第16話
その日の千子家を一言で表すなら、穏やかそのものだった。
格子窓から吹く微風は優しく肌を撫で上げ、陽光はぽかぽかと温かい。
その雰囲気をものの見事にぶち壊した輩に対して村正の表情はとてもげんなりとしていた。
「う~ん、今日はどっちの着物を着ていったらいいかなぁ。ねぇ村正さん、どっちがいいと思います?」
「俺に振るか? あ~、まぁお前は素材がいいんだからどっちを着ても似合うと思うぞ」
「本当ですか!? えへへ~、でもそう言われちゃうと本当に迷っちゃいますねぇ」
「……はぁ」
これまでの不機嫌さが嘘のよう。朱纏童子の一件からすぐに高天原へと赴いたものの、確かに瘴気はすっかり消えていた。頼光からは何度も感謝の言葉を述べられ、遅れてやってきた疾風丸からは事細かに取材をされたりと忙しくはあったが、朱音と都で
しかしいざ都へやってきたものの、瘴気による悪影響から解放されて間もない住民らがすぐに元の生活を取り戻せるわけもなく。結局何一つ得ることも、楽しむこともままならないまま帰宅する羽目になった。
――あの後、こいつめちゃくちゃ機嫌悪かったなぁ……。
――ようやく都の方も活気が戻ったらしいし。
――たかが都へ出かけるだけでこのはしゃぎよう……まるで童と変わらんぞ。
――まぁ、ずっといじけられるよりかはずっといいが。
――今日は面倒だが、こいつに付き合ってやるか……。
「ほら村正さんも! 早く支度していきましょうよ!」
「わかったわかった! わかったからそう引っ張るなっての!」
「ふふ~ん――って、あれ? 村正さんそれは?」
「ん?」
朱音が指差すそれを目で追って、あぁこれか、と村正はそっと触れた。
愛刀している打刀、ではなく佩かれた太刀は村正が自ら手掛けた新しい得物である。
かつての持ち主は、朱纏童子と一騎打内を挑みその肉体に手痛い傷を負わせた唯一の剣豪であったと華天童子は語る。そして死の間際に、真の剣士と見込んだものに渡してほしいという遠い約束を現代になって彼ら鬼は律義に果たした。
鍛冶師が真の剣士とは、なんとも複雑な心境であったが村正は華天童子から、今回の報酬として受け取っている。というもの渡された時の太刀は正直にいうともはや、太刀としての機能がほとんどないに等しい状態だったのだ。刀身の刃毀れは見るも無残で、それだけ朱纏童子と戦いが凄烈だったと告げていた。
鍛冶師として、どうにかしてこの太刀を蘇らせたい。その想いから村正はこの太刀を打ち直した。
――この太刀……かなりの名刀だったみたいだな。
――
――こいつの同等の地鉄を探すの、ちょっと苦労したからな。
――自分でいうのもなんだが、いい仕上がりだ。
外見こそ地味な風貌ではあるが、刀の真価は切れることにこそあるので、飾りは
「ふ~ん。まぁ村正さんが嬉しそうで何よりです。さっ、早く行きましょ!」
「お前……自分から聞いておいてあっさりと切り上げすぎだろ。まぁいいけど……」
高天原での
「――、ごめんください。村正はんのご自宅で間違いないやろか?」
「この声は……!?」
「華天童子の奴か? どうしたんだいったい……」
突然の訪問者である華天童子に村正ははてと小首をひねる。その一方で朱音は、まるで討伐したはずの仇と再び相対したかの如き雰囲気をかもし出している。ぐるると唸る朱音をひとまず放置した村正は、華天童子のこの訪問について本人に尋ねた。
何故なら村正にはまったく思い当たる節がない。朱纏童子を助けることは、都を救うことにも繋がる……互いに利害が一致し少しでも遂行率を向上させるべく共闘した。その関係も事が済めば赤の他人同士でしかなく、最悪敵対関係へ発展することだって、この先必ずないとも言い切れない。
「――、今日は突然どうしたんだ?」
「今日は村正はんに是非ともお願いがあってこうして来てん」
「俺に? どんなお願いなんだ?」
すると朱音はその場で三つ指を突くとそっと、そして深々とその頭を下げた。
このあまりに予期せぬ行動には朱音もきょとんと眼を丸くして狼狽しているが、当事者である村正の驚愕と困惑は彼女以上だった。
「お、おい、いきなりどうしたんだよ……!」
「今日ここへやってきたのは先日の御恩を返しにやって参りました」
「御恩を返すって……それならもう、この太刀をくれただろ」
「――、ッ! あのボロボロやった太刀がまさかこんなに美しくなるなんて……鍛冶師としてのその腕前、さすがやわぁ」
「あ、ありがとう……? いやそんなことよりもだ! 恩を返す必要はもうないぞ?」
「そうですよ! これから私と村正さんは
「……デートぉ? そんなもんウチがはいそうですかって許すわけあらへんやろ」
「な、なんで赤の他人の鬼娘にそんなこと言われなくちゃならないんですか!?」
朱音の主張は、至極当然すぎるものだった。
彼女の親族などであればいざ知らず、赤の他人からとやかくあぁだこうだといわれる筋合いはない。これについては村正も同意見である。
その答えについて村正が尋ねようとするよりも先に、当人からの回答が返ってきた。
「そんなもん決まっとるやろ――今日から正妻になるからや。ウチがいる限りあんたの好き勝手にさせへん、どうにかできると思とったらあかんで?」
穏やかなはずたった空気が一瞬にして凍った。
季節はまだ春を少し過ぎたばかりで、冬までにはまだまだ程遠い。
身震いするぐらい冷たく、鉛のように重々しいのに鋭く肌を突き刺すというこの矛盾だらけの空間を生んだ元凶の
一触即発の中、まず最初に朱音が口を開く。
「……今、なんていったかもう一回いってもらえますか?」
普段と変わらぬ口調であるのに、華天童子へと向けられる言霊には、禍々しい気がこれでもかとふんだんに込められている。もし常人であれば彼女の声を耳にしただけで良くて気絶、最悪そのまま絶命しかねない。
その点、華天童子は鬼……それもあの朱纏童子の娘だけあって、九尾の妖狐を前にしても平然とした態度を微塵も崩さない。寧ろ心なしかせせら笑ってすらいる、村正の目はそのように華天童子を映した。
「それやったらウチからも尋ねるわ。なぁ村正はん……いえ旦那様? 確か旦那様はこの前、そこの妖狐とはまだ結婚してへんって言うてたやんなぁ?」
「うぇっ!? あ、あぁ……まぁ……」
「なら問題はぜ~んぜんあらへんな」
「問題だらけに決まってるでしょ!? 何勝手に話を進めてるんですかこの鬼娘! いい加減にしないと私の妖術とこの包丁でバラバラにしますよ!」
「やれやれ……これやから頭の悪い妖狐は――えぇか? 旦那様はまだ未婚の身、となればこのウチが村正様の妻となったとしても何も問題は起きひん。ここまではさすがに頭の悪い妖狐でも
「いやまったく理解できませんから!」
「あ~、華天童子? その、いきなりすぎて俺も頭がかなり混乱してるんだが……」
このままこの妖怪共に会話をさせていてはこの家が
――というか、本当に華天童子の目的がわからんぞ。
――伴侶になるって……それってつまり嫁にきたってこと、だよな。
――まさかあの一件で……?
――いや、それはいくらなんでもありえなすぎるだろ……!
「ま、まぁありのままでいうたら村正はんにあの時その、惚れてしもたんや」
「おいそのままの意味だったよ。いやいやいやいや! いくらなんでもその、結婚を決めるまでいくらなんでも速すぎるだろう!」
ありのまま己の心情を言葉にして朱音へとぶつけた。
妖狐に続き鬼からも嫁にくるなど、夢にも思っていなかった村正はこの事態に酷く狼狽する。
これもあの出来事によることの影響だとでもいうのか? ――確かめようがないが、こうも同様の出来事が続けば嫌でもそう思わされる。いずれにせよこれが由々しき事態なのに変わりはなく、嫁ぐ気満々の華天童子に対して朱音の高密度の
凄烈な殺気は時にどんなものよりも強力な武器となる。格子窓の格子部が独りでに両断され、茶碗などが次々と割れる。今は小物ばかりでもやがて家そのものを破壊されかねないと村正はひとまず、朱音の怒りを鎮めることをここで第一優先とした。
やることは至極単純な行為――朱音の背後から、自分よりも小さなその身体を力一杯に抱き締めるだけ――かつて疾風丸の体験談を聞き逃さずに憶えていたことを、村正は心から己を褒めた。他人の惚れ気話ほど面倒なものないのだが、今回に限っては間違いなく疾風丸の功績といえよう。あれだけ恐ろしい殺気が嘘のように収束したのだから。
疾風丸曰く、巷で背後から優しく抱き締めることをあすなろ抱き、というらしい。
尚、名前の由来は不明であるとか……。
それはさておき。
「む、村正さん……!」
「とりあえず冷静になれ朱音。これ以上殺気を出されたらこの家が消し飛びかねん」
「――、は、はい……」
赤々とした顔で小さく首肯する朱音に、村正はホッと胸を撫で下ろす。
しかしまだ問題が真に解決されたわけではない。彼方立てれば此方が立たぬ、華天童子からの羨望と嫉妬の入り混じった視線が村正を容赦なく突き刺した。暗に自分も同じことをしてほしい、という彼女の強い想いが否が応でもひしひしと伝わってきて、村正は頬の筋肉をひくりと釣り上げる。
「華天童子……悪いけど、俺はお前の想いには応えられないぞ?」
「そんなんは
「えっ!?」
「村正はん……ウチの心は既にあんたしかない。父……朱纏童子も村正はんほどの男で命の恩人やったら寧ろ嫁ぎに行ってこいというて快く送り出してくれたぐらいやし」
そこは父親として引き留めてもらいたいのだが……頬をほんのりと染めて、伏目がちな挙動がいちいちかわいい。しかし、これは本当にどうしたものか、と村正は頭を酷く悩ませた。
なんとかして諦めてもらうことはできないのか? ――恐らく、不可能。本能に忠実な妖怪を説き伏せるなど、馬の耳に念仏を唱えるのと同じ。なによりも華天童子の目が諦める様子を一切感じさせない。ぎらぎらと輝く金色の瞳の奥には、揺らぐことがない強い意志が秘めている。
それをもっと別の何か向けてほしかったと村正は切に思った。
「というわけやから、今日から村正はんの妻として相応しい女となれるよう精いっぱいご奉仕させてもらうさかい……良い機会でそこの駄狐娘をちゃちゃっと捨ててや?」
「ムッキー! この私に喧嘩を売るとか上等です! あの世に送ってやりますよー!」
「はっ。冗談だけは
「お、お前らこんなところで暴れるな家が壊れる壊れる!」
――これから先、こんな日々が毎日続くのか……。
――俺の人生は、本当にどこで狂ってしまったのかねぇ……。
――これが仏様の仕業だったら……よし、斬るか。
――全部仏様のせい、そうに違いない。
これは完全な八つ当たりでしかない。だが今の村正には、なにかに八つ当たりをしないと怒りや苛立ちを発散することができなかった。
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