第36話 伝言ゲーム ■麗日千真

 ぺたぺたと。ぺたぺたと、手のひらが壁――いいや、扉に触れた。鉄製の、冷たくも熱くもない扉。けど、今の私にはどうしてだかとても冷たく思える扉がそこにあった。

 絶望感。

 死という言葉が私の頭を過ぎる。

 そこから先が。そこから先がない。

 どうして? なんで? 誰が押していた? 姫? 姫に何かがあった? どうしよう。大丈夫だろうか? 姫? 姫は? 違う。そうじゃない。違くって。なんだっけ。私はなにを、

 声が出ない。意識が朦朧としている。目の前の景色がゆらゆらと揺れているような気もするんだけど、真っ暗なためそれすら分からない。方向感覚さえ掴めない。

 バタン、と床に倒れる――、寸前、腕の力でなんとか踏ん張って回避。

「ふっ、くっ!」

 力を振り絞る。その僅かな隙間に爪を引っ掛け、どうにかして扉を開けようと試みた。ぎりぎりと。ぎりぎりと歯を喰い縛って力を入れた。掠れるような音が喉から漏れる。痛い。何かに引っ掛けたときみたいに、今、私の爪は血色を失ってピンクから白へと変色しているに違いない。人差し指から小指まで。親指除く全部が全部。

 ははっ、びくともしない。ぴくりとも動かない。自動ドアなんてちょっと力を入れれば開きそうなものなのに。流石中津先生だ。こういう不正は許してくれないらしい。

 ……扉を開けたとして、私はどうするつもりだったんだろう。飛び降りでもするつもりなのか。死んでしまう。死ぬ……。違う……声を上げればいい。頭が働いてない。冷静になれ、冷静になるんだ、私。

「お、おーい! 恵美寿! 空穂! 姫! 先生! ね、ねえっ! ねえったらあ! た、たすけて! たすけ、て……!」

 最後の方は萎むようになっていた。

 まるで扉が全てを拒むように。私の声を反響させていた。全く届いている気がしなかった。意味のない行為、どころか、こんな状況で体力を使うのは自殺行為に思えてきた。

「……」

 幾分冷静になってきた気がする。

 これが峠は超えたってやつだろうか。

 ランナーズハイってなんだっけ。

 体にべたべたと纏わり付く汗は不快だったけれど、今はもう、最早汗なんて出ないくらいに汗をかき過ぎていた。

 とっくのとんまに。私はそうなっていた。

「戻ろう」

 天気がなんだ。酷暑がなんだ。

 私は既成概念の破壊神、麗日千真様だ。常識を覆せる存在なんだ。

 子供は風の子、元気な子。ちょっとくらいの無理だって、私くらいの年ならへっちゃらなんだ。そうだ。大人になったときの武勇伝になる。そうやって、子供時代の無茶を得意げに話す大人はたくさんいる。私の周りにもいる。親戚の集まりとか。どこにでも。

 そうだ。冷静になってみれば、私がボタンを離れたら玉藻先生はどうなる? 玉藻先生だって洞穴の中だ。しかも鉄の穴。私以上に暑いかもしれない。人のことを考えないで、何を自分だけ。戻らなきゃ。戻らなきゃ。戻らなくっちゃ。

「ふっ、くそっ」

 その場で半回転。

 暗闇が広がっている。

 暗くて見えていないのか、目が霞んで見えていないのか。判然としなかった。

 今からまたこの暗闇を進んで、あの日射の下に戻るのかと思うとげんなりした。

 けれど。やらなきゃいけないんだ。

 だって、中津先生の新作は喉から手が出るほど読みたいし。

 私が言い出しっぺっていうのもあるし。

 だけど。だけど!

 こんな楽しいこと、誰が途中で放り出すか。


 遊びじゃないんだよ、こっちは。


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