13 笑顔

(……ちゃら男、今日はまだ部屋の前で待ってるみたいだぞ。住んでいる所を知られてるんだから、こうして逃げ続けていても、どうにもならないんじゃないか。一回くらい話してやれよ……それに俺。早く帰って、新作読みたいんだけど)


 宿舎前の廊下で、バサバサと大きな音をさせて舞い降りてきたラスは、仕事帰りで白いローブを着たままのナトラージュに抗議するように言った。


 このところ、ナトラージュと一緒に仕事が終わってからも、無意味に時間を潰してから遅い時間に部屋に帰るという生活が続いていた。ラスは続きを楽しみにしている、この前買って貰ったばかりの冒険譚が思うように読めなくてイライラしているのだ。


「ラス……ごめんね。もうちょっとだけ、待って。今夜はどこかで時間を潰してから帰りましょう」


 ナトラージュが複雑そうな様子でそう言ったので、これは先は長そうだとラスは下に向かって大きく息を吐き、足元の床を凍らせてしまっていた。


 いつもはこういう事に細かいナトラージュに怒られると思ったのか、慌ててダンダン! と音をさせて足踏みして氷を散らしていた。


 その様子をぼんやりと見ながら、ナトラージュは白いローブのフードを下ろした。


(……やっぱり、今日も来てくれていた……どうしよう。でも、まだ会いたくない……)


 助けてくれた彼を、このままずっと避け続けても、仕方のないことは自分でもわかっていた。いつかは彼と、きちんと向き合わねばならないことも。


 オペルの外交官ヴァンキッシュ・ディレインは彼本人が話していた通りに、税や価格の交渉事のため各地の視察なども多い。だが、彼を訪ねてやって来る誰かと城の中で会うことも仕事だ。よって、空いた時間には以前に会った事のある、召喚を練習していた広場やナトラージュの私室前で、いつ来るとも知れぬ彼女を待つことが出来る。


 目立つことこの上ない、美しい容姿を持つヴァンキッシュが物憂げな様子で待ちぼうけをしているのを見た人が多く、城でも大きく噂になっていた。そして、あんなに女性トラブルが多かった彼が最近はどんなに誘ってもすべて断っているという噂も聞いた。


 今まで執着などせず、去る者追わずな彼にしては珍しいくらいの熱心さで、どうにかして会いたいとナトラージュの上司にあたる導師アブラサスに何度も掛け合って、今までの行状を知られているので、その度に門前払いを食らったりもしているらしい。


 どう転んでも仕事場が一緒なので、逃げるにも限界がある。そして、彼は命を助けてくれた上に、ただ「話したい」と言っているだけだ。悪いことなど何もしていないし、どちらかと言うと向き合わずに逃げ回っているナトラージュの方が悪いとは自分でもわかっていた。


(けど……どんな顔して会えば良いの……? あんな事を……したし、されたのに……)


 あの夜の事を思い出せば、今すぐにでも走り出したくなるくらい恥ずかしい。その相手であるヴァンキッシュの前に出れば、挙動不審になるだろうことは容易に想像がついた。もし彼が疑問に思っていれば、嘘を突き通すことは難しいだろう。


「……一度……家に帰ろうかな」


 ぽつりとこぼした言葉は、自分でも名案に思えた。今まで休暇は決まったものしか取っていないので、まとまった休みなら上司に申請すれば取ることが出来る。


(……そうしても良いんじゃないか。俺は着いては、行けないけど……ナトラージュは、ここに来てから一度も里帰りしてないだろ)


 自分が帰れない原因となった自覚があるのか、ラスが気まずそうに、そう言った。ナトラージュは召喚士見習いとして王都に出てきて以来、三年の間、全くリンゼイの家には帰っていない。


 けれど、姉スカーレットとカミーユの結婚式には、流石に妹として出席しなければいけないだろう。


 主役となる姉に決定的に嫌われてしまっているとは言え、家の世間体もある。跡を継ぐことになるカミーユの元婚約者だった妹のナトラージュがそこに居なければ、出席するだろう付き合いのある家からも、何かがあったと勘繰られることは間違いない。


 歓迎されないことはわかってはいるけれど、ナトラージュは努力家の姉スカーレットが小さな頃から好きだった。家に帰れば気まずいからという、どうしようもない自分本位な理由で、敢えて彼女の立場を危うくするつもりなどはない。


 ラスがナトラージュを選んでから、かなりの時間が経つ。姉もそろそろ気持ちが落ち着いているかもしれない。どうしても切れない肉親との関係に、折り合いを付けていく頃合いなのかもしれない。


 ナトラージュがリンゼイ家の治める領地に居た時と違い、今いるここからどこかに辿り着く未来に行く道は何本も目の前に広がっている。それこそ、選ぶのを迷ってしまう程に。


 一本の道しか選べなかった頃の方が、楽だったかもしれないと後ろ向きの考えが頭を掠めた。浮かんできた暗い気持ちを振り払うように、頭を振りつつ城へと繋がる長い渡り廊下をゆっくりと歩く。ラスが黙ったまま後ろに続き、ペタペタとした可愛らしい足音が聞こえた。


(……全部。私が決める問題で、私が選ぶ未来。誰にも決められない代わりに、誰のせいにすることも出来ない。なんだって選ぶのは、自分自身だもの)


「ナトラージュ。こんな夜遅くに、どこに行くつもり?」


 物思いに耽る中に、突然聞こえた聞き覚えのある声に思わずビクリと身体を震わせた。ここに居るはずのない人だった。


「カミーユ? ……どうして、ここに?」


 現在姉の婚約者となっている、カミーユ・ファーガスだ。いかにも旅の途中のような装いのままの彼は、短い茶色の髪や同色の目にも、だいぶ疲れた様子があるように見えた。


「婚約者だったのに、やけに他人行儀だな。ナトラージュ。今君の部屋に、行ってきた。部屋の前に、やけに綺麗な派手な男が待っていたけど、あれは今の恋人?」


 カミーユは部屋の前まで行って、そこでナトラージュを待っていたヴァンキッシュと話したらしい。


「……ヴァンキッシュ様は……ただの知り合いよ。何か私に用事があったのかも、知れないわね」


 歯切れの悪い返答をするナトラージュを見て、カミーユは何かを探るように目を細めた。


「こんな時間に部屋の前で待っているのに? 知り合いの割には、随分と仲が良さそうだね」


「色々と……助けてもらったの。あの方はすごく、優しいから」


 彼とのめくるめく色々を思い出してしまい、自然と口籠もり赤面したナトラージュを、カミーユは冷静な眼差しのまま見つめた。


「優しいねえ……誰にでもって、訳ではないだろう。僕もあそこまで綺麗で整った顔を持つ男は、今まで生きて来て見たことがない。周囲の女性も、放っておかないだろうな」


 自分に向けられた意味ありげな視線と含みのある言い方に、ナトラージュは不快になった。確かに以前婚約はしていたが、カミーユはもう姉の婚約者だ。今ナトラージュが異性と何があったとしても、彼に責められるいわれはない。


「……カミーユ。何故、ここに居るの? 貴方は姉ともうすぐ結婚して、リンゼイ家の当主になるんでしょう。もし、私に用事があるなら、手紙を書いてくれれば会いに行ったわ。家の事情で、何かあるのなら……」


「いいや。リンゼイ家には特に問題はないよ……会いたかったから、今ここに居るんだ」


 カミーユの言葉に思わず、眉が寄った。これから先の彼の言葉に、何か悪い予感しかしない。


「カミーユ……何を、言うつもりなの? やめて。私と貴方はもう……何の関係もないわ」


 その時に、何よりも先ず頭に浮かんだのは、自分がひどく傷つけてしまった姉の泣き顔だ。姉妹とカミーユとの三人の関係は、もつれて絡まった糸のようなもの。


 そこから、ナトラージュが居なくなれば、何もかも解決するはずだった。


(あの人をもう……これ以上、傷つけたくない)


「もう一度聞くけど……あの金髪の男は、何? 関係なくは、ないだろう。僕達は……いずれ家族になる」


「ヴァンキッシュ様は、命の恩人よ。あの方が助けてくれなかったら、私はきっと……今はもう死んでいたわ」


「そんな危険な目に? ……すぐに、家に帰ろう。こんな所に置いておけない。あの竜は別にして、無理にナトラージュが召喚士になんてならなくても良い。リンゼイ伯爵家の今後は安泰だよ……僕の実家の事は、知っての通りだからね」


 彼の実家ファーガス家は、跡を継ぐ優秀な彼の兄の商売が成功して、金回りも良くこのところ破竹の勢いで力をつけている。確かにカミーユの言う通り、彼とリンゼイ家の令嬢との政略結婚は、繁栄を約束するはず。


 いきなり顔色を変えたカミーユに、ぎゅっと左の二の腕を痛い程の力を入れて掴まれた。


「やめて……離して。私は帰る気はないわ。お願い」


(……どうしよう。こんなところを、もしお姉様に見られてしまったら……)


 ナトラージュは思いもよらない彼の存在に動揺のあまり、真っ先に確認するべきだった姉の同伴について彼に聞き忘れた事を後悔していた。


「良いから、帰ろう。後のことはどうにでもなる」


「カミーユ……待って。お願い。落ち着いて話をさせて」


「命の危険があるような所に、君を置いておけない。君のようなか弱い人が、召喚士になんてなる必要がない。だから、もう良いんだ。帰ろう」


「カミーユ! 離して……!」


「女性の言葉には、聞く耳は持った方が良いと思うよ。特にここは人目の多い城の中だ。どんな誤解をされて、変な噂が立つか。わかったものではないからね」


 背の高い彼の明るい金髪が見え、ヴァンキッシュがナトラージュの腕を掴んでいたカミーユの手をいとも簡単に外した。


「やあ。ファーガス侯爵家のカミーユ殿。いや、次期リンゼイ伯爵と言った方が良いかな? 先ほどは、どうも。ナトラージュと、こんなに親しいとは全然知らなかった。あの時に僕に説明して頂ければ、城の中ででも落ち着いて話せる部屋も用意出来たのに」


 ヴァンキッシュは手で合図してナトラージュを一歩下がらせると、こちらを睨みつけるカミーユと向かい合った。他でもない彼の広い背中に庇われて、大きな安心感が胸の中に広がった。


「彼女は、僕の元婚約者なんです。部外者は黙って貰えますか」


「元が前についていなければ邪魔者は去るところだけど、とても残念だ。つまり、今は赤の他人と言える関係で認識は合っているかな?」


「……彼女の姉の婚約者なので、他人ではない……ナトラージュ、また来るよ」


 揶揄うようなヴァンキッシュの言葉に挑むように言い残し、そのまま去って行く。


 茶髪の青年の後姿をつい見てしまうナトラージュを、ヴァンキッシュは正面から覗き込んだ。


「もしかして……邪魔した?」


 悪戯が成功した子のような口調と、状況に似合わないように思える明るい笑顔に何故だかムッとしてしまう。


 けれど、ヴァンキッシュは不自然とも言えるくらい、自分を避け続けていたナトラージュの事を頭ごなしに責めたりしなかった。きっと何か聞きたいことがあって、何度も何度も待っていたはずなのに。


「……ヴァンキッシュ様、どうしてここに?」


「来ない方が良かった? 余計なお世話だった?」


「……いいえ。すみません。困っていたので、助かりました……」


 城の方へと向かう彼の後姿は、小さくなる。


 カミーユについて何かを思うたびに、どうしてもスカーレットの事が思い出された。彼だって、小さな頃から気がついていたはずだ。当時の婚約者の姉から、ずっと好意を持たれていたことを。


 潤んだ目の端を目ざとく見つけると、ヴァンキッシュは肩に手を置いてナトラージュを正面を向かせた。


「ほら。こっちの方が、良い男だよ」


 信じられないくらいに端正な顔立ちと、とても甘い眼差し。一目見て魅了されそうな彼を前にナトラージュは自分の正気を保とうとして、思わず下唇を噛んだ。


「……それは、好みにもよると思います」


「ナトラージュって、ちょっと怒ってる顔も凄く可愛いね。いや。何しても……可愛いのか。奇跡的な存在だな」


 しみじみとした口調で何かとても良い事を発見したと言わんばかりの彼に、ナトラージュは口を尖らせてしまった。


「もう。揶揄わないで、ください」


「……揶揄ってないよ。僕の言っていることが本当かどうかは、僕と君の二人だけが知っていればそれで良いと思わないか」


 ヴァンキッシュは、ナトラージュを優しく宥めるようにそう言った。


(この人が、本当のことを言っているかなんて……きっと、私には一生わからないままだわ)


「いつから、いらっしゃったんですか?」


「ああ。僕が君達の会話を聞いてたか、どうかってこと?」


「……そうです」


「僕にナトラージュの事を聞いた彼の目が、何かおかしいと思ってすぐに追い掛けたんだよ。ただの知り合いよの辺りからかな? その後に命の恩人にまでは、昇格出来たみたいだけどね」


 相変わらず明るい笑顔を浮かべながら、優しい口調を崩さない。それを見て、胸が締め付けられた。


「……ごめんなさい」


「なんで謝るの」


「ヴァンキッシュ様が……ずっと笑顔だから」


 その言葉を聞いて、彼はふっと真顔になる。そして、今まで見たこともない、どこか泣きそうにも見える表情で目を細めた。


「本当に……君には、敵わないね」


「だから、謝らないとって。思いました」


 リンドンテの王城クラリッサ城には、緑豊かな広い庭園がある。どこからか、夜鳴き鳥の声がした。彼と見つめ合い意識せずに早まった呼吸の音をなんとか抑えようとすると、やけに心臓の音が大きく聞こえた。


 いきなり抱きしめられ、腕に込められた力はそんなに強くないはずなのに、動くことが出来ない。若草色の熱っぽい視線と、目が逸らせない。耳元にはヴァンキッシュの抑えた呼吸の音がして、ただそれだけなのに顔は熱を持ち頭の中は何も考えられなくなった。


(……近過ぎる。心臓壊れそう……)


 ナトラージュは、力なく両手を前に押し出した。離れて欲しいと言う意思表示を見て、彼はとても不思議そうな顔をした。


「……まだ、何もしてないよ?」


「わかっていますけど……近すぎます」


「キスしても、良い?」


「ダメです」


「どうして? 今、凄くしたいんだけど。軽く触れるだけでも……ダメ?」


「……ダメです。絶対ダメ」


 むうっとした顔をして強く拒否するナトラージュの言葉を聞いて、ヴァンキッシュは何かを考え込むような顔になった。


「……ヴァンキッシュ様?」


 急に黙りこんでしまった、ヴァンキッシュを驚いて見上げた。彼は何故か、戸惑ったように一瞬だけ目を逸らすと、いつも通りの明るい笑顔を見せた。


「ごめんごめん。冗談だよ……このまま部屋に戻る? 戻るなら、送って行くから」


「……ありがとうございます」


 避け続けていた彼に、一度会ってしまえば部屋に帰るのを断る理由など、何もない。


 また完全に空気になっていたラスはなんとも言えない顔をして、この一連の出来事を黙って見ていた。

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