第14話 退院初日 2002年5月14日(土)

 退院日も朝早く目覚めた。

 朝四時・・・。人気のないディルーム(共用場所)の隅っこの席でクラシック音楽を聴きながら日の出を眺める・・・といっても予報通り朝のうちは雨のままであった。一時間ほどして外は明るくなっても日は隠れたままである。

 例のNHKの「聴き逃し」のプログラムにメンデルスゾーンの無言歌や交響曲「スコットランド」の入ったものがあったのでそれを聴く。「無言歌」はなかなか興味ある演奏であった。ピアノが昔のものということで、いわゆるスタインウェイやヤマハのような音作りではなく、もっと様々な周波数の混じった絢爛とした音でちょっとクラブサンに近いような音色がしていてそれはそれで良いものだ。演奏も達者なものである。

 オーケストラとの共演ではやはりスタインウェイのような音作りでないとピアノが負けるだろうけれど、独奏曲や合奏曲にはこんなピアノを弾くというのも良い手法だと思う。いや昔はオーケストラの音もこのピアノ同様にもっと柔らかく、微妙な味のするものだったのかもしれない。そもそも聴衆の数が限られていた時代から大きなコンサートホールで演奏会が開かれるようになってオーケストラの音量のボリュームが上がり、それに対抗するためにピアノも進化していったのだろう。カーネギーホールのようなコンサート会場のせいでスタインウェイが旧いベヒシュタインやベーゼンドルファーから置き換わっていったのかもしれないなぁ。

 「スコットランド」はメンデルスゾーンの五曲の交響曲の中で一番好きな曲である。演奏は楽しく聞かせてはもらったが、スコットランドの景色は本来もっと荒涼としている。この演奏は滅多にないいい天気日和のスコットランドのような感じであった。イギリスには5年ほど住んでいたがスコットランドには指で数えるくらいしか行ったことがない。そのスコットランドは一見では荒涼とした余所余所しい感じをする風土であった。そうしたところほど実は人情があって良いところなのだろうが、そんなことに巡り合う幸運は残念ながらなく、ビジネスディスカッションだけの訪問であった。

 イギリスは四つの国からなっていて昔ラグビーのファイブネーションというとその四つにフランスを加えただけという「え?」と思わせるような「ネーション」の使い方であった。ネーションを単純に「国」と思ってはいけない。スペイン語でnacerというのは産まれると言う意味であり、もともとラテン語が起源なのだろう。「産まれ住む場所」がネーションであり、そのまとまりの中に固有の文化があるのだ。そしてイングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランド(北)はやはり違う文化がある。言葉も景色も人情も違う、そのことをそれぞれの人々は意識しながら四つのまとまりがさらに一つの国として纏まっているのが英国なのだ。本当は日本だって京都と東京と東北と九州とは同じくらい文化も人情も景色も違うのだが、それをネーションとした途端に不穏な雰囲気になりそうな予感がするのはなぜだろう。まあ、日本とひとくくりにしておいた方が平和かもしれない。

 さて・・・閑話休題。メンデルスゾーンの曲はそうした荒涼とした風景の中に美しさや気高さ、そうしたものをたくさん閉じ込めていることを示唆する曲想である。個人的にはペーターマークがロンドン交響楽団を振ったものが一等好きな演奏である。荒々しくも物悲しい情景が映し出される演奏だ。だがその奥底にえも言えぬ情感が込められていて何度聞きなおしても良い。ペーター マークというスイス出身の指揮者はよく知られた指揮者とは言い難いし、レコードやCDも数少ないが、抜群の名盤である。家の戻ったら聞きなおすことにしよう。カラヤンとベルリンフィルのもの、クレンペラーとフィルハーモニアのも悪くはないんだが、この曲に関してはマークの演奏が一押しなんだ。

 六時頃になると病棟も活気を帯びてくる。看護士は朝のチェックを始め、元気な患者は病棟内で散歩を始める。散歩と言っても病棟のぐるりを何回も歩き回るだけだが・・・。

 部屋に戻る。着替えをして脱い患者衣を脱衣袋に入れ殆ど終えていた荷造りのチェックをする。あとは食事を終えた後の歯磨きをするための歯ブラシとコップを残すだけだ。

 そうしているうちにやがて食事がやってくる。全粥と魚、野菜。それにヨーグルトとおやつ用のカロリーメートがついてくる。カロリーメートは五食用のものだから残しておいてあとは全部残さずに食べた。最後の検診にKさんという看護士さんがやってきて体温と血圧、脈拍を測る。

「帰宅の用意は万端ですね」

 Kさんはにっこりとした。

「ああ、たいへんお世話になりました」

 結局Kさんは手術後に病棟に戻ってから一番数多く担当してくれた看護士さんとなった。

「西尾さんは・・・」

 と言いながらKさんは相変わらず、

「よいしょ」

 と呟きながら血圧計を覗き込んで数値を書き留める。その時PHSが鳴ってKさんは、その後の言葉を飲み込んだまま別の患者のところへ行ってしまった。

「西尾さんは・・・」

 の後の言葉はなんだったんだろう?

「早起きですね」とか「面倒な患者さんでした」とか「いびきが凄いですね」とか、大方そんなところだろう。

 やがて戻って来たKさんは、そのことには触れず、

「あとは退院担当の看護士に任せますから」

 と言って去っていったので何を言おうとしたのか聞きそびれてしまったが、こういうのは、即座に聞かないと、

「え、私何か言おうとしてましたっけ?」

 と相手の方が忘れていたりして気まずい雰囲気になりがちだから、下手に尋ねないのが正解だ。


 退院は10時までという決まりがあり連れ合いには9時半に迎えに来てもらうことにしていたがその前に退院担当の男の看護士が薬と栄養剤を持ってやってきた。次の外来は三週間後ということで薬も栄養剤も大量である。とはいえ薬の方は詰め込めばなんとかケースに入るが、栄養剤の方は靴を入れるような大きさの箱二個分あり台車を貸してもらうことにする。貸してはくれるが戻しにもう一度病棟の方へ来なければならない。親切なのか不親切なのかよくわからない話だ。連れ合いに頼んでおいた看護士さん達のお礼は風月堂のゴーフルで、分けるのにはちょうど良さそうだった。

 タクシーで帰ることにするが休日のため出口は従業員通用門のところから出ざるを得ない。タクシーは正門に待っているのでそこまで歩かねばならない。この病院はこういう細かいところへの気遣いがなく、医師は優秀なんだけど経営はちょっとどうかな、と考えてしまう。土日休日に退院するケースは結構あるみたいだし、退院時はやっぱり体力は落ちているのだからなるべく楽に退院させてほしいものだ。

 それでいて乗り込んだタクシーの運転手が言うには「病院は配慮したつもりで普段の乗り場より近いところがタクシー乗り場になっているんだけど出口などで通知がされてないので患者さんが分からずに普段の乗り場に行っちゃう」とこぼしていて、配慮が変な風にこじれているらしい。こういう拗れはあんまり想像力のない人が起こしがちな拗れで本人たちは永久に気付かない恐れがある。弱ったものです。


 行先を告げると運転手は

「高速使っていいですか?」

と尋ねてきた。不幸にしてこっちの方の道路事情を知らないので近道があるのかを知らない。

 正直なことを言えば、この尋ね方は良くない。何かを選ばせるにはきちんとした情報を相手に提示してその上で選ばせるのが筋である。その上今ではカーナビがあるのでだいたいの距離や時間だって検索できるはずで、

「高速を使えば距離はxキロで時間はy分、値段はa円からb円の間くらいです。使わなければこれこれ・・・」

その上で、

「高速使っていいですか?」

 が筋であろう。しかしそんな議論をする体力もないし、体力があったとしてそんな議論にちゃんと応じる運転手かもわからない。

「あ、いいです」

 思わずそう答えてしまう。高速代をあわせて結局5000円とちょっとかかってしまったけど、下の道だったらどうだったのだろうと考えるとちょっともやもやする。しかしとにもかくにも生きて家に還れたことを良しとせねばなるまい。

 家の前にある鉢植えのバラは咲ききってしまい折からの風にあおられて花びらの大半を散らしていた。今年は仕方あるまい。


 家の前にある植木のバラは散っていたが、久しぶり(3週間)の家の玄関を開けると懐かしい。

 とにもかくにも帰っては来たんだ。確率的には小さいとはいえ、手術の最中に死ぬという可能性もあったわけでそれだけでもめっけもの、と考えてもいいのかもしれない。とは言え、久しぶりに自宅でシャワーを浴びる時、体にできたいくつかの手術跡を見て、やはり少し悲しくなった。もう元には戻れないんだなぁ。この手術跡で、温泉の大浴場とかに行くことはできるんだろうか?

 そもそも再発がないとは限らないわけで、あまり付き合いたくない親戚と同居するような居心地の悪さを感じる。

 昼は連れ合いの作ってくれたうどんを啜る。本来なら休日の昼飯は自分で作ることにしていたのだけど、今日だけは甘えさせていただくことにした。






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