第7話

「──と言う訳で、三週間前、海中にて屍蝋化した西川小春さんの遺体が、ご覧頂いている写真のような状態で。また、現場付近より遺留品が発見されました。遺体には争った痕も無く、日記代わりの手帳に厭世的な文章が見られた事、聞き込みや関係者の聴取、捜査で明らかになった現場の状況などから事件性なしと判断。それと、監察医務院で行われた解剖で、肺に海水及びプランクトンの進入が認められた事も、海中での溺死を決定的にしています。あと、血中からドラールと云う睡眠薬が検出されましたが、これは本人が不眠などで通院していまして、睡眠薬は掛かり付けの心療内科医から処方された物でした。アルコールも検出されましたので、過去の事例にも多く見られるように、苦痛を和らげる為、一緒に摂取したものとされています。また、これも統計的に自殺者に多く見られるポイントですが、胃の中はほぼ空っぽだったそうです。以上の事から自殺と断定。と云うのが、本件のこれまでの経緯です」

 捜査資料を片手に事案の概要を説明すると、柴田は温くなったコーヒーを一気に流し込み、カラカラに渇いた喉を潤した。

「厭世的……」

 腕を組み、黙って聞いていた月見里がぽつりと言った。

 厭世とは、世の中を疎ましく思い、生きている事が辛いと言う事だ。

 手帳には、それを匂わせる文章が手帳に残されていた。

「ああ」

 ひとつ頷くと、高瀬は間を置かず答えた。

「男関係だ。付き合ってた野郎が、勤め先の会社の役員の娘との縁談に乗っかりやがったんだよ。俗に言う金玉だ」

「逆玉です」

 柴田がぼそりと訂正したが、高瀬は「おう、それそれ」と軽く受け流した。月見里も慣れているらしい。すみませんと頭を下げる柴田に、苦笑しながらも、いやいやと手を振って言った。

「不眠もそれが原因なのかな」

「らしいな。本人は結婚も考えてたようだ」

 相手はどうあれ、彼女は真剣に交際をしていたらしい。彼女の友人が、聞き込みに回った刑事に涙ながらに語っており、医師も証言した。とは言え、このような破局は珍しい訳ではない。それでも、月見里は表情を曇らせると溜息をついた。

「そう……。で、その恋人と言うのは?」

「間宮秀夫、33歳。都内の大手建築会社、ミナミ建設香港支社の営業部長だそうです」

「33歳で? 凄いね」

 月見里は驚きの声を上げた。

 確かにミナミ建設は業界でもトップを走る企業のひとつである。だが、スピード出世に関しては、月見里も充分過ぎるほどに速い出世をしているのだ。34の自分と同じ歳でありながら、既に教授の肩書きを持つ親友の驚いた顔をちらりと見ると、高瀬は肩をすくめた。

「来年には、その香港支社の社長サマだってよ」

「大出世やな」

 竹山も眉を上げた。

 竹山は高瀬同様叩き上げだ。巡査を拝命して以来30余年。がむしゃらに働き、間も無く定年退官を迎えようとしている。それでも彼の階級は警部だ。

 が、恐らく最後の昇進が退官一週間前にあるだろう。

 永年勤続の恩典として、一週間の休暇と一階級特進の内示を受けるのだ。

 だが、多くのノンキャリにとって、この休暇と昇進が無意味である事を高瀬は良く知っている。


──叩き上げのサツ官から現場を奪ったら、何も残らんよ。


 退官式で見送った刑事の多くはそう言って、誇らしげに花道を歩くキャリアに混じり、自らの警察人生とは対照的な、派手で美々しい花束を手に、着慣れないプレスの効いた制服の肩を落としていた。

 彼らは今頃どうしているだろう。

 家族に囲まれ、趣味に生き甲斐を見つけた者、新たな職に就いた者もいるに違いない。

 しかしその一方で、退官した途端虚無感に襲われ、心を蝕まれていった者もいると聞く。

 高瀬は向かいでコーヒーを啜る竹山を盗み見た。

 竹山はどうなるだろう。

 竹山はどうするのだろう。

 本人は、退官したら妻と二人、生まれ故郷の神戸にでも帰るかと言っているが、上から嘱託の話が来ていると言う噂も耳にした。

 私服の竹山を知らぬ訳ではない。だが、高瀬は鑑識のつなぎを脱いだ竹山を想像出来なかった。

「ほら、役員の娘との、政略婚の賜物ってヤツですよ。結婚と同時に就任らしいですし。ね、高瀬さん」

「ん? ああ」

 柴田の声で高瀬は現実に引き戻された。

 軽く頭を振り、顔をこする。その手を広げて、高瀬は顔をしかめた。掌が脂で光っていた。

「かなりの野心家らしいからな。普通のOLより、金を生む血統書つきの方が魅力的に映ったんじゃねぇか?」

「なんかヤな感じ……」

 血統書つきを選んだという高瀬の話は憶測でしかないのだが、それでも、結婚と言うものに少女のような夢を抱いている柴田には考えられない事なのだろう。口をへの字に歪め、黙ってしまった。

「取り調べはしたの?」

 言いながら、月見里はテーブルの下から取り出したウェットティッシュを入れ物ごと高瀬に渡した。

 掌の脂を拭けと言うことらしい。

 それをズボズボと何枚か抜くと、高瀬は手、顔、首筋と拭き、居酒屋の中年サラリーマンさながらに、ヴーっと唸って言った。

「まー……。サツ官は疑うのが仕事だからな。年の為、参考人って名目で聴取したんだろうが、検死の時に出た死亡推定時期──」

 半年前だと前置きして、高瀬は続けた。

「アリバイがあったんだよ」

「けど、屍蝋化しているなら、幅があるから……」

 月見里の指摘は尤もだ。

 高瀬は何度かうんうんと頷くと、微妙に黒くなったウエットティッシュを丸めて転がした。

 そして、テーブルの上にあった折り込み広告を裏返し、ボールペンで横に一本の線を引いた。更に左端から少し離して、線上に丸を描く。

「5月12日。この日が西川小春の消息が絶たれた日だ。当日もちゃんと出勤してる。確認が取れなくなったのは、退社後だ。で──」

 言いながら、丸から左方向へと矢印を書いた。

「西川小春が行方不明になる前日まで、間宮は上司と出張してる。そしてその翌々日。つまり、この丸の翌日、5月13日だな」

 言って、高瀬は丸の右隣に、今度は四角を描いた。

「この日は朝から出社し、午後5時より本社営業部長と打ち合わせの後、本社、支社人事部の幹部が合流。午後7時から10時まで支社人事部との親睦会を兼ねた食事会を社内にて行い、都内のホテルに宿泊。本社営業部長と同室で、朝まで一緒だったと証言してる。そんで、その翌日、14日には──」

 シャッと音を立て、追加した四角の右から線の端まで右向きの矢印を書き、その上にホンコンと片仮名で書いた。

「香港へ渡航した。これも同行者がいる。日本に戻ってきたのは先月11月4日。つまり、遺体発見の6日前で、その間帰国はしていないと来たもんだ。まあ、これは出掛けにミナミ建設に電話で確認した程度だからな。後でパスポートや渡航記録も調べさせてもらうけど」

「この行方不明当日はどうなの? 彼女が会社を出てからが重要だよね」

「自宅です」

 柴田が答えた。

「間宮は都内にマンションを所有していて、当時もそこで一人暮らしをしていたんですが、丁度西川小春さんが会社を出た辺りから深夜にかけて、複数回に亘り、固定電話に電話をした田舎の家族と友人の通話記録からも確認が取れてます。香港への栄転が既に決まっていましたので、それに関してアレコレと連絡があったようですね。最後に話したという友人は、明け方近くまで話し込んだと証言してます」

「転送されていたとかは?」

「いえ。それはありませんでした。それに、連絡を入れたという全員が、繋がったと言っていますから、間に出掛けたと言うことはなさそうです。間宮のマンションから現場まで、片道1時間掛かりますし。何より、ピザの配達員が在宅を確認してます。写真で面取りもしてて。この間宮は常連だったらしく、ちゃんと覚えていたそうです」

「店の記録からも確認済み……になってますな」

 月見里の隣で捜査資料を捲っていた竹山も、そう言うとううむと唸った。

「本人の供述によると、彼女と食べようと注文し、訪問を待ってたって事らしい。渡航する前に話し合いをしようと思っていたそうだ。清算だな。それで、前日の夜、西川小春の携帯に電話を入れて約束をとったと。これは双方の携帯電話に記録が残ってる」

「だけど、彼女は現れなかった」

 高瀬の説明を、月見里はそう締めくくり、腕を組んだ。

 確かに出来過ぎの感はある。普通は誰にも証明してもらえない時間があっても不思議ではない。どちらかと言えば、その方が自然だ。しかし、今の話を聞いた限りでは、限りなくその恋人はシロで、事案は自殺だと思える。

「けど──。くせぇんだよ」

「……僕の顔見て言わないでくれます? 高瀬さん」

「そう言えば。文孝が自殺じゃないと思う根拠をまだ聞いてなかったね」

「ああ。これ見てくんねぇか」

 高瀬は広げていた写真のうちの1枚を、滑らせるようにして月見里の前へと出した。

 竹山が不審を抱いた、西川小春の足元を写した写真である。

「竹さんが気付いたんだがな」

 そう言うと、対策室で話した「第三者の介入の可能性」を月見里に聞かせた。



「なるほど。そう言われて見れば、誰かが関与した『可能性』も考えられるね」

 高瀬から説明を受けた月見里は、ロープワークを写した写真をテーブルに戻すと、慎重に言葉を選び答えた。

 竹山の着眼点には頷けるものが有ったが、偶然上手く行ったと言う可能性も捨て切れない。決め手がない。何より物証がないからである。

「先生」

 事務室へ入って以来、月見里の隣で相槌を打つ程度だった竹山が、ゆっくりと口を開いた。

「この仏さんは、自ら海へ身を投げたとされとります。現場付近では、先ほど坊からの説明があった通り、遺留品を発見。時間の経過でかなり傷んではおったようですが、バックと、女性物の踵の高い……」

 そこまで言ってしばし考え込むと、竹山はポンと膝を打った。

「ばんぷす!」

「竹さん、それバンドですぅ」

 柴田が眉尻を下げる。

 竹山は顎を摘まむと、首を傾げた。

「うん? しなぷすやったかな?」

「パンプスです」

「あー。それそれ、パンプスや」

 柴田に訂正された竹山は、自分の額をピシャリと打つと、高瀬とそっくりな返事をし、言い直した。

「パンプスが発見されております」

 月見里は黙って頷いた。別段珍しい事ではなかったからだ。

 実に不思議なことだが、飛び降り自殺者の殆どがこの行動を行うのである。

 だから、件の娘がバッグを置き、パンプスを脱いで身を投げたとしても、不思議ではない。

 しかし、竹山はそこに拘っているようだった。

「所謂女性用のビジネススーツに、パンプスだったんですよ」

 そう念を押す。

 だが、女性の着衣として特異な物でもない。

 それでも、警視庁の鑑識で一番の切れ者とされる竹山が気に掛けるには、何かがあるのだろう。

 そして、それが何なのかを問うべく顔を上げた時。月見里は、「先生」と自分を正視する竹山の目に強い光を見た。

「もう一度、これをよく見て下さい」

 竹山に先ほどの写真を手渡され、月見里は改めてそれを見た。

 濡れた灰白い西川小春の裸足の足に、ロープが括り付けられている。しかし、それだけだ。

「あの、これが?」

「気付きませんか」

 言われてもう一度目を落とすが、やはり分からない。ふと顔を上げると、高瀬と柴田も不思議そうに覗き込んでいた。

 どうやら、二人もこの『なぞなぞ』の答えを知らないようだ。

 ややあって、月見里は降参した。

「恥ずかしながら、僕には裸足の足にロープが掛けられているだけの写真に見えます」

「その通りです」

「えっ?」

「素足にロープが掛けられているんです」

 竹山の答えに、月見里は呆気に取られた。いや、月見里だけではない。高瀬と柴田もポカンとしている。

 それでも竹山は、表情を引き締めたまま繰り返した。

「ご覧の通り、発見された遺体は素足だったんです」

「はあ」

「考えて見てください、先生」

 そう言って、竹山は反応の鈍い月見里の方へ膝を詰めた。

「不自然なことが多いんです。水場を嫌い、釣りの経験もなく、不器用やった女性が見事なノットを結わえて水死。これも確かに引っかかりますけども──。もっと単純なことです。OLが、スーツに素足でパンプスを履くでしょうか」

 月見里は、ちらりとうたた寝している自分の秘書の足元を見た。

 月見里の秘書、栞は、出勤すると必ずパンプスに履き替える。今まで気にした事はなかったが、確かに素足ではなく、ストッキングを履いていた。

「被害者の着衣から何か不自然さを感じたものの、正直、私も思い至りませんでした。けど、出掛けに本庁の婦警の話を聞いて気付いたんですよ。ああ、裸足やからやと」

 そこで竹山は一旦一息ついた。

「我々勤め人の男性が、革靴を裸足で履かないように、オフィスで働く女性にとっても、ストッキングを穿くのは暗黙のルールなんやそうです。いや、男性とは比べ物にならないほど、それは厳しいようですな」

「なるほど。そうなんですね……」

 そう言って竹山の話を引き取ってから、月見里は「でも」と、自分の意見をぶつけた。

「海中で分解されたと言う事はありませんか? 最近は生分解性繊維を使ったものもあるでしょう?」

「それはありません。私も引っ掛かったんで、監察医務院で遺体引取りの手続きをしとる間に、一応、家族や友人に確認しましたが、ホトケ……いや、被害者は、いつも同じメーカーの物を使用しとったそうで、それは極一般的な合成繊維を使用した物やったんです」

「となると、海中で分解……はないか。どこかで破れて脱いだとかは?」

「これから自殺しようとする人間が、そんな事を気にしますかね」

「確かに」

 だとしたら、ストッキングはどこへ消えたのか。

 どこかで脱いだ?

 脱がされたのか?

 どちらにしても、半年前の話だ。残っているとは思えない。

 それ以前に、不自然が単なる偶然であったと云う事も──。

 月見里は天井を仰いだ。

 事案を覆すには物証が少な過ぎる。

 机上の空論。ふとそんな言葉が頭を過ぎった時だった。

「可能性は全てツブしたい」

 まるで月見里の思考を見透かすかのような高瀬の声が響いた。

「真実を知っているのは、今のところ西川小春だけだ」

 月見里は無言でテーブルの上の写真に目を落とした。

 西川小春。生前の美しい姿を留めたまま、泡となり消える事無く、海中を揺らいだ白い人魚。

 彼女の身に何が起きたのか。

「真実を知りたい」

 高瀬の神妙な声に、月見里はゆっくりと顔を上げた。

「聞こう。彼女の声を」

 きっとある。

 死の秘密は、探すべき証拠は彼女の中に──。

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