09 責任
(……おい。大丈夫かよ。ナトラージュ)
ラスは心配そうな様子で、朝から様子のおかしいナトラージュを見上げた。
ここはいつもの見習い召喚士が使用する広場で、一人前認定試験用のシルフィード召喚を練習していた。召喚陣を出来るだけ正円に近づけるために、描いては消してを何度も何度も繰り返している。
「……私のことは心配しなくても、大丈夫だから……それより、ラスは導師さまに今日は午後から呼ばれているんでしょう。私は、ここで一人で練習してるから……」
いかにも無理して微笑んでいるナトラージュの様子に、ラスは心配そうに何度か振り向きながらも去って行った。
彼がそんな風に気にするのも、無理はない。ナトラージュはあの怖い思いをした昨夜から、自分の様子がおかしい事は気がついていた。
(死ぬほどに怖い思いをした後に、傍で優しくして貰ったせいか。どうしても、あの人が気になってしまう)
もちろん。それだけではなく、積み重ねられた甘い言葉も、理由にはなるだろう。
「あの男は、絶対好きになってはいけない」と、彼に接触を持つようになってから、誰彼となく口を酸っぱくして忠告された。恋をしたとしても彼が飽きてしまえば「はい、もう終わり」の恋愛ゲームになど、決して乗ってはいけないと。
(……でも……彼と……たった一時だとしても、相思相愛になれるなら……それで、良いのかも。別れる時は、そりゃ悲しくはなるかもしれないけど、その後、良い思い出として。生きていけるなら……)
ナトラージュは、彼が……ヴァンキッシュが自分が対等に恋愛出来る相手でない事は、重々理解していた。
けれど、こんなに予防線を張っていても、惹かれてしまう気持ちは止められない。人は「いけない」と誰かに言われれば、どうしても言いつけを破ってしたくなってしまうもの。
もし、ナトラージュが「好きです」と言って「本気にしちゃった?」と揶揄われようとも、それはそれで別に良いかなと思う程に今では想いは育ち、止められなくなってしまった。
「……ん? あ……間違っちゃった……」
種族を「シルフィード」に指定するところを、特殊な文字で似ている「マリョード」と言う凶悪な幻獣に指定してしまっている。
これは、師匠のアブラサスからも「シルフィード召喚する時は、良く描き間違えるから気をつけるように」と懇々と注意されたので、良く覚えていた。
足で踏んで、もう一度きちんと書き直そうと思った、その時。
いきなり強風が吹いて、体を支えようと咄嗟に持っていた鍵杖を地面に向けた。運悪く手から離れて三つの円の交わる、その部分に鍵杖がコツンと間抜けな音をさせて触れた。
(……いけない!)
もう既にシルフィードの居る「第四階層」、そして「無作為」の召喚陣は描いてしまっていた。そうして、シルフィードを表す図形と、間違って描いてしまった「マリョード」の円。三つが揃い、このままでは幻獣マリョードの召喚が、成立してしまう。
焦っているその間も、強風は収まらずナトラージュが身を伏せている間に、誰かがもう既に呼びかけに応えてしまった。真っ白な光の柱が立ち上り、光が収まったそこに真っ黒な熊のような大きな身体を持つ幻獣マリョードが居た。
一匹のマリョードはふたつ足で立ち上がり、獲物を探すように周辺を見渡した。
無言のまま冷徹な目を、近くで座り込んだままのナトラージュに向けている。幻獣ではあるものの、その性質は悪辣で人には決して懐かぬため、人界への召喚には適さないとされている。
(マリョード……その爪や牙には、強力な毒が仕込まれている。どうしよう。絶対に何を言っても言うことを、聞いてくれそうな……そんな感じではないよね……そうよ。召喚陣さえ崩せれば……!)
ナトラージュは、あまりに悪いタイミングが重なり過ぎた、この事態をどうにかしようと頭を巡らせた。幻獣は召喚陣さえ崩せば、この世界には居られない。それこそが召喚術の理(ことわり)であり、彼らがこの世界の住人ではないのに、人界に降り立てる理由なのだ。
黒い幻獣マリョードは自分のすぐ傍に居るナトラージュが、どう動くかをじっと窺っているようだ。今なら不意をついて、どれかの円を崩すことは可能かもしれない。
ナトラージュは意を決して立ち上がり、近くにあった円を踏みつけようと動いた時に、マリョードはその動きに反応するかのように素早く動いた。
何かが自分の体に覆い被さり、影が差したような気がした。
とにかくこれだけは、と急いで目の前の召喚陣の一部を踏みつけた。召喚が発動している証拠の光は失われ、問題のマリョードはもう、幻獣界に帰ってしまったはずだ。
(……良かった! 幻獣界に帰すのに、成功した! ……けど、え?)
目を上げて、目を疑った。
最初に目に入ったのは、日の光を浴びて輝く豪奢な金髪。そうして、痛みに耐えているような、美麗な顔。こんな表情でも、彼は綺麗なんだと、場違いにそう思った。
「なんて……どうして……?」
あの危険な幻獣から彼に庇われていたことを知り、呆然として突然登場した人に問いかけると、ヴァンキッシュはうっすらと笑った。
「……助けに来た理由が、もし聞きたいのなら。それは、君のことが好きだからだよ。名も知らぬ女の子の生命の危機に、命を投げ出せるかと言われると……うーん。その時になってみないと、わからないな……」
彼は顔を顰めつつ軽口を叩きながら、よろっと横向きに倒れた。ヒュウヒュウという荒い呼吸になり、背中には大きな傷がある。マリョードの毒を受けたのだ。
(……ミスをしてしまった私の代わりに……? なんてこと!)
さっきまで平静にも見えた彼の様子がこんなにも急変したということは、かなり強い毒性を持つ毒なのかもしれない。
そう考え至ったナトラージュは、とにかく助けを呼びに城の方へと走り出した。
◇◆◇
「……とりあえずは、大丈夫だ。特殊な毒ではあるが、解毒方法もわかった。君は、心配しなくて良い」
取り乱したナトラージュが、目につく人に声をかけて人を集めた結果大騒ぎになってしまった。
大怪我をした人が居るという事態を上層部へと知らせに走る人、とにかく怪我人を運ばなくてはと広場に駆けつける人たち、城の中は一時騒然となってしまった。
怪我を負ったヴァンキッシュの肉親ということもあり、すぐに駆けつけてくれたグリアーニは感情を見せずに病状などを淡々と言った。その言葉を聞き、診療室の前で立ったまま待っていたナトラージュはほっと安心して胸を撫で下ろす。
「良かったです。解毒の方も……すぐに?」
「……ああ。君のような乙女には、少し刺激が強いかもしれないんだが……娼婦を呼ぼうと思う。彼女たちは、こうした事が仕事なので、割り切ってくれるだろう」
「……え?」
呆気を取られた顔をしたナトラージュに、グリアーニは彼にしては珍しく複雑そうな表情になった。
「君が言っていた幻獣マリョードだが、強い毒性を持ってはいるんだが……君には非常に言い難いんだが、精液を何度か出せば毒性は薄れ、通常の解毒剤で事足りるようになるらしいんだ。このまま強い毒が身体の中にある状態であれば、あいつの命が危ない」
「……そんな……」
「すまない……怪我の責任を感じている君には……こういう事は、言うべきではなかったな。俺も、一応は動揺しているようだ。大丈夫だ。あいつにとってみれば、猫の子に噛まれたようなものだから気にしなくて良い……なので、今から手配を……」
医務室前で待つと言って聞かなかったナトラージュのために、傍につけていた部下の女騎士ジェラルディンに彼は声をかけようとした。
「まっ……待ってください! その……ちょっとだけ、待って貰えますか」
顔を真っ赤にしたナトラージュに、手を挙げかけていたグリアーニは不思議そうな顔をした。今までの話を聞けば、誰だってそういうことを生業の娼婦を呼ぶのが最善の選択だとわかっているはずだ。
「それは、出来ない。事態は一刻を争う。君も自分のせいで、誰かが死んだというのは目覚めが悪いのでは?」
「……そのっ……娼婦の方を呼ぶのは、待ってください。私が……私が、しますっ」
ぎゅうっと胸の前で両手を握り込んで、自分を見上げるナトラージュをグリアーニは戸惑った様子で見下ろした。
「……君が、代わりを?」
「……私の責任ですので……ですが。どうか、彼には絶対に、言わないで欲しいんです」
「いや……どう言えば良いか……勿論、こういった状況だ。責任を感じるなとは、言わないが。君がそこまでする必要性はない……城で働いているナトラージュも、理解しているとは思うが、あいつは浮き名を流していて……一人くらい増えたって、どうという話でもない。それでも?」
グリアーニはどうやって説得しようかを思いあぐねているようで、彼には珍しく言葉を詰まらせながらそう言った。
とても複雑そうな、様子だ。もし、自分だって彼の立場であれば、そう言っただろう。どうにかして、責任を感じている恋人でもない女の子を思い留まらせようとしたはずだ。
そうして、ナトラージュは決意を込めてゆっくりと大きく頷いた。
「……私……きっと、彼のことが、好きなんです。きっと……上手くはいかない恋だと思うんですけど、私のせいで彼が誰かとそういう事するのは……絶対に嫌です」
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