第11話 現皇室と旧宮家のルーツ2

 その後、拉致されていた三上皇(光厳・光明・崇光)と直仁親王が相次いで帰京。正統性に疑いのある後光厳天皇とその兄 崇光上皇との間で後継問題が持ち上がった。

 この問題は室町幕府の介入により、後光厳天皇の意思が通ったが、似たような話として中国 宋の時代の"靖康の変"(1126年)の故事がある。このとき、北宋の皇帝 徽宗・欽宗が金軍に拉致され 北宋が滅亡。欽宗の弟 趙構(高宗)が南宋を建てたが、結局 拉致された2人は国に帰れなかった。高宗が帰還を好まなかったとも伝わっている。現実として これらのような前例があったからか、旧 皇室典範においては 失踪時に関する取り決めが定められていた。

 皇位に就けなかった崇光天皇の子が伏見宮の源流となるわけだが、何の因果か 爾後、後光厳天皇の流れが絶え、伏見宮にお鉢が回ってくる。その時に即位したのが現在の皇室に繋がる後花園天皇(第102代)で、その弟が 伏見宮を継ぎ 世襲親王家として 天皇家と並列して戦前まで継承された。後花園天皇その人はと言えば、後小松上皇の猶子となったとはいえ、先帝との血縁が著しく離れていた8親等離れていることもあって、旧南朝勢力の反発を招き、英明であったにも関わらず 難儀している。

 余聞だが、諡に"光"の字がつくのは だとされる。北朝の天皇に その字が用いられるのは、後世 南朝が正統だとされたからかと思っていたが、彼らがで定めた部分もあり、どうもその説明はあたらない。光厳と光明は の名前からとられたことが窺われるが、それが偶然(?)2代続いたことから、第3代の崇光は"光"の字を果たして 正嫡・本流の証あるいは通字みたいなものとして ならったのか…

 その後、正平の一統(1351年)で 北朝は一旦 途切れ、その和議の破綻によって 後光厳天皇が登極し 北朝が復活。北朝の天皇のうち、第5代 後円融天皇は 一人 諡の系統が異なるが、それは南朝との絡みであったことが何となく心当てされる。仏教用語である"円融"の意味と後円融本人の人生を鑑みると、かの天皇自身というより 周囲の者が勧奨したことが憶測されるが、ただ、その落飾後の法名は"光浄"といった。

(後円融の存命中院政中に、南北朝は統一してる。実権は足利義満に握られてたし、義満に奥さん寝取られてるけど。あと、他の北朝の天皇にも法名に"光"がつく人いるよ。)


平安時代

 光孝—宇多—醍醐—村上—円融—

【58】【59】【60】【62】【64】

南北朝時代

 後—後—後—長慶

 【91】 【96】 【97】【98】

 伏見—後伏見—光厳—後光厳—後

 【92】【93】【北❶】【北❹】【北❺】


 後円融の次が 南北朝統一時の天皇 後小松で、かの天皇も一見 系統が異なるように検分されるやもしれないが、さきの小松帝というのは光孝天皇のことで、やはり"光"を意識。"光"をつけることによって 本来の中興というか 皇統をつなげることを、企図するようになったとも想起されるが、逆に傍系の後花園天皇(第102代)に"光"の字がつかなかったのは、とどのつまり、それに失敗したからだったのか? この辺は まだまだ研究の余地があるところである。

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