第12話 現皇室と旧宮家のルーツ3

 諡の付け方の特徴というか傾向の1つとして"光"とは別に、非業・無念の死を遂げた天皇あるいは京都を追われた主上に "徳"の字を贈るというものがある。

 分かりやすい所で言えば、治承・寿永の乱源平合戦(1180〜85)の際に、数えて8歳で 海の都に遠行された安天皇(第81代)の例が挙げられるだろう。また、その弟で 承久の変(1221年)の敗北後、隠岐に配流された御方は 一般に"後鳥羽"の追号で知られているが、それ以前に"顕"という諡を贈られていた。

 さらに言えば、南北朝時代の南朝側の帝王 後醍醐天皇(第96代)は京から追われ 吉野で崩御されているが、かの天皇に 北朝側から"元"という諡号を奉る案が出されている採用はされず。この頃には、"徳"という文字が この場合、本当は良くない意味で使われている認識があって、それが嫌われていたとも一部で高察されていた。それは すでに、後鳥羽上皇の時分にはあったのやもしれない。

(四条天皇が事故死したから 追号した?)


高倉———安徳

【80】|【81】

   |—後鳥羽——順徳——仲恭九条廃帝

   | (顕徳)|【84】【85】

   | 【82】 ∟土御門—後嵯峨

   |      【83】 【88】

   ∟—守貞後高倉院——後堀河——四条

         【86】  【87】


 南北朝合一後に 傍系から登極した主上後花園天皇に"光"の字が意識されず、彼に"後文"という加後号がとして用いられようとしているが、そのことなどを鑑みると、"徳"や"光"の持つ意味合いも、時代の経過に伴い この時節には変化していた(形骸化もしくは あべこべとなっていた)ことが目算された。

 まぁ、かの天皇(後花園天皇)の存命中に応仁の乱(1467〜77)は勃発してるっちゃあしてるんだけどね。


 ついでに、"崇"の字についてだが、史上唯一 臣下に殺されたことがハッキリしている峻天皇(第32代)や保元の乱で敗れて讃岐に流され 「日本国の大魔縁となる」と宣われた徳院(第75代)、無実の罪で憤死した早良親王(桓武第50代の同母弟:不即位)に道天皇の諡号が贈られていることを勘案すると、特に その文字が使用されたことがうかがわれる。中でも、崇徳天皇の霊は恐れられたらしく、近代 明治大帝(第122代)によって、その御霊は 讃岐から京都に迎えられ、白峯神社に祭祀された。 

 翻って、北朝第3代 崇光天皇についてだが、かの院号は 誰かに贈られたものではなく遺詔によって定められていた。かの天皇が 崇徳天皇などの事例を知らなかったとは考え難く、その院号に何らかの想いを込めたことが拝察されるが、そこには 彼が世を恨むに足るだけの筋合いめいた事情・状況が介在していた。

 まず、彼は即位はしたものの、自らの子を皇嗣の座に就けられず 一代主の扱いを受けた。のち、正平の一統(1351年)で廃位。翌年、南朝の本拠地である賀名生へ拉致され、後日 京都に戻ってきたはよかったが、既に皇位は弟(後光厳)のものとなり、あまつさえ 皇統の継嗣は弟の流れとされた。

 そのようなことがあったから、崇光天皇が世を儚んだのは理が無きことではないと言えなくもないが、どんな巡り合わせか、その後しばらくして、後光厳崇光の弟の流れは絶え、伏見宮となっていた崇光天皇の子孫が 皇統正嫡の座に返り咲いた。このとき即位した後花園天皇の父親にあたる貞成親王後崇光院伏見宮3代目崇光の孫)も、これを「神慮」と言って喜んだとされる。

 しかして、崇光天皇の流れから派生した現天皇家と伏見宮が 近現代まで並列して続くのだが、これは たまたまだったのか、はたまた 崇光の怨念によるものだったのか 果たして…


※ 後崇光院が 旧宮家と現天皇家のにあたるよ。

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