第36話・8/14修正版

 テオドールは自分がどこにいるのか、わからなかった。

 すぐさま、これは夢だと気づいたが、目の前はテオドールの意思に呼応することなく流れていく。


 気づけば、幼い頃に使っていた自室で、学習用の机に座っていた。一人ではない。隣には女小姓であるリュカが座っている。


(この頃は、まだ髪の毛が長かったっけ?)


 テオドールとリュカの前で、銀髪のエルフが黒板に石灰棒で魔術式を描き連ねていた。


「これが情報転換の公式だ。実証魔術ではなく理論魔術だから、このまま魔術式として使っても魔術は行使されないんだ。覚えておいてくれ」


 透き通るように白い肌にエルフ特有の長い耳。エルフは皆整った顔立ちをしていると聞いていた。実際、テオドールも子供なりに見惚れたものだ。

 テオドールにとって魔術の師であるヴァーツヤーヤナ女史は、西部では珍しいエルフ族であり、ヴェーラの教えを説きながら世界中を旅するヴェーラの使徒だった。

 後に三賢者の一人である熾賢者ヴァーツヤーヤナと呼ばれていたと知るが、当時は頭のおかしい美人という認識しかなかったものだ。


(夢の中でも綺麗な人だな……)


 思い返せば、テオドールにとって初恋の相手は、このヴァーツヤーヤナだった。


 だが、ヴァーツヤーヤナは見た目こそ完璧だが、その精神性は少し突飛である。


 彼女がテオドールに魔術を教えることになったのも「ヴェーラ神のお告げがあった」という理由だ。ある日、フラリとアルベイン家の居城に現れ、制止する騎士を魔術で無力化し、テオドールの父を脅して強引にテオドールの家庭教師になったのだ。


 そんなムチャクチャなヴァーツヤーヤナだが、テオドールに対しては、優しかった。いや、優しすぎたかもしれない。よく「君を少年のまま時間凍結して持ち歩きたい。永遠に少年のままボクの膝の上に座っていてほしい」と言っていた。小さな男児が好きな性癖らしい。当時は気付かなかったが、ヴァーツヤーヤナはテオドールを性的な目で見ていた。


(今から思えば、俺の年上好きというか、マザコン気質は先生のせいな気がする……)


 ヴァーツヤーヤナは自分のことを「ママと呼んでくれ」と言っていた。そして実母を失ったテオドールも、二人きりの時は「ママ」と呼んでヴァーツヤーヤナに甘えていた。この辺りの記憶のせいで、自分の性癖は歪んだという確信がある。


 ヴァーツヤーヤナは黒板の数式を示しながらテオドールたちに視線を向けた。


「ここまでは理解したかな?」


 テオドールが「はい」と言う横で、リュカは「わかりません」と言っていた。それを受けてヴァーツヤーヤナはテオドールに「説明してあげてくれ」と話を振ってくる。


「たぶん、わからないというのは、これまでの魔術公式と決定的な矛盾が生じているところだと思う」


 リュカは「そこ」とうなずいていた。


「一般的に言われる魔力転換理論はわかるだろ? 魔力が世界に作用する仕組みの話だ」

「うん、わかる」


 とリュカがうなずく。


「その理論だと魔力というエネルギーは魔術という現象と等価交換とされている。でも、情報転換理論は、この等価交換を否定してるんだ。情報が1なら魔術も1の分しか発生しないのが魔力転換理論。でも、情報転換理論は情報1に対して発生する魔術が10にも100にもなる」

「ありえない」


 リュカの言葉に「うん、ありえない」とうなずきながらテオドールは続ける。


「だから、黒板の式になるんだよ。この式は世界を多重的に表している。いや、正確には情報の濃度が場によって違うといったほうがいいかな? わかりやすく魔力で言い換えると、人体でも魔力が最も集中してるのは脳であり、他はそうでもないだろ? そういう風に魔力の分布にはムラがある。場に魔力のムラを起こしているモノがなんなのか? その正体を情報と呼んでるんだ」


 リュカはまだ眉間に皺を寄せていた。


「魔力の濃度を司っているモノが情報だとしたら、この情報を扱うことで魔力のムラを自由自在に扱うことができる。となれば、最初は魔力1の濃度でも情報によって魔力1を10にも100にもできるってこと」

「……全体の魔力量が変わってるでしょ? 100がいきなり110になるのは理屈に合わない」

「だから、このまま魔術式に使っても魔術は発動しないんだよ」

「デタラメ理論」

「でも、特殊天慶ってそういうものだろ?」

「……なるほど、そういうこと」


 やっとわかってくれたらしい。

 そんな二人を見てヴァーツヤーヤナは嬉しそうに微笑んでいた。


「優秀な生徒を見ていると胸がキュンとするよ。人を育てる喜びというのはすばらしい」


 そう言いながら黒板を消していく。


「さて、勉強も終わったことだし、みんなで一緒にお風呂に入ろうか?」

「テオ様はダメ」


 リュカが首を横に振る。テオドールを庇うようにリュカがヴァーツヤーヤナを睨む。


「いいじゃないか、リュカ。裸のつきあいは大事だよ」

「先生はテオ様をよくない目で見るからダメ」

「よ、よくない目でなんて見てないよ!! ただ、テオがかわいいだけだよ!!」

「ダメ」

「いいじゃん。リュカ~、一緒にお風呂に入らせておくれよ~。テオとのお風呂でしか接種できない養分があるんだよ~」

「ダメ」


 当時のテオドール的にはヴァーツヤーヤナと一緒に風呂に入るのは嫌ではなかったが、それをリュカに知られたくもなかったので黙っていた。

 そんな過去の光景を他人事のように眺めながら思う。


(先生、今頃、なにしてるんだろ……?)


 テオドールがアルベイン家の家督を継ぐと決まった時に、ヴァーツヤーヤナはテオドールを拉致して逃げようとした。いろいろあってテオドールは騎士として生きることを選び、師と袂を別つことになったのだが、それ以降、会ってはいない。


 不意にヴァーツヤーヤナがクスリと微笑む。


「私は今でも元気だよ」


 過去の思い出とは重ならない言葉に、テオドールは目を見開いた。


「そんなに驚かないでよ、テオ。ボクはヴェーラの使徒。君の夢に干渉することくらいできるさ」

「先生……?」


 いつの間にかリュカの姿は消失しているし、机も椅子も無くなっていた。その場に佇立するテオドールをヴァーツヤーヤナは優しく抱きしめてくる。花のように甘い匂いが鼻孔をくすぐった。


「普段の君は防壁が強固だから、なかなか侵入できなくてね。うん、今の君は疲れているようだ」

「……本当に先生なんですか?」

「そうだよ。君の師にして君の恋人。そして君の母親代わりでもあるヴァーツヤーヤナさ」


 優しい声音だった。


「お久しぶりですね、先生。元気でしたか?」

「体は元気だが、精神はいつでも虚ろさ。隣に君がいないからね」


 昔からこういうことを言ってくる人だったので、テキトーに受け流す。


「どうやって俺の夢に干渉を? いや、先生ならそれくらいできるでしょうけど……」

「私はヴェーラの使徒だからね。神柱の中に君がいるなら、これくらい造作も無いさ」


 そう言いながら、テオドールを強く抱きしめてくる。


「せっかく夢で逢えたんだし、エッチな夢にでもするかい? もう君の歳なら合法だろ?」

「からかわないでください」

「本気なんだけどな……」


 残念そうに言いながら抱擁を解いてきた。いつの間にか、テオドールも現在の自分の体になっていた。


「ふむ。私はローティーン以下の少年にしか興味無いんだが、君だけは例外らしい。ボクのテオは素敵に育っているようだ」


 頭の上から足元までねっとりと見つめられた。好きな人ではあるが、こういうところは昔から苦手だった。


「……夢にしろ、魔術にしろ、俺になにか用でもあるんですか?」

「つれないことを言わないでくれよ。用があろうとなかろうと、ボクはいつでも君のことばかり考えてるんだ。こうして久しぶりに再会できたんだから」


 ヴァーツヤーヤナはため息をついた。


「やはり、私は君を連れ去るべきだったな。家を継ぐのが、君自身の願いだったとしても……」


 当時はそれができなかった。

 アルベイン家を背負えるのは自分だけだったからだ。

 ヴァーツヤーヤナは不意に表情を引き締めた。


「では、用件を伝えよう。テオ、君は使徒であるボクに愛されている。言い換えれば、ヴェーラの寵愛を受けているともいえる。だが、厄介なことに神の愛は人の運命を歪める」

「……愛されてる割にけっこうひどい人生な気がしますけど」

「神がもっとも嫌うのは平凡だよ。稀有であればあるだけ、寵愛を受ける。ヴェーラに独占されているならいいが、君は他の神からも愛される可能性があるからなぁ。勇者や転生者を倒してるし」

「どうして知ってるんですか?」

「私はいつでも君を見ているからね」

「……それが事実ならマジでやめてほしいんですけど?」

「安心してくれ。君の童貞をあのアンジェリカに奪われた時に脳を破壊されてね。それ以降、ショックのあまり千里眼は時々しか使わないようにしたよ」


 ツーと涙を流してから叫ぶ。


「ボクが君の童貞を奪いたかったのに!!」


「先生、どう反応したらいいのかわかりません」


 久しぶりに会ってもヴァーツヤーヤナはアレな人だった。


「しかも、昔はボクのことしかママと呼ばなかったのに、今じゃあ、リュカやローエンガルドの娘のこともママと呼んで甘えてるようだし……君はいったいどれだけ私の脳を破壊すれば気がすむんだ!」

「普通に覗き見てるじゃん」


 思わずつっこんでしまった。


「まあ、神も君を見ているし、君の周りに嫉妬したり、ゴチャゴチャいろいろな感情を向けてくるということだ。だから、これから先も君には様々な試練や危機が訪れることになると思う」

「……え? マジっすか? 騎士も貴族も辞めたのに?」

「本当に平穏を望むのなら、アシュレイ・ボードウィンとの関係を断ち切り、東を目指しなさい。二つの海と三つの大陸を越えた先に私がいる。私と共に平穏な人生を歩むという選択をオススメするよ」

「会うために二つの海と三つの大陸を越えるって、大冒険じゃないですか。波乱万丈ですよ」

「え~……会いに来ておくれよぅ……ボクも君と会いたいんだよぅ……」


 口をとがらせていじけていた。


「ていうか、俺はアシュレイを見捨てませんよ。男の友情は簡単には崩れないんです」

「それ、無理だよ」

「なんでそんなこと言うんすか!?」

「だって無理だし。まあ、だからこそ神に寵愛されるんだろうけど……」

「だから、なにが無理なんですか!?」

「細かいことは置いておいて、君がこれから戦う相手は、君のように神から寵愛を受けている者だ」

「え?」

「君は強い。神の恩寵もある。だが、彼も強い。彼もヴェーラの恩寵を得ている」


 ヴァーツヤーヤナの姿が薄くなっていく。


「彼の物語が勝つか君の物語が勝つか……物語の主人公は一人だけだ」


 声が遠くなり、周囲も白くかすんでいく。


「願わくば神々の望みに応えるよう正しき選択と正しき有様を……」


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