第8話

 翌朝――。

「クッソ。まだ耳が痛ぇ」

 高瀬は対策室で小指を耳に突っ込んでいた。耳の奥がキンキンと痛む。

 しかしそれは風邪を引いたからでも、中耳炎になったからでもない。

 捜査一課長、因幡のヒステリックな怒号のせいだ。

 今朝、登庁するなり、高瀬は激昂した因幡に呼び出された。

 ボリボリと首を掻きながら一課に入ると、皆一様に高瀬をちらりと見ては、慌てて目を逸らす。

 その原因は直に分かった。日売の社会面にでかでかと載せられた、再捜査の記事だ。

 そこには昨日竹山が予想した通りの見出しが踊っていた。

 違うのは断定ではなく、疑問形になっており、空振りに終わり続報を載せずとも、日売になんの痛手もない、実に巧い見出しとなっていた事だ。


――警視庁捜査ミス? 水面下で再捜査か


 見出しをもう一度読んで、高瀬は新聞を乱暴に閉じるとゴミ箱にねじ込んだ。

 女のやりそうな事だ。不確かな目先の利に手を伸ばしながらも、保身を忘れない。

 イライラした。

 この記事で、竹山が言うように好転すれば問題はない。

 だが、関係者がいたとして、そして証拠があったとしたら。

 ましてそれを処分されるようなことがあったら。

 沸々と沸き上がる不安と怒りが、終に爆発した。

「くそアマ!」

 擦り傷だらけの革靴でごみ箱を蹴り上げる。

 ボコボコに凹んでいたブリキのゴミ箱は、ぐわんと音を立て、派手に中身をぶちまけながら転げ回った。

「ちょ、何するんですかぁ! 今掃除したとこなのにぃ~!」

「うるせぇな。カミさんみたいなこと言うな」

「あー! 何言ってるんですか?」

 そう言って、柴田は眉間に皺を寄せ、難しい顔をしてみせると、高瀬の声色を真似た。

「刑事がコンビを組むってのは、男と女が家庭を気付くようなもんだ」

 似ていない。

 高瀬は心底嫌そうな顔をしてる。それでも柴田は気にせず続けた。

「ね? そう言ったのは高瀬さんの方でしょ? しかも僕が嫁らしいですしぃ」

 それを聞いて、高瀬は舌打ちした。

「気持ち悪ィな。誰がンな事言ったよ」

「僕が女房役だって言ったじゃないですか」

「おまっ、バッカじゃね? 大体、女房なんてのは物の例えだろ」

「ヒドッ! 騙したのね! 信じてたのに!」

 次の瞬間、柴田は倒れたゴミ箱の横で、高瀬がボキボキと指を鳴らす音を聞いた。

「イライラしてんだ。これ以上ゴチャゴチャ抜かすなら、お前とはこれまでだ」

「イヤッ! 待って! 捨てないでぇぇぇぇ!」



「和ませようと思っただけなのにぃ」

 片手でハンドルを握りながら、柴田は頭頂部に出来たタンコブをさすった。心臓の鼓動に合わせ、ずきずきと脈打つように痛い。

「黙って運転しろ。カンに触る」

 高瀬は未だ機嫌が悪い。

 柴田は首をすくめると、ハンドルを切った。

 車は西川小春の元恋人、ミナミ建設の間宮のマンションに向かっていた。改めて任意聴取する為だ。

 柴田はちらりと高瀬を見て言った。

「間宮はいますかね」

「さあな」

 会社に偽名で確認をとると、今日は休みだと言うことだった。

 アポを取っておけば確実に話は聞ける。だが、高瀬は間宮に時間を与えたくなかった。

 万が一、間宮が西川小春の死に関わっていたとしたら、名乗り出ない理由があるはずだ。

 それを聞き出す、読み取るには、奇襲を掛けるのが一番いい。

 事前に訪問を伝えてしまっては、答えを準備する時間を与えてしまう事になる。

「ここだ」

 高瀬が指し示したマンションの手前で減速すると、柴田は駐車場に車を乗り入れた。

「立派なマンションですねぇ。ホテルみたい。ほら、フロントがありますよ」

「ミナミ建設の子会社が管理してるマンションらしいな」

「こう言うのも、社割ってあるんですかね」

 言って柴田はあっと声を上げた。

「高瀬さん、間宮です」

 覆面を停めた来客用スペースの前を、黒い外国産SUVがゆっくりと通り過ぎて行く。

「うはー。車も高そうですね」

「行くぞ」

 覆面を降り、建物1Fに造られた入居者用の駐車スペースへ入ると、丁度間宮がリモコンでロックしながらロビーへと向かう所だった。

 細身ではあるが、ダークグリーンのコーデュロイジャケットの袷から覗くシャツ越しに、引き締まった筋肉が見て取れる。身長は178cmの高瀬と同じくらいか。

 写真で見た通り、すっと通った鼻に、一重の涼しい目元と薄い唇。一見して、瓜実顔の優男と言った風だ。

「間宮さん」

 高瀬に背後から声を掛けられ、振り返った間宮は怪訝そうに眉を顰めた。

 スーツに黒いコート姿の見知らぬ二人組に名前を呼ばれ、不信感を抱いているようだ。

「お休みのところすみません。警視庁の者です」

 言いながら身分証を広げて見せると、高瀬は間宮が手にしているデリの袋に視線を落とし、にっこりと笑った。

「これからお昼ですか」

 しかし、間宮はそれに答えず、「何か」と質問で返してきた。

 誰しも警察の訪問を歓迎しない。いきなり声を掛けられれば尚更だ。しかも、間宮はつい最近まで恋人の自殺で事情聴取を受けている。その所為だろう。間宮の短い言葉には、今度は何だと言わんばかりの険が含まれていた。

「実は、少しお話を聞かせて頂きたいと思いまして」

 直ぐに本題に入った方がよさそうだ。そう判断した高瀬は、懐に身分証をしまいながら聞いた。

「今朝の新聞はご覧になりましたか。日売新聞ですが」

 本当はクソ新聞と言いたい所だが、笑顔のまま奥歯をかみ締め、ぐっと堪えた。

「彼女……西川さんのことですか」

「はい」

「だったら、何もお話しする事はありませんよ。もう散々……」

「伺ってます。警察の事情聴取は、相手を代え、場所を変え。これでもかと言うほどに繰り返し行われますし、肉体的にも、精神的にも憔悴されたと思います。ただ……。ちょっと先日とは状況が変わ──」

 高瀬の言葉は、携帯電話の電子音に遮られた。間宮の物だ。

「失礼」

 間宮はパンツのポケットから携帯を取り出したが、ちらと確認すると直ぐに戻した。

「彼女に対して……責任は感じています。けどこう言うことは……」

「分かりますよ。人の気持ちは変わるものですし。なあ」

 言葉尻を濁す間宮に、高瀬はそう言って、隣で口をへの字にする柴田の横腹を小突いた。

「まあ……。そう言う人も……」

「何をお聞きになりたいんですか」

 間宮は、歯切れの悪い柴田を一瞥したものの、短く息を吐くと質問を許した。

「簡単な確認です。お時間は取らせません」

「……彼女が」

 ややあって、間宮は手にしていたリモコンで、配管が剥き出しの天井を指して言った。

「その……婚約者が部屋で待ってるんです。ここで構いませんか。彼女の前で、西川さんの話を蒸し返すようなことはしたくないんです」

「構いません」

「失礼」

 間宮はパンツのポケットに手を伸ばした。また携帯が鳴り出したからだ。

「ああ、どうぞ」

 高瀬は手を差し出し、出てくれと合図したが、間宮は先程と同じく、画面を見ると直ぐに閉仕舞った。

「いいんですか? 先ほども掛かっていましたでしょう? お仕事の電話では?」

「いえ。単なるニュース配信ですから」

 そう言うと間宮は携帯の液晶画面を高瀬に見せた。そこには、朝日新聞のニュース速報が表示されている。

 幾つかのニュースの概要だけを配信し、詳細はアクセスして閲覧すると言うものらしい。

「頻繁に来るものなんですか?」

 先程の着信から数分しか経っていない。

 ニュースを携帯に配信してくれると言うサービスは便利だが、そうしょっちゅう携帯が鳴れば、鬱陶しい事この上ないと高瀬は思った。

 確かに、携帯のお陰で人は開放された。連絡を気にして留まる必要がない。自由に動き回れる。

 何時でも何処でも連絡が取れるからだが、逆に言えば、何処にいても捉まると云う事でもある。常に人を仕事や様々な柵に縛り付け、実は自由を奪っている。目に見えない、デジタル化された糸で拘束されているのだ。

「配信は一日に数回程度ですが、僕は幾つかの新聞社の速報を受信してるんです。仕事柄、情報収集も大切ですので」

「なるほど。わかりました」

「それで? 確認と言うのは?」

 高瀬は柴田の手帳を奪うと、再度、西川小春の消息が消える前からのスケジュール、消息が消えた当日何処で何をしていたか、そして、その翌日から渡航に至るまでの行動を確認した。

 またしてもアリバイを問われている事で間宮は少し嫌な顔をしたが、事情聴取と同様、これも何度となく同じ質問をされ、同じ事を答え続けた所為だろう。淀みなくすらすらと答えた。

「帰国後は?」

「仕事に追われてましたし、警察にも」

「そうですね」

 高瀬は苦笑すると、メモを取るでもなく手帳を閉じ、柴田に突っ返した。予想はしていたが、やはり調書に書かれていたものと間宮の答えは全く同じだった。

「念の為、パスポートをお預かりしても?」

「構いませんよ。会社にありますので、ご自由に。秘書に連絡しておきます。他には?」

「いえ、結構です。助かりました」

「それじゃ」

「あ、間宮さん」

 踵を返した間宮の背中に、高瀬は問いかけた。

「間宮さんは、釣りはお好きですか」

 間宮は足を止めると、ゆっくりと振り返った。

「いえ。……しません。それが何か」

 間宮の声に動揺のようなものはなかった。

 ただ、言葉は丁寧だが、面倒臭そうとでも言おうか。一瞬だが、不貞腐れた不良少年が、教師の前で『明後日の方向』を見て受け答えをする時にも似た、そんな印象を高瀬は受けた。

「いや、個人的な質問です。お引き留めして申し訳ありません」

 高瀬は再びにっこり笑うと、背を向けた間宮に、ご協力有難う御座いました──。そう言って柴田の頭を押し下げ、自分は中指を立てた。



「でっかい車……」

 間宮がロビーに消えると、柴田は間宮の車に歩み寄った。

 柴田は車に明るくないが、何度か乗せて貰っている高瀬の車、GMCのユーコンデナリと同じくらいに大きく、高瀬の車とは比べ物にならないくらい車内の掃除が行き届いていると云う事だけは分かった。

「車って性格が出るってホントですね。スーッゴイ綺麗。ホラ、見て下さいよ、高瀬さん」

「っせぇなあ」

 スーツの袖を引かれ、嫌々柴田の隣に並んだ高瀬は、車内を覗き込むなり顔色を変えた。

「ね。綺麗でしょ? 高瀬さんも車好きなら、もーちょっと自分の車くらい──」

「間宮は嘘をついてる」

「え?」

「見ろ」

 高瀬は車内の天井を指差した。そこには天井に沿うようにして横に二本のアルミ製と思しきバーが配され、それぞれに7本ずつ、物干し竿でも引っ掛けるような鉤状のフックとストッパーが付いていた。

「なんですかアレ。スキーキャリア?」

「ロッドホルダーだ」

「と、言いますと?」

「釣竿用のキャリア」

 高瀬自身、釣りをする方ではない。先日竹山に話した通り、春先に安物の竿でアジ釣りをする程度だ。そんな高瀬がロッドホルダーを知ったのは、去年、月見里とスキーに行こうとキャリアを見に行った時だ。あれと同じものを店で見た。

「釣りはしない、か。よく言うぜ」

 高瀬はせせら笑った。

 先ほど高瀬が間宮に感じた不遜さはこれだったのだ。

 間宮は、高瀬達の背後の愛車に取り付けてある『ロッドホルダー』を反射的に見てしまった。それが高瀬には『面倒臭そう』、『明後日の方向を見ての受け答え』と映ったのである。

 しかも釣りをする事を隠した。

 間宮は何か知っている。高瀬は確信した。

「しっかし、ホント凄い車ですね」

「おい。あんまり覗き込むな。ウインドウに脂がつく」

 柴田がウインドウに張り付かんばかりに顔を寄せているのを見て、高瀬は襟首を引っ掴んだ。

「すみません。だって、ぴーっかぴかだし。内装も立派だし」

「だから脂付けんなって言ってんだよ」

「やっぱ高級車ですか」

 そう言いながら、柴田はまたウインドウに額を寄せている。高瀬は溜息をついた。

「ベンツのGL550。新車じゃ、最低でも1300万以上するぜ」

「ウソッ!」

 車の値段を聞いて、慌てて柴田は飛びのいた。

「ほっ、ホントですか? うっわ。たっかー。何それ。車好き? それとも成金趣味?」

「好きなんだろ。年式は2年前だが、お前が言う通り恐ろしく綺麗だ。マメに整備してるんだな」

「あれ? でも」

 値段に驚き、今度は遠巻きに車を眺めていた柴田は、眉根を寄せると首を伸ばした。

「どうした」

「バンパーの色、微妙に違いません? ってか、ここだけちょっとくすんでるような」

 言われて高瀬はしゃがみ込んだ。

 見れば、確かに前面のバンパーだけ、他の部分が新車同様なのに対し使用感がある。中古パーツだ。

「交換したんだな」

「でも、車好きなら、ちゃんと新しい部品を使うんじゃないですか? 好きじゃないにしても、この人お金持ちだし」

「在庫がなかったんだろ」

 予算的な面からあえて安い中古パーツを使う事もあるが、間宮のようなセレブなら、そのような事はあるまい。納車してパーツが届くのを待つか――。

「パーツが届くまでの急場凌ぎじゃね?」

「急場? 何の」

「何のって……」

 高瀬は自らが何気なく発した言葉にはっとした。

──急場。

 間宮は不本意な中古パーツで急場を凌いだのではないか。

 とすれば、思い当たるのは――。

「ひょっとして今朝の記事じゃねぇか? あの女のスッパ抜き記事を見て、交換に走ったかもしれない」

「てことは、このバンパーに何かあったかもしれないと」

「一応、調べた方がいいな。こいつの修理を扱ってる店を当たろう」

 車好きが立ち寄る修理店なら幾つか知っている。その中で、この種の車を扱っている店はそう多くなかったはずだ。

 高瀬はコートをさばきながら立ち上がった。

「キーを寄越せ。俺が運転する」

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