第11話
「おう、高ちゃん、坊!」
「あっ、竹さん」
「ご苦労さんッス」
高瀬と柴田がT大法医学教室の事務室に駆け込むと、そこには既に竹山が来ており、室内にはコーヒーの匂いが立ち込めていた。
「待ってたよ」
笑顔で立ち上がった月見里は、ワイシャツの上に白衣を羽織っていた。どうやら、今日は栞がコーヒーを入れているようだ。その証拠に、事務室の奥からカチャカチャと食器が軽くぶつかる音がした。
「彼女が──、西川小春が喋ったんだな?」
高瀬は親友のにこやかな表情を見ると、そう言って口の端を上げた。
「まあね。取り敢えず座って? 今、栞がコーヒー入れてるから、飲みながら話そう。クッキーもあるけど、どうだい?」
「おぉ~い。勿体振るなよ、月見里」
直ぐ来るようにと連絡を入れておきながら、のんびりと構えている月見里に、高瀬は抗議した。
「まあまあ。ところで、修理店を当たってたんだって?」
「ん? ああ。間宮に会って、ちょっとばかし面白い物を見つけたんでな」
「面白い物?」
「野郎、俺の餌に食いついて来て──。聞きたいか」
「聞きたいね」
17年来の親友は、顔を見合わせると意味深な笑みを交わした。
「なるほど、ロッドホルダーとバンパーね」
「どうだ?」
「実に面白いよ」
高瀬の話を随分と気に入ったらしい。月見里は何度も面白いと繰り返した。
「で? 俺のコーヒーはもう空なんだが。そろそろセンセイの講釈でも聞かしてくんねぇかな」
そう言うと、高瀬は月見里の目を覗き込み、本題を切り出した。
「どうなんだ。西川小春は──」
「他殺だ」
月見里はそう高瀬の言葉に被せると、コーヒーカップを両手で包み込んだまま淡々と続けた。
「彼女は海中で死んだんじゃない。淡水で殺害された後、海中に遺棄されたんだ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、月見里。海じゃないって?」
自殺幇助か他殺か。それについては曖昧であったが、第三者の介入は皆が考えていたことだった。
誰もが耳を疑ったのは「現場が海ではない」と云う事だ。
西川小春からは、海中で死亡した事を示すプランクトンが発見されている。なのに、月見里は淡水であると言うのである。
「そうだよ。もうひとつ言うなら、自殺幇助も有り得ない。他殺に見せかけるならともかく、自殺でありながら、自殺に見せかける偽装は必要ないし、現場を変えると言う、危なっかしい事はしない筈だ。落ち葉を隠すなら山の中って言うでしょう。淡水で死亡した人間を、海水へ沈めるのはリスクが大きい」
ならば、なぜ彼女の体にプランクトンが認められたのか。
高瀬は唸った。
「どう言う事か説明してくれ」
「勿論」
月見里は頷いた。
「先ず、前回の解剖で死因を海中での溺死とされたポイントは、幾つかの状況証拠と、遺体に争った痕が無く、肺に海水とプランクトンの進入があった。これだったね」
「ああ。そうだ」
更に、亡くなった西川小春がプライベートな日記に厭世的な文章を綴っていた事や、実際、交際していた男性──間宮との間にトラブルがあったが、間宮には完璧なアリバイがあった。その為、事案は自殺と断定されてしまったのである。
竹山が当時捜査に参加していれば、直ぐにあのロープワークから不自然さに気付いたかもしれない。だが、竹山はその日ぎっくり腰で入院をしていた。
更に付け加えるなら、この事案も検視官の臨場がなかった。警察官が代行したのである。
本来なら、現場に検視官が臨場して遺体を検めるのが筋であるのだが、それが為されていなかった。ここ数年増えてきた悪実態である。
「余りに条件が揃い過ぎてた。この情報が……残念だけど、監察医の油断を招いたといってもいい」
ここで十分な解剖とサンプルの採取分析、そして血液検査をしていれば──。月見里は同じ監察医として、それが残念でならなかった。
「あってはならない事だけど、先入観を持ってしまったんだろうと思う」
そこまで言うと、月見里は自分のデスクへと向かい、プラスティック製の模型を手に戻ってきた。
「実は、呼吸が停止してからも、長期に亘って海中に沈んでいれば、肺に海水が入り込むことがある」
「そうなのか?」
「うん。それと、海中で死亡したのなら、肺だけではなく、各臓器や骨髄にまでプランクトンを認めなければいけないんだ。だけど、僕が診たところ、彼女にはそれがなかった。また、本来なら──。つまり、海中で死亡したならと云う事なんだけど、その場合は、血液が濃縮され、左心血──」
言って、手にした模型を応接セットのテーブルに載せた。丁度大人が手を広げたほどの大きさで、胸に対して平行に2つに切断した形の心臓模型だ。
「このように、心臓は四つの部屋に分かれているんだけど、その左下。そちらから見ると、向かって右側の下に位置するこの部分。この左心室の血液の比重が増大するにも拘らず、彼女は逆に血液が希釈され、比重が低下していた。この事から、海水ではない。との証明になる」
「ふむ」
頷いたのは竹山だけだった。
柴田は魂を抜かれたようになっており、高瀬は両手でガリガリと頭を掻いている。典型的な、理科音痴の拒絶反応だ。
「そうだ、文孝。海水の成分を知ってる?」
「あ~? そりゃあ……塩と水。……だろ」
「まあ、そうなんだけど」
予想通りの答えに月見里は苦微笑を浮かべたが、気を取り直して続けた。
「もう少し詳しく言うと、海水には『塩化ナトリウム』、『塩化マグネシウム』、『硫酸ナトリウム』、『塩化カルシウム』、『塩化カリウム』が含まれているんだ。無機化合物だね。そして、彼女の──、小春さんの血液中からも、この海水と同じ成分が検出された。この中でも、今回注目すべきは『硫酸ナトリウム』だ」
「先生」
「ああ、有難う」
月見里は話を中断すると、栞からビーカーを受け取った。縁が僅かに曇っている事から、中に入っているのが湯である事が見て取れる。
それを模型の隣に置くと、月見里は再び話し始めた。
「実はね。彼女の血中から、先ほど言った海水の成分と一緒に『炭酸水素ナトリウム』も検出されたんだよ。これも非常に重要な意味を持つ」
「タンサンスイソナトリウム……」
柴田は繰り返してみた。
炭酸と言われれば、シュワシュワとした飲み物。水素と言えば、爆発する危険な化学物質。ナトリウムと言えば塩――。
柴田の頭の中で、しょっぱくて危険な炭酸飲料が出来上がった。
「さて、海水の成分の1つである『硫酸ナトリウム』と、一緒に検出された『炭酸水素ナトリウム』。この二つを含むものは何か」
言いながら、月見里は白衣のポケットから小さな袋を取り出すと、中身を出して見せた。
「竹さん。これ、なんだか分かります?」
「……ラムネにしちゃあ、大き過ぎますな」
竹山は首を傾げた。見た目は確かにラムネであるが、色は褐色で、直径5センチ近くある。仄かに甘い匂いもした。
「竹さんも今度お使いになるといいですよ。疲れが取れるそうですし、ひょっとしたら、ぎっくり腰にも効果あるかもしれませんよ?」
「へ?」
きょとんとしている竹山の目の前で、月見里は大きなラムネをビーカーの中へ入れた。
途端にそれはシュワシュワと音を立て、細かな気泡と甘い香りを発しながら溶け始めた。
「あっ」
柴田が声を上げた。
「入浴剤ですか?」
「そう。入浴剤。因みに、大人ちっくカフェモカ気分」
「甘ったるい匂いやなぁ。色は鉄泉みたいやけど」
言いながらも気になるらしい。竹山は何度も匂いをかいだり指を突っ込んだりしている。
それを横目で眺めながら、高瀬は口を開いた。
「それに、さっきの……ええっと、何だ。硫酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウム……ってのが入ってんのか?」
「正解」
月見里は微笑んで見せたが、直ぐに表情を引き締めた。
「彼女は入浴剤入りの水。恐らく浴槽で溺れ、絶命した」
絶命。
ビーカーの中でシュウシュウと音を立てていた入浴剤は、紙のように薄っぺらになって浮き上がると、まるでその言葉に合わせるかの如く、スッと放射状に広がるようにして消えた。
「抵抗の痕もなく、睡眠薬とアルコールが検出されているから、意識が無い状態でと考えるのが自然だろうね。となると、ご遺体……死亡した小春さんが一人で歩く訳がないから、海中で発見されたとなれば、他殺の線が浮かんでくる。つまり、浴槽に沈められた可能性だね」
間宮秀夫。
その場の全員の脳裏に、西川小春が交際していた男の名が浮かび、竹山に至っては、これまでの月見里の話で既にある事に思い至っていた。
間宮のアリバイは無意味だと。
「先生」
竹山の呼び掛けに月見里は頷く事で肯定した。
「アリバイの定義は、犯罪が発生した時、被疑者がその現場にいなかったという証明。不在証明です。そうだね? 文孝」
「そうだ」
「この場合、『死亡した現場』と『遺体発見現場』が一致しないと言う事になる訳だから、発見現場にいなかったと言う彼のアリバイは何の意味も持たない」
この一言で、高瀬と柴田も理解したらしい。
「なるほど」
高瀬はそう言って腕を組むと、満足そうに、しかし嘲るような笑みを浮かべた。
「逆に言えば、女が死んだのは、ヤツの部屋である可能性も出て来るな」
「彼女が行方不明になる日に、二人は会う約束をしていた。そうだったね?」
高瀬は頷いた。前日に通話した記録もあり、約束をしていた事は間宮も認めている。
「彼女は──。約束通り、彼の部屋に行ったんだ」
そして殺された──。
「だとすりゃ、間宮が部屋で電話を取った、ピザの配達員が在宅を確認したと言うのも頷けるな」
言って高瀬は静かに息を吐き、竹山はゆっくりとソファーの背に体を預けた。
柴田は目を擦り、鼻を啜っていた。
彼女はどんな思いで間宮の家を訪れたのだろうか。やり直せるかもしれないと言う、一縷の望みを抱いていたかもしれない。
ふっと区切りでも付けるように息を吐くと、月見里は一枚の紙をポケットから出して広げた。
「これ」
A4サイズのコピー用紙。
そのトップに書かれた太字が、3人の目に飛び込んできた。
──ミナミ建設、談合発覚
まさに柴田が携帯で受信したニュースだった。
「ミナミ建設の談合が発覚したという記事です。新聞社のWEBサイトで、速報として公開されていました。東京都の都市整備局に名を連ねる議員との談合に出席していた営業部長並びに、本社、支社人事部の事情聴取が始まるとあります」
高瀬はコピー用紙を手にすると目を通し始めた。携帯に配信された概要より幾らか詳しく書かれている。
隣に座っている柴田も、首を伸ばして覗き込んできた。
「今頃二課は大騒ぎでしょうね」
「だろうな」
ミナミ建設の内偵の話は聞いたことがない。きっとノーマークだった筈だ。
「その談合が行われていたとされる日付と時間を見てくれるかな?」
「日付?」
言われて目を落とした高瀬は、目を剥いた。
──5月13日午後7時から10時頃。
「おい、これ……」
「そう。間宮氏が件の彼らと一緒にいたと言い、彼らもそれを証言している日、時間だね」
「そうか!」
パン!
竹山が膝を打った。その顔はおこりが落ちたかのようにスッキリと、そして生き生きとしていた。
「ヒゲと一緒やったなんて事がバレれば、彼らも苦しい立場に立たされるって事や!」
「ヒゲ?」
「社会的に地位のある人間の事や。今の場合はこの議員やな」
柴田にそう言って、竹山は「そう言うことですな?」と、月見里を見た。
「ええ。結果的に会社の人間、間宮氏双方がアリバイに相手を利用したと言う事でしょう。そして、遺体の処分は、その日に行われたに違いありません」
「一人でか?」
「間違いないと思うよ。ほら、さっき、車の話してたよね。あれでピンと来たんだ」
バンパーの傷。
タイヤの位置から、外側に向かって横向きに付いた傷。凹み。そして、上方向へと外れていた。
バンパーの破損状況を前置きして、月見里は続けた。
「遺体を自殺かのように偽装して遺棄した。それは竹さんが前に言ってた方法で間違いないと思う。浮き上がらないよう重い錘を使いつつも、彼女に可能な方法。その方法で自ら命を絶ったと言う風にしたかった。ただ、遺体は自分で動けないから、犯人が最初から遺体を端へセットしておく必要がある。けど、その為には、ブリッジを固定する為に、後方を抑える必要もあるよね」
「車を使ったのか!」
月見里は首肯した。
「タイヤだ。恐らく前輪で押さえていた。そして、全ての準備が整った所で、バックした。犯人も前進すれば危険なことが分かっていただろうからね」
「それでバンパーが」
遺体の重みでブリッジが跳ね上がり、バンパーを直撃した。その勢いでバンパーが外れ、不可解な傷を残したのだ。
「バンパーの傷とブリッジを照合した方がいい。それが間宮氏を拘束する為の物証になる筈だよ」
月見里の言葉が言い終わるより先に、高瀬は柴田の襟首を引っ掴み、立ち上がっていた。
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