第6話

 村正を心地良い眠りから遠ざけたその者は、酷く上機嫌だった。

 ふんふんと最近の流行りなのか自作なのかはさておき、なんともよくわからない鼻歌を歌いながら調理をする後姿は正しく若奥様そのもの。割烹着かっぽうぎ姿で台所に立つ姿はとても絵になり、いつしか村正も九つの尾をゆらゆらと不規則に揺らす狐娘……朱音に魅入っていた。


 そんな視線にどうやら気付かれたらしく、振り返り頬をほんのり朱に染めてはにかむ朱音に村正は年甲斐にもなくどきりとした己を恥じた。


 とりあえず、目が覚めたので朝の挨拶はしっかりとする。



「お、おはよう朱音」

「おはようございます村正さん。もう少ししたら出来上がりますので、どうか楽しみにしていてくださいね」

「あ、あぁ。お前の料理の腕前は昨日で充分堪能させてもらったからな。楽しみにしてる」



 実際のところ、朱音の作る料理に村正は絶賛していた。

 それは長年自炊ばかりをしてきた男の料理は訳が違う。料亭で出されたとしてもなんら違和感もあるまい、とにもかくにも豪華絢爛の一言に尽きる朱音の料理だが、たった1つだけ不満を吐露すればそれは用いられている食材だろう。



――見た目も味もめちゃくちゃいいのに。

――やっぱ朱音が妖狐……狐だからなのやら。

――油揚げの使用率が半端ないな……。



「お待たせしました村正さん! 今日の献立は油揚げご飯、油揚げの味噌汁、油揚げと小松菜のお浸しです!」

「あ、ありがとうな朱音……」



 今日も昨日と同じく油揚げ三昧に、村正は内心で小さく溜息を吐いた。

 しかし出された料理を無碍にするのは食材や作った者を冒涜するも同じ。献立こそ偏っているが、味がうまいのは紛れもない事実である。村正は最大の感謝を込めて、朝餉あさげにありついた。



「…………」

「――、村正さん? ぼんやりとされてますけど、どうかされましたか?」

「え? いや、大したことじゃないから気にしないでくれ」

「気になります! 何かお悩みでしたら遠慮なく言ってください! だって私達もう夫婦じゃないですか!」

「いや恋人だろ……何勝手に関係進めてるんだよお前は」

「……ハッ! ま、まさか村正さん……もしかして!?」

「ん?」



 ころころと表情を変えたかと思いきや、バタバタと慌ただしく再び台所の方へ走っていく朱音に村正ははてと小首をひねった。台所に何用か、と思う間もなく戻ってきた朱音の右手を見て、村正は思わず箸を落としてしまう。お膳台の上に落ちた箸の音が虚しく響く。



「お、おいなんのつもりだ朱音! お前、その包丁で何する気だ!?」

「まさか、あのヒトメスのことを考えているんですね! だからさっきから上の空なんですね!」

「ヒトメスって昨日のあの女侍か? いやあいつのことはまったく――」

「私の前で他のメスのことを出さないでください!」

「お前が先に言ったんじゃねーか!」



 あまりにも理不尽すぎる仕打ちに、しかし村正は青ざめた顔で包丁から目を離せない。

 包丁といえど立派な道具だ。特に村正の包丁は都で有名な刀匠――相州五郎入道正宗そうしゅうごろうにゅうどうまさむねが打った代物だ。正宗に非ずは刀に非ず、という名言さえ生まれるほどの名高い名匠の作品はどれをとっても斬れ味は抜群である。よって刺され様ものなら人体であろうと正宗の切先は容易に穿つ。


 いつも見慣れているはずの包丁が、この時ばかりはさながら妖刀よろしくぎらりと怪しく輝いた。



「い、いいか落ち着け朱音。とりあえずその包丁は置くんだ」

「村正さんは殺しませんよ。殺すのはあのヒトメスだけです」

「いやそれもやめろ」

「……いっそのこと、この国にいるヒトメスを全部殺してしまえば――」

「だからやめろっての!」



 村正は朱音をぎゅっと力強く抱き締めた。

 曰く、抱擁ハグには幸せ成分を大量に分泌するだけでなく抑止力もある――実に嘘っぽい情報であるのは否めなかった村正だが、朱音を制止するにはもはやこの手しかないと判断を下した。効果については差ほど期待はしていない、とにかく朱音の動きを封じれれば構わなかった。


 いざ実践してみやれば、これが驚くほど効果覿面てきめんで村正は驚かずにはいられない。腕の中にすっぽりと収まる狐娘の顔は、それはもう茹でたタコのように赤々と染まっていた。彼女の右手にあった包丁が力なく、するりと落ちたのを確認した村正はホッと安堵の息をもらした、のも束の間のこと。切先から根本までぶっすりと深々と床板に突き刺さる光景に、村正は再び顔を青ざめさせた。


 さすがは正宗の作刀、といったところだろう……付け加えて、今までよくこんな恐ろしい切れ味の刀を何気もなく使っていたものだとつくづく村正は思った。


 それはさておき。


 頭から湯気まで上らせる朱音を村正はそっと解放する。途中であっと名残惜しそうな声をもらすが、既に朱音は落ち着きを取り戻しているので続ける必要はあるまい。

 それにしても、と村正はジッと物欲しそうに見上げる朱音――の顔よりも下、即ち胸部をちらちらと盗み見る。



――昨晩でなかなか大きいってのはわかってたけど……。

――こいつの、柔らかかったな……。

――それに甘くていい香りもしたし……って、何考えてるんだ俺は!?

――こいつは嫁でもなんでもないただの居候!

――手を出したら即刻俺の人生が終わる!



 ごほんとわざとらしい咳払いをして、村正は御膳台の前にどかりと腰を下ろした。

 相変わらず朱音からの魅惑の視線が彼を捉えるも、村正はその一切をすべて無視した。



「ごちそうさん! 今日もうまかったそれじゃあ俺はちょっと工房の方に行ってくる!」

「あ、村正さん……!」

「今日の昼も期待してるからな~!」



 朱音が追いかけようとするよりも先に村正は脱兎の如くその場から去った。

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