萌え萌え山月記
ごまぬん。
月下獣奇譚
今は昔、中華は
李徴は幼少の頃より博学で知られ、
彼は有能な公人であったが、己が才に
程なくして李徴は役人を辞め、故郷・
彼は一年以上もの長きにわたって門を閉じ、他人との交流を絶っては詩の制作に
しかし、詩人としての活動は
あるいはいっそ独り身であれば、他人に迷惑をかけることもなかったろうが、この頃の李徴には妻子が居た。
如何に傲慢で気難しい李徴とはいえ、他ならぬ彼自身が認め、愛し合った仲である。そのような者たちを飢えさせることはどうにも忍びなく、李徴はついぞ
一方、この決断はまた、自らの詩業に半ば絶望したためでもあった。
かつて李徴が散々にこき下ろした同僚らは、月日と共に順当な出世を遂げている。
夢を諦め、過去、公然と見下していた者たちの部下となって走り回らねばならぬ現実が、往年の英才・李徴の自尊心をどれほど傷つけたかは想像に難くない。
李徴にとっては全くきまりの悪い日々が続き、彼の精神は
さらに一年後、公務による出張から虢略へと帰宅する途中、
身の回りの世話のため連れ立っていた下僕を、
かと思えば、ある夜半に飛び起きて、わけのわからぬことを叫びながら外の闇の中に駆け出し―――そして、二度と戻らなかった。
下僕を筆頭に多くの人々が山野を捜索したが、何の手掛かりも出ない。その後、李徴がどうなったかを知る者は、誰も居なかった。
――――――――――――――――――――――――――――――
明くる年、
翌朝、日の出を待たず暗い内から出発しようとしていたところ、
「ヒィッ、ヒィ、ヒィ……お偉いさん、こんな時間に出発ですかい?」
「はぁい。この後の予定に間に合わせるには~、今くらいから出発しないと駄目なんですよぉ。人も、馬も、適度に休ませながら進まないといけませんからねぇ」
「イヒヒッ! 事情はお察ししますがね、今回ばかりは予定を遅らせた方が無難でさァ。何せ近頃この辺りには、"人食い虎"が出やがります
「はて? 人食い虎、ですかぁ?」
「ええ、ええ、もう何人も食われちまってんですよ。こいつが、それはもう恐ろしく強くて、
「まあ……。それは、困りました。どうしましょう……」
「ええ……ええ。あっしとしましてもね、こんな美人が虎なんぞに
「ふふ―――なんちゃって~。大丈夫ですよぉ、駅吏さん。このまま行きますぅ」
「アヤ!? 失礼ながらお偉いさん、あっしの話聞いてましたかァ!?」
「聞いてましたよぉ。でも~、問題はありません! 私たち、こんなにたくさん居ますし~……、お供の皆さんだって、とっても腕が立つんですぅ。ほらぁ、虎といっても、獣でしょう? 本当に賢い獣なら~、わざわざこんな強そうな群れを襲ったりしませんって」
「そ、それはそうかも知れませんけどねェ! 相手は凶暴な人食い虎ですよッ、万が一ってことも……!」
「じゃあ、時間が押してるので~、失礼しますねぇ。お世話になりました~。宿のご飯、とってもおいしかったで~す」
袁傪は駅吏の忠告を聞かず、部下を伴ってすたすたと歩き始めた。
駅吏はよっぽど袁傪を思い直させようと立ちはだかったが、屈強な護衛の一人に肩を叩かれる。ふるふると首を横に振る護衛の表情は、
――――――――――――――――――――――――――――――
一行が残月の光を頼りに林の草地を進んでいた時、果たしてその瞬間は訪れた。
「……あら?」
袁傪の斜め後方の茂みが不自然に揺れ―――刹那、
それは一見して袁傪の胸辺りまでの背丈しかなかったが、しかし一切の迷いが無く力強い疾走と、余人の足を
供回りの者を爪で切り裂き、あるいは
「きゃっ! ……、……?」
小さき人食い虎は、袁傪の手前でたちまち身を翻し、元の叢に戻っていった。
「―――……ぁ……あぶにゃかった……」
すると不可解なことに、叢の中から人間の声が聞こえてきた。
繰り返し繰り返し、「危ないところだった」と、震えながら何かを堪えるような響きであった。
袁傪は、その声それ自体にはとんと心当たりが無かったが、ふと「か」行の発音に薄っすらと覚えがあるような気がした。
あまり合理的な説明を見出せぬまま、ほとんど直感に任せてだが、彼女は咄嗟に思いあたって、叫んだ。
「その声はぁ―――私のお友達、李徴子さんじゃないですか~?」
袁傪は、謎の失踪を遂げた官吏・李徴と同じ年に進士の第に登り(役人になるための試験に合格し)、友人の少なかった李徴にとっては――往時の妻子を除いては――最も親しい間柄の人間であった。袁傪の温和な性格が、
叢の中からは、しばらく返事がなかった。忍び泣きかと思われる微かな声が時々漏れるばかりである。
ややあって、鈴の鳴るような高い声が答えた。
「いかにもボクは隴西の李徴だにゃん」
――――――――――――――――――――――――――――――
袁傪は恐怖を忘れ、乗騎から下馬して叢に近付き、再会を喜んだ。
「はわわ、李徴さん!? お久しぶりですねっ、またお会いできて嬉しいです~!! ……でも、どうしてそんな……、なんで叢から出てきてくれないんですかぁ?」
困惑した様子で、"人食い虎"の声が答えて言う。
「そっちこそ、にゃんでボクが李徴だと!? ―――ああ、いや、いいや、そうとも。ボクは今や、奇怪にゃ
後で考えてみれば不思議だったが、袁傪はその時、この超自然的な怪異について実に素直に受け入れて、少しも怪しもうとしなかった。
彼女は部下に命じて行列の進行を止め、自分は叢の傍らに立って、見えざる声と対談した。
「も~。虎になったのが何だって言うんですか、私と李徴さんの仲でしょう? それより……、心配してたんですからねっ! 奥さんにもお子さんにも迷惑かけて、めっ、ですよぉ」
そして、ここだと当てをつけ、叢に手を入れ、人食い虎を
「君も今のボクの姿を見たら、きっと怖がって話も出来にゃいと思……にゃあああああああああ!?」
「あら? ……あらら?」
―――驚くべきことに、そこに在ったのは虎ではなかった。さりとて、袁傪の知る男・李徴でもなかった。
現れたのは、恐らく十三か十四ほどの年頃らしき女児である。野性の生活の内で薄汚れてはいるが、絹の如き白い肌と
しかしながら、李徴を名乗るこの人食い虎、もとい女児が自称した通り、その身には異類と呼ぶべき特徴が
「だ、だから言ったじゃにゃいかぁ……! ボク、ボクは、ううぅぅぅ……!」
「り……李徴さん……!?」
「……ハハハ。ああ、精々怖がりにゃよ、袁傪。これが今のボクさ。
「わ~!! 駄目です駄目です駄目ですっ!! 女の子がそんな恰好でいちゃ駄目! ちゃんと服を着てください!」
「えっそこ!?」
言われてみれば李徴は全裸であった。人食い虎は、ひどく赤面した。
袁傪は
「―――でも、にゃんというか……、……嬉しいよ。嫌にゃ気分も忘れるくらいに
「何ですか? 李徴さん」
「その、どうか……ほんのしばらくでいいから、今だけは。ボクの醜悪にゃ見た目のことは忘れて、かつて君の友達、李徴だったボクと……
「……、はい。お安い御用です」
そうして、二人は様々なことを話した。
都の噂。共通の知人の近況。袁傪の現在の地位についてと、それに対する李徴の祝辞。
青年時代に親しかった者同士の、あの気の置けない雰囲気で、二人はよく話し込んだ。
―――それから、一通りのことを語り終えた後、袁傪は訊ねた。
李徴はこのように答えた。
「今から一年くらい前かにゃ。出張から帰る時、汝水のほとりの宿に泊まったんだ。夕食の後、ちょっと
「ふむふむ。それで?」
「最初は怪しんでたはずにゃのに、いつの間にか声の方へ向かってた。闇の
「はぁ……。実際、生え変わったみたいですけど……」
「……、……少し明るくにゃってから、川を見つけて覗き込んでみたんだ。その時にはもう、この姿ににゃってた。勿論、最初は信じにゃかったよ。これは夢だって思った。夢の
「………………」
「どうしても、これは夢にゃんかじゃにゃいって悟った時、呆然としたよ。それで……怖かった。全く、どんにゃことでも起こってしまうものだと思って、ひどく怖かった。
「ごめんにゃさい李徴さん、ちょっと『にゃ』がゲシュタルト崩壊しそうです」
「げしゅ?」
「いいえ何でもないです、続けてください」
促され、李徴はこう続ける。
「……まぁ、わからにゃいよね。全く
「李徴ちゃ……李徴さん……」
「本当はね。決心がついた気がしてたんだ。最初はさ、こうにゃった以上はこれからの希望も
李徴は金色の
「自死を考え始めた、次の瞬間だったよ。目の前を一匹の兎が横切ったのを見た途端に、ボクの
虚ろな眸、壮絶な表情で自らの奇妙な道程を語る李徴に対し、袁傪は掛けるべき言葉を持たなかった。
「それから今まで、どんにゃ所業を重ねてきたかは―――とても他人に言えたもんじゃにゃい。ただ、一日の内に
不意に言葉が止まった。李徴は口元に左手を宛がい、浅い呼吸と深呼吸を繰り返す。
ややあって、李徴は眼の端を
「……人間の心で。自分の残虐にゃ
「それは……辛い、ですね」
「しかも、その、人間に還る数時間もだ。次第に短くにゃっていってるんだよ。この間にゃんかさ、今まではどうして虎ににゃったのかと怪しんでたのに、気がついたら、どうしてボクは前まで人間だったのかって考えてたんだ!」
その
袁傪は何も言わず、再び部下を制し、李徴の、かつてより小さくなった背中を
「これは、とても、恐ろしいことだ……! もう少し経ったら、ボクの
「か、考えすぎですよぅ」
「そうにゃったら最後は、ボクは自分の過去を忘れ果てて、一匹の虎として狂い廻るんだ! 今日みたいに道で君と出会っても、君が友達だってこともわからずに、君を裂き喰らって
「やだ、そんな。私ってばそんなに特徴無いかな? お香とか焚いて私だよってわかりやすくした方がいい?」
「そういう問題じゃにゃくて……。―――ともかくさ、ボク、最近思うんだ。一体、獣でも人間でも、元々は他の
「私の覚えてる限り、少なくとも李徴さんは今と全然違う形でしたけどぉ……」
「……ううん。そうじゃ……にゃいにゃ。そんにゃことはどうだっていいんだ。ボクが言いたいのはつまり、ボクの
この気持ちは誰にもわからない、己と同じ身の上になった者でもなければ、と李徴は告げた。
「―――ところで、そうだ。ボクがすっかり人間じゃにゃくにゃってしまう前に、一つ頼みがあるんだにゃん」
袁傪はじめ一行は、息をのんで、虎の少女が語る不思議に聞き入っていた。声は続けて言う。
「知ってると思うけど、ボクは詩人として
「そうですねぇ。特に変わったものも見当たらなかったって聞いてます~」
「うん。でもね、その
袁傪は是非も無く、これを承諾した。部下に命じて筆を執り、李徴の朗読に従って書き取らせる。
"人食い虎"の愛らしい声は、夜の林に凛と響いた。
開陳された詩は長短およそ三十篇。格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の非凡なる才を思わせるものばかりである。
しかし袁傪は、大いに感嘆しながらも、何かしら漠然と感じるところがあった。
詩を諳んじ終えた李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るが如くに言った。
「恥ずかしいことだけどね。今でも……こんにゃあさましい身に
袁傪は昔の青年・李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しそうに聞いていた。
ただそれはそれとして、李徴は今の己をどうしても"人食い虎"と言い張りたいようだったが、どちらかといえば、"虎の意匠の装束を着た女児"と形容した方がまだ納得できる、という所感は
「そうだ。お笑い草ついでに、ここで今の想いを詩にしてみようか。この虎の
袁傪はまた下吏に命じ、これを書き取らせた。その詩に言う。
(ふと狂い病んだがために人ならぬ異物となり)
(災いが次々と訪れ逃れることが出来なかった)
(今となってはこの爪や牙に誰が敵として立ち向かうものか)
当時声跡共に相高し
(かつては私も君も才人として名高かった)
我は異物と
(私は人ならぬ異物と化して叢の中にあり)
君は已に
(君は車に乗るような身分まで出世し盛んな勢いだ)
(この夕暮れの下で山や谷を照らす月に向かって)
(私は詩を吟じることもなくただ吼えるのみ)
時に、残月の光は冷ややかに、白露が地面を浸し、木々の間を通る風は夜明けが近いことを告げていた。
人々は最早、事態の異様さを忘れ、粛然として、この一人の詩人の薄幸を嘆いていた。
李徴が再び口を開く。
「……
「え―――」
「人間だった頃さ、ボク、人付き合いを避けてたでしょ。みんにゃがボクを偉そうだ、傲慢だって言ってた。でも、ボクのああいう態度は……、にゃんというか、羞恥心っての? そんにゃもんだったんだよ」
声音はいっそ清々しいものだったが、それは
「地元じゃ鬼才だ
本当は才能が無いかも知れないと
だが、自分の才能を半ば確信してはいるために、凡人の中に混じろうとも思えなかった。
自分は次第に世と離れ、人を遠ざけ、
「袁傪、知ってる? 人間は誰でも猛獣使いで、その猛獣っていうのが、人それぞれの性格にゃんだって。……ボクの場合、この尊大にゃ羞恥心が猛獣だった。虎だったんだ。これが自分を損にゃい、妻子を苦しめ、友達を傷つけて、果てはボクの身にゃりをこんにゃ風に、
「えっ、李徴さんそんな風になりたいって内心思ってたんですか!?」
「いや別にそういうわけじゃにゃいよ!? 今のは単にゃる言葉の
「とにかく……今思えば、全くボクは、自分が持ってた
「また『にゃ』がゲシュタって来……あっ平気です、続けて続けて」
「……虎と
「見た目だけならまだギリギリワンチャン何とかなりそうですが」
「たとえ、今、頭の
遠くで、蛙が川に飛び込む音がした。
「そういう時、ボクは、あっちの山頂の岩に登ってさ、谷に向かって吼えるんだ。この胸を焼く
一つ、考えてみれば奇妙なことであった。
人通りもある林道とはいえ、緑に囲まれた山中である。狼とまでは言わずとも、
「けどさ、獣どもはボクの声を聞いて、
お別れの時間だ、また酔わねばならぬ時が――虎に還らねばならぬ時が――来たから、と李徴が言った。
「ああ……でも、お別れする前にもう一つだけ。頼みがあるんだ」
「はい。ここまで聞いちゃったら、一つも二つも同じですからねぇ」
「ありがと。頼みっていうのは、ボクの妻と子供のことだ。二人はまだ虢略に住んでると思う……、ボクがこんにゃ風ににゃったのも知らにゃいで。だから、君が
言い終わって、李徴は一度だけ
袁もまた涙を浮かべ、
李徴の声は、しかし、忽ちまた先刻の自嘲的な調子に戻って、言った。
「本当は……真っ先にこっちのことをお願いすべきだったね。ボクが人間だったにゃら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、自分の乏しい詩業の方を気にかけているようにゃ男だから、こんにゃ獣に身を堕とすんだ」
「男……男? 本人的にはまだ男のつもりなのかなぁ……。だったら何も言わない方がいいか」
「最後に、君もさ。
「……はい。わかりました」
袁傪は
袁傪は、長く行列を止めていたために、焦れて寝こけていた馬が起上がるのを待つ傍ら、涙ながらに幾度も叢を振り返った。
そして、やっぱりもう一回話しかけることにした。
「―――李徴さん!」
「……、
「心当たり、本当に無いんですか? まだ奥さんたちや私にも話してないこと―――ありませんか?」
【続】
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