第13話 退院へ

 そよ風が頬を撫でるようにして、背後へ吹き抜けていった。目を上げると青い空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。初夏の日差しは僕の影をくっきりとコンクリートの上に映しだしており、太陽の光がそこここに満ちている。そんな日は生きているということを改めて実感する。深呼吸をしてみる。まだ肺に入ってくる吸気は少ないけれど五月の暖かな空気が体を充たしていく。

 僕は病院の建物の上にある庭園をゆっくりと歩いていた。建物の壁に沿って小手毬の白い花が揺れている。それとバラのようにみえるが棘のない花・・・それも白い小さな花をたわわにつけた枝が空に向かって伸びている。あとで調べたらモッコウバラという品種だと知った。

 白い花々は心の隙間を埋めるように優しく愛おしい。


 退院日を四日後に控えた僕は退院に向けて体の調子を整えるために歩行練習を続けていた。一日一万歩を超えるのは難しいけれど手術直後は三千歩からせいぜい五千歩くらいしか歩けなかったのが八千歩近くまで戻っている。建物の上にある庭園を歩くのも歩行練習の一環である。

 まだ、体調は決して良いわけではない。とりわけ食事の後が辛い。胃を無理矢理伸ばして付け替えるわけだから消化力が極端に落ちている。野菜などは全然消化できないのではないかと思えるほどで、食べ終えた次の瞬間から喉のつかえが起きる。煮たキャベツなんかは最悪で、食べてからしばらくするとムカムカと体が拒否反応を起こし、戻してしまうこともある。それでも手術直後に比較すれば、ずっとましだ。

 手術を受ける前に言われたのは

「無事手術が済めば、だいたい三週間で退院できるでしょう」

 と言うことだった。とは言っても、同室の患者のように一度退院してから戻ってくる人もいれば、先に手術を終えたにも関わらず僕より長く居続けそうな人もいる。術後の経過や人の感情は様々で、一概に言える物ではない。病院に残っていた方が安心だと考える人がいてもおかしくはない。

 それでも、僕は病院に居続けるよりは退院した方がずっと良いような気がした。


 手術から二週間ほど経ったある日、担当の医師は検査で出た数値を眺めながら、僕に視線を送ってきた。何かあるのではないかと身を固くしたが、医師は

「数値は大分良くなっていますね。腫瘍マーカーも範囲内です」

 と微笑むと身を乗り出すようにして尋ねてきた。

「どうですか?あと五日ほどで退院の方向で良いですか」

「ええ」

 僕は即刻答えた。

「では、一応日曜に退院の方向で検討しましょう」

「よろしくお願いします」

「でも退院してもしばらくは腸瘻ちょうろうですよ」

「はい」

 腸瘻とか胃瘻いろうというのは経口では十分に栄養や水分がとれないため直接腸や胃に送り込む管を刺す手法である。それを行っている間は家を出ることはできない。長くとも二時間ほど我慢すれば済むことだけど、でもまあやはり健常という状態とはほど遠い。それでも退院の日程が決まると少しは元気が出てきた。入院してから二週間とちょっと、患者として長い入院というわけではないが、今まで殆ど入院経験のない身としては例外的に長い拘束生活だった。

 歩き回れるのは病院内の限られたエリアだけで外に出ることさえできなかった。同じ建物の中に居続けるのがこんなにつまらない物だとは思ってもみなかった。まあ、病院なんて建物はそもそもアミューズメントセンターと違って面白いように作られているわけではない。


 医師から退院意思を確認されたそのすぐ後、僕の居住区域の奥にいた男性は退院して、部屋は三人部屋となった。もう片側の奥にいた男性はやはり不安らしい話をしていたが、それから二日後に退院していった。隣にいた長野県の患者だけが残り、昼夜ともなくしきりに痛みを訴えていた。僕より先に病室にいた中で僕より遅く退院するのはその患者だけだった。やはり痛みを訴える患者がそばにいるのは精神的に辛い。二人目が退院した翌日には別の患者が部屋に入ってきた。この患者は手術というわけではないらしい。色んな患者がいるのだ。

 退院の日程が決まると食事に関しての注意をするので、連れ合いの都合の良い日に一緒に話を聞いて欲しいという連絡があった。平日の食事はたいてい僕が作っているが、休日は連れ合いが作るという決まり事があるので、ラインで連絡を取り次の日の午後に話を聞くことになった。

 食事療法士の女性は僕と連れ合いを前にして「では」というと説明を始めた。

まずはしばらくは食べない方が良い物・・・お刺身を初めとする生もの、消化が難しい海藻やキノコ類、スパイスなど刺激が強い物、あとラーメンは鹹水を使っているので消化が悪いから、麺類ならうどんの方が良い・・そうだ。ラーメンとカレーが食べられないというのは一般的に言えば厳しいような気がするが、なくてはならぬものではない、そう自分に言い聞かせて僕は頷いた。


 入院中は、歳のせいかどうしても朝、早く目が覚める。

 消灯が10時なので、どんなに遅くとも11時には眠りにつくことになるのだが、下手をすると朝の2時、3時には目が覚める。江戸時代に魚河岸に魚屋が行く時間より早い。芝浜という落語で女房に半時だったか、一時だったか、間違えて起こされた魚屋のような気分である。ただし、金の入った財布も拾えないし、福茶を飲まされることもない。

 目覚めると僕は部屋を出て共用場所に行き、そこでラジオラジオを聞くことにしていた。灯りは落ちているが、廊下や自販機の灯りで十分だし、少し工夫をすれば本も読めるほどである。携帯電話からブルートゥース式のイヤホンで聞くことができるのはNHKの放送(らじる)だけであるけど、聞き逃しの放送を聴けるので、いくつかの番組の中からクラッシック音楽を聴いて過ごす。シューマンの交響曲、メシアンのトゥンガリラ交響曲、展覧会の絵、ブラームスの2番のピアノ協奏曲、聞き慣れた音楽に混じって、突如響いてきた音楽が僕の耳を驚かせた。慌てて番組表を携帯の画面で確かめると、「モンセラートの朱い本」というタイトルで、その後アナウンサーの説明を聞くと、スペインの教会音楽らしい。僕はクラッシック音楽の中では古楽には疎く、せいぜいマレやクープランのフランス音楽やスカルラッティのイタリア音楽しか耳にしていなかった。「モンセラートの朱い本」は作曲者不詳の楽曲で、僕は寡聞にしてそれまで耳にしたことがなかった。

 その音楽の特徴はなんて言えばいいのだろう?山に暁が出る頃、谷の方から風に乗って聞こえてくるような音楽・・・。僕は古事記をベースにした小説をいくつか書いたのだけど、その中に大山津見という神が天之狭霧を呼ばうシーンがある。その風景にぴったりと似合う音楽だ、とふと思った。洋の東西を問わず、アニミズムに基づく神の風景はどこか似たものがあり、それは大和の神であれ、ゲールの神であれ、スカンジナビアの神であれ、ギリシャローマの神であれ、似たところがある。しかし、キリストの教会であるモンセラートの音楽がこんなに心を突き動かすような原初的な音を孕んでいるとは思ってもみなかった。退院してからどこかで買おうと決心した。CDを買おうなんて思ったのは久しぶりである。(そのときの演奏は二つの盤によって演奏されていたのだけど、後にそのうちの一つを渋谷のタワーレコードで見つけて買った。ジョルディ サヴァールの指揮によるものである)

 音楽というのも出会いがあるもので、おそらく普通に生きていたらあまり耳にすることのない曲を知ることによって聴く幅が増えると言うことがある。僕にとっては、ミュンヘンのガスタイクで聞いたベルクのバイオリン協奏曲(チェリビダッケの指揮で独奏者は残念ながら忘れた)、CDで買ったニコライエワによるショスタコービッチの「24の前奏曲とフーガ」などがそうであるけれど、古楽の方向へ幅が広がることは余りなかったので嬉しい経験である。

 進みにくい食事、眠れない夜、音楽、病院から見る夜景、庭園の白い花、病院内を点滴の装置をつけながら徒歩や車椅子で歩き回る患者の姿、夜勤の看護士さんの後ろ姿、トレーニングセンターのエアロバイク・・・万華鏡の中の貧弱ではあるが今は思い出の景色は退院の日まで続いた。





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