06 元恋人

(この前にも、なんだかんだで会ったところだし……別に、もう良いだろ。わざわざ休日に出向いて、礼をする程のことじゃない)


 広い廊下を先に歩くナトラージュの後に続きながら、ペタペタと歩くラスは不満気な様子だ。


 用意した菓子折りを持って、ヴァンキッシュにこの間助けて貰った礼に行こうと、ラスに言ったら「あの派手な男は甘い言葉が息を吸うように口から出てくるんだから、甘い物なんて要らないんじゃないか」と真顔で言った。ナトラージュはしたり顔の竜の額を、思わずペチンと叩いてしまった。


「ラスには、まだわからないと思うけど。こういう事は、ちゃんとしておいた方が良いのよ。なあなあにしておいて、後々問題になるのは嫌でしょう? 助けて貰ったお礼は、その後速やかにきちんとしておくの」


 いまいちこの前に助けて貰った礼を言いに行くのに納得がいっていないラスに、そう言い聞かせながら、訪問先の外交官が駐在している城の別棟に歩いて行くナトラージュは何故だか心が湧き立つような思いを感じていた。


 今日の訪問を、彼に予告してはいない。外交官は視察などで外出することが多いと言っていたし、もしかしたら今向かっている執務室にはいないかもしれない。けれど、居るかもしれない。居なかったら部下の人に、菓子折りを預けて帰るだけだ。


 元箱入り令嬢だったナトラージュも召喚士見習いとなって三年経ち、導師の手伝いで城の中を飛び回ったり、届け物を頼まれたりと、多数の人と話す機会もあった。


 そして、巷に溢れかえる恋愛について、ありがちな教訓なども聞くことも多かった。


 稀に見る美形で色事について百戦錬磨な彼のような人に、周囲にはいない珍しい召喚士の女の子だからと言って甘い事を囁かれ揶揄われても、決して本気にしてはいけないと頭では理解してはいる。


 けれど、どう見ても物語の主役級のような彼の姿を見てときめいたり、なんでもない事を話したりすることで、心の中で嬉しくなったりする分には、別に誰にも迷惑をかけていないはず。


 ナトラージュはヴァンキッシュのような人の、特別な女の子には自分は決してなれないだろう。


 けれど、せっかく知り合いになれたのだから、たまに会いちょっと良い気分にさせてもらうのを楽しむのは、他の誰でもない自分の自由なはずだ。


 リンドンテ王国は、国交のある同盟諸国には王都に大使館も用意している。外交官達に与えられた城の別棟となる駐在所は、国の威信で途方もない金額もかけているのか、かなり立派で見栄えも良い。


 受付の人に軽く挨拶をして、名前と訪問理由を書類に書き込み、目的の執務室に目印を書き込んでくれた簡易的な地図を渡された。


(……なんか……今まで嗅いだことのない、不思議な匂いがする)


 ペタペタと可愛らしい足音を鳴らし付いてくるラスは、くんくんと息を吸いつつ顔を左右に軽く動かした。敏感な嗅覚を持つ彼は、すぐさま異国の匂いを嗅ぎ取ったようだ。


「ここには、どうしても異国の人達が集まっているから……リンドンテでは普通だと手に入らない種類のお香なんかも、置いてあるのかもしれないわね」


 地図を片手に二階へと上がり、そろそろ目的地に到着するというところで、少しだけ空いた扉の隙間から、ぼそぼそとした二人の男の話し声が聞こえた。ナトラージュは背後のラスに、静かにするように身振り手振りで伝えると、自分自身も身を固くした。


「……じゃないか……それよりオペルは、どうなんだ? 俺が集めた情報によると、かなりきな臭いようだな」


「……君に言われなくても、詳しく事態は把握している。言うまでもなく、外交は情報が命だ。それに、自由に動ける自国の情報ほど、集めやすいものはない。国内の部下から逐一、連絡が来るよ」


(これは、ヴァンキッシュ様の声……! もしかして、訪問していた誰かが彼の部屋を出ようとして扉を開いたところで、また話が始まってしまったのかしら……)


 開いている黒い扉の隙間から漏れ聞こえる彼の柔らかな低い声は、ナトラージュが今まで聞いたこともないような冷淡な響きを含ませていた。


「自国の女王の王位が危ないっていうのに、その落ち着き振りはどうなんだ。情のない、冷たい男だな。彼女が王位を継ぐまでは、よろしくやっていたんだろ?」


「……別れた女のその後を、いちいち気にしていたら。それこそ身体が持たないよ」


「別れた女の一人とは言え、女王陛下だぞ。別れた女の数も把握していないだろう、お前さんが言うと洒落にならないな。だが、本当に……それで良いのか。後で後悔したとしても、もう遅いぞ」


「後悔なら、絶対にしない。それに、ルクレティアは何かがあったからって、僕が行かなきゃいけないほど、彼女は弱くない……情報を集めたと言うのなら、君自身良く知っているように、外交官一人が駆けつけたとしても、どうにかなるような状態ではない。彼女には優秀な王配が居るんだから、ルクレティアには無理でも、彼が事態を収拾するだろう」


「そうやって、自分に言い聞かせているのか?」


 微かに笑いを含ませ皮肉気に呟いた低い声に、ヴァンキッシュは特に感情を乗せずに言葉を返した。


「マーヴェリー卿。自分の得にはならない、誰かの過去の恋の残り滓を気にするより、自国を心配をしたらどうだい? ゼントールの脅威はオペルだけの問題じゃない。マゼランダ公国の大公は、ゼントールに傾きつつある」


「……それこそ、余計なお世話だ。バカ野郎」


 唸るような声で彼らの不穏な会話が終わり、ばっと扉が大きく開いた。


 広い廊下には身を隠す場所もない。先ほどの会話の相手だろう、口髭を蓄えた品の良い男性が出てきた。彼は扉のすぐ傍に居たナトラージュを見て、一瞬訝し気に目を細めたが何もなかったかのように、にこやかに微笑んだ。


「失礼。可愛いお嬢さん。こちらの色男には、くれぐれも気をつけた方が良い。君のような、純情可憐な乙女を、ぱくりと一口で食べる恐ろしい魔物ですよ」


(そうしたら、俺があいつを食ってやる!)


 ナトラージュの影に隠れていたラスが大きく口を開いたので、口髭の男性でヴァンキッシュにマーヴェリーと呼ばれていた彼は目を見開き、そして大袈裟に腕を広げた。


「これはこれは……竜が守っている、可憐な乙女か……それでは、私は失礼するよ。可愛いお嬢さん、君の一日が良いものになりますように」


 さらっとお決まりの別れの挨拶をしたマーヴェリーは、淑女に対する正式な礼を戯けるような様子で披露し、片目を瞑って去っていった。


(……え。思わず先が気になって、会話を全部聞いてしまったけど。ヴァンキッシュ様って、女王陛下の元彼なの?)


「こんにちは。可愛い怪盗さん。盗み聞きは、あまり良くないよ」


 さっきマーヴェリーが出てきた扉から顔を出しているのは、室内だとしても輝くような金髪を持つ部屋の主だ。


「ヴァンキッシュ様……! こんにちは……ごめんなさい。あの……聞くつもりは、なかったんですけど……気がついてたんですね」


 しゅんとしたナトラージュを部屋に招き入れるように、彼は扉を大きく開いた。


「嫌な職業病だよ。仕事柄取り扱うのは、極秘の情報が多いからね。どうしても、人の気配には敏感なんだ。僕を訪ねて、ここまで来てくれたの? もちろん。愛の告白なら、いつでも歓迎するよ」


 揶揄うようにそう言うと、彼はラスの尻尾が部屋の中入ったのを確認して扉をきっちりと閉めた。


「ちっ……違います! この前のお礼に、菓子折りを持ってきただけです」


 慌てて手に持っていた四角い箱を差し出すと、ヴァンキッシュはそれを受け取りつつにこにこと優しく笑った。


「こんなに美味しそうなお菓子を、せっかく持ってきてくれたんだし、これからお茶にしよう。僕に会える口実を作って会いに来てくれるのは、すごく嬉しいな。別に理由がなくても、いつでも会いに来てくれて良いよ。ナトラージュなら、大歓迎するから」


 ナトラージュの言葉をさらりと流して、ヴァンキッシュは応接用のソファに座るように促した。


 これから誰か人を呼んでお茶を持って来てくれるのかと、なんとなく思っていたナトラージュは驚いた。なんと、彼は部屋の隅に置かれた鮮やかな模様の描かれたティーセットを使用し、手ずから優雅な所作でお茶を入れてくれた。


「……ヴァンキッシュ様、ありがとうございます。お茶とっても、美味しいです」


 程良いお湯の温度と、完璧な茶葉の蒸らし具合。彼がそれをし慣れている事が、容易にわかった。


「そう言って貰えて、良かったよ。最初は面倒な手順も多いが、コツを掴んでしまうと楽しいね。もし、美味しいお茶を飲みたければ、いつでも僕を呼んでくれて良いよ」


 ラスはナトラージュの隣で、自分たちが持って来たはずの菓子折りの中身を全部食べてしまいそうな勢いで食べ進めていた。


 いつもは量を決められているので、こうして誰かの部屋で甘いものを食べられる時は、ナトラージュが怒りにくいのを知っているからだ。


 その様子を呆れた目で見て、ナトラージュは偶然さっき聞いてしまった事の真偽を確かめたくて、本人に聞いてみることにした。


「あ、あのっ。ヴァンキッシュ様って、女王陛下と……その」


 ナトラージュが口籠もって言えなくなっている言葉のその先を、彼は簡単に理解して苦笑した。


「……ああ。マーヴェリー卿も……あの男、本当に要らない事を言ったな……独身最後の、火遊びの相手に選ばれただけの話だ。女王の昔の男と言う……そういう肩書きを持つ男と付き合えば、優越感を感じると言う人も居るけど。ナトラージュは、興味はある?」


「いっ……いいえ! 全く! 全然!」


(……オペルの女王陛下と付き合っていたって、本当だったんだ! 思っていたより、もっともっと! とんでもない人だった!)


 大きな衝撃を受けている表情になったナトラージュを見て、ヴァンキッシュはふっと微笑み面白そうな顔をした。


「……誰かの情報が気になり始めると、恋のはじまりという可能性も高いよね。少しは僕に興味を持ってくれたら、良いな。可愛い召喚士さん」

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