第57話 アイドルレッスン1日目:鬼トレーナー編
今日はオフ会で明日からレッスンが始まり、2週間後にはお披露目、1か月後にデビューと大忙しだ。合間に広報活動もしなければならないと考えると、ヴォイドはほぼ毎日何かしらのアイドル活動をするということになる。
オフ会の間ヴォイドはログアウトしているので、小次郎と忠政は富士ヶ岳ダンジョンにもぐって一晩レベル上げをした。
翌朝、「オフ会はどうじゃった?」と忠政が尋ねると、ヴォイドは形容しがたい表情になった。
「ふつうに4人で2時間くらい喋ったよ。なんというか、思ってたのとはだいぶ違ったけど」
ヴォイドがそれ以上何も言わないので忠政も詮索をあきらめて、3人は昨日の事務所へ向かった。
事務所には集合時間の5分前に到着した。入り口の鉄扉を開けて、ヴォイドが硬直したように立ち止まる。
「おい、どうした」
小次郎がヴォイドの体の脇から室内を覗くと、中は異様な空気に包まれていた。
昨日あった長机は取り払われ、窓はカーテンが引かれている。
部屋の前方に運営の氏家と高橋くんが葬式の喪主のような顔をして立っている。ふたりの前のパイプ椅子には、派手なノースリーブのシャツを着た中年男性が、鬼のように険しい顔をして腕を組んでいた。マッチョな体格で、シャツがぱつぱつになっている。
部屋の後方にいたカメラマンがヴォイドにレンズを向ける。
「遅いですよヴォイドさん」
「いや、まだ5分前だし……」
「今日はレッスンの先生がいらしているのですよ。先生より前に来るのは当然のマナーです」
時間通りに来たからいいだろ、とヴォイドはぶつぶつ言いながら入り口をまたいだ。
血飛沫のケンは3分、イエロー・パンサーは12分遅刻してきた。ふたりとも悪びれる様子もなくぬるりと部屋に入る。
イエロー・パンサーは昨日とは別の眷属彼女を侍らせていた。
「えー、それでは」
高橋くんが咳ばらいをして口を開く。
「全員そろったようなので始めます。今日はレッスンの先生として、あの有名な
鬼束トレーナーがぎろりと4人をにらんだ。
「おはようございます」
鬼束トレーナーの口からすごみのある声が出る。誰も返事をしない。
「おはようございますと言っているのよ。あんたたちは挨拶もできないの?」
急なオネエ口調にヴォイドがくすりと笑ったが、鬼束トレーナーに凝視されて慌てて真面目な顔をする。
鬼束トレーナーはやれやれとため息をついた。
「こんなにアイドルに向いていない連中は初めてよ。最低限のマナーくらい習わなかったの?」
「向いてないだあ? 会ったばかりなのにわかるわけねえだろ」
血飛沫のケンが張りあうように声を上げるも、鬼束トレーナーにぎろりとにらまれて「あ、いやその」と口ごもる。
「いいわ、なんであんたたちがアイドルに向いていないのか教えてあげる。まずひとつめ。マナーがなっていない。黒いあんたは時間ギリギリに来たし、赤と黄色のあんたたちは大遅刻。しかもトレーナーであるあたしを見ても誰も挨拶のひとつもしない。プロの現場では挨拶ができないやつはどんなに能力があっても見放されるわ」
たしかにそうだ、と小次郎は納得した。生前、武術の稽古を受けていたころは、師範が来る前に稽古場を掃除し、師範が来たら挨拶をするのは当たり前だった。下級武士であっても領主の息子であってもそれは同じだ。
もう少しヴォイドに注意すべきだったと小次郎は反省した。
「それからふたつめ。なんなの、あんたたちのそのちゃらちゃらした格好は。とてもボイトレやダンスのレッスンを受ける服装には見えないんだけれど。とくに紫のあんた」
鬼束トレーナーがびしっと
「マントも冠もレッスンのときはいらないわ。きらびやかな服装はステージに立つ時だけ。いいわね」
この衣装にはコンセプトがあって……とぶつぶつ言う
「とにかく、全員別の部屋で着替えてきてちょうだい。全部一からやり直しよ」
こちらへどうぞ、と高橋くんが3階の別室へ4人を案内した。
「おい、挨拶
「すみません、服装を叱られるのはアイドルレッスンの様式美なのであえてお伝えしていませんでした」
3階には4枚のジャージが上下セットで用意されていた。それぞれ、黒、紫、赤、黄色の4色だ。これがそのままメンバーカラーになるらしい。
「運営さん、さっきカメラの人がいましたけど、これどこかで公開されたりするんですか」
ヴォイドが高橋くんに尋ねた。
なんだ知らないのか、と高橋くんがうんざりした顔をする。
「事前資料でもお伝えした通り、レッスンの様子はユア・スレイヴのYouCube公式チャンネルで公開される予定です」
「俺の眷属彼女もそのまま映るんですか」
「女性ファン向けなので皆さんの眷属彼女が映りこんだ場合はモザイクをかけますよ」
そうですか、とヴォイドが安心した様子を見せる。
彼なりの小次郎への配慮らしい。
4人はいそいそとジャージに着替えて2階の鉄扉の前に立つと、互いに顔を見合わせた。
誰から行く? と全員の顔に書いてある。
「お前が最初に行け」
小次郎は勝手に鉄扉を開けると、ヴォイドを中に押し込んだ。
「うわ」
部屋の中に放り出されたヴォイドにカメラと鬼束トレーナーの視線が集中する。
「え、えっと……」
「おはようございます!」
ヴォイドの後ろで小次郎が声を張り上げた。
「稽古を願い申し上げ
小次郎が剣の師範に稽古を願い出るときに言っていた言葉だ。
「お、おはようございます」
つられてヴォイドも鬼束に挨拶をする。
「け、稽古、願い申し上げ候」
「馬鹿、そこは『よろしくおねがいします』でいいのじゃ」
忠政が後ろからヴォイドをこづく。
ヴォイドのおかげで入りやすい空気ができたためか、ほかの3人も挨拶しながら入室した。
並ぶ4人。鬼束は腕を組んだままメンバーをじろりと見まわした。
「ふん、ひとりでも挨拶しないやつがいたらこの場で帰るつもりだったわ。じゃ、今日はみっちりアイドルのマナーを叩き込んであげる」
「あの、今日はボーカルレッスンのはずでは……」
氏家がおそるおそる鬼束トレーナーに向かって言った。
ふん、と鬼束トレーナーは鼻を鳴らす。
「この子たちはまだその域に達していないわ。技術を教えられる土台なしに教えても右から左へ抜けていくだけ」
1か月しかないのに……。氏家が泣きそうな声でつぶやいた。
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