第五章:汝、誰が為にその鉄を打つ?
第30話
蜃……この言葉が意味するのは、幻惑。
蜃の吐息は幻を生むいわば蜃気楼だ。あるはずのないものをそこに映し、そしてあるはずのものをあたかもはじめから存在しないかのように包み隠す。
龍の住処にいるのだ、これで何の感慨もなくがっはっはと豪快に笑い飛ばせるほど、
一言目にはヤバい、二言目にはどうしよう、以降それをずっと壊れたからくり人形のように繰り返す2人に村正は酷く同意した。帝に遭うよりも緊張の度合いがまず遥かに違うし、それ以前に龍の住処にいること自体落ち着けない。誉あることなのはそうなのだが、その反面心身共に容赦なくずしりと伸し掛かる
ぎくしゃくとする村正に、巴がくすくすと笑った。
「そ~んなに緊張しなくたって大丈夫だってェ。パパも優しいし呑気だから村正くんももっともゆるくしてくれてていいよ?」
「いや、そういうわけにもいかないだろさすがに……相手龍だぞ? 誰だって緊張するっての」
「ふ~ん、そんなものかァ。ねぇねぇ、ところでさァ村正くん。君から見てワシってかわいい?」
「え?」
「ねぇねぇ、どうどう?」
「どうってそりゃあ……まぁかわいいんじゃないか?」
お世辞のつもりは村正に一切ない。
それはさておき。
巴をかわいいと褒めたことに、大人しかった朱音と華天童子からは凄まじい邪気が立ち上った。
彼女らの立場を考慮すれば、心から愛する夫が他人をかわいいと褒めるのは決して心地良いものではない。乙女心を理解できずにいた村正の過失なのはいうまでもなく、どうしたものかと思考を巡らす彼に2人の妖怪はつかつかと歩み寄った。いつにない凄みに、村正は思わずたじろぐ。
「ちょっと村正さん、このかわいくてきれいでよくできた嫁の私がいるのに、他の女をかわいいって褒めるのはどうかと思いますけど」
「いけずやなぁ旦那様――ウチの魅力、まだ伝わってないようやったらもっとわからせた方がえぇんやろか」
「お、落ち着けって。別にお前らがかわいくないなんて一言もいってないだろ?」
「そうそう、ワシから見ても君達とっても魅力的だよ? まぁワシの方が一番かわいいのは不動たる事実だけどねェ」
明らかな挑発に朱音と華天童子がぎりっと歯を食いしばった。
巴が普通の妖怪であれば、彼女らは間髪入れず抗議しただろうし最悪飛びかかっていたやもしれぬ。だが彼女は龍の娘にして、ここは彼女ら龍の巣窟。いくら温厚であろうと妖怪である以上、敵に回せば脅威と早変わりする。龍を相手には九尾の妖狐も最強の鬼の娘も分が悪いと弁えているから、本当なら言い返したいだろうが必死に堪えていた――それもいつまで持つかわからないので、村正はきりりと痛む胃に顔をげんなりとさせた。
「――、おっとついたよ村正くん。ようこそワシの家へ!」
「お前ではなく自分達の家と訂正せんかこの馬鹿娘!」
「あいたァ!」
鈍くて重い音を彼女の頭頂部で奏でたその男の登場に村正は唖然とする。
この男が恐らく巴の父親なのだろう……先のやり取りを見やれば彼らが親子という関係だと想像するのは容易で、しかし彼女が口にした優しくて呑気な
龍の象徴たる鹿に似た角と立派な長い尾のような髭が、彼が龍であるというなによりの証。軽率な行動は己が破滅を招く……村正はその場に跪いた。
「あ、えっと……その……」
「あぁ、よいよい。此度は我が娘が色々と貴殿らに迷惑をかけたようだな。申し遅れた、我がこの竜宮城を治める
「あ、お、俺は――」
「よい、貴殿のことは聞き及んでおる――
「……既にご存じとは光栄です」
「うむ。今回は我が娘、巴の好き勝手に巻き込んでしまったことを深く詫びよう。しかしその巴はこう見えて我よりもずっと強くてな、もはやこの竜宮城で巴に敵う者はおらぬだろう。その巴を
「……そういえば、結局どうして彼女があんなことをしていたのかその理由を俺達はまだ聞いてないんですよ――教えてもらってもいいですか?」
「うむ。だがその前にこれ以上客人を立たせるのも申し訳ない。詳しい話は中に入ってからするとしよう」
巌と、父からの拳骨制裁に悶える巴に続いて村正達は城の中へと足を踏み入れた。
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