萌え萌え山月記

ごまぬん。

月下獣奇譚

 今は昔、中華は隴西ろうせいの地に、李徴りちょうという男があった。

 李徴は幼少の頃より博学で知られ、天宝てんぽうさい(七五一年)、若くして江南こうなん(長江の南の地方を管轄する役人)に任ぜられた。

 彼は有能な公人であったが、己が才にたのんで傲慢であり、宴席でなど同僚の悪口を公言してはばからず、とかく周囲にうとまれる性質たちだった。


 程なくして李徴は役人を辞め、故郷・虢略かくりゃくに帰参し、さて何を始めたかといえば、それは詩作であった。

 彼は一年以上もの長きにわたって門を閉じ、他人との交流を絶っては詩の制作にふけった。

 凡百ぼんぴゃくの役人として、俗悪ぞくあくな高官のもとで働き続けるよりは、詩家となって死後百年に自らの名をのこそうと考えたのである。


 しかし、詩人としての活動は然程さほど実を結ぶこと無く、生活は日を追って苦しくなっていくばかりだった。

 焦燥しょうそうに駆られ、貧困のために身体もせて骨ばり、眼光だけが鋭くなる李徴。

 あるいはいっそ独り身であれば、他人に迷惑をかけることもなかったろうが、この頃の李徴には妻子が居た。

 如何に傲慢で気難しい李徴とはいえ、他ならぬ彼自身が認め、愛し合った仲である。そのような者たちを飢えさせることはどうにも忍びなく、李徴はついぞ翻意ほんいして、衣食のため役人の職へと復帰した。

 一方、この決断はまた、自らの詩業に半ば絶望したためでもあった。

 かつて李徴が散々にこき下ろした同僚らは、月日と共に順当な出世を遂げている。

 夢を諦め、過去、公然と見下していた者たちの部下となって走り回らねばならぬ現実が、往年の英才・李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは想像に難くない。

 李徴にとっては全くの悪い日々が続き、彼の精神は愈々いよいよ軋み始める。


 さらに一年後、公務による出張から虢略へと帰宅する途中、汝水じょすいの旅館にて、李徴はついに狂を発した。

 身の回りの世話のため連れ立っていた下僕を、何処いずこからか持ち出した鞭で幾度も打ち据えたのち、十日余りを寝込んで過ごした。

 かと思えば、ある夜半に飛び起きて、わけのわからぬことを叫びながら外の闇の中に駆け出し―――そして、二度と戻らなかった。

 下僕を筆頭に多くの人々が山野を捜索したが、何の手掛かりも出ない。その後、李徴がどうなったかを知る者は、誰も居なかった。




――――――――――――――――――――――――――――――




 明くる年、ちん郡の監察御史・袁傪えんさんという者が、嶺南れいなん(中国の最南方にあたる地域)に向かう途中、商於しょうおの地にて宿を取った。

 翌朝、日の出を待たず暗い内から出発しようとしていたところ、駅吏えきり(宿場を管理している役人)に引き止められる。その者が言うには、


「ヒィッ、ヒィ、ヒィ……お偉いさん、こんな時間に出発ですかい?」


「はぁい。この後の予定に間に合わせるには~、今くらいから出発しないと駄目なんですよぉ。人も、馬も、適度に休ませながら進まないといけませんからねぇ」


「イヒヒッ! 事情はお察ししますがね、今回ばかりは予定を遅らせた方が無難でさァ。何せ近頃この辺りには、"人食い虎"が出やがりますゆえ……」


「はて? 人食い虎、ですかぁ?」


「ええ、ええ、もう何人も食われちまってんですよ。こいつが、それはもう恐ろしく強くて、狡賢ずるがしこい野郎でねェ。奴がどうにかなるまで、旅人は昼間しか通せないってェ話になってんです」


「まあ……。それは、困りました。どうしましょう……」


「ええ……ええ。あっしとしましてもね、こんな美人が虎なんぞにむさぼり食われるのは見たかない。申し訳ないが、明るくなるまで待ってから、出直していただいて……」


「ふふ―――なんちゃって~。大丈夫ですよぉ、駅吏さん。このまま行きますぅ」


「アヤ!? 失礼ながらお偉いさん、あっしの話聞いてましたかァ!?」


「聞いてましたよぉ。でも~、問題はありません! 私たち、こんなにたくさん居ますし~……、お供の皆さんだって、とっても腕が立つんですぅ。ほらぁ、虎といっても、獣でしょう? 本当に賢い獣なら~、わざわざこんな強そうな群れを襲ったりしませんって」


「そ、それはそうかも知れませんけどねェ! 相手は凶暴な人食い虎ですよッ、万が一ってことも……!」


「じゃあ、時間が押してるので~、失礼しますねぇ。お世話になりました~。宿のご飯、とってもおいしかったで~す」


 袁傪は駅吏の忠告を聞かず、部下を伴ってすたすたと歩き始めた。

 駅吏はよっぽど袁傪を思い直させようと立ちはだかったが、屈強な護衛の一人に肩を叩かれる。ふるふると首を横に振る護衛の表情は、おごそかである以上に明らかに疲れており、駅吏は全てを察して引き下がることにした。




――――――――――――――――――――――――――――――




 一行が残月の光を頼りに林の草地を進んでいた時、果たしてその瞬間は訪れた。


「……あら?」


 袁傪の斜め後方の茂みが不自然に揺れ―――刹那、くさむらの中から、一つの陰が躍り出た。

 それは一見して袁傪の胸辺りまでの背丈しかなかったが、しかし一切の迷いが無く力強い疾走と、余人の足をすくませる恐ろしい唸り声は、この陰がくだんの"人食い虎"であるということを確信させるに十分だった。

 供回りの者を爪で切り裂き、あるいは後足うしろあしで蹴飛ばしながら迫るそれは、あわや袁傪に飛びかかると見えたが―――。


「きゃっ! ……、……?」


 小さき人食い虎は、袁傪の手前でたちまち身を翻し、元の叢に戻っていった。


「―――……ぁ……あぶにゃかった……」


 すると不可解なことに、叢の中からの声が聞こえてきた。

 繰り返し繰り返し、「危ないところだった」と、震えながら何かを堪えるような響きであった。


 袁傪は、その声それ自体にはとんと心当たりが無かったが、ふと「か」行の発音に薄っすらと覚えがあるような気がした。

 あまり合理的な説明を見出せぬまま、ほとんど直感に任せてだが、彼女は咄嗟に思いあたって、叫んだ。


「その声はぁ―――私のお友達、李徴子さんじゃないですか~?」


 袁傪は、謎の失踪を遂げた官吏・李徴と同じ年に進士の第に登り(役人になるための試験に合格し)、友人の少なかった李徴にとっては――往時の妻子を除いては――最も親しい間柄の人間であった。袁傪の温和な性格が、峻峭しゅんしょうな李徴の性格と衝突しなかったためであろう。


 叢の中からは、しばらく返事がなかった。忍び泣きかと思われる微かな声が時々漏れるばかりである。

 ややあって、鈴の鳴るような高い声が答えた。


「いかにもボクは隴西の李徴だにゃん」




――――――――――――――――――――――――――――――




 袁傪は恐怖を忘れ、乗騎から下馬して叢に近付き、再会を喜んだ。


「はわわ、李徴さん!? お久しぶりですねっ、またお会いできて嬉しいです~!! ……でも、どうしてそんな……、なんで叢から出てきてくれないんですかぁ?」


 困惑した様子で、"人食い虎"の声が答えて言う。


「そっちこそ、にゃんでボクが李徴だと!? ―――ああ、いや、いいや、そうとも。ボクは今や、奇怪にゃ異類いるいの身だにゃん。どうしておめおめと、友の前にこんにゃあさましい姿をさらせようか……にゃん」


 後で考えてみれば不思議だったが、袁傪はその時、この超自然的な怪異について実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。

 彼女は部下に命じて行列の進行を止め、自分は叢の傍らに立って、見えざる声と対談した。


「も~。虎になったのが何だって言うんですか、私と李徴さんの仲でしょう? それより……、心配してたんですからねっ! 奥さんにもお子さんにも迷惑かけて、めっ、ですよぉ」


 そして、と当てをつけ、叢に手を入れ、人食い虎をおもてへ引きずり出した。


「君も今のボクの姿を見たら、きっと怖がって話も出来にゃいと思……にゃあああああああああ!?」


「あら? ……あらら?」


 ―――驚くべきことに、そこに在ったのは虎ではなかった。さりとて、袁傪の知る男・李徴でもなかった。

 現れたのは、恐らく十三か十四ほどの年頃らしき女児である。野性の生活の内で薄汚れてはいるが、絹の如き白い肌と金色こんじきひとみを持つ、豊頬ほうきょうの美少女であった。

 しかしながら、李徴を名乗るこの人食い虎、もとい女児が自称した通り、その身には異類と呼ぶべき特徴がそなわっている。髪は金と茶色のまだらであり、その頭頂部には、虎のものとおぼしき獣の耳が生じている。四肢もまた、毛皮と鋭い爪を持つ、獣のそれに置換わっているようだ。袁傪が腕か何かだと思って引っ張り上げた部位は、腰元から伸びる虎の尾っぽであった。


「だ、だから言ったじゃにゃいかぁ……! ボク、ボクは、ううぅぅぅ……!」


「り……李徴さん……!?」


「……ハハハ。ああ、精々怖がりにゃよ、袁傪。これが今のボクさ。ちまたで噂の人食い虎。わけもわからぬまま異類に堕ちた……一匹の外道だにゃん」


「わ~!! 駄目です駄目です駄目ですっ!! 女の子がそんな恰好でいちゃ駄目! ちゃんと服を着てください!」


「えっそこ!?」


 言われてみれば李徴は全裸であった。人食い虎は、ひどく赤面した。

 袁傪は一先ひとま両手もろてを振り回して部下たちの耳目じもくを遠ざけると、荷物から己の着替えの内の一つを李徴に分け与えた。

 せわしなく騒いだ後、胡坐あぐらをかいて地面に座り込んだ李徴は、しばし憮然ぶぜんとした表情をしていたかと思えば、やがて相好そうこうを崩してこう言った。


「―――でも、にゃんというか……、……嬉しいよ。嫌にゃ気分も忘れるくらいににゃつかしい。ねぇ」


「何ですか? 李徴さん」


「その、どうか……ほんのしばらくでいいから、今だけは。ボクの醜悪にゃ見た目のことは忘れて、かつて君の友達、李徴だったボクと……はにゃしをしてくれにゃいかにゃ」


「……、はい。お安い御用です」


 そうして、二人は様々なことを話した。

 都の噂。共通の知人の近況。袁傪の現在の地位についてと、それに対する李徴の祝辞。

 青年時代に親しかった者同士の、あの気の置けない雰囲気で、二人はよく話し込んだ。


 ―――それから、一通りのことを語り終えた後、袁傪は訊ねた。

 すなわち、李徴が如何にして今のような姿になったかということを。

 李徴はこのように答えた。


「今から一年くらい前かにゃ。出張から帰る時、汝水のほとりの宿に泊まったんだ。夕食の後、ちょっと身体からだが重くて、早めに眠った日があったんだけど……その日だ。夜半に目が覚めたら、外から誰かがボクの名前にゃまえを呼んだ気がしてさ。いざ宿の外に出てみると、段々その声が大きくにゃっていって……」


「ふむふむ。それで?」


「最初は怪しんでたはずにゃのに、いつの間にか声の方へ向かってた。闇のにゃかへ―――気がついたらボクは林に居て、しかも、左右の手を地面に突いて走ってるんだぜ。でも調子はすこぶる良くって、でっかい岩を飛び越えたりもできた。無我夢中で駆けてる内に、全身の毛が生え変わるみたいにゃがあって」


「はぁ……。実際、生え変わったみたいですけど……」


「……、……少し明るくにゃってから、川を見つけて覗き込んでみたんだ。その時にはもう、この姿ににゃってた。勿論、最初は信じにゃかったよ。これは夢だって思った。夢のにゃかで"これは夢だぞ"と気づいてる、そういう奴。けど―――違った」


「………………」


「どうしても、これは夢にゃんかじゃにゃいって悟った時、呆然としたよ。それで……怖かった。全く、どんにゃことでも起こってしまうものだと思って、ひどく怖かった。にゃんでこんにゃことに、にゃっちゃったんだろうにゃって」


「ごめんにゃさい李徴さん、ちょっと『にゃ』がゲシュタルト崩壊しそうです」


「げしゅ?」


「いいえ何でもないです、続けてください」


 促され、李徴はこう続ける。


「……まぁ、わからにゃいよね。全く何事にゃにごとも―――ボクたちにはわからにゃい。理由もわからずに押付けられたものを大人おとにゃしく受け取って、理由もわからずに生きていくのが、ボクたち生き物のにゃんだ」


「李徴ちゃ……李徴さん……」


「本当はね。決心がついた気がしてたんだ。最初はさ、こうにゃった以上はこれからの希望もにゃににゃいんだから、いっそ死んでやろうって。―――でも、駄目だった」


 李徴は金色のまなこで、太い指に鋭い爪が生えた、自分の虎の手を見下ろした。


「自死を考え始めた、次の瞬間だったよ。目の前を一匹の兎が横切ったのを見た途端に、ボクのにゃかたちまち姿を消した。次にボクのにゃかが目を覚ました時、ボクの口は赤い血にまみれ……辺りには兎の毛が散らばってた。これが、虎としての最初の経験だにゃん」


 虚ろな眸、壮絶な表情で自らの奇妙な道程を語る李徴に対し、袁傪は掛けるべき言葉を持たなかった。


「それから今まで、どんにゃ所業を重ねてきたかは―――とても他人に言えたもんじゃにゃい。ただ、一日の内に何時間にゃんじかんかは、人間の心が還ってくるんだ。そういう時は、こうやって人の言葉をはにゃせるし、難しい考え事も出来るし、経書けいしょの章句をそらんずることだって出来る。その人間の心で」


 不意に言葉が止まった。李徴は口元に左手を宛がい、浅い呼吸と深呼吸を繰り返す。

 ややあって、李徴は眼の端をうるませながら、か細い声でこう言った。


「……人間の心で。自分の残虐にゃおこにゃいの跡を見て、己の運命を振り返る時が……一番にゃさけにゃくて、怖ろしくて、憤ろしい」


「それは……辛い、ですね」


「しかも、その、人間に還る数時間もだ。次第に短くにゃっていってるんだよ。この間にゃんかさ、今まではどうして虎ににゃったのかと怪しんでたのに、気がついたら、どうしてボクは前まで人間だったのかって考えてたんだ!」


 その慟哭どうこくはあまりに真に迫り、本物の虎の唸り声の如く聞こえたので、人払いしていた袁傪の部下が急いで様子を見に来るほどであった。

 袁傪は何も言わず、再び部下を制し、李徴の、かつてより小さくなった背中をさすってやらねばならなかった。


「これは、とても、恐ろしいことだ……! もう少し経ったら、ボクのにゃかの人間の心は、獣としての習慣のにゃかにすっかり埋もれて消えちゃうんだっ。ちょうど、古い宮殿の礎が、次第に土砂に埋まってくみたいに……」


「か、考えすぎですよぅ」


「そうにゃったら最後は、ボクは自分の過去を忘れ果てて、一匹の虎として狂い廻るんだ! 今日みたいに道で君と出会っても、君が友達だってこともわからずに、君を裂き喰らってにゃんの悔いも感じにゃいだろう……」


「やだ、そんな。私ってばそんなに特徴無いかな? お香とか焚いて私だよってわかりやすくした方がいい?」


「そういう問題じゃにゃくて……。―――ともかくさ、ボク、最近思うんだ。一体、獣でも人間でも、元々は他のにゃにかだったのかも知れにゃいって。当分はそのことを覚えてるけど、次第にそれを忘れていって、初めから今の形のものだったと思い込んでるんじゃにゃいかって……」


「私の覚えてる限り、少なくとも李徴さんは今と全然違う形でしたけどぉ……」


「……ううん。そうじゃ……にゃいにゃ。そんにゃことはどうだっていいんだ。ボクが言いたいのはつまり、ボクのにゃかの人間の心がすっかり消えてしまえば、ボクは幸せににゃれるんだと思う……。だのに、ボクのにゃかは、そのことを、この上にゃく恐ろしく感じてるんだ。ああ―――恐いよ。哀しいよ。切ないよぅ……」


 この気持ちは誰にもわからない、己と同じ身の上になった者でもなければ、と李徴は告げた。


「―――ところで、そうだ。ボクがすっかり人間じゃにゃくにゃってしまう前に、一つ頼みがあるんだにゃん」


 袁傪はじめ一行は、息をのんで、虎の少女が語る不思議に聞き入っていた。声は続けて言う。


「知ってると思うけど、ボクは詩人としてにゃにゃしたかったんだ。けど、そうにゃる前にこんにゃ運命に至ってしまった。人間だった頃に作った詩は数百篇……勿論、世のにゃかには出回ってにゃい。ボクの遺品だって、もう整理されちゃってるよね?」


「そうですねぇ。特に変わったものも見当たらなかったって聞いてます~」


「うん。でもね、そのにゃかで、今もまだ覚えてる詩が数十あるんだ。これをボクのために伝録して欲しい。……にゃにも、これで一人前の詩人ヅラをしたいわけじゃにゃいよ。ただ、出来不出来はとにかくさ、財産も捨てて心を狂わせにゃがら、生涯執着したものにゃんだ。その一部だけでもこの世に残せにゃかったら、死んでも死に切れにゃいってだけだ」


 袁傪は是非も無く、これを承諾した。部下に命じて筆を執り、李徴の朗読に従って書き取らせる。

 "人食い虎"の愛らしい声は、夜の林に凛と響いた。


 開陳された詩は長短およそ三十篇。格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の非凡なる才を思わせるものばかりである。

 しかし袁傪は、大いに感嘆しながらも、何かしら漠然と感じるところがあった。

 成程なるほど、作者の素質が一流に属するものであるであることは疑いない。だが、このままでは、それらが真に一流の作品となるのには、何処か――非常に微妙な点において――欠ける部分があるのではないか、と。


 詩を諳んじ終えた李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るが如くに言った。


「恥ずかしいことだけどね。今でも……こんにゃ身ににゃり果てた今でも、ボクは、自分の詩集が長安の風流人士の机に置かれているさまを夢に見るんだ。岩窟のにゃかに横たわって見る夢にだよ? わらって欲しいにゃ。詩人ににゃり損なって虎ににゃった、この哀れにゃ男を」


 袁傪は昔の青年・李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しそうに聞いていた。

 ただそれはそれとして、李徴は今の己をどうしても"人食い虎"と言い張りたいようだったが、どちらかといえば、"虎の意匠の装束を着た女児"と形容した方がまだ納得できる、という所感はつとめてもくしていた。


「そうだ。お笑い草ついでに、ここで今の想いを詩にしてみようか。この虎のにゃかに―――かつての李徴が、まだ生きているに」


 袁傪はまた下吏に命じ、これを書き取らせた。その詩に言う。



 偶狂疾たまたまきょうしつりて殊類しゅるいにゃ

(ふと狂い病んだがために人ならぬ異物となり)


 災患相仍さいかんあいよりてのがるべからず

(災いが次々と訪れ逃れることが出来なかった)


 今日爪牙こんにちそうが誰か敢て敵せん

(今となってはこの爪や牙に誰が敵として立ち向かうものか)


 当時声跡共に相高し

(かつては私も君も才人として名高かった)


 我は異物とにゃ蓬茅ほうぼうもと

(私は人ならぬ異物と化して叢の中にあり)


 君は已にように乗りて気勢豪なり

(君は車に乗るような身分まで出世し盛んな勢いだ)


 の夕べ溪山明月に対ひむかい

(この夕暮れの下で山や谷を照らす月に向かって)


 長嘯ちょうしょうにゃさずしてゆるをにゃ

(私は詩を吟じることもなくただ吼えるのみ)




 時に、残月の光は冷ややかに、白露が地面を浸し、木々の間を通る風は夜明けが近いことを告げていた。

 人々は最早、事態の異様さを忘れ、粛然として、この一人の詩人の薄幸を嘆いていた。

 李徴が再び口を開く。


「……にゃんでこんにゃことににゃったか、わからにゃいって散々言ってきたけど。考えようによっては、思い当たる節がにゃいでもにゃいんだ」


「え―――」


「人間だった頃さ、ボク、人付き合いを避けてたでしょ。みんにゃがボクを偉そうだ、傲慢だって言ってた。でも、ボクのああいう態度は……、にゃんというか、羞恥心っての? そんにゃもんだったんだよ」


 声音はいっそ清々しいものだったが、それはもっぱら李徴が己を嘲る時の虚勢に過ぎぬことを、袁傪は痛いほどに思い知っていた。


「地元じゃ鬼才だにゃんだって言われてたボクに、自信がにゃかったと言ったら嘘ににゃるけどね。でもそれは……臆病にゃ自信みたいにゃものだった。ボクは詩によってにゃを上げようと思いにゃがら、進んで師匠に就いたり、おにゃじ詩を書く友達を作って切磋琢磨しようとかは考えにゃかった。かと言ってボクは、世間の普通の人たちと交流することもしにゃかった。どっちもボクの、臆病にゃ自尊心と、尊大にゃ羞恥心の所為せいだにゃん」


 本当は才能が無いかも知れないとおそれ、敢えて苦労して腕を磨こうとせず。

 だが、自分の才能を半ば確信してはいるために、凡人の中に混じろうとも思えなかった。

 自分は次第に世と離れ、人を遠ざけ、憤悶ふんもん慙恚ざんいとによってますます己の内の「臆病な自尊心」を飼いふとらせる結果になったのだと、李徴は斬首を待つ刑人のように吐露した。


「袁傪、知ってる? 人間は誰でも猛獣使いで、その猛獣っていうのが、人それぞれの性格にゃんだって。……ボクの場合、この尊大にゃ羞恥心が猛獣だった。虎だったんだ。これが自分を損にゃい、妻子を苦しめ、友達を傷つけて、果てはボクの身にゃりをこんにゃ風に、内心にゃいしんに相応しいものに変えちゃったんだ」


「えっ、李徴さんそんな風になりたいって内心思ってたんですか!?」


「いや別にそういうわけじゃにゃいよ!? 今のは単にゃる言葉のあやっ、物の!」


 せき払いと共に、李徴は仕切り直した。


「とにかく……今思えば、全くボクは、自分が持ってたわずかばかりの才能を空費しちゃったってわけ。―――『人生は何事にゃにごとをもにゃさぬにはあまりににゃがいが、何事にゃにごとかをにゃすにはあまりにも短い』……。にゃんて、口先ばかり立派にゃことを言っときにゃがら、その実、才能が足りにゃいとバレるのを惧れる卑怯にゃ怖がりと、苦労をいと怠惰たいだとが、ボクのすべてだったんだにゃん。ボクよりよっぽど乏しい才能しかにゃくったって、それを一心に磨いたから、すごい詩家ににゃった人がいくらでも居るんだ」


「また『にゃ』がゲシュタって来……あっ平気です、続けて続けて」


「……虎とにゃり果てた今、ボクはようやくそれに気がついた。そう思うとね……ボクは今も、胸を焼かれるようにゃ悔いを感じる。ボクには最早人間としての生活は出来にゃい」


「見た目だけならまだギリギリワンチャン何とかなりそうですが」


「たとえ、今、頭のにゃかでどんにゃに優れた詩を作ったところで、どういう手段で発表したらいいんだ? まして、ボクの頭は日毎に虎に近付いていく。どうすればいいんだよ……。ボクの空費された過去は? ボクは……たまらにゃくにゃる」


 遠くで、蛙が川に飛び込む音がした。


「そういう時、ボクは、あっちの山頂の岩に登ってさ、谷に向かって吼えるんだ。この胸を焼くかにゃしみを、誰かに知って欲しいんだ。昨日の夕方にも、ボクはあそこで月に向かって吼えた。誰かにこのかにゃしみがわかってもらえにゃいかって」


 一つ、考えてみれば奇妙なことであった。

 人通りもある林道とはいえ、緑に囲まれた山中である。狼とまでは言わずとも、狐狸こりくらいならば見かけそうなものを、しかし袁傪一行の周囲には、虫一匹とて姿を現していなかった。


「けどさ、獣どもはボクの声を聞いて、ただおそれてひれ伏すばかりだ。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、たけっているとしか考えにゃい。天に躍り地に伏してにゃげいても、誰一人ボクの気持ちをわかってくれる者はにゃい。―――ちょうど、ボクが人間だった頃、ボクの傷つきやす内心にゃいしんを、誰もわかってくれにゃかったみたいに。ボクの毛皮が濡れたのは……夜露の所為だけじゃにゃいんだ……」


 ようやく辺りの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処からか、暁角ぎょうかく(夜明けを報せる角笛)が哀しげに響き始めた。


 お別れの時間だ、また酔わねばならぬ時が――虎に還らねばならぬ時が――来たから、と李徴が言った。


「ああ……でも、お別れする前にもう一つだけ。頼みがあるんだ」


「はい。ここまで聞いちゃったら、一つも二つも同じですからねぇ」


「ありがと。頼みっていうのは、ボクの妻と子供のことだ。二人はまだ虢略に住んでると思う……、ボクがこんにゃ風ににゃったのも知らにゃいで。だから、君がみにゃみに帰ったら、ボクは死んだってはにゃしてやってくれにゃいかにゃ。それで、今日のことは黙っておいて欲しい。厚かましいお願いだけど……どうかあの二人が、もう二度と飢えたりしにゃいように取り計らってください。そうして貰えれば、ボクにとっては恩倖おんこう、これ以上望むことはにゃににゃいです。にゃん」


 言い終わって、李徴は一度だけすすり泣きを漏らした。

 袁もまた涙を浮かべ、よろこんで李徴の意にいたいむねを答えた。

 李徴の声は、しかし、忽ちまた先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。


「本当は……真っ先にこっちのことをお願いすべきだったね。ボクが人間だったにゃら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、自分の乏しい詩業の方を気にかけているようにゃ男だから、こんにゃ獣に身を堕とすんだ」


「男……男? 本人的にはまだ男のつもりなのかなぁ……。だったら何も言わない方がいいか」


「最後に、君もさ。嶺南れいにゃんから帰る時は、絶対にこの道を通っちゃ駄目だからね。その時には―――ボクはまた酔っていて、友を認めずに襲いかかるかも知れにゃいから」


「……はい。わかりました」


 袁傪はねんごろに別れの言葉を述べ、李徴もまた堪え得ざるが如き悲泣ひきゅうの声で答えつつ、叢の向こうに消えようとした。

 袁傪は、長く行列を止めていたために、焦れて寝こけていた馬が起上がるのを待つ傍ら、涙ながらに幾度も叢を振り返った。


 そして、やっぱりもう一回話しかけることにした。


「―――李徴さん!」


「……、にゃに? そろそろ本当に、虎に戻っちゃう時間にゃんだけど……」


「心当たり、本当に無いんですか? まだ奥さんたちや私にも話してないこと―――ありませんか?」




【続】

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