08 突然
ナトラージュとラスは、上司の導師アブラサスから頼まれた用事で勤務中ではあるが外出をしていた。
王都の外れにある邸に届け物をしたのだが、出発が予定より遅れてしまったせいか、帰り道の今、とっぷりと日は暮れて辺りは暗い。
(ナトラージュ、腹は減らないのか?)
ラスがそろそろ夕食時ではないかと気遣って、ナトラージュに声をかけた。
「そうね……何か、出店で買って歩きながら食べようかな」
人通りの多い王都の大通りには、出店が道沿いにずらっと並んでいる。
もちろん貴族令嬢であれば、そういった振る舞いは決して許されない。
けれど、特に令嬢らしい振る舞いを求められない、召喚士見習いの肩書きしか持たないナトラージュにとっては、食道楽で知られる王都で気ままに美味しい物を食べ歩くのは、たまの楽しみになっていた。
(俺、焼き鳥が良いな。この前、食べた香辛料が、ピリッと利いてるやつ。あれ食べたい)
「確かに、凄く美味しかったね。売っていた屋台を見付けたら、買いましょう」
ラスは本来、飲み食いしなくて良いはずなのだが、別に食べ物を食べられない訳でもない。
(成竜になると、空気からの魔力だけで十分なんて……なんて勿体ないんだ。俺は大きくなっても、ずっと食べ続けたい……)
ぶつぶつと何かを言っているラスに特に反応するでもなく、ナトラージュは角を曲がった。
ラスが言っていた出店は、この裏道に入るとあったはずだ。けれど、この裏通りを以前に通った時は昼だったせいか、薄暗く全く様子が違っていた。
「……引き返しましょうか」
ナトラージュは、眉をひそめなぜか、湧き上がる不安を感じた。
裏通りと言えど、華やかな大通りは近いので並んでいる店には灯りが付いていて開いている。
けれど、真っ暗な細長い路地からは、何かが出てきそうだ。周囲には自分たちだけしかいないような、そんな錯覚に陥って来た。
(……あの焼き鳥の匂いは、今はしないな……あれは美味しかったから、忘れるはずがない)
ラスは確認するようにクンクンと首を反らせて、匂いをかぐ。
「……そっか。仕方ないね。じゃあ、大通りにまで、引き返しましょうか」
体の向きを変えようとして後ろを振り向くと、通りの向こう側から、速い速度で飛ばして来る馬車が見えた。しかも、その後ろから人が乗っている馬が何頭も駆けて来て、追われているようだ。
(ナトラージュ! 近づいて来る! 早く!)
慌ててラスが、ナトラージュの服の裾を引っ張った。ここでは、逃げる場所も少ない。近くの建物に張り付いて、やり過ごそうとした。
その時。
ガタガタとした裏路地の悪路のせいか。馬車の車輪が外れ、ナトラージュの方へ車部分本体が迫って来る。
「きゃっ!」
馬車にぶつかる! と思う間もなく、間一髪で力強い腕に抱かれ馬上に抱き上げられていた。
グシャっと嫌な音を立てて、追われていた馬車本体が、先程までナトラージュが居た場所にある壁にぶつかった。
ヒヒーンと悲しげないななきを上げて、馬車を引いていた二頭の馬が乱暴に足を留めた。
まだ壊れた馬車に繋がれているため、太い綱を引き千切ろうと、何度か乱暴に動くと荒い鼻息を繰り返した。
「……ナトラージュか?」
静かな、低い声がした。なんでこんな所に居ると、言わんばかりだ。
「グリアーニ様」
間近に迫った顔に目を見張って、思わずまじまじと見てしまった。従兄弟のヴァンキッシュのように華やかではないけれど、精悍で端正な顔立ち。普段は鋭い双眸も、今は驚きの色で染まっている。
あまりにも有り得ない出来事に、力の込められた硬い腕に抱かれていることも忘れてしまっていた。
「ヘンリー、エリオット。捕縛が済んだら、城へと」
我に返ったグリアーニが、部下に短く命令を下した。その言葉を聞いて、前方付近がかなり損傷を受けている馬車に目を向けた。御者と中に居たらしい婦人は、ぐったりとしている。二人の騎士が、彼らを引っ張り出して後ろ手に縄をかけた。
「ナトラージュ、こんなところで何をしている?」
グリアーニは抱き上げた腕を緩め、ナトラージュを鞍の前方に横座りさせた。ラスは珍しく翼を使い、周囲を心配そうに飛んでいる。
「あの、導師のお使いの帰りで」
声が震えてしまう。
(もし、グリアーニ様が助けてくれなかったら……考えたくもない)
怯え切っている様子を見て、グリアーニは大きな手でナトラージュの背中を摩った。
「どこか、痛む所はあるか?」
「いいえ」
「……大丈夫だ。もし、今から城へと帰るところなら、このまま俺が送って行こう」
部下の出発の合図に頷きを返すと、グリアーニは上空に居るラスを見上げた。ラスも心得たように、飛行したままでこくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
人通りの多い大通りを歩くと、どうしても時間がかかってしまうが、馬で移動するとあっという間だ。
城に辿り着き、馬専用の通用門から城へと入る。ナトラージュを優しく下ろすと、馬の手綱を取ってグリアーニは歩き出した。
上空を飛んでいたラスは何度か低空を旋回すると、心配な様子で降りてくる。
「馬を、任せて来る。少しだけ、待っていてくれ。部屋まで送ろう」
小さく頷くと、頼りなさげに周囲を見回した。いくら城の門あたりは急な来客に備えて、明るくしているとは言え、本格的な夜はもうやって来ている。
ナトラージュは、「死ぬかもしれない」と感じた急激な興奮状態から落ち着いたせいか。自然と涙が出てきてしまった。
「ナトラージュ……!」
驚いた様子で通用門の影から、何故か、この場所に居たヴァンキッシュが歩いて来た。
「なんで、君がここに居るの? どうして……泣いているの?」
いつも落ち着いている彼も訳が分からないと、戸惑っている様子だ。
「……いえ、あの、先ほど危ないところをグリアーニ様に助けて頂いて」
ヴァンキッシュは、程近くまで近づき、泣き顔を隠そうとする手を優しく両手で外した。
「泣かないで……何があったか、聞いても良いかな」
(車輪が外れた馬車が、いきなり突っ込んで来て。馬に乗ってたグリアーニが、ぶつかる寸前で助けたんだよ)
「君に聞いてないだろ」
ラスはムッとして、そっぽを向いた。
答えられなそうだから、せっかく代わりに答えてやったのになんだよと、ばさばさ小さな翼が不機嫌さを表すように抗議の音を立てた。
「そうか……怖かったよね。怪我はない?」
「はい」
「部屋まで送ろうか」
「あ、あのグリアーニ様も……そう言って下さって、ここで待っているようにと……」
すぐさま手を引こうとした彼に、慌ててナトラージュは今の自分の状況を説明した。
「……あいつには、急ぐ用事があってね。その名誉な役目は、僕が代わろう……グリアーニ、ナトラージュは僕が送るよ」
ゆっくりとこちらに近づいて来たグリアーニに向かって、彼は言った。二人を見て、なんとなく事情を把握しているのか、肩を竦めながら苦笑している。
「お前。何でこんな所に、居るんだ」
「……ご挨拶だね。一応は、僕も関係者の一人だろ? どうなったかは、確認するだろう」
「そうか。久しぶりに、お前に感心した」
「感心して頂き、とても光栄だ……君が戻ったと言うことは、捕まえたんだね」
「ああ。そういうことだ」
意味ありげに、グリアーニは笑う。二人の会話の意味がさっぱりわからずに戸惑っているナトラージュの頭をぽんぽんと優しく叩いて、彼は城の方へと去って行った。
「ナトラージュ。怖い思いをしたんだし、無理しなくて良いよ。僕が抱き上げて運んでも、良いんだけど」
(アホか)
ラスが呆れた顔をしたのに片目を瞑ると、彼はナトラージュの背中を押しつつ宿舎へと向かった。
ヴァンキッシュは、どこからか魔法のように温かい紅茶と甘いものを持って来たりと、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
自室に帰りつき、ほっとしてかまた涙が出てきてしまったナトラージュが、ようやく落ち着いて、ベッドに入り込んだところまでを見届けて長居せずに帰って行った。
(……あいつ……マジに女心を熟知してるな……がっついてないのは、まあ、当たり前にしても。こういう扱いされると、大事にされていると絶対思うもんな……ナトラージュ、騙されんなよ!)
彼が居る間、完全に空気になっていたラスは、ペタペタと音をさせて地団駄を踏んだ。
「……騙されたり、しないよ。あの人が私に本気になる事なんて、ないもの。優しくしているのも、きっと物珍しい今の内だけだわ……」
天井をじっと見上げながら、ナトラージュは呟き、何故か止まっていたはずの涙がこめかみに流れた。
(怖い時に、優しくされたからと言って……絶対に勘違いしたりなんかしない。彼は数多の美しい令嬢を虜にする恋多き男性で……もし、私が誘い文句のどれかひとつに頷いてしまえば、すぐに彼は興味を失ってしまうだろう。それは、もう……どうしようもない事なんだ。もし彼と恋に落ちてしまえば、真っ黒な底抜けの穴が待っている。暗い闇の中で、絶対に手に入らない彼の心を手に入れたいと嘆き悲しむなんて……嫌だわ)
どうしても手に入らない物を嘆く未来が見えているなら、決してそれを願わない。
けれど、こうして自分に言い聞かせることも、今しも落ちてしまいそうな心を、どうにかして押し留めたいと思っている葛藤に他ならないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます