05 小妖精

 結局、彼個人の主張としては痴情の縺れではない事情で匿っていた外交官は、無言で圧を放つ従兄弟に連れられて行ってしまった。


(……顔も覚えてない女性に、会った早々に花瓶を投げられるって……何がどうなったら、そんなことになるのかしら)


 ナトラージュは白い鍵杖で黙々と地面に召喚陣を描きながら、今までの自分の人生では決してあり得ない出来事続きだった昨日のことを思い出し、なんとも言えない気持ちになった。


 確かに壮絶とまでに言えるほどの色気を振り撒く魅力的な男性ではあるから、年頃の女性として彼が近くに居たら条件反射で胸が大きく高鳴ってしまう。


 けれど、彼は数えればキリがないほどの多くの理由から、決して自分が好きになってはいけない人であろうということも、ナトラージュはきちんと理解はしていた。


(もし、彼に恋したとしたら、決して報われない地獄に真っ逆さま。住む世界が違い過ぎるし、きっと竜のラスが傍に居る召喚士が物珍しいだけだわ。すぐに飽きるわよ)


 幻獣を召喚する召喚陣を描く際には、どうしても広い地面が必要になる。それに、鍵杖で辿った跡がより綺麗に残った方が良いから、粘り気のある地質が理想的だ。


 本日は休日なので、見習いの宿舎にほど近い城の敷地内で、ナトラージュは召喚術の自主練習をしていた。付いてきたラスは、昨日遅くまで本を読んでいたらしく、暖かな芝生の上に寝転ぶと心地よさそうにお腹を出して昼寝をし始める。


「一階層目の鍵を描いて……その後に種族の指定、固体の指定は無作為ね」


 初歩の初歩なのだが、口に出して復唱する。もしこれが優秀な姉ならば、あっさりと一回で記憶してしまうだろうが、要領の良くないナトラージュは何回も何回も反復して繰り返すことによって覚えていくしかない。


(今日はまず、ピクシーを呼び出してみようかな。召喚するの久しぶりだし)


 鍵杖をまっすぐ持つと、正円を描けるように体を傾ける。これも、慣れないと難しく、正確に描ければ描ける程に、召喚への強制力が増す。


 四十階層あるという幻獣の世界の扉の、今では描き慣れてしまった一階層目の鍵を描く。次は種族、小妖精(ピクシー)の模様。これも、単純だからすぐに描くことが出来る。その中の個体を無作為に選ぶ模様は、いつも描くから描き慣れている。


 闘竜のような強い種族となると別だが、無数に存在するピクシーのような小型の幻獣を固体識別をすることは難しい。


「……ここで、扉を叩く」


 ナトラージュは我知らず小さくつぶやいて、白い鍵杖でトントンと三つの円が重なった場所を叩く。そうすると、召喚陣全体が白く輝き出した。


 召喚は、成功したようだ。


 まずは一つ目の一階層の鍵、二つ目の小妖精、三つ目の無作為の円も順繰りにゆっくりと光を帯び始める。誰かが呼びかけに答えた証拠だ。


 ピクシーは幻獣界の中で一番に簡単な召喚相手だ。それでも、まだまだ見習いのナトラージュにとって、自分は召喚師だと自覚出来る貴重な瞬間。


 召喚陣全体を包んでいた真っ白な輝きが収まると、真ん中に羽根が生えている小さな女の子が見えてきた。幻獣界の入り口付近にあるという、広大な花畑に住むという小妖精ピクシーだ。


(こんにちは。ナトラージュ。お招きありがとう)


「こんにちは。こちらこそ。招きに応えてくれて、ありがとう」


(とっても、良い天気ね。それに良い風!)


 今回呼びかけに応えてくれた彼女は、性質が明るくて機嫌も良さそうだ。何枚もに重なった半透明の羽根を、はためかせて踊る。


 彼女を呼び出した召喚陣を壊さないようにナトラージュは、慎重に後ずさった。ゆっくりと移動して、芝生で寝ているラスの隣に座ると、歌いながら踊る陽気なピクシーの踊りを鑑賞することにした。


(すごく綺麗……心が洗われる光景って、こういうことを言うのかな……)


 ピクシーが羽根を羽ばたかせる毎に、キラキラとした光が空気に舞った。もし、召喚士にならなければ、これは決して見ることがなかった。


 うっとりと見惚れていると、予想もしなかった声が突然聞こえる。


「やぁ、ナトラージュ。取り込み中にごめんね。でも、早く君の顔が見たくて」


 ナトラージュは、いきなり聞こえた声に素早く反応して、現れた彼の方を向いた。


「……ヴァンキッシュ様……こんにちは」


 呆然とした様子で目を瞬かせると、そこに居るのは、にこにこと邪気のない笑顔をしている美貌の外交官だ。


(昨日会ったばかりだし……別れてから一日しか経ってないぜ)


 昼寝中だったはずのラスがしっかりと閉じていた瞼を半開きにして、呆れたようにヴァンキッシュを睨め付けた。


「細かいことは、あまり気にしない方が良い。ラスも怒ってばっかりだと、長生き出来ないよ」


(俺の寿命を、お前が心配すんな)


 百年単位で生きる竜に随分な言い草だと、ラスは呆れた声を出した。


 ヴァンキッシュは地面に描かれて光を放っている召喚陣に目を向け、軽く息をつくとそうする事が当たり前のようにナトラージュの横に腰掛けた。


 ラスはそれを確認しつつ、億劫そうにあくびをしてから、もう一度目を閉じて昼寝の続きをすることにしたようだ。


「何か、空気がキラキラと輝いているのは見えるんだけど……もしかして、そこに何か居るの?」


 小妖精ピクシーのような弱い魔力しか持たぬ幻獣は、人界の魔力を持たぬ彼の目に映らなかったようだった。


「……ええ、あの、この鍵杖に触れていただけますか?」


 魔力のない一般人にも幻獣の姿が見えるようにするには、そうすれば良いと師匠アブラサスから聞いたことがある。ナトラージュは肩に置いて両手で持っていた鍵杖を隣に座るヴァンキッシュに向けて、差し出した。


 豪胆な彼はそれが何かもわからないというのに、特に躊躇うことなどもなく鍵杖にさっと触れた。その瞬間に、ヴァンキッシュの表情は目に見えて嬉しげに輝き、ナトラージュの方を向いて微笑んだ。


「こんなに美しいものを見せてくれて、ありがとう。まるで子どもの頃に夢見たおとぎの国に、迷い込んだみたいだ。本当に素晴らしい……小さくて可愛い妖精だな」


 女性に逃げられたとしても、特にこれと言った反応をすることもなかった彼が今は嬉しいという感情を剥き出しにして、まるで子どものようにはしゃいでいる。


 そんな様子が微笑ましく思えて、ナトラージュは照れつつはにかんだ。


「どういたしまして、ヴァンキッシュ様。この妖精は大体気まぐれなんですけど、今日呼びかけに応えてくれた彼女は、とてもご機嫌が良かったみたいですね」


「……召喚された幻獣って、どうやって帰るの?」


 ヴァンキッシュは、人生で初めて見ただろう発動中の召喚陣にも興味津々な様子だ。


「あの地面に描かれた召喚陣を壊すと、無条件に帰ります」


 ナトラージュは先ほど自分が描いた薄茶色の地面に小さく描かれた三つの正円と簡単な模様を指差した。不思議な力を持って、溝からじわじわと滲み出るような白い光がこぼれている。


「……想像していたより、単純な図形なんだね」


「この小妖精……ピクシー達は、人界の一番近くにある入口付近に居るので。召喚陣も小さくて簡単なもので、済みます。もし、ラスのような闘竜を呼び出そうとすれば、もっと大きな召喚陣を描かないといけないでしょうね」


 ナトラージュの話を聞いてヴァンキッシュは何度も、納得するように頷いた。


「そういえば……前から不思議だったんだけど……」


 興味深そうな視線がラスに注がれた。


「なんでしょう?」


「このラスだって……いつまでもこうして幼いままではないよね? これからどうやって、生活して行くのかなと思って」


 彼が不思議に思うのも無理はない質問に、ナトラージュは苦笑した。召喚士見習いであるナトラージュにとっては、当たり前のことだが世間一般にはあまり知られていない。


「人界で生きることを契約した、|縛られし者(リガート)は、こちらでの生活は人型になるんです。きっと今は幼いラスも、それがいつの事かはわからないですけど、私の部屋に入れなくなる前には人型になることが出来るようになるはずです」


「人型に。なるほどね」


 導師ほどに修行を積んでいる召喚士であれば、|縛られし者(リガート)は複数居るはずだ。


 けれど、城の中でラスのように、幻獣の姿そのままで召喚士に纏わりついている姿を見られなかったのはそのためだ。


 ラスは生まれたばかりで幼く人型になれないので、特例としてこの姿のままで城に出入りをしているが、本当は人型を取らないと入れてもらえない。


「導師ルビナード様の|縛られし者(リガート)に、ラスと同じ種族の闘竜が居るのですが、目の色は変わらずに髪の色は鱗の色でした。ラスも人型になれるようになるのが、今から楽しみです」


「……僕の国のオペルのことを、ナトラージュはどれくらい知っている?」


 ナトラージュは唐突なヴァンキッシュの質問に、きょとんとした表情になった。透き通る緑色の瞳は、まるでその中に妖精が居るかのようにきらきらと輝いている。


 ナトラージュの中では、オペルという国はリンドンテの南の海岸沿いに位置し、ヴァンキッシュがいつも身に付けているような派手な衣装を好む文化があるという事だけ。


「……あまり、知りません」


 首を振り正直に答えたナトラージュに、ヴァンキッシュは目を細めて微笑んだ。


「……父は、オペルの名のある商人でね。この国に仕事で訪れた際に、貴族令嬢だった母と恋に落ちた。駆け落ち同然に家を出たそうだが、どうしようもない浮気者だったらしくて、我慢出来なくなった母は早々にこちらに帰って来た。リーダス侯爵家に嫁いだ仲の良い妹であるグリアーニの母親の邸に身を寄せ、僕を産み育てていたんだが、僕が六つの時に流行病で亡くなってね。長い間復縁を望んでいたが、拒否されていた父がどうしても僕を引き取りたいと申し出てきた。正直、イヤだったよ。大好きだった母を苦しめた父親が、当時とても嫌いだったからね。けれど父がもし帰りたくなったら、すぐに帰れば良いからという約束で、僕をオペルに連れ帰ったんだ」


 この人の父親なら間違いなく美青年に違いないと、ナトラージュは確信した。美々しい容姿を持つ男性がもし近くに居れば、周囲の女性が群がり放っておくはずがない。


「母の死でかなり落ち込んでいたし、仲の良い幼馴染からも引き離されて僕は荒れていた……だが、オペルは華やかな町でね。一人で落ち込んでいることが、バカらしく思えるんだよ。街を彩る色も南国らしく鮮やかだし、国民は総じて楽天的で陽気だ。いつか、君を連れて行きたいな。別に今からでも、良いんだけど……行く?」


 いきなり自国にナトラージュを連れて行こうと提案して来たヴァンキッシュに、ナトラージュはぽかんとした表情を見せた。


「……えっと……あの、けれど、ヴァンキッシュ様のお仕事は、どうなさるんですか?」


 あまりにも驚いて、上手く声が出ない。


 けれど、言い終わって気がつく。口の上手い彼のことだから、きっと口説きの常套句だ。まともに受け答えをすれば冗談だよと笑われるかもしれない。


「……さぁね。だが、仕事って誰がいなくなっても、不思議と回っていくものだから。本当に必要とされている存在なら、いつか代わりが現れる。そういうものだよ。別に僕が居なくても、どうとでもなるだろう」


 ヴァンキッシュはあっさりとそう言ってのけると、驚きの余り固まっているナトラージュの顔を覗き込み、華やかな笑みを浮かべた。


「もし……ナトラージュが、それを望むのならオペルに連れて行ってあげる。僕も大人しく、商人の父の後を継ぐことにするよ」


 彼の言葉を聞いていると、太陽に愛された国が目に浮かんで来た。彩り鮮やかな街の幻に、晴れやかな気分になる。


「……冗談を言って、揶揄わないでください。とっくにご存知だと思いますが、私、そういうの慣れてないので」


 ムッとした様子でナトラージュが唇を尖らせると、彼は肩を竦めた。


「それが冗談じゃないんだよ。本当に、オペルに連れて行きたいんだけどな。可愛い召喚士さん」


 絶世の美男子からの甘い甘いお誘いは、もし、ラスに選ばれず、召喚士になることもなければ、躊躇うこともなくその手を取ってしまったのだろうか。


(……もし、なんて考えても意味はない。だって、現実は決してそうはならないもの)


「……でも、私はこの王都からは、離れられないので」


「どうして?」


「……ラスは……食物から栄養を取って成長している訳ではないんです。クラリッサ城の地下に眠る、リンドンテ王国の守護聖獣ロスアラミトスの力を貰って居るんです。ラスの親からも、くれぐれも王都からは離れないようにと、聞いています。あの子は、まだ生まれたばかりですし……まだまだ成長するにも、力は必要です」


「……ということは、聖獣ロスアラミトスは本当に存在するんだね」


 ヴァンキッシュは、ふうっと大きく息をついた。


 ラスを連れている召喚士であるナトラージュがそう言うのなら、まるで夢物語のような伝説は真実なのだと悟ったのだろう。


 リンドンテの建国の王と契約を交わした、伝説の幻獣。最上位に位置するその力は伝説になる程強く、慈悲深き竜の王の一人。


「……そして、ラスは彼の血に連なる一族の竜なんです。だから、生まれた後、私の寿命が果てるまでの数十年をこちらで過ごして、元の世界に戻ることになります」


 ラスとの契約は、ナトラージュが死ぬまで。だから彼が戻るまでの正確な時間はわからない。きっと寿命の長い幻獣達が住まう彼の世界では、瞬く間の出来事でしかない。


「生まれたばかりなのに、別の世界に社会勉強とは、向こうの世界は随分と教育熱心だね」


 ヴァンキッシュは皮肉るように、そう言った。


 生まれたばかりの我が子を手放さねばならない契約とは、どんな理由があるにせよ、人界での感覚ではあまり褒められたものじゃない。


「こちらとあちらでは、時間の感覚が全く違うようなので……それに、そういう善悪に対する考え方も、人とは違うでしょうけど」


 ラスは要領も良く、とても頭が良い。こくこくと水を飲み下すように、こちらの世界のことを吸収していく。


 ナトラージュが少しだけ心配なのは、彼があちらの世界に戻った時だ。生まれてからずっとこちらに居たと言うのに、あちらですぐに順応出来るものなのだろうか。


「……オペルに連れていけないのなら、仕方ないけど置いていくしかないな」


 その言葉に驚いたナトラージュが何か言う前に、ヴァンキッシュは彼女に向けてにっこりと笑った。


「彼が大人になるまで待っても、構わないけどね。僕は」

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