第12話 現皇室と旧宮家のルーツ3
諡の付け方の特徴というか傾向の1つとして"光"とは別に、非業・無念の死を遂げた天皇あるいは京都を追われた主上に "徳"の字を贈るというものがある。
分かりやすい所で言えば、
さらに言えば、南北朝時代の南朝側の帝王 後醍醐天皇(第96代)は京から追われ 吉野で崩御されているが、かの天皇に 北朝側から"元徳"という諡号を奉る
(四条天皇が事故死したから 追号した?)
高倉———安徳
【80】|【81】
|—後鳥羽——順徳——
| (顕徳)|【84】【85】
| 【82】 ∟土御門—後嵯峨
| 【83】 【88】
∟—
【86】 【87】
南北朝合一後に
まぁ、かの天皇(後花園天皇)の存命中に応仁の乱(1467〜77)は勃発してるっちゃあしてるんだけどね。
ついでに、"崇"の字についてだが、史上唯一 臣下に殺されたことがハッキリしている崇峻天皇(第32代)や保元の乱で敗れて讃岐に流され 「日本国の大魔縁となる」と宣われた崇徳院(第75代)、無実の罪で憤死した早良親王(
翻って、北朝第3代 崇光天皇についてだが、かの院号は 誰かに贈られたものではなく遺詔によって定められていた。かの天皇が 崇徳天皇などの事例を知らなかったとは考え難く、その院号に何らかの想いを込めたことが拝察されるが、そこには 彼が世を恨むに足るだけの筋合いめいた事情・状況が介在していた。
まず、彼は即位はしたものの、自らの子を皇嗣の座に就けられず 一代主の扱いを受けた。のち、正平の一統(1351年)で廃位。翌年、南朝の本拠地である賀名生へ拉致され、後日 京都に戻ってきたはよかったが、既に皇位は弟(後光厳)のものとなり、
そのようなことがあったから、崇光天皇が世を儚んだのは理が無きことではないと言えなくもないが、どんな巡り合わせか、その後しばらくして、
しかして、崇光天皇の流れから派生した現天皇家と伏見宮が 近現代まで並列して続くのだが、これは たまたまだったのか、はたまた 崇光の怨念によるものだったのか 果たして…
※ 後崇光院が 旧宮家と現天皇家の直近の共通祖先にあたるよ。
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