14 嘘

 昼日中には太陽に熱された空気も、夜には冷えて風が吹けば涼しい。


 ナトラージュは部屋まで送ってくれているヴァンキッシュの隣を歩きながら、彼がさっき一瞬だけ見せてくれた泣き笑いのような、あの表情を思い出していた。


(あれが……本来の彼? 言いたいことも、辛いことも、全部全部覆い隠すようにして……いつも、何でもない顔をして、笑っているの?)


「……グリアーニ? 何かあったのか」


 ヴァンキッシュが訝しげな声を出したので、目線を上げると、ナトラージュの部屋の前には彼の従兄弟が難しそうな表情で腕を組んで待っていた。


 グリアーニはいつもの近衛騎士隊長の騎士服ではない。帰る間際なのか、以前彼の家を訪ねた時のような楽な服装をしていた。


「殿下がお呼びだ……俺もお前を探す係を拝命して長いが、この役目は本当に不本意だよ」


「こんな時間に? ……あまり……良い話では、なさそうだな。仕方ない。じゃあ、ナトラージュ。また会いにくるよ」


 ヴァンキッシュは自分をわざわざ探しに来たグリアーニの言葉を聞き、瞬時に仕事をする男性の真剣な表情になった。


 彼はようやく捕まえる事の出来たナトラージュと、色々と話したい事もあったはず。けれど、躊躇う事もなく自分のすべきことを優先した。


 その姿を見て、胸がどうしても高鳴った。


(いつも冗談みたいな事ばかり言っているのに、仕事になると……やっぱり真剣なんだよね。当たり前だけど……カッコ良い……)


「……ナトラージュ。久しぶりね」


 突然聞こえたその声を聞いて、久しぶりに体が竦み上がるような気持ちになった。カミーユが先程来た時に、もしかしたらと考えたはずなのに。


「お姉様……」


 ナトラージュは旅装の姉を前にして、それだけしか言えなかった。


 普通なら何か言うべきことが、あったはずだ。長い間会っていなかった実の姉に、ろくに挨拶も出来ない自分が嫌になった。


 カミーユと先に会ったことでも、なんでも軽く言えれば良かったのに。ナトラージュは、スカーレットを前にすると、どうしてもラスに選ばれたあの日に見た悲しそうな表情をどうしても思い出してしまう。


(……なんて……言えば良い。先にカミーユと会ったことは言いたくないけど。ううん。それより二人はなんで、王都に来たの? 私に手紙を送る事もなく……?)


「……こちらの方達は?」


 妹の沈黙に痺れを切らした様子のスカーレットは、共に居た背の高い二人を交互に見た。


「あっ……ごめんなさい。あの……姉のスカーレットです。お姉様、こちらはヴァンキッシュ・ディレイン様とグリアーニ・リーダス様」


 ナトラージュの紹介を聞いて、スカーレットはしげしげと軽く頭を下げた二人を見ていた。


 ヴァンキッシュとグリアーニは突然現れたスカーレットを前にして、姉妹の微妙な空気を察しどういう状況なのかを何も言わずに見極めているようだ。


「……どちらが、妹の恋人なのかしら?」


 少し嬉しそうな声を聞いて、ナトラージュは閃くように思った。もし、自分に現在恋人が出来ていると知れば、姉は安心するはずだ。カミーユも良くわからぬ心配をするのもやめるだろう。


 守ってくれる人さえ、居れば。


「そ。そうなの! お姉様。私、今この人と御付き合いしてるの。いずれ紹介しようとは、思っていたんだけど……」


 ナトラージュがその時に衝動的に腕を取ったのは、グリアーニだった。


 何故ヴァンキッシュではなく、この人だったのかと言われれば、自分でも良くわからない。けれど、自分の言葉を聞いた姉の嬉しそうな顔を見て、この判断をして良かったのだと、その時は思った。


「まあ、素敵な方ね。リーダスというと、リーダス侯爵家の……?」


「ええ……そうです。初めまして。ナトラージュからは、お話はお聞きしています」


 ただそこに居たというだけで巻き込まれただけなのに、グリアーニは否定せずそつなく対応してくれた。いくつか質問をされても、姉が満足するような完璧な答えを返す。


「まあ……そうだったのね。なかなか帰って来ないのも、納得だわ。頼りになりそうな、良い人ね。またゆっくりと話を聞かせて。王都に到着したと、知らせに来ただけなの。今日はもう遅いし……そろそろ、宿屋に行くわ。また、出直すわね。それでは、失礼するわ」


 機嫌の良いスカーレットが指し示す方を見ると、何人かの護衛のような人が待って居た。


「おやすみなさい。お姉様」


「ええ。おやすみなさい」


 笑顔で手を振ったスカーレットが去ってから、残された面々はなんとも言えない雰囲気になった。


 グリアーニはナトラージュがヴァンキッシュの事を好きで、だからこそ瀕死だった彼と人には言えないような事をしたのを知っている。けれど、口の固い彼は約束通り、それを誰にも言っていないはずだ。


「……じゃあ、僕は行くよ。気が短い殿下に遅刻を理由に殺されるのは……流石に辛いからね。おやすみ、ナトラージュ。良い夢を」


 明るい笑顔でそう言ってから、ヴァンキッシュは城の方へとゆっくり歩いていく。


 寂しげに見える彼の背中を見て、どうしても胸が痛んだ。既にやってしまったことを、今更後悔してももう遅い。


「……追いかけた方が良い。誤解が拗れて、手遅れになる前に」


 グリアーニは、難しい顔をして静かに言った。涙目になっているナトラージュを見て、大きく溜め息をつく。


「君が本当に心から、俺をお望みであれば……嬉しい申し出ではある。小うるさい上司や両親には、そろそろ身を固めろとせっつかれてうるさい。君は外見も性格も可愛くて、身分もあり理想的だ……俺ではない、別の男を好きな事以外は」


「……グリアーニ様?」


「もし君があいつに振られたら、俺が責任を取るよ。幼い頃から尻拭いばかりで嫌気がさしていたが、これは何よりの褒美になるだろう。とにかく今は追いかけて、話をした方が良い……早く」


 話している間に彼は、宿舎から出て城へと向かう渡り廊下へと曲がろうとしていた。


 慌てて走って追いかけて、ようやく追いついた時にはナトラージュの足音に気が付き、彼はこちらを振り向いていた。


 今まで見たこともない、決然とした表情で。


「……グリアーニなら、良いと思うよ。真面目で融通の利かないところがあるが、理知的で優しく公正で誠実だ……自分勝手に機嫌を悪くして、人を無闇に傷つける事もない。それに絶対に、女遊びもしないよ。あいつは、幼い頃から僕の母のことが大好きでね。だから、裏切り傷つけ泣かせた叔父にあたる父を嫌っていた。冗談の通じない堅物だが、浮気などは絶対にしない。僕が保証するよ」


「あのっ……待ってください。私……」


「僕の事は、気にしないでくれ。引き際なら、心得ている。あいつとは近い親戚だが、この先君に気まずい思いをさせたりしない。心配しないで」


「違うんです。これには、訳があって……お願いだから、話を聞いてください」


「何が違うの? これだけの好意を示し、体を張って命を懸けて守る程に君に本気だった。あれだけの事をすれば、流石にわかって貰えたのかと思っていた。だが、そうまでした好きな女の子が自分ではない男を目の前で選び、肉親に恋人だと紹介したんだ。ほんのすぐ近くに……僕が、居たのに」


「本当に……ごめんなさい」


 ナトラージュは彼の今にも泣きそうな響きの声を聞いて、ただ謝ることしか出来なかった。


 出会ってからずっと余裕ある飄々としていた態度を崩さなかった彼は、何をされても言われても傷つかないのではないかと何故だか思っていた。


 たとえ何をしても、後で訳さえきちんと話せば理解を示し許してくれるのではないかと。


 けれど、それは大きな勘違いだった。


 そう見えるように敢えて演じていた彼を、考えなしの自分の行動がどれだけ傷つけたか。今ようやく、理解することが出来た。


「君が僕をすぐに信じられなかったのも、無理はない。声をかけてくる女性と、派手に遊んでいたのは、事実だ。数多くの噂は大袈裟なものもあるが、中には事実も紛れている。けれど、これだけは言える。僕が本気で好きになったのは、ナトラージュ。君一人だけなんだ。初めて誰かをこれほどにまで、好きになった。だから……今まで、わからなかった。誰かを好きになり失恋することが、こんなにも辛い事だとは」


「……ごめんなさい」


「どうか、謝らないでくれ……君は正しい選択をしたと思う。他の誰だって、僕よりもあいつが……グリアーニの方が良いと……そう、言うだろう。あいつは、本当に優しいよ。顔や目は少し怖く思えるかもしれないが、きっとすぐに慣れる。君の事を、誰よりも大事にしてくれるだろう」


 ヴァンキッシュは一瞬だけ、また泣き笑いするような表情になり、それを覆い隠すような明るい笑顔を見せた。


「けれど、僕は君の事を本気で好きだったよ。それだけは……覚えていてくれ」


 そう言ってから、ナトラージュの答えを待つ事なく、彼は身を翻して足早に歩き出した。


 それを追いかけて、縋ってでもきちんと自分が思っていることや、これまでの事の何もかも話すべきだとはわかっては居た。


 けれど、どうしても足が動かなかった。


(また、どうしようもないくらいに……傷つけてしまった。出会った時から会うたびに、何回も彼は好意を伝えてくれていた。それを絶対に嘘だ冗談だと、決めつけて……誰かから、きっと彼はこうだと、言われた事を鵜呑みにして……彼自身の事を、きちんと自分の目で見ていた? 言われた言葉を自分の頭で判断した? 私の事も、きっと遊びだと、勝手に……思い込んで……)


 今思い返せばヴァンキッシュはナトラージュと出会ってから以降、女遊びをしている様子などは見たことがなかった。彼はさっき、ナトラージュのことを初めて好きになった異性だと言っていた。


 ナトラージュと出会う前の彼の事は、もうどうしようもないことだ。けれど、出会ってから彼は忙しい仕事の合間を縫って、何度も自分から会いに来てくれた。


 男慣れしていない様子のナトラージュを前にして、ゆっくりと距離を縮めようと彼なりに懸命に努力をしていた。


 それに、思い返せば泣けてしまいそうなくらいに優しかった。命懸けで助けて、それなのに訳も分からずに避け続けられていたのに、やっと会えた時も決して責めたりしなかった。


(……本当に、辛そうだった。なんで、あの時、グリアーニ様の腕を取っちゃったの……ただの嘘なんだから、ヴァンキッシュ様でも良かったはずなのに)


 ナトラージュにとって、あれは単なるその場凌ぎの嘘だった。


 また妹に自分の物を取られるのではないかと恐れているだろう姉に、そう言う事実があると言えば安心するだろうという、とても短絡的な考えだった。


(そうだ。あの人の容姿が良すぎるから、自分には不釣り合いに見えるだろうと……咄嗟にそう思ってしまったんだ。あの容姿だって、ヴァンキッシュ様自身にはどうしようもないものなのに……もう、言い訳しようがない。なんて……ひどい事をしてしまったの……)


 傷ついた表情。聞いたこともない辛そうな声。何もかもが、すべて夢なら良かったのに。


 呆然としているナトラージュの耳に、バサバサと翼の音がして、心配したラスが近くまで来たのだと知れた。


(ナトラージュ。俺でも……あれは……ちゃら男に、酷いことをしたと思う。それに、あそこに居る全員が、得をしない嘘をついてどうすんだよ……泥沼にしかならないじゃないか)


「ラス……どうしよう」


 自分の方を向いてポロポロと涙をこぼしているナトラージュを見て、ラスは困惑するように言った。


(あー……どうしようって……ナトラージュ。あいつが、好きなんだろ。それをちゃんと、言ってやれば良かったじゃないか。なんでさっき言ってやらなかったんだよ)


「だって……私、酷いことして……傷つけて……」


(まあ……そうなんだけど……あいつは、ナトラージュが自分のことを好きなのか確信を持てずに、ずっと辛かったんじゃないのか。かなりの好意を持っていることは、周囲は皆わかっていたし、それを確認したかったはずだ。なのに、ナトラージュがこのところずっと避けていたから、話も出来ずにイラついてても仕方ないと思う。新作読めなかった時の、俺みたいに。いつものあいつなら……もっと余裕あるっぽい感じだったしさ)


「もう、好きって言っても……信じて貰えないかも……」


(……それは、言ってみないとわからないだろ。かもかも言ってるくらいなら、追いかけろよ。仕事あるかもしれないけど。だとしたら終わるまで、待てば良いだろ。このところ、ナトラージュをずっと待っていたあいつみたいにさ)

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