第21話

視界が眩むほどの眩さ、その後で間髪入れずに鼓膜を通じて身体の芯から振動するけたたましい音が轟く。音の正体が雷鳴であると気付いた時、村正ははたと己を見やった。



「蟲が……!」

「――、やれやれ。なんだか騒がしいと思ってきてみたら、随分と好き勝手にやってくれたようじゃない」

「おや、あなた様は……」

「え、閻魔大王様……!」



 笏をぱたぱたと仰ぎ悠々とした足取りは、まるで散歩にでもやってきたかのよう。されどその身より発せられる白き雷はばちばちと激しく放電し、端正な顔は一見すると涼し気ではあるがベルゼブブを捉えるその瞳の奥では憤怒の感情いろがぎらぎらと焔よろしく輝いていた。



――閻魔大王……本当にいいタイミングできてくれたぜ。

――あのクソ生意気がガキが、今じゃ誰よりも頼り甲斐がある。

――閻魔大王なら、あの蝿の化物だって勝てる……!



 助かった、とそう判断した途端村正はどっと疲労を憶える。極度の緊張状態から解放されたことによる負担は想像を遥かに超えていたらしく、だがここで気を失ってはいけないと閻魔大王という最強の助っ人の雄姿を見納めんと鞭を打つ。



「ここはアタシの管轄下だけど? 何好き勝手なことしてくれちゃってるわけ?」

「確かにここはあなた様が支配される地獄でしょう。ですが、本来地獄に管轄下なんてものは存在しない。遥か古の時代……人間が神話と称する時代より地獄はもともと我が主ただ1人のものであった。ならば死者の魂をどのように扱うかも主の思うがまま」

「…………」

「そこの人間の魂も含めて、なんの因果かあなたが管理される地獄ここには有能な魂が多い。だからこそその魂をこちらに回していただきたいのですよ……神へ再び戦いを挑むための兵力としてね」

終焉の晩鐘ラグナロク……悪魔と神の戦いを、またやろうってわけ!?」

「えぇ、確かに我々は過去神々の前に敗北しました。だからといって諦めたつもりは、毛頭ありませんので」

「もういいわ。あんたはここでアタシが滅する!」

「おぉ、怖い怖い――ですがあなた様にそれができますでしょうかねぇ?」



 空高く上がるベルゼブブを、閻魔大王の白き雷が強襲する。

 さながら大砲だ。着弾した地面や岩が凄まじい音と衝撃と共に大きな窪みクレーターを作り上げていく。如何に悪魔であろうとも直撃すればひとたまりもあるまい……直撃すれば、の話ではあるが……。


 敵手の機動力はその巨体からは信じられないほど恐ろしく速い。空を自由自在に飛び回られることで、閻魔大王の白き雷はすべて明後日の方向へと消えていく。如何に強大な力であろうと当たらなければどうということはない、その言葉の意味を目の当たりにした村正は、どうすることもできずただ彼女の勝利をひたすらに祈り続けた――どうかこのクソ生意気なガキ……もとい閻魔大王様を勝たせてください、と。



「こンの……!」

「ふふふ、ほらこちらですよ閻魔大王。ほらもっとちゃんと狙って」

「ムッキー! だったら素直に当たりなさいよこの蝿!」

「ちょっと何言ってるかわからない」

「なんでよ!」

「――、まぁそれはそうとして。いいのですか、こちらばかりに気をかけていて」

「なっ……!?」



 それは修羅道にて罪人達を次々と拉致していったあの異形の怪物――悪魔だった。いつの間にか取り囲まれている状況に酷く狼狽する村正だったが、腰にずっと携えていた大刀をここでついに抜き放つ。

 その輝きは対峙する両者を含め、この場にいる者達に視線を奪うほど美しい輝きを放っている。地獄の業火と余りものの鉄くずらかき集めて無意識の内に鍛造した一振を前に、ベルゼブブの不快な笑い声が辺りに木霊する。



「なるほどなるほど! 逸材とは思っていたが我の予想を遥かに凌駕していますねあなたは!」

「お……おぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」



 悪魔の咆哮をもかき消す雄叫びをあげて、村正は大刀を手に立ち向かった。

 鍛冶師である村正に剣術の心得はほぼ皆無に等しい。しかし野盗などの輩から身を守るためにはどうしても戦わねばならない。いわば村正の剣は実戦の最中で磨き上げられたもの。型もなく、師もなく、礼儀も作法も何もかもが自己流の人間村正の剣は、悪魔の首を斬と刎ねた。

 鮮血がわっと舞い、濃厚な血の香りが周囲を漂う。



「おぉぉぉ――!!」



 村正の雄叫びと剣戟は止まらない。目の前の敵をただひたすらに斬り続ける。



――閻魔大王には頼れない。

――あのベルゼブブとかいうやつに専念してもらわないと……。

――俺が頼ったら、その隙を必ずあの蝿の化物はついてくる!

――閻魔大王が倒されたりでもしたらそれこそ終わりだ。

――こいつらは……この悪魔だけは俺だけでなんとかしないと!



 とはいえ、悪魔と人間。どうしても差は生ずるもので、村正とて無事では済まされなかった。

 刀のように鋭利な爪は容赦なく肉を切り裂き、血が滲み出る。

 切られた個所に痛みと熱が帯びるのを感じながらも、村正は大刀を振るう手を休めない。

 そしてついに最後の一体を斬り捨てた。

 縦一文字に両断されて、どしゃりと崩れ落ちる様に息も絶え絶えな村正に拍手が送られた。その送り主は前足を器用に打ち鳴らしては、にしゃりと不気味な笑みで村正をその紅い瞳に収めていた。



「お見事! まさかたった1人で我の配下をすべて倒すとは!」

「……ッ」



 村正は切先を静かにベルゼブブへ定める。

 2対1と呼ぶには少々頼りないが、1よりも大きいのは紛れもない事実だ。全力で支援すれば閻魔大王が隙を必ず突く。これは死ぬための戦いではない、生きるための戦いだ。命を捨てるつもりは更々ない、自分は必ず生きて地獄ここから出る……前衛囮役として村正はベルゼブブの前に立ちはだかった。



「この我とり合いますか?」

「そっちが、どうしてもやるっていうのなら……このまま大人しく帰ってくれたら、それでいい」

「……もし、帰らないといったら?」

「――、その時は」

「ここでおしまいよ」



 閻魔大王の白き雷を前にしても、ベルゼブブが退く気配は一向にない。

 やはりこのまま戦いにもつれ込むのか……村正が大刀をしっかりと握り直し、足に力を込めたその時だった。方角は前方――ベルゼブブの背後から、微かではあるが雄叫びが上がったのを村正は聞き逃さなかった。まさか援軍かと身構えたのも束の間、見知った顔の登場に村正はホッと安堵する。



「閻魔大王様、ご無事ですか!?」

「我ら獄卒加勢いたします!」

「ちょっとナイスタイミングじゃない! 後で残業手当出してあげるから喜びなさい!」

「ははーっ!」

「やったー! これで30日分の残業手当が出るぅ!」

「……閻魔大王様、俺がいうのもなんですが、部下はもっと大切にした方がいんじゃないですか? 人間だったら間違いなく過労死していますよ」

「大丈夫大丈夫、死ぬことはないから」

「えぇ……」



 閻魔大王の思わぬ腹黒さを垣間見た村正だったが、彼の意識はすぐに討つべき敵手へと定められる。これで戦況は著しく変化した。加勢によって戦況は優位に立ち、後は慢心することなく攻めればこの戦いに勝利を収められる……そう確信したからこそ、村正は前線よりやや後退した。閻魔大王と獄卒、強大な力を持つ彼らの戦いに人間がいては足手纏いになりかねない。


 後は閻魔大王達がこの状況をどうにかしてくれるに違いない、1と多数……戦力差は歴然だ。

 これで自分は安心かつ安全に現世うつしよへと生還できる……そう慢心していた。慢心だったと気付いた時には時既に遅く、村正の身体は空高くへと浮上した。


 あっと声を上げる間もなく、どんどん遠ざかっていく地上に村正は狼狽するのを禁じ得ない。突然何が起きたのか、背中をぐいっと凄まじい力で強く引っ張る何者かの姿を見てやろうと首だけで振り返った村正だったが、そこにあるべきはずの敵手の姿がどこにも見当たらない。

 姿なき敵手に更なる混乱に陥れられた村正だったが、ふと。右肩の上で何かが蠢くのを視界の隅に捉える。



「こ、これは――」



 大きな黒い塊だと視認したそれは、個ではなく群れ……思わず目も背けたくなるほどの、おびただしい数の蝿が右肩で蠢いているのを村正は不運にも直視してしまった。同時に背中を引っ張るものの正体がベルゼブブであるとも気付く。


 ベルゼブブの目的は、あくまで罪人の魂を回収し己が主の元へと連行することで、最初から閻魔大王と戦う気など、あの悪魔には更々なかったのだ。まんまと敵の罠に嵌ってしまったと気付いたが、空の上とあっては村正ももうどうすることもできない。今ここで落下でもすればどうなってしまうかは、容易に想像できよう。

 抵抗の意志を失った村正の耳元で、ベルゼブブが静かに語る。



「ご安心を。先も言ったように取って食うわけではありません、あなたのような逸材は主のための戦力になってほしい、それだけなので」

「……クソが」



 酷く穏やかである口調が逆に村正の神経を逆撫でする。

 そうこうしている内に――なんて巨大なのか。暗雲の中で不気味に佇む巨城が村正の前にその姿を見せた。

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