第22話

 地獄という場所は等しく、おぞましい断末魔と血が絶えず支配する地だった。

 人間には恐怖でも、地獄を住処とする彼ら悪魔には心地の良い音色か、あるいは空気と同じように何の感慨もないのか。いずれも他の罪人らと共に廊下を歩かされる村正はすぐにこの状況を如何にして打破するべきか思考を巡らせた。


 敵の数は前後合わせて6匹、倒したことのある悪魔だけに心にまだ余裕が保てている。

 修羅道では阿修羅よろしく争った罪人らも環境が変われば、まるで借りてきた猫のように今ではすっかり大人しい。酷く怯えた様子で瞳を忙しなく泳がせては、逃走を試みようとして見張りの悪魔によって捕獲される――その際に深々と爪が食い込み、血と共に断末魔にも似た叫び声と苦悶の表情は他の罪人らにとって良き抑止力となったことだろう。

 修羅道で延々と終わることのない闘争に身を投じることがまだよかった、そう1人の罪人がもそりと呟いた。


 これより先未知なる恐怖に怯えることを思えば、彼女がそう思うのもまぁ無理もないのかもしれない。

 続いて身体は現在いま、両手を拘束された状態にあった。

 これについては、単なる飾りだろうというのが村正の感想だった。仮に両手が自由であったとして無手でこの状況を覆せるほど悪魔も甘くはない。それは先の戦いにて村正が誰よりも理解しているし、それならば何故自分だけが拘束されなかったのかと不思議にも思う。


 何故他の罪人らと扱いがこうも異なる? ――ベルゼブブの言葉が脳裏によぎり、そのままの意味を汲むのであれば自分が逸材だから。何をどう判断して千子村正を逸材と見たのやら……こればかりについては、いくら思考を巡らせても結論に村正は到達できなかった。

 結局何も解決策が浮かばぬまま、村正は他の罪人らと共に巨大の扉の前まで連れられる。


 ぎぎ、ぎぎぎ――重量感溢れる音を鳴らしてゆっくりと開放された扉の奥に、それはいた。



「…………」



 罪人らが唖然として言葉を失ったように、村正もまた同様の反応を示す。

 玉座に腰を下ろす悪魔こそ、ベルゼブブや他悪魔達の主であろう。問題はその姿形があまりにも逸脱していたこと。

 閻魔大王といい、ベルゼブブの主人といいどうしてこうも人間こちら想像イメージを良くも悪くもことごとく覆すのか……ベルゼブブを基準にして、おどろおどろしい怪物だと決めつけていた村正は、その美しさに見惚れていた。

 白い布を一枚纏っただけという、なんとも破廉恥極まりない恰好は否めないが、腰まで届く金色の長髪がよく映える。美しい女性が玉座から罪人らを見下ろすその表情かおでさえも、慈愛に満ちた優しい顔をしていた。誰かが神様だ、とそう呟いたのにも頷ける。


 だが、ここが常世地獄であることを忘れるなかれ。頭より伸びた針のように鋭い双角と、背中より覗かせる身の丈はあろう八対の純白の翼が、彼女が人非ざる存在であることをなによりも物語っている。



「ご苦労様です――はじめまして、私がこの地獄を統治しています、悪魔のルシフェルと申します」



 地獄の住人とは思えないぐらい礼儀正しく、そして優しい口調で自らをルシフェルと名乗る悪魔女性を前に、罪人達が次々とその場で跪いた。命令されたわけでも、強制されたわけでもなく、自らの意志で頭を下げた彼らの行動に村正は困惑の感情いろを顔に濃く滲ませた。


 先程までの態度が嘘のような従順っぷりな行動にルシフェルは優しい笑みのまま、静かに首肯をすると悪魔らへと目配りをした。鎖をくんと軽く引いただけで素直に従う様は忠犬そのもの、だが村正だけは彼らのように目の前の悪魔に従おう、などという気は更々なく、とりあえず逆らえば命はないのは火を見るよりも明らかなので村正も彼らの後を追おうとした。

 それを、優しい声が引き留める。



「あ、あなたはそのままで……」

「……っ」

「えっと……とりあえず、その……」

「……?」

「あ、その……ですね。あの……」



 口篭もるルシフェルにきょとんとする村正。

 何かを言おうとしているのは理解できるが、肝心の言葉がまったく紡がれない。

 おどおどと、しかし心なしか赤面したルシフェル。これでは年頃の生娘となんら変わらぬではないか。あのそのえっと、とルシフェルは口篭もるばかりでいつまで経っても先に進まず、村正もどうすることもできない。時間だけがいたずらにどんどん過ぎ去っていく。


 このまま帰れるのではないか? ――一見すると大人しそうな娘にしか見えないルシフェルを前に、そんな考えがふと脳裏をよぎる。美しい女性ではあるがベルゼブブほどの恐ろしさはどちらかといえば皆無、今となっては小動物の愛くるしさすら感じる。

 今ならばきっと……胸中でその想いがより強くなった、正にその時。



「失礼いたしますルシフェル様」

「あ、ベル……」

「……ッ」

「他の魂は例の場所へと連行しました。後は……ふむ、やはりあなただけとなりましたか」

「…………」

「……? あぁ、そういうことでしたか。いや失礼、あなたがわからないのも無理はありませんね」



 独りで勝手に納得しては、うんうんと頷くこの女性に村正は最初こそ心当たりがなかったものの、やがて一人の存在に行き着く。そんな馬鹿なことがあるはずがない、村正がそう驚愕するのも無理はなかった。何故なら該当した人物は人の形すらしていないし、ついさっき相まみえたばかりなのだから。声質も姿形も別人であれど、人の神経を逆撫でする口調までは変わらない。

 忌々しいその名を村正は口にした。



「――、ベルゼブブ……!」

「えぇ、先程ぶりですね」

「……なんだその奇怪な格好は。布がフリフリとした衣装なんかきて、正直にいって似合ってないぞ」

「これはメイド服という、歴とした給仕服ですよ。人間達もなかなか趣があるものを作るものです。これが不服であるというのなら、別の姿……例えばあなたがよく見た――」

「いや、それでいい」



 きっぱりと村正はベルゼブブの申し出をぴしゃりと断った。

 わざわざ巨大な蝿の姿を所望する輩はおるまい。神経を逆撫でする言動さえ無視すれば、今のベルゼブブはただの小生意気そうだがかわいらしい少女でしかない。ルシフェルと比較すれば彼女……この悪魔に性別があるのか、はさておき――輝きが少ない。

 何があってもこいつにだけは惑わされない……不動たる意志をもって村正は、ベルゼブブとルシフェルとの会話に耳を傾けた。



「ところで我が主ルシフェル様。この者の処遇についてですが」

「あ、うん。えっと、その……」

「……そんなんでよく地獄の統治者やってられるよな」



 これは、精いっぱいの悪あがきだ。これで彼女らの機嫌を損ねて殺される危険リスクは否めないが、弱気を晒すことも得策とは言い難い。もっとも悪魔にすれば人間如きの戯言を真正面から受けるほど馬鹿でもあるまい。大した反応レスポンスは望んでなかったのだが……。



「はぁぁぁぁ!? ちょっと我が主のこと馬鹿にするのはやめていただけますかねぇ!」



 なんともわかりやすい反応がきたものだから、これには村正も思わず目を丸くする。



「確かにルっちゃんはコミュ症……あ、これは人との話すのが苦手って意味なんですけど。でもしっかり地獄統括してるしなんなら神に喧嘩吹っかけるぐらいのやんちゃだし! そんなルっちゃんだから我もこうして従おうって誓ったんですよそれがパッと出の人間風情が偉そうに――」

「わ、わかったわかりました! 俺が悪かったです! どうもすみませんでした!」



 村正はベルゼブブに謝罪の言葉を述べた。悪魔を怒らせたことへの危惧よりも、長話になる方を村正は怖れた。生憎と他人の話を気長に付き合えるほどの器用さはないし、話題の中心であるルシフェルに至っては顔から火が噴き出そうな勢いだ。

 ベルゼブブを止めたくても止められず、おどおどとするばかりの彼女を憐れんだ。そうして悪魔を庇った自分もどうかしている……村正は自嘲気味に小さく笑った。



「――、失礼、少々取り乱してしまいました。話を戻しましょう、がここではあれなので場所を変えましょうか。話し合うのも気が楽でしょうし、そのための準備も既に済ませていますので」

「……どこへ連れていく気だ?」

「それはつけばわかりますよ」



 ベルゼブブの不敵な笑みに村正はふんと鼻で嘲笑した。

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