第5話

 夜更けすぎ、村正はふと目を覚ました。

 格子窓の隙間から入り込む緩やかな風は微かな冷気を帯びているものの、とても優しい。

 その遠い向こう、さながら上質な天鵞絨びろうどの生地を敷き詰めたかのような天空そらにぽっかりと浮かぶ白い月。冷たくも神々しいその白き輝きは幻想的で、つい時間が経つのも忘れて目にする者の心を魅了する。

 絵に描いたような、とは正しくこのことを言うに違いない……微睡の中にあった意識もすっかりと覚醒してしまい、このまま次の眠気がくるまで月見にしゃれ込もうとした村正は、隣でくぅくぅと小気味良い寝息に現実へと連れ戻された。

 疲労と呆れを含んだ表情かおで見やる彼の視線の先では、妖狐娘が1人気持ちよさげに眠っている。わざわざ持参してきた布団をぴったりとくっつけて良眠している姿は美しくも微笑ましく、されどこれが夢であればどれだけよかったことか、とそんな風に村正はしみじみと思う。



――朱音の料理、それにしてもうまかったな。

――奇しくも料理の内容も味付けは俺好みのものばっかり。

――これなら毎日喰っても……って早速胃袋掴まれる!?

――駄目だ駄目だ、俺はまだ結婚なんかする気はないんだ。



「……少し、外にでも散歩しにいくか」



 寝ている朱音を起こさぬようそっと布団から抜け出して、村正は家の外へと出た。その右手には愛刀もしっかりと携えて……。


 夜を迎えた外は相変わらず気持ちよい静けさに包まれている。

 夜風に吹かれて擦れる草木の音色、楽器の音色のような虫の鳴き声、近くの小川からさらさらと流れるせせらぎ……これらすべてが合わされば自然が織り成す協奏曲コンチェルトへと早変わりして、どれだけ荒れた心も穏やかさを取り戻す。


 村正は、いつもの場所へと移動する。月を神棚に見立てて刀礼を済ませて、刀を抜いた。

 刃長はなが二尺二寸二分およそ66.6cm、造りは朱漆打刀拵しゅうるしうちがたなごしらえ、刃文は乱刃みだれば・狂いほむら……千子村正打刀【薙】。村正自らが打ったこの刀は数多くの死地を彼と共に駆け抜けており、その関係はもはや青年の半身といっても過言であるまい。

 ほのかに紫を宿す刀身を静かに降れば、鋭い風切音がびゅんと奏でられる。

 心が乱れた時、気を紛らわせたい時は修練をするに限る……村正は虚空に向けて一心不乱ひたすらに虚空を斬る。身体に熱気が帯びて汗がじんわりと肌に滲み出た頃、それまで穏やかだったはずの空気が突如としてざわついた。



――どうやらお邪魔虫のご登場らしいな。

――やれやれ、結局こっちにいようがあっちにいようが、俺に安息の日はないってか。

――たかが人間1人にかまけるとか、どんだけ暇なのかねぇやっこさんも。



 忌々し気に視線を送る先、漆黒の闇からゆっくりと姿を現したそれは、正に異形の一言に尽きよう。肝心なのは妖怪とはまったく異なる存在であり、幾度となくほふったことがあるからこそ異形を見据える村正の顔はげんなりとしていた。

 そんな村正に異形の者達が肉薄する。

 どかどかと地を踏み鳴らし、血生臭い吐息をもらして剛腕を振り上げた。

 怪物の肉体は人間の身体能力それを遥かに凌駕するものだった。放たれた拳打パンチはいちいち大気をごうと唸らせ、大木をいとも容易く枯れ枝のようにへし折る。これがもし人間だった場合は――そんなことに思考を巡らせるほど、難しい話ではない。辿る結末など一つのみで、幼子ですらも容易に想像できよう。

 あくまで直撃すれば、の話ではあるが。

 一撃でも即死に繋がる攻撃から、村正はそのすべてを見切ってみせた。時には眼前すれすれで、時には舞うように空へひらりひらりと螺旋を描き、異形の手から逃げた。

 そして終幕おわりは唐突に訪れる。



「そろそろ終わらせるぞ。今ここにいるのは俺だけじゃないんでな」



 村正は地を蹴った、次の瞬間――異形の一匹の首がことりと地に落ちた。このあまりにも突然的で呆気ない出来事に異形の者達の動きに遅れが生じた。時間すれば一秒にも満たない、そのわずかな時間が彼らにとって命取りとなる。

 それはさながら一陣の疾風の如く。首だけを狙った正確無比な太刀筋は無慈悲にして美しい。留まることを知らない流水の刀捌きはあっという間に異形を首なき骸へと変えた。糸切れた人形よろしく地面にどしゃりと沈んだ骸と、彼らより流れ出たむせ返るほどの濃厚な血の香りが辺り一帯に漂う。



「やれやれ……本当に飽きないな」



 刀身にべったりと付着した血を振るい落とす村正。

 ころころと転がる首の1つが恨みがましそうに、納刀する村正をぎろりと睨む。



「キ 貴様……コノママ終ワルトハ 思ウナヨ!」

「まだ息があったのか。さすがっていうかなんていうか、相変わらずしぶといな」

「貴様ニ 安住ノ地ナドドコニモナイ! 貴様ノ魂ハトウニ アノ御方・・・・ノ――」

「俺の知ったことじゃないな、んなことは」



 眉間に切先を突き刺した。塵と化して四散する様を見届けることなく、再び静かな夜が訪れる中を村正はふと背後を振り返る。



「村正さん……!」

「朱音……」



 乱れた寝間着姿のまま、不安そうな表情をした朱音がそこに立っていた。



「突然大きな音がして、それで慌てて起きてきたんです!」

「あぁ、もう心配ない。ついさっき終わらせてきた」

「……すんすん――血の香り……まさか村正さんどこか怪我を!?」

「いや俺なら心配するな。どこも怪我をしてない。さてと、それじゃあそろそろ俺も寝ようかなっと――明日も早いからなぁ」

「あ、待ってください村正さん!」



 先にそそくさと寝室へと戻った村正は、ほっと安堵の息をもらした。

 というのも、朱音の恰好があまりにも官能的すぎたのである。

 大胆にも胸元がはだけて、今にも見えてしまいそうだった。

 本人でさえもその事実に気付いていないことから、よっぽど慌てて出てきたのだろう。

 しかしそれを幸運ラッキーだと見てしまった暁には、村正は己が人生は墓場へ直行するのを覚悟せねばならない。未婚者のうら若き……かどうか妖怪相手に言ってよいものかは、この際脳の片隅に追いやるにしても、その責任追及からは逃れられまい。なにせ相手は妖狐だ、分があまりにも悪すぎた。

 見なくてよかった、とそう安堵する傍らで、しかしいざ見てみればこれがなかなか大きかった、と男としてのさがに苛まれながら村正は布団へと潜り込んだ。

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