第10話 現皇室・旧宮家のルーツ
現在、戦後 皇室から離脱された旧宮家の方の皇族復帰が皇室保全策の一案として取り沙汰されている。それは有職故実の観点から言えば、習慣的なものではなかったものの、宇多天皇(第59代)の例があるなど全く前例がないわけではなかった。
しかしながら、そこには根強い反対意見も存在している。というのは、その旧宮家がいつごろ分かれたかが問題なのだ。男系を保つという前提に立つならば、その対象は"伏見宮"系ということになるが、かの旧宮家は 実に今から約600年近く前の南北朝の時代に現在の皇統から分かれていた。血が遠すぎないかという意見は 至極当然のもので、明治以降の近いところで分化した宮家に若年男子はただの1名しか残られていなかった。
伏見宮が皇室から分かれたのは 前述したように南北朝時代のことであるが、往時 すでに皇統は"大覚寺統"と"持明院統"の大きく2つに分かれ 両統より天皇が輩出されていた(両統迭立)。後に 前者が南朝となり、後者が北朝となるわけだが、それは 両統迭立を解消しようとした,大覚寺統 後醍醐天皇(第96代)の諸々の改革(所領・恩賞問題等)に足利尊氏ら武士が反発し、かの天皇と対抗するため 持明院統の天皇を担いだからだった。
(公家達も改革には反発してる。一旦は、後醍醐天皇を廃し 光明天皇に一本化されたが、吉野で後醍醐が退位を否定した。)
南北朝の争いは 室町幕府の初代 足利尊氏が擁する北朝が優位に戦いを展開するが、尊氏とその弟
(
これを受けて、北朝再建のため尊氏の側近 佐々木道誉らが後光厳天皇(北朝③)を擁立するが、かの天皇を認宣すべき治天の君が存在せず、やむなく祖母にあたる広義門院(西園寺寧子)が上皇の役割を代行。先帝の死後、豪族らに迎えられた継体天皇(第26代)の先例をひいて即位したが、こういった経緯から後光厳の正統性には大いに疑義が持たれた。無論 言うまでもなく、女性でかつ皇族外出身の人間が 治天の君となったのは かの人物ただ1人である。
西園寺寧子
‖———光厳
「後深草—伏見——後伏見 |北❶
| 【89】【92】|【93】 ∟光明
| | 北❷
| ∟花園—直仁
後嵯峨| 【95】↑
【88】| 実は光厳の子?
|
∟亀山—後宇多——後二条
【90】【91】|【94】
∟後醍醐—後村上—長慶
【96】【97】|98
∟後亀山
【99】
光厳—崇光【北❸】—
∟後光厳【北❹】 |【102】
‖—後円融【北❺】 ∟
「広橋仲子‖——後小松❻——称光
| 藤原厳子 【100】 |【101】
∟紀良子 |密通? ∟一休宗純?
足利 ‖—義満——義持④—義量⑤
「尊氏—義詮 ③ ∟義教⑥——義勝⑦
|① ② |—義政—義尚
∟直義---直冬(尊氏の子) | ⑧ ⑨
∟義視
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