第5話 別れの日

「お目覚めかい?」


「ここは……」


 まぶたの裏に陽光を感じて、ゆっくりと目を覚ます。

 いつの間にか俺は、ホームのベンチで横になっていた。


 身を起こして周囲を確認すると、アオさんが両手にティーカップを持って佇んでいた。

 アオさんの背後、ホームの東端からは目映いばかりの朝陽が差し込んでいる。


「目覚めの一杯をどうぞ。今日はローズヒップティーだ」


「ありがとうございます」


 カップを受け取って紅茶を一口。身も心も暖まる。


「いよいよ今日だね。お別れは済ませたかい?」


「そうですね……」


 ティーカップを片手にアオさんが訊ねてくる。

 俺はベンチに深く腰掛けて、ゆっくりと息を吸った。

 こうして目を瞑れば、すべての出来事を思い出すことができる。

 春子ちゃんとの出逢い。そして別れを――



 春子ちゃんと出逢ったのは高校2年の秋、塾に通い始めてまもなくの頃だった。

 彼女はホームのベンチに腰掛け、いつも一人で本を読んでいた。

 電車が来ても乗らずに、寂しそうな顔で見送る。

 そんな不思議少女のことが少しだけ気になっていた。


 初めて春子ちゃんと話をしたのは、木枯らしが吹く頃。

 本に挟んでいた栞が風にさらわれて、慌てて追いかける春子ちゃん。

 俺が栞を拾って返すと、何度も何度も頭を下げてお礼を言っていた。

 そのことがきっかけになって、彼女と話をする機会が増えた。


 それから他愛もない話題で盛り上がり、くだらない冗談で笑いあった。

 本を貸し合い、栞に互いの想いを綴ったりして密かな逢瀬を楽しんだ。


 彼女とはいつも駅のホームで別れを告げた。

 春子ちゃんの家はしつけが厳しく、町の外に出ることを禁止されていた。

 駅のホームに通い詰めていたのは、彼女なりの抵抗だったのだろう。


 当然、男と会うのも禁止されていた。

 だから、俺達の関係はみんなに内緒だった。

 いつか一緒に都会に出て、今時の若者が通うようなお洒落なカフェでお茶したいね、なんて夢を語り合ったりもした。


 いつまでも続くかと思われた二人きりの時間は、ある日終わりを告げる。

 彼女にとっては突然に。俺にとっては必然に。



 ――あれは今からおよそ60年前。1960年代のことだ。



 春子ちゃんは女学校を卒業後、地元有力者の家に嫁入りが決まっていた。

 狭い田舎だ。噂が広まるのも早い。

 ”間男”との密会がバレた春子ちゃんは家に閉じ込められ、冬が終わり春が来ても、夏が過ぎて秋になっても、駅に顔を出さなかった。


 季節が一巡して、俺は受験を終えた。

 戦後の復興を成すのはおまえだ。日本国の礎になれ……と軍人気質が抜けない親に厳しく教育され、死に物狂いで勉強した。

 苦労の甲斐もあって、俺は東京の大学への進学が決まった。


 大学卒業後、親の言いつけ通り馬車馬のように働いた。

 高度成長期の波に乗り、それなりの賃金を貰い、幸せと呼べる家庭も築いた。

 それから何十年か経ち、子供達も結婚して孫も生まれた。

 老い先短い人生。唯一の心残りがあるとしたら――


「春子ちゃんに別れを告げていないことだ」


 だから、俺はこの駅に戻ってきた。

 学習塾で勉強して、駅のホームへ向かい、春子ちゃんと話をする。

 少年の姿に戻り、眩しかった青春の1ページを繰り返し続けていた。


「遠く離れた想い人、か……」


 この土地に縛られていたのは春子ちゃんではない。俺の方だった。

 俺はしわがれた自分の手を見つめたあと、枯れた声でアオさんに訊ねる。


「アオさんの正体は桜の木の神様……ですか?」


「好きに想像するといいさ」


 アオさんはいつものように目を細めて微笑む。


「ボクはこの場所で出会いと別れを見守り続けてきた。けれど、たまに道に迷う子が現れるからね。そんなとき、そっと背中を押してやるのがボクの役目さ」


 アオさんはどこからともなく駅員の制帽を取り出して頭に被った。それから腕時計を確認する。


「そろそろ出発の時間だ。今度こそ乗り遅れないようにね」


「はい」


 ホームの先、線路の向こうから光が迫ってくる。

 車体は確認できないが、それが”最終”であることは理解できた。

 心残りがあったが故に、この駅で彷徨さまよい続けた。

 けれど、これでやっと旅立てる。


「さようなら、春子ちゃん――」

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