第24話 とある元Aランク冒険者の末路

 これは、のちのちになって判明した事実だ。

 ロガートから半日ほどの距離にある山の中で、せわしない足音が幾つも重なった。


「おい、いたか!」

「こっちにはいないみたいだ!」

「クソッ、どこに逃げやがった、あの野郎!」


 声が聞こえる。

 全て、自分を探している追っ手達の声だ。


 見つかったら、一体どんなことをされるのか。

 殴られるかもしれない。蹴られるかもしれない。罵倒は当然のようにされるだろう。


 それを思うだけで、身が震えた。

 怖くて怖くて、また泣き出しそうになってしまう。


 恐怖から、奥歯が上手く噛み合わず、カチカチと音を立てる。

 その音一つが命取りになりかねないのに、どうしても止められない。怖い。怖い。


「こっちの方向に逃げたのは間違いないんだな?」

「ああ。ったく、世話をかけさせやがって」

「よし、探す場所を変えるぞ! 絶対に見つけてやるからな!」


 話し声はそこで途切れて、追っ手達の足音が遠ざかっていく。

 だがそれで即安心とはいかない。

 もしかしたら、連中は自分に気づいているかも。その上で、待ち伏せているのかも。


 どうしても拭いきれないその疑念が、彼を今しばし地面に這いつくばらせた。

 一時間ほどもして、やっと彼はのっそりと身を起こす。


 ラズロだった。

 かつては磨き抜かれた鎧を着ていた彼は、今は全身を泥で汚している。

 ここ数日をずっと逃げ続け、髪はボサボサで顔も薄汚れている。


 商人ギルドの副ギルド長を父に持つラズロであったが、その父が捕まってしまった。

 きっかけは、仲間であったミーシャの裏切り。

 彼女の協力を受けた冒険者ギルド長ルクリアが、父と裏社会の関係を告発したのだ。


 そして、父のもとで甘い汁を吸っていたラズロも、当然、捕縛対象となった。

 彼は逃げた。即座に逃げた。そしてとことん逃げた。


 捕まりたくなかった、というだけではない。

 ただ、怖かった。

 自分を追い詰めるもの全てが、今の彼には恐怖の対象だった。


 ラズロのプライドは、粉々に壊された。

 コージン・キサラギとかいう、冒険者ギルドで『草むしり』と揶揄されていた男に。


 ロガートで唯一のAランク冒険者であったラズロ。

 その手柄の大半は手下を使って稼いだものだが、彼自身も決して弱くはない。


 しかし、Aランクの肩書を持ち、肥大化したそのプライドは破壊された。

 決して手を出してはいけない存在に、手出ししてしまったがゆえに。


 ――殺すぞ、ラズロ。


 不意に、耳の奥にその声が響く。


「ひっ……!」


 ラズロは身をすくませ、その場で身を丸めた。

 心臓はあっという間に早鐘を打ち始め、抑えきれない震えに呼吸が乱れる。


 怖い。怖い。怖い。

 怖い怖い怖い怖い怖い。

 怖い!


「はっ、ひ、はっ、はっはっ、は、はは、あはははは、あひ、ひひひ、はは……!」


 恐怖心が振り切れて、精神が一時的な逃避に走る。

 涙を流しながら、笑い続け、ラズロはその場から駆け出した。


「あひひっ、ひひひ、あはぁ、あはは、は……、あ、ああああああああああッ!」


 それでも殺しきることのできない恐怖が、数秒もせず笑いを悲鳴に変えてしまう。

 ポツ、ポツと雨が降ってくる。

 変わりやすい山の天気が災いし、あっという間に土砂降りに。


 冷たい雨粒に全身を打たれながら、ラズロは足を滑らせて無様に転んだ。

 そのまま、木や地面に体をしたたかに打ちつけながら、急斜面を落ちていく。


「ぐっ、ぁ……、が……」


 地べたに倒れて、空いたままの口に砂利と泥が入り込む。

 幾度も咳き込んでいると、骨でも折れたか、胸に鋭い痛みが走った。


「ぁ、あァ……、ぃ、てぇ、痛ェ……」


 幸か不幸か、その痛みが長らく曖昧になっていた彼の自意識に輪郭を与えた。

 土砂降りの中、ラズロは痛む体を腕で抱えて、何とか歩き出す。


「クソ、クソッ、何で俺が、こんな目に……!」


 栄光こそが、自分の歩む道だったはずだ。

 なのに何だというのだ、今の自分の体たらくは。どうしてこんなことに。


「クソ……!」


 負け犬然としたラズロの中に、激情が湧き起こりかける。

 しかし、それが怒りの形をとる直前、また耳の奥にあの『草むしり』の声が響いた。


「ひ、ぃ……ッ、ぁ……」


 また、その場に這いつくばる。

 頭を両手で抱え、強く目を閉じて、ガタガタと震えだしてしまう。


 魂の奥底に刻まれた恐怖は、ラズロに反感を抱かせることさえ許さなかった。

 こうなれば、頭に浮かぶのは『死にたくない』の一念のみ。


「ひっ、ひ、ひぃ……!」


 少しでも『草むしり』がいるロガートから離れるべく、ラズロは地面を這い進む。

 その途中、ポッカリと口を開けている洞窟を見つけた。


 深く考えたワケではなかった。

 ただ、奥に蟠る深い闇を目にして、そこならば隠れられるのではと思っただけ。

 雨が降りしきる中、ラズロは身を起こし、洞窟の中へと入っていく。


 洞窟は、自然のものとは思えないくらい歩きやすく、滑ることもなかった。

 道も、曲がりくねっているようなことはなく、真っすぐ先に続いている。


「ひ、は……」


 濡れて熱と体力を失った体を引きずって、ラズロはさらに奥へ奥へと歩き続ける。

 すると、やがて目の前に淡く光る何かが見えてきた。


「…………は、ぁ?」


 進んだ果ての洞窟の最奥、突然広くなったそこに、光明の源があった。

 それは、魔法陣だった。薄い紫の光を放つ、地面に描かれた巨大魔法陣だ。


 魔法陣の中心には、錆びて朽ちかけた金属の棒のようなものが突き刺さっている。

 それが、魔王の封印を固定しているものであることを、当然ラズロは知らない。


 壊れた心のまま、彼は光に吸い寄せられるようにして魔法陣に近寄る。

 その脳内に、いきなり何者かの声が響いた。


『――壊せ』


 ガツン、と、殴られたかのような衝撃を受けた。

 それは錯覚でしかなかったが、ラズロの体がグラリと傾ぐ。

 声はさらに、彼の脳髄に幾度も響いた。


『壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ。壊せ――』


 それは、本来は大した呼びかけではなかった。

 魔法陣に近づいてやっと届く程度の、些細な声でしかないはずだった。


 十に満たない子供でも跳ね除けられる程度の、弱々しい暗示だ。

 だが、今のラズロの精神は、その程度でも十分影響されるほどに弱り切っていた。


 破綻しかけた彼の心に『壊せ』という暗示が染み込んでいく。

 ラズロはへにゃりと笑って、魔法陣の中に踏み入った。


「こ、壊せ……、こゎ、せ……。ヘヘ、壊す。こわ、こ……、ヒ、ヘヘ……」


 焦点の定まらない目をして、ヘラヘラ笑いながら、彼は金属の棒を蹴り飛ばす。

 千年前であれば、そもそも魔法陣の中に入ることもできなかったろう。

 だが、人が作ったものが効果を発揮し続けるのに、千年という時間はさすがに長すぎた。


 金属の棒はいともたやすく折れ曲がり、地面から抜けてその辺に転がった。

 あとには、虚空を眺めて笑っているラズロが立っているだけ。


 その足元から湧き上がる闇に、彼は一切気づいていない。

 やがて、はっきりと具現した闇がそこから半球状に膨張し始める。


「ぁひっ」


 ラズロが、笑った。


「ひひひ、っひひ、いひひっ、ひはははははは! あははははは、はひひ、ひゃはははは、あははは、ははっ、ひ、ひはは、あははははははははははははははははは!」


 笑って、笑って、壊れたように笑って、解き放たれたように笑って……、


「ははは、ははははははははははは、ぁはは――――」


 膨れ上がる闇に、丸々飲み込まれた。

 その日、骸魔王ディスロスが、千年ぶりにこの世界に復活した。

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