第5話

 一旦鑑識に戻った竹山は、領収書の束と饅頭の箱を持って小走りに総務課へと向かった。梅本がいる庶務係はその中にある。

 饅頭は鑑識の連中と一緒に食べようとよけておいた物だが、梅本に呼ばれたとあっては手ぶらとはいくまい。

 饅頭で機嫌が取れるとは思えないが、なんとかこれで小言を封じ、早々に退散したかった。

 何しろ、これから高瀬と柴田とともに、監察医務院で遺体を引き取り、T大の法医学教室へ向かわねばならないのだ。既に二人は駐車場で竹山を待っている筈である。

 竹山はカウンターに饅頭の箱を置くと、目の前の若い婦警に梅本はいるかと聞いた。

「あら、竹さん。梅本さんはー……あれ。さっきまでいたんですけどねぇ。探してきます?」

「いや、ええよ。多分領収書の事やねん」

 言いながら、竹山は胸を撫で下ろしていた。

「せやから、後で、竹山が領収書持って来た言うてくれたらええよ。あ、これ、皆で食べてな」

「有難うございますぅ~」

 竹山が差し出した饅頭を、婦警が立ち上がって受け取った時だった。

「あ、美香、伝線してるよ?」

 後ろから別の婦警が、饅頭を受け取った婦警、美香の足を指差した。

 見れば踵から一直線に筋が入っている。ストッキングが縦にほころんでしまっているのだ。

「やだっ、ホントだあ。誰か替えのストッキング持ってない?」

 美香は体をねじって押さえると、まるでスカートが裂けでもしたような顔をしている。

 そして、その様子を気の毒そうに見ながら、まわりの婦警は手を合わせ、口々に「ごめん、切らしてるー」と言った。

 竹山はそれが酷く不思議だった。

「別にええやん、そんなもん」

 それくらいどうだと言うのだろう。下着が見える訳でもないのだ。そんなに恥ずかしい事だろうか。それに、代わりがなければ、半日ぐらい穿かなければいいではないか。

 しかし、美香は眉尻を下げると言った。

「そう言う訳に行きませんよぉ」

「なんで? それに、ここはエライことエアコン利いてねんから、別にタイツなんか穿かんでも寒いことあれへんやろ」

「タイツじゃありませんよ。厚さが全然違いますもん。それに、働く女性は、真夏でも生足でパンプスなんか履きませんよ。ねー?」

「そそ。常識ってヤツだよね」

 竹山は腕を組むと首を傾げた。

 生足と言うのは素足のことで、パンプスと言うのは、どうやら彼女達が履いている靴の事らしい。それは分かった。

が──。

「常識……?」

「そうですよ。マナーっていうか。会社によっては、服装規定で決められてるとこもあるくらいですし」

「まあ、決められてなくても、一応社会人としてのルールみたいなトコがあるよね」

「そうそう。どこも梅本さんみたいなお局が目を光らせてるからさ」

 美香が声を落として言うと、まわりの婦警が口を押さえ、肩を揺らして笑った。

「あとでコンビニ行ってきなよ。ついでに、まるごとバナナ買ってきて」

「あたしのもー」

「わたしプリンね~」

「ちょっとぉ。今お饅頭貰ったんだよ? どんだけ食べる気?」

 婦警と言うより、女子高生のような彼女達を尻目に、竹山は未だ首を傾げていた。

 頭の中で繰り返されるのは、彼女達の言葉。そして、次々と先ほど見た現場写真がフラッシュバックした。

「そうか!」

「きゃっ!」

 竹山の声に、美香は饅頭の箱を抱きしめ飛び上がった。

「びっくりした。どうしたんですか、竹さん……」

「あ、いや。すまんすまん。助かったわ」

「え?」

「喉に引っ掛かってた魚の骨が取れた。ほなな」

 わけも分からずきょとんとしている婦警達に手を上げると、竹山は総務課を後にした。

「……魚の……骨? なにそれ」

「ほら、年取ると、ヤバイって言うじゃん。正月なんかそれでよく……」

「ねえ。それって、餅じゃないの?」



 竹山が駐車場に到着すると、覆面パトカーのタイヤを蹴り付け、肩を上下させている高瀬が目に入った。遠目にも随分と憤慨している様子が見て取れる。

「おいおい、どないしてん」

 駆け寄ると、高瀬は振り返り、車に寄りかかったかと思うと、ズルズルとそのままそこに座り込んで吐き捨てるように言った。

「日売の……水野ッスよ! あのアマ、ネタを掴んでトンズラこきやがった!」

「水野……?」

 竹山は繰り返した。だが、それが誰だったかを思い出すのに、時間は掛からなかった。

 日売の水野と言えば、スッポン、ショタコン、勘違いなど、不名誉な異名を欲しいままにしている、水野遠子。捜査一課長因幡の想い人であり、現警視総監、水野敬一の一人娘だ。

 竹山の口からも、否応無しに溜息が漏れた。

 水野遠子は、女だてらにサツ回り記者として常にこの辺をうろついている。鑑識ネタを拾う為に、竹山も何度となく追い回された経験があるが、実にしつこかった。おまけに、総監である父親の血のなせる業か、異様なほどに鼻が利く。

 恐らく、庁舎を出る西川を見てピンと来たに違いない。

 連続婦女暴行殺人事件に隠れ、自殺とされた西川小春の記事はごく小さなものであったろう。しかし、あの娘が西川の姿を捉えて何も感じなかったはずはない。

「西川さんを捕まえて喋らしたかな」

「そのようで」

 この寒空の下大量の汗を掻き、未だ息を切らせている高瀬に、リング脇のセコンドさながら、ハンカチとミネラルウォーターのペットボトルを渡していた柴田が答えた。

「直ぐそこで、自転車を引いた総監のお嬢さんが、西川さんをタクシーに乗せて見送るとこに出くわしたんです。ポテトを持ってたんで、多分あのマックから出てきたんだと思うんですけど……」

 言いながら、柴田は隣の合同庁舎2号館を指差した。

 総務省や警察庁等が入っているそこには、ハンバーガーを販売しているファーストフード店、マクドナルドも入っている。

 やはり水野遠子は西川に取材をしたようだ。竹山は頷いた。

「ほんで、お嬢さんは?」

「すぐに高瀬さんが追いかけたんですけど、それはもう、ママチャリとは思えないスピードで」

 逃げられたらしい。

 が、それは高瀬の様子から予想がついていた。

「西川さんに口止めしとくべきだった」

 高瀬が膝の間に頭を落とし、口惜しげに呟いた。

 きっと、明日の朝刊にはこんな見出しが躍るだろう。


──警視庁捜査ミス。水面下で再捜査。


 因幡がヒステリーを起こす様子が早くも目に浮かぶ。竹山は苦笑した。

「ま。西川さん自身が喋れる事言うても、再捜査を依頼したっちゅう話に過ぎんし、抜かれるなら、大げさに書かれた方がええかもわからんで?」

「関わった人間が、再捜査の手が回ることを恐れて出頭……とかですか?」

「んなこたある訳ねぇだろ。バカ」

 希望的としか言い様のない言葉を口にする柴田に、高瀬は間髪入れず悪態をつき、竹山は眉尻を下げた。

 高瀬の言う通り、そうそう簡単に出頭して来るなど有り得ないだろう。

「なんにせよ」

 言って短く息を吐くと、竹山はニカッと笑った。

「好転する事を祈ろうや」

 それしかない。

 水野遠子は、根っからのブン屋だ。発表を控えるよう行った所で無駄だろう。

「な、高ちゃん」

 竹山がポンと頭を叩くと、高瀬もようやく腰を上げた。

「ほな。先ずはご遺体を迎えに行こか」

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