第6話

「やあ」

 T大法医学教室の検査技師、宮下の案内で西川小春の遺体を冷蔵室に収め事務室に向かうと、監察医であり、高瀬の学生時代からの友人でもある月見里が、術衣姿で3人を迎え入れてくれた。

 午後6時を過ぎ、蛍光灯で青白く照らされた室内から、微かにコーヒーの匂いがする。柴田はひくひくと鼻を動かした。

「コーヒー変えたんですか?」

「流石に柴田君は鼻が利くね」

 臭気判定士の資格を持つ柴田の鼻に感嘆の声を漏らしつつ、月見里はうら恥ずかしいと言わんばかりに苦笑した。

「実はインスタントなんだ」

「インスタント……」

 コーヒーの正体を知って、柴田はがっかりした。

 それは何も、良質の豆で淹れたコーヒーが飲めるのではなどと云う期待をしていたからではない。月見里がインスタントを飲んでいたと言う事は、コーヒーをドリップする人間の不在を意味する。

 つまり、月見里の秘書、深田栞の不在だ。

 柴田は刑事でありながら、解剖は元より、死臭に全くと言っていいほど耐性がない。常人より鼻がいいばかりに、法医学教室のある医学部本館に足を踏み入れただけで気分が悪くなる。

 それでも無理をするのは、仕事だからと言う理由だけではない。深田栞に会えるからだ。

 柴田は、栞に仄かな恋心を抱いていた。

 今日の訪問も、彼女の本来の就業時間を過ぎてはいたが、ひょっとしたらと言うささやかな望みを胸にしていたのだ。

「こいつは気が利かねぇ癖に、鼻だけは利くからな」

 鼻も利かなければ気も利かない高瀬は、そう言うと、しょんぼりしている柴田をよそに、いつものようにズカズカと事務室に入り、いつものようにどっかりとソファーに腰を下ろした。

 擦り減った革靴の足を投げ出し、両腕を広げてソファーの背に掛けるその姿は、例によって自分がこの部屋の主かのような尊大さである。

 そして、その様子に柴田が小さくなるのもいつものことだった。

「毎度毎度……。すみません……」

「いいんだよ。柴田君と竹さんも、先ずは座って下さい」

 月見里は気を悪くするどころか、くすくすと笑っている。柴田はぺこりと頭を下げると、手刀を切る竹山の後に続いた。



 柴田と竹山が腰を下ろすと、月見里は人数分のマグカップの乗ったトレイを持ってきた。

「なんだか大変な事になってるみたいだね」

「まあな」

 言いながら高瀬は、溜息混じりにネクタイを緩めた。

 実際大変だった。酷く消耗していた。

 とは言え、再捜査をする羽目になった事は然程気にしてはいない。庁舎を出た後、水野遠子の事で苛立っていた所へ、監察医務院でもひと悶着あったからだ。

 遺体を引き取りに来たのが葬儀屋ではなく刑事だったことで、担当した監察医が臍を曲げてしまったのだ。

 自分の見立てに異論があると言われたようなものなのだから、当然と言えば当然なのだが、散々厭味を並べ立て、簡単に引き渡してはくれなかった。

 プライドばっかり高い医者が多くて困る。世の中の医者が皆月見里のようであれば、この世の諍いの何%かがなくなるに違いない。

 そんな勝手な事を考えながら、高瀬は向かいの月見里を見遣り、彼がまだ術衣である事に改めて気がついた。

「解剖、まだ残ってんのか」

 言ってコーヒーを啜る。その途端、高瀬の鼻に皺が寄った。

 不味い。恐ろしく不味い。

 見れば、竹山も柴田も顔を顰めている。

 しかし、月見里は美味そうにコーヒーを飲み下すと言った。

「例の事件の被害者が一気に上がったから、追いつかなくて」

 月見里の言う例の事件とは、言うまでもなく、西川小春の遺体が発見されるに至った連続婦女暴行殺人事件の事である。

 近年稀に見る大事件で、被害者の数は15人を超えた。1976年に死刑となった、大久保清が暴行、殺害した8人の2倍近い数だ。その為、マスコミでは犯人を、自白だけで38人を殺害したことが明らかになっている米国の原型的シリアルキラーに準え、「平成のテッド・バンディ」と書きたてた。

 その卑劣な殺人犯がいよいよ逮捕され、夥しい数の遺体が上がったことで、捜査一課同様、法医学教室もパニック状態なのである。

「忙しい時に悪いな」

「いや、構わないよ」

 そう言って月見里はいつもの柔らかな笑みを浮かべたが、やはり疲れているのだろう。眼鏡の奥の目が、少し充血しているのが見受けられた。

「ちゃんと休んではりますか?」

「ええ。ミスがあってはいけませんし。それより──」

 月見里は、ちらとデスクに視線を投げかけた。

「え? 栞ちゃん? いたのか」

 月見里の視線を追って、ようやく高瀬は椅子の上で盛り上がった白衣に気がついた。

 てっきり、月見里が脱いだ白衣を掛けているのだと思っていたが、そこでは栞がデスクにつっぷして眠りこけていた。その証拠に、白衣の小さな山が規則的な上下を繰り返している。

「ぐっすりやなあ」

「ええ。どうも、休憩に戻る度に気を使わせてしまうようで」

「想像がつくな」

 月見里と高瀬の声を聞きながら、柴田はぼんやりとその様子を想像した。

 きっと、栞は月見里が事務室に入るたび、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだろう。


『先生、お疲れ様です』

『先生、コーヒーは如何ですか?』

『先生、肩をお揉みしましょうか?』

『先生、お腹空きましたでしょう?』

『先生、スッポン鍋が出来ました。今日は……鰻もあるんですよ?』

『先生……。お風呂が沸きました。あの……お背中──』


「いかぁーん!」

 柴田はロケット花火の如き勢いで立ち上がった。

 あんまりだ。これではまるっきり新妻ではないか。

 自分の妄想が暴走したに過ぎないのだが、歪んだ妄想に駆られた柴田は猛然とテーブルを乗り越えると、唖然としている月見里の手をむんずと掴んだ。糸のような目の隙間から、血走った眼球が垣間見える。

「先生ッ! 先生の背中は僕が流しますからッ! ですから、どうか! どうか荒ぶるスッポンと鰻をお鎮めくだっ……」

「バカか、お前は」

 被せるように言って、高瀬は柴田の尻を蹴り上げた。

「相手にしなくていいぞ、月見里。どうせ頭ン中で妄想でも膨らまして、勝手に嫉妬してんだ」

「ちょっ! 何をおっしゃりますか、高瀬さん! 僕はただ、えっと、そう! 僕は月見里先生が大好きでいらっしゃるのです!」

「声でけぇよ」

 高瀬はうんざりした顔で両耳を押さえた。柴田は動揺すると敬語の使い方もおかしくなるが、声が不必要に大きくなるからだ。

「そんな訳で」

 言って咳払いをひとつすると、柴田は「ウザイ、ウザイ」と高瀬に足蹴にされながらも、体勢を整えて月見里の手を握り直し、額どころか、睫毛が触れそうなほどに顔を近づけた。

「先生のお世話はこの僕が! そりゃもう、何から何まで、ずずずいっと」

「そ……それは嬉しい……けど」

「月見里センセーはイヤだってよ」

「そら女の子の方がええわな」

「な、なぜっ!」

 柴田はヨロヨロと後ずさり、床に崩れ落ちた。

 片手の甲を口元に添え、大仰に唇を戦慄かせるその姿は、まさしく一昔前の少女漫画そのものである。

 ここに月影先生がいたら、間違いなく「恐ろしい子」と零しただろう。

「先生はっ」

 柴田はポケットからハンカチを取り出すと、「開いてないのに?」と誰もが首を傾げる、ドライアイの目をチョンチョンと押さえつつ言った。

「先生は、女の子がお好きなんですかっ?」

「うん」

 突如、室内が水を打ったように静まり返った。掛け時計が刻む秒針の音が大きく聞こえるほどだ。

 だが、その時計とは裏腹に、月見里を除く3人の時間は止まってしまったようだった。

 高瀬と竹山はハニワのようになっていたし、柴田に至っては、ムンクの叫びそのものだ。

 月見里は不安になった。

「あの……。なんか、変な事言ったかな」

「あ……。いや、うん。マトモなんだけどよ」

「先生の口から聞くと、なんちゅうか、新鮮な驚きが」

 口々にそう言って、高瀬と竹山は空笑いを浮かべた。

 何しろ、恵まれた容姿と才能を持ち、地位もあれば経済力もある。おまけに人柄もいいと来れば、当然ながら女性にもてる。実際月見里は学生時代からよくもてた。なのに、浮いた噂の一つもないのだ。

 その代わり、警視庁では別の噂が実しやかに囁かれている事が、高瀬の口から明らかになった。

「死体以外に興味ないんじゃないかって言ってる連中もいたからな。安心したぜ」

 そんな目で見られてたとは。法医学教室に出入りしている数人の捜査一課の刑事の顔を思い浮べ、月見里は苦笑した。

 そう言えば、過去に何度となく合コンに誘われたが、仕事を理由に断ってきた。きっとそのせいだろう。

 噂払拭の為に、一度くらいは顔を出すべきだろうか。僅かにそんな考えが過ったがやめた。

 愛想笑いを張り付かせて酒を飲むのは、学会や教授会だけで充分だ。

「それより、再解剖の件について話して貰えるかな」

「おう、そうだった」

 高瀬は膝を叩くと、うなだれる柴田を小突いた。

「メソメソ泣いてねぇで説明しろ」

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