夕日とカーテンの裏側に

今からでも遅くないなら

 本校舎2Fの廊下には夕日が差し込んでいる。オレンジ色の廊下は、疲れた足には普段の2倍くらいに感じて辛い。職員室が遠いよ。


 いつもなら聞こえるトランペットやサックスの音もしないことに気付いてため息が出た。毎日遅くまで練習してる吹奏楽部も練習してないじゃん。今日ソフトボール部が練習してた意味って何?


 はあ、またため息でちゃった。


 そもそもさ、うちの部って別に強豪でもなんでもないわけだし、そこまで必死に練習する必要ってないわけよ。今日みたいな学校説明会の日なんか特に。


 先月先輩たちが引退して、新しく部長に任命されたのが嬉しい気持ちはわかる。でもね、マミ。あんた以外の2年あんまりやる気ないんだわ。ごめん。野球好きだしなんか楽しそうとかいうふわっとした動機で入った部活だからさ。


 別にマミのやる気を否定したいわけじゃないけど、今まで通りゆるくやっていけばいいじゃん?って感じなんだよなあ。マミ、部長になってからがぜんやる気出しちゃってさ。先輩たちが果たせなかった都大会出場目指す!とか言って。


 あーあ、最初の頃は楽しかったのにな。先輩も優しかったし、練習もそこそこで部活終わったらおしゃべりして。


 マミはあの頃から本気でソフトボールやりたかったのかな。あの子は昔から、試合で負けると一人だけ泣いてたっけ。


 窓の外のほうになんとなく顔を向けると、外からマミの声が聞こえる。やばい。早く倉庫のカギ返してこなきゃ。みんな帰っちゃう。


 あーもう反対側の階段から校舎入れば良かった!校庭から近い方の階段で上がったせいでまだ職員室に着かない。ちょっと前にワックスを塗りなおしたらしい廊下が滑るせいで走れないし、なんなのこの上履き。こんなに歩きにくかったっけ?


 でもなんか人はいないし、つるつる滑る廊下、楽しいかも。どうせ誰もいないんだから、滑って職員室まで行こうかな。


 あ、ここ白線途切れてる。下を向いて足を滑らせていると、いつも気づかないことに気付くもんだな。ていうか、ここ私のクラスの前じゃない?顔を上げると、教室の中の机の1つに、藤崎ふじさきの赤いスポーツバックがかかっているのが見えた。やっぱりそうだ。今日、野球部も練習してたし、藤崎もまだ残ってるんだ。


 薄暗い教室ってちょっと怖いな、窓も開いてないのにカーテンが揺れてたりして。


 ……ん?カーテン、本当にちょっと動いてない?


 怖いけど、好奇心の方が勝ってしまった。カーテンが大きく動いて、まんまるの夕日が目に入る。眩しくて目を細めると、白いシャツを着た男の子が机に座っているのが見えた。ゆっくりこちらを振り返って、少し長めの前髪の隙間から見えた黒い目と、目が合う。


白井しらいくん?」


「あれ、須田すださんだ」


 須田さん、と私の名前を呼んだその人は、机から降りると、開けた窓から入る風で大きく膨らんだカーテンを片手でよける。夕日を背にしたその仕草が、とてもきれいだなと思った。


 教室の入り口で固まっていると、白井君はゆっくりこちらへ近づいてきた。毎日会っているはずなのに、近づくと少し私が見上げる形になって、こんなに身長高かったんだな、と急に胸がどきりとするのがわかる。


「廊下、スケートしたくなるよね」


「え、見てたの?」


「あ、ほんとにしてた?」


 なんとなく聞いてみたんだけど、と白井君が笑う。自分で自分の恥ずかしい行動を暴露してしまった。顔が熱くなって、下を向くとさっきの白線と目が合う。


「白井君ってなにか部活入ってたっけ?」


 苦し紛れに口から出たのはすっごい早口。しかも下を向いたまましゃべったから、聞き取れなかったらしく、ん?と白井君の聞き返す声が頭の上から聞こえる。恥ずかしくて顔を上げられない。もう一度言い直す程のことじゃないし、なんて考えていると、ああ、部活か、と納得した声が降ってきた。


「俺は部活入ってないんだけど、藤崎が野球部だから。待ってる」


 そっか、としか返せない自分に腹が立つ。いつまで白線と見つめあっているつもりだ。同じ男子の藤崎とは普通に話せるのに、どうして白井君とはできないんだろう。


 教室の開けた窓から、カーテンがバタバタと音を立てて、私も白井君も目を向けた。私のように日焼けしていない首の、きれいな白色が目の端に入って、意識がそっちに向いてしまう。


「学校説明会の日まで部活なんて大変だね。大体の部活は中止なのに」


 白井君が急にこちらに向きなおってまた目が合う。目をそらそうと思ったけど、じっと目を見られてできなかった。白井君と話すときちょっと緊張するのって、このせいかもしれない。


 あ、と白井君が口を開く。


「もしかして、机、須田さんのだった?」


「え?」


「さっき俺が座ってた机。須田さんのだったら悪いなって思って」


 さっき座ってた、というのはカーテンの裏にいたときに座っていた机のことだよな、と当たり前のことが頭の中で高速回転する。早くこたえたいのに、何が一番良い返しなんだろ、と毎回考えてしまう。


「ううん、私、教卓の前だから」


「うわ、最悪な席当たっちゃったね」


 ふふ、とまた笑った。教室ではあまり多くはしゃべらない印象だけど、結構よく笑うんだ。珍しくてじっと見てしまう。さっきは、机に座って野球部の練習でも見ていたのだろうか。あれ、でも野球部ってうちの部より30分前に練習切り上げて、ミーティングするって言ってたような。


「さっき、野球部の練習見てたの?」


「ああ、うん。でも早めに終わったからさっきはソフト部見てた。ごめん許可もなしに見て」


 じゃあ、100円もらおうかなと返すと、安いな、とまた笑う。笑ってくれただけでこんなに嬉しいのは何故だろう。


中沢なかざわさん、部長なんだよね?頑張ってるよね」


「ミナ、ソフト好きだから」


 白井君がミナの名前を知っていることに驚いた。だって、ミナは別のクラスだし、合同で体育をする程近いクラスでもない。そんなに目立つイメージもないミナを、何故白井君が知っているのだろう。


「きれいなフォームだなってついついずっと見ちゃってた」


 こんな感じ?とソフトボール特有のピッチャーの動作をマネする白井君は、少し恥ずかしそうで、普通の男子中学生みたいだった。


 毎日家に帰った後も、タオルを使って投球フォームの練習をしていると話していたミナの真剣な顔を思い出す。ミナみたいに一生懸命練習したら、私も白井君に見てもらえるようになる?こんな風に、憧れみたいなキラキラしたものを含んだ目で、私のことも話してくれる?


 羨ましいような、祈りのような、なんともいえないもやっとしたものが胸にのしかかる。


 唐突に、さっき目が合う前、カーテンの隙間から見えた頬杖をついた横顔の違和感に気付いた。あれは、友達に向ける顔じゃなかった。夕日に照らされた、愛おしいものを見る顔。大切なものを見る優しい目だった。


 それが誰に向けられていたものかわかった瞬間、私が白井君のことをどう思っていたのかにも気が付いた。すっ、と胸の真ん中を風が通る感覚がする。


 とにかくここにいたくなくて、また窓の方を見ている白井くんに背を向けた。


「じゃあ、私倉庫のカギ返さなきゃだから」


「気をつけてね」


 うん、と返すと、なにかが喉の近くまで込み上げてきているのがわかった。声、震えてなかったかな。


 教室を出て、鼻をすすりながら職員室までの道を歩く。ミナになんて言い訳しよう。まずはカギを返すだけでこんなに時間がかかった言い訳と、たぶん目も赤いだろうからその言い訳。全然いいのが浮かばない。


 窓の外はさっきより暗くて、薄い月が見える。見てろ、この月に誓って、都大会優勝でもなんでもしてやるんだから。


 窓をにらみつけると、少し滲んだ薄い月が、夕日を静かに見送っていた。










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