第9話

 連続婦女暴行殺人事件の解剖を全て終えた月見里が一人事務室でコーヒーを啜っていると、ドアの外で咳払いが聞こえた。

 ふと見れば、ドアの擦り硝子に、落ち着きなくウロウロしているボサボサ頭が映っている。その影に見覚えのあった月見里は、くすりと笑うとドアを引いた。

「やあ」

 声を掛けると、予想通りの人物が背を向けたままビクッと肩を上げ、そろそろと振り返った。

 アイロンの当たっていない白衣を引っ掛けた長身の男。櫛も入れていない寝癖だらけのボサボサ頭に、夜でも外さない指紋だらけのサングラス。そして、揉み上げからつながった無精ヒゲ。

 学者らしくない風貌である反面、学者以上に学者らしく自分に手を掛けない彼は、月見里が大学時代をともに過ごした友人であり、現T大医科学研究所・病理研究室教授、変人マッドサイエンス、ふんどし太郎こと墳堂慎太郎である。

「……なぜいる」

 月見里の在室が気に入らないらしい。墳堂は眉間に皺を寄せると、片眉とサングラスをくいっと上げた。

「う~ん。ここ、一応僕の職場なんだけど」

 至極当然の返答に、墳堂はウッと声を詰まらせると、プイッとそっぽを向いて、後ろ手に持っていた物を突き出した。

「ほらッ。頼まれてたヤツだ」

 つっけんどんにそう言って墳堂が月見里に差し出したのは、A4サイズの医科学研究所名入りの事務封筒と、マーガレットを中心に作られた清楚な花束だった。

「……花は頼んでないけど」

「誰がお前にやると言った。それは……」

 墳堂は口をもごもごさせると、体に似合わぬ蚊の鳴くような声を発した。

「深田さんに……」

「ああ、ありが──」

「お前が礼を言うな!」

 頭突きを食らわさんばかりに顔を近づけ月見里の言葉を遮ると、墳堂は白衣のポケットの手を突っ込み、踏ん反り返った。

「ハッキリ言って、ウチも忙しいんだ。あんまり仕事を回してくるなよ。全くお前は、急ぎのブツとなると直ぐ俺のトコに回して来る。越君にイヤミを言われるのは俺だぞ。今朝だって……」

 そこで墳堂は准教授の越真樹女史の冷ややかな目を思い出したのか、ブルッと身震いをし、二の腕をさすった。

「怖かった……」

「ゴメンゴメン。ホントに手が足らなかったんだよ。でも、君がわざわざ来るとは思わなかった。珍しいね、君がこっちへ来るの」

「そりゃ、口実がないとなかなか」

「遠慮しなくていいのに」

「……あのな。言っとくが、俺が会いたいのはお前じゃないぞ? 俺は──」

 墳堂は「あ」の口のまま固まった。見る間に顔が赤くなっていく。

「墳堂……。大丈夫?」

「いかん。危うくお前の口車に乗るとこだった」

 そう言うと、墳堂は早鐘のようになる心臓を押さえた。あと一歩の所で、月見里に自分の想い人の名を聞かせてしまうところだった。

 いや、もう既に口にしてしまっているかもしれないが、月見里は鈍い。恐らくバレてはいない筈である。

「兎に角」

 墳堂はピッと背筋を伸ばすと、ドアノブに手を伸ばした。

「頼まれたことはやったからな。もう回すなよ」

 そこまで言ってドアを半分閉める。

「ウチの越君が忙しいって言っても、お前のトコのだけは特別だ」

 更に閉める。ドアの隙間から、サングラスが覗いた。

「回すなよ」

「なんかよく分かんないけど。……回して欲しいんだね?」

「回すな」



 墳堂がドアを閉めると、月見里は萎れないよう花を生け、それから封筒を開いた。

 墳堂に頼んでおいたのは、昨日、西川小春の再解剖をした時に採取した血液の分析だ。

 法医学教室の検査室は、件の分析で手いっぱいだった。そこで月見里は気心の知れた墳堂に分析を依頼したのである。

 その結果を記した書類を広げ目を通していた月見里は、ある部分に目を留めた。


・クアゼパム

・エチルアルコール


 これは睡眠薬ドラールと、一緒に摂取したアルコール。


・塩化ナトリウム

・塩化マグネシウム

・硫酸ナトリウム

・塩化カルシウム

・塩化カリウム


 これらは海水だ。

 しかし──。

「炭酸水素ナトリウム……」

 それが何なのか分かっているのに、何に使われていた物だったかが出てこない。

 月見里は目を閉じ、視覚からの情報を遮断すると、解剖で疲れきった神経に鞭打ち、脳内のデータベースを検索した。

 暗闇の中、光を帯びた化学式が、これまで見てきた様々なサンプルと共に、映画のエンドロールの如く下から上へと流れていく。

 と、再び背後のドアが開いた。

「あ。戻ってらしたんですね。すぐにお茶入れます」

 そう言ってパタパタと入ってきたのは、月見里の秘書、深田栞だった。胸に大きな買い物袋を抱えている。どうやら買出しに行っていたらしい。

 月見里は検索を一旦中断すると、栞の荷物に手を伸ばした。

「随分大きな荷物だね。持つよ」

「すみま──」

 言いかけた言葉と共に、栞は手を引っ込めてしまった。ほんの一瞬だったが、月見里の手が栞のそれに重なった。原因はそれだった。

「とっとっと……」

 月見里は、落ち掛けた袋を何とか抱え込み、更に、袋の口からこぼれた箱を、お手玉でもするのように片手で何度か跳ね上げてキャッチすると白い歯を見せた。

「セーフ」

「すみません」

 栞は真っ赤になった頬に触れた。


──熱い。


 たった一瞬のうちに、そこは熱を帯びていた。きっと、熟れたトマトのように赤いに違いない。それを見られたかと思うと、手が触れた時以上に、心臓が反応したが、幸か不幸か、月見里の視線はキャッチした箱に向けられていた。

「……お菓子?」

「いえ、あの……入浴剤です」

 箱には、女の子が喜びそうな数種類のカフェドリンクの写真が配されている。

 月見里は物珍しそうにそれを眺めていた。

「ほんわかカプチーノ……、乙女ちっくキャラメルマキアート……」

 ラインナップを改めて確認し、月見里は眉尻を下げた。

「栞、コーヒーに浸かるの?」

「まさか。フレーバーバスですよぅ」

「フレーバーバス?」

「香りを楽しむんです。錠剤を溶かして。それに、本物のコーヒーじゃなくて香料ですし。新発売なんで、使ってみようと思ってついでに……」

「ふぅん。変わったのがあるんだなぁ……。ウチじゃ未だに柚子や竹炭だよ」

 月見里は荷物を机に下ろし、そこに寄りかかって入浴剤を眺め始めた。興味深かった。

 父が若い頃からの通いの家政婦が用意するのは、決まって柚子や竹炭、みかんの皮に菖蒲と、昔ながらの天然入浴剤。

 体に優しく香りもいいが、正直、浮いて回るそれが邪魔だった。特に菖蒲は肌に当たると痒くてしょうがない。

「たまにこう言うのもいいですよ? シュワシュワって泡が出て、結構温まるし、疲れも取れますから」

「へぇ。そうなの。何が入って──」

「先生?」

 箱を裏返し、商品の主要成分を目にした月見里はそこに釘付けになった。

──あった。

 そう思うと同時に、脳内で様々なものが重なり合い、繋がっていくのが見えた。

睡眠薬、アルコール、入浴剤、海、そして──。

「栞」

 ややあって、月見里は心配そうに見上げる秘書の名を呼ぶと、にっこりと笑った。

「これ、ひとつ貰っていいかな」

「あ、はい。どうぞ」

「それと、直ぐに文孝を呼んでくれないか」

「高瀬さん? わかりました」

──見付けた。

 受話器を取る栞から再び入浴剤の箱に視線を移すと、月見里は小さく呟いた。

 人魚姫の中に、物証を見付けた──。

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