第2章 天才画家、世に現われる

美味しいコーヒーを飲むために1

 クレマンの問題を片付けて、平和の訪れたある日の午後。

 俺は父に連れられて、貴族街までやって来ていた。


「立派なお屋敷ですね」


 見上げた屋敷の窓ガラスは、面が大きく仕切りの桟が細い。それは、こちらではお金持ちの証だった。


「バルバストル侯爵のお屋敷だ。侯爵は女王陛下のお気に入りでな。実業家を集めた交流会を主催なさっている」


 と、父が説明してくれる。


「侯爵にはお前も世話になっているんだぞ。サンテール子爵家との婚約解消、間に入ってとりなしてくださったのはバルバストル侯爵だ」

「そうだったのですね」


 商人に協力的な大貴族様。

 今日は、そんな希少な人物が主催する集まりに参加する。

 ラントペリー商会の跡取りとして、父の付き合いのある有力者に顔を見せに行くのだ。


 俺は少し緊張しながら、父とともに侯爵邸の門をくぐった。



 侯爵邸は身なりの良い実業家や、事業を行っている貴族たちでごった返していた。

 大きな部屋の各所にテーブルやソファーが置かれ、人々は小グループに別れて、めいめいが興味のある話をしている。

 広い部屋の中は自由な雰囲気だった。


「おお、ラントペリー商会さん。ご無沙汰してます。最近そちらは景気が良いとうかがっていますよ」

「君がアレン君か。デュロン劇場の役者絵を描いているんだろう? いやぁ、あれは見事だったね」


 部屋に入ると、父や俺に興味のある大人が話しかけてきた。父と2人で営業スマイルを作ってそれに応対する。


 ――なかなか大変だけど、感じの良い集団みたいだな。


 屋敷の中では身分など関係ないというように、自由な商談が飛び交っていた。


「経済を発展させるため、商人に自由を保障するべきだというのが、侯爵のお考えだ」


 なるほど。そういうビジョンでこれだけ人を集めているのか。バルバストル侯爵はやり手みたいだな。


 活気のある部屋の中を物珍しく眺めていると、ふと、懐かしい香りがただよってきた。


 ――コーヒーの匂いだ。こっちの世界では初めて嗅いだ。久しぶりだなぁ。


 ここは異世界なので、地球にあるものが全てこちらにあるわけではない。同じように見えて実は違うというものも多かった。

 こっちの世界のお茶は、独特の香りのハーブティーみたいなもので、コーヒーは今まで一度も見たことがなかった。存在しないのだと思ってたよ。


「南大陸から仕入れられるようになったコーヒーという飲み物です。皆様、どうぞご試飲ください」


 香りの元には、金髪碧眼のものすごいイケメンと、中年の貴族らしき男性がいた。彼らは大きな盆を持った従者を連れて、皆にコーヒーを配ってまわっていた。


「……彼がバルバストル侯爵だ」


 父がそっと耳打ちしてくる。


「えっと、どっちが??」


 年上の男性の方が上質のスーツを着ていて貴族らしいけど、覇気がないから、やり手の政治家って感じはしない。

 若い方も貴公子然としているけど、これだけ実業家を集めた会の主催者としては若すぎないか? ……いや、よく見たら年齢不詳のような……。


「若い金髪の方だ」

「おおぅ……」


 あのイケメンが女王陛下お気に入りのやり手侯爵なのか……。ん? もしかして、イケメンだから女王様のお気に入りなのか!?


「良い香りでしょう? サブレ伯爵が南方から仕入れた新しい飲み物です。よろしければ皆さんにもお分けするので、販売ルートを広げていただきたい」


 と、イケメン侯爵が言う。

 となりの中年貴族がサブレ伯爵か。彼がコーヒーを仕入れて、バルバストル侯爵がそれを皆に紹介しているらしい。


 俺も給仕からコーヒーを受け取って飲んでみた。

 ……懐かしいから嬉しいけど、淹れ方はちょっと下手かな。


「私、このコーヒーをひとくち飲んで、これは当たると思って仕入れルートの契約をしてしまったのです。売り方を考える前に……」


 と、コーヒーを配りながらサブレ伯爵が言う。彼はゲッソリしていて、追い詰められた様子だ。


「え? 売る当てもないのに、専用の船を押さえてしまったんですか!?」


 近くにいた商人が呆れたように聞き返した。


「とても美味しかったので、貴族の知り合いに広めればすぐに大ヒットすると思ったんです。それで、伯爵家でガーデンパーティーを何度か開いたのですが、不評で……」


 落ち込んだ様子のサブレ伯爵がうつむく。


「中にはコーヒーを一口飲んで『泥水どろみずだ』と酷評する方もいて、知り合いの貴族には相手にされなくなってしまいました」


 泥水って……。ブラックコーヒーをいきなり飲ませたのかな。

 それでもコーヒーの魅力を考えれば、好きになってくれる人はいそうなものだけど。


「今の時代、新しいものを貴族から流行らせるのは、案外難しいものです。表面上は高貴に装っていても、格式を保つのに必死で、家計は火の車という貴族家も多いですから」


 と、バルバストル侯爵が落ち着いたよく通る声で指摘した。

 たしかに、彼の言うことは当たっている。俺の元婚約者のリアーナの子爵家なんかは、まさに火の車の貴族家だった。


 固定された貴族制社会に見えるこの世界だけど、身分の上下動は意外と激しく、どこにお金を持った人がいるのか、実は見えにくい。


 昔から、土地を支配するのは王族や貴族たち。でも、農業収入だけで金持ちと言える時代ではすでにない。今は土地からの収入より、交易や、何か事業を起こす方が稼げる。だから、一山当てて大金持ちになる人がいる一方で、没落していく者も多かった。


「大量の在庫を抱えて困り果て、バルバストル侯爵にご相談して、この会に参加させていただきました。どうか皆様のお力をお貸しいただきたいのです」


 と、サブレ伯爵が頭を下げた。


「そうですなぁ。困ったときはお互い様ですし、少しはお助けできると良いのですが」

「……ウチはそもそも食品を扱っていないからなぁ」

「知り合いに紹介する分、少量なら持って帰りますよ」


 周囲の実業家たちは、バルバストル侯爵の顔を立てて全否定はしないものの、甘い考えで商売はできない。大量のコーヒーをさばけるという人はいないようだった。


「…………」


 実は、前世の俺は大のコーヒー党だった。

 毎日3、4杯は飲んでたと思う。それなのに、急に異世界に転生してコーヒーが飲めなくなって、辛かったんだ。


 俺はコーヒーを飲み続けたい。

 そのためには、サブレ伯爵のコーヒー取引ルートを維持したい。


「父さん、やってみたい商売があるんです。サブレ伯爵のコーヒー、ウチの商会でも少し買いませんか?」

「新しい商売? そうだな。バルバストル侯爵にはお世話になったところだし、ここは助け合いということで買ってみるか」


 父がコーヒーを買いたいと伝えると、売れ残りの心配をしていたサブレ伯爵は、喜んですぐに売ってくれた。


 ――これで、当分、こっちの世界でもコーヒーが飲める。


 でも、古いのを飲むのは嫌だから、ルートを維持してどんどん新しい商品を輸入してもらいたい。

 そのために、王国で大規模にコーヒーが売れるようにしたいなあ。





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