第70話 12時の握手会
「で、なんであたしが呼び出されたわけ?」
鬼束トレーナーが両手を腰に当てて高橋くんをにらんだ。
高橋くんが首を縮める。
「『はがし』を手伝っていただこうと思いまして」
「はあ? あたしの仕事はダンスと歌のレッスンだけよ」
「でも契約期間は今日までですし、契約内容も『アイドルのトータルサポート』となっていますし」
ふん、と鬼束トレーナーが鼻を鳴らした。
「まあ、いいわ。今回だけよ。それより、個別握手会でしょう。『はがし』が必要なほどお客さんが来るとは思えないけど」
「ユア・スレイヴにはアンチが多いのが現状ですし、ゲーム内なのでお客さんは全員武器を持っています。何が起こるかわからないので、見張りが必要なんですよ」
高橋くんはうまく鬼束トレーナーを丸め込んだようだ。
忠政はヴォイドの「はがし」についた。
12時。握手会は始まったばかりだったが、すでにそこそこの行列ができていた。お披露目ステージに比べてお客さんは女性アバターの比率が高かった。
小次郎は裏手で握手会の様子を観察していた。握手会場にはカメラが設置され、裏手に置かれた端末で確認することができる。
カメラを置いているのは、なにかトラブルがあったときに証拠を押さえることができるからだ。
女性客さんのひとりめがヴォイドのブースにやってきた。
おずおずと手を差し出すヴォイド。
客は手慣れた様子でヴォイドの手を握る。男性アイドルの握手会は初めてではないのだろう。
「ヴォイドさんですよね。応援しています」
「あ、ありがとうございます」
「このあいだのお披露目コンサートも見ましたよ。あのときのダンスが――」
早口でしゃべる客にヴォイドは気圧された様子でうなずくことしかできない。
30秒後、フードを深くかぶった忠政が制限時間を告げようとすると、女性客はさっとヴォイドから離れてブースを出て行った。小次郎がなんとなく彼女を目で追うと、今度はイエロー・パンサーの列に並んでいる。全員分の握手券を買ったのだろう。
握手会のチケット「握手券」は、ゲーム内通貨で購入することができる。1枚あたり、日本円にして約650円ほど。1枚の握手券につき30秒だ。
人気アイドルの握手券が1枚1500円から2000円ほど、時間は5秒程度であることを考えると破格の値段と時間設定だ。しかし、新参アイドルはこのくらいの条件でなければ人が集まらない。
「おい、もっとしっかりせい」
忠政が小声でヴォイドを叱った。
ヴォイドがぶつくさと文句を言った。
「でも、女の人の手を触るのなんて初めてで……」
「ならば客は全員おぬしの母親だと思え。笑顔で、はきはき対応するのじゃ」
「ああ、それならできる気がする」
2番目の客も女性客だった。
こちらは握手会には不慣れな様子で、おずおずとヴォイドの手を握ると、「あの、ファンです」と小声で言った。
ヴォイドは満面の笑みで、「ありがとう、母ちゃん」と言った。
しばらく沈黙が続き、女性客が笑い出す。忠政も下を向いて笑いをこらえている。
ヴォイドは赤くなってうつむき、何度も謝った。
3番目は珍しく男性客だった。上級者らしく、身に着けている装備が多い。
男性はアンチやひやかしの可能性も高いので、ヴォイドは少し警戒した様子を見せたが、客は笑ってヴォイドの手を叩く。
「おい、覚えてないのか。俺だよ、『hatomune0420』だ。昔一緒にパーティー組んでたろ」
「うわ、ハトちゃんか。ゲームを引退したと思ってた」
ヴォイドが驚いたように答える。
ヴォイドのゲーム内での知り合いのようだ。
「辞めたよ。でも、お前がアイドルデビューなんてするって知って驚いてさ。久々にログインしてみたんだ」
ヴォイドはうれしいような照れくさいような顔をした。
「俺も俺がアイドルなんてできるとは思ってなかった。でも今は、ちょっと自信がついてきた」
「ヴォイドは素直で感情豊かだからな。意外と向いてると思うよ」
「ちょっと、俺は感情がないって言ってるだろ」
じゃ、また機会があれば一緒に戦闘でもしようぜ。そう言って、男性客はブースを出て行った。
昔の知り合いに元気づけられたのか、それ以降はヴォイドは大きなミスもなく握手会をこなしていった。
小次郎が驚いたのは、ヴォイドにすでに数名の固定ファンがついていたことである。「かっこいい」「推しです」「この前のステージよかったです」。そんな言葉を残して彼女たちは去って行った。
ヴォイドの列にはアンチやひやかしはほぼ来なかった。
ただ一度、ひとりの男性プレーヤーがやってきて、「写真撮ってもいいですか」とヴォイドに尋ねた。ヴォイドが断ると、「じゃあいいです」と言って握手もせずに出て行った。
握手会も残り20分となった頃、すでにブースは閑散とし、物販のコーナーにだけちらほら客の姿が見えていた。
12時の握手会は成功とも失敗ともいえずに終わった。
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