第36話

 深夜遅くというのに、昼間の活気さながらに都は賑わっていた。

 とはいえ、この賑わいは決して楽しいものではない。絹を裂いたような悲鳴から、けたたましく打ち鳴らされる警鐘の音と、いつもなら平穏な高天原は地獄絵図さながらの光景へと変わり果てていた。その原因を生んだ元凶を村正は忌々し気に、ぎろりと睨む。


 月夜をたっぷりと浴びて、天高くにまで届かん巨体が唸りを上げた。突進は家を容易く粉々にし、吐き出した毒液は地面をも溶かす。

 不意に断末魔が村正の鼓膜を叩いた。断末魔の主は肉がどろりと溶け落ち、骨が剥き出しになっている。一瞬で事切れることがどれだけ幸せであるか、痛みからじわじわと迫る死の恐怖は想像を絶しよう。正に生き地獄と呼ぶに相応しい光景に村正も思わず目を背けた。


 大百足ベルゼブブの猛威をここで食い止めねば被害は増える一方だ。しかしその術のない村正は、悪魔の所業を前に踵を返した。

 敵わぬと知って逃げ出したか? ――現状・・ではどうしようもない、こればかりは認めざるを得ない。されど諦めたわけではない。何をすべきかは村正自身がよく理解している。



――早くどうにかしないと都が滅ぶ……!

――ここにいる退魔師が今はどうにかしてくれてるけど……。

――それも時間の問題だ。いつまでも持つわけがない!

――そのためには俺がどうにかしないと……!



 悪魔を倒すには同じ地獄の力を行使するしかない。

 幸いにも村正には地獄の力が備わっている。

 だが、この力には大きな落とし穴があった。



「――、村正殿!」



 不意に、見知った顔が彼の元へ駆け寄った。

 瘴気による影響はもうすっかり解消されたであろう、健康的な様子だが真逆に表情かおは大変険しい。



「お前は……頼光!」

「急に都が騒がしくなったと思えばあの妖怪が現れたのだ。あ、あれはまさか古の時代に封印された大百足ではないか!? 何故彼の大妖怪がここに……!」

「――、頼光。俺の話を聞いてくれるか?」



 驚愕冷めやらぬ頼光に村正はすべてを話すことにした。

 現状あの悪魔を屠れる人間はここにいる彼女源頼光しかきっとおるまい。

 村正の刀を手にし未だ健在であるこの女侍ならばひょっとすると……彼女に賭ける価値は十二分にある。藁にも縋る想いで村正は手短に現状を伝えた。

 大百足の復活、地獄での出来事に悪魔の存在……これらすべての情報は到底そう易々と信じれるものでなく、当然ながら頼光からの反応は激しい困惑だった。



「――、以上が俺だ」

「まさか……信じられない。地獄から生還しただけでなく、その力を有するなど……!」

「だけど事実だ。事実だからこそ頼光、お前にしか頼めない。俺の作った刀を唯一所持することのできたお前にしか……!」

「……村正殿。某がいうのもなんだが、あの怪物を討伐する役目こそ貴殿こそ相応しいと思うのだが」

「俺じゃあ駄目なんだよ。俺の持ってる地獄の……いや悪魔の力は本来戦闘向きじゃないんだ」



 かつて地獄にて、村正はルシフェルからの洗礼を強制的に受けた。

 手を掴まれた際に既に仕込まれていたなどとは考えるはずもなし、悪魔らしい卑劣さに恨む間もなく村正は悪魔の力を得た。

 『赫鉄を打ちし者ハルファス』――悪魔は己が力をそのまま名前とする。鍛冶師を生業とすることからこの能力名前が与えられたのか、どちらにせよその力を当事者の意志関係なく行使された怒りは今も忘れない。

「俺はあくまで作ることに特化しているにすぎない。作ってそれを使う奴がいてはじめて真価を発揮する。だから頼光、お前ならきっと――」


 その時、大きな爆発音が空に鳴り響いた。


 あらゆる音を飲み込むほどの音の出所に視線をやれば、地上から無数の炎球が空へ昇る。

 退魔師の主な戦法――呪符による攻撃だと村正はすぐに察した。霊力の極めて高い人間にしか扱えないとされる呪符は、どの呪術においても高等とされる。悪魔に通づるかどうかはさておき、現時点において弓や火縄銃なんかよりもずっと効果は期待できる。

 直撃しては次々と爆発を引き起こす炎球は、常に地獄火と共にある悪魔でも嫌なのだろう。明らかに動きに鈍りが見える大百足ベルゼブブの発する声質は嫌悪感があった。



「ぐぅぅ……さすがにこの肉体が損傷しすぎていましたか。とりあえずこの辺りで一度退きましょうか。ある程度魂も回収しましたし」



 またしても煙のように大百足ベルゼブブは忽然と姿を消した。

 ひとまず危機は去った、しかし彼の悪魔が残した傷跡はあまりにも大きい。

 幼子の鳴き声や苦痛を訴える呻き声、近衛兵や住民達の恐怖、焦り、怒り――負の感情が渦巻く高天原にかつても面影はどこにもない。ここは正に生きた地獄と化した。


 大百足ベルゼブブはいつ戻ってくる? ――こればかりは予測は立てられない。明日か、明後日か、はたまた今日中か。どちらにせよ悠長に構えていられるだけの猶予が人類側にないのは間違いなく、この猶予こそまたとない絶好の機だ。この機を逃せば人類に明日はない……村正は一目散に走り出した。

 都というだけあって、高天原の工房は村正の自宅よりもずっと立派で大きい。

 材料も道具もこれだけ豊富ならば問題ない。通常ならば二週間ほどはかかるところを村正は何十倍にも短縮することが可能とする。



「――、仕方ない」



 次の瞬間、村正の左腕に異変が生じた。

 人のものだった腕が瞬きの間に歪な形状へと変形する。硬質化した皮膚はさながら籠手のように、色鮮やかな濡羽色をした無数に連なる突起物はまるでカラスの翼を彷彿とさせる。

 赤黒い炎が村正の左手にぼうと宿れば、たちまちそこは地獄の工房と化した。常人を寄せ付けない異様な熱気に包まれる中、村正は早速鉄を打つ。

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