しだわぁ」


 思わず息を潜める中、まるで歌うようにすらすらと悪意を口にしている彼女たちの話題の中心、そう、【堅物メガネ】はまさしく自分のことであった。

 隙なくひっつめた黒髪に黒縁の分厚めなメガネ。清潔感はあるが目立たないように整えた化粧は、人によっては地味だと思うかもしれない。

 確かに自分で思うほどお堅い印象を与えるその風貌から、そんな渾名あだながついたのだろうとわかってはいたが、こうして誰かの口から直接聞くとやはり心に来るものがあった。

 指導する立場故に以前から彼女たちによく思われていないのは理解していたが、本人も利用するような場所で堂々と悪口を言うなど、こちらに気づいてくれと言っているようなものだ。

 そもそも仕事中に長々と仕事に関係ない話をしていれば注意もする。何よりただ男性社員と話している光景を見て僻むなんてとんでもないし、けして睨んでいたわけでもない。ただ元来吊り目で誤解を与えがちというだけであり、言うなれば目つきが悪いだけである。

 それにいつまでも上がってこない仕事の進行を聞くのがそんなに負担になることであろうか。きつく言ったわけでもない、ただほんの少しイラついていたのは確かだが、それを極力抑えて丁寧に聞いたはずである。本来であればそこいらの書類をテーブルに打ち付けながら懇切丁寧に仕事について話し合いたいくらいだ。


 これ以上聞きたくない一心で、そっとドアノブから手を離し、持っていたマグカップを手の中でもてあそびながらきびすを返す。


 勢いのままあの場に乗り込んだところで解決するわけではないし、聞かれてしまった気まずさから仕事に支障が出ても困る。

 それに、いくらこちらが態度を変えたとしても、ああいう行為は止まらないだろうということもわかっていた。

 共通の敵とでも思われているのかもしれない。こちらとしては仕事に真摯しんしであれば何も言う気はないというのに、なんとも理不尽なことだと内心いきどおる。


 小さくため息をつきながらオフィスに戻ると、休憩時間であるからか、室内は普段の騒がしさからは遠く、デスクに座っているほんの数人程度の話し声がやけに耳に届いた。


「あれ、跨麟かりん。飲み物取ってくるんじゃなかったの?」


 そう言って不思議そうにこちらを見つめるのは、仲よくしている同僚の面差沙耶おもざしさやであった。

 彼女は自前の弁当を広げながら、綺麗に巻かれただし巻き卵を箸で摘まみつつも、跨麟が手持ち無沙汰に揺らしていたカップに視線を移しながら首をかしげる。


「あぁ、ちょっとね」


「なになに? もしかしてまたあいつら?」


「……言わせておけばいいってことはわかってるんだけどね」


 跨麟は彼女の問いかけにため息交じりにそう返すと、持っていたカップを置きながら苦い笑みを浮かべる。


 社会人になり、学生の頃とは違う人間関係を作れると思っていた。

 互いに尊重しあいつつも、適度な距離感でほどほどのお付き合い。ひとつの枠にとらわれずに互いの意見を言い合って補っていける関係。


 机を並べ、同じ空間で同じものを学んでいるときは、その世界の狭さが嫌でたまらなかった。

 足並みを揃えなさい、他人に共感しなさい、それがたとえどんなことであってもはみ出てはいけません。

 それが出来ない者はすぐに弾かれ、少しでも突出すれば妬まれ打ちのめされる。

 跨麟は昔、弾き出される側の人間だった。自分の意志ではどうしようもないことで弾かれ、そして無遠慮に踏みつけられた経験は今でも忘れていない。


 早く大人になりたい。自分で稼いで、自分の足で行き場所を決めて、縛られない世界に行きたいと何度願ったことか。

 だというのに、結局大人になって自分で稼ぐようになっても、人間関係というものは相も変わらずくだらないことばかりだ。


 昔よりは自由だという実感はあるものの、それでも煩わしい人間関係に心がすり減っていく。

 自分のことを理解してくれる友人も、同じ目線で語れる同僚もいる。

 恵まれているところを上げればきりがないというのに、それでもほんの少しの心無い言葉や態度は跨麟を幼い頃にあっという間に戻して深く傷つけるのだ。

 長い時をかけて沈殿した苦い思い出を、混ぜ返すようにいつまでも。


「最近元気ないね」


「……うん、そうかも」


「あいつらのせいだけじゃないんでしょ? よければ話、聞くよ?」


 沙耶が気遣うようにそういうが、跨麟は小さく首を振る。


「大丈夫。ちょっとね、いろいろと疲れちゃっただけ」


「いつでも言いなね?」


「うん、ありがと。……ちょっと飲み物買ってくる」


 跨麟はそう言って軽く手を上げると、財布を片手にゆっくりとした足取りでオフィスを出た。


 気分転換を兼ねて近所のコンビニにでも行くか、そう思いながらもエレベーターのボタンを押す。上から順々に降りてくるエレベーターを待ちつつも、スマホに目を落として時間を確認すると、まだまだ次の仕事までに余裕がありそうだと胸をなでおろした。給湯室の会話を聞いてから気もそぞろになっていたせいで、時間の感覚が少しばかりおかしくなっていたようだ。

 そうこうしているうちに扉が開き、跨麟は中を確認するでもなくスマホに目を向けたまま乗り込むと、一階のボタンが押されているのを目に入れてから扉を閉めた。


「……跨麟か?」


 突然後ろから声をかけられて振り返ると、そこには背広に身を包んだ男性が一人、驚いたように跨麟を見つめていた。


将司まさし? なんでここに……」


「あぁ、いや、このビルにうちの取引先が入ってるんだよ……奇遇きぐうだな」

 

 そう言ってへらっとした笑みを浮かべた彼は、つい最近まで跨麟と付き合っていた男だった。

 大学のサークルで知り合い、日々を過ごす中で彼の持つ生粋の明るさに惹かれて付き合い始めて数年、最近は結婚まで考えていた男であったが、どうやら彼は違ったらしい。

 将司は跨麟と会いながらも、跨麟が知らないところで職場の新人受付と別の愛を育んでいたのだ。それも、相手の女性が懐妊するほど熱烈な愛を。


 仕事帰りの跨麟に声をかけてきた女性が、下腹部をさすりながら嬉しそうに報告してきたことで、ようやく自分が浮気されていたことを知った。

 跨麟とは正反対の、小柄で庇護欲そそるかわいらしい外見をしたその女性は、仕事で疲れ切った跨麟を見て鼻で笑うと、去り際に『こんな見るからにお堅そうな人じゃ、彼が私に癒しを求めてきても当然ですよね』と言い捨てた。

 それから先は思い出したくもないが、跨麟と目の前で気まずそうに笑う男との縁は、その時点ですでに切れた。今はただの知り合い以下の存在。跨麟にとっては顔も見たくない最悪の相手であった。

 おそらくこの出会いもけして奇遇の一言で済ませるような類のものではないのだろう。

 見た目は裏表ない爽やかな好青年といった人受けする容姿をしているが、そのじつ少しばかり小狡こずるいところがあるのを知っていた。


 跨麟は将司を冷めた瞳で一瞥いちべつすると、何も言わずに背を向ける。そして扉が開くと、何もなかったかのように足を踏み出した。

 将司はそれを見て慌てて後を追うように降りると、前を向いたままの跨麟と並んで歩きながらあれこれと見苦しく弁明し始めた。


「な、なぁ、この間のことなんだけど」


「……」


「その、あの子の言うことは嘘だから!」


「……」


「あの子とは職場でよく話すだけでなんにも無いから。まだ一年目の新人だしっていって優しくしすぎた俺も悪かったかもしれないけど、ちょっと勘違いしちゃったみたいでさ、彼女の言うようなやましいことなんて―――」


「背中のほくろ」


「えっ?」


 跨麟は端的にそう口にして足を止める。そして戸惑う将司の方へと凍える目を向けてにこりと笑った。


「ねぇ、知ってる? あなたの背中にはね、星形の大きめのほくろが一つあるの」


「え、あ……」


「あと、お尻にもね」


 それだけ言えば、跨麟の言いたいことがわかったのだろう。目の前の男は一気に血の気が引いたように顔を真っ白にすると、唇を震わせながら言葉なく立ちすくんだ。

 背中のほくろまでは何かの拍子に見られてもおかしくないと思えなくもないが、例の彼女は彼の際どい場所にある特徴的なほくろの話まで証拠だと言わんばかりにベラベラと話して聞かせたのだ。裸を見せ合うような親密さが無いと知らないようなことを彼女が知っていたとなれば、今更将司がどんな言葉を重ねたところで、縁を切った跨麟にとっては等しく無意味で無価値である。


「本当によかったわね。確か……希来里きらりさん、だったかしら? 可愛らしい年下の彼女さんが出来て。あぁ、ちゃんとお腹の子の責任はとらなきゃダメよ? 、なんでしょう? 私はあなたが彼女に言ったように、お堅くてつまらない母親にしか思えない年増女だそうだから? 潔くあなたの前から消えてあげるわよ」


「そっそんなことは言ってないっ! 俺は君を、君だけを愛してるんだ!」


「大声を出さないでくれる? 言った言わないじゃないのよ。彼女、ご丁寧に行為中の写真やデート中に撮った動画まで見せてきたのよ? もちろん音声付きでね。それに……君を愛してる? 寝言は寝てから言ってよ。そんなゴミ以下の言葉、今更もらって嬉しいと思うの? さんざん陰で人のことを馬鹿にして、体のいい家政婦としか思ってなかったんでしょ? ホント、最低な男」


「なっ……どうしてそんな」


「まぁ、そんなことはもうどうでもいいのよ。二度と私に話しかけないで。顔も見たくない」


 跨麟の辛辣な言葉に、将司は青ざめたまま目を見開くと、次の言葉を探すように口をもごつかせる。

 彼が知っているであろう跨麟の性格からはあまりにもかけ離れた言葉に、どうにも思考が追いついていかない。


 跨麟は元来目つきがきついせいで不愛想だと誤解されがちではあるが、こと身内に対しては世話焼きで、献身的。お堅いというよりは誠実で、何事も争いを好まない穏やかな性格である。今まで将司はそんな跨麟の性格を知っていて随分と甘えてきた。

 今回のことに関しても、謝れば最終的には許してくれるだろうと安易な考えを持っていた。

 数か月前からたびたび職場の飲み会などで声を掛けられ、ちょっとした遊びのつもりで手を出した女が、まさか跨麟に突撃した挙句浮気をばらして妊娠までしたと報告するなど思っても見なかったのだ。

 そもそもそういう関係になってからの期間を考えれば、妊娠したと言っても本当に将司の子供かどうかもわからないのだ。それに希来里が他の男性社員たちに対しても似たようなことをしていたのを知っているからこそ、軽く考えてしまった部分もあった。他の奴もやっているのだから、自分だってかまわないだろうという傲慢さが、今の状況を作り出していた。


 しかも本人がいないからと余計なことまで話してしまった事実が、すべてその本人に伝わってしまっている。

 本当はそんなことなど思っていなかった。何を言っても言い訳にしかならないが、魔が差してしまったのだ。

 跨麟が堅実な性格だからこそ、性生活も慎重であったし、たとえ付き合っていたとしても個人の時間は大切だからと自由にしてきた。それはとても居心地がよく、だからこそ退屈にも思えてしまった。


 将司の脳内に様々な言い訳が次から次へと巡っている間にも、跨麟は大きなため息をつくと話を終えたとばかりに歩き始める。


「ちょっ、待てよ!」


「っ! 離して!」


「話を聞いてくれよっ! なぁ、あいつとはただの遊びで……」


 跨麟は掴まれた腕を強く振り払うと、将司はバランスを崩してその場に尻もちをついた。そのまま呆然と跨麟を見上げる将司を、もう一度冷ややかな眼差しで見据えた。


「さようなら」


 そして、跨麟は今度こそ背を向けてその場を後にする。

 オフィス街であっても閑静かんせいなエリアだからか人通りは少なく、あれほど言い争いをしていたにもかかわらず周囲の視線はそれほど集めなかったことだけが救いだった。

 こんなくだらないやりとりを会社の人間に見られていたら、とんだ恥さらしである。


「今日は、飲みにでも行こうかな……」


 跨麟は次第に悲鳴を上げ始めたこめかみに手を当てつつも、思わずそう呟く。


 ここ数日は極度のストレスのせいか、頭痛の頻度が上がっていた。

 元々跨麟は原因不明の虚弱体質と言っていいような体質持ちである。気候や精神の不安定さに体調が左右されてしまい、学生の頃などはそれで随分と苦労した。

 社会に出てからはそんな体とうまく付き合っていくために、ストレス発散の方法をあれこれと試してみたりした。そうして、ようやく自分に合ったストレスの発散方法が一人で飲みに行くことだったのだ。

 家で飲むのも悪くはないが、こんな精神状態で宅飲みなどしようものなら、きっと余計なことばかりを考えてはズルズルと思考の坩堝に嵌まり込んでいってしまうだろう。

 全く知らない場所で、全く知らない人の中で一人きり、美味しいお酒を飲んだりその場所にしかないおつまみに出会ったりすると、今までの自分がリセットされたような気持ちになる。

 自分が居た場所は狭いのだと改めて気づかされ、一歩踏み出せば新しい世界が広がっているのだと、そうやって前を向くきっかけにもなるのだ。


 跨麟は向かったコンビニでコーヒーと心配してくれた沙耶へのおすそ分け用の菓子類を買い込むと、先ほど通った道を回避しつつも会社へと戻る。

 さすがにあのまま座り込んだままでいるはずもないだろうが、この辺りをまだうろうろしているかもしれないと警戒しながらどうにか戻ると、昼休みはすでに半分を過ぎていた。

 余計な時間を取られてしまったことに腹立たしく思いながらも、すでに跨麟の頭の中は帰りの予定でいっぱいになりつつあり、沙耶にお菓子をわけながら和気あいあいとし始めた時にはあの男のことも女性社員たちの陰口に関してもすっかり忘れ、気持ちをしっかりと切り替えて午後の仕事に励んだのだった。





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